2014/06/05

竹宮恵子『風と木の詩』は、なんで切ないのか。

少年同士だからか。19歳同士だったら「一目出会ったその日から、ラブラブハッピー♪」という話か?

男同士だからか。作中では「男のくせに」とは言っていない。

切ないのは、片思いだからだ。

あれは、あくまでオーギュストにこだわるジルベールに、セルジュがうっかり本気になっちゃったのが運の尽きという話だ。

【独立宣言】

少し前に竹宮氏の京都精華大学学長就任を報じる地方新聞記事があって、代表作として『風と木の詩』を紹介していたが、「少年同士の同性愛は切ない」てな文章があって、気になったので書いてみる。

勘違いしてならないのは「少年同士だから切ないのではなく、14歳で学内において肉体関係を持つ状況に至っては、少年と少女であっても切ない」点だ。

同性愛だから切ないとは、作中では言ってないのだ。

そして、実際に14歳の少年少女が「(この年で肉体関係に落ちた)僕らの愛は理解されない」と書き残して心中したという事件報道であれば、社会は厳粛に受け留めるべきだが、この作品の作者は、当時すでに二十代後半に達していた。

「成人の演出者が、わざわざ同性の子供キャラクター同士に性的な演技をさせ、衆目の閲覧に供した」点において、言い逃れはできない。では、排斥されるべきか。

作者は、女性の身で男子同士の同性愛に関する無理解を告発し、平等を訴えようとしたのか。でありながら、不毛な結末を描いて、かえって偏見を強めてしまったのか。

じつは、表現されているのは女性作家自身の「外人の美少年を好きになってもダメね。親元へ帰っちゃうんだもの」という寂しさだ。

あるいは、「手塚や石ノ森の描く少年に恋をしても、次元が違いすぎるわ」という寂しさだ。

そして「寂しいからといって、私は諦めて嫁にいったりしないわ。これからも美少年をテーマに描き続け、漫画家として自活していくのよ」という決意表明だ。

【二次元萌え】

日本の「少年愛」は、当初から「二次元萌え」として発生した気配がある。

1971年のビョルン・アンドレセン紹介を待って、彼の似顔絵を上手に描きたいので、ハイアートの訓練(写生の勉強)を開始したというよりは、すでに確立していた「おもに少女マンガに出てくる青少年」という様式への愛情だ。

そして、その愛情が「男性キャラクター目線」で表現された。表現の舞台に選ばれたのは、後期ロマン派の時代だった。当時の男性作家のうち何人かが、実際に衆道の情緒を作品の形で残している。

そして、これが男性編集者によって発表を許されたことが、日本のボーイズラブ(の流行)の始まりとなる。

彼によって、二十代の作家と、十代の読者が同じ「未婚の女性」というカテゴリでくくられたことが禍根を残したと言えば言える。

少女誌に掲載されたから「少女の内面」と評されたが、描いた人は二十代後半である。大人が少女に不良少年の同性間交渉を読ませる必要は、とくにない。

少女に読ませることを口実に、教育目的ではなく、成人自身の非常に自由な自己表現としての漫画発表が許される時代になったということだった。

では、絵に描いた餅である少年への愛情を、わざわざ男性として表現したいという女性作家の背景には、何があったろうか。

【ハイアートの取り込み】

作品の発表年は、1976年である。団塊の一員である作者と同世代の女性のうち、二十代前半までに結婚した人は、少し年長である終戦直前に生まれた女性とともに、数年前の第二次ベビーブームを支えた。

「ひのえうま」の明けた1967年から1974年まで、年間出生数が200万人にせまる(超えた)年が続いた。1976年の街は、幼児を連れた若い母親でいっぱいだっただろう。

その中にあって、中高生時代に手塚や石ノ森に憧れすぎて、女だてらに男子を主人公にした漫画を描いて自活していこうと決めたのが、二十四年組と呼ばれた漫画家たち(の筆頭の二人)だった。

でも、そういう生き方は理解されない。世の中は、他人の弱みにつけこむ男と、保身に長けた女ばかりだ……作品には怒りが溢れている。

作品の結末は、片思いを捧げられた少年が(結果的に)親元へ帰ってしまい、芸術家の卵である少年が残される。

1970年代から1980年代初頭に流行した、独特の少年美の称揚をテーマとした作品のいくつかには、同じ要素が見られる。

少年美を見いだし、近づこうとして果たさず、早世し、あるいは異世界の霧の彼方へ遠ざかってしまう姿を見送るほかない立場の者は、年齢的に少年期から青年期に属する。

職業的には作家、詩人、音楽家、写真家、能楽師。いずれも表現者であり、芸術家であり、その卵である。

アッシェンバッハは表現意欲を枯渇させた老人だったが、彼らは、芸術家の年齢としては「新進気鋭」といってもいい。

それが世界で最も美しい存在に出会ったのだから、その後の一生を感動の表現に捧げるだろう。

まだ若い女流作家自身の現実の姿勢と一致する。

作品のテーマと、作家の人生のテーマが一致している時、文学的と評される。文学的に表現されたものは、まだ発展途上の漫画という分野の先鋒の一人として、女の身で肩で風を切っていた作家たちの、ハイアートへの尊敬だった。

作風は、一朝一夕になったものではなく、作家自身の十代からの教養の蓄積を反映している。1975年頃に二十代半ばなら、10年前の多感な時期に三島の事件の報に接している。

ハードボイルドと劇画の流行る世間に背を向けて、歴史と美術と純文学と、それらの担い手だった知的な男性への憧憬と、そのような趣味をもつ自分自身への誇りが表現されているだろう。

『風と木の詩』に数ヶ月さきがけて発表された青池保子『イブの息子たち』のバージルは、異世界の住人が相手だから、恋愛の成り行き上、どうにもならないが、彼の職業は詩人だから、若木の桜のごとき面影に寄せる詩を発表してもよい。

たしかコクトーの詩に「オリーブの木は若いのに白髪だ」というようなのがあった。見た目は若いのに、現代人より年長者である、歴史上の美少年たち。19世紀の貴族の息子として設定されたジルベールも、その一人だ。

彼らは、その肉体が滅んでも、異世界の彼方に遠ざかってしまっても、表現者にインスピレーションを与え続ける。

美少年への愛情を表現することを許された、西欧の貴族階級・富裕層出身の男性芸術家という存在へ、はるか極東から、数人の「自立した女性」が私淑したのだった。

しかも、単に私淑して自分も詩集を出版するのではなく、その私的修行の成果を「マンガ」で表現するという、ハイアートからの独立宣言でもあった。

歴史的に、西欧において白人男性が築き上げた貴族文化が地球上の全人類の最高峰に位置づけられていることは、現在でも否定できない。

100年も前に確立し、はるか高みにあった男性文化を、極東の女流の技術で描くという、この手法は、「男性作家によるマンガ・アニメを、なんでもロマンチックな絵柄を持つボーイズラブに描き替えてしまう」という素人作品の手法と一致する。

【男装の麗人】

少し前に『ベルサイユのばら』という傑作があった。主人公は「結婚・出産よりも男として育てられ、社会に出ることができて良かった」と言い切った。

主人公の放った名言は、さらに「男の真の強さとは優しさ」「人間は髪の先まで自由である」 ……女性の本音は言い尽くされている。

時しも1973年、第二次ベビーブームの頂点である。この作者も、当時二十代後半の女性だった。

日本の女性がサポート的な役割を押し付けられずに、存分に自己表現できる分野は今も少ないが、当時はもっと少なかった。漫画家は、それが許された稀有な存在だった。

男性が家事を100%担当してくれる保障の少ない日本で、女流が結婚するということは、筆を折るということである。出産によって命を落とす可能性もある。物語の続きを待つ読者への責任上、彼女たちは結婚を優先しない。

結婚を封印し、男性作家と肩を並べ、編集者相手に自己主張して「自由に」描き続けることは、「女を捨てる」ことだったろう。

1970年代当時の出版界・編集部で、女性が支配的な地位にあり、若き女流漫画家を弁護してくれたということはあるまい。作家自身が男性の先入観と無理解に対して、抗弁していく必要があったはずだ。バスティーユを砲撃するように。

そして何人かの「優しい」男性が、女流に少女の教育目的ではない、自由奔放な表現の場を与えてくれたのだった。

そして、じつに1975年、『宇宙戦艦ヤマト』という傑作アニメの再放送によるブームがあった。オイルショック後の不況下、出生数の激減を見た社会から、資源のない国の最後の希望である優秀な若者(=大学生)たちは、最先端技術と男のロマンと、ちょっと大人っぽい金髪美女を求めて船出してしまった。

女たち(の一部)は、地球の過去に目を向け、歴史と芸術の蓄積の中から、美少年という鉱脈を掘り当てたのだった。磨かずして光る玉。しかし壊れやすい。彼らを、おっさんになる前に凍結せねばならない。

【認められた愛】

作中では「男同士だから許されない」とは言っていない。稚児趣味は、芸術家にはよくあることとして、周囲に認められている。

凍結されるべき少年美と、それを称揚し続ける男性芸術家の、次世代という形には結実しない代わりに、「作品」として永遠のものとなる、認められた愛が描かれたのである。作家自身の自尊心の表現だ。

……この「少年美の称揚を芸術に昇華する」って部分を読みそこねてステレオタイプ化すると、少年たちが原因不明の病気で急逝するので「読者少女が死に憧れている」というモラトリアム説が出てくる。

実際に読者少女が憧れたことは「私も早く大人の女性になって、上京して、結婚しない漫画家になって、男の子ばかり描いて暮らしたい」ということであったろう。でないと、その後の女流漫画の隆盛が説明できない。

少年美が少女美よりも尊いのは、それを好む人自身がストレート女性であるから当然である。仮に自分自身が魔法で世界一美しい少女になれたとしても、それ以上に美しい少年への偏愛が消えることはない。

(実際、メリーベルやパットのような美しい少女も登場するのだ)

【誤った前提】

だから、これを「男同士は結ばれない定め」と短絡させてはならない。

「結婚できないのに想い続ける愛こそ純粋」とやってしまうと、陶酔している本人はいいが、新宿方面がイラッとする。

男同士が結婚できないのは、ひとえにマジョリティ社会が同性婚を許してやらないからだ。

彼らは何十年も前から結婚したがっている。医療・年金・遺産相続など人生の重要な局面から弾かれることを非常に残念に思い続けている。

「髭のない若者こそ至高。(養ってもらうという欲得ずくではない)未成年者への愛こそ純粋」というところまでは、女流自身の嗜好の表明だ。それは存分に行われて良い。「女性の表現の自由」だ。

が、「まるで可哀想な男同士みたい」とやってしまうと、本人がもともと抱いていた差別心を追認することになってしまう。

そのように読んだ人がいたとすれば、読み方が稚拙だった。

当時のフェミニズム論客・社会学者・心理学者などが、男同士の物語の流行に気づいたなら、その時点で、現実の男同士の人権を尊重する教育に着手すべきだったろう。

それができていれば、その後の「女性が二丁目に押しかけて騒ぐ」という事態を防ぐことも可能だったろう。痛恨のミスであると思っている。


2014/06/06

【やおいとは暗喩である】

プロの責任として「くさった私が、山も落ちもないものを描いて、有名企業を通じて出版し、子供に読ませ、(事実上その保護者から)金を取りました」というわけにはいかない。

したがって、竹宮恵子は「腐女子の女王」ではなく、『風と木の詩』は「やおいの金字塔」ではない。

したがって、山も落ちもないということは、何よりもまず、それが素人の活動であることを表す。

そして、それがオリジナル作品である限り、どんなに稚拙であろうとも、猥雑性を帯びていようとも、新人賞に応募して悪いことはない。昔も今も、いずれの編集部にも、体を成していない作品が山と送られてきているだろう。

性的な作品なら、性的な雑誌の編集部に評価を求めれば良いだけのことである。団鬼六の元へは、決して上手いとはいえない自作の官能小説を持ち込むファンがいたらしい。

たぶん、竹宮恵子のもとにも「見てほしい」という申し出があっただろう。そもそも「女性が描いた男性同士の物語」の投稿先としては、すでに雑誌『JUNE』があった。どんなに下手だろうとも「もしかして」と思って投稿してみることを、誰も止めはしない。

つまり、審査を受ける前から「山も落ちもない」として謙遜するものとは、プロになるための審査には適さないもの、新人賞には応募するつもりのないもの、すなわち二次創作物であることを仄めかしている。

しかも同じ二次創作といえども「暗黒卿の子育て」みたいに公認が得られるものもあるのだから、およそ公認の得られそうもない種類の物であることを暗示している。

山も落ちもない代わりに、明言しにくい状態がある。

女性は暗喩が得意である。「台所には何もありません」と言えば、「殿方のお口に合うものは」という意味で、真の意味は「自分のための菓子ならある」だ。

さらに「そのことに気づかない振りをして下さい」だ。

「山も落ちもない」という言い回し自体が、他から借りてきたものだ。殿方のお口には合わない種類の二次創作物を、大家の発言の二次利用(特殊な意味付与)によって表現した。

既成キャラクターに「じつは男性を愛する男性であった」という特殊な意味付与をするという創作姿勢と一致している。

【耽美からボーイズラブへ】

本来、二次創作は、その存在が公言されてはならない。だから隠語を使ったのであって、その隠語を、まがりなりにも編集部を通じて出版されたプロのオリジナル作品に適用することは、不適切だ。

したがって、編集部を通じてハードカバーの出版にこぎつけたJUNE系作家に「やおい文学とはなんですか」と質問するのは、質問するほうが間違っていた。

作家のほうも、うっかり答えて話をややこしくしないでくれれば良かったと思う。

歴史上に実在した現象として記録に残されている、高位高官・高僧・武将・芸術家による稚児趣味を調べて公表することは、それが女性によって成された研究であっても「山なし落ちなし」ではないはずだ。

そのような現象を参考に、たとえば稚児として売られた少年というキャラクターを創作し、稚児趣味の高僧との交流を描くこと自体も、本義から言って「やおい」ではない。

そのようなオリジナル作品には「耽美」という名称が与えられていた。(これも潤一郎などからの借り物なんだけども)

したがって、名称の系統としては、耽美がボーイズラブに変わったのである。

もし二丁目が、なにもかもひっくるめて、女性が衆道に興味を持つ現象そのものを「やおい」と呼びたがったならば、「おかま」に匹敵する滑稽さ・猥雑性を強調した、意趣返しの意味合いがあったろうと思う。

したがって、やおいを語る・研究すると言いながら、二十四年組の話ばかりしているようでは、自分自身の置かれた状況を論駁できていないことになる。

【特殊な意味付与という手法】

稚児として売られた少年のイメージモデルとして映画の子役を、高僧のモデルとして憧れの歌手を抜擢したとなると、話が違ってくる。

美男同士が睦み合うという絵づら・物語が魅力的なので、本来は稚児趣味ではない人々にまで「じつは男性を愛する男性であった」という特殊な意味付与をする、となると、二次創作と手法が同じである。

このへんで、用語の混乱が起きてくる。

「特殊な意味付与」という作業が、別の名前で呼ばれていれば、混乱は防げたのだが、残念といえば残念だった。

今もって別の名前がないと言えばないが……「ストレート男性のボーイズラブ化」が適当だろうか。

【隠語の自信】

繰り返すが、やおいとは「あってはならないもの」の存在を暗示する語である。今ふうにサラッと言えば「二次」のことである。

(最近は事情が明るみに出されたので隠語を使う必要がなくなったのだ)

「美男同士が睦み合うという絵づら・物語が(自己愛と一致するので)魅力的である」という、プロがハイアートへの憧れとともに表現した情緒を、テレビが最高の娯楽だった素人の一部は、アニメ番組の(部分的)模倣によって表現した。

当初の二次創作物は、大学ノートに手書きだった。発表できる場があるとは思っていなかった。

市場成立前に「パロディを金に替えるために、ネタになりそうな番組を検索しましょう」と思いながらテレビを見る人はいない。

ごく当たり前に、番組自体が面白いと思って見ていたものを参考に、新しい世界観を構築して新人賞に応募するのではなく、既成の世界観を利用して、戦士たちの「オフ」だけを描くという一種のジョークが、自費出版漫画の展示即売会に持ち込まれ、その手法自体が(面白かったので)ステレオタイプ化したところへ、後から「山も落ちもない」という言葉がやってきた。

もたらされたものは「名前」であり、自己認識であり、自己肯定である。じつは自嘲でも自虐でもなく、自信である。これ以後、活動は活発化する。

くれぐれも、女性の自己申告をうのみにしてはいけない。自己憐憫とは自己肯定の一種であり、自嘲する者ほど自尊心が高い。

【独立運動】

「自費出版漫画の展示即売会」を、1970年代アングラ文化の一種と考えると、権威に対して非暴力・不服従の精神を持っていたとしても不思議はないような気がする。

山なし落ちなしには、確かに「ストーリーラインのはっきりしない寸劇」という文字通りの意味もあって、これは先行するベテラン作家に対する独立宣言として評価できる。

女だてらに男子を主人公にした作品を描いた二十四年組ほかのプロ達も、不服従主義だったわけだが、素人(あるいは新人のプロ)達は、そのプロに対する不服従を宣言した。

ひらたく言うと、自由に書く運動だ。

誰もそう思ってなかったかもしれないけど、確かにその精神から「ゆるい日常」という新しい表現カテゴリが成立したのだった。

2014/06/07

【まことに今更だが、やおいはトランスゲイではない】

「自己実現の困難さゆえに摂食障害を発症したトランスゲイ男性が、ピンクハウスに装い、男同士は社会から容認されないことを前提に、少女漫画の技法によって、化粧した少女のような男性ばかりが登場するメロドラマを描き、『泣ける~~』と消費した挙句に、二丁目へ押しかけてゲイ差別した」

これは、ないだろう。

『千夜千冊』で、やおいに関しては松岡正剛でさえも言葉をにごしているのが面白いといえば面白いのだが、ちょっと気になるので書いてみる。

1970年代に高校生だった人は、1980年代には成人する。成人すれば、夜の街へお酒を飲みに行くことができる。新宿二丁目とは、そのような歓楽街だ。

まことに残念ながら、女性が二丁目まで押しかけ、ゲイにつきまとって困らせた・私生活に関する失礼な質問をした、あげくに非難したなどという話は、1980年代から継続的に存在する。

自分の兄弟・息子・親友がゲイで、他人が「ちょっと見物させて!」などと言ってきたら「そっとしておいてあげて」と思うはずだ。

トランスゲイとは男性である。ゲイとは男性である。男性社会の一員として、末永く共同体へ受け入れられたいはずの者が、なぜ同じゲイとしての心が分からず、大先輩たちに無礼を働くのか。

仮に作家は全員が男性で、礼儀をわきまえており、読者は違うとするならば「かつては読者で、やがては作家になった者」と「読んだだけではしゃぐ者」には、なんの違いがあるのか。

仮に男性が自己表現として書き、女性が読むとして、女性は読む必要がないではないか。話が空回りしてしまう。

仮にトランス男性が、幸いにして著作物の中で自らの性自認について告白する機会を得たならば、一般社会に対しては権利の保障を、全国の仲間に対しては大団結を呼びかけるべきであろう。

なぜ、トランスゲイとしての活動が、空想的な官能小説を書くことに限定されているのか。

「じゃあ作家の中に本当のトランスゲイが何人いるか、アンケートを取ってみよう!」という話ではない。「少し考えれば、理屈がおかしいことが分かるでしょ!?」という話だ。情報に接する態度の問題だ。

【大喜利が好きすぎる】

日本人は途中で考えることをやめてしまう。「あ、そーなんだ」で納得してしまう。大喜利が大好きで、「うまいこと言って座布団一枚もらう」ことが生きがいだ。

しかし、客席から質問されることを想定していない。「それはどういう意味ですか?(面白さが分かりません)」というのは野暮とされているからだ。

だから政治家でさえ「昔のイギリスとドイツみたいなもんですよ♪(なんちゃって)」と言ってしまう。が、「なるほどーー。うまい!」とウケてもらえず、「つまり開戦まで持っていくということですね?」と訊き返されると、途端にあわてる。

もし「私達は全員が女性に見えますが実はトランスゲイです」と申し立てて、「つまり即売会参加者数十万人が、精神科医による診察と、性適合手術を望んでいるということですね?」と言われたら?

「そ、そういう意味じゃないです」と言うなら、どんな意味だったのか。

この文章は特定の著述者を非難することを意図していない。ボーイズラブ作家には絶対にトランスゲイ男性が一人もいないとも言わない。

ただ、いまでも時々「じつは、やおいは○○」という説が披露されることがあり、「あ、そーなんだ」と思ってしまう人もいるようなので、一考を促したいと思った次第だ。

性マイノリティの自己実現の困難さが指摘されたならば、人権擁護の観点から、医療者・法律家による助力、政府・自治体による資金援助などの対策が講じられるべきである。

男同士の愛が不毛なのは、マジョリティ社会が同性婚と児童養育を認可しないからである。

「被差別は当たり前なので、間違った性知識に基づくゲイポルノと、ご都合主義のレディコミが混ざったような創作物を制作するのも致し方ないです」というところで収まってしまうのが不適切であるのは、言うまでもない。

一方、やおいを論じる書籍に「哀しみ」が表現されていると感じるなら、それは多くの場合「せっかく書いたものを快く受け入れてもらえず、なぜ? なぜ? と突き回される女性」の挫折感による哀しみである。
2014/06/08

【やおいには、じつは山も落ちもある】

「こうして二人は深く結ばれ(山)、その後はずっと幸せに暮らしました(落ち) めでたしめでたし(意味)」

ここでは「素人による二次創作のうち、殿方のお口に合いにくい性描写に偏ったもの」を「やおい」としてみる。

それは、長い時間をかけて信義を深めてきた二人に関する、クライマックス部分の情緒のみを繰り返し描いたものだ。

本来、この前後に「試合に出場した」「戦争に勝った」「凶悪事件を解決した」など、男性キャラクターらしいアクション物語があるはずなのだが、そこは原作に下駄を預けている。というか胸を借りている。

読者によって希求されているのは、エロス表現のみと思われがちだが、じつは「めでたしめでたし」というハッピーエンドの情趣だ。

【エロスとは生の称揚である】

生きた肉体の五感を総動員して、互いの肉体美を鑑賞し、互いの匂いと体熱と手触りを味わい、存在感の確かさに涙し、「生きてて良かった、生まれてきて良かった、君に会えて良かった」と思うことだ。

現実では「自分だけ良い思いしちゃいかんよ」ということなのだが、この約束がなかなか守られないので悪いことのように思われている。が、本来、ありがたい経験なのである。多くの古代文化が、遊女を神の使いと見なしてきたはずだ。

二十四年組の作品は、その意味では不満だった。肉体表現に切り込むことができなかったのは、少女誌の性質上無理からぬとしても、「その後の人生をずっと一緒に」というハッピーエンドを提供することができなかった。

作家自身が、その時点で「産まない女性」だったにもかかわらず、作品によっては「男同士では子供が生まれないので困る」という意識を払拭することができず、曖昧な終局を迎えたものもある。

その長期連載の終了と入れ違いに素人作品の制作数が伸びたのは、故のないことではないだろう。

(1980年代に十代に達した第二次ベビーブーマーの人数の多さという物理的な要素もあるんだけど)

【ハイアートの落日】

永遠に失われた少年美への憧憬を芸術に昇華させるというテーマを理解できるのは、作家自身を含めた、ハイアートの愛好者だけだ。

1980年代が進むと、このテーマは勢いを失う。

1980年代は、サザンオールスターズのデビューから始まった。それから、元気はいいが歌唱のへたなアイドルがいっぱい登場した。漫画とテレビドラマのヒーローは不良少年だった。

若き素人が描くボーイズラブも、それらに背を向けてというよりは、その流行をしっかりと取り入れて、元気に走り回るスポーツ少年たちや、不良少年同士の抗争を描き始める。

絵柄は、明らかに劣化した。人体骨格と遠近法に関するルネサンス以来の蓄積は反映されていない。

多分この頃が、ハイアートから一般人の心が離れた端境期だったろう。

では、ハイアートへの尊敬を持たない代わりに、熱心なアニメファンクラブの体裁をとって表現された、「前世紀でもなく、異世界の霧の彼方でもなく、自分と同じ現代の日本に住む元気なスポーツ少年たちが、死に別れることなく、深く結ばれ、末永くともにあることを誓う結末」を願う若き女性視聴者≒作者≒読者の心の、なにが悪いのか。

これは本来、現実の男性同士にとっても悪い話ではないはずで、このあたりで男女の利害が一致し始めると良かったんだけど、残念だった。

2014/06/09

【やおいは少女だったとは限らない】

簡単な加減算をしてみる。

1970年代半ばに、二十四年組作品を高校生(16~18歳)で読んだ人は、1978年(専門誌『JUNE』創刊の年)には、18歳以上に達している。

高校を卒業後、進学を機会に上京した人もいただろう。親元を離れ、家庭教師などによって収入を得れば、投稿作品の制作も、自費出版の注文も、イベント参加も容易となる。

専門誌の創刊にあたって、執筆陣としてそろえられた成人作家は、もちろん成人していた。

二十四年組による少女漫画誌掲載作品を未成年者が読んでいるだけでは、性の知識は増えない。

プロ少女漫画家たちは、未成年女性の購読を意図した一般誌上において、下半身に関する描写を実験的にエスカレートさせるということを、せずに来た。

「男性キャラクターを通じて、別の男性キャラクターの美を称揚するという特殊な技法で、自らの異性に関する嗜好を表現する」というテーマをもつ物語を、特定の方向に推し進めたのは、この時期の専門誌への投稿者 and/or 自費出版者だ。

専門誌の創刊以前から、ほそぼそと自費出版していた人もいたかもしれないし、創刊に力を得て発表に踏み切った人もいただろう。単純に模倣する人も増えただろう。

その一部は、確実に成人していた。

専門誌を足がかりに、成人した同好者が結集し、表現の可能性を追求したという話であれば、一向に構わない。話題が性的であることをもって禁止されるならば「自由の抑圧」として闘うこともできる。

森茉莉がフランス人俳優から着想を得たのは有名な話だ。1960年代末に一世を風靡したと言って良いデヴィッド・ボウイ、1971年公開の映画で世界に紹介されたアンドレセンの麗姿は、多くの作家に創作の霊感を与えた。

カラー放映によるアクション、SF系アニメもこの時期に始まっている。が、当時はまだ「テレビまんが」と呼ばれ、子供の見るものと思われていた。「私が見るわけないでしょ」と怒る女性だっていたかもしれない。

そんな時期に、なにも「貴重な人生の時間をさいて、公式発表できない漫画を描くために、だいきらいなアニメを見てみる必要がある」と思う筋合いはないから、元々アニメが好きで、よく見ていた人が、そこから着想を得たのだろう。

1985年頃に「やおい」などと言っていた少女が、その時16歳とすれば、1969年の生まれで、1978年には9歳だ。

9歳の少女が、二十四年組作品を一読後、我慢ならなくなって、成人向け書籍の購入に走り、描写を模倣して官能作品を自費出版し、単身上京して即売会へ潜入し、売買してきたとあっては由々しき事態だが、そうじゃなかっただろう。

この子たちは、1980年代に入ってから、部活動の先輩・姉妹などによって即売会の存在を知り、お誘いあわせのうえ押しかけた。当時の「にわか」だ。

そして、行ってみたら何も無かったから、自分たちで一から作り上げたのではなく、そこには既に「SFアニメの男性キャラクターを利用した性的創作物」という、フェミニズムの仇花が咲いていた。

これが中高生に売られ、模倣が流行しているという事態に社会学者などが気づいたならば、まず最初に「子供には法律と人権の尊重と、性的創作物の模倣よりも勉学とスポーツに励むべきこと」を推奨することが検討されても良かった。

フェミニズム論客は、男女共同参画の実現に向けて「男性が家事をして、女性が働く世界」を描くことを勧めても良かった。

エロスが生の称揚であろうとも、子供相手に男性同士の性愛に関する間違った情報が流布され続ける必要性は、とくにない。

特殊な性的嗜好にもとづく成人の活動だから、したり顔の提言はしないことに決めたならば「やおい=少女」という定義で話を進めるべきではなかった。

矛盾には口をぬぐって、大勢の大人が「少女の性」という話題を面白がってしまったが如くだ。

ことに成人した女性だった論者が、おとなの責任ということを思わず、自分自身と少女を混同し、「やおい」に関する対応を間違えたがために、日本のフェミニズムは説得力を失くしたんじゃないかなァ……と思っている。


2014/06/13

【ギリシャでは薔薇の下で秘密の愛を誓う必要はない】

神話、伝説、殖民都市に残された壁画、神聖隊の存在などを真に受ける限り、古代ギリシャでは男たちの愛は禁忌とされていなかった。

ストレート男性の本能的な忌避感は、当時から存在しただろうから、ソクラテスについてはゲイ・バッシングの一種だった可能性はあるけれども、関係を信じられたアルキビアデスは政治家として出世している。

貴族または自由市民の特権としての「たしなみ」のように思われていたかもしれないが、念者・念弟として振舞うことは出来たはずだ。

ともかく、ギリシャ神話を読んでも、男たちが「秘密の」愛を薔薇の下で誓ったという話は出てこない。

ヘラクレスといえば現代(というか1950年代)の映画では、女性にもてる異性愛的美丈夫の代名詞だろうが、古代ギリシャ文学の中では、愛する少年が泉の精に誘拐されたのを探し回って戦士たちの集合時間に遅れたほどで、そのときの冒険団の団長にして船長であるイアソンは、男の中の男が稚児を惜しむ心を哀れに感じて、アルゴー船の出航を遅らせたのである。

もしかしたら奴隷階級の男性の中に、当然、何割かは生まれついての同性愛者がいて、彼らは念者と少年ではなく、成人同士の禁じられた「結婚」として、花のもとで愛を誓う必要があったのかもしれないけれども、その記録は残されていないだろう……

簡単にいうと、あれは古典古代からキリスト教文化まで、さまざまな要素が現代人の中で混淆したことから生じた一種の二次創作で、ばっさり言うと伊藤氏の勘違いだと思う。

海外で「ゲイ=ローズ」って言っても通じないのだ。英語的には「三色スミレ」だ。

薔薇はアフロディーテとヴィーナスの象徴であり、さらに転じて聖母マリアの象徴であり、「愛」のシンボルではあるが、女性美の比喩だ。

もしかしたら古代の文学界・芸術界において、男色好みと女色好みの相克があり、人数的に勝る後者が後世におよぼした影響のほうが強かった……ということかもしれないけども。

なお、百合がレズビアンであるというのも伊藤氏の発案で、「百合はナルシシズムの象徴だから」だそうだが、それは水仙だ。

同じように下を向いて咲く白い花の、清楚でありつつも含羞を帯びた様子が、彼の中で「人目をはばかる女性」のイメージとして、美しく感じられたのだろう。

また「歩く姿は百合の花」として、確かに日本的には、百合は美女の象徴である。

「○○は、△△なんだって」というフレーズが、問い返されることなく「あ、そーなんだ」と受け入れられてしまう、日本らしい現象ではあるかな、と思う。

最近はゲイを指して薔薇族って言う人も減ったけれども、百合はレズビアンが自称することもあるので、やはり美しいイメージが気に入られたのだろう。

2014/06/16

【各種少年愛の美学は、その人の趣味を語ったものだ】

稲垣足穂の著作でさえ、古今東西の芸術作品として記録に残された少年趣味を網羅的に調査し、引用元を厳密に明示して公開したというようなものではない。

学術的な手法を踏まえた、そのような研究書は別にして、エッセイ的なものは単に著者自身の趣味嗜好を語ったものだ。

ことに女流による「唇はピンク色に限る」とか「手首は折れそうなほど細いのが良い」とかいうのは、その著者自身が「私はそのような若年男性の肉体美に価値の重きを置く」(同好者は我が旗のもとに参集されたし)と宣言したものだ。

女の身で男性の世界へ立ち入り、住み込み調査して、男性が男性を選ぶときの基準を聞き書きしたというような、文化人類学の手法によっていない。

ゲイが彼らの少年趣味を語るならば「スポーツ刈りで、日焼けして、運動部のユニフォームが似合うのが最高」などと言うだろう。

【男子同性愛の美化ではないんだ】

女流自身の愛好する少年美を、女流自身の評価するもう一人の男性が、世界最高の美形と認めることによって、女流自身が自分の審美眼に自信を持つ。

「素敵な男性が、自分の趣味の理解者である」というバーチャルな満足を得る。これがボーイズラブの構造だ。

少年←男性←女性

目線が入れ子になっており、最初から女流自身の自意識の表現と、自己満足・自己完結を志向している。

そして、その限りにおいて、男性編集者によって出版を許可された。

たとえば難病を描いた作品によって、寄付が集まるということはある。

男子同性愛者にも「自分の容姿が気に入らない」「1円まで割り勘する相手がいやだ」「暴力」など、さまざまな悩みがあるだろう。

男子同性愛を美化したというならば、そのへんを描かずに、ヘラクレス俳優のごとき美青年スポーツマン同士の深い絆を称揚し、ゲイに夢を、社会に感動を与え、同性婚の容認へ向けてマジョリティが動き出すということであっても良い。

ボーイズラブを読んでも「その心配はない」ことにされている。

このカテゴリは、おもに男性である編集長によって、非常に冷徹に処理されていたと思って、いいと思う。

【女流の昂揚】

かつて一部の女流が、個人的な趣味を高らかに宣言した時代があった。

女性による少年趣味の表現が許される時代になったことが嬉しくて、自分の価値観に合致・追従しない男性を笑いものにすることさえ辞さない時代があった。

誰によって許されたかっていうと、男性である。出版できたのは、編集部に属する男性が「この程度ならOK」と判断したことによる。

なぜ、BLは「あのよう」なのか。

日本の商業的ボーイズラブは、最初から男性によって表現の「枠」を与えられている。女流は、男性が理解できる範囲で活用してもらっている。

だから、それを例えば大学の授業で読んでみても、あんまり意味ないんじゃないかな……って気もする。



2014/06/17

【女流耽美物語の本質】

女流の嗜虐趣味である。

マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』や、夢野『あやかしの鼓』には、鞭を持った女性が登場する。

鞭とは、その形状から言っても、本来は馬具・武具であるという性質から言っても、男性の象徴である。

女性が男性を責めるために、男性を象徴する器具を用意するのであれば、自分の言うことを良く聞く男性を一名、用意しても同じことである……

【独立精神】

男性が、男の中の男として称揚し、「女性は彼の陽物を味わうべき」として推薦する男性に対して、「むしろ彼をはいつくばらせてみたい」と言ってのけ、別の男性を道具とする。

そこにあるのは、女性の蛮勇ともいえる独立精神であり、支配欲だ。

男性の価値観からの独立精神は、男性の評価にも適用されるから、ときには男性ご推薦とは違うタイプの男性を称賛する。自分の定めた基準に合致・到達しない男性を笑いものにすることも辞さない。

ここにあるのは、自分自身の審美眼に絶対の価値をおく、傲慢な自信であり、自尊心であり、自己愛である。

そしてつまり、そんな「気分」を味わうための創作物である。

夜な夜な(日常的な仕事の後に)そのような気分を味わいたがる裏にあるものが、現実における自信喪失であったり、倦怠感であったり、暴力・犯罪を忌避する一般人らしい常識であったりするのは、男性が任侠や諜報員や狙撃手や特殊部隊や剣闘士に憧れつつも、実際に暴力の世界を職業とすることをためらうことのほうが多いのと同じだ。

男衆の何割かが、ラーメンライス(餃子つき)を食いながら、ボクサーが苛酷な体重制限にのぞむ漫画を読むものであれば、女衆の何割かは生クリームで飾ったケーキを食いながら、柳腰の美男たちが恥辱の涙にむせぶボーイズラブを読むのだろう。

そして、そのような表現カテゴリが、「男性は彼女の気高さの前に一歩引くべき」とされる華族の令夫人などを、男性の支配欲の犠牲者とする団鬼六作品に準じて、「耽美」と呼ばれたのは正しい。

日本の女性は、男性による命名や、男性が使っていた名称の流用などを「あ、もうそれでいいです」って言っちゃうところがある。

たぶん男性文化のファンなんだと思う。

【道具にも心がある】

女主人のふるう鞭は、犠牲者の背中に食い込むが、女主人が用意した男性は、別の場所に侵入するだけのことだ。

女主人に催眠術をかけられたかのように、同性に劣情を抱く男子は、女主人が使いこなす「責め道具」であるが、道具にも五分の魂がある。

彼が犠牲者への心情や、子供時代の思い出などを語り始めれば、創作物の完成に、一歩近づく。

本質的に無機物(道具)であるはずの登場人物に心情を語らせる手法は、「天井と床」などの無機物を擬人化する手法と地続きだ。

この手法を楽しむ心情は、やっぱり「女性は子供を産む道具ではない」「ゼロックスコピーを取る人形ではない」などと言いたい気持ちにつながっているであろうし、それを(年長男性によるパワハラを忌避する)男性が読んでみるというのも、筋の通った話であるように思う。



2014/06/18

【結婚は男性にとってこそ最高の価値】

ストレート男性が、悪者を退治し、財宝を得るなどして社会的に成功し、美女をゲットして、うだつを上げる。

うだつを上げるとは、男性が大きな家を建てて独り暮らしすることではなく、その屋根の下には嫁さんと子供と大勢の使用人と、社会が許せば妾もいるという状況が想定されている。

じつは、異性と結婚し、子孫を残すことが最高の価値観であるのは、ストレート男性にとってである。

進化の過程をどうさかのぼっても、これがストレート男性(雄性)の本能であることは疑いない。

そして人間の雄性が描く創作物の多くが、つまり彼らの自画自賛である。誰しも生きるにあたって自尊心は大切であり、自己愛は結構なことだ。

【逆転劇】

で、これを前提にすると、「女性が成功する」「ストレート男性ではない男性が成功する」という二つの逆転劇は、かならず生まれてくる。

一世を風靡したオスカル・フランソワにも、一読して「女が指揮官? ふざけるな」という読者がいたかもしれない。

男性と人生のペアを成す男性が、たとえば運動部の主将であるとか、一軍の指揮官であるなどという話も「ありえねーー!」という反応が、じゅうぶん考えられる。

だからこその逆転劇だ。

これが二丁目住人によって描かれ、世間の喝采を浴びていれば、問題はなかった。

【自由な男たちと、もっと自由な女性】

男装の麗人は、発表の時点で、すでに「不道徳」などとは言われなかった。少女歌劇には長い歴史があり、戦前の婦人参政権運動家も男装したのだった。

男装した女性の活躍物語が成功した後で、現実の男性カップルが動き出せない内に始まってしまったのは、女性の自尊心の補強としての、架空の男性カップル物語だった。

ストレート男性が「ゲイの社会参加は認めるが、女は認めん」と言うか、ゲイ自身が女性差別しない限り、女性は「男同士が自由な社会は、女性も自由だ」と夢見ることができる。

したがって、「一軍を指揮する男性カップルと、その横でもっと自由な女性」という構図は、女のロマンたり得る。

すなわち、「女人禁制」と言わずに寝室まで公開してくれる戦士たちと、彼らを鑑賞する女性という構図だ……

そして、女のロマンが金に替えられることは、経営者たる男のロマンたり得る。

少女マンガ編集者の中にゲイはいなかったとは言わないが、おおむねストレート男女の協力体制によって生まれてきたのが、ボーイズラブという表現カテゴリだ。

【ブロークバック・マウンテン】

先に女性が(部分的ではあっても)自由を得たのだから、本当は「女性が自由な社会は、ゲイも自由だ」というふうに話が進んでいけば良かった。

アメリカのゲイは『ブロークバック・マウンテン』という作品を「女のくせに、こんなもの書きやがって」とは言わなかった。映画版を、長いこと彼らが選ぶ映画ランキングの1位に置き続けた。

そして、あの映画の商業的成功以後、マッチョの牙城だった全米各地で、同性婚を容認する法案の成立が増えたのは間違いない。

少数派である彼らだけでは、絶対に多数決に勝てない。したがって、マジョリティ票が動いたことになる。そのかなりの部分が、女性票だったろう。

日本は出だしで蹴っつまづいたので、残念だった。


2014/06/19

【男女比較の前提がおかしい】

ウィキペさん等に残っている古いタイプの「やおい論」は、ボーイズラブの実態がどうかというよりも、議論の浅さが気になる。

「男性は常に自分を主人公として作中に描き込むが、女性はボーイズラブの手法を取るから、おかしい」という指摘は、比較の方法論がおかしい。

確かフランソワ1世の所蔵品に、女性同士が向かい合わせに同じ風呂桶に浸かって、一方が他方の胸に触れている作品がある。

あれ、レズビアン女性だけが見ることを想定した絵か? ストレート男性が見ることを想定して描かれた、当時の「エロ」じゃないのか?

ルノワールは少女同士が寄り添う絵を残している。竹久夢二は少女同士の会話を書いている。

彼らはその姿を「いいなァ」という情趣をもって描いたはずだが、男性が登場しないから、おかしいじゃないか。彼らはトランスレズビアン女性だったのか?

女性ファンが女性タレントを見て「かわいい」と喜ぶ姿は、傍から見ると「百合」のはずだ。

逆に、男性が男性に心酔して「兄貴と呼ばせてください!」などというのは、傍から見ると「まるで薔薇族」ということだ。

あとは、そのような物の見方をする人が、男女それぞれに何割いるのか、アンケートを取って確認する。

これでやっと、まともな比較ができるはずだ。

「男性は○○、女性は△△」というのは、一見すると、価値づけをせずに特徴を列記する自然科学の手法によっているようなんだけれども、この場合は、論者が自分自身の先入見を問い直すことなく、比較の方法を検討せず、ある前提をもって、話を進めてしまう。

これは今の日本でも、よくあることのような気がする。