2014/06/29

【アニメは鉄腕アトムの時代から二次創作だ】

必ずしも漫画原作に忠実ではなく、各回ごとに脚本家・演出家の個性が出る。頭角を現した者が、長編の責任者を任される。

思えば、アニメ以前に実写ドラマも、黄門漫遊記や大岡政談の存在を前提に、脚本家・演出家が才能を発揮してきた舞台だった。

テレビの前には映画がある。『バグダッドの盗賊』は、『忠臣蔵』は、何回リメイクされたのか。

映像関係の制作者は、昔から二次創作で腕を鍛えてきた。

だから少しでも映像文化に興味のある若者が、二次的な作品づくりに取り組むことは自然なことだ。

我流解釈による忠臣蔵ドラマの脚本を書いてみたものを、そのまま発表すれば(会話体の)小説となる。

自分で絵コンテを切ってみたという者が、そのまま発表すれば漫画となる。

業界も、そのような才能の出現を期待している。

現代の、いわゆる二次創作に問題があるとするならば、「逆転の連想」によって、あらゆる登場人物をエロチカの文脈に落とし込むという、その手法自体がステレオタイプ化して、新しい長編を生む契機となっていないことだ。

それでも、人間の上梓するものは、その制作者の人間性と、そのときの社会を反映している。

いわゆる脊髄反射、先入観の再生産、先の見えない断片的な物語の繰り返し、一発ギャグの流行、判断停止などは、きちんと現代を表現しているだろう。


2014/06/30

【最近のアニメが気に入らない人は小説を書くといい】

そもそもSF小説があって、それが映画化された。

小学生は長い小説を読みこなすことができないし、一人で映画館へ行けない。

淀川さんは特異な例で、多くは「こづかいが足りない」と思えば諦めるし、第一、2時間もの間、じっと座ってること自体が苦手だ。

だから、大人が小説を読み、外国映画を見てきて、内容をかみくだき、子供が10分くらいで読みこなすことのできる作品として、描きなおす。これが漫画の役割で、藤子不二雄は第一人者となった。

さらにその漫画から二次創作したものが、テレビアニメだ。

着想は漫画から得ているが、かならずしも原作に忠実ではなく、各回ごとに監督の個性が出る。才能において突出した者が、長編の監督をまかされる。

アニメ監督は、漫画の二次創作によって、腕を鍛えるのだ。

漫画とアニメと二次創作の関係にかかわる明言しにくい紆余曲折はバッサリ省くけれども、要するに今どきのアニメが気に入らない人は、最初にもどって、小説を書けばいい。

永井豪ふうの巨大ロボットアニメが懐かしい人は、それを小説の形で書けばよい。松本 零士ふうのスペースオペラが懐かしい人は、その脚本を書けばよい。

まだ現状では「おとなのための純文学・私小説」と、「若者のためのライトノベル」に分かれていると思うけれども、「団塊以降のおとなのための、昔のアニメっぽい小説」という表現分野(投稿サイト)が立ち上がってもいいだろうと思う。

美少年でもなく、イケメンでもなく、大山トチローみたいに外見の冴えない硬骨漢が懐かしい視聴者は、あんがい大勢いるだろう。

だれか優秀な若者が、たった一人でフルCG化してくれるかもしれない。

写真に修整や効果をくわえることは、昔は職人が筆を使って手作業で行っていたはずだけど、今では1クリックだ。

大型店舗などのゲームコーナーでは、100円入れるとプリキュアのお嬢さん達が踊りだす。あの動きは定型化されているはずで、応用すれば剣戟やマーシャルアーツの動きも再現できるのだろう。

アニメの不調は「盤が売れない」(=企業経営がむずかしい)ということだが、個人的に(PC上で)俺さま好みのアニメを「つくる」こと自体は、もしかしたら簡単になっているのかもしれない。

2014/07/03

【アニメファンの分母】

判官びいきという言葉がある。あるいは、葵上に取りついた六条の御息所は、悪い女だったのか。

あのような人々のためにこそ、我々現代人は祈りをささげ、成仏させてやるべきではあるまいか。

この国には、少なくとも600年前から、そのような問いかけがある。

自分は悪くないのに追い詰められてしまった悲劇のヒーローは、無声時代のチャンバラ映画にも登場した。

1970年代に流行したテレビドラマは「正義のために悪者を暗殺することは悪なのか」という命題を掲げている。

その頃、善悪の判断を超えた複雑な味わいを持つ物語が「テレビまんが」として登場すると、若者たち(の一部)は驚愕し、感動した。

が、大人は乗ってこなかった。彼らは既に同じテーマを掲げていた従来の演劇や映画や実写ドラマを愛し続けた。

映画はテレビドラマにお株を奪われたかもしれないが、たとえ同じテーマを描いても、テレビドラマを見ていた人々がそれに見切りをつけて、アニメへ移ってくるということは起きなかった。

当時すでに30代だった人というと、戦中の生まれだ。今年70歳ほどだ。彼らはアニメ世代とは見なされていない。彼らの中のごく一部が、セルアニメ職人だったというだけだ。

当時すでに25歳くらいだった人はどうか。その一部は、少し前にはバリケードの中で拳闘漫画を愛読したと伝えられる。が、鉄腕アトムのコスプレをして集まったとは、あまり聞かされない。

彼らにとって、「テレビまんが」とは、すでに芸術家の自己表現の域に達していた本家本元のマンガとは似て非なる何ものかだったのかもしれない。

アニメは、進化の過程で物語性の高さを獲得したから、他の分野からファンを奪うことに成功したというよりも、その黎明期に幼児として立ち会い、成長過程でも当たり前に鑑賞を続けた人々を、その最も多感な年頃に、物語性の高さによって感動させ、幼少期の一過性ではない、生涯にわたる熱烈な愛好家とすることに成功した……という順番じゃあるまいか。

つまり、分母の大きさが、じつはあんまり変わっていない。

子供の頃から見ていなかった人は、大人になっても見始めない。小さな子供の頃にはギャグ作品を見ていたが、ヤマトやガンダムに感動する前に運動競技や何かの研究に夢中になった人は、その後もどって来ない。

さらに厄介なことに、「黎明期に幼児として立ち会った」世代とは、1960年頃の生まれなんだけれども、この人たちが29歳頃の出生率とは、すなわち「1.57ショック」そのものである。


2014/07/10

2040年にはアニオタも終わるだろうか。

出産適齢期女性人口がいなくなって、世代交代が不可能になり、消滅する市町村多数だそうだ。

アニメグッズの売上も減るだろう。

今でも、じつは言うほど売れていない。都市部の比較的若い世代とネットの中が騒がしいだけで、地方人士は見向きもしない。

そもそもアニメの放映ができなくなる。

子供がいなくなるんだから、玩具が売れることを前提に連続アニメ作品を制作し、テレビ放映するビジネスモデルが成り立たなくなる。

その頃には今の40代が70代、20代が50代だ。

中高年によく売れる関節痛の緩和薬や、アンチエイジング化粧品を新たなスポンサーとして、見る子供のいなくなった少年サッカーアニメや魔女っ子アニメの新作放映を続けることはできるだろうか。

それとも間口を広く取って、中高年リア充向けに、サッカー監督と魔女おばさんの不倫アニメを放映すべきだろうか……

その頃にはセルアニメを踏襲した平面的な絵柄が駆逐されているだろう。より高度なバーチャルリアリティを実現する新技術も開発されているだろう。

皮膚の経年劣化と加齢臭さえも再現するフルCGによって描かれる中年男女の恋物語を鑑賞したがるアニメファンはいるだろうか。

日本のお家芸としては、新鮮な皮膚の手触りと石鹸の匂いさえも再現するフルCGによって描かれるボーイズラブと幼女百合かもしれないが、これは……

マニアックな成人の視聴にターゲットを絞ってダウンロード配信できるかもしれないが、クレジットカードが必要だから、アクセスできない人が増えるかもしれない。

念のため、現在の引きこもり中年の保護者は、その頃には確実にいない。

アクセスできれば、タブレットPCによる個人視聴が可能だから、官能要素を強調した作品が増えるだろう。

最初からエロスを追及した作品からは、意外性を狙った種類のファン・アートは生まれない。

ただし、逆に「おバカっぽいエロスキャラで本格ミステリー」というのが考えられるので、これはこれで面白そうだ。

唯一、海外の子供へ訴求力を保ち続けるのは、ビデオゲームを元にした連続アニメだが、これは二次創作を許さない。

期待できるのは海外の「若い国」で、今そこに住む若者が日本アニメの魅力を理解してくれているなら、30年の間には、彼らが見どころのある魔女っ子アニメを仕上げてくるだろう。

日本人は、その逆輸入作品で、ファン・アートを制作させて頂くのだ。海外客が買いにくるから、周辺に宿泊施設を整備して、近隣の観光地への接続も良くしてやるといいと思う。

そこにまだ人がいれば。



2014/07/11

押井さんの嘆きは微妙だと思う。

すでに古い話題になってしまったが、どうも気になるので書いてみる。

かつて、文芸調の映画と、ピンク映画は両立していたはずだ。今でも社会派作品と、「ひたすらAVアイドルが映るだけ」というDVDは両立しているだろう。

映画館へ行くか、盤を買うしかなかった頃に比べれば、いずれもオンラインに押されて苦しいかもしれないけども。

アニメだって、文芸調・ファミリー向け・アート系など、意欲的な作品には事欠かない。

逆に、ディズニーでさえ「毎度おなじみミュージカル・アニメ」と言ってしまうことはできる。

技術は、先達のコピーによって受け継がれる。

バレエもオペラも能楽も歌舞伎も、アラベスクの角度であるとか、ベルカント唱法であるとか、打ち込みであるとか、六方であるとか、表現の「型」は確実に受け継がれる必要があるが、脚本上のコピーは、多くの場合、あんまり面白いものを生まない。

オペラも能楽・歌舞伎も、くりかえし上演される演目は、だいたい決まっている。何百年もやってる間には、多くの模倣的な脚本が生まれたが、淘汰された。名前の残ったサリエリは、良いほうだ。

でも、淘汰される前は、それなりに一生懸命に演じた役者もいれば、楽しく見ていた観客もいたはずだ。

つまり、アニメの現状も、芸能の伝えられ方として、そんなに間違っていない。萌えアニメが好きで、市場をまわす購買力のある人には、どんどん買ってもらえばいいだけだ。

世の中で何が流行ろうが、宮崎監督は、本人の好きなものを描いた。彼のためなら、それだけの金が動く。

だから、いろいろ考えると、押井氏の心の叫びは「俺にもう一回やらせてくれ!」、ありていに言って「誰か金を出してくれ!」じゃなかろうか。

自己表現のための資金が足りないのは、クラシック系、伝統芸能、競技人口の少ないスポーツ、どこも同じだ。

残念ながら、押井氏の作品は、ビキニ水着の女の子が空に浮かんでいるものであったり、女性サイボーグが素っ裸で戦ったりするものだった。おとなの女性(後期高齢者など)が見たとき、宮崎氏の作品に対したときと同じように、「まァ、懐かしい」と言ってはくれないだろう……

高齢者は、この国の富の多くを握っていると伝えられるが、アニメは、ついに彼らの心を大きく動かせてはいない。

とすると、残る問題は、かつて押井氏の、リアリズムとアニメならではの大胆表現との融合を支持した人々は、どこへ行っちゃったのだろう?

2014/07/14

よーでるよーでるよーでるよーでる

……って曲が流れると男児が踊り出します。地元の夏祭りで目撃しました。そのうち幼稚園などのお遊戯で定番化するかもしれません。

女児は以前からモー娘やAKBの曲に合わせて踊っていたけど、男児が踊りたがる曲は少なかったので貴重です。

思えば「ハルヒダンス」の低年齢化だけど、子供たちは自分の金を持ってない。

子供に人気ということは、その保護者が「これなら買ってあげる」と判断したってことで、ニンテンドー、ディズニー、ジブリと並べてみると、勝ち組アニメの必須要素がハッキリしたような気もする。

ジバニャンは、ピカチュウのやる気満々ぶりに比べると肩のちからの抜けた奴で、「カラスの勝手でしょ」「そんなのかんけーねー」(ちょっと前まで男児はこれで踊ってた)を流行らせた子供たちの人気者なのでしょう。

今まで「赤い」キャラクターって不在だった気がするので、青いドラえもん、黄色いピカチュウ、ピンクのチョッパーと並んで、定番化するといいです。

(緑がいれば戦隊化。)


2014/07/14

【漫画は作家の自己表現とは見なされていないような気がする】


昔の少女向け作品は、男性作家によって描かれた。彼らがトランス女性だったのではないかと心配する人は、あんまりいない。

プロの仕事として、自分自身のナルシシズムを度外視して、子供の喜ぶものを与えて「やっている」という意識がある。

でも、実際には、自分の好きなものを描いていたはずだ。

竹久夢二は、もう明らかに若い女性が好きだったし、手塚治虫は宝塚が好きだった。

アニメ放映とタイアップした玩具というのは、児童心理学者と教育学者、社会学者とリサーチ会社の協力を得て、「子供の五感を正しく刺激し、心身の健全な発育を促し、保護者の教育意欲をも満足させる」というように設計されていない。

時代の流行に合わせて、子供たち自身が折りたたみケータイであったり、スマホであったり、ネイルアートであったり、おとなの持ち物・やることを真似したがるから、それに合わせて投下してやっているだけだ。

子供が大人に憧れることによって、大人自身が「大人って何でも好きな物を持てるから、いいよね。私もおとなになって良かった♪」と自己愛を満足させる。

逆に子供が大人の真似をしたがらないと、大人は自分のやってきたこと(人生)を否定されたように感じるから、「いまの若いやつは情けない」って言うわけ。

『美少女戦士セーラームーン』は、成人した女性が描いたんだから、単純に彼女自身のナルシシズム、「成人女性の肉体美とはこういうもの」という価値観・審美眼が表現されていると言われても良さそうなものなんだけど、登場人物の肢体が中学生にしては大人びているので、「読者少女は早熟したがっている」と分析されることがある。

大人自身が魅力的だと思うものを投下して、子供がその真似をするだけなんだけど、最初の部分がすっ飛ばされる。

「少女はそれを求めている」という文脈に持っていきたい人がいるんではないかな、と思う。

つまり、「少女の性」という、その評論を読む大人たちにとって刺激的な話題にすることを(意識せずに)狙っているんではないかな……

たぶん少女趣味の男性が描けば、登場人物たちは13歳として無理のない、やや小ぢんまりした肉体美を保ち続けたはずだ。12歳の小学生男女を描いた『電脳コイル』は、かなり意図的だ。

頭部の大きさに比して脚が長すぎることが分からない程度の観察眼・描画力しか持たない描き手に、なにを指摘しても無駄という点はおいといて……。

2014/07/16

【粘土層はアニメのためには動いてくれるだろうか】

50歳代を「粘土層」って言うそうだ。

企業トップや政治家が、女性の重役登用・そのための仕事のシェアなどを推奨しても協力せず、まったく動かないから。

なお、「女性の活用」って言い方は「性処理に利用」ってのと似ていてアレなので、せめて登用っていうか、すなおに「雇用」って言えばいいと思う。

で、粘土。

団塊のちょうど10年後に生まれた人々で、1980年頃に成人した。

80年代は女の時代だったのではないのか?

むしろ、女性の自由の象徴だったはずのレオタード姿や「ハイレグ」が、あっという間にお色気路線に取り込まれた時代だ。

50歳代は、人によってはバブル時代に派手な遊びをしただろう。

彼らは、アニメのためには動いてくれるだろうか。

80年代には『ゴルゴ13』がアニメ映画化された。生々しい性の場面もあった。テレビでも『キャッツアイ』『コブラ』を始め、成人男女の肉体美を描いたアニメがいくつか発表された。OVAには、ゴルゴと同じくハードボイルド路線で、お色気描写もそれなりに成人向けなものがあった。

それが、その後のアニメ界の主流となったかといえば、ご承知の通りだ。

アニメは大人のものになろうとして、挫折した。

1958年に生まれた人は、1983年には25歳だった。成人デートの選択肢として、成人向け読み捨て雑誌の一種として、アニメを「利用」してくれるはずの人々は、それを今に至るまで盛り上げ続けてはくれなかった。

この世は仮初。

あと10年経つと、いま70代の人は人数を減らす。

戦後生まれは大正・昭和初期生まれほど丈夫ではない。原因はモータリゼーションと食生活の欧米化だ。平均寿命は今の水準を維持し続けるとは限らない。人口減少は、試算よりも急激に起こるかもしれない。

団塊の世代も、10年以内に人数を減らす。

いま50歳代の人々が60歳代となり、その一部が政権に入る。

二十代後半~三十代前半の青年として、バブルとハイレグの時代を知っており、「結婚するのが当たり前」という前提で野次を飛ばす彼らは、ひらたく言うと、リア充だ。

そして、リア充のほうが、コンテンツ消費専従者・自宅警備員よりも、国政の表舞台に近い。

1975年には高校生だったが、ヤマト世代・アニメ世代の嚆矢などと言われるたびに違和感を深めてきた人もいるだろう。

政府みずから「クール、クール」と騒ぐことに鼻白む思いをしたから、同じ轍は踏まない。

そのころには、ももクロ、きゃりぱみゅも活動を停止している。

(寂しいと思ったら、彼女たちが30歳を過ぎても応援を続けてあげるといい)

つまり、コンテンツ文化に対して、よくて熱が冷めた・わるくて明白に敵対的となった世論を受けて、反アニメ派・反女権拡張派・粘土層が、満を持して政権の中枢に座る……

2014/07/16

【各社ともアニメの販促効果に期待しないほうがいいです】

売れ残ってます。果ては安く売られてます。

おそらく都心部で独身として働く、比較的若い人々(の一部)に瞬間的な人気があって、ネットの中が騒がしいだけで、地方人士は見向きもしません。

とくに配偶者のために酒類や男性用化粧品の備品を購入する「リア充女性」は、いわゆる萌え系アニメには全く訴求力を感じていないと思っておいたほうがいいでしょう。

どうしてもこだわりたければ、アンテナショップのようなところで限定販売なさるのがいいです。

アキバ文化、コミケ文化などというのは、珍しいものを求めて「暑いなか苦労して行ってきた」という戦利品・おみやげのような意味合いがあるのであって、近所で買ってしまえるのでは意味がない。

ことにコミケ文化は、もともと大学生(の延長)による自主開催文化祭の中で育まれてきたもので、「とめてくれるな、おっかさん」なわけで、おとなが眉をひそめるのを承知で冗句を言っているようなところがあって、それは実はおとなの社会があくまで毅然として、上品であろうとしていることを前提にしている。

おとなの社会が本当に倒れてしまえば革命も起こせない。底が割れてしまったところで始まったのが、コミケ文化。

漫画評論も、純文学評論の向こうを張ることに意味があったので、そっちが傾いてしまうと輝きが減る。その裏で勢力を漸増させたのがアニパロ派だけれども、これこそ「自分でやる」ことに意義がある。

ここで現実的なことを言えば、キャラクター使用料をおさめても、急に販売価格に上乗せできないのであれば、後でしわ寄せが来る。

ちょっと本気で心配している今日この頃です。


2014/07/19

【リア充はリアル志向】

じつは非婚率というのは、そんなに高くない。

東京の出生率が低すぎるだけで、多くの地方人士は家庭持ちだ。

自分の子供が生まれたり、お受験に挑戦したり、部活に励んだり、就職で悩んだりしていて、その応援に傾注したり、一喜一憂したりすることに生きがいを感じているとき、「他人が描いた偽物の子供」は、あんまり魅力がない。

そのように思うのが、リア充ってものだ。アニメの黎明期からそうだった。今もあんまり変わっていない。

たぶん彼らへ見せるために『はじめてのおつかい』をアニメ化しても、さっぱり食いつかないだろう。

これはアニメというより、創作物一般のアキレス腱だ。

実写は、かろうじて現実感をつなぎとめることができる。

かえって非現実的なところが良いと言うのは少数派だ。サルバドール・ダリ風の超現実主義や、抽象絵画が、今もって庶民向けとは思われていないように。

だから、アニメを私物化・消費材化する人々の存在を、極端に言えば法律で禁止し、粛清したところで、残った一般人がこぞってアニメ畑へ馳せ参じてくれるわけではない。