2012/10/15

ふと思い出す『悪魔の花嫁』

あれも初期設定に凝りすぎて回収できないパターンだった……(いやまだ続いてるらしいんだけど)

チャンスを得た作家があらゆるアイディアを詰め込んでしまうということがあるのかもしれない。

本当いうと三角関係は元の鞘に収まるしかない。
最初にカップルとして紹介されたキャラクターを、読者・観客は受け入れて、親近感をもつ。(受け入れないと始まらない)
二人が手をたずさえて困難を乗り越えた、という話でないと意味がない。

何ヶ月もの連載、何時間もの映画に付き合わされた挙句に「あの二人は壊れちゃいました。これからは新しいキャラクターをよろしく」では後味が悪い。

「新しいキャラクターのほうを活かしたい」ということであれば、元カレ、元妻が恐ろしい本性を表したり、悪霊となって追ってくることになり、これを新しいカップルで退治して、めでたしとなる。映画『オペラ座の怪人』はこのパターン。

悪霊の底にひそむ悲しみに焦点を当てれば、能『葵上』となるが、あれも悪霊としては退治されて終わる。

『悪魔の花嫁』では「ヴィーナスが悪霊となって美奈子を襲い、退治される」しかあり得ないだろう。

美奈子は彼女からデイモスに近づいたおじゃま虫ではないので、彼女が「身を引く」などという筋合いはない。
逆にデイモスが散々つきまとった挙句に「やっぱりヴィーナスが一番」と元の鞘に収まるのでは「なんだったんだ( ゚д゚)」というギャグになってしまう。
だから、ここは「ころすつもりで近づいた彼女を愛してしまった」を推し進めるしかない。

ここで美奈子が「私も彼を愛してしまった」ってことなら話が早い。ヴィーナスが猛り狂い、悪霊と化して襲ってくるが、二人の愛の力の前に倒れ、あるいはデイモスが美奈子をかばってヴィーナスの牙にかかり、さすがに哀れに思った天上の神々が奇跡を起こしてくれる……ってことで何とか決着がつくだろう。ディズニー・アニメだったら、そんな感じだ。

けど、美奈子は、一見きれいな顔をした若い男だが人間を破滅させる恐ろしい悪魔だというので彼を嫌っている。

望みのない兄妹は、「貴男をころして私もしぬ」ことが可能ならドラマとしては決着がつくんだけど、デイモスもヴィーナスも元が天上界の神々なので不死だから無理。

美奈子は生身の人間だから、彼女には滅亡があり得る。では望みのないデイモスに引導を渡すためにヴィーナスが美奈子に手を下せばいいかというと、手を下してしまったヴィーナスにデイモスの愛が戻ることはないだろう。

ここはやはりヴィーナスが一度(ディズニー・アニメの女怪のように)恐ろしいものとなって暴れるしかない。その上で成仏し(ギリシャ神話に成仏ってのも変だが)デイモスはゼウスか誰かの奇跡によって人間の青年となり、美奈子と結ばれ、二人の間に生まれた娘がヴィーナスの生まれ変わりだったので、慈しんで育てました……とでもすると収まりはいいんだけど、全体のダークな雰囲気、ロマンチックホラーな雰囲気を損なう。

あと、ゼウスがダメ親父として描かれており、ヘラもすっごい嫌なおばさんだったので、愛の奇跡を起こしてくれそうにない。
なんか『平清盛』の宮中がダメダメなのと似ている。いわゆる「義と悪が引っくり返」っている状態、権力者が揶揄されている状態。

それ自体は読んでいるぶんには面白いが、「もうヴィーナスも充分に苦しんだから許してあげましょう」など、まともな判断のできる者がいないので、物語に決着がつかない。つまりプロットを立てる段階で、目先の面白さだけが重視され、先へ行ってまとめる際にキーパーソンとなるキャラクターが設定されていない。そのような目線で物語作りがなされていない。

「革命を志したのに仲間と思った奴に騙された」と騒ぐ兎丸は滅ぼされてしまったが、ヴィーナスたちは元が神様なので不死だ。終わりにできない。

さらに今さらヴィーナスが悪霊化するきっかけがない。

『オペラ座』では、金髪子爵が新たなパトロンとして現れ、クリスティーナが彼と逃げようとしたので、それをきっかけにファントムが積極的に動き、彼女を閉じ込めようとした。

とすれば、デイモスがついに美奈子を選んでヴィーナスを見捨てる覚悟を決める必要があるわけだが、ファントムなら(外見のコンプレックスと犯罪歴をはばかって)外の世界まで追ってはこないところ、ヴィーナスはもともと神出鬼没な神様であるため、どこへ逃げようと追ってくる。

だから物語は「愛してる」と言った途端に地獄から絶叫が響き、世界がダークファンタジー化して、暗雲の中で人間の目には見えない戦いが繰り広げられるってなことになるしかないのだが、そもそも「神の身でありながら、なかなか心を決めることができない男の弱さ」が、愛と欲から身を滅ぼす人間界の女たちの弱さと呼応しているので、じつは決着がついてはいけないのである。

デイモスが、たとえ報われなくても美奈子に愛を捧げて、必要ならヴィーナスの嫉妬の炎によって我が身を滅ぼす覚悟を決めたとき、それは「恐怖の神」がいなくなるときでもあり、人間界にとって、それはあり得ないわけである。

不死の神(の罰せられた姿)である彼ら兄妹が(ダラダラと)存在し続ける限り、人間界には恐怖があり続ける……

物語冒頭の「性愛におちた兄妹が天罰を受け、地獄で責め苦を受け続ける妹を救うために、兄は生身の少女を生贄にする必要があるが、その少女を愛してしまった」というあれは、『オペラ座』『ノスフェラトゥ』のようなダーク・ファンタジー調な愛のドラマとしての展開・決着を望むなら、映画なら2時間、ドラマなら全5回、漫画なら短期集中連載で一気に「けり」をつけるべきエピソードだった。

「美しい男性の悪魔」が見守る前で、みずからの欲に駆られて身を滅ぼしていく人間の女たち……というオムニバスとして読めば面白い作品である。合体させちゃいかんかった、というのが本当のところ。

さらに仮に生まれ変わったとして、ちっちゃいヴィーナスが「パパは私のものよ」とか言い出すと、三角関係が終わらない(´・ω・`)

三角関係というのは本当いうと「気持ちの萎えが一致する」ということがないと終わらない。AとBが互いに飽きるからAとCがくっつく、またはBとDがくっつくことで決着するのである。

その意味では「最初のカップルの呼吸があくまで合っている」ことが必要である、という逆説が成り立っちゃうのであった。
2012/10/16

美奈子を探し続ける話なら収まりが良かった・・・のか?

心の美しさは眼の輝きや表情の柔らかさに現れる。

「微笑の女神」であるヴィーナスの魂を移し、美しく生まれ変わらせるための娘は、だから心まで美しくなければならない。

仮にデイモスがブサイクな男だったら、人間界の女たちは「俺に魂をよこすか?」と持ちかけられても「おととい来い!」と追い返しただろう。彼が若く美しい半裸の男性だから、女たちも「あら、いいわね」って気分になる。富と名声と美貌を手に入れ、若い悪魔に抱かれて永遠の快楽にふける自分を夢見る。

少女マンガ誌に連載されたから、後半のところは明示されていないが、読者の中高生少女もそのような危険な愛の香り、禁断のエロスの香りのようなものを感じたからこそ、恐怖と耽美的なロマンを覚えた。また、そのような欲望に駆られた大人の女性が、運命の皮肉な罠にかかって身を滅ぼし、美しい男性(の悪魔)に冷笑されるさまに、溜飲をさげる思いを味わった。だから当時の連載は人気を博した。

ストーリーのひねり具合からいうと喪黒福造さんと同じなのだが、喪黒さんと決定的に違って少女向けであるのは、ひとえにデイモスが美男であるからだ。

つまりデイモスは誘惑の象徴である。少女マンガに時々出てくる美しい吸血鬼、狼男などと基本的に同じだ。

彼は自分の誘惑にひっかからない清純な娘、取引に応じない毅然とした娘を探し続ける。妹を救うために。毎回「この女もダメだったか」と寂しそうにいずこかへ去る。
……ってことであれば、連載を何回繰り返してもよかった。『こち亀』化してもよかった。

この場合、最終回はもちろん、ついに理想の娘をみつけた時となる。「わたしと来れば永遠の若さと美貌と、愛の女神としての尊敬を手に入れられるぞ」と持ちかけ、しかし娘は「そんなもの要らない。可愛いおばあちゃんになりたい。子供たちの世話をして暮らしたい」などと言う。教会に付属する養育施設のお姉さん等という設定がいいかもしれない。女子高生なら「幼稚園の先生になりたい」などというのがいいだろう。

心の美しい彼女は、事情を聞けば「わたしの体でよかったらどうぞ」と言うかもしれない。

悪魔は彼女の心が美しいからこそ彼女を選び、求め、しかしその美しさを認めるからこそ、澄んだ眼の輝きを消すことをためらう。ここに至って初めて地獄のヴィーナスが姿を現し、「どうしたの、お兄さま。早くその娘をころして」と悪鬼となって迫る。悪魔はかつての愛らしさの片鱗もない彼女の凄惨な姿を見て、過ちに気づく。「妹よ、我らが救われる手段は存在しないのだ。他人の犠牲の上に成り立つ愛と美などあり得ない。ともに罰を受け続けよう」

……ということであれば、現代人のヒューマニズムとしては気分がいいが、ここで問題は、「ほんとうの愛と美と正義」の意味に気づいて身を引く恐怖の神は、すでに恐怖の神でも悪魔でもなくなってしまうってことである。

罰された神としての姿が昇華されて星座となったり、美奈子の子供(またはペットの仔猫)として健康的な姿で生まれ変わり、愛されるなどしてもいいが、前記事でもいった通り、物語全体のダークでホラーで耽美な雰囲気を損なう。

そもそも、「本当の世の中は、そのような(ディ○ニー・アニメ的な)御都合主義によって解決するようにはできていない。もっと複雑で残酷である」ってことを訴え、「そのことがちゃんと分かっている私は頭がいい」と主張するための創作であり、その意味ではやや“中二病”的なのである。

世の中に“デビュー”する前の年頃の女性たちは、それを読んで、大人の世界の怖さを予習し、「誘惑に負けず、他人をおとしいれず、正直に生きよう」と決意する。逆説的な教訓話であり、一種の世直し物語である。

すでに大人であり、成功した女性である原作者が、これから大人になる女性である読者少女たちに、世の中に関する例え話を聞かせる。そういう意味合いがあった。

デイモスは「罰された恐怖の神」として、誘惑の象徴であり、ヴィーナスは「罰された愛の女神」として、裏切られた愛の象徴である。それが許され、昇華するとき、人間界からも「誘惑と裏切り、それによる恐怖」は無くなるはずである。「こうして世の中は平和になりました。皆さんも正直に生きましょう」という子供のための寓話ならそれでもいいが、そうじゃない。

「世の中そんなもんじゃないでしょ」と皮肉を言い続けるためには、世の中自体が皮肉なものであり続ける必要がある。
「解決されるドラマを否定する面白さ」から始まっているから、最初っから矛盾をはらんでおり、解決しない。

彼らは許されてはならず、昇華されてはならず、美しくなってはならず、生まれ変わってはならず、したがってドラマは終わらない。

更に彼らはもともと古代の神だったので、人身御供を受け付けたことがある。「人間の娘をころせば妹神は救われる」という彼らの理屈は、それによる。しかし嬉々として実行されちゃ困る。読者が。

また、一緒に地獄へ戻った兄妹のために、美奈子ちゃんが「哀れな彼らをお救いください」と一心に祈ったとしても、どっちみち「同母兄妹の性愛を許してやる」ってわけにいかない。天上界としても地上界の読者としても。年齢差も人種・民族の違いも、最近では性別さえも乗り越えられようとしているが、これだけは無理だ。

したがって、「清純な娘の自己犠牲を受け入れて、さっさところし、その体を乗っ取り、禁断の肉体関係に戻る兄妹神ばんざい♪」というデストピア、ダークな大団円とするわけにもいかない。それでいいならとっくに解決している。

また、ギリシャ神話の神々が許さなかったものを、キリスト教の神が許してやるってのもまずいだろう。たぶん。

実際の作中の美奈子については、読者に合わせて同じ年頃の少女であるキャラクターを早めに出す必要があった。彼女は、誘惑されても屈しない代わりに、エクソシストや陰陽師を連れてきて積極的に悪魔と戦うこともしない。自分で勉強してみるわけでもない。

映画『エクソシスト』は、娘を心配していろいろな専門家に相談した母親の愛が結果的には勝った、という結末だった。神父の自己犠牲をともなったが、彼も病気の母親をじゅうぶんに看てやれなかったことで良心の呵責を感じており、逆にいえば親子愛が強いのであり、どっちにしても「親子の愛が悪魔に勝つ」ってことだった。

が、親にも相談しない美奈子は「彼は魅力的だけど、身を任せるのはちょっと怖い。どっちみち私には何もできない。助けを呼ぶといっても自分のお金もないし(当時はインターネットで調べるわけにもいかなかった)もともと私のせいじゃないし、どうせ誰も聞いてくれないし」という少女の優柔不断、計算高さ、ズルさ、責任逃れ、ふてくされ、よく言えば孤独な悲しみや寄るべない切なさ、そんなものの象徴である。

そういうものとして、いずれのキャラクターも存在し続ける必要がある。そういうものとしてキャラクターが紹介された時点で、彼らは実は終わってるのである。

池田悦子氏の原作はほかに『妖子』を読んだが、あれも「悪魔の娘」であるっていうだけで、その悪魔が「俺の娘をいじめるな」と人間世界に現れてデビルマンのように暴威をふるうってことではないし、妖子自身が超能力を発揮して「新世界の神になる」ってことでもない。

単に「出自がはっきりしない娘だから養父母に愛されない」というホームドラマに収束し、あとは彼女の周囲で大人たちが勝手に破滅していく。

スティグマを主人公に刻んだ時点で終わり。暗い予定調和の中で停滞するロマン。なんなら「やまなし落ちなし意味なし」といってもいい。サザエさんワールドでもいい。

逆に考えると、ともかく御都合主義によって一旦物語を閉じるほうが「オトナの対応」であるのかもしれない。
2012/10/16

「恐怖の神」の職能を考えてみる。

キャスパーみたいな幽霊なら怖くない。怖いのは「何をするつもりか分からないがジッとこちらを見ている」とか「とりころされる」とか「霊の世界へ引きずって行かれる」とか、そういう時。

「天国よいとこ一度はおいで」という歌があるが、霊の世界がいいところだったら……すぐにご一緒するのは遠慮するかもしれないが、怖くはなくなるだろう。

とすると、恐怖を感じる原因のひとつは「不安」「先行きの見えないこと」だ。

恐怖を感じている心の正反対と思われる言葉は「明朗快活」「明鏡止水」「公明正大」など。先行きの見通しがあって、心が落ち着いている様子。共通するのは「明」

恐怖を象徴するのは「暗」だろう。

暗闇の中で光る夜行性の肉食動物の眼。彼らは人間より夜目がきき、鼻がきき、脚が早く、顎が強い。確実に食われる。しぬこと自体もいやだが痛い思いをするのは尚いやだ。

逃げるか。どこへどう逃げるか。どこに住み、どんな武器を作って対抗するか……

恐怖は生き延びるための本能的な戦略でもあり、知恵の源でもある。恐怖の神は、「無知・無力と不安の神」であると同時に逆説的に「賢さの神」「強さの神」ってこともあり得る。恐怖に打ち勝つために恐怖の神に祈るということも考えられる。セント・エルモの火みたいなものは、悪霊と思えば悪霊だし守護神と思えば守護神だ。

また個人の滅亡を恐れるから仲間を求め、遺伝子を伝えようとする。夜は恐怖を呼ぶ時間であると同時に交歓のときでもある。
なるほど恐怖の神と愛欲の女神がひとつ腹であっても、うなづける。ついでに音楽の神とか詩作の神なども眷属にいるといいかもしれない。


2014/07/29

【悪魔の花嫁と妖子は第一話で終わっている。】

旧来型ディズニープリンセス式の「男を信じて待つ女は、必ず救われる」という物語に対して、「信じても無駄。あいつら美人に弱いから、必ず裏切る」と言ってのけたまでは良かったんだけれども、それなら女同士でなんとかしようというふうに前向きに展開して行かないから、話の続けようがない。

ヴィーナスは海の泡から生まれたのが本来の伝説だから、例えば海の精霊が同情して手助けしてくれた、なんて話でもいい。キルケー、ハーピー、ゴルゴーンなど、味方になってくれそうな女怪なら幾つか思いつく。

彼女自身が怨霊となって、六条の御息所のように美奈子へ取りついてしまったっていい。少女が骸になってしまえば、兄貴もそれを担いでくる他ない。

時々人間界へ散歩に出てくるわりには、それほどの霊力は残されていないことになっている。

美奈子のほうでも、悪魔学を勉強して、デイモスを操るとか、エクソシストを連れてきて闘うとかしてもいいのに、そういう方向へ展開していかない。

成績も優秀そうだし、家庭も裕福そうで、外国語の書籍一冊買えないってこともなさそうだけど、彼女は自分からは何もできないことになっている。

「男も女も無力ね。可哀想ね」というのが物語の意味で、オイルショックの時代に相応しいと言えば言える。

「こうして恐怖と絶望が、この世に誕生しました。どっとはらい」で落ちがついている。

ここからは短編集になってしまうわけで、市井の女性たちが自らの欲望に苦しむ姿を見定める美男は、叙述における「神の視点」の象徴で、作家の視点でもあり、読者の視点でもある。彼は、いつも、ちょっと高い所にいる。

彼は、自由なはずの翼ある者であり、同時に忌みきらわれるカラスでもある。

女性が「社会進出」するにあたって、男性の目線で女性を観察し、うがったことを言う。が、愛されない。感謝もされない。

女性のダメさ加減を提示するだけで、改善へ向けて「あなたならできる」と励ましたり、「真実の愛の力で、ずっとそばにいるよ」などと協力するわけではない存在は、忌みきらわれる黒衣の者である。

美少年物語とは、同時に生まれた兄弟(姉妹?)のような関係だ。

後者は、美少年を愛玩(悪戯)する存在として、作家のリアリティを表現した成人女性ではなく、作家自身と同じ年頃の美男を登場させたものだ。

明治時代の文豪は、たとえば一高出身の作家であるとか、教員であるとか、自分自身を作中に登場させることを躊躇わなかった。

よくも悪くも自分だけを恃みに書くことができた彼らとは違って、すでに少女とは言えない年齢に達しながら、職業的な要請によって年下の女性を主人公に描き続けてきた漫画作家にとっては、同世代の異性を描くことも、じつはそんなに違和感のないことだったのかもしれない。

男性の仮面をつけて、美少年を眺めると、女性の身では思いもつかなかった、彼の「利用方法」が見えてくる。

これはゲイ差別というより、男性一般に対して失礼なんだけれども、それが女性の自立心の表現であるから許されたい……こういう理屈だった。

妖子のほうは、少し時代が下っているから、もう少し話が明るい。

どこが!? と言われそうだが、女性が自分の力で危険を切り抜けるのだから、充分に明るい。

「こうして賢い妖子は機転を利かしてピンチをくぐり抜け、生まれ育った伯爵家に居座り続けました。めでたしめでたし」

これも第一回で終わっている。

たぶん、連載に向かない才能を持った作家がいるんだけれども、ヤマザキマリ氏が言ったことを信じるなら、日本では作家が連載させられる。


2014/09/04

【手塚治虫『MW』の誤算。】

西村寿行は炯眼で、早くも1970年代後半に、「女王様が男たちに同性愛行為を命じる」という場面を描いている。

手塚治虫『MW』は、さらに早く、竹宮恵子『風と木の詩』連載開始の数ヵ月後に発表されている。たぶん対抗意識を燃やしたのだ。

でも、西村と違って、「女性がそれを描いた」ことの本質をつかみそこねた。

独立・対等志向の女性ではなく、同性愛男性自身を国家転覆をもくろむ悪役にしてしまい、途中で「しまった」と思ったから、テーマを見失ったんである。

当初、賀来は「悪としての愛欲」に負ける自分が、正義を説く資格はないというので足踏みしていたんだけれども、作家は途中でレズビアン記者を登場させて、「同性愛に問題ありません」と言わせた。クレームがあったかどうかは分からない。

問題ないと言ってしまった以上、話は賀来が自分自身を乗り越えるかどうかではなく、相手を止められるかどうかという、一種の勧善懲悪劇になる。間に合うか、間に合わないかという、スピード勝負のアクション・サスペンスになる。純文学が娯楽ドラマになってしまった瞬間だ。

大量破壊兵器物語は、その発動を食い止めることが主眼であり、主人公にとっての「勝ち」なので、話が見え透いてしまう。よって、こっから難しくなる。

いっそ『進撃の巨人』ふうに、破壊が次々に起きてしまう様子を描いてしまうべきだったろうか。

そうなると、止まらない犯人と、止めたい刑事役の追いかけっこだ。「また出し抜かれた!」の繰り返しで、二人が恋人同士である意味は、ほとんどない。

よくある親友の関係であれば止められなかったものが、肉体までも結ばれた相手の情愛によってなら止めることができた……というなら、まだしも収まりはつく。

逆に、身も心も結ばれていたはずのものが、自分の説得に応じてくれないというのであれば、それはそれで、主人公の苦悩の描写にはなる。

しかし、これはもう「犯罪に巻き込まれたゲイ」の話であって、ストレート男性読者が 「( ゜Д゜)ポカーン」となってしまう。作家にとっても「俺がこれを書く必要があるのか」と悩まれるところだろう。

実際に、頭かかえちゃったんだと思う。

だから、終盤で話を端折ったみたいになっている。

映画版は、ひらたく言うと「俺の愛が通じない」ってことだったんだけど、描ききれなかったので、観客の脳裏に「こいつらどういう関係?」という消化不良感を残したままなんである。

そして、残念ながら、今なお「ゲイ愛は復讐心に勝つ」という漫画・映画は生まれていないと思う。

2014/09/16

【歌は下手でもセクシーなドレス着てと言われたら。】

成田美名子の漫画作品『花よりも花の如く』に、女性ジャズシンガー(の卵)がライブ店から「歌は下手でもいいからセクシーなドレスを着て出演して」と言われて傷ついた……と苦衷を打ち明ける場面がある。

主人公の能楽男子は、読者のほとんどである一般女性の心理を背負っているから「あ、女性は社会に出るとセクハラされてしまうから大変なんだな」というふうに反応する。

でも、彼も似たようなことを言われる可能性はある。

「紋服を着て座っていれば能楽師に見えるので、とりあえず黙ってテレビに出てください」

歌が上手ならセクシーなドレスを着なくて良いわけではない。

オペラ・ディーヴァは胸の開いたドレスを着る。レディ・ガガは世界中から下着姿に相当する衣装を見られている。浜崎アユミは胴回りの太さを問題視される。

男性ジャズシンガーなら、ディノはタキシード、マット・ダスクはスリーピース・スーツで決める。

「歌が下手でも、とりあえずスーツ着てきて。女性客が喜ぶから」

……と言われたら、パフォーマーたる者、反応しなければならないのは発言の前半のほうだ。

「君の歌唱力では雇えない」「芸が未熟なくせにステージへ上がりたがるとは僭越だ」と言われているのだ。切腹したくなるくらい恥じてよい。

「それなら単に不採用と言ってほしかった」「見た目の性的な魅力に言及するのは嫌がらせだ」とか言ってる場合ではない。

ドレスまたはスーツを着ると見栄えがすると言われたということは、スターの座への第一関門を抜けたということだ。精を出してボイストレーニングに通うといい。

オペラ歌手も、デル・モナコやドミンゴのように顔立ちが整っており、ラテンな色気を帯びた男に人気がある。

能楽師でさえ、顔の良い若手に人気がある。(本当だ)

ニューウェイブ三味線の上妻も、見た目は重要だ。

観客は「天は二物を与え給う」という奇跡に酔う。

ポール・ポットのような例は、ふつうにオーディションを受けても通らない個性が、喉自慢だけで突出できる機会があって良かったねってことで、観客には「一発逆転」という小さな奇跡に参与する喜びを与える。

漫画は、一般人が読むものなので、その心理に寄り添う必要があり、演技の専門家の非常識な覚悟を描けるようで描けないのだ。

これがフィクションとドキュメンタリーの決定的な違いだろうと思う。



2014/11/30

【手塚『MW』の結城は女性のほうが論理的。】


手塚治虫『MW』は、竹宮恵子『風と木の詩』の連載開始後、数ヶ月のうちに連載を開始しています。

ディズニーを茶化した手塚先生は、女性による新しい表現分野の隆盛にも対抗意識を燃やしたのです。たぶん。

真のテーマは「近ごろ流行りの女性的な男性と、それをもてはやす女性への忌避感」と考えると、分かりやすいです。

物語は、異性愛であろうが同性愛であろうが、もともと恋人関係にあった二人が国家犯罪に巻き込まれたのですから、協力して復讐する理屈は立ちます。しかも片方が良心の呵責に悩み、でありながら肉欲に負けて相方を説得しきれないという境地も、冷静な読者には「性を超えて」共感されます。

ただし「愛する彼が俺の説得を聞いてくれない」という苦悩、または「愛する彼が俺の説得に応じてくれた」という喜びは、いずれもゲイの心理描写です。「だめだ」と言いながら情交をくりかえすのは、要するに恋人同士がいちゃいちゃしてるだけです。

やっぱり多くのストレート読者がポカーーンとさせられるでしょう。「手塚はゲイだったのか? こういう話は『薔薇族』で連載すればいいだろ?」となるでしょう。

ここで作者が「俺自身はストレートだが、平等が望ましいと思う。これは性を超えた人間愛の物語である」と言いきることができれば、創作者としての理屈が立ちます。

ただし、この場合は、望ましい結末が「平等な愛は勝つ」というものです。でも実際はそうじゃありませんでした。

もともと、あの手の話は「秘密兵器が発動されて人類全滅、めでたしめでたし」というわけにいかないので、「いかに防ぐか」が眼目になります。

同性愛を禁忌の侵犯ととらえるなら、すでに禁断の肉欲を味わった神父は、じつは防ぎ方に関して、悩む必要ありません。どっちみち地獄行きですから、さっさと秘密兵器をかついで真っ逆さまに落ちても同じことです。

人類は救われたが、愛は成就されない。これは「同性愛と自殺はキリスト教では禁じられています」というプロパガンダなのか?

それにしちゃ女性記者キャラクターを通じて「同性愛には問題ありません」って言わせてるよな? 

じゃあ、賀来は死ぬことが普通に怖かっただけで、本当は結城を連れて逃げ、末永くラブラブな生活ができれば良かったのか? それにしちゃ交際そのものに悩んでるよな? 

……変な話です。

ここで、物語終盤に男性の去勢が描かれたことを思うと「女も強くなったもんだ」という感慨が見えてくるようです。確か、あのドーベルマンは雌犬です。

ここで設定を見直し、結城を生来の女性だとすると「愛する夫の言うことを聞かず、変装の技術をいかして血縁者の復讐に走る意志の強い人物」だが、「才能があり過ぎて、愛する夫を失った哀れな女性」という結末になります。

女権拡張時代への皮肉というテーマが見えたことになります。逆に、男性は論理的かつ情愛に溢れた気高い存在です。

「神も許した結婚の相手を救うため、神に逆らうことは神の御心にかなうのか」

彼女に罪を犯させないため、自分は自決すべきか。愛する人を天国へ送るために、自分は地獄へ落ちるべきか。論理的であるからこそ逆説に悩むのです。本当は、結城が女性だったほうが、テーマの通りは良かったのです。

同性愛男子として描けば、「愛する彼を天国へ送るため」となりますから、同性愛支援キャンペーンとなります。それを言えないなら、このテーマは取り扱うべきでないのが本当です。


『風と木の詩』のジルベールは、性の玩具として育てられた彼なりに楽しく暮らしています。ほかの子のように真面目に勉強しなくても良いことになっています。

女性が性的な存在として期待され、そのように育てられながらも、期待に応えて奔放に振舞うと、淫婦として差別される。そのような社会風潮への、女性からの皮肉であり、ジルベールの中身は女性であるという解釈を取れば、「結城を本来は哀れな女性だけれども男性に設定する」という思いつきにも無理はありません。

が、テーマが違うのです。『風と木』は、セルジュが芸術家として成長する物語です。根本のところで前向きであり、同性愛支援キャンペーンの意味も含まれているのです。

セルジュは在学中に、ジルベールが口ずさむ即興メロディーをピアノ曲に仕立てました。彼は一生かけて、その主題を展開させ続けるでしょう。大人に汚された堕天使は、彼の手で詩神として昇華します。ジルベールの犠牲は、セルジュ自身の飛翔のために必要でした。

作者自身が「いやなこともあったが、描くことで昇華してきた」と言った通り、社会は必ずしも美しくなく、犠牲も出るが、芸術家はその経験を糧に成長する。

これは作者の心の声であり、そのように作品中に作者自身が表現されているとき、人は「文学だ」と申します。


が、手塚のほうは「同性愛は復讐心に勝つ」と描くこともできず、「ゲイも強くなったもんだ」と皮肉を言うわけにもいかない。賀来の犠牲を見ながら誰も反省せぬまま、無駄に壮大なメロドラマが終わりました。

うかつに女性への対抗意識に駆られて、流行の要素を取り入れたのが運の尽きだったのですが、そういう弱さがあったというところが、また手塚らしいところかもしれません。



2014/12/01

【1980年代『花とゆめ』はBL誌だったか。】


雑誌の顔は、少女漫画の王道というべき『ガラスの仮面』(美内すずえ)、不世出の天才・三原順による『はみだしっ子』、それから『スケバン刑事』(和田慎二)だったと思います。

三原作品は、可愛らしい少年たちを主人公にしたホームドラマには違いないのですが、1970年代若者文化の熱さを伝え、プログレッシブロックの影響があるなどとは言うまでもなく、今なお読みこなすには知力胆力の要る傑作です。

和田作品は、1980年代の間にテレビドラマ化され、好評を博しました。斉藤由貴、南野陽子の出世作です。

柴田昌弘『紅い牙』は、ハードな作風で、男性読者にも人気があったでしょう。

この二者は「男性作者が女子高生を主人公に、激しいアクションを演じさせる」というもので、現代のアニメ作品にも通じる流れだろうと思います。

逆に『ミルクタイムにささやいて』(酒井美羽)は、レディコミの「はしり」でしょう。子育てをテーマにしたホームドラマで、まだ18歳の新妻と、30代でクォーター設定(茶髪で眼がグリーンがかっている)の旦那様のラブシーンも味わい深い要素でした。

野間美由紀の高校生探偵ものは、コナンくんや金田一くんの先輩に当たるかと思います。主人公は女子でした。男子同級生との夜の交際を暗示する台詞がありましたが、今では書けないかもしれません。

氷室冴子の少女小説を漫画化したのも、あったはずです。きれいな絵柄でした。

山口美由紀、日渡早紀、川原泉は、愛らしい女子高生を主人公にした、なごやかな味わいの作品でデビューしました。

彼女たちは、美少年や美中年をも上手に描いたので、「耽美」の素養が偲ばれましたが、それを表に出さずに少女漫画が描けるなら、結構なことです。

遠藤淑子がデビューしたときには、そのいかにも同人上がりな画力に衝撃を受けました(笑) エヴァンジェリン姫のキャラクター性とギャグセンスは、パタリロを下敷きにしていると思われますが、愛すべき姫君であり、物語は意外や硬派なテーマ性のある感動作でした。

「マリオネット・シリーズ」は、主人公が金髪の少年貴族と、有色人種の少年の二人組だったので、『風と木の詩』トリビュートなのは明らかですが、ボーイズラブ作品ではありませんでした。年上の女性とのラブシーンがあり、笑いに流れないダークロマンの質を保っていました。

『ここはグリーンウッド』(那須雪絵)は、意図的にボーイズラブの要素を取り入れていましたが、あの程度なら1970年代にも見られたでしょう。むしろ懐かしいくらいだったかと思います。

『ツーリング・エクスプレス』(河惣益巳)と「羽根くんシリーズ」(野妻まゆみ・当時)だけが、物語の方向性を途中から曲げて行ったと思います。一般読者には「やっちまった」感を覚えた方もあったでしょう。

あのへんは、「それ言っちゃおしまい」という領域へ踏み込んでしまったので、連載を終了させたタイプじゃないかと思います。

忘れちゃいけない『パタリロ!』ですが、これは西村知美が絶賛したとおり、ミステリの要素と、落語・宝石・妖怪に関する薀蓄によって作品性を高めていたもので、美少年要素だけで長持ちしたわけではありません。

コミックスでは第5巻にあたる「スターダスト計画」は、映画化もされました。各種先行作品へのトリビュートを含みつつ、品の良いボーイズラブ要素と、乗りツッコミの笑いをマッチさせた、まとまりの良い佳品だと思います。

……あの時期の『花とゆめ』、姉妹誌の『LaLa』とも、「ポスト・ベルばら」「ポスト・風と木の詩」とでも言うべき難しい時代にあって、漫画のさまざまな可能性を試行錯誤する実験場のようなところだったように思います。

もし古本で手に入ったら、読んでみてください。熱いです。



2015/03/13

【昭和53年、里中満智子『晶子恋歌』講談社】


末に生まれし君なれば、親の情けはまさりしも。

子供の頃になぜか掲載誌を一回だけ買って読んだことがあったらしく、見開きいっぱいに『君死にたまふことなかれ』が掲げられ、その下で兵隊さんが倒れているという頁が鮮烈に記憶に残っていたのを思い出したので、取り寄せてみました。

行かずして古本が買えるネット時代は有難い限りです。再読して間然するところのない美しい傑作でした。

思えば子供心にも、晶子の皮肉の痛烈さと心痛の深さ、それを描く漫画家の技量と心意気に感じ入ったものでした。


【漫画の詩心。】

あらためまして、明治の女流歌人・与謝野晶子の伝記を描いた漫画作品です。

ほぼ全ての頁が晶子の目線から、彼女の独白を多用して、純文学の一種としての漫画という体裁を取っており、根が誠実だからこそ不倫に走るという人間性を、漫画家自身が真摯な姿勢をもって再構築しています。清く正しく官能的です。

キャラクターの顔が非現実的かつ見分けにくい典型的な少女漫画ですが、1970年代らしい描線の流麗さがあり、絵柄そのものが叙情性を含んでいます。目の保養です。

コマ割はシンプルで、展開が早く、台詞はワンセンテンスが短く、語呂の良さがあって、じつに気持ちよく読めます。

この頃の女流漫画の台詞には、詩心があったと思います。

江戸~鎌倉期の女流文学というのは殆どないわけで、近代女流歌人と平安女房文学は直結しているでしょう。そのことに、1970年代の自立した女性であった創作者たちも共感し、よく勉強し、末流につらなることに誇りを抱いたのでしょう。


【非少女漫画。】

初出は講談社『別冊少女フレンド』昭和53(西暦1978)年3~5月号。

作者は昭和39(西暦1964)年、第一回講談社新人まんが賞に入選して世に出ました。すでにこの道14年のベテランです。単行本カバー見返し(昭和56年第5刷)に印刷された作者紹介に誕生年は記されていませんが、少なくとも、1978年の時点で未成年ということはありません。

なぜ年齢が問題かというと、初出誌が「少女」フレンドであるにもかかわらず、描いている人は成人であり、内容は「女性が不倫した際の心構え」といったものであるからです。入籍前の同衾も、一度ならず丁寧に描かれています。

当時すでに少女誌が「少女」を名乗りながら、事実上ヤングアダルトの読むものになっていたのでしょう。

入籍前の男女同衾は、さかのぼること5年も前に池田理代子『ベルサイユのばら』が感動的に描いています。それは晶子がくらったような「ふしだら」とか、発禁が妥当とかいった非難を浴びなかったはずです。

『恋歌』カバー見返しには、作者の趣味として「刀の鍔のコレクション」ともあります。

……精巧な美術品であることは認めますが、あまり女性的な趣味とはいえないはずです。

好きなものはコーヒーともあります。漫画家が何を飲もうが、なぜそんなことをわざわざ書くのか。

缶コーヒーに男性の顔が描かれるとともに、「違いの分かる男」をキャッチフレーズにしていたインスタントコーヒーもあったくらいで、コーヒーとは男性的のものでした。

男顔負けのウーマンリブ女性が、最初期の自立女性であった歌人を紹介した。そういう意味だと思われます。


【女の意気地。】

じつは、強い女性として描かれているのは、晶子ばかりではありません。

鉄幹のダメ男ぶりは詳細に描かれており、その正妻が「わたしにはあなたが必要ではありません」と明言して彼の手を振り払うのは、カッコいい場面です。良人の道楽ともいえる雑誌発行に苦労させられてきた彼女には、合理的で正当な怒りがあり、悲しみがあります。

また、彼女を女主人として尊敬し続ける下働きの女性が、晶子を後添えとして認めることができず、職を辞していくというのも、この女性なりの意地を通した姿です。

晶子の娘時代の友人でもあった女性が、鉄幹への恋を諦め、親の意を汲んで他所へ嫁いだのも、本人は自分を「弱い女」と表現しましたが、諦めるという強さを発揮したのです。

すでに女流漫画は、成人した女性が、晶子と同じように、女の誇りと思いのたけを表現する分野となっていたのでした。


【夢と結婚。】

以下、あくまで里中漫画に描かれた晶子について。

晶子は実家の和菓子店で帳場を守りながら王朝文学に親しみ、未経験な恋を詩(短歌)の形で表現します。

父親は放埓な実体験を基にしていると勘違いして彼女を叱りつけますが、彼女および理解ある弟は「夢」の中の恋を描いたものであって、それが新時代の文学であると主張します。

今の人は平気で「妄想」なんて言葉を使っちゃいますが、昔は性愛の描写にも「夢」という美しい言葉を使ったのです。

で、晶子はそれができるなら、嫁に行っても家事のかたわら夢を見続けることはできたはずです。良人の理解があれば、それを表現し、出版することも可能だったでしょう。

本当いうと「芸術に理解ある男性のところへ嫁に行きたい」という気持ちなんですが、そういう相手はなかなか見つからないということと、創作(空想)を続けたいことと、帳場を守るのは退屈だということが混同されています。


【創作と実務。】

じつは、ものを書くということは、それ以外には何もしない・働かないということを意味する必要はありません。

たとえ夢かなって理想の芸術家に嫁ぐことができても、それならそれで彼のための家事育児には忙殺されるのです。

王朝歌人というものは、貴族階級だったので、自分自身の衣食住には手を焼かなかったわけですが、自分より高位の女性にかしづいていたので、衣類のお世話をしたり、退屈な儀式に出たりはしていたのです。

日本では作家として身を立てるということは、連載を持たされるということで、だから作家(漫画家)は他に手が回らないほど忙しいのですが、これはヤマザキマリによれば異常事態なんだそうです。

海外では「オックスフォードの教授にして幻想作家」ということがあるはずです。天文学者にして空想科学作家ということもあるはずです。本業は新聞記者という作家も多いように思われます。

本業のかたわら、バカンスを利用して原稿をまとめ、友人のやっている出版社へ送って、対価を得る。評判が良くて、印税契約がしっかりしていれば、次回作を書かなくても、増刷がかかる限り収入を得られ続けます。

それで良いはずなのです。

芭蕉の頃から、歌人・俳人といった人々は、各地方で「庄屋さん」として農作物の収穫を監督したり、市街地で大店を構えたりしていた人々であったはずです。

晶子も和菓子店経営のかたわら、夢をまとめた歌集をときどき出版するということで、問題ないはずなのです。

問題があるとしたら、「ふしだらな女主人の店では買い物したくない」という客がいることです。いなければ良いのです。

いたとしても、それを意に介さない若い女性客が、甘味とともに女主人の発行する同人雑誌を買いに来て、文学サロンを形成するということであっても良いわけです。若い女性客にとって和菓子が旧時代のものと感じられたら、洋菓子に挑戦しても良いはずです。

実際にそうやって業態を変えてきた店もあるでしょう。これがダメだったとしたら、まだ女性客にそれほどの購買力がなかったという事情、また晶子自身の商才の程度といったことが関係していたのかもしれません。

晶子は「女だから大学へ進ませてもらえない」と言いますが、女性も師範学校へ行って女学校の先生になることはできました。彼女が師範学校へも行かせてもらえなかったなら、店を手伝うべきと考えられていたからで、女であることとは別の問題です。

商家の子として家業を手伝うべきとされることは、男性も同じです。

もし女学校の先生になっていれば、生徒を集めて自ら同人雑誌を主宰することもできたでしょう。

その内容が「ふしだら」であれば、解雇されるかもしれません。樋口一葉や、後の吉屋信子のようなものなら、たぶん解雇されないでしょう。


【創作者の性倫理。】

とすると、ことは女だてらに物書きであることではなく、その内容です。性倫理を問われたのは晶子ばかりではなく、鉄幹もです。

ふしだらなことを書くと、他の職業と両立しにくいので、ふしだらな表現を芸術であると言いたい人は、貧乏覚悟で文筆に専念するほかないということになります。

現代では、これを逆転させて「ふしだら上等。売れるんだからいいじゃん」という言い方をしますが、他の職業と両立しにくいことは今も同じです。


【女性の性倫理。】

かりに芸術を理解する男性を良人に得たとして、その後でたとえば青い眼のチャリネ役者に一目惚れし、「彼と手に手を取って逃げる」といったロマンスばかり出版すれば、どうでしょう。

良人自身は「夢の表現」として理解してくれるかもしれません。良人のほうでも未成年の遊女と心中するなどというロマンスばかり書いているかもしれません。

世間から見ると、変わった夫婦です。鼻白む人も多いかもしれません。

こう考えると、晶子が高く評価されたのは、良人への性愛を題材としたからです。

また自分で商才を発揮したのではなく、良人の紹介によって自費出版できたという、夫婦二人三脚の美徳を発揮したからで、文才と主婦業を両立させた稀有な成功例として語り伝えられることになったのでしょう。

今でこそ、主婦にしてロマンス作家という人も珍しくないでしょうが、情熱的で奔放と言われがちな晶子にして、じつは真の評価は貞淑さに与えられていたということができそうです。


【不倫の自尊心。】

晶子は念願かなって鉄幹と結ばれた夜の明けた朝に、いきなり彼の本性に気づかされます。

そのわがままぶりを「母親のように大きな心で愛していこう」と決意しますが、読者の中には「意味わかんない」という人がいても不思議ではありません。浮気性のダメ男を許す理由は何か。

鉄幹自身がまじめな人だったら、姑息な手段で若い女を呼び出すこともなかったわけで、彼のダメっぷりを認めないことには、晶子自身の恋が成就できないからです。

よく考えると、共依存ってやつです。

日本が列強に対抗していこうという時代を背景にすると、若者らしい情熱と文学への夢を貫こうとする姿勢は、誇らかで勇気あるものに見えます。

これが日露戦争後の(私小説の)時代を背景にすると矮小化されて、田村俊子の『木乃伊の口紅』になります。

さらに大東亜戦争後に文化が大きく変わる時代になると、前時代や、戦禍を経験しなかった西欧に残った古城(を舞台にしたフランス映画)などといったものへの憧れが生じて、森茉莉になります。


【韻文と散文。】

晶子の描いたものは、一般女性にとっては夢のような恋の現実であって、夢ではありません。良人とともに味わう生々しい性欲であり、嫉妬です。

本人が若い頃に「夢を描くのが新時代の芸術」と言っていたのなら、芸術論が途中ですり替わったことになります。

現実を、いかに美しく表現するか。本当の恋と嫉妬の苦しみの表現を、いかに歌として成り立たせるか。

苦しみを表現する手段としては、品のない常套句をつらねて浮気性の良人を悪罵するということでもよいのですが、それでは短歌作品として評価されません。

薔薇の花の赤さを、心の血の鮮やかさを、いかに詠うか。具体的には、どのような単語を選ぶか。どのようなリズムを持たせるか。

現実を描く言葉の「粒立ち」をピアノの音のように整えるのが、短歌であったり、俳句であったり、詩であったりするのでしょう。

対して散文は、淡々と「庭に薔薇が咲いた」といえば良いことになります。そこから何が起きたのか。鳥に食われたのか。花泥棒をつかまえてみたら、かねてより意中の少女だったのか。じつは借金取りが彼女を追いかけていたのか。

冷静に考えると、そこに花が咲いている以外には何も起きていないのが詩です。小説は、それではなかなか済みません。

「小説の生命は俗なる所にあり」と書いたのは永井荷風でした。小説を絵で語ったのが漫画ですから、漫画の生命も俗なるところにあります。

石ノ森章太郎は、漫画を詩にしようとしたと思いますが、漫画道の主脈は俗なるところを堅持したのでしょう。


【終章。】

恋の表現をめぐって世間と闘い続けた晶子の反骨精神は、ついに菊の御紋へ皮肉を投げつけるに至ります。

これにて彼女は性愛に赤裸々なだけの痴女ではなかったことが証明されたことになります。すごく意地の悪い言い方をしてしまうと、彼女の成功は弟さんの犠牲の上に立っています。

この後、第一次大戦を機に、男性が減ったことを受けて、女性の「社会進出」が始まります。

良人と世間に泣かされていた晶子も、『君死にたまふことなかれ』の発表後は、毅然として自らの人生を総括する一言を放ちます。

実際に鉄幹のもとへ走ることがなければ、夢の恋を描き続けたとしても「花の色が違って」いた。

晶子の言うべきことは、ここに尽きてしまったわけで、最終頁は唐突に鉄幹の独擅場となります。彼は独白によって、エピローグを担当したわけです。

わずか三回の連載に凝縮された「物語」の起承転結が見事です。

漫画が文学の裏打ちを持ち、語り方における品格を有していた頃が偲ばれます。


【漫画家の自尊心。】

この時代の多くの女流漫画家は、二十代後半から三十代前半の結婚・出産適齢期にして独身だったわけで、親の言いなりの結婚を拒否して芸術を求めた歌人は、婦徳ならぬ新時代の女性道というか、女の花道というか、そういうものの先輩でした。

その姿をあまさず描くにあたって、未婚の同衾場面を「ふしだら」とか言われちゃ困るわけで、この女性における性倫理の打破と、その表現の自由を求める心において、主人公と作家が一致しており、その誠実さが読む人の心を打つのです。

でも実際に漫画家が不倫に走るとは限りません。読者へおすすめする意図もないでしょう。

いっぽうで、晶子自身が称賛されたのは、夢を夢で終わらせなかったからです。彼女の反骨精神は本物だった、男顔負けだというわけです。

この「夢」と現実を一致させるべきである、いつか必ず一致するものであるという意識は、今も受け継がれており、創作者の足枷となることもあります。


2015/07/13

【女流メンズ漫画、ネオテニープライド。】


高口里純の漫画作品『伯爵とよばれた男』に印象的なエピソードがあって……

老いを感じ始めた大女優が「世間から忘れられる前に死にたい」というので、それまでいじめていた若手女優へ自分自身のサツガイを命令するのです。

自殺幇助としての嘱託殺人。

彼女の謎の急死は、大女優らしいドラマチックなものとして華々しく報じられ、記録と記憶に残りました。若手のほうは彼女の生前の推薦によって、次の主役の座を得て、新しい銀幕の女王となりました。

神と人をあざむく恐ろしい取引の全てに「伯爵とよばれた男」が気づいていて、黙っている。

これ、若手自身を主人公に「私は何ものをも恐れずに生きていく。それが女優の道」というふうに言わせて幕を引けば、レディコミになるんですが、伯爵あるがゆえに、分類不能な作品になります。

あえて言えば、少女を主人公にした漫画が少女漫画で、成人女性を主人公にした漫画がレディースコミックなら、成人男性を主人公にしているので、メンズコミックです。

でも、そういうと『ゴルゴ13』や『ルパン三世』の仲間みたいです。実際にはそうでもないので、不思議なカテゴリです。

テーマとしては男性タイトルロールの活躍ではなく、女性の生き様なんだけれども、女性である漫画家自身が、女性の生き様の観察者・伝記作者としての男性キャラクターを必要としているわけです。

読者は、カッコいい男性の眼を通じて「女性の人生は悲しいものだ」というふうに感得する。

これは女性の人生の客体化であり、「イメージ消費」です。

これは池田悦子原作『悪魔の花嫁』でも見られる構図です。

高口には、同じ構図で男性の弁護士を観察者とした『ホテル』という作品もあったと思います。

久掛彦見の初期にも、同様に男性キャラクターの眼から見た「女は怖い」という話がありました。

これは少女の意識ではありません。成人した女流漫画家・原作者自身の意識です。なぜか。

彼女たち自身は、女性として生きていないからです。

漫画を描いたり、原作を考えたりする才能によって、男性中心の出版業界から「お前さん見どころがあるよ」と認められ、一等兵に取り立てられた格好です。名誉男性です。

それが「二等兵って可哀想」というわけです。

女優は物語を構築する側ではなく、自分自身を見世物として、使い捨てにされる側です。

男を待ち続ける女、他人の財産によって生きようとする女も同様に悲しい存在とされます。

悲しいという以上、それを書いたり読んだりする人自身は「こうはなりたくない」と思うわけです。

つまり名誉男性のナルシシズム表現は「悲しい女」ではなく、「伯爵とよばれた男」、あるいは「人間にも神にもなれない男」です。

里純、彦見といったペンネームも男性的といえるでしょう。

ここまでは、だからどうだってことはありません。創作物が都合の良いナルシシズム表現であり、逃避の手段でもあることは、男性が書いた場合も同様です。

さァここで、フェミニズムは何を主張すべきか?

「全ての日本人女性を一等兵に取り立て、二等兵として移民を入れるべきです」?

それとも「女性自身の手で、二等兵をカッコ良く描くべきです」?

じつは後者の考え方を取れば、金髪グラマー女優に対して、ネオテニーの日本人女性のほうが美しいという、現状のAKB系統の大流行こそ、日本フェミニズムの勝利なのであって……

だからこそ「それに共感できないBL派(擬似男性ナルシシズム派)は可哀想」という考え方が生まれてくるわけです。

ウーマンリブと言われた1960年代末くらいから、1980年代前半くらいまで、擬似男性的表現は「一部学識女性の自由の象徴」として称賛されたはずなんですが、その後に女性の大部分の自由が伸張したからこそ、価値観がひっくり返ったのです。

オスカル・フランソワは、ロベスピエールたち思想家が舌を巻くほどのラテン語を駆使し、軍隊を指揮したんですが、その後の時代には……

男性好みの妹趣味と、二十代後半に達した成人が「女の子」を詐称する若作り趣味が、意外や一致しちゃったのです。

だから「ダメな娘」という考え方のほうが歴史が浅いのです。

だから、BL派(擬似男性ナルシシズム派)について、偉大なフェミニズムという主張と、ダメ娘という主張が並存して、混乱した印象を生むわけです。

BL周辺が、(もともと単なる創作物なのに)常に騒がしいと感じられる所以です。