2015/05/29

【同人むかしばなし1 ~そもそもオタクとは。】


1980年代初頭、女子小学生は「大人になってもアニメを見る人のことを、オタクっていうんだって」と恐ろしい都市伝説かのように囁き合っていました……(実話)

たしか「アニメ」って言ったと思います。もう「テレビまんが」ではなかったと思います。


【アイドルオタク。】

最近どこかで「アイドルオタクの風体がまずいから、俺までアイドルファンと言っただけで白い目で見られる」というクレームを読みました。

アイドルオタクへ向かって「もっと小奇麗にしろ」と言いたいのか、世間様へ向かって「外見で差別すんな」と言いたいのか判然としませんが、たぶん両方です。

それにつけても「オタクって実在アイドルファンのことじゃなかったよな」と思った次第です。


【大人のアニメファン。】

冷静に考えると、アニメ番組を統括するプロデューサー・監督たちは50代の大人です。彼らは仕上がった作品を「見る」に決まってるんですが、小学生の言ってるのは、そういうことじゃありません。

高校の制服を着た人は「高校生のおにいさん」でしょうから、この場合の大人とは、私服で歩いてる大学生です。


【アニメのターゲット。】

もともと文芸の世界では、フランケンシュタインも怪盗も、大人が大人に読んでもらうつもりで書いたものでした。

いっぽうで、絵本の主人公は子どもか小動物。学童向け漫画の主人公は学童です。

いつの頃からか、子どもを創作物の消費者と見定め、彼らに近しい年齢の人物を主人公に据えてやるという技法が発達したのです。たぶん18世紀頃の「子どもの発見」ということと関わりがあるのでしょう。

ディズニーが世界初の長編アニメ映画を発表したのが1937年。白雪姫は家事が身についたハイティーン女性で、ボーイフレンドを見つけると、そのまま結婚します。

ディズニーは、最初から「花嫁修業の合間にお父様かボーイフレンドに頼んで“活動”へ連れて行ってもらう」という女性をターゲットにしていたのかもしれません。

それは当時の実写映画が成人男性向けの娯楽だったことに対する「すきま産業」という位置取りだったのかもしれません。


【日本のアニメファン。】

日本でテレビ番組としてのアニメ作品が公開されたのが1963年。アニメーションという技術上の試みとしては、もっと早くから存在したようですが、とりあえず商業的成功例に話をしぼります。

当時すでに10歳に達していた人は、漫画(の文字)を読むことができたわけですが、漫画に替わる新しい娯楽として、アニメに注目したでしょう。

1953年生まれの彼らがハイティーンに達する1960年代末から、テレビアニメには脚の長いハイティーンが主人公として登場するようになります。

アニメ番組を制作しているのは大人です。当時の大人が、ハイティーンをアニメの消費者として見定めたのです。

見せられるほうは、案外なほど素直なものです。身近な大人には反発するくせに、テレビを通して娯楽を与えてくれる大人には従順なのです。

学童期からアニメを与えられ続けてきたハイティーンが、アニメとして描かれた改造車レースや、悪漢退治や、宇宙戦争を我がことのように応援したのは当然でしょう。

同時代の大人が、比較的高い料金を支払って、スパイ映画などを見に行っている横で、若者は在宅で無料放映のテレビアニメによって、似たような「美女とアクション」という物語を享受していたわけです。

この「手近ですませる」感じだけは、今もアニメファンから払拭することはできません。


【SFファン。】

「SF御三家」の登場は、1950年代ですから、これをハイティーンとして歓迎した人は、1970年代には40代の大人になっています。

彼らから新興勢力であるアニメ派を見ると「あれのどこがSFだ、今どきの若いもんは」といったところだったでしょうか。


【語源。】

オタクって、他人へ話しかける時に「貴様」とか「お前」とか「あんた」とか「てめェ」とか「この野郎」とかじゃなくて「お宅」っていうことに由来していたはずです。

この言葉遣いは、大人びているとも言えるし、女性的とも言えます。粗暴というよりは、知的で礼儀正しいとも言えます。

もとをただすと、SF小説を読みこなす人々が、仲間同士で集まった時「この野郎、どっから来やがった」ではなくて、「失礼ですが、お宅はどちらから?」なんて言い合っていたんじゃないでしょうか。

もっと元をただすと、純文学をこころざす人々が、そのようであったはずです。

若者が大人びた言葉を使うということは、親がそのようであったか、学問・技芸の先輩がそのようである時でしょう。息子が「お宅はどちらから?」というなら、両親が粗暴な人々であったとは思われません。

おそらく、中流以上の裕福な家庭に育ち、その援助のもとに上京・進学した大学生。また、その師匠であり、同様な出自である英文学者にとって、むしろ普通の言葉遣いだったんじゃないでしょうか。

渡航も難しい時代に、自分で海外へ(英語で)連絡を取って、SF専門誌を取り寄せたり、原作者へファンレターを書いたり、自分で翻訳出版したりといった人々が、日本SFの興隆を支えてきたはずです。


【知的な無頼漢。】

しかもSFというのは、文壇に歓迎されたという分野ではありません。今なお近代文学史の中心に位置づけられ、大学入試に出るので勉強するという分野ではありません。

少し前に東京で『SF展』が開催された時、筒井康隆が「やっと認めてもらえたらしい」という皮肉な祝辞を寄せていたはずです。

1950年頃からプロ活動を開始した手塚のSF漫画は、当時の世人から「くだらない」と言われたそうですが、SF小説ならくだらなくないってこともなかったでしょう。

当時の大人は、本物の戦争を経験してきた人々で、敗戦から20年足らずで五輪招致を成し遂げた偉大な世代です。彼らへ向かって「未来はすばらしい」または「未来は大変なことになる」と言えば?

「今のあんた達はくだらない」および「今の社会は間違っている」という批判の意味を持ちます。

だから、今の社会を「汗水たらして」懸命に支える大人が、逆にSFへ対して「くだらない」と反撃するのは当然です。

「親の苦労も知らない若造が」っていうわけです。

となると、逆にSFをもてはやす人々というのは、確実に知的レベルは高いんですが、アカデミズムと一般社会に対しては斜に構えるというか、知的な無頼漢というか、冷笑的な独身貴族というか、そういう要素を持っていただろうと思います。

そのような先輩を見てきた大学生で、SF小説も読めば手塚漫画も読めばアニメも見るという新世代が、やっぱり同じように「お宅はどちらから?」と言っていたのが起源なんだろうと思います。

それが「美少女アニメに夢中になりすぎて引きこもり」という意味にすり替わってきたのなら……「コミケ」における世代交代を示していたのでしょう。

だから、1981年頃の流行語だったのです。


【他人が貼ったレッテル。】

いわゆるコミケに集まる人々が「オタク党」を旗揚げしたことはないと思います。

彼ら同士の日常会話で「ってか、俺たちオタクはさ~~」なんて言うこともないだろうと思います。

少し前まで「女のオタクを“やおい”と呼ぶ」という一般的理解があったかと思われますが、女性のコミケ参加者が「私達やおいってゆぅのは~~」なんてこともなかっただろうと思います。

彼らはなんというか……それほど、純朴ではありません。

それは、他人が貼ったレッテルです。「あの一箇所に集まって何かやってる連中はなんだ?」

最初から白い眼で見ながら、どこからか「ああいう連中は、いい若いもんがお互いのことを“お宅、お宅”と言っている」「昼間からテレビまんがばかり観ているらしい」「どっかおかしいんじゃない?」

といった具合に噂が広がるわけです。

それは当然、彼らの人数が増えて、人目に立つようになったこと、なかんずくイベント来場者が会場キャパを超えて行列する姿が見かけられるようになってからのことでしょう。

そこには、1960年代後半からの多子時代の出生者の成長という要素が関わっているのだろうと思います。


【二者択一。】

昔の「サブカル論」(の一部であるオタク論・やおい論)というものは、その存在が問題視されるようになったのを受けて、すでに「ああいう連中は一般人とは違う」という区分ができていることを前提に……

「ああいう若者はですね」というふうに解説を始めるので、他との違いを強調するほうへ向かいがちで、よくよく考えると地続きであるということが、あんまり言われないものです。

かつて「究極の選択」というクイズのようなものが流行ったことがありました。

冷戦時代の日本人は、つねに「アメリカか、ソ連か」という究極の二者択一にさらされていたといっても良いでしょう。

違いを強調すること、どっちがマシかと問いかける(自問自答する)ことが流行だったのです。

社会学者が注目しなければならないとしたら、表現技術の多様化の必然として生じた若者の新しい流行ではなく、それにレッテルを貼って差別したがる社会のほうだったのかもしれません。


2015/05/29

【同人むかしばなし2 ~そもそも同人とは。】


世の中には、同人とは「個人誌」と呼ばれる自費出版物を「コミケ」と呼ばれる催事へ出展する人のことだと思い込んでいる人もいます。

「同人誌とはアニパロです」と書いてしまった人もいます。「アニパロはエロに決まっています」と思い込んでいる人もいます。

いずれも、1980年代以降のコミケしか知らない人です。その人自身が、アニパロに分類される個人誌と呼ばれるエロティックな自費出版物をお目当てにしていただけです。

同人とは、もともと同好会の会員のことです。イギリスのロイヤルアカデミーの会員も同人です。日本の能楽師も同門出身の人々は同人と称します。書道会の会員も同人と称します。日本酒同好会だって、隕石同好会だって、同人と称して良いのです。

同好会とは、こころざしを同じくする人々の集まりで、何かしらの経費をまかなうために、少しずつ会費を出し合うものです。会費によって出版される、作品発表や情報交換のための会報が、本来の同人誌です。尾崎紅葉がやっていたのも、与謝野鉄幹がやっていたのも、武者小路実篤がやっていたのも同人誌です。

個人誌という言葉は、それ自体が、もともとは同人誌だったことを示しています。複数の同人でやっていた中から、一人だけスピンアウトしたから「個人誌」です。その個人誌を指して、今なお同人誌という呼び方をするのが、混乱の元です。

コミケ参加者が、その得意とする作風が一般市民から非難を浴びやすいゆえに、みずから「コミケ派でございます」というふうに名乗らず、同人という一般名詞を隠語化して、自分たち専用の肩書きのように使っているのが、そもそもの原因です。アニメキャラクターの私物化と、一般名詞の私物化は、一脈通じているとも言えます。


【芸術の多義性。】

進学を機に上京した若者が、芸術に憧れて、絵を描いたり、詩を書いたり、劇団を結成したりといったことは、本当に昔からありました。

日本では芸術というものが、西洋人とおつきあいするための基礎教養として、学校を通じて与えられたので、政府ご推薦の「高尚」なものだと思われがちですが、あちらでは少なくともルネサンス以来、王侯貴族の嗜好に合わせて、美女や美少年の裸を描いていたものです。

少し前に、「アニメは文化だ」という言い方がありました。が、自然物に対して人間の作ったものは何でも文化なので、これでは何も言っていないに等しいです。本当に言いたいのは「アニメは芸術だ」でしょう。

ただし「芸術」というと、芸術のために脱ぐといったことが連想され、かえっていかがわしく感じられることもあります。これは日本だけのことではありません。もともと芸術という言葉は、多義的なのです。

いずれにしても、「芸」であり、「術」ですから、それ自体は腹の足しにならない創作活動や演技活動に心を集中させ、練習をくり返し、個性を追求することは、芸術といってよろしいのです。


【最後のアングラ。】

いわゆる「コミケ」に集まる人々は、アニメファンだと思われていますが、アニメ映画を自主制作している人々ではありません。その意味では「アニメ同人」ではありません。

同人誌即売会、またの名を「コミックマーケット」、直訳すれば漫画市場である通り、本来は漫画同人の集まりです。つまり、セル画を撮影するのではなく、紙に「コマ」を描く人々です。今ではパソコンで描いて、必要に応じて紙に印刷するんですが、結果的には同じことです。

彼らの作品は、互いに似ているから、個性を追求しているとは言えないでしょうか? 

でも、コミケ参加者全体が一つの大きな同好会の会員となり、リアリティ重視のアカデミズムに対して「大きな眼を描く」という流派の個性を追求しているとも言えます。

小説のほうも、文学賞などの権威筋が今なお自伝的小説に価値を認めることに対して、ひじょうに空想的なファンタジーだの、官能作品だのを書いているわけです。

それはそれで、芸術には違いないのです。


【コミケ派。】

俳句同人でも、写真同人でも、同人誌を持ち寄って即売するかぎり、「同人誌即売会」を称して良いはずですが……

漫画同人を中心とする同人誌即売会、略して「コミケ」として有名になったものは、1975年に初開催されたと言われています。学生運動の余韻が残る時代に、シラケ世代と呼ばれた若者たちが、シラケてばかりいないで、自分たちの最も面白いと思うことをやろうというわけで、漫画同人誌を売る模擬店の集合を立ち上げたのです。

漫画という表現技法自体の根は古く、戦前からコツコツと描き続けていた人もいたでしょう。

でも、いわゆるコミケに集まる人々の好んで描くものは、『のらくろ』や『フクちゃん』や『サザエさん』ふうの漫画ではありません。『フクちゃん』の原作者は「若い人がみんな自分の後について来ていると思っていたら、隣の山に手塚治虫という大将がいた」と述懐していました。

コミケは、もともと「SF大会」という組織から枝分かれしたと言われています。とすると、SF漫画を描く人々の集まりだったのでしょう。SF漫画の開祖は、もちろん手塚です。1950年代から営々として、手塚流のSF漫画を描くアマチュアが存在し、1975年までに一大勢力となっていたのでしょう。

1955年に10歳で手塚漫画の似顔絵を描くことから漫画修行を始めた人は、1975年には30歳。微妙なお年頃です。この時すでに「トキワ荘」組は、赫々たる名声を得ていたわけですが、いっぽうで、すでにアングラ芸術から足を洗えなくなったという人もいたのかもしれません。

すなわち、一般企業に新卒採用されることを自ら拒んで、芸道を歩み続けたものの、新人賞獲得に至らなければ、「しのぎ」のためにアダルト作品を手がけることは充分にあり得ます。それが「コミケ」に出品されれば、それを買う側も、同じ催事の参加者ですから、これは同業者の相互扶助です。

その後輩たちはというと、スポーツのように、企業におけるクラブ活動としての漫画チーム、あるいは地域社会に根づいた小中学生の習い事としての漫画チームというのは、あまり聞きませんから、やはり大学生・高校生の課外活動として行われているものが中心だったでしょう。

いずれにせよ、それは学園祭の続きのような気分でもあれば、「ペンは剣よりも強し」という反骨の気概も持っていたことでしょう。そこで自治の精神が尊重されたのは当然です。

そこで権力の一種であるマスメディアによって放映された番組を茶化すような作品が愛され、政治家が定めた法律とは違う価値観を代表するに至ったというのも、時代精神であるとともに、普遍的な若者精神の表れだったかと思います。


【特殊な漫画同人。】

尾崎紅葉や与謝野鉄幹の時代(以前)から、芸術をこころざす同人が出版界の青田なのは当たり前です。漫画出版界の青田が、漫画同人なのも当たり前です。ただし、漫画同人のすべてが巨眼派ではありませんし、アニパロ派でもありません。

じつは、現代のインターネット上で使用される若者言葉としての「同人」というのは、ごくせまい範囲の漫画同人活動、または小説同人活動を指しているのです。

素材をアニメ番組にしぼりこみ、テーマを特殊な性愛に限って、起承転結を定型化させた作品というものが、初心者にも模倣しやすいものだったので、数的優勢を生じ、本来の漫画同人を凌駕してしまったかのように見えるのですが、理念的な包含関係としては、あくまで「漫画同人⊇アニパロ同人」です。

ところで、先ほどから漫画市場の話をしているのに、ときどき「小説」という単語が出てくるのは、なぜでしょうか?


【漫画を売らない漫画市場。】

いわゆるアニパロは、最初からひじょうに上手いストーリー漫画が存在したというよりは、いわゆる「やおい」がひじょうに稚拙な漫画を描いている横で、小説のほうはすでに完成形に達していたという、アンバランスな発展ぶりが見られたような気がします。その次の段階として、小説の漫画化が試みられ、1985年頃に完成形に達したのです。

「漫画市場」は、1975年に始まった時には、全国の漫画同好会に号令したものでした。

当時の主宰者は、漫画という表現技法のいっそうの発展を願って、みずからプロ漫画作品の批評をものし、盛んに自費出版していたと伝えられます。少なくとも彼の念頭には、アニメも、小説も、なかったはずです。

そこへ、どうしたわけか「アニメを素材とした耽美派ふうの小説」という不思議なものが出品されてきて、一大勢力となったのです。

この事態の奇妙さに気づく人は、多くありません。



2015/05/29

【同人むかしばなし3 ~漫画と小説の混同。】

1975年末に、SF大会という組織からたもとを分かった主宰者が、全国に散在した漫画同好会に号令したことによって、同人誌即売会またの名をコミックマーケット、直訳すれば「漫画市場」、略して「コミケ」という催事が初開催されたそうです。

数ヵ月後の1976年春に、竹宮恵子の漫画作品『風と木の詩』が、小学館の発行する漫画雑誌『少女コミック』誌上で発表されました。

すると、アマチュア漫画家の集合体である「漫画市場」では、とつぜんテレビアニメを素材利用したアダルト小説が売られるようになった、というのが定説です。

短絡にもほどがあります。


【必要なのは定規です。】

小学館が発行し、輸送トラックへ載せて全国の少女の手元へ送った雑誌『少女コミック』を読んで感動した少女は……

次号の発行を心待ちにしながら、漫画の登場人物の似顔絵を描くことを手始めに、自分も漫画家になる夢をはぐくめばよろしいです。

必要なのは400字詰め原稿用紙ではなく、定規です。

「わたし、竹宮恵子を読んでたいへん感動したので、漫画家になんか絶対なりたくないから、アニメを見て小説を書くわ」ってのは、話がおかしいのです。

なぜ彼女は突然「わたし、テレビを見て小説を書かなくちゃ!」と思わなければならないのでしょうか。また、なぜ突然「わたし、コミケっていう所へ行ってみなくちゃ!」と思わなければならないのでしょうか。

そこは漫画同好会どうしの交流会であって、小説同人が行くところではありません。

もし身内に、漫画家を目指して自主制作にはげんでいるお兄さんがいれば、一緒に上京して「漫画市場」に参加することは自然です。でも、なぜそこで小説が売られているのでしょうか?

なぜ、あなたはアニメを見て小説を書こうと思うことができたのでしょうか?

あなたに小説の書き方を教えたのは誰でしょうか?

先輩の作品の真似をしたのなら、その先輩は誰の真似をしたのでしょうか?

二十四年組の真似をしても、小説は書けません。二十四年組が与えたのは「少年愛の美学」という主題です。それを絵ではなく文章にしてみようという発想は、どこから得られましたか?


【漫画のパロディ漫画。】

1975年、すでに手塚流漫画道の行き先を失って、アダルト専業になっていた同人(セミプロ)がいた可能性はあります。さらに、有名な漫画作品からパロディを発生させていた可能性もあります。

これは、同様に手塚漫画にあこがれて漫画道をこころざした「漫画市場」の参加者へ披露されれば、ひじょうに面白がってもらえたことでしょう。

アイディアとしては、シリアス作品のコメディ化にエロスの要素を加味した艶笑譚というのが、もっとも非日常的なイベント(お祭り)の気分にふさわしいように思われます。

でも、そういう作品は、原作漫画の登場人物の姿かたちをそのまま利用した「似顔絵の派生形」といったものだったはずです。世の中に物まね芸というものがあるように、上手に真似して描けることは一つの才能です。だからこそ、それは漫画でなければなりません。


【アニメと小説の混入。】

一体どこで、竹宮恵子とは縁もゆかりもないテレビオリジナルアニメが混入したのか。なぜ、小説の形態なのか。なぜ、それが「漫画市場」へ出品されたのか。

多くの「同人」が、1980年代に入ってから、すでに先輩が確立した技法を真似しただけなので、「みんな漫画家になりたかった」と弁解しながら、本人が出品していたのは小説だったという人まで出てくる始末です。

漫画が描けるということは、ちょっとイラストが描けることとは違います。

コマ運びとフキダシの配置を含めた構図の勉強をまったくせずに、小説ばかり書いていれば、漫画家としてスカウトしてもらえると思っていましたか?

2015/05/29

【同人むかしばなし4 ~愛、先史。】


いわゆる二次創作は、先に女性から始まって、後から男性が真似をしたという説があります。

でも、1976年に竹宮恵子が『風と木の詩』を発表するまで、すべての創作同人が「パロディ」という手法を封印し、じっと隠忍自重していたと考えるほうが不自然です。

明治20年に版権条例が施行されて以来、それが親告罪であり続けているのは、翻案・改変・引用といったことを禁止するのは不可能であり、意義もないことが理解されているからです。

1975年末に「コミケ」という催事が開催される以前には、アニメファンは存在しなかった、なんてこともありません。

もうずっと昔から、おそらく戦前から、小説を読めば小説から、映画を見れば映画から、漫画を読めば漫画から、白黒テレビで見たアニメから、さまざまなパロディが成立していたはずです。

1949年以来、三島もおれば澁澤もおり、足穂がおり、ヴィスコンティの映画があった以上、女性が「少年愛の美学」という主題を得るにも、1976年までのんびり待つ必要はありません。

交通網という意味においても、情報網という意味においても、インフラが整備されていなかった時代には、サークル間取引が成立せず、それぞれに3~5人くらいの「同人」が集まって、小説同好会・映画同好会・漫画同好会などとして活動していたのです。だから「同人誌」というのです。

版権条例というものは明治20年、旧著作権法は明治32年の施行ですから、当時の文芸同人(紅葉や鉄幹)も、プロ作家の作品を無断翻案しちゃいかんくらいのことはわきまえていたでしょう。

でも、たとえばビデオのダビングのように、個人使用の範囲内で複製することは、著作権法もこれを認めています。

個人使用の範囲内でなら、得手勝手な翻案をしても良いと明言した法律はありませんが、上述のようなわけで、翻案・改変によって新作を書くこと自体は、誰も止めようと思っていません。

書いてもいいが、自分のオリジナル作品のような顔をして公式発表することはできない。ひらたく言うと、自分の名前で売ることはできない。

「仲間に批評してもらうために、同人誌上でのみ発表する(会員以外の一般人には公開しない)」

この建前を崩すことはできません。だからこそ、肉筆回覧(大学ノート)や、小部数発行の会報は、パロディのアイディアの良い実験場だったことでしょう。

そこでは、たとえば有名キャラクター(映画俳優)の似顔絵を描いて、正月が近いから和服を着せてみたなどといった他愛ないアイディアから、ミステリ仕立てで後日談を書いてみたなどといった手の込んだものまで、すでに試されていた……かもしれません。

大好きな連載だからこそ、その最終回を自分で考えてみたいというのも、それ自体は悪気ではなく、熱烈なファン心理です。

いわゆる女性向けは、任意の二人の登場人物の人間関係に、ある種の決着をつけてやるもので、最終回を構想することの一種ともいえます。こうして二人は深く結ばれ、その後はずっと仲良く暮らしました。めでたしめでたし。

それが「コミケ」という催事に出品されるようになったから、互いに認識され、情報交換が深まり、面白いアイディアと今いちなアイディアの淘汰が行われ、一定の流派のようなものが形成されたわけです。

だから「すべてはコミケから始まった」という印象も間違いではないですが、必ずプレヒストリーがあるわけです。

コミケ以前には何もなかったと思うのは、紫式部以前には文章を書く人がいなかったというようなものであり、世阿弥以前に舞台へ立つ人はいなかったというようなものです。

個々のアニメファンに確かめてみれば「白黒放映時代の男の子が好きだった」とか「初のカラー放映アニメに出てきた女の子が好きだった」という人がいるわけです。

子どもがぬいぐるみを持ち歩くように、好きな相手と登校も一緒、宿題やるのも一緒、お風呂も一緒、寝るのも一緒と考えること自体は、べつに異常心理でもありません。

自分が宇宙のヒーローになったような気分を味わうのが、番組制作側の意図した鑑賞態度なら、逆に憧れの彼(女)を自分の学校の生徒として考えてみるというのは、面白い逆転劇にちがいありません。

2015/05/29

【同人むかしばなし5 ~アニパロ小説の起点。】


1970年代から1982年にかけて、いわゆるコミケで流行した、いわゆる二次創作の下敷きとなったアニメ番組は、いくつか挙げられていますが、いずれもテレビオリジナルです。つまり原作漫画の単行本がよく売れたので、数年後に動画化されたというものではありません。

1970年代の「漫画市場」に、漫画を原作にしていないテレビオリジナルアニメの関連小説が出品されたという話は、いかにも奇妙です。

これは、もともとアニメファンではない人が、アニメファンの好奇心を営利目的で自分本位に利用したものであって、ファンサービスでもなければ、ファン同士の交流でもなかったと主張する声があります。

「私自身が1989年に参加した時には、最初から金目だったから、昔の人もそうだったに違いない」と、言いたければ言っても良いです。ただし、この説には難点があります。


【作家と顧客の不在。】

1975年に全国の漫画同好会が集結したとき、もれなく小説同人とアニメファンを引き連れてきたということはないはずです。

招待状を受け取ったわけでもないのに、勝手に上京した小説同好会のメンバーが、同様に招待されてもいないアニメファンが早くもコスプレ姿で漫画市場を埋め尽くしたのを見て、「私こいつらを利用してかせいじゃおう!」と思うことは、この時点では不可能です。

そもそも、ガリ版刷りした藁半紙を手で折って、ホッチキス留めで100部がやっとという時代に、大きな利益は狙えません。


【極少数派。】

1979年に初放映されたテレビオリジナルアニメ『機動戦士ガンダム』のファンが、一万人ほども集まって監督を勇気づけたことが語り草になるくらいですから、それ以前のアニメファンの規模、集まり具合というのは、推して知るべしです。

1974年に初放映されたテレビオリジナルアニメ『宇宙戦艦ヤマト』は、1975年の秋に再放送されると、全国的ブームを巻き起こしたと伝えられますが、その映画化は、何度も公開されていながら、2001年の宮崎駿『千と千尋の神隠し』を上回る成績を挙げていないわけです。

ありていにいって、アニメファンなんて微々たるものだった時代があったのです。だからこそ、最近の隆盛ぶりが驚きをもって報道されるのです。

そして、コスプレした人々は、その姿を他人に撮影させて「一回いくら」で稼ごうとしたわけではありません。

コスプレする技量のない人は、アニメキャラクターの似顔絵を掲載した「同人誌」を、ガリ版刷りのホッチキス留めで発行したことでしょう。それを最初から何部発行したと思いますか? 箔押し表紙をつけて、三千部ですか?

せいぜい、50部。それが、おずおずと「漫画市場」に出品されたとしたら、なぜでしょうか。なぜアニメファンは、独自に「アニメマーケット」を立ち上げなかったのでしょうか?

漫画市場の真似をして、全国のアニメ同好会に檄文を飛ばそうにも、受け取る人がいなかったからと考えることができます。漫画同好会にそれが可能だったということは、前もって各団体代表の住所氏名が知られていた、つまり既に交流があったということです。

すなわち、1950年代以来の蓄積を誇る漫画同好会(の人脈)に対して、テレビオリジナルSFアニメのファンなんて、本当に東京の大学生の一部における、アングラ中のアングラ趣味でしかなかった時代があったのです。

いっぽうで、漫画市場の主宰者は「明日の漫画を考える批評雑誌」(漫画ではなく文章をまとめたもの)を熱心に発行し、自ら漫画市場へ出品していたそうですから、その横で、アニメファンが「明日のアニメを考える批評雑誌」を出品することは、わりと自然です。

最初の時点で、極少数派であることを自覚していたアニメ派が、なにも「漫画市場をエロい小説で乗っ取ってやるぜ」と考えていたわけではないことは、言えるだろうと思います。


【ループの起点。】

アニメ番組を知らない人が「自分の頭の中にインプットされていないキャラクター名を用いて小説を書いてみよう」と思うことはあり得ません。アニメ番組を知らない人は、小説を読まされても、それを「パロディである」と認識することができません。

「だから、エッチな小説を読めることだけが目的だったので、アニメファンじゃないって言ってるでしょ」というのでは、話が廻っています。

そもそも、おそらくはゲイ雑誌を参考に、同人作品を勝手に「過激」なものにしてしまったのは、1980年代の同人自身です。過激な翻案ものだから、公式発表できないから、公式発表できないような過激な翻案ものの発表場所にする。

無限ループを廻すことに決めてしまったのは、1980年代同人です。でも、アニパロ同人誌といえども、それほど過激でもないという時代があったのです。

だから、もっと前に進化が始まる「起点」があったはずです。誰かが最初に「アニメを小説の素材にすること」を思いついたはずです。


2015/05/30

【同人むかしばなし6 ~文芸サークルの並行進化。】


少なくとも二十四年組は「アニメ監督の翻案権を侵害させて頂きなさい」などとは言っていないはずです。

また、彼女たちとしては「漫画家になりたいなら、まじめに絵の勉強をしなさい」と言わざるを得ません。

なにもかも二十四年組のせいであるというのは、便宜的な説明、and/or 責任の押しつけです。


【漫画派の危機感?】

少年漫画は、ちばてつや『あしたのジョー』が学生運動のバリケードの中でまで愛読されたという時点で、いったん頂点をきわめてしまったといっても良いでしょう。

入れ違うように盛んになった、ハイティーンを対象としたテレビオリジナルアニメが面白いからこそ、熱心な漫画同人にとっては「漫画を食ってしまう新興勢力」と感じられ、茶化してやりたい対象となった可能性はあるかと思います。

漫画というのは、ポンチ絵というものもあった通り、もともと風刺をテーマにしているものです。

でも、それで生まれるのは、人気のあるアニメキャラクターの顔を、わざと下品に誇張して描いた漫画であるはずです。

漫画家が、アニメを茶化してやりたい一心で筆を折り、くだらない小説を書いて、それを招待してもいないアニメファンが読みに来て、やたら感動したので、自分でも書くようになった挙句に、アニメ番組そのものに関する詳細な解説と、独自編纂の用語集、声優インタビューまで併録した気合充分な「アニメ関連同人誌」を出品するようになった。

……これでは説得力がありません。

「同人誌とはアニパロです」または「アニメ関連といえばエロい個人誌です」と思い込んでいる人は、知らないだけですが、本当にアニメ番組のことを考えた同人誌(ファンクラブ会報)というものが、ちゃんとあったのです。


【俯瞰的イメージ。】

じつは、いわゆる「コミケ」の発展については、調べても「キャプ○やおい」が盛んになった1983年以降のことしか出てこないのが実情です。

それ以前に生じた組織の分裂については、ある程度あとづけることができますが……

「この世で最初にコミケへ出品されたアニメ二次創作はこれだ」という化石が出てこないのが、この地層です。

しかたがないので「当然、起きたであろうこと」をイメージしてみましょう。

広大なファンタジー世界の歴史をみずから構築する若い皆さんには、容易な作業のはずです。


【黄金の六年間の陰。】

コミケは、既述のとおり、漫画同好会の交流場所として、1975年末に初開催され、主宰者による漫画評論を享受しながら発展したものの……

すでに1981年には、最初のアニメブームを経験したという話があります。

このアニメブームとは、アニメ映画の自主制作者が上映会を開いて、第二の宮崎駿が誕生したという意味ではありません。

アニメを素材とした漫画・小説が大量出品され、購読希望者がつめかけて、おそらくは会場キャパを超え、最初の行列を形成したという意味でしょう。

主宰者が本来の漫画のいっそうの隆盛を願って評論活動に励んでいた「黄金の六年間」の陰で、アニメ「関連」勢力も確実に成長していたようです。

テレビオリジナルSFアニメのファンなんて、最初は極少数でした。だからこそ、一箇所に集中し、急激な勢いで情報交換を促進させたものでしょう。


【文芸サークルの並行進化。】

そもそも「パロディ」という技法そのものが、1976年まで発生しなかったと思う必要はありません。

鴎外もいれば、その娘もおり、三島もおり、澁澤もおり、足穂もおり、ヴィスコンティの映画があった以上、女性が「少年愛の美学」という現象に気づくにあたって、『風と木の詩』の発表年まで、のんびり待つ必要はありません。

竹宮をはじめ、漫画家自身がさまざまな文芸作品を読み、歴史を勉強し、その要素を組み合わせることによって、新しい漫画を構想したことは、彼女たちの作品そのものから明らかです。

ということは、同じ時代に、同じ文芸作品を読んで、それを漫画化しようと思わずに、すなおに小説の形で自主制作していた人々もいたことを疑う必要はないでしょう。

多分その人たちは、大学や高校の文芸サークルとして、美術部または漫画同好会の隣の部室で活動していたでしょう。挿絵を入れてもらったりもしていたかもしれません。

この人たちが、1972年くらいの時点で、漫画同好会から「最近のアニメは面白い。かっこいい男がいっぱい出てくる」という話を聞けば、わりと簡単に「耽美っぽいアニメ関連小説」が生まれちゃうのです。

つまり「耽美的な漫画の後から、劣化コピーとして耽美小説が生まれた」という奇妙な進化論ではなく……

もっと手前で分岐して、耽美派文芸の漫画化と、耽美派文芸の派生形としてのアニメ関連小説が、並行進化したという位置づけです。


【近代人の進化論好き。】

Aの次にBがきたという進化論は、ちょっと前まで支配的でした。動植物ばかりか、人間社会も「いつか資本主義が終わって共産主義になる」と信じられていたものです。

最近は「共存、住み分け」という考え方が受け入れられるようになって、クロマニョン人も現生人類と同時期に存在していたことが確認されました。

ここらで「竹宮恵子のせいで二次創作小説が生まれた」という珍説も、見直されると良いと思います。


【評価。】

SFとは現代社会の否定であり、SFを愛する若者は反骨的である、と既述しました。

コミケ初期の主宰者は、二十四年組を高く評価したと伝えられますが、彼女たちが女だてらにSFを描きこなしたからでしょう。

その一部が当時の女性にしては珍しく「性」の描写へ踏み込んだことも、一般常識への挑戦として、高く評価したことだろうと思います。

いっぽうで、SF漫画を高く評価する「漫画市場」へ出品された、SFでもなければ漫画でもない耽美的パロディ小説というのは、どう考えても「もぐり」の状態です。

それが発見されたとき「こういうのは竹宮先生のせいなのよ」と言っておけば、わりと通りが良かったんではないかな、と思われる次第です。


2015/05/30

【同人むかしばなし7 ~本来の耽美派。】


もともと耽美派というのは、19世紀末頃から20世紀半ば頃における、男性芸術家の流派のようなものです。

それは自然と人間性を破壊する産業革命・富国強兵の時代に背を向けて、詩的な語句を操り、過去の美術品を賛美し、遺跡の残る東方へ思いを馳せ、古代の奔放な性に憧れるといった要素を持っていました。

少年趣味ばかりでなく、少女趣味・妹趣味・人形趣味・屍体性愛・残虐趣味、近親姦や獣姦といった恐るべきものへの関心も、この人たちのものです。(作家にもよりますが。)

本人たちは産業革命後の近代市民として、電力の恩恵を受けて読書に励みながら、貴族が庶民を抑圧し、地下牢や鞭打刑が現役だった時代を夢見ていたわけです。(作品にもよりますが。)

東洋への憧れは、遠い外国に関する情報が入ってくるようになったこと・旅行が可能になった(=自国民の安全を保障してくれる軍隊が駐留している)ことに基づいているので、じつは侵略的膨張主義と二人三脚なのでした。

存在自体が皮肉であり、高度に知的なようでもあり、軍隊で出世できないタイプの独善のようでもある。

現代の「同人」の直接の祖先といって良いでしょう。


【耽美派の改作。】

なにも、アニメが発展するまで「パロディ」という手法そのものが開発されなかったと思う必要はありません。

まず、三島由紀夫のデビュー作が発表された段階(1949年)で、さまざまな改作が試みられたはずです。改作する人は男性であっても女性であっても構いません。

上手に書かれた小説であればあるほど、読者は我がことのように感じるものです。架空の人生を生きることは、創作物の重要な役割です。

いっぽうで、扇情的な興味から、特殊な性愛の描写だけを追及した人もいたでしょう。この時点では、当然ながら、まだ小説の形態を取っていたでしょう。

構想しただけで終わってしまった人。原稿用紙に清書して、出版社へ送ってみたが、回答を得られなかった人。当時の編集部へ大量の二番煎じが投稿されてきたであろうことは想像にかたくありません。

あるいは、5人くらいの文芸サークルで評価してもらって済ませた人。そんな仲間さえ得られず、ごく親しい友人との二人だけで、交換日記のようなものをやり取りしていた人。

いわゆるコミケが成立した後になって、同人というのはコミケに参加する人のことだと思い込んでしまった人は、本来の文芸サークル活動というものを知らないので、こういった活動をイメージすることさえできないのです。


2015/05/30

【同人むかしばなし8 ~耽美の死。】

「耽美が死んだ」というのは、1965年だったろうと思います。

文芸における耽美って、本来は、言葉そのものの魔術的な機能を磨き抜くってことだったはずです。

三島由紀夫が自信をもって、見事な比喩と情景描写に満ちた恋愛小説を書くことを続けていたら、その後の文芸の発展も違ったのかもしれませんが、言葉の耽美主義(によって俗世間受けすること)とは、神経をすり減らす作業なのかもしれません。

時代の寵児のようだった三島が大事件を起こした後には、文芸そのものが疑わしく感じられたことでしょう。1972年に入ると、社会は川端の訃報を聞くわけです。


【SF漫画と耽美派。】

ビッグネームを失い、純文学がすたれて、入れ違いに漫画の時代が来たかのように思いがちですが……

手塚が1951年に『鉄腕アトム』の連載を開始したときには、当然ながら地続きに「SF御三家」がいて、その友達には三島がいて、そのすぐ隣に澁澤龍彦がいて、その隣に野坂昭如がいて、1960年代に入ると一緒になって「サド裁判」とかやってました。

SFと耽美主義・ゴシックロマンといった分野は、時間軸で真逆を向いているようでありながら「ここではないどこか」を目指すという逃避性、または挑戦性の点で、よく似ているのです。

現代の同人界において「少年趣味」の意味で使用される「ショタ」という言葉は、第一義的には戦前の探偵小説に由来します。

探偵小説というのも、また空想的・怪奇的娯楽作品の一種であって、それを手がけた江戸川乱歩・谷崎潤一郎・夢野久作・小栗虫太郎などは、同時に耽美派・ゴシックロマン派であったといってもよいでしょう。

そしてゴシックロマンは、ラヴクラフト(またはダーレス)を通じて、宇宙と異次元へ直結していきます……

そしてまた、日本における言葉の耽美主義と宇宙への憧れの混淆の、最高の具現者を稲垣足穂としてもよいでしょうか。

彼はまた、中世以来の「衆道」を軽妙、かつ思い入れ深く詳述した『少年愛の美学』の著者でもありました。

(足穂『ヴィタ・マキニカリス』が鴎外『ヴィタ・セクスアリス』を意識していることも忘れちゃいけませんね。)


【大学生における混淆。】

当時の大学生は、男女を問わず、他に娯楽が少なかったこともあって、様々な作品を精力的に読んでは、模倣・改作に励んだことでしょう。

アニメ化されたことのないはずの、ナボコフの『ロリータ』という作品が、なぜアニメファンに知られているのか?

アニメが流行するよりも前から、SFも読めば純文学も読むという人々がいて、その後輩からそのまた後輩へ、連綿と語り伝えられてきたと考えることができるでしょう。

考えてみれば、かぐや姫というのは「想像を絶する美少女は、じつは宇宙人だった」という話です。

だったら、太陽神のような美青年が、日輪の馬車ではなく、UFOから降りてきても良さそうなものです。

あるいは、地球を脱出した人類が、異星で古代文明のような都市を築き、その宮殿でサド侯爵ふうの乱脈を繰りひろげ、その挿絵が手塚治虫の漫画そっくりである。

ありそうな話です。


【アダルト化。】

またいっぽうには、永井荷風と谷崎潤一郎をこよなく敬愛するくせに自分じゃポルノばかり書く団鬼六という男がいて、彼だけの責任でもありませんが、耽美という言葉はやがて換骨奪胎され、官能作品を表す隠語のようになってしまいました。

並行して、漫画のヤングアダルト化が進行していたかと思われます。

少年漫画というのは、名称からして「少年の心を表現している」と誤解されがちですが、描いている人は成人なのです。ちばてつや『あしたのジョー』は、学童向けとは言えません。

日本の漫画に暴力と性の要素が多いのは、それが(絵本や児童文学のように)職業的な自制心をもって学童向けに描かれたものではなく、子供に読ませることを口実に、描いているヤングアダルト自身を満足させるものになってしまったからです。


2015/05/30

【同人むかしばなし9 ~女流におけるSFの受容。】


手塚漫画は映画フィルム(アニメの絵コンテ)を踏襲しているので、何事も四角い枠の中におさめて描かれていました。

古い時代の少女漫画は、手塚流を踏襲していたので、四角い枠の中に人物が納まっていました。

新世代である大島弓子ふうの少女漫画における「コマ枠を無視した人物画と、その周囲に散りばめられた散文詩のような台詞」といった形式は、『少女クラブ』などに掲載されていた、絵入り読みものを直接に継承しているのだろうと思います。

小説や散文詩を書いては、自分で挿絵を入れる、あるいは絵の上手なお友達に描いてもらうといった趣味は、もうずいぶん前から女性の間に根づいていたのだろうと思います。

お金もなく、印刷所を訪ねる伝手もない時代、そのような作品(肉筆原稿)は、お友達と二人だけの秘密の宝物になったのかもしれません。


【女性によるSFとミステリーの受容。】

竹宮・萩尾の作風からいって、その後を追った女性の意識は「少女漫画を描きたかった」というよりも、「女だてらに、少年を主人公としたSF漫画を描きたかった」というのが本当でしょう。

いわば「女流少年漫画」です。手塚・石ノ森を愛読する人が、みずからの性別をかえりみず「ヒーローを描きたい」と思うことは自然です。

現代の同人界において、少年趣味の意味で用いられる「ショタ」という単語は、その語源説を真に受ければ、戦前の探偵小説、または初期のSF漫画作品、およびその動画化である白黒放映時代のアニメ作品に由来します。

でも、結局のところ、女性がSFをきちんと描いた例は少ないものです。探偵もまた、女性は憧れるだけで、本格ミステリを書いた例が少ないものです。

日本の文壇は、私小説を至高としており、女流純文学にも昔から生活苦を描いた作品が多いですから……

もっと空想的・冒険的な作品を男性が書いたものを読んで、ワクワクするという女性もいたのでしょうが、自分で再生産することができず、なんでも三島由紀夫ふうの不倫小説の文脈に落としてしまうという流派のようなものが、かなり早期から発生していたのかもしれません。


【ファンクラブ会報における混淆。】

小説の得意な学生は、いつの時代にも存在しましたが、大学生のアニメファンが決して多くはなかった時代に、「ウケ」を狙って、自分でも知らないキャラクター名を用いて小説を書いてみようという発想は、あり得ません。

CS再放送が存在せず、テレビシリーズのボックス販売など想像もつかず、そもそもビデオデッキが普及していなかった時代に、「書いてみよう」という発想は、当然ながら、オンタイムで番組を視聴した人からしか生まれません。

その目的は何でしょうか?

即売会成立以前には、大きな利益はあり得ません。一人で大学ノートに書いていたという人もいます。大学ノートを友達に読ませて「一回百円」と言えば、友達なくします。

それは、やっぱり、次週の放映日を待ちきれずに、物語の続きを予想したり、番外編を構想したりといった、心の自由から生まれたといってよいでしょう。

でなければ、アニメファンである同級生から話を聞いて、そのファン自身を楽しませてやろうと思った小説家志望者です。

自分自身はアニメに詳しくないけれども、お友達の主宰するファンクラブ会報へ耽美派小説を寄稿した人です。それをお友達が拒否しなかったのです。

「個人誌」という形態が成立したのは、1985年頃のことです。

それ以前には、今でいう二次創作であるところの絵入り小説と、放映回ごとの感想文、独自編纂の用語集や、物語の背景となった歴史的事実に関する考察まで併載した「同人誌」が存在したものです。

その寄稿者は複数でした。小説がうまい人、絵がうまい人、考察記事が書ける人、歴史を調べることが得意な人が集まっていたのです。

それは確かに、アニメ番組そのものの熱烈なファンによる会報でした。

この「他人から見ればふざけているとしか思えない耽美化」と「まともな考察記事」が両立してしまうファン心理は、経験した人じゃないと分からないことなのかもしれません。

2015/05/30

【同人むかしばなし10 ~SFファンによる淘汰。】


1975年以来の出品物として考えられるのは、手塚・石ノ森を見習ったオリジナルSF漫画。

それらを艶笑めかしたパロディ漫画。

漫画から派生した新しい表現の可能性を探る、アニメ批評誌。

その「おまけ」としてのパロディ漫画。

さらに、男性による創作物をセンチメンタルな不倫物語に改変してしまうことに慣れていた文芸サークルによる耽美派小説。

この中で、SFファンを最も「その発想はなかった」と驚愕させるものは、どれでしょうか?

最後のパターンです。

これだけは、どこをどう押してもSFファンの漫画家からは、直接には生まれてきません。小説を書きなれたチームの参加が、どうしても必要です。

【落差。】

1975年以来、さまざまなオリジナル作品・パロディ作品が出品されてきたであろう「漫画市場」において、その吟味と淘汰が行われたわけで、最終的に残ったものの備えていた「おかしみ」の最大の根拠は、原作である男性的な作品との落差そのものだったでしょう。

「昔話だと思ったら未来話だった」「未来のロボットには臭覚がない。が高性能センサーを備えている」「陰惨な吸血鬼だと思ったら美少年だった」「戦士だと思ったら女役だった」……

予想を裏切られた、固定観念を崩された、真逆であったという時に、最も面白く感じられるわけです。

思えばSFというのは「進歩の果てはばら色ではなく暗黒だった」「猿が人間より偉かった」「宇宙の果てまで行ったと思ったら地球だった」など、逆転の発想を駆使する分野です。

もとをたどると「大地の果てまで行ったと思ったら、お釈迦様の掌の上だった」なんていうところまで、行き着くのかもしれません。

世界観をひっくり返すという、SFの発想に慣れた人にとって、最も面白く感じられるものを提出し得た人々が、耽美的文芸サークルだったということになるでしょう。

どう考えても最初の時点では、女性の漫画市場参加者というのは、ごく素直に萩尾望都に憧れて、SF漫画を描きたいと思っていた人々だったはずです。

西谷祥子などが少女を主人公にしたSF漫画を描いていましたから、そのアマチュア版が出品されていたと考えるべきだろうと思います。

彼女たち自身が「漫画市場へ出品するために小説を書きましょう」と思う必要はありません。

勝手に小説を書いて出品してきた人々があって、それをSF派の漫画家志望者が見たとき、「やられた!」と思った……ので、次から同じアイディアを漫画にしてみたといったところでしょう。

くりかえしますが、SF・ミステリ・耽美派の融合は、1950年代には生じ得るのです。必要なのは、出品できる場所だけだったのです。

このように考えてくると、ヤマトから突然パロディの嵐が吹き出したというよりは、コミケそのものの開催と時期的に一致したのがヤマトだったので、「すべてはコミケにおけるヤマト関連同人誌から始まった」という印象になりやすいのでしょう。