2014/09/04

【やおい論の禍根。】

「私がこんなふうになってしまったのは、お母さんのせいだ。だって、BLは家庭不和に悩む女の子が『はまる』分野だもの」

いまだにこのように思い込む女性を生んだことが、かつての「やおい論」の残した禍根ではないかと思っている。

さまざまな徴候からして、二次創作BLというのは、意気盛んな女子学生または女子高生の間から、男子学生の一部を夢中にさせる「男のロマン」へ切り返すジョークとして始まった。

小説や漫画を自分で書いてみようと思うほどの人は「漢字が苦手」「じっと座っているのが苦手」というタイプではない。どちらかといえば、優等生のはずだ。

それが舌鋒鋭いところを披露したというわけだが、だからといって、その背景に残酷な成育史を設定する必要はない。

女子学生たるもの、せっかく進学したのだから「早く地元へ帰って、お嫁さんになりたいわ。その後は新刊書も購入せず、コンサートへも海外へも行かないのよ」とは言うまい。

医師免許・教員免許・学芸員資格・国家公務員・研究職……さまざまな夢を抱き、都会における自立・栄達を求めていただろう。ロールモデルとしては赤松良子氏がいたと言えばいいと思う。

「卒業後は社会に出て、バリバリ働くわ」という、その期間は25歳までだったか、30歳までだったか、時代により、個人により違っただろうが、ともかく「当面の間は、お母さんのような、ただの主婦にはならない」という覚悟と自負があっただろう。

だからといって、母親から虐待を受け、家庭不和を生じ、実家を飛び出してきたとは限らない。多くが、学費と下宿費を保護者に負担してもらっていただろう。

そもそも母親の「私は無理だったけど、あんたは女一人で頑張りなさい」という理解の元に上京してきたかもしれないし、夏休みには実家へ帰って先祖の墓に手を合わせただろうし、高校生であれば、即売会の朝には母親の支度してくれた朝ご飯を食べ、小遣いをもらって、「行ってきま~~す」と言っただろう。

思うに、ゲイフォビアと、1980年代の「荒れる中高生」という印象に大人のほうが心急かされて、「容易ならざる心の闇をかかえた少女たち」というイメージが描かれた。

それが「産まない性に感情移入している」といった式の分析を生んだ。

そこからは、自信を喪失した哀れな姿が浮かんでくるが、実像とは乖離している。

実像は(人にもよるが)愛らしいドレスを流行させ、みずから印刷所と交渉し、大胆にもフルカラー同人誌を生んでいった。

いわゆる普通のOLさんらしい身なりとは、もっと乖離している。

二次創作者、なかんずく官能作品の作者は、表立って活動しない。公表を前提にインタビューに応じたり、数万件のアンケート回収に協力を約束してくれることも少ない。代表機関のようなものも存在しない。

まがりなりにも社会学者を名のる人々が、本来の分析手法を適用せず、漏れ聞こえてくる憶測を基に、あらぬ「論」を展開したことは、日本の社会学・フェミニズム、ひいてはアカデミズムの信用を失墜させたんじゃないか。

今でもちょっと、そのように危惧している。


2015/04/16

【BLとGLBT① ~悪役ゲイキャラクター。】



または悪役トランスキャラクター。

女装・化粧している and/or 女言葉で喋る男性キャラクター、およびその二人組が地球の平和を侵略するので……

若い男女、またはファミリーが迎撃し、撃退する。

こういうプロットは、1970~90年代前半のアニメで見られ、その後パタッと無くなりました。

じつは1990年代半ばに、ゲイタウンから「女性が(創作物をつうじて)男色に関心を抱き、わざわざゲイタウンまで押しかけては、プライベートな質問や揶揄をくり返す」という現象について、激烈なクレーム文書が発されたという話があります。

寡聞にして、テレビ番組にも明確なクレームが発されたという話は、個人的には聞いていません。でも「配慮」がなされた可能性はあると思っています。

「ゲイは健全な男女の結びつき(による平和な社会)を破壊する侵略者である」

「オカマは気持ち悪いから、やっつけてやると清々する」

こういう考え方に基づく創作物が、若い視聴者に偏見と暴力の正当化を植えつければ、ゲイは生命の危険にもさらされるのです。

それを「怖い」と思わずに、笑いながら見ていられる人は、やはり異性愛者であり、自分を「数が多いから正しい」と信じている多数決信奉者であり、少数派の気持ちに関する想像力が足りないという他ありません。

で、美少女戦隊アニメは、シリーズ化されて1990年代後半以降も人気を継続しましたが、悪役は大人の女性、または「ふつう」の男性になりました。

ファミリーアニメは、ゲイタウンの住人が“正義の味方”として、ファミリーに助力する話に様変わりし、その後はゲイまたはトランス的なキャラクター自体が登場しなくなりました。

……最近またテレビで見かけたので「忘れた頃に復活するもんだなァ」と思ったしだいです。




2015/04/16

【BLとGLBT② ~きれいな男はゲイになる説。】



「にやける」とは、色男が「フッ」と微笑して「ミーは女性にモテてモテて困る」ということではありません。

漫画などの創作物における用法としては、モテないタイプの男性が、色男を見て、物陰で「チッ。にやけた野郎だぜ」と呟くことになっています。

「にやけ」は若気と書き、若道と書いて「にゃくどう」と読めば、いわゆる「衆道の契り」のことです。

つまり「ああいう綺麗な男はオカマなんだぜ」と言っているわけです。実際には女性にモテているにも関わらずです。モテない男の悔しまぎれです。

偏見と差別意識に基づいており、品位を欠く言い方であることは、言ってる本人も分かっているので、あまり大きな声では申しません。物陰で「チッ」と言うわけです。

この「陰間のようだ」というのを、文科省的に婉曲表現すると「なよなよしている」となります。


【美化。】

見目のよい男児が人買いに買われて、または対価もなく拉致されて、富裕層へ売られるということは、ずいぶん昔からあったことで、これはもう児童虐待という他ありません。

『稚児草紙』のような創作物は、それを美化した作品です。

美化が、当時の「当事者」の自尊心によるものだったのか、小松左京のような「美童趣味なら俺にも分かる」というストレート男性が表面的な憧れを描いたものだったのか、今からでは判断できません。

男児に化粧させ、酌を取ることを求めたのが、当時の「当事者」だったのか、女性との交流を禁じられた・賤視によって自ら禁じたストレートによる代償行動だったのかも、今からでは判断できません。

井原西鶴のような作家は、客の求めに応じて書き分けただけかもしれませんし、すでに当時にして読者の半分は女性だったかもしれません。


【後追い、後出し。】

ともかく男色をそのように美化してきたのは、もともと男性でした。

戦後には、ストレート男性の一人が、ゲイコミュニティを「秘密の愛を交わす人々」と見なして薔薇族と命名し、同名の雑誌を発行し、当のコミュニティが歓迎しました。

中には反感を抱いて、別の雑誌を立ち上げた「当事者」もいたのですが、もともと画家であって、編集技術のほうは身につけていなかったので、うまく行かなかったみたいです。

三島剛の雑誌が成功していたら、ゲイの見た目に関する共有イメージも、だいぶ違うものになっていたのかもしれません。

女性は内藤ルネ、丸山明宏、ヴィスコンティ監督といった人々から与えられた「美少年」というイメージを蒐集することを好み、「秘密の愛ってロマンチックね」と言ったわけで、完全な後追いです。

で、「当事者」自身が秘密と思っていたものを「もう秘密にするのをやめよう」と決めた途端に、後追いしていた人々へ振り返って「差別だ!」と言ったわけで、やや後出しジャンケンのような印象もあります。


【自尊心。】

きれいな男はホモセクシュアルになる、なぜなら女性的な存在のほうが(むくつけき男性的存在よりも)価値が高く、富裕な男性から愛されるにふさわしいから……

これは伝統によって培われた偏見です。

実際にきれいな男性の自尊心と、女性の自尊心と、社会的に成功した男性の自尊心が絡み合っているところが厄介です。

裏を返すと、きれいじゃない男はゲイにならない。

これには「ふつう」なストレート男性の自尊心と、共同体意識、同性愛忌避意識が混淆しています。

いずれにしても、きれいじゃない男は男性から愛される資格がないと規定されたことになり、顔立ちによってゲイであるかどうかの自己申告を否定されるということであり、これは現代の「当事者」にとって我慢ならないのは当然です。



2015/04/16

【BLとGLBT③ ~女性がBLを読むと男性がゲイになる説。】



数年前に某県から会議録として発表された珍説です。その後、取り下げられました。

会議のその場で他の参加者から撤回することを求められなかったなら、そのほうが示唆的です。

「なる」と言われて、「そうですとも」と頷いてしまう人が多かったということです。

実際には「なる」ってことはありません。

同性志向であることは、ゲイ生来の個性であり、権利です。彼らは、強気な女性から逃げた人生の敗残者ではありません。

そもそも、話がおかしいのです。例え「なる」ことがあったとしても、余人は困りません。

それぞれに好きな相手と交際し、好きな雑誌を講読して暮らせば良いだけのことです。

ゲイが増えると、何が困るのか?

「子供が生まれなくなるじゃんか!」と思う人がいるわけです。

本当に困るのは、男性が同性へ向かうことではなく、少子化です。

本当の問題は、総人口の9割を占めるストレートが子供を作らないことです。

本当の対策は、生活費・教育費・それを母親みずから稼ぐために児童養育の助力が要るというところへ向けられるべきであるのに、まちがってゲイを非難することと、漫画を非難することに努力が費やされていたのです。

「同性婚を認めると、ゲイが増えるから困る」という発想も、「国が滅ぶ」という不安に直結しています。でも、増えることはありません。

婚姻・配偶者控除といったことを認めてあげれば、急に「我々も」と名乗り出るカップルが増えるにゃちがいありませんが、それは長年がまんしてきたゲイまたはレズビアンであって、ストレートが「ラッキー♪」などと称して転向するわけではありません。

可視化は、たんに可視化であって、発見されない頃から総人口に占めていた割合が変わるわけではありません。


2015/04/16

【BLとGLBT④ ~やおいトランス説の難点。】



1990年代半ばに、ゲイコミュニティから「やおいは僕らに対して失礼である」とする旨、激烈なクレーム文書が発されたという話があります。

対して「やおいはトランスゲイです」と提唱する書籍が発表されたのは、1998年です。

すでに「やおいは失礼だ」と言われている時に、「やおいはゲイです」と言い返せば?

「ゲイって失礼なものでしょ(爆笑)」という意味になります。

この行き違いは不幸だったと思います。

榊原『やおい幻論』という本は、すでにさんざん「ああいう(変わった二次創作に夢中になる)少女は、女として欠陥があるんじゃないのか?」という取り沙汰がなされた後で、結論として発表されたような性質があり、もとより迎合的なのです。

当時はトランスという言葉自体が目新しく、うまいこと言ったように思われたのでしょうし、著者に悪気はなかったと信じますが、校正の段階で気づかなかった当時の編集部、購読して気づかなかった社会が残念です。


【非当事者感。】

そもそも、実際にトランス男性であれば「女のような顔をした男が、ほかの男の玩具となった挙句に、それを“愛”と見なして受け入れてしまう」なんていう話を、黙って読んでいられるはずがありません。

いわゆる「抱く」ことができるからトランスであるというのは、いわゆる「攻め」の機能だけに着目した、一方的な結論です。

当事者意識というのは、被害者意識です。「もし本当にこんなことになったら困る、怖い、許せない」と思う気持ちです。

だからこそ、多くの女性が、ストレート男性の好む少女監禁・調教などという話を「まァいやらしい」と言うはずです。

あるいは、女性はもともと「マゾ」だから、トランス男性も「マゾ」であるという、女性性に関する偏見に基づいています。

言った本人が女性であるから厄介なのですが、じつはこの「自分だけは違う」という棚上げ意識は、事実上「やおいはトランスゲイだが、JUNE作家である私は違うので、一致団結して人権運動を開始する必要はない」という結論に落ちてしまったことと、一脈通じているように思われます。

榊原さん個人を非難したいのではなくて、なんとなくトランス説を受け入れてしまった全体に対して「話がおかしいでしょ」と申し上げたいのです。


【トランスゲイは男性です。】

トランス男性は、可哀想な女の子ではありません。

モテないので男になった、不細工な女の子ではありません。

トランス男性は、結婚したくないモラトリアムまたはラディカルフェミニズムの仲間でもありません。

彼らは生来の男性として、女性と結婚したいと願っているはずですし、何割かがゲイとして、男性との交際・同性婚を願っているはずです。

自らの(意識する)性別に合わせて、男らしく、または女らしく装い、振舞うことを好むトランスは、むしろ保守的です。

いぜんとして結婚・育児に厳しい景気ではありますが、人によっては、育児・PTA活動・子ども会活動といったことへ、「ふつう」に父親として・母親として参加したいと願っていることでしょう。

とうぜん、生物学的には親ではない人の親権、養子縁組、代理出産といったことに関して、トランスではないゲイ・レズビアン達とも協力して、ことに当たることになるでしょう。

彼らが、ゲイタウンの先輩へ無礼を働くことは、理念的にあり得ません。個人的に口の悪い人はいるかもしれませんが。



2015/05/26

【裏目に出たトランスゲイ説。】


榊原が「やおいトランスゲイ説」を発表したのは、「やおい少女」に関する詮索も終盤、1998年です。

それまでに「奇妙な創作物を消費する少女は、母親との人間関係による“トラウマ”を抱えている」という説が流布されていました。

もし摂食障害から逃れるためにBLという嗜好品の大量購入を必要とするのであれば、これは依存症を意味します。

必要なのは、さらなる嗜好品の大量消費ではなく、それが異常行動であることの自覚であり、受診であり、カウンセラー立会いにおける母親との話し合いです。

つまり、ボーイズラブという創作分野そのものが、存在すべきではなかったものとして否定されたことになります。

1960年代以来、その分野で創作物を発表してきた女流たちは、男性中心社会の横暴に心が折れ、まちがったことをしてしまった哀れな女性たちであり、これもすみやかな矯正と、結婚の斡旋が必要であるということになります。

このような詮索・干渉をふせぐには「傷ついた女性ではなく、もともと男性であって、その性的根源から発した自己表現である」と定義するのが良策となります。

が、今度は(社会が良心的であればあるほど)性適合手術に向けた受診をおすすめされる、ということになるはずです。

また、1980年代以来「女性と我々を混同するな」と主張してきたゲイコミュニティから、いっそう激しいクレームが起こることが予想されます。


【乙女の主張。】

じつは、ボーイズラブを嗜む女性がみずからを指して用いた呼称として、唯一揉め事を起こさなかった、すなわち当事者自身が歓迎したのが「おとめ」だったろうと思います。

これは寺山修司が竹宮作品を一読して「少女の内面を表現している」と言っちまった以上、いたし方ありません。

本当は、少女漫画というのは成人女性が描いているものであり、その自己表現です。

日本では勤労する成人女性をさして「うちの会社の女の子」と言ってしまう習慣があります。

おそらく当時の中年男性から見て、二十代後半の独身女性漫画家も「こむすめ」というふうに感じられたのでしょう。

でも、ふつうの少女漫画だって成人女性が少女に読ませるつもりで描いていることは同じなので、こちらだって少女の内面を表現していることになるはずです。

なのに美少年趣味だけを取り上げて、わざわざ「少女の内面」といったので、お墨つきを与えてしまった格好です。

うっかり分析っぽいことを言うものではありません。

有名なおじさんのお墨つきを得て、安心して購読を楽しんでいた乙女たちが「傷み」を発してしまったのは、「くさっても(男ではなく)乙女です」という必要が生じたからです。




2015/05/29

【BLとフェミニズム1 ~話の順序が大事なのです。】

成績優秀で、上京・進学させてもらえるほどの女性は、男性におうかがいを立てるまでもなく、自分からいろいろな本を選んで読んでしまう。

また「彼氏にエスコートしてもらわなければ、書店にも映画館にも怖くて行けないわ」などと言っておらず、個人または女同士でどんどん行動してしまう。

だから、いろいろなことをよく知っている。男性が隠しておきたいようなことまで、よく知っている。男性向けの戦争映画に少年愛を暗示する場面が出てきたことまで知っている。

知ったことについて「私は知っている」と主張したり、「面白かったです」と感想を述べたりすることは、表現の自由です。

「男性にとっては不愉快な話題かもしれませんが、私はエロティックに感じました」と言いたければ言っても良いのが本当です。もともとBL趣味とは、そういうことです。

でも、身近な男性、なかんずく父親に理解がなく、「女に学問をさせるとロクなことがない。早く退学して嫁に行け」と言われたので、ほとほと困りました。

どうか男性の皆さんは、お心を穏やかに、女性の学問と表現の自由を認めてください。もともと男性だって、普通選挙も許されていなかったものを、少しずつ権利を拡大してきたんじゃありませんか……

とはいえ、全ての学問する女性が、特殊な性愛の話題を嗜好するわけではありません。ごく一部の人が嗜好するのですが、その多様性を認める心が、広く言えば世界平和につながるのではありませんか?

こういう順序が正解です。

これを本末転倒させて「お父さん・お母さんが分からず屋だったから、私がやおいになったんだぜ(ざまーみろ)」と言えば?

「私だって本当はこんな世界に来たくなかった」という意味になります。

仲間にしてみりゃ「いやなら出てけ」という話です。

また、お父さん・お母さんが手をついて謝ってくれれば、私はやおいをやめてお嫁さんに行きますって意味になります。

すると、「全てのBL女子、なかんずく二次創作者は、一度ご実家へ帰って、ご両親とよく話し合いなさい。コミケ女性の部は永久閉鎖してもよろしいですね?」

ってことになってしまいます。

男性の口から「くだらない本を書いてないで、化粧を覚えて嫁に行け」と言われれば、「差別よ!」と言い返すことができます。

でも女性の口から「こんなことになったのは私のせいじゃない」と言い出すと、えらく厄介な話になるのです。

これは、やっぱり昔の女性(の一部)の社会的経験値が低かったせいだろうと思います。

社会へ向かって発言することに慣れていなかったから、自分の発言がどこまで転がっていくか、予想がつかなかったのです。

家庭内で「お兄ちゃんばっかりズルイ」というのと同じレベルで、学会(またはメディア)で発言していた時代が、あったのでしょう。



2015/06/01

【BLと文芸1 ~あらためて『風と木の詩』】


竹宮恵子作品そのものを淡々と見てみましょう。

ロマン派の詩を意識した擬古調の巻頭言は、作者が上田敏などを愛読したことを示しています。「わが青春の炎よ」という追憶の言葉は、いま正に青春まっさかりの人が発するものではありません。主人公は老境に達して、半生を書き残す決意をしたものと見えます。

この主人公は、十代の頃に音楽学校へ入学し、父親から受け継いだ天稟を発揮したピアニストです。仔細あって出奔しますが、おそらく、その後に芸術の道へ復帰し、青春時代に同級生の即興から得た旋律を展開させて来たことと思われます。その同級生に関する、衝撃的な告白を遺稿としたという体裁です。

これは19世紀から20世紀半ばくらいまでの時期に、男性作家が採用したのと同じ、額縁構造です。たとえば漱石、鴎外、康成が青春時代を描いた小説。

潤一郎の二作目『少年』も、二十年前の思い出であるむね、断りを入れてから語り出します。コナン・ドイルの『緋色の研究』も、まずはワトソン博士の「その頃の私は」という回想形式で始まります。高木彬光『わが一高時代の犯罪』も、感動的な追憶の文章から始まります。

これらの作品の特徴は、作家と語り手のプロフィールがほぼ一致していることです。

とすると、漫画家は、女流でありながら、みずからを男性の芸術家に擬して、架空の半生を綴ったことになるでしょう。

漫画家というのは、程度の低いものと思われがちですが、みずからの腕一本で内面世界を表現する芸術家には違いありません。女流芸術家が金髪の美少年に憧れ、彼とともに音楽学校における青春時代を過ごして「みたかった」という、過去に関する無念さの表現と思えば、すでにこの時点で少女の感慨ではありません。

人生をある程度すごしてしまい、その方向性が決まってしまった後の、成人による慨嘆です。

物語は時系列的に転倒しており、第二部に至って金髪少年の後見人である金髪男性の回想が描かれます。額縁の入れ子です。

漫画家自身は、このとき二十代後半です。詩人という芸術的な職業に設定された後見人は、その作者自身と同年輩です。彼は、第一部における巻頭言の担い手と同様に、金髪少年を見出し、積極的に関わっていく人物となります。

試しに、これを文芸に翻案してみればよろしいです。

文章は詩人による「私はその年に二十七の誕生日を迎え、二冊目の詩集を出版した直後で」といった自己紹介から始まるでしょう。やがて夏の休暇に生家へ辿り着くと、見慣れぬ子どもがいた……と続きます。

読者は、ごくふつうに、この詩人に感情移入し、自分自身の体験のように感じながら読み進めることになるでしょう。

もし、これを二十代後半でステディのいないゲイ男性が書いたとしたら? 読者は、共感できるかどうかは別として、彼自身の願望を表現したものとみるでしょう。

だったら、漫画も同様に、二十代後半で独身の女性の願望を表現したものと解釈すればよさそうなものです。

物語は第三部に至って、第一部で巻頭言を発した人物が、第二部の主人公であった人物に対して、いかに立ち向かっても敵わなかったという、青春の蹉跌あるいは挫折の顛末を記します。

逆に申せば、第二部の主人公は、あくまで実力者として、第一部の人物に対して優位を保ちます。この場合の優位とは、年齢・貴族詩人という社会的地位・経済力・後見人という立場に加えて、金髪少年から愛着され続けるという、恋愛における優位です。

第一部の人物は、作者自身の「音楽学校における青春を金髪少年とともにしてみたかった」という気持ちの表現とみることができました。

第二部の人物は、作者自身と同年代であり、上田敏を愛読したであろう作者にとっての憧れの職業である「詩人」に設定されています。

いっぽうで、西欧の上流社会に属し、広大な庭と豪華な調度に囲まれて育った金髪少年というのは、すべての日本人にとっての憧れと申してもよろしいでしょう。この意味では、第二部の人物と、その見出した子どもは、同じモチーフの繰り返しです。

さらに申せば、その子どもの成長した姿である金髪少年に関わっていく、第一部の主人公であるところのピアニストというのは、有色人種です。当時(20世紀初頭)に、もし日本人がピアノ修行と称して渡欧していれば、陰に陽に差別を受けたことでしょう。

さて、漫画家自身は、誰に感情移入しているでしょうか? あるいは、誰にしか感情移入していないでしょうか?

答えは、作者は全てのキャラクターに遍在しています。読者も、すべての登場人物を魅力的に感じながら読み進めるものです。文芸を読みこなすほどの読者子であれば、誰でも知っていることです。

作者は、これを発表するにあたって「編集者をだました」と伝えられます。未成年者の性にかかわる、どこで発表するにも問題作というべき作品だからです。

が、物語は、冒頭で陰の実力者として存在を暗示された人物が第二部の主人公であり、彼の“教育”の結果によって、第一部の主人公の人生が左右されるという、用意周到な倒置法が採用されております。

だましたどころか、入れ子状の第二部を経て第三部まで語り継がねば全貌が明らかにならない物語であることは、編集者もわきまえていたはずです。

堂々のカラー頁つきで開始された連載は、編集部全体、ひいては出版社全体の期待を背負ったフラッグシップモデルだったと見てよろしいでしょう。

女流漫画家の才能と意欲は、男性がほとんどであったであろう当時の編集部(出版社)において、充分に認められたのです。

2015/06/01

【BLと文芸2 ~『風と木の詩』に見る女の都合。】


三島由紀夫の『禁色』は、老人が女性に復讐するために美青年を手足のように使うつもりだったのに、途中からその美青年自身の内面描写に、まだ実年齢で若かった作家の熱意が込められてしまったというものでした。

竹宮恵子の漫画作品は、一見すると「第二部の主人公が女性にだまされたので、同性の子どもに手を出すようになった」というふうに読めます。

ここから「女性で失敗すると同性愛に逃避する」という偏見が生まれやすいわけです。

でも、もう少し見てみましょう。作者が金髪の美男を見る眼は、入れ子になっています。

金髪少年←金髪青年←その異母兄←その妻≒作者。

残酷な異母兄に示唆を与えて、金髪青年に屈辱と恐怖を与えた張本人は、女性です。

そして男たちは、どう見ても本来はストレートです。

これはゲイではなく、ストレート男性を利用した、被害者ぶった女性による女王様プレイです。

さすがに炯眼というべきか、団鬼六と西村寿行は、この構造に1978年の時点で気づいていました。(その年に発刊された彼らの単行本には、女性がストレート男性同士を面白がる場面が登場します。)

たぶん三島が読んでも気づいただろうと思います……読ませてみたかったです。

また、男性がBLを読んで、自分自身に引き比べてゾッとするのは当然です。

(これは鬼六作品に強制的な女性同士の場面が登場するのと同じで、お互い様です。)

女性がこれを実現したければ、六本木のホストの前に札束を積むのが正解です。

だから、つり橋理論にこだわる女性もいるわけです。「可愛い男の子を連れてきたら、あなたもその気になってくれる?」というわけです。

いずれも、実行しないほうが良いです。

漫画に戻ると、「有色人種の二十代女性」としての作者のナルシスムは、第一部の主人公の母親としても表現されています。

金髪の子爵令息を魅了して、駆け落ちさせたのに、悪い女として処刑されたわけではなく、あくまで気のいい女性として、優しい母親として、主人公の思い出の中に生きています。

つまり、まだ若くして世を去ったのであって、市川昆の映画『犬神家の一族』に登場する婦人のように、後ろ盾を得た子どもに生活費をせびりに行くというような老醜をさらすこともないわけです。

物語全体が、比較的若いおとなの女性に都合の良い、夢の国になっていることが、よく読むと分かるのです。

女流が表現の多様性を推し広げ、特殊な領域にまで踏み込んだ挙句に分かったことは、やっぱり創作物には作者自身が表現されるという、当たり前のことだったのです。

一般に、創作物から、その読者の心性を憶測で解説するなどということは行われません。

たとえば「ミステリ読者は犯罪者予備軍である」などとは言われません。

日常的な倦怠を創作物で解消することは、誰にとっても同じことで、それが創作物本来の役割です。

これをわざわざ指摘して「ミステリ読者は現実逃避している(特別な指導が必要である)」というように言うこともありません。

純文学であれば「この頃の作者は大病から生還した直後で」などと、作者の内面を基準に作品解説を試みるでしょう。

BLだけが、その作者の自己表現ではなく、読者の心性を憶測する材料とされたのです。


2015/06/01

【BLと文芸3 ~森鴎外『ヴィタ・セクスアリス』が指摘したこと。】


金井湛くんの報告によれば、少年とは旧制高校生の寄宿舎における受身を表す隠語だそうです。

「軟派」とは清潔らしく見える白足袋を着用して女性のいる店へ通う若者で、「硬派」とは粗野な風体を保ちつつ、年下の同性を相手にする若者で、前者には都会慣れした東京出身者が多く、後者には九州男児が多かったようです。

これは九州にはゲイが多いって話では全然なく、尚武と男尊女卑の気風から相対的に少年へ傾くもので、都会慣れしてくると急激に「軟化」し、服装の趣味が変わり、女性の元へ通っては放校処分になることもありました。(逸見くんの例)

ついに軟化せずに卒業すると、かえって清廉な若者であるというので、堅気の女性と結婚し、その裕福な実家の援助を受けることができたりもしました。(古賀くんの例)

男性にとって女性とは未知の存在であり、上京したばかりの若者にとって都会とは未知の存在です。

それにいちいち驚かないようになる、共通したお洒落センスを身に着ける、機嫌をそこねない会話ができるようになるというのは、確かに大人になった証拠なのかもしれません。

対して「少年」との関係が暴力的であるのは、まだ世慣れない若者らしさがそのまま弱者へぶつけられているからで、入寮儀式としての鉄拳制裁などにも一脈通じます。

それによって(本人たちは意識していなくても)都会的ではないことの劣等感を、ていよく隠蔽することができたわけです。

これを「男同士の気安さ」と呼ぶなら、若輩者にとっては堪ったもんじゃなかったはずで、安達くんが古賀くんから逃げ出す道理です。

歴史上に「衆道の契り」として美化して伝えられてきた物語の実態が、ストレート男性同士のパワハラだったことを医師らしい冷静さで指摘したのが鴎外です。

なお、この印象が本末転倒すると「女性で失敗した男はホモになる」となるわけです。