2011/05/04

映画の話 「俺は犬だ」

俺は犬だ。30年間、体を張ってこの街を守ってきた犬だ」('79年映画『太陽を盗んだ男』)

……ジュリー(沢田研二)演じる爆弾脅迫犯の「権力の犬」という言い方に対して、山下警部役・菅原文太が‘犬上等'と言い切る名セリフ。しびれます。
けど、……いや、兄ィは30年間極道だったんじゃないんすか? と思ったので確かめてみました。私自身はトラック野郎の印象しかないんですが。赤字はリンクになってます。

1956年(昭和31年)東宝『哀愁の街に霧が降る』が映画初出演。
※『哀愁の街に霧が降る』= 山田真二・青山京子のコンビで描く甘美な恋の歌謡メロドラマ。キャスト・スタッフ一覧 まだチョイ役ですね。
ラジオで流れて大ヒットした(らしい)主題曲はこちら。哀愁の街に霧が降る カバー(作詩:佐伯孝夫 作曲:吉田 正 オリジナル歌唱:山田真二 昭和31年)

1958年(昭和33年)新東宝へ入社。『白線秘密地帯』などに出演。そもそも当時は映画会社が俳優と直接契約して育てていたのだ。

1961年(昭和36年)松竹へ移籍。『香華』などに出演。
※『香華』=有吉佐和子の同名小説が原作。キャスト・スタッフ一覧はこちら。 

1967年(昭和42年)に東映へ移籍。『網走番外地 吹雪の斗争』(高倉健主演、石井輝男監督作品で助演)
1968年(昭和43年)『兄弟仁義 逆縁の盃』(北島三郎&若山富三郎主演、のちにトラック野郎を撮る鈴木則文監督の作品。巽一家代貸・中井役で助演)
1969年(昭和44年)『現代やくざ 与太者の掟』(降旗康男監督作品)で主演。

1973年(昭和48年)より東映『仁義なき戦い』シリーズ
1974年(昭和49年)末より東映『新・仁義なき戦い』シリーズ
1975年(昭和50年)より、東映『トラック野郎』シリーズ ♪主題歌『一番星ブルース』

'70年代を通して極道ものとトラック野郎を並行して年に10本近くも撮るハードスケジュール。

1979年(昭和54年) キティ・フィルム 東宝『太陽を盗んだ男』(長谷川和彦監督、10月6日公開)にて、山下警部役(これにより日本アカデミー最優秀助演男優賞)

1980年(昭和55年)NHK大河『獅子の時代』主演。これにより映画『トラック野郎シリーズ』は打ち切り。
1981年(昭和56年)東映『青春の門』(五木寛之原作、蔵原惟繕・深作欣二監督作品。伊吹重蔵役)、同年 大和新社 東宝『炎のごとく』(加藤泰監督作品)に主演。
以降は『ビルマの竪琴』『鹿鳴館』など年に1本くらい出演。

<当会的まとめ>

1 ムード歌謡は好きです。

2 『香華』江崎役が加藤剛はハマリ役だけど、す、杉浦って誰だっけ!?(汗) 
神波伯爵びいき(ご高齢キャラ好き)としては、神波役の宇佐美淳也が『晩春』(1949年 小津安二郎監督)に出てるので、『晩春』を(能シーンだけじゃなくて)最初から観てみよう! と、やっと思った。(だって日本映画って暗い感じがして避けて通ってたんだもん…)

3 『トラック野郎』筆者が6歳の年に始まった(と今わかった)このシリーズは、'79年まで、毎年の盆と正月に新作が公開されるスケジュールで、10本続いた。小学生の夏休みと冬休みにあたるわけで、筆者は死んだじいちゃん(母の実家)に連れられて、何作かをスクリーンで観た覚えがある。

4 '68年がヤクザ映画出演の最初、'69年が主演のようなので、30年間じゃなくて10年目の警部役でしたね。
当時として「ついこないだまで極道映画やってた人」だから、やはり意外性のあるキャスティングで、しかもその極道路線で鍛えた&観客の記憶に植えつけた迫力を秘めてこその抑えた演技(とクライマックスの執念の爆発)……渋いです~

5 『黄金の日日』(城山三郎原作、1978年1月8日~12月24日放送)は覚えていて川谷拓三の処刑シーンがひどいトラウマになっていますが、『獅子の時代』は観ていませんごめんなさい。この頃(11歳)から家族そろってTVを観なくなったように思います。

6 ブルースというとスティーヴィー・レイ・ヴォーンとジミ・ヘンドリックスとリッチー・ブラックモアが好きです。
2011/05/25

『晩春』

やっと観ました。宇佐美 淳(服部役)と能シーンという萌え基準だけで知らずに選んだのですが、小津安二郎と原節子が組んだホームドラマのお初、日本ホームドラマの原点(このへんウィキペ)だそうで、結果オーライ。やっぱ能の神様は導いてくださる。

昭和二十四年完成、とオープニングに出ます。外人さんが観たら(聽いたら)チャイナと区別つかないんじゃないかという微妙なBGMから始まります。
(以下、古い名作なのでご覧になったかたも多うございましょうから、ネタバレ全開で参ります。)







北鎌倉駅の絵が長ェ! ……。
これ、アレかしら、無声映画時代に活弁士が生でナレーションする時間を確保するために風景カットを入れたという名残かしら(検索で答合わせするとつまらないので敢えて確認してません)

1969年生まれは『世界名作劇場』を観て育ったもんですから。ハイジ冒頭「山が映ってスクロールダウン↓」および宮崎つながりで『パンダコパンダ』冒頭、赤屋根の駅舎が映って階段をミミ子が降りてきてカメラ寄る、というテンポ以上に風景カットに間がとってあると、「長い」と感じるらしいです。

茶湯の待合シーンから始まるのは今や日本人が観てもエキゾチック。同時に「これが敗戦わずか四年後か!」と衝撃を受けた私は戦争を知らない子供たち。

だって鎌倉から東京へ電車はちゃんと動いていて、乗って銀座へ行くと和光の時計塔があり、「第三回」の美術展も開かれている。
なんたって女はパーマネント・ウェイブをあてた頭をして唇は真っ赤に塗ってあってワンピースを着てハンドバッグを持っている。若い男と喫茶店だかフルーツ・パーラーだかで音楽会の相談をする。
手作りショートケーキにはバニラを入れすぎてしまい、お紅茶には砂糖山盛り二杯ずつだ。
山積みの洋書にはポスト誌が読みさしで伏せてあり、海岸沿いには「Drink Coca-Cola」の看板。
自転車並走の表情は明るく、ブラジャー(かシュミーズ)の線が透ける卵色のセーターと、男の着た赤いカーディガンが青松白砂に美しい。(モノクロ作品なので色はイメージです)

米英に染まるまいと銃後の守りで頑張った人たちはどこ行った。あの戦争はなんだったんだ。昭和二十四年ならまだこの頃やっと復員した人や引き揚げてきた人もいたはずだけど、「ああ、世の中こんなに変わっちゃったのか~~」と思ったかも。
田舎の観客も「都会の若い人はおしゃれだね~~」と思ったのでしょうね。占領下の憧れがいっぱい詰まってるのですね。

戦後四年の世の中で「いまの若い人にはびっくりしちゃった」というセリフがあったり、せいせいと離婚して働いてる女性がいたり、男の悪口言い合ったり、というのも面白かったです。
女子挺身隊が「欲しがりません勝つまでは」の精神でがんばり、焼け野原を見た時代から、どんだけの勢いで世の中は「びっくりするような今」になったのでしょうか。

個人的な話をすると、私の母は戦中の生まれですが、戦後に東京の学校へ通っている時分に同級生と「タカノ」フルーツ・パーラーでお茶したことを懐かしがってました。
私的には、畳の和室にカーペット敷いて籐の椅子を置く、という生活スタイルが懐かしかったです。茶箪笥に小瓶が飾ってあったりね。洗面台の下に木製の扉があったり。

戦後四年の曽宮家から二十年~三十年ほど経過した私の子供時代まで、そんなに変わってないように思われました。
てことは、たぶん戦争中から、というか空襲を受けずに残った戦前から、昭和が終わる頃まで、街のようす、庶民の生活はあんまり変わらなかったのでしょう。

逆にアヤさんちみたいなバリバリの洋館の生活は、立ち行かなくなっちゃったのかな。今では市に寄贈されて観光資源になってるなんて洋館、多いですね。芦屋あたりには現役もあるようですが。ま、それはともかく。

小津作品/原節子をちゃんと観たのは実はわたくし初めてです。子供の頃『東京物語』をテレビでちらっと見かけて「無理!」って思って以来なの……。この歳になって、きっかけがあって良かったです。能の(以下同文)

原節子が開始からしばらくニヤニヤ笑ってばかりいるのが不気味でした。こんなブリっこの大根だったのか? と思いました。
そしたら、親戚や父親、その助手の手前、ほんとうにブリっこしていたらしいです。

物語すすんで居間のすみ、茶箪笥の陰から、ハッと父をにらむ怒りの表情は素晴らしいですね!
洋風にしつらえた自室で同級生のアヤに「自分は結婚しない」と白ばっくれる時の妖しい挑戦的な目つき。
そして能楽堂で、嫉妬にうつむきながら、ゆっくりと口角を上げて歪んでいく赤い唇。
ああ、能面のように表情が豊か。

だいたいアヤ役の月丘夢路のタカラヅカ娘役の理想像ともいうべき、目が丸くておちょぼ口で顎の細いレモン顔と比べて、原節子は目も鼻も口も横幅が広くて能面に似てるんだ。顎もやや張ってて男性的なんだ。この映画に本職の全面協力を得て能舞台をフィーチャーした小津監督は、つまり能が好きで、あの顔が好きなんだ、きっと。

能といえば、あのシーン、「色はいずれ、似たりや似たり、花あやめ杜若」と謡われるときに美女二人が互いを意識するようにできてるのですね。いずれがあやめ、杜若。でも、なんでそんなに嫉妬するの? 

七歳か十七歳ならまだしも、二十七歳にもなって「再婚反対、お父さま不潔」って、ちょっとこの子ヘンなのよやっぱり。戦時中の、きっと満足な検査もできず、薬も足りなかった時代に病を得たから、「ああ私はこのままお父さんの娘として、清い体のままで天国へ召されるのね」みたいに思っちゃったのかもしれないね。

最近は結婚年齢が上がってるとはよく言われるけど、戦争中も先行きが不安だから結婚年齢は実は高かったんだそうで、戦争がやっと終わって、「芋を五、六貫もかついで」帰る物不足の時代が一段落して、病状もやっと落ち着いたばかりで、ここまで父が嫁入りを考えなかったことはそんなに不自然ではない。

でも「いきたいけどいけない」んじゃないんだな紀子。はっきりどっぷり父との暮らしに人生埋めるつもり。
「お父さんが好きなの。お嫁にいってもこれ以上の幸せはないと思うの」
なんと男冥利なセリフでしょう。

「いま」風の意思のはっきりした女性の話かと思ったら、トウの立った娘にややあり得ないセリフを言わせて男性キャラ達がカッコつけてみる話だった。

「女の子はつまらない」
これが日本の男の愛情表現。

「パパは世界で一番お前を愛してるよ」「手放すのが寂しいな」とは絶対に言わない。

「いてもしかたがない」
「つくらなきゃよかった」
「生まれてこなくてもよかった」
「男の子のほうがよかった」
そう言われながら育つ娘の身にもなって欲しいもんですが。

「仕方ないよ、我々だって育ったのをもらったんだから」
「そりゃそうだ」
憎まれ口をたたきながら、自分を納得させて、送り出すのですな。

その送り出されるべき娘のほうはというと、
あのムチムチ色っぽい紀子と父が同室で寝るのは、やっぱアヤシイ。彼女は杜若(か花あやめ)の浴衣を着ている。
から衣着つつ馴れにし妻しあれば。
紀子はてっきり「馴れ親しんだ妻」長年寄り添った夫婦の気分だ。

ウィキペで読んだところによると、壺が映るカットの意味で論争があるそうだが、私も意味深だとは思った。
まァ「空っぽの飾り物の壺」=「満たされない女の肉体」と見ちゃっていいと思うけどね。パパ、先に寝ちゃうんだもの~~ 

父の眠る横顔を見た彼女は、ふてくされたような顔で眠りにつけずにいる。「やだわ、お父さんも歳とっちゃって」でもないし「京都じゅう歩いて疲れたからアタシも早く寝よっ」でもない。
本気で「やって」と覚悟があるわけじゃない(ありゃ先に襲ってる)はずだけど、ともかく恋愛に近い気分を彼女は持ってしまっている。

ということは、監督と脚本家は男だから、男というのは本当は俺が嫁にしたいと、娘にそんな気分をもっているものだと、娘の側からもそのように思っていてくれれば嬉しいと、現実にはなかなか無いことだから「男のロマン」として映画でそれを描く、という逆の象徴でもある。……と私は見るですよ。

『杜若』の小書き「戀の舞」には、橋掛かりから下を見下ろす型がある。実際には白洲しか見えないわけだが、そこに物語の舞台である八橋の池があって、杜若の紫の花がいっぱいに咲いており、その中央の水鏡に、女の面を掛けて、男の冠を掛けたシテ(杜若の精)の姿が映り、うっとりと自分で見とれる、という演出。

愛するものと愛されるものが一人のなかで一体になってしまっている、幻想の恋。

(……残念ながら尺の関係でその型は映画中ではカットされちゃったらしいのですが)

鏡といえば、姿見のなかで微笑む花嫁は死に装束。だって着物が右前に映るから。空になった鏡は「この家に女性がいなくなった」象徴でもあり、彼女の心がからっぽになった隠喩でもある。夫がその空白を埋めてくれるかどうかは示されない。

ところで笠智衆の大根っぷりは、癖になりますね(笑)
役者がカメラのド正面で妙に強い眼差しをしてセリフを言う撮り方は、ちょっと異様な感じがしました。
私は、でもああいう短いセリフを、ぽっぽっぽっと掛け合うのが大好きです。
(逆に苦手なのは日常的でない長セリフです。)

歌舞伎とも新派ともオペラとも違う、能とも違う、あまりにもリアルなセリフのやり取り。
敵討ちでも心中でもない、ちょっと前までやっていた戦意高揚映画の勇ましさもない、『加藤隼戦闘隊』みたいな円谷による特殊撮影もない、李香蘭の歌もない。

ただ普通の「今」の日本の女どもが勝手な悪口を言い合ったり、くだらない噂話をしたり。ニヤけた色男がインテリぶって「なんら有意義な連関」とか言ってる。

当時あれが「リアリティ尊重、庶民の心を描く」ってことで斬新だったのでしょうか。ある意味アナーキーであったり、労働運動の高まりなども影響していたのでしょうか。
それとも当時の人も「つまんね~~」と思ったのでしょうか。

小津論/映画『晩春』論て一杯あるでしょうけど「答え合わせ」しちゃうとつまらないんで、自分の感じたことだけをいったん書いておきます。
2011/11/15

それより奥は見てはならないことはない【映画 王の男 感想】

2005年、韓国。
やっと観たのよ!「観に行きたいな~~」と思ってから子供の世話してると、5、6年過ぎるのアッという間なのよ!
それはともかく。
結論から申しますと、非常に後味がよろしかったです。華麗にして卑屈な宮廷人と、野卑にして誇り高い旅芸人の対比が見事な、爽やかな感動作でした。
美麗なシーンのひとつひとつが心のアルバムに残っております。
もっと生々しいエログロ映画だと思ってましたm(__)m
正直そこをちょっと期待してましたm(__)m
HBO『ROME』を見過ぎたかもしれないですm(__)m

っていうか日本の配給会社、宣伝の仕方を間違えてます。「それより奥は見てはいけない」ってあんた『サスペリア』じゃないんだから(古)
むしろ何不自由ない若き王の心の奥の寂しさ、垢まみれの芸人の心の奥の炎、王を惑わす美男の心の奥の素直さ、飛ぶ鳥おとす勢いの寵姫の焦り、そういう「奥」を見てしまう心理劇なわけですが、
予告編では「それより奥は」ってナレーションしながら美男の背筋に触れる絵が映されるから、よっぽどエロいのかと思っちゃうじゃん。
客引きでも間違った先入観を与えるアオリはやめましょう(-_-;)

というわけで物語は、実在の暴君に取材した歴史劇らしいですが、『西太后』『ラスト・エンペラー』みたいに外国との関わりが描かれているわけでもなく、歴史上の事件に言及しているわけでもないので、超美麗歴史ファンタジー、娯楽時代劇として観ることもできると思います。
「お装束も素晴らしい!」(『花よりも花の如く』)
綺麗でした、宮廷人の衣装。広がったチョゴリの艶と地紋が美しい。その下の白いアンダースカートが萌えだ。
刑吏などの赤い帽子に鳥の羽根と大粒のビーズのようなのが飾ってあるのもファンタジックでした。
豪華でした、セット。宮殿の軒先の金細工、花鳥風月が描かれた襖。朱色の柱と緑の窓の桟の対比が美しい。
そして文化の違う人に、これと春日大社・狩野派の襖絵などと中国の遺跡を見せて、「区別しろ」ってのはやっぱ無理だろうな、などと余計なことも思ったり。

それはともかく、ストーリーの根幹は、権力におもねらず腕一本でのし上がろうとする旅芸人と、コンプレックスだらけの若き王が出会うことによって、芸術の花ひらく、ではなく政治的な悲劇が起きるという、哀しい宮廷陰謀劇&人間心理劇でした。
美形を中心にした恋愛ものじゃなかったです。
陰謀についてはクドクド説明せず、重臣たちの(暴君を諌めるという)忠義心を協調し、曲芸師が役者として芸を高めていくことが王の感情を刺激して逆に不幸を呼び、重臣たちの決起を促す、というあたり、テンポよく、しかも残酷場面は(あまり)映さないので、いやらしい感じがしないのが良かったです。
それに何しろ、それを見せる「絵」が美しいんだな。青空・竹林など背景となる自然も、華やかな衣装も、それを着けた人の配置も。

配役は、髭の曲芸師チャンセンが苦みばしった男の色気をたたえて良かったです。
聖王と呼ばれた父への劣等感と非業の死を遂げた母への執着を抱えた王の、癇症でありつつも寂しさを秘めた不安定な目つき。
いかにもツンとした猫のような表情が嫌味にならないほど超絶かわいい寵姫ノクスちゃん、むっちりと風格を漂わせた重臣たちも素敵。
実は私的に、あの宮廷に一座を招き入れた重臣チョソンの、いかにも貴族らしい趣が「この映画ただごとじゃないぞ」と思わせた一因でもあるので、役者の持ち味って大事なのですね。
「三バカ」に相当する芸人たちの、野卑で滑稽な表情・大げさな演技も、昔のコメディ映画を思わせて微笑ましかったです。

前半は曲芸の実演の映像にかなりの「尺」が割かれ、それを見物するエキストラも大人数、その衣装などのウェザリング(わざと汚すこと)なども申し分なし、「お色気系統のストーリーじゃなさそうだな……」と予想外の思いを抱きつつ、見入ってしまいました。あの曲芸部分や小芝居部分は観客も素で喜ぶべきなのかな?

後半は王の寵愛を得て芸人たちの生活が安心したのも束の間、若き王と先代から仕える重臣たちの対立があらわに。
起死回生を狙った芸が王の気に入ったからこそ重臣たちの危機感を呼び、女形が心根素直で王の寂しさを理解してしまうからこそ相方との不和を呼び、相方同士が互いをかばうからこそ不可逆の無残な悲劇が起こる。
寸劇・綱渡り・影絵・人形劇などの芸が心理描写を豊かにし、台詞で説明することを省いて余情を漂わせ、しかも後で効いてくるのは気持ちよく、よく練られてるなぁとしみじみしたり、でもちょっとベタだよね、となんか懐かしいような感じもしたり。

皮肉で残酷なストーリーと救いのない結末なのに温かい余韻が残る、という不思議な好作でありました。

それにつけてもコンギルは目の保養。
赤いおリボン可愛いよ赤いおリボン。彼がつねにウブっぽい表情をたたえていたのが、全体に漂う清潔感の源。でも無理強いされて矢を射るときの目の厳しくも哀しい表情は美しかった。
最初の一座を出奔して小一日以上さまよい歩いたはずにもかかわらず、王の傍らで夜を明かしてしまったにもかかわらず、無精髭がのびていない辺りはご愛嬌。でも鼻の下にほんのり剃り跡が見えたのが「やっぱ男なんだ(・。・; という別の感動を加味したかも。
レンタルで観たけどディスク買っちゃおうかなー
2011/11/28

映画【マイ・ブラザー】を観たの。

2009年アメリカ。私にしては珍しく新しい映画だ!
なぜ借りようと思ったのかが分からない、と思いながらプロフィールを調べたら、主人公3人のうちの一人が『レオン』のお嬢さんが育った姿で(大きくなって( ;∀;))もう一人がブロークバック・マウンテンの一人だったので、その関係だったらしい(思いつきでレンタル予約を入れるので届いた頃には忘れている)

リメイク版らしいけどそっちは観てないので比較はしない。
アフガン出兵した海兵隊員が心傷ついて帰ってきたのを支える家族の物語。
にしては嫁さん(ナタリー・ポートマン)が美人過ぎる、というレビューが多かったけど、
彼女があれだけ魅力的で、そこへ妙に色っぽい&ちょっと悪っぽい義弟が加わるので、
(リメイク版の元ネタの情報がなくこの映画だけを楽しもうと観る客としては)
「すわ不倫ロマンス((o(´∀`)o))ワクワク!」と下世話な期待がふくらむってもんである。
観客はあの2人の惹かれ合う気持ちに同調できるからこそ、兄貴が帰ってきたときの罪悪感・戸惑う気持ちへの同情も増すってもんである。
そして元チアリーダーな女房と元フットボールの名選手、軍隊に入ればそこでもエリートの海兵隊な旦那、戸建て一軒家、娘は二人というアメリカン・ドリームにうっとりさせつつ、「でもそんなに良いことばかりじゃないよ」と見せることで「ああやっぱりね」という庶民の覗き趣味を満足させ、かつ、「同じ人間なのね、気持ち分かるわ」っていうヒューマン気分を味わえるっていう上手い仕掛けになってると思う。
また旦那の「浮気したんだろ」疑惑もそれなりの説得力をもつってもんである。
ここで嫁が不美人だったら、うっかりするとそこで「ないない」って笑いをとってしまうか、「そこまで疑い深くなって」とより悲惨な感じになってしまうorz

なにしろBGMの少ない映画で、前半はほとんど撮りっぱなしのホームビデオを見せられているような退屈さだった。
それが却って音楽の迫力で無理やり盛り上げよう感がなくて良かった。
説明的な回想シーンなど無く、日常的な短いセリフのやりとりの中に必要な情報がなにげに含まれているのは洋画脚本の上手いところだ。
観てるほうは「家政婦は見た」的な気分にさせられるが。

子役の演技が抜群であった。日本の子役は「可愛い」「健気」が全面に出されるが、アメリカの子役は「くそ生意気」「不機嫌なツラ」が上手い。
そしてアメリカの子は愛し合う二人は「一緒に寝る」(Sleep with him)ことを知っている。
パパとママが毎晩リアルに同じダブルベッドで寝てるもんな。

アフガン地元民が「子供にまで残酷なことをさせる」「理不尽な要求」という典型的な悪役として描かれていたのが弱いっちゃ弱いところだ。
(あのへんに疑問を持つとこの一遍は崩壊してしまうのであった)

そしてこれはエリート家庭さえも戦争で狂わされるっていうお話だけど、
一番印象的だったのは寂しく彷徨う兄ちゃんの歩く墓地にズラリと並んだ白い十字架。
物語的にはああして兄ちゃんが爆発することで山を越えて収束へ向かうわけだけど、それもできずに精神的に悶絶し続けた人も多くいたのであろうなどと思ったり。
PTSDなんて概念もなく、セラピーも確率していない時代、しかも負け戦だった国の復員兵を思ったり。
といって、次はそういう話ばかり読んだり観たりしたがるというのも覗き趣味の内かなと悩んだり。
しました。

映画としては色気のある役者たちの誠実な演技、というのがとても爽やかな良い余韻を残しました。
冒頭15分で眠くなったけど我慢して観て良かった。うん。
2011/12/13

映画『イヴの総て』

……と思ったらマーゴの総てだった。
ビルはいい男だった。
背の高い優男のロイドは私の好みだ。

カレンは清純で人のよさそうな役そのまま、
肝心のイヴは最初からあまりにも美しすぎて、かえって怪しいという。
役の雰囲気をたっぷり醸した演技派俳優たちは本当に舞台出身らしい。

そして「マリリン・モンローみたいな子が出てるなぁ」と思ったらマリリン・モンローだった!(・∀・)

1950年、アメリカ。
主役の一人であるベティ・デイヴィスは映画中で「もう40歳よ」というシーンがあるが、失礼ながらお面がそれより歳いってるように見えた。
調べてみたら1908年生まれで、この時42歳。リアルだった。ごめんなさい。

「舞台女優の光と影」みたいな話で「イヴの演技は素晴らしかった」という台詞が頻出するが、実際に本舞台そのものの様子は映らない。
映画の観客を舞台劇シーンの豪華さで圧倒するのではなく、舞台裏の人間関係をミステリーっぽくじっくり描くものである。
暴力的なシーン、あまりにも痛いエピソードってのはない。
基本は男女愛・夫婦愛。
男と女の駆け引きな部分はあるが、さすがアメリカというかこの時代に既に女が男に一人前以上の口をきき、それを男がしっかり受け止めて相手するのでケンカのシーンも逆に気持ちがよい。

ストーリーはドンデン返し的な部分があって、ネタバレしないほうが面白く観られる。
賞を一杯とったらしい。(参考:goo映画

それにしても煙草と酒が香り立ってました。
夜の外出には男たちはシルクハットにホワイトタイでステッキ携えてるし、女たちはアレキサンドラ女王っぽい豪華なローヴと毛皮のコートでパーティーに出席。
しかもそんな衣装で個人の家の階段に座り込んでしまう。
古き良きアメリカ ・:*:・(*´∀`*)ウットリ・:*:・
2011/12/19

翔くんの胸を切るのは。

湯婆婆の居室やハウルの寝室の調度もずいぶんと描き込まれていましたが、アリエッティになってあの部屋べやを探検するのはすごく楽しいかもしれません。

頼もしいお父さんに先導されて、相手の命を叩きのめす「狩り」ではなく、相手の生命と生活を尊重して、必要なものだけちょっと「借り」る。そして小さな世界をそっとしておいてもらう。

女の子の理想かもしれません。

翔くんという男の子の独善によって、その小さな世界は崩壊させられてしまったわけですが、といってアリエッティは彼に飼い殺しにされるわけではない。
自分の仲間のいる新しい世界を探しに出かけていく。それも、そこまで翔くんの肩に乗って連れてってもらうわけではなく、自分の足で歩いていく。家族と共に。お母さんをいたわりながら。

で、残された翔くんには、自分の闘いがある、と。

彼の手術を執刀するのは、たぶん大人の男性でしょう。医師は、男達が数百年をかけて築き上げた「医療」という知の代表である。
そして手術に成功して元気になれば、「子供のころ心臓が弱かったんで」という言い訳も通用しない、勤勉と自己犠牲を要求される男の世界が彼を待っている。

そこへ向かって旅の第一歩を踏み出すには、小さな女の子の頑張ってる姿と「頑張ってね」の声と、涙が必要だった、と。

これが「病気の大きな女の子を小人の男の子がはげます」という話だったら? たぶん、ジブリではやらなかったでしょう。ジブリ(宮崎)アニメでは、世界を変革する力を持つのは常に女の子だから。
2011/12/19

翔くんは。

アリエッティの思い出を作品にして絵本作家になったりするかもしれない。
古い屋敷を守るために一級建築士になったりするかもしれない。
公務員になって街の景観を守る仕事をしたりするかもしれない。

アリエッティを探して、自分の家と同じような自然に囲まれた古い屋敷を訪ね歩き、紀行文を書いたり写真を撮ったりする人になるかもしれない。

アリエッティはスピナーとうまくいくかと思いきや、新しい土地で新しい小さい男の子を見つけたりするかもしれない。
スピナーは彼らの横のほうでブンむくれていたりするのかもしれない。

夢が広がるのであった。
2011/12/19

トンボと翔とハク。

宅急便のキキは、
「魔女なんかに生まれなければよかった、普通の女の子に生まれて遊んで暮らせればよかった」みたいなコンプレックスにちょっととらわれちゃった途端に魔力を失い、
でもトンボを救いたい一心で自分を信じたら、魔力が戻った。ちょっと暴走したけど。

トンボのほうは助けられた後もべつに冒険魂を反省するでもなく、相変わらず空と飛行機が好きな男の子。

『アリエッティ』の翔が「滅び行く種族なんだよ」とのたもうたとき念頭に置いているのは自分のことで、
弱い体で生まれてきたことが僕にとっての自然なら、それを人間の知恵(医療)でいじることは自然に逆らうことだ、それはたいがい良い結果を生まない。運命に従ってみんな滅んでしまえばいい、的な。

そんな彼が、小さな女の子が頑張ってる姿に感化される。

思い出すのはニギハヤミ・コハクヌシ、現世の「肉体」である川をマンションのせいで埋め立てられてしまい、魂の宿る場所を失くして怨霊となっていたのが千尋に会って自分を取り戻した。

彼は神様なので「その後」って想像しにくかったんだけど、もしかしたら川があった土地へ戻って、マンションで育つ子供達を見守る守護神様になったかもしれない。一緒に遊んでいるかもしれない。

ひーらいた~~ひーらいた~~♪

なんて古い遊びを教えてやっているかもしれない。

↓ お母さん達の会話。

「あら、もうこんな時間。おうちへ入るよ」
「あら、あの子は?」
「誰?」
「さっきまで、平安時代みたいな変わった着物を着た子が確かにいたのよ」
「どっかの神社の子かしら」

↑ 神社の子でもそんな格好はしない。

みたいな。
2011/12/26

『3時10分、決断のとき』を観ました。

25日にレンタルDVDにて。

タイトルで損をしてるような気がする。原題は『3:10 TO YUMA』
アリゾナ州ユマ郡ユマ市には歴史あるユマ準州刑務所があるんだそうで、
それを知っていてタイトルを聞けば、例えば『網走行き3時10分発』って聞いたような、そういう話かと感じるものがあるはずなんである。日本人がユマを知らなきゃしょうがないけれども。私も知らなかったし。

たぶん「キャプテン・アメリカ」ピーター・フォンダの最近の作品と聞いて借りたと思う。(レンタル予約したのがずいぶん前なのでモチベーションを忘れている)
最初は「決断のとき」が「アニメンタリー決断」とかぶって太平洋戦争映画と勘違いしていたくらい。
西部劇でした。今どきコテコテの。1957年版のリメイクだそう。
衣装がつくる褐色の濃淡が美しいです。
アメリカ映画は天然光と焚火と蝋燭の照り返しを使うのがうまい。
基本的にはアクションもので、登場人物は全員ラウンド髭面でほこりっぽく小汚く、ライフルとピストルで簡単に人が吹っ飛ぶ世界。男二人のバディものと言っていい……のか?

荒野で小さな牧場を営む貧乏な家族のぎこちない暮らしぶりから始まります。
訳あって街へ出かけた一家の若きパパ、クリスチャン・ベール演じるダンは、ラッセル・クロウ演じる極悪人ウェイドの逮捕劇に巻き込まれ、彼をユマ刑務所へ運ぶ汽車に乗せるため、最寄りの鉄道駅まで護送する任務を買って出ます。
というか買われて出たので、借金で悩む彼は報酬の金が欲しかったのでした。南北戦争で傷ついた脚を引きずりながら、連隊一を謳われた狙撃の腕をひっさげて。かっこいいのか悪いのか。

金もない名誉もない、嫁にも息子にもバカにされ、身体にも心にも傷を負ったダンの、生活と誇りを賭けた崖っぷちの挑戦。基本的にはこの悩めるクリスチャン・ベールの美しさに見とれる映画。

悪いやつほど色っぽいというウェイドを演じるクロウは、いつも通りというべきか、はまり役。こいつも護送に成功されれば刑務所へ送られて絞首刑だから、どこかで脱走しなきゃいけない。崖っぷちは崖っぷち。

車がない時代だからこそ成り立つ護送劇。
後ろからはボスを取り返そうと容赦ない一味がせまる!
途中には獰猛なアパッチが!
道中さまざまな危険にみまわれながら、一路コンテンション駅を目指す……

西部劇の王道「道中もの」なんだけど、一行の一人が逃走の危険(それに先立って一行を皆殺しにする危険)のある極悪人なので緊張感が。一行は「逃亡者」ではなく正義の側なのに追い詰められてる感。

しかもアメリカらしいところは、相手が犯罪者だからといって殴りつけて黙らせる、一言も返事をしてやらない、なんてことはなく、ちゃんとコミュニケーションを取り、なんだかんだとプライベートに関する会話を交わしてしまうところ。
ダンとウェイドもいつしか息が合ってきちゃうわけで、観てるほうも変な一体感。
でもだからって駅へ送らず見逃すわけにいかないし、落とし所をどーすんのこれ!? 
という先の見えなさが面白かったです。
正義と悪の対決なら、要するに正義が勝つに決まってるので見続けるモチベーションが下がるわけですが。
↓ネタバレ反転。

クライマックスは映画史上もっとも長い(当社比)800メートル、俺とお前で死出の道行、相方(?)の男の誇りを守ってやるために俺も命を掛けてやる……ということなんだけど、いやそうなの? そうなっちゃうの?
疑問符を脳裏に浮かべつつ、男気にも色々あるなぁと呆れつつ、応援。
プリンスにしてみりゃ兄貴を助けようとしただけなんだけど何故撃たれる……とここで一言も発しないところがよかった。しかも馬は耳が良い。
ウェイド、いい奴なのか身勝手なだけなのか、最後まで不分明。ブラヴォ。


ピーター・フォンダは不死身すぎ。かっこいい爺さんになった。
なぜ男達は無駄に互いを挑発しあうのか。闘争本能かい。
手配犯が一人来た途端に街中撃ち合い。こんなん巻き込まれたくないなぁ。本当に西部の男たちご苦労様という話でした。

音楽かっこ良かったです。

リメイク前はこんな感じ。 やっぱキャスティングのせいで随分色っぽくなった気がする。


ベン・ウェイド:ラッセル・クロウ
ダン・エヴァンス:クリスチャン・ベール
バイロン・マッケロイ:ピーター・フォンダ
音楽:マルコ・ベルトラミ
監督:ジェイムズ・マンゴールド
2007年 20世紀FOX