2014/11/21

【二丁目と二次創作BLのクレーム合戦はシンプルが良いです。】


「ストレートのくせに、二丁目まで来て騒ぐな」

これだけを大新聞に投書なさると良いです。

なまじ事情通ぶって、やおいだの腐女子だのと流行語を使いたがるから混乱するのです。

何を読もうが書こうが、外へ出て困った人は、外へ出て困った人です。

例えばミステリーの読者が模倣事件を起こしても、作家の責任ではありません。


対する二次創作側は、もはや「女の子だから」と言えば許してもらえるわけではない時代になってしまいました。

18禁・成人向け作品を名乗りながら「子供のやった遊びです」とも言えません。

つい最近「日本の二次創作は成人女性向けBL化」と言われてしまって返す言葉がなく、二次創作BLという新語を定着させてしまった上は……

もはや自称・他称とも「二次創作BL作家、二次創作BLファン」で良いのではないかと思われます。

すると、どうなるか。

「ストレートのくせに二丁目まで来て騒ぐな」
「いやなら二次創作BLを読むな」

話が食い違っていることが、よく分かるようになります。

なお「二次創作BLファン」とは、やや長くて使いにくいようですが、「虹」というと、LGBTプライド活動(六色の虹色旗を世界的なトレードマークにしています)との混同を生じ、かえってトラブルの元になると思います。











2015/09/30

よいゲイは絶対に真似しないでください。


フィクションの一番おもしろいところは、現実には起こらないことです。

人間が空を飛んだり、魔法が使えたり、下準備も後始末もなく性交できちゃったりすることです。

「この物語はフィクションです」という言葉の意味は「ぜったいに真似しないでください」です。

月光仮面の真似をして、屋根から飛べば、脚を折ります。ザ・ドリフターズのコントは、理髪店だと思ったらラーメン屋で、シャンプー台が丼の代わりだった等、現実には起こらないことだらけですね?

誰も真似する人がいない前提で演じられているのが、テレビ番組です。

先日拝見した漫画では、高校柔道個人全国2位の女子部員が強すぎて、おなじ高校の女子部では相手が務まらないので、「男子が組んでやれ」と言われ、彼女に憧れて入部したばかりの男子が彼女に触れるチャンスとばかりに飛びかかったら、いきなり投げられて脳天から落ちる、って場面がありました。

あり得ませんね?

地元で才能を発揮し始めたばかりの小学生ならともかく、全国2位の実力の持ち主がしかるべき練習相手のいる高校へスカウトされていない時点でおかしいです。

また、受身もマスターしていない新入部員の暴挙は、指導者が体を張って止めなければなりません。頚椎を損傷したら一生再起不能です。

「こういう展開があったら笑えるな」と思っても現実には起きないことだから、漫画に描くわけです。

現実には訓練や資格が必要で、時間もお金もかかることだから、漫画や小説を通じて「やった気分」だけ味わうわけです。

多くの映画ファンが、実際にスパイや任侠になって、命がけのドンパチに巻き込まれたいとは思っていませんね? 

性に関して誤解・偏見が起きやすいのは、やはり正しい性行動を知らないからです。

本当に撃たれたら死ぬことや、屋根から落ちたら骨を折ることは分かっていても、相手を傷つけない性行動については知らないからです。

ゲイ各位は、若い後輩へ「田亀作品を真に受けるな」と教えたついでに、「BLの真似をするな」とも教えてあげてください。

最近のBLは、かつての貴族趣味とちがって、ふつうのアパートで予備校生の若者たちが……なんてのが増えたので、ふつうの日本人が真似できるような気分になりやすいのです。

さしあたって創作側としては、「この物語はフィクションです」とことわった時点で、責任はないことになります。

「やってみたら痛かった」と言われても、正直こちらも困る、というのが創作側だろうと思われます。


2015/10/06

ゲイは人権問題だと思われていない。


まだ日本では「いやらしい遊びが好きすぎて、女では満足できなくなったので、ホモになった連中だ」という先入観が残っているのだろうと思います。

ときおり「女よりも良い」という怪情報が囁かれる通りです。

だから「ゲイってポルノのことしか考えてないんですか~~?」という質問も飛び出すわけです。

彼らが人権集会を開いている以上、ポルノ以外のことも考えているのは明白なのに、質問者自身が「ゲイ=いやらしい遊び」と考えているわけですね。

わざわざ人権集会に出席した質問者自身が「こいつらは女に飽きて男に走った連中よ。女性に対して失礼だわ」という偏見にとらわれているので、自分もわざと失礼なことを言って、ゲイどもから一本とってやりたいという気持ちが働くのかもしれません。

【歴史的定型の利用。】

BLがそのような偏見を広めたというよりは、もともとそのような偏見があって、BLがそれを利用して物語を成り立たせたのです。

情報源は歴史・古典文学です。

妻帯しているストレート男性である武将、および妻帯を禁じられたストレート男性である僧侶が、少年を女性の代役として利用したという事実の報告、およびその脚色です。

さらに明治時代には、学生身分でその真似をする様子が、文学作品を通じて報告されました。

これらは少年虐待であり、確かにストレート男性にとっての「遊び」です。でも、ゲイタウンはその集まったところではありません。

【避難所の侵害。】

新宿二丁目は、まだ生きる権利をじゅうぶんに認められていない人々の避難所です。

生まれながらに同性志向なのに、同性と愛をはぐくむ権利を認められず、ありのままに生きようとしてイジメられる人々の「シェルター」です。

ストレート社会の無理解によって、心身ともに虐待された人々が、一時的に安息できる「アジール」です。

そこへ健常者が押しかけて、「どんな虐待を受けたんですかーー? そのとき気持ち良かったですかーー?」と、見当違いなことを訊いちゃうわけです。

あるいは、差別されている少数民族が集まって住んでいる「ゲットー」の一種です。

そこへ多数民族が押しかけて、「こいつら変なもの食ってる! やばくね? やばくね?」って、はしゃぐわけです。

こういうふうにイメージすると、人権問題であることが理解されて来るかと思います。


2015/10/06

ゲイと富国強兵。


江戸時代には文学的な定型として美化・称賛されていた「少年愛」が、近代(明治時代)に入って罪悪視されるようになった原因の一つは、国家による人口増加政策です。

欧米列強に追いつき、追いこすために、リアル兵士および産業戦士が多数必要だったので「産めよ増やせよ」と掛け声がかけられ、中絶は処罰されました。

もともと欧米列強において、医学の進歩によって妊産婦・幼児の死亡率が下がり、人口が増大したために養いきれなくなったから、植民地争奪戦が起きたわけですが、そこへ後から参戦した日本は、わざと人数を増やす必要があったのです。

富国強兵の時代とは、「産めよ増やせよ戦えよ」の時代でした。

だから産まない愛と、女性的な男性は無用の長物。国策にさからう非国民という扱いになってしまうわけです。

だからこそ、敗戦後は「化粧した丸山明宏の歌うシャンソン(かつての敵性歌謡)」が時代の象徴となり、もともと思想統制・検閲に反対する気持ちを持っていた純文学者たちが彼を取り囲んだわけです。

「平和で自由な時代が来て良かったね」ってことです。

女性は後からそれに憧れたわけですが、やはり根本には男性社会の暴力性への批判・反戦という気持ちがあったと言えるでしょう。

今の女性が昔の軍隊に憧れるときは、どこかに「今の男はだらしない」という批判の気持ち、裏を返せば男性に頼りたい他力本願な気持ちがあるものです。

でも女流表現の自由、なかんずく男性が最も嫌う話題である男色への言及まで容認される基盤にあるのは、「男が戦争やって大負けした」という事実です。

表現の自由とは、本来「戦争反対」と言っても連行されない権利のことです。

「お国のため」を口実に、恐るべき拷問・虐殺が行われることに反対する権利のことです。

戦争やって勝ったほうである連合国の少なくとも一部で、六色虹旗が高らかにひるがえる背景には、ナチスに迫害されたゲイの慰霊碑が静かにたたずんでいます。(アムステルダムのアンネ・フランクの家の隣にあります。)

表現の自由を楽しむ全ての現代人の足元は、先人の血に染まっています。

なお、ストレート男性が男色の話題を嫌うのは当然ですが、ゲイ男性も女性がその話題をもてあそぶことを嫌います。女性はBLに詳しいからといって、ゲイの仲間とは見なされません。

社会は男と女ではありません。ストレートとゲイだけでもありません。その間に「勘違いした女」がいるという現実を、自戒として忘れないほうがよろしいです。

さらにまた、反戦と共産は違います。すでに共産たおれ、資本主義が超克された今、右か左かでは割り切れません。


2015/12/03

同性婚を認めても、伝統的な家族の価値観は壊れません。

ストレートカップルの隣に、同性婚カップルが並び立つだけです。

ストレート社会は、女性が男性に嫁ぐことを続ければいいだけです。

じつは、男性が婿に行くことも、ずっと昔から行われています。政済界には、入り婿が岳父の事業を継いだ例がいくつも存在します。いまや「主夫」となって家庭に入る男性も存在します。

彼らは今なお人口の9割強を占めるストレート(異性愛者)であって、彼らが同性婚を横目に見て「うらやましいから俺も」と転向することはありません。

めずらしい青い花が咲くことを認めたからといって、赤い花は枯れません。赤い花が青くなることもありません。同性婚に関する生々しい調査結果が出たようですが、これも話を混同し、勘違いしている例です。

伝統的な家族が崩壊しつつあるのは、ストレートがカップルになりたがらないからです。その原因は景気が上向かないことです。国の借金が大きすぎて、若い世代のために教育費や医療費の完全無料を実施してやることができないからです。LGBTのせいではありません。



2015/12/24

同性カップルが犬猫の里親になれないのも彼らのせいではありません。


多数派であるストレートが、多数決によって憲法と民法を改正してやらないからです。

現行では、同性カップルは捨て猫の里親になることもできません。

独身のストレート男女は交際相手と気ままに別れて、自分が引っ越すときに猫もまた捨ててしまうから、すでに戸籍が一緒になっているカップルにしか猫を引き渡せないというのは、ストレート目線のストレート基準です。

ストレートのせいで、正式に入籍できないまま、十年も同じ人と同居し、この先も良い関係を続けるつもりでいる人々は、条件が違います。

彼らの正式な結婚のためには憲法の文章を一部訂正する必要があり、「だったら9条は」という話が絡んでくる可能性があるので、簡単ではありません。だからこそ、草の根の民間活動における理解が大切です。

【女性がゲイを差別する理由。】

「女性を愛してくださる男性は良い人だけど、愛してくれない男は悪いやつだわ」

この考え方は、女性の自尊心からいって当然なのです。あえて言います。女性がゲイを差別したがるのは、彼女の自己愛からいって当然なのです。

誰しも自分がいちばん可愛い。自分にいちばん価値があると思いたい。愛される資格があると思いたい。

だからこそ、「自分のことばかり考えるのは良くない」ということができます。

差別する理由が分からないと、「だって皆がそう言ってるもん」という他力本願になるわけです。

でも、ようするに自分可愛さだと分かれば、その自我を少し抑えれば、多くの人に(猫にも)幸せを与えられることも分かってきます。


2016/02/18

同性婚は伝統的な家族のありかたを変えません。


だって、一夫一夫制(または一婦一婦制)で、一生のあいだ離婚せず、二児を育て上げれば、「伝統的な家族」と比べて、なんの変わりもありません。

変わるのは、ストレート男女が「ホモが結婚するくらいなら、私が浮気したっていいよね」と思った時です。社会がこれを防ぎたければ「異性愛者も引き続き一夫一婦制を維持しなさい」と教えればいいです。

また「GLBTを自分の逸脱行動の口実に利用してはいけません。彼らのご迷惑です」と、はっきり教えればいいです。

【ゲイは結婚したいのです】

女性が「結婚しない仲間だから寂しい心を分かち合うことができる」と思って実在ゲイに近づいていくことは、彼らの同性婚を認めない、すなわち差別を助長するという意味になります。

これはかつての女権論者も勘違いしたところで、女性が自分の非婚と彼らの結婚を混同すると、彼らのご迷惑となります。彼らは「同性婚を認めると少子化が加速する」と思って反対する人々と闘っているわけです。

でも彼らはもともと産むべき人数に入っていないので、彼ら同士が幸せをつかんだとしても社会は変化しません。社会が変化するのは、産むべき人数に計上されている人々が、彼らのついでに自由になろうと思って、出産を断念した時です。

トランスが簡単に手術を受けられないのも、軽い気持ちで「じゃあ私も子宮を切除したいわ」という人が増えると、少子化するからです。

逆にいえば、産むべき人数に計上されている人々がどんどん産んで、社会制度維持に充分な出生数を確保すれば、彼らは安心して彼ら同士の幸せをつかむことができる。

この発想の逆転は、いわゆるフェミニズムの中からは生まれてきませんでした。むしろゲイの人権運動に便乗しようとした自称人権運動家も多かったのです。

ゲイと共闘できるつもりで、新宿二丁目まで押しかけて「私が味方になってあげるから、早くカミングアウトしなさいよ」と説教しては付きまとう。そのほうがよっぽど人権侵害だということを起こした人もいたわけです。

【個人主義の独立】

今さら申すまでもなく、実際には「どんどん産む」ということは難しい。

現代だからではなく、もう千年の昔から、女性は苦労することが分かっていて嫁に行くことをいやがり、子どもの世話で自分のやりたいことが出来ないというのをいやがって来たのです。貴人が自分では子どもの世話をしないことも、洋の東西を問いません。

女の幸せのつもりで出産したけれども、その後の体調不良に悩み続ける人もいる。命を落とす人もいる。

男性が国防という名の帝国主義に命を捧げることを強制された時代には、「女も命がけで産め」と命令することができたのです。

でも、それはあくまでストレート社会の都合。それを「もういやだ」というのは女性の個人主義。さらに個人主義と育児を両立したい人にとっては社会整備がなかなか進まないからという問題であって、GLBTのついでではない。

この一線だけは、きっちり引いておく必要があります。

(※ 2月24日追記: コピペの不手際で記事が二重投稿のようになっておりまして、読みにくかったことと存じます。ご迷惑をおかけ致しました。修正のご報告と、お詫びを申し上げます。)

2016/07/20

カーマと薔薇族の優しい嘘。

東郷健が云った「オカマという言葉は、カーマ(愛)が語源」というのは、イメージを良くするための戦術の一つですから、本来は「釜を掘る」であることに変わりはありません。

「陰間が語源」と云った場合にも同じことです。要するに「春をひさぐ」ことの一種として、女陰ではない部分を提供する男性ということです。

そういう人々が女装していることが多いので、そういう商売ではないのに女装している人々(たんなる女装趣味者・トランスMtoF)まで混同されて「オカマ」と呼ばれるという話です。

つまり、混同が発生しているのです。

それを、一つ一つ丁寧に呼び分けていくのか、まとめて「オカマ」と呼んだうえで「オカマ上等」と開き直るのか。

これは戦略の選択の問題です。選択する権利は個々の当事者にあります。それを「この俺が当事者代表として、どちらか一方の戦略しか認めん」と云えば、当事者コミュニティ内部から「あんた何様のつもり」という苦情が起きるわけです。

かつて論争が起きた原因は「性的マイノリティは一蓮托生!」と思っていたことです。マイノリティ内部のマジョリティ意識という、ひじょうに厄介な問題で、マイノリティとしての抑圧感が強いところほど起きやすい傾向があります。

強敵に対して、被害者意識・防衛意識が強く、「一致団結せんければいかーーん!」と思ってしまうからですね。かつての大日本帝国です。

でも、少数派の基本戦略は「みんな違って、みんないい」しかあり得ません。内部差別が発生すれば、どのセクトがマジョリティと癒着するかという利権争いになるからです。

根本的には、伏見憲明が云ったように「名指した時点で差別」です。

ただし、明らかにマジョリティ(シス・ストレート男女)と利害が相反する、少数派が不利である、生命・生活がかかっているという時には、なんらかの団体名を名乗って、認知運動を起こすことになります。

それに際して「オカマ上等の会」もあれば「トランスMtoFと呼んでほしい会」もあるということで、人それぞれ、個別対応。やっぱりこれが結論になります。

「ゴチャゴチャしてめんどくせェ! はっきりしろィ!」というのは、男らしいわけですが、それもまた、「男らしさの会」という主義主張の一つに過ぎません。

どこかの団体だけが実力(=暴力・武器)を持てば、他が不利になりますから、やればできる腕力を持っている人も、殴ったり、撃ったり、斬ったり張ったりしてはいけないというルールを守ってください、ということになります。

本来、このルールを守り抜くことこそ「男の美学」であり、やせがまんであって、それを先に破る外道がいるから、審判長がレッドカードを出して退場させるというのが、任侠映画であり、残侠映画なわけです。

唐獅子牡丹に泣くほどの漢は、弱い者を守ってあげましょう。

なお「薔薇族」ってのも、優しい嘘です。人目を忍んで密会していた人々を、伊藤文学というストレート男性が憐れんで、きれいな名前で呼んでやったものです。

だから、実際の同性志向男性の中には、それをお節介に感じて、いやがる人もあります。今では殆んど使われておりません。

古代ギリシャの伝説に基づくという話がありますが、ホメーロスにもオイディウスにも、そんな記述はありません。呉茂一が明るく描写したように、少なくとも古代ギリシャの神話・英雄伝説の世界では、男性の貴族が美少年を寵愛することは公認でしたから、わざわざ頭の上で咲いている薔薇の花を探し出して、秘密の愛を誓う必要はありません。

当時だって、成人男性の同性愛者がいたはずですから、奴隷同士が主人の眼を盗んで秘密の愛を誓うことはあったかもしれませんが、これは本当に秘密ですから、伝説にもなりません。

アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』を参照しても、薔薇(rose)に男色の意味はありません。西欧でゲイボーイを意味するのはパンジー(三色スミレ)であって、色としては紫です。赤ではありません。

薔薇は、とくに古代の原種に見られる一重咲きでは、花弁の形状からいって、女陰の象徴であり、各地で愛と生殖の女神に捧げられる花です。

キリスト教では聖母マリアに捧げられる花であり、これも彼女が「母の愛」を象徴し、古代の大女神に通じる性質があるからです。

だからこそ、厳格な(中世の)キリスト教徒にとっては、エロスと聖性の融合という雰囲気が危険な異教として感じられるわけで、日本では澁澤龍彦が「薔薇十字団」という秘密結社を紹介したことと、「under the rose」という英語の言い回しがあるために、薔薇が秘密を象徴するというふうに感じられたのでしょう。

なお「百合族」というのも、伊藤文学が「女性の同性愛は女性の自己愛だから」というので命名したそうですが、そもそも同性愛は自己愛の強すぎる人が「なる」ものではないうえに、古代ギリシャにおいて自己愛の象徴とされた花は水仙(ナルキッソス)であって、百合ではありません。

うなだれて咲く白い花ということで、伊藤が混同したのでしょうし、日本語の言い回しとして、美女を例えて「歩く姿は百合の花」というので、男装して颯爽と歩くレズビアンは百合の花のようだという印象だったのでしょう。

こちらはレズビアン当事者にも、イメージが美しいので、受け入れられているようです。

でも、レズビアンと聞いて「じゃあ百合族ですね」と云ったら、先方から「ちゃんとレズビアンと云ってください」と訂正される可能性は高いので、お気をつけ遊ばせ。