2015/01/15

【1940年、東宝『支那の夜』】


古い映画を年代順に見る冬休み企画。

愁いは清し、君ゆえに。美しい映画だと思います。

カメラの性能は決して良くありません。視野というか、撮影範囲が狭く、画面が丸いのです。でも構図には工夫が見られます。

BGMは殆ど使わず、登場人物の心理を丁寧に「絵」で語っています。後半におけるミュージカル映画としての聞かせどころも、鳴らし過ぎ感がなく、締まりが良いです。

編集にも間延びしたようなところがありません。ひじょうにセンスの良い制作陣です。

物語は一種のシンデレラ・ストーリーで、王子に当たるのが占領者である日本人なので、外国人を演じた主演女優・観客とも難しい気分になりますが、まずは古き良き時代の清潔感あるロマンスとして、まっすぐに評価して良いと思います。

監督の意図の中心は、なによりも主演女優を美しく撮ってあげたいということだったろうと思います。

戦禍の廃墟は克明に映し出され、平和だった頃の美景と対比されています。廃墟にたたずむヒロインのコートの裾をひるがえす一陣の風。

戦争の恐ろしさ、悲しさは充分に表現されているでしょう。

ヒロインが「こんなにしたのは誰ですか」と詰る場面では、彼女のほうが詰問される側の日本人女性よりも物理的に高い場所にいます。

それを黙って受けとめる日本女性の心映えの美しさも、重要なモティーフのようです。

二人の美女から愛される、目千両の長谷川一夫は、存在感たっぷりの素敵な王子様です。

気の強い女を殴って分からせるというのは、数年前のNHK大河ドラマ『平清盛』序盤にも登場しましたが、あちらには殴った男に反省がありませんでした。「古臭い手法だなァ」と思ったものですが、どうやら古い時代の制作陣のほうが冷静だったようです。

現代中国の演劇で「乱暴されそうになった女性が拳法で立ち向かう」という場面を見たことがあります。中国女性は殴られて反省するなんてことはないでしょう。徹底抗戦になると思います。ここは日本的な美化ですが、日本女性が見ても気分の良い場面ではないです。

でも、そこへ至るまでの日本人側からヒロインへの思い入れが、順を追って描かれているところが重要だろうと思います。長谷川の誠実な表情も良いです。

総じて日本人は良い人として描かれ、差別的なことを言いません。対する中国人も、過度に残酷であったり、そのわりに簡単に倒されるというようには描かれていません。これは勧善懲悪の痛快娯楽劇ではなく、女性を中心にした草の根の人的交流は可能だと本気で訴えているように思われます。

映画人というのは、平和でなければ映画を撮っていられませんから、基本的に反戦派だったろうと思うのです。

このあと真珠湾ということになりますが、『ハワイ・マレー沖海戦』も、戦意高揚映画と呼ばれるようでも、実質的なラストシーンは「青年士官の遺品(軍帽)を前に、勝利を伝える大本営発表ラジオを聞いても嬉しそうな顔をしない遺族」です。

本作へ戻ると、映画後半で満を持して鳴り響く名曲には「待ってました」の観客冥利が溢れます。占領側の観光気分という点で、真逆のネガティブ評価を下すことも可能なのですが、ここは蘇州の風光明媚と美男美女のお似合いぶりを堪能するということで良いと思います。

作劇の方法としては、前半で戦乱の過去を語り、後半は音楽的な娯楽性中心。ラストは神慮による奇跡か、やや取ってつけたようにハッピーエンドという進行具合が、お能と同じだなと思います。この頃にはまだ能の作法のようなものが生きていたのでしょう。

なお、古い日本映画の画質が荒いのは、古いからではなく、保存が悪いからだそうです。ガルボやディートリヒの出演作品は、もっと綺麗に見られるものです。湿気の問題もあるのでしょうが、映画を文化遺産として保存する意識が低かったせいらしいです。

現代技術によって修復されますように。女優の美と、蘇州の美が末永く伝えられますように。

平和の続くことを願います。ご冥福をお祈り致します。




2015/01/16

【1944年、東宝『加藤隼戦闘隊』】

冬休み企画その2。

「どうやって撮ったんだ!?」と開いた口が塞がらなくなる場面の連続です。

空中戦は実戦の記録映像なのか……?

敵機には出演交渉したのか……?

爆撃による地上物の連続爆発は、いくらなんでもミニチュアだよな……?

思わずまばたきが減っていたようで、気づいたら目が痛くなってました。ドライアイにはお気をつけください。


冷静に考えると、対空砲や機銃を浴びながら実戦を撮影しても、回収できる保障がないので、再現なのです。

二番目の疑問は、もちろんあり得ません。

三番目の疑問については、よく見ればミニチュアではあるのですが、あまりに出来が良いので違和感がなさ過ぎるのです。連続爆発は心地よいと言えるほどの見事な仕掛けです。あくまで「映画として」です。

陸軍の全面協力ぶり、撮影班・特撮班の徹底ぶりは、ウィキペディアさんに詳しいです。

CGをさらっと見ることに慣れてしまった眼は、ときどきこういう作品で洗うのが良いと思います。昔の人ってすごいです。

しかも奥ゆかしいところは、それだけのことをやっていながら、演出に過剰さがなく、編集も締まりが良いことです。

起承転結というような物語性はなく、部隊のなごやかな日常と、加藤隊長の大人物ぶりを実直に伝えています。

「珈琲ってのは、挽きたてが旨いんだからね」

手回しミルから立ち昇る珈琲の香りにつられて集まる隊員たちの笑顔がいじらしいです。

軍隊を美化して若者を勧誘しているという見方もできますが、隊長は若者たちを死に急がせることはありません。深追いするなと厳しく諭し、熱があれば休めといいます。

戦後の自虐というのは、じつは「悪いのは軍隊だ」という弁解だったと思います。

実際の軍隊には、確かに合理的で明晰な頭脳と、温かい心をもった名指揮官がいたのです。

合理的とは功利主義という意味ではありません。理屈に合わない蛮勇をいましめ、冷静な判断ができることです。

また、映画人というのは、平穏無事でなければ映画を撮ったり編集したりしていられませんから、基本的には反戦・平和主義だったろうと思います。

戦中に発表された作品は、戦意高揚映画とはよく言われますが、映画人たちが本当に表現したかったものは、戦中にあっても失われない人間性の美しさと、平和の尊さだったろうと思います。

作品そのものに戻ると、ときおり流れる後期ロマン派ふうのBGMが、じつに良い感じです。

主演俳優は、自らおどけて若い隊員たちを和ませようとする隊長の、やや間合いの外れた不器用なオヤジっぷりを含めて、実在感に溢れています。

若い隊員たちは、いま見るとすごいメンバーですが、若すぎて誰だか分からないくらいです。こちらは輪をかけて棒読み気味で、その初々しさがまたリアリティを高めます。

正直申し上げて、現代の映画は「怒鳴る」ことをリアリティの強さと勘違いしており、好きではありません。

イギリス映画『暁の出撃』、アメリカ映画『史上最大の作戦』などもそうでしたが、現場って静かなものです。

この作品の実直さ・誠実さを支えるものは、やはり背景がすべて本物だったことです。もはや実機を出す撮影はできません。1944年というと、物不足もかなり深刻化していた頃です。なによりも、撮影の陰で、実際に人命が失われていたのです。

「イメージ」だけを頼りにする現代の監督・俳優がマンガ調になり、遊離感を帯びてしまうのは致し方ないことではあります。

本作は、多くの犠牲の上に立った、困難な時代の証言であり、襟を正して拝見すべきものではありますが、撮影現場を作る・映画を撮ることの幸福感に溢れているようにも思います。

神鷲去って、また帰らず。

ご冥福をお祈りいたします。


2015/01/17

【1946年、大映『七つの顔』】

冬休み企画、その3。

オーソン・ウェルズがいて、多羅尾伴内がいて、フィルム・ノワールがあって、ルパン三世がいて、そのアニメ化があって、江戸川コナンがいて、猫の恩返しもある。

アニメは最初からコピーのコピーのコピーです。コピーであることが悪いのではありません。コピーして出来たものの質が低いときが問題なのです。

人材をゲーム業界に取られている、パチンコの仕事を受けることで精一杯なんて事情があるのかもしれません。

質の高いオリジナルアニメを製作したければ、ファンによる出資を募って、新しい会社を起ててしまうのが良いのかもしれません。

さて、映画。

小夜更けて、懐かしのタンゴ。

のんびりした娯楽劇。たぶんサスペンス。変装の得意な探偵によるダイヤモンド盗難事件解決の顛末。

現代の眼で見るとコスチュームプレイですが、「今年の5月に南方から復員してきた」という台詞があるので、1946年当時の風俗をそのまま撮ってるらしいです。

冒頭の歌劇団ステージ風景には、戦前と同じレビューやタンゴの名曲をふたたび楽しめる時代が来たことの喜びに溢れていると思います。昔の女優さんは美しいです。ドレスやハイヒールがロマンチックです。

物語の背景が瀟洒な洋館であるのも嬉しいところです。良家の婦人はショパンが弾けるものだったらしいです。

片岡千恵蔵扮する探偵の、ややコミカルな演技とか、早苗嬢の芝居が古い時代劇調とか、鼻白む部分もありますが、じわじわ面白くなるので我慢して観ましょう。後半へ至ってアクション場面も登場します。車両の型のクラシックぶりが良いです。

じじむさい田舎っぺェが歌姫に惚れられるのは男冥利で、観客を楽しませたでしょう。女優の活躍を奨励するとともに、なにげに普通選挙のキャンペーンにもなっており、戦前的ハードボイルドと、おそらく浅草ふうコントと、新時代の融合により、質の高いエンターテインメントが誕生したということなのだろうと思います。

表現は抑制が効いており、過度の暴力も性もありません。印象としては児童文学の読了感に近いです。この品の良さは現代にも復活してほしいと思います。

『支那の夜』でもそうでしたが、煙草が男優に良い間合いを与えています。

女優に副流煙を吸わせないでやってほしいもんだなとは思うので、現代の実写では再現しないほうが良い要素ですが、惜しいです。これこそアニメで再現して、「大人向け」と銘打ってしまっても良いのではないかと思います。

日本の成人向けとは、都会へ職を求めて集まったヤングアダルト向けという意味があって、もっと年上の人が見ると騒がしい感じがするものです。

これは江戸の頃から地方の若者を集めてきた首都の性質上いたし方ないのですが、定年を迎えて心静かにミステリーを楽しみたいという、真の大人向けのアニメというのも、そろそろ登場しても良いかと思います。

七つの顔を持つ男の話に戻ると、終盤のアクション場面は、これ見よがしな移動放送機器など、後のスパイ映画や特撮ドラマ、宮崎アニメに通じる要素もあり、楽しいです。サイドカーつき警察オートバイも拝見できます。

ラストシーンは、じつに爽快です。ネタバレしたくないです。ご覧ください。





2015/01/18

【1951年、松竹『鞍馬天狗 角兵衛獅子』】


花咲かば。告げんといひし山里の。使いは来たり、馬に鞍。

最初から最後までカッコいいです。アクションシーンの連続です。「日本の古い映画なんて」と思うなら、外国映画だと思えばいいです。風俗があまりにも違うので、いまの日本人と同じとは思えません。異国情緒のつもりで楽しめばいいです。

セットが豪華で、クレーン撮影もマット画も見事なもので、ミュージカル映画としての聞かせどころもあり、編集も惜しみなく、日本映画のレベル高さに感動しきりです。

オープニング音楽がまたカッコいいです。わくわく。クレジット終わると飴屋さんが「春風駘蕩、春長けて」と名調子を聞かせます。(※見直したところ冒頭ナレーションは飴屋さんの台詞じゃないので訂正してお詫びします。)

『七つの顔』でタンゴが歌われたことにも通じるのですが、戦前に楽しんでいた娯楽がそのまま戻ってきた喜びに溢れていると思います。

俳優の顔には影が落ちないことを意識した前時代性が維持されているとは思いますが、背景も衣装もたいへんリアルです。黒澤がきらったという歌舞伎要素はあるけれども、それを克服しようという意気軒昂さと、フィクションとしての清らかさが均衡を保っていると思います。

嵐寛寿郎の眼が美しいです。日本のヒーローは戦前から細面の優男ですね。口元が小さく、上品です。剣戟シーンにおける「足の裏」の使い方が見どころです。刃が円を描くこと、左右を踏みかえる足さばきの美しさにも舞踊の基礎が利いているのだろうと思います。「花咲かば」の謡いぶりの見事さも実演と信じたいです。

映画俳優になった人は、伝統の世界に嫌気がさして飛び出したという人が多いんですが、でもやっぱり基礎は大事だろうと思います。現代の俳優さんも、入門をおすすめいたします。

美空ひばりは凛々しい顔立ちで、前髪立ちの男装がよく似合います。男装の少女という役ではなく、最初から少年として演技しています。探偵物語における小林少年の役を女の子が演じているわけで、新時代らしいところです。

同世代の少女観客にも驚きと夢を与えたことと思いますが、歌いっぷりと芝居っけが大人びており、女性らしさが出ているので「おじさん、待って」なんて場面は妙な雰囲気にならないでもありません。(もちろん嵐寛は受け付けません。)

山田五十鈴の色気は、ただごとではないです。化粧が(当時の)現代ふうです。髪型も斬新です。女優が歌舞伎の女形の模倣から抜け出し、華麗に羽化した姿なのでしょう。

かたや角兵衛獅子の親分夫人は、古い芝居を体現しています。もちろんそれとして上手いです。生身の女性が、女性性を誇張した歌舞伎の女形の「型」を手本にしているので、過度に女性的になるのです。

型といえば、天狗さんちの下働き(隠密)である町人の芝居と、武士である天狗の役作りは明らかに違うわけで、この対比は『支那の夜』でも見られました。愛川欣也演じる「かもめのジョナサン」まで続いていくのでしょう。

壬生浪士は悪役ですが、近藤局長がじつにハマリ役です。本当に拳骨が口に入りそうです。土方さんの白い羽織がまぶしいです。

思いきりよく見届け役を削ぎ落とし、厳粛な一対一としたクライマックスは、構図も所作も最高です。緊張感にささくれ立つ神経を表すような高音と、刻むように動悸を表す低音が絡んだBGMが素晴らしいです。

大上段に構えて打ち込めない近藤。正眼に構えて恐れを隠さない天狗。にやりともしないリアリズムがよろしいです。剣先を交わして腰が引けているのですが、実際に真剣勝負ってあんな感じでしょう。(怖いに決まっています。)

武士が袴を着用するのは馬に乗るためです。膝が擦れたら痛いからです。着流しで乗ることはないはずですが、ここは男の色気。

敵も味方(主人公)も、ここ一番のときは羽織を脱ぐもののようですが、これもなかなかに眼の保養です。責められた姿も素敵。

少し後の時代になってから007が見せた要素なんて、男女のお色気シーンをのぞいて、ぜんぶ先駆けていると思います。

じつは、この頃の娯楽作品の品の良さを支えるものは、売春禁止法が施行されて「いなかった」ことだと思うときがあります。

つまり、これ以上の大人の娯楽を求める殿方には、行くべきところがあったのです。

その後、映画は現実における表現を禁じられた性的関心を疑似体験する媒体となり、自己目的化し、ついに美少女アニメ化したわけなのでした。

もし、創作物による性的関心の消化(昇華)の自己目的化を非難するならば、それをどこへ持っていくべきか、という話をしなければならないことになります。

美しい映画の背景に、重い現実があることは『加藤隼戦闘隊』と同じことかと思います。

そのようなことも少し念頭に置きつつ、若い世代の参考のためにも、文化遺産として長く伝えられると良い映画だと思います。

2015/01/19

【1958年大映、市川崑『炎上』】


観ると良い映画。

格調高い文芸作品。笑えるとか泣けるとか萌えるとかそういう娯楽要素はバッサリ切って捨ててあります。

三島由紀夫『金閣寺』が原案で、取調室における回想として始まる、犯罪者の内面描写です。冒頭に「これは架空の物語である」旨、ていねいな注意書きが示されます。お寺の名前は「しゅーかく寺」に変更してあります。

被差別が重要なモティーフになっており、いわゆる差別用語に傷つく若者たちの姿が直截に表現されています。同情的ではないところが市川流。

構図の美しさとともに、間合いによって人物の心理を表現する技が印象的です。

中盤は「仲代達也が主役を食っちまう」の巻。生まれながらの色悪というか、フィルム・ノワールそこのけというか。でも市川雷蔵は誠実な表情で受け留めます。

女性の狡猾さ・男女関係の打算ぶりを指摘する辛辣さも、フランス映画を寄せ付けません。

「男のお友達同士って、見ててもええ気持ちのもんやわ。うらやましいわ」

言わんでもええことを言って自己主張したがるのが、間にはさまれた女ですな。

若い女優たちも上手いものですが、脇を大物が固めており、演技というものを知る勉強にもなろうかと思います。北林谷栄(トトロのおばあちゃん役)が圧巻です。

内容については、やっぱり差別する人がいることが悪いのです。みんな鶴川ちゃんみたいだったら良かったのです。母親がもっと図々しく生きる人だったら、主人公も追いつめられなかったのです。和尚はなんだかんだ言って、女と切れてないのです。

でも、お母さんはお母さんなりに心ばえが美しい人だっただけなのです。和尚だって、お腹の大きい女性を無一文で追い出すほど非情ではなかっただけなのです。

……というあたりをきちんと映し出しつつ、それでもやっぱり犯罪の実行に至ってしまう人には、どっか甘えた部分があるというあたりを外さないところが市川流で、この「良薬は口に苦し」というか、苦すぎてむしろ爽快という読後感は『犬神家』にも通じるよな、などと思い出すのでした。

(映画の「観後感」って言葉がないのは不便ですね。)

差別用語の問題があって、もはやテレビ放映も再上映もできない作品かとは思いますが、戦中・戦後の風俗描写の貴重さと併せて、長く残されるべき名作だと思います。

2015/01/20

【パゾリーニ、1964年『奇跡の丘』】


あるいは、マタイによる福音書。

原題がそのまんまである通り、大ロケーション敢行・大量エキストラ投入によって、イエス誕生から受難・復活までを真正面から描いた大叙事劇。モノクロ。

エピソードの数々は、キリスト教徒にとっては一般教養以前の基礎の基礎なので、「ここは○○の街」なんてナレーションも字幕も入りません。

その今さら映画化するようなものでもないことを、あえて撮ってみたのは、ルネサンス絵画や絵本などを通じて、すでにでき上がっているイメージをぶち壊すくらいの勢いで時代考証を施し、リアルに徹してみたということのようです。砂っぽい荒地が舞台なので、一見地味ですが、すごく手が込んでます。吹きわたる風の音がリアルで強く、撮影も大変そうです。

やや高踏派というか、かまえた感じがパゾリーニ節なのですが、なにせリアリズムで押してくるので次第に圧倒され、飲み込まれていきます。

若きマリアの美しさは、従前から持っているイメージを損ないません。成長後のイエスの顔立ちも美しく、弟子たちもそれぞれに良い顔です。でもファンサービス的演出はなく、笑いツボもお涙頂戴もありません。

観客はタイムマシンで当時へ連れて行かれ、その土地の住人の一人として奇跡を目の当たりにする思いです。やがて舌鋒火を噴くイエスの演説に胸が迫ります。

ユダの裏切りも、ゴルゴダの丘も、老母の嘆きも克明に描かれます。すべてが誠実で真摯です。

もちろん処女懐妊の真偽の詮議などできません。

が、イエスという人物が自分に嘘をつかず、権力に対抗し、その見返りとして金銭も快楽も要求しなかった、本物の宗教家であったことが知られます。

異教徒としては感情移入を自戒したほうがいいかなって気分にもなりますが、これはキリスト教徒の誇りが高らかに謳い上げられた傑作……ってことで良いのだろうと思います。

全編を通じて、バッハとモーツァルトが響いており、そこだけ時代が合ってないだろうと突っ込みたくならないこともないですが、台詞が少なく、半分はその音楽を聴くための映画にもなっています。

『メディア』では日本の長唄が使われていて呆気に取られましたが、こちらではアメリカ式のゴスペルが使用されています。

既成の音楽を利用するパゾリーニ作品は、すごい金かけてるはずの割にやや青臭いというか、学生の自主制作映画みたいなところがあり、時おり天然ボケみたいな要素もないではありません。

また、そこが良いです。


2015/03/17

【月も曇らぬ日の本や。~高畑勲『かぐや姫の物語』】


ここまで来たのか。ここから再び立ち上がって行けるのか。

アニメは伝説になろうとしています。

ディズニーは、日本人が求めていたものがセル系アニメではなかったことを証明してくれちゃいました。

アメリカ映画界は、鷹揚にもウォルトを追撃した日本人へ勲章を与えて労をねぎらった格好ですが、「これにて一件落着」というつもりもあるのかもしれません。

『アナと雪の女王』を観た少女たちが気に入ったのは、まるで夜の歌姫のように華麗に装った雪の女王でした。

その後追いの形になってしまった『思い出のマーニー』の鳴かず飛ばず感は、男性監督の好む「清純な少女」という表象の限界を思わせませす。

いっぽうで実在男優は、女流の描き続けてきた理想像に近づきました。その結果、漫画の実写化に違和感がなくなりました。

これからのアニメファンは、実写化よりも、ミュージカル化よりも、セル系アニメ化のほうが利益が高いことを、スポンサー企業に約束しなければなりません。

日本アニメは、芸術として独立していけるのか。漫画の電気紙芝居化であることから離陸できたのか。


【芸術アニメ。】

すでに1930年代に公開されていたディズニーの『白雪姫』を、日本人が戦後になって初めて見たとき、絵心のある人が思ったことは「俺たちもこういう映画を作ろう!」ということだったはずなのです。

黒ネズミの口笛から始めたウォルトは、10年ほどの間にオペラとハイアート的風景画を取り入れ、当時の上流人士が(タキシードではなく)燕尾服を着て、盛装したご婦人をエスコートして鑑賞するにふさわしい作品を描くことに成功しました。

が、日本ではドワーフたちの軽妙な動きに心奪われ、それをテレビサイズに換骨奪胎した作品の量産が繰り返されたわけです。

そこには、敗戦国の労働者の自尊心が反映されていたと見ることもできます。ハイアートとか燕尾服とか言ってる場合じゃなかったのです。

その横で、あるいは自らそれを手がけつつ、歯噛みしていたのが宮崎であり、高畑だったろうと思います。

少し前に「アニメは文化だ」という言い方がありました。が、人間のやることは自然に対して何でも文化なので、これでは何も言っていないに等しいです。

本当に言いたいのは「アニメは芸術だ」ということだったでしょう。

ただし「芸術」というと、芸術のために脱ぐ、といったことが連想されるので、かえっていかがわしい感じがするというのは、日本に限った話ではありません。

でも、この映画は、やっぱりテレビ会社を成り立たせるための宣伝材料、視聴者におもねった娯楽といった性質を超えています。漫画に色をつけるといった発想からも自由です。

絵を動かすとは、どういうことか。自然物を筆で再現したものに何ができるのか。日本の絵師の「芸」とは、「術」とはどういうものか。

かつて野坂昭如をして「アニメ、おそるべし」と言わしめた高畑(と仲間たち)が、リアルな質感にこだわり続けた果てに到達したのは、古典でした。

湿度の高い日本では、欧米とは自然物の見え方が違う。日本におけるリアルは、西洋絵画におけるリアルとは違う。

西洋絵画を知らなかった時代の絵師が、比較の結果ではなく彼ら自身の感性で知っていたことを、彼らは再現してみせました。

最新のコンピュータ技術を駆使して。


【二律背反。】

彼らは東映まんがまつりの一番よかった頃を知っています。世界名作劇場を手がけました。1970年代後半からの混乱と、その後の全てを知っています。

夢を売り続けてきた彼らが、最後に言いたかったことは「現実は美しい」でした。

夢を形にしてきた彼らは「わが人生に一片の悔いなし」と言い得るのです。「なにもかもみな懐かしい」と思うことができるのです。

彼らは、どうやら地を蹴ろうとしています。最後の反物を織り上げたように思われます。天人の放つ光芒が、すでに見えているのでしょう。

若い人にはどのように響いたでしょうか。

お金がなければ、偽物の貴族暮らしを経験することさえできません。

あれほどの自然は、国内に残っていないことはありませんが、人間が空を飛ぶことだけは無理なので、「自然を愛せよ」と言いながら、やはり都会に身を置いて、最新の技術でアニメーション映画を制作することの喜びと誇りに溢れています。

伝統を重んじ、古典を究めることは、それ自体が現代文明への批判でもあります。手作業に従事する職人が丁寧に描かれたことは、制作者たち自身の自尊心の表現でもあるのでしょう。

でも、彼ら自身はお椀を削ることも、家を建てることもできません。「男のくせに絵ばかり描いてる」って言われた人々だったわけです。


【大人の男女。】

能楽における三保の天女は、もともと自分の知っていた舞楽を演じただけで帰ってしまうので、地上のわらべ歌を覚えて帰った「あの人」は、漁師の妻となって数年を過ごした民話を前提にしています。

高畑は『平成ぽんぽこ』でも複数の男女(雌雄)カップルを描いた通りで、「性」の営みを表現するに宮崎よりもためらいがなく、しっとりと抱き合う肉体の実在感を持っているように思われます。

月の冷たく清浄な光に対して、若者のぬくもりと汗の匂いの感じられるクライマックスシーンは、大人の芸術鑑賞にふさわしい場面だったかと思います。

全編を通じて女性のイニシエーションにおける痛みを描いた脚本は、よく見ると女性の仕事です。女性の感性を取り入れることによって、男性監督が自らの属する社会を批判するといった性質も持っているようです。

田舎育ちの身で、貴族男性社会の価値観にとらわれてしまっているために、娘の幸せの方向を見誤る翁の姿を、女性の筆が辛辣に描き出し、男性監督が人情味のオブラートにくるんだとも言えるようです。

なお、翁の動きはお狂言方だなと思いました。彼に日本アカデミー主演男優賞をあげて下さい。べつにアニメキャラが受賞して悪いことはありません。


【かぐや皇子。】

よく考えると、山育ちの男児が貴人の落胤と知れて都へ連れて行かれ、急に学問を授かることになったという時も、同じ問題が起こるのです。

男の子だって綺麗な着物や絵巻物を見れば目を輝かせるでしょう。でも、高貴の若君というものは、はしたなく笑ったり、走ったりせずに、眉を抜き、歯を染めるものです……

権力争いに巻き込まれ、顔も知らない姫君と添わされることになれば、彼にとっても性的自尊心・肉体の純潔を保つといったことは「男だから気にしない」では済みません。山で一緒に遊んだ少女が懐かしいといった気分にもなるでしょう。

あげくに用済みとなって流罪などということになれば、俺の人生なんなんだ、となります。

でも男の子の場合、塀をのりこえて自立と冒険の旅に出る気概がないのは情けないというわけで、ハックルベリー・フィンのような話のほうが愛され、泣く泣く運命を受け入れるといった話は、あまり男性監督によって描かれることがありません。

やっぱり男の子は、捨丸にいちゃんのように「どこまでも逃げよう!」というほうが良いわけです。

かたや女の子は、諦めがちである。相手が天人であれば、武術や呪術を習得して撃退しようとしても無駄である。それをきちんとわきまえているので、じたばたしない。男児のように稚拙ではなく、クレヴァーであるから、見苦しく暴れるよりも、美しく運命を受け入れてしまう。

これは監督の意見か、脚本家の実感か分かりませんが、現代の若い女性観客をイラッとさせるかもしれません。


【整合性。】

竹取伝説は、確かに奇妙ではあるのです。縁談を断り続けた姫は、何がしたかったのか。

いずれ月へ帰ることを知っているとはいっても、人界にある間を楽しく過ごし、期間限定で次々と男性と契りを結ぶことは、できないことではありません。どのみち男心は秋の空ですし。

仮に最初から都で育てられ、五人の求婚者のうちに筒井筒の仲の若君がいたとすれば、そのかたの手を取って、ハッピーエンドです。時移って天へ帰るに際して、「これを私と思って」と髪飾りの一つも置いていけば、美しい話として納まります。

もとは異界との交流を描いた神話だったに違いなく、三保の天女が漁師の妻になるのが原型に近いでしょう。

でありながら、人界の男を迎えるのではなく、言葉巧みに求婚をかわし、純潔を保ち続ける姫の姿は、すでに当時、物語を通じて権力を批判し、作中で誰のものにもならない代わりに読者すべてのものであるという、キャラクターの処女性を高く評価する姿勢が生じていたことを思わせます。

神話・伝説が人間のための「物語」になりつつあったのでしょう。

と考えると、一見して原作破壊といいたいほど大胆な脚色が施されているようでありながら、じつはひじょうに忠実に原作をなぞった話になっています。


【民族色。】

三保の天女伝説を知らない観客が見たとき「あの人って誰?」と腑に落ちない感覚が残るだろうと思われます。

そう考えると、これは多くの日本人が羽衣伝説を知っていることを前提とした、パロディの手法でもあります。

『平成ぽんぽこ』は、タヌキとは化けるものであるということを前提にしていました。

この「分かる人には分かる」という描き方は、能楽を始め、日本の古典にはよく見られる手法ではあります。島国において、同じ文化が共有されていることを前提にしています。

「かくや姫」は「さくや姫」に通じるわけで、そもそも「竹取物語」自体がさまざまな神話を下敷きにした二次創作といい得るでしょう。

なお、翁たちの頭でっかちな造形は、道祖神などを思わせます。あれは昔の日本人のリアリティだったのです。伝統芸能のビデオの古いものを観ると、本当に五月人形がそのまま動いているような男の子がいるものです。

日本人が二頭身・三頭身のキャラクターを愛するのは、だてではありません。

海外市場を意識して、ひじょうに意図的に日本らしさが追求されたかと思われます。こだわり過ぎて興行的には厳しいのかもしれませんが、ロシアの『雪の女王』などと並んで、民族色豊かなアニメの傑作として語り伝えたい作品だと思います。


【痛み。】

露骨なご都合主義でハッピーエンドに持っていくのがディズニーで、対する日本人は「痛み」をしっかりと見据える・観客全員で分かち合うといったことが好きなようです。

宮崎監督は「平和だったからアニメを作ってこられた」と言いました。

その根本にあったものは、勝てば官軍という意識ではなく、負けて得た平和の尊さといったことだったのでしょう。

高い櫓を組んで矢を放つ男たちは、天人の前に用を成しません。姫の足を一瞬止めさせることを得たのは、地を這う子供たちでした。

笹は狂女の印です。常識を超え、大人の男たちに遠慮しないものが一瞬の勝機をつかむのです。

姫の耳から童唄が消えることはないでしょう。月宮殿から青い地球を見るたびに、清浄な肉体を哀しい痛みが満たすのでしょう。

そしてまた誰か天少女が降ります。迎える地上は、彼女の冷笑を呼ばないものとなっているでしょうか。


【アニメの未来。】

アニメは伝説になろうとしています。

宮崎が受賞し、高畑は「わが人生に悔いなし」という今わの際の言葉のような作品を挙げ、山本二三の背景画だけを集めた展覧会が開催され、何か一段落ついてしまったような印象です。

子供が減るので子供番組をスポンサードして広告枠を確保する意義も減ります。録画の際のCM抜きを自慢してしまう人がいるなら尚さらです。

スマホの時代が来て、明らかに「盤」は売れません。

漫画発表のデジタル化は、著作権管理の国際問題化を招くでしょう。

二次創作者を抱きこんだテレビアニメ番組という形態は成り立たなくなりつつあります。

あらゆるビジネスモデルが瓦解していく音を聞くような心地がします。

アニメは、ひじょうに熱心なファンのみの出資による有料放送・ダウンロード配信といった形で独立していけるのか。技術を維持することができるのか。

動物などの非人間キャラクターが活躍する絵本は、実写化が不可能なので、アニメ化の良い題材となるでしょう。そのロードショー映画化は、どれほどスポンサー企業の心をつかめるでしょうか。

また、それは立体CGではなく、高畑たちの愛した「絵」であり続けることができるでしょうか。

若い監督が低金利で利用できる「アニメ基金」のようなものが必要だと思われます。

アニメへの愛を表現するには、自分自身がアニメーターとなって、30年前と同じ作品単価に甘んじるばかりではありません。

起業したり、発明したりして資金をかせぎ、それを新作アニメ映画の企画にポンと供出する製作者になっても良いのです。




2015/05/22

【らせんの素描。】


1980年代の映画です。まだ洋画による美化されたイメージが生きており、AIDSの発生を背景にしたバッシングも強かった頃に、勇気をもってカミングアウトしたゲイ男性たちの日常を伝えるドキュメンタリー。

金髪でも、美少年でもない、ふつーの日本のお兄ちゃん・おっさん達の穏やかな表情を静かに映し出した良作です。

お芝居をしたり、詩を朗読したり、歌を唄ったり。

のびのびと自己表現したいだけ。好きな人と一緒に暮らしたいだけ。

彼らのささやかにして切実な願いは、それさえ妨げられがちな現実を背景にしていることを思うと、胸が痛みます。


【スパイラル。】

「らせん」というタイトルは、異性愛者を英語で「ストレート」というのへ対して、同性愛者はスパイラル掛かってるということらしいです。

皮肉かもしれませんが自虐かもしれません。実際には、彼らなりにまっすぐに愛する人へ向き合っているだけだと思います。

同性愛者なんて実在しないとまで思われた時代もありました。異質な存在を意識していない者は、あえて他に対して名乗る必要がありません。

すなわち、ストレートというのは、もともと名乗る必要を感じていなかった人々です。

思うに、ゲイは女装するものだと思い込まれていた時期があって、わざわざそんなことする奴らは変わってるよ(ひねくれてるよ)というので、その逆に俺たちは「素直」だよね、という意味でストレートという呼称が考え出されたものでしょう。

さらにそれに対してスパイラルというなら、やっぱり皮肉かもしれません。


【クレーム。】

映画中では、主人公にあたる青年が居室のまんなかで新聞を広げており、相対的に体の小さい若者が料理を担当していて、互いを「ママ」「パパ」と呼び合っているという場面があって……

これを見た或る女性が「ほんとうの育児と仕事の両立の苦労も知らないくせに、ごっこ遊びか。ふざけんな」と、映画評としては強すぎる口調で非難したらしいです。

らしいというのは、「フェミニズムの○○さんがそう言っていた」という伝聞記事が、どこかに載っていたからで、私自身もどこでどう読んだやら。1980年代末のことだったと思います。

うろ覚えで申し訳ありませんが、女性の仕事と育児の両立といった話を耳にするたびに思い出すエピソードです。


【苦労させてあげればいいです。】

もしかしたら、ママ役の彼はトランス女性だったのかもしれません。彼女にとって料理を担当し、ママと呼んでもらうことは嬉しいことだったのかもしれません。

それは「家庭的な女性」という旧時代の理想イメージの再生産であり、ママ役になりたくない女性の迷惑だからやめろと言うのは、ママ役になりたくない女性の都合でしょう。

身体と行動の自由は、これを保障されています。結婚したくない女性には、結婚しない権利があります。

逆に、ママになりたい人には、ママになる権利があります。

GLBTが養子を取って、育児と仕事の両立の苦労を味わうことを妨げているのは、マジョリティ(異性愛者)側が勝手に決めた法律です。

そもそも彼らに結婚を許さないのは、マジョリティ(異性愛者)側が勝手に決めた憲法です。

両立の苦労を味わってほしいなら、いずれも改訂すればよろしいです。


2015/06/24

【映画『ハリー・ポッター 死の秘宝 Part1』】


トビーに助演妖精賞あげてください。

原作ともども、毎回ハッピーエンドというお約束を繰り返さずに、商業性が犠牲になりそうな危ういところまで踏み込んで、キャラクターを成長させていくシビアさは見習いたいところです。

いじめっ子一家もいなくなってしまうと寂しい冒頭から、おなじみキャラクターが勢ぞろいして「ハリーだらけ」になるファンサービス、CGであることが分かっていてもなお見ごたえのある逆走カーチェイス。

間然するところのない序盤は、制作側にとっても楽しい仕事だったろうと思います。

もはや、デスイーターの活躍も、ファンサービスの内でしょう。

ヴォルデモート卿と愉快な仲間たちは、ゆる~~いゴシックホラーなわけですが、世界中の善男善女が家族で鑑賞できる範囲を超えない心づかいが泣かせます。

中盤はアナログ班の腕の冴えの見せどころというのか、保護者を失った若者たちの不安な心理の表現が、暗い情景描写とあいまって、娯楽作品の域を超えていたと思います。

なにがうらやましいって、ロケ地に事欠かないことかもしれません。

ロン役のルパート・グリントは、もともと力量のある子役さんでしたが、よい顔をするようになりました。名脇役として成長してほしいです。

ポッター役のラドクリフは、逆に生っぽいところが良いわけで、天然というのか、主役らしさを備えていると思います。まったくもって最初に見出した人のお手柄でしょう。

もっとも、途中から原作のほうが俳優をイメージして書かれていたのかもしれません。作家冥利です

ロンが見た幻は、彼の心の中にあるものを反映しているわけで、登場人物たちが「性」を意識せずにはいられないお年頃に達したことを、よく忌憚なく表現したと思います。

観客からは賛否あったと思いますが、避けて通らなかったことは制作側の英断でしょう。


2015/06/30

【ハリー・ポッターと死の秘宝 part2 (2011年)】


教訓1:部下は大切にしましょう。 2:母ちゃんを怒らせると怖いです。

アズカバンの番人を天井から吊るしてみたいな、USJへ行けばモビール飾りが売ってるのかな、などと思いつつ……

原作を読んでしまうと「原作とちが~~う」という点が気になって、映画そのものの呼吸を見誤るので、原作は後回しです。


【静けさが生む風格。】

画面が白黒で、血の色を表現できなかった時代の映画には、残酷さを売りにしない品の良さがあったと思います。

これは魔法同士の闘いってことで、血や傷口を表現せずに最終戦争を描くことができるという離れ業……ですが、ビデオゲームから来ているアイディアかもしれません。

なんにしても、欧米は戦争を描かせると上手いです。野っ原を利用した会戦風景を撮影することもうまいんですが、戦争によって生じる、言葉にできない心の痛みを表現することがうまいです。

日本にも昔はドキュメンタリー調の良作戦争映画があったのですが、最近は力点を置くところを間違えているような気がします。

これほどのアクションを描いても大作の風格があるのは、静かだからです。

日本では映画もテレビドラマもアニメもバラエティ番組も、怒鳴り散らすことを「ちからのある演技」と勘違いしており、終始「どおしてえええええええ!?」「なんでだよおおおおおお!?」と怒鳴りっぱなしで、うるさくてかないません。


【男同士と女の誇り。】

ハーマイオニー、マクゴナガル先生をはじめ、要所要所で女性の毅然たる活躍が見られたのは嬉しいところでした。「一度使ってみたかったのよ♪」 先生、可愛い。

いっぽうで、男たちは弱く、ずるい存在として描かれている(こともある)わけで、やっぱり女性の筆から生まれたキャラクター達らしいところかもしれません。

単純な勧善懲悪ではなく、悪を倒さんとする度に自分も傷つく。みんなを守るために自分が犠牲になれるか?

このような難しいテーマの設定には、もし戦争が起きたら息子を兵隊として差し出さねばならないと考えたことのある母親の意識が働いているのかもしれません。

次世代が成長してから対決するといえば、人類とともに古い父親殺しのモチーフですが、実際には血縁ではない男同士が深いところで結ばれているというモチーフは、男性作家からは提出されにくいものかもしれません。

いっぽうで、人妻に捧げる永遠の愛という女冥利も描かれているわけです。

男同士の暗い絆にロマンを感じるといいつつ、女が一番いいところを持っていくわけです。

ハリー・ポッター生みの親といえば、リリー以前にローリングです。

そして(おそらく)世界中の女性ファンが、スリザリン代表の純愛に紅涙をしぼったことでしょう。

原作はシングルマザーの暇つぶしのようなところから始まったと記憶していますが、これは確かに女流が放ち、作家とファンの心が一致した、最高最大の幸運な作例なのかもしれません。


【イギリスの伝統。】

「魔法があれば何でもできる」という話は多いですし、秘宝を求めて旅をするという話も多いですが、見つけてみたら身近な青い鳥だったなんて落ちも多いわけです。

でも、これは「秘宝が実在する世界で、なまじっか魔法が使えると、けっこう大変なんだよ」というわけで、トールキン『指輪物語』からまっすぐにつながっており、今なおケルト世界と共存するイギリスらしいひねりだと思ったりも致します。

あるいは、その「別の現実がある」という考え方が、植民地経営の上手さに反映していたのかもしれませんし、同じキリスト教でも大陸とは違う宗派を奉じることが影響しているのかもしれませんが、それはまた別の話。


【ファンとの蜜月。】

シリーズ中盤では、ハリーに彼女ができたり、ハーマイオニーがプロポーズされたり、話がファンサービスを勘違いした方向へ広がりかけた頃もありましたが、ここへ来て最初の三人の活躍に絞り込んだのは英断でした。

そして本当に脚の長くなったロングボトムは、昔っから自分の思ったことをちゃんと言える子でした(涙)

このように話を整理していくのは、世界中のファンからのフィードバックを取り入れた成果でもあったことでしょう。『賢者の石』が公開されてからの十年間は、原作と映画とファンとの幸福な蜜月だったと思います。


【映像美を支える伝統。】

資金の集まり具合が画面の豪華さに正比例していることは申すまでもないので、感想も精神面に偏りがちですが……

守りの魔法を発動する教授陣のカッコ良さ。悪の攻撃魔法の美しさ。

涙と溜息が出るほどの映像美をささえるセンスは、実際のゴシック建築を含めた、他のヨーロピアン・アートと共通であり、地続きであるので、これは羨ましい限りです。

音楽のセンスの良さも伝統にそのまま乗っているので、かなわないところかもしれません。アルカディアの野の牧童と乙女のごとき小セブルスと小リリーを彩った印象派風の音楽が粋でした。

亡きポッターのためのフュネラル・マーチも素敵というのもあれですが、素敵でした。

ルシウスのやつれた姿も素敵でした。


【多様な現実。】

いつもの三人の顔で締めたラストシーンには、スタンディングオベーションを送りたいです。実際に起きた映画館も、世界中にたくさんあったかもしれません。

ハーマイオニーのママっぷり、ロンのとーちゃんっぷりが良かったです。

俳優たちとともに、観客も驚きと笑いと戦いと心の痛みを重ねながら、年を取ってきたわけです。

なお、レンタルビデオを吹き替え版で拝見したので、先代校長は永井一郎さんでした。彼も日本が誇る名優でした。

たぶん世界中の国々に、その人ありと知られた吹き替え上手の声優さんがいるのだろうと思います。

いまや世界中の多くの人々が、9と4分の3番線から行くことのできる世界は、この世界の隣に実在すると信じていることでしょう。

その脳裏では、あるいは魔法上手なハーマイオニーが料理には苦戦する様子や、子供の出生の喜びや、ロンが育児に奮闘する様子など、さまざまな場面が繰りひろげられているのかもしれません。

しかも、それぞれの台詞が、それぞれにとって最も親しい言語で脳裏に響いていることでしょう。

「もちろん君の頭で起こっていることじゃ。だが現実でないとは限らん」(アルバス・ダンブルドア)