2016/02/01

2014年、北村龍平『ルパン三世』


レンタルDVDで拝見しました。小栗旬の役作りがお見事でした。浅野さんは楽しそうでしたね。

二人の誇張した演技は云うまでもなくアニメ声優の遺業に負っているわけですが、対するに黒木不二子が女性声優に寄りかかったものでないのが印象的でした。

とくに冒頭の彼女の天井から逆さづりになった美しさは刺激的で、「フィルム・ノワール監督の皆さん見てますか?」と呼びかけたいようです。あなた方に憧れた日本映画界がここまで来ましたよ。

もう少し新しいところでは、キャスリーン・バトルが出演した『ディーヴァ』という作品がありましたが、そのようなフランス映画のいくつかを思い出させる映像美と、香港映画に日本語吹替えを乗せたときの面白さと、外人が抱く映画的イメージとしてのアジアを、日本人スタッフが再現している。

どうせ嘘をつくなら最高の嘘をつけ、どうせパクるなら最高のパクリを作れ。まさに世紀の大泥棒を描くに相応しい賢明なアプローチだったと思います。

が、たぶんサービス精神旺盛すぎるわけで、冗長感はいかんともしがたく、映画館で「途中で寝た」って人もいたかもしれません。イケメンゲスト俳優多すぎで、眼の保養ではあるんですが、もうちょっと整理できなかったか脚本、とは何回も思われたところです。

水色上着のピエールくんが「いるだけ」になってしまったのも惜しい。たぶん彼にプログラミングの天才の役を与えたほうがスッキリしたでしょう。

エンディングの名場面集も、くどかったかと思いますが、日本的な省略の美学とか知らないよっていう開き直り感は、今どきのサブカルらしいところではあります。

要するにスタッフ達はやりたいことを全部やったはずで、思い残すことはないでしょう。メインキャラクター達の「攻殻立ち」を含めて、サブカルファン泣かせのサービスが随所に盛り込まれ、制作陣も楽しんでいた様子が伺えます。ただし、それにしちゃリア充向けだよなっていう……。

もともと洋画に憧れた日本の青年が漫画を描いて、アニメ化されて、サブカルの聖典の一つみたいになったところで、また映画というフォーマットに戻してみると、出世したような気もするし、二次元ファンの手から離れてしまった寂しさもある。

黒木不二子は現代日本女性のナルシスムを充分に満足させたはずで、女性観客の支持は高いだろうと思われます。露出的な女同士の格闘シーンも素敵でした。もとより少女趣味のアニメファンは見向きもしなかった作品かもしれませんが、美男美女の和気あいあいとした食事シーンに疎外感を覚えた観客は何人いたでしょうかいなかったでしょうか。

いっぽう、オールド実写映画ファンには「世界観の基盤が日本製アニメであることをご理解ください」と申し上げなければなりません。つまり映像マジックというだけでは納得できない約束事がいくつかあるわけです。

白鞘は割れやすいので実戦には向きませんというのは、さすがに今さらかなとは思われますが、男性が室内で帽子を着用したままというのは欧米のマナーとしてはあり得ません。畳の上で靴をはいたままみたいなものです。

つまり、欧米のまともな映画祭で評価されることは想定していない。また時代風俗をとらえた名作として百年先まで残ることを意図していない。

まさにテレビアニメをそのまま実写化した娯楽作品なわけで、基本的にはアニメファンだけに理解してもらうことを意図したという捨て身の戦略。

と云いつつ、じつは様々な実写映画作品のパロディの要素も含まれており、そうと割りきった上で見てみれば、盛りだくさんの素材をよくまとめ上げた良作と。

観客のほうで、やや頭脳的なアプローチの必要な作品かと思われます。逆にいえば、そうとでも割りきらない限り「無価値」といってもいい作品でもあります。

文化史的に見れば、「漫画の実写化」ではなく、その間にアニメが存在するわけで、しかも声優の演技がひじょうに高く評価されている。さらにアニメ化にもバリエーションがいくつか存在するわけで、そのそれぞれから満遍なく要素を抽出している。

『るろうに剣心』のほうは、漫画に直接取材したといってもよいものですが、こちらは洋画への憧れ→漫画→アニメ→特殊撮影技術を進歩させた映画という日本創作界の変遷の象徴として、大きな意義を持つものかもしれません。

だから、かえって百年先まで残す価値はあるわけですが、男がギラギラのキザでいられた時代への憧れを描いたルパンも、女性活躍・イケメン推進という時代の潮流には逆らえなかったという、社会学的意義もあるのかもしれません。

BGMはノスタルジーを効かせたジャズ調で素敵でした。が、キャラクターがあれだけテレビシリーズ準拠なら、なんとしても大野サウンドの権利を取ってほしかったところではあります。

2016/02/16

『300』のメイキング風景。


クロマキマキマキ。ブルーシートの上に裸のお兄さんがいっぱい。変な現場だなァ……

でも、あの肉体美が本物であることがよく分かります。あと、機材でいっぱいのすごく狭い空間で殺陣を演じている。細かく撮って、ていねいにつなぎ合わせるですね。先立って、原作コミックに基づくストーリーボード(絵コンテ)が入念に描かれているのでしょう。

テレビのトーク番組(ダウンタウンがホスト役)で、志村けんと坂上忍が現代のテレビ撮影現場に対して「役者が演技する前にカメラ割りが出来てるのはおかしい」と、昔ながらの俳優魂を燃やしていたのですが、この映画は正反対のアプローチのようです。その作り物っぽさが売りなのは云うまでもありません。

もしかしたら、日本の特撮・アニメの技術が影響を与えているのかもしれないけれど、日本はそれについて何も受け取っちゃいないはず。押井守の映画作品がキアヌ・リーブス主演映画に影響を与えたことは知ってる人は知ってるけれど、彼はそれについて何も受け取っちゃいないはず。

「コピー商法は許さん」という彼の怒りは、そうとう根深いものなのかもしれないな……などと、『300』そのものとは特に関係ない感慨にふけったりしたことでした。

あるいは、日本はディズニーという帝国を、よく300人(よりはもうちょっといるかもしれない練馬アニメーター軍団)で防いでいるのかもしれません。

2016/03/14

1953年、阿部豊『戦艦大和』

総指揮:田邊宗英
監督:阿部豊
原作:吉田満『戦艦大和の最期』(創元社)
脚本:八住利雄
教導:能村次郎(元「大和」副長)
美術:進藤誠吾
音楽:芥川也寸志
出演:藤田進、舟橋元、高田稔、佐々木孝丸

守るも攻むるも黒鐵の、浮かべる城ぞ頼みなる。浮かべるその城、日の本の皇國の四方を守るべし。

九州徳之島の西方、二十浬。水深、四百三十メートル。昭和二十年四月七日、午後二時二十分。戦艦大和、ここに轟沈す。

緊密な1時間40分45秒。宇宙戦艦のほうに「よく見ておけ」という台詞があったので、よく見てみようと思ったのと、芥川也寸志の文字に惹かれたこともあって借りたのですが、静かなのです。

オープニングだけは後期ロマン派ふうの壮大なオーケストラ曲が芥川らしいのですが、「天一號作戦関係綴」の表紙が表示された後は、粛々と静かなのです。

映画としては実直な作りで、肝心な大和が稚気あふれる模型なのも明らかですが、冒頭の長い巡検シーンによって、総排水量七万二千トンの内部の広大さを表現する工夫をいたしました。

数人の将兵に焦点をあてて人間ドラマを描くので、乗組が少ないように感じられ、まるで駆逐艦のような一体感ですが、それによって吉田原作の精髄を表し得たと思います。

原作の精髄。それは実在将兵への無尽の尊敬と哀悼の念です。

命令くだり、死の不安を胸に、苛立ち、迷いながらも、海軍士官たちは紳士でありました。兵は純情でありました。

キャスティングがたいへん良いです。青年たちはまだ演技が生硬で、下士官を演じる中年は生々しく、少年兵はほぼ素人です。実際にこんな人々が亡くなったかと思うと、涙を禁じ得ません。

上級仕官を演じるベテラン俳優たちは、一触即発の若い士官たちを宥めるために、淡々と訓戒しながら、わずかに声が震える。心で泣いているのです。「終戦」後8年の時点にあって、役者の体内を演技以上のものが満たしていたように思われます。

でも感極まって男泣きする奴は一人も出てきません。死の緊迫感と持ち場への責任感が強すぎて涙も出ない。実録映像ではなく、あくまでフィクションなんですが、ドキュメンタリーのドライさを再現し得ています。

前半は、ベタな長台詞が多く、編集に甘いところがあって「昔の映画だな」と思わされますが、だんだん良くなります。ややファナティックな甲板士官が老兵相手に気遣いを見せるところなどは上手いです。

広い艦内で吉田もすべてを見たわけではないでしょうから、これは脚本が良いのでしょう。

長台詞の例:「いままで大きいと云われた長門・陸奥は四万トンだが、大和は七万二千トンだ。長門の主砲四十サンチ八門に対して、大和は四十五サンチ砲九門を積んでいるんだ。弾丸一発の目方が約一トン半。それが一分半で四万二千メーター飛ぶ。一回の発射で九発出るから、つまり、一度に十三トン半の鉄塊が飛ぶ。長門級の戦艦なら、大和の主砲一発で撃沈できる。大和一隻は、陸の七個師団に相当する実力があるんだ」
「そんなこと、俺たちよく知ってるがな」
「いや、国民の大部分はまだ大和を知らん。俺は、日本にはまだこんな強力な軍艦があることを国民に知ってもらいたいんだ」

実際に大日本帝國臣民は聯合艦隊が壊滅したことを知らされていなかったらしく、ただの日本国民となった今、あらためて知ってもらうことになんの意味があったかというと、その価値を否定するためではなかっただろうと思います。

しかも続けて青年たちは、航空機の時代に大艦巨砲の特攻する意義を問う。納得してから死にたいという。それは愛国心の否定でもない。彼らが勇気と理知を兼ね備えた優秀な若者たちであったことを伝えたいのだと思います。

「征く我々が国のためなら、残るお前たちも国のためなのである」

未熟を理由に退艦させられる候補生たちに藤田進演じる副長が送った言葉。

「恋し日本の山々見れば、母の笑顔が目に浮かぶ」

車座になって酌み交わし、歌声を重ねる将兵。慈父のごとく休養を勧告する艦長。

まだ裾の短い上着を着た候補生たちと傷病兵が退艦していく行列も、省略なく粛々と。実直なドキュメンタリータッチを貫きます。

「帝国海軍部隊は陸軍と協力、空海陸の全力を挙げて沖縄島周辺の敵艦隊に対する総攻撃を決行せんとす。皇国の興廃は正にこの一挙にあり。ここに海上特攻隊を編成し、果敢なる突入作戦を命じたるは、帝国海軍力をこの一戦に集結し、光輝ある帝国海軍の伝統を発揚するとともに、その栄光を後世に伝えんとするにほかならず。各隊は、いよいよ獅子奮戦、敵艦隊をこのところに殲滅し、もって皇国無窮の礎を確立すべし」

豊田連合艦隊司令長官から全軍へ訓示が発表されるまでに、46分を要しております。(なお「ししふんせん」と云っております)

上甲板にて君が代を斉唱すると、まだ女を知らない者を含めて、総員三千三百ふた名、淡々と出撃。宇宙戦艦とは違うブリッジの狭さが印象的です。どの部署も人口密度高いです。復唱がいちいち生々しいです。万里の波濤を乗り越えて、勇壮な軍艦行進曲がこれほど悲しく響くとは思いもよりません。

海戦シーンは美術・特撮陣が頑張りました。敗戦後8年の時点で出来ることを全部やりました。広角砲も機銃もちゃんと旋回します。火薬すごいです。撮影・編集も手が込んできて、見ごたえが高まります。

せっかく観客が感情移入した将兵は、さえぎるものもない甲板上で、一人また一人と倒れて行きます。いずれ砲弾が当たれば沈むのが軍艦の定めですが、機銃でバリバリ撃たれることは全く想定になかった。そういう時代の産物だったことが、わが身に沁みるように分かります。

海軍士官の理想形というべきスリムな佇まいの美しい高田稔演じる伊藤第二艦隊司令長官が「もはや傾斜復元の見込みなし」と告げられて浮かべる表情は、演技であることを忘れて、胸に迫ります。なお、まだ四月初頭なので冬服と略帽です。海軍士官が艦内に持ちこむ刀剣は短いようです。艦長以下は第三種です。

傾斜した甲板を人員が滑り落ちていく様は生々しく再現されております。洋上の生存者へ機銃を放つ米機ゆるすまじ。

陸の砲台になるはずが、沖縄へ到着することもできなかったのです。沈没地点を改めて地図で示されると、こみあげてくるのは悔しさです。今なお埋没する三千余の骸。誰も死にたくはなかったのです。だからこそ尊いのです。死者は美化されて良いのですが、模倣がなされてはなりません。

「戦争に生き抜いた者こそ、真実、次の戦争を欲しない。太平洋よ、その名の如く、とこしえに静かなれ」

2016/03/15

1977年、ジョージ・ルーカス『スターウォーズ』

ピーター・カッシングとアレック・ギネスを直接対決させたかった……。

ライトセイバーは一振り欲しいですが、撮影現場には日本から殺陣師を送り込みたいです。

『さらば宇宙戦艦ヤマト』が公開された年(1978年)の配給収入第一位(四十四億円)がこの作品なのだそうで、劇場公開を観た記憶もあるので思い入れはあるんですが、あらためて観てみると荒っぽいですなァ!

セットと特撮とCGがすごいから観ていられるんですが、もし見慣れた西部劇や第二次大戦ものだとしたら、そうとうアレです。お話だから主人公の成長ぶりが御都合主義なのはいいんですが、その見せ方が。

脚本は行き当たりばったりだし、編集は雑と云いたいまでにブツ切りだし。ものすごく金持ちの学生が勢いだけで作っちゃったという感じです。

ルークやハン・ソロの初登場シーンはもう少し間をもたせて印象的にやっちゃどうだとか、R2に機密が仕込んであることが分かるまでにミステリーの面白さを持たせるってわけでもないし、ケノービはどんどん自己紹介しちゃうし、ルークにまともに稽古つける前にいなくなっちゃうし、ルークに特別に高い能力があるようにも描けてないし。

要するに、脚本術とか殆んど知らない素人が「宇宙戦争」というアイディアと、それまでに観てきた西部劇や大戦ものや(日本の)時代劇の記憶だけを頼りに書き飛ばしちゃったのです。

でも、その「めんどくさいからどんどん行くよ!」という若々しさが最大の魅力。テンポが良いことだけは間違いなく、このドライブ感は若い鼓動そのものなのだろうと思われます。

これは、公開当時には昔気質な批評家からは渋い顔をされたけど若い人には大人気! というものだったのでしょう。

アシモフの『ファウンデーション』を読んだ時も、すごい勢いで話が進むので呆気に取られた覚えがありますが、これがSFの語り口なのかもしれません。「細かいことはいいよ」っていう男の子らしさ全開。だとしたらSFという分野自体が日本の文壇で評価されなかったのも納得です。深みが足りないとか、情緒が足りないとか云われたに違いないのです。

冒頭「宇宙船内で銃撃戦とかアホか!」と思ったんですが、これは確かに男の子が真似したくなるわなァと、なかば呆れ、なかば微笑ましく。当時の女性も「男ってほんっっとこういうの好きよね!」って云ったかもしれません。

ルークは士官学校に入ると云っていたから16歳の少年ということなのでしょうが、幼い観客の眼には、とうが立っているように感じられたものです。今回は(自分が歳くったので)だいぶ可愛らしいと思いながら観ることができました。

もうちょっと肌がきれいだと良かったですが、砂漠で暮らしていた話ですから、あれで合ってるのでしょう。砂漠で何やって生計を立てていたのかも、あまり細かくは描写されていないところで、もうとにかく飛ばして参るのです。

ハン・ソロが大学を出た後ヤクザな道に入ってしまった兄ちゃんなら、監督そのものなわけで、それが弟を連れて冒険の旅に出たのでしょう。男の子冥利です。ハン・ソロを大好きな女流漫画家がいたような気がしましたが誰でしたっけね。

なお、初見当時から、リーア姫(俳優はこう発音してますね)が可愛くないのが不満で不満で……。

じつは同じ1978年には宮崎駿が『未来少年コナン』を手がけており、美少女の神秘的な能力(と少年の超人的な能力)を活かした物語作りの点で、一枚以上上手だと思います。

このあと日本では安彦良和が『クラッシャー・ジョウ』を監督したり、山本優が『J9』シリーズを手がけたりするです。懐かしいですね。もうね、日本人は物量作戦でかなわないから手先を動かしたわけで、それでも俺だってSFやりたいと思った人々のことは、まっすぐに評価してあげなくちゃなりません。

ルーカス作品に戻ると、音楽が抜群に良いことは云うまでもなく、使いどころも良くて、だいぶ救われてるだろうと思います。メインテーマについては1998年のフランス・ワールドカップの際のエンディングに使用されて唖然とした思い出がありますが、あの時はもう「ラ・マルセイエーズ」をここぞとばかりに流してくれて良かったんですが。それはともかく。

航空機の出撃シーンにたっぷりと尺が取られてるのはアメリカ魂でしょうか。航空機にやられたこちらとしては複雑ですが、レベリオンの四発単座戦闘機はカッコいいです。

『インディペンデンス・デイ』の特攻シーンには号泣させてもらったんですが、こちらは少年冒険ものの楽しさを満喫できる仕上がりでした。ドラえもんの長編映画も連想されたことです。やっぱ男の子心。

Then man your ships, and may the Force be with you!

2016/03/17

1977年、スティーヴン・スピルバーグ『未知との遭遇』

『さらば宇宙戦艦ヤマト』が洋画・邦画を問わず配給収入を比較して第5位だった1978年の、第2位。

真っ暗な画面に不安な音楽が流れる冒頭からして大作の雰囲気。砂嵐を突いて次々と現れる自動車、いわくありげな男たち。

「スピルバーグって奴ァセンスいいなァ!」と思ったことです。

基本にあるのは、カントリーな暮らしを長い息遣いで丁寧に撮るヒューマンドラマと、ひたひたと緊迫感を増していくサイコ・ホラーの手法で、こちらは(『スターウォーズ』の監督・脚本とちがって)映画術をよく勉強した人の作品なんだなと感じられました。

あっちがチャンバラごっこの好きなヤンチャ坊主なら、こっちは文学好きの優等生でしょう。そうか、そうか、二人とも黒澤のおじちゃんも好きか。いいとこに眼をつけたな、えらいぞ~~。

なお、トリュフォーの髭がいい味すぎて漫画のキャラクターみたいです。

あらすじは本当に「クロス・エンカウンター」の一語に尽きるわけですが、それまでに何が起きたのかを重視したわけで、どちらの家庭でも子役がいい演技をすることです。

『スターウォーズ』がそこら中でキャラクター展開されていることに比べて、「あの形」がパロディになっているのはあんまり見かけたことがないですから、愛され方が違うのでしょう。こちらはやっぱり文芸派・心理描写重視型に深く共感されるタイプかと思います。

『激突!』も怖かったですけども、『ジョーズ』も同じことで、人間が他の存在から「見られている」という不安が主題なわけで、それがここへ来て昇華されたかと。音楽が宇宙の共通語であったことには涙を禁じ得ませんでした。新生人類を胎児の形で表した『2001年宇宙の旅』(1968年)への応答になっているようにも思われます。

研究チームの第一人者がフランス語を使うことで、アメリカ社会の常識にとらわれず、公平に見ることのできる人という役回りを象徴していたかと思います。序盤の航空管制局で中心的な役割を果たす人物が黒人であることも、1977年という時点を考えると印象的です。

When you wish upon a star, Makes no difference who you are, Anything your heart desires will come to you.*

この複眼的な視点の温かみを知った後では、日本人しか参加していない地球防衛チームというアニメ作品(の数々)が陳腐化したのは致し方ありません。

逆にいえば、アメリカこそ地球の代表であり得た時代の華かとも思われます。ボイジャーがゴールドディスクを載せて飛び立った直後の公開。「科学的空想」とは、よくぞ云ったものです。Spielberg。おおいなる遊びをせんとて、生まれてきたのでしょう。

なお、映画の作風にふさわしい、やや前提的な音楽も印象的でした。ウィリアムズも引き出し多いなァと思ったことです。

(* Lyric by Ned Washington, from Pinocchio)

2016/03/18

1939年、溝口健二『残菊物語』

原作:村松梢風
出演:花柳章太郎、森赫子、高田浩吉
監督:溝口健二

これが溝口作品かァ……。清冽な余韻にひたることしばし。

役者を信じた長廻し、やや窃視的な斜めからの構図、フェードアウトによる上品な場面転換。

梨園の御曹司と下働きの女性との身分違いの恋が、哀切ながらもややご都合主義なエンディングを迎えるメロドラマですが、撮り方の見事さに「締まりが良い」と感じました。

溝口自身が父親を当てにできず、芸者となった姉に育てられたのだそうで、彼女たちの姿をちょっと離れたところから見ていた幼い日々の記憶が構図の取り方に表れているように思われます。

ランプと人力車が現役だった明治時代の話のようです。七三になでつけた男たちの黒髪が美しいです。女性はまだ日本髪。芝居小屋から始めて、スタジオセットはいずれも大掛かりです。町並みは江戸情緒が濃厚です。演技の向こうに常に物売りの声が響いているのが風情です。

2時間超えの大作ですが、場面転換の間合いの良さと「ワンシーンワンカット」の緊張感によって飽きさせません。

ヒロイン「おとく」さんはひじょうに頭のいい女性で、芸術を見る眼があり、胆力もあり、こういう人が生まれが低いというだけで社会に出られないのは勿体ない。

森赫子は、甲高い声でしなしなと喋る「昔の女優さん」と感じられますが、理知的な美女で、台詞廻しも抑制が効いており、場面を支配する力量のある人だと思います。

章太郎はなかなか芝居がうまくならずに地方廻りへ落ちぶれていく役で、天性の「つっころばし」にも見えますが、じつは肝の据わった役者さんとお見受けいたします。終盤は黒紋服姿が美しいです。

もともと『清水次郎長伝』に出てきた高田浩吉の出演作を探して、タイトルに惹かれたのですが、菊はとくにモチーフになってないです。上田秋成とも関係ないです。

全体としてロングショットが多く、あくまで「おとく」と菊之助の二人に描写を絞りこんで、他の俳優がアップになることはありませんが、それでも浩吉の美貌は目が眩むばかりです。白塗りが眼福。

男が女を演じて「男になる」とか「男を上げる」とか云うんだから不思議な世界です。女装の男性が手に手を取り合って舞台の成功を喜ぶのを、外人さんはどう御覧になるのか。ドラァグ・クイーンのサクセス・ストーリーではないのですよ。

各場面ごとに役者の動きも最低限に抑えられており、歌舞伎よりも能楽の舞台を連想するほどです。撮影現場を想像するに、役者の立ち位置などは事前に綿密に打ち合わせがなされ、準備万端ととのえて、カチンコ鳴ったら役者もスタッフも一切の粗相が許されない。緊張感が漲って空気がピリピリしていたことでしょう。

見るほうも、まばたきしてはいけないような気分にさせられます。

もっとも、舞台はそれが当たり前なので、歌舞伎・新派・新劇から役者をひっぱってきて映画を作ることの行き着いた果ての贅沢だったでしょうか。

日本映画は早くから、カメラをレールに乗っけて横にズーーッと移動させる技法を多用するようですが、洋画では少ないような気がします。いや実際には使ってるはずですが、襖を開ければ一続きという日本建築の構造が最大限に活かされている面白さが印象的なのかもしれません。西洋建築では壁にぶつかってしまいますもんね。

昭和14年。「松竹株式会社京都撮影所」の文字が右から書かれています。『残菊物語』の題号を記した行書が美しいです。モダニズム時代の叡智と技術を結晶して撮り上げた明治情緒でした。

そういえば宮崎駿は(アニメのくせに)ワンシーンワンカットに近い演出をすることがあるように思われます。彼の頭の中には古い映画がいっぱい詰まっているのでしょう。

2016/03/22

1915年、D.W.グリフィス『國民の創生』

美しい女性は美しい少年に似ていると云ったのは稲垣足穂なんですが、リリアン・ギッシュの妖艶さが却って崇高な天使に見えます。ドナテッロやレオナルドに見せてやりたかった。

近所のホームセンターで買いました。株式会社コスミック出版から500円。何よりも、リリアン・ギッシュ主演の文字に惹かれました。堂々3時間5分。サイレント。映像の合間に黒地に白い文字で説明書きが表示される式です。日本語字幕が良い出来です。翻訳はWise-Infinity Inc.。

これだけの長さのサイレントを見たのは初めてだったので、まずは「クチパクしてる役者の云ってそうな台詞を自分で考えながら観るのは自由にできていいようだけれども結構つかれる」と分かりました。

1915年という年数が信じがたいほど保存がいいのはアメリカ映画のうらやましいところ。日本映画に雨が降ってるのはフィルムが古いからではなく、映画文化の価値が理解されておらなかったので保存が悪かったからだそうです。

すべての映画は広い意味で娯楽なのですが、これは格調高い歴史大作。南部で綿花農園を経営する白人家庭に同情的な視点から、civil war とその後の凄まじい南部の混乱、その陰にあった悲劇を描く。一見すると上品なクラシック作品ですが、エピソードの豊富さ、手の込んだ撮影によって飽きさせません。

白人・黒人相和して暮らす「古き良き」というふうに美化された南部暮らしを描く序盤から、南北戦争に巻き込まれていく家族の心理を丁寧に描き、観客の感情移入が頂点に達したところで、緊迫感と過激さの度合いを強め、クライマックスは物量とスピード感で押しまくる。エピローグは神秘的に。

要所要所で歴史的記録の出典を示すという、映画には珍しいことを行っており、格式と制作姿勢の真摯さを証明しております。

リンカーン、グラント将軍、リー将軍の再現度は高いです。リンカーンの執務室は活人画のようで美しいです。

構図は多くの場合、舞台劇なま撮りふうですが、時おり画面奥から人物が歩いてきて、画面手前へ斜めに抜けるのが、洗練されていると感じました。手ブレやチラつきもないので、機材も良かったのでしょう。

芝居は女優が両手を差し上げて恐怖を表すのが、えらい古風でロマンチックですが、そのほかはたいへん自然で、舞台劇を脱していると思います。ヴィクトリアンなお衣装がたいへん魅力的で、主人公の妹のお転婆な可愛らしさも印象的です。

黒人俳優(のほとんど)の生々しさは、1915年時点でも完全解放というわけではなかったはずですから、素人の存在感そのものなのでしょう。小道具としてのプラカードに書かれた「EQUAL RIGHTS, EQUAL POLITICS, EQUAL MARRIAGE.」の文字は、当時の現実社会にもそのまま通用したのだろうと思います。

前半の白眉は渾身の会戦シーン。空間の広がり感がすごいです。煙幕もすごいです。1860年代の戦闘を再現しているのですが、撮っている時点で第一次世界大戦の頃ですから(!)、特撮も何もなく、生々しいです。

というわけで、映画としての熱っぽいまでの出来の良さと、テーマの非現代性の落差がものすごくて、じつは論評にも悩みます。タイトルは皮肉じゃないのかと思われるくらい。

Liberty and union, one and inseparable, now and forever!

が、対立のあるところ、どちらかの視点から描けば、対立する側に共感的な人からは見ちゃいられないものになるのは当然です。ここは「敢えて一方に視点を固定して、映画作品としての一貫性を追求して成功した例」という分析にしたいと思います。

どのみち単純な善悪二項対立ではないのです。南部の黒人部隊の糸を引いてるのが北部の白人政治家ですから。

歴史的大事件と個人の人生を接続して描いた文学性、アメリカ映画人における社会参加意識の例証の一つという価値も高いのだろうと思います。

2016/03/23

1916年、D.W.グリフィス『イントレランス』

Out of the cradle endlessly rocking.

不寛容と闘う愛の物語。

今では撮れない映画って一杯あるんでしょうけれども、これは……! 『國民の創生』とは別の意味で、筆頭に挙げるべきかもしれない。

バビロンもすごかったけど、「暗黒の木曜日」を経験する前のアメリカもすごかった。高さ90メートルの壁に囲まれた宏大な中庭を一望する絵をどうやって撮ったんだ!? 呆然とすることしばし。

淀川長治の解説映像つきのDVDで、まずは自分の眼で本編を確認した後にそちらを拝見したところ、やっぱり言及なさってまして、気球にカメラを載せて撮ったんだそうです( ゚д゚)ポカーン

タイトルの意味は「不寛容」。嫉妬と偽善がひき起こす悲劇と、市井の人々の抵抗を描く。サイレント。DVDはIVCの162分版です。現代(1916年当時)と古代ベツレヘム、シャルル9世時代のフランス、紀元前539年のバビロン。4つの時代を得意のモンタージュで。それぞれの時代に合わせた音楽がたいへん魅力的です。

不寛容と闘う「愛」は、もちろん十字架を背負ってゴルゴダの丘へ向かった人によって象徴されます。娯楽と宗教が一体化している。アメリカらしいところです。

いっぽうで、グリフィス作品には「女性映画」という要素もあって、四つのうち三つの時代にはヒロインがおり、いずれもすごく可愛らしいです。拳を突き上げ、両腕を振り回すオーバーアクションは古風な芝居ですが、むしろ20世紀後半以降の女優たちよりも生き生きしているように感じられます。

序盤は明るいコメディタッチで、富裕階級のおばさん達が労働者の飲酒とダンスを公衆道徳の「向上」と称して取り締まる様子が描かれ、「ああ風刺的な喜劇なんだな」と思わされますが、バビロン(のセットと衣装)の壮麗さに呆気に取られているうちに、だんだん深刻な話になって参ります。

各時代の間にゆりかごを揺らす若き母(リリアン・ギッシュ)の姿を挿入して、ゆりかごの対極にある墓場を暗示しつつ、おとぎ話のような印象も与えながらも、はっきりと現代を諷刺している度胸の良さがグリフィス流。

ついつい「戦前」の映画と云ってしまいがちですが、当時の人々にとっては戦争まっただ中なのです。日本の溝口が『残菊物語』を撮った頃も、すでに日中戦争が始まっていたわけで、そういう時代に監督たちは女性の姿を通じて「真・善・美」を表現しようとしていたんじゃなかったかと思います。

山口淑子主演『蘇州夜曲』も、一見すると占領政策美化映画ですけれども、真の意図は反戦なのです。

それに比べると、1970年代の若者たちが撮ったSF映画は、いかにも女を知らないトッチャン坊やの仕事のようですけれども、彼らにしてみれば、ストッキングとともに強くなり過ぎた戦後の女性は、とても平和の象徴のようではなく、ともに新左翼の時代をすごした後で「もういいよ」って感じだったのかもしれません。

話を戻すと、中世フランス宮廷文化の再現もたいへん魅力的です。バビロン、ベツレヘムともども、考証としても素晴らしいものだと思います。監督は1948年に亡くなってるんですが、本当はこれをカラーで撮りたかったでしょうし、拝見したかったです。

現代で生じた重大事件を皮切りに、いずれの時代も急展開し、桁違いのエキストラ動員による分厚い奥行き感を観ている側に向かって押し込んできます。CGではありません。くり返します。CGではありません。鉄道や自動車も登場し、モンタージュの間合いも詰まって緊迫感マックス。四本の映画を一度に見せられているわけで、ものすごい豪華さです。

日本は大正時代なんですけれども、観客はバビロンやカトリーヌ・ド・メディシスを知っていたでしょうか。なかなか激しい接吻や、官能的な女性の姿態も見られますが、向上と称する規制はかからなかったかな?

出演者は19世紀末の生まれ。監督は1900年代から映画を撮っていたそうです。人物の動きは、ややチョコマカしておりますが(フィルムの回転数の違いで致し方ないらしいです)、保存は1910年代という数字を聞くと信じがたいほど良いです。なんだこの敵わない感。

2016/03/25

1925年、エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』

兄弟よ! 誰を撃つのか!

おかげさまで100円レンタルで映画を観て幸せです。庶民が安価に芸術に触れられることこそ真の革命ではないかと思われます。わずか1時間14分ほどですが、映像美術としての密度がものっっすごく濃いです。

グリフィス作品のカメラは基本的に長廻しで、俳優の動きにまかせており、まだ『イントレランス』でも接写の挿入の間合いに難があったんですけれども、こちらはたいへん意図的に「カット割り」と編集作業を行っており、自覚的に「絵で語る」ということが、ものすごく進歩しています。現代映画はここから始まったんだなと感じました。

IVC社のDVDには監督紹介が収録されておりまして有難いんですが、それによると、土木専門学校と工兵養成所で学んだ人なのだそうで、なるほどメカニックの描写にこだわりがあるわけです。1898年生まれで、この公開年には27歳。どうも、20代後半から30代前半の時期に、男の子らしい「遊び心」を活かして画期的な作品を制作するアーティストが多いようです。

ロシア赤色革命中の1コマをドキュメンタリー調で撮った、モノクロサイレント作品。全面的に労働者(ここでは水兵)視点。洋上の戦艦内における待遇の悪さから暴動が起き、陸にも波及するのですが、たぶんこれだけ見るとよく分からない。

オフィサー達が興奮しやす過ぎるように思われるからですが、基本的に世界大戦中で、すでに革命も始まっており、士官(=貴族)がピリピリしていたことと、水兵のほうが強気になりつつあったという実際の歴史を知っておいてから見るべきもの……なんですが、1925年という公開年からして、1917年の革命から8年しか経っていないので、当時の世人にはほぼ実録として感じられたことでしょう。

日本は大正末年ですが、自由の赤旗をひるがえす労働者の蜂起を上映したがらなかったかもしれませんね。

(※これを書いた後に調べたところでは、やっぱりフィルム自体が輸入禁止になったそうです)

ほぼ素人と思われる水兵や、オデッサの町の人々の表情を、極端な接写によって生々しく映し出しており、革命賛美のテーマを掲げてまっすぐに突っ走る骨太さは爽快ですが、テーマ性以上にその「物語のターニングポイントを観客に気づかせるために接写を使う」という技法というか、話術というか、そこの面白さ・監督のアイディアの冴えを見る映画だろうと思われます。

砲塔の旋回や、それを支える機構の接写は現代的と云いたいまでに洗練されており、金属の光り具合に工兵の誇りも感じます。波をかき分ける軍艦の舳先は、よくぞ撮ったと思います。真下から仰ぎ見るラストシーンも印象的でした。

お名前からいってユダヤ系かと思われますが、陸での暴動は民族的差別発言がきっかけとなったのでした。そして興奮に巻かれて老いた女たちが叫ぶ。確かフランス大革命も女たちの行進から始まったのでした。命に直結する台所を預かるとともに日ごろ気晴らしの少ない主婦を怒らせると怖いのです。

陸の小銃隊は横一列(いや二列)で、その表情を映し出さずに、不気味で非人間的な雰囲気を保ったのが効果的でした。

大階段、ころぶ子ども、ふり返る母、せまりくる小銃隊、乳母車の中の赤ん坊、若き母、血染めの美錠、傾く車輪。クローズアップとモンタージュの技が冴え渡りますが、できれば子どもは抱えて逃げましょう。

それにつけても、オデッサ町民の人海戦術のものすごさよ。

なお、ショスタコーヴィチがのべつまくなし鳴っているバージョンで、本当はもう少し整理したいところですが、曲調は間違ってはいないです。ショスタコは映画音楽らしいなァと思ったことですが、よく考えると逆でした。

淀川氏の解説映像つきで、それによると監督はパリに暮らした人なのだそうです。当時の前衛美術はもちろん影響したでしょう。グリフィスあって、エイゼンシュテインあるんですが……交流はあったのかどうか。左右の壁なく対談させてみたい二人かもしれません。

2016/04/08

1977年、ルイス・ギルバート『007 私を愛したスパイ』

むかーーし、ソ連という国があったのです。マイクロソフトではなく、マイクロフィルムの時代でした。いま、レーニンの遺体はどうなってるんでしょう。

『さらば宇宙戦艦ヤマト』が公開された1978年の洋画・邦画合わせた配給収入ランキング第3位。約32億円。SF全盛時代に、七つの海の覇者が意地と洒落っけを見せました。

デタント時代のソヴィエト・アングロ・コーポレイション。見せ場盛り沢山で飽きない2時間5分。ショーン・コネリー時代に練り上げられた007らしさの粋を集め、最新技術でブラッシュアップ。

ロケもセットも火薬量も豪華で、体当たりアクションが次から次へと繰り出され、SF映画張りの特撮も美しく、ときどき真顔でパロディも入ります。「ポチョムキン」捕まっちゃうし。

制作陣による解説つきの特別版DVDを借りたのですが、それによると、妙にだだっ広いKGB司令官のオフィスもエイゼンシュテイン映画を参考にしたのだそうです。

モーリス・ビンダーによるオープニングは1960年代の味わいを維持して趣き深く、本編は小気味よい台詞のやり取りも、登場人物の目線を意識したカメラワークも、照明の使い方も、緩急自在な編集も、音楽の使い方も、たいへんに洗練されております。

監督さんは、あまり他で聞かないお名前ですが、これまでに30本ほど撮ってきたのだそうで、潜水艦内の緊迫感の描き方からして、戦争映画を撮れる人なのだろうと思いました。

銀髪の美しいクルト・ユルゲンスは魅力的なヴィラン。引きこもりの大金持ちは新世界の神になりたいタイプ。手に水かきがある設定なのだそうで、握手を拒んだ後、片手を挙げた際に一瞬見て取れますが分かりにくいです。もうちょっと強調すれば、単なる金持ちではなく、海を愛した男の悲哀が出たかもしれません。

海中基地はデザインも良く、浮上シーンが印象的でした。窓外のお魚は沖縄の水族館で撮ったのだそうです。

Why do we seek to conquer space when seven-tenths of our universe remains to be explored?

「なぜ宇宙などへ行くのかね。世界の7割が未知のまま残されているというのに?」

アメリカの流行を完全に逆手に取っております。

「ジョーズ」の下敷きが何かとは云うまでもなく、海中から見た浜辺の景色もそのまんまですし、イギリス人のジョークセンスは臆面もないようです。それにつけても鮫の餌になるのはいやですが、男に首筋を食われて死ぬのもいやですな。好みのタイプですかそうですか。(愛されキャラではあります。)

いっぽうで、軽くエジプト観光案内でもあり、ルクソールの古代神殿を背景にアフターファイブの正装のままというミスマッチが素敵です。

エジプトロケというと、ピーター・ユスチノフ主演『ナイル殺人事件』も同じ頃の作品だろうと思います。(確認したところ、翌年でした)

イギリス人がエジプトと聞いては黙っていられなかったようで、耳に懐かしいメロディーが響いたには爆笑させてもらいました。編集室のジョークだったのがラッシュでもウケたのでそのまま使ったそうです。そらウケますわな。

思えば、この異国情緒と体当たりアクション、魅力的なヴィランの造形をSFの世界へそのまま移したのがルーカス作品なわけで、本家本元が気を吐いたのです。

英米がテニスボールを打ち合うかのようで、横で見ている東洋人としても楽しい限りです。

アメリカの若者たちの作品との大きな違いは、もちろん化粧濃いめの女が大勢登場するところで、この後は世界的に女優から化粧っけがなくなってしまうので、最後の華といえるかもしれません。

「Every woman for herself. Remember?」(女は誰でも自分のことだけよ。忘れてた?) ぷぷっ。

今回のボンドガールは添え物ではなく、彼女とボンドと悪役ジョーズがそれぞれに活躍するバランスが良いです。

女とできてしまうと物語が弛緩するのがいつものパターンですが、これは裏にもう一つの愛のドラマを置いて緊張感を保ったのが良いアイディアでした。

緊迫の一夜明けて、サルディーニャ島の馬車に同乗する姿に肌を許した男女の馴れた雰囲気が漂うところも良いです。さっそく始まる女の闘いw 

当時の人も、電化チャンバラは若者にまかせて、やっぱり大人はこっちだよと思ったかもしれません。

私が愛したスパイは永遠にショーン・コネリーなのですが、ムーアもいいなと思ったことです。根が真面目そうで、情が深い感じ。コネリーはもっと気障で底知れない感じでしたね。

現代では、せまいスタジオで撮影して、照明で輪郭線をぼかして、CGで背景を描いて、切り替えテンポの早いデジタル編集で空間のせまさをごまかしてってやってるわけですが、この頃は真顔で実物大のセットや巨大模型を組んでしまい、フィルムで撮ってるわけで、今となってはその実直な仕事ぶりに感謝の念が湧いて参ります。

なお、原潜の内部が遊覧船のように快適そうなのですが、撮影の都合上、かなり広めに造ってあるのだそうです。空を映した海の色が美しいラストショットには「次回はユア・アイズ・オンリーです」って字幕が出ました。

さて、バカルディを買ってきて、ロックで飲ろうと思います。(いい女のふり)