2017/01/06

大島渚『日本の夜と霧』(1960年)再考。

映画作品の内容に直接言及いたしますので、未見の方はご注意ください。




象徴主義的な風景の遠望も、物体の接写もなにもなく、会話だけで成り立っている密室劇で、ときどき回想シーンとして違う場面が挿入されるんですけれども、それも黒澤時代劇のように「アクションそのものの迫力で魅せる」ってことではなく、基本的に立ったまま・座ったままで会話してるだけなのです。

カメラは、その会話を演劇の観客の目線同様に発言順に追ってるわけで、編集なしの長回し・ホームビデオ状態なんですけれども、そういう撮り方としては木下恵介が1950年代にやってるのです。だから、じつは映像としてはそんなに珍しいことじゃないのです。

じゃ何がすごいかっていうと脚本なわけで、いかにも学生運動家が言いそうなことの羅列なわけです。これは実際に体験した人じゃないと書けないのです。少なくとも学生たちと起居をともにした取材者でなければ書けない。実際の監督は取材どころか渦中の当事者だったわけで、映画全体のテーマは、じつは「党」の批判なわけです。

序盤は1960年の「流れ解散」と、その後の若者の動向を問題視している。でも、じつは主眼は1950年代の問い直しにあるわけです。

もともと「党」から見れば若者たちというのは最前線で消費される歩兵に過ぎない。運動と称する暴力闘争ばかりしているから政治も金融も最新科学も勉強していない。たとえ権力を奪取しても、その後の役に立たないのです。

もし彼らが興奮のあまり公共施設や道路を破壊したらどうなるのか。物流が停止し、地方の人民が心待ちにしている食品・日用品・職業上の必需品などが届かなくなるだけです。また誰が修繕するのか。若者たちにはできない。職人として修行したわけでもなく、新建材・新工法を開発できるわけでもない。

プロレタリア人民のおじさん達が「俺たちは学生さんの味方だよ」と笑って、ボランティアで直してくれるわけではないのです。

「党」が権力奪取し、国費を掌握すれば、建設会社に発注することもできるし、建設会社を国有化することもできる。けれども実際にはそうでない以上、政府・与党に手間をかけさせ、国民の税金を浪費させる社会の敵でしかない。

早晩、規制が強まる前に路線変更するのは当然で、そうなれば若者たちには「歌でも唄ってろ」ってことになるわけです。女子にフォークダンスさせておけば男女平等の大義名分も立つし。

その程度のことであるのを若者たち自身が気づくのが遅れた。遠藤が演じる「本を読んだことがない」という述懐は監督自身の反省の言なのでしょう。実家が富裕なわけでもないのに親に無理をいって大学へ進ませてもらって、何をしていたのか。若い労働者が「遊び半分な学生運動をからかってやれ」と思うのも当然なのです。

激しい「党」批判、深い自省、失われた命への鎮魂。

そう考えると、運動の渦中にあった一個人の自伝としても、批判的な目で時流をとらえた映画としても、貴重な作品であって、配給会社は何を恐れたのか。

終幕では、1960年代組は走り出して行くわけですけれども、再びシュプレヒコールったりジグザグったりすることを美化し、煽動している映画ではなく、ほぼ諷刺といっていいでしょう。すでに監督自身が歳を取っているから、花嫁に祝辞を述べる女学生に対しても「小娘が」という突き放した目線がある。

「流れ解散」という言葉が何度も登場するように「そんなことでいいのか」という怒りはあるんだけれども、俺たち50年代組を見習って、もっと頑張れということではない。

50年代組こそ何やってたのかという批判から、大きく卓袱台返しして「もう一回やろう!」と言ってもいいわけですけれども、そういう希望とか熱意とかを感じさせる結末ではないわけです。ただただ、空虚に響く言葉の羅列の、その羅列ぶりが見事であるというだけで。

【女と男の他者批判】

1950年代組の女のなかには明らかに「ダイヤモンドに目がくらみ」というタイプがいて、「この人は私の体を求めただけ」なんて男を責める。でも、いやなら拒めばいいじゃん。そこでレジスタンス出来なくてどうする。

「流れ解散」に疑問があるなら彼を説得してもいいし、自分だけ再び戸外へ出たっていいわけです。昔の仲間に連絡を取ったっていい。実家へ帰るという手もあったかもしれない。

いっぽう、60年代組のほうは、女子学生の指摘する通り、結婚した後からでも行方不明者を捜索することもできるし、戦列に復帰するよう説得することもできる。

あたかも、新年を迎えたからって生活が急に変わるわけではないように。

「家庭という安逸に埋没しようとしている」と女子を責める男子こそ、女は家庭という先入観にとらわれているわけです。彼女はこれで引退するつもりだな・俺がそうはさせないぞっていうわけですが、それでは捨てられた男の嫉妬にすぎません。

はからずも、1960年代当時の女性の立場があぶり出しのように現れてくるわけですが、監督はちゃんと分かってるのです。

結局のところ、学生と学生だった者が「自己批判」できかねて、責任をなすりつけ合った挙句に、最初から最後までブレることなく一貫して学生を上から目線で見ていたのは「党」だった、と。

しかも、よく考えると遠藤演じる主役(じつは津川じゃなくて彼が主役)は、女からも「党」からも裏切られた側であって、そんなに悪くないのです。監督=脚本の「自我」はここにある。

自分が脚本を書くつもりで聞くと「無理」と思える台詞の連続なわけですけれども、監督としては実際の「流れ解散」の報に接した後、流れるように、湧き出すように、一気呵成に書き上げたのだろうと思われます。その勢いのままに、あの手法で撮ることもまた必要だったのでしょう。


2017/01/06

2016年、ウシロシンジ『映画妖怪ウォッチ 空飛ぶクジラとダブル世界の大冒険だニャン!』

そういう展開か!

原案:日野晃博 原作:レベルファイブ 脚本:日野晃博・加藤陽一 音楽:西郷憲一郎 実写パート監督:横井健司 撮影:神田創 美術:佐久嶋依里 助監督:佐伯竜一

なんだこれ!? タイトルも長いですが、たいへんな力作です。実物大セット? 模型っぽいCG? 合成もしてるけど、ロケもしてるよな……? 我が目を疑い、冷や汗を覚えつつ。

テレビシリーズの背景画からして、実在感が売りでしたが、最初からこれをやるつもりでロケハンしてあったのかどうなのか。パンフレットの情報量の低さには落胆しつつ。(※主題歌CDがついて来ます)

デジタルの時代になって以来、フィルムそのものをいじるという発想がなくなったので、あとはデジタルでどこまで描けるか、ディテールで推して参るわけですが、立体CGで完全再現された妖怪たちの顔に自然光が落とす樹木の影まで完全再現しております。技術的に可能になったとはいえ、よくもまァ。

実写化の不安を逆手に取った導入部のギャグセンス、実写ならではの女性美の表現、クライマックスも実写ライクなCGであることを逆手に取ったパロディ的アイディアが横溢しております。お話の奇抜さと見せ方の洒落っけが呼応して、ここまで来れば、もはや正典。独特の世界観を丁寧に説明するために、序盤のんびり進行ですが、あとのほうで「おつり」が来ます。

全体に「現代の日本でしか発想できない」というミックスジュース的味わいの連続で、こういうのこそ日本代表として海外映画祭に出したいかも。

というわけで、アニメ作りはつろうござんすが、実写パートのスタッフさん・キャストさんも、本当にご苦労様でございました。

【2015年『映画 妖怪ウォッチ エンマ大王と5つの物語だニャン!』】

俺は思い出にはならないさ。(違)

会社の名前にちなんで5つの物語なのでしょう。前作の遺産を活かしたテレビスペシャル的構成で、それぞれのお話に明確なテーマと見応えがあり、全体のまとまりも良かったと思います。

いろいろ捨てても先代命のぬらりさんのキャラクターデザインは、内面外見ともツボに針打ってもらった感じにきもちいいですし、金髪美少年的俺さまエンマさまと合わせて狙ってるところは明白ですが、イナホという揶揄的キャラクターがいる以上、今さら大きな女性のおともだちの獲得は難しいかと思われます。

こまかあちゃんの登場を合わせて考えるに、もっと単純に、子連れの母親・祖母世代の観客にアピールしただけかもしれませんが(二十四年組ファンも60代ですからね)……

いずれにせよ、クライマックスがゲストキャラクター同士の対決であって、メインキャラクターが傍観者になってしまうのは『宇宙戦艦ヤマト』が繰り返したパターンで、観客にとってはあんまり面白くないのです。

2016年版は、その反省にかんがみて、男児目線・メインキャラクター重視に戻したのでしょう。初心忘るべからず。

劇場版第一作は過去、第二作は未来、第三作は次元超えと、SF的発想を縦横に駆使して、劇場版シリーズ全体としての流れも美しく、最初からここまで構成してあったような気もされますが、出たとこ勝負でうまく行ってるような気も致します。

1970年代以来蓄積されてきた「同人」的パロディセンス・セルフ二次創作センスが、ゲームという国際競争の激しい業界で磨きぬかれた結果なのでしょう。

【がんばれ女の子】

日野イズムのいいところは、明らかに少女趣味なんだけれども、甘やかさない、甘えない。真の女らしさ・男らしさという、いまの時代に最も必要とされ、子ども達を勇気づけ、大人たちを納得させる主題を、少なくとも戦略的に知っている。

すなわち、女の執念深さが「自分自身の夢を諦めない」という前向きな姿勢となって表れること、不自由なく育った男の余裕が他者への優しさとなって表れること。

あのケータが、妖怪になってもフツーなケータが、そのことをちゃんと知っているのです。

テレビシリーズの中には女性脚本家の「同人」的ヤマなしオチなし虚無的悪ふざけのセンスに遊ばせすぎてしまったような回もありましたが、ここ一番の大事な話では原案者がしっかりと手綱を取っているように思われます。

なお、耽美系キャラクターは、毛穴というか鼻下の剃り後が見えちゃう時点でもうダメなのが本当ですが、ぬらりさん役は真面目な俳優さんのようで、ダンスは決して上手くないですけれども、丁寧に演じている様子が好感持てました。大王様のほうは照れがあったようです。

ああいう俺様キャラというのは、もともと河津清三郎や安部徹が得意としていた悪玉の親分を若く描いて美化したものですから、本当に若い俳優さんが演じるのはむずかしいのかもしれません。今後に期待しましょう。

なお、子どもと動物には敵わないとは申しますが、主人公を演じた子役くんは、後からCG妖怪が追加される前提で一人芝居したはずで、そのナチュラルぶりには開いた口がふさがりません。

さらにまた、小品(『スナックワールド 人嫌いのレニー』)が併映されまして、これがまたどえらいアメリカンライクなフル立体CGミュージカル映画なんですけれども、小さいお友達の皆さんは、吸い込まれるように観ていたようです。「ああ、もうこういう時代になったんだな」と思われたことです。

変わらぬ価値もあり、変わるものもあり、見直される価値もあり、散る花があれば、咲く花があり、次世代が育つ。それが本当の永遠の命なのでしょう。

2017/01/10

1937年8月、山中貞雄『人情紙風船』東宝

出雲の神様に縄張りァございませんからね。

脚本:三村伸太郎 撮影:三村明 録音:安恵重遠 音楽:太田忠 美術考証:岩田専太郎

二.二六事件の翌年に撮られた時代劇。実際の世相とも重なる明日が見えない貧乏暮らしを完全再現する手法はかなり贅沢かつ高踏的。ときに監督、二十八歳。

町人パワー炸裂する長屋描写は大掛かりなセットを活かしたスーパーリアリズム。ちょっと珍しい角度から狙った、ドキッとするような構図がいっぱいです。

美術考証が入ってる通りで、生活用品がなにげなく置いてある様子に規格外れの美意識が感じられます。

物語は、髪結いのくせに本職をまじめにやらずに盆ござ敷いてる奴と、その長屋仲間の素浪人をダブルヒーロー(?)として、仇討ちもチャンバラもなく、のんびりめに進行する日常ドラマですが、わざとカメラを人物から外してみたり、板戸越しに喧嘩の声だけ響かせてみたり、急な雨に降られて行き交う人々を遠くから撮ってみたり。

映画ならではの斬新な演出の数々が観られます。お国のためとはいえ、惜しい人をなくしました。なお画質は例外的なほど良いようです。

観客におもねらない結末のつけ方には、監督の若さに相応しい冷たい知性を感じますけれども、それでもこういう話は観客に対して「あなたならどうする?」という問いかけが含まれているわけで、やっぱり良心に訴えるものと言っていいのだろうと思われます。

なお歌舞伎役者と宝塚女優という美男美女による眼に優しいロマンスも観られます。あの二人じゃ、その後どうなったかなァ。



2017/01/10

1949年3月、木下恵介『お嬢さん乾杯』松竹

愛してるなんて、そんなお上品なことじゃ惚れたにゃなりませんよ。

脚本:新藤兼人 撮影:楠田浩之 音楽:木下忠司 照明:豊島良二 美術:小島基司 賛助:八州自動車株式会社 特別出演:大日本拳闘協会 特別出演:市村襄次夫妻(ガルデニアサークル)・貝谷八百子バレー団 主題歌:灰田勝彦

わずか1時間29分ながら、最高の心の贅沢。話法の熟練ぶりに加え、戦争が終わった喜びに満ちております。

「Fantaisie-Impromptu」(ショパン、1834年)を始め、西洋音楽が鳴り続け、なかなかに出来のよいクラシックバレエも拝見できます。1949年の日本にこれがあったかと思うと、戦中の彼女たちの苦労が偲ばれます。

戦後は身分差がなくなったわけで、上流階級の暮らしぶりが映画を通じて庶民に開放されたと思われ、安城家のお嬢さんが俺の手の届くところに降りてきたんだけどどうしよう!? ってなお話。

男の独善が湛える愛嬌と悲哀。夜に生きる女たちの明るさ。打算と純情をこき混ぜて揺れ動くお嬢様の気骨。一歩はなれたところからドライな眼で見つめつつ、若い男女を慈しみ、温かく包み込む木下流人間愛にあふれ、全篇これ微笑ましいったらありゃしません。

天上の美女・原節子が面を伏せて、しおらしい大和撫子を演じているのがかえって印象的。能面のように表情豊かな美女ってふつう言わないんですが、この人はどうしても質の良い能面に似ているのです。「シオリ」の型に似た美しい仕草も拝見できます。

BSA(英国製オートバイ)が疾走するシーンが無駄に長く、撮影技法としても印象的であるとともに、若い観客の憧れを呼んだことと思われます。自動車工場のロゴはアメリカンでカッコいいです。なお、監督はどーしても佐田啓二がお気に入りのようです。

ちょっとだけ登場する子役たちもすっごく可愛いです。「おじちゃまおいくつでしゅか?」 ついでに婿養子の鬱屈ぶりも、あまさず描いております。

監督自身の弟さんである忠司との緊密な連携プレーによるミュージカルの一種でもあって、全篇を通して音楽の使われ方は絶品です。

新藤脚本は理知的でありつつも細やかな気づかいに満ちて、木下の持ち味とは絶妙のコンビのような気が致します。

花も嵐も踏み越えて、監督に乾杯。


2017/01/10

1949年7月、木下恵介『新釈 四谷怪談』松竹

一人で獄門にさらされるのァ、寂しゅうござんすぜ。

原作:鶴屋南北 脚本:久坂栄二郎・新藤兼人 撮影:楠田浩之 照明:寺田重雄 録音:高橋太朗 美術:本木勇 音楽:木下忠司

上原謙、滝沢修、佐田啓二。まさかの美男ぞろいによる木下恵介流四谷界隈グランドホテル形式サスペンスはなかなかにハードボイルド。なによりも田中絹江(絹代です。訂正してお詫び申し上げます)の二役の見事さが怖い。

女の意気地と男の独善性と、すべての関係者の愚かしさを遠間から撮る叙情的シニシズム横溢して、春信のようなと言いたい優美な回想シーンとの豪華カップリングが眼に優しい力作です。

女の着物の着付けが柔らかく、浮世絵を意識していると思われ、たいへんに魅力的。

「新釈」なわけで、ホラーではなく、傘張り浪人目線の小市民的心理劇ですが、アクションシーンもちゃんとあり、忠司音楽が無声時代の劇伴のようで、戦前のチャンバラ映画を観ているような楽しさもあります。

しかも冒頭からカメラワークがたいへんに大胆で、引っぱれ引っぱれカメラ引っぱれ後ろ気をつけろ転ぶなよと言いたいくらい。一文字屋の二階建ては民家を完全再現したセットだと思われますが、壁で隔てられていない日本家屋の構造をフル活用しております。

大島渚『日本の夜と霧』の構成は特殊な事情もあって特筆されますが、カメラワーク自体はすでにやってる人がいたと思われることで、『陸軍』にもすごいロケ場面がありましたが、この監督は「撮る」こと自体を楽しむ方だったのでしょう。

心理描写のほうでは、木下さんは気っぷのいい女性には共感的ですが「一人では生きていけない」という女性には冷笑的なのです。溝口や黒澤がそういう女性に罰を与えつつも美化して描くことに比べると、もうひとつドライなのです。こういう人を「女心をよく分かってるから女性の味方」とか思っちゃいけません。いちばん怖い相手です。

なお、なにもできないダメな僕という要素は昨今のアニメ作品の批評の際に指摘されることがありますが、もう『浮雲』の時代(明治20年頃)以来、日本の男性キャラクターとしては定番の一つなのです。

最近の現象は、少年漫画というのは本来はそういう世智辛さをわざと閑却して、少年が大志をもって冒険に乗り出し、ひとかどの地位を得るまでを描くもののはずなのにそうでないのは不思議だという問題意識が大人のほうにあるのです。

けれども、この作品のように、あるいは山中『人情紙風船』のように、武士の子に生まれたけれど・学問はあるけれどという境遇の描写が「わりといい高校には入ったけれど」になっただけなのです。モラトリアムとはよく言われますが、むしろ早々と老成してしまうのかもしれません。

そしてそれを描いているアニメーター達はすでに成人しているというところがポイントで、よくよく考えると大人の男が大人の男にすがって生きていく姿を大人の男が眺めているというのも不思議といえば不思議な現象ではあったのです。

この上原謙のように、日本の男性は髭のない女性的な風貌を最高の美男と考える習慣があるので、いっそ第二次性徴前の少年が主人公になって、かつての実写映画の定番ストーリーを繰り返すということのほうが不思議ではないと言えるのかもしれません。

ところで本作そのものについては、翻案ものには「ああ、こういう話にしたのか」と自分の眼で確かめる楽しさがあるので、あえて詳細には明らかに致しませんが、たいへん木下流で、淡麗辛口という味わいであると申し上げます。


2017/01/11

1950年4月、黒澤明『醜聞』松竹

おい、オヤジ! 人生は涙ぐましいな!

脚本:黒澤明・菊島隆三 撮影:生方敏夫 調音:大村三郎 美術:濱田辰雄 照明:加藤政雄 音楽:早坂文雄

黒沢・三船が大都会の仮面を暴く鮮烈巨弾!(公開当時のポスターより)

米軍憲兵司令部による道路標識が出ていた頃。「写真版と活字」が良くも悪くも生き生きしていた頃。カメラはライカ。オートバイはキャブトン。人々は当時から「来年から本気出す」的なことを言っていました。

はらりと落ちた前髪と頬の笑み皺が素敵な三船敏郎30歳は、いままで見た中じゃ最高に自然体な演技だと思います。いろいろやってここまで来ました的な。このあと『羅生門』を撮ることを考えると、これが現代劇的敏郎の完成形なのでしょう。生来の人柄の良さがにじみ出ております。このまままっすぐ『天国と地獄』へ。

山口淑子は原節子とちがって醜聞に立ち向かうという雰囲気ではなく、先行きの不安感を醸し出し、それが映画を面白くしていると思います。うまく出来てます。彼女の高すぎない美声を活かしたミュージカル映画の一種でもあります。

というわけで美男美女ロマンスかと思ったら志村さんが面白すぎました。体当たり的な演技の凄みからいうと、『生きる』もいいけど『スキャンダル』もね。(昔のカレーのCMふうに)

志村・三船の立ち位置が『酔いどれ天使』と裏表のような関係があって、さらに千石規子が三船の古女房的シングルマザー設定となり、『静かなる決闘』の恨みを晴らしたというか。東宝、大映、松竹と三社使い倒して三部作ここに完成的な。『生きる』も含めて、汚濁した水たまり(汚染された血液)という共通イメージが印象的ですね。

珍しいほど切り替えの少ないカメラでじっくり捉えますが、序盤からテンポは早く、しかも「この話、ちゃんと落ちるのか?」と心配になるような、あまりにも日常的な見通しの不透明感があって、かえって眼が離せません。

なお、公開当時のポスターは、ちょっと煽りすぎで、印象ちがっちゃってます。そんなサスペンスじゃないです。

裁判劇ではあるんだけど、黒澤得意の諷刺喜劇でもあり、人情劇でもあり、悲劇でもあり、ある意味で男のロマンでもある。きみは星を見たか。

もとより黒澤作品は常にいろんな意味で男のロマン溢れてるわけでございまして、自己憐憫的な男の独善性に容認的・共感的であるとともに、少女の神秘的な能力に夢を持ってるわけなのです。確かに木下恵介とは真逆かもしれません。

ところでこの話、片岡博士が志の高い有能な法律家だったからこそ、法律家としての責任感を問うという議題が加わったわけで、うまく出来てるのです。

なお、裁判は、いい宣伝になるそうです。


2017/01/11

1957年9月、黒澤明『どん底』東宝

あたしだって、いろんなこと考えて、ほんとにそんなことになるの待ってんのよ。

原作:ゴーリキー『どん底』脚本:小國英雄・黒澤明 撮影:山崎市雄 美術:村木興四郎 録音:矢野口文雄 照明:森茂 音楽:佐藤勝 

昭和三十二年度芸術祭参加作品。こいつァ春から演技がいい、ベテランメンバーによるスーパー貧乏暮らし。黒澤さんのミュージカル好みもここまで来ました。

目も当てられないようなビンボーのずんどこですが、どうも俳優たちは楽しそうです。舞台劇的なハイテンション進行で、役作りは外見のみならず内面的にも入念に行われたことと思われますが、もしかしたら派手なロケがないので肉体的には楽なお仕事だったせいなのかもしれません。

髷を結った人や自称旗本がいるので、江戸時代に置き換えてあるようです。「当時の日本にはこのように店子を共同生活させる貸家経営形態があった」ってことではなく、本来なら『人情紙風船』と同様の長屋にするべきところ、簡略化したのだと思われます。

ありていにいって、映画館に入るカネもない人は、映画における底辺描写を観ることも出来ないわけで、この種の作品は、一般観客にとって小市民的優越感を感じさせる効果があると言うべきなのかどうか。

監督としては「いかに面白く見せるか」ということに力点を置いたように思われ、原作が原作ですから単純に1950年代のマルクス主義好みを反映しているだけのようでありながら、もしかしたらそういう傾向自体への諷刺になっているのかもしれません。

実年齢相応の色男(女難の相あり)という自然体な役で三船37歳が登場すると生来の人のよさが光を発し、あまりにも見事に尾羽うち枯らした人々の毒舌合戦が役者同士の楽屋における会話のようで、明るく見えてきたりも致します。「そうよ。盗ッ人よ?」ああ笑顔が可愛い。(でも口説き文句は最低)

物語がある程度進行してから三船が暗がりから登場するのは『椿三十郎』でもやってましたが、思えば黒澤さんは能楽の素養があるわけで、「シテ」の登場を意識しているのかもしれません。そう考えると、とんだ能舞台です。(どこを掃除するんだ)

『蜘蛛巣城』のように三船だけを徹底的に追ったという話ではなく、複数の登場人物がてんでに勝手なことを言うのは、もちろん『生きる』を連想させますが、ぽつりぽつりと漏らされる各人の背景と現在の言動が一致している。

昔は羽振りがよかったという人は、今でも弱い人への思いやりが浅く、わずかでも優越感を味わいたがり、女たちには好きこのんで女に生まれたわけじゃないという怒りがある。

鋳掛屋といえば夫婦ものなわけですが、台所用品を修繕する職人ですから、本来は町から町へ歩いて民家を訪ね、仕事をもらうもののはず。けれども病人を抱えているので身動きが取れない。苛立ちがあるから怒りっぽくなっている。そうかといって見捨てて逃げもしないわけです。

「殿様」は今でもちょっと抜けたところがあり、斬った張ったの渡世人は世間を知っている。謎の爺さんは、たぶんあの歳でこれだけの演技の場を得るのは役者冥利だったことでしょう。(※ 左卜全、63歳。改めて調べてみると実年齢より老けた役を演じているようです)

撮り方としても、画面の外から声を響かせてみたり、主役級の俳優に後ろを向かせてしまったり、面白い構図を試しております。終盤は観てるほうが「山はあったが落ちるのかこれ?」と変な心配をしてみたり。

なお、黒澤作品は良くも悪くも男のナルシシズム全開なわけで「女はなに考えてるか分からなくて気味が悪いし、めんどくせェ」という心の声が聞こえてきそうですね。

(レンタルビデオ店のポップには、木下を評して「黒澤と人気を二分する」とあったんですが、なにも二分せなんでも両方観ればいいと思います)



2017/01/11

1958年12月、黒澤明『隠し砦の三悪人』東宝

真壁六郎太! 男ぶりが一段と上がったぞ!

脚本:菊島隆三・小國英雄・橋本忍・黒澤明 撮影:山崎市雄 美術:村木興四郎 録音:矢野口文雄・下永尚 照明:猪原一郎 音楽:佐藤勝 美術鑑修:江崎孝坪 香取神道流:杉野嘉男 大日本弓馬会武田流:金子家教・遠藤茂 振付:県洋二

でこぼこ水掛け漫才と男のロマン溢れるアクション巨編をシェイクして、能楽を小匙一杯、コンテンポラリーダンスを一振り、仕上げにリボンの騎士風味を添えて。

装わぬ人の世は、ロケハン大成功で役者たちの「監督のバカヤロー」という心の声が聞こえてきそうです。

タイトルからも勇壮なオープニング楽曲からも吹っ切った感が予想される通りの娯楽大作から直ちに連想されるのは宮崎アニメですが、これをまァ撮っちゃう人も撮っちゃう人なら描いちゃう人も描いちゃう人だと思います。糸井重里『海馬』(新潮社)で印象的だったエピソードは宮崎監督の仕事ぶりですが、黒澤さんも本当に人生これ映画という人だったのでしょう。

なお、歩兵目線だと騎馬武者というのがたいへん威圧的で恐ろしいものであることがよく分かります。

『戦艦ポチョムキン』トリビュートかもしれない人海戦術的負け戦リアリズムは、ハリウッド顔負けの金かかってる感炸裂、申し添えるまでもありませんがCGではありません。『日本の夜と霧』より、よっぽどこっちのほうが人民を煽動しそうです。鉄砲はすでに普及していた模様。

ロケ地はどこだろうと呆然としながら「狂言方」の体当たり演技に感心することしばし、「シテ」の登場シーンは黒澤映画史上最高に印象的かもしれません。こんばんわ。ああ笑顔が明るい。

「シテツレ」というべき姫君は日本映画史上有数の気持ち良い女性キャラクターで、恋心の表現もなかなかに直截。敵役の描き方も悪どくはなく、全体に「少年向・家庭向」といってもよい明るさを湛えております。

やや長尺ですが、登場人物間の身分の違いというものがよく活かされていて、先行き不透明なハラハラ感を醸し、目が離せません。撮影班大活躍のカーチェイスならぬ馬チェイスも拝見できます。

全体に「すごいことやってるんだぜ俺たち感」と申しますか、活動屋魂の誇らしさと喜びに満ちております。

なお、能楽は何度か存亡の危機を経験したわけですが、明治政府が落ち着いた頃に皇族・華族(旧大名家)・新興財閥の庇護を受けるようになったので、江戸時代に引き続き上流階級のものとして、一般には禁忌感が残っていたのだろうと思います。

だからこそ庶民には文楽・歌舞伎・講談があったわけで、いっぽうに夢野久作のようにやや揶揄的・自嘲的に能楽(謡曲)に言及することもあったわけですが、戦後の映画に真顔で能楽の要素が入って来たのは、華族制度が廃止されて、能楽も解禁ということになったのでしょう。

空襲で焼かれた舞台が再建されたり、新しい能楽堂が建設されたりしたのは、当然ながら戦後ですが、それはまた当然ながら日本経済が復興してからのことで、薪能の流行なども、そんなに古い話ではないのです。

若者たちがロカビリーやビートルズなどを受け入れていたのと並行して、能楽も一般への普及が進んだのです。意外なようですが、能楽がすたれて洋楽の時代が来たのではないのです。

それには白洲正子・円地文子のような女流の活躍や、女性観客の行動と経済的自由度が増したことも影響したにちがいなく、能界自体も女性を取り込んで民主化したことを示す必要があったのだと思いますが、女優を使って能楽ライクな演出を映画でやられちゃ、その後から能界が引きずられるように変わるというわけにはいかない。

ので、あちらは引き続き(女流も含めて)禁欲的かつ肉厚な男の美学なのです。だから見るからにほっそりした美少女を主役にした「アニメ能」は無理だろうと思われます。

対する黒澤・三船コンビは、あけっぴろげな男の美学とでも申しましょうか。

ここで作品の話に戻すと、黒澤映画の主演俳優として三船の先輩にあたる藤田進が抜群の貫禄を見せ、特別出演状態かと思われたところ、名台詞が出ました。

なるほど、これをアニメにすると「青空侍」になるわけです。



2017/01/12

1953年3月、溝口健二『雨月物語』大映

でも、もう、あなたは私のものになりました。

原作:上田秋成 脚本:川口松太郎・依田義賢 作詞:吉井勇 撮影:宮川一夫 録音:大谷巌 照明:岡本健一 美術:伊藤喜朔 音楽:早坂文雄 音楽補佐:斉藤一郎 風俗考証:甲斐庄楠音 能楽按舞:小寺金七 陶技指導:永楽善五郎 和楽:望月太明吉社中 琵琶:梅原旭涛

王者大映がその真価を全世界に問う最大の野心巨篇。(予告篇より)

1953年度イタリーヴェニス国際映画コンクール最優秀外国映画賞栄冠獲得。第一部、蛇性の淫。第二部、浅茅が宿。

映画は大映。敗戦から8年。独立回復して時代劇が撮れるようになって間もなく、戦争と身分差に翻弄される庶民の男女を生々しく描いたら金獅子が獲れました。がおーー。

冒頭に『雨月物語』を下敷きにした「新しい物語」である旨の挨拶文が表示されます。1953年は日本映画の歴史上では決して古い区分ではありませんが、まだ無声時代を引きずっていたような印象です。

予告篇はおおきく出ましたが、その意気込みのままにリアリズム重視のものすごいセットが続きます。物語は同じ村出身の男女四人の人間模様として、可能なかぎりシンプルにまとめましたが、エキストラは唖然とするほど多いです。人件費が安かったんだろうな……と色気のないことを考えつつ。

一炊の夢に高揚する男の独善性が軽薄なら、我ひとりの幸せを追求する女の独善性は、京マチ子演じる姫君ばかりでなく、ほかの女たちも「蛇性」の執念深さを持っている。

そのいずれをも愛憐の思いをこめて美しく描き出した物語は、明確な二部構成ではなく、一人の男に起きた身の上と心境の変化として連続させ、額縁構造の一種であるとともに、戦乱に巻き込まれた女性の悲劇という教訓的主題を掲げて一貫させたわけで、これは見習いたいです。

怪談に着想を得つつ、じっくり描きたかったものは生きた人間同士の哀歓。お姫様も時代の犠牲者なのです。

1953年当時は、まだ小松・筒井などが駆け出しで、SF的発想が一般的ではなかったと思われますが、幽霊ものは「過去から会いに来た」という時間旅行ものでもあるわけで、昨今流行の若者ロマンスの原型といってもいいのかもしれません。

労働者を賛美し、職人仕事を丁寧に描くという1950年代らしい意識と、物語当時のリアリズムを綿密に考証する点で『山椒大夫』(1954年)と同じ技法ですが、あちらの荒削り感に比べて、制作年の早いこちらのほうが、むしろ洗練されているように思われます。

というわけで、森雅之は珍しいほど底辺的庶民の役。わざとダミ声を発して、よく役作りしております。黒澤『白痴』・木下『善魔』に通じる「人のよすぎる色男」という特性が活きております。

田中絹代の実在感を逆手に取った幻想描写がいじらしく、好対照に神秘的な京マチ子は時折ぽっちゃりと愛らしい「小面」の表情を見せます。

能面の小面は、当時の結婚適齢期である十六歳くらいを表しており、まだ幼児的な肉づきを残した部分があるのです。その可憐さの陰から、生まれてはじめて男を知った愛欲の喜びが妖艶な花となって溢れてくる。

映画監督というのは、撮影班と組んで、他人の顔をカメラで撮ってるだけなんですけれども、不思議と「これは(ストレートの)男の人にしか撮れないな」というところを見せてくれるものなのでした。

和洋の楽器を駆使する早坂音楽は、やや鳴りすぎですが、雅楽でもなく琵琶だけでもなく能楽囃子でもなく長唄でもなく西洋音楽でもなく、印象的な混合となっております。

ひちりきが鳴りっぱなしなのは『山椒太夫』でもやってたような気がしますが、監督の好みなのかもしれません。たぶん本職にアドリブで吹かせているのでしょう。たぶん。

照明はたいへん気が利いており、お姫様が身悶えするような仕草で蛇らしい本性あらわす場面は女の怖さと哀れさを美しくかたち作っております。

能楽師が見たら「俺だったらこういうお姫様をこういうふうに演じるな」と意欲を持つのかもしれません。逆に映画監督は、華族の手を離れて一般化を進める能楽の実演を見ながら「俺だったら女優を使ってこういうふうに撮るねっ」と構想をふくらませていたのかもしれません。

戦後の男たちには、敗戦の仇を文化面で取るという動機が燃えていたにちがいなく、矢継ぎ早に古典を掘り起こしては新しい手法を試していた人々の躍動感が、このようにアクションの無い作品からも伝わって来ることです。

なお、以前にも書いたんですが、網野善彦が「中世の女性は処女性を重視されなかったので、一人でお伊勢参りに行って(木賃宿で雑魚寝して)も恐れることはなかったのだろう」というんですが……

女性が最も恐れるのは、こうして旅の途中で引きずり込まれることなわけで、それがなかったのなら、網野が見た画像資料当時の男たちは、よほどジェントルマンだったに違いありません。


2017/01/12

1961年11月、鈴木英夫『黒い画集 第二話 寒流』東宝

男と女の違いはあるが、事業のセンスは僕より奥さんのほうが上かもしれないな。

原作:松本清張(週刊朝日連載)脚本:若尾徳平 撮影:逢沢譲 美術:河東安英 照明:猪原一郎 音楽:斉藤一郎

1959年前後に発表された松本清張の短編集『黒い画集』所収の作品を映像化する企画のようです。今回は池部良と平田昭彦のツーショットが眼福な銀行内幕劇。序盤は編集が凡庸に思われますが、じわじわ来ます。

池部良は、いわゆる滑舌があんまり良くない代わりに、黙ってる時の表情がひじょうに美しい人で、根が真面目すぎて翳りのある美形という個性を存分に堪能できます。

平田はちょっとバタくさいような美貌で、岡本喜八『暗黒街の顔役』(1959年1月)では最後までいい人でしたが……。

サスペンスの感想文は書きにくいです。

不安をかきたてる前衛調のオープニング、銀行・料亭・ゴルフと高度成長期らしい道具立て、女性の強さと弱さ、池部の顔に白塗りの時代劇かというほど照明を当てたモノクロ撮影と、いろいろと1960年代らしいです。

女の言葉使いの美しい脚本、それを演じる新珠三千代の気品と滑舌の見事さを鑑賞する映画でもあります。長いつけ睫毛がパチパチしております。

なお、志村喬と丹波哲郎が特別出演状態で、気を吐いております。

もとより清張作品をよく知っている観客=読者をターゲットにしており、本格推理ものではなく、日本人らしいというか、観客に喧嘩売るようなサスペンスで、つまり一般的な意味で後味がよくはないんですが、徹底しているという意味で、逆に爽快でもあります。

池部だから美化されておりますが、もっと外見的に冴えない俳優が演じていたら観客の感情移入の質がだいぶ違っただろうと思われることです。けれども、あまり冴えない男だと序盤がロマンスとして成り立たず、先行きが見えてしまうので、配役の妙味なのかもしれません。

池部自身は本当に丁寧に主人公の心理を演じたので、彼の代表作の一つに数えてもいいのかもしれません。これに較べりゃ高倉さんと並んで殴り込みするのはなんぼか気楽です。なお、東宝の予告篇はいつも見せすぎ。

こういうのは、じつは逆説的に男性ナルシシズムなわけで「男はこういう中で苦労してるんだよ」と讃えているのです。連想するのは城山三郎。

でもなんかこう気が済まないので、高倉さんにご一緒願って、バッサリやりに行きましょう。

(平田に任侠路線の悪役をやらせてみたかったなと夢を見つつ)