2017/01/06

本年もよろしく諸注意お願い申し上げます。

皆様よいお年をお迎えのことと存じます。本年もよろしくお願い申し上げます。昨年に引き続き、映画等の鑑賞記と、特殊な創作分野に言及することの二本立てになりそうです。ときどき現実の社会問題に疑問・苦言を呈するということもございます。

わざと特殊分野の話題につなげて行くつもりで映画を観ているのではないのですが、映画に表現された社会問題から、女権運動の負の側面を連想することは多うございます。以下、諸注意を申し上げます。

個々の同人名・サークル名に言及することはありません。同人にも著作者人格権があります。インターネット掲示板に投稿された文章も、流行語や決まり文句ではなく、個性が認められるものには著作権があります。

LGBTブログおよびSNS上の発言を参考にすることがありますが、そちらが炎上するといけないので、リンクは貼りません。

おおきな目的は、粗雑なアマチュア作品と混同されてしまったプロ創作家の名誉回復、および新宿二丁目という行政区名に象徴される実在ゲイコミュニティの人権被害軽減です。

一部のフェミニストの先入観に基づく同人・BL弁護が、一部の同人およびBLファンに影響を与え、社会的に不適切な言動を生じやすくしていることを危惧しております。

なお「BL」という単語の用法につきましては、当ブログの目次(カテゴリ)内、「同人・BL論閲覧前注意」を御覧ください。

すでに退官した社会学者などを引きずり出して弁明させる必要はありません。現役の先生および次世代(ゼミ生など)が参考にしてくだされば幸いです。

「自分の同人誌が売れなくなった」という怨恨をかかえる引退者が、プロ創作家・プロになった同人仲間の悪口を言ったり、現役同人を名指しでおとしいれようとしたりすることもありますが、これも参考程度に留めましょう。真似する必要はありません。

というわけで、言及できる要素が少ないことと、ブログ記事の特質上、独立して読めることを目的に、過去記事と内容が重複する文章も多うございます。あらかじめご了承くださいませ。

異論・反論は通読の上、ご自身のブログ等に挙げてくだされば充分にございます。ひと言コメント合戦は、サーバーの負担でしかありません。

理があれば、義に感じてくださる方もありましょう。助太刀は各人の自発により、少しずつ増えるものであって、自分から「だってみんなゆってるよ」などと他人に責任転嫁するものではありません。

アマチュアの皆様、とくに著作権問題を抱えている方は、あわてて自分のアカウントからクレームしないようにご注意ください。とくに顔出しアカウントから権利問題にルーズであることを表明してしまうことは、現在の職場において致命的です。

著作権問題は克服されたのではありません。原作者は総理大臣によって著作者人格権を剥奪されたのではありません。いまなお著作権者は著作権者です。

冷静な成人同士が個人の権利において話し合うことができることが、国家の介入を拒否できる前提です。

民主主義においては、国民の権利が国家の権利に優先し、国民の行動が国家の恣意的な法律(ルール)によって制限されないからこそ、国民における礼儀(マナー)の遵守が必要です。

同人やってると頭がおかしくなる・人の話を聞かなくなる・不適切言動が多くなると思われてしまえば、神の一手ではなく規制に一歩近づくのです。

すなわち「プロはBLを書いてもいいが、同人活動はアウト」という法律が出来てしまうだけです。国家は国民を非行化から守らなければならないからです。

国家が国民の行動を制限する(=法律を作る)時には「危ないから」というのが大義名分になるのです。もう、お子様ごっこが通用する時代ではありません。誰よりも自分自身にお気をつけください。

(と、振りかぶった上で、本日はほぼ鑑賞記だけです。)


2017/01/11

不思議な著作権問題。~中年と若い人に贈る言葉

著作権保護の強化という話に同人があわてふためくというのは、考えてみると奇妙な話なのです。

まず、有名キャラクターの「イメージ」を利用したパロディという技法そのものを禁止すれば『妖怪ウォッチ』を放映できなくなります。手塚治虫の漫画作品は再版禁止です。

有名な台詞を利用することを禁止すれば、『クレヨンしんちゃん』の劇場版は文化庁メディア芸術祭受賞作なのに再上映禁止です。

むしろ国民的損失であり、みんなの迷惑です。国家にそこまでする権限はない、ということができます。日本政府がアメリカの提灯持ちになりたいからといって、裏切り御免じゃ済まないのです。

いっぽう、有名キャラクターの名前が文字情報として含まれる場合には、これを権利者からの親告を待たずに摘発する、とすれば?

プロ漫画家の仕事場に警察官がやって来ます。「署までご同行願えますか?」(民主警察だから言葉使いは丁寧)

政府・警察が、有識者を含む国民からの「検閲はよくない」という指摘や、警察官が他の仕事をせずに「検査」と称して一日中漫画ばかり読んでいるという批判を防ぐためには、国内刊行物すべてに警察官が目を通し、ハンコを押すということをしないで、善意の国民からの通報があった時だけ出動することにすればいいわけです。

常日頃、警察官のほうから個人所有の車両をのぞいて見るわけではないが、市民から「不審な車両がある」とか、「不審な荷物が置いてある」という通報を受けたら直ぐに出動するのと同じことです。

つまり、検閲しないからこそ、通報が盛んになるわけです。

とすると「先週発行された漫画には、50年前の映画に登場したのと同じ人物名が使用されています。著作権保護期間は70年に延びたから、これは違反ですよね?」という通報があり得るわけです。

国民としては善意のつもりかもしれない。意図的ないやがらせかもしれない。

プロ漫画家は「そんな古い映画知らないよ! オールド映画ファンの被害妄想だよ! すぐパクリ・パクリって言う奴がいるから困る!」って言うでしょう。

でも警察官は彼(女)自身の職務として「とにかく一度、署のほうへ」と言わなければならない。

後日、プロ漫画家は「取調べを受けている間、仕事ができなかった」といって、国家を提訴することもできるでしょう。彼(女)の賠償請求に国家が応じるとなれば、国民の税金が使われるわけです。

「漫画くらいでそんなに騒ぐなよ」って、国民として言いたくなりますわね。面白ければいいじゃん、ってね。

だから、この話はプロ創作家・出版社・映画会社などが団結して政府に対して「創作物の場合は、引用との線引きが明確でないので、他の作品とよく似ていると思われる要素があっても非親告罪にはしない」という合意が取れれば、それで終了です。

同人は、最初から最後まで黙っててもいいのです。

【そこじゃない】

いっぽう、創作家が「売れなくなると困るんです! 生活がかかってるんです!」と言ったら国家が「じゃあいいよ」と言ってくれるのであれば?

海賊版業者も危険ドラッグ業者も「自分の生活のために売っている」と言えばいいことになってしまいます。

逆にいえば「売っている」とか「売るためにやっている」というのは、言い訳にならないのです。

この話は最初から「コスプレして映画館に並ぶくらい構わないが、商売ものだけ取り締まろう」という話なのです。売ってるこたァ分かってるのです。売るために他人のキャラを利用したら、プロでも逮捕すっぞという話なのです。そのためには(事実上の)検閲か、密告の奨励がなされるのです。起訴には至らないことのほうが多いかもしれませんが、たびたび取調べを受け、証拠品として原稿・フィルム(デジタルデータ)を押収され、業務妨害されるのです。

「俺はプロだから」といって左団扇でいられる話ではないのです。

つまり、意外なようですが、この問題の切り口は「同人誌が営利目的かどうか」ではないのです。

トッププロのレベルで「パロディという技法を法律で禁止しない」(=必要に応じて民間レベルの話し合いで解決する)という合意が取れれば、それで終わるのです。

もう一回いいますが、同人は最初から最後まで黙っててもいいのです。

同人誌即売会は同人誌を即売する会ですから、同人誌を売ってるこたァ分かってるのです。でも、そこが問題ではないのです。同人だけが特別に問題視されているのではないのです。

にもかかわらず、政府とプロの話し合いの途中で「あらやだ売れなくなると困るわ! うちは商売なのよ!」と叫びだしてしまう同人というのは、何に似ているかというと、若者たちの話に首をつっこむオバサンなのです。おふくろは話が分かってないんだから、ちょっと黙っててくれみたいなね。

【問題をすり替えてはいけません】

「著作権者から訴えられなければいい」という点では、プロも同じです。『おそ松さん』の他にも「何々先生ごめんなさい」とジョークを言うことはあるわけです。

あえて例えれば、黒澤映画『醜聞』にあったように、週刊誌などは今なお「編集長、これ大丈夫ですか?」と言いながら発行するわけです。有名なプロ作家の小説に「わが町では煙草のポイ捨てはふつうではない」というクレームついたこともありましたね。

もし「名誉毀損的な出版物は、これを非親告罪とする」という法律ができたら? 常日頃から「ああいう週刊誌は下品だから取り締まればいい」と思っていた人々は面白がるでしょう。ぜひそういう法律を成立させろと言うでしょう。

でも「自分は大丈夫」と思っているプロ創作家も「こういうのいいんですか?」という通報電話に悩まされることになるわけです。そして警察には「検査」と称して、一日中グラビア雑誌をめくっている部署が出来てしまう。国民は「それで国から給料もらえるなら俺だって警察官になりたいよ」とジョークを言うでしょう。

キャラクターの話に戻すと、これを機会に目ざわりな同人をつぶそうという話にすり替えてはいけないのです。

同人自身が「とくに同人だけが規制される話だ」と勘違いして興奮しても無意味なのです。まして「私の同人誌が売れなくなったのも規制のせいなんですよ!」と昔話を始めたって、いま関係ないでしょというだけなのです。

プロ漫画家・原作者の一部は「非親告罪になったら同人はやばいよね」ってことを言ったわけですが、自分たちだって安穏としていられるわけではないのです。「トレース疑惑」同様の密告祭りが始まる可能性があるという話なのです。

だからプロ創作家が「創作活動が阻害されるので非親告罪にしないでください」という署名運動を開始して、アマチュアにも協力を呼びかけたというなら分かる。

でも「同人はやばいよ」と言うだけでは「だからなんなんだ」って話でしかないのです。また、すでに法律ができてしまった前提で対抗措置として許可マークを制定しようというのは、フライングです。

この話は、はからずも、日本人が「法律ができる」ということに対して無力感を持っている・お上には逆らえないという気持ちを持っていることの証拠の一つになってしまったのです。

さらにいえば、プロが自分たちだけで話をつけることができず、じゃあ同人はどうなんだというふうに話をすり替えようとしたということだったのです。

【「警察を入れるんじゃねェぞ」って話なのです】

この話は最初から「商業的規模の著作権侵害」を問題視しているのであって、「コスプレして映画館に並ぶくらいは構わないが、金目のものだけ取り締まろう」という話なのです。

それに対して、すべてのプロ創作家が「警察を入れる必要はない」と言うべきことなのです。

そもそも「どうにも困るから警察を入れてくれ」と言ってるのは、有名なロゴマークや「なんとかバッグ」の意匠を模倣されるファッションブランドなど。および映画を盗撮されたり、DVDを焼増し販売されちゃ正規品が売れなくなるという映画会社。あえて言えば、その営業部門ですね。

これは本来、それによって権利料を取れるはずなのに取れないから、おカネを払わないで品物だけ持っていってしまった人がいるということで、窃盗ということになるのです。

でも創作家は「警察を入れてくれなくていい」と言ってるわけです。民主主義であるかぎり、決定権は国家ではなく、国民のほうにあるのです。(建前は大事です)

つまり「どうにも困るから入れてくれ」と言ってるところにだけ警察を入れりゃいいのです。うちは間に合ってますというところへは派遣しなくていいのです。

レイア姫の女優さんがなくなりました(R.I.P.)が、スターウォーズファンが姫に憧れ、感謝と追悼の思いを込めて、似たようなドレスや、ハン・ソロみたいな革の胴着を着て新作映画公開日に行列することを「目にあまる犯罪だ」と思う映画スタッフはいるのか? 

もし、そう思うくらいだったら「そもそも若者が真似したくなるような映画なんか作るな。特撮もアニメもやめちまえ」ってだけです。

映画会社としては、映像ソフトとして発行したDVDを焼増し販売されたり、上映中に盗撮されて複製販売されたりしては困るけれども非営利のコスプレなんか誰も問題視してないのです。

また、アニメ制作会社などは、若い人にキャラクターを好きになってもらって、おおいに真似して描いてもらい、次世代のアニメーターとして成長してほしいのです。

先輩の絵を真似して描ける人が誰もいないなら、アニメという技法そのものが成り立ちません。

また、既成の物語の続き・行間を考えてみることが悪いのならば、シリーズ番組というものが成り立たなくなります。第1話の設定を活かした第2話を考えてはいけないというのでは、脚本家が育たないということです。

だから、インターネットにあふれる有名キャラクターの似顔絵や、続篇・番外編的物語、「ニコニコ動画」を成り立たせる嫌儲活動を、削除祭りにする必要はないのです。若い人は自由に自分を鍛えていいのです。

かつて自分もそのようにして成長してきた漫画家たちも「ド素人のくせして生意気な! 誰にも俺の絵の真似はさせん!」なんて言っていないのです。

だから、一般SNS利用者などがコスプレイヤー・同人活動を目のかたきにする必要もないのです。とくに「目ざわりだから、つぶせ」という差別意識・私刑の正当化になってしまってはいけないのです。これには法律家も賛成してくださるでしょう。

と、このへんで勘違いする同人がいる。

【やめる自由もあります】

「じゃあ売らないアニパロなら描いてもいいっていうんですか!? でも私たち売るために描いてるんですよ! 誰もキャラなんか好きじゃないですよ!」ってね。

やめりゃいいじゃん、って言われるだけです。

有名キャラが好きじゃないなら、オリジナルを描いてプロになればいいのです。なぜアニパロ同人活動にこだわるのですか? そういう人がいるから、みんなが迷惑するんでしょって言われるだけです。

また、同人が「誰も原作なんか気にしてませんよ! ただのエロですよ!」と言うなら?

「じゃあそういう作品だけ規制しろよ」って言われるだけです。「原作者に失礼だろ」ってね。同人が何をえらそうに自分が一番の被害者のような顔をしているのか。

同人ってのは、売るためにパロディという技法を用いるという点では、プロの仲間という顔をしていられるのです。また、オリジナルキャラクターが活躍する話の途中に時々パロディの要素を混ぜるというのではなく、有名キャラクターをダイレクトに利用する点では、ファンアートの一種という顔をしていられるのです。

逆にいえば、どちらの皆様からも「あれは我々の仲間ではありません」と言われないように、おとなしくしていなければならない存在です。

同人みずから「じつはどちらでもありません」と白状するなら、そういう連中だけピンポイントで規制しろと言われるだけです。

「今回は山田さんが頑張ってくれたからよかった」ではないのです。もともと騒がなくていいことを自分たちのほうから騒いで、少なくともインターネット上における世論を激怒させてしまったんでしょって話なのです。

自分がグレーゾーンにいることが分かっていますか? なんでも暴露すれば、女の子だから大目に見てもらえると思っていますか? もう40代なのに?

政府に対して「横暴な法律を作らないでください」と言いたいなら、ツイッターで威張ってないで、政治家に向かって嘆願書でも書けばいいです。

一般国民の皆様に「横暴な法律が成立してしまう後押しをしないでください。我々の窮状をご理解ください」と言いたいなら、なによりも重要なのは、丁寧な言葉使いです。

同人が問題視されるのは、態度が悪いからです。少なくともその一部が、公共交通機関利用のマナーを守らない。SNSへ暴言を流す。新宿二丁目で人権侵害する。それが「女の子だから大目に見てもらえる。特別に配慮してもらえる」などと勘違いしている。

世論が動けば政府が動くのが民主主義です。国家に対して「表現の自由を侵害するな」と言うぶんには、今なお、世界中の左翼系知識人が味方してくれると言えるでしょう。

けれども、一般国民が「同人というのは目に余る連中だ」と思えば終わりです。

国家が国民の言動を規制するとき、大義名分になるのは「危険だから」です。若い人が真似すると困るから、です。

【お薬を飲んで寝ましょう】

文字数制限のあるSNSは、断片的な情報が流れてくるので、勘違いしやすく出来ています。だからこそ冷静であることが重要です。とくに夜間は副交感神経が優位であり、感情的になりやすいといえます。

とくに、通常の限度を超えて興奮しやすいことを自覚している人は、お薬を飲んで寝るといいです。

当方は、もともと「冷静でありましょう」と呼びかけるものです。誰の味方というよりも、論点がズレている・どうも話がおかしいということが気になる人です。「問題をすり替えるな」と言いたい人です。(最近自分でも気づいたのです)

今回、著作権保護強化の件に関しては、ひと段落ついたということもあって、自分なりの理解をまとめて書いてみました。読んでくださった方は、またそれぞれにご自身で判断なさってください。興奮する必要はありません。怒りの感情を捏造することは、権力争いごっこでしかありません。

それは、劣等感を持っている人が陥りやすい心の罠ですから、自分で気をつけましょう。母親のトラウマは存在しません。

なお、本当に鬱になってしまうと、受診のために自宅を出ることもできなくなってしまいますから、早期発見・早期治療が重要です。

対人関係でまったく傷つかないということは、基本的にあり得ません。(参考:『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健)

だからこそ、すでに傷ついたことによって病気を発症してしまった人は、傷つく可能性を回避することが必要です。それは、アルコール依存症から更生するとき、まず禁酒するのと同じことです。

躁うつ病はもちろん、アダルトチルドレンを自称する人も、他人の発言を自分にとって悪いほうに・悪いほうに考えてしまう、自分だけ個人攻撃されたような気持ちになって興奮してしまうという症状を自覚しているものです。

わざと自分を興奮させるような他人の発言を求めて、タイムラインに張りついている必要はありません。刺激を求めるという行動の裏には、単純な寂しさがあることも多いです。もし可能なら動物を飼ってみましょう。

【またアニパロを書いてみましょう】

ぬいぐるみ・着せ替え人形なども、本来、人間の「かたしろ」であり、人が何かしら思い入れ(感情移入)をもって抱きしめたり、飾り立てたりするものです。それを二次元化したキャラクターというのも同様です。

有名キャラクターを利用した漫画や小説を描くことで自分が「癒される」と思うなら、そうさせて頂きましょう。著作権者が文句いって来たら、その時点で話し合えばいいです。いきなり収監されることはありません。

むかし同人やっていたのに、いまは全くやっていないという場合、もともと創作活動そのものが人生の目的だったのではないのです。人前で意地きたなく「カネ、カネ」と騒ぎながら、いまは自分では売っていないというなら、本当の目的は同級生と一緒にコミケへ行くことそのもの。おしゃべりしたり、コスプレした人と一緒に写真を撮らせてもらったりして、お祭り気分を楽しむこと。

さらには、やっぱり特定のキャラクターに感情移入することによって、青春期特有の「異性の交際相手がいない・同性の友達が少ない・そのことによって周囲から笑いものにされているような気がする・将来が不安である・勉強のできる子について行けない・親の期待に応えられる気がしない」といった寂しさ、自信のなさとか、そういうものを癒していたのです。

それは、二次元コンプレックスだから悪いということではありません。すべての創作物の基本機能は現実逃避です。たとえ実際にあった戦争や公害を題材にした深刻な物語でも、それを鑑賞している間は、自分自身の課題から眼を背けていられるのです。

それを自分で否定すれば、もうなにも残らなくなる。実在の他人に依存する他なくなる。かえって、不適切言動が多くなるのです。

アニパロで癒されるなら、またアニパロを描いてみましょう。コミケへ搬入することが諸般の事情によってむずかしいなら(抽選制ですしね)、ダウンロード販売などの方法もあります。それが禁止されないためにも、常日頃の言動を慎みましょう。

念のため、現役同人ってのは時代の変化を肌で知っているので、わりと控えめです。もう中学生気分ではありません。SNS発言の際も気を使っています。奇妙な強気に駆られ、自慢話をするのは、終わってしまった人です。赤字を出して撤退し、いまだに不良在庫を抱えている人です。劣等感があるから、優越感を取り戻すために、わざと怒りっぽくなっているのです。本人も周囲も気をつけましょう。

若い人は、自分が中年になった時、やっちまわないように気をつけてください。30年後・50年後の社会と、法律の変化と、自分をイメージしましょう。人間は「まねぶ」動物であり、眼で見たものをそのまま真似してしまうように出来ていますが、悪しきお手本を真似する必要はありません。

おとなになるということは、わざと悪いことをすることではありません。テレビニュースなどは、それ自体が「数字」を取る必要がありますから、わざと若い人がルール違反・マナー違反をして騒いでいる姿を報道し、こういう人が増えているという先入観を煽るものです。引きずられる必要はありません。自分で判断できる成人になってください。



2017/01/12

二次創作は、読みたいと言ってくださる方々に支えられています。

漫画アプリのテレビコマーシャルを観て「ちゃんとペンとインクで描いてる(涙)」と喜ぶ今日この頃でございます。守るべき伝統もあれば、克服すべき勘違いもあります。

まず申し上げておきますと、同人活動はあなたの学業成績を悪化させる危険性を高め、人生を変えてしまう恐れがあります。未成年者・ヤングアダルトを問わず、周囲の人から勧められても決然として断る権利はあなたにあります。

摂食障害を回避するために二次創作BLを書かなければならない義務はありません。摂食障害になりたくなければ自己流ダイエットをしないのが基本です。トラウマとかなんとか根拠のない幻想を言い訳にして、生涯賃金を棒に振ってしまうことのないように気をつけましょう。

同人界の先輩たちは、ライバルが増えないほうが良いのが本音です。決して若い皆さんに同人活動をおすすめするものではありません。昔の先輩は「親を泣かせることになるからやめておけ」と言ってくれたものです。




コミックマーケットというのは、創作の自由を追求する場所です。

自作の創作物なら何を出品してもいいからこそ、性的なアイディアも、パロディのアイディアも試行されたのです。コミックを称しながら小説を出品することさえも許されたのです。少なくとも米沢氏によって。

彼と方針が合わずに分離していった人々の悪口を言うのはよくありません。基礎を築いた努力は永遠に顕彰されるべきです。

そこは本来『COM』なき後の漫画の未来を模索する漫画同人会が集結する招待制の業界内イベントであって、彼ら同人会は当たり前のようにオリジナル作品を発表していたのであり、初期の主宰者が発行していたのもプロによるオリジナル作品の論評です。

それを読んだ人々は、自分もプロになる夢を見たのであって、最初から「アニパロ」を出展することを意図していたのではありません。

「アニパロ」を出展するためだけに、あわてて個人的に「サークル」を名乗り、一回も漫画原稿を完成させたことがないくせに少女漫画家になりたいなどと嘘をつきながら自称小説ばかり書く者が我も我もと押しかけるところではなかったのです。

そういうところだという勘違いを起こしてしまったのが1981年頃の中学生だったわけで、その出品物を見た人がまた「そういうものだ」と思って真似をするという繰り返しで、当時はまだ「イナゴ」なんて言い方もしなかったので、いまでも自分を相対化できていない中年もいますが、残念ながらその程度の存在だったにすぎません。

今なお、コミケに限らず同人誌即売会の主宰者側は、べつにアニパロが出品されなくても困ることはありません。オリジナル作品を出品する人がいて、それを求める購読者がいれば、イベントは成り立つのです。

パロディ同人が原作者に対して失礼なことを公言し、一般国民の皆様を怒らせて、イベントそのものが危険視されるくらいなら、さっさとやめてもらって構いません。

政府に向かって「表現の自由を侵害するな」という言い方をするかぎり、今なお世界中の左翼系知識人が味方してくれるでしょう。けれども世論が炎上すれば政府が動きます。それが民主主義です。同人は、つねに二面作戦です。かつての学生運動と同じです。自分が権力と闘っているつもりだからといって、プロレタリア人民が味方してくれるとはかぎりません。

けれども、二次創作が全滅しては困る人がいる。二次創作を「読みたい」と言ってくださる方々です。

イベント会場へ足を運んでくださり、お財布を開いてくださる読者様の中には、キャラクターを本当に好きな人・原作もよく読んでいる人・原作とパロディの整合性を気にする人もいます。

表面的には周囲の流行に合わせて、気にしないふりをしていても、心の底では寂しい思いをしているかもしれません。

絶対に、同人のほうから、お客様を笑いものにしてはいけません。

他人の心の中のことなのに「キャラなんか好きな奴はいない。原作を気にする奴は遅れてる」と決めつけてしまってはいけません。あなたにはそんな権利はありません。

いっぽう、出展者の中にも、パロディを手がけつつも原作者を尊敬している人・キャラクターを愛している人がいます。尊敬する先生が描いた大好きなキャラクターだからこそ、丁寧に模倣するのです。そうやって技術が受け継がれていくのです。

だから「エロいアニパロしか出品しちゃダメよ」とか「誰もキャラなんか好きじゃない」ということはありません。それを言う人は、本人がそういう了見で参加していただけです。

類は友を呼び、朱に交われば赤くなるのですから、本人の周囲に似たような人が集まるのは当然です。が、その仲良しグループの向こうには、広い世界があるのです。

自由とは、各自が自己決定権を保障されているということであり、誰も恣意的な基準を他人に強制してはいけないということです。誰も自分に権力があるつもりになってはいけないということです。

売上金額に興奮し、天狗になってしまい、自慢話と差別的な発言ばかりしていた人が、だんだん売れなくなった・友達がいなくなったという時は「やばい」と思われたのです。こいつとつるんでると巻き込まれると判断されたのです。

男性中心社会が横暴なのではありません。あなた自身が横暴だったのです。



2017/01/17

創作ファンは国民の一部にすぎません。

1960年に20歳で、シュプレヒコールったりジグザグったりしていた人は、今年77歳です。(!)

1990年代には50歳代でしたから、大学教員としてゼミ生に影響力をふるっていた可能性があります。そのゼミ生が、いまや40代です。マルクス主義的発想・口調が無反省に受け継がれちゃってる可能性は、けっこうあります。

いま20代のゼミ生がBLを研究題材に取り上げると、自分の指導教員をすごい勢いで批判することになる可能性もあるので留意しましょう。

先達を批判し、超克することによって学界が進歩するのですが、ゼミ全体が気まず~~い雰囲気になる可能性は、あります。




1980年代・90年代のフェミニスト(その一部が社会学の研究者)というのは、自分自身が大学で出世できないことに悩んでいたので「いまや世界中の少女が男同士を見物することを通じて男女の結婚に反対している」という話に落として行くことが都合がよかったのです。世界同時革命ごっこの一種です。

けれども創作物というのは、あくまで創作物です。他人の想像を「記号」で表記したものにすぎません。そんなもん必要ないと思う人も大勢います。

たとえノーベル賞・芥川賞・直木賞・小学館漫画賞を受賞し、創作家自身が紫綬褒章を頂戴したとしても、全国民が読むわけではありません。

じつはテレビ視聴率10パーセントというのも、国民の一割が観ていることを意味しません。モニターの一割です。モニターやってない国民は誰もテレビを観ていない可能性だってあるのです。

全国民がおなじ時間にテレビを観ていて、そのうちの一割にモニターを依頼すれば、あとの九割のチャンネル選択行動を推定できると信じることのできた幸福な時代があったのです。

フェミニズム批評的BL論というのも、そういう時代の産物です。

大学という特殊な組織における男尊女卑に悩む女性が「私=みんな」と信じることができた。げんにプロ創作家である女性たち・プロをめざして修行にはげむ少女たちは、学者の仲間だといえたかもしれない。

けれども、それは日本人一億人以上のうちの、百万人にも満たない。

出生数の多かった時代にも、その成長後の大学進学率は2割です。200万人として40万人。半数が女性として20万人。200人収容の大教室で講義を受ける教養学部生の中に「同人やっている」人は何人いますか?

「人間200人いたら、3人は性的マイノリティだと思え」という話があります。ゲイ・レズビアン・トランスなどかもしれないということです。

同人やっている学生というのは、もっと少ないかもしれないのです。

それが創作家をめざしているのに「早く結婚しろ」と言われるのであれば、これは「自由のために闘う」という女性になるでしょう。けれどもBLでなくても自立はできます。

ごく普通の少年スポーツ漫画を描けばいいのです。塀内夏子という実例があります。竹宮恵子『地球へ…』は性的描写のない普通のSF漫画です。印税が入ります。忘れた頃に映画化・演劇化の話があって、臨時収入になるかもしれません。同人誌の自転車操業より将来性があります。

ほんとうに自立を望む少女なら自虐してまで二次創作BL同人活動にこだわる必要はないのです。プロなら自虐したことは一度もないのです。プロが自虐して作品を公開しなかったならば、その影響下に成立したというアニパロ同人活動もあり得なかったのです。

最初から成り立たない話をこじつけていたフェミ達は、自分が出世したかっただけです。

女性が職業と育児を両立させるために男性の倍以上働いても評価されないことは深刻な問題ですから、出世したいこと自体はいいのです。

でも、そのために事実を歪曲し、他人の名誉を傷つけたのであれば、研究史の恥部なのです。

【途中で逃げたフェミ】

アニパロ同人活動というのは、そのままではプロデビューにつながらないので、たんに学業成績を低下させるだけで、むしろ女性の自立のさまたげになるのです。

学生・生徒時代に同人活動に足をつっこんじゃった子というのは、自分自身を「腰かけ」と考えていた(結婚を機会に引退するつもりだった)か、自分自身を無資格な派遣労働者・パートタイマー候補として労働市場の底辺に位置づけてしまったのです。

「少女が社会進出しても出世の望みがないことに絶望し、モラトリアム化している。家庭という社会の最小単位の再生産の道具・シャドウワーカーたる運命に対して、サボタージュ、ストライキを試みている」

と説明するならば、そういう少女こそ、きちんとプロデビューし、男性編集者によって書きたくないものを強制されることなく、堂々とBLだけを描き続けられるようにサポートしてやるのがフェミの義務のはずです。

つまり、いつまでも二次創作させといちゃいかんのです。または少女自身が「一生アニパロで食って行きたい」というなら、彼女が絶対に告訴されないように、政府にかけあって、著作権法を改正させるのがフェミの仕事です。

そして、うら若い女性に言論上の公開リストカットのようなことをさせておかずに、「あなた達が自虐する必要はない」と教えるべきであるはずです。

あなた達を差別する社会をわたし達が変えてみせるから、若い人は堂々と描きたいものを描いて、それを誇らしい名前で呼び、一人で生きていっていいんですと教えるべきであるはずです。

二十四年組はそれをやったのです。なのに研究者によって「山も落ちもない」と呼ばれ、プロまで一緒になって自虐していたと言われ、価値をおとしめられたのです。

何やってたんですか? どこを見ていたんですか?

じつは、フェミ自身がふてくされていただけだったのです。大学で出世させてもらえないことについて彼女たち自身が厭味を言いたかっただけなのです。そのために「少女」を利用したのです。

本来、同人は本気で著作権問題を回避するために「二十四年組とはレベルが違いますから注目しないでください」と言っていたのです。同人は開き直ってなどいないのです。

ギリギリで1983年夏までの「ジャンル」はテレビオリジナルSFアニメであって、著作権問題の相手は個人プロデューサーまたはテレビ局です。漫画家同士だから大目に見てもらえるだの、編集部が間に入ってくれるだのという甘えは通用しないのです。同人は本気で逃げ隠れしたかっただけです。

それを「開き直っている」と解釈した人は、じつは同人のことではなく、自分自身の心を語っていたのです。

それはまさに女性的なのであって、男に負けない・男になりたいと言いながら、どうせ私なんかという自己憐憫に引きこもっていくのです。不幸自慢によって周囲を支配するという倒錯的権力欲なのです。

それをまた同人のほうで真に受けて、いまだに「女の子は弱者特権があるから大目に見てもらえる」とか思ってるようじゃ困るのです。

2017/01/17

BLは、男性中心社会における既成概念の追認にすぎません。

BLと呼ばれるようになった表現分野については「男性中心社会を否定しているのか、肯定しているのか」、まさにマルクス主義的な議論が行われていたわけですね。

けれども、実態は「男性が権力をにぎると、異性ばかりか自分の後輩にまで性的な意味で手を出すことがある」という伝説に依拠しているにすぎません。

また、かならず男女の真似をするというステレオタイプに基づいている。その際、年少者のほうが女に見立てられるというのも、古来より世界中で共有されて来た約束事です。

義兄弟の契り・ブラザーフッドというのは、本来は文字通り男と男のお約束というだけのはずですが、ときどき、立場の差を利用して性的欲求を満足させるということがあったのでしょう。

成人儀式として制度化されていた地域もあるといいますから、あながち「結婚(子作り)を強要された同性志向者が、やむを得ず起こした事態だ」とばかりも言い切れません。

簡単にいうと、ストレート男性による「いたずら」の一種であったことを否定しきれません。

とくに、ここ重要なんですが、女性の自己決定権が、少なくともその父親の権威によって保障されており、若者たちにはおいそれと手が出せないという時、彼らの後輩が犠牲になるのです。

女郎というのは女性にとっては辛い職業ですが、客にしてみりゃ「ただ」というわけには行かない。逃げようとすれば彼女の雇い主(と契約している地廻り)によって、えれェ目に遭わされるわけで、そういうリスクを取らずに済むのが後輩相手なわけです。

神話・御伽草紙などは、この関係を、若年者側の感情を無視して美化したものです。

ヒュアキントスというのは、呉茂一に全面的に依拠すれば、もともと(大地の女神の息子である)植物・穀物の神様だったんだそうで、それが同じ属性を持つ外来神であるアポローン(を信仰する人々の勢力)に負けたので、弟分ということになったんだそうです。

実際に「負けた」と感じたヒュアキントス信者の悔しさが時代とともに薄れたところで、美しい伝説だけが残ったのでしょう。

とすると、これは一種の民族同化政策の美化なわけで、男女であれば被支配民族の女性が支配民族の男性を喜び迎えたとなるところですから、義兄弟関係でありながら男女関係を連想することも容易に起こり得るわけです。

異性志向男性が読んだ時にも違和感がない範囲で、すなわち女役の若年者がもともと相対的に女性的であることを利用して、ホモソーシャルをホモセクシュアル化し、美化された情趣だけを消費するということは、もう何千年も前から男性が実行してきたことだったのです。

それは女性の発明ではありません。たんなる男性社会の既成概念の一つです。

ほとんどの男性にとって、若者の相対的女性性が利用されたという伝説が現実だったとは信じがたく、現実であれば仲間の不名誉であり、歴史の恥部だから、あまり言及しないだけです。

それを若い女性が知ったというのは、純文学も古典芸能もろくに知らなかった子どもが漫画を通じて「大人の世界を知った」というだけであり、既成概念を確認しただけであって、なにも否定したことにはならないのです。

むしろ彼女自身が男性中心社会の価値体系に組み込み直されただけなのです。だから、女性の人生も、なにも変わらないのです。女が男のやることに少し詳しくなったからといって、自分の宿題さぼっていい理由にはならないのです。

【宿題出さなかった子】

男同士に興味があるといえば自分自身の課題から逃げられると思うなら、プロレタリア人民のためと称してフォークダンスしていたのと同じことです。(参考:大島渚『日本の夜と霧』)

宿題出さなかった子は、たんに宿題出さなかった子であって、気がついたら成績が低下し、同級生に置いて行かれていたということになるのは当たり前です。

この場合の宿題とは、本人の価値観にしたがって、結婚でもいいし、出世でもいいです。出世するには外国語を勉強したり、資格を取ったりする必要があります。師長になるには、まず看護師の資格が必要なように。

それをやらずに、男同士のことが女性的に描かれた欺瞞的な創作物ばかり読んでいても、現実には何の役にも立たないわけです。これをフェミニストがちゃんと言わなかったのは、いま思うと罪深いことだったと思います。

それは本来、成人女性による老後の楽しみというものだったのです。森茉莉は離婚後の独居中年。竹宮恵子たちは1970年代当時としては結婚適齢期を逃したという他なかった二十代後半。

彼女たちは、その後もその種の物語を描くことで自活して行けるかもしれない。休みさえ取れれば女同士で海外旅行に行ったり、ロックコンサートに行ったりできるかもしれない。

でも年端も行かない少女たちがそのような暮らしに憧れるのならば、まずはきちんとした創作テクニックを身に付けて、プロデビューする必要があるのです。そのための修行期間を、ヤマも落ちもないアニパロを読むことだけに費やしてはいけないのです。

なお、アニパロで一生食っていけると思うことは(放送禁止用語)です。そんな夢を見ることができたのは、1988年頃のバブル景気の時だけです。あのころ実際に少女だった世代というのは、ものすごく人数が多かったので、同級生に支えられて「うまく」やっているような気分になることができたのです。

そもそも学生の間は「親がかり」です。それが「同人誌」を売ることによって数千円でも手にすれば、すごいお金持ちになった気分を味わうことができる。けれども一人暮らしとなれば、月に十万円あっても足りません。

卒業するまでに、最低でも親がなくなる前に、他の定職につく(ために資格を取る)か、プロデビューしてヒット作を持つ必要があるのです。

【きみが面白がることじゃない】

BLを何冊読んでも男性中心社会を批判してやったことにはなりません。それはストレート男性にとっても、ゲイ男性にとっても、なんの関係もないフィクションです。

女性読者から「男って本当にこういうことするんでしょ」と言われた男性は、たんに金井湛くんの父上のように「うむ。そんな奴がをる」と答えるだけであって、女性の自立にも支援にも何にもなりません。

女性が「ほら御覧なさい」と鬼の首を取ったような気分になっても、たんなる彼女の自己満足です。

彼らがそれを男性の特権であり、自分自身ではなくても仲間の自由の象徴であり、彼の意志は尊重されるべきであると考えるかぎり、女性に遠慮して自粛しよう・させようなどとは思いません。

むしろ女性に対して「そんな奴もいるが、きみが面白がることじゃない」と説教できる立場です。

BLファンの女性は、あくまで自分自身の身にお見合い話や危険なお誘いが振りかかって来た時に、他の女性と同様に自分自身の意志に照らして個別対応するだけであって、BLを読んでいることは、誰の参考にもなりません。

それはあくまで既成の男性社会によって承認された範囲における女性のナルシシズムを満足させるように調整された男の物語であり、フィクションであり、舞台劇の一種であり、見世物であって、「女みたいな男を見物する」という趣味にすぎません。

【間違った前提】

男性が描いた女子マネージャーは可愛くないから、または魅力的すぎるから感情移入できないからといって、男同士を読める理由にはなりません。

あえて例えれば、海老が食えないからといって蟹が食えるとは限りません。蟹もきらいな人はどっちも食わないだけです。飛行機が怖い人は船に乗るかというと、船酔いする人は船にも乗らないだけです。

仕事でやむを得ず船に乗る人はあっても、せっかくのお給料を読みたくもないBLを買うことに使う必要はありません。

BL論の弱点は、BLを読む人は少女漫画を読まないという排他性が無反省に前提されていることであり、少女漫画を読めない人はほかの何かを読まなければならないという強迫観念に支配されていることです。

この根本にあるのが「資本主義が超克されて共産主義になる」というダーウィニズム準拠的マルクス主義的段階的発展論なわけで、それに首まで浸かっていた世代が、いまの40代の大学教員たちの指導員だったわけですよっ。

けれども、もともと創作物なんですから、現代女性の自尊心を傷つけない女性キャラクターを自分で描けばいいのです。それが本当の女性の自立です。それを男に読まれてしまうというなら、どんどん描いて売ってやればいいのです。男より金持ちになれるでしょう。

けれども、どんなに女性として満足しても、満足されない趣味がある。受身の男性という特殊なキャラクターを消費することです。この要素があればBLで、なければただの少年漫画、またはイケメンが出てくる少女漫画です。

むしろ女性として満足したから、次の娯楽的選択物として、それまで目に入らなかったものが入ってくるのであって、男性の創作物を消費する順番としても、文部省(当時)推薦的なものを読みつくしたので、全集に挑戦したとか、文庫を買いそろえてみたという時に「あれ? 珍しいことが書いてある」ということが起きるわけです。

そこで「女の子みたいな男の子がいるなら会ってみたいわ」と思わないことには、彼のようになりたいと思うこともないし、彼に恋したことによって破滅する男に感情移入するということもない。

すべては、彼女自身が異性志向の女性として、女の子みたいな男の子に憧れたことによって起きることであって、あくまで女性の自認が確立している者が「女の子みたいな男の子って可愛い」と言っているだけであり、本人が「女の子は可愛い」と思ってりゃ、ごくシンプルな三段論法によって当たり前の結論にすぎません。

そしてこの女性の「ナルシスム」と異性への関心が両立できるから、女形出身の剣戟俳優は女性観客に人気があるというのは、1970年に生涯を閉じた三島由紀夫が生前に書いていたことであって、それはちょうど森茉莉がその趣味の三部作を立て続けに発表していた頃でもあって、もうその時点で答えは出ていたのです。(参考:『第一の性』)

(たま~~にストレート男性のBL読者もいるそうですが、これも基本的に「可愛い女の子みたいな男の子って可愛い」という趣味であると思われます)

【価値観の共有】

BLは世界中の男性が共有する「少女漫画みたいな顔した男はホモになる」というステレオタイプを流用し、男性のお相伴に預かっただけであって、男性の価値観から一歩も出てはいないのです。

だからこそ、それは「少女の内面」なのです。男性の価値観に従い、従属的な立場・補佐的な業務に甘んじ、自らの名において責任を取ることを免除されていることに安んじ、自分自身の選択にすぎないアニパロ同人活動を男性社会に操縦された母親の育児方針に責任転嫁し、自分より差別されているゲイの面前で自己憐憫に浸る。

だからこそ「BLしか読めない」といえば、女性として現実に参与することを拒否し、引きこもりたい気持ちを表現できると思う人もあるのです。

けれどもBLだけ読んでいても、ほんとうに何も起こりません。

男性がBLを読んでいる女の子を可哀想がって自分から優しくなってくれるということはありません。社会がBLファンのために自ら変わることはありません。

女が自分自身に与えられた課題を「人権侵害・時代錯誤」として批判し、政府・企業・社会に対して、自立に必要な賃金と安全を保障しろと要求したいならば、必要なのは男同士を眺めることではなく、ほかの女性と共闘することです。

【BLとフェミは一線を引いた友軍】

フェミニズムの本義は男になることではなく、女性として社会進出することであって、もし女性が男になったら男の真似をして若者を搾取するのであれば、男たちは全力でこれを阻止するのが正しいことになります。

だから「BLを読むことを通じて、男になって男を襲ってみたい気持ちを養っている」と抜かすBLファンは(もしそんなのがいれば)フェミニストにとって鬼門となります。

逆にいえば、フェミニストが男性の横暴性を弾劾し、男が自分の後輩を搾取すること・それを美化したイメージを共有することを深く反省させ、諦めさせてしまえば、BLは根拠を失うのです。

具体的にいうと「男が若者を搾取する物語は旧式なので、もう誰も描いてはいけません」ということになって、BL派にとって「女の敵は女」という話になるのです。

いっぽう、女性が男のような服を着たり、自由に創作物を選択することが「生意気だ」という理由で禁止されたり暴力を受けたりした時は、あくまで「男性差別しないでください」ではなく「女性差別しないでください」ということになりますね?

たんに「暴力反対」というだけなら、喧嘩の苦手な男性とも連帯できますが、女がズボンをはいてはダメだとか、女なら化粧して俺たち弱い男にもサービスしろとか言われた時には、やっぱり「女性差別しないでください」になるのです。

歴史ファンタジー的に例えていうと、「女性の尊厳」という城砦を守るには全ての女性と協力するが、城門を開いて「横暴な男性の首を取りに行こう」という遊撃隊には参加しないみたいなもんです。

【BLとゲイは別】

上記のようなわけで、BLとフェミは根っこが同じです。ただし戦略の方針が違うのです。じゃあゲイは?

あえて極端な例えをいえば、同性志向男性がいなくなったとしても、BLはなくならないのです。

なぜなら、前近代(を引きずっていた旧華族)の妻帯者が部下に手を出した・近代初期の学生が後輩に手を出した・しかもその後で妻帯したという伝説がある以上、現代の女性が「描いてみた」ということは、また起きるからです。

だから、ゲイを弾圧したい人、しかもBLも弾圧したい人にとっては二面作戦です。ゲイ側・BL側は、それぞれに個別対応です。連帯してもいいですが、しなくてもいいです。したほうが「お互いの足を引っ張る」ということもあり得ます。

1989年に「1.57ショック」ということが起きると、ちょうどエイズ恐怖による迫害に対抗してゲイコミュニティが露出を強めていたので、またそれに一般社会のほうで対抗して「男がみんなホモになったら子どもが生まれなくなって困るじゃないか」という危惧と、「女がみんな男になったら子ども(以下略)」という危惧が二人三脚になってしまったのです。

それに対抗して、ゲイと女は一蓮托生で連帯できると思ってしまう女性もいたのです。

けれども、ゲイに言わすと「美少年だけが男から愛されるのでホモになる」という偏見を強めたBLは、彼らの敵なのです。まして連帯と称してゲイバーをのぞきに来て、変な質問をする女が増えたのは、いま現在も本当に迷惑しているのです。

だから、ここは本当に「別」にしておくのが基本です。

【おまけ:二次創作の発生】

いったん「昔の日本ではそういうことがあった」と知った以上は、じゃあ現代では? 外国では? 未来の宇宙軍では? と連想が生じるのは人間の脳の性質として当然です。

だから、なんでもBL化という創作想像は、わりと容易に脳内に発生するのです。

あとはそれを表現する技術・発表する場があるかどうかということで、文字または絵として紙に定着させた時点または売り出した時点で、「女のくせに」と言われるか「ストレートのくせに」と言われるかで、クレーム返しする相手が変わるわけですね。

ゲイから見れば、BL表現は古いステレオタイプの焼き直しにすぎず、偏見の再生産でしかありません。

かつての評論家は、結婚したがらない女性が異性婚絶対主義社会に提出したアンチ・テーゼであるはずの同性愛表現が、ひじょうに異性愛的であることを不思議がったわけです。

けれども、それはもともと異性愛男性の価値観に合わせて調整されたフィクションであり、女性はその価値観に従属したにすぎないのです。

BLを何冊読んでも、女性は百年前のストレート男性の陰に隠れて、彼が若者を搾取する姿を見物しただけであって、同性愛を理解したことにも、ゲイを理解したことにもなりません。

絶対に、ゲイコミュニティのほうから連帯したがることはありません。



2017/01/17

若い人が、おとなの女にはついて行けないと言っているのです。

「いまの若い人々からは、同人・BL作品といえども多様化を求める声が挙がっています」

という報告をしている時に「20年前にはエロが売れたんだよ! みんな私の同人誌を買いに来たよ!」と言われても困るのです。

まさに、そういう「昔とった杵づか」というつもりの中年が過激なものばかり発行するから、若い人が「私の読みたいものがない」といって嘆いているのです。

歳を取るにつれて、従来のものに飽きてしまい、刺激ににぶくなって、要求をエスカレートさせるのは当然なのです。どこの業界も同じです。

だから、かつて1950年代・60年代ふうの化粧が濃くてグラマーな「おとなの女」というイメージが苦手で、「少年愛」なら読める・美少年は私たちのものですと言っていた人々が、すっかりやさぐれちまって、オヤジとか、ガチとか、そんなことばっかり言ってるから、若い人々が反感を持っているのです。

もはや「女性キャラクターに感情移入できないからBL」という枠組みではないのです。おなじBLの中で「中年女性向けではなく、若い女性向け」という区分が生じつつあるのです。

これに対していちばん冷静な反応は「いいよ。若い子向けにプラトニックっぽいのも描いてやるよ。昔の萩尾先生とか、ああいう感じでいいんでしょ?」って言うことなのです。

本当にセミプロとしてやっている同人なら即応するのです。だって次世代のお客様の要望なんだから、自分自身があと20年やって行くために対応するのは当たり前なのです。

プロ・アマ問わず「でも私んところへはエロを買いに来る若い人も大勢いるけどなァ」と思う人は、すでにそういうお客様がついてくださっているわけだから、それを続ければいいだけですね?

「私はもう今からやってもエロ分野では壁サークルさんにかなわないから、純愛で勝負かけてみようかな」っていう人は、がんばってください。念のため、ダメもとです。

「でも私がやっていた頃は……!」といって怒っちゃう人は、もう完全に終わってる人ですよね?

20年前の自慢話はどうでもいいのです。新作の方向性をどうするか考えることができる人は、若い人の声を参考にするのです。プロも同じです。

【住み分け】

世のなか不思議な人もいて、自分は「ノンセク」で生々しいのが苦手だからゲイ漫画は読めないが、BLは超過激なやつしかあり得ないというのです。はい?

ゲイ漫画だって純愛路線がありますよね? ゲイ小説なら挿絵も写真もないのがありますよね?

BLとの違いがあるとしたら、BLのキャラクターのほうが少女漫画っぽい(女性的な人物を想像するように文章で書いてある)から、ゲイ男性の中にはいやがる人もいるということですよね?

だから、エロか純愛かにかかわらず、いまや比較的男性的な絵柄を好む人はゲイ漫画を買って、少女漫画ふうのイメージが好きな人はBLを買うという住み分けができているだけです。

なお男性の中にもBL好きな人はいて、とくに海外の男性は自分が金髪だったり、リアルに金髪への憧れがあったりするので、王子様的キャラクターを好むことも多いみたいです。海外ではゲイショップで日本の女流作品を売ってるそうです。

いっぽう、日本のゲイ漫画家の中には少女漫画のファンもいますね。女性の中には「自分では描けないけど田亀先生の絵も好き」という人がいるはずです。

もはや創作物の選び方もボーダーレスで多様なのです。20年前の偏見は参考にならないのです。

【視野がせまい人は友達がほしい】

「最初から金目でやっていた」と言いつつ、幅広いお客様のニーズに応えようという気持ちがなく、自分の好みだけを基準に他人の話に難癖つけたり、怒ったりしちゃう人は……。

じつは、自分自身にひじょうに好きなキャラクターとか、好きなジャンルがあって、その話題で会話できる相手を探していただけなのです。

だから、そのテレビ番組の放映が終わると、ジャンルを乗り換えることができなくて、そのまま終わっちゃったのです。

それならそれでもいいのです。イナゴならイナゴでもいいのです。同級生と一緒に流行に乗って楽しくやれたならいいのです。それが終わってしまった後で、恨みを残さないことが重要です。どのみち青春であり、部活動の一種だったのです。

若い皆さんも、基本的には「卒業とともに終わる」と思っといてください。大学在学中のレジャーの一種です。はまりすぎると人生が変わります。

卒業してからセミプロとして続けて行くつもりなら、本腰を入れて、幅広いお客様のニーズに応えましょう。たとえ規制がかかっても反対運動を続ける権利はあります。その根性がなければ「プロより売れている」などと言えた義理ではありません。


2017/01/17

あわててクレームすると、お局さま編集者が威張っていることになってしまいます。

BL周辺が常に騒がしい理由の一つは、内部抗争があることでございまして、とくに市販作品の話をしている時に同人系が対抗意識を燃やして難癖つけてくるのは困るのです。

もともと「BLにエロはいらない」とか「10ページに1回エロを書けなどと言われたくない」とかいうのは、市販作品の制作に当たって、出版社の編集者が偏見を持っているので困るという、プロ作家およびファンの愚痴なのです。

アマチュア作家なら、自分の思った通りに書いて、自己責任で自費出版すればいいだけのことですからね。

背景にあるのは、もともと成人男性向けを編集していた男性社員が、1990年代に表現規制が厳しくなると、女性向けなら規制に対して「女性の弱者特権」という大義名分が立つので、BL編集にシフトしたことです。

彼らが「ポルノの書き方なら俺にまかせろ」という自負心を持っており、女性に言うことを聞かせようとしてくる。それに対して、女流作家・女性読者から「介入しないでほしい」という悲鳴が挙がっているということなのです。

だから、この話の着地点は「男性編集者は女性の自由に書かせてやってください。また多様化を求める読者の声に応えてあげてください」というものになります。

ここへ同人やっていた人が「女の編集者もいるんだよ! 私の同人の先輩は出版社に就職したんだよ!」と言ってくるならば?

そもそも「編集者が偏見を持っているので困る」という話をしているのですから、まさに「同人が威張っているので困る」ということになります。

女の編集者が、自分自身のコミケ経験だけを優先して「エロしか売れないに決まってる♪」と高をくくっている。「あんたたち新人は私の言うことだけ聞いてりゃいいのよ」といって威張っている。そういうお局さま編集者がいるということです。

もともとそういう偏見を持っている人が同人やっていたから、そういうものを求める人だけが出展ブースを訪れたのであって、会場の外には、もっと広い世界と多様な意見があるのです。

なのに耳を傾けようとしない。多様な意見がある可能性をイメージすることさえできない。そういう横暴なマジョリティ編集者がいるということです。

【誰の味方ですか】

この話題は、一般化すると「男性上司が女性部下の仕事の進め方に口出しして来るので困る」という話です。

男性上司にしてみりゃ「なにを生意気な」という話です。部下および同世代の女性にとっては「自分なりに頑張ってるんだから認めてほしい」という悲鳴です。あなたはどちらの味方ですかって話です。

ここで「あら、私の先輩は女だけど課長に出世したのよ」という人がいたら? なんの役にも立ちませんね? 誰のためのアドバイスにもなっていない。

えてして、中年女性の自慢話ってこういうものです。自分のことしか考えていない。

若い人は、自分も中年になった時、やっちまわないように気をつけてください。

なお、ほんとうにお局さま編集者がいて、若い作家相手に威張っているのかどうかは分かりません。クレームから逆算すればそうなるという話であり、あわてんぼクレーマーさんに対する皮肉の一種です。

もし、実際に身に覚えのある女性編集者さんがいらっしゃいましたら、若い作家たちの好きに書かせてあげてください。意外に売れるかもしれません。


2017/01/19

女性が『薔薇族』に文句言う筋合いではありません。

1975年のコミケ初開催に15歳で参加した人は、1980年には成人します。

人によっては実家を出て、一人暮らしを始める。すると親に気兼ねせずに成人向け雑誌を講読できるようになるわけです。すると、女性が『薔薇族』の内容に難癖つけることも起きる。

……いや、だから。なぜそこでクレームする!?

ツイッターなどの無かった時代ですから、わざわざ手紙を書いて編集部へ投書したか、わざわざゲイバーへ押しかけて直談判したですな。そら怒りますわ、当事者が。

ようするに『薔薇族』に出てくる男は可愛くない・あたし達の趣味に合わないって、わざわざ言いに行った人々がいたんだそうです。なんじゃそりゃ。

このなんというか、女性の自己中心性ね。自分が正しいと信じている。言えば聞いてもらえると思っている。なに様のつもりか? 甘やかされて育った人々です。1960年頃に生まれたとすれば、今年57歳前後。

現代のBL女子は、ゲイが「女が描くものはきもち悪い」とか言って来たら、自分たちの先輩のほうが先に手を出したことを思い出しましょう。

いや、もしかしたらフェミな人々だったのかもしれません。同人が書いた「男同士は異常だ」という台詞へのクレームに対して、勝手に同人の代理人になって「男性が女性の書いたものを検閲してはいけません!」って言い返した人々。

女は男の表現の自由を検閲し、可愛くないとか文句言ってもいいと思っているのです。57歳前後だとすると現役の大学教員などの可能性があります。

「女性が搾取される姿を面白おかしく描いてはいけない」というならまだしも、他人の趣味にケチつけちゃいけません。もともと女性に見せるつもりじゃないんだから、彼らが女性の機嫌を取る必要はないのです。

つまり、女性からのクレームは「ほんものの美少年の画像が拝めると思ったのに、カネ返せ」っていう意味だったのです。男性の行動だとしても、下の下です。

これに同人が危機感を覚えたなら「BL(または同人)はフェミとは別」と言うのは当然です。

ゲイコミュニティに向かって「趣味悪い」って文句いってくる女がいたから、ゲイ側が対抗意識に駆られて「俺たちもBLに文句言ってやる」と思っちゃうようだと、同人・プロBL創作家、ついでに出版社は困るわけです。

趣味悪いよというクレームそのものは「ご意見無用」で突っぱねてもいいですけれども、ゲイ側から物言いがついたという対立の構図そのものが、同人・プロBL創作家および出版社には困るわけです。

ゲイのほうが弱者ですから、人権保護の名目で規制を受けるとしたら同人・BLのほうだからです。

何度でも申しますが、女性が結婚しない自由は日本国憲法において自己決定権として認められています。ゲイが結婚する自由は認められていません。彼らのほうが弱者です。

なるほど「子育てしないのに結婚させる意味はない」とも言える。では結婚したけれども子どもができなかったという男女は社会が離婚させるべきなのか? 扶養を認めないのか? 

少なくとも同性志向当事者が「なるほど人口再生産につながらない結婚は無意味だから結婚という制度にこだわることをやめる」と言わないかぎり、社会のほうから結婚させないと言うことは、やはり差別です。

堅気に迷惑かけないという「仁義」は、誰よりも自分を守るための約束です。

女性が自分よりも差別されている人々の「アジール」に乗り込んで、自己満足しようとするのは控えましょう。百歩ゆずって「テレビを観て来た」という人を同人の問題として制止する筋合いはありません。けれどもBL読者・同人やっていた人だけでも遠慮しましょう。同人がフェミの真似して「女の弱者特権だから」と言って新宿二丁目で目立ちたがるのは良いことではありません。

それやってるかぎり、口先だけで「同人はフェミとは別よ」と言っても説得力ありません。

どちら様も、もし、ゲイボーイズトークの内容や、彼らが演じるショーの内容が自分の好みに合わないと感じたら「女の子に配慮してほしい」などと甘ったれたことを言っていないで、さっさと帰って来ましょう。



2017/01/19

「私たちのもの」だから、フェミが責任取りましょう。

「男同士は異常だ」と書かれた創作物を読んで興奮した若い女性が、わざわざゲイバーまで押しかけて来て、我々に対して下品な質問をして困るので、対応してほしい。

ゲイコミュニティがこのように訴えてきた時に、フェミニストの答えが「そのような創作物は私たちのものです!」では、お話にならないのです。

ゲイコミュニティは最初から「あのように失礼な創作物は、あんた達のものだろうから責任取ってくれ」と言ってきたのです。

彼らは「若い女性」と言ったのであって「中学生」と言ったのではありません。彼らを困らせたのは、18歳以上のヤングアダルトです。

とくにお酒を飲めるようになった20歳以上の大学生・OLなどが夜の繁華街へ繰り出し、お酒と雰囲気に酔って、実在の性的マイノリティに対して、言葉の暴力をふるうのです。

だから「少女に良妻賢母教育を与えてはいけません! 女性を自立させてやるべきです!」という話に落としても無意味なのです。その自立した成人がセクハラしてるって話なのです。

女性を社会に出してやると、社会のルールもマナーも守れないことが証明されちゃったのです。

最初にその被害を明らかにしたクレーム文書は1990年代半ばの話ですが、その後も被害はなくなっていないのです。フェミニストはクレーム文書を受け取ったのに対応できなかったのです。

ここで重要なのは、クレーム文書が飲食店の経営者の名前で正式な抗議として発表されることはほとんどないという点です。客商売の心得として、彼らがお客の言動を暴露することはないのです。

逆にいえば、女性客の言動にたまりかねて抗議文を発するのは素人です。ということは、一般客に向かって「きみ、恋人いるの? もうやったの?」などと質問した女子学生がいたということです。いやらしいオヤジの真似をして自分だけ面白がっていたのです。

つまり「学生が暴れているから先生が引き取りに来てくれ」という話だったのです。フェミニストは理解することさえできませんでした。

その代わりに何をしていたかというと「なぜ少女は同人誌即売会に夢中になるのか?」という話。さらには、いかに少女が男性中心社会(の代理人である母親)によって抑圧されているかという話。

たとえて言うと「新成人の暴走による事故が起きて怪我人が出ている」という報告を受けたのに、オバサンたちは昔話を続けていたのです。「うちの母親がねェ…」って。

異常なのはどちらですか?

被害男性による「若い女性たちが読む創作物に『男同士は異常だ』と書いてあることが偏見を強め、不適切言動を生みやすくしている」という指摘は、至極もっともです。

もしも男性の創作物に「女が職場進出することは異常だ」と書いてあったら、フェミニストは激怒するはずです。その気持ちをもってすれば、異常だと言われた人々の悔しさが分かるはずです。

「他人の偏見によって定義される」という構築主義を否定すれば、フェミニストの自滅だというお話は、すでにいたしましたね?

【横取り】

管見によれば、プロ女流創作家の作品に「異常だ」という台詞はありません。同人が知ったかぶりして「編集がチェックしてるんだから当たり前じゃん」と証言するなら尚さらです。やっちまったのは同人です。

とすると、フェミニスト達は、同人が発行した同人誌を「自分たちのもの」であると詐称したのです。他人の発行物を横取りしてまで自分たちのものだと言い張りたいなら、責任もきちんと取りましょう。

この場合「男同士は異常だ」と書いたのは、フェミニスト自身だったも同然です。引き続き「異常だ」と言い張る権利もあります。言い張りますか?

それとも同性志向も正常の範囲における多様性であることを認めて、間違ったことを書いたことを謝りますか? 間違えてしまった時には謝るということを子どもに教えていませんか? 自分で出産していなくても、大学で学生を教えているはずですね?

子どもが他人をからかったのなら、再教育する必要があります。

異常だと思うから、からかいに行く子どもがいるわけです。正常な男女カップルを指差して笑ったり、突撃インタビューごっこしたりする者は、子どもでもほとんどいませんね? 成人なら本人が不審者として通報されるでしょう。

「異常か、正常か」という認識の違いは、その後の行動を左右するのですから重要です。社会学の先生なら、そのくらいは分かりますね?

百歩譲って「異常だからといって、からかってはいけません」とでも教える必要があります。文字通りには「常と異なる」ですから、パラリンピック選手なども、ただの平凡な没個性的な百人並みのその他大勢的モブ的エキストラ的フツーーーーの一般ピープルとは異なるわけですが、だからといって、からかってはいけないのと同じです。

そもそも、ご本人たちが「異常ではない」と言っているなら、正常であると認めるのが前向きな対応です。

【責任能力の自己否定】

つまるところ、この件に関わったフェミニストというのは、一人前の社会人として責任能力を認められたのに、自分から放棄したということになるのです。

なお、同人界は1980年代初頭から「絶対に本物を怒らせるな」が合言葉です。同人なら新宿二丁目へは行かない約束です。

その後になって、行ってしまったのは、残念ながら同人どうしの約束を知らない購読オンリータイプの即売会来場者。本来のサークル形態を取らなかったので先輩から注意を受けていない出展者。市販BL作品の購読者。および、フェミニスト自身です。

とくにフェミニストは、なまじっか社会参加ということを知っていて、創作物を共有するだけで終わりにすることができず、現実と混同し、実地検分に行ったり、説教したりしたがるわけです。

彼女たちに足りなかったのは、自分より若いゲイを守り育てるという意識。

1970年代初頭から、遅くも1985年頃までに、15歳以上のハイティーンに達しており、二十四年組および「アニパロ」を読んだことがあって、それらを混同して論じるような人々は、1990年代半ばには、生まれの早い人で40歳、遅い人でも25歳程度の成人です。彼女たちから見て、高校を卒業して新宿二丁目へ来たばかりという若者は、年下です。

小学生のうちから女っぽい・オカマっぽいなどと言われてイジメられて来た人々がやっと見つけた安住の地へ、わざわざ押しかけて、からかう女がいる。やっと見つけた心を許せる人との語らいを異常だと指さして笑う女がいる。彼らの怒りこそ神聖です。

クレーム文書は20年前の話ですから、当時学生だった女性は、いま40代です。若い人相手に優越感に浸っている中年のなかに、犯人がいます。

その指導教員たちは、人権運動家であるはずなのに、基本的人権の平等を教えることができませんでした。

その後、先生たちは定年を迎え、めでたく退職なさったかもしれませんが、女性が実在の同性志向男性をからかうという現象はなくなっていないので、問題意識としては現役なのです。

現在の大学でBLを研究材料にしたり、授業で取り扱ったりする先生たちは、若い学生が他コミュニティに失礼なことを言わないように、よろしく指導してやってください。同人および市販BL作品の出版社は、トラブルを望んでおりません。

なお、あなたには黙秘する権利もあります。



2017/01/26

同人やっていた中年と、『薔薇族』クレーマーの危険な類似。

唐突なようですが、全体主義ってのは、内部に多様性を含んだ包括主義ではありません。誰かの一存に他の「みんな」を従わせようとする危険思想です。

さて。

当方は、もともと「1970年代の作品が懐かしいですね」って言ってるだけのものです。

『ヤマト』『ルパコナ』など、例を挙げるまでもなく、最近のアニメ作品は1970年代作品に直接トリビュートしているものが多いので、思い出す機会も多いからです。

その一環として「二十四年組の美少年漫画には魅力的な美少女キャラクターも登場します」というご紹介や、「パロディ作品と混同されているかのような呼び方はおかしい」という指摘も生まれて来るのです。

すると「私の同人誌には少女なんか出てこなかったよ!」と言って来る人がある。はい?

その人の同人誌はどうでもいいのです。二十四年組の話をしているのです。小学館漫画賞を受賞し、大学の学長になったり、紫綬褒章を頂いたりした偉大なプロたちの話です。

あなたは自分の眼で彼女たちの作品を読んだ上で「どうせ山も落ちもなくて、ただのエロじゃん。アニパロと同レベル」と判断したのですか?

「そうではないが、あの頃はBLという単語がなかったので、アマチュア同人誌と同じ名前で呼んだのも仕方がない」というなら、話が分かる。

けれども「少女キャラクターなんか要らないという読者が私の同人誌を買いに来た」というのであれば、二十四年組なんか面白くないよという意味です。つまり、いやがらせです。

かと思えば、1980年代の話をしろと注文をつけ、特定の少女漫画作品の題号を挙げて「自分同様に『少女キャラクターを無視して少年キャラクター同士のBL展開を期待していた』と言え」と命令してくることもある。

これらは何かに似ています。そうです。『薔薇族』にイチャモンつけた女です。

不特定多数(≒発行部数)の男性の好みに合わせた画像や創作物を自分一人のために変更してもらえると勘違いしている女。

これらの現象から、公式のようなものを2つ導き出すことができます。女性の中には他人の話・他人の嗜好をそれ自体として理解できず、自分の話・自分の嗜好にすり替えようとする人がいること。もう一つは自己主張する場所を間違えると嫌がらせになってしまうということです。

当方の場合は、例えていうと「1970年代二十四年組漫画の良さを語るスレ」を立ち上げた格好です。そこへ自分の同人誌の自慢をしたり、1980年代のほうが面白いという人が入って来てしまったわけです。つまり「荒らし」です。

【なぜ荒らしになってしまうのか】

荒らしはスルー推奨が基本ですが、これはBLおよび二次創作BL全体に反感を持つ男性が揶揄してきたのとはちがいます。同人やっていたという女性が他人の表現の自由を侵害したという話です。

なぜこうなってしまうのか。再発防止のために、これを考えておくことが重要です。とくに『薔薇族』の件のように新宿二丁目方面にご迷惑をおかけしないことは重要です。

なぜなら、結婚という人生の重大事を自分で決める自由を憲法によって制限されているのが同性志向者ですから、彼らのほうが弱者です。だから弱者配慮の名のもとに規制されるとしたら、同人・BLのほうです。

同人・BLは創作物の「分」を守って、実在の皆様にご迷惑をおかけしないことが重要です。

「でもBLはビジネスだから出版社が女の子の味方してくれるのよ」ではありません。出版社がBLを売ることができなくなって困らないように、あなたが自粛してください。

【弱者特権と我がままは違います】

もともと「弱者特権」というのは「男は『女はなにも言うな』って言うな」ということです。

「女が学問したいと言ったら笑われた、暴力反対と言ったら殴られた」など、抑圧されがちな女性の権利を守るために、女が男の自由を制限することは許されるという考え方です。

けれども、それが単なる「自分一人の性的興味を満足させてほしい」という注文であれば、周囲の迷惑です。

女性が「私は竹宮恵子がビョルン・アンドレセン(の若い頃)をイメージしながら描いた美少年が大好きです。私も美少年を描く漫画家になりたいです」というのは本人の権利です。

それを「女のくせに男を描いていいと思うな」とか「夢を見てないで料理を覚えて嫁に行け」とか言われたら、男性はそういうこと言ってはいけません! というのが弱者特権です。

これは本人ばかりでなく、ほかの女性も彼女と自分自身の夢を応援するために主張することがあるでしょう。

けれども大勢の同性志向男性が楽しみにしている雑誌に向かって「どうして私の好みに合わせた美少年の写真を載せてくれないんですか!?」というのは、ただの我がままです。

そういう雑誌がほしいなら自分で創刊しましょう。女性がカメラマンになることはむずかしいと思えば漫画家でもいいです。すでに1978年の時点で『JUNE』が創刊されていたわけですから、そちらへ向かって「美少年映画特集を組んでください」などの要望を出してもいいです。

または伊藤文学さんに向かって「男性のための情報交換誌ばかりでなく、女性のための美少年雑誌も創刊してください」と丁寧な言葉で要望書を出すのが筋です。

1980年代初頭というと、二十四年組および「アニパロ」を読みながら成長した女性が成人した頃です。だから少女向けとされていた漫画ではなく現実社会の一端であるゲイ雑誌に挑戦してみたということだったのでしょう。そこでビックリしてしまった。クレームする場所と言い方を間違えてしまった。いかにも女性の社会性が未熟だったのです。

もう、その時点でフェミニストが対応できるのが本当でした。

【悲劇のヒロイン、悪い男】

女性は悲劇のヒロインぶりっこすれば我がままを聞いてもらえると無意識のうちに計算することがあります。

「どうして私の好みを察してくれないんですか!? わざと私を無視して苦しめようとしているのね!? 男性中心社会の横暴ですよ!」というわけです。うそ泣きの一種です。

いっぽう、自分自身が悪い男に負けたと感じた時、その悪い男の真似をして、自分も強くなったような気分になることもあります。夫から怒鳴られる女性が子どもを怒鳴るのが一例です。

またいっぽう、ほんとうに職場や男女交際の場面で差別され、くやしい思いをすることもあります。

その悔しさが「弱者だから特別に配慮してもらう権利がある」という意識にひっくり返ったとき、悪い男ごっこと近接してしまうことがあります。

上記の例のように「自分自身が美少年漫画を描くことで独立したい」という気持ちと、他人に向かって自分の好みに合わせろと強制することを混同してしまうのです。

我がままを言っているだけなのに、自分では正しい権利のような気がしてしまうのです。

でも、これは男性が女性に向かって「俺の気に入るようにセクシーな服を着てこい」とか「飯はもっとうまく作れ」といって殴ることと同じですね。

他人の厚意の強要であり、搾取といいます。

冒頭の例に即していうと、個人サイトやブログにおいて「私は1980年代の少女漫画をBL化することが好きです。私もという人は『いいね』してください」というのは自分の権利です。

けれども他人に向かって「あなたの好みは私と同じでなければダメよ!」と言うようでは、もう病的と言われても仕方ないわけですね。

このタイプがSNSで廃人と呼ばれたというなら、理由は明白で、ほかの人に対しても「でも私の場合はね」という口出しばかりしていたので、誰も訊いてないよ、話しかけて来るなって言われたのです。

ここでめんどくさいのは、病的と言われれば「情状酌量してもらえる」と思って図に乗ってしまう人がいること。

さらに「幼稚」と言われれば「若いって言われたわ」と喜んでしまう人がいること。

さらに「女性は弱者なんだから団結しなければなりません! 女性は一蓮托生!」といって、なんか人権運動してるような気分になっちゃうことです。

共通するのは、なんでも自分に都合よく解釈してしまう心。もともとひじょうに自己中心的な人なのです。ひじょうに甘やかされて育った人です。これが同人の世界に引きつけられてしまうことがあるのです。なぜなら、二次創作BLというのは、たいへん女性に都合よく出来ているからです。次記事は「そこに気をつけましょう」というお話。

なお、このタイプが放射脳に粘着された場合は、なんでも自分に都合よく解釈してしまう心が同じなので、おともだちだと思われたのです。