2017/01/06

ほかの子が避難者をイジメなければ、恐喝が成立しない。

どっかの中学生が福島からの避難者を恐喝していたって話。

「あんたが避難者だって学校のみんなに言うよ」というのが脅し文句だったそうなんですが、よく考えると、おかしな話です。

だって、もし「あの子、避難者なんだって」と聞かされたほうの生徒たちが「そうなんだ。大変だったね」と冷静かつ共感的に受け入れて、避難者に公平に接するなら、恐喝が成り立たないわけです。

「あの子」が避難者だと知ったからって、急に仲間はずれにしたり、変なあだ名をつけてからかったり、暴力をふるったり、逆に急にベタベタとお友達ごっこしたりしなければ、あの子自身に対して、イジメにもならないし、ありがた迷惑にもなりません。ようするに「ふつう」にしてりゃいいだけです。

実際にその中学校の雰囲気がどうだったのかは分かりません。けれども、少なくとも恐喝者の中では「みんなが私と一緒にこの子をイジメてくれるに決まってる♪」と期待しているわけです。

「私=みんな」という認識を前提に加害行為を成り立たせる。

こういうのをマジョリティの横暴と言いますね。正確にいうと、横暴なマジョリティがやらかすことはいろいろありますが、そのうちの一つです。

ようするに恐喝者自身が周囲に甘えているわけです。私と一緒にあの子をイジメてよ~~、おともだちでしょ~~? というわけです。

こういうのは、「あの子、何々なんだって」という陰口を聞かされた側で対応しなければいいのです。陰口を聞かせたがる人に対して「私はあなたとは関係ない。勝手にイジメグループの同類だと思わないでほしい」と思えばいいのです。

陰口を聞かされたからって「そうなんだ! じゃあイジメなくちゃ!」と思う必要はありませんね? 思っちゃう自分が変ですね?

なぜ陰口を聞かされた瞬間に「じゃあイジメなくちゃ!」と思うことにしているのですか? あなたは誰からそのような訓練を受けたのですか? あなたは何に操られているのですか?

「みんなと一緒にイジメないと、自分がイジメられるから」という不安がありますか? そのように思っているのは何人ですか?

もし本当に「みんな」が思っているのであれば、みんな一緒に「せーの」でイジメることをやめればいいだけですね? 誰もが平和に暮らせるようになります。

「よ~~く考えるとおかしい」ということに気づく、というのはこういうことです。

イジメ、差別、「何々だとバラすぞ」という脅迫。人類が何千年も前から繰り返してきたことだと言えるでしょう。だからこそ「ここらでやめるのがいいよ」と言うこともできるのです。


2017/01/19

上野さんの百円レンタル発言の件。

2014年2月19日付『Woman type』の記事の話。

ふた昔前のような気がする話題ですけれども思い出したもんですから。個人的に、おかげ様ツタヤ様で本当に100円で映画観て幸せですから、そこはいいんですけれども。

年収300万円の男女が結婚すれば、世帯年収は600万円になります。今の平均世帯年収の400万円台を軽く超えますし、子どもに高等教育を受けさせるにも十分な額です。ですから、女性は年収300万円を確保しつつ、年収300万円の男性と結婚して、出産後も仕事を辞めずに働き続ければいい。

いやあの……最初から「女性がその300万円を得るためには保育所が足りない」って話だと思うのですよ。さらに男女を問わず「正社員になる前に派遣切りされるから、その年収300万円になかなか到達しない」って話のはずです。

いまや多くの男女が「4年制大学へ進学し、教員免許を取得したのに採用枠がなかった・非常勤講師にしかなれなかった」というところで悩んでいるはずです。男200万・女200万を維持するために昼も夜もアルバイトしているはずです。上野さんの母校でもそういうことが起きているはずです。

「でも、げんに300万取ってる人は、さっさと産めばいいでしょ」ってんなら、「産んだら保育所が足りないんだから、300万じゃなくなっちゃうでしょ」という話ですよね?

そもそも「徒手空拳の一般職OLが玉の輿」という発想自体が1980年代バブル組ですよね?

まだ上野さんの頭の中に「ワンレンボディコンギャル」みたいのが住んでいて、それに向かって「アッシー・メッシーなどといって男を使うことを考えてないで、勉強でもしなさい」と揶揄しているのです。

つまり、ご本人がまだ1980年代に生きている。現代の移民問題についても保育園問題についても具体的な提言はない。

祖母力も育児の外注も期待できない状況下で、女性が自分に投資して「稼ぐ力」をつけても、要するに産めないわけですから、つまるところ結婚をお勧めしていないわけです。

横暴な男性中心社会ありきで「どうせ男はあてにならないから女性は自立しなさい。こんな社会を再生産してやる必要はない」と当てこすりを言っているだけなのです。1980年代と同じことをくりかえしているだけなのです。つまり、事実上なにも言っていないに等しいのです。

腹の底に「自分はもう引退したから関係ない」という気持ちがあって、だから「上から目線」的な「幸せ発言」になっちゃうのです。引退した人のネームバリューを頼ってインタビューするほうもするほうなのです。

これが日本のフェミニズム。

なお、若い女性研究者の中には、よくそこに気づいたと言いたいような、眼から鱗が落ちる思いをさせてくれる人もあるので、がんばってる人はがんばってるのです。

女性は、一連托生ではありません。



2017/01/19

可哀想と思うことが悪いわけではなく。

相手に聞こえるように「可哀想」と言っちゃってもいい、と思っていることが差別なのです。

車椅子使用者を指さして、どっかの子どもが「可哀想」と言った。母親らしき大人の女性も「可哀想ね」と言った。俺は可哀想なのか?

人権擁護啓発ポスターの一節ですけれども、ここは「車椅子使用者は可哀想かどうか?」を議論するところではないです。

「思っても言わない気遣いができるかどうか」です。

だって「可愛い」とか「かっこいい」とか「きれい」とか「頭よさそう」とかだったら、他人を指さして、いきなり言っていいと思っていますか?

思っても言いませんよね? なぜですか? 失礼だと思うからですね? では、なぜ「可哀想」と言う時だけ失礼だと思わないことにしているのですか?

あなたは誰からそのような訓練を受けたのですか? あなたは何に操られているのですか?

実際に可哀想だと思うことはあり得るのです。体が不自由というくらいですから、不自由な思いをしているにちがいないのです。不慮の怪我・病気などなら痛い思いもなさったでしょう。お気の毒に、ご家族ともどもご苦労なさったんでしょうね……という気持ちが湧き起こったから、募金して差し上げるとか、手を貸して差し上げるとか、そういった気持ちの動きが悪いわけはないのです。

でも「可哀想」と言う前に、さっと手を貸してあげるのがスマートですね?

人は可哀想だと思った時、相手を自分と同じレベルの存在ではないから、失礼なことを言ってもいいと思ってしまいがちなのです。



2017/01/26

ビデオゲームも野外遊びも両方好きでいいです。

「うちの子は、せっかく自然に親しませてやってるのに、ゲームをやるから困る」って言う母親がいるんですって。父親や祖父母もいるかもしれません。

両方好きでいいです。

昼間は外で遊んで、夜はゲームを少しやって、9時に寝かせればいいです。テレビと照明は消しましょう。成長ホルモンは夜の11時ころ、真っ暗な部屋の中で脳内に分泌されます。

昼間ゲームやって夜遊びすると不健全ですが、そこが間違ってなければいいです。

この「どちらか一方に決めなければならない」というのは、縄張り意識の一種で、危険性をはらんでいます。

おおきく考えると、近代国家の成立期に戸籍(納税先)が整理され、固定されていく過程で、イギリス国民かドイツ国民か、資本主義か共産主義かという二項対立が繰り返されてきたことによって形成された国民意識の一種です。

両方の味方っていうと、裏切者のように思っちゃうわけです。

けれども、この意識は不必要な対抗心、優越感と劣等感のいたちごっこ、無益な憎悪といったものを生みやすく、暴発しやすいわけです。

親子関係の場合は、母親の好みに子どもが合わせてくれないということですから、母親と夫、母親と姑などの関係性が反映された、びみょ~~なルサンチマンを含んでいる可能性がありますが、重要なのは……

「どちらかに決めなければならないという思い込み」そのものが、歴史のある時期に作られたものに過ぎないことを見切ることです。

ようするに「こだわらなくていいんだ」と思うことによって、自分自身が楽になることです。



2017/01/26

逃げたと思われると困るのはなぜですか?

小学校の遊び仲間から外れた、中学校の部活を辞めたという場合は、学校へは行かなくちゃならない。

休み時間に「なぜ逃げたんだよ」と絡まれるかもしれない。おなじ学区内に住んでいるから自宅まで押しかけられるかもしれない。だから小中学校、とくに公立のイジメは深刻なわけです。

企業ではどうか。辞めてしまえば、それまでの同僚とはお付き合いがなくなるはずです。転職できたら、転職した先の同僚と友達づきあいが始まるだけです。元の同僚が「なぜ逃げたんだよ」と自宅まで殴り込んでくるということは、ほとんどないでしょう。

そもそも「みんな」忙しいのですから、いつまでも辞めた人の噂をしていることもありません。逆にいえば、それだけ覚えていてもらいたい・期待されたいと思っている自分がいます。

その背景には「実際には期待されていない・評価されていない」という感じがあるわけです。

あるいは、もっと単純に小中学校時代のイジメ被害の記憶がフラッシュバックしているのかもしれません。けれども、過去は関係ありません。

これは発想の転換を促す文章です。辞めろと命令するものではありません。辞めるなと命令するものでもありません。決める権利は、あなたにあります。その判断基準を問い直すものです。



2017/02/13

もう、「女の子」だから許される時代ではないです。

まず、映画によって作られた「イメージ」を疑いましょう。

どこまでもまっすぐに伸びる線路は魅力的な構図です。子どもが線路伝いにトボトボ歩くというのは印象的な場面です。往時の賑わいをしのばせる廃線は情緒深い話題です。

だから「線路の中に人が入っている」という構図は時々あります。自分がその主人公になってみたいかもしれません。

いっぽう、街なかに住んでいると「線路の中に入ってもいいかどうか考える」という機会は少ないでしょう。また旅先では気分が解放的になりがちです。さらに「こんな田舎じゃ電車も滅多に来ないでしょ」という差別意識が判断力をにぶらせるということもあります。

だからこそ、気をつけましょう。

2017/02/14

差別用語を連発するアカウントは自分が目立ちたいだけです。

漫画家などが「江戸時代の障碍者が差別に負けずに立派な芸術家になった話を描こうとしているのでご理解ください。作中の台詞を削除しないでください」というのは、本人なりに良くよく考えた上で発言しているのです。

それに便乗して、さっそく差別用語を連呼しはじめるというのでは、子どもがふざけているだけです。中年が子どものふりをして若く見せようとしているなら、二重三重の意味で不適切です。

実際の身体障碍者が「何々と呼ばれ、イジメられた」という被害を訴えたい時に、テレビ局が「それは差別用語だから」という理由で放送を取りやめてしまう。これでは社会問題が隠蔽されたことになり、かえってテレビ局が差別を助長したことになります。

だからといって「みんなが差別用語を自由に使えるように、健常者の私が率先して使ってあげるわ!」というのは勘違いです。

他人の人権運動を横取りしてはいけません。身体障碍者は、あなたが目立つための道具ではありません。

SNSでわざと差別用語を連呼する人というのは、本人が目立ちたいだけで、バカッターの一種です。こういうのは、生温かい眼で見守っていると面白いので、一瞬フォロワーが増えることがあります。本人も人気があるような気分になってしまいがちです。

けれども、本当にまずいことを言ってしまったとき、助けてくれる人はいません。人は誰もが一人ぼっちだからこそ、ほんとうに孤立してしまわないように、他人に対して礼儀を守るのです。

もともと「女性の弱者特権」というのは、男性が社会的に意義深いことをして称賛されているので、女性にもやらせてほしい(生意気とか言うな)という意味です。

女性だけが個人的なストレス解消のために社会的に不適切な我がままを言ったりやったりしても可愛いから大目に見てもらえるという意味ではありません。自分の権利を勘違いしないようにしましょう。


2017/02/24

「壮大なコスプレ」の逆説。

映画というのは「原作のタイトルの権利だけ買う」ってことができるんだそうで、中味は別ものってことはよくあります。

ミステリーの犯人が違うとか、結末が違うなど、決定的な要素が変更されていて、タイトルが物語を象徴する機能を喪失してしまっていることさえもありますね。

いっぽう、コスプレというのは勝手にデザインを変更してしまうと、なんのコスプレだか分からなくなってしまうので、完全再現が基本です。

著作者人格権というのは、著作権者の名においてなんでも命令できる権利ではありません。端的には自分自身の「名前」を勝手に使われない権利です。

じつは著作権裁判というのはたくさん起きていて、ペンネームの無断利用は明らかに違法ですが、内容の流用・変更については、裁判に訴えた挙句に原告敗訴という例もあります。

けれども、おなじ創作道の仁義として、原作者の意向は最大限に尊重されるものです。原作者が書類をそろえて刑事告訴しなくても、いわゆる二次創作の「ジャンル」が停止することがあるのは、これによります。

だから、もし、実写映画化に際して原作漫画家が「あれは壮大なコスプレ」と言ったなら、「コスプレやるならちゃんとやれ」という意向を示したのかもしれません。

(念のため申し添えますが、「かも」ですよ)



2017/03/14

外国人のお手伝いさんを置きたいという、お嬢様ごっこ。

日本女性の社会進出という話題では、時々「外国人のお手伝いさんを使えばいい」という声が聞かれることがありますね。

まず、日本人の口から「外国人の」という言葉が出た時点で、民族差別を警戒する人が世界中に大勢いると思いましょう。

日本人は「戦争やったのは軍部だけで、国民はカンケーない」という意識で戦後をやり過ごしてきたので、昔のことはカンケーないと思ってしまいやすいのですが、世界は忘れてくれません。

だから「日本人も含めて、お手伝いさんを頼むとはどういうことか」を考えてみましょう。

【賃金格差】

まず、雇い主の女性が一定の時給で8時間働くとします。お手伝いさんにも8時間留守番してもらいました。拘束時間が同じなので、同じ時給を渡しました。

これじゃ困りますね? 雇い主の手元には1円も残りません。だから賃金格差を設ける必要があります。

「それじゃ日本人は『不公平だ』と文句いうから使えないけど、外国人なら文句いわないから使えるわ」と思うなら、残念ながら、差別です。

じゃあ「2時間以内に掃除・洗濯を終わらせて帰ってもらいたい。年寄りの昼食は出前を頼んで、子どもの送迎は他の代行サービスを頼む」ということにすれば?

糖尿病や高血圧にも配慮したお弁当が一食500円。二食たのめば1000円。もしお手伝いさんに料理してもらうとすれば、彼女の時給1000円の他に材料費を渡さなければならないので、これは「お弁当のほうが安上がり」と言えるかもしれません。

子どもの送迎は? 一人片道500円、往復で1000円とすれば、お手伝いさんを時給1000円で拘束するのと同じですね。

では「午前中2時間で掃除・洗濯して、いったん帰ってもらう。昼間は他のアルバイトをしてもいいし、パソコンスクールへ通うのも彼女の自由だ。夕方子どもを迎えに行ってもらって、塾へ送迎してもらって、晩御飯をつくって、皿洗いまで終わったら帰ってもらう」ということにすれば?

午前中2時間・午後2時間で時給1000円とすれば、一日4000円。もし雇い主が同じ時給で8時間労働して来たなら「働いても働いてもお手伝いさんに半分持って行かれてしまう」ということです。

したがって「賃金格差を設けつつ、文句が出ないように心理コントロールしつつ、使い方を工夫して、安上がりにできるところは他を探す」という手間が増えることになります。

【お嬢様ごっこ】

ここまで考えてくると、かんたんに「お手伝いさんを置けばいいわ」と思っちゃう人の心の底にあるものが見えてきます。

すなわち「パパがお手伝いさんのお給料を払ってくれるんですもの」という、お嬢様気分です。

「自分自身が雇用者としての責任を負う」ということが具体的でないのです。

「人を使えば、自分の自由になるおカネが減る」ということが具体的でないのです。

他人を家に上げるということは、もし災害が起きたら彼女も一緒に避難する。彼女のぶんまで災害備蓄する。そういうことです。

【ついでに執事】

映画『四十七人の刺客』では、大石内蔵助が「赤穂の塩をぜんぶ売らせる」ということをしていましたが、執事の仕事もああいうものです。

戦後の時代劇は、戦中の「お国のために」という意識を引きずっているので、「赤穂藩のために」という言い方をするんですが、実際の封建時代には「浅野さんちの使用人」という意識だったわけですね。だから「ご家中」って言いました。

家老の仕事は使用人の筆頭として、浅野さんちの家計を管理し、ほかの使用人にお給料を出してやる。おカネをしまった「蔵」の責任者だから内蔵助。

企業でいえば総務部長のようなもので、社長のお嬢様にお茶を淹れて差し上げるのは、総務部長の仕事ではありませんね。お茶係がすればいいことです。

執事がお嬢様にお茶を淹れてさしあげるということがあり得るのは、お嬢様自身が家督を継いでいる時。

女性にしてみれば、まだ若い未婚の身で、一家の長である。誰にも叱られない。理想的ですね。

でも多くの場合、実際に企業経営した経験がない。だから「小作地から集めた小麦・木材・葡萄酒などを市場へ卸して、その利益で用水路を修繕する」といった所領経営のイメージが具体的でない。

災害が起きた・野武士が食糧備蓄を奪いに来た・外国が鉱山や油田を奪いに来たとなれば自分が陣頭指揮に立つ。堤防が決壊する前に一部を切り崩す。自分もズブ濡れになる。そういうイメージが具体的でない。

すぐに連想されるように、BLもこういうことです。所領経営・企業経営を他人にまかせて、自分は遊び暮らしているお殿様が、女中ばかりか部下にまで手を出すというイメージが女流創作家によって利用されたのがBLです。

【論点が整理できたら、次を考えましょう】

ここらで話を戻すと、女性は夢見がちです。漫画が現実になればいいのにと思ってしまいがちです。

ハーレクインにしろ、BLにしろ、女性が読むものは、男性が読む「空を飛びながら100人倒す」なんていうアクションものに較べて現実的です。ともかく普通の人間同士が屋敷の中で会話している。

だから、我が家ももう少し広かったらいいのに、ついでにメイドさんがいればいいのにと思ってしまいがちです。

が、女性が憲法によって自由になったということは、他人を使うこともパパにおまかせではなく、自分の責任だということです。

「もともとメイドがいるような家へ嫁に行きたいなら、お茶とお花の稽古をして、上品ぶった姑にイビられる覚悟をしろ」という点は、100年前とそんなに変わってないのです。

戦後は「姑自身が有名大学出身の高級官僚で『私の時代にはもっと苦労した』とか説教してくれちゃう」という可能性だってあるのです。

これが現実です。これは「だからお手伝いさんを使ってはいけない」という話ではありません。

ここまで指摘されたら「じゃあどうするか?」という知恵も、それぞれに浮かんで来ることでしょう。論点を整理すると、次の一歩が始まるのです。


2017/03/16

自分のブログでやれと言う人が、自分のブログでやりましょう。

まずですね。他人同士の会話のなかに自分の気に入らない要素があったので、初対面なのに挨拶もなく「そういう偏見を広めないでください。自分のブログでやってください」と申し入れた。

すると言われたほうが「この人おかしいです」と、つぶやいた。

そしたら周囲のフォロワーが一斉にクレーマーをブロックした。したがって、運営によって(自動的に)危険アカウントとして認識され、凍結された。

その後、事情を説明して、アカウントを復活してもらったけれども、気持ちがおさまらない、と。

申すまでもなく、SNS上のトラブルの一例ですが、これは、まことに残念ながら、裁判に訴えてもクレーマーの負けでしょう。

なぜなら「おかしいです」とつぶやいた人は、自分がそう思ったからそう言っただけです。周囲はまたそれぞれに自分で判断しただけです。

イジメの構図というのは微妙なものです。年々巧妙になると言ってもいい。だからこそ教訓を得ましょう。

【自分の意見を発表しましょう】

よそ様のタイムラインに対して、越境&直談判を申し入れる前に、自分のブログにおいて、自分自身の意見として「世の中には何々という人もいますが、それはこのような歴史的経緯によって発生した偏見です。私の読者さんだけでも知っておいて頂きたい」と表明することができます。

ツイッターも「短文投稿ブログ」と呼ばれたくらいで、ブログの一種ですから、そのような主張の場として使うことができます。あまり長くならないほうがいいですが。

それが、あなたの気に入らない会話をしている人々の耳に届くかどうかは分かりません。もしかしたら瞬間的に頻回リツイートが発生して、トレンドになるかもしれません。ならないかもしれません。

【他人を変えることはできない】

アドラー式個人心理学を読むときに心得ておいたほうがいいのは、彼がユダヤ系だったことです。だから彼自身が偏っていたというのではなく、イジメられやすい立場だったことです。

すなわち、彼が「他人を変えることはできない」と言ったなら、変えることができると思って論戦をふっかけると自分が危険である。また他人のほうでも我々の宗教・習慣を変えることができると思ってお節介をやかないでほしい。そういう意味です。

だからこそ「血の粛清するしかない」と思ってしまった党首もいたわけですね。

ヨーロッパには本当に恐ろしい歴史があります。アジアにもあります。アジアとヨーロッパの間にもあります。

だから、少なくともそれを反省した国と地域は、言いたいことをそれぞれに言っていい(他人がやめさせようとしてはいけない)ことにしたのです。

戦後の欧米で個人心理学が普及したなら、それが民族の経験が生んだ命がけの処世術だからです。

【がんばらないけど、あきらめない】

経験的に、世論って20年くらいかけて変わって行くものです。

最初のうちは「日焼けの害」とか「重曹でお掃除」なんてのも、また変な宗教が流行り始めたみたいに思われるものです。

でも、数字を挙げ、証明の努力を続けるうちに、賛同者が増えるのです。「がんばらないけど諦めない」くらいの気持ちで穏やかに説明し続けるのがいいです。

なお「賛同しない人を根絶やしにする」ってことはできません。「してやる」と考えること自体が危険です。

戦争したがる人・人権尊重に反対する人というのは根絶やしになってくれたほうがいいんですが、事実として、なりません。だからといって女性のほうから男性を襲ってはいけませんね。(それじゃ自分が侵略者です)

分かってもらう努力を言葉のうえで続ける。言葉使いはふつうに丁寧に。人格攻撃はしない。マンデラを始め、人権運動を成功させた人々に共通する基本姿勢です。

【ゆるいつながり】

SNSにおける「ゆるいつながり」というのは、じつは「話しかけて来るな」という禁止ルールの婉曲表現だと思えばいいです。

運営がそう説明しているのではなく、サービス利用者のほうでそう思っておけばいいです。

ハッシュタグを利用して、おなじ話題を共有しつつも、それぞれに「おいしそう」とか「行ってみたい」など、ひとりごとを言っているわけですね。

直接「@」を飛ばして話し合っている人同士は、もともとリアルでお友達の人たちです。今なお、基本的にそう思っておけばいいです。

その代わり、全体に向かって自分なりの意見を述べることもできます。だからこそ、劇場型犯罪の温床にもなるのですね。

ようするに、ツイッターの使い方の問題なのです。「ゆるい」と言われて真に受けないことが重要です。

【あわててアップロードしなくていいです】

自分のブログに挙げる記事が書けたら「よし!」と思ってアップロードしなくていいです。いったん外に出て散歩しましょう。

歩行が脳を活性化し「待てよ。あの段落は入れかえたほうがいいな」とか「あの単語は誤解されやすいな」など、アラが見えてきます。

また、ひと眠りすると脳内が整理されるので、起きぬけにまとまった文章がひと息に書けることもあります。

そのうえで、もう一回散歩に出てもいいです。

重要なことは「他人の動きについて行ける人は、ついて行けることによって評価される」のであって、ついて行けない人は評価されないのではない、という点です。

ゆっくりやることによって評価される人もあるのです。ノーコメントを貫くことによって評価される場面もあるのです。

ついて行けない人(なにもアップロードせずに黙っている人)を、わざわざ見つけ出して笑いものにする人があれば、その人自身の内面に問題があります。

逆にいえば「なにもアップロードしないと笑いものにされてしまう」と思って焦っちゃう人というのは、自分自身が「なにもアップロードしない人を笑いものにしてやろうと思っている」のです。

つまり、自分で自分を差別してしまっているのです。

気をつけましょう。