2012/09/28

2004年映画『オペラ座の怪人』

安定品質(*´∀`*)

映像的には「当時できることを全部やった」って感じで何の文句もございません。満腹でございます。

冒頭、シャンデリアの上昇とともに一陣の風が吹き、劇場が蘇っていく……主役はスワロフスキーのシャンデリア
・:*:・(*´∀`*)ウットリ・:*:・

舞台劇を客席から見ていれば、その舞台に吊るされたシャンデリアを客が真下から見ることは絶対にないわけで、映像ならではの表現、嬉しいやら有難いやら。耳に残る音楽もキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!! って感じですわねーー

お話の中身は「求塚」にならなくて良かったです。原作は読んでないです。ラストは手に汗握る金髪男のピンチ……助かってほしい……とは思いつつ、本当に助かってしまうと「なーーんだ、ご都合主義」って程度の筋立てなので、先に老体の彼を示して回想形式にしたのは良かったと思います。回想のモノクロパートも美しかったです。銅版画のような、当時の新聞写真のようなオペラ座の外観の隅っこで小さな人物が動くSFX素晴らしい。「これに色が着くのだろうな」とは当然思うわけですが、「赤と金」が蘇るのは非常に効果的でした。もう1回うっとりしておこう。 ・:*:・(*´∀`*)ウットリ・:*:・

地下水道がなんであんなに豪華なんだよっとか、誰が家具を搬入したんだよっとか、何の交換条件によって2万フランも脅し取ってるんだよっとか見ているだけでは分からない突っ込みどころは多々ありますが、ミュージカルでおなじみのセットを忠実に再現した! しかも延々と動く! 船で本当に水上を移動する! ファン泣かせ、ということなのでしょう。

人前に出たことのないファントムが初めて舞台に立って、数千人の観客を前に臆せず喉を披露してしまう。愛は怖いものなし。お話ならではの素敵な嘘ですね。

個人的には普通のオペラの男声が好きなので、ファントムの声がややカジュアルだったのが残念だったのと、クラウス・キンスキーのノスフェラトゥのような異形のほうがいいなァと思いました。

ファントムが普通に体格もよく、セクシーさを漂わせ、マスクからのぞく半面だけでも充分ハンサムさんなので、地下が豪華なこともあり、「かっこよくてお金持ちのストーカーと、かっこよくてお金持ち、どっち選びますか?」「いや~~ん困っちゃう♥」てな話になってしまっており、「テーマが見えん」と、ちょっと思いました。

本来もっと江戸川乱歩的な発禁ギリギリ表現、牡丹灯籠的なデモーニッシュな愛、「汚らわしい地下水道で、異形の肉体に閉じ込められた純粋な魂を感じろ、わが音楽の女神よ。ともに芸術の炎に焼かれよう」対「清潔で穏やかな昼の世界の暮らし」てな話じゃないんかい……

生まれながらにせよ、事故にせよ、見た目で差別され、人前に出られないなどという話はもう撮れないのでしょう。もちろん見世物小屋などあるべきではありません(日本でも戦後にもあったようですが)
このお話は、今やゴシックロマンな雰囲気と現代的・ロック調にアレンジされた教会音楽、オペラのアリアの雰囲気を味わえればよいのでしょう。

カルロッタと二人の「スクラップ・メタル」王はコメディタッチのまま、金髪美少女はヒロインに意地悪する役ではなく良き友人のまま、話をややこしくせず、主な三人に絞り込んだのは、ミュージカルならではの軽い味わいなのでしょう。過去話のなかで当時らしい人権無視を垣間見せて、19世紀は憧れるような豪華なことばかりではなかった、と釘をさしつつ。残酷な場面ですが、スローモーションを効かせた接写の撮り方が良かったです。

そうだ屑鉄王がキーラン・ハインズでした(ノ´∀`*) 当時らしい大きな毛皮の襟のコートが似合うこと。コミカルに大げさに演じていて、本人も楽しそうでした。歌唱は皆さん吹き替えなしだそうで、まさかと思ってましたがキーランも芸達者な人です。プリマ・ドンナを讃える歌(笑)が華やかに終了した時には思わず拍手しました。

白と黒の仮面舞踏会は、古いところでは『パリのアメリカ人』でしたろうか。制作陣は「久しぶりにこういうミュージカル映画を作った」というところでしょうか。いや実際に担当したスタッフは若いのでしょうから、見た人が懐かしがるのかな。『クレオパトラ』などを思い出すと、同じダンスシーンでもカメラの使い方がものすごく進歩したのが分かります。ダンスはロボットっぽいものに変わりましたね。仮面をつけているだけに、人形的な動きが効果的でした。扇が「パン!」と開くのはいいですな。タキシードの兄さんが扇を持つのも越境的で魅力的です。

ちなみに扇というのは日本オリジナルな品物だそうで、日本の扇は要が固く、ああいう開き方ができません(お能では「ペキペキぺキ」という感じで一山ずつ開きます。逆にだからこそ「パチン」と鳴らすことができるのですね)が、欧州へ渡ってから要が緩くなり、ザラッと開くことができるようになったそうです。スペインのフラメンコダンサーが持っている大きなレースの扇なんて典型ですねーー。あるいは要をきつく綴じる技術が伝わらなかったせいなのかもしれませんが、災い転じて福となすというところでしょうか。
2012/09/28

頼朝くんのナレーションは女子の心の友。

「この頃の武士は犬と呼ばれていた」
「へーーそうなんだ」

「どちらの女性にも酷だと思った」
「ほんとほんと、こんな時代に生まれなくてよかったよーー」

「今日が明日でもどうでもよかった」
「分かるーー。そういう時ってあるよねーー」

要らんところで「まとめ」のようなコメントを発してドラマに水を差しまくってくれるナレーションは「なんなんだ」と思っていたが、一人で観ている女性の心の話し相手だった。やっと分かった。

あの作品はやっぱり「旦那と子供を送り出した後、一人でテレビ鑑賞する女性のための平安ワイドショー&再現ドラマ」または「お勤めを終えて帰宅し、一人で鑑賞する女性のためのトレンディドラマ(古)」というように出来ている。

再現ドラマはナレーションが多いものだ。もちろん説明のための映像を省くためと、視聴者の読解力そのもの、あるいは読解に必要な心的エネルギーを低く見積もっているから。つまり楽に観られる。

脚本はすべて女性の自己満足のために書かれている。忠正は頼んでもいないのに宗子の味方になってくれるし、ナリコとタマコは「罪を教えてくださるのじゃ」「福々しいお方じゃ」と互いの力量を認め合い、健闘を讃え合う。

男性を面白がらせるための女の闘いであれば、もっと戯画的に、面白おかしく、憎々しい感じに描かれたはずだ。ナリコは明らかに保元の乱の原因だから、因果応報として暗い最期を遂げなければならない。犠牲になった人々の恨みを受けたかのような凄惨な姿で庭に倒れていた……というようでなければならない。

しかし鳥羽院は彼女に「巻き込んですまなかった」と謝る。身も心も通じていると思ったからこそ尽くした女にとって、これほど寂しい言葉はない。彼の本心はやはり正妻にあり、自分はついでに巻き込まれただけだったと知るからだ。つまりナリコも悲劇のヒロインとなってしまい、美的な要素をまとう。

鳥羽院をはじめ、多くの男が泣きながら謝り、消えて行く。自分の人生が間違っていた、女子供に迷惑をかけてすまなかった……。あるいは、頼んでもいないのに女心を理解し、そちらを重んじて、仲間を裏切る。

男なら、自分の種を残すことを第一に考えるべきである。

「長男の長男」という正しい血統から皇位を奪った美福門院側こそ謀反人とされるべきなのに、信西が先手をとって、新院を謀反人と呼んだ。そう言われてしまっては、新院&左府連合にもはや勝ち目はない。そこへ後から加わって「平家を守る」もないもんである。

忠正が分裂した時点で、一門に動揺が走り、様子見の気配が生まれ、及び腰となり、逆に共倒れの危険・「平家はやる気がない」とペナルティを受ける危険が高まる。一門の存続を図るなら、全軍で勝てる側に参加し、余裕を持って勝ち残れば良いのである。

忠正は、兄貴の遺志、ひいてはそれを守らざるをえない宗子の立場を慮って、彼女の(先を見る目のない)実子の身代わりとなる。しかも彼女に懸想しているわけでもない。百歩ゆずって彼一人のスタンドプレーなら、秘められた男の純情があったとしてもいいが、息子を四人も道連れとは、そんな都合のいい男がいるもんかい。

兄貴んとこの小僧どもがダメぞろいなら、自分の息子を次期棟梁にすりゃいいのだ。親父がすべきことは、選挙活動である。

彼と清盛が前線で長話をしなければならないのは、つまり行動が理屈に合わないので、脚本が言い訳を必要とするからである。

言い訳といえば、全軍が円陣を組んで「おう!」と言うべき時に、後白河帝は「ちょっと待って。あなた達に言っておくことがあるわ」

「いい? 言っておきますけれど、悪いのは私じゃなくて、モーロクしていた私の父ですからね。それからこれは私のための戦いじゃなくて、あなた達のための戦いですからね。私が頼んだんじゃありませんからね。いい? 分かった? じゃ行ってらっしゃい」

これは女の語り口である。言い草である。だから彼のズルズルした衣装は、体型を隠したい有閑マダムのようだ。

先日、孔雀の団扇をもらってニコニコしていた彼は、それなりに可愛かった。もうずっとあのまま行けばいいと思う。撮影も終わってることだし。
(メンバーがCMに出ているのを見ると「ああ終わったんだなァ」と思う)

全体にネチネチした女の語り口がみられ、男のカタルシスがない。では男のカタルシスとは何か。いちばん簡単な例がディズニープリンセス映画のクライマックスで、巨大化した魔女に王子様が(男の象徴である)剣や槍を突き立てて退治する。

「女の浅知恵がどんなに肥大しても、男の勇気と腕力のほうがエライんだ!」ってことだ。

それをプリンセス視点から「王子様が私のために戦ってくれている」というように描くから、一見女性向けにできている、というのがディズニー映画である。よく出来てるのだ。

世間はそういうカラクリに、しかし既に気づいてしまったので、様々な代案が繰り出されているわけで、「女性向け歴史ドラマ」というのもその一つだ。女性が主人公なら女性向けって分かりやすいんだけど、今回はちょっとひねって「泣きながら戦う男たち」という“通”な女性向けのものが提出された(だからBLっぽい)

それを男性が主人公だから男性向けだと思って見始めた人たちが途中で「なんじゃこりゃ」と思った、と。それが表れたのが「数字」だ。「話が暗い」という声があったが、暗くても人は面白けりゃ見るのである。サイコホラーとか猟奇ミステリなど、けして明るくはないが、起承転結の中に“因果応報”と“男の納得感”が組み込まれていると、ヒットするんである。

めずらしいほど生々しく女性らしさが出てしまった脚本ではないかと思っている。脚本家が一年間という重責を与えられて、自分が持っているカードを全部切ったのだろうと思う。
くせっ毛、羽根、サイコロなどアイテムのきかせ方を見ると、たぶん「コーヒーショップ」「夕焼け」などお題を与えられて、1時間くらいの脚本をサラッと書いちゃうセンスを持っている人なのだと思う。女性向けメロドラマ、トレンディドラマをおしゃれっぽく書くことができるのだと思う。BL的なものも多少、お好きだろう。

あとは見る人が「ああ、こういう時代になったんだなぁ、俺が自分の作品を書く時もこういうテイストを取り入れてみよう」と思うか、
「くだらねぇ、意味わからん」とリモコンを手にするか。最近は民放でも水着の女性が登場するバラエティ等も減ったから、スカパーのほうがいいかもね。
2012/09/27

清盛、お前は棟梁に取り入るために盛康が忠盛からもらい受けた子なのだ。

乳父になるってそういうことよね……

清盛くんが街で変な子に嫌なことを言われたなら、まずは盛康んところへ飛んでいって「うちの棟梁は悪いヤツなのか」ってきいてみるべきだと思う。「わしは盛康に教わった弓馬の技を誇りに思うぞ」って言って、ご老体を感激させてやれ。

『仁』では「今なら抗生物質で直せる病気が当時は治せなかった」っていうのが肝だった。『清盛』は現代人がテーマパークに遊びに行ったようなものだ。当時ならでは感の表現は美術方面に集中しており、生活習慣面・精神面ではあんまり表現されていない。本当にテーマパークなら、背景や衣装がリアルにできているほうが遊ぶほうは「おお~~」と楽しめるので、それだけでいいんだけれども。

フィクションは「この世界ではこうです」「この当時はこうでした」という約束・歴史的事実の説明があるものがいいのか、それとも、その世界なりの約束事・史実を無視して現代一般人の感覚で「なぜ戦うの!?」「本当の親を教えてくれ!」と叫ぶほうがいいのか。

もちろん観るのは一般人、マニアぶっても大抵は一般人。実際に戦場へ出たり、マフィアやスパイだったりした人は、そんな世界の「リアル」な話はあまりしたがらない。そしてメンタリティの歴史は証言を集めるのが難しい。大人の都合で人生を左右された当時の皇子たちの里心がどんなものだったかも分からない……

(何もかも飲み込んで風景を歌にうたっていた、ってことも考えられるあの頃)

・乳母とは(日本史用語の基礎知識)※ さくっとまとまってるように思ったので貼っておきます。
養君にみる子どもの養育と後見(『史學雜誌』に掲載された論文の梗概、英文。本文は有料)

現代では「保護者」といえば大抵は父親の名前を書類に書く(父親がいないから母親の名前を書くことはあるが、平和裡に同居している戸籍主である父親がいるのに母親の名前を書くってことはあまりない)けれども彼はまた大抵のばあい文字通り家屋の中に子供を「保護」しているだけであって、子育ての具体相にはあまりタッチしない。「おかゆこぼしちゃったーー」とか「おしっこ出ちゃったーー」とかそういうのにはあまり対応しない。

研究者陣も「子育ては女性がうまくやってくれるだろう」と思うのか、「誰が誰の養育係だった」というだけで、実際に何をしていたのか、あんまり書いてくれない。

フィクション的には、たとえば美福門院は自分の手で「いっぱい出ましたねーー」と言いながら重仁親王のおむつを替えてあげたのか、藤原宗子さんは重仁親王のおかゆを自分で作りに台所へ降りたのか、「あーーん」と食わせていたのか、「ほらほらこぼさないで」とかやっていたのか、それともそういうのは全部下女に任せて、自分は横に座って「きれいに拭いて差し上げなさい」など監督だけしていたのかってあたりが知りたい。常識的に後者だとは思うけれども。

「もう寝る時間ですよ」とか。「もう一回お話して」「なんのお話がよろしゅうございますか」「おののたかむらじごくめぐり」「むかーーし昔」とか ……。

夜中に起きて「おしっこ」とか。女房や下人が大勢起きて、一人が「樋箱(おまる)を持て」などと指示して、一人が寝間着の裾を持って差し上げて、一人が「しーー」って受け止めて、一人がそれを捨てに行く……とか?

子育ての具体的な仕事といえば「行儀よく食べさせること」「排泄の世話」「風呂・洗面など清潔を保つ作業・着替え」「遊んでやること」「危なくないように見張ってること」「できる範囲で勉強をみてやること」「寝かしつけること」だけど、それぞれ誰が担当したんだろう……今のママと同じように宗子さん自ら「ほらほら」と皇子の後を追いかけて歩いたのだろうか。

身分が全体に少し下がって、中流貴族・武家の若様を家人が預かった、というような時には、家人の夫人が手ずから煮炊きしたものを若様に「あーーん」してやっていたような気がする。その場合、若様はどこで食べていたんだろう。寝起きしていたんだろう? 棟梁夫婦と一緒に主屋で? 家人専用の離れに居候していた? 朝おきたら乳母に「おはよーー」して、身綺麗にしてから主屋に住む棟梁夫婦に「お早うございます」と言いに行くとか?

乳父というのは乳母の夫だが、これも本人の身分が高ければ、ぶっちゃけお金を出すことが一番に期待されており、「装束を支度してやる」「有名な学問の先生につけてやる」など後見人的な役割が主で、身分が下がるほど「おんぶしてやる」「竹馬をつくってやる」など現代の一般人のおじいちゃんが孫を預かる感じに近くなっていったのだろう。



清盛くん:1118年生まれ。12歳でご元服(賭場で遊んでちゃいけません)、ドラマでは14歳で北面入り(顔を洗いましょう)
忠盛パパの活躍 ~ 白河院の落胤だったとして、どっちみち忠盛が乳父に選ばれていたんじゃないかと思う今日この頃。

後白河帝:1127年生まれ。清盛くんの8つ下。鳥羽帝の第四皇子。雅仁親王。1155年即位。

※ 以下、皇子がたの名前の後の( )内の数字は、お生まれになった年の清盛くんの年齢。

近衛帝:1139年生まれ。(21歳) 体仁(なりひと)親王。ナリコさん待望の男の子。生後2年で即位。満16歳で崩御(´・ω・`)

重仁親王:1140年生まれ。(22歳) 崇徳帝の第一皇子。生後すぐに「おじいちゃんの後妻さん」であるナリコさんの養子になる。乳母は宗子さん。1こ上のお兄ちゃん体仁親王↑が近衛帝として即位すると、2歳で親王宣下を受ける(受けるように取り計らった人がいるということですね。その前のお名前が分かるといいです。宗子さんは彼をなんと呼んだのか。「重仁さま」じゃないよね) 10歳で元服。15歳のとき叔父さんが即位しちゃって、立場のないことに。満22歳を迎えずに病没(´・ω・`)

二条帝:1143年生まれ。孫王。守仁親王。雅仁親王の第一子。ナリコさんに育てられた。ちっちゃい頃は仁和寺でお勉強してた。12歳で呼び戻されて親王宣下&立太子、13歳でお嫁さん(1141年生まれ。ちょっと姉さん女房。ナリコさんの実娘。父親は鳥羽帝=親王自身のおじいちゃん。……(´・ω`・)エッ? おじいちゃんの娘って……お父さんの異母妹=叔母さん)をもらう。22歳で病没。

合掌。

仮に崇徳帝が白河院の子だったとして、(それを知った上で)重仁親王から鳥羽院をみると、「お父さんの異母兄」つまり伯父さん。璋子さん系統をさかのぼると、「祖母の二番目のご主人」で、どっちにしても「父の養父」であり、おじいちゃんには違いない……

重仁親王から体仁親王をみると、「おじいちゃんとおじいちゃんの後妻さんの子」だから、お……叔父さんでよろしいのか。1コ上の叔父さん。自分が「おじいちゃんの後妻さん」の養子になったので(それはおじいちゃん本人の養子になったことを意味しないのか)1コ上の叔父さんは、僕のお兄ちゃんでもある。

重仁親王がお生まれになったとき、宗子さん自身は、末っ子(頼盛)がすでに7歳で、本人が36歳。当時の年齢は今の平均的なイメージ+20歳増しくらいでいいので、ママの代わりというよりおばあちゃんが孫を預かったような感じ。もちろん乳を飲ませるためではなく(そのための女性は別にいたのでしょう)住み込みの家庭教師のようなものだったか。ロッテンマイヤーさんみたいな。

このとき清盛くんはすでに22歳。重仁親王とリアルに乳兄弟(義朝&正清のような)って感じより、彼には既に重盛くん(親王の2歳上)・基盛くん(親王の1コ上)が生まれている。「おばあちゃまがお勤めしている美福門院さまの御所へご挨拶にいきましょう」ってことが可能だったなら、(あるいは親王を六波羅でお育てしたなら)重仁親王と体仁親王・重盛くん・基盛くんは一緒に遊んだかもしれない。宗盛くんは重仁親王より7歳下なので「お兄ちゃんたち、待ってーー」って感じだったかもしれない(妄想中)

子供だから自由だったのか、子供だから不自由だったのか。当時の子供のリアリティ。

そして重仁親王は、弱冠15歳のとき「お父さんが僕を次の帝にするために、1コ上の叔父さんであり(たぶん)一緒に遊んで育ったお兄ちゃんでもある人を呪いころした」と噂された。しかも噂の出どころは僕自身の養母さまである可能性がある。養母さまと一緒におじいちゃんに告げ口した人は、僕と僕の本当のお母さんを、自分の娘のライバルだというので嫌っている」

で、「おじいちゃんが告げ口を信じてものすごく怒って、僕の代わりに他の叔父さんを帝に選んじゃったので、お父さんがものすごくヘコんだ。僕はもう身の置き所がない。なんのために生まれてきたのか分からないといえば僕のことだ。僕はいったい誰なんだ」

事情を伝え聞いた17歳の重盛・16歳の基盛・8歳の宗盛くんたちはどう思ったのだろう、など。8歳じゃまだ分かんないか……それより親王ご自身はどこまで状況を聞かされていたのか。

親王は後白河天皇の即位が決まった時、具体的にどこにいらしたんだろう。どの部屋で起きて、誰の顔を見て、どこでご飯を食べていたんだろう。そういうことが気になる今日この頃です。「美福門院の養子」としてまだ彼女と同じ屋根の下に暮らしていたんじゃ針のむしろだよね(´・ω・`) 
親王は10歳でご元服なさっている。なさって……どちらかへ移られた? 

そして宗子さんは重仁親王が13歳のとき池禅尼となった。親王が大人になってからも側近として使える乳母・乳父は多かったようだけれど、宗子さんは具体的なお世話のお役からは退いたのだろう。なお親王が9歳の年に家盛くんが亡くなっている。

ドラマでは重仁親王はなんとなく崇徳院と一緒にいたけど、ナリコさんの養子だったものが戻ってきたのか。元服して自分の屋敷をもっていたのか。やはり「誰から誰を訪ねて、御所同士の間が徒歩で何分くらい離れていて」という描写がないのは、はっきり分からないからでしょうか。「もうすぐ即位できるぞ」と(いったん手放した)息子と手を取り合う姿が崇徳院の脳内イメージなのか、和歌や使者を通じて相談していたことのイメージ表現なのか、新院が親王の部屋を訪ねたのか、親王を呼びつけたのか、よく分からない。

保元の乱にまつわる人間関係は、「説明された上で理解したくない」ていどのもので、とくに白河院の女性関係の乱れにまで遡って説明しはじめると、更に聞きたくない感倍増。
なにしろ早世された帝・親王がたがお気の毒。崇徳帝はぜんぶ背負って変化されたのだと思う(´・ω・`)

むしろフィクションだったらここまでややこしくしない

映画・ドラマの中で「見ていれば分かる」ように描くことは非常に困難だと思う。そこに摂関家が絡んだ日にゃ「忠通さんちょっと黙っててくれ」と言いたい。

今年の大河は「保元物語・平治物語・平家物語を(公卿がたの日記をまじえて)一気にまくる企画」なので、確かに短い尺ではできない。よく取り上げたとは思う。キャスティングがよろしかったのでイメージしやすくなったのは有難い。
が、たとえば清盛の白河院落胤説は、むしろ「忠盛が頭のいい人だったので出世できた」ことを印象づけるための後づけエピソード感も濃厚で、「忠盛の話」だけしているぶんにはいいんだけど、清盛の話として流れに乗せちゃうと収集のつかないことに……っていうものだったと思う。まぜるな危険みたいな。

ドラマといえば、「忠実ができのよい弟ばかり可愛がって、兄ちゃんは面白くない・焦ってる」という描写はもっと必要だったと思う。

そしてたぶん、ナリコさんが成り上がっていく姿を主人公に宮廷ドラマとして集中させるべきだったような気がする。タイトルは? 『おんな保元物語』……

「養女にした上で嫁に出す」「養子にした上で乳母にまかせる」(あるいは任してもらう)のは当たり前で、清盛くんが「取り入るためにもらい受けた子」であることを直ちに「悪いこと・恥ずかしいこと」という価値観で受け留めてしまったことがものすごく浮いている。盛康に育ててもらった7年間より街でばったり出会った兎丸の一言に重きを置く純情っぷり。

「当時は養子をやったり取ったりすることが普通だった」ことにしないと、他の家がすごい勢いで養子をやり取りしていることがイメージしにくくなると思う。理解をさまたげると思う。あるいは他の皇子・姫たちとともに「皇族・貴族に生まれたばっかりに」っていう悲哀をもっと味わうと、まとまりが良かったのかもしれない。(でも庶民も養子とか里子とかふつうだったと思う)

清盛くんが同じ年頃の武士仲間といる時だけは、出生の不安定さを忘れることができる……猫とたわむれる横顔に漂う一抹の寂しさ、恋をしても受け入れてもらえる自信がない、存在の不安みたいなものを表現できなかったのは、もちろん俳優が「笑いが目的」と思い込んだことと、音楽の選び方・構図の取り方のせいじゃなかったかと思います。
2012/09/25

あえてツッコむ忠正。

先に行っておくと豊原功補氏は好きです。いい演技でした。

忠正くんは、わがままな兄貴(忠盛)のできの悪い養子(清盛)のせいで一門がまちがった道へ引きずって行かれることを懸念している。それはそれでよい。

ただし彼はそれを表現しすぎる。先走り、先頭だって騒ぐ彼自身の言動こそが一門に動揺を生む恐れを省みていない。ふつうに考えると「彼の狙いは何なのか? 分裂を狙っているのか」ってことになる。

彼はしかし、兄貴の代わりに自分が棟梁の座を狙っているわけではない。兄貴の子供の代わりに自分の子を次期棟梁にするつもりで郎党を語らうわけでもない。

ドラマ内ではまるで部屋住みの内弟子のように描かれているが、彼にも本当は家族がある。作中に描かれていなくても、そこは年齢から常識的に判断できるところでもある。

嫁がおればその実家があり、実家なりの付き合いがあり、影響力がある。弟は、いつでも兄の対抗馬になり得る。それが歴史劇である。

彼は「義姉さんの気持ちを考えてやれ」と兄に諫言し、義姉の実子を次期棟梁に推薦するが、義姉と不倫関係にあるわけではなく、それを狙っているわけでもない。義姉の実子がじつは彼の種ってこともない。

しかし、あり得る。それが歴史劇である。 歴史上いくらでもそのような実例があったからである。現代の視聴者の実際の家庭では起きては困る不倫騒動・お家騒動が、昔の話では起きる、それを娯楽として期待するからこそ歴史劇を鑑賞する。

つまり、歴史劇の観客は、アピールの強い弟の姿から、予測を立て、伏線と思い、骨肉相食む刺激的なドラマを期待する。

現代を舞台にした単なるホームドラマ、学園ドラマであれば、見返りを求めずに「彼女の気持ちも考えてやれよ!」と口添えしてくれる同級生などというのは、恋のキューピッド、魅力的なサブキャラクターとして愛される。

忠盛が宗子のいう「男の出世欲が家庭に不幸を招いた」という理屈をすなおに飲み込んでしまうのと同じで、頼んでもいないのに女性の気持ちを理解して、先回りして代わりに明言してくれる男がありがたがられている。そして彼自身には欲があってはいけない。

吉田健一が「母さんが可哀想だ、家庭を大切にしない父さんは哀れだ」って言うと中二病なのだが、忠正が「姉さんが(以下同文)」てのは中二病じゃなくて白馬の王子様あつかいである。頼んでもいないのに何でも買ってくれる男のようなものだ。しかも「ホテル」などとは口にしないってことだ。女の夢だ。

……が、それをそのまま歴史劇に持ち込んじゃいかんのである。

野心のない男がありがたがられている。そのくせ一門は出世しようという。こんな面白くない上に意味不明な歴史劇があるかってことだ。

「時忠の羽根」はあざといが、真犯人探しを一気に片付け、重盛の懊悩へもっていくドラマ上の小道具として「いいんです!」ってところだが、ドラマだからこそやってはいけないこともある。観客は画面に暗喩を見、セリフに伏線を見、次の展開を予測する。結局いい人で終わってしまった弟は、もうひとつ残念なキャラなのである。処刑の回は色っぽかったけどねーー

こういう「女性目線、ハーレクインぽい都合のいい男ばかり出てくる歴史劇」というものに次があるのか、っていうのが……興味深いようなそうでもないような……
2012/09/25

映画のゴッドファーザーはアンチヒーロー。

清盛くんのイメージは「平安のゴッドファーザー」らしい。そしてアンチ・ヒーローとして描かれた男を描き直したかったらしい。

ゴッドファーザーってのは本来「名付け親」にすぎないけど、その人脈による巨大な一族のボスを描いたコッポラの映画を指すなら、ありゃマフィアであって、まともなヒーローではない。

子供の夢が「マフィアのボスになりたい」では困る。「レストランで食事中の対立候補の脳天をぶっぱなして天辺に立つ」が幼稚園のお絵かきでは困る。あの映画は1972年。ついでに言えば若き銀行強盗を描いた『俺たちに明日はない』は1967年。暴力映画、犯罪者を主人公として共感的に描いた映画が流行った頃。ついでに言うと『タルカス』というELPのアルバムは、1971年。

あのドラマ全体に「今の今、これを描く必要があったのか?」って言いたいようなノスタルジーな感じが漂うのは、そういうわけ。主人公の反抗的な青春時代から描き始めたのも道理で、企画自体が制作陣の青春への捧げ物。しかし何かがズッこけている。

映画『ゴッドファーザー』の冒頭は、マフィアのボスの娘さんの結婚式。何も知らなさそうな清純なお嬢さんが白いウェディングドレスでお嫁入り。でもその裏で、パパは他所のチンピラをぶちのめす相談をしている。被害者である同郷人の涙の訴えに「仕返しにうちの若いものを貸してやる、あいつなら『ほどほど』を心得ているから」っていうんだけど、これがとんだ武闘派の巨漢。どのていどに“ほどほど”の血の雨が降ったのか、その恐ろしさは観客の皆さんのご想像にお任せします……

民族的マイノリティとして教育も低く、ろくな働き口もないイタリア移民・シチリア移民が同郷のよしみで結束する。差別され、暴力に訴える他ない者が、その暴力で対立者を蹴散らし、権力者に要求をのませ、のし上がる。
実力次第でなんでもありな「アメリカン・ドリーム」の皮肉、キリスト教精神で結束しながら他をしいたげるという皮肉を描いたわけで、成功していく様子を描きながら物悲しい感じが漂うのは、そのせい。

この「成功ゆえの物悲しさ」が日本では「諸行無常」だったわけで、“絵巻物ではない血の通ったドラマ”とはいっても、絵巻物にも血と涙は通ってるわけで、先人の培った文化・情緒はやっぱり無視してはいけない。清盛くんが出世していく様子がなんだかおめでたい感じに描かれてしまったのは方向違い。

日本では「成功の皮肉」ってのがあまり描かれない。「悪いヤツほどかっこいい」ってことがあまり描かれない。

「若い時はヤンチャでも猿でもエラくなればいいんですよ」っていう具合で、出世はもれなく良いこと・めでたいことのように描かれる。勝ち戦は勝ち戦であり、えいえいおーであり、恐ろしい集団暴力が遂行された……って描き方はあんまりしない。これからどこへ行くのか……って不安な感じもあんまりない。マッカーサーを米大統領にってくらいで、エラい人に支配されたがる。儒教精神で「支配者は仁」て考え方があり、エラくなった人は「立派な人」だ。

しかし平家は「立派」だったのかというと、何度でもいうけど庶民のために都を衛生的に改修してやったとか、全国の寺社を建て直して民衆の心の平安を願ったとか、学問所を設立して科挙を実施し、自分の配下として取り立ててやったとか、宋に若者を派遣して人材育成につとめたとか、小作人を自作農にしてやったとか、そういうことじゃなかった。信長とちがって自由な商業を奨励したのとも違う。信長は為政者だったが清盛は自らビジネスマンだったから対立者に容赦なかった。ていうかやっぱり為政者じゃなかった。仁でもなかった。そして、それでよかった。

彼らはただただ「我が一門」として、主に藤原家の宮廷支配に対抗していっただけだ。金融業にも手を染めたから、多くの貴族を破産もさせた。入水も身売りもあったはずだ。だから「平家ゆるすまじ」という反乱勢力が悪役のように描かれる筋合いも必要もない。アンチ・ヒーローを描き直すといったって、それを善として、他を悪として設定し直す必要はない。新興勢力と、伝統を守ろうとする者との間にとうぜん起こるべき、それぞれの先祖の誇りをかけた防御戦であって、価値判断もステレオタイプな善悪のキャラ立ても必要ない。

“ゴッドファーザー”のシビアさ・皮肉が描ききれなかったのは、男性キャラがいずれもキレやすく、すぐにピーピー泣くせい。そしてホームドラマ部分が脳天気に過ぎ、「この裏で恐ろしいことが」「いつまでもこんな幸せは続かない」という背徳感・不安感がなく、「平和が一番」という女性目線になりきってしまっており、それが歴史・政治史ドラマとしての面白さを削いだから。そして中途半端な悪役キャラ設定がなされていて、子供っぽいから。

要するに家族向けに可愛らしく面白おかしく描きたかったのか、大人の男性向けに和製ゴッドファーザーを描きたかったのか分からない。男の美学は「泣くに泣けない」ってところで、泣いても許されないってことで、涙をこらえてるってところだ。

男性キャラのキレやすさがドラマ的に良いほうに作用して異様な盛り上がりを見せ、それはそれで出来が良かったっていうのが第1部の宮廷メロドラマ・パートで、実は鳥羽院がなくなるまでの間は比較的数字がよい。

宗子さんを始め女性キャラは割と一貫した人格として描かれており、璋子と得子のように「どっちが善/悪」というだけでは区別できないなりに、キャラ立ちしている。

女性向けエンタメ、ホームコメディ、いびり合いのメロドラマを描くとうまい人が「不撓不屈の反抗的な青春」といわれて少年マンガの主人公のステレオタイプを引っ張ってきたら世界観との折り合いが悪かったってところか。

逆にいうと、やはり歴史劇にはそれなりのツボや作法のようなものがあり、それが「メソッド」として確率していない、教育されていない……ってのが最近の大河がガタガタする理由のような気がする。

ここんとこちょっと方向が変わってきたので地味に楽しみ。
2012/09/25

『負けて、勝つ』第3回。

NHKオンデマンドで無料配信中の関連番組『負けて、勝つ ~戦後を創ったVFX』が素晴らしいのでご覧あそばせ。4分の超短編ですが戦後の街並み・厚木に到着するマッカーサー機・GHQ建物(第一生命館)の再現ぶりの素晴らしさが堪能できます。音楽も泣ける。

本編は人間ドラマの硬派ぶりも好感度大ですが、日本家屋の風情・洋風の建物や調度の豪華さが目の保養であるとともに、このCGで描かれた戦後の街が「看板役者」の一人でもあります。

第3回は「今回もセピア調の画面が目に優しい(*´∀`)」と思っていたら途中で色調が変わりました。少しずつ「復興」していくようです。

物語はややどころかすごい駆け足になりましたが、「劇薬のしたたり」とでも言うべきGHQ内部の権力劇に白洲と吉田が巻き込まれた描写は面白かったですというか色っぽかったです。ワーグナーって悪役っぽいなぁ(笑)
複雑な状況を描写しているのですが切り替えのテンポが早く退屈しません。外人俳優さん達も役者ぞろいでよろしいです。

元帥は……キレちゃいましたね。コーンパイプは本当にコーンの芯なんだってことを初めて視認しました。「私を撃てばまた戦争だ」歴戦の英雄である自分の存在価値を命がけで確認しなければいられなかったのでしょう。日本人は自分を支配する人にはエラくなって欲しがる。「えらい人に支配される」感じが好きなのかもしれないです。


本朝の恐れ多くも(元)大元帥閣下は……今日も静かな名演でした。だって本当にあんな感じだったんだってば。あの細やかな演技力・存在感はやっぱり能役者、といって良いと思う。

今回は能役者といえばもうお一方。あの方も変な存在感(誉めてます)があって、冥界から霊力で話しかけてくるような気がする。

「戦友」が一人ずつ逝き、挫折する中、ひとり顔を覆って泣く生き残り。黙って茶漬けをすする男たち。みな禁欲・勤勉ゆえの色気があります。「正調男祭り」ってのはこういうの。

さまざま乗り越えて吉田が「ばんざい」を放つシーンには泣けました。渡辺謙はやはり振り返る・「面を切る」仕草に特徴があり、能・歌舞伎の型を思わせ、かっこいいです。

牧野伯は旅立ってしまわれました。三週間ほど幸せを味わわせて頂きました。ありがとうございました。洋画『ロビン・フッド』におけるマックス・フォン・シドーもそうでしたが、お歳を召した俳優さんのご臨終場面には本当に立ち会ってしまったような気分になります(´・ω・`) 加藤剛さまいつまでもお元気で活躍なさって下さい。(「世界三大美男の一人」説に賛成)

で……

中二病な上に女性差別発言をかます若者が二名おりますが、見事にうっとうしいですね!(・∀・)

この「若い男の独善」というのは今のドラマに必要なのかな。こちらは『清盛』の自己陶酔的な感じとちがって、やや自嘲気味・自己反省的ですね。女性作者・視聴者が、悩める若者を可愛らしく思いながら書く・鑑賞するのと、男性が「俺にもこういう頃あったし」と思いながら書くのとの違いでしょう。

女性の辛苦が同情的・好意的に描かれているのと良い対照でもあります。女性が「でも一人で生きていける」みたいな虚勢は張らないところがかえって良いですね。辛いものは辛い。

吉田自身も他の政治家たちも、悩んでる顔だけで、具体的にこの時期にどんな政策をとったのか、というようなことは描かれておらず、支持率の低かったものがいつの間にか支持を集めていたり、何がどのように理解されて評価が変わったのか、そこは分かりませんが、見る人の立場によって評価できるかできないか、分かれる部分であるところには触れないということでしょう。

小説では事情を全く書かずに「彼は悩んでいた」とだけ書くってわけにいかないので、これは俳優の存在感・絵柄で「いろいろあったんだなーー」と想像させ、「尺」をもたせることのできる映像表現ならではなのでしょう。

米兵の相手をせざるをえず病を得た哀れな街娼 → 咲き誇る桜は日本の美とはかなさの象徴 → 「バカヤロー! 今しぬ気でやらなきゃ独立できねぇんだぞ」のつながりは魅力的でした。

次回も駆け足っぽいですね。
2012/09/25

『平清盛』第37回「殿下乗合事件」

皆様ご覧あそばせ。今さらベスト・エピソードにございますよ。

今ごろ面白い。本当に良くなった。政治やってる嬉しいな(*´∀`*)

今回は今さら初登板の演出家:橋爪紳一朗氏。名は体を表すと申すべきか、まさに紳士的かつ明朗な演出でございました。
なんたってBGMの少なさが素晴らしい!!

わずかなセリフから垣間見える人間心理の掛け合いだけで自然に盛り上がる緊張感。時おり使われる鈴の音・琵琶の音、かすかに響く現代音楽的な不安なメロディーが非常に効果的でございました。今までの使用曲と違いましたね。ここへ来てテコ入れですか。嫌味はともかく。

場面転換に無理がなく、非常に見やすかったです。まず廊下を人が歩いてくるところから映して「次の場面が始まりますよ」と無言のうちに知らせるのは、視聴者にとって親切に感じられます。

同時に、画面からはみ出すほどの接写、中心線をずらした構図など、不安感・酩酊感を高めるための、このシリーズならではの手法も踏襲されておりましたし。

重盛のクライマックス、画面の手ブレが利いていました。

脚本は「どうした?」と聞きたいほどの出来の良さ。余計なセリフがなくなって本当にありがたい。怒鳴るキャラがいなくなって本っ当ーーにありがたい。

重盛の人間性は史実とされていることとも平家物語とも違うわけですが、ドラマ内における前回までの経過を引き継いでおり、また子供たちがそろそろ天狗になっている様子がさりげなく挿入された後の事件ということで、人物の心理に無理がなく、常識的に理解できる経過、あるべき流れが緊張感をもって流れている。ただそれだけのことで面白い。大人同士が目を見交わすだけのことで視聴者にも場面の意味が通じる。相変わらずナレーションは要らない。

福原の寝殿における清盛と盛国、時忠の陰謀三人組が形作るトライアングルは美しくも凶々しく、よろしかったです。平家の「赤」が利いています。マフィア的な存在であることがよく表されるようになりました。国を変えるとか豊かにするとか基本的に嘘です。清盛は富を「国」に還元してないから排除されたのです。東国武士の口を借りて、彼の政治は武士のためになっていないという正しいツッコミがなされたのは快挙でした。

プータロー時忠のフリーダムな動き、「重盛じゃダメだ、お前いけ」と暗に匂わせる清盛と、決して嬉しくはなさそうに、しかし余計な返事をせず汚れ役を黙って引き受ける時忠、同じく無言のうちに兄と呼応する時子。

時忠の羽根、すごろく勝負に「勝った」など、視覚的アイテムが無言のうちに利いていたのも素晴らしかったです。

……本当に同じ人か? 脚本……

いやアイテムの効かせ方を見ると同じ人なんだけど、とにかく台詞が減り、筆がさばけて来た。今回は関係者を絞り込んだのが良かった。乗合事件に後白河院を口出しさせたり、宗盛などにクドクド言わせなかったのが本当に良かったと思う。公卿が一人だけコメディタッチを担当しており、これの扱いがサラッとしていたのも良かった。これは演出のセンスでもある。

演出のセンスといえば、光あふれる福原・影のさす重盛の六波羅・密閉感のある宮中、と舞台の違いがよく表されていたのも理解しやすさ・見やすさを高めていたと思います。前は寝殿がどこも同じに見えたものさ。

松ケンは口角を下げて中年男らしい顔つきを作っているのが、なかなかよろしいです。彼がセリフを言わないほうがドラマが生き生きしているってのはどうなんだ、と失笑させられますが、体が大きいというだけで存在感を主張できるのは役者として得なはずで、キャスティングに間違いはなかったと思われます。

時忠は装束の上からも小柄で痩せた体格、いかにも策士らしい神経質な体つきが感じられ、よい対比になっています。がっちり型の盛国がバランス取ってる感じですね。

平家の公達は文武両道でハードトレーニングを積んでいたのだろうな、とかねがね思っておりましたが、そこが示されたのも今回の収穫でした。
国に口を出してもいいけど子供には礼儀を教えておくといいと思います。

時子は史実では後宮で容赦ない側面を見せましたが、今までは深キョンのキャラもあってか、そこが描かれなかったのが、今回は黒幕らしさがよく表されました。琵琶の音色で女性たちと基房襲撃をつなぎ、彼女の関与を匂わせたのは秀逸な場面でしたね。

それにしても琵琶の曲ってあれしかないのか……

北条家における酒宴を最初と最後においたサンドイッチ構成はお見事でした。途中でザッピングしたら分かりにくかったでしょう。福原と京都の二箇所に絞り込み、乗合の件をいかに処理するかに絞り込んだので緊密なドラマとなりました。

前回から父に頭が上がらない重盛、時忠配下の赤い禿、頼朝がそろそろキレ始めた件、彼への興味を徐々に高める政子ちゃん……と次へのバトンをちらつかせつつ、遮那王登場でまたややこしくならないといいけどなとちょっと不安も抱えつつ。

ああそうだ、秀衡キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!! って言うの忘れた。
2012/09/24

『平清盛』第15回「嵐の中の一門」再考。

清盛くんが心を入れ替えて出世をめざすことにしたターニング・ポイントとなる回なんだけど、ちょっと難しい。

清盛くんは神輿をΣ(゚Д゚ υ) イタ!! 本人的にはただの反抗心だが、政治的には「院のためにうるさい坊主どもを追い払ってやった」という意味をもつ。たぶん本人は分かってなかっただろう。このドラマは清盛を「せんだんは双葉より芳し」ではなく少しずつ政治家らしく成長したように描くので最初はばかでも仕方がない。

ともかく「院には平家がついている。平家には弓の巧者がおり、不屈の闘志と強大な武力がある。お前らなんか怖くない。院政は盤石だ」そういう意味をもつ。じっさい鳥羽院はそのように解釈して、平さんち親子を軽い処分とした。結果的には院と平家のつながりを強めたので平家の出世のためになった。これは史実からして、そうである。

しかし神輿を射たタタリが次男坊に出た、と一門は解釈した。まっさきにそれを言い立て、騒ぎ立てる人物が姻戚身内にいることこそがこの一族の弱点のような気もする。忠盛としては一族分裂を回避するために真っ先に忠正を処分したほうがいいような気もする。海外ドラマだったら暗殺したかもしれないが、そこはスルーだ。(この時点ですでにストーリーとしては弱い)

ところで長男は元々棟梁が出世の足がかりとするつもりで他所からもらってきた子である。正確には最初はそうではなかったのだが、棟梁自身の言動とやっかいな姻戚の発言により、すでにそのような解釈が一族のなかで確認されている。なくなった次男の実母である棟梁夫人は、ここで改めてそれを言う。
「あなたが出世したがったのが悪いのです。トラブルメーカーを引き取らなければよかったのです。うちの子がたたられることはなかったのです」

棟梁「そうじゃ、わしが出世したがったのが悪い。もう出世するのをやめよう。上からの命令でいったん引き受けた仕事も放棄してよい」

長男「それを言われたんじゃ俺の立つ瀬がない。出世のためにもらわれてきた俺が見事この一族を高みに引き上げてみせます(※よそものであるお手前にしかできないことをやってのけます)から、棟梁は今更ガタガタ言わずに見ていてください。とりあえず上から言われた仕事は完成させます」

棟梁夫人「では完成させて出世するがよい。出世欲の犠牲となったあの子も喜ぶであろう」

……えーーと……。どこで気が変わったんだ宗子さん。

じつは宗子さん自身の中にはもう1つドラマがあって、こちらは一貫性がある。

彼女の長年の懸案は、長男がじつは夫の初恋の人の忘れ形見であり、だから夫がそちらばかり可愛がるような気がしていることで、後から正妻に入った彼女は貧乏くじを引いたわけだが、自分も息子に二人も恵まれたからまぁいいや、と思っている。本人のもともとの性格からしても、女のプライドとしても、実家(藤原氏の一派)と平家のパイプという立場からいっても、内助の功を尽くす所存でいる。(というように脚本は池禅尼の性格を解釈した)

それが息子をなくして、キレた。夫の初恋の人の象徴である鹿角のお守りを、一族の他の男も大勢いる前で泣きわめきながら叩き折るというヒステリーを披露した。

女性としては最も恥ずかしい、浅ましい姿をさらしてしまったわけだが、しかしそれでストレス解消になった。
ふと我に返ってみれば、長男自身はなにも悪いことをしていない。彼は彼で、生まれてすぐに母親をなくした哀れな少年である。今はなくなった異母弟のために曼荼羅を描いて奉納しようとしている。
「ではそうしてあげてちょうだい、あの子もきっと喜ぶわ」
まだちょっと距離感を残しているが、賢明な継母として落ち着きを取り戻した姿である……

鎮魂のための曼荼羅奉納・家族愛、それに絞り込めば間違っていない。それが「忠盛の出世欲」と絡んだ時におかしなことになる。宗子さんの発言に一貫性がないように聞こえる。忠盛は出世したがるべきだったのか、したがるべきではなかったのか。彼女はどちらと考えているのか。

冷静に考えれば、いつまでも「犬」と呼ばれて終わりたくないのは一族に共通の願いである。棟梁が昇殿したといっては泣いて喜び、舞い踊り、もっともっと上を目指そうってことでやってきたのである。

「でも、そこそこのところで満足していれば、不幸も起きず、家族そろって仲良く暮らせたじゃありませんか」というのが女の理屈。

忠盛はこれを受けて「お前になにが分かる、女は黙っておれ」とは言わない。息子が上の者にいびりころされたらしい事を知ると、上の者ではなく、なぜか自分を責める。

どうも男性が女心を理解することが奨励されているらしく、ここの男性は発想が非常に家庭中心・内向き・自省的である。すぐさま「そうじゃ出世したがった俺が悪かった・妻子に迷惑かけた儂がばかじゃった」と思ってしまう。

もともと宝塔再建は鳥羽院の命令であり、平家は鳥羽院の側近で、それが藤原摂関家にもパイプを作ろうとして「ばーか、甘いんだよ」と言われたのだから、とっとと宝塔を再建して院にますますの忠勤を誓い、「打倒摂関家・院のお力添えで念願の参議!」をめざせばよさそうなもんである。

「清盛、今までにない豪華な宝塔を再建して嫌味な摂関家の鼻を明かしてやろうぞ」「やりましょう父上!」「ばかばか、男ってどうしてそうなの! そうやって出世したがるから院のライバルに目をつけられたんでしょ! 出る杭は打たれるって言葉を知らないの」「そ、そうか……」と段階を踏めばまだしもわかりやすかったかもしれない。せめて「頼長を斬りに行く」といって止められるなら。

宗子さんとしては「出世したがることが悪いわけではない、一族に悔しい思いをさせないためにあの人も苦労しているのだ」と分かっていたのを、「腹立ちまぎれにあの人の今までの苦労を否定するようなことを言ってしまった」と後悔する場面が、たぶん必要だったのだろう。彼女の話し相手になる女房、ばあやのような人がいないのが残念だったかもしれない。時子をうまく使えるとよかったのか……
2012/09/24

女性の一人旅と狂い笹。

どこでどう裏付け資料を探したらいいか分からないことを思いついたので推測のみ。

網野善彦の本に図像資料を読み解くというのがあって、その中に「女性が一人で旅をする姿が描かれているが、中世の女性が一人で旅をできたのはなぜか」という問いかけがあった。

先生みずから「当時は処女性に関する考え方が現在と異なり、女性は旅の途中で誰と寝てもよかった。だったら、もう何も怖いものはない」と答えていらして、「ああ、この先生も男だな」と思った。当たり前だけど。

女性にとっては「いきなり物陰に引きずり込まれない・殴られない・ころされない」ということもかなり重要で、男性のほうでそれを防ぐためのマナーを守ってくれていた、と考えなければ、やっぱり怖くて旅には出られない。

一人旅の女性を見かけたら、まずは「お姉さん、どこ行くの」と声を掛けてみる。「俺は行って帰ってきたところだよ、この先で道が崩れているから気をつけな」などと親切っぽく言ってみる。つまり現在まで続く“ナンパ”が作法として守られていたのではないか。

あるいは当時のことだから、下手でもいいから「和歌を送る」という方法で意思表示したかもしれない。「バーで『あちらの女性にも』」なんて風景があるが、食べ物を分けてやる・一本つけてやる等というのは当時から効果的だったかもしれない。

もしかしたら「自分の鼻をさわる」などのブロックサインがあったかもしれない。「咳払い」なんてのも注意を引くには効果的。逆にいうと、ソワソワしたり、やたら咳払いする男性は、現在では失礼だ。これは現在の女性のほうで、そのようなブロックサインを受け取らなくなったからだ。

つまり、そういう意思表示を受けた女性のほうでもまた「無碍に断ってはいけない」という作法があったはずで、受け取っておいて逃げるのは「ふてぇあまだ」ってことになる。

基本的には一人旅をする女性は、芸を売りながら春も売る、っていうことになっており、客になりたい男は、まずは彼女の芸を見に行く・一曲所望する・宿へ来て舞ってくれと頼む……なんてことだったろう。女も「承知しました」と言ったからには、その覚悟で行く、と。で、基本的には優しく扱ってもらえる約束になっていたはずだ。

「月のさわり」「約束した相手がいる」などという時は、それを示すアイコンのようなものがあったんじゃないか。その場合は男のほうで遠慮する。そういうマナーが双方で守られていたんじゃないか。でないとトラブルだらけだったはずで、「女性の一人旅禁止令」が出てしまう。

マナー違反する男性は「野暮な奴」として笑われるという社会的ペナルティがあった、はずだ。または女性がマナー違反被害を訴えれば「かわいそうに」と世話してくれる人や、「俺が追っ払ってやる」と立ち上がってくれる男性がいた。その辺りの共同体の安全を守るためでもある。

時代劇がすたれたとしたら、そのような社会的背景が理解されなくなったから。作中で「女性の一人旅」が描かれて、「無事に熊野へ行って帰ってきました」では意味がないから、途中でピンチに陥ったり、素敵な出会いがあったりする。そういう期待感が共有されなくなり、ただのマンネリ・女性差別的と感じられるようになった。

当時の社会が描けなくなった代わりに、当時の枠のなかで現代人の興味・関心を描くから、奇妙なストーリーができあがる……

ところで能楽には狂い笹というのがあって、行方不明の子供を探して一人旅をする女性が、肩に笹をひと枝かついで歩く。これを見て世間は「変な女がきた」と言って笑うんだけど、その代わり「彼女に手を出してはいけない」という暗黙の了解があったのじゃないか。

「関わりになるとろくなことがないよ」と女性のほうが悪く言われたかもしれないけど、その代わり彼女自身が(性的に)安全である。子供または夫を探す女性であるから、決まった相手がおり、遊興を生業とする女性ではない、という印。

現在において、BL的なものを好む女性が「くさった女などに関わってはいけませんよ」と警告する代わりに、暗に「御意見無用」の看板をかかげるのと似ている。

BLとは、かつてヘテロセクシャルな男性向けに『セーラー服百合族』という映画があったのの逆転版で、「女性のための学ラン薔薇族」である。そこには観客を楽しませるための誇張があり、嘘がある。嘘を承知で見るものであることの理解がいまいち行き渡らないので時々トラブルが起きるが、それとは別に観客にとって重要なことは、それを鑑賞するからといって「女のくせに生意気である」と殴られたり、「俺のも見る?」などと後を付け回されたりしないことだ。

男性だって、「嫁さんに内緒で成人映画を一本だけ見たら、家に帰って家族サービスしてやろう」と思っていたのが、素人の女にどこまでもつきまとわれたのでは、男冥利とばかりも言っていられない。

男性の場合は「あまりしつこいと、こうだぞ」と拳を見せて凄むことができるが、女性の腕力にはその説得力がない。だから女性は「人権」として自由が守られない(ことが予想される)場合に性的に安全であろうとするとき、自ら「狂」「腐」などの「ケガレ」をかぶる。そのような「演出されたケガレ」を真に受けて、ヘイト・スピーチを繰り広げるのはシンプルにすぎる。ま、それはそれとして。

逆にいうと、(マナーが守られる前提で)性的なギブ・アンド・テイクを実現できるプロの女性は、ケガレとは見なされなかった。大河ドラマ『平清盛』では伊東四朗演じる白河院が「白拍子ふぜい」といったが、ちょっと違和感があった。

彼の側室も白拍子ふぜいの割には「女御」とまで呼ばれている。女御とは元々かなり身分の高い女性のことだ。白拍子を女御と呼んだのは彼女の(ひいては彼女のパトロンである院の)権勢への尊敬からであって、それによって返す刀で本来の女御のかたがた全てをおとしめることを企図したってことではない。

能楽『道成寺』の白拍子は鐘を拝むことを禁じられるが、元々寺院が女人禁制であることと、とくにあそこは女性による人身事故・たたりの記憶があったことが原因であって、「女性の中でも特に白拍子のようなケガれた女性はダメだ」と言われたわけではない。ダメだとしたら女性全部がダメだっただけだ。

現在では、遊興を生業としない女性が一人旅をすることも増えた。仕事上の出張なのに「今晩どう?」等と言われたくはない。「おひとりさま」で食事を楽しむことができるようになったのは「一人じゃ寂しいでしょ、今晩(以下略)」などと声をかけることを男性のほうで遠慮するマナーがほぼ行き渡ったからだ。

逆にいうと、男性が一人でいる女性に声をかけるということは、「それ」を狙っているということであり、中世からずっと変わっていない。だからこそ「失礼よ」「私はそんな女じゃありません」となる。

まだ時々そのようなトラブルも発生するし、逆にトラブルを避けて引きこもるという対処法が目立つようにもなった。

仕事上の話をしたいだけなのに、「失礼です」というトラブルが発生するとめんどくさいので、職場では恋愛ご法度を基本とするのが楽である。男だけ・女だけの職場では、比較的これが行き渡りやすかった。昨日のエントリとも絡めると、「男社会における性的な相手としての男」は女性性を身にまとうことに決まっていた。

これからは、トラブルを避けるために性別・性指向にかかわらず職場では基本的に恋愛ご法度・性的な話題ご法度として、でもその中で気になる相手を見つけてしまった場合どうするか……という作法がすごく精緻になってくるのだろう。そして、それを描いたドラマが流行る……のかもしれない。

2012/09/21

「武士の世」と女性の時代と、これからの時代劇。

「女性の手にフィットする」っていうと、小さくて細くて軽いものでしょう。

昔の万年筆は太かった。お裁縫に使う裁ちばさみも握りの輪が大きかった。これは男性の仕立屋さんの手に合わせて金型が作られていたからじゃないかと思う。最近は女性向けDIY工具が売りだされているそうで、見たことないけど小ぶりにできているはずです。

女性の存在感が認められてくると、端的にいうと女性が購買力をもつと、女性向けの商品をつくることがビジネスチャンスとなったわけですね。

ところで、背の低い公卿が束帯の袖をまくって、細くて柔らかい腕をみせても、別に怖くない。怖くはないが、彼らは威張っていた。

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2012/09/21

男が男社会に迷惑をかけてもいい時。

ない。

「先輩たちが甲子園出場停止になっても俺はやるぜ」とか、
「三千人の社員が路頭に迷っても俺はやるぜ」とか、基本的にNGだ。

フィクション的には「対立グループにさらわれた妹を救出せざるを得ない」とか、
「被害者救済のために内部告発をすすめられた」などの条件を与えて、主人公にすごい葛藤させる。

実行する時にはまず「退部届を出す」「第三者機関が身柄を保護する」などの根回しが必要だ。

ドラマなら「先輩たちが処分覚悟で駆けつけてくれた」とか、かつての上司が裏資料をもって訪ねてきてくれて、
「お前は勇気あるよ」「やりましょう。いや、やらせて下さい……!」(硬い握手)
などと男泣きの場面になるはずだ。

ラストは「相手のほうが悪いことが分かったので、全部員おとがめなしという粋な計らい」とくればハッピーで、子供向け・ファミリー向け作品はこうあるべきだし、「現場の責任者は逮捕されたが、議員との癒着など構造的な巨悪のほうはおとがめなし」という苦い結末になれば大人のドラマってことになるだろう。

あとは基本的に清盛くんへのツッコミ。検討を通じて「創作時に注意を払うべきこと」という一般論的なことを考えている。

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2012/09/20

【清盛】大事なものを失った痛みを追体験する試み。

暴力を描くことは癒しの過程でもある。

被害状況を言語化して相対化し、心的痛みを切り離すというのはセラピーのひとつだ。
(試す時は専門家の指導に従って下さい)

怨霊を呼び出すことは「よほどお辛かったのですね」と手を合わせることでもある。

能楽は、数百年前の有名人の霊をわざわざ呼び出し、当時の状況を語らせ、「ここで見ていて差し上げるから、思いの丈をこめて舞ってごらんなさい」とすすめるものだ。構造的に。
その前提には「きっと神様も見ていて下さいますよ」という信仰がある。能舞台は前後から影向の松にはさまれている。常盤木には神が宿る。(舞台と客席の間にある松は目に見えないとされている)

クランクインは2011年8月。最初のロケ地は岩手県。脚本執筆や全体の雰囲気を決める打ち合わせは、当然、さらに先立って、生々しい心的動揺の中で行われたはずだ。「いまエンタメを撮ってる場合か?」というような自問が共有されていただろう。

ガスも電気も水道も畳もなかった平安時代の家屋、泥だらけ・ほこりまみれの市街地に美術スタッフが深く思い入れただろうことは想像にかたくない。
それを「リアルに」「リアルに」作り込むことは、彼らにとって仏像を彫ると同じような癒しの効果を与えたかもしれない。「皆に見てもらおう」という報道の情熱もあっただろう。

主人公がいつまでも顔を洗わないのは、風呂のない生活・今日も瓦礫撤去にあたる人々へのオマージュ・応援であったかもしれない。

それを汚い・暗いと思う人は、自分が明るいところに住んでいるのかもしれないし、かつて暗い経験をしたので、もう見たくないのかもしれない。兵庫県はそれを主張できる土地だ。もちろん他の自治体もさまざまな災害の記憶を抱えているが、がまんして言わないのもまた自己主張である。どっちがいいってものでもない。

主人公は王家の一員であり、武士の子でもあり、同時にどちらでもない。

彼の「だったら、もうどっちにもならないよ!」「なぜ生まれてきたんだ!」という血を吐くような叫びは、作者はじめ制作陣の「本当に自分ではどうしようもないんだもの!」「何もできなかったんだもの!」という心の代弁であったかもしれない。

また、差別を描くことは「なぜ世の中は不公平なんだ!」と憤ると同時に「でも俺にはそれをどうすることもできない」という自責・懺悔の気持ちをも表す。

主人公は「父をうしない」、母に拒否されたと思い込み、風雨にさらされたきり修理の見込みもない京の街をさまよい、どこに属すか自分から決めることができず、繰り返し迷う。すでに失われたものを求める彼の焦燥には、本来解決がなく、思い切るには長くかかる。

「なぜ武士の家に生まれただけで、こんなにばかにされるんですか?」というテーマをはっきりさせたいのであれば、清盛は忠盛の実子であったほうがよかっただろう。

逆に白河院の落胤説を強調したいなら、祗園女御の後見で華々しく宮中デビューを飾った描写は欠かせなかっただろう。

どちらでもないのは、彼が彷徨い、のたうち続けることが必要だったからだ。

テーマを訴えやすくするための、ストーリーを面白くするためのテクニックではなく、何かもっと、ねじれて湧き上がるようなもの。理路整然としないまま堰を切ってあふれ出すようなもの。カンバスに叩きつけるような表現。

彼に限らず多くのキャラクターが、夫の・妻の・父の愛を得ることができず、気のふれたように泣き叫び、花に身を投げ、鹿角を叩き折り、経文を裂き、あるいは「最初から期待していない」と笑い狂う。
俳優には「もっと激しく、もっと深く、もっとえぐるように」という要求が演出家からなされただろう。現場は鬼気迫るものだったと想像する。

帰る場所をなくした子を引きとり、何ごともなかったかのように和やかに接する前の段階で、なくした痛みのただ中に自分をおいてみる作業。それが制作陣にとって必要だったのだろう。

だからオープニングでは半身不随のピアニストが鎮魂を奏で、作中では写経がくりかえし撮影される。イメージ曲は、メインスタッフの青春時代をいろどったプログレッシブ・ロックだ。人間、傷つくと自分史をさかのぼる。

さんざっぱら迷った清盛は、大事な親戚・友達を大勢なくした後で、一族の繁栄を願う。崇徳院は「なぜこんなに不如意なんだ」と突然の暴風雨の中で怨霊に変化する。第1部から生き残った主要メンバーは逆巻く水上で生き延びるために渾身の祈りを捧げる。信西の・義朝の姿もかいま見えたように思う。一院や女院たちのお姿も感じられた。あの場に西行が居合わせたことは大きい。祈りは届き、瘴気は払われ、新院は成仏なさった。合掌。

その上で、清盛はついに生まれる前までさかのぼり、母の遺体を確認する。もっとも辛い作業を得て生まれ変わり、新天地を求めて自ら荷造りし(笑)、お引越しをする。大工仕事も自前だ。可愛かったね。

この作品はスタッフが総力を上げた鎮魂のドキュメンタリーだった。

で、そういう時にあんがい必要なのがエロス表現で、なぜかというと性の喜びは生きる喜びだからだ。「子供を産みたいィ!」という女の叫びは生命力の表現そのものだ。男たちはそれに元気づけられる。逆に女たちは男たちが求め合い、手を取り合い、慰め合う姿に癒される。(女自身は一人でも生きていけると主張する)

で……そのように制作者が心の内をさらけ出し、自らの癒しを求めて創作するのは、表現者としては正しい姿勢で、芸術的ではあるんだけど、「放送作家はそれでいいのか?」「日曜8時にやることだったのか?」っていう問題に、常に戻ってしまう。

おそらく2010年ころ企画が上がった段階では「グローバル時代に、日本初の国際的ビジネスマンを描く!」という爽やかなものだったのが、災害を受けて鎮魂のドラマを描かざるを得ないものを制作陣が抱えてしまった。そう思って観るとそれなりに整合性はあるわけだが、「これ清盛じゃないよね? 若一神社の人じゃないよね?」というチグハグ感がぬぐえないことになってしまった。

「ビジネスマン」の頃なら主人公のキャスティングも違う人でもよかった。ぶっちゃけ渡辺謙でもよかったんじゃないかと個人的には思っている。松山ケンイチには傷つきやすさ、同時に何考えてるのか分からない変なふてぶてしさ・新人類ぽさがあり、どっちに転ぶか分からない素人っぽさがある。たしかに薬師丸ひろ子や原田知世と似ており、角川春樹を惚れさせたっつーのも分かる。

制作と放映には半年ほどのタイムラグがあり、視聴者はすでに「もっと明るいもの」「たくましい男」を見る心の準備ができていた、あるいは「こんな時代だからこそ、昔と同じものを見て落ち着きたい」という気持ちをもっていた。

最初から「鎮魂」「復興支援」をうたって、1クール程度のスペシャルドラマ、あるいは時間帯を変えて大人のためのフィクションとすれば叱られにくかったのだろうが、それではもはや大河ではない。大河だからこそ、あの予算がおりた。大河だからこそ、大河ではない領域まで踏み込むことができた。武士の分際で四位と三位の敷居を越えたようなものだ。型破りな男を描こうとしたら、作品自体が型破りになってしまった……とオチがついてどうする。

ここんとこ「ふつうに面白い」のは、半年のタイムラグが消化され、自分史をさかのぼりきった清盛と一緒に制作陣も憑き物が落ちたからで、やっとテンポよく政治の話をする気になったからだ。「現代へ戻った」とはよく言うが、これは逆に「平安に戻った」のである。

だから、これから楽しく観ることができると思う。素材はまぁ、陰謀とクーデターと大仏炎上と蜂起と熱病と滅亡だけど^^; 「昔そういうことがあった」という伝記・戦記ものとして、落ち着いて観られる作品になる……と思う。
2012/09/20

視聴率1割は「国民の1割が観ている」じゃないのだ。

「その時間にモニター機器につないだテレビの中で、稼働していたもののうち、そのチャンネルに合っていたものが1割」だ。

モニター登録してあってもその時間には全く観ない人もいるし、面白いからチャンネルを合わせているとも限らない。

「あまり静かだと寂しいから」とか、逆に
「うるさ過ぎなくていいから」とか、単に
「お皿を洗うあいだ子供の気をそらしておきたいから」ってことは充分にあり得る。

怒鳴り声が目立つドラマは「赤ちゃんが(病人が)起きちゃうから」という理由で敬遠されることだって考えられる。

逆に考えれば、「怒鳴ろうが、多少エロかろうが、史実をこっぴどく無視しようが、続きが気になると思って見ている人が(モニターの中にも)1割はいる」ってことだ。

むしろ御の字なのでは。
2012/09/19

【清盛】怒声は特撮じゃないので暴力のナマ撮り。

前半を再視聴した。怒鳴り声が耳につく。全体の主張は、こんな感じ↓

「震災とその報道でこころ傷ついた日本全国のお茶の間へ、国営放送の威信をかけて、
激しい差別とヘイト・スピーチと児童虐待女性の顔面殴打と惨殺、強姦を実況生中継ふうにお送りいたします! 
仁義なき平安ワイドショー! これを見て元気になってください♪」

……無茶いうな。

昼メロとワイドショーはなぜ昼にやるかっていうと学童が学校へ行っていて、いないからだ(´・ω・`)

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2012/09/18

『平清盛』第36回が面白かったわけ。

……と、他が面白くなかったわけ。

『五十の宴』のあまりのグダグダっぷりに脚本家がひそかに交替したってこともないと思うけど、
ここのところ「比叡山の強訴」で素材が一貫していたわけである。三回くらい通して見てきたら面白い展開だった、溜飲の下がる形で決着がついた、というわけである。

強訴の責任者である明雲と清盛が剃髪をきっかけに和解し、視聴者に「なんだ、明雲てしゃれたところがあるな」「清盛と気が合うみたい」と思わせ、好感度を上げておいたのは大きい。

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2012/09/18

『平清盛』第36回「巨人の影」

はじめてふつうに面白いと思った。

夜になってオンデマンドにキタ━(゚∀゚)━!とキャッキャしました。意外なほど楽しみにしていたらしいです。文句いう奴ほど見ているものです。って、ちょっと。

アバンタイトルにCGが!!

今更どうした。
そして「我ら。……平家の都をな!」途中でセリフが終わったかと思うような喋り方が治らなかったなこの俳優は(すでに過去形)

ところで今のいま気づいたけどオープニングで宋剣をもって舞ってる髪の短い男の子、だれ?(7歳の清盛はポニテだったよね)

撮影:細野和彦、演出:中島由貴。「絵はきれいだけど呼吸がまったりめ?」という若干の不安を覚えつつ。実況風に参ります。

……遮那王がテレポートした!! (ツッコミ無用)

弁慶との出会いに期待する前に鞍馬天狗との出会いと別れに期待したい気がしてきました。牛若たもとにすがり給えば♪ 八艘飛びも若干しょぼいCGで対応してくれるのかな……

「せんそうくよう」は漢字で字幕表示してくれるといいな、と思いました。もはや歴女しかターゲットにしていないのだろうか。
そして「赤衣の坊さんが二人」は見分け的にどうなのか(´・ω・`) もはや視力に問題のない若者しかターゲットにしていないのだろうか。

明雲さんは打ち解けてみると良い笑顔をみせる人のようですな。(こういうとこで俳優さんの持ち味が出る)
ところで何でしょうか、この西洋の教会音楽のようなコーラスは。政治的駆け引きセリフに音楽がかぶっちゃってよく聞こえないという事態が頻繁にありましたが、このドラマ。眠くなって正解? 
そしてあくまで海は見せない大輪田の泊。完成したあかつきには……ないな、多分。

弟? と思ったら、成親卿が説明してくれました。灯籠が美しい。清盛は「白河院の血筋だからタダ者じゃない」ってことはほとんど言及されませんね。

「いんごうせんげ」「いんのつかさ」も字幕があったほうがいいかも。もはや歴女(以下略)
滋子ちゃんは置き眉とアイラインが似合っておらず「わたくしのターン」という迫力を出してますが怖いです。盃でかすぎ(一応つっこんでおく)
だから他人の耳があるところで内緒話するな時忠。

背景美術がやたらリアルなのに脚本が「いったん場所を変えて話す」という普通のリアリティを端折るので、軍議の途中で家庭の問題・儀式の途中で家庭の問題、など(話題じたいは間違ってないのに)ツッコミしがいのあり過ぎる展開という回が多かったのさ、このドラマ。

ところで宗盛さんは近代の軍服を着ると似合う顔ではないかと思いました。藤田巌さんなど戦時中の俳優さん・戦後まもなくの東映ニューフェイスなど連想させるお顔立ちだと思います。
兎丸の「エイジング」もいい感じですな。

伊豆へくると「ぼーぼー・ぼっぼー」とキジバトが鳴いているのが親近感わきます。
改めて思ったけど北条親子、似てる! 目が!(笑)

「親父がただごとではない様子の親子の内緒話」という緊張感ただようべき場面に音楽がかぶさってしまうのは何故なのか。実は大したセリフを言っていないとでもいいたいのか。環境ビデオ的にまったりと眺めてもらうことを意図しているのか。音楽PV的なものを想定しているのか。オープニングのピアノ曲(by舘野泉)から引き続き、まったりと気だるく鑑賞する雰囲気を維持したい感じはわかるんだけども。そういうところも「女性向け」なのかなァ……

「そして事件は起こった」の切り替えはいい感じでしたな。「今日はちょっと違うぞ」と思わせました。伊豆の病人が都のナレーションって変なんだけどまぁいいや。

やっと「政治やってます」という場面が! そして強訴チームお久しぶり(*´∀`*) がんばってね。
やっと「院の御所と帝の内裏は別の建物」ということがはっきり表されたような気がする。
「ようしゅといえどもさんだいするはこーれーなり」を字幕なしで理解するのもややキツイですな。
「幼いとはいっても天皇陛下であらせられるのであるから、ご挨拶もうし上げるべきと存じます」(長)

「字幕あり推奨」? それとももはや数字を捨ててかかっている

そして明らかに清盛がいないほうが政治の話が分かりやすく、テンポがよく、面白い件(´・ω・`) 清盛と後白河院の「すごろく勝負」系情念あふれ過ぎセリフのやりとりがどんだけ話をややこしくしていたことか。

そしてその法王様もセリフを息継ぎしないで喋れない件……

あっ! 宗盛さまの軍装やっぱり素敵!! 棟梁っぽい!(言うな)
……ちょっと今まで使われていなかった音楽が使われていて、面白いです。鳴りすぎなのはそういうわけでいつものことだからまぁいいや。
清盛がすっかりお利口さんになって、目頭をおさえたい気分です。何度思い返しても彼がとつぜん頭がよくなった経緯は分からない。

ともかく清盛の人間性がやっと利いてきており、「清盛ならこのくらいのことは抜け抜けと言ってのける」「重盛には言えない」の対比がよろしかったです。
重盛は父ちゃんの頭越しに要らんこと言ったりなど微妙に悪役っぽいような、小物っぽいような感じを常にかもしておりましたが、やっとその持ち味がうまく生きたというのでしょう。(重盛本人的には美味い成り行きじゃないんだけど、ドラマの中で俳優の個性が生きたという意味)

前回を受けて、頼盛が自分と似たむずかしい立場の甥っ子をほぼ無表情ながら「分かる!」というように見ていたのが印象的でした。やはり西島隆弘さん上手いです。髭は似合ってないけど。

細川カメラはブレずにじっくりした接写が見やすく、かつ表情をよくとらえていました。照明も暗すぎなくて見やすかったです。(むしろ後白河夫妻の寝室シーンなど明るかったですね)

崇徳院を演じた井深新氏のインタビューによると、中島氏は(絵を自分の思い通りに割っていくよりは)役者の自発的な呼吸を待ってくれる演出家さんだそうで、
『平家納経』でその新院が平家一門+西行渾身の祈りを受けて「もう思い残すことはない」というように成仏なさった回が中島演出。あのお顔はたいへんきれいでした。合掌。

『保元の乱』で戦場の男たちを心配する女たちの顔立ちと表情をきれいにとらえたのも中島演出の回。常盤御前が登場する回にわりと当たってるような気がする……
あの時は、戦闘シーンに女性の場面がはさまるのがアクションに水をさしたけど「暴力(戦争)は憧れるべきものではない」という現代的な主張が感じられて、それもまたよかったです。

今回は経子ちゃんがきれいでした。中島演出は女性の感情を表現するとき、水の音(または雨の音)を使うことが多いですね。

成親卿のいろんな表情も上手かったし、面白かった。最後の怒りと屈辱の表情は非常によかった。西光がいちいち慌てるのも印象的。鹿ヶ谷御一行様いっちょあがり。
藤原コンビも楽しい。九条殿はこの先歴史の本で名前にお目にかかるとちょっと微笑ましい気分になるかもしれない。
ここへ来て文語調のセリフがあるのは、もはや一般向けであることを完全に捨ててますな。
そして九条殿のおっしゃるとおりで、後白河法王のめんどくささがよく分かりました。

どう考えても常にこのテンポであるべきだった。

【まとめ】

確かに「きれいでまったり」でしたが、はじめてふつうに面白いと思いました。

やっと、やっと政治の話ができた!意味不明な情念を語るセリフが無くて本当によかった。 なんで最初からこれができなかったのか(下調べ不足の代わりに余計なことばっか書いてたから)
次週も組紐屋登場など事件つづきで楽しみです。

男性同士の政治の話だけで非常にまとまりが良く、テンポも良かったのは、女性キャラクターが減ったせいも大きいかもしれません。いや「直接関係のないパート」に移ったのが北条さんとこ1回だけだったからか。いや、やっぱ清盛と後白河さんが離れたからだな。

ときどき「前半のセリフだけ(さっぱりしたものに録り直して)差し替えちゃどうだ」と思います。
2012/09/17

土曜ドラマ『負けて、勝つ』第2回。

鳩山さんに泣かされた。俳優:金田明夫氏は『清盛』では為義の配下:鎌田パパだった人。あっちでも泣かせてくれましたっけね。

男が泣いていいのは仕事をさせてもらえない時。分かってくれる友人が(評判の悪い奴でも)たった一人だけいる時。長回しに耐える演技ができる俳優っていい。ふつうに悔しさ・悲しさを共有できるっていい。

牧野伯(昭和21年には85歳)と幣原総理(当時74歳)にもまたお会いできて嬉しいです。ふつうに歳相応なキャステイングっていい。(加藤剛は今年74歳・中村敦夫は今年72歳)

谷原章介の白洲次郎も板についてきた。少ない人数でよく当時の雰囲気を表し、話をまわしていると思います。
それでも「歴史をある程度知ってる人だけ分かる」という語り口になっており(白洲次郎が公設秘書ではなさそうなのに吉田の側にいる理由・年齢差のある彼らの友好関係のきっかけ等は見ているだけでは分からない)子供向けでも中高生向けでもなく、「数字」としては取れないでしょうが、「当時らしさ」をよく出しているという点で佳作だと思います。

で、今頃気づきましたが全体に画面がセピア調なのですね。美しいです。「外務省」の和な建物と室内の和洋折衷インテリアが目の保養。いずれのシーンも会話中ほとんど無音なのもよろしいです。雨の音がきいていました。渡辺謙がときどきじっと立ち止まっていてからフッと振り返るのは能や居合など日本的な動きを感じさせます。

いつも建物の外観から、それも多くの場合「看板」によって場所を特定するところから入る場面切り替えは非常に分かりやすく、また新聞記事によって状況が確定したことを示すのもベタながら分かりやすく、視聴する者の呼吸としても、次の人間ドラマに入る前に一段落おけるので、楽です。逆にそれによって緩急がつくので、あっという間の1時間13分でした。

「母さんが哀れだ」といった瞬間にバサッと切ったのは見事。冒頭から「男の仕事の陰の女」というテーマできれいにまとまっていましたね。
常に吉田自身が現場へ足を運ぶことから場面が始まり、ほぼ全てが彼の目線から語られること、繰り出される話題が一貫してテーマにそっていることにより、頭に入りやすいのなんの。

(「いろいろ犠牲にしても総理を引き受けるべきかどうか→広田弘毅夫人の不幸な件→川辺にたたずむ小りんの姿に連想が働いてギクリとする→広田を総理にさせたことに責任を感じていることの告白→夫婦愛と絡めて語る」)

お嬢さんが思わせぶりに母親の思い出・小りんさんの入籍を話題に出すのも、つまり総理の椅子をにらんでの発言である、と。お嬢さんも立派だけど脚本も立派(笑)

女性キャラクターは脇固めに徹しており、佇まいが美しいですが、「おとなしく見えて女のほうが腹がくくれている」というテーマも一貫していますね。

もっとも重要な会話である日米の外交折衝が字幕であるのは、聞き逃す心配がないので、視聴のしやすさ・物語の理解しやすさを高めているかもしれません。

中村敦夫氏の落ち着いた英語もいいものでした。昭和天皇は今回も名演。いや本当にあんな感じだったのよ。(平成も24年めだから知らない人も増えたでしょう)玉体を、天皇制の尊厳を守るために自らの命を投げ出し、汚れ役を引き受ける男たち。大河が言いちらかした後始末をしないとね

あ、そうだ。映画『切腹』では主人公の武士が娘の結婚式で「四海波」を謡ってましたが、今回は「高砂や」でしたね。まぁ状況的に「四海波静か」ではないからいいか。
「当時らしい」といえば、煙草の煙も最近ではあまり再現されないところで、よくやったと思いました。喫煙はほどほどに。
2012/09/14

2010年『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』

特撮だーー!!(*´∀`*) 幸せな感じ。

どうもHBO『ROME』のヴォレン役ケヴィン・マクキッドが出ているので借りてみたようです。彼は『トレインスポッティング』がデビュー作でした(気づけ)
初回から難しい役をもらったものです。王立の劇場や大学で演劇を学べるイギリス、いいですね。どうも「女性に弱い」「心が折れやすい」という役が多いようで、今回はそれが良い意味合いだった、と。

新しい作品なのでご覧になったかたも多いでしょう。ネタバレ厳禁でなくてもいいですか。
(といいつつ追記へ)

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2012/09/14

ところで頼盛は面白かった。

『平清盛』第35回「わが都、福原」における平頼盛。

出番が久しぶりだったせいか、俳優さん自身に新鮮な熱意があふれていた。自然な勢いが感じられて良かった。

「そ、そのお姿は!」
「うん。出家した」
「それは見れば分かりますが!」

失笑(*´∀`*) あのテンポの良さはアニメでは出しにくいところ。(声優が一人ずつ順番に収録するからじゃないかだと思う)
「史実の頼盛をどう考えるか」ではなく「西島隆弘としての頼盛」になっちゃっており、それはそれで生きた人物としての説得力があり、可愛い。

「くちうるさく平家を支える」が時忠・重盛とかぶっちゃっており、キャラ設定がパターン化・データベース的なマンガタッチ脚本の弱点かなーとも思うし、だったらいっそ史実を無視して最初から削ればよかったんじゃないかと思わないこともないが、2時間で終わる映画と違うので『グラディエーター』ほど大胆に脚色するわけにいかないとこが大河そのものの弱みなのかもしれない。

今回は頼朝をナレーターに「源平の争乱」を双方の視点から描くという構成をとったが、乱後まで生き延びた頼盛の視点であくまで平家がたから語り、後白河院・頼朝をゲストキャラ的にあつかうのも面白かったんじゃないかという気も今更する。

「人大杉」というクレームも報道されているが、俳優が若いままなせいと、年がら年じゅう六波羅に集まってる(内裏に出仕しろよ)もんだから、全員が「部屋住み」のように感じられる。「一門」のイメージが任侠の「なんとか一家」なのかもしれない。

実際にはそれぞれが自分の邸宅をかまえ、家族と家臣をもち、姻戚の実力を頼りに棟梁との間に・兄弟叔父甥同士で、緊張感をはらんでいた……ってことが伝わってこない。骨肉相食むお家騒動・お互いに決定打を避けるための駆け引きが面白いはずなんだけど、まァややこしいし、描くに難しいのは分かる。(古代ローマものは戦争と暗殺で決着がつくので描きやすいと思う)

これからの展開としては史実上は「平家を支えるはずがこんなことに」という方向なわけで、そのための「フラグ」ではあるわけだけど、なんかまた精神論でむりやり辻褄をあわせる可能性もあり、興味深いような不安なような。

史上の人物としての頼盛は、長年にわたって立ち回りに苦慮した様子が、言っちゃなんだが面白い人で、この人だけを年配の俳優さんの演技でじっくり見たい気もする。

他人が見届けた政治的動きの記録は残ってるが、本人が「今にみてろ」と思っていたのか、「貧乏くじを引いた」と嫁や家来に愚痴っていたのか、「生き延びてやる」と開き直ったタフさが危険な色気を漂わせていたのかは分からない。

ドラマでは「八条院さんちの仕事が忙しいんだもんーー」と涙目だったが、実際なに考えて仕事さぼったのか、立ち回りが下手すぎるのかバカなのか、彼が八条院を露骨に支持して後白河院(建春門院)関係をシカトすれば八条院がたも気まずい思いをするはずで、この時点で対立を表面化させるような行動をとってよかったものかどうか、どう落とし前をつけるつもりだったのか、わかるように描かれていないのはいつものことだから仕方がない。

分かったつもりで人間性を描くのがドラマなんだけど、それをやると頼盛に時間と心的重心がかかり過ぎてしまい、清盛のドラマでも源平のドラマでもなくなっちゃうので肝心のところはぼかしてサッサと次へ参りますってことで北条さんちが映って、あれはあれで楽しいわけだけども。

でもそういうわけで「演技としての頼盛」は可愛らしくまとまっていたので、引き続き楽しみに観ていくことができると思う。口ひげがどうにも似合わないんだけど、意外や力のある俳優さんだと思った。
これからは重盛とのツーショットが増えるのかどうか。海外ドラマなら「(兄弟親戚でも)髪の色が違う」など見分けがつきやすいのだけどねェ。
2012/09/13

『平清盛』第5回「海賊討伐」~軍議しましょう。

急降下爆撃というのは水平に飛行していた機体を45度に傾けて突入するものだけど、搭乗員には90度の真っ逆さまに感じられるのだそうで、最初は怖いなんてものじゃない。それでも日本の航空隊員たちは「今日もやるぞ」と勇み立った。機体の故障で出撃できないときは「無念」と涙をのんだ。
昔「鍛えれば全身バネになる」というCMがあったが、体の小さな日本人でも、いくらでも勇敢になれる。

彼らを支えたのは「敵に背を向けない」という武士道であり、「死す時は同じ日、同じ時」という戦友との誓いだった。

「武士は王家の犬ではない!」

いや、犬だ。世界最強の番犬である皇軍だった。彼らの敢闘精神は今でも感涙を誘い、深い愛惜を呼ぶ。
“武士”“いくさびと”への日本人の思い入れとは、そういうものだ。

第5回では、五位の信西が公卿を怒鳴りつけ、鱸丸が軍議に進言して入れられず、忠正は軍議の腰を折って「どっちの子のほうが可愛いのかハッキリして下さい!」とヒステリーを起こした。

主人公・清盛の中二病はさんざん言われたが、他の多くの主要キャラクターも目上の者に対して無礼で、発言の順番を守らず、当たって砕けろ式で、「自分が納得してから仕事に取りかかりたい」と主張する。

「なんだよ俺はまちがったこと言ってないだろ、みんなの代わりに本当のことを言ってやっただけだろ!」
えなりかずきがラーメン屋の真ん中で口をとがらせて言えば似合ったかもしれない……

女子供の理屈を無礼な態度で言うだけ言わせ、やるだけやらせておいて「下がれ」と対応する自分ツッコミは、この脚本に顕著だ。
「どうせエライ人は皆あたまが悪くて私(若者や女性)の言うことなんて聞いてくれない」という不貞腐れと開き直りが展開されている。

「若い人ウケを狙いました」「今回のテーマは中二病です」というなら百歩ゆずってそれでもいいが、問題は話の腰が折られてしまうことだ。軍議はどうなった?

「姉上の気持ちを思って」男が仕事の話をしないで女の代わりに家庭の話ばかりしている。言うに言えない女心を理解してくれる男が称揚されている。それはそれでいいけど、いま非常時なんだ。決戦前夜なんだ。男たちは辞世の句を読み、妻子に髪と爪をつまんで送り、水杯を交わすべき時なんだ。

清盛なんてバカ小僧の行く末を心配しなくても、この戦で命を落とすかもしれないんだ。忠正としては「背中に気をつけろよ( ̄ー ̄)ニヤリ」で充分なんだ。乱世の法則としては、姉上の子どころか自分の子を棟梁にすることを画策したっていいくらいなんだ。

ところで現場の兵隊を一番うごかしたがらないのは、現場の指揮官である。必ず損害が出ることを知っているから。

平家の軍勢は何万もいない。召集兵による補充はない。「前線をとにかく突っ込ませる」というのは国民皆兵・総力戦の時代の戦法だ。軍装自弁の私兵の時代には、負けを察知した兵の逃亡をもっとも恐れた。士気の低下・分裂は全力で回避しなければならない。情報収集は大胆に、作戦は綿密でなければならない。

ガンバがノロイと戦った時には、ネズミの分際で「空軍」に協力を依頼し、潮流の変化を利用した。潮流の大きな変化が年に一度だけあることにガクシャが気づく過程を盛り上げた。

鱸丸は、あの段階では清盛の召使にすぎないので、彼が思い悩んでいる様子に清盛が気を使ってやり、個人的に忠盛をたずねて「父ちゃん、こいつの話聞いてやってくんない?」と取り持ってやればよい。

忠盛としては「お前はこの辺りの海に詳しいのか、申してみよ」と鱸丸から充分に情報を引き出すべきであり、その上で「誰からとは言わないが、重要な情報をつかんだので、作戦会議を開きたい」と幹部に招集をかければよい。「棟梁はやっぱりすごいな、俺らが知らない間に調べを進めていたのか!」となるだろう。

海賊退治はいかに行われるか? どう考えても明日の天候を読み、潮を測り、変化に応じて狼煙など上げさせ、風を味方につけなければならない。地元の漁師や水軍の協力が必要である。腰に刃物を帯びた者がいきなり訪ねれば相手を身構えさせてしまうから、同じ立場の鱸丸がいいだろう。清盛と二人で(じゃっかん不安だが)交渉に行かせ、手柄を立てさせてやれば忠正も文句を言いにくくなる。それが男親の心づかいってもんだ。

敵も追討吏が都を発した情報をつかんで、とっくに船を隠し、逃亡・潜伏しているかもしれない。国司に協力を仰いで街道・水道の封鎖・捜索が必要だろう。忠盛は「警視庁の手は借りない」という地元警察を頭の良さと男気で納得させる必要がある。

平家の手勢自体はふたつに割って、海流を利用して近づき、遠間から海賊船に火矢を射掛ける部隊・海賊が船を捨てて逃げ出し、海岸に泳ぎ着いたら斬り伏せる部隊など、各自の得意技を活かしてやるのがいいだろう。日の出を期して作戦を開始する。平家と視聴率の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。「Z旗を挙げろ!」

すいません調子に乗りました。

ともかく男の仕事ぶりが一向に描かれないまま船出してしまい、「作戦は成功するのか」「地元の水軍は裏切らないのか」「続きを絶対見なきゃ」という期待値が上がってないのである。第6回も、つぎ込んだのは制作費だけで、作戦遂行に頭脳が注がれていない。忠盛の前線指揮ぶりは全くふるわない。相手が大きすぎることが分かったんだから一度引け。「寄せて乗り移る」という今までの戦法は無理だ。高所から狙い撃ちでは蜂の巣っていうかハリネズミだ。情報収集が足りなかったことを悔やめ……

元々20%はかたいとされていた「数字」を『江』が下げた。なんだかんだ言って『清盛』は、第4回まではその『江』の年間平均視聴率17%代を維持した。この第5回で16%に下がり、以後この水準までも回復しない。『江』は女の話ばかりして退屈されたが、清盛では男が女の代わりになって家庭の話ばかりしている。

なおこの第5回では鳥羽院がナリコちゃんを押し倒した。その瞬間にチャンネルを変えた人が大勢いる可能性もなくはない。

第1話から「天皇家のベッドシーン」が描かれたので、「もはや日曜8時といえどもファミリーで見る時代ではない」「子供への配慮は必要ない」と見切ったことは確実だが、性的描写が苦手な人は他にもいるわけで、かつて紅白では「裸に見える」衣装を採用して歌手生命を縮めた出演者がいた。NHKの監督責任も取り沙汰されたものだ。

それでも「海賊退治はどうなったかな」と思えば戻ってくるだろう。民放には必ずCMが入るから、その間にチャンネルを替えてみるのが、むしろ普通だ。そのとき緊張感のある作戦会議が披露されていれば思わず見入ってしまうってものだ……

『負けて、勝つ』『トレインスポッティング』に共通なのは、女性が神々しく、愛らしく描かれていることだ。とうぜん、(異性愛)男性目線である。もちろん『清盛』では女性の自己主張がもっと激しい上に、男性が女性のきもちを慮って発言する機会が多い。賀茂川の氾濫の被害を確認しに走りだす宗盛は、レスキュー隊の指揮官だ。いくら自分の姉ちゃんが好きでも仕事の邪魔すんな時忠。

ごく簡単にいうと、男性は自分が実際には参加できない・しにくい政治や戦争・犯罪社会の実情・凶悪犯逮捕などの内幕をのぞくことを好み、女性は自分にも理解できる家庭の問題を男性も理解してくれることを望むってところだろうか。

翻訳小説だと、いったん文法的に正しく直訳したものを意訳し直す、という手法があるが、男女共同脚本を慣れた人が編集するなどというのがいいのかもしれない。
2012/09/12

1996年『トレインスポッティング』

ヘロイン中毒の青年たちの、どーもならん青春。良い子とお食事中の方は見ちゃいけません^^;
スコットランドも大変みたい。1980年代後半をイメージしており、主人公たちが遊ぶディスコ(って今いいませんな)で流れる曲が懐かしい感じです。

どうも『フルモンティ』からロバート・カーライルつながりで借りたようです。一見地味なんだけど、一度観たら忘れない俳優さんのような気がします。どうも見覚えがある……と思っていたら、今回調べ直したところ『司祭』の恋人役でした。あの時はパンクっぽい短髪だった気がする。ちょっと不良っぽいというのか、危険な色気のある感じでしたね。今回は「感じ」じゃなくて本当に危険な人でした^^; 『フルモンティ』ではいいお父さん役でしたが、いつ出てきてもタダモノには見えない、起爆力を秘めた人だと思います。

で、映画そのもの。面白かった!といっていいでしょう。1時間33分ほどの短め作品ですが、すごい密度でした。
タイトルは欧州の「鉄ちゃん」を意味するらしく、電車の車両を確かめたくて駅のホームを行ったり来たりする趣味を指すそうです(ウィキペさん『鉄道ファン』の項)
そこから「うろうろする」「行ったり戻ったりする」を意味させてあるらしいです。

『時計じかけのオレンジ』がまったり見えるほどのハイテンション。一般的には不愉快・不道徳というべきエピソードばかりなんだけど、場面切り替えの早さとアイディア満載の映像で引きずり込むように見せます。クラシック音楽のイメージダウンは『時計』と同じ手法ですな^^;

でも『時計じかけ』とは主人公の「醒めている」方向が違い、暴力が外へ向かわず、内向的・ダウナー系で、景気のよくないスコットランドで「まじめに働く」などといってもどうにもならない寂しさ・人柄の根の素直さをにじませており、「気持ちは分かる」みたいな、ちょっと切ない感じ。

主演ユアン・マクレガーもその友人たちも「ドキュメンタリーじゃないのか」と思うほどリアル感にあふれています。若い彼らが007に詳しいのは、エディンバラ出身のショーン・コネリーがいま(当時)なお郷土出身のスターだから。映画と大衆音楽へのうんちくが披露されるのは青春ものの作法みたいなもんだけど、それしか話題がない感じも身につまされます。

DVD特典のインタビューでは若い俳優たちの素顔が見られました。顔色悪すぎメイクでラリっちゃった役を熱演していた彼らは繊細で理知的、胸にせまりました。頭のいい俳優に難しい役をやらせる、イギリス流かなぁなど。

そして主人公がのっけからよく喋る。これもイギリス流ですね。英語がわかる人が見る前提。(アメリカ映画も白黒時代は長いナレーションから始まったんだけど)「誰に向かって喋っとるのか」とツッコミたいこの感じが、実は虚構性を高めるのですな。場面切り替えの早さを補ってもいるし。(清盛のナレも同じ手法なので、語りそのものがもう少し上手かったらねぇ)

こういう「集まっちゃ馬鹿やってる」という花火のような青春群像は、それ自体は「山なしオチなし意味なし」でもあるわけで、「ストーリー的にどう落とし前をつけるのか」と心配になり、不愉快な話題でも逆に見てしまうのですが、やっぱりというか途中から流れのある物語になりました。でなきゃ90分もちませんわな。

ベグビーを演じたカーライルはこのとき35歳、主人公レントンのユアン・マクレガーはちょうど10歳年下。ベグビーはつまり社会への不満ゆえの暴力がもっと外向きだった60年代~70年代を知っている人なわけで、集まってラリるだけの若者たちよりトガッてる・粋がってるけど、それだけ今もって社会で居場所が実はないわけで、苛立ってると。「不良」の定義も変わったというか、若者たちが賢くなったゆえの救われがたさというか、時代の違いが感じられて興味深かったです。

「悪」を主人公ではなくベグビーに背負わせたので最終的には明るい方向で収まりがつきます。ややシニカルながら「やっぱりそれがいいよ」って言いたくなりますね。

題材上、注射シーンが繰り返し映されます。時期的にエイズを生々しく話題にしています。そのあたりが「ぜったい無理」でなければ、『時計じかけ』以来の破滅的な青春描写の到達点・映像上の工夫の面白さという点で、見ておくと参考になる作品だと思います。
2012/09/11

『平清盛』第35回「わが都、福原」

清盛が長ゼリフ喋った!(・∀・)

清盛が『フラッシュ・ゴードン』の悪役みたいだ!
清盛が頼盛に「一門に迷惑かけるな」って説教しとる!(まんまと大爆笑)
清盛が自分で大工仕事してるのが似合ってる!

※ 出家したら髭も落としましょう。
※ 家を出る際は家族に了解をとりましょう。

二位の尼は意外や色っぽかったです。

渡辺演出らしい緊張感と、セットをよく心得た構図、比較的すばやく小粋な切り替え、ジャジーな音楽で大人の色気も漂い、よろしかったのではないかと思います。
頼盛に使われた「止め絵」と暗転は今まで見たことがなかったのでビックリ。引き続き使って下さい。

剃髪の儀式をじっくり拝見できたのは、なかなかに眼福でした。剃刀にドキッとした。刃物をかつての敵に任せるということは皮肉でもあり和解でもあるわけですね。

眉毛さかだつ明雲が「二十年前の呪詛」と抜け抜けというのは微笑ましかったです。今回の清盛は、その二十年の経過を感じさせないこともなかった。怒鳴らないし、やたらニヤニヤしないで静かな含み笑いで低頭したのは印象的。熱病とあの世の入り口で父に会ってきた芝居から、俳優自身が一皮むけた気分になってるのかもしれません。

たぶん松ケンは脚本の要求する雰囲気にストーンと入っていける人なのでしょう。バカを要求されればバカになりきれるのでしょう。最近は五十男に見せるために口角を下げているのがややあざといようでもありますが、色気も説得力もないことはないです。
声が軽いのだけはメイクではごまかせない。「L」ならボソボソ喋るのがオタクっぽくて効果的でしたが、もう少し深みが出るように謡曲でも習ってくるといいと思う。

明雲を六波羅に迎えて会話していた間、外に吊るした幕が風に揺れていたのが印象的でした。清盛が一門に語りかける場面では、お庭中央の石組みの滝がきれいに映ってました。座ってしゃべってるだけのさもないシーンにアクセントをつけていたと思います。造っておいて良かったですね。大輪田の海を映さないのは「視聴者に自由に想像してもらうため」としておきましょう。音戸の瀬戸はもう削っちゃったのかーー

清盛の顔色が悪いのはメイクですね。そこはかとなくやつれた色気もあり、年寄りらしさを上手く演じていたと思います。頼盛との芝居勝負のような回で、お互いに気持ちとセリフを長くやり取りしており、いつになく見応えがあったように思います。

北条がたのコメディとの落差は利いていました(笑) 回想中じっと目の玉が動かないエンケン最高。回想シーンの利用はやや長いかも。
杏ちゃん可愛い。一日が明けたか暮れたか分からない者と一日が終わるのが惜しい者の対比。こういうとこ上手いですな。もののけじゃなくて病人です。以後よろしくお願いします。

置き眉がリアルっぽい八条院、説明セリフお疲れ様でした。わかり易かったです。負けっぱなしの人生だったのですね以仁王。背後の御簾が風に揺れていたのも印象的でした。小技が利いています。

政治的な状況を説明するセリフにBGMがかぶってしまい、よく聞こえない時があるのは残念です。

以仁王は小物っぽさが良く出ていると思います(俳優さんには酷なんだか誉めてるんだか) 宇梶頼政は気に入ってるので扇の芝までやってほしいけど、どうかな。

あいかわらず雅仁さんだけが意味フな理屈をこねまわしておりました。政治的な駆け引きにすぎないものを個人的な情念で説明するのはもう結構ですって感じ。これさえなければ無理なく分かりやすい 予算不足を上手にカバーした 良回だったと思います。惜しむらくは清盛がこれだけ大物っぽくなった経緯(保元の乱と平治の乱の間らへん)にもう少し説得力があったらねぇ……

って、盛国が笑った!Σ(゚д゚lll) なんか怖い。
2012/09/11

NHK土曜ドラマスペシャル『負けて、勝つ』第1回

渡辺謙の吉田茂じゃ観ないわけにいかない。

「日本の男は、顔で笑って心で泣くんだ」

こっちが泣かされっぱなしです。

ふつうに面白いっていい……!
長回しに耐える俳優っていい……!
一番大事なセリフを怒鳴らないというただそれだけの当たり前の演技がいい……!
既成のイメージを保つことと演技力を基準にキャスティングがなされてるっていい……! 

建物の外観から入る場面転換も無理がないし、大ぶりな字幕が表示されるので分かりやすい。モノローグを主人公のそれにして構成を複雑にしない・焦点を絞るのはやはりいい。感情的な場面がクドくなる前にスパーンと切り替える潔さもいい。

(新聞写真を)「見るな……!」の後を(そう言われてまた泣くなどの場面にしないで)短くカットしたのは実に良かった。

話題にふさわしい重い雰囲気なんだけど切り替えが早いので退屈しない。テンポが高まったところでグッと抑え、実力派二人のぶつかり合い・絡み合い。

時々挿入される「赤ん坊時代の回想」という非現実的なイメージショットは、ちょっと気分転換になる。セピア調&荒い質感にしてあって「昔のこと」と分かりやすい上に情緒的でもある。視覚的なアクセントであるとともに、比較的豪華な生活をしている吉田がただの坊ちゃんではなく芯に寂しさを抱えてることが示されて、物語が味わい深い。ドキュメンタリーではなくドラマであることを主張してもいる。

いろいろと当たり前のことをやってるだけのような気もしますけども! 当たり前以上の効果を上げていたと思います。

家庭におけるチャンネル権争奪戦にエントリーしておりませんもので、放映されることさえ知りませんでした。
オンデマンドさんありがとう。

ナリコ様が小りんさんになってました。着物が似合う方で目の保養です。似合いすぎてすっかり粋筋・側室の役にハマっちゃってるんですな。

近衛公は最初から既に冥界の風を漂わせているような雰囲気。能役者ならではでしょう。姿勢の良さが印象的でした。お下品な言葉で高まる男の友情、いいですな。

どの俳優が演じることになっても役作り以前の問題で難しい昭和の陛下のお役を特殊な世界の方に振ったのも納得されます。玉音放送録音時の斜め後ろからの姿勢がよく似ていてドキッとしました。「憎々しいが逆らえないアメリカ人」のイメージをよく表しているデヴィッド・モースの隣で、小さな玉体がノーブルさを漂わせて涙を誘いましたね。

白洲次郎は「気障」のイメージをそのままに、カッコ良かったです。これから大活躍なのでしょう。日本国憲法はあなたにかかってます。

牧野伸顕氏と幣原総理のシルバーな輝きに黄色い歓声を挙げた者はここにいます(ノ´∀`*) 

英語はやっぱりたたみ掛けるように他人を説得することに向いた言語らしくて、マッカーサーと吉田の会話シーンにはいずれも緊張しました。当たり前だけど渡辺さんの自然な英語がすてきでした。

BGMがほとんど無かったのも逆に素晴らしいです。役者の演技で聴かせるから音楽が要らない。音楽で盛り上げる時間を取らないから展開が早くなる。わずかに聴かれるトランペットが効果的で泣かせますな。

要するに『清盛』はマンガ的・ミュージカル調であることを制作陣も役者もよく理解していて、それなりのものを(渾身のパワーで)見せてくれているわけで、それはそれでいいわけです。今までと路線が違いすぎただけさ。そこを見抜くことができたか、裏番組めじろ押しの日曜8時に冒険するべきだったかという制作裏の「政治」の問題だと思う。

この『負けて、勝つ』も数字を言っちゃうと11%台だそうですから、やっぱり「歴史ドラマだから観る」というモニターさんが、いつもそのくらいいるのでしょう。

「負けた風景」の映しっぷりが素晴らしく、ガレキが賽の河原のように積んであるのへ焦点を合わせて人物をぼかすとか、泣き伏す兵士の姿に音声を入れないとか「マッカーサー万歳」言った後で「守るも攻めるも黒鉄の浮かべる城ぞ頼みなる」(号泣)いろいろと小技がきいてましたな。遠景は……そう、CGでいいんだよね。

精神的・内容的なテーマとして印象的だったのは「女のほうが負けッぷりが良い」「日本人は勤勉だが責任者がいない」という指摘でしょう。
「戦争に負けるということは、女性が犯されるということですよ」米軍向けの慰安婦を政府が組織したことに冒頭で言及したのは大した度胸だったと思います。(プロの女性がみんな断ったというほど過酷なおつとめだったらしいのよ)

その辛さを胸に秘め、男たちは何もない焼け野原を前に顔で笑うのだ。「耐え難きを……耐え」

次回期待。
2012/09/11

【清盛語り】家庭の理屈を政治の場に持ち込んだから変なの。

「数字」は出し方に問題があるので世間の反応を把握しきっていない、勿体ない……と思っている。
でも「他の作品は観た人」が「今回は観ていない」ことは確実。観なくなった人は「今日も観ませんでした」とはわざわざ言わないので、観たうえで「個人的にここがおかしいと思う(だから他の人も観ないんじゃないかな)」と推測することになる。

で、そのおかしいところ。

どんな時代でも一般に刃物を携行している人間を挑発してはいけない。
殴り方を知っている人間をわざと怒らせてはならない。

武闘派集団が政治の中枢にくいこんだとはどういうことか?
現代なら暴力団が永田町に住みついた、と思えばいい。誰が彼らをわざと怒らせようとするのか。

「あんまりいい気にならないでよね、ぜんぶ私の計画したことなんですからね、あなたなんて私がいなきゃ何もできないのよ!」という言葉責めは、腕力にとぼしい女の理屈だが、その返礼はその場でグーパンチということがあり得る。

「なによ暴力を振るうの!?」と粋がって、「そうだ!!」と言い返されたら後がない。警察に訴えるわけにも軍隊に保護を願うわけにもいかない。
平安末期のあの時代、平家こそが警察であり軍隊であったからだ。

武士とは、礼儀もしきたりも知らないにまみれた暴力集団とされ、だからこそ馬鹿にされ、だからこそ恐れられた。教養のない民衆は知らなくても、貴族は「安禄山の乱」というものがあったことを知っている。本朝には将門の乱があった。まさに平家の武士だ。武力をもつ者はきっと牙をむく。彼らに逆らったらころされる。だからこそ悔しくても高い位を与えて懐柔しなければならない。作中の貴族たちには、この恐怖感が共有されていない。

家盛も清盛も、やせても枯れてもイケメンでも手ごめにされても中二病でも武士は武士だ。弓馬を操り、日頃から肉体を鍛えている者だ。武器がなくても「そこまで愚弄するか!」と瞬間沸騰したら、頭突き一発で頼長も雅仁もふっとぶだろう。
自分の鼻血の色を見て「なんじゃこりゃぁ!」と叫ぶがいい。

「余に逆らうか!謀反じゃ!」と嵩にかけて「そうじゃ!」と言い返されたら後がない。六波羅を出立した武装集団が御所へ火を掛けたら終わりだ。とくに平治の乱で源氏が一掃されたから、その後は「平家から麿を守ってくりゃれ」と言える相手がいない。

世界は壊れかけていた。貴族が武士をつかって他の貴族を襲わせ、上皇が武士をつかって政権奪取をもくろむ。それが負ければ上皇といえども流罪にされる。権威が権威でなくなり、尊敬は得られず、しきたりは無視され、暴力が支配する。平治の乱を生き延びた者は近衛大将が武士に制裁される姿を見た。近衛大将というと内裏の武官の長のはずだが、そんな肩書きにはもはや意味がない。実際にヤッパを握っている者が勝つ……

白河院は「院政」という非合法の手段で権力をふるうために正盛と手を組んだ。正盛は私腹を肥やすことを多目に見てもらうために、ぶっちゃけ賄賂を使った。彼らの利害が一致していたために武士の中でも平家だけが出世させてもらえた、その後始末に苦労させられた、というのが白河院なき後の貴族社会だ。
清盛がその落胤で、それが平家の武力と財力を後ろ盾にしているなら、まさに「白河院-平家」連合の象徴なわけで、「もののけの血」が鵺の雲のように世界を覆っていることを最も感じていたのは貴族たちだ。切歯扼腕という思いだったろう。

ところで、反撃を心配せず「みんな私の思った通り」とネタばらしできる者は誰か?「一本とられたな。お前にはかなわないよ」と夫に言ってもらえる妻であり、「先生にはかないません。これからもよろしくお願いいたします」と言ってもらえる権威者である。

すなわち、愛される女の理屈であり、自分の権威を疑わない者の理屈である。

主人公(と親友)に革命の夢を語らせながら、脚本自体がそれが実現することを信じていない。平家にその力があることを顧慮していない。頼長も雅仁も「自分に逆らう者がいるはずがない」という思い込みに立脚してしまっている。

見た目の刺激のわりに、言葉責めとは実は相手が逆らわないことを前提とした、静的な遊戯である。porn 作品は多くのばあい、性指向にかかわらず、被害者が調教者に惚れてしまうことになっており、逃げ出して調教者を訴えたり、人権運動を展開したり、軍勢を率いて攻め滅ぼしたりしない。

一般作品でそれが行われないのはなぜか?相手の復讐心を引き出してしまうことが分かっているので、頭のいい悪役は実行しないからだ。また、復讐心が引き出されるのでなければ、描かれた意味がない。

物語がそれを契機に展開しない・調教者が責任をとらされる心配がない、静的なユートピアで行われる遊戯、それが言葉責めだ。静的なユートピアとはどこか? 欠けたることもなき望月の世だ。

時子の嫁入り道具に源氏物語をもたせた脚本には、つまり道長の時代への憧れがあり、「平安時代萌え~~」があり、動乱期の社会と人心の動揺を描けていない。

「武士の時代」「戦国時代の先駆け」の緊張感、清盛がもたらした貨幣経済によって荘園の経済価値が崩れ去り、貴族が信じていた世界が足元から揺らぎ、彼らが恐れおののいて現実逃避的な浄土信仰と呪詛に走った時代、世界が大きく動こうとするダイナミックな雰囲気……そういうものが無くて、常にまったりしている。

「責任をとらされる心配をしない」というのは他のキャラクターにも共通で、忠正はよく動議を発するが、忠盛から「お前さァ、もう宇治から出てこなくていいわ。お前がいると、まとまる軍議もまとまらない。跡取りの話とか後でよくね?」と言われる可能性を顧慮していない。

彼の理屈は「みんなの気持ちを代弁している」というもので、重盛が二条帝に忠告した時と同じだ。「なによ、私は間違ったこと言ってませんからね! お父さんの代わりに言ってあげただけでしょ!」

それによって自分こそ廃嫡される危険を感じていない。「切腹覚悟で申し上げる」というならいいが、彼らはそうじゃない。「お父さんが私を本気で離婚・勘当するわけがない」と信じている女子供の理屈である。

男たちが改革に及び腰なのはなぜか? 責任をとらされちゃうからである。女たちが大胆な発言をできるのはなぜか? 愛されている自信があるからだ。

男たちは、自分なんかいつでもクビを切られてしまう恐れを感じている。替え玉なんか誰でもいい。後釜を狙う者は常にいる。「外の世界」とはそういうものだ。かけがえのない妻子として、めったなことで本当に追い出されはしない家庭とは理屈がちがう……

だから北条政子や篤姫が「女にも守るものがあります」と粋がってみせる・男に意見するのはいいんだけど、女の理屈で男キャラクターが動いちゃうと変なのだ。一般視聴者ってシンプルなもので、「今そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」という場面が続けば疲れてしまう。

喜ぶのは「言葉責め キタ━(゚∀゚)━!」と感じることができるマニアだけであり、その人数が6000万円の制作費に見合うのか、って話になる。

つまり「責任をとる心配をしない」のはNHKそのものの姿勢でもある。制作陣にはあの脚本が違和感なく受け入れられたのだろう。
2012/09/10

「院にご報告に参ります。」

ふと思い出したから書いておく。ドラマ清盛の第1話。

都大路で正盛の一行が藤原忠実の車と行き会い、「すりゃ盗賊の血か」と嫌味を言われる。そんな格好で都を歩くな、と言われる。

俺のいうことをきけ、都の美観を守る責任者は俺だ、院の命令だからって威張ってんじゃねーよ……

忠実はそういうことを言いたい。視聴者としては、どうやらこの化粧した男は悪役だが、彼とは別に「イン」という権力者がいて、それが武士に命令を出しているらしい、とここまでは実はナレーションなしでも読み取れる。たぶん、カメラはここから正盛一行とともに実際に院御所へつっこむべきだったのである。

都をつっきって、天皇のいる内裏へ入るかと思うと入らず、「あれ?」と思わせつつ賀茂川を渡り、対岸の白河へ。道中、貧しい身なりの子供や道端に寝そべる病人の姿など(これ見よがしに)映すのは『大仏開眼』と同じ。

白河院の御所へ着くと、中へは上げてもらえず、庭にひざまづく。それを迎える年配の坊さんは、家来らしき烏帽子の人から(聞こえよがしに)「白河院さま、平正盛が到着してございます」とか言われる。視聴者には「こいつが院か」と知れるが、そいつは 聖子 祇園女御と舞子、女を二人もはべらせて双六をしており、正盛たちをろくに見もしない。

なんだこいつ、人に命がけで働かせて自分は遊んでるのか、こういう悪いヤツが威張ってるから都があんなふうなんだよ、こういうのを倒してくれるヒーローが早く出てこないかな……

その後、舞子が逃げてきて、忠盛の足元で顔を上げると、「あれ、これ院と遊んでた女性じゃない? 追い出されたのかな?」

いいんだ、こういうところはベタで。わざわざ「王家の犬」なんて誰がいったのか記録にあるのかよく分からないフレーズをゴリ押ししなくても、大事にされてないことは見りゃ分かる。一度見た顔がまた出てくるから覚えやすく、共感も湧きやすい……というふうでいいんだ。

大河を見るのは年寄りとはよく言われるが、今の年寄りとは『西部戦線異状なし』からこっち、さんざん戦争映画や西部劇を見てきた人たちでもあり、ファーストシーンがほこりっぽく汚い前線であるのは耐え難いほどでもないし、異常でもない。

ただし『必殺』シリーズであった話らしいんだけど、「人目につかない集合場所で『仕事』の相談をし、その後、(テンポをよくするために)ターゲットである代官などの屋敷へ移動する描写を省いて、「いくぞ」といった次のカットでいきなり「ガラッ」と襖を開けて『仕事』を果たしたら、視聴者から『仕事人たちは代官の屋敷に集まって仕事の相談をしていたんですか?』という質問がきた」

それからは秀さんなどが夜の江戸の街を走ったり、屋根を渡ったりする描写を欠かさないことにした……

「場所の移動」が急激すぎると、ついていけない。場面があちらこちら飛ぶことに弱い。だから子供向け・ファミリー向けのアニメ『ワンピース』『コナン』『ドラえもん』『サザエさん』いずれも自分の足で走る場面、トコトコと靴音を響かせて歩く場面がかなり多い。『ちびまる子ちゃん』では家の外観がよく映る。「もう着いている」「話が始まっている」という最近の洋画・海外ドラマに多いテンポの早さは、ついていける人といけない人がいる。

頼朝が身内を叱って清盛をほめるという斬新な解釈をいきなり示して面食らわせ、清盛の海賊(?)時代と逃げる舞子のイメージショットを短くつなぎ、宮中の華やかさを見せる前に盗賊退治の暗さを印象づける。話のつながりを理解するための集中力・緊張感を強いる語り口は、面白そうだとは思わせた。現代的だとも思わせた。それにしても刺激の高さ(と視聴率)を誇ったstarz『スパルタカス』だって、ローマとトラキアとゲタイで民族対立がある様子・軍隊内部での人間関係・嫁さんとの別れなど、もう少しベタにやってた。

それでついて来れない人はついて来なくていいと思ってやったことであれば、やはり数字でオタオタするべきではない。
2012/09/10

女性脚本家特有の味わいを受け入れるかって話。

6時間前のトレンドなんて「つわものどもが夢のあと」という雰囲気を漂わせる twitter の世界ではもう随分前のことになるけど、ある女性が「やおいは関係性萌え。キャラクターはいくらでも美化できる」といったのへ対して、オープンリー・ゲイの男性作家が「僕らは美化ってことしませんね」と答えていたのが面白かった。

しみじみ考えた。
gay は「男こそ至高」と思って描くんだから、それ以上の美化が必要ないのは当たり前だ。でも男性的な美化ってこともあるはずだ。

長興寺に伝わる織田信長の有名な肖像画は、色白で細面、眉も細いが、ゲームやアニメに登場する信長はミスター・ユニヴァースがモデルになったみたいに筋骨たくましい。眉も太い。顎も張ってる。ああいうのは男性的な美化のはずだ。

でもこの作家がいってるのは、そういうことじゃない。女性からのメンションに対して「君らと僕らは違います」と釘をさしている。あえてはぐらかしている。「君らのようなことはしない」と言っている。つまり、男は男らしいまま描くってことだ。女性化しないってことだ。奇妙に若々しく、まつげが長く、手足はほっそりと。感受性が強く、細かく気を回し、よく涙ぐみ、すぐ真っ赤になる。そのように女性性を加味して男性を描くことを、僕らはしないってことだ。

『天地人』あたりから、大河ドラマの脚本を女性が担当し、それへ批判が出る、ということが繰り返されているような気がする。

萩尾望都氏がフランス人の記者に「なぜ日本には少女マンガと少年マンガの区別があるんですか?」と質問されて、「なぜそんな当たり前のことをきくのか」と不思議に思ったそうだ。彼我の違いが興味深い。
萩尾氏は「女性と男性では興味をもつテーマが違うから区別があるのは当たり前」と考えた。そうおっしゃるご本人の作品こそ男女の別なく読まれているのはご愛嬌。

「少年マンガとして、それだけを描き、少年誌に発表し続ける女性」は少ない。非常に有名な人が数人いるが、「女性のための女性マンガ家」と同程度に多くはない。男性作家の絵柄が少女マンガに近づいている(描線が細く、キャラクターの目が大きく、足が長すぎるなど、かつて少女マンガの特徴として冷笑的に言われた要素が男性作品に取り入れられている)ので、絵柄の隔たりは少なくなったが、逆に「女性の描く絵が非常に男性的である(さいとう・たかをや武論尊みたいである)ってことは、あんまりない。

女性が自ら少年の一員として血沸き肉踊るアクション漫画を次々と描いていけるものであれば、女性の少年マンガ家はもっと多いだろう。(業界の構造上の問題というのもあるかもしれないけど)

女性が少年(青年)を描くとき、多くの場合、埋没的に・自己賛美的に描いていくよりは、女性としての立ち位置が反映され、価値観・理想が男性キャラクターに加味される。

「あの挑戦者、気に入らねェ! たたきのめす」vs.「あのチャンピオン気に入らねェ! いつか引きずり降ろす」
そしてそれぞれが山に籠もる。そのためには女性も泣かせる。
そういう古典的な男性像が、「しょうがないわね」「可愛いもんよ」という女性の目線から表現される。ときに冷笑的になり、ときに過剰な思い入れが発生する。

寄ると触るとドツキ合い、「やることがいちいち仰々しく、大騒ぎし、クヨクヨと悩む」

『清盛』の藤本さんは、まァ作風からいって女性だ。清盛と義朝の熱くぶつかり合う友情を面白いもの・鑑賞の対象として提示している。彼ら同士の敵愾心は、コメディまたはギャグの内であって、清盛が親子関係に悩むほどには、胸をえぐるようなタッチでは描かれていない。「そうやっていつまでも遊んでなさい、本当に可愛い男の子たちね」っていう母親のような・姉のような視線。

これが昂じると、見えない矢でファーザー・コンプレックスを解消し、「あの人が階段の先で私を待ってくれている、と私は感じた」とまるで王子様にプロポーズされたシンデレラみたいな理屈を軍議で披露して一族郎党をドン引かせ、熱に浮かされてはあの世のとーちゃんかーちゃんに会ってくる。

そのようにスピリチュアルな世界の存在を信じ、行間を読み合い、言外の駆け引きを理解する男のほうが「賢い」とされている。すぐに「証拠を見せろ」「どっちでもいいから早く決めろ」といきり立つ男は物足りない。所詮したっぱであり、大物にはなれない。私にはちゃーーんと分かってる。そのような女性の価値観が示されている。

(゚Д゚)ハァ?

何いってんの? この脚本こそ意味わかんない。後白河と清盛の会話とか難しすぎる。「白河院の伝言」とか理解不能……

という反応は、それへ対する男性の忌避感・嫌悪感の現れだ。女は腹の中の子との交感を信じ、称揚するが、男性は子宮まで退行することを恐れる。

かつて「男性が描く作品に登場する女性キャラクターは、男性の願望が加味されていて、女性から見ると違和感がある・価値観を押し付けられたようで不愉快だ」という声が挙げられた。いまは男性が同じことを言い返そうとしている。が、「女のくせに脚本を書くな」とはいえない時代なので、歯がゆい思いをしている(だろう)

あえて言えば、BLは「BLです」と宣言した時点で、作者が女性であることを明示し、男性キャラクターが女性の価値観で構成されていることを意識的に提示する分野である、とも言える。

けど、ラブシーンが無ければ、ボーイズ「ラブ」ですと申告する必要はないので、万人向けの小説・脚本として提出されたものでありながら、男性キャラクターの描き方が異様である、という作品は、これからも出現してくるだろう。

もちろん女性が男性を描くにもいろいろある。有吉佐和子は女性との関わりにおける男性の愛らしさ(のみ)を描いた。「男同士でドツキ合ってる姿が可愛いわ」という価値観は、やおい趣味出現以降のものだ(と信じる) 

「やおいは新しい視点の発見である」とは時々言われる。視点の発見というか、その表明である。男同士のケンカを、女がなぜか怖がるのではなくクスクス笑いながら見ている。「女は分からん」とされていたその中身を「だって可愛いんですもの」と言葉で・絵柄で表現するようになった。そう表明しても「生意気だ」「黙れ」などとは言われない。言われる筋合いはない。女には女の価値観がある。そういう主張が1970年代~80年代に現れ、一般化した。女権意識の行きつく先は「男は可愛い」と「女のように(まわりくどく)考えることができる男こそ、女の目から見て評価できる」だ。

『清盛』は、それ自体はやおいでもBLでもないが、それと通底する極端な女性中心意識が生々しく現れてしまった、珍しい脚本だと思う。
制作陣は、それを「(若い女性を食い物にした白河院が代表する)男性社会への強烈なアンチ・テーゼ」というふうに理解し、取り上げて、清盛に女の衣装を着せた。(彼が無頼時代に羽織っていた上着は女物だ。宋銭によるネックレスなども女性性のうちだろう)

それが理解されたかどうかが評価の分かれ目になる。『篤姫』を支えたモニターの半分ほどは『清盛』の世界観を「無理」と判断した。

リドリー・スコットは、強い女性が子供を守り、それを男性が手助けするという形を提示した。男女とも強く優しく、状況をよく理解している。ナレーションは必要ない。

清盛はじゃっかんDV気味な、すぐ怒鳴ったり、「俺の子を産め」とストレートな発言をする男性と、気の強い女性を同時に描き、しかも別人がそれを眺めて「ろくなプロポーズじゃない」などとツッコむ。地の文で表示されるべき作者の価値観が、作中世界に属するキャラクターの発言とされてしまっている。

ストーリー全体を「頼朝の回想」という額縁構造にしてしまったので、キャラクターが一人増えた格好になり、視聴者はまだ生まれてもいない人物の存在を常に念頭に置かなければならない。主人公自身への感情移入は、それによってさまたげられる。

脚本が自分ツッコミするくらいなら、最初から主人公たちをシンプルに・常識的に描けば、ツッコミキャラを減らすことができ、ストーリー全体に締まりが出る。

そこをあえて「やらせておいて、まぜっ返す視点」を導入しているので、複層的で、テーマが錯綜しており、理解しにくい。カッコいい男を描きたいのか、カッコ悪く描きたいのか。ageたいのかsageたいのか。ageておいてsageるという事をわざわざしたいのか。sageておいてクスクス笑いたいのか(これだろう)

脚本の自己満足性が高く、表現(演出)が暴力的であるわりに、内向的である。閉じた世界観ごと受け入れられる人間と「ふつうのドラマじゃない」と判断する人間に分かれる。

男性によってすでに評価の決まっている歴史の、女性による問い直しというよりは、混ぜっ返し。あまりにも生々しくやってしまい、それが数字を得られなかったので、二度と登場しない可能性もある。触発されて似たものが登場する恐れもある。

男には男の価値観、女には女の価値観があり、すり合わせることで共存が可能だ……という方向がいいはずなんだけど、単純にそのふたつを交互に映したら戦闘なのに盛り上がらない回になってしまったのが『保元の乱』、視聴率当時最低。演出は女性だった。違う演出家による神回といわれた前話「前夜の決断」の盛り上がりっぷりから引き続き、爽快なアクションを期待した視聴者も(´・ω・`)こんな感じ。

なお同じ女性演出家による他の回は、やはりというべきか、「男の友情」にひどく思い入れを込めた艶かしい演出が施されている。テンポはゆったりとしており、監督の一存で場面を割っていくというよりは、役者の自発的な息遣いを待ち受ける感じではある。こう男と女の違いが出てしまうのも……長丁場の大河ならではではあり、興味深くはある。

次からどうするか。受け入れるか。また喧々諤々するか。ブログのネタには困らなくていいけど。
2012/09/10

【清盛語り】平均視聴率表を眺めて思い出に耽る。

(第35回を後回しにして)なんだかんだ言いながらよく見たなァという感想。(まるで全て終わったかのように)

印象的なシーンは多かった。あらすじなど読み返すと次々と思い出されてくる。女性たちの顔立ちが美しく、衣装が色鮮やか・質感もふくよかで、目に心地よかった。
男性陣は敵味方とも汚くて見分けにくかった(笑)保元の乱の大鎧は素晴らしかったなァ ・:*:・(*´∀`*)ウットリ・:*:・

音楽は、じつは一週間のあいだ頭から離れない。オープニングのティンパニとホーンが加わって、ややジャジーに盛り上がるあたりが好きだ。作中でよく使われる Funeral march と、チェロの無伴奏っぽい曲も好きだ。前衛っぽくて。タルカスはよくぞ使ったと思う。
たいていのドラマのBGMは「情感をあらわす効果音」の役に徹しているが、この作品では全てが「遊びをせんとや変奏曲」として、あえて耳に残るようにできていた。

残念なのは最初にうっかり革命思想的なことを言わせてしまったことで、作者は若気の至りを愛しんで書いたのかもしれないが、まさか本当に天皇制廃止・農地解放など革命を起こすわけにいかないので、その後は「若い時の志を忘れて血族の出世を自己目的とする俗物になり下がった」という下向きな展開しかあり得ないことになってしまったことだ。

清盛は誰かに讒訴されたとか陰謀に巻き込まれたという様子がない。実際は無理をしない性格だったはずだ。愛想もよかったかもしれない。ケチは嫌われるから、気前は確実によかった。
「たまたま武士としては良い家に生まれて、時代の状況に恵まれ、本人も慎重な性格だったのでそつなく昇進した」と当時の記録に伝わるとおり素直に順を追って描けば、少しずつ出世する様子に共感もしやすかったのかもしれないが、「革命的」の方向性をちょっと間違えた結果の「うっかり海賊王」発言の後が続かないことを思えば、脚本は見切り発車だったと言ってよく、goサインを出すほうにも読みの甘さはあったのだろう。

信西との友情も濃く描いたが、「彼にかわって科挙を実施した」などの実績はないのだから、「義と悪をひっくり返す」(by 兎丸)件は忘れたことにするしかない。(だから「おもしろき世」とは何なのか、どこで回収するのかという疑問・クレームが繰り返し提出される)

主人公本人だけはそのことに抵抗して繰り返し中二病状態に退行し、「おもしろーー」と叫んでいたわけだが、彼だけが北面の中で不潔でいい理由はない。白河院の子だからという理由はかえってまずい。白河院(と平家)への反感を増すからだ。じっさい鳥羽院は忠盛の忠誠を疑っていた。駆け引きだったとしても。

「なぜお前の子は北面のくせに身ぎれいにしないのか。北面の主人である儂を軽んじておるのか。平家は彼を担いで謀反を起こすつもりか」というふうに思われたら非常にまずいし噂が立つだけでもまずい。宮廷はそんな疑心暗鬼のスクツだが、親子して状況を理解していないし脚本(演出)にはその配慮がない。

中二ぎみなのは忠盛も信西も重盛もそうだ。目上の人を怒鳴りつけても反感を買うだけで聞いてもらえるはずがないことを(その時点までの人生で)分かっていない。忠正は軍議の席で跡取りの話を始める。多くのキャラが礼儀知らずで、展開は最初から強引だった。

あげくに「ひたすら出世」することに無理に精神性を付加するために「あの人が私を呼んでいる」とラブソングのようなことを言わせてしまったせいで、一部視聴者の腰が引けた……

個人的には「義経がジンギスカン」という噂もあるくらいだから「海賊王になればなっちゃっても良かったかも」と思っている。時代に先んじすぎた革命に向かって後先かんがえずに走りだした若者たちを描けば、それはそれで爽やかな作品になったかもしれない。マンガ上等。

太宰府を占拠して九州連合を率い、都へ攻めのぼるのだ。追討吏に任じられた忠盛と一の谷あたりで親子タイマン勝負。「後悔はしていない!」

夢想はともかく……

『江』の年間視聴率が17.7%。『清盛』の第1回視聴率が17.3%。
江を観ていた人がそのまま「新番組が始まった」と点けてみた格好。

第2回は松ケン登場で微増。第3回は玉木登場で微減。
忠盛とーちゃんがカッコ良かった第4回「殿上の闇討ち」で微増。

第5回「海賊討伐」で、なぜかストンと16.0%へ下がる。信西が五位の赤い袍で公卿たちにケンカ売った回。たまこっちが超天然ぶりを発揮して鳥羽っちを泣かせた回。どっちも天然じゃいい勝負だと思われた。直後にナリコっちを押し倒して、ファミリー向け廃業宣言。

第6回「西海の海賊王」は、更にスコーンと下がって13.3%。前代未聞の制作費を投じた大海戦スペクタクルを浅田真央にぶつけて惨敗。人気のフィギュアスケートに遠慮して放送日を変えたりなどすれば、その時点で「負け」と言われるのだろうから、せっかく撮った作品が視聴率合戦の捨て駒にされているとも言える。役者の努力も現場スタッフの苦労も気の毒だ。といっても録画で観ている人も大勢いるはずだから、録画率という数字を出せるようになると評価もだいぶ違うだろう。……出してはいけない事情があるのか(怖い考えになってしまった)

第7回はタイトルも面白い「光らない君」野外ロケが爽やかで美しく、初々しい恋愛が描かれ、「犬君が雀の子を」でうまくまとめた回で、一話完結的な洒落っ気があった。ちょっと盛り返して14.4%。ただしここから15%を超えることがなくなる。つまり第5回までで「もういいや」と思ってしまった人が何割かいた、ということだ。

第10回で義清が散ると漸減する。第12回「宿命の再会」で玉木義朝が帰ってきたことはモニターさんにはあまり魅力ではなかったみたいだ。面白かったんだけどなァ。

たまこっちが病に倒れた回で、鳥羽院が「水仙~~」と叫ぶ。義朝は東国武者に動員をかけて春の遅い木曽から水仙をもたらす。義朝カッコいいと思った。清盛かげ薄いと思った。主人公はどっちだと思った。由良姫へのプロポーズの強引さにも萌えた。清盛の「もうお前でよい!」には初めて「可愛い奴だ」と思ったかもしれない。

底を打ったのが第13回「祇園闘乱事件」11.3%。4月1日だった。春の改編期でもあり、裏番組はスペシャルがそろい踏みした。清盛が神輿をまっすぐ射抜いて、その立ち姿は見た目に割とカッコ良かった回だ。本人は相変わらず屁理屈小僧だったが、鳥羽院が「わしを射てみよ」と仁王立ちになり、二人をつなぐ「白河の血」が大きな意味を持ち、清盛の反抗心が初めてストーリーに前向きに生かされた、印象的な回だった。だったのにーー

平均視聴率は毎分0秒時の視聴率の合計を番組の放送時間で割ったものなのだそうで、それが一旦下がってまた上がるということは、「先週は見なかったが今日はどうかな」と思って点けてみる人がいくらかいる、ということだ。それがチャンネルを替えなければ数字は維持される。

このあとまた「13→12→11」ときれいにカウント「ダウン」する。第16回「さらば父上」は要するに回想、第1部のエピローグのようなもんだったから「今日はもういいや」とチャンネルを替えてしまった人が多かったのだろう。

大作『坂の上の雲』の最終回、NHK大阪の傑作で遷都1300年タイアップ企画『大仏開眼』も数字にしてしまうと11%。「歴史が好きだから見る」「この機会に勉強する」などという気持ちで観る歴史ファン・歴史ドラマファンが常にそのくらいいる、と思っていいのじゃないだろうか。だから落ち着くところに落ち着いたのだと思う。数字に現れないところで「伸びしろ」が確実にあるのがこの作品。今まで大河を見なかった人を引きずり込んだ可能性は高い。

今後は賛否両論を引き起こすエロス描写と攻撃的な演出をまたこの枠でやっていいのか、「大人のための時代劇」という枠をつくるのか、考えたらいいと思う。(つくってくれたらついて行く)

今後は……10回程度で源平の合戦をたどるはずだけど……頼朝が心配だ。なにしろ第1話からすると、平家を滅亡させた一族郎党の苦労を「お前たちのおかげだ、よくやった」ってねぎらってやらなきゃいけない場面で「お前らより清盛のほうが先見の明があったんだ! 彼の本当の価値をわかっているのは俺だけだ!」と(いう意味のことを)怒鳴っちゃうBL系ダメ棟梁。第3回アバンタイトルにおける「本当のことだから仕方がない」という開き直りはひどかった。下手すりゃ謀反を起こされる。確かにその後の彼は郎党を根絶やしにする方向へ動くわけだけど、そんな伏線いやだ(´・ω・`)
2012/09/09

白河院周囲の人間関係を見て分からせることができるか。

もう一昔前になるけど、バラエティ番組で「素人家族の自宅に100万円の札束を隠させ、元敏腕刑事が奥さんを尋問して隠し場所を見抜く」というコーナーがあった。(見抜けなければ100万円は素人さんにプレゼント)

つまり目線がチラッと動いた方向には、気になる物がある。隠し場所の近くに刑事が立って、ズバリ「ここですか?」と訊けば、「さァどうでしょうね~~」などとわざとらしくとぼけて、かえってバレてしまう。

俳優の演技・映像作品というのも、そのような観客の経験に基づく「常識的」な判断にもとづいて成り立っている。(だから俳優は無駄にキョロキョロ動かないことが重要だ)

年配の男と女が寄り添っている映像を示されれば、まずは「夫婦だろう」と思う。

「じつは女社長と秘書」などであれば、女社長はこれ見よがしの宝石を身に着けている・秘書男性はやたら腰が低いなど誇張した表現が必要となる。先入見を防ぐ・打ち壊すにはそれだけのインパクトが必要だからだ。

以下、やや性的な話題を含みます。

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2012/09/08

清盛のイメージって厳島神社そのものじゃなかったか。

朝のワイドショーで社殿を拝見した。

若い女性アナウンサーがキャピキャピ(これも死語か)とリポートしていて騒がしく、若干興趣を損ねたが、社殿の威厳はそんなことで揺るがないのでまァよい。
「あれ? 廊下の先端のほうに、チョコンと舞台のような建物が!」

舞台ですがな。
床板が潮で暴れて舞いにくいけど素知らぬ顔して舞うのがおシテの心意気ってものさ。

鳥居越しの夕日は壮麗かつ爽快だった。月夜はまさに「幽玄」というところだろう。

“平清盛”といって人が思い描くのは、まずはこのに向かう神社の姿ではなかったか。

平家物語では悪く書かれているが、これほど洒落た社殿を残した者が、つまらない男だったはずはない。

さぞかしを解する人物だったろう、武士として馬上にある姿も冴え渡っていたことだろう……

ドラマは「尾張の大うつけ」と「ムシロ編みの桃園の誓い」のイメージを混ぜちゃったのが数字的敗因のひとつだったと思う(´・ω・`)