2012/10/28

第四十一回「賽の目の行方」

面白かった。一気に観た。

佐々木氏の演出回はいつも面白い。時空の違う場面を字幕で説明しながら交互に映し出していくのがうまい。ワクワクと盛り上がっていく登り坂な気分がすごくいい。音楽の使い方がダラダラとのべつまくなし鳴っているふうでなく、緩急を心得ているのも嬉しい。愕然としたキャラクターの周囲に自然音が冷たく寂しく響くのが渋い。

でも勿体ない。

つまんないナレーションがなければ、もっと盛り上がったのに。「まだ子供が生まれなかった」なんて、その直後に「厳島へ願をかけろ」って清盛がいってるんだから前もって言う必要ないだろう(´・ω・`) 視聴者は清盛のセリフから「徳子は健気にもがんばるって言ったのに、なかなか生まれないからじいちゃんもイライラしてるんだな」と理解するばかりだ。
「西光が都へ帰ったら問題が持ち上がっていた」っていうのも「陰謀がはじまっていた」っていうのも余分だ。

山寺の坊主ふぜいが(作中の役割としても俳優としても)いい芝居を見せた末社の件は、西光の息子自身の口から「実は先日」って語らせれば充分だったし、小競り合いが発展して神輿がハリネズミ状態になり、松殿が「やっぱ武家は武家」と結論的なことを言うまで、ナレ無しで一気に持っていって欲しかった。神輿をみつめる成親の顔の演技は良かったぞ。神輿のそばでひざまづく行綱の高さから、院側近である彼を仰ぐような構図も良かった。

俳優と撮影ががんばってるのに「この大事なときにこんな騒ぎが起きて、一体どうなっちゃうの!?」っていうドキドキ感が「なんでも知っている」状態のナレーションによって水をさされるんだ。「大ヒットした海外ドラマや受賞した洋画にも劣らない」と絶賛したい刺激的な展開と美しい画面を、毎回毎回余分なナレだけが減点させてくれる……

伊豆でふてくされて心まで引きこもっているような男が、すぐ次の場面では京都の様子によく目を配っていて、なんでも知っているかのように語るのは変だろう。

照明さんはすごくいい仕事した。サイコロの音が響き渡るサイコホラー調にもゾクゾクした。

大人向けに耽美的な雰囲気で見せたいのか、子供にもわかる程度のドキュメンタリーとしたいのか、放映開始当初から悩まされているがいまだに分からない。ハキハキしたアバンタイトルも本編とのバランスが悪い orz

構成は、伊豆で「清盛は恐ろしい」と言い、(ここで視聴者は「そんなに怖かったっけかな」と考えこんでしまうのだが)息子さえも騙して比叡山をうまく使う清盛の恐ろしさを語り、伊豆へ戻ってきて可愛い娘に「巻き込まれるな」と釘を刺すサンドイッチなわけで、うまかった。鞍馬と伊豆をフェイドアウトしながらつないでいくのは美しかった。弁慶との会話が遮那王の回想になってるのも収まりどころがよい。神木くんの龍笛の構え方のやや硬いとこが萌えだ。余談。

時空を超えてバックギャモンな二人が緊張感を高めていく描写もすてきだったし、重盛が入ってくると黙って席を譲りひざまづく盛国を後ろから撮る、という構図・タイミングは垂涎の名場面だった。

おおそうだ、明雲が清盛の肩越しに目だけでニヤリと笑ったのは最高だった。なにせ画面づくりはすごく工夫されていたと思う。赤い坊主が三人もいてややアレだけど。

公卿は「三悪」状態になっており、楽しい。傷ついた神輿をめぐって福原の思惑と貴族の採決、院御所の対応を次々に述べていくのも面白かった。このような政治劇は、人数が少なくなったのと、描写の力点を置くところを間違わなくなったので、分かりやすくなった。ぽつりとこぼれた「面白うないのう」はイカしていた(・∀・)

私欲にかられた悪役のような描写になりつつあるタイトルロールについては、寸白の病に倒れたときの姿が回想されたが、あの乱れ髪はセクシーだった。あの頃から俳優自身が何かふっきれたような感があり、長いセリフもスラスラと出てくるようになった。今回の、常に苛立ち、それを抑えつけて成り行きを見守る顔はよかった。第二部ではニヤニヤ笑いが鼻についたが、今回重盛の前で笑ってみせたのは決まっていた。

問題は、そもそも「ちから比べ」に何の意味があるのか、滋子がなくなった途端になぜ院は平家をうとんじるのか、たとえば『負けて、勝つ』における国防のような当面の話題・争点がなく、清盛は新しい国づくり・豊かな国づくりをしたいというなら周囲を説得して協力を仰ぐ努力をするってわけでもなく(西光へは暴言を吐くし)、逆に院は清盛から権力を奪い返して何がしたいのか、よっぽどヒマらしくてバックギャモンばかりしているが、君主として庶民のため、せめて貴族のために経済を発展させたくないのか(といいつつ院自身が貴族とは対立しているわけだし)、摂関家の代わりに平家がえらいことの何がそんなにマズイのか、そこんとこがスルーになってしまっており、本当に「個人的なプライドの勝負」「どっちが勝つか」だけが自己目的のようになってしまっているのだけども、そこに賭ける男たちの、高貴な身分にもかかわらず修羅の形相、という演技と演出はよかった。

これは……あれだな。もういっかい観てもいいな。ナレーションがなければ。

それにしても面白い回に限って数字が低いのはなぜだ(´・ω・`)

2012/10/28

第四十回「はかなき歌」

やっと観た。兎丸無念の回はできが良かったと思うので、しばらく余韻にひたっていたのと、滋子ちゃんが出てくるといつも若干テンションが下がるので放っておいた。

なんであんなに蓮っ葉なキャラクターになっちゃったんだ、たまきはる建春門院(´・ω・`)

撮影は細野氏だったので期待した。期待をうわまわる美しい画面だった。演出は中島氏だったので情感あふれるゆったりめの話運びに期待した。期待通りの物柔らかな中にも緊張感を保った展開だった。

脚本は「すごろく人生」(お前ら本当にそれでいいのか)な二人だけが相変わらず言わなくてもいいようなモノローグを垂れ流しているが、そのほかは余計なセリフがなくなり、時空間を異にする場面をザッピングしたまとめ方も効果的で、本当に肩のちからが抜けてきたと思う。

今回は(というか今回も)脇固めの男性陣がいぶし銀の光を放った。信西の時代を思い出して「すまいせちえ」(懐かしいね)の計画に浮き立つ西光の、にじみ出るような嬉しさの表現がよかった。いい俳優さんだ。

成親の目のちからと、顔筋の動きとしてはわずかなのに確実に心情を伝える表情の変化も刺激的。じきに見られなくなってしまうかと思うと残念だ。

北条エンケンと三浦殿もすてきだった。杏ちゃん 政子も「川から拾ったばかりでまだ泥で汚れているが磨けば光る水晶」みたいな硬質な輝きが心の清涼剤だ。

ナレーターは、しゃべらなければ非常にいい。藤九郎がやや落ち着きのない従者らしい動きをするのに比べて、ゆったりとした佇まいが(後の)大人物らしさをよく表している。

ナレーションだけは何度きいても「要らないだろう」と思う。語り口のまずさからいっても、必要性からいっても。そもそも「地の文による状況説明がないと、祝典の挙行によって支配者と側近のつながりが一層強まった」程度のことを理解させられない(かのように視聴者に提出する)ドラマも他にあまり見かけないんだけれども……

伊藤五の見せ場があったのが嬉しかった。抑えめな演技と、不安な緊張感を保った撮り方は、福原に引っ越してからこっち、どの人物・場面の描写についても冴えている。ホームコメディ的なギャグがなくなったのも本当にありがたい。「もうじき終わるんだ」という粛々とした雰囲気が現場にあったのかもしれない。宇梶頼政はあれだけの出番というのは勿体ないですな(´・ω・`)

楽や舞の使い方は的確だったと思う。長すぎず、脳天気すぎず、余計なBGMも重ねなかったし、華やかさの陰に先行きの不安感。撮影と編集の工夫が光っていたかと思う。

というわけで「フラグ」は立ちまくりだったので予想はできたが、とつぜんの訃報には、とくに歴史ファンというわけではなく観ている人(なんて既にいないのかもしれないが)には納得がいかなかっただろう。まぁ昔のことで何にしても死因ははっきりしない(急死するほどの腫れ物って)のを、あえて病状などを描写せず、きれいに終わらせたということだろう。クドクドと遺言を述べるなど、別れの場面を演出しなかったのは良かった。セリフは少ないに越したことはない。

深キョンは本当に良い顔をするようになった。背中から撮ったのもいい。ここんとこ沈みがちな時忠の知力は、しかし衰えていないという描写、抑えた演技もツボだ。そこから清盛の決意表明へつないでいくのもいい。かつてのように話があっちこっちしなくなった……が、清盛の言は、先見の明があるというよりは、結果を知っている現代人の目で先走って予言のようなことをいわせているのがやや鼻につく感じだが、後白河院の感動的なようで後づけの言い訳がましい述懐と合わせて、いつものことなので仕方がない。

全体に清盛の出ていない場面の出来がよいのも、いつものことなので仕方がない。松ケンは足元の弱くなった五十八歳らしさをよく演じていると思う。五十歳の誕生日は覚えていなかったが五十八歳は覚えていたのと、保元の乱から年数をかぞえられるようになったのが「お利口になったねぇ」としみじみした。さがり眉毛に白いものが混ざっているのはメイクさんの工夫だろうけども、遠くを見るような俳優の表情も雰囲気もいい。ただちょっと声が軽いのも、いつものことだ。なんか舞台の仕事とかするといいと思う。厳島ロケは美しかった。清盛の着た赤と盛国の黒が利いていた。

というわけで全体に良かったんだけどもう一回観たくはない。なにせたまきはるちゃんの一人学芸会っぷりが……

2012/10/28

『雷電』見てたら能と歌舞伎ってどう違うのって中学生にきかれたから

とりあえず「能の人は化粧しない」と言っといた。

面をつけてるのが能で、「隈取」という化粧をしてるのが歌舞伎だ。面をつけないでやる能もあるが、この時もドーランは塗らない。能の女性役は白い顔の面をつけるが、「その下の顔にもおしろいを塗って面と首との境目を隠す」ってことはしない。

能は女性らしい作り声にもしない。肩幅をせまく見せる・背を低く見せるなどの工夫もしない。基本のポーズは男女役共通で、その点ではバレエと近い。朗読劇のような長い語りと象徴的なパントマイム・抽象的なダンスをメインとするのが能で、比較的リアルな会話による演技・女性らしい「くねっ」とした動きを大事にするのが歌舞伎だ。

歌舞伎の男性はスタスタと大股で、かつ胸を張って歩いてくる。時代劇のお侍さんとそっくりだ。っていうか昔の時代劇スター=歌舞伎役者だった。

能では独特の前かがみの姿勢と「ハコビ」と呼ぶ静かな足の進め方がある。これはそのまま撮ってもテレビドラマにはできない。まずは非日常的な「舞踊」であることが前提で、その意味ではバレエ・ダンサーが爪先を開いて踵から柔らかく着地する独特の進み方をするのと同じだ。

能の役者は男女どっちの役も演ずる。女性役専門の人が日常的にもどこか女らしい……ということはない。あえて言えば、おっさんくさいのが能役者だ。男の「素」を残したまま非日常を舞うのが能で、日常と地続き感があって具体的に女になりきろうとするのが歌舞伎だ。なぜそうなのかについて、成立当時の社会状況や世界観など研究・説明しだすとたいへんな(退屈な)ことになるので、とりあえず見た感じそういうことだってことでいい。

着るものについては、とくに狂言と「勧進帳」では見分けがつきにくいかもしれない。女性の衣装のほうが時代を反映しており、違いが大きい。能の「道成寺」と歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」はかなり違う。能の秘曲「鷺」と歌舞伎(日本舞踊)の「鷺娘」もだいぶ違う。念のため、どっちの道成寺の白拍子もいわゆる(巫女さんみたいな白い水干に赤い袴という)白拍子スタイルではない。

京都の町衆、江戸の町方。歌舞伎には江戸時代の洒落っけ、柔らかさ、粋が生きている。能は……平安時代の大鎧や戦国時代の陣羽織が近いかもしれない。公家の豪華さに近づこうとした武家の、気を張った感じ、尊大さ、金ピカの威厳。それを野暮に見せないために、能役者は極端なハイテンションを求められる。

そのくせ、舞台は歌舞伎のほうが豪華だ。大勢の庶民を相手に、ある程度リアルで分かりやすく華やかなものが追求され、町人の発明力・経済力の高まりを基盤に舞台機構が工夫された。能は今でもお城の中に座敷舞台が残っているように、比較的せまいとこで限られた階級が観るもので、元が語り芸でもあり、聞いてわかる人がそろってる条件だったので、見た目に大掛かりにならなかった。

……っていうのは見りゃ分かることなんだが、逆にいうと見ないと分かりにくい。口で説明するにあたっては、プロレスとK-1の違いとか、ラグビーとアメフトの違いとか、オペラとミュージカルの違い……などと類推を広げてみると、やっぱり発生時期の新旧と、支持層の違い、ルールの説明あたりが入り口だろうか。と考えつつ、

「むしろどこが同じに見えるんだ」と聞き返してみた。
「同じような舞台でやっている」そうだ。

たぶん鏡松のことだろう。世話物のセットと能舞台では全然ちがうのは一目瞭然だから、松羽目物が話をややこしくしているには違いない。

舞台そのものは間口が違う。形も違う。横長に広がってるのが歌舞伎で、正方形のが客席まで突っ込んで来ているのが能だ。歌舞伎で役者が登場するとき歩いてくる「花道」と能の「橋がかり」では、舞台に接続する角度がちがう。

舞台そのものに柱がなく、ミュージカルや歌謡曲のコンサートなど他の演芸で使う「ステージ」と同じ形をしてるのが歌舞伎で、角柱があって屋根がのってるのが能だ。野外公演では屋根がないが、柱は必ずある。演技の目印になるから。面を掛けた役者は視界がせまく、舞台の端っこを示す目印がないと、落ちる危険が本当にある。(落ちた人もいたらしいんだ)

あと、能の舞台は回らない。せり上がりもない。したがって奈落がないので能楽堂には怪人は住めない。足拍子の響きをよくするために埋めてあるという床下の瓶の中に小人が住んでいたら、うるさくて眠れないと思う。(トムジェリにそんな話があったな)

客席と舞台を仕切る幕もないので、幕を引いている間にセットを変えることもない。役者が衣装を変えてくるだけだ。念のため、衣装は「装束」と呼んでほしいことになっている。

時々大道具が後から追加されることがあるが、これをセットするのは黒子ではなく紋服姿の役者で、客からよく見えるが、それでいいことになっている。客もその間は休憩時間ではなく、静かに待つ。昔はお殿様の前で演じたので、そのほかの客はお相伴に預かる形で、お行儀よくしていることになっている。(本当の江戸時代の町入能を描いた絵を見ると町人はケンカとかしてるんだけど)

構造的な違いは大きいが、テレビや写真などカメラを通して舞台の上だけを見ると、そこまでは分からないのかもしれない。歌舞伎が新派演劇やドリフのコント、ミュージカルなどともつながっていることと、能がそれとは違う独自路線を保っていることを理解させるには、若い人を「能楽堂へご招待」がいいかもしれない。

あとは?

「どっちも言葉をきいても分からない」

そりゃしょうがねぇな、歌舞伎は300年前で能はさらに300年前だ。と答えておいた。これは大人も充分に分かる人のほうが少ないから気にすんな。

……といっても、歌舞伎の言葉はわりと聞いて分かるはずだ。演目・役者にもよるが、時事問題を取り上げたアドリブを入れて笑いをとるようなこともある。映画・テレビの時代劇と直結してるのが歌舞伎だ。
能がアドリブを入れることは絶対にない。というかアレンジはあり得るんだけど、客を笑わせるためではない。

能は古代ギリシャの仮面劇と比べられることが時々あるが、時代劇→歌舞伎→能とさかのぼって、いかに能が原始的な形態・神秘的な儀式の雰囲気を残しているかを感じるのがいい……んじゃないかな。逆にたどるとなると、能から始めるべきか、平安時代の今様・小歌あたりから始めるべきか、奈良時代の雅楽の興りから始めるべきか、雅楽と散楽のもととなった古代中国の音楽のさまざまを孔子の時代(以前)から説き起こすべきか、ちょっと迷う。じっさい雅楽と能楽を勘違いされたこともあるので、そっちの混同もただす必要もあるんだけども。

能が600年(以上)前のものをどれだけ残しているのか、江戸時代の間に、また明治時代から今までの間に様子が変わったという話もあるが、ともかく庶民が人形浄瑠璃に夢中になり、その動きを取り入れて芝居(歌舞伎)の演出に工夫を凝らす間、それと並行して武士階級(以上)は独自に能を洗練させてきた。

かつては武士の必須教養として、謡は師匠について覚えるものだったので、武士であれば「分からない」ってことはなかった。方言の通じない地方出身の侍どうしが能の言葉で会話できたっていうくらいだ。

明治時代に武士階級がとくべつなものでなくなって、能も庶民に開放されることになり、歌舞伎のほうで能に近づいたので、現代人が見るとややこしいことになっている。

逆にいうと、昔は能が分かんない人は芝居を観に行けばよかったので、「伝統芸能として日本人なら一度は観ておきたいものなのだが、せっかく観ても分からん」っていう状況は戦後のものなのだろう。

もっとも江戸時代に町人の間で謡曲を習うこと(=立って演技をしないでセリフだけ暗唱するようなもの)が流行り始め、昭和の中ごろまでは嗜みの一つとして広く根付いていた。企業のなかにも謡曲クラブがあった。小説のなかに比較的若い世代が「同僚と誘い合わせて教室へ通う」という姿が描かれていた。1962(昭和37)年の映画『切腹』では傘張り浪人が娘の結婚式に「四海波」を謡う場面があった。当時の観客は晴れやかかつ厳粛な場面として感動を共有できたはずだ。

昭和の終わりから平成のはじめにかけて、なんかいろいろと壊れたのだろうと思う。1988年に秘曲「道成寺」を殺人事件にしてしまう小説が出たのが象徴的なような気もする。

あと重要なのは、あるいはまず最初に、音楽が違う。謡曲と長唄は、ジャズとブルースロックくらいには違う。どっちがジャズかとは言わないけど。これも聞けばわかるが聞かないと分からない。あと楽器の編成がちがう。たぶん詞章の似ている曲を続けて聞いて、歌舞伎では三味線が重要であることを感じられるといいかもしれない。

やってみよう。

能「安宅」と歌舞伎「勧進帳」は見た目も似ているが詞章(歌詞)がそっくり同じところがある。どっちも上演回数が多いので、これは比較しやすい。
安宅の有名なとこの謡だけ 
連吟は謡曲を(伴奏なしで)何人かで謡うこと。連吟として謡うべき箇所は決められている。歌詞(詞章)はこちら。装束はこんな感じ
どちらの先生もドすっぴん。素顔で勝負する男たち。サブキャラは鬘もつけないので現代人の髪型では少々装束と合わない感があるが、気にしないのも能の特徴かもしれない。この能では義経は子方(子役)が演じる。小っちゃくてキュート。 

長唄の「勧進帳」はこっち。「旅の衣は」と「時しも頃は」がいきなりくっついてイイトコ取りになってますね。メロディーは現代人の耳にはこっちのほうが馴染みがあるかもしれません。装束の違いは「勧進帳」で検索かけるとよく分かります。歌舞伎(とくにこの曲)では後見も町人髷の鬘をつけますね。

能の謡だけを楽器つきで披露することもある。能の楽器は笛と大鼓と小鼓が一人ずつが基本。太鼓はついたりつかなかったり。お雛様の五人囃子がじつは能楽バンドの編成。三味線は伝統的には絶対つかわない。若い先生はときどきコラボするかもしれない。

これは歌舞伎(長唄)とも違うので更に困るんだけど、山田流箏曲による竹生島。歌詞を能から取っている。能の歌詞はこっち。「頃は弥生のなかばなれば。波もうららに海のおも。」

シテサシ一声というのは能の主役の最初のセリフ。能の謡い方では、これ↑よりずっと単調で、その分荘重で神秘的なわけだけど、男声が面でこもって聞き取りにくい。
確かに能のほうが「ここでこう言う」と知っている人でないと全く聞き取れないということはある。

なんで謡曲と長唄・箏曲の歌詞が似ているかというと、能を知っている人(エライさん)がお座敷で三味線や箏に合わせて唄わせるために自分で作詞することが江戸時代に流行ったから。二次創作ですな。


2012/10/27

2008年『パニッシャー:ウォー・ゾーン』

これはいい(・∀・)

マフィアの造形が安っぽくて怒りっぽくて、そこがいい。老ボスのしゃがれ声はドン・コルレオーネへのオマージュだ♪ と言っていいよね。アクションでスリラーでやや猟奇的、その代わりエロと中途半端なギャグはない。ある意味さわやかに、安心して観られる。あえて言えば『イベント・ホライゾン』に似ている。

個人的にはもう明らかにレイ・スティーヴンソン目当てで借りている。(ずいぶん前に予約したので届いた頃には動機を忘れているが、この作品については他に考えられない)

体格がよく、暴力性を秘めていて、粗野な無精髭がセクシーでよく似合うが、女子供に優しい役がまたよく似合う。1964年生まれ。2008年公開映画だから撮影は前年として、43歳。男盛りっぷりが目に嬉しい。日本映画はアクション俳優が若すぎてつまらないのだ(個人的感想)

というわけで原作マンガを知らずに借りているからクレジットを見て「マーヴェルかーー」とのんきに思った。コマ割りを意識したオープニング、悪役たちの誇張した演技のマンガっぽさにニヤニヤしつつ、なめてかかったら良作だった。

徹底してマンガ調に誇張しているところと、「特殊部隊の教官」という設定が説得力をもつリアリティ感の両立がいい。ワイヤーアクションは(ほとんど)ない代わりにアクションには肉弾戦の迫力があった。下手な笑いを取りにいかないとこもいい。
「1,2,3」だけは大笑いさせてもらったが、その武器屋など脇固めも女優も子役もみんないい顔をしていた。全く怖がらない娘は純真すぎてファンタジーな存在なのだが、これもそこがいい。

画面はあるときはセピア調でノスタルジック、あるときは青灰色でSF調、あるときは手持ちカメラで追っかけたドキュメンタリー風。工夫がきいていて飽きなかった。
「地上の片隅のできごと」だから別に空撮は必要ないわけだが、時おり空撮による夜景が挿入されて、濃密な閉塞感と同時に壮大な空気感も感じられた……と思う。あのNYの夜景が「近未来」ではないという現実のほうが現実感がないわけだが、日常的すぎて逆に存在感の希薄な回想シーンのはさみ方も上手かった。
“徴兵”の際の「背景の星条旗とかすかに流れる国歌」は小説ではできない手法。映像ならではの効果で楽しかった。YAKUZA にも声かけて欲しかったけど、やられ役だからなw とんだ自由と独立の国もあったもんである。

ストーリーは「長いこと活躍してきた仕置人の最後の仕事」=家族を奪った“本丸”への復讐 vs. 顔を奪われた復讐に絞り込んでおり、クライマックスへ向けて一気に語る緊張感を保ったと思う。『キング・アーサー』もそうだったけど、かつてのようにヒーローが生まれる過程を描き、「彼の戦いが始まる」というふうに「引き」にするのではなく、キャリアの終わり際、引退試合、千秋楽、そういうところへ焦点を当てるのが最近流らしい。

生物兵器・ロシアンマフィア・アラブテロと今っぽい要素をちょっとずつ取り入れつつ、「司法取引による免罪」という法の抜け道も皮肉りつつ、当たり前のように裏切りを描き、しつこく演出せず「お約束感」で押し切ったのは娯楽作品らしい軽快さを保ってよかったと思う。『相棒』(東京マラソンのほう)みたいに途中から話がお涙頂戴に変わってしまうなんてこともなく。

唐突な教会の場面も、フランクの過去と人間性を知らせて充分だったし、しつこくもなかった。原作を知らないと分からない話ではなく、この一本だけ観て彼の人生を理解し、ファンになることができる。原作のファンにしか分からない謎かけのような場面があると、原作を知らないファンは鼻白んでしまうが、それはなかった。詰め込むにしても、初心者向けの味を上手にひと口ずつ詰め込んだ「デザート・ディッシュ」「当店自慢のおみやげセット」みたいだったと思う。

レイは「基本」のオールバックと黒革の衣装も、資料写真中の海兵隊制服姿もカッコよかったし、パパ時代の長髪もすてきだった。彼の魅力満喫でごちそうさまと思っていたら、コリン・サーモンという美味しいおまけがついてきた。白人のほうがキレていて、黒人のほうが理知的というキャラクターの振り分けは最近ときどき見かける。似た体格の二人の格闘戦は楽しませてもらった。仲良くなりすぎてバディものとなり、コメディ臭が漂ってしまう手前で踏みとどまり「一人で戦うと決めた男」の話に終始したのはよかった。

いっぽう、二人の間で落ち着きなく首を振り続けるプロファイル屋ソープの役作りが秀逸だと思った。トリオ漫才でシリーズ化してほしいような気もする。

悪役は『オペラ座の怪人』そこのけの見事な造形で、舞台だったら彼がカーテンコールで出てきたらスタンディングってところだ。ジェイソン、フレディなどとともに悪役スターの座を与えたい。毛皮の襟のコートもマフィアらしくて素敵だったし、ラストで着ていたパイソン模様の詰襟スーツ(軍服ふう)はイカしていた。

……とはいえ彼自身はじつは(それほど)残虐なことをしているわけではなく、一見(それほど)キレてない弟との良コンビぶりが面白いわけで、兄ちゃんのために体を張って鏡を割るのにはちょっと泣けた。

クライマックスは要するにドンパチなわけだが、弾(と火薬)を消費するばかりでなく、主人公の「特殊部隊の教官」という経歴を活かして、少ない弾数で遠距離から確実にしとめるという様子をテンポよく描いて、これも飽きなかった。悪者退治が途中で腰くだけになる作品は多いが、盛大にやってくれて楽しかった。

復讐が終わり、彼はいずこへともなく姿を消した……と西部劇ふうに終わるとカッコ良かったのだが、言うまでもなくラストで台無しにしてくれたwww 復讐だからこそあんなに頑張ったんだという話をしてきたのに、ちょっと脅せば逃げていくようなチンピラの脳みそスプラッタしてはいかん。

十字架が半分消えて「自ら助く」状態になったシャレと、レイの体格の良さを活かした立ち姿のシルエットのカッコ良さ、エンディングのメタルサウンドが決まっていたので許す。

面白かったのでちょっと覚えておこうと思ったスタッフたちの名前。
監督:レクシー・アレクサンダー 撮影:スティーヴ・ゲイナー 編集:ウィリアム・イェー

興行収入が製作費を下回っちゃって残念な結果だったようだ。原作ファンには「謎かけ」のようなところ、マニア心をくすぐる部分がなかったところがつまらなかったのかもしれない。でも映像にもストーリーにも演出にもまんべんなく目を配った良い作品だったと思う。個人的には98点。おちいりがちな失策をすべてうまく回避したのに最後に余計な落書きをしたので減点、というところw

それにしてもロシアンマフィアのじいちゃんカッコええ脇汗出た。(←お年寄りキャラ好き)


2012/10/23

2004年『キング・アーサー』

「客を笑わせよう」という意識が無いのは爽やかでいい。

撮影地はイギリスとアイルランド。俳優もそちらの人ばかりで、ハリウッドの皆さんと違ってなじみが少なく、一見すると地味なテレビドラマのような雰囲気だが、そこがいい。

俳優は男も女も若者も中高年も、みな良い面構えをしている。泣かせる男の友情と、活目すべき女の勇気があって、魔法はない。 

アーサーを帝政ローマ末期に実在し、苦悩しつつ離反した外人部隊隊長として描く。ずっしりドキュメンタリー調。生きるか死ぬか、やるかやられるかの実感が胸にせまって、地味に怖い。

ところどころに野暮ぎりぎりのベタさは見られるが、やってる本人たちに観客を笑かそうって意識はない。アーサーの権力への怒りと決起を導くために、庶民の苦難を描くが、その演出も過度でなく、お涙頂戴ってふうではない。

DVD特典のメイキングでは、声を張り上げて陣頭指揮をとる若き黒人監督の勇姿が映っていた。

イギリス人は「近代世界システム」の発明者として、アフリカに住む人々をアメリカに運び、奴隷とした張本人といっていいわけだけど、その心の宝石のような英雄が描かれるにあたり、ユダヤ系ドイツ移民のプロデューサーが、アフリカ系アメリカ人監督を起用したのを迎え、撮影地と出演者を提供したというのは、もはや改めて言い立てるべきことではないのだろうけど、やはり意義深いことなのだろうと思う。

そういう制作の背景と「人は生まれながらに平等であり、自由意志で進む道を決めるべきだ」という映画の主張が重なる、ような気がする。

女性の描き方も、リドリー・スコット作品ではまだしも「女のわりには頑張っている」というふうだが、こちらではもっと積極的だ。といって、揶揄するふうでもない。

じゅうぶんに映画らしいカッコ良さ、物語らしい「あり得なさ」を追求した娯楽作品でありながら、全編を通じて、からかいようのない真剣味、気品、清潔さ、そのようなものを保っているように感じた。

撮影準備は非常に凝っており、メイキングによると、決戦の地である「ハドリアヌスの長城」は4ヶ月・のべ250人を費やして実物大のセットをアイルランドの平野におっ建てた。俳優たちは乗馬と殺陣の訓練に数週間を費やし、侵略する異民族役のエキストラ400人も、軍事トレーナーによる訓練を受けた。氷上戦の水中シーンにはダイバーが投入されたらしい。

「今どきアホか!」と叫びたいほどのマジっぷりである。その「まじめに遊んでる」感じがいい。国の、あるいは母校の威信をかけたスポーツの試合みたいな爽やかな感動がある。

白兵戦の最前線同士が本当に体と体でガツーンとぶつかるのを真横から撮った、というのはなかなか見られない。長尺の西洋チャンバラは思わず正座して見入ってしまった。

今どきといっても既に8年前。VFX(CG)にはそつがなく、見応えがある。しかしそれがメインになる直前の肉弾戦の迫力、最後の打ち上げ花火みたいなものか。

オープニングは、いわゆるアバンタイトルがなく、いきなり「キング・アーサー」と画面中央に表示されるところから始まる。すでに正統派の予感。

「15世紀に成立したとされるアーサー王物語は、その1000年ほど前に実在した人物をモデルにしている」と最近の学説らしきものを簡単に紹介した後、舞台は帝政ローマの末期であることを、地図を使ってかいつまんで説明する。カーク・ダグラスの時代かとツッコミたいほど正統派な語り始めである。

プロのアナウンサー調のキビキビしたナレーションは、帝政ローマによる東欧の異民族征服を語る。あれ、イギリスの話じゃないの? と思ったところで「征服された民族の若者はローマの兵役に就き、遠方へ派遣された。それがこの私、ランスロット」という具合にナレーターが顔を出す。キュッと焦点が合う感じが気持ち良い。そして15年。早いな!

ランスロットはブリテン島の守備隊に組み入れられ、そこでアルトリウス(=アーサー)を隊長にいただき、トリスタン、ガラハッドなど錚々たる面々とクツワを並べ、すでに円卓の騎士として名を馳せている。彼らが15年もの年季奉公を勤め上げ、明日は退役して、ついに故郷へ帰れるという日、ローマ中央から派遣されてきた司祭によって、最後にして最も危険な任務が与えられる……

ローマはすでにキリスト教化されており、キリスト教はすでに権威主義となって退廃しかけている。辺境を守る外人部隊の隊長であるアルトリウスは、中央によって異端とされたペラギウス派を信奉しており、人は生まれながらに平等であり、自由意志によって人生を決めるべきであると信じている。円卓も彼の発案になるものだ。

彼らの当面の敵は、ブリテン島の先住民である「ウォード」(顔を青く塗ったケルトの戦士)だが、北方から更にサクソン人が侵入を開始しており、こちらも金髪を三つ編みにして、異民族ロマンをかきたててくれる。

ローマは退廃した貴族によるキリスト教国家として、先住民を異教徒として迫害し、小作人として痛めつけ、しかも彼らを守らず、サクソン人との正面衝突を避けて退却する。

アーサーは、ローマ軍人を父にもち、ブリテン島の先住民の女性を母にもつ。ローマ軍と一緒に東へ帰るか、母の血に従ってブリテン島にとどまり、北方からの侵入者と戦うか。

敵味方は四つ巴なわけで、やや複雑だ。

「主人として仕えていた偉大なローマが、辺境の庶民をいじめているのを見てしまい、ローマと戦う」なら単純なわけだが、ローマとは戦わない。その代わり、辺境の庶民(を代表して戦う青い化粧の戦士たち)は、ローマ軍にいる間に指導力を鍛えたアーサーを大将に選び、ローマとの戦いの間に覚えた彼らの戦術=「豚の脂肪を燃やす煙幕」と、それを盾にした連携プレー、さらになんと攻城兵器まで利用する。

苦難の歴史は、単に否定されるのではなく、いろいろな形で受け継がれていく。「ローマと戦う話だと思ったのに残念」という肩すかしではなく、うまくまとめられていると思う。

対して、寄せ手であるサクソン人は先進的な武器・戦法を知らず、歩兵による猪突猛進型の戦い方しか知らないが、単なるやられ役として揶揄されているのではなく、勇猛果敢として描かれているには違いない。全員が黒い装束で決めて、こっちはこっちでカッコいいのだ。王と王子の性格の違い・微妙な対立が描かれており、こっちはこっちの深みもある。サクソン王がここで倒れちゃったらイングランド王家はどうなっちゃうのという件は、まぁ気にするなってことだろう(^_^;)

というわけで、話は「アーサーがローマ軍から離れてブリテン王として決起するまでの、ほんの一週間ほど」に絞られており、そのぶん緊張感が高い。四つ巴の成り行きを分かりやすくするために、アーサーの人物・心理描写は単純化されている。ランスロットはもちろん仲間を代表して、アーサーに反対意見をぶつける役だ。

しかし決して出しゃばらない。任務の、決戦の危険さに関して、他の仲間の前では黙っているが、二人だけになってからアーサーと喧嘩する。隊長の顔を立てることを知ってるわけで、観客にはそれだけ二人の絆の強いことが分かる。

「やめてくれ、死にに行くだけだ、友情にかけて頼む」
「友達だからこそ邪魔をするな。俺のぶんもお前が生き延びろ」

別れのセリフは泣かせる。

2012/10/18

俺はいったい誰なんだ。

白河院の落胤である。

どっちみち忠盛が乳父として面倒を見ていたであろう子供である。

「取り入るためにもらい受けた」というのであれば、面識もない下っ端だった者が、不倫の子をかかえて困っていた白河院(笑)を救ってやった、ということでなければならない。それによって忠盛はどんどん出世したってことでなければならない。

実際のところは、仕事(=出世のチャンス)をまわしてもらえるという引き立てはあったが、位でいえば白河院のなくなる時点で四位であり、のちの清盛自身の大出世に比べりゃ大したことはない。

彼はその後も(他の貴族ではなく彼のみに可能な)武力によってコツコツと手柄を立てることによって正四位上までやっとの思いで昇るのであり、「娘を入内させて皇子を産ませ、おじいちゃんいきなり一位」みたいには、赤ん坊(清盛)のおかげってわけじゃない。

「すでに取り入っていたからこそ、ごほうびとしてもらい受けた」「信頼の証として預けてもらえた」ってところだ。

たとえ院の末子として正式に「認知」されていたとしても、今さら立太子とかあり得ないし、うっかり独立させて貧乏な公家にするよりは、既に金持ちである平家に頼むほうが安心で、親心としてむしろ正しい。手に職をつけさせてやってくれ、院の家来として働けるように武芸を身につけさせてやってくれ、ってことになっていただろう。儂も(自分の息子に苦労させないように)末永くお前さんを保護するよ……ってことで、そう考えりゃ赤ん坊は二人の父に愛されたのであり、結構な話だ。

というわけで清盛くんは「誰なんだ」と言われりゃどっちにしても「最初は白河院の子、今は忠盛の子、将来は平家を継ぐ子、そのことを院もお認めになっている子」ってことでべつに間違いではない。

本人が気に入らないことがあるとしたら「自分で決めた運命ではない、親の敷いたレールには乗らない」ってことだが、もちろん当時の人間の考えそうなことではない。現代人の観るドラマだし、その反骨精神によってこそ大事業を成し遂げられたのだと話がつながっていくところだから、それはいいとしても……

清盛くんは自分が忠盛の実子ではないことに気づかされたからこそグレて家出したのだが、それにしちゃ思い切りが悪い。しかも家令の家貞も継母の宗子も、彼を嫡男として受け入れようとしている。うるさいこと言ってんのは叔父の忠正だけだが、彼自身は「平家の存続のために清盛を廃嫡すべきだ=兄の家長としての判断が間違っている」と騒ぎ立てる正にそのことによって、いま現在の一門に分裂の危機を招いていることに気づいていない。

彼が騒ぐのは「義姉がかわいそうだ」という心理によるが、義姉と不倫してるわけでもないし、それを狙ってるわけでもない。じつは家盛は彼の子ってわけでもない。「下の子として生まれた俺の苦労、甥っ子への同情」を語ることで言い訳としているが、不倫を疑われる恐れがあることに気づかない。彼は最初っから良い人あつかいになっている。一門の信頼が厚いことになっている。だったら尚さら分裂の危険がある。彼は少なくとも人前では黙っていなければならない。演技は面白かったけどねーー

義姉は「私の代わりに夫と喧嘩してください」と頼んだわけではない。彼は勝手に察して、勝手に喧嘩してくれる。黙っていてもジャスト誕生日にネックレスをプレゼントしてくれて、しかも「あいつとうまくやれよ」などと微笑し、決して「俺とホテルへ行こう」などとは誘わない男みたいなものだ。

いっぽう清盛くんは、乳父の盛康以下、自分の味方になってくれる郎党を糾合して忠正と対決姿勢をとるわけでもない。判断を忠盛にあずけている格好だが、あの養父には揺らぎがない。

それでも清盛くんがグレているわけは、つまり「子供のころ異母弟にケガをさせたので継母にひっぱたかれた」ことを根に持ち続けているからであり、表面的には「父をなくしたのでグレた」「後継者にふさわしくないと言われたのでグレた」と主張するが、実際には「本当のお母さんを知らない」ことをずっとスネているのである。そしてこれが五十歳過ぎてから寸白の熱に浮かされて妖しい夢のなかでついに母の遺体を確認するまで続く。

つまり「生みの母の影響力はそれだけ大きい」という女性の自己満足が真のテーマである。

それを強調する必要があるので、彼らは男として行動しない。うるさい者を黙らせ、迷う者を説得し、そのために必要な実力を身につける努力をしない。山にこもったり寺にこもったりしない。

白河院の落胤であることを誇りとし、あるいは鼻にかけて、家成を通じて運動し、親王宣下をせまるわけでもなければ、天一坊のような事件を起こすわけでもない。

武士にふさわしくないと言われたら、そんなことはないと武芸の稽古にはげめばよい。兵法を勉強し、一門を率いて戦のできるところを見せればよい。その対抗者は「兄の判断が間違っており、弟の俺のいうことのほうが正しい」というなら、いっそ自分の子を次期棟梁に推せばよい。

清盛と忠正が騒ぐのは、それによって宗子が毅然と「清盛も私の子です」といってのけるための布石であり、男二人は宗子の引き立て役である。で、それ以上の意味がない。

「清盛くんが傷ついた→義母は反省した」という流れにしたいので、清盛くん(7歳)は街のいたずら小僧にひとこと言われただけで彼を信じてしまい、それまでの家族への信頼をかなぐり捨ててしまう。えらい簡単であるのは、その前提に「そういえば昔お母ちゃんにひっぱたかれた」ってことがあるからだ。

つまりテーマがズレており、真の主人公が清盛じゃないので、エピソードが男のドラマとしてはつながっておらず、どっかで聞いたような話の寄せ集めになっており、違うほうへ違うほうへ展開していく。

2012/10/18

プータローとワルはちょっと違う。

(どっちも最近じゃ聞かない言葉かなァ。)

「家成さんちの辺り」だったら他にも院近臣の権力にあやかりたい若者がウロウロしていたんじゃないだろうか。

訪ねてみたけど門番が怖くて入れないとか、紹介状をもってきたけど「主人は留守です」とアッサリ言われてショボーンとしてる人とか。コネがあれば明治時代の書生のように住み込みになっていた人もいたかもしれない。

清盛くんは、そういう若者を訪ねて一日じゅう碁を打ったり、下働きの女性をからかったりしていたかもしれない。飽きたら昼寝していたかもしれない。彼は「白河院の落胤にして平家の御曹司」と認められていればこそ、「実力をつけさせるとまずい」というのでわざと無職状態におかれた可能性が、なくはない。といって「面白くねー!」とチャブ台を引っくり返すような手合いでなかったことは、平治の乱のときに「私はどうすればいいかな」と一族郎党にきいてみるあたりからもうかがい知られる。

あるいは、そんな行く宛のない若者と連れ立って、高下駄で街をほっつき歩いていたかもしれない。かもしれないが、博打と喧嘩ざんまいだったとは限らない。

NHKだから「悪所通い」だけは描かれなかったが、十二歳で元服すると同時に「嫁はどうする」って話が出る時代である。乳母が性の手ほどきまでしたという説もある。十五歳くらいまでには「筆おろし」が済んでいたと考えていいだろう。
だから女の許に入り浸ってタダ飯を食わせてもらっていた可能性だってある。

「清盛は高平太と呼ばれていた」というエピソードから「とんだワルだったんだな! 街でさんざん暴れていたんだな!」と考えてしまうのは、考えてしまう研究者・ドラマ制作者自身が、そういう元気のいい不良が街にいた時代を生きてきた世代だからかもしれない……と、ちょっと思った。

『ヒカルの碁』で藤原佐為が「私はもっともっと碁を打ちたかった」といったのを読んで「あんたそれ今だったらゲーム廃人て言われる」と思ったことがある。

清盛くんは平家の武力と財力をたのんで以仁王のように挙兵したわけでもなければ邪魔な公家を処刑・廃絶に追い込んだわけでもない。保元の乱でも平治の乱でもどっちにつくか迷った挙句に「じゃあ俺が天皇になる」って言ったわけではない。彼は無理をしなかった。正盛以来の財産を無駄にしないことを一番に考えただけで、あとは「出る杭は打たれる」「空気を読む」ことを知っていた都会っ子だったような気がする。わりとのんびりしていたような気がする。

だーいたい皆そんなふうに思っていたから、ドラマの解釈を見て「は?( ゚д゚)」と思ったんだ。

2012/10/17

今ごろ気づく清盛くんの和歌の意味。

和歌どころか都々逸にもなっていない、「息子たちをみんな平等に愛してるぜ」という例のアレだ。

父親が正当な権利者である長男をうとんじたことから、兄をおしのけて帝位に昇った、という経過をもつマサヒトさんの前であれを披露するのは、彼の家族関係に皮肉を言い、部下(朝臣)たちの前で赤っ恥をかかせることになる。

逆に朝臣たちにとっては「これからは同じ白河院の血を引く俺と新帝とで協力していくから、お前ら笑っていられるのも今のうちだぜ」と挑戦状を叩きつけられた意味になる……はずだ。

清盛自身は帰宅して、ホームドラマでほのぼのしていてもいいが、その裏でもう「あいつをつぶせ! 図に乗せるな!」という陰謀が始まっていた……っていうふうでないとおかしい。少なくともドラマとして面白くない。

後白河帝は、のちに清盛に身内ごろしを命じ、「面白い世の中だな」と言ってやったことで溜飲をさげたわけで、こっちは何とかドラマとして収まってるけど、他の朝臣たちの動きは、史実(とされている記述)をみても、どうも早々と清盛をおとしいれようとしたとか、そういうふうでない。

ひどく難しい課題を与えたとか、遠方の討伐を命じたとか、讒訴したとか、呪詛をでっち上げたとか、そういうことがあったようじゃない。彼らは清盛が出世していく様子を、ただ手をこまねいて見ていたのか。陰謀好きの貴族たちとしては生ぬるいじゃないか。

あるいは陰でそのように動いた者と、それを阻もうとした者(かつての院近臣)の間で政争があり、清盛の知らない内に政敵が失脚していったのか。だったら面白いけど。

清盛は、急に思い立って手勢を率いて山から京へ攻め上った、というタイプではない。木曽の生まれでもなく、伊豆の流人でもなく、鞍馬の天狗でもなく、尾張の大うつけでもない。六波羅で生まれ育った都会っ子である。祇園女御の後見を受け、院近臣の従姉妹を継母にもつ大金持ちのボンボンである。宮廷で、よその貴族の家の客として、ごく普通にふるまえたんじゃないかと思う。

ぶっちゃけ、お金や女を使って周囲と上手につき合っていたんじゃないかと思う。

で、そういう「当時としては普通」な人物は、ドラマにするには元々大して面白くないんだと思う(´・ω・`)
それを無理やり混ぜっ返して面白い人物として描こうとし、騒ぎを起こすのに、史実がそれに呼応してないから、周りがボンヤリしていたみたいになってしまって、面白いドラマにならないんだと思う。

2012/10/16

「恐怖の神」の職能を考えてみる。

キャスパーみたいな幽霊なら怖くない。怖いのは「何をするつもりか分からないがジッとこちらを見ている」とか「とりころされる」とか「霊の世界へ引きずって行かれる」とか、そういう時。

「天国よいとこ一度はおいで」という歌があるが、霊の世界がいいところだったら……すぐにご一緒するのは遠慮するかもしれないが、怖くはなくなるだろう。

とすると、恐怖を感じる原因のひとつは「不安」「先行きの見えないこと」だ。

恐怖を感じている心の正反対と思われる言葉は「明朗快活」「明鏡止水」「公明正大」など。先行きの見通しがあって、心が落ち着いている様子。共通するのは「明」

恐怖を象徴するのは「暗」だろう。

暗闇の中で光る夜行性の肉食動物の眼。彼らは人間より夜目がきき、鼻がきき、脚が早く、顎が強い。確実に食われる。しぬこと自体もいやだが痛い思いをするのは尚いやだ。

逃げるか。どこへどう逃げるか。どこに住み、どんな武器を作って対抗するか……

恐怖は生き延びるための本能的な戦略でもあり、知恵の源でもある。恐怖の神は、「無知・無力と不安の神」であると同時に逆説的に「賢さの神」「強さの神」ってこともあり得る。恐怖に打ち勝つために恐怖の神に祈るということも考えられる。セント・エルモの火みたいなものは、悪霊と思えば悪霊だし守護神と思えば守護神だ。

また個人の滅亡を恐れるから仲間を求め、遺伝子を伝えようとする。夜は恐怖を呼ぶ時間であると同時に交歓のときでもある。
なるほど恐怖の神と愛欲の女神がひとつ腹であっても、うなづける。ついでに音楽の神とか詩作の神なども眷属にいるといいかもしれない。


2012/10/16

美奈子を探し続ける話なら収まりが良かった・・・のか?

心の美しさは眼の輝きや表情の柔らかさに現れる。

「微笑の女神」であるヴィーナスの魂を移し、美しく生まれ変わらせるための娘は、だから心まで美しくなければならない。

仮にデイモスがブサイクな男だったら、人間界の女たちは「俺に魂をよこすか?」と持ちかけられても「おととい来い!」と追い返しただろう。彼が若く美しい半裸の男性だから、女たちも「あら、いいわね」って気分になる。富と名声と美貌を手に入れ、若い悪魔に抱かれて永遠の快楽にふける自分を夢見る。

少女マンガ誌に連載されたから、後半のところは明示されていないが、読者の中高生少女もそのような危険な愛の香り、禁断のエロスの香りのようなものを感じたからこそ、恐怖と耽美的なロマンを覚えた。また、そのような欲望に駆られた大人の女性が、運命の皮肉な罠にかかって身を滅ぼし、美しい男性(の悪魔)に冷笑されるさまに、溜飲をさげる思いを味わった。だから当時の連載は人気を博した。

ストーリーのひねり具合からいうと喪黒福造さんと同じなのだが、喪黒さんと決定的に違って少女向けであるのは、ひとえにデイモスが美男であるからだ。

つまりデイモスは誘惑の象徴である。少女マンガに時々出てくる美しい吸血鬼、狼男などと基本的に同じだ。

彼は自分の誘惑にひっかからない清純な娘、取引に応じない毅然とした娘を探し続ける。妹を救うために。毎回「この女もダメだったか」と寂しそうにいずこかへ去る。
……ってことであれば、連載を何回繰り返してもよかった。『こち亀』化してもよかった。

この場合、最終回はもちろん、ついに理想の娘をみつけた時となる。「わたしと来れば永遠の若さと美貌と、愛の女神としての尊敬を手に入れられるぞ」と持ちかけ、しかし娘は「そんなもの要らない。可愛いおばあちゃんになりたい。子供たちの世話をして暮らしたい」などと言う。教会に付属する養育施設のお姉さん等という設定がいいかもしれない。女子高生なら「幼稚園の先生になりたい」などというのがいいだろう。

心の美しい彼女は、事情を聞けば「わたしの体でよかったらどうぞ」と言うかもしれない。

悪魔は彼女の心が美しいからこそ彼女を選び、求め、しかしその美しさを認めるからこそ、澄んだ眼の輝きを消すことをためらう。ここに至って初めて地獄のヴィーナスが姿を現し、「どうしたの、お兄さま。早くその娘をころして」と悪鬼となって迫る。悪魔はかつての愛らしさの片鱗もない彼女の凄惨な姿を見て、過ちに気づく。「妹よ、我らが救われる手段は存在しないのだ。他人の犠牲の上に成り立つ愛と美などあり得ない。ともに罰を受け続けよう」

……ということであれば、現代人のヒューマニズムとしては気分がいいが、ここで問題は、「ほんとうの愛と美と正義」の意味に気づいて身を引く恐怖の神は、すでに恐怖の神でも悪魔でもなくなってしまうってことである。

罰された神としての姿が昇華されて星座となったり、美奈子の子供(またはペットの仔猫)として健康的な姿で生まれ変わり、愛されるなどしてもいいが、前記事でもいった通り、物語全体のダークでホラーで耽美な雰囲気を損なう。

そもそも、「本当の世の中は、そのような(ディ○ニー・アニメ的な)御都合主義によって解決するようにはできていない。もっと複雑で残酷である」ってことを訴え、「そのことがちゃんと分かっている私は頭がいい」と主張するための創作であり、その意味ではやや“中二病”的なのである。

世の中に“デビュー”する前の年頃の女性たちは、それを読んで、大人の世界の怖さを予習し、「誘惑に負けず、他人をおとしいれず、正直に生きよう」と決意する。逆説的な教訓話であり、一種の世直し物語である。

すでに大人であり、成功した女性である原作者が、これから大人になる女性である読者少女たちに、世の中に関する例え話を聞かせる。そういう意味合いがあった。

デイモスは「罰された恐怖の神」として、誘惑の象徴であり、ヴィーナスは「罰された愛の女神」として、裏切られた愛の象徴である。それが許され、昇華するとき、人間界からも「誘惑と裏切り、それによる恐怖」は無くなるはずである。「こうして世の中は平和になりました。皆さんも正直に生きましょう」という子供のための寓話ならそれでもいいが、そうじゃない。

「世の中そんなもんじゃないでしょ」と皮肉を言い続けるためには、世の中自体が皮肉なものであり続ける必要がある。
「解決されるドラマを否定する面白さ」から始まっているから、最初っから矛盾をはらんでおり、解決しない。

彼らは許されてはならず、昇華されてはならず、美しくなってはならず、生まれ変わってはならず、したがってドラマは終わらない。

更に彼らはもともと古代の神だったので、人身御供を受け付けたことがある。「人間の娘をころせば妹神は救われる」という彼らの理屈は、それによる。しかし嬉々として実行されちゃ困る。読者が。

また、一緒に地獄へ戻った兄妹のために、美奈子ちゃんが「哀れな彼らをお救いください」と一心に祈ったとしても、どっちみち「同母兄妹の性愛を許してやる」ってわけにいかない。天上界としても地上界の読者としても。年齢差も人種・民族の違いも、最近では性別さえも乗り越えられようとしているが、これだけは無理だ。

したがって、「清純な娘の自己犠牲を受け入れて、さっさところし、その体を乗っ取り、禁断の肉体関係に戻る兄妹神ばんざい♪」というデストピア、ダークな大団円とするわけにもいかない。それでいいならとっくに解決している。

また、ギリシャ神話の神々が許さなかったものを、キリスト教の神が許してやるってのもまずいだろう。たぶん。

実際の作中の美奈子については、読者に合わせて同じ年頃の少女であるキャラクターを早めに出す必要があった。彼女は、誘惑されても屈しない代わりに、エクソシストや陰陽師を連れてきて積極的に悪魔と戦うこともしない。自分で勉強してみるわけでもない。

映画『エクソシスト』は、娘を心配していろいろな専門家に相談した母親の愛が結果的には勝った、という結末だった。神父の自己犠牲をともなったが、彼も病気の母親をじゅうぶんに看てやれなかったことで良心の呵責を感じており、逆にいえば親子愛が強いのであり、どっちにしても「親子の愛が悪魔に勝つ」ってことだった。

が、親にも相談しない美奈子は「彼は魅力的だけど、身を任せるのはちょっと怖い。どっちみち私には何もできない。助けを呼ぶといっても自分のお金もないし(当時はインターネットで調べるわけにもいかなかった)もともと私のせいじゃないし、どうせ誰も聞いてくれないし」という少女の優柔不断、計算高さ、ズルさ、責任逃れ、ふてくされ、よく言えば孤独な悲しみや寄るべない切なさ、そんなものの象徴である。

そういうものとして、いずれのキャラクターも存在し続ける必要がある。そういうものとしてキャラクターが紹介された時点で、彼らは実は終わってるのである。

池田悦子氏の原作はほかに『妖子』を読んだが、あれも「悪魔の娘」であるっていうだけで、その悪魔が「俺の娘をいじめるな」と人間世界に現れてデビルマンのように暴威をふるうってことではないし、妖子自身が超能力を発揮して「新世界の神になる」ってことでもない。

単に「出自がはっきりしない娘だから養父母に愛されない」というホームドラマに収束し、あとは彼女の周囲で大人たちが勝手に破滅していく。

スティグマを主人公に刻んだ時点で終わり。暗い予定調和の中で停滞するロマン。なんなら「やまなし落ちなし意味なし」といってもいい。サザエさんワールドでもいい。

逆に考えると、ともかく御都合主義によって一旦物語を閉じるほうが「オトナの対応」であるのかもしれない。
2012/10/15

ふと思い出す『悪魔の花嫁』

あれも初期設定に凝りすぎて回収できないパターンだった……(いやまだ続いてるらしいんだけど)

チャンスを得た作家があらゆるアイディアを詰め込んでしまうということがあるのかもしれない。

本当いうと三角関係は元の鞘に収まるしかない。
最初にカップルとして紹介されたキャラクターを、読者・観客は受け入れて、親近感をもつ。(受け入れないと始まらない)
二人が手をたずさえて困難を乗り越えた、という話でないと意味がない。

何ヶ月もの連載、何時間もの映画に付き合わされた挙句に「あの二人は壊れちゃいました。これからは新しいキャラクターをよろしく」では後味が悪い。

「新しいキャラクターのほうを活かしたい」ということであれば、元カレ、元妻が恐ろしい本性を表したり、悪霊となって追ってくることになり、これを新しいカップルで退治して、めでたしとなる。映画『オペラ座の怪人』はこのパターン。

悪霊の底にひそむ悲しみに焦点を当てれば、能『葵上』となるが、あれも悪霊としては退治されて終わる。

『悪魔の花嫁』では「ヴィーナスが悪霊となって美奈子を襲い、退治される」しかあり得ないだろう。

美奈子は彼女からデイモスに近づいたおじゃま虫ではないので、彼女が「身を引く」などという筋合いはない。
逆にデイモスが散々つきまとった挙句に「やっぱりヴィーナスが一番」と元の鞘に収まるのでは「なんだったんだ( ゚д゚)」というギャグになってしまう。
だから、ここは「ころすつもりで近づいた彼女を愛してしまった」を推し進めるしかない。

ここで美奈子が「私も彼を愛してしまった」ってことなら話が早い。ヴィーナスが猛り狂い、悪霊と化して襲ってくるが、二人の愛の力の前に倒れ、あるいはデイモスが美奈子をかばってヴィーナスの牙にかかり、さすがに哀れに思った天上の神々が奇跡を起こしてくれる……ってことで何とか決着がつくだろう。ディズニー・アニメだったら、そんな感じだ。

けど、美奈子は、一見きれいな顔をした若い男だが人間を破滅させる恐ろしい悪魔だというので彼を嫌っている。

望みのない兄妹は、「貴男をころして私もしぬ」ことが可能ならドラマとしては決着がつくんだけど、デイモスもヴィーナスも元が天上界の神々なので不死だから無理。

美奈子は生身の人間だから、彼女には滅亡があり得る。では望みのないデイモスに引導を渡すためにヴィーナスが美奈子に手を下せばいいかというと、手を下してしまったヴィーナスにデイモスの愛が戻ることはないだろう。

ここはやはりヴィーナスが一度(ディズニー・アニメの女怪のように)恐ろしいものとなって暴れるしかない。その上で成仏し(ギリシャ神話に成仏ってのも変だが)デイモスはゼウスか誰かの奇跡によって人間の青年となり、美奈子と結ばれ、二人の間に生まれた娘がヴィーナスの生まれ変わりだったので、慈しんで育てました……とでもすると収まりはいいんだけど、全体のダークな雰囲気、ロマンチックホラーな雰囲気を損なう。

あと、ゼウスがダメ親父として描かれており、ヘラもすっごい嫌なおばさんだったので、愛の奇跡を起こしてくれそうにない。
なんか『平清盛』の宮中がダメダメなのと似ている。いわゆる「義と悪が引っくり返」っている状態、権力者が揶揄されている状態。

それ自体は読んでいるぶんには面白いが、「もうヴィーナスも充分に苦しんだから許してあげましょう」など、まともな判断のできる者がいないので、物語に決着がつかない。つまりプロットを立てる段階で、目先の面白さだけが重視され、先へ行ってまとめる際にキーパーソンとなるキャラクターが設定されていない。そのような目線で物語作りがなされていない。

「革命を志したのに仲間と思った奴に騙された」と騒ぐ兎丸は滅ぼされてしまったが、ヴィーナスたちは元が神様なので不死だ。終わりにできない。

さらに今さらヴィーナスが悪霊化するきっかけがない。

『オペラ座』では、金髪子爵が新たなパトロンとして現れ、クリスティーナが彼と逃げようとしたので、それをきっかけにファントムが積極的に動き、彼女を閉じ込めようとした。

とすれば、デイモスがついに美奈子を選んでヴィーナスを見捨てる覚悟を決める必要があるわけだが、ファントムなら(外見のコンプレックスと犯罪歴をはばかって)外の世界まで追ってはこないところ、ヴィーナスはもともと神出鬼没な神様であるため、どこへ逃げようと追ってくる。

だから物語は「愛してる」と言った途端に地獄から絶叫が響き、世界がダークファンタジー化して、暗雲の中で人間の目には見えない戦いが繰り広げられるってなことになるしかないのだが、そもそも「神の身でありながら、なかなか心を決めることができない男の弱さ」が、愛と欲から身を滅ぼす人間界の女たちの弱さと呼応しているので、じつは決着がついてはいけないのである。

デイモスが、たとえ報われなくても美奈子に愛を捧げて、必要ならヴィーナスの嫉妬の炎によって我が身を滅ぼす覚悟を決めたとき、それは「恐怖の神」がいなくなるときでもあり、人間界にとって、それはあり得ないわけである。

不死の神(の罰せられた姿)である彼ら兄妹が(ダラダラと)存在し続ける限り、人間界には恐怖があり続ける……

物語冒頭の「性愛におちた兄妹が天罰を受け、地獄で責め苦を受け続ける妹を救うために、兄は生身の少女を生贄にする必要があるが、その少女を愛してしまった」というあれは、『オペラ座』『ノスフェラトゥ』のようなダーク・ファンタジー調な愛のドラマとしての展開・決着を望むなら、映画なら2時間、ドラマなら全5回、漫画なら短期集中連載で一気に「けり」をつけるべきエピソードだった。

「美しい男性の悪魔」が見守る前で、みずからの欲に駆られて身を滅ぼしていく人間の女たち……というオムニバスとして読めば面白い作品である。合体させちゃいかんかった、というのが本当のところ。

さらに仮に生まれ変わったとして、ちっちゃいヴィーナスが「パパは私のものよ」とか言い出すと、三角関係が終わらない(´・ω・`)

三角関係というのは本当いうと「気持ちの萎えが一致する」ということがないと終わらない。AとBが互いに飽きるからAとCがくっつく、またはBとDがくっつくことで決着するのである。

その意味では「最初のカップルの呼吸があくまで合っている」ことが必要である、という逆説が成り立っちゃうのであった。
2012/10/14

男が男についていきたがる時。

『負けて、勝つ』第5回を参考にすると、男が男に向かって、
「どこまでもおともする♪」とか、
「一生ついていく♪」とか、
「いつも貴男のことを一番に考えてる♪」とか言い出した時は、
裏切るフラグなのね (´・ω・`)

ドラマ中では、次郎は本当に他と取引したことを吉田に見抜かれて言い返せなかったのか、本心から彼の運が下り坂に向かう前に引退させてやりたかったのを曲解されて憤ったのか、どちらとも取れる描き方になっていた(と思う)けど、どっちにしても、言われたほうが「この男、急に何いってんだ」と訝しむようでなければ男同士としてはおかしいってことだ。

男は互いに滅多なことで言質を取ったり取らせたりしない。いつでも反目と裏切りの可能性と腹の探り合いの中で生きている……というのが大体フィクションにおける男同士の世界観だ。

あるいは発言キャラクターのあぼーんフラグか。「一生おともします」「どこまでも二人で行こう」と言った途端に一生が終わったっていうのはありそうな話だ。

映画『上海陸戦隊』では「私も連れてって下さい!」という負傷兵がいたけど、やっぱり途中で倒れちゃったな。

もっとも男と女の話でも「かたく誓ったはずが」っていう『金色夜叉』のパターンはよくあるから、誓ったところで「ドラマ自体が終わるフラグ」として、ハッピーエンドにするのが良いのだろう。っていうか、
ここで終わらないとハッピーエンドではないのだろう(´・ω・`)

若いイケメンをそろえ、(たぶん)女性が脚本を書いた今年の大河ドラマ『平清盛』は、基本的に「男性キャラクターが(作家・視聴者の)女心を代弁する」「不幸な結末は分かってる」というメロドラマなので、男同士で「ついて来てくれ」とか「ついて行きます」とか「登ってこい」とか「待ってて下さい」とかプロポーズ大作戦ばかり繰り返していてもいいんだけど、男のドラマに本来あるはずの「あいつ絶対裏切る」「やられる前にやれ」という緊張感に欠ける。

「平安のゴッドファーザー」って言葉で「平安時代のキリスト教徒」を意味したいのではなく、コッポラの作品をイメージしているのなら、あれはマフィアであり、アンチヒーローであり、互いに腹の探り合いと裏切りまくりの物語だった。

『負けて』のメインテーマは映画『3:10 to Yuma』(のリメイク版)のテーマと似ていた。「荒野に独り佇み、夕陽に向かって顔をあげ、戦いに赴く孤独なガンマン」みたいなイメージだったのだろう。

小りんや和子のように女性キャラクターが内助の功的な働きしかしない、男のナルシシズム的ドラマに辟易としているという女性視聴者も大勢いるはずだから、『清盛』のように美しい男たちが泣きながら愛しあい求め合うドラマが働き疲れた女性たちを慰めてくれるために存在したっていい。

問題は、日曜8時にそれを流したら「意味が分からん」と思われたことだ。

「くノ一」の入浴シーンを売りにした長寿時代劇がついに終了したので、男性向け時代劇がウケなくなった時代、といってもいいのだろう。じゃこれからどうするか。歴史キャラクターの名前を借りた一部女性向け二次創作みたいなドラマをまた流すのか。

来年は若い女性が主人公で、有名人の「妻」であることが決定しているので、心配していない。女性が主人公で、きちんと嫁ぐ話はウケがいい。

再来年の黒田官兵衛は男性ながら「内助の功」的なキャラクターだから、それを男性脚本家が描くとどうなるのか、興味深い。来年のことを言うと鬼に笑われるというのにもう再来年の話。

2012/10/12

土曜ドラマスペシャル『負けて、勝つ』最終回。

テレビはカーテンコールがないので残念です。スタンディングオベーションを送りたいです。

一週間遅れで満を持して観てよかったです。オンデマンドさん有難う。時々FLASH止まるけど頼りにしてます。

ちなみに「バッファ中」表示が出たきり止まった時は、いちど「その他のエピソード」を呼び出して、どれでもいいから移動し、そこでまた「その他のエピソード」から途中停止した回を呼び出すと「続きから見る」と表示され、停止したところから見ることができます。

それはともかく。

元帥退陣には、春の名残をいかんともしがたく泣けました。来て、見て、勝って、負けた。吉田の5年間はマッカーサーの5年間。まずいチョコレートも二人で食えば旨いのさ。泣きながら。
坂の街には千万人といえども我行かん。男は独りで考え、祖霊に語り、女は固唾を飲んで見守るばかり。これでいいのだ。

サクサクと静かに運んでいるのに見応えがあるのは全く結構なことです。「老将」が相次いで立場を悪くし、消え去っていく事実を知っていてなお、手に汗にぎるとともに動悸のする出来栄えでした。なにしろ滑らかに撮るカメラの切り替えのタイミングと目線の移動ぶりが気持ち良かったです。ツボにはまった舞の型を見ているみたいでした。冒頭に吉田が病身をおして立ち上がった際だけ使われた手ブレが利いていましたね。

今回は音楽がやや多めで、情緒刺激的でした。最終回としての盛り上げなのだな、ともかく条約調印がなされて、このまま回想シーン多用でしんみりと終わ……るような作品じゃないはずだけど、どーすんだと思いながら残り時間を気にしていたら、凄まじいシーンが用意されていました。

マッカーサーも吉田も「老いぼれた」という役作りが凄まじかったですね。斜め下から撮って痩せて見せたのも上手かったですが、吉田の首筋の皺は、VFXなのかな。描いてるのかな。あれがものすごく「お年寄りらしさ」を見せていました。勿論それよりも何よりも、やはり渡辺謙の演技。そう、老人は眼の玉が動かないものです……

太平洋の向こうへの敬礼には滂沱(TдT)と泣かせてもらったけど、いいよね。

退陣といえば、バッサリ斬り返されたときの次郎の目をむいた芝居も良かった。彼なりに良かれと思ったわけですが、とんだ「男の友情」でしたな!
息子・健一が小りんから父の本心を聞かされてグラグラ動いていたのも素晴らしかったです。

巧言令色少なし仁。男が男を誘うときは、余分な言葉は要らない。男が男を断るときも、余分な言葉は要らない。
最後へ来て側近と息子の役割が逆転したのは会心のまとめでした。逆に男が女に約束するときは、決然たる言葉が必要なんですな。「いいから早く抱っこしてやれ」と思いましたが、彼らしくて良かったです。そして外人俳優を含めて、どちら様も長回しに耐える演技は良いものです。

そうだ、ナリコさん良かったね(違)乾杯は三三九度みたいで良いシーンでした。男は独りで生きたような顔をして、独りで先に逝っちゃうんだよね。
ラストは暗転の瞬間、富士山が浮き上がったのがベタであるとともに鮮やかでした。ばかやろーー

エンディングクレジットの「一本松」が印象的でした。

合掌。


2012/10/12

悪の帝王と不遇な皇子さま。

と、悪の帝王を倒すことを誓い合った若者が二人いたら、不遇な王子様を仲間にして悪の帝王を倒すってもんである。

現代人は「庶民が団結して国王を倒した」ということが実際にあったのを知っているので「義と悪をひっくり返す!」と宣言されたら「さっさとやればよろしがな」と思う。

清盛くんがさっさと家出して兎丸を脱獄させ、再び宋船に乗って院の所領を荒らし回り、やばくなったら比叡山に逃げ込んで、明雲と三馬鹿トリオを結成したら楽しかっただろう。

諸悪の根源が白河院の院政だったとするなら、その跡をついでソックリ同じまねをし、当たり前のような顔をしている鳥羽院(と美福門院)を蹴倒して、不遇な崇徳院(と重仁親王)をお救い申し、若者だけで庶民のための政治を行う独立国を打ち立てればいい。

後白河帝を操って実権を取り戻そうとする信西は、ジャファーのイメージ。主人公たちとはあくまで対立の方向で。最後はとうぜん清盛くんと信西の一騎打ち(!)で、もちろん清盛くんの勝ち。ラストは時子ちゃんとのキスシーンかな。明子が生きていたって脚色もいいかもしれない。

……少年漫画調、ミュージカル調に始まったなら、そのまま追求していけば、こうなるべきじゃなかったか? と思った。

実際にはそうはいかないので、グッとねじ曲げざるを得ず、清盛くんは革命の同志である友人と、親戚でもある不遇な皇子様を裏切らざるを得ず、そこんところの説明は「自分の読みの甘さを指摘され、信西に頭を下げた」ってことになってしまった。それなりの苦悩はあったわけで、俳優もよく演じていたと思うが、いかにも残念である。

清盛くんは「身内をころしてこい」と言われるという凄まじいイジメを受けたわけだが、「いつか天皇より偉くなってやる、後白河をぶっとばす!」という少年漫画らしい方向へ行かない。「あんなにがんばったのに何にもならないのはなぜ!?」とスネた挙句になぜか「あたしも後白河さんみたいに偉くなりたい! その一歩手前で充分だけど!」で終わってしまう。実際に命令を下した(であろう)信西については、さらになぜか「あの人には負けたわ。一生ついていく♪」と新妻のようなことを言い出す。

少年漫画調にはじまって、女性物語調でしめくくる。タッチの不統一が戸惑いを呼んだってことはあった……ような気がする。

やせても枯れても四男坊でも今様が下手でも(うまかったとは言われていない)天皇は神の子であり、日本人はその身体を、生命を手に掛けることを想像もできない……という説明は、あっても良かったかもしれない。

神としての力を宿しているからこそ天下を乱す怨霊にもなる。一般人が「うらめしや」と出てきても枯れ尾花と間違えられるのが関の山である。

「天皇を大事に考えるからこその、臣下たち同士の微妙な権力争い」っていう説明が最初からスッポ抜けているように思う。(だから『負けて、勝つ』が「おかしいとお思いでしょうが」とフォローしたり)

2012/10/11

ジェリー・ブラッカイマーのローン・レンジャー・:*:・(*´∀`*)・:*:・

先日ポータルサイトで「意味のわからない昭和の流行語」っていう記事を拝見しました。1位はキモサベでした。私も昭和の子ですが知りませんでした。ローン・レンジャーのお友達のトントが使った言葉だそうですね。

その記事で、ついでにジョニー・デップ主演でリメイクされるって読んだのですが、我が家には映画『ヴェロニカ・ゲリン』つながりで借りた映画『キング・アーサー』のDVDが郵送で届きまして。
視聴前に改めてブラッカイマーさん調べてみました(調査先はウィキペさん)

そっかー『ザ・ロック』も『コン・エアー』も作った人かーー。面白かったなーー
(※パイカリは観てない人)
そして2013年にはローン・レンジャー。え。

昔は諸般の事情により「誰が出ているから」「誰が作ったから」といって、思い立った時に映画館に行けるとも限らず、最近「ネットで予約、郵送で届く」というサービスを利用するようになってから、「出演者つながり」「製作者つながり」「監督つながり」等で選んで立て続けに観るようになりました。

なんか御縁があった気がして嬉しかったです個人的に。

デップはトント。今度はどんな凝ったメイクを……と思ったらこんな感じ

トレイラーからして綺麗で楽しそう。女性のドレスが時代考証よりもファンタジックさを強調しているようでいい感じ。「キモサベ」ってチラッと聞こえましたね。

トム・ウィルキンソンも気になるーー(ノ´∀`*)
2012/10/10

顔をみれば分かる。

最近は早めにやってしまうところも多いようだが運動会シーズンである。体育の日だし。
学校行事などで親子が連れ立って歩いているのを見ると、ゾッとするほど、あるいは笑っちゃうほど顔が似ているものである。

赤ん坊の顔はみな同じなようだが、よく見ると他所の家の子は他人の顔をしている。
新生児の両親(母親も)はまだ実感が薄く、新生児室に並んでいる赤ん坊の中から自分の子を見分けられないことはある。

が、一人一人見つめていくと、「これは明らかに他人の顔」というのが分かるものだ。消去法で自分の子を見つけると「そういえば目が自分に似ているような……嫁(夫)に似ているような……」というので、少しずつ実感が湧いてくる。

見舞いにきた親戚のおばさんは一目見て「○○くんの小さい頃にそっくり!」などと叫ぶ。

面白いのは、父方の親戚は新生児の顔をみて「お父さんに似ているね」と言い、
母方の親戚は「お母さんにそっくり」ということだ。
ミックスなんだから両方の特徴を備えているのは当たり前で、人間の目は自分の見たいものだけ見て取る。

『犬神家の一族』事件の肝は「神主の娘がじつは」だった。

佐兵衛から見れば「愛した女性にそっくり」である娘が、はたから見れば「誰が父親か一目瞭然」だった可能性はある。サスペンスのトリックは意外と綱渡りだったりする。

(事実は小説よりも奇なりということがあって、本当に誰も気づかなかったってこともあり得るけど。)

だから「高平太って白河院にそっくりじゃね?」と思った人がいた可能性もある。

テレビのなかった当時の庶民は、院のお顔なんて知らない。が、両方のはざまにいた家成卿はゾッとしたかもしれない。

やせても枯れても女性関係がえげつなくても、院は元・天皇であり、神の子孫である。その血を享けたとすれば、ギリシャ神話でいえば半身の英雄であり、死後は星となって天上に列せられるべき存在だ。日本史上に輝く赤い巨星ではあるかもしれない。

ともかくそういうわけなら家成さんは「ゆめゆめ粗末に扱ってはなりませんよ」と従姉妹の宗子さんに言ったかもしれない。

だからこそ平太に要職を与えなかった、出仕させなかったと考えるのも面白い。皇子として担ぎ出され、あるいは政治家として実権を持つことを恐れられた……「うちで唐菓子でも食べてのんびりしていらっしゃい」と家成卿は言ったかもしれない。だからこそ忠盛も四位以上に出世させられなかった、落胤の後見が参議となって院とガッチリ手を組んでは朝廷貴族はたまらない……と考えるのも面白い。

逆に言うと、そういう子にありがちなように「寺へやられる」ってことがなかったんだから、ふつうに忠盛の子だと思われていたのかもしれない。祇園女御による特別な計らいは、単に白河院と忠盛の関係を強調するための演出だったかもしれない。そう考えりゃ清盛も、彼の馬のくちとりをさせられた子も、いい面の皮といえなくもない。

実父より位の高い家の養女にされた上で嫁入り(入内)させられた少女たちも含めて、子供たちはそんなふうに大人の政略の道具にされていた時代だ、といっていいだろう。

そう考えてもなお、忠盛を参議にするわけにいかない。院とガッチリ(以下略)

要するに忠盛(平家)は、武力とコネと金で昇れるところまで既に昇りつめてしまったのであり、どっちにしてもそれ以上の出世の望みのなかったものが、後白河院というイレギュラーな存在によって覆された。

近衛帝が早世なさったのが多くの関係者にとって計算外だったわけだけど、そもそも近衛帝をむりに即位させないで、崇徳帝を長生きさせて差し上げれば、あの騒ぎにはならなかった。鳥羽院が「私なき後は皆で顕仁を盛りたてるように」っていえばよかった。院が彼を「自分の種ではない」と信じて遠ざけたがったのがいけない。白河院が最初の駒を倒したドミノが廻り廻って平家を頂点に押し上げた。

70~80年代のテレビでは「ドミノ倒し」が流行った。三角錐のふもとから頂点へ向けて駒を並べると、勢いのついたドミノは重力にさからって上へ上へと這い上って行く。最後はロケットが上がったりしたものだ。面白かった。

ドミノの向きを変える回転盤のようなものがあったが、保元の乱(またはその前史)でその役目を果たしたのが信西だったのだろう。

やがて正三位となって正装した清盛を見て、昔を知る高位高官たちが「白河院のお若い頃にそっくり」とゾッとした……なんていうのは、やっぱり面白い。

(ついでに殉死というのは美福門院みたいに残された者が権力をもつことを防ぐためだったのかもしれない、と思うなど)


2012/10/09

大河ドラマ『平清盛』第39回「兎丸無念」

抱っこ(*´∀`*)

見応えのあるアバンタイトルでしたね……。アクションシーンは吹き替えなしのように見えましたが、お疲れ様でした。お見事でした。長刀を頭上でまわすのカッコ良かったです。「欄干に乗る」も再現してくれて嬉しいです。
「髪型からいってどう見ても禿じゃない件」とか「何をしたいんだ禿たち」とか「見たとこ明るいようだが見物人はいないのか」とかノリノリでツッコミたくなる程度に楽しかったです。

世紀の対決がアバンタイトルに突っ込まれて終わりというのにはやや面くらいましたが、ピリッとまとまっていたし、このドラマらしい味付けになっていて良かったとおもいます。禿をきっかけに会話が始まり、ほぼ自然な流れで素性が分かる。幾つかのエピソードをまとめる手腕がここのところ冴えているようです。戦いながらしゃべるマンガ演出も、それはそれで良いです。「フィクションならではの楽しさ」は追求されていいと思う。

残念なのは弁慶のキャラがかつての清盛とそっくりなことですね……かぶり過ぎでしょう。一人の作家から出てくる球はそんなに何種類もないってことですが、輪をかけて残念なのは、松ケンより青木さんの芝居のほうが自然なことだ(´・ω・`) いや松ケンは悪くない。彼はがんばっている。(というか第三部に入って謙虚にがんばっている)
第一部ではちょっとりきみ過ぎただけだ……。声が軽いのでちょっと強い芝居をしようとして頑張ると怒鳴り声になっちゃう。舞台の経験など積んで喉を鍛えるといいと思う。

オープニングを見てやっと気づきましたが、国松とき松たちはずっといたのですね。

さて、福原。おお、まったく歳を食っていない義清がいる。今更。あんたに言及しなければ保元の乱の描写はもう少し分かり易かったと思う今日この頃。

「泊の普請」と字幕が入った。現代人が耳で聞いただけでは分かりにくい単語を(下手な)ナレーションがつるっと言って終わりにしてしまうので、「字幕があるといい」とかねがね思っていた。いろいろ今更だが最後まで無いよりはよい。今からでも前半に字幕を重ねることはできまいか。

この作品は「日曜8時」の枠が取っ払われると再評価される可能性があると思っている。オンデマンド視聴やDVD発売をにらんで手直しするのも悪くないと思う。

兎丸に関する「先週の回想」は、いわゆるフラグなのでしょうが、話はどんどん進めて下さい(´・ω・`) 

こんな文句を言ってると禿(と時忠)が瞬間移動してくるのかもしれません。床下にいたりするのかもしれません(笑) 御所に入れなさんなよ!

松殿と九条殿の兄弟漫才は好きです。べつに萌えないところがいいです(笑) 忠実と忠通と頼長のトリオ漫才も、もっと一杯あれば保元の乱前史がもう少し分かりやすかったかもしれない。

あくまでテレビドラマだから映画のような大掛かりなセットばかり造れないし、エキストラ動員の手間とかもあるので、映っているのは基本的にメイン俳優の顔ばかりで「そのほかの世間はだいたいこんな感じで動いていたんですよ」っていうナレーションと台詞による説明で終わらせちゃうのは、物足りないけど間違いではない。

ないから……それでも支持が低いとしたら、あとは何がいけないんだろう……とずっと考えながら見ている。私自身もモニターではないが観ている人(しかもオンデマンドで)なので、数字に表れない支持は確実にあると思うんだけど。「マンガタッチ」「歌わないけどミュージカル調」と割りきって観れば楽しい作品だと思う。

加藤浩次はうまいと思う。よく雰囲気を出していると思う。体格もいいし声も個性的だ。わりと好きだ。

おお、久しぶりに穀物粉が匂い立っているw 実は1月8日に放送が始まって、10日に例の知事のクレームが発表されたが、その後の一ヶ月間、第四回までは平均視聴率は第一回の水準を維持しているのだ。第一回を見た人は「汚いから、粉っぽいからもう見ない」とは思わなかった。それなりに面白い、続きが気になると思いながら見たのだ。

第六回の鳴り物入りの大海戦が、裏番組に惨敗したが、実は既にその前の第五回でちょっと落としている。個人的には鳥羽院がナリコさんを押し倒したのがまずかったんじゃないかと思っている。逆に言うと「だからこそ面白い」と思える大人向けにアプローチし直すと再評価されるんじゃないかと思っている。

(そのあとまた院や左府が活躍する回は数字を少し戻しているので「第六回は見なかったが、また見てみよう」と思った人もいるわけで、「暗い」「分かりにくい」と言われた宮廷ドラマ部分も、それでも見るという人もいたことになる)

で……六波羅の几帳が真っ赤っ赤になってる。やや目に痛い。長たらしい官職名も字幕が入った。いい感じである。
宋からのお手紙はなんか素直に嬉しかったです。おめでとさん。贈り物を並べた朝廷の撮影もお疲れ様でした。公卿たちが短いセリフで状況を言いついで行き、院の「先例が大事」の言葉でまとめ、成親と西光が側近として進言する。人間関係もそれぞれの立場も分かりやすく描けていて、本当に良くなったと思います。基本的に史実に沿っているから話運びにも無理がないですし(それが一番の要素かも)

相変わらずナレは無くても分かるような感じで微妙。

思うにあのナレは視聴している女性が頼朝くんを相手に「あ、そーなんだーー」と会話している気分を味わうために必要なんじゃないかな(逆にいうとそれだけなんじゃないかな)

普請はえらい狭いとこでやってますが、それをちゃちなセットっぽく見せないための「汚し」の工夫は、よろしいんじゃないかと思います。

対決シーンは見応えありました。ずーーっと細かく手ブレしてるカメラと、じっくりした中にも緊張感が持続するのが、柴田さんらしかったと思います(坂の上の雲とか思い出してみる)BGMひかえめだったのも良かったです。決定的なセリフが吐かれた瞬間の落雷など、ベタなとこがいいんですな。で、やっぱり加藤浩次は良いと思う。そして誰もいなくなった福原御殿の豪華な赤が切なさを増す……

それでも残ってる盛国、千両役者でございます。初めてかっつーほどの長台詞。アイ狂言かっつーほどの好まとめ。この人の声でナレーションを聞きたかったとだいぶ前から思っております。

清盛すねちゃった。

五条大橋の下でキャンプする兎くんたち。馬で一日の道のりを怪我人を担いで歩いてきたんか。嫁もまとめに参加。初めて「妻がまともに夫をはげます姿」を見た気がする。桃李ちゃん好き。明らかに日本人でないお顔立ちが画面にアクセントをつけてくれていると思う。海外ドラマと違って日本ドラマは金髪や黒人、アジア系入り乱れてってことがないので、俳優・女優の見分けがつけにくいのが最大の難点。

第5回、第6回の海賊シーンと同じ演出家さんで、締めくくるというのか決着をつける形になっているわけですね。そうだよく言った兎丸。平家がのし上がることしか考えてなかったんだ。あの時はそれしか出来なかったんだけどな。これは脚本の自分つっこみなのか当初からの予定なのか。

ラストにかけては全編中の白眉としたいです。同士討ちを乗り越えるのはマフィアの基本。構図もテンポも照明(の暗さ)もよかった。朝になって白茶けた周囲の空気感が利いていた。俳優陣の顔の演技も、それを一瞬かすめるように撮った(使った)のもよかった。一門が脇役・背景に徹していたのも非常によかった。

盛国が締めてくれて本当によかった。西行でもフラ~ッと出てきたらぶん殴ってやるところだった。やっと「徐々に盛り上がった果ての男泣き」という芝居が見られた。こっちも泣けた。文句言いながら付き合ってきて良かったありがとう。柴田さんお疲れ様でした(まだ終わってない)

経石に至る話のつなげ具合もお見事でした。今回は後白河さんが笑かしてくれたっていう部分もなかったし……あとで蒸し返したくなる疑問点もなかったように思う(禿の瞬間移動っぷりについては問答無用)兎丸が多少短期なようだけど「平家は世のため人のためになっていない」というのは第1話で父親を「退治」されてから彼がずっと持ち越してきた気持ちではありましたから瞬間沸騰してもよいのではないでしょうか。

「始末」とはきつい言葉ですね。関係各位の血の涙のようながきいていましたね。

あれだな、清盛は他人の言に左右されて動くが、その素直さが良いところっていうようなキャラ性ですね……。成り行き……? 歴史にかんがみた脚本家による人物解釈? 兎丸は庶民代表、一般視聴者の感性代表で、清盛の良心なわけですが。盛国は清盛の「心の声」なわけだし。彼らにしゃべらせて視聴者に伝わりやすくしたぶん、清盛はあやつり人形的ではあるかもしれません。

それにつけても最近ふつうに真っ当に面白いと思うんだけど、どうでしょ。

さァ次回はやや盛りだくさん気味、建春門院なくなって急展開の気配(といいつつ急展開自体はその次に持ち越しといういつものパターンかも) 厳島ロケが楽しみーー
2012/10/06

『平清盛』第38回 平家にあらずんば人にあらず。

め~~。

忠義の証の羊にございます。

め~~。

久しぶりに気だるかったですね。だいぶ前から思ってたんだけど、この作品「日曜8時」じゃなくて「土曜10時」くらいがいいと思います。ひと眠りしたくなるから。(悪い夢をみるかもしれない)

アバンタイトルが若干気になる。分かりやすくていいけど、「清盛の次の狙いは」ってそれ、作品の中で視聴者が自ら気づくように描かなければいけないことなんじゃ。ドラマの情趣を削いでいるような気もする。

杏ちゃん 政子ちゃんは心のオアシス。できれば設定年齢も字幕で出してください。(承安元年なら14歳)月下の親子語り合いは照明が美しかったです。

ここまで来て回想シーンに時間を割くのはどうなのと思いつつ、ああ侍烏帽子姿の清盛もカッコ良かったな、頼朝の子役は可愛かったな、などとまんまと一緒に回想にふけるなど。あの頃から清盛の人間性が変わってきたなと思うと、うーーん……やっぱなァ……平治の乱に先立つ保元の乱を前に、新院への義理を切り捨てる覚悟をしたあたりをもう少し書き込みたかったかねェ……信西にひとこと言われて気が変わったってふうだったからねェ……

「いったい如何なる化け物じゃ」

ちょっとしたカメレオン俳優です。最近は中年らしさをよく演じていると思います。ダイエットと顔色悪めメイクがきいていますが、第1部の頃と同じ人物とは思えません。たぶん脚本の世界にストンと入れる人なのです。あの頃もねェもう少しねェ同じ中二病でも怒鳴らない役作りがねェできていればねェ。

今回は「頬っかむりのお忍びルック」が可愛く、久しぶりに「持ち味」ともいうべきギャグ調が利いており、涙が出るほど笑わせて頂きました。基本的に好きみたいです松ケン清盛。

深キョンは大人っぽくなりましたね。この作品で一番成長したのは彼女なような気がします。
滋子ちゃんはフレッシュでいいですが……まぁこれからね、これから。
徳子ちゃんは理知的なお嬢さんで、きれいな高倉帝とベストカップル誕生という感じで微笑ましかったです。

そして瞬間移動できる子供が多くて困る(´・ω・`)
そしてこれは脚本における語り順の不手際なのか、伝承における矛盾をついたというべきか。赤い禿が活躍している以上、そもそも「羊の病」の噂が立っちゃいけませんな……

羊の件と入内の件を絡めた後白河院との駆け引きは、よくまとまっていて面白かったです。語り口が遅くて眠けを呼ぶのはいつものことさ。「宮中っぽさ」を出すためと、オープニングのピアノ曲から引きずった雰囲気を維持したいがために、台詞のテンポが遅いから、どう編集しても「しゃべってるのを聞いているのが既にたるい……」感はどうしようもないんですな。まぁ長々しい(うえに意味のない)言葉責め的な台詞がなくなり、顔による芝居が増えたのは結構なことです。

俳優が若すぎて学芸会っぽいのは……まぁ仕方がない。

後白河院が変なものに凝っているのもいつものことさ。散々かっこつけた挙句に売り言葉に買い言葉で乗せられやすく、視聴者の失笑を買うのもいつものことさ。五節の夜をウロウロして「思い通りにはさせん」とか言っといて高官の任命権を清盛の手に残しておいたんじゃ、本人を不本意な太政大臣に任命してすぐ辞任に追い込んだとしても何のブラフにもなっておらず、ここまでのさばらせてしまったのも、まぁ仕方がないさ。舶来品に弱いし。

本当に清盛の坊主頭をバリバリ喰いそうな人と、本当に腹を食い破って足から先に「よいしょ」と出てきそうな人で、爽やかな福原の空気感に凄惨なイメージが二重写しになって見え、面白い場面でした。

それにしても海、見えないね。テレビで潮の香を流すことができるといいなと思いました。

西光さんは……そこで信西を出すのか盛国。ドラマ的には「回収した」ってところだけど鹿ヶ谷はどーすんの。

公卿たちが誇張した芝居をするのでコメディ調になってしまい、浮いているのはどうしようもないのか。古代ローマの貴族なども「太っていて食いしん坊で」と戯画的に描かれることはよくあるけども(『サテュリコン』など)

成親さんだけが冷静なセリフまわしで好感度高かったです。あの俳優さんも何か度胸が座ってきた感。

成親さん&西光さんといえば、清盛は家成さんちで何していたんでしょう。

1.「やっぱ貴族の食い物は違うなーー」と食っちゃ寝。
2.「やっぱ貴族の家の女房衆は違うなーー」とナンパ。
3.碁を打って戦略の研究。
4.万巻の書をよみふけっていた。
5.院と後宮を利用して出世する方法を家成さんに教わっていた。

遠慮を感じていたはずの義母、のいとこである貴族の家っつーのが気になる。西光さんは「高平太」とは言ったが無頼とは言ってない……

八条院の捨て台詞はやや微妙で、滋子ちゃんの実家と清盛の家は同じ平氏でも系統が違うのよっていう説明か、「平家の血」ではなく「清盛の血」という言い方が望ましかったかなーーと思いました。公卿たちは端的には「入道その人」を恐れているわけだし。

当時の人がいかに「血筋」を気にしていたか、そのくせなりふり構わず他所から養子・養女をとってはまた別の家(なかんずく「王家」)に送り込み、その縁による出世に血道をあげていたか、その生々しさは(保元の乱の直前にすごい勢いでまくったけど)もっと時間をかけて説明してもよかったかもしれません。

それでこそ引き立つ、そこに風穴を開けた平家のインパクト……今回ついに清盛みずから「武力と財力が切り札」って言ってのけたけれども……うーーん。

ハキハキし過ぎなアバンタイトルといい、中途半端なナレーションといい、一般向けに分かりやすくしたいのか、分かりにくいまま歴女の予備知識を頼りたいのか、いまだによく分かりません(´・ω・`)

そして時忠くん、惜しい。決めセリフは繰り返してはいかん。
そして、そうだ清盛。自分じゃ何も考えんかったんかい大輪田泊の埋め立ての件! 真上から撮る構図は「がんばったな」と思いました。撮影は細野氏でした。演出は渡辺氏でした。今日もジャジーな選曲がすてきでした。もう少しすくなくてもいいです。

そしていつの間にか千人斬りを済ましている弁慶……都の治安維持はどうなっとるのか、平家。
改めて「伝承に無理がある」ことに気づかされたかもしれません。
2012/10/05

土曜ドラマ『負けて、勝つ』第4回。

時の過ぎゆくままに政治やってる嬉しいな(ノ´∀`*)

右手で握手すれば左からフックを喰らう。ドラマとして見てるぶんにはこれほど楽しいものはない。

すっとばし気味の第3回から一転、テーマをひとつに絞りこ……まざるを得ない大事件が起きたわけですが、各人がどう対処するのか、じっくりした感じがよろしかったです。相変わらず場面転換が「建物の外観」「廊下を歩いてくる人物」からゆっくり入ることと、見事なまでにBGMが少ないので静かに鑑賞できるのがいいです。時おり使われる揺れるカメラが利いてましたね。

懐刀、大活躍。いまだに彼がどんな肩書き、資格で吉田の側にいるのかドラマの中では説明されていないわけですが、状況を知らない者はそもそもこの作品を見ないってことになってるのでしょう。それにしても電話しかなかった時代にどうやって秘密情報を調べたのか……(リークに継ぐリーク、人から人への伝言ゲームしか考えられないので、人脈づくり=政治なのでしょう)

ウィロビーの“ 劇薬 ”ぶりも「結局はこれを狙っていたのか」と伏線が回収された感。他人(とくに外国人)の体に触れることは非常な失礼を意味するわけですが、ついに我慢できなくなった次郎。ここへ向かって3回半かけて盛り上げてきたんだねぇと既に遠い目。

そこから怒鳴り合いなどに入る前にパチッと場面転換してしまうのがいいと思います。そして相変わらず渡辺謙のカメラフレームから不意にいなくなるような身体の転換はかっこいい。元帥との直談判のセリフの少なさ(=余計なことを言わない)には興奮したっす。

毎回登場人物名が字幕で紹介されるのも有難い。ギリギリな人数でいっぱいに廻してるのが作劇のお手本のようです。身寄りのない女性の苦労が平和憲法のマクラにされちゃいましたが、庶民を彼女に代表させつつ、これも余計なことを言わせなかったのが非常によろしいかと。

健一はやはり文学研究者であり、物書きなので、鋭いことを言うんですな。うざいけど。俳優の田中 圭は素晴らしい勢いで舌がまわっており、見事でした。

全体に女性たちが充分に分かった上で謎めいた台詞を吐くのがいいです。
男たちは同席した全員が本当は状況をわきまえてるのに視聴者に分からせるためにあえて声に出してるような感じ。

もともと男が口にするのは、そんなふうに「本当は言わなくてもみんなが分かってること」であるのかもしれません。あえて誰が口に出すか、が問題なんだな。「○○さんが言ってくれて助かった」と思うのさ。発言によって場の支配者になるということは、責任を取らされるということでもあるから。

話題そのものは実にタイムリーというか。ノーコメントにしておこうかな。女は軍隊に口出しちゃいけないと思うんだ。自分の体を守ってくれるために男たちが死を覚悟するという時「なぜ戦うの」なんて寝言をぬかすべきではない。「戦争に負けるということは女性がおかされるということですよ」

大河の女性キャラクターは、平和がバランス外交と国境警備にかかわる不断の努力によって保たれていることを忘れて「そこそこの平和で充分なのになぜ戦うの?」って訊く。女性が書いた男性キャラクターは「なぜ義のために人を斬るのですか」って訊く。女たちが「そこそこの平和で充分よねーー」という陰で男たちが「犬」と呼ばれ「傀儡」と呼ばれ「奴隷」と呼ばれる屈辱に震えていることを無視する。まぁ中二病の文学青年もね。健一が「庶民ですよ」と開き直ったとおり、女たちも「女のくせに」と呼ばれる屈辱に日頃から甘んじているから「ちょっとぐらい嫌なこと言われても我慢すればいいじゃない」「無理して出世することないじゃない、家族のほうが大事でしょ」という理屈に落ち着きたがる。その家族の心身が汚されないためにこそ出世しようとしているのに……

(大河と比較すると、この土曜ドラマはあまりにもいい対照になってるので面白いのだ)

今回の名セリフ「なるべく死なないようにお願いします」「おじいちゃんが決めるんでしょ」(賢いぞ太郎)
今回のオマケ:バーグマンは美しい。

さァあと1回。(このくらいで見る側のテンションが一旦落ち着いてしまうものなのかもしれない)
2012/10/05

2009年アメリカ映画『ダレン・シャン』

原題「シルク・ドゥ・フリーク 吸血鬼の助手」

よく分かるヴァンパイア講座(ノ´∀`*) 「仲間のつくり方」とか「血の吸い方」とか。吸うっつーか肩口に小傷をつけて啜るらしいです。「おっさんの血はやだなーー」と腰が引ける主人公が可愛い。

HBO『ROME』のプッロ役、レイ・スティーヴンソン目当てで借りたらしいです。相変わらずワルっぽくてセクシーな感じ。今回は、こってり悪役。体格の良さをいかした威圧的な役で印象的でした。

と思ったら……渡辺謙がいたーーーー!(^o^) 楽しそうに演じていました。「謎めいているが理性的でもある」という東洋人らしさがよく生きていたと思います。

『オペラ座』を見て「見た目をネタにするのはどうなんだ」と言ってるそばからフリークス。キャンプを張って助けあって生きる彼らの姿は心に残ります。CGで作られた「リトル・ピープル」の寂しそうな表情が秀逸だったかもしれません。

秀逸といえば、影絵っぽいオープニングアニメーションが素敵でした。オープニングがアニメなのは60年代に流行った気がするけど最近はあまり見かけませんかね。

主人公少年の人生哲学っぽいナレーションから始まること、やたらテンポの早い序盤の展開、「中流階級の暮らしが一番だけど退屈だよね、暗黒魔法や妖怪に憧れちゃうよね」というテーマがイギリスっぽいなーーと思いましたが、アメリカ作品でした。原作がイギリス、アイルランド系であることを意識した演出だったのかもしれません。

絵的には工夫もあり、手慣れた感を楽しく拝見できました。主人公少年の世話をかいがいしく焼く団子鼻のおっさんヴァンパイア(ジョン・C・ライリー)が愛らしく、音楽の使い方が青春映画っぽさを漂わせて、全体に良心的で懐かしい感じ。

おっさんヴァンパイアが色男だと、女の子のようにきれいな顔をした主人公少年との間に色気が漂ってしまい、それじゃいけないので、ここは一般的に考えてカッコ良くなくても正解なんですな。フルレングスのコートをなびかせて助けに来てくれるシーンは、いい感じでした♪

クライマックスは彼らシワっぽい顔のおっさんヴァンパイア二人の噛み付き合い(笑)ワイヤーアクション多用で俳優さん(とスタントさん)はお疲れ様でございましたが、どうなんだこれ燃えるのか。萌えればいいのか。それと最も肝心なはずの主人公少年とライバル少年の戦いがかぶっちゃって、盛り上がり具合が微妙……

俳優陣はキャスティングもよく、熱演だったと思います。が、それによりかかってしまった低予算感がありましたか。

フリークスの造形と描写に最もちからが入ってしまっており、それはそれで見どころで、「見た目の異常さで金を稼ぐなというなら、一緒に住んでくれて、金をくれるのか!?」などの社会的主張も織り交ぜられ、「アンダー・ザ・ローズ」なキャンプ地の配置も素敵でしたが、全体に子供向けな微笑ましさが前面に押し出されており、たぶん原作ファンには不満な仕上がり、と思いました。(読んでません)

たぶん詰め込みすぎました。ちょっとどっかの大河みたい。

原作がジュヴナイルってことで子供向けのようでもあり、その割にナイフぶっ刺しみたいな子供に見せたくない表現もあるし、じゃあ大人向けかっていうと、「ヴァンパイアとヴァンパニーズが対立している理由」「“会議”の権力」「主人公たちが選ばれた理由」など世界観の説明が十分でなく、全面戦争が回避されたのかどうかもよくわからないままに、思春期の自分探し物語として和やかに収束してしまったという。

ダレンのDNA二重らせんに蜘蛛が絡む映像はすてきでしたが、その蜘蛛との関わり・興味が彼の特殊能力として発揮されるってほどでもないし……主人公は誰だ。エンドロールのキャスト表示では、おっさんヴァンパイアが先頭に来てるんだけど!(笑)

原作は読んでませんが、たぶん端折り過ぎです。

たぶん……マウンテンというくらいだからオリンポスのような山頂最高会議がイメージされているのだろう……とか、長きにわたる闘争の歴史があるのだろう……などと想像して無理やり納得しましたが、おそらくそのように「ファンタジーのお約束」ってことで「あまり突っ込まないで下さい」って手法で(=あまり原作を読み込まずに)処理されたのでしょう。

原作ファンは(歴史ファンもそうですが)「いかに原作の世界観が再現されているか」を見たいものなので、「脳天気なハリウッドアクションにされてしまった」と残念がった原作ファンも多かったでしょう。

パーシー・ジャクソンにおけるハデスの支配地(冥府)の描写の凄絶感・豪華さが欲しかったかもしれません。また「保護者」がいる状態で戦いに臨むというのは見てるほうは面白くないですな。パーシーのようにまだ修行中の身で否応もなく巻き込まれるのがいいのかもしれません。

「えげつない戦いほど見るには面白い」というタイニーの発言・立ち位置が観客へのアイロニーになっちゃいるわけですが……その存在にカメラが割り振られることが当の観客の興奮に水を差すわけで、こういうキャラ(を通じた主張)は難しいですね。