2012/11/30

1992年『パトリオット・ゲーム』

リチャード・ハリスかっこええ……!(まずそこ)

アメリカの核家族は豪華なおうちに住んでいる。もしも我が家にロイヤルファミリーを迎えても、どんな料理を出したらいいかも分からないし、立派なカットグラスのセットも銀のティーポットもないや(次はそこ)

萌えたり憧れたり恐怖してみたり。面白かったです。『トータル・フィアーズ』がアレだったんで、さかのぼってみました(ノ´∀`*)

冬のロンドン。ベルファストの昔話。海辺の一軒家。海からの冷たい風がずっと吹いているような薄暗い画面と、悲哀を帯びたBGMが暗い緊張感を高めてよかったです。

基本的に「よかったです」しか言わないレビューになると思います。引き締まった編集・誇張しすぎない演出・ごく短いセリフに込めたキャラクターの心情と状況説明。文句つけるところがなかったと思います。

女性の髪型から、もっと古い(1980年代)作品かと思いましたが、かろうじて90年代。滞英中はキリッとスーツを着ていたライアン夫人が、アメリカの我が家へ帰ったとたんにモサッとしたシャツとジーパン(あえて古めかしく)姿になったのが、かえって洒落てました。全体にそんなヒネッたセンスの良さ、ひかえめな小技がきいていたと思います。

語りかたは、手際のよい第三者目線というのか、各陣営をちょっと撮ってはスポスポと次へ移るドライさがまた容赦ない感じ。

ストーリーのネタバレ的には、あやしい奴がやっぱりあやしい、という話でしかないんだけど、その説明しすぎない見せ方が上手い、と。

夫婦のラブシーンも短く済ませたし、講義シーンの終わり際にもう(次の屋外シーンの背景音楽である)軍楽隊の演奏が響き始めている、というように、全体に展開が早く「面白く撮れている」ってことと、「でも、こんな話題を面白がっちゃいけないんだよね」という自省・自己批判のバランスがとれていたかと思います。

民間人や、ほんの「その日の当番」にすぎなかった係官など、犠牲者の多い作品ですが、血糊をあしらって残酷さを強調したのは事故直後の女子供だけという演出にこめられたメッセージ性。

ラストはホラー気味になっちゃったけど、お父さんの孤独ながんばりぶりは、同じ俳優による『エアフォース・ワン』より説得力ありました。元海兵隊員で、CIAで、分析官という文武両道の、でもなんだか地味なヒーロー。

ハリソン・フォードは『ナヴァロンの嵐』のときの「生真面目なだけが取り柄の青年士官」という人物がそのまま中年になりました、っていう硬さ、ちょっと根暗な感じが、そんな「身ごなしが華麗すぎる歴史の先生(笑)」という、一歩まちがえればファンタジーというかギャグというか、そのようになってしまう役柄に、重みと実在感、観客の共感しやすさを与えていて、よかったです。

テロリストのリーダー役、地元ベルファスト(ダブリンでした申し訳ありません)出身のパトリック・バーギンには、個人的にお久しぶり。『Mountains of the Moon』のバートン卿、お髭が似あって素敵でしたわ。ギラギラした目つきを持ちつつも、忍耐強く、洒落もわかる骨太な男でした。

今回も比較的冷静なリーダー役で、キレた金髪とのコンビが絶好調(『Mountain』もそういう組み合わせだった)

事件を「キレた金髪」ショーン・ビーン(いま調べたけどボロミアははまり役ですな)の私怨に帰してしまい、IRA関係者については粋に描いたことと、エンディングテーマがケルト系だったあたり、「べつにアイルランドが悪いって言ってるわけじゃないです」という配慮なのでしょう。民族の誇りを歌う音楽バンドの描き方にも揶揄は含まれていなかったと思いますし、アメリカ人にとっても(というか、とってこそ)アイルランドには思い入れがあるのでしょう。

かつての有名テロリスト役フォックス、出世しましたね(笑) 横顔の品のよさがロイヤルファミリーにうってつけでした。
秘書は知ってる顔なんだけど……と思っていたら、あああヘイスティングス大佐でした。外人俳優さんは時々こういう「誰だっけ」なことがあります。

この丸い目の女優さんも……おお、アッティアでした。相変わらずというか(逆だ)可愛い顔して気が強そう。悪い女がよく似合う。そしてやっぱり赤毛。

ブルネットと金髪と赤毛(とハゲ)がそろった悪役の造形は、見分けもつきやすく、上手かったと思います。

「女の髪の揺れ」が最初から映しだされているあたり、観客としても「おや、女が関与しているのか」と意識させられるわけですが、それが単に「美人がいたほうが絵的に豪華だから」という理由ではなく、ちゃんと展開のターニングポイントとして機能しており、しかも「事件の影に女あり」という伝統を踏まえ、さらに(おそらく)リーダーに惚れてしまったせいで活動に身を投じてしまった女と、妻として母として生きるライアン夫人との対照にもなっている……とまぁ、上手くできている、と言うしかない。

無理やり難癖をつければ、本来は黒髪なのだから、赤毛のかつらはわざと印象づけて捜査を撹乱するためなんだろうけど、それが何の役にも立たなかったってところでしょうか^^;

それにしてもアナポリスの歴史の先生の動体視力はすばらしい!(笑)

コンピューターの性能が(いま見ると)まだまだで、顕微鏡で写真をのぞくシーンは隔世の感がありますが、それだけに捜査陣の執念を描き出すにはもってこいだったようです。「女=胸」なのには( ̄ー ̄)ニヤリとさせて頂きました。

「何かがおかしい……」と気づき始めるあたりの描き方、かっこ良かったし、面白かったです。フォードは黒でもない、灰色でもない不思議な眼の色をしていて、それがガッとまぶたを見開くと「四白眼」になってしまうのだから恐ろしい。深いシワが刻まれた皮膚の内側で動く「そうか……」という心の動き、すてきでした。

恐ろしいといえば「ライブ中継」が感じさせる恐怖は、それを「恐怖」として感じることができる先進国の余裕……のようなことまで考え込ませて、圧巻でした。考えても仕方ないんだけどね(´・ω・`)

あの重さが個人的には「クライマックス」と感じられてしまい、ラストのガチンコ対決はむしろ付け足しのように感じられてしまいましたが、もちろん水しぶきだらけのハイスピード格闘技は見応えありました。

決着の鍵となる「凶器」の意味ありげな映し方。観客がこういうアクションホラーの展開に、もう慣れていることを見越して、おさまるところに(正に)おさめるラスト。また、「そこでカット!?」と笑わせてくれるエンディングというか、エピローグ。

そしてハリスの他にも「脇固め」というには贅沢すぎる共演陣。あ、アナポリスの空撮かっこよかったです~~
いやもう何だか、大人の仕事を見せて頂いてありがとうございました(*´∀`*) 
2012/11/26

1949年松竹『破れ太鼓』

見てよかった(*´∀`*)

無法松つながりで阪妻めあて。美しい……! 

映画は、唐突に長台詞をまくしたてる文学座女優の演技から始まる。不自然この上ない。ああ、この頃は舞台劇をそのまま撮ったようなところがあったなァとじゃっかん引いた気分で「古い映画はここが我慢のしどころ」と進展に付き合うと、カメラがずーーっとブレている。

『安城家の舞踏会』でも「酔う(-_-;)」と思ったけど、70年代のドキュメンタリータッチの演出とは違い、狙って揺らしているわけではなく、この頃のカメラの性能的にしかたがないんだと思う。

長男役・森雅之は『安城家の舞踏会』でも弱さとふてぶてしさを兼ね備えた暗く難しい役を演じていた人で、背が高く顔立ちがよく、品のよい立ち姿に高い学歴をにじませ、風采の上がるいい男なんだけど、うわずったような独特のセリフ回しと、やや不器用な顔の演技が「大根 ^^;?」と思わせてくれる変な俳優である。

で、その彼が「今日こそ頑固親父に逆らう」というのと、見事な洋館に住んでいるとは思えないパタパタと忙しげな母親(村瀬幸子)を中心に、異様なテンションの演劇系俳優たちによって目くるめく冒頭シーンが繰り広げられ、「ど、どうなるんだ、ずっとこのままいくのか?」とひきつったような笑いが視聴者の顔に浮かび始めた頃、阪妻登場。

スーーッと腑に落ちる芝居のちからというものを思い知った。

身のこなしが美しい。目線の使い方が美しい。わずかに傾けた顔の角度が美しい。ゆったりとまろやかな演技のすべてが美しい……! いい香りが漂うようだ。
あのドカタ上がりの頑固親父のどこから!? ってことではなく、役者の風情とか品格とか「花」とか、そういうものだ。

森雅之ほか若手俳優のもっていた、西洋劇を演じるための独特のテンション、早口なセリフまわしは、演劇に新世代らしさをもたらし、またそのために必要だったのだろう。いっぽう阪妻自身は歌舞伎の世界が好きじゃなかったということだ。けど、彼のすべてから、やはり伝統芸の豊かさを感じると言いたくなってしまう。

ストーリーは他愛もない(しかし上手い)というべきで、あらすじは言ってしまわないほうがいいだろう。戦前からがんばってきた頑固親父と、自由を求め、戦後を生きる子供たち。テーマは分り易すぎるほど分かり易い。先行きどうなるのか、何か展開があり得るのか、いまいち不安なドタバタ気味のホームコメディが、少しずつ焦点が合っていく、その語り方がうまいったらない。

カレーライス、オルゴール、肩パッド大きすぎのスーツ、人の頭を押さえつけるように差し挙げた“独裁者”の手、ブーローニュの森、きかせてよ愛の言葉を。

小道具と小技が散りばめられている。モテそうにもない火の見櫓番のじいさんのほうが、女といる時の“エチケット”を知っているのも洒落ている。絵かき一筋の若い男は、つまり、女のあつかいを知らない。そんな男が、そんな男だからこそ、男の情念を象徴する赤い星を見ながら気障なセリフを舌に乗せるが、それも清潔で誠実に聞こえる。すべてがそんなふうだ。

絵描きの両親のまろやかな演技もすてきだ。また、あの脳天気ぶりは、戦争でしばらく中断していた西洋への憧れをまたストレートに表現できる時代になった、良かったねぇ……という喜びにあふれている、と素直に考えていいのだろう。

舞台は田園調布と藤沢で、町並みと自然の風景が美しい。『晩春』とちがって戦争の影も占領を示す看板もない。唯一、末っ子役の少年だけがキビキビと軍隊式に階段をのぼる身ごなしが「訓練を受けていたんだな」と思わせるだけだ。

どのカップルも女性に主導権、発言権がある。あるいはそれを追求する女性を描いている。「人権」とか「(キリスト教の)神の教え」を女性が口にする。旧来の日本式男性社会へのアンチテーゼを提出する役を女性に担わせているといえばそうなんだけど、欧米の監督が女性キャラクターをあつかうと、どこか冷笑的な、「女はこわいねェw」という部分が表れてしまう。

こちらは、もっと愛情と共感にあふれている。亭主関白ではどこの文化にも引けをとらなかった日本の男性が、女性の芯の強さ(その代わりブチッと切れてしまう時がある)と、対照的な若い男性のもの柔らかな打たれ強さ、さりげない気のきかせ方を共感をもって描けるのも、不思議なものだが、これも能楽以来、あるいは「男もすなる日記」以来の伝統なのかもしれず、そのように周囲に気を使って生きてきた、軍隊でも苦労してきた「まだ若い男性」ならではなのかもしれない。(監督、このとき37歳である。セクシャリティが関係していたかどうかは即断しないほうがいいだろうけど、ちょっと考慮したくなる)

そのぶん、中高年男性キャラクターには評価が厳しいわけだけど、冷めた目線で見つつも愛惜してるってとこがある。笑えるけど泣ける。じっさい泣けた。皺を刻んだ肌をつたう阪妻の涙は美しい。ばかやろう、自分の子供をなんとなく好きな親なんかいるか。いいセリフである。

苦労してきた男は、他人を信じることができず、そのぶん自分の子供たちへもお節介を焼きすぎ、独裁者となり、破滅していくが、こんなこたァ昔っからよくあったことなんだよウン、っていう男性らしい明るい諦念みたいなものがあるわけで、これを見てしまうと、要するに同じことを語っている清盛は、やはり女性目線の同情票あつめ過ぎ、不幸に自己陶酔しすぎかなァと思わないでもない。

映画に戻ると、撮影がいちばん大変だったろうと思われる回想シーンの惜しげない編集ぶりは贅沢だった。阪妻は大勢に追いかけられるのが似合うなぁ(*´∀`)

顔立ちで異彩を放つ大泉滉のこなれた感じ、リアルで作曲家が本業である次男の素人らしい朴訥さ(素人が気取らない芝居をできるって案外むずかしいものだ)、それらが長男の、役としても俳優としても正統派だが生真面目で不器用な感じといい対比になっていた。

一見地味だが名優総出演の豪華さと彼らの爆発力、セリフと小道具に洒落をきかせた脚本・演出の技の豊富さ、じっくり構える(ブレてるけど)カメラ……と、三位一体のすごさを見たと思う。

いやぁ日本映画ってほんとうに素晴らしいですね!(*´∀`*)


2012/11/26

第四十五回「以仁王の令旨」

いい回だった!!

(先週見逃したので今ごろ騒いでいる)

脚本による人物のとらえ方、俳優の役作り、演出、カメラの動きの「呼吸」がぴったり合っていたと思う。

判断停止してしまったかのような清盛を、こっちはどう捉えたらいいのかと思っていたけれども、ここでふと本音、弱音を漏らした。盛国と手をとりあうBL展開にならなかったのが良かったし、孤独の絶頂にいる男が、ふと目の前に(まさに)舞い降りた美女に溺れる……というふうにつなげた話運びがうまかった。

几帳越し、他の人物の肩越し、柱の陰からなど、大胆な構図で撮るのと、切り替えの早さによる直線的な面白さは渡辺回の特徴かと。

松ケンは、がんばっていると思う。あの若さで「苛立つ年寄り」を恥ずかしげもなく演じきっていると思う。その「俳優としてのふてぶてしさ」が彼のいいところだと思う。

盛国の目線をたびたび捉え、彼を視聴者の代表とし、「男の目からみた男の寂しさ」同時に「意見したくてもできない、周囲にいる男(=盛国自身)の寂しさ」を強調したのは効果的だった。

時忠は絶好調。彼の(図々しくふるまえる清盛への憧れをも込めた)皮肉、それを分かっていて白ばくれる清盛、うまいこと言ってまとめる盛国。ちょっと乾杯したいような感じだった。苦い酒だけど。

白拍子たちは、もちろん清盛が権力の絶頂に達したのを見すまして売り込みをかけてきたわけで、その「芸(と体)を売る女の逞しさ」を、女優と演出が全力で表現していたのもよかった。

頼朝がテレパシー使っちゃってるようなところはちょっと困るんだけど、まぁあの間抜けっぷりが彼のいいところだからな。

各人物のアップを短く連続させ、彼らの目線の動きを追い、緊張感を高めていくのは、渡辺演出の回によく見られる手法で、今回も際立っていた。

ガッと目線を固定した九条殿の演技、圧巻である。あの俳優さん(相島一之)大好きだ。(その隣においでの公卿が毎回コミカルに誇張した演技をするのも良い味つけになっていて好きだ)

音楽の使い方も緩急が効いていたと思う。渡辺回はわりと音楽が多いんだけど、ほかとは違う選曲をするので面白い。今回もジャズ寄り、プログレ寄りでした。平安とプログレっていう、この無理なマッチングが非常に好き。

話は「頼政のターン」かと思っていたら「八条院のターン」だったわけで、「男が頼りないから女がはげましてやらなくちゃ」という主張に貫かれていることは、いつもの通り。

八条院のおばさん(失礼)の中に燃える「母の愛」のようなものは、怖さと同時に悲哀も感じさせたと思う。伊豆の政子ちゃんが(衣装だけキレイになっても)女らしさのかけらもなく、のしのしと歩く演技も楽しい。

そのいっぽうで、男たちは、たんに弱腰なのではなく、互いの力量を見極めることができる、ちから(権力・武力)の大きさを肌で感じることができるからこそ、急には立ち上がれない……という男の辛さもよく表れていた。

宇梶という俳優は、「面構えのわりに、ちょっと気の弱そうな感じがする」という表情をもってる人で、観客としては「リアルな過去にいろいろあったせいで、周囲に気を回す人になったのだろう」と勘ぐりたくなるわけだが、その持ち味がじつに頼政らしくてよかったかと思う。

たしかに、平家の世で「源三位」になった男は、パッと見たところ、源氏を裏切ったように見える。その胸中にあった懊悩、恥辱、逡巡……ってものが、くどくどとセリフで語らなくても、表現できていたと思う。

宇梶頼政や北条エンケンに比べると、仲綱と以仁王は、いずれも細面の俳優で、「若い世代らしさ、傷つきやすさ」を表した、うまいキャスティングだと思う。

そうだ、キャスティングと演出の妙といえば、宗盛役・石黒英雄のふっくらした唇を生かした演出は天晴れだった!

その宗盛のそばには、どうやら熊野御前の影もあったようで、彼女とのエピソードから察せられる宗盛の周囲への気づかいのなさ、ダメ男っぷり、しかも重盛とちがって変にふてぶてしい、すなわち重盛とはまた違う小物っぷりというのが、全開になっていた。

今回は「平家物語を通じて、あの時代には思い入れがあるんだ」というマニアを喜ばせる仕掛け、納得のいく解釈、演出でいっぱいだったと思う。制作陣は、ともかく「平家物語をほぼそのまま語る」という方向に決めてしまったらしい。

なにしろ第一部、第二部で見られた、ナメくさったかのようなギャグ路線・コント路線がなくなったのは、じつに嬉しい。コント担当だった深キョンがすっかりカッコよくなり、「二位の尼」らしくなったのも嬉しい。「波の下にも都が……」(まだ早い)

頼朝しっかりしろおぉ! という場面があったわけだが、過度にギャグ調にならなかったので安心した。しばらくふてくされていたことを「回収」したわけでもあり、話運びはそこから前へ、前へと直線的に進む男性演出家らしい回だったと思う。

以仁王の令旨が漢文で書いてあるのを現代語で読む、という技もきいていた。その声に乗せて、福原と内裏と以仁王の館をザッピングして映すのは、(小説では表現しにくい)映像作品ならではの手法で、見応えがあった。

それぞれの場面が短く、政治的な駆け引きをすっ飛ばして結論だけを述べる感じは、相変わらず紙芝居なのだけれども、よくつながっていたし、よくまとまっていたと思う。まったく肩のちからが抜けて、かつ緊張感を保っており、滅亡へ向けて、「跡弔いて賜びたまえ」というひとつの結論へ向けて旋回しながら収束していく、よくできた舞のようだ。

舞といえば、祇王・祇女の姉妹が宋装束なのには驚いたけど、仏との対比がよかった。宋まんせーだったのが、ここへ来て国風バンザイでまとまるのか。じっさい当時の世の中も「海外志向の清盛より(東国に腰を据えた)頼朝」へ向かうわけで、うまくできている。

この作品は、オープニングで(能楽的ではなく)やや近代的・西洋的な女性の群舞が見られることに象徴的なように、(いまだに詳細なプロフィールが公開されていないが、おそらくは)女性であり、メロドラマ、レディコミ的なところに軸足をおき、「でも少年マンガも好きだし、BLもちょっとは好き、志村けん的なコントも好き、ファンサービスも兼ねて、せっかくのチャンスにいろいろやってみたい……!(*´∀`)」という脚本家を、そのほとんどが男性であるプロデューサー、演出家などの制作陣が尊重したという(甘やかしたともいう)「女の時代」の作品なわけで、初期には脚本のギャグタッチを演出家が汲んで、NHKらしい(若干まのぬけた)コントに仕立ててみた、という場面もあった。

そんな脚本が(一度は気の済むまでやった、ということもあって)余計なものを削ぎ落とし、オトナになっていく過程、制作陣が「やっぱり平家物語は諸行無常だろう、むずかしい立場にあった清盛が暴威をふるったのを“哀しさ”として描いていくしかないだろう」というところへ意見を一致していく過程を、一年かけて観察してきたという思いがする。

海外ドラマ『スパルタカス』は、全13回を前もって練りに練ってから撮影に入り、全編を通して同じ勢いと冷笑的な雰囲気で語り尽くしたわけだが、こっちは明らかにそういう作りではなかった。試行錯誤、紆余曲折の果てに制作陣が意見を一致させていく過程につきあってしまった……という視聴者にとってのドキュメンタリーでもあった、ような気がする。

……などとベタ誉めしたら数字がやたら低いのはどうしたものか(ノ´∀`*)

まぁこの回だけ見ると「平家物語をほぼそのまま語っただけ」なので、退屈と思われるかもしれない。が、その「ふつうに語る」ことができたのが、このドラマでは特筆すべきことなんである(真顔)


2012/11/18

第四十四回「そこからの眺め」

BGMが減った! 画期的だと思う。

のべつまくなし節操なく鳴っていた音が、やっと途絶えた。今回はむずかしい場面が多く、微妙な「顔」の演技が多かったわけだが、集中することができた。俳優は(第一部からずっとそうなんだけれども)脚本の「穴」を承知で、涙ぐましいまでに登場人物になりきっていた。

重盛、お疲れ様。

演出(カメラ)も、脚本のもつ自己陶酔的な雰囲気をよくつかんで、アップの多用により、酩酊感を再現していた。

というか、あんな嘘っぽい場面、遠くから狙う長回しのカメラだったら見ちゃいられない^^; 麗しのごっしーの狂いっぷり、あまりにも健在である。実際に彼はなに考えていたかよく分かんない人だ。

清盛の無茶な和歌がなかったことにされていないのには驚いたが(笑)、なつかしの双六回想シーンは「今さら時間をかせぐな」というほどの長さでもなく、効果的だった。やっかいなのは、後白河院は別に独りぼっちではなく、滋子との愛の思い出があり、高倉帝という愛息子もいるので、そんなに清盛に敵愾心を燃やさなくてもよいのだが……ってところだが、まぁそういうキャラってことになってるので、仕方がない。

ドラマは、当時の政治の動きを(史料不足もあって)つかみきれておらず、二人の男の人格の異様さに還元してるのだ。

それはさておき、祇園女御がすでにこの世にいないことを匂わせる演出もうまかったと思う。演出は、どの回も脚本の異様さのツボをよく押さえており、「もっとこう……!」とマニアをジタバタさせるような不手際感はない。その意味で、映像作品として、できは良い。

それにしても「日曜8時でありながら、ファミリー向けであることをかなぐり捨て、耽美とホラーでいこう」と決めたのは誰だったのか(´・ω・`)

ともかく、場面が「むずかしい」のは、政治的な駆け引きをすべて私怨に還元してしまったから、個人的な心理をえぐるように再現しなければならないという、俳優にかかるプレッシャーが高いからだ。穴があるのは、じつは史実とされていることの穴である。

後白河院は、保元の乱の生き残りとして、信西のやりくちを知っているのに、早めに「清盛に謀反の心あり」と宣言してしまう、というような手段をとらない。言仁王を早く帝位につけたい清盛が高倉帝を呪詛した……という噂を流すなど、なつかしい手法もあるのに、忘れている。「清盛にわしを襲うきもちがある」と知っているのに、摂津方面から源氏を集めて御所の警護をさせるでもない。

松殿は「乗合事件」というものがあったのに、平家が非合法な暴力に訴えたときの怖さをまるで忘れてしまっている。

まともな判断力があるのは九条殿だけのようだが、彼も無力な庶民ではないのに、兄を避難させるとか、院と連絡をとるとか、護衛を集めておくとか、何もしない。

「福原では郎党が鎧をつけて集まっています」という知らせをもたらす密偵もいない。福原から長駆してきた一団が、そのままあまりにも安々と平安京に、院御所に侵入できたことは、時間も押していることだし、ドラマの進行上しかたがないとしても、「あ、やっぱり来たの?」みたいな顔はない。分かってるなら手を打っとけ。

歴史を知らずにふつうにドラマを見ている人間にとって、異様に思われるはずだ。

彼らは間抜けだったのか。権謀術数というものを何も知らなかったのか。そんなはずはなく、少なくとも漢籍の教養がある。本朝にも「将門の乱」というものがあった。何が不満か知らないが、武力をもつ者はいつか必ず実力に訴える、ということを知っていたはずである。保元の乱も見てきた。雅仁さまは「武士のちからを理解している」のではなかったか。

つまり、史実として伝えられている成り行き自体が、何かおかしい。脚本はその穴を埋めようとしなかった。

このドラマはもともと「武士の時代」「権力争いの面白さ」への懐疑に満ちている。

「武士の時代」とは何だったのか。その帰結は、士族が陸海軍を牛耳り、「死ぬことと見つけたり」の武士道精神を合言葉に一億人を道連れに玉砕しようとして、自滅した。その後始末に今も汲々としている、というのがこの国である。

武士の時代を始めてしまって、ほんとうに良かったのか? 始めてしまった当事者は、「犬」と呼ばれる人格攻撃・激しい差別に抵抗するために、やむを得ず、血と涙の道に先鞭をつけた……というだけのことではなかったか?

この国は、今でもあの頃の貴族の特権意識に踊らされているのではないのか。何かが最初から間違っていたのではないのか……

ドラマは、そもそも忠盛の出世欲を否定するところから始まった。院にとり入ることは恥ずかしいことであり、子供の人権を犠牲にすることであり、家盛を見ごろしにすることは悲惨であり、どちらを嫡男にするかで兄弟(忠盛と忠正)が言い争うのも浅ましいことであり、出世すればするほど不幸になり、友人を裏切り、ころさざるを得ない……

そんなふうに「男の生きざま」への懐疑に満ちている。

天下国家の名のもとに、誇りを旗印に、男同士が傷つけあい、女子供が泣かされる。そんなドラマを見て面白いのか? という視聴者への皮肉にあふれている。それを、受信料をもちいて制作し、国営放送として、日曜8時のお茶の間にぶつけた、という恐るべき企画なのである。

だから、清盛の夢の大きさに憧れて、気っぷの良さに惚れて、全国から職人が集まり、危険を承知で音戸を、福原を開発し、平等で豊かな新しい集落が生まれた……というふうには描かれなかった。

多くの者が平家にあやかろうとして、宋の文物を取り入れたので、日本の工芸や医療の技術が上がったとか、新しい芸能が生まれたとか、若者の間に海外への憧れ・学問熱が盛んになり、都全体に活気が出た……というふうにも描かれなかった。

もちろん、実際にそういうことがあったかどうかが分からない。

ストーリーは、「差別に抵抗したかった」という清盛の私怨 と、「一人ぼっちの寂しさを誰かにぶつけたかった」という後白河院の私怨がぶつかって、マフィアのような縄張り合戦をくりひろげた、という一本の道に収束されている。

「やっとここまで来た……!」

ぼ、暴力でね。それでいいなら、もっと早くからやっておけば良かったような気もするけども。

要するに史実がよく分かんないことだらけなので、歴史を清盛と後白河による「ライバル萌え」「下克上萌え」で処理し、平家物語の無常感を増幅して大げさに語る、という手法に絞り込んでしまったようである。

ドラマに何を求めるか? ひととき、ヒーローの夢に酔うことか。男と女と歴史の「リアリティ」に慄然とすることか。それによって何かが分かった気になり、現代の閉塞感を正当化するのか。

清盛の血走った目に「そこから」見えたものは、800年後の現代、テレビの前の視聴者の姿であった……か、どうか。しゃれた終わり方だったと思う。

脚本に籠められた皮肉が、「笑いと明るさがテーマ、アンチヒーローに新たな光をあてる」という制作陣の意図に反して、はからずも脚本の裏からにじみ出てしまったものだったのか、制作陣全体の合意のもとに「分かっててやってる」ことだったのか、もうひとつ判断しにくく、居心地の悪いまま四十三回きてしまったわけだが、ここへ来て明確に「皮肉」を打ち出したようだ。

それにしても、第一回冒頭の「海に栄え、海に滅んだ壮大な一門の物語……!」という爽快さと、見事に呼応していない。

「こういう話になるはずじゃなかったんだけどなぁ……」という感慨は、多くの人が抱えてるんじゃあるまいか。

とはいえ、「豪華紙芝居・平家物語」としての本分を尽くしているので、楽しく拝見しました。それにしてもスケさん、もう少し武芸の鍛錬とかしようや……と思っていたら、次回(今夜だ)やっとそのような姿も見られるようですね。

……あと5回で、第一話の壮大で爽やかな雰囲気に戻れるのかなぁ…………
地元の職人渾身の和船をもう一度(コーンスターチなしで)見たいなぁ……



2012/11/13

能と歌舞伎とバレエの違いを感覚的に。

もちろん「個人的な感覚を述べた小稿に過ぎません」と前置きして。

実はですね。

近所のコンビニのレジ奥に虎徹さんのフィギュアが一体飾ってあるですね。夏にやってた一番くじの景品の残りらしい。その立ち姿が気になるのですわ。

腹を突き出したS字曲線を形作っており、腹筋・背筋が弱いように見える。ヒーローの立ち姿ではないように見える。アメコミのヒーローはもっと肩幅があり、じゃっかん前かがみの姿勢でそれを強調するですね。

夏といえば、剣心くんの映画宣伝ポスターなども相当気になった。首と腹を前に突き出した立ち姿は、現代っ子の姿勢、モッズ系・モード系モデルの姿勢で、武道家の姿勢じゃないですね。(腰が前に出ていたら刀身を抜ききることができないでしょう)

それらが人気なのは、女性の感性(ナルシシズム)が反映されているからで、それはそれで「女の時代」ってことでいいんだけど。

ふと思ったのが、「肩幅を強調するために肘を張り、じゃっかん前かがみの姿勢になる」っていうのはボディビルダーのポーズでもあるし、能の「構え」とも似ている。ああやっぱり能は男の芸だ、武士の芸だ、と。

逆三角形で、さらにいうと腰の位置が低い(=足が短い)日本人の男の体がカッコよく見えるようにできている。闘争モードに入った牡牛のように、のめるように前へ前へ進む姿に、男の心意気と美を見る、というようにできている。

少し前に「若手お笑い芸人が能楽師に一日入門」ていう教育番組があったんですが、細っこい現代っ子の彼らも能の構えをとるとキリッと見えるですね。でも彼らはその姿勢が「きつい」っていう。(背筋が弱いからだ)

逆に歌舞伎は、元が女性(出雲の阿国)によるショーだった雰囲気を残していて、女性的なS字曲線を追求する。

もちろん揚巻などの衣装(の重量)を支えるには男の筋力が必要ということがあり、どちらも男の芸として洗練されてきたんだけど、追求する方向が違った。(現代の観客にとっては単に「どっちが好みか」って問題になるかと思う)

さらに、どちらも「上から糸で吊られた感じ」を大事にするんだけど、その重力から解放された感じを極端に追求したのがバレエで、これはロシアバレエ団の中に(皇帝ほかの目を楽しませるための)サーカス的、アクロバット的な要素があったんでしょう。

空を飛ぶことを本気で追求したのが西洋人。彼らは体が大柄だったからこそ飛びたかったのかもしれないし、筋力があって或る程度「飛ぶ」ことができるから、その先を夢見たのかもしれない。

2012/11/07

ミュージック・クリップみたいな映画。

『リプレイスメント・キラー』の感想、その2。

「物」の大胆な接写は、TVコマーシャルを連想させる。CMはもちろん商品を大写しにする。
また、セリフのない長いアクション描写は、「MTV」みたいだ。

音楽プロモーション用ビデオは、当然、新曲を聞かせなければならないから、ドラマ仕立てでもセリフもナレーションもない。ひと目みて状況が分かるように悪役は悪役らしい顔つき・衣装をしている。演技はパントマイム的に派手だ。主人公が家族の写真など眺めていれば、視聴者は「いまは一緒に暮らしていないってことだな」と理解し、「過去にいろいろあったんだな」とてきとーに想像する。

画面の色使いは刺激的で、場面の切り替えはすばやく、音楽に合わせてスローやストップモーションが利用される。ラストはてきとーに笑って別れる。「to be continued」など、続きがある保証がなくても、カッコよく終わる。

なんかそんな感じ……と思って、改めてフークア監督のプロフィールをざっと読んだら、やっぱり音楽ビデオをやってた人だった。

『フレンチ・コネクション』と『エクソシスト』を見た時には「ドキュメンタリーっぽいよね」と思った。フリードキン監督は、テレビでドキュメンタリー番組を撮っていた人だった。手持ちカメラをかついでブッツケ本番、生録り、ということに慣れており、映画でもその手法が使われた。

だから「フレンチ」の街頭シーンにはエキストラがいないそうだ。街行く人はみんな「本物」である。
さすがというか、アメリカの都会人はカメラを指さして笑ったり、立ち止まって見物したりしない。知らん顔して通り過ぎていく。

面白いのは、同時期に撮られた日本の映画『桜の森の満開の下』で、都大路を歩く大量のエキストラは、きちんと平安当時の扮装をしているが、みんな一方向へ横目を使って、にやにやしている。つまりカメラを意識しているw

これは『ゴジラ』などのパニック映画でも見られる現象で、子供の頃は「逃げる人がみんな笑ってる(´・ω・`)」と残念な思いで鑑賞したものだw

クロサワ映画ではそんなことないわけだから、作品によって、エキストラの動員のしかたに何か不慣れがあったのだろう……

ここで大雑把なことをいうと、日本人は「他人のすることを見て見ぬふりできない」ので、逆に「自分も他人から見られているという意識が強い」のかもしれない。

そんなわけで、大勢の人間(とくに欧米なら様々な民族)が関わって作られる映像作品にも、意外と監督個人のそれまでの人生、その国の文化の一般的な性質なんてものが反映されちゃうらしい。

また「映画とはこのように撮るもの」「映画人になりたいなら、それなりの修行をするべき」という型が、1970年代ころに崩れた、ということもいえるのだろう。

2012/11/07

すごろく遊びがいまいちなわけ。

すごろくをテーマにしたセリフ遊びは一見(一聴)するとカッコいいのだけど、感動が薄いという声があった。

なぜかっつーと、彼らの目指す「あがり」が何なのかハッキリしないから、見物するものが「どっちもがんばれ」という気分になりにくいのである。

「国家の威信をかけた徴兵制の復活」対「国民の悲願である経済の復興」なら、見ている現代人も気が抜けない。どっちの言うことにも一理ある、どっちが権力争い、根回し競争、論戦、男気勝負に勝つのか目が離せない……

では平安末期のあの時代、彼らは何を賭けて、何がしたくて権力の座を争っているのか? 「なんかムカつくから、あいつをつぶして俺が番を張る」って言い合ってる不良のケンカみたいだ。

治天の君にも比叡山と賀茂川は度しがたい、という。でも清盛は比叡山と仲良くしてるわけだ。じゃあ清盛を、院と叡山の間の使いっぱにすればいい。清盛は大輪田の泊の荒波も鎮めてしまった。じゃあ賀茂川の護岸工事も彼にやらせちゃえばいい。

宋から工事の名人や、強力な僧侶、医学の達人などを呼んでもいいし、日本人を勉強に行かせてもいい。太政大臣が我がままな奴でも、院には院宣てものがある。

でも麗しのごっしーは、そういうことを何もしないで、登場するたびに本当にすごろくばかりしている。治天の君の職務が何なのか、何に対して責任と誇りを感じているのか分からない。

清盛がいうことを聞かなかったから仕方がないとしても、では「誰」が彼にいうことをきかないでも済むほどの権力を与えてしまったのか。「お前を正三位にしてしまったのが間違いだ」っていう西光の絶叫は、つまり作家の疑問であり、視聴者の疑問であり、歴史家にきいてもやっぱり分かんないところなのだ。

清盛をあまり出世させない方法、あるいは出世させた上で(治世・治水のために)おおいにこき使う方法を、後白河院が実際に思いつかなかった、なにも手を打たなかったとしたら、彼は要するに「部下をうまく使う」ことができなかったのであり、名君ではなかったのであり、基本的には公卿たちへの対抗上、清盛にゆずっていたのであり、描いても面白くない人物なのだ、やっぱり(´・ω・`)

清盛が熱病でなくなったのも、カルテがあるわけでも記録映像があるわけでもないから、「本当は食あたりだったのを大仏のたたりで熱病ってことにした」など、すべてが伝説の霧の中って可能性も0ではない……やっぱ描きにくい……

だから「メロドラマとしてあつかい、情感重視でいく」っていうのはいいアプローチだったろうとは思う。
たぶんあんまり「意味」とか考えちゃいけないタイプの作品(今さら)



2012/11/07

悪魔の花嫁と清盛はちょっと似ている。

天パ、赤い鳥の羽根、おとぎ話の一節など、ちょっとしたアイテムを生かして皮肉のきいた一話完結ストーリー、短編をまとめるのは上手いんだけど、皮肉をテーマにしてしまうと長編は収拾がつかない。ちょっと似ている。

男性が決断力と勇気を示すことによって、姫と世界が救われる……というタイプのおとぎ話を否定するところから入ったのが、悪魔の花嫁だ。

男は弱い。必ず裏切る。だから女は捨てられる前に、みずから愛する男を手にかけてしまう。それが女の哀しさ。
っていうストーリーは悪魔の花嫁によくあるパターンのひとつだ。

デイモスも(本人が言った通り)ヴィーナスにやきころされりゃいいんだけど、彼はもともと神様で不死の存在なので、話が終わんないのである。
あれはいっそ昔のファンを納得させるための「最終章」を諦めて、いまの読者のための新章を始めちゃえば良かったと思う。

いっぽう清盛は、若い頃の友愛と平等の精神を忘れ、保身に汲々として子供を私刑に使い、友人を裏切って反省せず、また別の友人を裏切る。
こんな人物のどこが、若一神社でご神体同様にあがめられる出世の神様なのか。

……おかしくない?

出世なんかしたってろくなことないよ?
人間の心を失っちゃうよ?
こんなやつ滅ぼされて当然だったんだよ。

ドラマ全体が視聴者への皮肉になってしまっている。

もともと作劇が「清盛って本当はいい人だったかもしれない。私の筆で描き直してあげたいな」という作家の内的衝動にもとづいていない。さんざん調べた挙句に「清盛の国づくりって何だったん? この人けっきょく復讐心で動いていただけじゃない?」というのが、重盛と西光の口を借りて出た、作者の結論だ。

あのドラマはもともと「前を向き、上をめざす」という男らしい生き様を否定したい気持ちがベースにある。
「忠盛の出世欲が家盛の命を縮めた」という宗子のセリフが象徴的だ。

だから清盛は「ここにみんなが安心して使える港をつくろう。百年先、千年先まで残る大事業を成し遂げよう!俺に命を預けてくれ。きっと報いてみせる」というふうに周囲を説得しない。
「千年先とは大きな夢をみせてくれるものだ」と感じいった男たちが続々と福原に集結する……というようには描かれない。

もう、そういうの見せられても嘘っぽい。体よくおだてられて働かされたって、結局その時だけ。働いたほうが負け。
現代っ子の気分をあまりにも的確に表してしまっている。

そうは言っても少しはオブラートに包んで、視聴者の気に入るようなドラマをつくるのがプロの脚本家の仕事……かもしれないんだけれども、「作家自身の疑念・信念を赤裸々に表現してしまった」という点では「芸術的な傑作」とも言える。

元々「オブラートにくるんで、余人の納得するものを提供する」っていうのは男の仕事だ。男の作家が、男の客を相手に失礼のないように体裁を整え、「なんだ、こんなもの」「金が出せるか」と言われないために工夫を凝らし、自尊心をくすぐり、しゃれを利かせ、「不器用なやつですが、ひとつ良しなに、お手柔らかに」と上演する。

女性は「そんなの欺瞞よ、偽善的よ、男は嘘つきよ」と叫ぶ、あるいは鼻で笑ってみせることを、1980年頃から始めたってわけで、悪魔の花嫁はそのころの作品だ。

どうもね、清盛を見てるとそういう「いっけん新しいようで実は主張が古い」って感じが、最初からしているのである……

もっとも、ヴィーナスはデイモスがとっくに自分を裏切ったことに気づいていながら、彼にこだわり続け、美奈子はエクソシストを呼んでデイモスと対決しない。

私のせいじゃない、私には何もできない、しょせん女の分際で何もしないほうがいい……

そういう気分が当時の読者である女子中高生を安心させたわけで、でもみんな大人になってしまい、結婚するにしてもしないにしても、何かしら人生を選び取ってしまった後だから、迷い続ける彼と彼女たちをもう一回読んでも、物足りないのは当然だ。

そこいくと、ふてくされて開き直った清盛、あるいはふてくされて引きこもる頼朝の周囲には、「あなたは私の光る君」といってくれる時子がおり、「ともに参ろうぞ」っていってくれる政子がいる。

一歩進んだってところ。


2012/11/06

1998年『リプレイスメント・キラー』

かっこいいなぁ(*´∀`*)

『キング・アーサー』から、フークア監督つながりでさかのぼりました。チョウ・ユンファ主演なのでキャッキャして見ました。キャッキャッ♪

公開が1998年だから撮影はその前年のはずで、監督は31歳。若い勢いとアイディアが詰まってると思います。

はるか低いところから睨め上げるようなカメラの動き、
どこから撮ってるんだ!?∑(゚Д゚)と言いたいような大胆な構図、
フェチっぽい極端な接写、銃器の機構の描写のかっこよさ、
スローモーションのきかせ具合など、
映像(と音楽)の工夫で「見せる」「見る」作品なので、あらすじをツラツラ述べても仕方がないし、もともとアクション映画なので倫理観を問題にしたり、脚本の細部に突っ込んでもしゃーないです。

ま多少アラはあるけど、単純な制裁劇と思われたのが、後から「そうだったのか……」と過去をしのばせるような仕掛けもあり、なかなかに味わい深いと思います。

女性と二人三脚ですが、お色気はなし。血糊は大盤振る舞いですが、ホラー作品のような肉体損壊もなく、あるていど安心して見られます。

基本的には(というか最初から最後まで)ユンファらしい火花は散る散る、相手はワイヤーで吹っ飛ぶガン・アクションで、彼自身がチャイニーズマフィアの「臨時雇い」スナイパーであると同時に、彼に制裁を与えるためにまた別の臨時要員が雇われるわけですが、つまりユンファが勝っちゃうわけで、これは香港映画ファン、ユンファファンが「彼らしい活躍を外国を舞台に見せてもらえた」「ハリウッド進出おめでとーー!」と陽気な祝杯を挙げるための作品ということでよろしいかと思います。

人間一人にどんだけ弾が当たらないのか!(笑)

「東洋の神秘」的なユンファの男の色気は全開。「たばこの煙を吐く」仕草にこれだけの時間をかけ、色気を込めた作品を他に知らない(今のところ)

女子キャラの扱いもこの監督らしいというのか、女優が撃つ! 走る! 転がる! 叫ぶ! 爽快でした。
ほっそりした女性が胸元をきつく締めてるのがお好みらしいですな(*´∀`)

犠牲となってしまった市民、警官、僧侶などはやや血糊多め、残酷ぎみに描かれ、これは犠牲の大きさを示し、「アクション映画でやってることは、あくまで悪いことなので憧れないように」という配慮ではないかと思います。

悪役も魅力的でした。いろんな人種・民族が混ざってるとこがアメリカらしく、ハリウッド進出っぽくてよろしいかと思います。洗車場、ゲームセンター、映画館など遮蔽物の多い都会の「市街戦」の緊張感もよく出てましたし、クライマックスも華やかでした。チャイニーズマフィアの最期には「爆竹」がよく似合う。

ああ面白かった(*´∀`*)

はい公式予告編:


これを見て期待する通りのできばえです。
2012/11/05

1958年東宝『無法松の一生』

一の谷の戦やぶれ討たれし平家の公達哀れ
暁寒き須磨の嵐に聞こえしはこれか 青葉の笛

更くる夜半に門を敲き我が師に託せし言の葉哀れ
今際の際まで持ちし箙に残れるは 花や今宵の歌

……若くして討たれた公達の歌を子供の声で聞くと、また真に迫って泣けますな
(´;ω;`)ブワッ

いや、平家つながりではなく。運動会つながりで借りました(*´∀`) シーズンだったので「確か徒競走の場面があったよな」と思い出して。

冒頭、俯瞰から屋根越しに宿屋の土間へカメラが移動するのがいきなりすごいです。宿屋では女将の芝居と背景に見とれました。ああ、明治三十年にはまだこんなに江戸情緒が残っていたんだ……

って、ちょっと待て。落ち着け私。カラー映画だからええと……(あわてて調べる)1958年=昭和33年には、まだこれだけ違和感のない撮影ができたってことだ。ないと思う。

歌舞伎の女形の芝居をそのまま移したような芝居のできる女優がいた(※ 飯田 蝶子、1897年生ー1972年没)ってことだし、吉岡夫人や「ぼん」の顔立ちも着物が似合っているし、撮影場所も確保できたし、有島一郎ほか説得力のある脇役もそろえられたってことだし。それにしてもすごい数のエキストラだったね!

どうも時代劇を見ているのか、現代劇を見ているのか、現代というか明治三十年に実際に連れていかれたような気がして混乱しました。しかも1950年代、カラー時代らしい大胆な構図、カメラ移動、色調、特殊効果などが見られて、密度の濃い1時間43分でした。

構図といえば、吉岡邸の門の屋根越しに斜め下の玄関を撮る構図は面白かったです。車輪が半分だけ映るのが重なった絵は、前衛的なようでもあり、手ぬぐいの柄にあるような感じでもある。日本的かもしれません。

金獅子賞おめでとう。むべなるかな。

てーきはいーくまんあーりとてもーすーべてうーごおのせーなるぞーーうーごおのせーにあらずともー♪

運動会は工業高校のもので、通学者とその保護者以外の町の住人も、お祭り気分で見物にいっていたようです。着物と洋服、日本髪と束髪、大きなリボンのお嬢様など入り乱れている風俗がすてき。海軍兵学校と同じ棒たおし!の場面で楽隊がすごいテンポで生演奏していたのが↑ 当時らしさがすごく出ています。かえってこっちのほうが検閲削除されそう。戦後に撮り直せて本当に良かったですね。

宿屋の二階でうなされる三船の登場シーンは、彼らしい体当たり演技で「菊千代だーー(*´∀`*)」
個人的には彼の男の色気を見る映画……というか三船の映画はすべてそんな感じ。車屋らしい前かがみな姿勢、女性の前で落ち着きなく肩を揺らす仕草、「ただ者ではない」と思わせる低い声、老け役、愕然と寂しそうな表情、なにもかもいい(*´∀`*) 

「祇園太鼓を打ちきる」ってのもカッコいいセリフで、あのむっちりと色気走った肉体を魅せつけた直後の、嫉妬と劣情に悶え、わななく演技は見てる女も胸苦しくさせてくれます。

奥さん鈍すぎ。そこがいいんですな。吉岡家は、あの門構えだと元々武家で、いま士族なのでしょうし、奥さんもそれにふさわしい良家の子女で、シュッとした旦那に本気で惚れていたのでしょうし、なくなってからは本当に息子のことしか念頭になかったのでしょうし。二人が互いの気持ちに気づきながら耐えていた……って話も、それはそれでいいけど、爽やかさがなくなっちゃうからね。

で、結城の親分さんカッコ良かったです。この役を月形龍之介が演じたバージョンはレンタルになかったので思わず注文しちゃったので感想はまた後日。



2012/11/05

第四十三回「忠と孝のはざまで」

イラストとしては評価できる、というべきか。平家物語を紙芝居にしてるだけだから。
紙芝居だから、下手でもなんでもナレーションも必要ってものである。

「このようなことがありました、哀れなことでございます」という語りものの伝統を踏襲しているというべきか、
すでに流れを知っている歴史ファンの‘観戦’を念頭に、消化試合をこなしているに過ぎないのか。

たとえばの話、重盛が成親へ文(和歌)を送っても届かない・遠路はるばる面会にいっても断られる・彼に与えたはずの衣類を他人が着ている……などの描写でスリルを徐々に高め、視聴者をして「成親さん一体どうなっちゃんだろう。すごい不安。他の番組も気になるけど、ついこっちを見てしまう!」という気分にさせるってことではないんだな。

映像としては相変わらず見事だった。成親の悲惨な最期は、歴史ファンなら‘話には聞いていた’わけだが、どのように撮るのかと思っていたところ、凄惨描写に手をゆるめていないところが立派だった。彼はここのところのメインキャラだったわけで、チャチなセットまたはナレーションだけで終わりにされるべきではなく、あれだけ凝ったこしらえものの中で、俳優渾身の涙をみせたのは「終わりを飾った」というべきだ。

一般的には「やりすぎ」「きもち悪い」という評価だろうけど、そう思う人はすでに見ていないだろう。

本当いうと、現代っ子は3分一本勝負のミュージック・クリップやMADを見慣れているから、短い場面を矢継ぎ早に編集して見せられるのは、苦痛でもないし理解不能でもない。ただ時々ちょっと「総集編じゃないんだから少し落ち着け」って言いたくなるだけだ。

六波羅の夜っぽさと、伊豆の朝っぽさの対比は効果的だった。伊豆はまさに雨降って地かたまった感じ。藤九郎がいいこといった。男は「信じて任される」ことに弱い。それをサラッと言ったのは、飄々とした役作りが生きたわけで、俳優と脚本家の相互作用みたいなこともあるんだろう。

平家一門にはシンボルカラーである赤色の照明をあて、華麗さと同時に不吉さを高めていた。
遮那王の周囲には緑色をあしらって、若さと爽やかさを表していた。神木くんは充分に男らしい風貌なのに、髭の剃り跡が目立つようになる直前の、少年ならではの美そのものだ。

乙前の周囲は白で囲み、臨終の静けさと同時に、今様を愛した後白河院の心根のピュアさを表していたかと思う。

ハイビジョンテレビの間口と解像度を生かした、奥行きのある構図も見応えがある。いつも人物の背後で几帳が風に揺れている。暗がりの奥まで居並んだ一門会議の迫力、宝物が山積みにされた福原の庭の豪華さも、そこまで映せるからこそだ。

「クレーン撮影は柴田さんらしい」っつー言い方もある。冒頭の清盛と重盛の対決、画面が手持ちカメラによって細かく揺れていたのも効果的だった。

というわけで、見ているぶんにはいいんだけど、何も知らずにこの回だけ見たら、主人公は頼朝で、若い二人のさわやかな夫婦愛と、舅との擬似的な親子愛を軸にした気持ちのよいドラマを期待するだろう。重盛と協力して清盛を討つ、という展開を期待するかもしれない。
重盛は父親を裏切ることに苦悩しつつ、世のため人のために若い反乱者と手を結ぶ、義の人だ。病をおして秘密会議に出席するが、志半ばにして倒れてしまう……てなところかな。

つまり清盛はすでに「典型的な悪役としての脇役」、助演になってしまっており、「タイトルロールとして、残忍な命令の裏にあった苦悩、リアルな人間像を表現する」ということになっていない。

彼は神仏を畏れなかったのか。祖霊に顔向けができるつもりでいたのか。友人たちが夜ごと夢枕に立って、うなされていたのではなかったか。

吉良上野介のような人物は、忠臣蔵では悪役だが、地元では名君だったとされる。歴史上の悪役に別の光を当てる、評価をくつがえすとなれば、そのような捉え直ししかあるまい。清盛なら「部下には優しかった」という説がある。

しかしドラマでは、(当たり前だが)脚本家も清盛も、急な宣言をして周囲を驚かせることを面白がってしまっているような風情があり、部下・同僚の義理と人情、責任感と倫理観に訴え、言葉を尽くして説得し、納得させたうえで協力させる……ということができていない。つまり、リーダーシップが発揮できておらず、人望があったように見えない。

彼は若い頃に受けた差別によって、心の冷たく凝り固まってしまった哀れな男だったのか。差別をくつがえすにあたり、暴力と威圧という手段しか思いつかなかったのか。

たしかに清盛は世のため人のため、庶民のためになる行政改革などおこなっていない。要するに自分の金儲けのために船を通したかったのが、現代人にとって「港を造っておいてくれて良かったなぁ」というだけであり、当時の人にとって有難かったのかどうか。宋銭が流通したことによって破産する貴族もおり、ということはそれによって職と居場所を失う家人もいたはずだが、救済策など取っていない。取ってりゃ滅ぼされていない。

重盛が「あれもやった、これもやった」と教科書を読むように並べ立てた挙句「父上の国作りってなんすか」と繰り返したずねる通りである。この疑問は、脚本家をはじめ制作陣すべてと視聴者すべての中にあって、要するに歴史家にきいても分からない。昔の人が彼を乱世の奸雄というようにあつかったのなら、やっぱりそうなのかもしれない……というようにしか描けない。やはりもともと、取り上げにくい人物だ。

その取り上げにくいものの描き方にやや難があり、ややこしさに輪をかけているわけで、清盛の理屈はつねに「もうこういうことになっちゃったんだから、今更ガタガタ言ってもしゃーねーじゃん」という不良小僧のようなものである。

これは信西など他のキャラクターも同じだ。「どうせ保元の乱は起こるんだよ、悩んだって遅せーんだよ、とれーんだよ、さっさとやれよ」常にこの調子である。上つかたの不条理に憤ったはずの彼らが、次のターンでは自ら威圧的・高圧的になってしまう。そして反省しない。それが「歴史の常道」とされ、「歩まざるを得ない修羅の道」とされ、かっこいいこととされている。

しかもそのかっこよさの中で涙し、刺し違えあうのは男同士だ。女はつねに冷静な立場におり、美化されている。

池禅尼が決して裏切ってはいけないはずの高貴な養い君を裏切ったことは描写されなかった。建春門院を目立たせるために姉の時子(清盛夫人)が宮中で暗躍し、ほかの女たちを追い出した……という説もあるが、採用されなかった。

美福門院は私欲にかられて大乱を起こした女怪であり、じつは信西とデキていたなどというフィクションがあってもよさそうなものだが、なかった。嫉妬にかられて待賢門院を追いつめた(なんか難しい理屈を言ってたが要するに嫉妬だ)が、彼女の美しさ(ふくぶくしさ)を損なうことはできず、その負けを素直に認め、かつてのライバルのために手を合わせる度量の広さがあるというように描かれた。(松雪泰子はそれにふさわしい女優だった)

義朝は最高にかっこいい男だったという扱いだが、由良と常磐は彼をめぐってつかみ合いのケンカを演じたりしない。

女は強く、男は弱い。泣きながら傷つけあう男たちを女性視聴者が左うちわで見物する。女は毅然として運命にさからうが、男は自分で立ち直ってこれない。女がはげましてやらないとダメだ。杏ちゃん政子がんばれ。
そういうふうにできている。

歴史絵巻から抜けだした躍動感……というのは、(パイカリのパロディが演じられた通り)アクションものの洋画や海外ドラマのような刺激性を言い表したかったんだと思うけど、そのわりに、オープニングの舘野泉のピアノがずっと続いているような、物悲しいシットリ感にあふれている。

一週間の始まりに「出世街道驀進中♪ 清盛もがんばるから、お前らもがんばれ!」と男たちを励ます血沸き肉踊るドラマではなく、一日の終わりに大人の女性を慰める時間、淑女のお楽しみタイムになっている。

それはそれで、そういうドラマが放映される時代になったと思えばいいんだけど、しかもクランクイン前のインタビューで、松ケンは「笑いがテーマ。お茶の間に明るさをお届けしたい」といっている。

なんか企画段階で一致していなかったらしい! そのチグハグさをずっと引きずったまま、ついに四十三回なわけだが! このまま「美しい消化試合」なのか……? 
いや付き合うけど。美しいから。

松ケンは面白い俳優で、「不良小僧」といわれりゃその通り埋没的に演じるし、「悪役の涙」といわれりゃ悪役らしく泣いてみせる。「徳子、ようやった」と叫ばずに落涙したのは良かった。

たぶん、何も考えていないことが大人物の証とされている。そして松ケン自身が、そんな俳優なのである。たぶん。

そうだ、「源三位」にはおめでとう存じます。ハッと目を見開いた宇梶氏の演技は良かったです。
男が一生の約束をするときは、裏切るフラグ。

扇の芝へ Let's go!
2012/11/03

第四十二回「鹿ヶ谷の陰謀」

草深い伊豆にもほどちかい駿州の片隅から遅い感想をお送りします。

撮影は細野氏、演出は渡辺氏。映像は相変わらず工夫がきいており耽美的、選曲は小粋で大人の味わい。伊豆の事情で京の事情を(ほぼ)サンドイッチする構成も、お約束になってきたらしく、話の流れが頭に入りやすくて良い。

行綱役は裏切り者にふさわしい面構えをした、いい俳優だった。これは俳優にとっては誉め言葉になると思う。
「頼政のターン」も嬉しかった。清盛は色気を増した。

清盛と西光の直接対決があるので、赤坊主が二人では……^^;という配慮だろうか、あるいは西光に信西の面影をまとわせようというのか、衣装の色がいつもと変わっていたのも気が利いていた。伊藤五の兜姿のアップもファンとしては嬉しかった。

雨降らし隊スタッフの皆様、お疲れ様でした。いきなり嫁にふられたカネタカ殿がお気の毒ですな……^^;

と楽しく拝見した上で、明雲捕縛のあたりが紙芝居すぎるのも、ナレーションがないと理解させられないらしいのも、物語が穴だらけなのが気になるのも、まぁいつものことだ。

清盛はのんびりと我が世の春を楽しんでいたからこそ熊野詣としゃれこんで、信西をみすみす討たせてしまったのだし、信西も恐れをいだいていなかったから清盛に護衛を頼むでもなく金勘定に夢中になっていたわけで、あの時点で「いやな感じ」を味わっていたのは作者と視聴者だけだ。

行綱は「摂津源氏の自分がこの場に呼ばれた意味」をまったく理解していないし、頼政は頼政で平家の何を知っているというのか。経子はあの程度の用で院御所まで押しかけてくるのが異常で、兄ちゃんに手紙でも出せばいいじゃないか(その後の二人の述懐を引き出したかったんだけどね)

清盛は「様子がおかしい」と気づいているなら時忠でも使って情報を集めるべきだし、盛国は下命がなくてもそのように動けばいいし、院は院で気取られるようじゃ意味がない。

麗しのごっしーは、要するに下手を打ってばかりいるわけで、清盛の政敵足り得ていない。乙前は「駒が減るのは当たり前」って思い上がったようなことを言ってないで鎮魂の舞でも舞ったらよろしい。
どいつもこいつもテレパシー使いすぎで先を見通しすぎなくせに間抜けだ。

そもそも最初から大穴が開いている。

清盛を出世させたのは「誰」なのか? 彼は直接的な武力(暴力)で位や官職をおどし取ったわけではない。武士にとって越えがたい垣根だったはずの四位と三位の間の一線を、清盛に限って越えることを許したのは誰だったのか。第二部では説明されなかった。保元の乱と平治の乱で功績を上げた結果、なんとなくいつの間にか三位になっちゃいました、と取ってつけたようなナレーションが聞こえただけだ。教科書に書いてある程度のことが確認されただけである。

公卿たちの合議の結果だったのか? 信西が演説をぶったのか? 後白河の鶴の一声によるものだったのか? 清盛が賄賂を送りまくったのか? 女を使ったのか? 誰かを暴力で脅したのか? 

すでに忠盛が昇れるところまで昇ってしまっていたので、「功績を上げた者には位を与える」というシステムが機能しただけなのか? どうも脚本はそのように思ってしまったようだ。教科書に書かれた裏で、当時なにがあったのか? そこは問い返されなかった。

かろうじて、先例大事の公卿たちを牽制するために、後白河(信西)が平家の財力と武力を必要としたという説明はなされたが、公卿たちが運営する「出世システム」が、その意味では平等に働いて、すでに四位だった清盛を三位に押し上げてしまった……とするなら、信西たちは「しまった」って言わなきゃいけないところだ。

ごっしーは五節の夜をほっつき歩いて「清盛を太政大臣にしてやるが思い通りにはさせない」と啖呵を切ったが、高官を任命する権利を彼の手に残しているのでは意味がない。

なぜか、天皇も院も信西も公卿たちも為す術がなく、あるシステムに従って清盛が出世していくのを指をくわえて眺めており、後になってキレる……というふうになっている。

まるで「GHQには何を言われても逆らえない」と最初から諦めている戦後日本の無力な民主主義のようだ。「お父さんの決めたことだから仕方がない」と最初から諦めている女子供のようだ。

この傾向は第一話から顕著で、忠盛は白河院へ人情と平等な扱いを要求するが、本人は一門にむかって威圧的であり、「陰陽師など信用するな」「俺は正体不明な女を嫁にする」と一喝するだけで、じゅうぶんな説明・弁明をしない。

「清盛が傷つく」ことが前提されてしまっているので、彼は街の子供(うさぎ)に一言いわれただけで、それまで七年間一緒に暮らしてきた家族への信頼をかんたんに捨ててしまう。

「清盛がもっと傷つく」ことが前提されているので、(養子を嫡男とする棟梁の判断力に疑義を呈する)忠正の主張こそ平家の団結を危うくするものである・彼こそ自重すべきだ、と諫言する者がない。逆に彼へ同調して反乱を起こす者もいない。

いつも何かが前提されており、予定調和のなかにあり、ある「お約束」に従って、ストーリーの進んでいく方向があらかじめ決められている。

その代わり常識的な行動をとるキャラクターがいない。エピソードは史実を無視した思いつきの寄せ集めであり、史実との整合性が悪く、したがってどのキャラクターも頭が悪いように見える。

同時代だからというだけで清盛と信西の間に濃い友情を演出するべきではなかった。清盛は権力を手にしてからも科挙を実施しないし、遣宋使を派遣しないし、税制を見なおして庶民の負担を減らしてやるわけでもなければ都を改修して庶民の暮らしを衛生的にしてやるわけでもない。羊の病は流行り放題だ。

それをいみじくも、というか、あざとくも西光の口から「復讐にすぎない」と言わせたが、あれは話がこんなことになってしまったことへの制作陣の言い訳だ。清盛はそれへ言い返すことができない。

彼は宋銭の価値の理解者である西光に手を出してはいけなかった。僧体の身でさらし首となった彼を見て世人はどう思うか。「清盛のいうことを真に受けて宋銭なんか使うと祟りがあるぞ」だろう。清盛自身のもっとも望んでいない結果になってしまう。彼はまったく先が見えていない。信西の遺志を実現するどころじゃない。

信西との友情を設定したことが西光との友情の描写を導き、それが鹿ヶ谷の陰謀に西光も与していたことと合致しない。結果は清盛の言動不一致、口先三寸の言い訳、信用できなさ、愚かさを描き出す……ということになってしまう。

どんなに時代が変わっても臣下は臣下であり、法王その人の身柄に手をかけるわけにはいかないので、その代わりに側近を失脚させて牽制するというなら、すでに失点のある成親を一気につぶすべきだった。重盛が真っ青になるかもしれないが、まぁいつものことだから気にするな。

しかもこのあと承久三年のクーデターってものが控えており、結局法王その人に手をかけてしまうのだから、最初っからそうすりゃよかったじゃないか、なに考えてんだ清盛って話になる。あまりにも成り行きがおかしいから「鹿ヶ谷の陰謀・陰謀説」まで提出されているわけだが、それじゃ絵にならないから「あった」こととして(ホラータッチで)描いたわけだが、辻褄があってなさすぎだ。

盛国は先走って「修羅の道ならおともします」って話をまとめてしまったが、兎丸をうしなった清盛は「もう友人を裏切ることはしない、一門を言い訳にしない」と決意してもよかった。兎丸との対立は、ばんやむを得ない仕儀というほどではなかった。清盛は単なる「発注者」ではない。現場監督に無理な注文をつけるだけではなく、盛国に命じて人足を召集し、三交代にさせるなど頭の使いどころはあったはずであり、残念な結果になってしまったことをじゅうぶんに反省すべきだった。それをしないから、反省しない人物である、そのていどの頭の持ち主である、という結論になってしまう。

身寄りのない子供を密告役にするのは、現代人が見ても、当時の庶民から見てもえげつない仕業であり、だからこそ平家物語の中に語り継がれてきた。「これも人助けのうち」という強弁は時忠の言であり、清盛自身がどう思っていたのか、彼のアイディアだったのか、描写されなかった。何もかも「いつの間にかそうなっていた」のであり、「軍記物に書かれている通りです」ってだけだ。

「犬と呼ばれていた我々が今こそ巻き返す時」というようなことを口走ったが、では彼を「差別によって復讐心で凝り固まってしまった哀れな男」として描きたいのか。せっかく位人臣を極めながら、後世に響きのよい名を残すことも、神仏の祟も恐れぬ成り上がり者、乱世の奸雄、悪役ということでよろしいのか。アンチ・ヒーローに新たな光をあてるのではなかったか。「復讐心によって度を失い、先を見失って、滅びるべくして滅びた」ということでまとめるのか。

「頼朝に髭切を与えたのは、逆らえるものなら逆らってみろ、俺に天誅を与えてみろという意味だった」というようなことが示されたので、どうもそういう方向のようである。

絵的にはいいんだけどねぇ(´・ω・`) では次回は、重盛がんばれ。