2012/12/31

相棒みた。

掃除の合間に亀ちゃんがいた頃のを(・e・)

最初に挙がる犯人はストーカーを返り討ちにしたシングルマザー。真犯人は別にいるタイプのストーリー。相棒ではおなじみの二段構え。

美人シングルマザーの災難に若いタクシードライバーが同情して巻き込まれるが、それとは全く無関係に彼自身が別の事件に偶然まき込まれる。ふたつの事件をつなげて一石二鳥を狙った悪知恵は、一度はベンチャーとして成功した男の頭脳から生み出されたものだった。

今は世過ぎのためにタクシードライバーをしている彼は、一度は成功しながらも、大手に人材をヘッドハントされて転落した。つまり、やや脇が甘い。そのような者が思いがけず手にした大金に目をくらませるが、優しい心も残っている。その優しさがシングルマザーの娘に折り紙をおってやり、その素材が(専用の折り紙ではなく)高級ホテルのパンフレットであったことが右京の注意を引く。折った後でパズルのように形を変える“帆掛け舟”は、右往左往するドライバー自身の人生の象徴でもあった……

チッと舌打ちしたい感じに上手かった。

で、前稿で言ったのはちょっと間違えた、と思った。事件の原因が男女のもつれだからつまらない、のではなく、それによる事件の顛末がありきたり・単線的だと、ドラマとしてはつまらないってことだ。犯人の動機のかわいそう具合を強調しても、しょせんはフィクションであって本気で同情してもしかたがないし、視聴者は慣れっこになってしまっている。「くさい」と感じるだけだ。わざわざドラマとして見たいものは脚本の“ヒネリ”であり、小道具を上手にあしらう技術だ。(だからドラマや映画のレビューも脚本のアラを探すものが多い)

相棒は、お茶の間で見るミステリードラマの面白さを追求した挙句にこの始末、という状態で、犯人探しはいつも二段構え・三段構え、時事問題・社会問題にふれた多くのエピソードを挿入し、四本くらいのドラマをいっぺんに見たような重層感・お買い得感を味わわせてくれる。一時間が長いようでもあり短いようでもある。スコッチに複数のスピリッツとリキュールを混ぜてビターを振ったカクテルみたいなもんだろうか。

犯人の描写がやや甘いのはドラマだから仕方がない。ふつう一石二鳥を思いついても夜のあいだの気の迷いとして忘れることにするだろう。実行にはかなりためらうだろう。映画だったら犯人を主人公に、その心理を丁寧に描くかもしれない。自白だって簡単には取れないはずだ。筆舌に尽くしがたい怒り・悲しみ・責任転嫁・自己欺瞞、いろいろな感情がないまぜとなって犯行に及ばせるので、理性的に状況を整理して説明できるほどの知性の持ち主なら、むしろ実行犯にはならないともいえる。が、お茶の間でそこまで追求するのはちょっと重い。ステレオタイプな悪役といわれても、軽やかな味わいのほうがいい。ペラペラと喋ってしまっておしまいにすればよい。お茶の間がもっとも恐れるのは「ふつうの人もいつでも犯罪者になり得る」ということで、だから逆に犯人は極端に自分勝手な人、どっかオカシイ、という設定であれば安心する。それを右京さんが叱り飛ばしてくれるから溜飲をさげる。肉体的な暴力ではなく知性で得手勝手な正義感を叩きつぶすドラマが成功するのと反比例して、「やっておしまいなさい」という時代劇は衰退した。うまくできてるのだ。

にしても亀ちゃんなぁ……スーツの隣にブルゾンの男が立ってるだけで(そしてその間に被疑者の美女がいるだけで)絵的にバランスが取れていて良かったのだけど。演技も演出もいらなかったんだけど。俳優にやる気があり過ぎたか(・e・)




2012/12/30

仮面劇をミステリの素材にすれば。

「仮面」という素材を強調したいなら、すりかえトリックしかありえない。

もう2年くらい前になるかもしれないけど、NHKのドラマで“京都在の女刑事&骨董屋の娘で鋭い鑑定眼をもつ女性のコンビが骨董品にまつわる事件を解決する”っていうのがあった。

京都が舞台という風情と、中年女性ふたりのコンピというアイディアが面白かったんだけど、肝心の骨董品のあつかいが浅薄だったのと、事件がありきたりな男女の痴情のもつれによるものだったのが残念だった。

なかに能面打ちが能楽師の舞台(と生命)を乗っ取って、女房を寝取られた復讐を果たすってのがあった。能面そのものも“中の人”もすりかえだったわけだけど、むかし稽古を受けていたからって体を壊して十数年も舞台から遠ざかっていた人が急にプロの舞台を乗っ取れるほど甘かない。

能楽師は仮面をつけて立っているだけではなく歌手でもありダンサーでもある。劇団という考え方はしないが同じ師匠の元から巣立った役者たちは、講というかコミュニティというか、そういうものを形成している(同人と呼ぶ)

同じ師匠の元から巣立っても、同人それぞれの声質・体格・人間性の違いから芸風の違いが生まれるのは素人目にもすぐ分かる。通い慣れた客なら「今日のシテは誰々だから見に来た」と楽しみにしているのだから、別人が出てくれば橋掛かりの段階で気づくだろう。

だいたい、鏡の間は無人じゃない……。

仮面とくれば、ふつうは“中の人”が意外な人物だった、という展開を考える。面白さを求めてミステリーがつちかってきた手法と、素材とする世界が合わないってことがあるのだろう。(能面も中の人もすり替わりはしなかったからこそ悲劇がおきた『天河伝説』は上手かった、ってことになる)

ちなみに“恋愛などにかまけている暇はない”という世界にあえてロマンスを設定するのがBL(やおい)だ。

戦争中やスポーツの試合中にはラブラブしてはいられないから、作戦または作戦会議が終了したあと、二人だけの夜または休日の様子ばかり丁寧に描くことになり、戦争や試合の成り行きを早く知りたい“硬派”な読者・視聴者からすれば「くだらない話ばかりしている」という印象になる。

女性の一部がなぜ男同士のくだらない話を好むのかについては深入りしない。ある人物があるものをなぜ好きなのかを追求すれば、その人の個人史・家庭環境・友人関係・トラウマなどをほじくり返すことになり、プライバシーの侵害ってことになるからだ。「私はこういう経験があったので」と自ら語りたい人は語ればいいけれども。

(「よくぞ聞いてくれました」と女性の社会的不利を訴える契機とされたのが昔の“やおい論”だ)

話をもどすと、映画『オペラ座の怪人』(ミュージカルを映画化した2004年版)は、一度も表舞台には立ったことのないはずの怪人が、いきなり堂々と歌手顔負けに歌ってしまった。愛ゆえの奇跡というか暴走というか、大勢の観客の前で緊張することもなかったようだ。

無理がある設定は、そんなファンタジーにするしかないのだろう。

無理を承知で、硬派な世界にロマンスを持ち込む。清楚なお嬢様学校に「巨大ロボット科」が創設され、少女たちが戦う……なんてのも面白いかもしれない(すでにあるかもしれない)

無理を承知で作者自身も楽しんでいることを表現し、娯楽作品であること・ジョークを理解してくれる仲間の閲覧に供する。ジョークであることの表現手法として、コメディ調であったり、シニカルであったり、極端にロマンチックであったりする。

であるべきなのに、どうもNHKはときどき変に真面目で、分かっててやってるのかどうかはっきりしない……という不安に叩きこんでくれることがあるね(・e・)(← これを使いたいばかりに移転検討中)


2012/12/25

第50回 「遊びをせんとや生まれけむ」

【MAD】実録!密着64年!!
NHKオンデマンド   大河ドラマ 平清盛 <終> 第50回 遊びをせんとや生まれけむ
タグ:どうしてこうなった 才能の無駄遣い 混ぜるな危険



……ってところか……。

最終回は泣けるとは思ってたけど笑えるとは思ってなかった。あまりの笑撃にキャプチャ。念のため、動きません。武満音楽をフィーチャーした芸術祭出品時代劇と70年代の任侠映画と民放ドキュメンタリーとホラーをまとめて見たみたいでお買い得感満載でした。ほめてます。

冒頭、いかに話をかいつまんで視聴者に伝えたいからとて、頼盛に“それ”をきいてしまう頼朝のドSっぷり、KYぶりは冴え渡りすぎてましたが、後々の彼を暗示してるってことでまぁよろしいでしょう。

まだ若い松ケンのじじいっぷりは見事でした。「ついに宋剣から手が離れる」という象徴的演出もよかった。

その後で「我が墓前にそなえよ」と来るんだから言ってることとやってることが違う……のはいつものことで、人間は一面的には測れないという主張でしょう。

清盛の“仏倒れ”お見事。巨木が裂けるような、巨船が沈むような奇怪な音の象徴性も効いていました。今回はオープニングがなかったわけですけども、このへんで「柴田さんかな」と思い始めました。演出家の“その人ならでは”の持ち味がふしぎなほど作品によく表れるものだということを教えてくれたのも、この作品でした。

盛国が後見のように動かなかったのも良かった。清盛の目をむいた死に顔も立派。眼球が動かない芝居を“これでもか”と撮り続けたカメラはドS気味だったかもしれない。




ここへ来て、西行が狂言回しになってしまったのは若干うっとうしかった。彼はあんなKYな、饒舌な男だったか?(無口だったとも言わないけど)

江姫は歴女の夢を代表して、単身安土城にのりこみ、信長に独占インタビューを果たした。こちらでは西行が脚本家の歴史解釈を代弁する役を背負わされてしまったようだ。

この西行はストーリーから浮いている。彼自身が待賢門院から「さがれ下郎」といわれて「こんな身分制の世の中、こっちから願い下げだ」と出家したのなら「そんな世の中で俺自身が成り上がってやる」といった清盛といい対象になったんだけど、“女院はほんとうは鳥羽院を愛していた”って話にしちゃったから、義清は(身分・社会制度に関係なく)単に個人的に失恋して逆切れしただけになってしまった。

清盛を手伝いもせずに個人的な事情でひきこもっておいて、後から「おてまえ何やってんの?」と批判するようではイタイ。

それにしても清盛、生霊のぶんざいで長い遺言をのこしたもんである。西行は長々と書き取ったのか……と思うべきか、仏徒たる西行が清盛の死霊を連れてきた、とみるべきか?

脚本家には小劇団の関係者ではないかという噂があり、あのような虚実不分明な場面設定をみると「そうかもしれない」と思えてくる。舞台にふとスポットライトが当たると、いったん退場したはずの役者がいつの間にか(“せり上がり”によって)再登場している、といった感じ。現実空間なのか誰かの頭の中の風景なのか、もうハッキリしない……という演出。

視聴者には賛否両論だったろうけど……清盛の言葉をうけとる側の俳優が、それぞれの地をいかした役作りになっているのがよく分かって面白かったし、感動的だった。いいとこの坊っちゃんらしいきれいな顔をした宗盛のなりふり構わぬ涙顔も、重衡の場違いとも思える笑顔もよかったよん。

上皇たちの派手すぎる生活を描いてきた作品の最後へ来て、“頼盛の家臣”という地味な名演技・名場面がみられたのも面白かった。入水のシーンでは時子に長年つかえる女房・生田の不細工な泣き顔がきちんと撮られていたのがよかった。周囲の者・めったに名前も挙がらない者たちへの目配りに込められたメッセージ性は、よく伝わったと思う。

盛国は、餓死による自害を選んだってところから“意志は強いが(献策するなど)積極的に動く男ではなかった”という人物造形になったわけで、大殿最期の瞬間も彼だけが動かなかったわけであり、一貫性と納得感があって上手い設定だったと思う。

脚本と演出と俳優は、息を合わせて良い仕事をしたのである。演出的な工夫、映像美になんの間違いも不満もない。

立派になったことが薄明かりに見てとれる鎌倉、影濃い二見の草庵、それを天上の神仏の、あるいは梁に棲む蜘蛛の視点のように高いところから見おろした構図。清盛の熱が全体にまわったように赤茶けた六波羅、燈籠が左右に揺れる御座船の中、白茶けた海の戦場……。久慈照明と細野撮影が最終回らしい総決算ぶりを見せてくれたと思う。

もう海上決戦ロケをやる余力はなかったみたいでバケツで水ぶっかけてたけど元々お芝居だからそれはいい。最期のセリフはくさくなっちゃいけないのだが深キョンは立派だった。知盛、“碇潜”お見事。どうせ平家物語準拠なら他にも見たい名場面はいっぱいあったけどもういいや下手なナレーションによるダイジェストでどうせMADだし。(←ちょっとふてくされている)

目の下のクマを強調したホラーっぽいメイクが好きなのはメイクさんだろうか演出さんだろうか?

鎌倉勢のはしょりっぷりについてはもう( ゚д゚)こういう顔になってしまったが青木さんはよく似合っていたし白茶けた色合いもよかったのでまぁいいや。

で……締めは小兎丸かい!美少年だからいいけど! 「そして私も死に」って頼朝、おい!! まったく最後までツッコミがいのある…… 

もっとも本編のラスト・ショットは海と宋船だったわけで、柴田氏も面目躍如というか体裁を保ったというか、意味合いはともかく、美しかった。舘野のピアノへ戻るのも美しかった。

そして……よく考えると空撮だな( ゚д゚)




総括。

なんというか……脚本家のもつ耽美(BL寄り)気味なファンタジー性、“架空の世界”感、平成のモラトリアム気分、中二気分をとらえる感性と、演出家(なかんずく柴田氏)のもつ昭和的な、男臭いチャレンジ精神が手を組んだ、まさに泥から咲いた花みたいな不思議なドラマだった。

後白河法皇は大天狗といわれたが、そもそもその前に白河院がエロ過ぎたのがいけない、ここをつっこめば面白くなる、と見ぬいたのはドラマ作者としては慧眼だった。

が、ロイヤルファミリーが近親交配におちいり、王子たちの若死が相次ぐというのは、古代エジプトでも古代ローマでも古代中国でもメロヴィング朝などでも滅亡の合図だ。海外の王朝なら、とっくに軍隊の反乱と外国勢力の介入をみて滅亡している。

そして、“軍隊”清盛は海外勢力を引き入れた、といってもいい。そして“大天狗”は右往左往した挙句に自らの王朝をほろぼした、といってもいい。このあと政権は武士に移ってしまい、“王政復古”によっても天皇(上皇)の手に帰ってくることはないからだ。明治政府を動かしたのは(おもに)薩長の武士身分だった者たちだ。

彼らの末裔が昭和の庶民を「一億総玉砕」に導き、その結果としていまだにこの国は“真の独立”を果たせていない……というなら、独立国としての日本は武士によって滅んだ、といってもいい。そして庶民は「ご聖断」によってかろうじて全滅をまぬがれた。

だからその末裔である現代人は、皇統をなみする発言をしちゃいかんのである。清盛が悪人だったことにしておかなきゃいかんのである。

でも彼だって人間だから間違いもするさ、神仏ならぬ身のかなしさよ、無常よ……と泣いて終わりにするのは先人の知恵であり、先祖たちが本能的に歴史の闇に葬ろうとしてきた時代にプログレを聞いて育った世代の知性がスポットライトを当ててみたら本当にヤバイものが見えてしまった、って話だ。

だから最後へ来て平家物語準拠になってしまい、諸行無常になってしまい、歴史に関しても自ら展開したストーリーについてもツッコミ不足のまま駆け足でこれにて終了ってことになってしまったのだが……情緒を刺激することに絞り込んで、かろうじて娯楽作品としてまとめたってことでいいかと思う。

エピローグは全く柴田氏らしいというか、手持ちカメラによる清盛視点の六波羅案内は楽しかった。にやりとしてみせた重盛には手を振りたくなったし、石黒宗盛の肩の荷の降りたような、はにかんだような明るい笑顔は“グランドフィナーレ”“打ち上げ”における俳優の素の笑顔であり、しみじみした。

一代記が若い頃にもどって終わるのはお約束。脚本家が自分を託したもう一人の人物はもちろん兎丸だったわけで、清盛を迎えにきたのは盛国ではなく兎だった。清盛のバカ笑いで終わったのも賛否両論だったかもしれないけど、象徴的だったと思う。

ともかく、最後の最後に海の青が眼に残ったのは良かった。テーマの鋭さと、映像作家としての手腕・こだわり具合というのは、やはり正比例、リンクするものなのかもしれない。

いや演出家に限らず、すべての関係者が(毎週見ては長々とツッコんだ多くの視聴者も含めて)死力を尽くしたといっていいだろう。皆様おつかれさまでした。


遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ、遊ぶ子どもの声きけば我が身さへこそ揺るがるれ……


2012/12/22

第49回「双六が終わるとき」

なにしろ気が重いので一週間ほうっておいた。



……いいんでないかい? ……とまず誉めておこうと思う。

俳優の持ち味とキャラクター造形がよく一致しており、その表情をとらえ、彼らの心情と状況を視聴者に伝える編集、低すぎる視点から見上げていく・あるいは高すぎるところから見おろす、はたまた几帳の陰・柱の陰からうかがうなど、変わった構図と視線の動きで情感を高めた演出、さらに的確な音楽の使い方など、見せる・聞かせるための工夫になんの問題も間違いも不満もなかったと思う。

几帳が風に揺れているのも、御簾越しに庭の緑が見えるのも美しかった。なんどもいうが、オープニングの舘野泉のピアノ曲がそのまま響き続けているようなしっとり感、哀切感で一貫しており、一年間さんざんいろいろ言われたし、言ったけれども「ブレてないな(・∀・)」とほくそ笑ませてくれた。

どっちみち撮影と放映には半年近いタイムラグがあり、後からいろいろ言っても無駄だし、ブレるわけはないのだ。

渡辺演出回はわりといつも音楽多めだったが、今回は抑えを効かせて良い感じだった。風の音、賽の音、かすれる笛、琵琶の音。

時子は何十年たってもあの曲しか弾けなかった……のじゃなくて、あえてわざと思い出の曲だったのだ。うんきっとそうだそういうことにしておこう。投げつけた骰子にスローがかかって輝くあたりは「渡辺キタ━(゚∀゚)━!」って感じでしたね。

清盛が平治の乱前後に急に賢くなったときと同じで、頼朝がなにをどうして急に逞しくなったのか、ドラマ的にもっとも面白いはずの部分が「他人のくちから説明する」という手法ではしょられてしまい、そのくせ登場人物がテレパシーを使いすぎ、将来を見通す目があり過ぎるのと、概説書ていどの歴史観をじぶんの口から述べてしまうことに鼻白む思いをさせられるのは、まぁいつものことだ。

ほんとうは、事件の渦中にいた人物たち自身はじぶんの歴史的位置などまだ分からず、ただ「やらねばならぬ」「周囲の期待に応えねばならぬ」という熱い勢いに突き動かされていた……という描写が良いはずなんだけど、この脚本はどうも“まとめ”的なことを自分から言いたがる。

とらのまき的なものを丸暗記することで受験勉強をのり越えてきた世代(私自身もそうだ)は「このときの登場人物のきもちを百文字以内で述べなさい」(の解答例を丸暗記する)みたいなことが好きなのかもしれない。

好きでもいいが、そのせいで、実はドラマ的にはちょっとズレてしまう。

なぜなら清盛がやろうとしていたことの意義を(前回で)頼朝が理解したのなら、彼のすべきことは平家をブチ倒すことではなく、東国武士の要望を箇条書きにまとめて平家政権へ提出するという“権利の請願”を行い、源平が手をたずさえて後白河院に対抗しましょう……と書面でも送ってやればいいだけのことで、流血沙汰をおし進める必要はない。でもそれでは史実と合わないので、キャラクターの言ってることとやってることがズレてしまう。視聴者は煙にまかれた気分になる。第一部からよく見られた現象だった。もはや遠い目になってしまう。

でもこのスタッフたちが「ドラマの作り方を分かってない」わけではない。ただちょっと、脚本が“現代的”すぎただけだ。とくに出だしのほうでちょっと「白河院やば過ぎw」とか「悪左府エロすぎw」など、受験勉強の合間に4コマ漫画を描いて気晴らしにする女子高生みたいな悪乗りが散見された。(で、数字を落とした)

とはいえ、脚本はそうであっても、俳優たちは「当時の空気感のなかに身をおいた当事者」として、自分のなかから情緒をかきたてているし、そう見せることに成功している。徳子の可愛らしい声とまじめな顔つきのギャップからくる萌え感と悲哀感、若い女優自身がその持ち味を充分に理解した誇張しすぎない泣きの演技は「全篇の白眉」といってもいいくらいだ。

時子こと深キョンもいい表情をした。松ケンの年寄りっぷりは堂に入ったものだ。語り口に難のあった後白河院も、今回は肺腑からこぼれ落ちるような声がよかった。

後白河院は“わが身を犠牲にして清盛を反乱に導いた”というには結果がお粗末(政権が武士にうつってしまう)わけで、要するにカッコつけてるわりにカッコ悪いのだが、彼がいかに時代を読み違えたか、そのへんは結局えがかれなかったわけだがまぁ蒸し返すまい。脚本家が後白河院を読み違えたともいえるが以下同文。

あらためて映像的なことをいえば、清盛も後白河院も西行も、メイクを控えているのかメイクで作っているのか、しみの浮いた年寄りの肌を表現しているのが実にいいと思う。ドーランが悪いとはいわないが、ハイビジョンテレビの時代に肌色の肉襦袢を着たような顔が大写しになるよりは、敢然として「リアル」を追求したらよろしいと思う。

逆に言うと、ほんとうにその年齢の俳優を起用したら、その肌のシワやしみが映しだされてしまうわけで、あまりにも生々しく、したがって「若い俳優が年寄りっぽく作る」ことがテレビ的に許されるギリギリの「リアル」表現となるのかもしれない。

そういえばオープニングでは俊成卿と今さら堀河の名が見られたのでちょっと興奮した。りょうの老女ぶりは見事だった。なまぐさ坊主め(・∀・)といった本人の顔が紅梅と重なる……なんて演出もよろしい。こういうところは「女性を美しく撮りたい」という男性演出家の面目躍如なのかもしれない。

どうも、脚本と俳優と演出の三点綱引きみたいなものを見てしまった気がする。「どっちも頑張れ」ってところだ。

それにしてもここまできて叔父と甥のイチャコラ(白河院の血ということをいえば清盛のほうが濃いのである)を見せつけられるとは思わなかった。院は清盛おじちゃんに遊んでほしかっただけなのかそうなのか。いずれにしてもダイジェストは年末にやれというに。

そしてここまで来ても平家の若者たちは「おじいちゃんどうしよう(´・ω・`;)」って言ってるだけで、みずから金を集めるとか人を集めるとか鎧を出してくるとか妻子を避難させるとか動いてる様子がまったく見えないわけで、武士のドラマとしては面白くないし、彼らが本当は政治家としては有能だったのに理解を得ず滅ぼされてしまったのかどうか検証してみる姿勢も、せめてそのように描いてやりたいという思いもまったくないわけで、ただお父さんの周りにいつも子供が集まっているというホームドラマに終始しているわけだけれども、……予告編はカッコ良かった。

二位の尼はじめ、滅びの美学が横溢していた。「最終回の予告」そのものが名作になっていた。あのオープニング曲もあと一回かと思うと感無量ではある。

ドラマは結局絵巻物になってしまったと思うが、それでいいと思う。むしろ「絵巻物をなめてはいけない」ことが分かったのだから、いいのだと思う。
2012/12/12

第四十八回「幻の都」

死の彷徨、はじまる。

いい回でした。

……と、まず誉めておこう。ここへ来て新演出家の投入があったのにはびっくらこいたがいい仕事だった。

ボ~~ロボロに傷つき~~忘れる♪ わ~~すれたい、忘れられない~~♪

……ずっと響いていたピアノに乗せて歌いたくなった。いや「泣けるドラマ」「メロドラマ演出による歴史悲劇」として最高に上手に描けていた、と全力で誉めてるつもりですとも、ええ……

まじめな話、ちょっと震えがくるくらいうまい回だったと思う。この震えは部屋が寒いせいではないと思う多分。

BGMの余韻で公卿会議と平家会議をつないだのはきれいな場面転換だったし、手ぶれではない静かな撮り方で各キャラクターの表情をじっくり捉えたカメラ使い、長い呼吸感は中島演出の回にも近く、その中島演出だった前回から引き続いて良い流れだったと思う。

嫡男を(被害を最小限におさえつつも効果的な戦術をくりだせるような)武士として、(周囲の状況を読める)政治家として、育てることができなかった自分……という難しい場面を松ケンはよく演じたし、固唾を飲む一門の横顔もよかったし、それをとらえたカメラもよかった。吹きすさぶ風の音もよかった。

そのいっぽうで、演出家が変わると構図が変わるのもよくしたもので、いつもとは違う角度による建物内部、人物配置、移動の線を見ることができたのは面白かった。

この話のキャラクターはいずれも独り勝手に結論を出して行動を急ぐのだが、頭よすぎな侍大将・忠清のどこをおさえるといって胸をおさえる盛国、その袖が太陽に透ける……なんて描写は、セクシーかつ哀調を帯びて美しかった。“耽美”好きを喜ばせるギリギリの大人な表現として最高だったかと。太陽を意識させられたのも珍しい。

上川さんは、つい先日、誰よりも迫力のある「やめよ」の怒号を披露してくれた。あの時は「今に至るまで、この人の演技力の使いどころを間違えてきたんじゃないか」と歯噛みさせてくれたが、今回の老い疲れたしゃがれ声もまた良かったですなぁ……

微妙にもったいなかったのは、「南都炎上」という盛り上がるはずの場面を例によって伝聞・イメージ映像ですませちゃったことだ。

テレパシスト頼朝が「清盛の本心がやっと分かった」と清らかな目(笑)をしたそばから画面いっぱいに紅蓮の炎が燃え上がる、とつなげりゃ刺激的だったはずなんだけど。

これはもう「視聴者を戦闘シーンによって興奮させないという配慮」とでも思うほかない、ような気がする。

面白いといえば、東国勢の場面はいつも色調がセピアがかっているのである。たぶん「(現代から見て)昔の話」という意味をもたせており、「それより前」の平家の時代は極彩色・総天然色で描く……と手法は(近いところでは)映画『オペラ座の怪人』(シュマッカー監督の)がやってた。

頼朝がセリフとしても演技力としても青臭くてどーしよーもないのが、第一部の松山清盛にハラハラさせられた頃を彷彿とさせるのも面白い。

そしてやっぱり、円熟の境地に達した福原勢の熱演ぶり・しっとり感と、頼朝のKYな、野暮ったいナレーションは合ってない。

もしかしたら我々は、この脚本家にもうワンチャンスを与えて、この岡田頼朝がキャラとしても俳優としても成長していく様子につきあってやらねばならないのかもしれない(爆)

じっさい頼朝も、この後は弟との確執・京都方面との駆け引き・重臣の粛清など、なんか似たような道を歩むわけで、同じ雰囲気による「続編・鎌倉の場合」が見えてしまったような気がする。

歴史理解としては、頼朝が言ったことでほぼ正解なのだろう。だからこそ、清盛を美化して描くことは難しい。

彼を「時代に先駆けてグローバルな視野をもった、国際的政治家・ビジネスマンの先駆け」だったとして持ち上げれば持ち上げるほど、そのような優れた者を周囲がよってたかってつぶした、出た杭をたたいた、この国は昔っからそんなふうだった、(清盛とともに)大化けする機会もあったのに、無知蒙昧と臆病によって自ら閉ざした、あの時代に方向性を間違えた、現代人の皆様ご愁傷様……という結論になってしまう。

だから、彼自身の人間性に問題があって、滅びざるを得なかったという話にしたい。平家物語が彼を悪役としてきたのは伊達ではない。ただ春の夜の夢として泣いて終わりにするのは、生き残った者の処世術として正しい。そのことが分かっただけでもやった価値はあったし見た価値はあった。

小兎たちに向かって黙ってこうべを垂れた清盛には泣けたね。

それにしても、ダイジェストは年末におやり遊ばせ。

こんな出来のいい総まくりをここでやっちゃったら後の人が困るじゃないか……(と横目づかいに期待する)



2012/12/10

第四十七回「宿命の敗北」

周回遅れでお送りしております。


「私の挙兵の知らせは、平泉にいる我が弟、九郎義経の元にも届いた」

見りゃ分かるがな( ゚д゚)

見ても分かりにくい人のためには副音声というものがあるわけだし……。なんで“頼朝による昔ばなし”という無駄にややこしい構造にしたんだろう……?

第一部の頃から、戦の経過を説明するナレーションは明らかに無駄で、水をさすだけ邪魔だったし、「○○年に誰が即位した」というような話なら、盛国でもいいし時子でもよかった。徳子という手もあったはずだ。いずれにしても清盛の画像に「わたし」というナレがかぶるのは、ひどくややこしい気がする。

そして“東国にいる頼朝の目を通して京都(福原)を見はるかす”という距離感が、観客の臨場感を削ぐ。とともに、カメラは福原の合議の場にいる盛国の表情をとらえるので、視聴者は頼朝の目と同時に盛国の目を持たねばならず、要するに心理的に忙しい。

そしてどっちにしても、メロドラマ調の誇張した心理劇と、ミュージカル調の派手な演出と、大河伝統の「冷静なナレによって史実をかいつまんで解説する」という手法が、合ってないのであった( ゚д゚)

新しいことをやりたかったついでに、“ナレを使わない大河”に挑戦してみりゃよかったのに。

で、ナレの入らない俳優同士の掛け合い部分は、いい感じなわけである。ここまで来て中島演出? とオープニングで一瞬不安になったが、思いのほか良かった。平泉のロビンフッドごっこ(笑)も六波羅での軍議(?)も、BGMが無く、俳優の目と体の動きをとらえた画面で語ったのが気持ちよかった。撮影の清水昇一郎氏には他の回でも喜ばせてもらえた気がする。

もしかしたら脚本の質と、中島演出が、もっとも呼吸感が合っているのかもしれない。

もしかしたら、他の演出家は、くせのある脚本にじゃっかんの戸惑い・照れのようなものがあって、反動的に肩にちからが入り、異様なミュージカル、またはサイコホラーのようなものになってしまうのかもしれない。

ところで前回のラストで昔のようなまっすぐな目を取り戻し、みずから先陣に立つ覚悟を決めたかのようだった清盛、けっきょく何も変わってない頑固じじいのままなんだがもうどう解釈したらいいのか
( ゚д゚)

脚本に肩すかしを喰らうのは今にはじまったことじゃないが……

源氏を「烏合の衆」といいきる清盛は、いったい何万人を動員することができるつもりだったのか、どれほどの戦略をもち、高度な戦術を展開する訓練をつんできた自信があったというのか。彼は目はしのきく男だったのか、最初から最後まで、運がよかっただけの妄想にかられた中二病だったのか。

自分の手綱をとることもできなかったグダグダモラトリアム頼朝がなぜ突然お利口になったのか、まるで説明されてないのも今にはじまったことじゃない。

清盛が、信西を新しい国づくりに欠かせない人材だと認めていたくせに六波羅から人員をさいて三条殿を警護してやるわけでもなく、みすみす彼をしなせてしまった程度だったくせに、平治の乱の間に突然お利口になった経緯も、まるで説明されていなかった。うんまぁいつものことだ。

そして岡田くんはナレも下手だがセリフまわしも下手だ。うんまぁ(以下略)

糧食充分な源氏がたと、平家がたの不手際を対比させた手際は良かった。なんで平家はそんなに士気が低いのか、諸国における訓練や準備のようすを今まで描いてこなかったのが悔やまれるが、当時の「コメ」の色合いを見せた美術陣のちからの入りようは、よく伝わってきた。遊び女をひきいれた平家陣中の小汚さは、放映当初からいわれてきたこの作品の持ち味でもあり、いい仕事を見せてくれたと思う。

ここまで来て(たぶん)史実を無視したBL気味な妄想でしかない「男の友情」を強調したい脚本には物悲しさのあまり涙が出たが、もういいや。

ここまで来て侍大将のくちから歴史を復習させられるとも思っていなかったが、盛り上がり過ぎを抑えた中島演出と、男の色気をたたえた藤本隆宏と、酔うほどの思いきった手ぶれカメラを多用した清水撮影を得て、いい場面だった。

伊藤五も(ほんらい政治には関わらないであろう)侍大将の身分でそこまで分かってるんだったらもっと前に止めろ全力で止めろ命を賭してお諌め申せとも思うが今更しかたがない。キャラクターはすべて紙人形で、脚本家による歴史解釈を代弁するだけというドラマだ。

ともかく富士川の敗戦を軸に、その前後にあった源平双方の心理を描いたまとめぶりは上手かったと思う。“先の展開を見越して関連する要素を早めに描写しておく”ってことは一貫してできておらず、つねに後手後手なんだけど、回収していく手際は悪かない。

伊藤五こと藤本氏は、セリフを歌い上げるくせが少し取れたようだ。鬢が白くなったにふさわしい芝居になったような気がする。清盛も年をくってからの芝居がいいので、“役が役者をつくる”ってことはあるのかもしれない。

そしてこれだけ書かせてくれるんだから、密度が濃いには違いない……

そしてここまで来て周回遅れなのは、やっぱり切ないのでゆっくり進みたい感じなのですわ。
2012/12/09

第46回「頼朝挙兵」

ちょっと立て込んで二週続けて見なかったので今ごろ。


よもや、令旨が露見したのではあるまいな!?

よ、……よもや露見しないと思っていたのではございますまいな……?(゚Д゚)

赤い禿は廃止したとしても、あの一件からしても清盛が世間の動きに気を配っていたことは知れる。平家の個人的な所領も、行政官として派遣されている土地も、全国にまたがってるってのに、誰の耳目にも入らないことがあるものか。

将兵が動くときは下人が動き、馬が動き、武具が修繕され、刃物が研ぎ師に出され、兵糧が集められ、蓄えられるだろう。ハッカーがメールで密談(するかどうか知らないが)、自宅からサイバーアタックを掛ける現代の“戦い”とはわけが違う……

「間諜としての禿は歴史的に実在したかどうか」という問題ではなく、ドラマ内の登場人物たちにとって、あのエスパー少年たちの存在は共通の理解となっているはずだから、「あのような者をいくらでも使うことのできる入道の耳に入らないはずはない」という覚悟がなければならない。

視聴者にとっての問題は、これを「どう見たらいいのか」ってことだ。

もちひと君は、要するにアホだったのか……? 制作陣は、もちひと君をアホとして描き出したかったのか……? このアニメ・ライクなお粗末な脚本の狙いはなんだ……? よっぽどマザコンが好きなのか……?

「反乱を起こす」「戦を始める」ってことの意味を誰も分かってないことの意味が分からないんだけど、どうしよう? 「どうせえらい人なんて、こんなふうに思いつきで戦争を始めちゃうもんなのよ」という諧謔なのか? 笑えばいいのか?

よりとも君は、第1話からすでにアホだった。五年も戦い抜き、親兄弟を前線でころされ、郷里に残した老母や妻子に不安な思いをさせてきた部下たちが「やっと枕を高くして眠ることができる」と喜ぶのへ向かって「お前らより清盛のほうが頭よかったわ」と怒鳴っちゃう棟梁である。三代で滅びるがいいさ。

「寄せ集めの兵でかなう相手ではない!」

だからそれをまとめるのがお前の仕事だろ!! なにを変なとこで先見の明があるようなふりをして威張ってるんだ!!

……アバンのナレーションは再び彼の担当となり、最終回へ向けてスタートを切った感にあふれていて、それはそれで良かったが、なんだな、「モラトリアムな男の子をみんなではげましてあげよう」「っていうか今どきの男の子は、はげましてやんないとダメだこりゃ」という気分にも満ち溢れているようである。

「俺が立つから、お前らついてこい」といえる若者は、一人もいないようである。

源氏と平家は「ふたたび」ぶつかることになったんだそうで、平治の乱を源平の合戦と解釈したようだが、まぁそれはそれでいいとして……

あれ以来、やむを得ず走りだした清盛は、つまり人生を間違えてしまった。800年たっても「はかりかね」る人物だが、前半生は無理な反乱を起こしたり、売り込みをかけすぎて足元をすくわれるなんてことがなく、おじいちゃんが始めた事業を堅実に成長させた賢い御曹司、といってもよさそうだったものが、晩年にいたってどうかしちゃった感……は否めない。

以仁王と源三位のその後も、我々はすでに知っている。

ヒロイズムに駆られていきり立った男なんて、ろくなことにならない……という、皮肉と懐疑・揶揄にあふれているといってよろしいだろうか。

絵柄はあいかわらず光と影の使い方がうまく、アップ多用による刺激と、現代的な音楽による「時代劇らしい臭みの無さ」「ホームドラマ、メロドラマの延長として見ることのできる甘さ、軽やかさ」がいい感じで、楽しく見ることができるものになっていると思う。いや誉めてますってば。

けどあれだ、「外国と貿易して金もうけすること」が「武士」の仕事なのか? 義朝はそんなこと言ってたか?

先走って言ってしまえば、頼長の中央集権(の立て直し)、信西の所領整理(のやり直し)、清盛の海外志向・商業主義に世間がついていけず、「一所懸命」の地主=武士の時代になった、というのが“史実”だ。

清盛は、世間をはかりかねたのか? 商業主義に武士がついてくると思っていたのか? 武士にそろばん教えたか?(笑) いや真面目な話、本気でそのつもりなら、学校を開いて武士に金勘定と外国語を覚えさせるべきだった。

じっさい「とめてくれるな、おっかさん」「死ぬことと見つけたり」の武士道精神をもって、刃物をそろばんに替えた企業戦士が、維新以来の日本を今に至るまで支えているのではある。

で、だからつまり視聴者としては、「このドラマは清盛を“そこまで考えてなかったアホ”として描き出したいのかどうか」を判断しないといけない。いや別にしなくてもいいんだけど、音楽と男の汗と涙の色気に陶酔していてもいいんだけど、個人的には考えざるをえない。

なお、源三位(と頼朝)の挙兵は盛国らによる伝聞ではなく、リアルタイムとして描くべきだったと思う。忠清の渡河も見せてくれよ忠清の活躍も( ;∀;) 源三位は鵺退治らしく勇ましく戦ってくれよ勇ましく( ;∀;)

待ちに待った扇の芝(じゃなかったけど)だったのに笑っちったどうしよう。俳優たちの熱演をよくもあそこまで面白くなく編集できたものだ。しかたがないので「宇梶頼政の断末魔の顔に萌えた」、埋もれ木の花こそ天晴、とでも言っておこう。

ここまできて、そもそも清盛自身は「武士の世をつくる」って言ったのかい? って疑問があらためて湧き上がるわけである。「新しき世」「おもしろき世」って清盛の言として残ってるのかい?

ドラマの最初のほうで若き清盛にそう言わせちゃったことがあとあとまで尾を引いて、話をややこしくしてしまっているわけだが……。

結局「武士の時代」というターム、「ここから武士の時代が始まった」という予備知識または先入観と、清盛は武士としては変なやつだった、ってことを(脚本家のみならず)描き手が消化しきれなかったのだろう。その、“清盛という人物については、後からどう考えても「はかりかね」る”という気分をそのまま描出したという意味では成功だ。

「アンチ・ヒーローに新しい光をあてる」はずだったと思えば、若いときはアホで、中年時代は何も考えてなくて、老境にいたって耄碌し、基本的には常に笑ってごまかす奴だった、とほぼ平家物語に書いてあるとおりに収まってしまった……と考えれば、「お疲れさん」とでもいうほかない。

平家物語をかいつまんで(かつドラマチックに)語る手際にかけては、結構けだらけである。

憎々しさと狂態をで演じきった(というか素だ)ことにかけては、松ケンははまり役だっただろう。まぁ第1話から分かっていたことではある……

後白河院がなに考えて右往左往するような政治(?)ばかりしていたのかも説明できなかったし。

ダメなやつならダメなやつらしく、もっと戯画的に描く手もあったんだけど、それはしないで、ひとりぼっちの寂しさに(無理くり)焦点を合わせたが、そのわりに最愛の寵姫が産んだ愛息子であるはずの高倉帝が清盛の傀儡となってしまい、ごっしーは政治的にのけもの扱いだった……っていう描写はなかった。滋子がなくなったとたんに唐突に仲が悪くなった件が、例によって頼朝のナレーションでまとめられちゃっていた。

長年のビジネスパートナーだったはずの男たちが仲違いするとき、何が決定打になるのか? 「もう、こいつとはやっていけない」と判断するのは、どのような会話によってか? 「もう一度話しあおう」という歩み寄りの努力は、二人の間で、あるいはその側近どうしの間で、妻女たちの間で、なされなかったのか?

そのような史実の裏にあった日常の具体例を挙げて、役者に演じさせるのが劇であり、ドラマである(もともとドラマって「劇」って意味だ)はずなんだけど、「見ていても事情が分からない」という不思議な作りになっている。

歴史ドラマだから、歴史をすでに知っている人間のために“イメージ”だけを提供すればよい、という考え方もある。何もかも初めて、という人には、まさに豪華な紙芝居として見た目だけを味わってもらえればよい、ということでもある。NHKの歴史ドラマは、背景や衣装の豪華さ・考証の確かさが売りでもあり、視聴者が期待するところでもあり、もうそれだけでいいよ、とも言える。

……にしてもさーーーー……と、苦笑せざるを得ない練り込み不足なドラマに一年間つきあってくることができたのは、ひとえに吉松(と舘野)の音楽がよかったからじゃないか、と思っている 
┐(´∀`)┌

もはや時代劇も「ミュージック・ビデオ」「ビデオ・クリップ」として、陶酔的な音楽にのせて美麗な映像を楽しめれば良い時代なのだろう。台詞を聞いているといろいろな意味で物悲しくなるから(あるいは吹くから)もう画面だけ見てればいいのかもしれない。

能・歌舞伎も基本的にはそういうものだし時代劇ってもともと娯楽だし(・_・)← 真顔

あ、プルプルプルプル(あるいはガクガクガクガク)震える画面は、柴田演出回らしくて良かったです。それにしても清盛には生後一週間くらいの視覚記憶があるんだね。

(忠盛に抱かれていた彼が見たはずの母の姿とは角度が違うから、彼が白河院に憑依して院の目線で見ている、とするべきであるのは言うまでもないが一応いっとこう)