2014/06/30

【最近のアニメが気に入らない人は小説を書くといい】

そもそもSF小説があって、それが映画化された。

小学生は長い小説を読みこなすことができないし、一人で映画館へ行けない。

淀川さんは特異な例で、多くは「こづかいが足りない」と思えば諦めるし、第一、2時間もの間、じっと座ってること自体が苦手だ。

だから、大人が小説を読み、外国映画を見てきて、内容をかみくだき、子供が10分くらいで読みこなすことのできる作品として、描きなおす。これが漫画の役割で、藤子不二雄は第一人者となった。

さらにその漫画から二次創作したものが、テレビアニメだ。

着想は漫画から得ているが、かならずしも原作に忠実ではなく、各回ごとに監督の個性が出る。才能において突出した者が、長編の監督をまかされる。

アニメ監督は、漫画の二次創作によって、腕を鍛えるのだ。

漫画とアニメと二次創作の関係にかかわる明言しにくい紆余曲折はバッサリ省くけれども、要するに今どきのアニメが気に入らない人は、最初にもどって、小説を書けばいい。

永井豪ふうの巨大ロボットアニメが懐かしい人は、それを小説の形で書けばよい。松本 零士ふうのスペースオペラが懐かしい人は、その脚本を書けばよい。

まだ現状では「おとなのための純文学・私小説」と、「若者のためのライトノベル」に分かれていると思うけれども、「団塊以降のおとなのための、昔のアニメっぽい小説」という表現分野(投稿サイト)が立ち上がってもいいだろうと思う。

美少年でもなく、イケメンでもなく、大山トチローみたいに外見の冴えない硬骨漢が懐かしい視聴者は、あんがい大勢いるだろう。

だれか優秀な若者が、たった一人でフルCG化してくれるかもしれない。

写真に修整や効果をくわえることは、昔は職人が筆を使って手作業で行っていたはずだけど、今では1クリックだ。

大型店舗などのゲームコーナーでは、100円入れるとプリキュアのお嬢さん達が踊りだす。あの動きは定型化されているはずで、応用すれば剣戟やマーシャルアーツの動きも再現できるのだろう。

アニメの不調は「盤が売れない」(=企業経営がむずかしい)ということだが、個人的に(PC上で)俺さま好みのアニメを「つくる」こと自体は、もしかしたら簡単になっているのかもしれない。

2014/06/29

【アニメは鉄腕アトムの時代から二次創作だ】

必ずしも漫画原作に忠実ではなく、各回ごとに脚本家・演出家の個性が出る。頭角を現した者が、長編の責任者を任される。

思えば、アニメ以前に実写ドラマも、黄門漫遊記や大岡政談の存在を前提に、脚本家・演出家が才能を発揮してきた舞台だった。

テレビの前には映画がある。『バグダッドの盗賊』は、『忠臣蔵』は、何回リメイクされたのか。

映像関係の制作者は、昔から二次創作で腕を鍛えてきた。

だから少しでも映像文化に興味のある若者が、二次的な作品づくりに取り組むことは自然なことだ。

我流解釈による忠臣蔵ドラマの脚本を書いてみたものを、そのまま発表すれば(会話体の)小説となる。

自分で絵コンテを切ってみたという者が、そのまま発表すれば漫画となる。

業界も、そのような才能の出現を期待している。

現代の、いわゆる二次創作に問題があるとするならば、「逆転の連想」によって、あらゆる登場人物をエロチカの文脈に落とし込むという、その手法自体がステレオタイプ化して、新しい長編を生む契機となっていないことだ。

それでも、人間の上梓するものは、その制作者の人間性と、そのときの社会を反映している。

いわゆる脊髄反射、先入観の再生産、先の見えない断片的な物語の繰り返し、一発ギャグの流行、判断停止などは、きちんと現代を表現しているだろう。


2014/06/28

【二次創作自体はヴェニスに死すからでも生まれ得る】

1971年公開の映画を見た瞬間から、二次創作は生まれ得る。

二人は生まれ変わって結ばれたとか。愛の神の奇跡が起きて、あのままヴェニスで同居することになったとか。船出して日本に到着したとか……

もちろん、原作の芸術性は台無しだ。鑑賞者自身の「あんな美少年を囲ってみたい」という願望を満足させる娯楽作品となる。が、書かれて悪いことはない。

三島由紀夫の登場以来、模倣者がいなかったわけはなく、大学ノートに書いて、嫁入りの際に破棄した人があったかもしれないし、胸に秘めたまま墓場まで持っていった人もいたかもしれない。

登場人物の名前を変えればオリジナル作品という顔ができるから、新潮社へ送ってみた人もあったかもしれない。

秋田書店も小学館も「こんな漫画、掲載したら俺の首が飛ぶ」と思えば、連載開始には踏み切らない。連載開始は編集会議を経て決定される。少なくとも編集部内の有力者の商売勘が、読者の支持が得られる公算を高く見積もらせただろう。

プロ漫画家の功績は、暗に成人女性の間に広まっていた情熱を、漫画の形で低年齢化させたことだったろう。

SFも、本来は小説の形だ。それも外国語だ。子供には読めないものを大人が翻訳し、大人が読みこなし、漫画の形で子供へ広めた。

漫画とは、荒唐無稽なもの、おとなの常識では受け入れがたいものの表現の場だった。

【誰でも投稿できる】

新作を新人賞へ応募するために郵送するにあたって、郵便局員による事前審査などない。

つまり、どんなに下手であっても、応募する資格はある。

「山も落ちもない」と謙遜しなければならないものとは、せっかく描いたのに応募できないものであり、発見されてはならないものである。

そのくせ、出版だけはするのである。

謙遜しているようで、していない。プロらしさという「しばり」を離れ、描きたい気持ち優先で、下手でもなんでも自由に描いては片っ端から印刷にかける。印刷所は、原稿を審査しなかった。金さえあれば何でもできる。

1980年代。

子供、あるいは成人して間もない女性が、それに気づいた時代だった。


2014/06/27

【薔薇の流れ】

夜空に輝く星座は、へーラークレースが退治した獣であるとか、早春に咲く花は太陽神アポローンに愛された少年であったとか。

古代ギリシャの神話・伝説には、明確な固有名詞が登場する。

では、薔薇の下で秘密の愛を誓い合ったのは、どの男神と、どの王家に生まれた少年だったのか。その逸話は、ホメーロスの第何節に含まれているのか。

情報のソースが大事とはいいながら、この話題を追求できる人は少ない。都市伝説に類する言辞が、今も一人歩きしているようだ。

海外で男子同性愛をローズと言っても通用しない。今もって、ゲイを意味する花は、パンジーだ。

薔薇はヴィーナスであり、聖母マリアであり、古典絵画に描かれた野生的な品種の一重咲きの花弁の形状から言っても、女性(の局部)の象徴である。

たび重なる鶏姦の結果を示す隠喩という説もあるが、これはいくらなんでも品性を欠くように思う。ホモセクシュアルに品性も何もあるかと嗤うなら、もちろん偏見だ。

たぶん澁澤龍彦が紹介した薔薇十字団の連想から、薔薇は秘密を意味するという印象があったのだろう。

もとより『薔薇族』とは、秘密裏に情愛を交わす男性たちを哀れに感じて、ストレート男性によって創刊された雑誌であり、彼らの可視化におおいに寄与したには違いないが、今にして思えば、男子同性愛に秘密の印象を付与することは、偏見を強化したような気もする。

その禁断という印象が、不良に憧れる中流家庭の健全な少女を特殊な創作意欲に駆り立て、今やアニメ界を巻き込んだ一大産業となっているのだから、波及効果は大きかったというべきか。

(※ 不良に憧れるくらいだから、根は健全なんである)

2014/06/26

【にやけというのは衆道に関わる言葉だ】

さらに、野郎というのは女郎の類語で、男娼のことだ。どっちも稲垣足穂の『少年愛の美学』に書いてあった。

だから少年漫画などで、色男を指して「にやけた野郎だぜ」というのは、「きれいな顔をして、女にもてる男は、男客をも相手にするに違いない」というのが本義だ。

これを文科省的に婉曲表現すると「なよなよしている」となる。

身に覚えのない男性には、たいへんな侮辱となる。現にそのような手段で生計を立てている男性には、職業差別となる。

発言者自身も品の良くない言い回しであることを心得ているので、喧嘩に負けた際などの悔し紛れに物陰でつぶやくことになっている。

少年漫画などでは、勝ったほうが「ふっ」と笑うもんだから、にやけ=にやにやしているという誤用が発生したのだ。

たぶん。


2014/06/25

【女性が衆道に興味を抱いたら三種類の流れが生まれた】

【興味の昇華】

「不良少年が拳闘を通じて更生することを財政的に支援する葉子さん」は、立派な女性といえる。

たとえ、そこに彼女自身の功名心や、裸の若者を見たいという意欲がひそんでいたとしても、それを上手に昇華したといえる。

葉子さんは、男性作家によって創出された女性だから、女性が自分より若く、結ばれる立場にない男性に関心を抱いたときのあるべき姿として、男性によって提示されているとも言える。

が、女性の一部は、女性史のある時点において、「女性を抱き上げる腕力もない虚弱な若者を鍛え直して出世させるより、彼がもって生まれた女性的な美質ゆえに、他の男性の愛玩物となって抱き上げられたり脱がされたりしている姿を鑑賞するほうが魅力的だ」と気づいた。

何十年も前の話だ。

綸子を着用し、歌舞音曲をなりわいとした江戸時代の若衆には、女性の客もついた。

女性の美童好みが彼女たちのナルシシズムに基づくことは、三島由紀夫の言を拾ってくるまでもない。

たとえば古典文学の勉強を進めるうちに、井原西鶴の著作から、そのような事象に気づいたとして、似たようなエピソードを求めて古典を渉猟する。いつの間にか書棚に立派な国文学コレクションが形成された。

それはそれで結構な話だ。

ゲイプライドとして制作された絵画・映画・小説を、女性が鑑賞し、制作者や俳優の技術の高さ、歴史的・社会的意義に拍手を送る。これも正しい態度だろう。

史料に残された衆道の記録を丹念に調査し、引用元を明確にして、研究論文として発表し、他の研究者の便宜に供する。

これがストレート男性によって行われるなら問題ないが、女性によって行われると揶揄されるというなら、女性差別だ。ここは、研究態度そのものの真摯さによって評価されるべきである。

このへんは、女性が衆道への興味を昇華した例といえるだろう。

【許容される創作姿勢】

たとえば、中高年に達した帝大出身の作家が学生時代を思い出して自伝的な小説を書いたので、それを読んだ若者が、自分の子供の頃からを思い出して書いてみる。

あるいは、育児の手がはなれた女性が嫁入りの頃を思い出して書いてみる。

若者ならでは・女性ならではの感性が表現され、ときには成人男性中心社会への鋭い風刺が投げかけられていたりもするので、成人男性も「一本とられた」「よく書けている」などと思う。文学賞を与えたりする。

ここまでは良い。多くの作家・評論家が、そのような新人の姿勢を期待している。

ボーイズラブの世界で起きたことは、ちょっと違う。

中高年に達した男性作家が自らの稚児趣味を活かした作品を残し、それを参考に、若者が書いた。この若者に衆道の実体験はない。どころか、女性である。

この時点で世間がびっくりするんだけれども、しかしこれは許容すべきだ。なぜなら、そうでないと、ある種の創作カテゴリが壊滅してしまう。

すなわち、実際に忍者でない者は、時代劇を書いてはいけないことになる。実際に姫君でない者は、姫君が敵の忍者を好きになってしまった心持を書いてはいけないことになる。

実際には、そのような実体験をともなわない作品は、いっぱい書かれている。時代劇作家自身が忍者になりたいのか、姫君になりたいのか、じつは女性なのかということは、どの読者も本気で心配する必要がない。

ここまでも良い。「娯楽的の創作物とはそういうものだ」として理解できる。

ボーイズラブの世界では、さらに奇妙なことが起きた。

ここで評論家などが従来の手法では批評できなくなって、ややテンパる。

【本末転倒した連想】

1.歴史の勉強中、または古典文学・純文学の鑑賞中に、衆道に関する記述に行き当たり、その文脈において、ハンサムとは似て非なる概念である美少年・美童・若衆・稚児などという存在を知った。

「それ以来、自分好みの美少年を見つけるたびに、衆道を連想する」

2.ある俳優が、女優とおつきあいしているはずなので、ストレート男性であることはわきまえているのだが、他の男優と寄り添っている姿を拝見し、恋人同士の語らいを連想して、(オエッと思わずに)ロマンチックだと思った。

「それ以来、自分好みの美青年を見かけるたびに、男同士の恋の語らいを連想する」

人間の脳には、逆転の連想を起こす機能がある。

「チョコレートでできた貝殻が旨かったので、それ以来、貝殻を見るとチョコレートの味を思い出す」

刺身の味を知っている人は、水族館へ行っても、その魚が「深海300メートルに住んでいる」という生態よりも、「旨そう」という自分自身の感想を重視する。

たぶん連想している人の脳は、視覚刺激を処理する部分と、記憶をつかさどる部分と、情動をつかさどる部分が活発に交信して、ひじょうな興奮状態にある。

大脳の興奮が「快」を生じること自体は、脳の活性が低下して身体の不調を呼ぶよりは、良いことだ。

その興奮が、本人にも耐えがたいほどに大きいから、女の子はケタケタ笑い出す……

【本末転倒の固定】

ある男性の稚児さんであるところの美少年は、ある女性の伴侶であるところの美少年よりも、魅力的である。

男色の文脈に置かれた男性は、女色の文脈に置かれた男性よりも魅力的である。

二十年くらい前まで、世間は「なぜ、ある女性がそのように感じるか」を最大の問題とした。

ある女性がそのように感じる理由を、たとえば彼女の成長史に求めても、そのように感じない女性との有意差を示すサンプルは、今もってそろえられていない。

だから理由はともかくとして、そのように感じる女性にとって、美少年を見出しても、彼が誰かの稚児さんでなければ魅力が足りない。

衆道の実行の記憶ではなく、その情報、または自分自身で引き起こした錯誤をきっかけに得た「情緒」を再現するために、自分好みの美童を描いては、彼にふさわしい「殿」を自分の宰領で見つけてやるという作業を繰り返しているのが、現代の創作者だ。

本朝ボーイズラブは、男子同性愛にかかわる社会問題を訴えるために新宿二丁目で取材を敢行して描かれたドキュメンタリーではない、とは今さら言うまでもない。

最初から、女性自身が男性美、なかんずく少年美をバーチャルに消費するための娯楽作品だ。

基盤にあるのは異性愛であり、ダンディズムという言葉で表現された男性ナルシシズム文化への憧れであり、それにも増して自分自身の価値観を最高と信じる自己愛である。

軍人やスポーツマンなどの男性美を、少年美として消費しやすくするために、女流ナルシシズムに基づいた絵柄に描き直すことも辞さない。

【名づけられざるもの】

竹宮氏が、音楽学校で勉強する若者に関して、その勉学に励む姿を描くだけでは飽き足らず、「相手を見つけてやらねばならない」と感じたのなら、同じ衝動をアニメキャラクターに感じた人物もいたのだろう。

恋人同士であるところの男性たちは魅力的なので、魅力的な男性たちはすべて恋人同士であると考える。

この本末転倒そのものには、今もって明示的な名称が与えられていない。

耽美とは、女性が男性美にふけっているには違いないが、潤一郎などからの連想で、借り物だ。

やおいとは「山も落ちもないが、じつは(以下略)」という暗喩によって、すでに商業的に発表された作品があることを前提に、二次的に制作された好色文芸(漫画)であることを示す隠語だ。

もともとは、大家が創作の戒めとした言葉の流用だとされている。ある作品のタイトルだったという説もある。

であれば、二次的な作品そのものではなく、制作動機・手法・さらにはその手法で描く人物にまで、この言葉を敷衍して適用することは、もともと他からの流用であったものを、さらに流用することであり、隠語のさらなる隠語化であって、もはや研究者が使うべき言葉ではないと思う。

さらに、この手の自嘲的隠語を他人が使うと、侮蔑的意味合いを含むことは、一般的な約束事だ。

英語圏で、二名の登場人物を「A/B」と並列表記したことから生じた「スラッシュ」は、自嘲・謙遜を含まないぶん、「なぜ日本の女性は自嘲するのか」などの余計な議論を生じないが、一般名詞に特殊な意味付与をほどこした隠語であることには変わりがない。

英語で「man-to-man」「male-on-male」、記号的表記として「M/M」といえば、ゲイプライドとしての表現物と区別がつかない。

ボーイズラブは、第三者から少年たちへの愛と、少年同士の愛が重ね合わされているので、状況を的確に表現しており、価値判断的な意味合いも含まないので、使いやすい。現状、これで固定されている。

本稿でも、オリジナル作品・二次的作品の両方を含むカテゴリ全体名称として用いている。ただし、登場人物がボーイでない時は、正確を欠く。

思うに、成人男性が登場人物となっても呼称がボーイズラブであり続けるのは、暗に男性陣の「稚児さん趣味までは分かるが、成人については勘弁してくれ!」という声なき声を反映しているのだろう。

明示されるべきでないから、名指されない。

忌むべき「あのひと」であり続ける情熱は、手順がひっくり返っているのだから、真に「倒錯」の名にふさわしいのかもしれない。

2014/06/24

【二丁目からのクレームは文字通りに読まないほうが良かったと思う】

あえて20年前のクレームについて考えてみる。

二丁目からフェミニズムへ、「やおいには困りものだ」という苦情が入ったなら、フェミニズム論者を女性一般のリーダー格と認め、頼ってきたということだったと思う。

本当は彼らも「やおい」という言葉を使わなければ良かったのだろうと思う。

彼らの真意は「一部の創作物に表現されているのと同根の、差別意識に基づいて、二丁目で我がもの顔に振舞うストレート女性がいるから、フェミニズムの姉貴たちから自粛を呼びかけてくれ」ということだったはずだ。

が、クレームというのは、発したほうも自分の意図が要約できていないことがある。(会田誠展の時のもひどかった)

うっかり「やおい」という言葉を使ったがために、「読んだ・読まない」へ論点がすり替わったのは、彼らの本意ではなかっただろう。

【プロはやおいではないんだ】

繰り返すが、プロ作家たる者、「山も落ちもない下らない作品を仰々しく上梓して、皆様の大事なお嬢様に読ませ、保護者である皆様から金を取りますわよ」というわけにはいかない。

読者が「少女」である以上、その小遣いの出どころは保護者であるから、子供向け創作物の販売とは、じつは「成人作家 対 成人保護者」の取引である。

だから企業を通じて漫画単行本やハードカバー小説を出版した作家たちは、やおいではない。彼女たち自身も、出版社も、絶対に「我(彼女)こそはやおいなり」と認めるわけにはいかない。

逆に言えば、やおいという言葉は、いわく言いがたい二次創作の存在を暗示する隠語だ。山も落ちもないというその言葉自体に、じつは明示的な意味はない。

「貴女の作品はどのようなものですか」と訊けば、「うちはやおいです」と答える。意味するところは、特殊な性を描いた二次創作だ。お呼びでないと思った客は、他を当たる。そのように便利な符牒であり、女性存在ではなく、作品のカテゴリ分類を表す名称である。

「二次創作である」ことに言及しにくかったので、「男子同性愛である」ことのほうに批評の力点が置かれたことが、話をややこしくしたかと思う。

【いろいろなお客さんがいただろう】

その男子同性愛に(娯楽消費的な)興味をもって、二丁目を訪れた女性は、はとバスに乗っただけかもしれないし、『笑っていいとも!』を見たのかもしれない。

「ゲイは男心も女心も理解できるから、人生相談に乗ってくれるよ」という、一見マイノリティの理解者のごとき言説が流布されたのは、いつからだったろうか。1990年代のテレビバラエティによってだったような気もする。

テレビ芸能人によって「ゲイバーで遊ぶのはオシャレ」というイメージが作られたのではなかったか。

1992年以降なら『セーラームーン』や『クレヨンしんちゃん』(映画版)で「おかま魔女」を見たのかもしれない。化粧をし、女言葉でしゃべる彼らは、健全な男女の(未来の)家庭をおびやかす侵略者とされた。

あるいは書店でゲイ雑誌を発見し、飲食店やイベントの広告を見て、直接アクセスしたのかもしれない。

アニメ『おじゃる丸』には、フェミニンなワンピースを着用して、常にスケッチブックを抱えた女性が登場するが、そのような成りで二丁目まで押しかけたものか。

基本的に、二次創作は即売会でのみ流通される約束で、かろうじて存在を許されているようなものだ。

つまり、自分から即売会以外の世界へ乗り込んで「わたし、やおいちゃんです」と名乗る人もいなさそうなものだ。もし自己紹介するとして「同人です」くらいが適当かと思うが、いかがなものか。

二丁目を訪れるストレート女性の内訳を確認することなく、ゲイ文化またはゲイ男性という存在そのものに娯楽消費的興味を持つ女性存在全体をひっくるめて、「やおいというカテゴリに属する二次創作物を制作する女性漫画同人」に代表させたのだが、……

かえって事情通な人々によって、その名は「創作物のカテゴリを表す名称」という本来の意味に受け取られ、読んだ・読まないという騒ぎになり、話のテーマがずれたのだった。

【要求の真意】

もし「テレビでミスターレディを見て探しにきただけで、アニメおたくではない女性客」は、いずれも非常に行儀がよく、無礼の全てが、二次創作マンガ・ラノベ同人の仕業であったならば、クレーム文書の送付先は、同人誌即売会の主宰者でもよかったし、出版社・印刷所などへ注意を促すという形でもよかった。

そう考えると、彼らの要求は、創作自体の禁止や、出版の差し止めを求めるというようなことではない。

百歩譲って描いてもいいが、「差別を助長する表現は取り下げてくれ」と「とにかく二丁目で騒がないでくれ」の二点だ。

であれば、投書先を全国新聞に選んで「僕らの生活域で騒ぐストレート女性がいるので困ります」「すみやかに人権教育を徹底してください」という一般論にしてもよかった。

おそらく、先々のことまで考えれば、招かざる客に迷惑もすれば腹も立てる当たり前の人間であるゲイという存在を一般に認識してもらい、問題意識を共有してもらうためには、そのほうが良かった。

しかし、二丁目というところも、法律によって彼らだけに許可された特例区というわけでもないから、彼らとしても広く国民・都民へ訴えることができない。「お前らこそ出て行け」という話になる恐れさえある。

クレームを発した時点で、一般社会が自分たちの訴えに耳を傾けてくれるとは思えなかったのだろう。彼らとしても、記者会見を開く・法廷へ持ち込むなど、事を荒立てることを避けたのだ。

そこで、「姐さん達のちからでなんとか」と、フェミニズムを頼ったのだ。

彼らの口調は辛辣だが、それはもちろん彼らの言うに言われぬ悔しさ・悲しさを表している。

男の友情に憧れるなら、この機微は分かってやるべきだった。

【総人口の半分は女性である】

全女性とゲイ男性が糾合すれば、ストレート男性人口をしのぐことができる。つまり、多数決で勝てる。

互いに事を構えるべきではなく、ことに組織力においてゲイリブよりも先んじていたフェミニズムは、マイノリティ主導の社会実現に向けて、戦略的に対応すべきだった。

「男のくせに読んだの!? やだァ~~」という小学生レベルの脊髄反射しかできなかったのであれば、かえすがえすも残念だ。




2014/06/22

【女で失敗したから男に走るというのは女性に危険な勘違い】

女性で失敗した男は男に転ぶという考え方は、裏を返せば「女性が男性に優しくしてあげれば、男性はホモセクシュアルにはならないんだから、女の子たち、男へ我がまま言っちゃいけないよ。何をされても我慢しな」という意味なので、女性にとって危険思想なのである。



2014/06/22

【男には男の美しさ、女には女の美しさがあるのだから】

男が女の描いた漫画のように美しくないことを女性が笑いものにする筋合いはない。

でも長いこと「女の仕事は評価されない」「必ず『なんだ、女か』と言われる」という不満が溜まっていて、ついにその表現が許された時代には、女性が嵩にかかって自分の価値観(センス)をひけらかしたこともあった。

ボーイズラブは女性の審美眼に最高の価値を置くことで成り立っているから、女性に強い自信の感情を与え、興奮させることがある。

これが現実世界で暴走すると、実在ゲイをガールズトークの仲間と見なして、なんでも質問していい気分になる、ということになる。







2014/06/22

【なんで二十四年組が、アニパロになってしまうのか】

なぜ二十四年組と呼ばれる少女漫画家に憧れた人が、その仲間に連なりたくて、オリジナル作品を案出し、投稿し、さらに上手になれるように努力したのではないのか。

なぜ山も落ちもない段階でおさまってしまうのか。

しかも、自腹を切って印刷所へ入稿し、交通費を支払って自主開催イベント会場へ搬入し、売上を管理し……と、比較的めんどくさいことをこなすのか。

やおいを語るつもりで、二十四年組オリジナル作品を参考として掲げ、「二十四年組を読むと、アニパロ同人誌が発生します」というなら、その突拍子もない化学反応の機序を説明しないことには意味がない。

【発生に関するイメージ】

世の中、問い直しということの苦手な人もいて、「昔のことなんて何も知らないわよ! 私が参加した頃には、もう皆がやっていたのよ! だから私も何にも考えなかったのよ!」と変な自慢をしてしまうこともある。

が、ここは憶測ついでに「最初の出品者」の人物像に関して、イメージをふくらませてみたい。

誰かさんと誰かさんという技法は、1980年代初頭には完成していた。発生期は、それより前にある。

それまでに閑吟集も、能楽『花月』も、歌舞伎『毛抜』も、井原西鶴も平賀源内も森鴎外も三島由紀夫も澁澤龍彦も横溝正史も水上勉も吉行淳之介も白洲正子も森茉莉もギリシャ神話も『サテュリコン』も悪左府もティベリウス帝もルイ13世もサド侯爵もワイルドもトーマス・マンもジャン・ジュネもコクトーも知らず、ヴィスコンティ映画を見たことがなく、海外のゲイリブ運動のニュースを得ることもなかった若年女性が、少女漫画によってのみ、男性同士が恋愛関係に入る可能性に気づき、「誰も彼もみんな恋人同士だったらいいのに」という連想を、テレビ番組にまで広げていったということだが……

改めて考えてみると、ものすごい短絡が行われたことになるようだ。

これだけを材料に想像すれば、浮かんでくるのは、ハイアートと歴史の素養がなく、英語もフランス語も分からず、行動半径がせまく、日本語の漫画を読んではテレビを見る、ほかに娯楽のない住宅街の中流家庭にポツンと一人でいる若年者(女子の部)の姿だ。

しかも彼女は、漫画の描き方と製本方法、即売イベントの情報だけは知っていたことになる。

もうひとつの可能性としては、読書熱心な文系女性にして、漫画を自作するサークルの一員であり、鉄腕アトム以来アニメ視聴をも欠かさなかった意欲的な人物が、二十四年組と並行または先行して、アニメキャラクターからインスパイアされたロマンスを独自に編み出したことだ。

本当は、こっちのほうが可能性が高いんじゃないかと思う。

【第一歩を記した人物像のイメージ】

全国に、あどけないお嬢さんが一杯いただろう。エドガーくんの似顔絵を描くことで満足しつつ、「萩尾先生みたいな少女漫画家になりたいな」と夢ばかりふくらませていただろう。

それとは別に、アニメキャラクターに関する赤裸々な想像を紙に定着させることに成功し、全国に散在していた仲間に先駆けて製本し、イベント主宰者に連絡を取って参加を申し込み、展示・手売りして、理解のない参加者から「なんじゃこりゃ!?」と言われ、「ごめんなさ~~い。もう出品しません(泣)」とスゴスゴ引き下がって後進の道をふさいだ……のではなく、「表現の自由です!」と頑張って、道を切り開いた。

そういう勇気ある女性がいたはずだ。

初期の女性向けパロディ作品は、初期のカラー放映SFアニメ作品から始まったという声があるが、その登場人物たちは、二十四年組ごのみの、ひ弱な金髪美少年ではなかった。

もっと年長で、体格的にも逞しく、地球を守る戦士であり、躍動感と責任感に溢れていた。ここから肉体関係に至るロマンスを発生させた人は、二十四年組とは、だいぶ嗜好が違う。

むしろアメリカのテレビドラマから発生した(=実在の中年男性俳優をイメージモデルとした)スラッシュに近い。

なぜ彼女は、女性の身で、世間的には男性向けとされるアニメキャラクターを、わざわざ描きたかったのか。

オリジナル美少年を考えることがめんどくさかったからか? 印刷代などの初期費用を自分持ちにしてでも、それをはるかに上回る金額を、手っ取り早く稼ぎたかったからか?

市場が成立する前に「金めあて」という創作意欲は持ち得ない。初めて書いたとき、大学ノートの肉筆回覧で、いくら稼ぐつもりだったのか。最初のガリ版刷りは、何部用意されたのか。三千部?

発生から数十年も経過して、技法と市場が完成してから参加した人だけが「キャラクターへの思い入れなど存在せず、当初から営利目的」とうそぶくことができる。

【自己目的】

1970年代におけるパロディ制作は、その時点で二十四年組の連載と並行している。

だから「本当は二十四年組のようにオリジナルでやりたい」のであれば、何本でも描いて投稿して構わない。

同様に、すでに1970年代に専門誌『JUNE』が創刊されていたのだから、二十四年組作品よりも性描写を偏重した、刺激的なオリジナル作品を描いて投稿したければ、何本でも描いて投稿して構わない。

そもそも、オリジナル作品を自費出版して構わない。

オリジナルではなく、二次創作だったのは、あくまで、二次創作当事者が、二次創作であることそのものに価値を見たからだ。

それを描く技術が、たとえプロデビューの域に達していなくても、当初は「山も落ちもない」とは言わなかった。

本当に下手だから隠したいと思うものであれば、いずれのイベント会場にも持ち込まれないはずのものが、実際には(批評眼の厳しい参加者もいるはずの)会場へ持ち込まれ、衆目の閲覧に供され、購入意欲を刺激したのだ。

もともとは、アニメをはじめとするテレビ番組の好きな人が「いま見たものを題材にする」ことを思いついたはずだ。「私の美の世界」は(洋画よりも純文学よりも)テレビの中にあると思った人が、その気持ちを自己表現したはずだ。

たぶん、すごく楽しかっただろう。夢中で描いただろう。

そして、それを、もともと同じテレビ番組が好きで、話題について来られる人にだけ読んでもらいたいと思ったはずだ。

話題について来られない人に読ませて「意味わかんない」「きもち悪い」と言われたくはなかっただろうし、「くだらないからやめちまえ」とも言われたくなかっただろう。


2014/06/21

【女性から男性への熱視線の表現は禁止されていない】

歌手やスポーツ選手である男性への黄色い歓声は、場所柄さえわきまえれば、いくらでも挙げて良い。すくなくとも先進国では。

女性から男性への目線の表現が許されていないから、他人の創作物を利用して、無理やりにでも男性同士を表現する……必要はない。

表現したいものは、あくまで「男性から男性への熱視線の存在を目視確認したとき、自分が感動する」という、その自分の心である。

では、どのような男性から男性への熱視線に接しても、ひとしなみに感動するのか。

素敵な男性を見つめるべき、もう一方の殿方は、リアル男性ご推薦の、むくつけきタイプではないほうがよい(とされた)

すなわち「自分好みの」殿方が、ふたりそろっておいでになる時である。

突き詰めてしまうと「複数愛」になる。二人の男性へ同時に恋をしたのである。女性に貞潔を求める伝統的な婦徳からの解放ということになるのだろう。

2014/06/21

【ルサンチマン説の予言】

女性の一部が奇妙な創作物に夢中になるのは、彼女たちの成育史に瑕疵があるからです、という説明があった。

現代社会における女性の不如意、いわゆるトラウマを、ボーイズラブ発生の原因とすると、社会が女性にとって住みよいものとなれば、あのような奇妙な創作物は発生しなくなるはずですという予言をはらんでしまう。

社会が間違っているから、間違った創作物が発生するので、ボーイズラブなどというものは、本来この世に存在するはずのないものですと言っていることになる。

擁護するつもりで否定してどうする。



2014/06/21

【やおい学会と言いながら24年組の紹介ばかりしているようでは意味がない】

「竹宮先生の作品にも、大島先生の作品にも、山岸先生の作品にも、山も落ちもありません。あるのはエロだけ」って言う人はあるまい。

かつて別の名前を公称していたものについて、後から生じた隠語を遡及させて適用するのは、不適切だと思う。

竹宮氏や大島氏は自分の作品が「耽美ロマン」や「少年愛」と呼ばれることが不満で、「やおいと呼んでくれ」と主張しているのか。

プロの責任として、ぜったいに「私の作品は低級です。こんなもの、誰も読まなくていいですよ」と言ってはならないはずだ。

書店などにおける分類でも「やおい漫画」「やおい文学」コーナーなどという見出しは使用されていないはずだ。

【やおい論は憶測】

耽美というカテゴリ名称が同時代に存在したにも関わらず、別の名称を必要としたカテゴリは、すなわち「耽美とは違う」ことを主張している。

素人による耽美作品であれば、専門誌へ投稿できる。

郵便局から発送するにあたって、郵便局員による事前審査など無い。つまり、どんなに下手であっても、応募するぶんには構わない。

ということは、耽美ではないことを主張するものとは、新人賞への応募に適さないものだ。すなわち、二次創作である。

二次創作当事者の公式な協力が得られないので、「やおい」の実態に関しては「聞き取り調査」という文化人類学の手法を適用できない。

したがって、かつて数多存在した「やおい論」は、論者の知見の範囲で憶測を述べたものだ。今ならツイッターが炎上しているようなもので、部外者同士が空中議論を交わしたに過ぎない。

逮捕された犯罪者でさえ黙秘権はある。

解説できない分野に関しては、解説しなくてもよい。二十四年組の話がしたいなら、「二十四年組が一時期流行させた少年愛物語」という言い方で充分だ。

実際、少年への愛を描いていたんだから。

【ヴェニスに死すからも二次創作は生まれる】

二人は生まれ変わって結ばれたとか、奇跡が起きてそのままヴェニスで同居したとか。

映画を見た瞬間から、紙に定着させる技術があるかないかに関わらず、多くの人の脳内で、続編が誕生していただろう。

もちろん、原作の芸術性は台無しだ。男女を問わず、鑑賞者自身の「あんな美少年を囲ってみたい」という願望を満足させる娯楽作品となる。が、想像されて悪いことはないし、書かれて悪いこともない。

登場人物の名前をそのまま使用すれば、著作権・キャラクター使用料上の問題が発生するが、名前が変えてあれば一次創作として投稿もできる。

書くな・発表するなというなら「表現の自由の侵害」として、闘うことができる。

この作業と、「他のすべての(ストレート同士と分かっている)男性同士の人間関係について、恋愛関係を連想する」作業は、質が違う。

これを混同して、そもそも女性が男性同士の恋愛関係に言及すること自体をまとめて「やおい」と呼ぶと、話がややこしくなるのだ。

たとえば、武将の手紙や井原西鶴作品の研究者、トム・オブ・フィンランドやデレク・ジャーマン作品の鑑賞者である女性は、男性の研究者・鑑賞者から区別されて、「やおい学者」などと呼ばれるべきか?

これでは、女性差別である。

【手柄の詐称】

思うに「やおい」という単語を世界へ、というのは、「かわいい」を世界へ、という発想と似ている。よくよく考えると日本独自の情緒でもないのに、あたかも日本発祥の文化であるかのように主張するものだ。

海外に対して「負け」の込んでいる気分をくつがえす戦略という感覚なのだが、やや早計だ。

ブリキのおもちゃも着せ替え人形も、漫画もアニメーションも、ミニスカートもつけ睫毛も、それが似合う人形のようなモデルも、海外(西欧)が発祥の地でしかない。まっすぐな脚と、大きくてカラフルな眼は彼らのものだ。敗戦後60余年を経て、やっと日本人が上手に真似できるようになったから見て頂きたいというだけだが、真似され返されて終わりだ。

海外には「スラッシュ」と呼ばれる表現分野が、日本における少年愛漫画の興隆よりも前から存在した。「誰かさんと誰かさん」の「と」に当たる部分をスラッシュ記号で表現するもので、これも隠喩だが、「山も落ちもない」などと自嘲はしない。よりフラットで、現象を的確に表現した用語だ。

女流作家が、自分自身の少年趣味を表現するために、過去の男性芸術家による稚児趣味の記録として残された文芸作品を参考に、独自キャラクターを創出し、韜晦なく発表に踏み切ることと、ストレート男性同士の友情として紹介された姿から恋人同士の語らいを連想し、公表できないものとしてアングラ発表し、韜晦して自己紹介することは、質が違う。

前者と後者を混同した挙句に、後から発生した「低級な創作物」を意味する単語で先行するプロ作品をも指示するよりも、後者のみを「やおい」または「スラッシュ」と呼ぶことのほうが公平なはずだ。

2014/06/20

【攻め受けどちらに感情移入するかという質問は愚の骨頂だ】

映像作家も漫画家も小説家も、鑑賞者がいずれのキャラクターにも感情移入できるように気を配って書くだろう。

悪役には悪役なりのカッコ良さがあり、意外な家族愛・兄弟愛があり、部下に手を焼く滑稽さがある。

主人公も、ときには妬み、敵前逃亡、いじめに加わる弱さなどの要素を持っていることもある。

分かりたくないが、分かってしまう。

鑑賞者の心にそのような葛藤を生じさせ、必ずしも単体としては憎むべき相手ではないかもしれないが、利害の一致しないキャラクター同士がどのように状況を解決するのか、関心をもって見守るのが醍醐味ってものである。

男性作家が女性を主人公に描いた例なら、古いところでは徳富蘆花の作品がある。三島由紀夫の不倫小説は有名だ。

どちらに感情移入するのかと訊く人は、自分が創作物を鑑賞する時には、たった一人のキャラクターを選んで読むとでもいうのだろうか。

自分は男性であるから、女性キャラクターの気持ちはまったく分からないとでも言うのだろうか。分かる努力をすることもないというのだろうか。

うっかり質問すると、自分の浅さを語ってしまうことがある。




2014/06/20

【耽美の美学とボーイズラブと、やおい研究の方法論】

マレフィセントのポスターを見て魔女一般を連想しつつ、日本美学研究所さんが「BLの美学をやる」って言ってやってないので、個人的見解を書いてしまおうと思う。

女流が自分自身の少年趣味を表現するにあたって、男性による衆道に関する記録を読んだ経験を参考にしたのが、ボーイズラブという表現分野の始まりだ。

男子同性愛の美化というなら、映画『プリシラ号の冒険』のようなのが本当だ。ゲイまたはトランスとして苦労している人が、ストレート男性よりも喧嘩に強かったり、旅の途中で理解者を得たりする。

女流の耽美は、最初から女流の少年嗜好の美化だ。尊敬される立場にあるダンディな男性が、労せずして少年を手に入れる姿を、女性が尊敬と憧れを込めて描くものだ。

女性自身が最高の存在価値を認める少年が、ある男性の魅力にコロリと参るなら、この男性への女性の憧れも最高潮となる。

森茉莉の作品には、青年のふくよかな唇が赤ん坊のように愛らしいという描写が登場する。女流が書いているのだから、本来は彼女自身が若年男性の美を評価している。女性による近親姦願望といっても良いほどのものだが、それが男性キャラクターの述懐として表現されている。

伝統的に、性の領域まで踏み込んで美意識を表現することの許されてきた男性文化に敬意を表して、彼らの筆を装って、女性自身が自分の価値観を表現するものだ。

女流の少年趣味と、男流の少年趣味とが重ね合わされ、わざと混同させられているが、書く(描く)人が女性であるから、どちらかというと女流好みの要素が強調される。

おとぎ話の昔から「一服盛る」という手法は、腕力に乏しい女性のものだ。

自分好みの若者を意のままにしたいという、いたずらな願望を叶えるにあたって、その手段が「ぶん殴って気絶させる」などという野蛮なものであってはならず、毒薬を使いこなす学識と、まずは正式の招待という手順を踏む優雅さを備えているべきである……というのが、1970年代ふう耽美の「美学」だ。

「美にふける」という言葉は谷崎潤一郎などにならったもので、描かれている内容が性の饗宴であることが暗示されている。

成人女性が少年の肉体美にふけるから耽美である。

プロ作家はそれを紙の上に定着させるにあたって、山も落ちもつくように、美観を損なわないように、細心の注意を払って構成と描写に努めた。

そのプロの責任感と誇りを、「どうせ山も落ちもない願望を描いてるんだから、隠語で呼べばいいじゃないの(笑)」という研究者がいるなら、その研究者自身の態度が問われるべきだと思う。

【やおい研究の意義と方法論】

「やおい」というのは、プロは使わない言葉だ。

少女漫画の世界でも、「異色のミステリー」や「衝撃のホラー」などという創作カテゴリ名が使用されるだろうが、プロの作品について、プロ編集者が「期待のやおい新連載!」という見出しをつけることはない。

やおいというのはプロが使うべき公式な単語ではなく、今もって商売上の慣習的にさえも創作カテゴリ名として認識されていない。あくまで隠語である。

「山も落ちもない」というのは、「山も落ちもないが、有名キャラクターによる官能描写ならある」という、まことに明言しにくい現象をジョークで表現し、笑ってごまかそうということで、元より公明正大な態度ではない。

が、山も落ちもあるベテランのオリジナル作品に対して、「わたしたちは、もっと自由に描かせてもらいます」「二次創作の可能性を(勝手に)追求させてもらいます」という、新人または素人からの独立宣言ではあった。

本人たちは、その時点で大それたものだと思っておらず、「ばれたらやばい(笑)」くらいの心持ちだったかもしれないけれども、後から振り返ってみると重大な転換点だった……ということはある。若者文化って、そういうものだ。

だから「自費出版者の集まりにおける、一部の二次創作者の特異な運動の歴史」としての「やおい」それ自体の研究には意義がある。

また、日本の女流の一部がそのように韜晦する現象自体が、ジェンダー論的社会学の研究テーマとなり得る。

が、プロは韜晦していない。

したがって、そのような韜晦を好んで使用した一派に限って、フィールドワークが行われるべきである。

すなわち、同人界へ住み込んで、二次創作者から聞き取り調査するのが本当だ。文化人類学の手法だ。または、社会心理学的アンケート調査の敢行だ。サンプル数は、全国各地で開催される各イベント会場から、2000件ずつくらいか……

けれども、これは全ての二次創作がフリーであるという保障が得られない限り、実現できない。公式な協力者を得にくいからだ。であれば、研究を断念するのが本来だ。

【少年愛漫画というだけで研究テーマになる】

三島由紀夫や森茉莉を前史として、1970年代のある時期から、少年同士の性愛を描いた漫画が、女性漫画家によって描かれ、男性編集者によって発表された。

が、男女共同参画の進捗にも、ゲイリブ運動にも結びつかなかった。

今もって、出版界における重役の男女比は、50対50ではないであろうし、同性婚も別姓婚も実現していない。

昔っから言われていることだろうが、この国の若者は社会参加したがらず、自由な社会への憧れは、二次元愛として内向していく。

これだけで充分に、日本の社会、日本における男女の役割分担などを論じる研究の材料となり得る。

もちろん、公式に発表された個々の作品について、作家の個性を、そのバックボーンとなった私生活のエピソード・当時の社会問題を交えて紹介するような、通常の文芸評論・マンガ評論を展開できる。

そして、繰り返すが、プロ作品として発表されたものについては、その作品自体についても、作家自身も、誰も「山も落ちもない」などと韜晦することはなかった。

韜晦どころか、「少年愛の美学」として正々堂々と発表したのだから、その忌憚なく表現の自由を追求する芸術家としての姿勢に、敬意を表すべきである。

つまり、二十四年組による(女流)少年愛の美学と、素人による「やおい」は、研究において混同されるべきではないと思う。

【耽美からボーイズラブへ】

女性の社会性に不満があり、若者への興味が鬱屈していた時代には、性暴力の美化が好んで描かれたから、団鬼六などにならって耽美と呼ばれた。

やがて鬼六も嘆いたように、なんでもカタカナで表現する時代が来たので、ボーイズラブになった。

禁断の耽美を標榜した雑誌『JUNE』が勢いを失うのと入れ違いに、ボーイズラブというカテゴリ名称が目立ってきたのだから、この時点で、JUNEへの投稿をきっかけにプロデビューした作家群へ「貴女にとって、JUNEとは何だったのですか」という質問がなされるのは正しい。

また、この時期に「ボーイズラブとは何ですか。今まで存在したものとは違うのですか」という追求がなされるなら、それも質問の態度として、正しい。

ここで「やおい文学とは何ですか」になってしまうのは、やっぱり変だった。

【名称の混乱は研究の混乱を生む】

「なぜ女性が衆道に興味を持つのですか。どこが面白いのですか」と問うつもりで「やおいとは何ですか」と訊く人には、「そもそも手塚治虫先生が……」という答えが与えられる。

質問の本意は、隠語の語源ではない。

また「アニパロ同人誌とは、いつから存在するのですか。有名なサッカー漫画が元祖なのですか」と同人漫画界の歴史を問うつもりで「やおいとは何ですか」と訊く人には、女流プロ耽美作家から「わたくしの人生は哀しいものでした……」と、自分史が披露される。

なんの話が始まったかと思うだろう。

用語の混同は、研究の紆余曲折を深める。問うているのは、山なし落ちなしと韜晦した人々の態度の是非ではなく、またそれを揶揄するつもりで殊更に隠語を取り上げた人々の態度の是非でもなく、隠語で表現されたものをテーマにするつもりで、違う話ばかりしている研究者の態度である。

いつの間にか隠語のほうが有名になったといえば、その経緯自体が「噂の広まり」という社会心理学的研究のテーマになるかもしれない。

が、その隠語で表現される作品群の内容を説明するつもりで、隠語で表現する必要のないプロ作品の話をするなら、テーマがずれている。

なんでそれを今さら蒸し返すかといえば、現代において様々な言い争いを見るにつけ、「日本の議論って進歩してないなァ」と思うからで、またその曖昧を好む態度が、ストーリーラインの曖昧さを生み、海外に勝てない映画を生む一因になっていると思うからだ。


2014/06/19

【男女比較の前提がおかしい】

ウィキペさん等に残っている古いタイプの「やおい論」は、ボーイズラブの実態がどうかというよりも、議論の浅さが気になる。

「男性は常に自分を主人公として作中に描き込むが、女性はボーイズラブの手法を取るから、おかしい」という指摘は、比較の方法論がおかしい。

確かフランソワ1世の所蔵品に、女性同士が向かい合わせに同じ風呂桶に浸かって、一方が他方の胸に触れている作品がある。

あれ、レズビアン女性だけが見ることを想定した絵か? ストレート男性が見ることを想定して描かれた、当時の「エロ」じゃないのか?

ルノワールは少女同士が寄り添う絵を残している。竹久夢二は少女同士の会話を書いている。

彼らはその姿を「いいなァ」という情趣をもって描いたはずだが、男性が登場しないから、おかしいじゃないか。彼らはトランスレズビアン女性だったのか?

女性ファンが女性タレントを見て「かわいい」と喜ぶ姿は、傍から見ると「百合」のはずだ。

逆に、男性が男性に心酔して「兄貴と呼ばせてください!」などというのは、傍から見ると「まるで薔薇族」ということだ。

あとは、そのような物の見方をする人が、男女それぞれに何割いるのか、アンケートを取って確認する。

これでやっと、まともな比較ができるはずだ。

「男性は○○、女性は△△」というのは、一見すると、価値づけをせずに特徴を列記する自然科学の手法によっているようなんだけれども、この場合は、論者が自分自身の先入見を問い直すことなく、比較の方法を検討せず、ある前提をもって、話を進めてしまう。

これは今の日本でも、よくあることのような気がする。


2014/06/18

【結婚は男性にとってこそ最高の価値】

ストレート男性が、悪者を退治し、財宝を得るなどして社会的に成功し、美女をゲットして、うだつを上げる。

うだつを上げるとは、男性が大きな家を建てて独り暮らしすることではなく、その屋根の下には嫁さんと子供と大勢の使用人と、社会が許せば妾もいるという状況が想定されている。

じつは、異性と結婚し、子孫を残すことが最高の価値観であるのは、ストレート男性にとってである。

進化の過程をどうさかのぼっても、これがストレート男性(雄性)の本能であることは疑いない。

そして人間の雄性が描く創作物の多くが、つまり彼らの自画自賛である。誰しも生きるにあたって自尊心は大切であり、自己愛は結構なことだ。

【逆転劇】

で、これを前提にすると、「女性が成功する」「ストレート男性ではない男性が成功する」という二つの逆転劇は、かならず生まれてくる。

一世を風靡したオスカル・フランソワにも、一読して「女が指揮官? ふざけるな」という読者がいたかもしれない。

男性と人生のペアを成す男性が、たとえば運動部の主将であるとか、一軍の指揮官であるなどという話も「ありえねーー!」という反応が、じゅうぶん考えられる。

だからこその逆転劇だ。

これが二丁目住人によって描かれ、世間の喝采を浴びていれば、問題はなかった。

【自由な男たちと、もっと自由な女性】

男装の麗人は、発表の時点で、すでに「不道徳」などとは言われなかった。少女歌劇には長い歴史があり、戦前の婦人参政権運動家も男装したのだった。

男装した女性の活躍物語が成功した後で、現実の男性カップルが動き出せない内に始まってしまったのは、女性の自尊心の補強としての、架空の男性カップル物語だった。

ストレート男性が「ゲイの社会参加は認めるが、女は認めん」と言うか、ゲイ自身が女性差別しない限り、女性は「男同士が自由な社会は、女性も自由だ」と夢見ることができる。

したがって、「一軍を指揮する男性カップルと、その横でもっと自由な女性」という構図は、女のロマンたり得る。

すなわち、「女人禁制」と言わずに寝室まで公開してくれる戦士たちと、彼らを鑑賞する女性という構図だ……

そして、女のロマンが金に替えられることは、経営者たる男のロマンたり得る。

少女マンガ編集者の中にゲイはいなかったとは言わないが、おおむねストレート男女の協力体制によって生まれてきたのが、ボーイズラブという表現カテゴリだ。

【ブロークバック・マウンテン】

先に女性が(部分的ではあっても)自由を得たのだから、本当は「女性が自由な社会は、ゲイも自由だ」というふうに話が進んでいけば良かった。

アメリカのゲイは『ブロークバック・マウンテン』という作品を「女のくせに、こんなもの書きやがって」とは言わなかった。映画版を、長いこと彼らが選ぶ映画ランキングの1位に置き続けた。

そして、あの映画の商業的成功以後、マッチョの牙城だった全米各地で、同性婚を容認する法案の成立が増えたのは間違いない。

少数派である彼らだけでは、絶対に多数決に勝てない。したがって、マジョリティ票が動いたことになる。そのかなりの部分が、女性票だったろう。

日本は出だしで蹴っつまづいたので、残念だった。


2014/06/17

【女流耽美物語の本質】

女流の嗜虐趣味である。

マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』や、夢野『あやかしの鼓』には、鞭を持った女性が登場する。

鞭とは、その形状から言っても、本来は馬具・武具であるという性質から言っても、男性の象徴である。

女性が男性を責めるために、男性を象徴する器具を用意するのであれば、自分の言うことを良く聞く男性を一名、用意しても同じことである……

【独立精神】

男性が、男の中の男として称揚し、「女性は彼の陽物を味わうべき」として推薦する男性に対して、「むしろ彼をはいつくばらせてみたい」と言ってのけ、別の男性を道具とする。

そこにあるのは、女性の蛮勇ともいえる独立精神であり、支配欲だ。

男性の価値観からの独立精神は、男性の評価にも適用されるから、ときには男性ご推薦とは違うタイプの男性を称賛する。自分の定めた基準に合致・到達しない男性を笑いものにすることも辞さない。

ここにあるのは、自分自身の審美眼に絶対の価値をおく、傲慢な自信であり、自尊心であり、自己愛である。

そしてつまり、そんな「気分」を味わうための創作物である。

夜な夜な(日常的な仕事の後に)そのような気分を味わいたがる裏にあるものが、現実における自信喪失であったり、倦怠感であったり、暴力・犯罪を忌避する一般人らしい常識であったりするのは、男性が任侠や諜報員や狙撃手や特殊部隊や剣闘士に憧れつつも、実際に暴力の世界を職業とすることをためらうことのほうが多いのと同じだ。

男衆の何割かが、ラーメンライス(餃子つき)を食いながら、ボクサーが苛酷な体重制限にのぞむ漫画を読むものであれば、女衆の何割かは生クリームで飾ったケーキを食いながら、柳腰の美男たちが恥辱の涙にむせぶボーイズラブを読むのだろう。

そして、そのような表現カテゴリが、「男性は彼女の気高さの前に一歩引くべき」とされる華族の令夫人などを、男性の支配欲の犠牲者とする団鬼六作品に準じて、「耽美」と呼ばれたのは正しい。

日本の女性は、男性による命名や、男性が使っていた名称の流用などを「あ、もうそれでいいです」って言っちゃうところがある。

たぶん男性文化のファンなんだと思う。

【道具にも心がある】

女主人のふるう鞭は、犠牲者の背中に食い込むが、女主人が用意した男性は、別の場所に侵入するだけのことだ。

女主人に催眠術をかけられたかのように、同性に劣情を抱く男子は、女主人が使いこなす「責め道具」であるが、道具にも五分の魂がある。

彼が犠牲者への心情や、子供時代の思い出などを語り始めれば、創作物の完成に、一歩近づく。

本質的に無機物(道具)であるはずの登場人物に心情を語らせる手法は、「天井と床」などの無機物を擬人化する手法と地続きだ。

この手法を楽しむ心情は、やっぱり「女性は子供を産む道具ではない」「ゼロックスコピーを取る人形ではない」などと言いたい気持ちにつながっているであろうし、それを(年長男性によるパワハラを忌避する)男性が読んでみるというのも、筋の通った話であるように思う。



2014/06/16

【各種少年愛の美学は、その人の趣味を語ったものだ】

稲垣足穂の著作でさえ、古今東西の芸術作品として記録に残された少年趣味を網羅的に調査し、引用元を厳密に明示して公開したというようなものではない。

学術的な手法を踏まえた、そのような研究書は別にして、エッセイ的なものは単に著者自身の趣味嗜好を語ったものだ。

ことに女流による「唇はピンク色に限る」とか「手首は折れそうなほど細いのが良い」とかいうのは、その著者自身が「私はそのような若年男性の肉体美に価値の重きを置く」(同好者は我が旗のもとに参集されたし)と宣言したものだ。

女の身で男性の世界へ立ち入り、住み込み調査して、男性が男性を選ぶときの基準を聞き書きしたというような、文化人類学の手法によっていない。

ゲイが彼らの少年趣味を語るならば「スポーツ刈りで、日焼けして、運動部のユニフォームが似合うのが最高」などと言うだろう。

【男子同性愛の美化ではないんだ】

女流自身の愛好する少年美を、女流自身の評価するもう一人の男性が、世界最高の美形と認めることによって、女流自身が自分の審美眼に自信を持つ。

「素敵な男性が、自分の趣味の理解者である」というバーチャルな満足を得る。これがボーイズラブの構造だ。

少年←男性←女性

目線が入れ子になっており、最初から女流自身の自意識の表現と、自己満足・自己完結を志向している。

そして、その限りにおいて、男性編集者によって出版を許可された。

たとえば難病を描いた作品によって、寄付が集まるということはある。

男子同性愛者にも「自分の容姿が気に入らない」「1円まで割り勘する相手がいやだ」「暴力」など、さまざまな悩みがあるだろう。

男子同性愛を美化したというならば、そのへんを描かずに、ヘラクレス俳優のごとき美青年スポーツマン同士の深い絆を称揚し、ゲイに夢を、社会に感動を与え、同性婚の容認へ向けてマジョリティが動き出すということであっても良い。

ボーイズラブを読んでも「その心配はない」ことにされている。

このカテゴリは、おもに男性である編集長によって、非常に冷徹に処理されていたと思って、いいと思う。

【女流の昂揚】

かつて一部の女流が、個人的な趣味を高らかに宣言した時代があった。

女性による少年趣味の表現が許される時代になったことが嬉しくて、自分の価値観に合致・追従しない男性を笑いものにすることさえ辞さない時代があった。

誰によって許されたかっていうと、男性である。出版できたのは、編集部に属する男性が「この程度ならOK」と判断したことによる。

なぜ、BLは「あのよう」なのか。

日本の商業的ボーイズラブは、最初から男性によって表現の「枠」を与えられている。女流は、男性が理解できる範囲で活用してもらっている。

だから、それを例えば大学の授業で読んでみても、あんまり意味ないんじゃないかな……って気もする。



2014/06/15

【男の子は桜桃を読むと結婚したくなくなるのだ】

誰が好きこのんで「俺も早く嫁さんから強烈な嫌味を言われてみたいな」「そして居たたまれなくなって、家を飛び出したりしたいな」と思うものか。

文筆家というのは、武闘派ではない。社会や自分自身に不満があっても、火炎瓶を投げたりする代わりに、ペンを執る。

日本の純文学は、彼らによる自画自賛だから、弱い男を描いた物語を称揚する。

それを読んで、どこの若い衆が「俺も家族を支える強い男になるぜ!」と思うのか。

現状では「アダルト」といえば好色関係を指すことになっているが、本来このような自己憐憫文学も、功成り名遂げた、あるいはそれに失敗した後に読むべき、アダルト作品なのだ。

名作あつかいなのは、作家に共感した文壇の自己満足であって、わざわざ中高生に読ませて、絶望させるこたァない。

『風と木の詩』のようなボーイズラブ作品も、本来は成人女性の自己表現であったと思う。

その成人した女流が「少年が社会にしいたげられる純文学」を読んで、そのまま漫画化するのではなく、ボーイズラブを発想したというならば、少年がしいたげられる姿に、共感以上のエロスを感じてしまったのだろうという他、ないように思う。

2014/06/14

【女の子は『こころ』を読むと嫁に行きたくなくなるのだ】

夏目漱石『こころ』の先生が「子供ができないのは当たり前だ」と引きつったように笑うのはなぜか。夫人が寂しそうなのは何故か。

夜の夫婦生活がうまくいっていない。

彼はクローゼット・ゲイだったのではないかという見方もあるが、単に友人への罪悪感から男性機能を喪失したと思えばいいだろう。

夫人としては、娘盛りのいちばん魅力的な年頃に望まれて結婚したはずだから、夫婦の間でとうぜん起こるべきことが、なぜ起こらないのか分からない。

自分に魅力がないのか。彼の興を削ぐようなことを言っただろうか。じつは他に想う人があったのか。

自信喪失と不安、猜疑心、後悔……さまざまなものに苦しめられる、つらい日々だっただろう。もちろん「女の幸せ」など、一度も味わったことがない。

挙句に「明治が終わったから死にましょう」と言われて、首肯せざるを得ないのだから、ひどい話だ。

彼女は彼と結婚しなければ、孫に恵まれ、昭和の時代まで生き延びて、ご長寿として愛されたかもしれないのだ。

というわけで、女性が純文学に親しむと、結婚したくなくなる。

逆に言うと、純文学などに親しまず、男性の身勝手さに絶望的な読後感を抱いたことのない女性は、結婚したがるわけだが、このお嬢さん達は屈託なく「優しくして♪ プレゼントして♪ 家事と育児も手伝って♪」というだろうから、今度は男性のほうが、のけぞり気味になるのであった……

2014/06/13

【ギリシャでは薔薇の下で秘密の愛を誓う必要はない】

神話、伝説、殖民都市に残された壁画、神聖隊の存在などを真に受ける限り、古代ギリシャでは男たちの愛は禁忌とされていなかった。

ストレート男性の本能的な忌避感は、当時から存在しただろうから、ソクラテスについてはゲイ・バッシングの一種だった可能性はあるけれども、関係を信じられたアルキビアデスは政治家として出世している。

貴族または自由市民の特権としての「たしなみ」のように思われていたかもしれないが、念者・念弟として振舞うことは出来たはずだ。

ともかく、ギリシャ神話を読んでも、男たちが「秘密の」愛を薔薇の下で誓ったという話は出てこない。

ヘラクレスといえば現代(というか1950年代)の映画では、女性にもてる異性愛的美丈夫の代名詞だろうが、古代ギリシャ文学の中では、愛する少年が泉の精に誘拐されたのを探し回って戦士たちの集合時間に遅れたほどで、そのときの冒険団の団長にして船長であるイアソンは、男の中の男が稚児を惜しむ心を哀れに感じて、アルゴー船の出航を遅らせたのである。

もしかしたら奴隷階級の男性の中に、当然、何割かは生まれついての同性愛者がいて、彼らは念者と少年ではなく、成人同士の禁じられた「結婚」として、花のもとで愛を誓う必要があったのかもしれないけれども、その記録は残されていないだろう……

簡単にいうと、あれは古典古代からキリスト教文化まで、さまざまな要素が現代人の中で混淆したことから生じた一種の二次創作で、ばっさり言うと伊藤氏の勘違いだと思う。

海外で「ゲイ=ローズ」って言っても通じないのだ。英語的には「三色スミレ」だ。

薔薇はアフロディーテとヴィーナスの象徴であり、さらに転じて聖母マリアの象徴であり、「愛」のシンボルではあるが、女性美の比喩だ。

もしかしたら古代の文学界・芸術界において、男色好みと女色好みの相克があり、人数的に勝る後者が後世におよぼした影響のほうが強かった……ということかもしれないけども。

なお、百合がレズビアンであるというのも伊藤氏の発案で、「百合はナルシシズムの象徴だから」だそうだが、それは水仙だ。

同じように下を向いて咲く白い花の、清楚でありつつも含羞を帯びた様子が、彼の中で「人目をはばかる女性」のイメージとして、美しく感じられたのだろう。

また「歩く姿は百合の花」として、確かに日本的には、百合は美女の象徴である。

「○○は、△△なんだって」というフレーズが、問い返されることなく「あ、そーなんだ」と受け入れられてしまう、日本らしい現象ではあるかな、と思う。

最近はゲイを指して薔薇族って言う人も減ったけれども、百合はレズビアンが自称することもあるので、やはり美しいイメージが気に入られたのだろう。

2014/06/09

【やおいは少女だったとは限らない】

簡単な加減算をしてみる。

1970年代半ばに、二十四年組作品を高校生(16~18歳)で読んだ人は、1978年(専門誌『JUNE』創刊の年)には、18歳以上に達している。

高校を卒業後、進学を機会に上京した人もいただろう。親元を離れ、家庭教師などによって収入を得れば、投稿作品の制作も、自費出版の注文も、イベント参加も容易となる。

専門誌の創刊にあたって、執筆陣としてそろえられた成人作家は、もちろん成人していた。

二十四年組による少女漫画誌掲載作品を未成年者が読んでいるだけでは、性の知識は増えない。

プロ少女漫画家たちは、未成年女性の購読を意図した一般誌上において、下半身に関する描写を実験的にエスカレートさせるということを、せずに来た。

「男性キャラクターを通じて、別の男性キャラクターの美を称揚するという特殊な技法で、自らの異性に関する嗜好を表現する」というテーマをもつ物語を、特定の方向に推し進めたのは、この時期の専門誌への投稿者 and/or 自費出版者だ。

専門誌の創刊以前から、ほそぼそと自費出版していた人もいたかもしれないし、創刊に力を得て発表に踏み切った人もいただろう。単純に模倣する人も増えただろう。

その一部は、確実に成人していた。

専門誌を足がかりに、成人した同好者が結集し、表現の可能性を追求したという話であれば、一向に構わない。話題が性的であることをもって禁止されるならば「自由の抑圧」として闘うこともできる。

森茉莉がフランス人俳優から着想を得たのは有名な話だ。1960年代末に一世を風靡したと言って良いデヴィッド・ボウイ、1971年公開の映画で世界に紹介されたアンドレセンの麗姿は、多くの作家に創作の霊感を与えた。

カラー放映によるアクション、SF系アニメもこの時期に始まっている。が、当時はまだ「テレビまんが」と呼ばれ、子供の見るものと思われていた。「私が見るわけないでしょ」と怒る女性だっていたかもしれない。

そんな時期に、なにも「貴重な人生の時間をさいて、公式発表できない漫画を描くために、だいきらいなアニメを見てみる必要がある」と思う筋合いはないから、元々アニメが好きで、よく見ていた人が、そこから着想を得たのだろう。

1985年頃に「やおい」などと言っていた少女が、その時16歳とすれば、1969年の生まれで、1978年には9歳だ。

9歳の少女が、二十四年組作品を一読後、我慢ならなくなって、成人向け書籍の購入に走り、描写を模倣して官能作品を自費出版し、単身上京して即売会へ潜入し、売買してきたとあっては由々しき事態だが、そうじゃなかっただろう。

この子たちは、1980年代に入ってから、部活動の先輩・姉妹などによって即売会の存在を知り、お誘いあわせのうえ押しかけた。当時の「にわか」だ。

そして、行ってみたら何も無かったから、自分たちで一から作り上げたのではなく、そこには既に「SFアニメの男性キャラクターを利用した性的創作物」という、フェミニズムの仇花が咲いていた。

これが中高生に売られ、模倣が流行しているという事態に社会学者などが気づいたならば、まず最初に「子供には法律と人権の尊重と、性的創作物の模倣よりも勉学とスポーツに励むべきこと」を推奨することが検討されても良かった。

フェミニズム論客は、男女共同参画の実現に向けて「男性が家事をして、女性が働く世界」を描くことを勧めても良かった。

エロスが生の称揚であろうとも、子供相手に男性同士の性愛に関する間違った情報が流布され続ける必要性は、とくにない。

特殊な性的嗜好にもとづく成人の活動だから、したり顔の提言はしないことに決めたならば「やおい=少女」という定義で話を進めるべきではなかった。

矛盾には口をぬぐって、大勢の大人が「少女の性」という話題を面白がってしまったが如くだ。

ことに成人した女性だった論者が、おとなの責任ということを思わず、自分自身と少女を混同し、「やおい」に関する対応を間違えたがために、日本のフェミニズムは説得力を失くしたんじゃないかなァ……と思っている。


2014/06/08

【やおいには、じつは山も落ちもある】

「こうして二人は深く結ばれ(山)、その後はずっと幸せに暮らしました(落ち) めでたしめでたし(意味)」

ここでは「素人による二次創作のうち、殿方のお口に合いにくい性描写に偏ったもの」を「やおい」としてみる。

それは、長い時間をかけて信義を深めてきた二人に関する、クライマックス部分の情緒のみを繰り返し描いたものだ。

本来、この前後に「試合に出場した」「戦争に勝った」「凶悪事件を解決した」など、男性キャラクターらしいアクション物語があるはずなのだが、そこは原作に下駄を預けている。というか胸を借りている。

読者によって希求されているのは、エロス表現のみと思われがちだが、じつは「めでたしめでたし」というハッピーエンドの情趣だ。

【エロスとは生の称揚である】

生きた肉体の五感を総動員して、互いの肉体美を鑑賞し、互いの匂いと体熱と手触りを味わい、存在感の確かさに涙し、「生きてて良かった、生まれてきて良かった、君に会えて良かった」と思うことだ。

現実では「自分だけ良い思いしちゃいかんよ」ということなのだが、この約束がなかなか守られないので悪いことのように思われている。が、本来、ありがたい経験なのである。多くの古代文化が、遊女を神の使いと見なしてきたはずだ。

二十四年組の作品は、その意味では不満だった。肉体表現に切り込むことができなかったのは、少女誌の性質上無理からぬとしても、「その後の人生をずっと一緒に」というハッピーエンドを提供することができなかった。

作家自身が、その時点で「産まない女性」だったにもかかわらず、作品によっては「男同士では子供が生まれないので困る」という意識を払拭することができず、曖昧な終局を迎えたものもある。

その長期連載の終了と入れ違いに素人作品の制作数が伸びたのは、故のないことではないだろう。

(1980年代に十代に達した第二次ベビーブーマーの人数の多さという物理的な要素もあるんだけど)

【ハイアートの落日】

永遠に失われた少年美への憧憬を芸術に昇華させるというテーマを理解できるのは、作家自身を含めた、ハイアートの愛好者だけだ。

1980年代が進むと、このテーマは勢いを失う。

1980年代は、サザンオールスターズのデビューから始まった。それから、元気はいいが歌唱のへたなアイドルがいっぱい登場した。漫画とテレビドラマのヒーローは不良少年だった。

若き素人が描くボーイズラブも、それらに背を向けてというよりは、その流行をしっかりと取り入れて、元気に走り回るスポーツ少年たちや、不良少年同士の抗争を描き始める。

絵柄は、明らかに劣化した。人体骨格と遠近法に関するルネサンス以来の蓄積は反映されていない。

多分この頃が、ハイアートから一般人の心が離れた端境期だったろう。

では、ハイアートへの尊敬を持たない代わりに、熱心なアニメファンクラブの体裁をとって表現された、「前世紀でもなく、異世界の霧の彼方でもなく、自分と同じ現代の日本に住む元気なスポーツ少年たちが、死に別れることなく、深く結ばれ、末永くともにあることを誓う結末」を願う若き女性視聴者≒作者≒読者の心の、なにが悪いのか。

これは本来、現実の男性同士にとっても悪い話ではないはずで、このあたりで男女の利害が一致し始めると良かったんだけど、残念だった。

2014/06/07

【まことに今更だが、やおいはトランスゲイではない】

「自己実現の困難さゆえに摂食障害を発症したトランスゲイ男性が、ピンクハウスに装い、男同士は社会から容認されないことを前提に、少女漫画の技法によって、化粧した少女のような男性ばかりが登場するメロドラマを描き、『泣ける~~』と消費した挙句に、二丁目へ押しかけてゲイ差別した」

これは、ないだろう。

『千夜千冊』で、やおいに関しては松岡正剛でさえも言葉をにごしているのが面白いといえば面白いのだが、ちょっと気になるので書いてみる。

1970年代に高校生だった人は、1980年代には成人する。成人すれば、夜の街へお酒を飲みに行くことができる。新宿二丁目とは、そのような歓楽街だ。

まことに残念ながら、女性が二丁目まで押しかけ、ゲイにつきまとって困らせた・私生活に関する失礼な質問をした、あげくに非難したなどという話は、1980年代から継続的に存在する。

自分の兄弟・息子・親友がゲイで、他人が「ちょっと見物させて!」などと言ってきたら「そっとしておいてあげて」と思うはずだ。

トランスゲイとは男性である。ゲイとは男性である。男性社会の一員として、末永く共同体へ受け入れられたいはずの者が、なぜ同じゲイとしての心が分からず、大先輩たちに無礼を働くのか。

仮に作家は全員が男性で、礼儀をわきまえており、読者は違うとするならば「かつては読者で、やがては作家になった者」と「読んだだけではしゃぐ者」には、なんの違いがあるのか。

仮に男性が自己表現として書き、女性が読むとして、女性は読む必要がないではないか。話が空回りしてしまう。

仮にトランス男性が、幸いにして著作物の中で自らの性自認について告白する機会を得たならば、一般社会に対しては権利の保障を、全国の仲間に対しては大団結を呼びかけるべきであろう。

なぜ、トランスゲイとしての活動が、空想的な官能小説を書くことに限定されているのか。

「じゃあ作家の中に本当のトランスゲイが何人いるか、アンケートを取ってみよう!」という話ではない。「少し考えれば、理屈がおかしいことが分かるでしょ!?」という話だ。情報に接する態度の問題だ。

【大喜利が好きすぎる】

日本人は途中で考えることをやめてしまう。「あ、そーなんだ」で納得してしまう。大喜利が大好きで、「うまいこと言って座布団一枚もらう」ことが生きがいだ。

しかし、客席から質問されることを想定していない。「それはどういう意味ですか?(面白さが分かりません)」というのは野暮とされているからだ。

だから政治家でさえ「昔のイギリスとドイツみたいなもんですよ♪(なんちゃって)」と言ってしまう。が、「なるほどーー。うまい!」とウケてもらえず、「つまり開戦まで持っていくということですね?」と訊き返されると、途端にあわてる。

もし「私達は全員が女性に見えますが実はトランスゲイです」と申し立てて、「つまり即売会参加者数十万人が、精神科医による診察と、性適合手術を望んでいるということですね?」と言われたら?

「そ、そういう意味じゃないです」と言うなら、どんな意味だったのか。

この文章は特定の著述者を非難することを意図していない。ボーイズラブ作家には絶対にトランスゲイ男性が一人もいないとも言わない。

ただ、いまでも時々「じつは、やおいは○○」という説が披露されることがあり、「あ、そーなんだ」と思ってしまう人もいるようなので、一考を促したいと思った次第だ。

性マイノリティの自己実現の困難さが指摘されたならば、人権擁護の観点から、医療者・法律家による助力、政府・自治体による資金援助などの対策が講じられるべきである。

男同士の愛が不毛なのは、マジョリティ社会が同性婚と児童養育を認可しないからである。

「被差別は当たり前なので、間違った性知識に基づくゲイポルノと、ご都合主義のレディコミが混ざったような創作物を制作するのも致し方ないです」というところで収まってしまうのが不適切であるのは、言うまでもない。

一方、やおいを論じる書籍に「哀しみ」が表現されていると感じるなら、それは多くの場合「せっかく書いたものを快く受け入れてもらえず、なぜ? なぜ? と突き回される女性」の挫折感による哀しみである。
2014/06/06

【やおいとは暗喩である】

プロの責任として「くさった私が、山も落ちもないものを描いて、有名企業を通じて出版し、子供に読ませ、(事実上その保護者から)金を取りました」というわけにはいかない。

したがって、竹宮恵子は「腐女子の女王」ではなく、『風と木の詩』は「やおいの金字塔」ではない。

したがって、山も落ちもないということは、何よりもまず、それが素人の活動であることを表す。

そして、それがオリジナル作品である限り、どんなに稚拙であろうとも、猥雑性を帯びていようとも、新人賞に応募して悪いことはない。昔も今も、いずれの編集部にも、体を成していない作品が山と送られてきているだろう。

性的な作品なら、性的な雑誌の編集部に評価を求めれば良いだけのことである。団鬼六の元へは、決して上手いとはいえない自作の官能小説を持ち込むファンがいたらしい。

たぶん、竹宮恵子のもとにも「見てほしい」という申し出があっただろう。そもそも「女性が描いた男性同士の物語」の投稿先としては、すでに雑誌『JUNE』があった。どんなに下手だろうとも「もしかして」と思って投稿してみることを、誰も止めはしない。

つまり、審査を受ける前から「山も落ちもない」として謙遜するものとは、プロになるための審査には適さないもの、新人賞には応募するつもりのないもの、すなわち二次創作物であることを仄めかしている。

しかも同じ二次創作といえども「暗黒卿の子育て」みたいに公認が得られるものもあるのだから、およそ公認の得られそうもない種類の物であることを暗示している。

山も落ちもない代わりに、明言しにくい状態がある。

女性は暗喩が得意である。「台所には何もありません」と言えば、「殿方のお口に合うものは」という意味で、真の意味は「自分のための菓子ならある」だ。

さらに「そのことに気づかない振りをして下さい」だ。

「山も落ちもない」という言い回し自体が、他から借りてきたものだ。殿方のお口には合わない種類の二次創作物を、大家の発言の二次利用(特殊な意味付与)によって表現した。

既成キャラクターに「じつは男性を愛する男性であった」という特殊な意味付与をするという創作姿勢と一致している。

【耽美からボーイズラブへ】

本来、二次創作は、その存在が公言されてはならない。だから隠語を使ったのであって、その隠語を、まがりなりにも編集部を通じて出版されたプロのオリジナル作品に適用することは、不適切だ。

したがって、編集部を通じてハードカバーの出版にこぎつけたJUNE系作家に「やおい文学とはなんですか」と質問するのは、質問するほうが間違っていた。

作家のほうも、うっかり答えて話をややこしくしないでくれれば良かったと思う。

歴史上に実在した現象として記録に残されている、高位高官・高僧・武将・芸術家による稚児趣味を調べて公表することは、それが女性によって成された研究であっても「山なし落ちなし」ではないはずだ。

そのような現象を参考に、たとえば稚児として売られた少年というキャラクターを創作し、稚児趣味の高僧との交流を描くこと自体も、本義から言って「やおい」ではない。

そのようなオリジナル作品には「耽美」という名称が与えられていた。(これも潤一郎などからの借り物なんだけども)

したがって、名称の系統としては、耽美がボーイズラブに変わったのである。

もし二丁目が、なにもかもひっくるめて、女性が衆道に興味を持つ現象そのものを「やおい」と呼びたがったならば、「おかま」に匹敵する滑稽さ・猥雑性を強調した、意趣返しの意味合いがあったろうと思う。

したがって、やおいを語る・研究すると言いながら、二十四年組の話ばかりしているようでは、自分自身の置かれた状況を論駁できていないことになる。

【特殊な意味付与という手法】

稚児として売られた少年のイメージモデルとして映画の子役を、高僧のモデルとして憧れの歌手を抜擢したとなると、話が違ってくる。

美男同士が睦み合うという絵づら・物語が魅力的なので、本来は稚児趣味ではない人々にまで「じつは男性を愛する男性であった」という特殊な意味付与をする、となると、二次創作と手法が同じである。

このへんで、用語の混乱が起きてくる。

「特殊な意味付与」という作業が、別の名前で呼ばれていれば、混乱は防げたのだが、残念といえば残念だった。

今もって別の名前がないと言えばないが……「ストレート男性のボーイズラブ化」が適当だろうか。

【隠語の自信】

繰り返すが、やおいとは「あってはならないもの」の存在を暗示する語である。今ふうにサラッと言えば「二次」のことである。

(最近は事情が明るみに出されたので隠語を使う必要がなくなったのだ)

「美男同士が睦み合うという絵づら・物語が(自己愛と一致するので)魅力的である」という、プロがハイアートへの憧れとともに表現した情緒を、テレビが最高の娯楽だった素人の一部は、アニメ番組の(部分的)模倣によって表現した。

当初の二次創作物は、大学ノートに手書きだった。発表できる場があるとは思っていなかった。

市場成立前に「パロディを金に替えるために、ネタになりそうな番組を検索しましょう」と思いながらテレビを見る人はいない。

ごく当たり前に、番組自体が面白いと思って見ていたものを参考に、新しい世界観を構築して新人賞に応募するのではなく、既成の世界観を利用して、戦士たちの「オフ」だけを描くという一種のジョークが、自費出版漫画の展示即売会に持ち込まれ、その手法自体が(面白かったので)ステレオタイプ化したところへ、後から「山も落ちもない」という言葉がやってきた。

もたらされたものは「名前」であり、自己認識であり、自己肯定である。じつは自嘲でも自虐でもなく、自信である。これ以後、活動は活発化する。

くれぐれも、女性の自己申告をうのみにしてはいけない。自己憐憫とは自己肯定の一種であり、自嘲する者ほど自尊心が高い。

【独立運動】

「自費出版漫画の展示即売会」を、1970年代アングラ文化の一種と考えると、権威に対して非暴力・不服従の精神を持っていたとしても不思議はないような気がする。

山なし落ちなしには、確かに「ストーリーラインのはっきりしない寸劇」という文字通りの意味もあって、これは先行するベテラン作家に対する独立宣言として評価できる。

女だてらに男子を主人公にした作品を描いた二十四年組ほかのプロ達も、不服従主義だったわけだが、素人(あるいは新人のプロ)達は、そのプロに対する不服従を宣言した。

ひらたく言うと、自由に書く運動だ。

誰もそう思ってなかったかもしれないけど、確かにその精神から「ゆるい日常」という新しい表現カテゴリが成立したのだった。

2014/06/05

竹宮恵子『風と木の詩』は、なんで切ないのか。

少年同士だからか。19歳同士だったら「一目出会ったその日から、ラブラブハッピー♪」という話か?

男同士だからか。作中では「男のくせに」とは言っていない。

切ないのは、片思いだからだ。

あれは、あくまでオーギュストにこだわるジルベールに、セルジュがうっかり本気になっちゃったのが運の尽きという話だ。

【独立宣言】

少し前に竹宮氏の京都精華大学学長就任を報じる地方新聞記事があって、代表作として『風と木の詩』を紹介していたが、「少年同士の同性愛は切ない」てな文章があって、気になったので書いてみる。

勘違いしてならないのは「少年同士だから切ないのではなく、14歳で学内において肉体関係を持つ状況に至っては、少年と少女であっても切ない」点だ。

同性愛だから切ないとは、作中では言ってないのだ。

そして、実際に14歳の少年少女が「(この年で肉体関係に落ちた)僕らの愛は理解されない」と書き残して心中したという事件報道であれば、社会は厳粛に受け留めるべきだが、この作品の作者は、当時すでに二十代後半に達していた。

「成人の演出者が、わざわざ同性の子供キャラクター同士に性的な演技をさせ、衆目の閲覧に供した」点において、言い逃れはできない。では、排斥されるべきか。

作者は、女性の身で男子同士の同性愛に関する無理解を告発し、平等を訴えようとしたのか。でありながら、不毛な結末を描いて、かえって偏見を強めてしまったのか。

じつは、表現されているのは女性作家自身の「外人の美少年を好きになってもダメね。親元へ帰っちゃうんだもの」という寂しさだ。

あるいは、「手塚や石ノ森の描く少年に恋をしても、次元が違いすぎるわ」という寂しさだ。

そして「寂しいからといって、私は諦めて嫁にいったりしないわ。これからも美少年をテーマに描き続け、漫画家として自活していくのよ」という決意表明だ。

【二次元萌え】

日本の「少年愛」は、当初から「二次元萌え」として発生した気配がある。

1971年のビョルン・アンドレセン紹介を待って、彼の似顔絵を上手に描きたいので、ハイアートの訓練(写生の勉強)を開始したというよりは、すでに確立していた「おもに少女マンガに出てくる青少年」という様式への愛情だ。

そして、その愛情が「男性キャラクター目線」で表現された。表現の舞台に選ばれたのは、後期ロマン派の時代だった。当時の男性作家のうち何人かが、実際に衆道の情緒を作品の形で残している。

そして、これが男性編集者によって発表を許されたことが、日本のボーイズラブ(の流行)の始まりとなる。

彼によって、二十代の作家と、十代の読者が同じ「未婚の女性」というカテゴリでくくられたことが禍根を残したと言えば言える。

少女誌に掲載されたから「少女の内面」と評されたが、描いた人は二十代後半である。大人が少女に不良少年の同性間交渉を読ませる必要は、とくにない。

少女に読ませることを口実に、教育目的ではなく、成人自身の非常に自由な自己表現としての漫画発表が許される時代になったということだった。

では、絵に描いた餅である少年への愛情を、わざわざ男性として表現したいという女性作家の背景には、何があったろうか。

【ハイアートの取り込み】

作品の発表年は、1976年である。団塊の一員である作者と同世代の女性のうち、二十代前半までに結婚した人は、少し年長である終戦直前に生まれた女性とともに、数年前の第二次ベビーブームを支えた。

「ひのえうま」の明けた1967年から1974年まで、年間出生数が200万人にせまる(超えた)年が続いた。1976年の街は、幼児を連れた若い母親でいっぱいだっただろう。

その中にあって、中高生時代に手塚や石ノ森に憧れすぎて、女だてらに男子を主人公にした漫画を描いて自活していこうと決めたのが、二十四年組と呼ばれた漫画家たち(の筆頭の二人)だった。

でも、そういう生き方は理解されない。世の中は、他人の弱みにつけこむ男と、保身に長けた女ばかりだ……作品には怒りが溢れている。

作品の結末は、片思いを捧げられた少年が(結果的に)親元へ帰ってしまい、芸術家の卵である少年が残される。

1970年代から1980年代初頭に流行した、独特の少年美の称揚をテーマとした作品のいくつかには、同じ要素が見られる。

少年美を見いだし、近づこうとして果たさず、早世し、あるいは異世界の霧の彼方へ遠ざかってしまう姿を見送るほかない立場の者は、年齢的に少年期から青年期に属する。

職業的には作家、詩人、音楽家、写真家、能楽師。いずれも表現者であり、芸術家であり、その卵である。

アッシェンバッハは表現意欲を枯渇させた老人だったが、彼らは、芸術家の年齢としては「新進気鋭」といってもいい。

それが世界で最も美しい存在に出会ったのだから、その後の一生を感動の表現に捧げるだろう。

まだ若い女流作家自身の現実の姿勢と一致する。

作品のテーマと、作家の人生のテーマが一致している時、文学的と評される。文学的に表現されたものは、まだ発展途上の漫画という分野の先鋒の一人として、女の身で肩で風を切っていた作家たちの、ハイアートへの尊敬だった。

作風は、一朝一夕になったものではなく、作家自身の十代からの教養の蓄積を反映している。1975年頃に二十代半ばなら、10年前の多感な時期に三島の事件の報に接している。

ハードボイルドと劇画の流行る世間に背を向けて、歴史と美術と純文学と、それらの担い手だった知的な男性への憧憬と、そのような趣味をもつ自分自身への誇りが表現されているだろう。

『風と木の詩』に数ヶ月さきがけて発表された青池保子『イブの息子たち』のバージルは、異世界の住人が相手だから、恋愛の成り行き上、どうにもならないが、彼の職業は詩人だから、若木の桜のごとき面影に寄せる詩を発表してもよい。

たしかコクトーの詩に「オリーブの木は若いのに白髪だ」というようなのがあった。見た目は若いのに、現代人より年長者である、歴史上の美少年たち。19世紀の貴族の息子として設定されたジルベールも、その一人だ。

彼らは、その肉体が滅んでも、異世界の彼方に遠ざかってしまっても、表現者にインスピレーションを与え続ける。

美少年への愛情を表現することを許された、西欧の貴族階級・富裕層出身の男性芸術家という存在へ、はるか極東から、数人の「自立した女性」が私淑したのだった。

しかも、単に私淑して自分も詩集を出版するのではなく、その私的修行の成果を「マンガ」で表現するという、ハイアートからの独立宣言でもあった。

歴史的に、西欧において白人男性が築き上げた貴族文化が地球上の全人類の最高峰に位置づけられていることは、現在でも否定できない。

100年も前に確立し、はるか高みにあった男性文化を、極東の女流の技術で描くという、この手法は、「男性作家によるマンガ・アニメを、なんでもロマンチックな絵柄を持つボーイズラブに描き替えてしまう」という素人作品の手法と一致する。

【男装の麗人】

少し前に『ベルサイユのばら』という傑作があった。主人公は「結婚・出産よりも男として育てられ、社会に出ることができて良かった」と言い切った。

主人公の放った名言は、さらに「男の真の強さとは優しさ」「人間は髪の先まで自由である」 ……女性の本音は言い尽くされている。

時しも1973年、第二次ベビーブームの頂点である。この作者も、当時二十代後半の女性だった。

日本の女性がサポート的な役割を押し付けられずに、存分に自己表現できる分野は今も少ないが、当時はもっと少なかった。漫画家は、それが許された稀有な存在だった。

男性が家事を100%担当してくれる保障の少ない日本で、女流が結婚するということは、筆を折るということである。出産によって命を落とす可能性もある。物語の続きを待つ読者への責任上、彼女たちは結婚を優先しない。

結婚を封印し、男性作家と肩を並べ、編集者相手に自己主張して「自由に」描き続けることは、「女を捨てる」ことだったろう。

1970年代当時の出版界・編集部で、女性が支配的な地位にあり、若き女流漫画家を弁護してくれたということはあるまい。作家自身が男性の先入観と無理解に対して、抗弁していく必要があったはずだ。バスティーユを砲撃するように。

そして何人かの「優しい」男性が、女流に少女の教育目的ではない、自由奔放な表現の場を与えてくれたのだった。

そして、じつに1975年、『宇宙戦艦ヤマト』という傑作アニメの再放送によるブームがあった。オイルショック後の不況下、出生数の激減を見た社会から、資源のない国の最後の希望である優秀な若者(=大学生)たちは、最先端技術と男のロマンと、ちょっと大人っぽい金髪美女を求めて船出してしまった。

女たち(の一部)は、地球の過去に目を向け、歴史と芸術の蓄積の中から、美少年という鉱脈を掘り当てたのだった。磨かずして光る玉。しかし壊れやすい。彼らを、おっさんになる前に凍結せねばならない。

【認められた愛】

作中では「男同士だから許されない」とは言っていない。稚児趣味は、芸術家にはよくあることとして、周囲に認められている。

凍結されるべき少年美と、それを称揚し続ける男性芸術家の、次世代という形には結実しない代わりに、「作品」として永遠のものとなる、認められた愛が描かれたのである。作家自身の自尊心の表現だ。

……この「少年美の称揚を芸術に昇華する」って部分を読みそこねてステレオタイプ化すると、少年たちが原因不明の病気で急逝するので「読者少女が死に憧れている」というモラトリアム説が出てくる。

実際に読者少女が憧れたことは「私も早く大人の女性になって、上京して、結婚しない漫画家になって、男の子ばかり描いて暮らしたい」ということであったろう。でないと、その後の女流漫画の隆盛が説明できない。

少年美が少女美よりも尊いのは、それを好む人自身がストレート女性であるから当然である。仮に自分自身が魔法で世界一美しい少女になれたとしても、それ以上に美しい少年への偏愛が消えることはない。

(実際、メリーベルやパットのような美しい少女も登場するのだ)

【誤った前提】

だから、これを「男同士は結ばれない定め」と短絡させてはならない。

「結婚できないのに想い続ける愛こそ純粋」とやってしまうと、陶酔している本人はいいが、新宿方面がイラッとする。

男同士が結婚できないのは、ひとえにマジョリティ社会が同性婚を許してやらないからだ。

彼らは何十年も前から結婚したがっている。医療・年金・遺産相続など人生の重要な局面から弾かれることを非常に残念に思い続けている。

「髭のない若者こそ至高。(養ってもらうという欲得ずくではない)未成年者への愛こそ純粋」というところまでは、女流自身の嗜好の表明だ。それは存分に行われて良い。「女性の表現の自由」だ。

が、「まるで可哀想な男同士みたい」とやってしまうと、本人がもともと抱いていた差別心を追認することになってしまう。

そのように読んだ人がいたとすれば、読み方が稚拙だった。

当時のフェミニズム論客・社会学者・心理学者などが、男同士の物語の流行に気づいたなら、その時点で、現実の男同士の人権を尊重する教育に着手すべきだったろう。

それができていれば、その後の「女性が二丁目に押しかけて騒ぐ」という事態を防ぐことも可能だったろう。痛恨のミスであると思っている。