2014/08/25

【定型表現が主流であるところに、他は出品されにくいだろう。】

男性は気に入りの美少女フィギュアを並べて、彼女たちのそれぞれと、自分との関係を夢想する。

あるいは、一体の美少女に、ツーテールでも、アホ毛でも、猫耳でも、眼鏡でも、メイドドレスでも、ニーハイソックスでも、あらゆる「萌え」要素を載せてしまう。

女性は、二名の登場人物を組み合わせる。

……ってな指摘があった。

そうか?

昔は美少年フィギュアというものはなかったが、漫画・アニメ雑誌から好きな男性キャラクターの姿だけを切り抜いてスクラップブックに貼り込み、大切に保存するとか、寝室の壁いっぱいにポスターを貼りめぐらして、「わたしの○○様」という独占欲をともなった恋愛の情緒を抱く女性が、皆無だったと確認されているか?

とあるSM趣味の男性が、好みの女性を見かけた時、彼女が緊縛されたものとして想像をめぐらすにあたり、その傍らにあるべき人物として、鞭を手にし、毛皮を着たヴィーナスというべき女王様キャラクターを常に心の中に用意してある……という事例は、皆無だったと確認されたか?

とある少年趣味の女性が愛好する、年のころ14歳くらいで、金髪で、眼は緑色で、しかもその金髪で片眼を覆っていて、唇がピンクで、声がきれいで、歌がうまくて、気が強くて、フリルで飾ったブラウスが似合って、しかも手首に包帯を巻いていて……というような美少年キャラクターは、充分にフェティッシュ要素が山盛りにされているのではないのか?

「すでに、ある定型表現がさかんな模倣によって主流として多量に展示・販売されている場所へ、おそらく理解を得られない作品を、わざわざ出品する人物が少ないから、その場所では似たような作品しか観察されない」という予想は立てられないか。

じつは水面下には、あらゆるバリエーションが存在したのではないのか?

なぜ、充分な調査をする前に「男性は・女性は」という二項対立で、差異を強調するのか。

……差異を強調することが自己目的だからだ。

そのために、比較の方法それ自体の検討がおろそかにされた。

底の浅い議論は、「そもそも本気で検討するほどの話題ではない」という気持ちを表すのかもしれないけれども、まがりなりにも研究者として話題に取り上げておいてそれはないし、もしかしたら「日本人の議論って、いつもこの程度」っていう気もしないでもない辺りが、あれだ。


2014/08/24

【1990年代初頭には耽美という言葉が生きていた。】

『間の楔』が最初に評判をとって、恩田尚之作画でOVA化された頃、その文芸カテゴリを示す単語として「帯」などに印刷されていた言葉は「耽美ロマン」だった。

「私もこんなハードカバー本を出版できる耽美作家になりたい」と思う人は、オリジナル耽美小説(または漫画)を書いて、編集部への投稿活動を続けていたはずだ。

「編集部の皆さん、わたしの作品なんて、山も落ちもないですから、読まなくていいです。てへぺろ」とは言うまい。ぜひとも読んでもらい、評価してもらわなくてはならない。

例えばヒッチコックの二番煎じに過ぎない素人作品であっても、ミステリーはミステリー、ホラーはホラーである。自費出版すれば「素人によるオリジナル推理小説で、お眼汚しかもしれませんが、よかったら、お手に取ってみて下さい」となる。

耽美と呼ばれる女製男色小説も同断で、「素人によるオリジナル耽美で、まだまだ未熟かもしれませんが、よかったら(以下略)」となるはずだ。

では、耽美という言葉がすでに存在し、使い続けられていたところで「耽美ではなく、やおいです」と言わなければならなかったものは何か。

わざわざ自腹を切って、プロ職工の手をわずらわせ、製本してもらい、公共施設を借りて販売しておきながら、「山も落ちもないから、男性は読んではいけません」と奇妙な自己申告をしなければならなかったものは何か。

一般に耽美作品は世間の理解度が低く、表現規制・逮捕などの恐れがあると思うのであれば、自費出版を諦めればよいし、諦めきれなければ、雑誌JUNEを拠点としたプロ耽美作家と合流して「表現の自由を守る運動」を起こしてもよい。

それもできないものは何か。

編集部への投稿に向かない作品である。
何本書いても雑誌に掲載されず、プロデビューにつながらない作品である。
地道な投稿活動からデビューを果たしたプロ作家が見れば、眉をひそめるであろう存在である。

……二次創作だ。

そこにおいて用いられる手法は「ある既成作品中において、ストレート男性として紹介された登場人物たちを、男色に関心のある人物として(端的には少女漫画の技法で)描き直す」というものだ。なぜそのような作業をするのか。

男色物語の面白みを、すでに知っているからである。


【発生源】

どこで最初に知ったかは問わない。二十四年組漫画作品という声は高いが、それ自体がすでに自費出版物(または肉筆回覧物)として流通していた素人作品の動きをキャッチした「後だし」の可能性がある。

一番簡単な発生源は「男性が書いたものの真似・展開」だ。

前近代の古典作者・明治期の文豪・三島・横溝・水上・吉行などに実体験があったかどうかは定かでない。彼らも「そういう世界がある」という伝聞に基づいて書いたに過ぎない(かもしれない)ものを読んで、素人が性の場面だけを詳しく想像してみること・書いてみることはあり得る。

次にオリジナル作品を構想するときに、主人公のイメージモデルとして映画俳優などを選択することもあり得る。

実際には映画の授賞式などにも夫人をともなう男性を、男色物語の主人公とする。鶏姦も経験させる。

そのような映画への出演依頼であれば断られるかもしれないが、非公式脚本の段階では、誰の目にも留まらない。

映画が流行れば映画、テレビドラマが流行ればテレビドラマ、テレビアニメが流行ればテレビアニメの登場人物をイメージモデルとする。

紀元前の昔から、男色といえば鶏姦と同義だと思われてきたから、男色物語を鑑賞したいといえば、鶏姦を見物したいという恐るべき趣味と、ほぼ同義となる。

あとは描写をどこで止めるかという技法の問題だ。

ハッピーエンドのプリンセス物語に向かって「新婚初夜の寝室も映せ」と言えば、映画館から叩き出されるだろう。

結婚したという以上、いずれはそういうことになるのが分かっていても、その手前で幕を閉じて拍手を送ることを好む人が大勢いるのは結構なことだ。

性描写を受け入れられる度合いなど人それぞれなのだから、プラトニック(に近い)味わいを好むからといって、嘘つき呼ばわりされたり、罵倒されることがあってはならない。

というわけで、べつに難しい話ではないが、その「恐るべき趣味」に基づいて描いた表現物を「何と呼ぶか」については、やや困難があった。

ここで「女性による男色小説」と言い切ってしまっていれば、それをもう少し呼びやすく短縮した場合、1960年代のセンスとして、何になっていたろうか……


【耽美とは】

「耽美」とは、字義通りなら「美しいものに夢中になること」だ。

それが緊縛・鞭打ち・蝋燭責め・生卵を用いた悪戯・果ては少年趣味を意味することは、文字そのものからは感得されない。

つまり、耽美という言葉も、じつは暗喩であり、明言しにくいものを暗示する隠語だ。

美しいものに夢中になり過ぎて、人間としての理性を失い、相手(さらには自分)が未成年者であることも忘れて、淫行・危険行為に及ぶことが、ここでの耽美の意味だ。

さらには、自分が本来ストレートであることも忘れて、同性への淫行・危険行為に及ぶことだ。

さらには、自分が本来ストレートであることも忘れて同性への淫行・危険行為に及ぶ人物をわざわざ設定して、見物したがることだ。

耽美とやおいの関係を、あえて整理すれば、「既成のストレート物語の耽美物語化が、やおい」だ。

が……既成のスポーツ漫画を潤一郎ふうに耽美化するということも可能だ。すなわち、女子マネージャーが鞭を持つ。

鬼六ふうに耽美化することも可能だ。すなわち、女子マネージャーを男子部員全員が取り囲む。

耽美という言葉で呼ばれていたものが、ある日とつぜん「やおい」になってしまった印象があるが、その切り替えの理由について明確な答えを持っている人も少ないだろう。

考えられるのは……

「耽美の解説をします」といえば、川端康成作品、団鬼六作品、デレク・ジャーマン作品を連想することもあり得る。

やおいという言葉は、より端的に「ストレートの男色化」を指示し得た。そもそも、そのような技法によって制作された作品を示す単語として、自費出版者の間で採用されたからだ。

オリジナル創作者としての耽美派と、二次創作者としての「やおい」派の間に確執がなかったこともない。

雑誌JUNEが1990年代半ばに力尽きて、同人畑出身の作家によるライトノベル・漫画が盛んになったという趨勢があった。

ゲイは雑誌JUNEの二枚看板ともいえた竹宮恵子・栗本薫へ向かって「耽美は氏ね」と言うこともできた。が、彼らは好んで「やおい」という言葉を使った。

男性作家に私淑したつもりで耽美を僭称できるほど高級なものかという非難の意を込めて、自分たちが「おかま」と呼ばれるのに似た猥雑な響きをもつ隠語を用いて意趣返しをした……という含みがあったろうかと思う。

女性が男色に興味を示す現象全般が、耽美から「やおい」と呼びかえられた、タイミング的にこれが決定打となったと思われるが、書店において「やおいコーナーはこちらです」というポップが使用されたことはないだろう。

プロの発行人として、「当社が大切なお客様にお売りする書籍は、山も落ちもない駄作でございます」と言うわけにはいかないからだ。代わって正式採用されたと言えるのが、ボーイズラブだ。最近は海外でも通用している。

やおいという言葉は、一度も、文芸カテゴリを示す正式名称となったことがない。迂闊に使用されないことを望むものである。(最近は使用例も減ったけども)


【山なし落ちなしという言葉の流用と遡及】

山も落ちも意味もない、でも描きたい・発表したい。

じつは前向きな気持ちを暗喩した単語は、もともとは(表現力の点で前代に劣る)若い世代の作家が、規範からの自由を求めた運動の標語のようなものだった。

その周囲に結集した素人女性(の一部)が、なにものからも自由に描きたいものが「ストレートの男色化」だったから、排他的にそれを示す単語として、意味がすり替わった。

もともとは他人が違う意味で言った言葉の流用なんだから、情けないといえばいえるし、もともと借りた物に自分の名前を書くような創作活動をしてるんだから、象徴的とも言える。

ここで立ち戻って、耽美という言葉の用法を、より深く考えてみると、そもそも女だてらに男同士の恋を書いてみたいという(理解されにくい)動機を、なんとか形あるものに整えようと骨折って、成功したものとして投稿し、高評価を得た名手の作品を、いざ売る段階になって編集者がつけた名称が、「耽美」であったろう。

誰も書けとも言っていない作品を、たとえば森茉莉が書いて編集者に見せたとき、ミステリーでもなく、ホラーでもなく、特殊な恋愛物語だから、耽美ロマンに分類する他ない……ということであったろう。(耽美そのものは根が古い)

ということは、「その種の」耽美作品成立の前提となる動機そのものについては、例えばSM趣味とも、窃視趣味とも名づけられていない。窃視趣味の一種にゃ違いないが、より端的に男性同士を志向する「それ」は、名づけられていない感情だった。

女性が男同士の人間関係の可能性の広さに気づいて、ドキリとする。

三島作品の一場面にならえば、“禁色趣味”だろうか? 男たちの出会いの舞台となった喫茶店の名前をとって、“ルドン趣味”が、命名法としては当時っぽいかしらん。(鏑木趣味じゃ地味だ)

他人の性を見てしまったという衝撃を、人によっては「自由を得た」と感じるのは、当人にとって日常的・常識的な男女の世界から、ふいにさらわれて旅立ったような気分を覚えるからだ。

それを非常に恐れて元の世界へ戻ろうとする人と、戻らなくてもよいと思う人との間には、やはり精神分析したくなるような差異があるのかもしれないが……

それはともかく、そのような(当人にとっての)逸脱を喜ぶ感情に、発生順からいって後に来た単語が遡及して適用されたのが、耽美から“やおい”への名称の変遷だ。

表面的な順序からいうと、プロ(の卵)が懸命に構築した「耽美物語」を、その動機にまで立ち戻って分解し、そのまま陳列するという暴挙に出たのが「やおい」だが、そもそも耽美として構築を見る前の素人作家の世界では、本当はずいぶん古くから、部品に過ぎないものが、玉石混交の状態で、日本中に薄く広く散らばっていたのかもしれない。

なお、ストレート男性の中にも「常識的な男女の世界からの飛躍」を喜ぶ人はいるはずで、男性における美童趣味であるとか、男性がBLを鑑賞する趣味であるとかは、当然だろうと思う。

また、飛躍して高みの見物されて終わっちゃ困るんで、もう少し足元の現実を見てくれというゲイ界の主張こそ、至極もっともである。

2014/08/23

【異性好みの同性同士】

「女性好みに調整された男同士の人間関係」を引っくり返すと、「女同士の人間関係において、男性好みの闘争心が表現されている」というものになるはずだ。

じつは、これは「嫁姑バトル」「後妻打ち」「女子プロレス」「女性アイドル夏の大運動会(ビキニ水着で騎馬戦)」などとして、結構に表現され、消費されてきたんである。

(一部のゲイは、女性同士のつかみ合いの喧嘩の見物をお好みになるそうだ)

健康的な表現としては、女子スポーツだが、その訓練課程において男性自身の闘争心・権力志向が表現され過ぎたのが、柔道界における人権問題だった。

だから、ここで話を戻せば、衆道の文脈において女性性を表現するという特殊技法も、女性の自尊心によって現実の男性の人権を傷つけない範囲において、当初から娯楽を目的としていることを断った上で、表現が許される、という理屈になるだろう。

(そもそもどちらも表現すべきでない、という提言は、表現したいという人との「自由」をめぐる真っ向勝負となる)

女性の自尊心によって現実の男性の人権を傷つける事例は、もちろん、ゲイ男性に向かって「あなたの顔は私たちが好む漫画よりも可愛くない」などと言ってしまうことだ。言葉の暴力は、“立派な”暴力であり、人権侵害である。

娯楽を目的として、決して真似してはいけないことを前提に、女同士が言葉の暴力で互いを傷つけあったり、策略を弄して陥れ合ったり、つかみ合いの喧嘩を演じたり、少年に一服盛って犯したり、成人男子を誘拐・緊縛・調教したり、何もかも忘れたようにラブラブになってしまったりする姿が描かれるわけだが、それを読んだだけで不愉快に感じる人がいるのも、また当然である。

だからと言って、自分が読んでも不快ではないものだけを描け、と他人に命令することはできるか。

女性に向かって「女なら男が演出した女の話を読め。母娘バトルを読みたがらない・描きたがらない女性は、女性としての自認がない」というのであれば、男性に向かって「男なら女が描いた男の話を読め。男性が男性に調教される話を読みたがらない・描きたがらない男性は、男性としての自認がない」と言い返すことも可能だ。

「たとえば男性が監督したものであっても、嫁姑や、正妻と愛人の確執などのような女性同士のドラマは、女性も面白がって鑑賞しているから良いではないか。逆にBLは全ての男性にとって不愉快だから、全て取り下げろ」という理屈は通るだろうか。

本当に全ての女性が、いじわるな女性と哀れな女性の物語を歓迎しているだろうか。

ディズニー・ヴィランの中には(ある意味で)魅力的な女性キャラクターが大勢いるんだけれども、彼女たちが登場した作品よりも、悪役としての女性が登場しない作品のほうが優勢となる現象が、現在ただいまも進行中である。(2014年7月末)

男性が性的弱者とされる物語において女性の嗜好が表現される技法は、その逆の表現が優勢な中で、ひそかに開発され、受け継がれ、ある時期に一部だけが商業的に発表を許されたものの、ふたたび伏流となって、現在に至る。

これからは、ついに逆転が起こるのではなく、どちらも伏流となる。

主流となるのは、もちろん、誰もが「ありのまま」に幸せである話だ。


2014/08/22

【男女ものの代替品にはならない】

いわゆるトラウマ・劣等感・嫉妬によって、女性の活躍を鑑賞することができないとしても、男性の女性的な表情や、あられもない姿態を鑑賞していられる理由にはならない。

女性自認者が、女性が屈辱を受けるSM官能作品などを鑑賞することができないのであれば、「永遠の少年」を自認する者は、それが屈辱を受ける物語を、恐ろしくて鑑賞できないはずである。

ボーイズラブ的表現に接した人には、いろいろな感想があり得る。「違和感がある・面白くない・かわいそう」……

だから、それを嗜好する人は、排他的・積極的に、性的嗜好品として、「女性自認を満足させる男性」を選択していることになる。

そして、女性自認があるのだから、その人自身が現実においても女性的に振舞うことと、ボーイズラブ読者であることは、矛盾しない。

女性性をどのようなものと考えるかによって、それを受け入れやすいと思うか、思わないかが分かれる。

女性性を受け入れがたいものと見なす人は、その人自身が女性のステレオタイプに囚われていると見ることもできる。

従来、派手に化粧し、露出的なドレスに装うことは「男に媚びている」として糾弾され(ることもあっ)たが、その魅力によって男性を得ることのなかった『アナと雪の女王』が大ヒットする時代である。

華麗な女性という自認と、華麗な受身の男性を好むというボーイズラブ嗜好も、矛盾しないものとして、さらに広がりを見せていくだろう。

なお、女性作品をお好みになるゲイ男性も、おいでになる。

ナルシシズムによって鑑賞物が選ばれるものであれば、生まれつき「線の細い」男性が、「髭と筋肉」というゲイ作品のステレオタイプに違和感を覚え、女性が描いたものに親近感を持つことは充分にあり得る。

順番に考えていくと、べつに難しい話じゃないと思う。

2014/08/21

【自分を守ろうとすると弱くなる】

自ら性マイノリティであることを主張する人が、他人の多様性を認めず、ステレオタイプな認識に基づく偏見を抱き、差別し、罵倒するのは不思議なことだ。

若い頃から過激な「おやじ受け」を好む女性もいれば、年をとっても美少年同士のプラトニックな描写を喜ぶ女性もいる。

創作物の鑑賞態度に進化論を設定する必要はない。

進化論は、多様性の敵だ。

「少数派は排除される」って考え方だから。

また、創作物は「別腹」であり、誰が何を読んでも構わない。

「Aを読む人は、Bを理解できないに違いない」と思うのは、「自分だけがBの価値を分かっている」「Aなんか読む分からず屋には、Bを読んでほしくない」という差別心の現われだ。

そして、予想とは違う事象に接したときに「ええ~~ッ!? 信じらんなーーい!」と子供のような声を挙げる人になってしまう。

人間、自分の小さな世界観を守ろうとすると、弱くなるのだ。


2014/08/20

【男性には読みづらいに決まっている】

「娯楽消費されることを意図した男子同性愛表象」を、男性がものした絵巻物・写真入り雑誌などを鑑賞することによって消費するのではなく、女性が自作した場合に、思いがけないほど女性性が表現されてしまった……

というのが、名称の発生順に「耽美・やおい・ボーイズラブ」と呼ばれてきた分野だ。

あえて例えるなら「黒電話にレースのカバーを着せる」「ねじ回しまで小さくなってピンク色」にするようなものだろうか。

電話やプラスドライバーなら必要があって使うのだろうが、君らにゲイ漫画は必要ないだろうと言われれば、「必要があると思う人には必要あるのよ!」と応える他ない。

この国では男女共同参画が進んでいない。ボーイズラブの発行責任者も男性である。女性向けに調整された商品が男性の手で売り出されることを「フェミニズムの勝利」というのであれば、確かにボーイズラブはフェミニズムではある。

が、ボーイズラブ描写は、やはり男性から見れば、彼らが隠しておきたい(肉体の)部分、歴史の闇に葬り去りたい事象(若衆遊びという名の少年虐待)を、女性の筆で暴き出してしまう行為には違いない。

それが、今まで沈黙を強いられてきた女性(の一部)による、正直な興味関心の表現であるから、許されたい……という主張が、現状では認められているというに過ぎない。

憲法が簡単に改訂される世の中であれば、表現の自由の大幅見直しもあり得るだろう。

自分はボーイズラブを通じて男性文化を応援していますというタイプの人は、気をつけるといい。

2014/08/19

【商業的に確立されたBL分野は氷山の一角】

商業的に確立されたボーイズラブという分野は、「娯楽消費される男子同性愛表象」という氷山の一角にすぎない。

消費する当事者はゲイであることもあるし、ストレート男性であることもあるし、ストレート女性であることもあるし、レズビアン女性であることもある。

最後のパターンは「ない」かのように思われるが、じつはあるんである。(アメリカから報告されている)

アメリカにおける「スラッシュ」は、最初から中年男性俳優同士をイメージモデルとしていた。

日本における二次創作BLが、1970年代のSFアニメから始まったというなら、そこに登場したのは筋骨たくましい青年たちだった。なんせ地球を救うヒーローである。

にもかかわらず、なぜボーイズラブは「線が細い」のか。そのようなものだけが出版を許されていた時期があり、それが模倣を生んだからだ。

青池保子は歴史上に実在した美少年(だったとして伝えられる人物)への関心を少女漫画の技法で表現した。彼らは、日本人としては、いかにも身長が高すぎ、目が大きすぎた。

竹宮恵子は、寄宿制中高一貫校において音楽を勉強する少年たちと、後期ロマン派の文学者への関心を、少女漫画の技法で表現した。

一部の成人女性漫画作家による少年趣味の表現が、男性編集者によってGOサインを与えられ、少女漫画雑誌の読者という低年齢層へ向けて公開されたから、……

「低年齢者が、少女漫画という媒体によって、本来は成人のものだった少年趣味を嗜む」という行動自体が、ステレオタイプ化しただけだ。

その他の部分は、べつに禁止されたわけでもないから、そのまま存在している。表面的に禁止したところで、「内面の自由」までは手のつけようがない。

だから「女性がこんなものを読むようになったか」と不思議がる必要はない。

「時代だなァ」と感じるポイントがあるとしたら、「これを扱う編集者が出てきたか」だ。

そして多分、「そこまで踏み込む必要があるほど、出版事情が逼迫している」というあたりに思いを馳せるとよろしいんではないかと思う。

二十四年組ほかによる美少年作品の発表が許された1970年代後半が、好景気だったか、不景気だったか、よくよく思い出してみるまでもない。


2014/08/18

【男性キャラクターで女性性を表現するのは】

女性キャラクターを描くことができないからだろうか。女性に感情移入できないから、やむを得ず男性に女性の役を演じてもらっているのだろうか。

話が逆なんである。

まず、どっかで誰かが「美男同士ってセクシーね」と気づいた。

セクシーとは、昭和の時代にはよく使われた言葉で、今どきは「エロかっこいい」なんて言う。性愛的な興味を抱いた相手への最大限の誉め言葉だ。

それが、一人より二人。美男の盛り合わせ。けっこうな話である。

もしかしたら、セクシーなんて言葉さえ使われていなかった時代に気づいていた人もあったかもしれない。

「こんなものが流行ったのは誰それのせいだ」というより、素人の間から自然発生した草の根運動の存在を想定し、尊重したいと思うものだ。

で……その「美」の基準が、女性の価値観によっている。

日本の女性は江戸時代から歌舞伎の女形をもてはやしてきた。それは彼女たちのナルシシズムによっていると喝破したのは三島由紀夫だ。

男らしいよりも、女らしいほうがカッコいいと考える。

さらに、叙述において女性的な精神性が強調されるのは何故か。

恋愛という特殊な人間関係を描き出すにあたって「信頼のおける人でなければ、体を任せるわけにはいかないわ」「親兄弟にも逆らって、愛する人を連れて逃げてくれるようでなければダメよ」という女性の価値観が露呈するのは当たり前だ。

仮にゲイのリアリティを尊重して、現実に存在した事例をドライに叙述したとしても、創作物のバリエーションとして、その「真逆」が必ず生まれてくる。

女性性を描いた作品のほうが、女性からの支持を得て、さらなる模倣を生むことも当たり前だ。

「美男同士を描く」というお題が、ある時点で誰かによって与えられ、模倣を生み、「描いてみる」という行為自体がステレオタイプ化したところで、叙述において、女性性がどんどん付加されていった……という順番だ。

なぜ少女漫画なんか描く気のしなかった女性が、美少年漫画なら描く気になったのか?

異性愛者の女性が、女性を描くよりも、美男を描くことに夢中になるのは何故か?

異性愛者だからである。

2014/08/17

【美化というならゲイ作品も同じだ。】

田亀源五郎作品の登場人物の肉体は、とても日本人とは思えないほど、ルネサンス的に理想化されている。

プレイは、実行していたら、命がいくつあっても足りない。

念のため、決して真似してはいけない。

しかも、冷静に読むと、彼ら登場人物は、生来の同性愛者とは限らない。

内藤ルネなどによって描かれた、『薔薇族』掲載のイラストはどうか。

実在ゲイの魅力を丁寧に写生したものですといえば、世界中のストレート女性が「モデルに会わせて!」と二丁目へ殺到するだろう……

実際には、ゲイの眼に好ましく映るストレート青年を描いているといったほうが正解に近いだろう。

『プリシラ』『ジェフリー!』などの半自伝的映画では、物語はあるていど現実を反映しているが、登場人物は多くの観客が「見るに耐える」「好みである」と思える俳優をキャスティングしてある。

『フィリップ、きみを愛してる!』では、刑務所における同性愛者差別・性暴力被害などは、一切描かれていなかった。受刑者同士の仁義を称揚し、二重の意味で美化されていた。

「男性の肉体を美化して描いた」
「男子同性愛・その周辺の人間関係を美化して描いた」
「観客・読者が好ましいと判断するであろう人物を登場させる」
「生来の同性愛者という設定で描くとは限らない」

多くの点で、ゲイ当事者による創作物・彼らによる鑑賞をも意図して一般公開された表現物と、名称の発生順に「耽美・やおい・ボーイズラブ」と呼ばれてきた分野は、同じだ。

が、後者は、日本のゲイ男性読者に受け入れられにくく、ゲイ雑誌には殆ど掲載されない。

なぜか。

表現しているものが、ゲイ男性の自尊心ではないからである。ゲイのお好みではないからである。

女性の自尊心だからであり、女性の好みだからである。

だから正確には「美化」というより、「女性が喜ぶように調整された」だ。

自尊心・プライドという言葉を使えば、前向きな雰囲気になる。

自己愛・ナルシシズムといえば、その名称が水鏡に見とれた伝説によっていることが示すように、閉鎖的・引きこもり的・ネガティブな印象になる。

自分から言うときには「ゲイプライド」または「フィメイル・プライド」で、他人が指差して言うときは「あんなの、ただのナルシスト」って言い方になるだろうか。

2014/08/11

自分自身が一方的に親しみを感じている男性表象を題材として、

彼らが演じるべき衆道物語を用意する。

同じ作業を、中年男性俳優に適用したのがスラッシュ、少女漫画に適用したのが二十四年組、アニメに適用したのがアニパロ派。

大雑把に、1960年代、1970年代、同後半。

それぞれ、テレビドラマが映画に替わって娯楽の主流となりつつあった時代、小説に替わって漫画が以下同文、漫画に替わってアニメが以下同文。

歌は世につれという言葉があるが、ボーイズラブも、ちゃんと世につれている。

二十四年組は、すでに連載を何本か成功させた後で、オリジナルキャラクターを創出する技術に長けていたけれども、素人レベルでは既成の少女漫画に登場する金髪美少年を題材にした作品が生まれていただろう。

少なくとも、誰かしらの脳裏に着想が生じていただろう。

『風と木の詩』も、当初は作家もその役回りを意図していなかったんじゃないかと思われる登場人物が、誘惑者の手にかかる展開となってしまっており、「目ぼしい男性キャラクターがあれば、受身としてみる」という技法において、やってるこた素人と同じである。

ただし、プロはそれでもその事件を物語全体の中に位置づけ、意味づけようとしているので、「山も落ちもない」と呼ぶのは相応しくない。

できればその「目ぼしい男性があれば、受身の役を与えてみる」という技法そのものに、議論上の混乱を避けるため、「他からの流用であり、元が否定形である隠語」ではない単語が割り当てられることが望ましいと、個人的に思うものだ。

スラッシュを念頭におけば、ボーイズとは限らないので……受身だから「パッシィブ」なんとか……パッシィブは、たしか稲垣足穂の著作にあった言葉。


 野郎受け。


野郎って、もともと女郎の類語だから相応しいといえば言えるのだが、それを言うなら「ふつうの男を野郎に仕立てる趣味」だから「野郎趣味」だ。

(※「この野郎」というのは、相手を性的な商売をする男性として、強く罵倒する呼び方である)

いやもうそれを言うなら「男色化」でもいいような気もする。

受身が若年者である場合には、従来通り「少年趣味」でいいのだろう。若衆、蔭間という言葉もあるが、個人的には稚児さんという言い方が好きだ。

(無駄に頭を抱えつつ)

話を戻すと、当然ながら、その技法が、1950年代には映画に適用されていた可能性はある。三島が実践者として存在していたんだもの。連想する人がいてもおかしくはない。

1960年代には、日本でも、海外テレビドラマから発想した作品(の構想だけ)が生まれていた可能性は充分にある。

1970年代には、専門誌『JUNE』への投稿(の下書き)という形で、さまざまな着想が試行されただろう。実在者・既成作品から発想しても、人物名を変更すれば投稿できる。

1980年代以降は、流行の推移に従って、ビデオゲーム、ライトノベル(の走りと言えるスペースオペラ作品)から発生したが、これには待ったが掛かった。

念のため、掛かるほうが本来である。

なお、なんで「二十四年組から始まった」という単純な定説に待ったを掛けようとしているかというと、時代の裏側に埋もれた声なき声、草の根運動みたいなものを大切にしたいと思うのである。

スターが登場する前には「露払い」がある。一人の成功者の背景には、百人、千人の潰えた夢がある。

そこに思いを馳せたい。


2014/08/10

【やおい論自体が少女趣味じゃなかったか。】

べつにボーイズラブにすっころばない少女もいるし、大人になってから面白さに気づく人もいる。

ボーイズラブという名称で商業的に確立された分野は、女性が男色文化に関心を持つ現象の、氷山の一角に過ぎない。

角度を変えてみると、ゲイ当事者による表現物を、女性が鑑賞するという分野が見える。

これはもう、英雄伝説の時代から「男はいいわね」という情緒が生じていなかったとは言い切れない。

非公式ながら技法として確立された存在である「二次創作」は、水面のあたりに見え隠れしている状態だ。

水中には、(肖像権的に)決して発表できないものとして誰かの脳裏をよぎっただけの着想、すでに処分された詩歌、断片的な小説などの数十年分の蓄積が眠っているだろう。

中には、その当時にしか書けない時代精神や、風俗を表現した傑作があったかもしれない。素人による自称ポエムであっても、見るべき一句があったかもしれない。閑吟集が存在する以上、短歌・俳句の形で少年趣味を表現した人があっても、一向におかしくない。

それを何歳の人が何年かけて書いたのか、「そんなことは絶対になかった」という検証はできない。

にもかかわらず、少女に話題を限定するのは、確かに少女誌への掲載をきっかけとして、未成年者にブームが生じ、他人の目に留まったからではあったが、特に「少女の性」を話題にしたい大人の都合によったものではなかったか。



2014/08/09

生まれて初めて好きなアニメキャラクターの似顔絵を上手に描くことができたと思った人は、

嬉しかっただろう。

同級生に見せたところ、「すごい」とか「うまい」とか言ってもらえたのなら、気分が良かっただろう。自分には才能があると思い、将来はアニメの仕事がしたいと思っただろう。

誰も笑いはしない。多くの人が、そのようにしてアニメ作家になったはずだ。

「アニメキャラクターでM/Mロマンス」というアイディアは、最初は誰かがジョークとして思いついたのかもしれないが、わざわざ自分の好きなキャラクターを取り上げて「ホモ」という理由で嘲笑し、罵倒し、原作アニメを嫌いになるために描いたのではないだろうし、興味のない他人に無理やり見せて原作アニメの評判を落とし、視聴率を下げてやることを意図して描いたのでもあるまい。

これも「なかなか上手く描けた」と思った時には、嬉しかっただろう。憧れの○○様が身近になったように感じられただろう。

もともと「絵に描いた餅」だから、身近も何もないのだが、ファン心理ってそういうものだ。

ブリティッシュ・ロック歌手でも、サイクル・ロードレース選手でも、日本語で会話しているはずはあるまいのに、彼らが日本語でジョークを言い合っている姿を四コマ漫画に描いたり読んだりすると、てっきり友達になれたような気分になるものだ。

アニメ作品中では常に規律正しく軍服をお召しの、麗しの○○様の胸の肌まで見た(気分になった)後は、ますます彼のことが好きになったと思えただろう。

「ジルベールを描こうとしたら、うまくいかなかったから、憧れのアニメキャラの○○様なら、てきとーでもいいやと思ったから、雑に描いた」ってことはあるまい。

キャラクターへの愛情と、自分の技量への自信と誇りをもって描かれた、丁寧な二次創作など、いくらもある。

ジルベールの代償ではなく、意図的・排他的・積極的に、アニメ作画に私淑することを選択した人々が、あったはずだ。

1970年代前半を想定している。

「そんな情熱、私にはなかった。他人に誘われて、他人の真似をしただけ」と言える人は、その時点で、模倣が可能なほど、市場と技法が成熟していたからだ。


2014/08/08

【典型的なボーイズラブ物語は】

女性が、ゲイ青少年の成長過程で直面する社会問題を理解しようとして描いていない。

エンターテインメントとして制作された創作物を鑑賞して、感銘を受けたから、自分も書いてみようと思ったことによっている。

繰り返すが、書いて金に換えられる創作物なら、何種類もある。

女性が藤本義一や渡辺淳一のような作品を書いてもいいし、団鬼六を真似てもいい。ゲイ作家を参考に筋肉美を描いて、男性らしいペンネームで発表してもいい。

『ハリー・ポッター』の例があるのだから、児童文学の印税収入だって、ばかにならない。

数あるカテゴリの中から、「これなら私も書いていける」と思うものを見つけた。それは充分に「感銘を受けた」といえる状態であり、創作動機といえる。


【エンターテインメントとして制作された創作物とは】

ひらたく言うと、嘘八百だ。

その点で、魔法によって野獣に変えられた・髪がのびすぎた・百年眠り続けたなどというのと変わらない。9と3/4番線から汽車が出てもいいし、殺人許可証を与えられた諜報部員が存在するなどというのでもいい。

なぜ嘘をつくのか。

現実には存在しない、少なくとも自分自身の日常生活の範囲内には存在しない驚異を目の当たりにした心地を味わい、ひとときの現実逃避の安らぎを得たいからだ。

逃避といって言葉が悪ければ、空想旅行でもいい。脳の切り替えといってもいい。同じ作業を続けると、効率が落ちる。

ボーイズラブにおける驚異とは何か。

他と「かぶる」要素を消去していくと、消去できない要素が残るはずだ。


【BLあるある:地の文章における叙情性】

それは本来、男性作家が洗練させてきたものだ。

日本には紫媛がいたけれども、近代に入ってからの小説業の隆盛は、男性の研鑽によっている。彼ら全員が源氏物語を参考にしたってわけでもないだろうし。

潤一郎が独自訳を発表しているところを見ると、耽美派の源流は源氏物語だと言っても悪くはないかもしれないけども。

明治時代の女性は不幸にして研鑽の機会がなく、あっても発表を許されなかっただけで、本来の才能を磨けば、女は誰でも紫式部くらいの文章力を発揮するのだということもできる。

……ただし、紫式部自身が漢詩の教養をもとに創作している。


【BLあるある:非現実的な長台詞を滔々と述べる男性】

それはハーレクインにも登場する。男性作家の作品にも登場する。

現実的な台詞を述べる男性が登場する作品を読んで「男心がよく分かったわ!」と感動して終わる女性は、その他の作品を求めない。自分が創作するにも、男性の表現した、彼らのリアリティに準拠しようとするだろう。

逆に「男の言うことって、ひとつ覚えね。私だったら、こう言うわ」と思う女性は、みずからの信じるところに従って、思いのままにペンを揮う。

「世の中の奴らの言うことって、つまらないよな」と思う男性も、勢い良くキーボードを叩くだろう。


【BLあるある:潜入捜査中に性的な意味で屈辱を受ける刑事】

それは西村寿行作品に登場する。

それは『風と木の詩』発表後の現象で、読者に受け入れられる下地があったからだ(つまりボーイズラブのほうが先行している)ということもできるが……

日本の少女漫画が、企画・撮影段階の洋画に影響を与えたとは考えにくい。

1969年に「ヘアピンが落ち」て以来、1970年代を通じて、性マイノリティのコミュニティ内ではなく、広く一般への公開を意図した創作物が同性愛に言及することは、世界的な傾向だったかと思う。(女性同士を描いた『エマニエル』もこの頃だ)

1980年代の劇画にも、たま~~に登場した。その後はあんまり見かけない。ゲイ雑誌には載ってるかもしれない。


【BLあるある:女性の顔を持った男性】

それは、古くから少女漫画に登場してきた。

でも実は、それに先んじて、男性によって描かれた少年向け漫画の中に、少女とほぼ同じ、大きな眼をした少年が描かれていたはずだ。

もっと古いところを探れば、ヴィンチ村のレオナルドあたりまでは遡ることができるだろう。


【多くの男性が避ける要素の集積】

こう見ると、ボーイズラブは「すでに一部の男性の手によって存在させられながら、その後、多くの男性があまり書きたがらない・鑑賞したがらない」要素の寄せ集めだ。

男性の自己愛・自尊心・リアリズム志向によって、従来型の男性作品には、あまり登場しない男性表象の寄せ集めだ。

ついつい断定的に一つの要素のみを最大の特徴として指摘したくなるが、個々の要素は、じつは他でも見ることができる。したがって、複合であることに意義がある。

ひとつひとつでも男性にとっては衝撃的なものを、寄せ集めてみたら、開いた口が塞がらないものができたわけだ。


【男性的な美化もある】

ミケランジェロが描いたみたいな。

多くの男性は、あれほど魅力的な体格をしていない。田亀源五郎は、作中人物を日本人として描くけれども、あれほどの日本人は、そうはいない。

異人種・異民族も含めて、多くの現実の人間は、短躯で、モヤシっ子で、でなければ中年太りで、言い訳がましく、逃避的だ。

そして、優れた体格・高潔な人格に憧れる。

だから、ゲイのリアリティを表現するなら、「短躯で卑怯な男が、体格と人格に優れた体育教師やプロレスラーを監禁し、鬼六ふう調教を施す」とか、逆に「機嫌をとろうとして弁当を差し入れる」などという話になるはずだ。

前者はSM型、後者はラブコメ型。

理想化すれば、弁当を差し入れるほうも、プロレスラー体型になるだろう。

典型的なボーイズラブがそのようなものでない以上、ボーイズラブが表現しようとしているテーマ、モチーフは、違うものということになる。

「あたしってゲイかもしれない♪」と思っちゃった人は、ゲイ創作物を知らなかったのだろう。


【順列組み合わせ】

年齢の低さ・または生まれつきによって女性の顔を持った男性と、非現実的な台詞を述べる男性と、性的な意味で屈辱を受ける男性と、性的な意味で男性に屈辱を与える男性。

現実の男性が、あまり好まない要素の羅列だ。

あとは要素の取捨選択・順列組み合わせによって、かなりの数のバリエーションが生まれる。

・女の顔だが、台詞は現実的で、物語が性的ではない。
・顔は男らしいが、台詞は非現実的で、物語が性的。
・性的ではあるが、屈辱的ではない。
・フルコンプ。

などなど。バリエーションの内で、いずれを最も好むかは、もちろん人による。

あるパターンに支持者が多いのであれば、それがその大勢の人々にとって、気分の悪いものではなく、むしろ心地よいものであるからだろう。

あるパターンに支持者が多いことは、何を意味するだろうか。たんに「そのような人々が多いことが分かった」というだけだ。少数派は排斥されるべきだろうか。その必要はない。

ここで「このようなパターンのBLを好む人は、さだめし母親との関係が○○」などと言いたくなるが、逆もまた真なり(家庭環境に問題がある人は、必ずある種のBLを好む)とは言えないので、証明にはならない。


【なぜ男性の耳目を驚かす作品が制作されるのか】

じつは、それは大勢の取材記者を前に、男女共同参画推進会議で朗読され、文学研究の学会誌へ殴りこみ的に投稿され、男性創作の独善性を糾弾し、朝刊一面で報道され、広く社会一般に自己批判を促す……とかいうことを目的にしていない。

BLは、男性読者を招待しようとはしてこなかった。新聞の書評欄に載らないし、一面広告を打つこともない。テレビでも紹介してもらわない。

もっと単純に、同好者同士による交換と交流を目的に発表される。他のどのような趣味とも同じだ。

物々交換ではなく、貨幣を媒介にするとしても、一冊の値段に数千円も上乗せして暴利を貪ることはできない。印刷代の相場は、お互い様で知れているからだ。

書いたものを同級生に見せるのは、読んでほしいからであり、即売会へ出品するのは、読んでほしいからである。

金さえ置いていってくれれば、どうせ駄作だから、帰りの電車の網棚へ捨てていってくれて良いという同人作家も、あんまりいないだろう。自嘲した名称は、本意を表していない。

べつにむずかしい話じゃないのだ。

2014/08/07

【ありのままに孤立。 ~FROZEN鑑賞記その4】


よく考えると、話がおかしい。

なにもアナまで閉じ込めなくても、外国の親戚へ預けて、大勢の従兄弟とともに成長させるなどという手段もあったはずだ。

エルサのためだけに、北方に土地を求めて、離宮を建ててもいい。貿易していたくらいだから、ある程度の財力はあったはずだ。

国王夫妻が船旅に出たくらいだから、政務も執行していたはずで、王宮は完全に閉じられてはいない。王家は国民から嫌悪されてもいない。

であれば、アナは貴族か豪商にでも預けて、城下町で育て、ふつうに学校へ通わせてもよい。

現実の王侯の家系なら、「子弟を養子に出した・地方豪族に預けた」などという話は、よくある。

これは、現代っ子の「友達が一人しかいない」「それも実はゲームの中に存在するバーチャルリアリティとしての自分自身でしかない」という状況を象徴するために、王家らしさ・参考にできる史実をバッサリ切り捨てた格好だ。

また、何らかのバッシングを恐れて、家族ぐるみで引きこもってしまうという、現代社会に時々起こる問題の象徴でもある。

おとぎ話の体裁を借りて、現代を描くことを、臆面もなくやってのけるのが、ディズニーの肝の太いところだ。

(単に「眠り姫」から受け継いだ様式美といってもいいけれども。)

それにしても、雪山で歌うエルサは、やけを起こしたように見える。「ありのままの自分を見せる」というわりには、見せる相手のいない山の上で独りぼっちだ。逃げてきて、引きこもっただけだ。

『塔の上のラプンツェル』も、引きこもっているわりに活発だった。絵を描くのも、お菓子をつくるのも上手だった。

が、ディズニーは一貫して、「自己満足で良いのか?」と問い続ける。

「ねェみんな! 正しい生き方ってなんだろう!? ぼくと一緒に考えてみようよ!」(ミッキーの声で)


2014/08/06

【ありのままに骨太。~FROZEN鑑賞記その3】


『塔の上のラプンツェル』の長い髪を利用した豪快なアクションに比べると、『アナと雪の女王』って、じつはロケハンと背景CGを駆使すれば、生身の俳優を使って撮影できる程度のことしかやっていない。

雪の崖から飛び降りるとか、吹雪をついてトナカイを走らせるとか。

ミュージカル場面も少ない。姫君たちの他には、オラフしか歌わない。ハンスの「決意の歌」とか、クリストフの「愛の二重唱」とか、無い。

その代わり、「救えるか、間に合うか」という物語に沿った緊張感が高まっていく。

この、ミュージカルアニメ映画としての約束事を排除した、地に足のついた感じが、かえって従来のアニメファンを超えた観客を獲得したんではないかなァなどと今ごろ思っている。


2014/08/06

【ありのままに化粧は濃いめ。~FROZEN再見記】

「人魚って素敵だな。わたしも海の中を自由に泳いでみたいな」
「薔薇に囲まれて眠り続けるお姫様って素敵だな」
「魔法でのびた長い髪って素敵だな」
「おそろしい野獣と可愛らしい女性の組み合わせって素敵だな」

と思いながら彼女たちを鑑賞する人にとって、人魚が人間になり、呪いが解ければ、夢の終わりである。

少なくともディズニー好みのお姫様物語というのは、「魔法によって一時的に異常な状態におかれていた人々が、平凡で健全な世界へ戻ってきました。皆さん、こころよく迎えてあげましょう」というものになっている。

もし「ボサボサの赤毛を笑いものにされた姫君が、『雪の結晶のように美しくなりたい』と願い、理想の姿を手に入れたけれども、心まで凍らせてしまい、国民に復讐しようとする。が、幼馴染の青年の『昔の君が好きだった』という言葉によって目を覚まし、もとの姿を取り戻す」なんて話だったら?

ここで「ありのままに」が歌われれば、「平凡で我慢しな。高望みしなさんな」というメッセージになる。

お姫様物語は、しばらくお休みだった。ポカホンタス、リロなど、化粧っけのない女性の時代が続いた。

『ターザン』では、ヴィクトリア調のドレスをものともせずジャングルを動き回り、しまいには野生児ならぬ野生女子となってしまう姿が描かれたが、時代はちょっと変わったようだ。

エルサというのは、当初は賢明な女王らしい清楚なドレスに装っていたものが、まるで「夜の蝶」のように派手な化粧と露出的なドレスにお色直ししながら、「ありのままに」と歌う。

そして、心の氷が解けてからも、その華麗な姿のままで国民に受け入れられる。

従来のディズニーヒロインには見られなかった、あのピンクと紫の派手な化粧は、けっこうに重要だと思う。

ひっこみ思案なアヒルの子から、誇り高い白鳥へ。でも、どんなに美しい女性も、独りでは生きていけない。

女心のツボの突き方は、じつに巧みだ。

セルアニメでアイシャドウや頬紅まで描くと、きつくなるので、透明感を表現できるCG時代ならではの成功例でもある。

これが世界の女性に受け入れられたなら、いまなお化粧っけのない少女を愛好し続けるジブリは……どこで勝負できるだろうか。





2014/08/04

ボーイズラブとは多様性の表現のはずだ。

男性作家だから、少年を主人公に、男らしい漫画。 女性作家だから、少女を主人公に、女らしい漫画。 

男らしさとは、異性を求めることであり、女らしさとは、異性を求めることである。

売るため・買うための便宜と、ジェンダー論的偏見とのないまぜによって、そのような枠が決まっていたところへ、反旗を翻したのが、ボーイズラブという、一種の無血革命だったはずだ。

誰が何を書いてもいいじゃん! 下手でもいいじゃん! 

革命の徒は、時計を撃つという。

他人によって規定されることを嫌うからだ。

そのボーイズラブ運動は、全女性の支持を得た……ってほどではない。抵抗のない人が増えただろうけれども、今でもやっぱり少数派だ。

全盛期のように言われる(こともある)1970年代後半の少女誌においても、美少年派作品は連載陣のうちの1~2本で、あとは「ふつう」に少女を主人公に、スポーツの分野で活躍する作品や、同級生の男の子をお相手と目した初恋コメディなどが載っていた。

もともと、女性の中の少数派の表現の自由だったはずだ。

その少数派の中で、「少年趣味から中年趣味へ」「プラトニックから過激へ」と勝手に進化論を設定し、遅れを取ったと見なした者を差別し、罵倒するのは、本義に反している。

進化論の反対は、多様性の尊重だ。

多様性の尊重とは、進化の過程で淘汰が起こり、多数派によって少数派が排除されるという説を採らず、さまざまに叢生する可能性の試行を許容し、進化の分岐・並存・住み分けを尊重する姿勢だ。

同調圧力と相互模倣の尊重は、一種の保護色で、女性(というか一般に社会的弱者である若者)の処世術だ。

それもまた、女性の「自由」な在り方のひとつではある。

だから。

同じボーイズラブ、同じM/M分野の中に、支持者の人数の大小はあっても、さまざまなバリエーションが同時に存在していいし、なんでも読む人がいていいし、少年趣味と中年趣味を両立させた人がいたっていい。

官能描写が苦手なBLファンがいたっていいし、逆に少女漫画に官能を求める「危険な」女性ファンがいたっていい。

おしゃれなBL派がいてもいいし、逆に少女漫画を読むことだけに夢中で身なりにかまわない人がいたっていいし、男性のBLファンがいたっていいし、男性の少女漫画ファンがいたっていいだろう。

ことに自ら性マイノリティであることを主張する人の中に、他者の多様性を認めず、ステレオタイプな認識に基づいてバッシング的言説を展開する人がいるのは、じつに不思議きわまる現象ではある。



2014/08/03

【「だが?」は、「ですけど~~」の語尾活用。】

「ちょっと、あり得ないんですけど~~」
「ちょっと、信じらんないんですけど~~」
「ちょっと、寒すぎなんですけど~~」

けど何だ。「エアコンの設定温度を上げてもいいですか」って、ちゃんと言え。言わなきゃ分からん。

……というのが男の理屈なら、

「はっきり言ったら、生意気だと思われちゃう。そっちのほうで気を廻して、こっちの望む答えを出してほしい。自分から言い出したことにしたくない。責任を取らされると困るから」

女性の処世術だ。

女性の台詞を語尾活用させて、男言葉にすると、BLボーイの台詞になる。

女性の台詞を男性俳優に演じさせたことは、女性脚本家が男性になったことを意味しない。

男のふりをした女の台詞が書けるから、私は男心が分かると思うのは、私は日本産プロセスチーズの味が分かるので、フランス人かもしれないと言い出すようなものだろうか。

と考えると、ボーイズラブの基盤にあるのは「男心が分かる私でありたい」という気持ちよりも、「女心を持った男性に存在してほしい」気持ちだ。

男性が、百歩ゆずって女性に合わせてくれたことを喜ぶ心、合わせてくれることを望む心だ。

この点で「いちばん忙しい時間にメールがほしい」という女性と、BL派の根っこは同じだ。

ただ、咲いた花がちがうので、前者は男性に向かって歌いかける花で、後者は日陰のほうで勝手に咲いている花だ。(きれいに言ってみた)

外人さんが日本語を上手に話したり、ジャパニーズポップスを歌ってくれたり、寿司や納豆を好きっていうと、日本人が喜ぶ。

人間、自分に似たものを可愛がるものだ。

今年1月に発刊された『婦人公論』は、表紙写真が2号続けて、女装の男性だった。玉三郎丈と美輪さん。和風代表と洋風代表だ。

女性雑誌の表紙が男性。ミラクルが起こる国だなァと思った。

自分のほうから相手に似せていくか。相手を自分の土俵に呼び込むか。

たぶん、男性文化の正当な後継者たらんとして隙のない教養を積んだ女性と、まったく男性文化のリアリティに興味のない女性を両極端として、さまざまな要素を兼ね備えるBL派が、グラデーション的に散在している。




2014/08/02

【弘法大師から始まったというのは一種の宣伝だと思う】

先史時代から、LGBTはいたと思う。

現代消費文化の過剰によって「変な子になってしまった」のではなく、どんな時代・場所にも一定の割合で生まれてくるものだと思うべきだ。

原始的な生活を考えてみると、すべての労働を人力でこなさなければならない。一人でも欠けたら集団が困るということがあり得る。だから排除したとは限らないんじゃないか。「第三の性」を認める文化もある。

とりあえず六人一組の「ブラボー小隊」で狩猟には困らないから、七人目が気の優しい奴だったら、羊の番をさせておけ、とか。

そして羊番の想像力の中から、すてきな太陽神が降臨して、王家の若君と仲良くなる……という物語が生まれてきたとしても、不思議はないような気がする。

僧院には、もともと女性に触れたくないので(見合い結婚させられたくないから)出家したという人が、古くからいたかもしれない。

仔細あって剃髪したが、彼女と泣く泣く別れてきたなどというストレート男性の一部が、代償行為を必要としたということも、古くからあっただろう。

大師さまと一緒に海外から渡ってきた習慣ということにしておけば、「舶来のおしゃれな文化」ってことで、通りがいい。



2014/08/01

【ハーレムアニメを減らす必要はなくて。】

萌えないアニメを制作するプロダクションが増えればいいんである。

保護者を安心させ、家族そろってチャンネルを合わさせ、DVDを子供に買ってやるように仕向けりゃいいんである。

たぶん、ポケモンの人間キャラクターは、萌えない顔を意図して描かれている。

流行に従って、美少年軍団的なものも登場するけれども、「萌え」を意図した作品として、その分野のファンに訴えかける「記号」になっていない。

……だから、ポケモンに任せておけばいいのであって、他が今さら新規参入しても無理無理ということであれば、つまりそういうことだ。

アニメは、萌えたがらない一般人の、とくに中高年以上に訴えることが、結局できなかった。(もはや過去形)

大正~昭和初期に生まれた方々は、おそらくアニメを自分たちのものだと思うことがないままに、いずれ鬼籍にお移りになる。

そのあとをおそう現在の70代、60代も、あと10年経っても「ジブリどまり」のままだろう。手塚原作だからといって、DVDボックスを購入してくれるのは、ごく一部のままだろう。

戦後生まれは、大正~昭和初期生まれほど、根が丈夫ではない。

子供が減るから社会全体としては高齢化社会だが、その成員の個々人は、おそらく今までと同じようには超高齢にはならない。世代交代は、今後10年の間に急激に進む。

アニメに理解のない世代が減って、アニメの世の春がくるか。

現在の50代は、ちょうど出征していた人々の子供世代にあたり、元々の人数が少ない。ヤマトファンなど、さらにその内の一握りに過ぎない。

40代は70代の子供たちで、60代に次いで人数が多いが、非婚率は、じつはそんなに高くない。多くは家庭持ちで、10年もすると子供が大学生になるから、金がかかる。

しかも今まで支援してくれていた親がいなくなる。70代が80代になるからだ。時だけは、止めることができない。実家の資産は、相続税として、かなり持っていかれるだろう。継げば継いだで、固定資産税を自分で支払う番だ。

古い家屋を解体する費用は、自分持ちだ。更地にしても、売れるとは限らない。自分たちより若い世代が戸建の家屋を所有したいと思うかどうか、分からないからだ……

(もともと地方人・家庭人には、アニメファンとしての行動をあんまり期待できないが)

その子供たちは、一部を除いてアニメ盤を欲しがらず、就職・進学の祝いに買ってほしがるとしたら、テレビでもビデオデッキでもラップトップでもなく、タブレット(スマホ)の上位機種だろう。

間の30代・20代が、40代・30代となるが、一部はそれでも育児生活へシフトし、可処分所得を自分のための娯楽品購入には充当しなくなる。

そして彼らは、もともと人数が少ない。今年39歳の人は、1975年生まれだ。この年に年間出生数が前年に比べて激減し、以後回復しなくなる。年間出生数が120万人程度だった人々だから、全部で約2400万人(以下)。

LGBTは人口の1パーセントとも5パーセントとも言うが、自ら「ともだち少ない」と公言するアニメファン、同人系は、何パーセントだろうか。240万人は、かたいのだろうか。

コミケ参加者50万人というが、その何パーセントかは海外からのお客様だ。日本国内で動いているのが、仮に40万人として、実はその2倍、3倍、4倍、5倍以上の30代・20代アニメファンが、全国に潜在しているのか。

それとも、全部で120万人なのか。

もしかしたら、今現在でさえ100万人くらいしか存在しない市場の「パイ」を、一斉にハーレムアニメを作ることで、かろうじてシェアできてるんじゃないだろか。

たぶん、もう……「盤」は、LPレコードなどと同じことになる。

現在の20代の多くが、ニコ動利用者だというから、その傾向は続くだろう。

スマホ視聴に向いた短編・コスプレアイドルの自主投稿などは、にぎわい続けるかもしれない。家計を圧迫しない程度のダウンロード購入なら、乗ってくれるかもしれない。

これから10年の間に生まれて、「小さいおともだち」になってくれる子供は、何人だろうか。

玩具が売れなくなって、連続テレビ放映用のアニメ作品が制作できなくなるのは、何年後だろうか。

テレビ時代劇の終焉は、ひとつの象徴だと思う。

戦後に生まれたものは、100年もたない。

それとも、アニメが存在すること自体は当たり前な、現在の50代以下のために、ジブリは、いつか中高年恋愛アニメを制作するだろうか。

それとも、80年代オタクの成れの果ての姿をアニメ化し、「衝撃の社会派アニメ、現代をえぐる!」と宣伝するほうが先だろうか……