2014/11/30

【手塚『MW』の結城は女性のほうが論理的。】


手塚治虫『MW』は、竹宮恵子『風と木の詩』の連載開始後、数ヶ月のうちに連載を開始しています。

ディズニーを茶化した手塚先生は、女性による新しい表現分野の隆盛にも対抗意識を燃やしたのです。たぶん。

真のテーマは「近ごろ流行りの女性的な男性と、それをもてはやす女性への忌避感」と考えると、分かりやすいです。

物語は、異性愛であろうが同性愛であろうが、もともと恋人関係にあった二人が国家犯罪に巻き込まれたのですから、協力して復讐する理屈は立ちます。しかも片方が良心の呵責に悩み、でありながら肉欲に負けて相方を説得しきれないという境地も、冷静な読者には「性を超えて」共感されます。

ただし「愛する彼が俺の説得を聞いてくれない」という苦悩、または「愛する彼が俺の説得に応じてくれた」という喜びは、いずれもゲイの心理描写です。「だめだ」と言いながら情交をくりかえすのは、要するに恋人同士がいちゃいちゃしてるだけです。

やっぱり多くのストレート読者がポカーーンとさせられるでしょう。「手塚はゲイだったのか? こういう話は『薔薇族』で連載すればいいだろ?」となるでしょう。

ここで作者が「俺自身はストレートだが、平等が望ましいと思う。これは性を超えた人間愛の物語である」と言いきることができれば、創作者としての理屈が立ちます。

ただし、この場合は、望ましい結末が「平等な愛は勝つ」というものです。でも実際はそうじゃありませんでした。

もともと、あの手の話は「秘密兵器が発動されて人類全滅、めでたしめでたし」というわけにいかないので、「いかに防ぐか」が眼目になります。

同性愛を禁忌の侵犯ととらえるなら、すでに禁断の肉欲を味わった神父は、じつは防ぎ方に関して、悩む必要ありません。どっちみち地獄行きですから、さっさと秘密兵器をかついで真っ逆さまに落ちても同じことです。

人類は救われたが、愛は成就されない。これは「同性愛と自殺はキリスト教では禁じられています」というプロパガンダなのか?

それにしちゃ女性記者キャラクターを通じて「同性愛には問題ありません」って言わせてるよな? 

じゃあ、賀来は死ぬことが普通に怖かっただけで、本当は結城を連れて逃げ、末永くラブラブな生活ができれば良かったのか? それにしちゃ交際そのものに悩んでるよな? 

……変な話です。

ここで、物語終盤に男性の去勢が描かれたことを思うと「女も強くなったもんだ」という感慨が見えてくるようです。確か、あのドーベルマンは雌犬です。

ここで設定を見直し、結城を生来の女性だとすると「愛する夫の言うことを聞かず、変装の技術をいかして血縁者の復讐に走る意志の強い人物」だが、「才能があり過ぎて、愛する夫を失った哀れな女性」という結末になります。

女権拡張時代への皮肉というテーマが見えたことになります。逆に、男性は論理的かつ情愛に溢れた気高い存在です。

「神も許した結婚の相手を救うため、神に逆らうことは神の御心にかなうのか」

彼女に罪を犯させないため、自分は自決すべきか。愛する人を天国へ送るために、自分は地獄へ落ちるべきか。論理的であるからこそ逆説に悩むのです。本当は、結城が女性だったほうが、テーマの通りは良かったのです。

同性愛男子として描けば、「愛する彼を天国へ送るため」となりますから、同性愛支援キャンペーンとなります。それを言えないなら、このテーマは取り扱うべきでないのが本当です。


『風と木の詩』のジルベールは、性の玩具として育てられた彼なりに楽しく暮らしています。ほかの子のように真面目に勉強しなくても良いことになっています。

女性が性的な存在として期待され、そのように育てられながらも、期待に応えて奔放に振舞うと、淫婦として差別される。そのような社会風潮への、女性からの皮肉であり、ジルベールの中身は女性であるという解釈を取れば、「結城を本来は哀れな女性だけれども男性に設定する」という思いつきにも無理はありません。

が、テーマが違うのです。『風と木』は、セルジュが芸術家として成長する物語です。根本のところで前向きであり、同性愛支援キャンペーンの意味も含まれているのです。

セルジュは在学中に、ジルベールが口ずさむ即興メロディーをピアノ曲に仕立てました。彼は一生かけて、その主題を展開させ続けるでしょう。大人に汚された堕天使は、彼の手で詩神として昇華します。ジルベールの犠牲は、セルジュ自身の飛翔のために必要でした。

作者自身が「いやなこともあったが、描くことで昇華してきた」と言った通り、社会は必ずしも美しくなく、犠牲も出るが、芸術家はその経験を糧に成長する。

これは作者の心の声であり、そのように作品中に作者自身が表現されているとき、人は「文学だ」と申します。


が、手塚のほうは「同性愛は復讐心に勝つ」と描くこともできず、「ゲイも強くなったもんだ」と皮肉を言うわけにもいかない。賀来の犠牲を見ながら誰も反省せぬまま、無駄に壮大なメロドラマが終わりました。

うかつに女性への対抗意識に駆られて、流行の要素を取り入れたのが運の尽きだったのですが、そういう弱さがあったというところが、また手塚らしいところかもしれません。



2014/11/30

【攻めと受けは、叙述者と対象者だったのです。】


80年代やおいという現象に注目した人は、当事者も分析者も「アニメ、アニメ」と思っているものですから、「なぜ基本的に平等な立場である運動部員たちを、攻め役と受け役に振り分けなければならないのか。なぜ現実のゲイの行動を参考にしないのか」と考え込んでしまうのです。

たびたび申しますが、女性は銀座や新宿に実在した男性同士の世界を観察した上でボーイズラブを書いたわけではありません。

女性が男性同士の可能性に気づいたのは、男性が残した文学によってです。

女性の発想の背景にあるのは、「男性における少年趣味」という現実であり、それを美化して伝えた男性文学です。

それは、少なくとも当初は、女性が男性によって書かれた歴史や文学をよく勉強した証拠のひとつに過ぎなかったのです。


【衆道の美化は男性の自尊心。】

ある男性が、念者候補として若者に近づき、念弟にする。これ以外の形で衆道物語が女性に与えられたことはないのです。

念弟にふさわしいとされる若者が女性的なのは、井原西鶴あたりを読めば一目瞭然で、もともと男性の持っていた美意識です。

むしろ現代のゲイポルノを読んだら、井原西鶴や上田秋成が引っくり返るでしょう。彼らが「リバーシブル」とかを書いたことはないのです。

「少年趣味とは美しく切ないものであり、見果てぬロマンである」という価値付けも、もともと男性のものです。切ないのは、よそ様のお子さんである少年というものが手に入りにくいからであり、少年美が本人の成長によって失われてしまうからです。

現実には差別があるもので、文学を下敷きに美青年・美少年を起用して映画を撮影した監督たちは、企画・発表に際して困難を感じたり、失礼なことを言われたりしたこともあったかもしれません。

でも作品中に、それは表れません。理想の美童に出会ったという主人公の感慨だけが語られます。「男子同性愛の美化」は、もともと男性自身の自尊心によるものだったのです。


【成人男性が主人公。】

多くの場合、物語作者が成人男性なら、物語の主人公も成人男性です。彼の立場から「自分が何歳の頃に、ある場所へ行って、ある人物に出会って、そのとき自分はどのように思って……」と語られます。

トンネルを抜けると雪国で、そこで美女に出会うのが、ストレート男性のロマンです。

ホメーロスなら「ある日、アポローン神が人間界を見そなわしていると」と始まります。

逆に、トーマス・マンにおいて「北欧出身の美少年が、おっさんに出会ったので、からかってやろうと思った」などと少年側の立場から書かれることはなかったわけです。

成人男性が、日常の打ち続く人生のある時点で、麗質を備えた人物を見出して電撃に打たれ、それ以来、人生が彼(女)を中心に廻りだす。物語は、彼(女)か自分のどちらかが亡くなるか、交際が途切れた時点で終わりです。

近年の衆道文学としては福島次郎『バスタオル』がこのパターンです。男性が純文学・私小説として書けば、この構造になるのが当然なのです。

たとえ出会ったのが男女でも、めでたい結婚で終わるわけではないのが純文学です。人生とは、もう少し苦いものです。


【女性による踏襲。】

1960年代初頭の森茉莉から、まつざきあけみ、岸裕子、二十四年組、ポスト二十四年組まで、女性が書いた衆道物語も、このパターンです。

女性が男性の純文学者に憧れて、その「額縁」を使って、自分好みの美少年・美青年の麗質を叙述したのです。

主人公男性の眼は、すなわち撮影カメラであって、それを通じて、若いほうの彼の睫毛がどうとか、唇の形がどうとかと、目に見えるように描出するわけです。漫画家なら実際に描きます。

男性同士の肉体交渉がどのようなものか、女性には実体験がありませんから、たとえ禁忌意識がなくても書くことはできません。ただ「裸になるのだろう」と思うだけで、エロティックな情趣を味わい、それを「ロマン」と称した時代が確かにあったのです。

これは、例えば王朝文学を読んで「黒髪の美女に一目惚れして会いに行ったというだけで、実際に寝室でどこをどう触ったか描写されていないので面白くない」ということはないのと同じです。

むしろ、そこを描かないからこそ「後朝」の余情が発生するのです。

これが分からない人は、おそらく80年代以降ゲイポルノばかり読んでしまった人で、古典文学を読んだことがなく、情念などという言葉も知らないのでしょう。

ゲイの世界には、ゲイポルノしか存在しないのでしょうか? いいえ。彼らには、つまり、ワイルドやコクトーなどを代表とする豊潤な文学・美術の世界があります。だからこそ、女性がそれらを参考にすることもできたのです。

「ゲイってポルノのことしか考えてないんですか~~?」と質問する女性は、その人自身がポルノのことしか考えてない人です。


【衆道物語と少年漫画の女性における混淆。】

話を戻すと、1970年代の女流美少年漫画も、ある少年が、もう一人の少年に出会う・見出すという形で始まります。

成人男性が成人男性を主人公に書いたものが、若い女性漫画家の手に移って、彼女たち自身が(手塚などの描いた)少年漫画に憧れた人々だったものですから、少年を主人公にすることを思いついたものです。

成人男性が少年を主人公に書いたものが少年漫画です。成人男性が書いた衆道物語と、成人男性が書いた少年漫画が、あろうことか成人女性の中でミックスされてしまったというのが、二十四年組漫画(の一部)だったことになります。

ひらたく言うと、ある知的・社会的レベルに達した成人女性が、創作上のあらゆる技法において、成人男性の真似をしたのです。

これがステレオタイプ化したもんですから、もともと平等な運動部員を振り分けるかのように見えるのです。

ホモソーシャルをどうとか言っても、すべての運動部員に関する物語が平等に書かれるわけではありません。見向きもされないキャラクターもいるものです。

新作を構想する女性自身の美意識によって、念者にふさわしい若者と、念弟にふさわしい若者が選ばれるだけです。

後から参加した人は「組み合わせるものよ」と教わるので、最初の形がなんだったか、自分でも分からなくなっているのです。


【女性による逆転。】

二次創作そのものは、どこからでも発生します。

国語の教科書をもとに「戦争へ行くことになった主人公の気持ちになって、初恋の女性へ手紙を書いてみましょう」などという授業もあり得るでしょう。

この場合「まず最初に設定を見直して、主人公を女性にする」という生徒のほうが少ないと思われます。与えられた通りに、少年主人公の気持ちになって考えてみるものでしょう。

とすると、アニパロBLを書いた人が、それを書いた理由は「そこにそれがあったから」です。同人誌即売会というお祭りに参加する条件として、先輩たちと同じようにアニパロBLを書くものだ、と信じたからです。

二十四年組なら「青池先生が描いたなら私も」という追従意識と対抗意識の両方があったでしょう。

逆に言えば、それ以上ではありません。本人がゲイだったからではありません。ゲイの人権を訴えるために、まず彼らの心情を理解しようとしたのではありません。誰かが思いついた「男性作品の模倣」を、さらに模倣しただけです。

これを創作の自由と呼ぶなら、確かに自由です。

その中から、従来の男性文学にはなかった要素・従来の成人男性には想像することもできなかった要素、すなわち「受身にされた少年の立場から叙述してみる」という試みが発生します。

このとき、女性による新しい創作分野が誕生したと言って良いでしょう。

ここに女性としての経験・観察眼が反映されるのは当然で、ボーイズラブ描写を通じて、かえって女性らしさとは何かが観察されることになったという、逆説というか、副反応というか、そのようなものがあって、世間(社会学者)を驚かせたのでしょう。

これに先んじて、衆道当事者の少年・青年による受身の経験が純文学として盛んに発表されていれば、経過が違ったのかもしれませんが、今となっては致し方ありません。

してみると、アニー・プルーによる『ブロークバック・マウンテン』は、伝統的な男性文学を踏襲しています。

ということは、逆にお相手の青年の立場から「イニスのことを思い出すと夜も眠れない」など、センチメンタリズムを強調した二次的作品が、きっとアマチュアによって上げられていると思います。

そして、アメリカ創作界としても、個人的に反感を持つ人はともかく、全体的・公式な立場としては「新人育成意義を認める」という態度だろうと思います。

逆に言えば、新人育成意義以外には申し訳が立たないのが二次創作で、やはりそれを越えて発言しないほうが良いだろうという話でもあります。

2014/11/29

【少年趣味を嗜む男性を嗜む女性の子供化。】


日本のボーイズラブは、銀座や新宿に実在する男の世界の観察記録として始まってはいません。

女性が参考にした文献として、名前が挙がっているのは、シェイクスピア、ワイルド、ジュネ、コクトー、ランボー、ヴェルレーヌ、マン、ヘッセ、井原西鶴、森鴎外、三島由紀夫、稲垣足穂。

澁澤を挙げる人はあまりいませんが、『異端の肖像』で紹介された何人かの古代皇帝や中世貴族のイメージも、重要な発想元だったろうと思います。

前にも申しましたが「漫画を読んで、漫画家になろうと思わずに小説に目覚めた」というのは、おかしな話です。

すでに戦前から、ごく一部の優秀な(海外文学などを読みこなす)女学生の間に、小説の形で連綿と受け継がれてきた、男性による稚児さん趣味に関する知識・偏愛があったと思って良いだろうと思います。

西欧でも、実際には厳しい差別があります。アムステルダムには、ナチスに迫害されたゲイの慰霊碑があります。また、未成年者を相手にしたがる男性がいると言えば、世界中のPTAに緊張が走って当然です。

だからこそ、絵画・文芸などの芸術分野では自由であろうというわけで、男性がひそかに嗜んできた少年趣味を、時おり公開したのでした。

すると今度は「そのような男性の姿」を女性がひそかに嗜むということが起きたのです。


【少年を愛好する男性を愛好する女性】

1960~70年代の女流少年趣味作品には「少年美を愛好する男性が主人公」というものがいくつかあります。

スポットライトが当たっているのは美少年のほうですが、彼の魅力を語る「視点」が年長者に取られています。少年同士であれば、より世話焼きで、比較的常識的な観察眼をもったほうが、語り手です。

ストレート男性の多くが「映画の中で悪者をやっつけて、自分を満足させてくれる人物」を、ヒーローとして応援します。

ストレート女性の何人かが「小説の中で美少年に近づいて、彼の澄んだ眼をのぞき込む経験を自分に与えてくれる人物」を、ヒーローとして応援したと考えると、無理がありません。

女性は「プロ野球の投手を好きになったから、自分自身を女流プロ捕手第一号として球団に認めさせる」ということを、あんまり致しません。与えられた文脈を、わりと素直に鑑賞・応援するほうへ回るものです。

女性が可愛い顔した異性を好む現象自体は、ずいぶん昔から知られています。三島由紀夫は「彼女たちのナルシシズムによる」と看破しました。

ボーイズラブ表現の眼目は、「女性読者の前に美少年が現れること」ではありません。それなら普通にアイドル歌手でも応援しに行けば良いです。

ボーイズラブ表現の主眼は、「美少年を愛好する男性」を鑑賞することです。

彼に嫉妬し、「不潔」と罵倒し、彼女が正常と信じる社会から排除しようとするのではなく、彼に思い入れ、幸せを願い、応援する趣味です。

「彼の」幸せですから、その相手にとっても幸せではない場合には、やや酸鼻な物語となりますが、男性を手にかけようと思う男性を女性が応援するという根本のところでは変わりありません。

世の中には稚児さん趣味の男性が存在するということを、女性が知った契機が「読書」だったとは、上で申し上げた通りです。

これを忘れてしまうと、「なぜアニメのスポーツマン同士をわざわざ組み合わせる必要があるのか!」と驚愕することになります。

また、この「美男を愛好する美男」に女性が親しみを感じる現象を、現実へ適用してしまうと、新宿のゲイ男性へなれなれしく話しかける現象となります。

紹介も受けていないのに、彼女自身の中でだけ、彼の心がよく分かるような気分になっているものです。また「(自分が見つめる価値があるだけの)美男でなければ許せない」などと勝手なことを言い出します。


【夜遊びにおける大人のマナー。】

ここで、単純に「大人として言って良いこと・悪いこと」の区別ができていれば良いのです。大人が夜の街へ遊びに行った時の、酔客としてのマナーを、ごく当たり前に、わきまえていれば良いのです。

酔っていようが楽しかろうが、通りすがりに他人の顔を見て笑ったり、遠くから声をかけておいて逃げたり、勝手に写真を取ったり、セクシャルハラスメント的な質問をしたり、議論を吹っかけたりしなければよろしいのです。

それをやってしまうのは、粋な大人の遊びではありません。通でもなければ、都会人でもありません。

それをわきまえた人であれば、その人自身の心の中で、少年趣味だろうが、少女趣味だろうが、少年趣味の男性趣味だろうが、好きに抱えていればよろしいです。


【子供向けという再定義。】

ここで振り返ってみると、1960年代に美青年が美青年を愛する小説を発表した森茉莉は、いい中年でした。

1970年代に同趣向の漫画を発表した女性たちは、未婚ではありましたが、20代後半の成人でした。漫画家としてのキャリアも、新米というレベルではありませんでした。

にもかかわらず、何かの拍子に「少年趣味の男性に憧れるのは、子供の女性だ」と見なされてしまいました。

「少年趣味の男性趣味」は、乙女と称するモラトリアム女性に限られた趣味だと見なされてしまいました。

原因のひとつは、「結婚していない女は一人前とはいえない」という差別的発想で、これを女性自身が内面化していたことによります。

そして、同人誌即売会(の一部)と同じ論理ループを発生させます。

「二次創作は公開しにくいから→公開しにくい主題を描くために二次創作という手段を取る」

自分は子供だから少年趣味の男性に憧れたので、以後も「少年趣味の男性趣味」を保ち続けるために、子供を称し続け、マナー違反をし続ける。

……とすると、問題は「少年趣味の男性趣味を抱くのは、子供だけである」と定義したことになります。

何度も申しますが、1970年代に『風と木の詩』を高校生で読んだ人は、1980年代には成人しています。

にもかかわらず、迂闊に「今の子供はこういうのが好きなのか」というようなことを言った人が、少年趣味の男性趣味者へ、子供らしい振舞いをさせる理論的背骨を与えたことになります。




2014/11/29

【美少年をテーマにした漫画を発表した時、二十四年組は成人していました。】


男女を問わず少年美を愛好する人にとっては、それが限界のあるものであることが、比喩でも何でもなく現実として了解されます。

鬚のない頬の美しさや、ボーイソプラノの美しさは、稲垣足穂も書いた通り、当人の成長によって必ず失われるものだからです。

愛好者は、当人の成長を祝福するからこそ、その「時分の花」に断腸の思いで別れを告げねばなりません。

これを象徴表現すれば「少年キャラクターが肉体的に死を迎える物語」となります。

この死は、あえて例えれば自然界による暴力です。運命の残酷です。だから少年は「人間の誰かの手にかかる」のではなく、西風を象徴する神や、泉を象徴する妖精や、原因不明の病気によって、抵抗の声を挙げる間もなく、この世から消滅します。

ヒュアキントスは、もともと春の芽吹きを象徴する植物神であり、人間に豊作を約束する生命の神でした。呉茂一によります。

それを大地の女神の娘ではなく息子として象徴表現し、美しいまま亡くなっては蘇るとしたのは、当時の詩人の少年趣味であり、自己愛でもあったでしょう。

言葉はロゴスであり、それを操るのは基本的に男性の仕事でした。白洲正子は同性愛と書いて、ナルシズムとルビを振っています。

急逝した美少年が、香り高く季節を告げる藤や菊の花となって永遠の命を得る物語を描いた花郁悠紀子は、おどろくべき若さで本質を捉えていました。

ただし、成人しています。少女のようで、少女ではないです。

すでに少女として少年と親しむ権利を失い、彼の成長につき合って、いずれは結婚するという道を封印し、漫画家として自立する(=独身を貫く)覚悟をした女性たちによって描かれたのが、1980年代初頭までの少年趣味でした。

寺山修司が竹宮作品を読んで「少女の内面」と言ったのが話をややこしくしてくれたわけで、当時の男性には「嫁に行った女は大人で、もう漫画なんか読まない。嫁に行かない女は実年齢にかかわらず子供で、いつまでも漫画なんか読んだり描いたりしている」という意識が残っていたのでしょう。

女性のほうも「結婚しない女は一人前ではない」という差別意識を受け入れており、フェミニズム学者でさえ自分自身を少女と混同しました。

夜の繁華街へ飲みに出かけて、他の素人客へ馴れなれしくプライベートな話題で話しかけたり、議論を吹っかけたりすることは、大人の粋な遊びとは申せません。

寺山発言の時点で、「これは結婚せずに大人となる道を探る新時代の女性による、同世代の女性に読ませるための自己表現であり、新しい大人のための雑誌を創刊すべきだ」とでも言っていれば、その後の展開が違ったかもしれません。



2014/11/28

【結婚しない大人の女性という価値観の確立が遅れたのです。】


少女漫画の方向性を変えたと言われる竹宮恵子『風と木の詩』が連載を開始したのは、1976年の春です。

これを高校生になったばかりの「少女」が読み始めたとして、3年ほど後に漫画同人界へ「やおい」という言葉が紹介された時、彼女は18歳以上の「成人」になっていました。

高校を卒業後、上京・進学して、大学の文芸サークルに属し、純文学を研究するかたわら、余技として自分および同世代の仲間のために好色文学を書いても差し支えありません。

性的刺激をテーマにした小説だけをまとめて自費出版し、それを「コミック・マーケット」で売ってもかまいません。成人だもの。

 (※ 著作権は別の話題です。)


【漫画と小説の抱き合わせ。】

厳密にいうと、コミック・マーケットは「漫画市場」ですが、漫画と小説を抱き合わせにしたボーイズラブ専門誌『JUNE』が存在したので、小説同人が漫画同人に便乗しても、その逆があっても、不思議はありません。

『少女クラブ』『小学○年生』などの雑誌も、絵と文章が混在していたものでした。漫画という表現方法そのものが認知され始めたばかりだった時期には、むしろ混在が普通だったのでしょう。

実際、初期のパロディ同人誌には「文章がメインで、漫画・イラストが従」という形態が見受けられました。

現代において、一般に「BL雑誌」というと漫画雑誌のことなのに、「やおい・腐女子」の解説を致しますというと、その文章力に注目することがあるものです。

アニメに基づく二次的作品というものが、文芸サークルによって発想され、そこへ漫画サークルが挿絵・表紙絵を提供したという形で、パロディ同人誌が始まったとしても、無理はないように思われます。

「漫画の個人誌」という形態は、同人誌市場が成熟してから出現したものです。個人誌という言い方が、本来は複数メンバーによる活動だったことを示しています。

で……。


【嫁入りが基準。】

問題は、1980年代に至って、これを中高生が買いに来たことですが、それが「ブーム」として世間(の一部)に認知された時、当時のフェミニズムは弁護しました。

なぜでしょう。

成人女性が、自分自身を少女と混同したからです。

当時の女性には「嫁に行った大人」と「嫁に行かない子供」しかいませんでした。

「独身の成人女性が、ときにはポルノも楽しみつつ、静かに酒をたしなみ、他人には迷惑をかけず、青少年健全育成にも配慮する」という姿勢が、想定されなかったのです。

これは「男性に認められる」という価値基準に女性のほうが寄りかかっていたことを示すだろうと思います。

ブームの元になったとされる二十四年組は、1980年代の時点で、独身のまま、30歳代に達していました。

彼女たち自身は、新宿二丁目へ乗り込み、「わたくしが描いた美少年をごらんなさい。あなた達よりも可愛いじゃないの」とは言わなかったでしょう。


【表現の自由。】

女性の表現の自由とは、ゲイを笑いものにすることではありません。彼らの自由な時間を奪って、自分のおしゃべりに付き合わせることでもありません。

女性が同性愛者のために尽力するとは、ゲイにカミングアウトを強制することではありません。

自分自身を含めた、ストレート(異性愛者)を説得することです。


2014/11/28

コミケを自分本位に利用する人は、新宿二丁目も自分本位に利用するのです。


わざわざ「二次創作は金目」という人は、アマチュアにおける創作意欲と新人育成意義、テレビ番組への愛好心、ファン同士の交流の楽しさを否定しています。その真意はなんでしょうか?

「私は小遣い稼ぎのためにアニオタの心を利用してやっただけで、私自身はアニオタではない。一緒にしないでほしい」

そのような人の一部は、つぎに新宿二丁目へ押しかけ、ゲイを利用して自己実現を図ります。

「私はアニパロをいっぱい読んだから、男同士には詳しいんだ~~」とか、
「男同士は悲劇的だから、人生相談に乗ってあげようか~~?」とか、
「私が応援してあげるから、早くカミングアウトしなさいよ」とか、
「もっとたくさん女性客を呼んできてあげようか~~?」とか。

どうも、そのような女性は1980年代から連綿として存在し続けているようです。まことに残念なことです。

本人としては、お役に立ちたいつもりです。でも、自分の仲間であるストレート社会へ向かって平等を訴えることと、理解しているふりをしてゲイに依存することは違います。

言われたほうは、僕らの「時間」を奪わないでほしいと切実に思っているでしょう。福島次郎『蝶のかたみ』に描かれたように、数ヶ月・数年に一度の上京を楽しみにしている男性もいます。

彼らは、女性の自己顕示欲に付き合わされるよりも、お目当ての男性との親密な時間を大切にしたいでしょう。


【二次創作者にもいろいろいます。】

そもそも「コミックマーケット」というところは、コミック(漫画)を募集したところだったはずです。

そこへ小説が出展されたのが、すでにおかしいのです。何らかのルール違反が行われ、居座りが行われました。

とはいえ、二次創作そのものは、最初は大学ノートに手書きでした。次はガリ版刷りです。「金になる」と言えるほどのものではありません。

1980年代初頭には「絶対にホモという言葉を使うな」と言われたものです。LGBT諸兄諸姉は、ストレート女性の中にも対立を回避し、配慮を示そうとした人もあったことを、どうか覚えていてください。

「カップリング論争」「いばら」などというのも、それぞれに物語の登場人物へ強い愛着を持っていたからこそ生まれた言葉です。

そのような時代があったことを知らず、営利のみを目的に参加したことを自慢してしまう人があるのは悲しいことです。


【LGBTの暴露と二次創作の暴露は違うのです。】

ゲイが、彼ら専用のSNSが(利用者が殺到して)落ちたなどと面白おかしく報告するのは、人権活動の意味があります。

「ストレートの皆さんが知らないだけで、世の中にはそれだけ多くのLGBTがいるのですから、公共の場での発言に配慮してください。扶養に関する法律の改訂を検討してください」といった意味になります。

これに対して、二次創作に関する裏事情の暴露というのは、かつての仲間を告発し、世間様へ向かって「注意したほうがいいですよ」という意味になります。

LGBTは、彼らの権利が侵害されているので平等を訴えるのですが、二次創作は他人の権利を無視している側です。

女性が男色を創作の主題にするのは表現の自由です。ポルノが人に明日を生きる勇気を与えることもあります。でも、オリジナルと二次的創作物には決定的な違いがあります。現行の著作権法がある以上、二次的創作は「自由」ではないのです。

BLや、ゲイポルノに親しみ、自分は男同士に詳しいからゲイの仲間であるという気持ちを持ってしまう人もいるのですが、二次創作がLGBTと同等のマイノリティであると思ってしまうことは危険な勘違いです。

打ち明けて言えば言うほど理解してもらえるというわけにはいかないのが、二次創作です。

もし言えることがあるとしたら、「二次創作者に平等が保障されていない、現行の著作権法がおかしいです」という主張だけです。



2014/11/27

【みんなは同人活動の言い訳になりません。】


全校生徒一千人が「みんなやおい」ということは少ないものです。

学校に認められた部活動である漫画部が100人の大所帯で、その全員が学校に内緒でエロスを主題とした二次的作品を上梓していることも少ないものです。

あなたが、わずか数人の生徒によって同人誌即売会というところへ誘われ、そこで行われている様々な活動・売られている商品の中から、特に「一般に児童向けと思われているアニメ番組をもとに、エロスを主題に描いた二次的作品」を好もしく思い、自分も模倣する気持ちを起こしたのは、あなた自身の判断です。

全校生徒一千人は、あなたへ「同人」になることを強制していません。いわゆる同人のほうも、新人の勧誘にひじょうに熱心とは限りません。

ありていに言って、あまりライバルが増えても困るからです。

あなたは、広い同人創作活動の中でも特殊な部分を見聞したに過ぎないのですが、自分が炯眼をもって同人創作の本質を見抜いたと信じ、「これなら自分にも出来そうだ」という予想を立て、自分の腕試しがしたいと感じ、先輩にとってのライバルたり得る自信をもって、試合場に臨んだのです。

参加者のお小遣いには限りがありますから、あなたの作品を買うために、ほかの人の作品を諦めた人もいたでしょう。あなたの作品が売れたということは、ほかの人が蹴落とされたということです。

同人創作は、あなたの自信回復に一役買ったのです。

起きたことは、あなたと同人創作物の対話であって、みんなのせいではありません。

もし、権利上の問題があることを知っていて、編集部を頼らざるを得ないことをも知っていたのなら、その上で続けることを選択したのも、あなたです。

大学生であれば、在学中に成人しますから、保護者のせいにもできません。

問われるのは「あなた自身が、二次的作品の制作および鑑賞について、どのような意見を持っているか」です。

それに応えて、あなたには「私自身は、二次的作品の制作・鑑賞には意義があり、問題ないと信じます」という自由があります。

また、「みんなやっていたことなので、悪いのは私だけじゃないもーーん」という自由もあります。

2014/11/26

【ゲイは、安上がりなホストではありません。】


「世の中には自分の仲間しかいない」と思い込むことを、マジョリティの傲慢といいます。

「BLはみんなエロ」という人は、「ホモはみんなエロ」だと思い込みます。

新宿二丁目へ突入すると、まず最初に「性感マッサージって何ですかーー!? 男同士でどこを触るんですかーー!?」と質問します。「ホモはみんなエロだから、当然知ってますよねーー!」というわけです。

まことに残念ながら、どうもそういう人は1人や2人ではないようです。

新宿二丁目を始めとするゲイコミュニティは「私は結婚できないタイプだから、ストレート女性の中のマイノリティ」と称して、ゲイを利用する女性を見抜いてください。

女性が「異性愛者も同性愛者も平等な世の中を実現させましょう」と思うなら、レズビアンに協力するのが本当です。

ゲイは、安上がりなホストではありません。

無料恋愛相談員でもありません。結婚したくない女性の気持ちを分かってくれるお姉さんでもありません。彼らは何十年も前から結婚したがっています。

彼らは、まだまだ他では得がたい「水いらず」の交流の時間を、ストレートに邪魔されない権利があります。

とはいえ、少子化&不景気なので、お客さんは欲しいでしょう。

もし、ストレートがゲイタウンへお出かけになった際には、ボトルを入れてあげて、静かにお酒をたしなみ、ショーを拝見したら募金か署名を置いて静かに帰ってくるのが、大人の作法と存じます。

2014/11/26

【創作者は即売会参加者だけではありません。】


自分とは価値観の違う人が1人でもいる可能性を意識して、発言に配慮するのが、マイノリティに優しい社会です。

世界には様々な絵を描くアマチュアがいます。様々な物語を書くアマチュアがいます。男色を表現する程度も、人それぞれです。物語の結末も様々です。

鑑賞者の目的も、感想も様々です。

1970年代の大学進学率は、100パーセントではありません。

高校生の時に二十四年組作品を読み、アニメもちょっとは見たが、それで青春時代を終わらせ、おつとめに出た・お嫁に行ったという人が、きっといます。

パロディ作品も、大学ノートに書いてみたが、原稿用紙へ清書はしなかった。投稿も、製本もしなかった。でも良い思い出だという人も、多分います。

最近になって、また書き始めたが、「80年代やおい」が始めた風潮にはついて行けない……と感じている人も、いるかもしれません。

「そんな奴いるわけねーじゃん。同人誌即売会へ来た奴は、みんなエロ目当てよ」

同人誌即売会参加者は、創作を趣味とする人の全員ではありません。代表でもありません。その「一部」に過ぎません。

即売会へ参加することは、「BLを書いても良い」という免許をもらうことではありません。そのような免許はありません。創作は個人の自由です。

ところで、雑誌の名前を取って、その投稿者を呼ぶことが普通です。白樺同人とか、青鞜派とか。

即売会へ参加して、アニパロとしてのBLを発表した人は、1970年代末に創刊された『やおい』という題名の雑誌への投稿者だったと考えると、イメージしやすいです。

雑誌ごとに独自カラーがあるわけで、『やおい』という雑誌には「特にエロス要素を強調したパロディ作品としてのBLのみを募集する」という性質があったと考えると良いです。

当然ながら、そのほかの作品を募集する“雑誌”も、あるわけです。

それが、同人誌即売会へは出品されなかったので「やおい同人」さんが知らないだけと考えると、認識のギャップが理解しやすくなります。

やおい同人さん(の一部)が、同人という言葉で「自分たち」を指示するのが間違いの元です。同人の話題と聞いて「あたしのこと!?」と自意識に駆られるのが間違いの元です。

1980年代以来、いかに「同人誌=アニパロ=エロ」と思い込んだ人が多かったかという一例です。

若い時に少しだけ成功したことを一生の自慢にする人は大勢います。2枚だけレコードを出した、1回だけ映画に出た、100冊だけ同人誌を売ったなど。業界通ぶって、一般人の前で隠語を使いたがる人もよくいます。

でも、自分の青春を誇ることと、他人の人生を否定することは違います。

先輩への尊敬をなくした人は、自分基準のものしか書けないので、天井が見えるのが早いです。

いまの時代に、BLが面白くなくなったと言われるとしたら、80年代・90年代やおい同人の成果のみを繰り返したので、飽きられたのです。

30歳代、20歳代の中にも性描写を苦手とする人は存在します。

『きのう何食べた?』(よしながふみ)を扱った編集部は、「性」を描かないBLも成功できることを痛感したでしょう。

2014/11/25

【同人誌即売会参加者の人口密度。】


50万人を47都道府県に配置してみましょう。

1県に1万人です。

1県に20市あるとしましょう。1市に500人です。1市に中学校はいくつあるでしょうか。

20校だとすれば、1校に25人。30校だとすれば、1校に約16人です。

1校は3学年あるでしょう。1学年に約5人~8人です。間をとって、6人にしましょう。

いま、1学年に何クラスあるでしょうか。3クラスだとして、1クラスに2人です。男女半々と考えれば、一例として「やおい1人・ロリ1人」です。

あなた自身がそのどちらかなら、あなたの同性の仲間は、あなたの出身中学の、あなたの属した学級にはいません。胸を張って「ともだち少ない」と言ってください。

残る3万人はどうでしょうか。東京は出生率が低く、子育てしていない街ですから、北関東~神奈川・静岡あたりへ配置すればよいと思います。

高校生になると、被服・デザイン・美術などの実技コースを履修する生徒が出ます。コスプレ活動に熱心な学校もあるものです。

そういう学校は、大勢の即売会参加者を輩出するかもしれません。逆に「わが校・わが県からは1人もいない」というところもあるだろうと思います。

しかも、即売会参加者の何割かは外国からのお客様なので、日本人の密度は、もっと下がります。

昔は50万人もいませんでした。すると、密度はもっと下がります。

世界最大のイベントといわれると「ほーー」と思いますが、案外そんなもんです。


【500人集まれば壮観。】

もっとも、ものは考えようで、ある市の中心地にある文化会館に総勢500人が集まったと考えれば、結構な人数です。クラシックの室内楽なら、その規模の中ホールを満席にするのも、なかなか大変です。

「行ってみたいが東京は遠すぎる」と思う人は、地方に潜在しているでしょう。非正規雇用率40パーセントの世の中ですから、交通費もままならない若者は大勢いるはずです。

たとえば「アニメ主題歌の生演奏を聴くために、コスプレして集まる(または集まった上で更衣室で着替える)」というイベントが、ある市の文化会館の大ホールを埋め尽くすことができれば、興行としては大成功かもしれません。

ただし、実際問題として、50万人の多くは既に首都圏に住んでいる大学生などでしょうから、地方で本当に仕掛けられるかどうかは……やってみないと分かりません。



2014/11/25

【ゲイリー・P・リュープ『男色の日本史』作品社】


ニッチな研究書を書評欄に取り上げる静岡新聞に拍手を。

11月23日掲載の書評そのものがすばらしかったので、「書評の書評」です。

社会学者(雑賀恵子)による発刊意義の分析が見事です。冷静な研究書であるにもかかわらず、この話題で出版すること自体に困難があること、そのような同性愛忌避は近代化の過程で設定されたものに過ぎないことを、的確に指摘しています。

やや刺激的な画像が表紙絵として掲げられていますが、扇情的な読みものではなく、歴史学の知見に基づいて、広範な文献から引用した研究書です。

原著者は(名前からいって)男性ですが、日本における翻訳者・今回の書評者とも女性であることは示唆的だと思われます。ゲイ当事者が隠匿したがり、ストレート男性が忌避したがる話題に女性が斬り込んでいくことが、やはり日本女性の学力向上と社会的進出の象徴ではあるのです。

この際に重要なことは、ゲイ当事者に不快感を与えないことで、女性が男色に言及する基盤にあるのが多様性と平等への志向であることは、強調していく必要があるだろうと思います。

書評中にある「同性愛を描いた漫画など」の中には、その作者自身が強い差別意識をはらみ、その内面化としての自虐をともなっている、残念な例もあります。

緻密な研究書の普及によって、性的規範の問い直しと、公平な価値観の確立(または復権)がなされることを望みます。

2014/11/24

【宗教の役割。】


セラピーの一種で「座り込んで悩んでいる自分を、立ち上がって遠くから眺める自分を想像してみましょう」と勧めるそうです。

これは「お空の雲の上から神さま仏さまがあなたを見ていますよ」というのと似ています。

宗教の役割とは、偏狭になりがちな一般人へ「第三者目線」を教えることです。

「高いところから見れば、人間はみんな同じです。悩んでいるのは、あなただけではありません。広い世界を見渡してごらんなさい。あなたよりも困っている人はいませんか? 手を差し伸べてあげることはできませんか?」

と問いかけることで、本人に気分転換を促すことです。「死にたい」と考えていた人へ、他のことを考えさせることです。

三大宗教は、いずれも喜捨・慈善行為を活動内容に含んでいます。「どうして私だけ」と孤独感を味わっていた人へ、大勢の他人と目的を一つにして体を動かすことを勧めます。

清掃活動や、炊き出しは、自分自身が汗を流し、肩をほぐすことでもあります。

「祈りましょう」と言われて姿勢を正し、深呼吸し、天上や西方浄土をイメージし、あるいは実際に青空を見上げ、声を出して念仏(など)を唱えること、歌うこと、太鼓を叩き、踊ることは、すべて気分転換の方法です。

香をたくのは悪臭消しという目的もありますが、やはり脳への刺激です。

気持ちが浄化されたような感じ、頭の曇りが晴れた感じは、今ふうに言うとストレス解消がうまく行った状態なのです。

悩み続け、引きこもることをやめて、みんなと一緒に気持ちを切り替えましょうと教えています。

『上を向いて歩こう』という歌謡曲がありましたが、歩くことは大脳を刺激し、気持ちを前向きにするために有効な方法です。

サンチャゴ・デ・コンポステラへの道から四国巡礼まで、歩くことも重要な修行と考えられています。

自分探しと称して危険地帯へ出かけてしまう若い人もいますが、まずは国内巡礼から始めてみると良いかもしれません。

気持ちを切り替えて、前向きに生きるための宗教が、どうして危険な独裁と戦争へつながるのかは、「前向きになり過ぎる」と言えばジョークのようですが、あながち笑い事でもなく、「ストレス解消の快感を共有した」という内側の結束が、外へ向かって他者の否定となるわけで、何百年も昔から、背景に経済の困窮を抱えた現象であり、宗教の提唱者の権威を借りた「自我の拡大感」ってことでもあって、ややこしい話題です。

宗教というと、そのような危険な印象が付帯してしまったので、現代では「セラピー」が流行するのでしょうが、これはその提唱者の偶像崇拝となってしまうこともあります。

観想という言葉がありますが、これは現代語にすると、たぶん「イメージ」です。西方浄土をイメージすること。肉眼で観たかのように想うこと。

イメージを自由自在に操るのは、創作行為でもあって、創作することは宗教経験に似た快感をもたらし、夢中になりやすいとも言えます。

いわゆる同人が、若者に流行する宗教のように見えたとしても、ゆえのないことではありません。

創作物を集団で鑑賞するテレビやインターネットも、現代の宗教ということもできるでしょう。これもファナティックな「炎上」などにつながりやすいものです。

いずれにしても「自分自身の明日のため」と考えて、適度におつき合いするのが良いと思います。







2014/11/24

【文科省・学校基本調査速報に見るアニメファンの動向。】


1950年代に生まれて、1970年代に学部へ現役合格した率は、1980年代の現役合格率より高いです。

「率」ですから、背景にあるのは高卒者の絶対数、さらにその背景にあるのは出生者の絶対数です。

1950年代生まれは、その親が出征した世代に当たり、一夫一婦制の前提となる青年男子の人数が少なかったので、生まれた子供も少ないです。

中卒で働き始める人が今より多かったかもしれませんが、学生運動が一段落した後の昭和45年から「高校へ行った以上は大学まで行こう」という人が急増します。

この中に、初期の同人誌即売会を支えた人々がおり、その何割かが『宇宙戦艦ヤマト』を含むアニメ番組を応援し、さらにそのうちの何パーセントかが男女を問わず二次創作を始めたことになります。

学生運動の闘士たちがバリケードの中で『あしたのジョー』を読んでいたのは有名な話です。草野球というのはありますが、企業や自営業者の漫画部というのはあまり聞かないので、やはり漫画・アニメは大学生、その候補である高校生が支えた文化だったでしょう。

ごく大雑把な印象として、この時期のそれは、高学歴志向が支えていたとも言えそうです。

1960年代、特に後半に入ると、出生数が急激に伸び始めますが、その子たちが現役受験生となった頃の進学率は、逆に漸減します。「あれ?」って感じです。生まれる子供が増えたから、一層多くの子が進学したのではなく、進学者の絶対数がそんなに変わらなかったことになります。

受け入れ大学の数が急に増えるわけではないので、当たり前といえば当たり前です。足切りなどという恐ろしい言葉もありました。

現役合格率を見ているので、浪人後に合格・進学した人がいるはずですが、そのぶん年下の受験者が押し出された格好になるので、同じことだろうと思います。

もし大卒者のほうが有利な就職ができるなら、今の40代は、そんなに有利な就職ができなかった人の数が、ひじょうに多いことになります。しかもこの世代はバブル崩壊に巻き込まれ、就職氷河期の当事者となっています。

しかも、今の40代の非婚率はそんなに高くありません。たしか2割くらいです。逆に言えば、8割くらいの人が、そんなに有利な就職ができなかったにもかかわらず結婚し、その内の多くの人が、懸命に子育てしています。

ということは、彼らは自分のためのアニメグッズなんぞに金を出しません。

非婚者の全員がアニメファンでもありません。

ファースト・ガンダム人気は嘘ではありませんが、おそらく子供のために契約したスカパーで「見るだけ」です。

グッズの売上を見込んで各企業が競って「あやかろう」とするほどではありません。

さらに厄介なのは、平成2年度から進学率の驀進が始まりますが、これ以降の世代の正規雇用率が良くないことです。

親御さんにしてみれば、学費を取り戻せていません。30歳過ぎた子供を養うために貯蓄を切り崩している、または貯蓄ができない状態のはずです。

なぜ、ここでアニメグッズが売れるのか。

海外旅行へ行けないからです。なけなしの金を、より安価なアニメグッズのまとめ買いに投じるなら、そのぶん、テレビも買えません。

A社が若者に与えた給料を、アニメグッズと引き換えにB社が受け取れば、同じ金が国内を廻っているだけです。B社が利益の投資先をまちがえれば、A社がつぶれ、若者が受け取る給料もなくなって、B社もつぶれます。

1980年代の同人誌即売会で廻っていた金は、やおい少女とか、ロリ少年とかの親が輸出でかせいだ外貨の一部が、二十代の同人作家の手に渡っていただけです。フルカラー同人誌とかの豪気な話は、要するにまともな社会人活動のおこぼれです。

2014/11/23

【二次創作許可マークの微妙さ。】


よく勇気をもって問題提起したと思います。

ただし「すでにCCライセンスが知られている時に、話をややこしくした」という問題はあります。

「CCライセンスとは別に、日本人限定で許可したい」といえば、別の問題をはらみます。

ただし「最終的には日本の新人作家として外貨をかせいで欲しい」ということであれば、外国の方はご遠慮くださいという理屈は立ちます。保護関税みたいな。

「同人界は出版界の青田であり、新人育成の意義においてのみ、二次創作を認める」という立場からすれば、これは正しい帰着点であり、外国人差別には当たりません。

が「同人界の自治を求める」という考え方もあります。

もともと同人誌即売会は、1975年に始まっており、学生運動の次にきた若者運動であり、自治を尊ぶという性質もあります。

「そもそも同人とは、個人の自由で自費出版している人であり、全員が新人として出版界へ作品提供することを強制される筋合いはない」という言い分が成り立ちます。

ただし、この場合「では、個人の自由で二次的作品を自費出版する人は、原作者の権利についてどのようにお考えか」と問い返すことができます。

ここであわてて「だって編集部が」と言ってしまう人もあります。


【編集部を飲食店に例えてみる。】

たしか『青春の殺人者』という映画に「若夫婦の始めた小さなレストランが、オートバイ少年たちの溜り場になる」という場面がありました。

例えばの話、少年たちが暴走行為によって全員逮捕され、店へ通ってくれなくなれば、若夫婦は生活に困ります。

そこで「今夜はうちの店の前で検問をやってるから、来ないほうがいいよ」って連絡する。ありそうな話です。

これを暴走少年たちが「あの店が逃がしてくれた」と公言すれば?

若夫婦のほうが社会から非難を受けるか、公務執行妨害で逮捕ということになるかもしれません。この場合、暴走少年たちは何でしょうか。

恩知らずです。

というか、世間知らずです。本人たちは「いい人たちだよね~~♪」って言ってるつもりなのです。たぶん。

著作物の著作権者は原作者です。

編集部は二次創作を禁止する権利も、奨励する権利もありません。

では「編集部が協力してくれた」と言えば?


【CCライセンスも苦肉の策です。】

そもそも、ファン・アートを発表する人がいなければ、「ライセンスどーするよ?」「いたちごっこに疲れた」と思うこともないわけです。

どこも同じで「二次創作を皮切りに創作の意義に目覚め、プロデビューした」という人がいるから、自分より若い人の育成意義も認めようってわけで、つまり世界的に世代交代したのです。

昔は、他人と変わったことをする人は病気かトラウマによるものだから、カウンセリングすれば直るとか、厳しく躾ければ直るとか思われたものです。

今は、生まれつきだから他人が矯正を試みてはいけないことになりました。社会のほうが工夫して、トラブルを回避することになりました。当事者が声を挙げ、苦労した果てに獲得した(または回復した)権利です。

他人の創作物を鑑賞して、その続きを考えたり、さかのぼって登場人物の子供時代を想像したりすることも“自然”に思いついてしまうことなら、認めてもいいじゃないかという考え方ができます。

「普通そこまで考えないよ」というなら、普通ではない少数派にこそ、自由に表現する権利があります。

それが出来ないことになっている法律があるなら、改訂してもいいじゃないかという考え方ができます。

が、その場合は、当事者がそれを申し立てるのが基本です。


【言い訳しない覚悟をする時代。】

まさか「危険ドラッグは体に悪いことを承知しているので、売ることを認めてください。いいじゃん別に。最初から金目だし~~」とツイートしてしまう業者もいないだろうと思います。

そう考えると、二次創作者は「二次創作は悪いことではない」と思っているから、ツイッターにダダ流しなのです。

悪いことではないなら、言い訳する必要がありません。「遊び」という言葉も、「編集部」という言葉も必要ありません。

重要なのは、悪い仲間に加わっているという意識のもとに、他のルール違反をして面白がらないことです。

同人は創作物をじっくり読んで楽しむ人々であって、泊まってはいけないところに泊り込み、落書きしてはいけないところに落書きする不良グループでもなければ、駅を走り抜ける珍走団でもありません。

「二次創作は(たとえば)CCライセンスに基づいた正当な創作活動であり、原作者に感謝し、読者のために心を籠めて丁寧に描いた人だけが成功できる」

という理念を、自分から笑う時代は終わったのだと思います。



2014/11/22

【二次創作BLはフェアユースにならないか?】

二次創作の自由を守るつもりで「BLは無理でしょう」と言ってしまったのが、二次創作許可マークに人気がない理由の一つです。

「ロリは大丈夫なつもりか?」と指摘することができます。

海外では、ゲイショップで日本製BLを販売している例があります。「男性同士が描かれている」という物語の内容だけで判断すれば、そうなります。

これは誰向けか、誰が読むべきかと他人が決めたがるのは日本の悪い癖です。

海外なら、実際に金髪の男性や、お化粧する男性もいるのですから、「髭と筋肉」より、金髪の王子様が登場するBLのほうが共感が持てるという男性だって、いるかもしれません。

フランスでは有名キャラクターのイラストをLGBTプライド・パレードに使用した例もあります。よく知られたキャラクターが「自分の仲間だったら嬉しいな」と思う人がいるのは当然でしょう。

というわけで、日本の女性は、「二次創作としてのBLが存在しても良いよね?」という件に関して、海外のLGBTと協力することができます。

日本のゲイ男性が「女のくせに」という意識を強く持っており、これにストレート男性も協調するのが、日本で「BLだけは無理」と思われる理由です。

でも、少年漫画そのものが(ときどき問題視されるように)少女漫画と見分けのつかない絵柄になりつつあります。黒バス犯の例もあります。彼は、まず何よりも「二次創作BLファン」でした。

ゲイ男性の中にも、二次創作BLを楽しみに待っていてくれる人がいるという実例です。

彼の場合は、悪気さえ起こさなければ良かったのです。「BLを読んだから、おかしくなった」ということではありません。犯罪の実行に至るには、他の要因があります。どの創作分野でも、多くの読者が犯罪事例や残酷描写を鑑賞しながら、実行には至らずにいる通りです。

男性が、もともと可愛い少年漫画を上手に真似して、少女漫画と見まごうBL同人誌を仕上げる例も、じゅうぶんに考えられます。

さァ、こうなると、「BLだからフェアユースにはできない」とは言い切れません。問題は「原作のイメージをそこねる可能性のある二次創作は、男性が描いたか、女性が描いたか、BL化か、ロリ化か、鬼六ふうSM化かにかかわらず、是か非か」というふうに、一般化されて参ります。

論理としては「BLだけはフェアユースにならない」とは申せません。

あとは「キャラクター商品全般を無料開放したいのではなく、二次創作に限って新人育成の意義を認める」という考え方ですが、これは「CCライセンス」の「翻案」に当たるってことで、もはや宜しいのではないかと思います。

さらに著作権者には、もともと「人格権」が認められておりますから、個別に「ポルノ化だけは無理」と宣言することができます。

というわけで、「全体として、フェアユースを認めるが、著作権者は個別に異議を表明することができる」という(事実上、現状のままという)対応も、可能だと思います。


2014/11/21

【二丁目と二次創作BLのクレーム合戦はシンプルが良いです。】


「ストレートのくせに、二丁目まで来て騒ぐな」

これだけを大新聞に投書なさると良いです。

なまじ事情通ぶって、やおいだの腐女子だのと流行語を使いたがるから混乱するのです。

何を読もうが書こうが、外へ出て困った人は、外へ出て困った人です。

例えばミステリーの読者が模倣事件を起こしても、作家の責任ではありません。


対する二次創作側は、もはや「女の子だから」と言えば許してもらえるわけではない時代になってしまいました。

18禁・成人向け作品を名乗りながら「子供のやった遊びです」とも言えません。

つい最近「日本の二次創作は成人女性向けBL化」と言われてしまって返す言葉がなく、二次創作BLという新語を定着させてしまった上は……

もはや自称・他称とも「二次創作BL作家、二次創作BLファン」で良いのではないかと思われます。

すると、どうなるか。

「ストレートのくせに二丁目まで来て騒ぐな」
「いやなら二次創作BLを読むな」

話が食い違っていることが、よく分かるようになります。

なお「二次創作BLファン」とは、やや長くて使いにくいようですが、「虹」というと、LGBTプライド活動(六色の虹色旗を世界的なトレードマークにしています)との混同を生じ、かえってトラブルの元になると思います。











2014/11/20

【黒バス犯の教訓。】


彼のやらかしたことは、コミケを半壊させたことではありません。買えなかったものは、後で買えば済みます。

彼のやらかしたことは、「二次創作BLの存在そのもの」を世間様へ向けてスッパ抜いたことです。

かくなる上は、その存在意義について、国民の理解を得られる言い方をしていく他ないだろうと思います。

もし出版界が「新人育成意義」と言い、作家が「ファンが待っている」と言い、愛好者が「生きる楽しみ」と言うなら、関係者は一丸となって、その建前を守ってやる必要があります。

とくに1980年代即売会の密室感・アングラ感を忘れられない人が、わざと悪びれた表現を用い、即売会そのものに関するネガティブイメージを高めてしまうと、あっという間に法律が変わることがあるのが、この国です。

紅白歌合戦の例の衣装の記憶が生々しいうちに、ダンス規制が始まったことを忘れないといいです。規制されたのは踊ることではありません。「DJ」のいるクラブという場所です。

コンテンツ産業関連へ話を戻すと、国民の理解が得られないと思えば、アニメ番組からスポンサー企業がいなくなります。

アニメが終われば、二次創作も立ち行きません。

出版社の一社提供で踏ん張る、または漫画そのものからの二次創作を解禁するという手は残りますが。

与党は現在以上の大量議席を狙っています。でなきゃ解散なんかしません。選挙終了後は圧倒的な人数をもって、可決しにくいものを素早く可決していくつもりです。

同人誌即売会参加者が全員動いても、50万票にしかなりませんが、今度こそ選挙に行くといいです。


2014/11/19

【二次創作の自然淘汰。】

なぜ、二次創作は粗雑でも良かったのか。プロの作品として発表できないからです。

「プロの名にかけて」という理念が与えられなければ、人はいくらでも低きに流れるという一例です。

とくに“やおい”と呼ばれた現象は、それが二次創作であったという要因を抜きにしては、解明することはできません。

ここで発想を逆転させると、二次創作であっても発表できることにしてしまえば、目の肥えた鑑賞者を満足させる高度な作品が生まれ得ます。

「好きこそ物の上手なれ」とは申しますが、テレビ放映が終わってからも特定作品の二次創作を続ける人は、ひじょうに技術が高いものです。

何年も前から同じ題材が好きで、その二次創作を見守り続けてきた人々の鑑賞眼に支えられているからです。

これが即売会を舞台に自然発生的に生じたのが1980年代後半で、腕の立つ人の作品だけをまとめた自費出版誌なら割高でも買うよという人が増えたから、個人誌という形態が成り立ったのです。

たとえ創作者同士のトラブルによって、サークルが分裂し、個人営業化したとしても、面白くない自費出版誌など、誰も買いません。

したがって「トラブルがあったから」というのは、後付けの理由です。すべてのサークルでトラブルが発生したわけでもないでしょう。

起きたことは、才能の自然淘汰です。


2014/11/18

二次創作は売れると言う人は売っていません。


同人とは、志を同じくする人々の集団です。

会費を納め、会報の発行を楽しみに待っている人々です。

もし、すべての会員が、今回の会報の実費に加えて、たとえば500円ずつ余分に納めることに同意してくれれば、次回の会報が豪華になります。

カラー頁が増えます。表紙をハードカバー化して、格好をつけることができます。

それによって、購読会員が増えるかもしれません。発行部数が増えれば、印刷代が割安になるはずですから、会員一人当たりの負担額が減ります。見た目に格好がよく、中身も充実しているのに安いのであれば、会員がもっと増えるでしょう。

出版社というのは、このようにして成り立ってきたはずです。

でも、次号を発行することができなければ、主宰者は預かり金を着服したことになってしまいます。

解散するときは、預かり金をお返しし、ご期待に添えず申し訳ありませんと言うのが「すじ」となります。

出版社であれば、できる限り、株主に最後の配当金を渡そうとするでしょう。

つまり、同人を名乗った以上、会報の頒布を続けざるを得ません。

最初から自分の財布の底をはたいて、個人の責任で自費出版し、「実費を取り戻すために売りに出しました」と言ったほうが、気が楽です。

でも、その作品内容が「有名な○○くんを無断で裸にした18禁です」というわけには参りません。

言うことは言っても良いですが、多額の損害賠償請求を覚悟する必要があります。

国が著作権侵害の非親告罪化に反対するということは、海賊版の生産を奨励するという意味であってはなりません。対外的に非親告罪化に反対すればするほど、国内的には「絶対に著作権を守りましょう」という声が高まります。

この状況下にあって、特定キャラクターの著作権フリーが宣言されるということは、一般人としては「他は原則禁止ってことだな」と考えざるを得ません。

この状況下で、二次創作を続けたい人は、なにがなんでも「非営利ファンクラブ活動の一環です。キャラクターが好きでたまらない仲間のために、心をこめて会報を届けています」と言い続ける必要があります。

では、「売れる」と言ってしまう人は?

会報の頒布という体裁を維持できなかった人です。

購読会員を増やし続け、次号の会報を発行し続けることができず、だんだんに自腹で補填する分が増えて、辞めてしまった人です。

若い人は、二次創作は売れるという話を疑ってかかって下さい。それを言ってしまう人は、売っていません。「うまくやった奴もいるらしい」という噂話をしているだけです。

噂話を真に受けて、自分も参戦する前に、才能とよく相談して下さい。もしかしたら、大量の不良在庫と借金をかかえて終わるだけかもしれません。

大企業が、もともとの商品の品質に自信があって、パッケージにキャラクター絵を載せたら、もっと売れたというのとは訳が違います。

二次創作とは、オリジナル絵のゼロックスコピーではありません。

同人誌即売会とは、自分の絵・自分のアイディアが、目の肥えた50万人に通用するかどうかを試す審査会場です。もしかしたら、大道芸よりも、M-1よりも難しいかもしれません。

(このくらい言っておけば新人育成にはなるかな。)





2014/11/16

【二次創作の許可をもとめる人が増えた理由。】


2007年初版、ゲーム会社カプコン協力、学研まんがでよくわかるシリーズ31『テレビゲームのひみつ』における著作権解釈。


「苦労して作った人たちを保護するため、たくさんの工夫を盛り込んで表現した作品には著作権という権利を持たせ、ほかの人が勝手に利用してはいけないというルールができました。それを著作権法といいます。

 著作権は、ゲームなどの作品を作った人がどのように利用するか決められる権利のことで、たとえばAさんの作ったゲームを、漫画や小説にする場合、それができるのはAさん、もしくはAさんの許可をもらった人だけというものです。

 ゲーム以外にも、漫画や絵、小説などにも著作権があります。」


(126頁。社団法人コンピュータソフトウェア著作権協会 理事長 辻本憲三)


127頁には、おうちの方へと題して、「まんがでよくわかるシリーズ」はすべての小学校図書室と主な公立図書館に無料配布される本です、とあります。

学習指導要領による「総合的な学習の時間」に活用出来うる企画、ともあります。


早いもので、2007年に10歳の小学生だった人は、今年17歳になりました。

「二次創作したいので許可をください」と真顔で言いだす高校生がいても不思議はありません。

「決して描いてはいけない」と書いてあるのではなく「許可をもらった人」とあるのですから、許可をもらおうとするのは当たり前です。

また、大人に向かって「いつ許可をもらったんですか?」「どうすれば許可がもらえますか?」などと質問する高校生が出てきてもおかしくありません。

さらに「うちの子のために許可をください」と言い出す保護者がいても不思議はありません。

2007年に10歳の子供の親だった人は、人間の一世代が30年として、当時40歳。今は47歳です。

これに対して、他の47歳が「遊びよw」と応えれば、「許可をもらってないということですね」と真顔で言い返されるだけです。

ゲーム会社の理屈に対抗するには「ま……漫画の場合は許可を取らなくても良いのよ(汗)」とでも明言していく他ないかと思います。




2014/11/15

二次創作の売上自慢は危険です。


二次創作は売れると言ってしまう人の思惑はいろいろですが、自分の首を絞めています。

楽して稼げる道があると知ると、若い人が努力しなくなるからです。

この国から医師がいなくなります。皆さんの自衛隊を外国人に任せることになります。

歴史好きの皆さんなら、傭兵に頼った国がどうなったか、よくご存知でしょう。

昔から、芸能人や物書きがヤクザな商売だと思われてきたのは、濡れ手に粟の人気商売という話が若い心を惑わせるから、ネガティブイメージを与えておく必要があるからです。

伝統芸能は尊敬されますが、国威発揚の意味があるからです。修行はすごく厳しいことになっています。

ノーベル文学賞などは、実生活でも苦労した作家が、よくよく考えて書いたようなものが良いことになっています。

空想的な娯楽映画に出演する俳優は、いかにもチヤホヤされるようですが、役作りのための苛酷なダイエット、下積みの苦労などが伝えられます。

「アニメじゃ食っていけませんよ」というのも、ハードルを上げるためです。


娯楽産業は誰にでも出来ることじゃない、よほど好きでもなければ続かないという点を強調し続けるのは大事なことです。


団鬼六などが、教員生活のかたわら、ポルノ小説を書いたらよく売れたなどというのは、もうその年になったら他の職業につくことが難しいからです。

本業が教員だった人は、まずは教職課程をきちんと修了させています。

若者の激減した今の時代に、最初からポルノ作家をめざしてしまう若者が多いと、他が人手不足となります。

二次創作も「もともと才能があって、楽しみに待ってくれている読者のために骨身を削り、丁寧な作品づくりを心がけた人だけが、かろうじて成功できました」とでも言っていく必要があります。


2014/11/15

【大人時代が引き伸ばされたのです。】


先日、地域に住む75歳の後期高齢者のお一人に、敬老会の招待状をお持ちしたところ、「まだ早いと思ってる」と笑顔で謝絶されました。

近所づきあいが苦手な人の言い訳かもしれませんが、確かに矍鑠としてお元気です。

『クレヨンしんちゃん』の映画版に、口髭も立派な武人が登場して、じつはまだ三十歳というので(その時代へタイムスリップした)現代人が驚く場面がありますが、戦乱・疫病・飢饉のくりかえされた時代には、確かに五十歳まで生きることも大変だったでしょう。

現代では、六十歳でも「若い」という感じがいたします。実際には、六十歳すぎると体中が不調を訴えるという自覚症状が出てくるのですが、見た目に若く、とても「お年寄り」というふうではありません。

戦後の文化はアメリカ合衆国を発信地とするポップカルチャー、ロック音楽が主流で、その点でも六十代以下は話題が一致してしまうところもあります。

モラトリアムなどと称され、子供時代が引き伸ばされたように言われますが、実際には、子供時代は引き伸ばされておりません。あいかわらず二十歳で選挙権が得られ、刑事責任も生じます。

引き伸ばされたのは、おとな時代です。

「呼ばれたくはないが、老人として自他ともに認めざるを得ない七十代」よりも下で、満二十歳よりは上という人々の、行動規範が確立されていない・混乱が続いているという話なのです。

とくに女性は「若ければ若いほど良い」という差別意識を内面化しており、「女の子」と称せば悪いことをしても許されるかのように思う人もあります。

が、六十代女子は六十代女子なりの、四十代女子は四十代女子なりの経験値・知見があるはずで、二十代女子とは自ずと行動基準も違うでしょう。

もはや、みんなで渡れば怖くなかった1980年代は終わりました。



2014/11/14

80年代はオタク世代ではありません。


もはや、みんなで渡れない時代です。

1980年代にパロディ同人だった若者の一部が、今やプロ作家・漫画家として青少年に読ませるための作品を書いているには違いないのですが、その青少年の親が同人活動の味方なわけではありません。

40歳代の非婚率は、高くありません。

逆に言うと、当時は一緒になって「みんなで渡れば怖くない。イェ~~イ」と赤信号を渡っていた仲間の多くが、今や育児生活に転じています。

「少女漫画を携帯した男が、実在少女を誘拐した」と聞かされて、「うちの娘は大丈夫か!」と顔色を変える人の何割かは、40代です。

早い人では、子供がもう18歳以上です。

「成人後も親の金でフィギュアを買い続ける息子をどうしたら良いのか」という人生相談は、一般新聞にも載っています。

去年生まれた赤ちゃん、約106万人です。約106万人が全員コンテンツ産業へ流れると、他が壊滅します。

もう諦めてくれたと思いますが、国がコンテンツ産業を奨励し、お墨つきを与えることは、亡国の皮算用です。

“アニメ関連業”への期待と危惧は、正比例して高まっていると申しても宜しいでしょう。

すでに全員が40歳代となった第二次ベビーブーマーは、団塊ジュニアではありません。それぞれの間を取って、1948年生まれの人は、1972年に、まだ24歳です。

第二次ベビーブームの親世代とは、戦前生まれです。

戦前は富国強兵策の一環として「産めよ増やせよ」と言われました。とくに山間部では兄弟数が多いです。戦後に成人した彼らが立て続けに結婚・出産したのが、1967~1974年の年間出生数の多さの理由です。

彼ら戦前生まれは、子供の頃にテレビアニメを見ていません。

戦後すぐに生まれた“団塊の世代”も、1963年に『鉄腕アトム』の放映が始まった時、すでに15歳以上でしたから、テレビアニメに大した思い入れのない人のほうが多いでしょう。

アニメ文化・同人文化に共感しない人は、高齢者ばかりとは限りません。

「80年代はオタクの時代」「女はみんなやおい」などと言えば、40代から反感を買います。

「一緒にするな」「調子に乗っている一部を早く逮捕しろ」という声は、まず40代から高まる可能性があります。

戦前・団塊の世代に、第二次ベビーブーマーが合流すれば、他は太刀打ちできません。

2014/11/14

企業人としての清盛をドラマ化しましょう。


日本社会は戦国ごっこが大好きです。

企業家には戦国武将ファンも多いので、彼らがNHK大河人気を支えてきたというところがあります。

清盛も、困難な時代に貿易路を開いた企業人としての活躍ぶりが描かれることが期待されたのですが、残念な結果に終わってしまいました。

おそらく脚本家が実業の世界にたずさわったことがありません。

たとえば企業の会議において、意見のちがう人を納得させ、社員一丸を本当に実現することがいかに大変か、経験したことがありません。

したがって、「いちれんたくしょーー!」と叫べば良いと思っております。

百歩譲って、ワンマン企業文化への皮肉ですが、そのように厳粛に受け留められなかったので、表現力不足です。

どなたか、企業人としての清盛を小説に書いて、ドラマ化しましょう。


2014/11/13

「みんな」など存在しません。


美内すずえ『ガラスの仮面』や、和田慎二『スケバン刑事』を楽しみに、1980年代に白泉社雑誌『花とゆめ』を購読していた人々は、みんなやおいではありません。

プロと素人。漫画と小説。一般読者とポルノ同人。

何もかも混同し、二十四年組のせいにして、「みんな読んでいた」と言えば、自分の責任を逃れられる。

でも「みんな」など存在しません。

1980年代のティーンエイジャーは、年間出生数の多かった1970年前後の生まれです。

全校生徒1000人が「みんなやおい」でしたか?

あなたが「みんな」と信じているのは、あなたが毎週おしゃべりしていた、3人くらいのことです。

ファミリーレストラン、ファーストフードのボックス席は4人掛けですから、4人で顔を突き合わせ、何ごとにつけても「そうだよね~~」と意見が一致すると、世界を牛耳ったような気分になれます。

でも、日本人は、まだ一億人以上存在します。

電通総研調べによれば、日本の総人口の5.2パーセントが、GLBTです。

「みんな同じ」と平気で言う人は、みんなと違う人を軽んじます。

差別意識まる出しで新宿二丁目へ押しかけ、ゲイを自分のための安上がりなホストと勘違いし、自分の好奇心の満足のために性的な質問をぶつけ、それがセクハラの一種であり、人権侵害であることに気づきません。

残念ながら、そういう人は数十年前から存在し続け、彼らを困らせ続けているのです。


2014/11/13

【古代ギリシャの男たちは秘密の愛を誓いません。】


日本人は民間語源的な情報をうのみにしやすいので気をつけましょうって話題の一例です。

ギリシャ神話では、星占いでもおなじみのゼウスとガニメデのように、男同士の愛が公認されておりましたから、薔薇の下で秘密裏に誓う必要がございません。

同性愛者は弱い男として差別され、身を隠していたわけでもありません。

念者・念弟の契りを戦士の団結を高めるものとして奨励していた都市国家の実在が伝えられています。

彼ら若き戦士たちの象徴ともいえるアポロンは銀弓の名手でした。ヘラクレスも小姓を寵愛しました。少年が行方不明になった時には、探し回ってアルゴー船の出発時間に遅れましたが、船長のイアソンは哀れに感じて出航を遅らせました。

秘密の愛を誓ったギリシャ神話とは、ホメーロスでしょうか。オイディウスでしょうか。第何節、何連でしょうか。考古学的発見でしょうか。

『薔薇族』を創刊した伊藤文学氏は、ゲイ当事者ではありません。思うに、彼は「アンダー・ザ・ローズ」という英語の言い回しとギリシャ神話を混同したのです。

澁澤龍彦が薔薇十字団を紹介しておりましたから、薔薇には秘密結社のイメージがありました。伊藤氏は繁華街の片隅で密会する男性たちを見て哀れに感じ、創刊を決意したといいます。

彼にとって、男子同性愛は秘密結社であり、迫害された愛であり、薔薇の下の十字架に掛けられていたわけで、イメージとしては正に「ローマン」チックで美しいですが、よく考えるまでもなく、差別の容認を前提にしています。

ゲイ・プライドを訴える雑誌の名前が「秘密族」なのは、ふさわしくありません。

同性愛男子の肉体的特徴を薔薇の花弁に例えるという下世話な説もありますが、海外のゲイは、自らを「ローズの仲間たち」だと思っておりません。「日本でのみ、同性愛男子を Bara って言うんだぜ」というトリビアが流布しております。

田亀源五郎の作品は「コミック・オブ・ローズ」ではなく「Bara-Manga」と紹介されたので、田亀自身が「そりゃやめてくれ」と抗議しました。

西欧文化の基本としては、薔薇はアプロディーテーであり、聖母マリアであり、一重咲きの原生種の左右に広がった花弁の形状から言っても、女性の美と異性愛の象徴です。

さらに五弁の薔薇は古典古代から書物によって伝えられた知恵の象徴でもあり、学術的ギルドの商売ネタとして、一般ピープルに対しては隠匿しておく必要があったものです。アト・ド・フリースの『イメージ・シンボル辞典』、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』あたりを見るといいかと思います。

なお「百合は女性のナルシシズムの象徴」というのも、伊藤氏の混同によるものです。ナルシシズムの象徴は、ナルキッソスであり、水仙です。

「うつむいて咲く白い花」というイメージと、「歩く姿は百合の花」という美女の例えが、彼の中で混同したものでしょう。

最大の勘違いは「レズビアンは女性のナルシシズムではない」点です。

「美しすぎて異性では満足できないので、同性愛になっちゃった」という理解は、同性愛に関する最大の勘違いです。

日本人が、うんちく話を論駁せずに「へーー!」と受け入れてしまうのは、権威筋を「よく知ってますねーー!」と持ち上げ、もって自分自身の保身・出世をはかるという、武士の時代の処世術に根ざすかと思われます。

外国人は、なぜ議論をふっかけるのか。彼らは「分からねェ奴だな。出世させてやらねーぞ」と言われることを恐れないからです。もともと日本社会で地歩を得ておりません。

したがって、逆に外国の国家・企業で高い地位を得ており、その利益を代表して議論をふっかけてくる人には、「日本ではシャレですって言えば許してもらえますw」という理屈では、通用しません。

2014/11/12

【表現上の不適切は、少年趣味そのものとは別の問題。】

1980年代・1990年代の女流漫画家の中には、児童虐待・AIDS・性的少数者へのヘイトクライムを題材とし、社会問題として丁寧に描いた人々がありました。

が、その読者の中に、何を読んでも「うへっ、これってホモじゃん。やばい、やばい」と言うことしか出来ない少女がいて、その一部がいわゆる同人界へ流入し、「著作権に関しては編集部が庇ってくれる」という意識のもとに、二次的作品を量産し、その中で「男同士は異常」と書いたならば……

少年趣味であることそのものとは、別の問題があります。

このような意識は「男性が女性を抑圧したことによって生まれてきた」のではありません。

むしろ「甘やかした結果である」と言えるでしょう。

百歩ゆずって「どうせ女の子には難しい話が分からないから、人権教育の必要はない」と判断した結果であったならば、男性が女性を軽んじた結果ということはできます。

男性が女性に与える教育を取捨選択し、意図的に女性の知見をせばめておこうとしたことに対して、女性が「私には知る権利がある」とゲイポルノを鑑賞し、新宿二丁目への取材をも敢行することは、彼女自身の自由かもしれませんが、その際に、LGBTの人権を傷つけてよいわけではありません。

社会学者が現象に気づいた時点で、ゲイの人権について知らされずに育った子供たちを再教育する方向へ舵を切っていれば、その後の展開が違ったでしょう。

フェミニズムを標榜する女性学者は「女性がゲイポルノを消費するのは自由ですが、実在の男性に迷惑をかけてはいけません」と明言する必要があったでしょう。

混乱の一因は、大人の女性が自分自身を未成年者と混同したことにあります。

が、もはや「どうせ女性は成長させてもらえないんですもの」と開き直ることのできる時代ではありません。

教育現場において、男児・女児で課題の区別はありません。著作権教育も、人権教育も、性病に関する教育も、同様に与えられます。

LGBT青少年の自殺を防ぐために、教職員の意識改革をうながすパンフレットの配布も、すでに成されています。

女性は閣僚・官僚・総合職として登用され、社会的責任が増大し、発言責任を求められます。

女性が望んだ時代が、来たのです。




2014/11/12

【ビール瓶の持ち方に見る日本企業文化の武士っぽさ。】


右利きの人が右手で物を差し出すのは当たり前です。

それに対して「拙者に対して無礼である。貴様には謀反の心がある!」と言うのは、どんな人か。

農村の視察に来た代官に対して、農民代表である庄屋さんがお酌をした時、という場面が浮かびます。

言われた庄屋さんは、びっくりして「どういう訳ですか」と尋ねます。すると代官は咳払いして言うわけです。

「貴様は農民だから知らないだろうから、特別に教えてやるが、右手を前にして構えるのは、刀を持つときの作法である」

庄屋さんは膝を打って応えるわけです。

「なるほど、それで分かりました。そこに気がつくお代官様の炯眼に感服いたしました。これからもよろしくご指導ください」

ってね。

もちろん例え話です。ビール瓶を持った庄屋さんですから。

武士が本当に刀を帯びていた時代に、武士同士でこれを言っていたら大変です。「無礼とは無礼である」という反論によって、本当に刃傷沙汰となる可能性もあります。そんな遺恨でいちいち出陣されては、ご家中も領民もたまりません。

かえって武士同士は和気あいあいとしていたでしょう。他の身分に対して威張るのです。

では、そんな「難癖」というべき作法を現代にまで持ち込んで威張りたがるのは誰か。

会社が何億円も出してヘッドハントした若者に対して「きみは無礼である。ものを知らない」と言って、「ばかばかしいんで独立します」と言われちゃ自分が困ります。

つまり、反論を予想していない人。立場を利用して威張る上司と、ふつーの社員。お金持ちのお客様と、営業マン。

後者としては「確かに私はものを知りません。細かいところまで気をつけますので、出世・契約のほうをよろしくお願い致します」って意味になります。

だいたい日本式の宴会は、現代では長卓にご馳走がならびますが、本来は「お膳」が一人ずつに提供されたはずです。

つまり、上様が御家人を呼んで、食わせて進ぜる形です。社会保障が充分でなかった時代には、実力者が若い奴を集めて、具体的に「食わせてやる」ことが非常に重要でした。

その形が踏襲されているので、ときどき「武士の作法」が顔を出すわけです。

欧米式は、お酌をしません。そもそも席を立つのがマナー違反です。でなきゃ最初から立食式。飲食はマイペースです。他人の自由を妨げちゃいけません。酒類を注ぐのは専門家の仕事です。他人の仕事を取っちゃいけません。

つまり、日本の会社の宴会は、社員一同で「戦国コスプレ」をやってるようなものです。

なお、武士の時代と現代をつなぐのは、実際に武士の誇りを抱いていた戦中の士族(士官)たちでしょう。

彼ら、または彼らに気を使っていた下士官が、復員後に戦後復興の中心となったのが、今に至る日本企業文化の武士っぽさの根底にあると思います。

なお、若い女性が「イケメン」化させた戦国武将キャラクターをもてはやすのは、彼女たちが戦国武将に憧れて「おとなしい嫁になりたい」と思い始めたことを表すのではなく……

戦国武将および武士社会が、彼女たちに対して支配的・圧力的な印象を持たなくなったことを示します。

ということは、武士っぽさに憧れる企業文化も、もはや彼女たちに対して支配性を持ちません。

2014/11/11

【晴海派と原宿派に有意差はありません。】

1980年代には多くの少女が「原宿を歩いているだけでアイドル歌手としてスカウトしてもらえる」と信じ、上京しました。

今のように幼い頃からヒップホップダンスを習っている人はいませんでしたから、1982年に一斉にデビューしたアイドル達も、手先を出したり引っ込めたりする奇妙な振り付けで歌い、踊っていました。

あのくらい誰でも真似できる、ド素人がアイドルになれると信じられた時代でした。

“やおい”と呼ばれた創作物の量産も、これくらい誰でも真似できる、ド素人が作家(漫画家)になれると信じられた結果です。

アイドル志望少女たちは、ダイエットの妄念に取りつかれていなかったでしょうか。

アイドル歌手になることを夢みながら、その一方で「早くおばさんになりたい」と願っていたでしょうか。

「妻にして母」というロールモデルに飽き足らず、モラトリアムの延長を望み、さらなる自由と独立を希いつつ、ダイエットという呪文によって自縄自縛に陥っていた点で、二次創作目当てに晴海へ押しかけた派も、芸能界(とクレープ)目当てに竹下通りへ押しかけた派も、大差ありません。

男性の価値観から自由な女性になるために、必ずしもBLを読む必要もありません。

「ダイエットしなくちゃ」と言いながら、クレープを頬張り、そんな自分を棚に上げて、男性の振舞いを笑いとばしていた少女は大勢いたでしょう。

原宿と即売会会場を往復した子も、たぶん大勢いたはずです。

モラトリアムの延長を望む女の子はBL派になると言っても、モラトリアムの延長を望む全ての女の子がBL派になると言えない限り、証明にはなりません。



2014/11/11

【ビールの注ぎ方ごときで武士に気兼ねする必要はありません。】


ビールを注ぐとき、右手で瓶の首を持って、左手で底を支えるのは、刀剣を構えた形に似ているので相手に失礼に当たる、とテレビで言ってました。

落ち着いてください。武士の時代は終わりました。

この国には、もう武士はいません。武士の上司に気兼ねする必要はありません。

太平洋戦争を指揮したのは士族です。この国は太平洋戦争で大敗するまで、華族と士族のいる身分制国家だったのです。

士族は国家の運営を間違え、戦に負け、民主主義の時代を導きました。彼らは自分を滅ぼしたのです。

武士の世・武士の世と、さも素晴らしいもののように連呼したドラマもありましたが「平伏して上の人の言うことを聞いていればよかった身分制時代が懐かしくてたまらない」という根性が、日本の企業から活力を奪っているはずです。

そもそも、アルコールの許容量も、飲み方のペースも人それぞれなのに、お酌をして廻るのがナンセンスです。

糖尿病や肝臓病を抱えた人は恐ろしくて宴会に出ることができず、ビジネスチャンスを逃すという不公平が生じます。

「グラスを空けてください。グッと行ってください」は、「わたしの酒が飲めないんですか」と言っているのと同じです。

充分なアルコール・ハラスメントです。