2014/12/26

【来年へ向けて: アニメ部を増やしましょう。】


アニメミライ企画は性急すぎたのでしょう。

政府が主導するなら、遠い未来に結実する成果、すなわち「学校教育へのアニメ制作の導入」を考えるべきでした。

「漫画家になりたい」という子供は、とき~~どきいますが、「アニメ監督になりたい」と言いきる子供は少ないものです。

有名な漫画家になれば、「誰か」がアニメ化してくれると思うもののようです。なぜ自分で動画を描こうと思わないのか。

宮崎駿が何回も紙をめくって「人物の動き」を確認する様子がテレビ放映されることがありますが、「あれをやってみたい」と思う子供はいるのか。

「私の作品に声優さんがついてくれるなら○○さんがいいな」と夢を語る創作お姉さんも多いようですが、「私自身がプロデューサーになる」と言いきる人は少ないものです。

アニメというのはテレビ放映されるものなので、視聴者に受身の姿勢を生じやすく、しかも「友達すくない」と言いきってしまうアニメファンから次世代のアニメ作家が育ちにくいというのが、アニメ畑のアキレス腱だと思います。

友達すくないと、アニメができないのです。最低でも動画担当者と、背景担当者と、演技担当者と、音楽担当者を集めて、チームをまとめ上げる必要があります。

一人でコツコツ作ることはできますが、アニメ制作には専用機材が必要で、子供には「作り方」をイメージしにくいのでしょう。

今ならPCですが、図工の要点は「手」を使うことを覚えさせることですから、その成果を「PCに取り込んで」というところへ本人が辿り着くまでには、ちょっとギャップがあります。

作品ができたらできたで、それをテレビ放送に乗せるにはどうしたら良いのか。アニメ専門プロデューサーになるには、まずどこへ就職活動したら良いのかも分かりにくいものです。

いわゆるコミケに集まる人々は、アニメファンではありますが、実体は漫画同人です。またはコスプレ同人です。アニメ映画を自主制作する人々ではありません。

フキダシ・描き文字・スクリーントーンの貼り方、あるいは衣装の縫い方に習熟しても、「アニメの人物の動き」を描くことには習熟しません。

山本二三のような背景絵師は、あのサイズの紙に繰り返し背景画を描くことによってのみ成長します。

各高校に「アニメ同好会」が存在するかもしれませんが、本当に「アニメ」を作っているのか。アニメを題材にした漫画(ライトノベル)を描いているだけではないのか。

「アニメ部」「アニメ学科」を立ち上げ、専用機材またはPCを設置してあげると良いでしょう。短編映画を作らせるのです。今のアニメに危機感を持つ硬派アニメファンは、母校へ、機材か費用を寄付してあげてください。

ライトノベルの急成長は、大学進学率の急激な上昇と関わっていると思います。美術系の実技学校へ進む若者が増えれば、アニメ監督も増える道理です。

高校生に独自の文学賞を選ばせると、今年の直木賞受賞作を「暴力的すぎる」という理由で、選ばないのだそうです。中高生が全国コンクールをめざしてアニメ制作に取り組むなら、暴力的・性的な作品ばかり挙がってくるはずはありません。

吹奏楽コンクール同様に、審査の様子を全国中継してあげると良いです。優秀作品は、国営放送で(CM抜きで)放映してあげましょう。

2014/12/25

【来年へ向けて:オリジナルの時代が来るのかもしれません。】


クラシック音楽業界は、レコード会社を通さず、個人的にプロモーションビデオをyoutubeなどで公開し、mp3ダウンロード販売やコンサートへ客を誘導するということをやっています。

レコード会社が仕掛人となって新人指揮者をアイドルのように売り出すという手法は、すっかり廃れちゃったらしいです。

過去の名録音も、いずれは著作権が切れるので、レコード業界は、何かもう本当に天才的な若者によるイノベーションを待つ他ないのかもしれません。


【二次は背水。】

マンガ系コンテンツ(マンガ的なイラストを利用したコンテンツ)も、ニコニコ動画などからオリジナル作品のヒットが生まれていることは今さら言うまでもないでしょう。

初音ミクは、もともとPCソフトに過ぎません。それを使って自由に作曲して良いよ、というのは「マンガの技法そのものはフリーだから、自由に描いて良いよ」というのと同じです。

ヴォーカロイドを使って演奏するものは既成曲ばかりではありません。初心者の取っ掛かりとして、好きなアーティストの曲を自分なりにアレンジ(多声部化とか)してみたというのは、良い修行になるでしょうが、やがてはオリジナル曲の発表に向かうものでしょう。

だから、動画・音楽・ゲーム系の人から「マンガの奴らは二次しか書けねーの?」という揶揄・突っ込みがあるのだろうと思います。

それに対して「一次だって上手いんですよ!」と言ってしまう人もいますが、これは「さっさとオリジナルデビューすれば良いはずの人が、意図的に他人の権利を無視している」という意味になるので逆効果です。


【アニメ二次創作の時代。】

二次創作がテレビオリジナルアニメを基にしている間は、出版社は関係ありません。

それは、本当にアニメファンによる即売会限定のジョークであり、アニメ人気を盛り上げるものでした。ビデオデッキの普及していなかった時代には、オンタイムの視聴率を上げることにも一役買ったでしょう。

紙に印刷した「マンガ」というものが最も輝いた瞬間というのは、力石徹のお葬式が社会現象として注目されたとき、次が『ベルばら』の大ヒットの頃だったでしょう。宝塚化は1974年です。同じ年にアニメ『宇宙戦艦ヤマト』が放映されました。

コミックマーケットは1975年に始まって、当初はオリジナルマンガの振興を目ざしたらしいのですが、やや「後だし」感があったかもしれません。

「学生運動のバリケードの中で少年ジャンプが読まれた」という話から考えると、テレビアニメというのは何なのか。

「もはや危険なデモや内ゲバに関わらず、家(下宿)に帰ってテレビ(ビデオ)を見る、やや裕福で、クレバーな新世代」ってことだったんじゃないでしょうか。

コミケという催事においても、マンガよりも新しい・最新流行だと思われた「カラーアニメ」というものの関連グッズのほうが人目を引いて、売上を伸ばしたわけですが、これは時代の流れであり、結果に過ぎません。

同人誌即売会は、即売会ですから、何かを売るところには違いないのですが、ガリ版刷り・ゼロックスコピー誌でボロもうけを狙ったというわけもありません。ワープロがない時代の清書は手書きです。多くの人が「こつこつ」とやっていました。

後の時代の賑わいぶりを見て「みんなうまくやっている。私も流行に乗らなくちゃ」と思うのは自由ですが、最初から金目というのは勘違いです。

同人活動に反感を持つ人ほど「なぜ二次創作が存在するんですか」という質問に対して「売れるから」と答えます。「それ言っちゃおしまい」であることを知っているからです。


【規制よりも致命的。】

でも、じつは二次創作を衰退させるのは、規制の強化ではありません。規制には「反対し続ける」ことが可能で、かえって状況を好転させることもできるからです。

本当に困るのは、テレビアニメからスポンサーが降りることです。

TPP・黒バス事件・「アニメ関連業」関連の騒動がなかったとしても、決定的な少子化と泥沼な円安によって、玩具業界などが音を上げるでしょう。

玩具は原料を輸入して、国内で売る他ないのだから、もうどうにもなりません。

ゲーム業界は大手が訴えられたことによって気を引き締めたはずで、「これからは当社も著作権に関して、ゆるい感じで行きますよ~~♪」というところはないでしょう。

原作をかかえる出版社自身による一社提供という手もありますが、出版業そのものが斜陽ですから、先行き不安です。

枠線を引いてマンガを描く人の減少はもちろん、タブレットの時代なので、キーボードを連打して長編小説・エッセイなどを挙げる人さえ減ってくるんじゃないかという恐れもあります。


【オリジナルの採用、名作の再利用。】

オリジナル作品は、ネットを使えば単発発表もできますし、元手がかかりません。オンデマンド印刷も可能です。装丁の豪華化は、予約を確保することによって可能で、印刷所も喜ぶでしょう。

何人かの作家が合同すれば「厚い本」もできます。昔は本当に複数会員をかかえる「サークル」でした。1980年代後半から顕著に個人化しましたが、ルームシェアの時代なので、自費出版シェアも悪くないかもしれません。

評判を呼べば新しいブームとなり、一般企業がアニメ化・グッズ化を申し出てくれるかもしれません。

もし若い女性がアニメ人気を支えているものなら、化粧品会社・食品会社などがアニメ事業部を立ち上げたって悪いことはありません。

誰も「同人誌ではボーイズラブ以外描いちゃダメ」なんて言っていません。オリジナルレディコミをアニメ化(できる範囲で)したって悪いことはありません。

当たり前ですが、オリジナル活動が盛んになると、レコード業界に起きたのと同じことが出版社に起こります。

じつは、二次創作というのは「同人ビッグバン」的なものを防ぐ役割を果たしているのです。

これをもって、出版界に恩を売っているような気分になる二次同人もいるようですが、本末転倒しています。

いずれにしても「紙のマンガ」は売れなくなります。子供たちは、ニンテンドーとスマホを手放しません。

マンガはどう見ても単価が低いので、数が出なくなれば不採算でしょう。出版社がマンガ事業を整理すれば、それを原作とするアニメも生まれなくなりますが、もしかしたら海外が事業部ごと買ってくれるかもしれません。

なお、著作権保護をどんなに延長しても「千年」ってことはありません。古い作品が順に期限切れとなるので、二次創作は過去の名作を利用することも可能です。

これは、過去の名作そのものの再販を呼ぶので、出版社にとっても悪い話ではないでしょう。原作ファンと折り合いをつけられれば。



2014/12/17

【オリジナルBL読者を腐女子といえば不適切です。】


人間が腐ったとは、一般社会において、決して良い意味には受け取られません。いたんだ、悪くなったと言い換えても同じです。

これをオリジナルBL作品を購読した女性に適用すれば、それを発行した出版社としては「御社の製品を購入した女性は、悪くなってしまうのですね?」と言われたわけですから、営業妨害くらいは主張できるんじゃないかと思います。

また、作家としては「貴女の作品を購読した女性は、悪くなってしまうのですね?」という意味ですから、名誉毀損くらいは言えるだろうと思います。


【一次作家の自虐も不適切です。】

BL分野に限らず、一次作家自身が「私の作品なんてダメ」みたいなことを言えば、自分自身の表現の自由の侵害です。自分の権利を侵害すれば、あなたには「ダメ」という自由もないことになります。お気をつけ下さい。

もし、BL作品を購読した女性が、人生の何らかを諦めなければならなくなり、「どうせ」と不貞腐れたくなるのだとしたら、それはBL作品およびその購読者をいじめる人がいることが悪いのです。


【自虐を認めちゃったのは残念でした。】

この理屈に基づけば、「やおいって何ですか?」と訊かれて、「ああ、ああいう子たちは自虐してるんですよ」と解説に応じてしまった人々は、最初の時点で蹴っつまづいていたことになるかと思います。

「なにも彼女たちも好きこのんで自虐しているわけではありません。自己表現手段の少ない女性のために、二次創作の表現の自由を認めてやってください」

これが正解じゃなかったかと思います。

厄介なのは、大学の先生も本を書いて生活する人々だったので、著作権法そのものの廃止とか、形骸化とかは主張できなかった点でした。やおいが二次創作を意味することは、微妙にぼかされました。

プロ作家は決して使わず、新聞報道もされず、同人誌即売会限定で使用されていた(とされる)やおいという言葉は、二次創作という身分を示すものではなく、「BLであることを自虐している」というふうに間違って整理され、あることないこと言い立てられました。

女性がストレート男性目線の性的創作物に飽き足らず、男性による少年趣味を主題にしてみたいと思ったとき、それはオリジナルとして書かれ、発表されれば良いだけであって、べつに「どうあっても他人の権利に抵触する必要がある」と思う必要はありません。

万が一、やおい当事者が本当にトランスゲイであっても、アニメを選ぶ必然性はありません。

さらに百歩譲って、プロ男性漫画家はプロ女性漫画家よりも優遇されているので、思い知らせてやるのだというような「義賊」的意識から、男性漫画家を狙い撃ちにしたとも考えられますが、べつに男性漫画家のほうが売れているとも限らなかったでしょう。

それは、SFアニメから始まって、後から原作つきアニメの放映が始まったので、即売会に参加したくて先輩の真似をしているうちに(または先輩の真似がしたくて即売会に参加しているうちに)、結果的に原作漫画家の権利に抵触したという成り行きにすぎないものでした。つまり、それだけ何にも考えていなかっただけでした。

それを擁護するなら「あの子たちは何にも知らないのですから」と情状酌量を求めれば良いのですが、これは当然「正しい教育の要求」につながって行きます。すなわち、著作権法の遵守を徹底することになります。

現行法の撤廃か、遵守か。いずれにしても言えないのであれば、この件はノータッチが正解でした。

女性としても論客としても未熟で、大人と子供、オリジナルと二次創作を混同し、本質を見誤った昔のフェミニズムにとって「やおい論」は鬼門だったろうと思います。

当時の人々も退官し始めました。やがては完全に世代交代がなされるでしょう。その間に、BLという創作分野はどうなるのか。二次創作全般の権利は?

世界は「保守」という名の暴力へ向かっているという危惧が、ないことはありません。



2014/12/16

【BL女子の自虐は、男女の共同作業。】


コミックマーケットは、字義通りに受けとめれば「漫画市場」ですから、そこへ小説が出品されたのは、おかしいのです。

アニメ作品から許可なく小説を構想し、製本して「漫画市場」へ出品し、後には有名漫画家の忠告にさからって「山も落ちもない」を自称した(とされる)人々は、さまざまなルール違反をしたわけですが……

自らを「やおい党です」などと名乗り、新聞やテレビで作品を宣伝するといったことを、しませんでした。

それは、当事者自身によって、「女性の表現の自由」の権利に基づく抵抗運動とか、正式な自己表現活動とは見なされていなかったのです。

その活動自体が、即売会という「ハレ」の場に限定された、ジョークだったのです。

お祭りの日にだけ許される無礼講とか、異性装とか、下克上とか、暴力(トマトやオレンジをぶつける)とか、そういうものです。

さらに言えば、日頃は家族で楽しんでいる自家醸造酒をバザーと称して売ったが、厳密には酒税法で禁止されているという状態に近いでしょう。それは、買って帰った人が「行けば買えるぜ」と言いふらしてくれては困るものだったのです。

本当は、大学なら大学、高校なら高校の部活動同士のおつきあいということで済ませたいものだったのだろうと思います。

あえて例えると「ふつうは選手の身内以外は観戦に来ない高校部活動同士の試合に、アニメ声優を副業とする高校生が出場するので、スポーツのルールも知らないアニメファンが詰め掛けた」みたいなことが起きたのだろうと思います。


【最後の学生運動。】

コミケは1975年に始まっており、最後の学生運動といった意味合いもあります。それは、本来の学生運動が内ゲバによる死者の顔を見るに及んで散会し、参加者の多くが安定を求めて就職していった後のことでした。

若者同士が非暴力のうちに集まって、文化祭を開いたわけで、お祭りだから仮装もするわけです。

その参加者たちには、男女を問わず、自分たちもいずれは無事に大学・高校を卒業し、就職し、30歳ぐらいまでには結婚して、最終的には実家の家督を継ぐという意識を持っていた人が大勢いたのだろうと思います。

だからこそ「就職できなかった」と愚痴をこぼす人もいるのです。

BL分野ではプロになれないから、創作家としての人生は諦める他なかったでしょうか? そうでもありません。

1980年代なら『風と木の詩』ほかを世に送り出した編集者たちが、いずれも存命だったでしょうから、漫画作品を見てもらうことができたはずです。

二次創作物の多くが、原作漫画キャラクターの原型を留めておりませんから、フキダシの中の人名だけを差し替え、オリジナル初出作品として編集部へ持ち込むことは不可能ではありません。

キャラクターにたいした思い入れがなく、まったくの営利目的であったならば、この作業は容易です。

もし「こういうのは、もう流行らないよ」と言われてしまったとしても、小説分野なら、まだ道がありました。

1990年代初頭には、天下の恩田尚之と、当時一番人気だった声優陣を迎えて、BL小説のアニメビデオ化が成し遂げられましたから、アマチュアが大きな夢を抱くことも充分に可能です。

同じ頃、角川書店が少女小説レーベルから少年愛分野を独立させています。当然、それに先立って「小説分野でなら、プロ原稿として作品を買ってもらえる」という現象が起きていたはずです。

そもそも、1970年代末以来『JUNE』という専門誌が存在し、その連載からハードカバーがいくつも登場していたのですから、「成人女性の職業選択としての耽美小説家」というものが、一般的に喧伝されないまでも、存在したのです。

もし「BLに親しんだせいで良い人生ではなかった」と思う人があるならば、その人の才能が足りなかったので、プロデビューできなかっただけです。

できていれば、「こないだの即売会で100部売れた」というにとどまらず、後々まで印税が入って来たでしょうし、アニメ化・映画化もしてもらえたかもしれません。声優さんと握手できたかもしれません。すばらしい絵師さんとコンビを組むこともできたかもしれません。

JUNE派にしても、ルビー派にしても、プロとなった作家たちは、その単行本の後書きに「ホモ最高」とか「どうせエロ」などと書いたでしょうか。たぶん書かなかったと思います。

成人による職業上の挨拶として、差別的でもなく、自虐的でもない文章を発表することができただろうと思います。

なぜ、その読者だけが「子供のままで良い」という定義づけになってしまったのか。


【女性の自立の象徴だった耽美。】

萩尾望都『ポーの一族』は、耽美分野の漫画としては早い部類ですが、少年同士の性愛を描いた作品ではありません。

海外文学をよく勉強した女性が、世の移り変わりと人生の哀歓を描くに際して、従来の少年漫画に登場するよりも女性的で可愛らしい顔をした少年を主人公に立てる、というアイディアに過ぎません。

そのような少年は、西欧には映画の子役・歌手などとして実在するという情報が与えられていたのですから、単純に「外国への憧れ」の表現として、納得することができます。

しかも、草分けというわけでもなく、それ自体はすでに1960年代、水野英子『ファイヤー!』によって成し遂げられ、受賞も果たしています。

受賞させた側(出版社のえらいさん)は男性ですから、「女が少年漫画を描くのは生意気だから差別してやる」ってことはなかったわけです。

耽美って言葉は、本来は潤一郎・久作・足穂・龍彦・由紀夫などを指した言葉だったでしょう。鬼六も入りますが、元々は「エロを書く」って意味ではありません。

美的なのは文章の技巧であって、本来は表現力が高いこと(詩を理解していること)を称賛する言葉だったと思うのですが、一般的には「表現の自由の名のもとに、逸脱的な性に言及する連中」という理解になっちゃったのでしょう。

ここでLGBTから「同性愛は逸脱じゃないぞ!」という突っ込みもあるかと思いますが、少年趣味となれば話は別です。とくにボーイズラブ創作となると、その鑑賞者の男女を問わず「子供にやらせて大人が眺める」という要素があるわけで、一般保守からすれば「ちょっと待て」と言うべきものです。

LGBTとしても、その責任者と思われちゃ困るでしょう。

1970年代半ば頃から起きたことは、20代後半に達した女流漫画家が、自分自身の耽美趣味を表現することでした。それがデビュー作という人は少なく、先行して長編連載を成功させています。

女性が自分の才能に自信を持ったところで、逸脱的な表現に挑戦した・勇気をもって発表に踏み切った、というのが耽美分野でした。

女性が自立の手段を得て、漫画家を続ける覚悟を決めたとき、それを自他ともに「男に甘えないで生きていく」「女を捨てる」というふうに考えたのが、1970年代でした。

逆にいえば、主婦であること・母であることが「男に甘えること」だと理解されていたわけです。

これに高校生以下の若い女性が憧れ、「私も東京へ行って漫画家になる。強い女になる」というふうに思ったとしても無理はありません。好みのドレスを描くデザイナーになりたい女性がいれば、好みの美少年を描く漫画家になりたい女性がいても不思議はありません。

繰り返しますが、女性が少年を描くこと自体は、すでに認められていたのです。

ところで、一人で生きる強い大人の女になることは、子供のままでいることとイコールではありません。


【アニメと耽美の混淆。】

1970年代後半以降、アニメが流行したこと自体は、時代の流れです。1960年代からやってきたアニメーター達にとっては「良い時代がきた」というものだったでしょう。

(忙しかったでしょうが)(あまり報われたとも言えませんが)

ロリータ趣味自体は、ナボコフに由来する通りで、古くから存在します。少年趣味やSM趣味への言及を含む文学上の「耽美派」自体は、もっと古いです。

それらとアニメの融合を思いついたこと自体は、若い世代の才気煥発さを示すってことで良いのだろうと思います。どう考えても、意欲的にいろいろなものを読む人からしか生まれてきません。

いっぽうで、初期のコミケ主宰者は、既存漫画作品の評論を丁寧に書いたと伝えられます。何を何冊売ろうとも、手書き・ガリ版刷りの時代に巨利を得たとも思われません。そこは、決して最初から「アニメで稼ごうぜ!」というところではありませんでした。

じつは1950年代から耽美派を自認していた文芸ファン・1960年代から(何らかの)アニメ関連活動を手がけていた人々にとって、1980年代に「お金になるから皆でアニメ二次創作しようよ♪」とお誘い合わせのうえ押しかけてしまった若い世代は、困った子たちだったのかもしれません。


【大人の男女の共同作業。】

間違いは、少年趣味の作品を一読した男性が「こういうのを読むのは子供だね」と言ってしまったことによるのではなかったか、と今さらながらに思います。

そして、それを受けて「そうです、ああいう子供たちはね」と言ってしまった大人の女性がいたことが、混乱に拍車をかけたのではなかったかと思います。

女性の自立への危機感と、男色への忌避感の両方から、それを遠ざけておきたいと思う一般男性社会の保守意識が「子供のせい」にしてしまい、それを当の女性が補強し、若い世代自身がそれに乗ってしまったという、価値観の「ずらし」のようなものが発生したのではなかったかと思います。

「BLの子供化」は、一見すると女性の表現の自由を主張しつつ、じつはストレート男女の共同作業によって、若い女性自身のうちに偏見を内面化させていくという、厄介な現象だったんじゃないかと思います。

ゲイ界から見ると「何やってんだ、あの人たちは」というものだったかもしれません。

彼らとしては「子供っぽい女性が二丁目まで来て騒ぐのは困る」と申し出ているのに、言えば言うほど女性が子供っぽくなっていくのです。

女性が「結婚せずに大人になる」とはどういうことか、答えを出しきれずにいた当時のフェミニズムにとって、やおい論は「鬼門」だったんじゃないかと思います。

そして更に厄介なことは、今なおこれを克服できずに自虐を続ける中年が、若い世代の孤立を深め、さらに自虐させるという、下降スパイラルを起こしていることではないかと思います。


【子供を口実に創作する日本。】

日本は、保守的な大人社会が受けいれがたいと思うものを「どうせ子供が見るものだから」という言い訳のもとに大人(の一部)が描いて、リリースするという習慣があります。

NHK朝の連続ドラマは、子供たちが登校した後の午前8時半頃の放映・お昼の再放送です。本当に大人が見ることを想定しています。これには、ドロンジョ様のようなボンデージ女王様は登場しません。

日本人でも、お金さえあれば、金髪の女性を雇って、SM的な服装をさせ、エロティックコメディを演じさせることは不可能ではありません。

本来ならば、大人が多くのお金を投じて楽しむべき、外人女性との交流・逸脱的な性への憧れが、子供に見せることを口実に、アニメとして提供されたのです。

「子供にエッチなものを見せれば、いい商売になる」

これは海外から見ると、それ自体が児童の搾取というふうに映るかもしれません。言葉の壁をこえて、世界という大型巨人にのぞき込まれる現代ですから、これには抵抗するにも賛同するにも、真摯に対応する他ありません。笑っても誤魔化されません。


【二次創作には自虐する理由があります。】

二次創作であることと、BLであることは、よく混同され、「ロリは大丈夫だと思うけどBL化は無理」と言う人もあれば、原作ファンの目に留まるところで二次創作を発表するなという話なのに「男同士の何が悪いのですか」となることもあります。

男女カップルでさえあれば、純愛物語のSM化という原作破壊が万人に受け入れられるとは限りません。

作家の男女を問わず、二次創作という権利的に明快でないものを敢えて自己表現手段とすることは、「石畳を掘り起こして投石とする」という、弱者の武器に例えることもできます。

当事者にその意識がないとしても、「出るところへ出れば黒」である行為を続け、売上アップを求めて宣伝するということは、存在自体が現行法への抵抗運動を意味します。

これが「現行法」という権力に対する弱者であることを主張し、「どうせ若輩者の話は聞いてもらえないし」と自虐することは、理にかなっています。

また、理にかなうことをもって、好きな二次創作を続けるというループを起こすことも、それはそれで理屈です。

抵抗運動自体は、してもいいのです。少数派には「勝手に多数決で決められちゃかなわんよ」という権利があります。

座り込み抗議に対して、機動隊が対応すれば大騒ぎとなり、報道もされますが、工事が始まらない内は、テントを張って居座り続ける人がいても、世間はあんまり気にしなくなるだけです。

ただし「毎晩騒がしい」となると、違ってくるかもしれません。

二次創作の理由を勘違いする人もいますが、金のためなら他のことをしてもよいので、書いたり読んだりすることが一番得意だと思う人が、わざわざ自腹で続けているには違いありません。

誰も「二次創作をしろ」とは言っていません。「好きでこんなことしてるわけじゃない」と言う人は、早めに他をあたって、人生の意義を見つけると良いです。


【一次耽美が自虐する理由がないのです。】

一次創作BLは、なんだかんだ言って認められています。揉める元になりやすいのは、二次創作です。

「オリジナルBLを書きました」という女性へ、ほかの漫画家が「なにをぉ!?」と怒りを表明することは無いです。

多くの一次BL作家が、ゲイ作家と仲良くやっていると言っても良いでしょう。「表現の自由」を尊重する創作仲間だと思えば、そうなります。

一次作家が自虐する理由って、あんまり無いのです。「応援してくださる読者様のために心を籠めて書きました」と言って良いです。男性にだって、応援してくださる読者様がいるでしょう。

「山なし落ちなし」とは、二次創作という身分をぼかすためのものです。「山も落ちもありませんが、二次創作です」という意味であって、BL全般を指す言葉ではないです。

誤解されがちですが、「BL全般に山も落ちもないです」という意味でもありません。そのように真に受けて「私はエロしか書かなかった」という人は、その人自身の理解力の問題です。

「二次創作としてのBL」というか、「BLとしての二次創作」が、そんなことになるとは思っていなかった原作ファンを驚かせたり、原作者を怒らせたりすると「まずい」と思われたから、二次創作に関してのみ隠語を使ったというだけです。

「腐女子」も、誤解されがちですが、アニメファン女性全般を指す言葉ではありません。アニメファン女性=二次創作BLファンではありません。二次創作BLを求めるアニメファンが同人誌即売会へ殺到したからといって、「逆もまた真なり」ではありません。

これが分からない人は「数学が苦手だったかな」と思います。

オリジナルとしての耽美の発表場所は、1970年代以来、いくつかの専門誌や単行本レーベルが存在し続けています。

ネットのない時代には、アニパロとしての耽美の発表場所は、ほぼ同人誌即売会しかあり得ませんでした。

「おもに即売会で二次的耽美作品を発表する若い女性」が「やおい」と自称していると勘違いされたのですが、これが摂食障害が原因であるとか、トランスゲイであるとか、成育史に問題があるとか、いろいろ言われたので、それらが一段落した頃になって登場したのが「傷んだ少女」という言葉でした。

表面的には「ワープロ誤変換を見てウケた」というジョークなのですが、意味合いとしては「いろいろ不本意なことを言われて傷ついた」とか「もう不貞腐れてやる」とか「はばかりながら、くさっても女子です。男(みたいに単純)じゃありません」とか、いろいろ微妙なものを抱えているだろうと思います。

でも、あえて言えば、一次創作というのは、それらの鬱屈を乗り越えて正当な自己表現手段を獲得した状態なわけで、技量を認められればそのままプロ化できるという「夢」をも内包しています。

理屈としては、自虐する必要がないのです。スポーツ選手などと同じように「夢に向かって頑張っています」と言っても良いはずなのです。

2014/12/15

【つり橋理論から同性愛は生まれません。】


ストレートが「ホモになる」ってことは、ありません。

「危険をともにした男性同士は下半身を交えたくなる」と考える人は、BLの読みすぎです。

自分自身が「災害避難の際に、隣のおばさんと何かしたくなるか」と考えてみると良いです。

「でも相手が美青年だったらどうなの?」というのも、同様に自分が質問された場合を想定してみると良いです。

男性が女性に「モデルの○○ちゃんみたいな可愛い女の子が相手だったら、きみも変な気分になる?」と訊いたら? 「ええ、なるわ。濡れちゃうわ」と言わせようとしているわけで、セクハラです。

もし「私はこの問題について女性の口から解説してほしいのではなく、自分好みの男性の口から『やめてくれよ』って言わせたいのよ」ということであれば、セクハラです。

逆セクハラという言い方もありますが、男女は平等なのですから、逆もなにもありません。セクハラはセクハラであり、人権侵害です。

飲み会シーズンになりますが、どちら様もお気をつけ遊ばしますように。


【ゲイを弱い男だと思うのは偏見です。】

ゲイタウンは、女性へ向かって「俺と今夜(だけ)つきあわない?」という男性がいないことが想定されるので、女性が安心して飲みに行ける街かもしれません。

その際は、どうかお店へボトルを入れてあげて、静かに大人のお酒をたしなんで下さい。

ゲイタウンの外でストレート男性からセクハラ発言を受けたから、お返しに女性がゲイへセクハラ発言して良いわけではありません。

「ストレート男性を怒らせると怖いが、ゲイなら怒らせても怖くない。ストレート男性には殴られるのが怖くて言えないことを、ゲイになら言える」というのであれば、彼らを「女に負けてホモになった弱い男だ」と見なしている証拠になるかと思います。


【僧院における衆道はパワハラ。】

水上勉『男色』に描かれたように、僧院などにおける衆道は、立場の差を利用したパワハラの一種です。

繰り返しますが、女性が男性に「あなた、性的なパワハラを受けたことある?」と訊けば、セクハラです。

中世におけるパワハラを「稚児のほうから喜び迎えてくれた」というふうに、最大限に美化して描いたのが『稚児草紙』。

「腹やよし」と評された若衆側の「そんな恥ずかしいこと、店の外で言ってほしくない」という気持ちのほうは表現されていないのが『閑吟集』。

あれらは、もしかしたら本当は相手のいない男性の夢の爆発だったのかもしれません。


【男性による美化の繰り返し。】

団鬼六『花と蛇』のような、女性が性的被害に遭う物語は、男性目線で美化されているから許しがたいという説は、ずいぶん前に指摘されました。この説は「だから、女はBLに向かうんだ」と続いていくこともあります。

が、衆道に関する物語は、同様に男性目線で美化されたものです。本来、女性が「相手が男の子なら、どんな行為も許すわ」と言える筋合いはありません。

女性作家が稚児さん趣味の男性を主人公に描くのは、女性が男性の後ろにくっついて歩く状態の一種に過ぎません。

まだ海のものとも山のものともつかない若年者へ、もともとは女性とおつきあいしていた男性が、ふと何かに背中を押されたように向かっていくという式の女流創作物は、何なのか。

じつはストレート男性作家が「俺もその気になっちゃった」と書いたことは殆どありません。水上などの純文学者が書いたのは「ゲイボーイの気持ちは分からないが、夜の蝶として生きる他ない彼の寂しさは、売れない作家である自分の寂しさと似ている」というような境地です。

男としては美しすぎる彼を愛したから幸せになれたのではなく、愛せないから寂しいままだという気持ちです。

ここで、つり橋理論の曲解に戻ります。美しすぎる男性を愛してしまったという物語は、それを構想する女性自身の「もし、そういうことがあったら面白いじゃない?」という気持ちの表現でしかありません。「背中を押した」のは女性ですが、それは創作上のアイディアとしてのみ許されることです。

ミステリ作家は「現実に猟奇事件が起きたら面白いよな。みんなもやってみろ」と言っているわけではありません。ロリ派は実際に虐待を好むといわれたら、断固抗議するでしょう。


【創作物とは。】

能楽の脚本は、源氏物語・平家物語に基づく二次創作で、「昔の人が幽霊になって出てきて、当時の話をしてくれたら面白そう」という思いつきによっています。

これに向かって「幽霊なんか出るわけねーじゃん」とは言わない約束になっています。

創作物や、演劇というのは、ばっさり言ってしまえば嘘八百です。たとえ実際の社会問題を取り上げ、観客に行動を促す内容の演劇だったとしても、観客がその場で「俺がかわいそうな娘さんを助けてやる」と立ち上がり、ステージへ上がってきてしまうと困ります。どこかに「おはなしですから、本気にならないでください」という言い訳が前提されています。

つまり、あえて言えば、すべてのフィクションは、嘘と知っていて「真顔をする技術」であり、努力です。

架空の人物の心理を書き上げ、演じ通したときには鑑賞者に感動を呼ぶことを知っている人が、心を籠めて書いたり、演じたりするものです。

逆に、実際に昔の人に会いたいと切望する人に「お能だったら幽霊が出てきてくれるんだけど」と言ってみても、「だから何なの?」という話でしかありません。それは「自分は古典に詳しい」という自慢でしかありません。

同様に、現実の男性へ向かって、「BLだったら寄宿舎で相部屋になった若者同士は結ばれるんだけど」と言ってみても、それは「自分はBLに詳しい」という自慢でしかありません。



2014/12/13

【女流が憧れた耽美的生活とは。】


潤一郎、久作、由紀夫、龍彦、足穂、鬼六。

男性の耽美派が、企業間闘争や戦争叙事詩を書くことは少ないものです。冷静に読むと「部屋の中でエッチなことばかりしている」という要素は、確かにあります。

若きシャンソン歌手・丸山明宏の周囲に集まったのは純文学者でした。潤一郎は琴、久作は小鼓を題材に取り上げたと思います。音楽は天文学に通じると紹介したのは龍彦でした。天文を愛したのは足穂でした。

産業革命の時代は、膨張主義と富国強兵、「生めよ増やせよ」の時代でもありました。人を増やす必要があったのは、兵隊が必要だったからです。

それに反して、星を眺め、遠い過去に思いを馳せ、可愛い男女を従えつつ、PTA業には忙殺されず、音楽を聴いて暮らす。戦争色に倦んだ男たちにとって、それは望ましく、慕わしい生活だったのかもしれません。

美に耽る生活は、生活苦にある人には許されません。国家的責任が重く、日夜忙しく、どこへ行っても新聞記者につきまとわれるというような人にも、じつはあんまり許されません。

それを楽しむことができるのは、貴族(華族)の血を引きつつ、戦後政策による壊滅をまぬがれた「中流の上」くらいの人。悪の大企業として庶民から攻撃されるほどではないが、嫁さんの実家の援助で苦労知らず。やっぱりそんな感じになります。

それは、男一匹、社会の荒波に立ち向かって意気に感ずというふうではありません。だから退廃であり、耽美です。

してみると、女流が憧れたのも、そのような男性像です。

「漫画しか読んだことがないままに、二次的創作活動に入った」と主張する人があるなら、尚のこと、漫画を当たる必要があります。

二十四年組、まつざきあけみ、岸裕子などが1970年代に描いた美少年漫画には、その相方として二十代後半から三十代前半と思われる青年たちが登場しました。

それを描いた女流漫画家自身が、まさにそのような年齢でした。

セルジュは、やがて職業ピアニストになるべき男です。おそらく彼は、若き日にジルベールから与えられた旋律を一生かけて展開させ続けるでしょう。それがどうやら歳を取ってから青春時代を回想したという体裁を取っているのが竹宮作品『風と木の詩』です。


【男の先輩、女の先輩。】

ここでワトソン医師とホームズを例に出せば、ワトソンは「まんまドイル」です。彼が驚異の目を見はって見守る探偵は、恩師ベル博士です。

ドイルはベルと一緒に暮らしてみたかったんだろう、となります。べつに同性愛を邪推しなくても、博学な先輩と一緒に暮らして様々な話を聞いてみたいという気持ちは、多くの人の中にあるでしょう。

漱石の場合は、三四郎くんも坊ちゃんも「まんま金之助」でしょう。情報量の少なかった時代には、実体験以外に詳述できるわけもありません。

この、主人公=ほぼ作家という男性の手法を取り入れるならば、本来の女流耽美は「二十六歳の女性が未成年男子を囲いものにして暮らす生活」になります。

もし、それを描く人がいたら? 

少女誌での連載は不適切かもしれません。でも読みきり単行本として出せないことはありません。潤一郎や久作をちょっとひねった作品として、まさに「女流の耽美派」の名で宣伝することもできたと思います。

描きたければ描いて、発表が許されなかったら「表現の自由」とダダをこねてもいいのです。ほかの女性に「およしなさいよ」と止める権利があるわけでもありません。

もし「ある」と思われていたならば、女流漫画家が遠慮したのは男性社会ではなく、女性社会ということになります。男の先輩なら味方になってくれる人もいるが、女の先輩のほうが怖い。これは現在にも通じる現象かもしれません。

そもそも女性キャラクターが大活躍する漫画は、描かれてはならなかったでしょうか?

もちろん、そんなことはありません。最初が『リボンの騎士』ですし、1970年代に入れば男装の麗人もパワーテニスプレイヤーも輩出されました。そばかすをチャームポイントに明るく生きる孤児の少女の連載が始まったのは1975年です。

とすると、女流耽美漫画の眼目は、「社会の荒波に立ち向かい、意気に感ずる女一匹」を再び描くことではなく、「膨張主義的総力戦への忌避感と生活の余裕をもって美少年を囲いものにする退廃女性」でもなく、「そのような男性」を描くことです。

男性に挑戦する蛮勇か、女性への遠慮か。解釈は多様ですが、ともかく表面にあらわれた要素は、いわゆる「攻め」の側の彼のカッコ良さを描くことです。だから彼らは未成年者略取の咎で逮捕されたり、社会的な屈辱を受けたりすることがありません。

そのような男性が少女を囲いものにする漫画も書かれて良かったはずですが、これは男性によってさんざん表現された後ですし、女性漫画家の手からも(詳細な性描写はないまでも)少女キャラクターが経験する悲劇の一要素として描かれていたでしょう。

とすると、「女性が強く感情移入した退廃男性による少年趣味を描いた漫画」というのは、すでに存在するものの間に針を通すような、アイディアと勇気の産物だったのでしょう。


【非BL派。】

とすると、ボーイズラブが面白くない人は、美少年趣味の男性に感情移入できない人ということになります。あるいは、美少年趣味の男性に感情移入する女性作家に感情移入できない人ということになります。

二次創作BLに反対する女性というのは、原作ファンの男性におもねっているわけではなく、「私の好きな○○くんを貴女の一存で攻めとか受けとか決めないで」という、二次創作ファン女性への反感のほうが強いこともあります。

その反感が「ああいう女は女性キャラクターに感情移入できないんだろう。かわいそうに、女として失格だ」と言わせるわけですが、女性キャラクターに感情移入できない女性がもれなく男性キャラクターに感情移入できるという保障はありません。

「あんな女子アナは嫌い」という女性が「男子選手が男子アナと結婚するなら認める」というとは限りません。女子キャラも嫌いだがBLも嫌いという女性読者も、けっこういるものです。

逆に、女性キャラクターに感情移入できる女性が、男性キャラクターにも感情移入できる可能性は、じゅうぶんにあります。そもそも少女漫画を読んできた経歴がなければ、少年キャラクターを(男性が眉をひそめるほど)少女的に描くという動機も、技量も、磨かれていないはずです。

んなわけで、ベルばら的な華麗な表現と、ボーイズラブの極彩色表現の地続き感が納得されるわけです。


【強い女性もいろいろ。】

日本女性の「社会進出」は、かつてに比べれば大きく伸張しましたが、どうやら女性作家の筆からSM女王様の話はあんまり生み出されていないように思われます。少なくとも表立って称賛されません。BLだって表立って称賛されませんから、レディースSMもあるところにはあるのでしょうけれども。

じゃあ、今なお女性は表面的に我慢しているのか。じつは「かろうじて許される範囲」として、ちょうど二十六歳くらいの女性が、同世代だが少年的な容姿をもつ男性をお相手とするドラマが、日本製・韓国製を問わず、流行しているはずです。んで、それはべつに女性が男性をわざと肉体的に傷つけ、屈辱を与えるという話ではないはずです。

男性(の一部)が切望するような女王様を自ら演じたがる女性は、結局のところ、あんまりいないらしい。じゃ俺が描く、となります。現実味のない美少年と、格闘技に優れた女性指揮官といったキャラクターは、ちょうど対称の関係にあるんじゃないかなと思います。

この手の結果論がなんの役に立つかというと「ああ、そういうことか。なんとなく分かった気がする」と思って頂いて、少し落ち着いてもらうためです。



2014/12/12

【活字を貪った1950年代における耽美派と他分野の混淆の可能性。】


「竹宮恵子先生の『風と木の詩』は本当にすばらしい。私はぜったい漫画家になりたくない。小説を書こう」

話がおかしいです。

「漫画市場」開催(1975年)、『風と木の詩』連載開始(1976年)に先行して、パロディとしての耽美小説というものが行われていたと考えれば、話は簡単です。

コミックマーケットの初開催に際して、主宰者が号令したのは全国の「漫画」サークルだったと伝えられます。「コミック市場」なのだから、そりゃそうでしょう。

そこへ耽美小説が出品されたなら、漫画サークルが文芸サークルを誘ったか、文芸サークルが人脈を頼りに勝手に参加したかでしょう。なお、当時のサークルとは、本当に複数人による部活動的なものでした。両方へ出入りしていた人もあったかもしれません。


【活字に飢えていた1950年代。】

三島由紀夫が精力的に活動していた1950年代は、SF御三家と手塚治虫が活動を開始した時期でもありました。

戦争中に若い人が困ったことは「読むものがなかった」ことだといいます。従軍した人が活字に飢えるあまり、胃薬の説明書を大事に携帯し、繰り返し読んだという話もあります。

平和と出版の自由が戻って間もない1950年代、「思想書も耽美派もSFも少年漫画もぜんぶ読んだ。妹から奪うようにして少女漫画も読んだ!」という人は、あんがい多かったのではないでしょうか。

だからこそ「手塚のこれは何だ。くだらない」って言う人もいたのです。

でも、逆に「リボンの騎士なんか下らねェよ」って言う人はあんまりいません。男性が少女漫画の価値さえも認める下地が、敗戦後の物不足の日本には、あったのだと思います。

そして、その旺盛な読書欲と「俺も何か書いてみたい」という気持ちから、さまざまな作品の印象が混淆した新作が生まれることは容易です。

漫画は特殊な技法です。「小説のトキワ荘」という話はあんまり聞きません。漫画は「実際に描いているところを見て覚える」という徒弟修業が必要だったのでしょう。

それに比べて、活字を読んだ人が「俺も文章を」と思うことは自然です。


【耽美化。】

女性だって、日本では戦前から多くの人が女学校へ通っていました。戦後まもなく新制大学へ進んだ人もあります。

火のないところに煙を立てることは、じつは80年代やおいの発明ではありません。

海外の探偵物語を読んだ人の何割かは、日本人の俳優を探偵役に、学校の同級生を伝記作者の役に当てて、顔立ちをイメージしながら新作を書くということをしてみるでしょう。勝手にキャスティングするという点で、後の二次的耽美と手法が同じです。

「後の二次的耽美」がSFアニメから始まったといっても、女性が宇宙戦艦や巨大ロボットを確実に描く例は少ないものです。それは小説の形だったでしょう。メカニックや戦術について詳細に描写されることもなく、戦士たちの「オフ」における恋愛模様だけが描かれたものだったでしょう。

それは、明らかに先行する耽美派の模倣です。

潤一郎だろうが龍彦だろうが由紀夫だろうが、耽美派が企業経営や大戦争叙事詩を描くことは少ないもので、冷静に読むと家の中でエッチなことばかりしているという要素は、確かにあります。だから「男一匹」という感じではなく、退廃であり、耽美なわけです。

それは戦争に倦んだ男たちにとって、けなされたとしても、望ましく、慕わしい生活ぶりだったのかもしれません。そして、それは女性にも理解しやすい事柄だったでしょう。

未来戦争物語の耽美小説化とは、戦士たちの退廃化であり、家庭化であり、女性化であり、籠の鳥化であり、女のロマンなわけです。

それが1970年代に起きたことなら、1960年代にはテレビドラマから、1950年代にはミステリー小説から起きていたとしても全く不思議はありません。

肉筆誌か交換日記のようなもので嗜まれていたものが、ついに即売会という場を得て、出品されただけです。

それがアニメと結びついたことで時宜を得て盛んになっただけで、もし開催されたものが「小説マーケット」というものであり、出品されたのが本格SFを読んだ人にしか分からないというものであったならば、これほどの展開は見なかったでしょう。


【耽美の定型。】

手塚は活字によってSFを消化することにより、未来物語を描くことができたといいます。描画に先立って、プロットを大学ノートに絵コンテではなく文字で書きつけることも、ごく当たり前だったでしょう。

後の時代の女性が、ろくにプロットも立てずに「山も落ちもない」恋愛物語を書くことができたのは、すでに定型が確立していたからです。では定型は、いつ確立したのか。1980年代にとっては1970年代だったとして、1970年代は何を参考にしたのか。1960年代です。1960年代は? 1950年代です。

歴史は断絶しているようで継続しています。何もないところからは何も生まれません。順にさかのぼって行けば、戦前にたどり着きます。戦前は江戸時代へ通じ、近世は中世へ通じ、その前にはシルクロードを介した東西の交流があります。

しつこく申しますが、そこにおける少年趣味は、成人が男役で、少年が女役という形でしか与えられていません。新作の構想は、その定型へ「誰を当てはめるか」という選択の自由でしかありません。

これを本末転倒させて「なぜ組み合わせるのか!」「なぜリバーシブルではないのか!」と疑問に思えば、答えは出ません。

「私は漫画しか読んだことがない」と変な自慢をしてしまう人もいますが、漫画家自身はいろいろ読んできたのです。

いわゆる耽美の手法について、80年代をつついても、たいしたものは出てきません。前代の模倣をお互いの間で繰り返しただけです。言えることがあるとしたら「真似のうまい子供たちだった」ということだけです。

もし、現代のBLが面白くなくなったと言われるなら、読者のほうは長いこと掛けて鑑賞力を上げてきたのに、作家・編集者のほうが1980年代に同人界で確立されたエロティックコメディの形にこだわっており、その模倣を繰り返しているからです。

2014/12/11

同人の世代交代が、やおいの語義を変えたのだと思います。


「DJ」なんて言葉は、昔は聞かなかったのに、「専門業界ではそういうふうに呼ぶんだ」ってことがテレビなどを通じて伝わると、一般の人も使うようになるものです。

やおいという言葉は、女性作家みずからプロデビューに際して「恐れ入りますが、わたくしのことは耽美ではなく『やおい作家』と呼んでくださいませ」っていうことは無かっただろうと思います。

その言葉がプロ作品を掲載する雑誌上や、単行本の帯に「期待のやおいデビュー!」などと踊ることはありませんでした。

アマチュアが「みなさま、今日もやおいの研鑽に励みましょう」とか「わたし達、ずっと良いやおい仲間でいましょうね♪」ってこともなかったと思います。

それは、女性が男色を描くこと一般を示す言葉ではありませんでした。耽美はもう古いので、やおいのほうがオシャレってことではありませんでした。

それは、最初から最後まで、コミュニティの誇りを示す言葉ではありませんでした。じつは、コミュニティ内部で使われる言葉ではありませんでした。

では、アマチュア作家には誇りがなかったのか。いいえ。

二次的といえども、テレビ番組への深い愛情と尊敬をこめて、丁寧に制作した作品・自費出版誌が存在しました。ワープロが普及していなかった時代は、清書も手書きでした。細かな字で丹念に書いたのです。彼女たちに、その創作カテゴリをあえて尋ねれば「……やっぱり、お耽美かしら」って答えただろうと思います。

自分を「どうせ山も落ちもない」とは思っていなかった人々がいたのです。

じゃ、その言葉はなんだったのか。

本当に外部へ向けて、「こんなのは山も落ちもないんだから真に受けちゃダメよ。こんなものに夢中になってないで、早くおうちへ帰りなさい」という場面で使われたものじゃなかったでしょうか。

1976年発表『風と木の詩』を高校生で読んだ人は、1979年には18歳以上の成人に達しています。アニメのパロディ自体は、'76年よりも前から始まっていた節があります。

成人が性的な要素を含むパロディ作品を発表しているのを、年下の人に発見されたら、最初の反応はどのようなものでしょうか。

「ちょ、ちょっとやめて。見ないで」じゃないでしょうか。

まして「こういうの書いてもいいんですか!?」なんて改めて訊かれた時には?

プロ漫画家サークル『らぶり』が「親愛なるアマチュアの皆様、今日から『やおい』を合言葉に、アニメを茶化してやりましょう。著作権が何さ!」と言ったわけはありません。その言葉に特殊な意味をもたせて、勝手に使い始めたのは同人でした。

同人は「足を洗う」などと言いました。長く続けている年長者ほど、そうでした。元々はまじめな大学生だったくせに(だったからこそ)、ちょっと悪ぶるのが面白かったのです。

そこから考えると、若い新参者に対して「いいのよ、どうせこんなもの」って言い方をすることは、ありそうなのです。

それを真に受けて「ああ、こういうのはやおいっていうんだ。私も書いてみよう」と思ったのは、若い新参者でした。

5年も経つ間には、13歳だった人が18歳に達し、成人雑誌を手に入れて、意欲的に性描写を深めていくことが可能になります。

その間には、1976年の高校生が20代後半に達し、仕事の責任が重くなったか、結婚したかして、少しずつ「足を洗って」いったでしょう。

1985年頃までに、山なし落ちなしという言葉の本来の意味がずれて伝わってしまったという、世代交代劇があったんじゃないかと思います。

それは、勘違いと、短絡と、模倣の繰り返しでした。

そして、それを真に受けて「少女たちが自虐してまで男色を描こうとしている。どんな心の闇があるのか」と考えた大人たちは、とんだ茶番に巻き込まれたんじゃなかったでしょうか。


2014/12/10

【やおいという言葉を使った気持ちは伝わらなかった。】


本来、耽美派というのは「男色を描く流派」ではありません。

田村俊子や三島由紀夫のように、夕日が森の梢にたわむれるとか、波の弧が互いに犯し合うとか、自然界の無機物を擬人化した比喩を多用して、煎じ詰めれば世俗的な痴情のもつれでしかない物語に、詩的・非日常的・劇場空間的な味わいを与えるのが非常にうまい人々のことです。

(という理解で進めます。)

耽美主義文学の素養がある人が、SFアニメを鑑賞し、その感動をもって「主人公の青年が宇宙戦艦の窓から遠い星々の輝きを望見する場面」を描写したら、何が起こるでしょうか。

男児向けの殺伐としたアクション系テレビまんがだと思われていたものが、一転して詩的な文学となるでしょう。うまく書ければ。

カメラをぐるりと廻すと、青年自身の眼の中に遠い星々の輝きが反映しているでしょう。彼がその澄んだ眼を転じると、傍らには深く信頼する兵学校同期である男性士官の姿があります。

いっちょ上がりです。

これが数年もかけて繰り返された形跡があるのに、それはアニパロとしか自称しなかっただろうと思います。だからこそ「同人誌=アニパロ=二次創作BL」という混同が、今に至るまで続いているのです。


【同人誌の入れ子。】

正確には、同人誌>パロディ>アニメのパロディ>二次創作>二次創作BL>非常に性的な二次創作BLという具合に、入れ子状に輪が小さくなっていく包含関係です。

同人誌には、俳句集とか、自伝とか、ラーメン食べある記とか、いろいろあります。

ハムレットの有名な台詞をパロディにすると「To be, to be Tomb be」になります。「なすべきか」ではなく「飛べ 飛べ とんび」です。(出典忘れました)

「アニメのパロディ」には、同様にシリアスなアニメ番組に登場した台詞を、単純に混ぜっ返してギャグにしてしまうというのが含まれます。

二次創作というと、創作=フィクション=虚構の構築ですから、ギャグからもう一歩すすめて、原作の背景事情を考察し、自分なりに小説や漫画の形にしたものとします。男女の情愛や、家族愛を描いたものが考えられます。一例は、ダースベイダーの育児奮闘記。

二次創作BLは、原作の文脈を意図的に無視するもので、ひじょうに流行しているかのように思われており、誤解されがちですが、本当にせまい分野です。

即売会というところにそれが集まっているから、圧倒的なように見えるだけです。

その中でも、ひじょうに性的なものは「性を描く」という明確な意図をもって、先行する官能文学を参考にしたものです。団鬼六をもじったペンネームを持った人もいたものです。

ものすごくニッチなターゲットに合わせた嗜好品です。カクテルにアルコールを添加して度数を高めたみたいなものです。それがスタンダードのように思っちゃう人は、即売会に居過ぎた人です。


【念を押すべき相手。】

三島・澁澤などを代表とする耽美派は、本来、子供に読ませるものではありません。

フリガナの振ってないハードカバーは、子供には読めません。殺人的ダンディズムとか言われても困ります。生活苦を知らない子供が田村『木乃伊の口紅』を読んでも全然おもしろくないと思います。

森茉莉が中年で、竹宮恵子が26歳だったように、女流の稚児趣味としての耽美も、本来は大人の女性が自分で楽しむものです。

それと男児向けアニメの混淆というのは、最初から「混ぜるな危険」なもので、その発想自体が大学生の知的ジョークだった可能性があります。

それは、『風と木の詩』の発表に先行していた節があります。それは、1970年代末に至るまで、とくに変わった名前で呼ばれることがありませんでした。後の時代の呼称を知って「私が○○様を描いていた頃は、そんなふうに呼ばなかった」と思っている先輩が、きっといます。

それは、ふいに名前をつけられる必要にせまられました。考えられるのは、外部勢力の介入です。

家族の中では「また『あれ』にしましょう」で通じるものを「あれって何ですか」という人。それは、よその人です。

家族の中では「これは、よその人には分けてあげられないものだから内緒よ」という約束が了解されているのに「これはよその人には意味のないものだから教えないでね」と念を押さなければならない相手。

それは、たまに来るお客さんです。

それは、1980年代に入って急に増えた若い人々だったのでしょう。

ごく初期の耽美系アニパロは「大学ノートに手書きだった」と伝えられます。製本前の段階として当然のことでしょう。それを廻し読みする人々の間では「あれの続きが書けたわ」で通じるはずです。

大学・高校の耽美文芸サークルが、オリジナル漫画サークルや、硬派なアニメファンの耳をはばかって「次の即売会にもあれを出しましょう、あれよ、あれ」と言っている間も、本人たち同士の間で通じているので問題ありません。

それを「こういうのは山なしなのよ」と言うべき相手。

それは、サークル会員ではない若いお嬢さん達です。会員の妹であったり、その友達であったりする「一見さん」です。「山なしだから、おうちの人に見せないでね」と念を押すべき相手です。


【宣伝されなかった名前。】

「こういうのは山なしよ」と言った人は、それをテレビで発表しませんでした。

ラジオへ投稿して、パーソナリティに「やおい同人誌、作ってま~~す♪」と読んでもらった人もなかっただろうと思います。

1980年代前半の専門誌には、文通相手を求める掲示板ページがありましたが、そこに「やおい同人誌、できました♪」という宣伝が掲載されたこともなかったと思います。

まして一般新聞の「同人誌」欄に、俳句や短歌の同人誌と並んで「やおい誌」が載ることはありません。

それは、本っっ当に外へ知られてはならない言葉でした。外で使われてはならない言葉でした。1970年代から耽美系二次創作活動をしていたお姉さん達は、それを本当に隠しておきたかったはずです。

彼女たちは「どうせ竹宮恵子も山なしよ!」とは言わなかったでしょう。それは自分たちのことに過ぎないことを、よくわきまえていたはずです。

「山も落ちもないの。ごめんなさいね」と言うべき相手は、偉大な先輩たちであると同時に、迂闊な後輩たちであった可能性を申し上げておきたいと思います。


【伝わらなかった気持ち。】

80年代の若い人の中には、萩尾・竹宮などの市販作品を「こういうの、やおいって言うんでしょ」と念を押す人があって、不思議に思ったものです。それらは、今さら隠語で命名しなおしても意味がありません。市販品ですから。

即売会で出会ったサークルのお姉さん達が「やおい」と称するものを購読し、「こういうのは竹宮先生の作品を参考にしたのよ」という説明を真に受け、「竹宮もやおいの仲間だ」という勘違いを起こした人。

それは、80年代の若い人々でした。

名づけられ直さなければならなかったもの。新たな客に対して、秘密にしておいて下さいと念を押さなければならなかったもの。それは、二次創作としての耽美でした。

でも秘密にしてほしい気持ちは、伝わらなかったみたいです。


【伝統の断絶、短絡の鍛錬。】

1976年に16歳で『風と木の詩』を読んで、そのパロディ(としてのアニメ二次創作)を描いた人も、1983年の春には大学を卒業して就職します。中には地元へ帰った人、早々に転勤を命じられた人もあったでしょう。

やがて、1986年には26歳となって、そろそろ結婚を考え、中には旦那様の実家がある土地へ移っていった人もあったでしょう。

そもそも竹宮が『風と木』を書いたのが、この年頃でした。女性が「結婚すべきか、それが問題だ」と考える年頃です。創作物で自活していくことに決めた人が、何か大きな花火を打ち上げて、名を高めようと思う頃でもあるでしょう。

この頃から、二次創作としての耽美は、急激に質を変えていったようにも思います。

仮に「アニパロ=耽美=男色の性描写」という短絡が信じられたとして、そこから性の部分の描写だけを詳細化することが試みられたのです。もちろんそれだけが試みられたのではありませんが、重要な柱のひとつでした。

これを洗練とみるか。堕落とみるか。それが問題です。


2014/12/09

【百合族、薔薇族、茉莉派、ポー・コンプレックス、竹宮派、やおい派。】


百合族というのは、ストレート(異性愛者)の編集者が女子同性愛を「女性のナルシシズムによるもの」と勘違いした挙句に、ナルシシズムの象徴である水仙と白百合を混同して命名したもので、生来のレズビアンの象徴とするには不適切なはずなんですけれども、イメージが美しいので当事者が好んで名乗ることもあるようです。

男性創作者による二次的創作物の一種が「百合」と呼ばれることもあり、これは「異性愛者による捏造としての女子同性愛表現」なので、適切なようにも思われます。

薔薇族も同様な勘違いによる命名で、現代のゲイは「俺たち薔薇族だぜ」っていうことはなくなったようです。

海外では rose はゲイの象徴ではなく、ゲイ団体が薔薇の造花を胸に飾るなんてこともありません。「日本のゲイに限って bara を自称する」というトリビアが広まっており、日本の当事者によって撤回運動が地味に展開されているようです。


【薔薇趣味。】

むしろ「雑誌の表紙に掲げられた内藤ルネ描くところの美少年に憧れ、あるいはピーター主演映画に驚異の目を見はり、男色全般を美少年愛好癖とイコールだと勘違いし、それを話題にしたがる女性」こそ、薔薇趣味と呼ばれるにふさわしいような気もします。

男色を美青年愛好癖として描いたのは三島由紀夫の『禁色』なので、「また三島先生の『禁色』のような作品を読みたいわ。他に無いなら自分で書いちゃおうかしら」ってのは「禁色派」かもしれません。

実現したのが森茉莉なので、やっぱ「茉莉派」が正解かもしれません。

薔薇とジャスミンならイメージが美しくて結構なことです。


【中年女性の孤独。】

森茉莉『恋人たちの森』は、田村俊子賞を受賞した通りで、本当のテーマは「中年女性の孤独」です。

美男同士が寄り添い合うとき、置いてけぼりにされた女性が思いつめ、凶行に及ぶもので、「グラビア写真などで美男同士を見かけた女性が、羨望のあまり彼ら同士の身の上に悲劇を想定する」という心情をよく表しているんじゃないかと思います。

思うに「美男同士に悲劇を望む気持ち」は、現実のゲイを差別してやりたい気持ちとは違うのです。ミステリ派は現実に殺人事件を起こすわけではありません。ロリ派は実際に虐待を好むと言われちゃ断固反対するはずです。

ただし、もっとも茉莉らしさを表しているのは、父親との交流を描いた『甘い蜜の部屋』なので、茉莉派といえばファザコンのようでもあります。

後の時代に、中年女性の悲哀表現をそぎ落とし、男性同士のメロドラマが量産されたことを思うと、その原型を示しているのは『枯葉の寝床』のほうなので、「枯葉派」が正解かもしれませんが、やや印象が違うような気もします。


【ポー・コンプレックス。】

「原作では性愛関係が明示されていないのに、血の契りとか、義兄弟とかいうモチーフから、読んだ女性が勝手にロマンだかエロスだかの情緒を覚える」現象というと、その嚆矢と見なされる萩尾望都『ポーの一族』から「ポー・コンプレックス」が導き出されて然るべきじゃないかと思います。

歴史上の有名人に憧れ、誰かれ構わず自分の創作の文脈に取り込んでしまったのは、青池保子『イブの息子たち』ですが、強く影響された作品としてその名を挙げる人は少ないようです。

掲載誌が秋田書店『プリンセス』という、知名度的に微妙なものであることが影響しているのかもしれません。歴史の予備知識が必要なので、もともと大ヒットするタイプの作品ではなかったのかもしれません。

そして今ごろになって一般新聞でも紹介される金字塔が竹宮恵子『風と木の詩』ですが、なぜここから「竹宮派」とか「ジルベール・コンプレックス」とかいう単語が生まれてこなかったかと思います。


【ジュネ派。】

竹宮が少女コミック誌上で連載を続けるかたわら、表紙絵を提供したのが、少女漫画誌とは別に美少年愛好癖だけを取り上げた専門誌『JUNE』でしたから、この趣味に呼応した人々というのは、まずは「ジュネ読者、ジュネファン」ということになったのでしょう。

雑誌のタイトルを取って、その投稿者・追随者が呼ばれることが普通です。白樺派とか。

『JUNE』が創刊されるまでの数年間には「わたし『ポーの一族』と『風と木の詩』が特に好き」と言う人をなんと呼んだのか。本人はなんと自称したのか。たぶん耽美で済んでいたのでしょう。

作品を指して少年愛とはいっても、自分を指して少年愛者ということはあまりなかったので、なんとも自称しないものだったのかもしれません。

正確にいうと「男性による少年愛を横から観察する趣味の者」なので、長たらしいというか、呼称しにくいのではあります。

べつに女性に限るとは決められていません。ストレート男性の中にも「美少年なら分かる」という人が昔からいただろうと思います。

いっそ誌名が『ジルベール』だったら「ジルベール趣味」で通じたので、話が分かりやすかったかもしれません。


【絵の少年への愛。】

創作物の登場人物に過ぎない異性への特別な愛着は、「少年探偵団コンプレックス」(略してショタコン)という言葉を真に受ければ、戦前から意識されていたのだろうと思われます。

少年倶楽部などの雑誌に、高畠華宵などが描いた美少年が掲載されていたのですから、とくに当時は実際の交際がしにくかった現実の男性よりも、兄弟が所有する雑誌の中に発見した「絵の少年」に初恋を抱くということが、ひそかに生じていただろうと思います。

漫画という技法のなかった時代には、その少年の次なる活躍を、「絵を思い浮かべながら小説に書く」ということが行われたでしょう。

物語の主題は、もっとも単純には少年探偵に次の事件を与えてやれば良いので、これを得意とした人は、児童文学やミステリーの分野へ向かったかもしれません。

現在のBL雑誌というと漫画が主流なのに、同人について解説するというと、その文章力に注目されるものです。二次創作という作業が、戦前から連綿として小説の形で受け継がれてきたことを示すのではないかと思います。

小説は途絶えることなく続き、並行して漫画が成長しました。

華宵も海外を参考にしましたが、フランスの少女向け雑誌と内藤ルネ作品・日本の少女漫画の類似性も明らかで、華宵以上に海外への憧れを掻き立てるルネのタッチで少女ではなく少年を描いたものが、ついに少女漫画の主人公となったとき……。


【海外への羨望。】

すでに少女は軍人やテニスプレイヤーとして大活躍していたのに、少年には格闘技の分野で次々と敵を打ち負かしていくサクセス・ストーリーではなく、心身の成長と鍛錬を封じられ、あるいは大人の吸血鬼の犠牲となり、あるいは大人の性犯罪者の犠牲となる役目が与えられたのでした。

ここに女性の支配欲、羨望、復讐心、その背景にある現実的な無力感などを見ることは、不可能ではありません。ただし、そういうものは創作物一般の動機であって、美少年趣味の女性だけが特殊なのではないはずです。

日本人の少年ではなく、明治以来日本人が憧れてきた西欧白人貴族文化の担い手となるべき良家の子弟が成長を封じられ、玩具とされるというモチーフに、性別にかかわらず日本人としての復讐心を見てもいいでしょう。

じつは『風と木』のすぐ横には、『宇宙戦艦ヤマト』がありました。欧米各国の政府が滅亡した後で、日本人の若者が地球を救う使命を帯びて戦う男のロマンを燃やします。茶髪でしたが。

男たちが金髪の美女をナビゲーターとして、目指す先も金髪美女の待つ星としていたとき、女たちは金髪の美男をなぐさみ者にしていたわけで、女は怖いという話なのかもしれません。

なお、この時点で竹宮は20代後半の成人女性であり、『ファラオの墓』などの連載を成功させた後で、充分な成功体験と自活の手段を得ています。


【slash。】

じつは「アニメを見て、本来その関係にない人物たちを仮に恋人同士として描く」という創作アイディア自体は、『風と木』にはるかに先行して行われていた節があります。

海外では、登場人物を「人物A/人物B」と列記するところから、間にある記号の名称を転用して「slash」と申します。これが一番冷静に状況を表しているようにも思います。

slashは、1960年代にテレビドラマから派生しました。これは着想の方法からいって、映画スチルから受賞作を構想した茉莉と同じですが、じつは必ずしも悲劇の文脈に落としていく必要はありません。

茉莉は、離婚後の独り暮らしでした。もっと若い女性が恋愛に夢を持っている状態では、寂しい女性の凶行(の象徴となる男性による凶行)よりも、ハッピーエンド型のロマンスが好まれることは充分に考えられます。

女性が「複数の美男を見かけると、恋愛ドラマを連想する」という現象は、複数の美男が打ちそろって彼女の眼前に登場するという(現実世界では起きにくい)奇跡が映画・テレビによって与えられると同時に始まったもののようでもあります。


【コミケ同人、やおい同人。】

コミック・マーケットは、『コミックマーケット』という題名の雑誌が創刊されたと考えることもできますから、そこへ(本来は募集されていなかった)アニパロ作品を投稿して、いつの間にか雑誌の顔のようになってしまった流派を、男女を問わず「コミケ同人」と呼ぶのは正解なのかもしれません。

(昔は「OUT同人」と一部かぶっていたでしょう。)

「アニパロはエロス表現に限ること」なんて、誰も決めていません。サッカーアニメを基に、ドリームチームを結成して、海外クラブユースと戦う話を描いたって良いです。

と考えると、アニパロの中でも特殊な要素を持つので「原作ファンの方も是非ご覧下さい」とは言えない種類の作品だけを、隠語で呼んで区別する必要があったことになります。

ネットふうに言うと「裏サイト」でしょうか。慣れない人は、かえって興味を引かれて「裏に何があるの?」と真顔で訊くでしょう。「山なし落ちなし」というのも、むしろ逆に「何なら有るっていうの?」と質問したくなるような言い回しです。

これは、つまり「言えないことが隠してある」ことを勘づいて、黙って頷いてくれるような人に対してだけ耳打ちされる隠語であり、本来は外の世界へ喧伝されるものではなかったのです。


【アニたん。】

「アニメによる耽美」を今ふうに縮めれば「アニたん」ですが、ついにそう自称することも、呼ばれることもなく、プロによるオリジナル作品を指す「耽美」とは違う名前を欲した結果が「やおい」でした。

「山も落ちもないけど、いいものがあるのよ」という言い方には、二次創作としての耽美の存在が前提されています。「いいものって、あれよ」と言えば「ああ、あれね」って分かるわけです。

「女性が読むべきものでありながら、大きな声では言えないものが存在する」という知識が共有されています。

茉莉作品、または竹宮作品のことなら「竹宮先生の作品を読んだことある?」で話が通じるわけですから、それ以外のものです。

当たり前ですが、1950年代があって、1960年代があり、1970年代があり、1980年代があるわけです。

「ジルベールが好きなら and/or 『JUNE』の読者なら、こっちも読んでみる?」というわけで、『少女コミック』や『JUNE』から客を奪っていった過程があったと思われます。

これは、同人誌即売会の軒先を借りて母屋を取った・小説投稿サイトへ一斉投稿してランキングを占領するなどとの行動とも一脈通じるようです。

今に至るまで「私たちが勝った」かのように気を高ぶらせている人がいる理由でもあるでしょう。アニメ人気に乗じただけなのですが。


【単純化。】

コミックマーケットは、本来オリジナル漫画を募集したところだったはずで、最初から「アニメの著作権を無視しましょう!」と呼びかけたわけはありません。

漫画は小説よりも「新しい」と感じられたはずで、アニメはもっと新しいと感じられたでしょう。

ガリ版刷りの時代に売れ筋というほど利益があったかどうかは怪しいものです。当初は、金目でもエロスでもなく、とにかくアニメを話題にすること自体が(ごく一部で)最先端と感じられたのでしょう。

女性の悲哀を、詩的な比喩を多用した特徴的な文体によって表現することの一種である、いわゆる耽美(女性による衆道表現)そのものは、上述のとおり、根が深いです。

アニパロを、よりによってその形式で提出するというのは、当然ながら「耽美文学もアニメも両方鑑賞する」という、ごく珍しい人によるジョークのようなものだったでしょう。

それが低年齢者の手に渡ったとき、起きたことは「そこから耽美文学の源流へ向かって向学心をさかのぼらせて行く」という文学修行ではなく、「これってホモじゃん!」という短絡的な感想を基にした、「耽美=男色の性描写」という単純化でした。

いつしか「エロティックなアニパロを描くことが、コミケの参加条件である」かのように短絡する人が増え、先行作品を盛んに模倣し、持ち込んだので、「そればかり」という観察結果を生じたものです。


【分析されるべきだったもの。】

野菜市場のまんなかで「何故ここの女性は野菜ばかり売るのか! どんなトラウマを抱えているのか!」と叫んでも無意味です。

野菜を持ち込むべき場所だと思われているから、野菜を持ち込んだだけです。

叫ぶなら「なぜ若者は無反省に他人の真似をするのか!」ですが、この答えは簡単で「人間だから」です。人間は「まねぶ」ように出来ているものです。

とくに若い人は、世間がせまいので、他の可能性にあまり思い至らず、眼前に与えられた通りに模倣し、提出するものです。

師匠・先輩のいうことを聞く人がいないと、流派が伝承されませんから、じつはコピーのコピーのコピーであること自体が悪いわけではありません。

真に分析されるべきだったのは「なぜ誰も彼らに著作権と人権を尊重することを教えないのか」「なぜ作文と写生の技能が伝承されていないのか」「この国の教育はどうなってしまったんだ!?」という、大人社会側の問題だったのかもしれません。




2014/12/08

【少年愛の切なさとは。】


元々この話題を始めたのは、地方新聞のひとつが、竹宮恵子の京都精華大学学長就任を伝えるにあたって、代表作として『風と木の詩』を紹介し、「少年愛は切ない」と書いたことに触発されて、まずは「ゲイ差別につながるのを避けたいな」と思ったことによっています。

だから、新宿二丁目などにおけるトラブルにも、時々言及しています。


【三種類の混同。】

少年愛の切なさとは、元々は「成人男性が第二次性徴発現前の男児を性愛の対象としても空しい」ことによる切なさです。

これを潔く諦めることが男のダンディズムであるという境地は、稲垣足穂『少年愛の美学』にあますところなく表現されているかと思います。

次が「成人女性が第二次(中略)または、それに似た女性的な形質を備えた美青年に憧れても空しいこと」による切なさです。

一世を風靡したフランス人俳優に、日本の片隅から憧れた森茉莉は、後者の代表でしょう。

なお、稲垣足穂は「美青年などいない!」と言い切っており、ちょっと可愛い顔した成人男性をもてはやす世間並みの風潮への忌避感、ひいては女性が代表する日常性への興ざめ感を表明しているかのように思われます。

これには「女の一人として腹立つ」というよりは、星々と形而上を愛した足穂の面目躍如たるものがあるってことで良いと思います。

竹宮恵子は、筋骨たくましい男性を上手に描くタイプの漫画家ではありません。

デビュー作からして男児の姿をした森の妖精を主人公にしており、海外の少年合唱団の活躍をレポートするなど、筋金入りの少年趣味者であることを明かしています。

これが「女性の表現の自由」であることは当たり前で、本来「表現の自由」とは男女の別なく保障されているものであり、わざわざ「女性の」なんて言う必要もありません。


【創作物の役割。】

これらの「切なさ」が、創作物の上で慰撫されることを求めるのが、成人男性が若年者を性愛の対象とする模様を表現した作品群となります。古くは各地の神話にも見られます。

愛する側は、大神ゼウスであり、ギリシャ神話界のスターとも言える銀弓神アポローンです。彼らは未成年者略取のかどで断罪されることがありません。

女性による衆道表現も、やはり女性が自分の象徴・一種の道具として、カッコいい男性キャラクターに働いてもらったものと見て良いでしょう。

古代ギリシャ神話には、女神が青年を洞窟へ閉じ込める姿も描かれましたが、これが女性詩人による発案だったとは確認されていないわけで、もしかしたら「女神に囲われてみたい」という男性ナルシシズムの産物だったかもしれません。

逆に、天駆ける男神と、花に変じる美少年との交流に胸ときめかせた古代ギリシャ女性が「絶対にいなかった」とも申せません。


【少年同士。】

古代ギリシャ神話・英雄伝説における少年愛は、成人として描かれた男神・英雄が男児を寵愛するものです。

日本中世における稚児愛好・近世における若道も、同じパターンでした。

森鴎外に至って、「生徒同士」が表現されたはずです。その娘は、ふたたび年齢差のあるカップルを描きました。

1970年代の女流漫画家にも、年齢差のあるカップルを描いた人は多いのですが、生徒同士が取り上げられた作例が増えました。

ここで「少年同士の愛は切ない」って言っちゃうと、ゲイ差別意識が克服されていない社会では、ただちに「男同士はヤバイ」という偏見の助長につながって行きやすいわけです。

強調しなければならないことは、「男女を問わず、通学中の未成年者同士の性愛は不適切である(と、大人が見なす)」点であり、また、それに過ぎないことです。

これは、パターンとしては出会いの年に13歳かそこらだったロミオとジュリエットが、まだ家計的に自立できず、厳格な親の監督下では結婚できないことと同じです。

その幼さゆえの悲劇を、大人の作家の筆でわざわざ描いて、読んだ人が「泣ける~~」という心理は何なのか。ナルシシズムかもしれませんし、ルサンチマンかもしれませんし、消費かもしれませんし、搾取かもしれません。

いずれにしろ、本来、若年者同士の切なさは、大人が描いて、大人が読むべきものでした。男子生徒がロミオとジュリエットに憧れて女生徒に心中をせまっても危険ですし、逆もまた然りです。

遠い過去の海外の美少年同士だから架空感が強いことをもって、それを女性に読ませても模倣の心配はないから大丈夫だとしても、その女性が現実のゲイカップルに心中をせまるのでは危険きわまりないと言えます。

実際に口に出して心中をせまった女性は、いないかもしれません。でも「男同士は切ない」と言い続ければ、結果的に実在者を追い詰めていることになります。


【諦めるべきもの。】

少年趣味者が諦めるべきものは、彼の少年性です。

創作物上では、少年は第二次性徴を迎える前に急逝してしまいます。あるいは、彼の美しさを見つめながら、大人のほうが客死します。

これは少年趣味者にとっての夢の実現であり、それだけです。

同性愛だから、ヤバイので、どっちかが死ななければならないということではありません。

男同士の切なさとは、まずはそれを鑑賞する女性自身が動悸の高鳴りを覚えることによっています。眼前に美男が二人もいれば当然です。

そして、彼らの間に割り込んではいけないことを知っているからこその置いてけぼり感・寂しさに由来するものであって、それに過ぎないことを確認しておくのが良いと思います。

割り込んではいけないことを知っている女性は、実在同性カップルの会話に首をつっこむべきではないでしょうし、彼らの時間を奪って自分の説教や、身の上話を聞かせるべきでもないでしょう。

大人とは、少年を諦め、孤独に耐える人のことのはずですが、迂闊にも「少年愛漫画は少女が消費するもの」と定義されてしまったのが、トラブルの始まりでした。

2014/12/07

【BLは、なぜ組み合わせるのか。~オリジナルの未来】


拳闘家が一人いたら、何が起こるでしょうか。シャドーボクシング以外に何も起こりません。マッチメイクが必要です。

男性が女子テニスプレイヤー(のキャラクター)を好きになったら「試合の相手を見つけてやらないとなァ」と思うでしょう。

「二人で試合を行う」というルールが与えられていれば、二人の選手を見つくろって、興行を掛けようと思うのは当たり前です。

BLは、なぜ組み合わせるのか。「すでにそのようなルールがあったから」です。

女性(の一部)が何かの拍子に「女性ではなく美童へ勝負をかける男性がいる」ことに気づき、そのような試合の自主興行を決意したからです。

「私は漫画しか読んだことがない」という人は、その漫画家が何を参考にしたか、さかのぼってみれば良いです。

いわゆる二十四年組の作品を一読しただけでも、東西の古典文学、近代の英仏独文学、それに私淑した近代日本人作家、クラシック音楽、歴史に関する素養が見て取れます。

それらの教養において「美童のほうから勝負かけられちゃった男性」もいたという知識は、あまり得られません。差しつ差されつという関係も、あまり描写されてきませんでした。

衆道を男女の比喩でとらえたのは男性です。女性的な美貌を愛すべきものとして賞賛したのも男性です。もしかしたら、そのような男性は、小松左京と同じような「イメージとしての美童趣味なら分かる」というタイプだったのかもしれません。


【量産型にもとづく偏見。】

同人誌即売会というところでは、それ(の量産型)が売れ筋と信じられ、そればかり持ち込まれたから「女性同人には組み合わせる趣味の人しかいない」という誤解が生じ、「同人誌とはアニパロです」と言い出す人もいれば、「アニパロとはエロです」と言い出す人までいた始末です。

この量産型は、例えて言うと醸造段階から自社開発した酒ではなく、市販の酒とソーダを買ってきて同じ紙コップに入れただけで「カクテル100円」と称して売るという、バザー活動みたいなものです。

即売会は即売会だから、何かを売るところです。物語を原稿用紙へ清書し、製本し、わざわざ交通費を支払って即売会場へ持ち込む人は、売るつもりであるに決まっています。

でも、世の中には、一文の得にもならん活動を喜ぶアマチュアも大勢います。その人たちは、べつに組み合わせない二次創作を大学ノートに書き溜めているかもしれません。


【即売会の陥穽。】

即売会は、元々オリジナル作品の切磋琢磨を図ったらしいのですが、ひとつ陥穽があったかと思います。

同人誌市場が未発達な段階では、漫画で生きていくためには「初出オリジナル作品」を出版社へ投稿する他ありません。

丁寧に描いたオリジナル作品は新人賞応募用の隠し玉にしておいて、即売会では似顔絵的なものを売って、次の活動資金(原稿用紙やインク代)にするという、模擬店活動が行われる下地があっただろうと思われます。


【オリジナリティの発掘。】

量産型を製造する工場は、操業させておいてやればいいと思います。100円ショップ向けの量産工場へ「チェリーニみたいな工芸品をつくれ」とか言っても無理です。

美術工芸品が欲しい人は、自分の手に技術をつけるか、地道な活動を続けるアマチュアを見つけ出して、資金を提供するほかありません。即売会へ乗り込んで、それをやってるのが出版社です。模擬店に「隠し玉」を供出させるわけですが、これは投稿・持込の方向を逆にしただけです。

漫画・アニメ分野の弱いところは、いわゆる同人だけを見て愚痴を言う人が多く、全国の自治体においてアマチュア活動を奨励するというようなことが(あまり)成されないところです。

同人を批判するほうも「テレビ」という中央発信の媒体にとらわれ、「アニメ関連以外に個人的に漫画を描き続ける素人などいない」と信じるという視野狭窄に陥っているところがあると思われます。



2014/12/06

【自虐する人は、他虐する人です。~二次創作の未来。】


「どうせお前も同じじゃん」と、他人を巻き込みたがる人です。

「一緒に悪いことをしようよ」と、他人に甘えたがる人です。

自虐とは、自分を虐待することです。

虐待は、次世代をになう若い人の健やかな成長のために、気づいた大人からやめていくのがいいです。


【四十代の大学進学率は低いのです。】

いまの四十代が大学に現役合格する年齢だった頃の進学率は低いのです。しかも非婚率も低いのです。

背景となる出生数が多かったから、大学が定員一杯に採用しても「率」が下がるのですが、大卒のほうが給料が良いものなら、いまの四十代は「大卒ほど給料が良くないのに結婚し、懸命に子育てしている」人が大勢いることになります。

子供たちの進学率は50パーセントに達しようとしています。多くの四十代が、今まさに大学生・高校生である子供たちの学費を捻出するために、懸命に働いているでしょう。

彼らに向かって「お前らの子供を同人誌に夢中のニートにしてやろうか」とは申せません。

が、ロリショタが非婚者であれば、その作品をもてはやし、追随者となって、お金を落としてくれる若者は、自分たちの中からは再生産されない道理です。よそ様のお子様を「ころばせる」他ありません。大学進学を機に上京した若者を引きずり込む他ありません。

昔の大人は、アニメそのもの・同人の存在そのものを知りませんでした。1980年代を共に過ごした今の四十代は、オタクという存在を知っています。

四十過ぎても親の金でフィギュア代金を着払いさせるという話は、一般新聞の人生相談にも載っています。

それを読む同級生は、スマホを使いこなし、ネットへアクセスする人々でもあります。

彼らが同人活動を見る目は、かつてなく厳しくなっていると思えば良いでしょう。

せめても「同人活動は適度な娯楽です」「本業と両立させています」とでも言っていく必要があるでしょう。


【二次創作をうまくやるとは。】

原作者が「二次創作はうまくやってくれ」という真意はなんでしょうか。

「ぜったいに見つからないでくれ」です。

たとえば時代劇の悪代官が悪徳商人に禁制品を横流しして「うまくやれよ」と言えば、「ツイッターで宣伝しろ」という意味ではありません。

歌謡曲の歌詞改変・TPP・クールジャパンと話題が続いて「著作権」および「コンテンツ産業」というものへの国民の関心が急速に高まったところで黒バス事件が起きたので……

原作者・出版社・テレビ局などへ「同人誌って何だ。お前らが許可したのか」という質問・苦情の電話などが入っていることが予想されます。

昔は実家の親へ向かって「どうせ説明しても分からないんだから黙ってて」ということができました。

今どきの中高年は、PC検索を使いこなします。かつて政府を相手にバリケードを築いた世代は、今や企業窓口を見つけ出して電話を掛けることを引退後の生きがいにしているそうです。新聞で読みました。

インサイダー取引の話題以来、一部だけが得をしているという話を許す世の中ではないことがはっきりしました。成人式から逮捕者が出て以来、若者が騒ぐことを温かい目で見守ってくれる社会ではないことがはっきりしました。

ツイッターを一斉メールと勘違いして「遊び」のつもりで冷蔵ケースへ入った写真を流す人は、損害賠償請求を受けます。差別発言をした人は解雇されます。

この時代の変化について行けず、二次創作は金目だの遊びだのと一般に不謹慎と思われやすいことを言ってしまう人は、先輩でも仲間でもありません。「昔、自分はうまくやった」と自慢したいだけの人です。

おっさんが「俺の若い頃には毎晩ちがう女をナンパしてやったもんだ」と自慢したがるようなものです。


【昭和が終わっていきます。】

残侠も、仁義なき極道も、鬼籍に移りました。

アニメも漫画も二次創作さえも、次代に引き継がねばなりません。

ファンアートには、確かに新人育成意義があるからです。国民の理解と共感を得ねばなりません。

なぜ国民なのでしょうか。なぜ昔はそんなことを言わなくても良かったのでしょうか。同人誌即売会が宣伝も中継もされない完全な密室だったからです。


【若い人々の反感。】

中年同人が即売会において「いつまでやってるんですか?」と言われた時は、創作意欲がどうこうではなく、「早く席を空けてください」と言われています。

参加資格が抽選制では、国会と同じで、年長者ががんばっていると若手が当選する確率が下がるからです。

若い人は、クレヴァーです。常識人に戻ろうとしています。来年の成人式でも逮捕者が出るとは限りません。春には入学間もない大学生が歓迎コンパで泥酔死などという事態を防がなければなりません。

若い人は、同級生が100万ちょっとしかいません。その人数で、自分たちに倍する中年を、いずれは支えていくことを期待されています。『進撃の巨人』序盤で表現されたのは「僕らは腹の出た中年に食われてしまう」という、若い人の危機感です。


【社会の危機感。】

「金のためなら、もっと悪いこともやるんだろう」と言われたとき、「しませんってば。今まさに社会のルールを守って暮らしてるじゃないですか。こんな善良な僕らに向かって失礼な」と言い返しても説得力がないのが、二次創作者です。

現行の著作権法がある以上、同じロリショタでも「鬼門」と言えるのが二次創作です。


【複製とオリジナルのバランス。】

二次創作者とは、低学歴者ではありません。

読み書きの得意な人々ですから、ある程度の高学歴者です。日本人は世界でも例外的に識字率が高いので、自分のことを「いやいや学校へ行っているだけの落ちこぼれ」だと思っており、エリートであるという意識が低いのですが、世の中、大学や予備校や進学校へ行きたくても行けない人は大勢います。

大学全入時代といわれながら、実際には全入していません。現役進学率が50パーセントにせまる勢いとは、逆に言えば60パーセントくらいの人が大学へ行きたくても行けないのです。

数少ないエリートに受け継がれた「課題提出をコピーで済ませる」という精神性を克服し、アップル社のような独創的な作品(商品)を生み出す精神性を育てていく必要があります。

それは、何もないところからは生まれません。

本物の発明者は、百年に一人の天才です。自動車も、コンピューターも、既製品の改良を重ねて、ここまで来ました。歌手の卵は既成の曲を練習して喉を鍛え、評価を受けます。二次創作も「そこから新しいものが生まれるはずだ」という意味を与えていく必要があります。

同人誌即売会は、即売会ですから、何かを売っているのは明白です。金のためとは、わざわざ言う必要がありません。

売ったものの「意味」が重要なのです。

「お客様の笑顔が見たいから」「伝統の技と誇りで」「心を込めてお届けいたします」

さまざまな業者が言うとおりです。


【そしてこれから。】

ここんとこ企業・自治体がもてはやす美少女・美青年・赤い猫は、慣れない大人の眼から見ると「アニメの絵」ですが、漫画を原作にしたテレビ番組の登場人物ではなく、ビデオゲームの登場人物であるところがミソです。

少年漫画誌は、女性に人気のあった連載を終了させ、巨乳少女を表紙に掲げるようになりました。

もともと少年誌が女性客を取り込むことにしたのは、本来の購読者である男児が1975年以来の顕著な少子化によって減ったことと、それさえもゲームに奪われたからです。「ねェマンガ買って~~」と親に言うのは、1975年にすでに11歳だった野比のび太だけです。

ファミリーコンピュータの発売は1983年。有名なサッカー漫画のアニメ版放映年と一致します。よそのお兄さんの活躍をぼんやり眺めるより自分が戦ったほうが面白いに決まっています。お兄さんの活躍を喜んで眺めてくれたのは、お姉さんでした。

今や男性読者が美少女を求めて少女漫画誌を購読する現象が顕著となれば、少年誌が少女化する道理です。やがて女性が読むに耐えない雑誌となっていくでしょう。

二次創作がなくなっても即売会がつぶれることはありません。オリジナル作者を「神」と呼び、新しいブームを起こせば良いです。スポンサーがつけば、アニメ化やグッズ展開も可能でしょう。

ネットで時々行われている「企画」と呼ぶ競作体制を、読みきり単行本レーベル化して通販すれば、大手出版社と契約しなくても済みます。

漫画の個人ビジネス化と言った人がいますが、すでに音楽の世界では定番化しているように思われます。

地方自治体のマスコットキャラクターがフリー宣言してしまったので、従来の有名キャラクターは苦戦している模様です。盛んなコラボは苦肉の策と思われます。

「まずアニメありき」にしたければ、出版社の一社提供により、人気漫画家にキャラクターデザインさせたアニメを、アニメプロデューサーが二次創作フリー宣言するというのが一つの手かなァなどと思っています。


2014/12/05

【新しいメディアは庶民の武器ですが。】


インターネット(ツイッター)を「素人に鉄砲」と言った人がいましたが、新しいメディアって大体そういうものです。

古くは活字本の普及によって宗教革命が起きたんじゃなかったかと思います。

識字率が低ければ落首(政治を風刺する落書き)も意味を成しませんが、教育が普及すれば気の利いた短歌が板塀などに書き付けられることになります。

ダンスもメディアの一種で、踊り念仏などは社会運動の意味を持っていたでしょう。

評判を呼び、見物人を集め過ぎれば、取り締まりが始まります。

取り締まりに対して権利と誇りを主張し、抵抗しきれば、旧教に対して新教が立てられ、権力の後ろ盾がつき、地図が塗り変わるということになります。できるだけ無血革命が望ましいです。

広く庶民一般に受け入れられるためには、その教義が時代のニーズに合っていること、あまり逸脱的に感じられないことが重要です。

たとえば大教会へ何もかも寄進するのではなく、こつこつ蓄財することが新しい時代に受け入れられました。が、血を捧げるとか、働かずに儀式ばかりやってるというと、参加者も長続きしませんし、周囲からの危険視が強まります。打ちこわしなんてのも本人たちは憂さ晴らしになりますが、周囲は困ります。

修道院は自分たちで畑を耕すので迷惑視されません。托鉢僧は、たくさん欲しがらないことが重要です。

落首などは、少なくとも現在の先進国では、政治を批判するのも風刺するのも「表現の自由」とされているので、素人もブログなどを書いていられるわけです。

「フリー」とは「自由」でもあり、「無料」でもあります。

庶民は言論と風刺を自由に楽しみ、娯楽を無料で味わいたくて、いろいろやらかします。

政府がウィスキーの醸造に高い税金を課し、事実上の独占とすれば、密造が後を絶ちません。庶民は密造酒を楽しんで、黙っています。

資産家が資産を独占したとき、それを盗み出して貧民街へ投げ与える義賊がいれば、庶民はお上に対して彼の正体を明かしません。本当にそういうヒーローがいたか分かりませんが。

Tumblr のようなサービスは、最初は多くの人に面白く感じられたでしょうが、だんだん「洒落にならん」という声のほうが高まったと思います。動画投稿サイトも工夫するようになりました。

著作権法は、著作物の利用権を著作者が独占するものですが、べつに庶民いじめではありません。多くの場合、著作者自身も庶民の一人です。

最初に書いた人にとって「これは自分のもの」という所有意識が感じられるのは当然で、アマチュア作家さえも自分が案出したキャラクターを「うちの子」と呼ぶ通りです。

せっかく書いたものが売れなくて、他人が真似して書いたものの方が売れるのでは、オリジナル作品を発表する人は他の生業につかなければなりませんから、表現活動に充分な時間を取れず、才能を発揮できなくなります。

オリジナル作品を発表する人がいなくなれば、真似がうまい人のほうも共倒れという、微妙な要素を持っています。

というわけで、著作権法は「根本的には守られたほうが万人のため」なのです。

二次的利用者は「オリジナルをこつこつ描くより金になる」とか「原作より、うちのほうが面白い」とか言わないことが重要になります。原作がつぶれては二次の明日もないからです。

「調子に乗りすぎ」など、周囲の反感が高まれば、過激な規制も始まります。

したがいまして「どうしてもキャラクターが好きなので描かせてもらっていますが、あんまり利益にはなりません。若い人は真似しないほうがいいですよ」ぐらいに言っておくのが、リップサービスというものです。

同人誌即売会は、即売会ですから、何かを売っているのは明白です。そこで密造酒にあたるものが売られて、買った人は黙っていたわけですが、ちょっと行列が伸びすぎました。

会場キャパを越えた時点で通販専業化できれば良かったのかもしれませんが、単なる出版業者の展示会ではなく、コスプレと会話を楽しむ「場」としても機能していたのが良し悪しだったと言う他ありません。

来年で40周年になるはずです。そろそろ規制も始まる道理です。これに対して、どう「権利と誇り」を訴えていけるか、その運動自体が社会の反感を生まないかどうかが重要だろうと思うものです。

2014/12/04

【火のないところに煙を立てるのは普遍的な創作技法です。】


じつは「やおい論」混乱の根本にあるのは、創作作業一般への認識の低さです。

社会学者とは、小説を読んだことのない人たちだったのでしょうか。

(論文しか書いたことがなかったとは言えるかもしれません。)


うっかり「やおい」という流行語を使わず、「女性が衆道を創作のテーマにする現象」とでも冷静に言っておけば、分析・解説の混乱も防げたでしょう。

「お気に入りの俳優などをイメージモデルに、定型化された物語の新作を構想する」(たとえば俳優の一人を刑事役に、一人を悪役に指定する)などと考えれば、創作活動としてごく当たり前のことで、わざわざホモソーシャルがどうとか言い出す必要もありません。

ホモソーシャルをホモセクシュアルにするという話は、分かりきった手法を学術っぽく言い直しただけで、「だから何なのか」「なぜそれを一部の女性だけが好むのか」「定型化した物語そのもののイメージモデルは何だったのか」という疑問にまったく応えていません。

だから何なのかと問われれば、「面白い」と答える他ありません。

誰も「男女物語には面白いものがないから、本当はいやでいやでたまらないのに、悔し泣きしながらBLを読んでいる」ということはないはずです。

なぜ面白いのかと問われれば、根本的には「すてきな男性が二人も出てくるから」になるでしょう。女性好みではない男性が登場しない所以です。

BL派と男女派の有意差は発見されていないので、二番目の質問には答えがありません。両方読み書きする人も存在します。

三番目の質問の答えは「ゲイ界の観察」ではなく、すでに男性作家が美化して伝えてきた悲劇としての衆道物語です。もっとも古い代表はギリシャ神話。1970年代初頭の時点で最新の情報は、1969年映画『薔薇の葬列』か、1971年映画『ベニスに死す』。

「既成作品を下敷きに、同じ人物配置で、ほかの作品に登場していた俳優などをキャスティングしたつもりで新作を構想する」という作業自体を「おかしい。そんなことする必要はない」と指摘して、禁止するのであれば、すべての小説が禁止になります。

ホームズとワトソンを下敷きとした「探偵と記録者」の組み合わせを持ったミステリーは、簡単に発禁にできる理屈になってしまいます。

ホームズとワトソン、ロミオとジュリエットに、古い挿絵などによって形成されたイメージとは違う雰囲気をもった俳優を当てて、新たな面白みを狙うといった映画も、作ってはいけないことになってしまいます。

なぜ、創作技法として当たり前なことが、ことさらに「やおい少女」の異常を示すかのように取り沙汰されたのでしょうか。

「やおい論」の根本にあったのは、じつは「BLだけは、他の創作分野と比べるまでもなく、特別におかしいことにしたい」という奇妙な意志です。






2014/12/03

【紅葉は冬の到来を告げているのだろうと思います。~サブカルの田舎くささとは】


「秋たけなわ、紅葉シーズン」なんてテレビの言い方を真に受けてしまいがちですが、銀杏の葉が黄色くなると、もう冬です。畑は霜柱で真っ白です。銀杏のかたわらでは柚子が鈴なりで、鍋料理の美味しい季節です。

秋というのは、旧盆の頃、風が少し涼しくなって、夜になると虫が鳴き、妙に明るいと思ったら夜空が澄んで月がきれいだったという頃をいうのだろうと思います。

扇の風も生ぬるい空気をかきまわすだけだったのに、その熱がふと懐かしいように感じられる。海辺で一緒に過ごしたあの人どうしているからしら。その後、たよりもくれないけれど……

やっぱりこの感じが「飽き」であり、「秋」なのだろうと思います。松風も融も、この季節の情感を謡っているのだろうと思います。昔の人は正確でした。


【田舎くささとは。】

地元住民の努力によって守られた渓谷の紅葉を見て、「だせーー!」と叫ぶ人は少ないだろうと思います。

ときには心ない観光客や産廃業者が景観を損なうこともありますが、無礼な廃棄物は地元住民の手によって取り除かれ、地元住民が納めた税金によって処理されます。

地方人が歯を食いしばって努力するとき、真の都会人はそれを笑いません。

真の都会人もまた、都会と呼ばれる自治体に何代も前から住んで、自宅の前を清掃し、氏子神社と伝統の祭礼を守る人々だからです。

「ださい」とは、石田純一の言を信用すれば、「田舎」をわざと「たしゃ」と音読みして転訛させた若者言葉だそうです。それを言った人が誰かと考えると、おそらく都会の大学生です。

でも、それぞれの地方の誇りが守られているときは、「田舎い」とは言わないのです。では、言われるのは誰か。

都会へ出てきて日が浅く、都会に長く住んでいる人から見て服装や言動が「仲間」とは感じられない人です。それは、新参者に与えられるイニシエーションの厳しさであり、ルール違反に対する懲罰のようなものです。


【伝統の断絶が事故を生むのです。】

入会儀式が厳しいのは、新参者が先輩の言うことを素直に聞く人でないと、コミュニティに入れてやった後で先輩たちが苦労させられるから、それを確かめるためです。

だから、バンジージャンプをやらせるところもあれば、大酒を飲ませるところもあります。

バンジージャンプや、火渡りのような儀式は、そのやり方を知っている兄貴たちがいなくなった時代に若手だけで真似すると、ひじょうに危険です。

日本は学制自体が明治以来なので、日が浅いです。中世から存在する西欧の大学の足元にも及びません。その学生たちが動員をかけられた時代があったので、入寮儀式の伝統も途切れたか、まちがって伝わった可能性があると思います。

飲ませすぎによる事故は、「昔の学生は大酒を飲んで騒いだ」という伝説を模倣しているだけで、実体験を活かして加減を見計らい、「そこまで」と声を掛ける先輩が失われたことによるのではないかと思われます。

寮歌、その巻頭言などというのも、じつは戦後になって流行ったというものがあるのです。

もしかしたら「僕らそんなことしなかった」と思っていた大先輩が、いらしたかもしれません。


【そして同人。】

日本に限らず、若者のサブカルというのは、要するに「おのぼりさん文化」です。

ラジオ、映画、テレビ、ネットによって中央から発信・拡散された情報をもとに、見よう見真似で真似をして、腕試しのつもりで上京し、都会暮らしの先輩から「だせーー」という評価を喰らうわけです。

典型例のひとつが「俺は村中で一番モボだと呼ばれた男」でしょう。

それは、本物の金融街で働く男の着こなしを知りません。上流社交界におけるマナーを知りません。都会から興行に来た奇術師かなにかの服装を見て「男のくせに赤いものを身に付けるのが都会人だ」と思い込んだものです。

自作エロ本をかついで、あるいはそれを求めて、数ヶ月に一回上京し、銀座の高級クラブではなく新興ベイエリア地区に集まって、真の都会人には通用しない内輪ウケのブラックジョークを言ったり、先輩作家の陰口を言ったりすることは、都会的ではありません。

まして、駅構内を走り回ったり、有名人の墓に興奮して落書きしたりすることは、そこを生活の場・祖霊として大切にする真の都会人の反感を高めるだけです。


【放出品に憧れた戦後の若者たち。】

日本に限った話ではなく、アメリカには映画『乱暴者』『理由なき反抗』に描かれたようなオートバイ集団がいたようですし、イギリスには「モッズ」がいました。

あれは、大戦中にはまだ子供だったか、存在しなかったので、出征していない若者が、後になって放出された軍用品に憧れ、身につけたものです。出征して苦労してきた人々から見れば「あほか」と言うべきものだったろうと思います。

『宇宙戦艦ヤマト』は、1974年に放映されましたが、1945年の敗戦から29年目です。

22歳で復員した人は、1974年には51歳で、社会の中核を担っています。オイルショック下で苦労している真っ最中です。彼らから見て、茶髪のビートルズのような若者が、外人のような金髪女を連れて、菊紋を戴くべき戦艦に乗り込む姿は「ふざけるな」と言うべきものだったでしょう。本気で怒った人もいたかもしれません。

そんなアニメを「日本男児の誇り」のように勘違いして、もてはやしたのが、同人の先祖です。まだ健在です。


【真の地方人と、真の都会人と、臨海イベント。】

新しいメディアというのは、つねに庶民の武器であり、若者の自己表現です。

アニメが若者(の少なくとも一部)に受け入れられたのは、それが実写に比べて「新しい」と感じられたからでしょう。描いている物語は、要するに勧善懲悪で、白黒時代の時代劇や西部劇映画から変わっていません。

でも、その表現方法が「カラフルなイラスト(の連続撮影)である」という一点において「現代的で、若者らしい」と感じられたのです。

アニメに必要なのは、紙ではなく「セル」であり、発色のよいアクリル絵の具であり、そのカラフルさを伝える雑誌の印刷技術の向上であり、つまり最先端の化学技術の結晶のように見えたのです。

その化学技術が公害を生んでいた傍らで、仇花のように咲いたアニメをもてはやすのは、最初から「微妙」なものを含んでいます。

アニメ同人とは、アニメを元にした漫画や小説を書いて、まずは謄写版に挑戦し、次にオフセット印刷に目をつけ、それをカラー化し、さらにPC化(ネット化)したという、次々に新しい技術に「ついて行った」人々です。

中央が発信する情報と最先端技術に群がるおのぼりさん文化を「だせーー」と評価したい人は、おそらく真の都会人の仲間です。

情報と技術とその仇花であるアニメに憧れすぎて都会へ行ってしまう若者を「汗水たらして」と説得したい人は、真の地方人の仲間です。

新しいメディアを弾圧すれば、宗教戦争に似てきます。共存の道は「一定の版図を認め合う」ことになるのでしょう。




2014/12/03

【クリストフは男の夢。】


ディズニー映画『アナと雪の女王』に登場するクリストフは、プリンス・チャーミング、エリック、フリン・ライダーに比べりゃ冴えた外見とは申せません。

生まれながらの王子でもなく、学問もなく、幼い頃に保護者をなくしたらしく、氷採掘の労働現場に出入りし、トナカイだけを友達として過ごしました。恵まれた境遇とは申せません。

それが冒険に出た王女を助け参らせ、その功績によって王子様にしてもらえた……のではなく、王宮付氷運搬係として職業を保障されます。

これは現代人にとって、逆玉よりも喜びを実感できる褒章でしょう。娘と一緒に映画を見ていたお父さんたちは、彼の肩を叩いて「お前、よくやったなァ」って言ってやりたくなったでしょう。

娘たちには「本当にいい男ってのは、ああいうのだ。見た目にだまされちゃだめだぞ」って言ってやりたくなったでしょう。

でも、娘たちは聞いちゃいません。あの映画は「才能で姉に劣る次女が艱難辛苦の末に配偶者を得た物語」ではありません。

世界中のお嬢さんが憧れたのは「自分の手で自分の住む宮殿を建てて、好きなドレスを着て暮らす」ことです。

実際には、弾圧を恐れて雪山へ一人ぼっちで逃げてきて、見せる相手もいないのに「ありのままの姿を見せるのよ」と歌っているので、とんだ茶番です。

あの話のテーマは「引きこもっちゃいけないよ」「才能を世のため人のために活かすことが本当の生きがいだよ」「励ましてくれる友達の声に耳を傾けるんだよ」です。

でも、その昔に二十四年組漫画(の一部)を読んだ少女(の一部)が短絡的だったように、今の少女たちも短絡的です。誰も物語の文脈なんか読んじゃいません。

少女たちは、クリストフのような真の男に出会う以前に、自分自身が女王様になって独り暮らしすることに、すごく憧れました。

お父さん達にとっては、由々しき事態です。クリストフの存在感を強調したくもなります。ディズニープリンセスグッズに(野獣以外の)男性キャラクターまで描かれることは、珍しいのです。

今月に入って、やっとクリストフ・グッズが現れなくなったようなので、過熱気味だった流行の一段落とともに、お父さん達も落ち着いたのかもしれません。


2014/12/02

【即売会へ通っていれば、やおいをゲイだとは思わなかったでしょう。】


同人誌即売会へ通った、今でいう二次創作BLファンの一部は、ピンクハウスというブランドのドレスを着用したと伝えられます。バブリーな時代でした。

トランスFtoMゲイとは、男性です。たぶん多くの男性は、ピンクハウスのドレスを着ません。

彼らにとって、男の服装とは「男装の麗人」ではなく、ふだん着です。ユニクロのネルシャツにバスケットシューズのようなものを履いて、ふつーに男の子として暮らしているでしょうし、そうしたいでしょう。

昔から、白樺派・青鞜派など、雑誌の名前を取って同人(投稿者)を呼ぶものです。

同人誌即売会に集まった女性の一部は『やおい』という雑誌の投稿者だったと考えると、イメージしやすいです。即売会は、今でいうオフ会です。

その会合へ足繁く通っていれば、「こいつらの正体はゲイじゃん」とは思わなかったでしょう。ピンクハウスを着た投稿者同士の会話の内容も、ふつーに女の子らしかったはずです。

「スイーツ(笑)」と同じという声もありましたが、当たり前です。

百歩譲って「購読者はドレスを着たが、執筆者は硬派なトランスゲイ揃いだった」というなら、そのように訴える書籍の発刊を機会に、人権運動が開始されるはずです。

新宿二丁目を始めとする全国のLGBTと呼応すべきです。海外と連絡を取るべきです。虹色旗を掲げるべきです。「二丁目で騒ぐな」などというクレームを食らっている場合ではございません。

……実際には、たった一人で、自分自身の関心のおもむくままに小説を書いてきただけで、「やおい投稿者」と交流したこともなければ、日本のLGBTと交流したこともなかった人が、突然「やおいって何ですか?」と訊かれて「そ、そうね。何かしら」と考えたから、不思議な回答が導き出されたのです。

それまで「女のくせにこんな小説を書いて、どういうことだ。説明しろ」とも言われずに出版できていた人が、急に解説本を書く時代になった。追い詰められた・自分の業績を否定されたと感じた人が書いたから「かなしい」雰囲気になるのです。

それを「かなしい」と感じる男性は、じつに「男同士って泣ける~~」という女性と同じです。


【所詮この世は男と女ではありません。】

やおいトランス説の発表されたのと入れ違いに流行し始めたのが「腐女子」という言葉で、誤変換言葉ですから筆記のデジタル化と時期的に一致しただけでもあるのですが、意味合いを考えると「くさっても女子」でもあります。

ゲイじゃありませんって意味です。だからこそ、ゲイ界からのクレームに徹底抗戦します。ゲイ界の後輩として、俺たちの忠告を聞けという声に納得しません。

が、ひとつ弱点ができます。トランスゲイではないということは、シス女性であり、男性に興味がある以上、ストレートです。シスとは、トランスが「越境」を意味するのに対して「越えていない・こっち側」という意味で、マジョリティです。

多数派は、少数派からのクレームを尊重する義務があります。

「ない」と言うなら、社会的少数派である女性からの「女性を尊重しろ」という訴えを、男性は尊重する必要がないことになります。

昔のフェミニズムも間違えました。所詮この世は男と女ではなく、ストレート男性とストレート女性とゲイ男性です。陰でわりを食っているのがレズビアン女性です。

勘違いされて憤懣やるかたないのが、トランスです。




2014/12/02

【やおいトランスゲイ説を認めると、人権問題になります。】


ゲイ界から「やおいは僕たちに下品な質問ばかりするので失礼だ」というクレームが寄せられたのは、1990年代の半ば頃のことらしいです。

『やおい幻論』という書籍が発刊されたのは、1990年代の末です。

出版界は、この間に動揺したのだろうと思います。「やおいって何だ!? 竹宮恵子のせいなのか!? 小学館は訴えられるのか!?」

ことによると、少女漫画全体の基準見直し・検閲といった事態も考えられます。

事実上、それらを回避するために出された結論は、「トランスゲイのせいにすること」でした。

トランスゲイとは「可哀想な女の子」ではありません。肉体の機能にかかわらず、性自認が男性であるところの同性愛者です。

つまり、ゲイ界は「下品な質問をする女性は失礼だ」と言ったのに、「元々お前らの仲間じゃないか。可愛がってやれよ」と言い返されたのです。

彼らが対決姿勢を強めるのは当然です。

言った側としては「あの子たちが無礼なのは、トランスゲイだからです。トランスゲイが差別されるのは当たり前なので、頭がおかしくなるのも仕方ないですね」

といった意味になります。ことの重大さがお分かりになるでしょうか。

もし本当に、数十万人のトランスFtoMが自己実現できずに悩み、摂食障害をわずらい、心の慰めを求めて同人誌即売会を訪れた挙句に、駅頭で大騒ぎして周辺住民を悩ませたり、墓石に落書きしたりするなら、政府は対策を講じるべきです。

重大な人権問題であり、社会問題です。

もちろん、すでに了解されている通り、実際には「女性の少数派」に過ぎません。

そして勿論、少数派だからといって、自虐する必要はありません。

自虐とは、自分を虐待することです。虐待は続けられないほうが良いだろうと思います。

半年に一度のお祭りに興奮して、駅頭などでのマナーが悪いことは、男性の同人誌即売会参加者も同じことで、主宰者などが骨をおって沈静化を呼びかけているので、いずれ向上してくるだろうと思われます。

……昔は性マイノリティに関する情報が少なかったので、榊原さんが勘違いしたのも致し方ないだろうと思います。

問題は、今に至っても、ことの重大さに気づかない人が意外に多いことです。

今でも「腐女子は心のゲイ」などと、うまく指摘したつもりの学者もいれば、自称してしまう女性もいます。

日本人は権威に弱く、「○○なんだって。えらい人が言ってたよ」「ふーーん」と鵜呑みにしてしまいがちです。

サンデル先生は「さまざまな角度から考え直してみる」という姿勢を教えてくれました。




2014/12/01

【やおい派とJUNE派をめぐる混乱。】


日本の研究史には「マルクス発言の意味を探って学者が議論を重ねたのに、ふと気づいて原典を当たってみたら翻訳の間違いだったことが分かった」なんて話があります。

「どうも話がおかしい」と思った時は、最初に立ち返ってみると良いです。

雑誌の名前を取って、投稿者が呼ばれることが普通です。白樺派とか、青鞜派とか。

あえて例えれば、1970年代末に『やおい』という雑誌が創刊されたので、そこへ投稿した人が「やおい派」と呼ばれただけです。

先行して『JUNE』という雑誌があったので、そちらへ投稿した人は「ジュネ派」と呼ばれただけです。

昔は、今でいうボーイズラブをJUNEと呼んだり、やおいと呼んだりしたが、違いがよく分からないというのは、すでに混同が起きてから振り返った時の印象です。


【名前が後から降ってきた。】

1970年代末に至って初めて、「親愛なる女性の皆様、今日から“やおい”の名のもとに男色を描きましょう」という旗が掲げられたわけではありませんでした。

男性における少年趣味を、女性作家が創作の主題とすることは、市販された書籍上で確認できるだけでも、1960年代初頭には始まっています。

1970年代末に至るまで、それを指して「こんなもの、山も落ちもないじゃん」という人はありませんでした。

「あまり面白くない」と思った人があったとしても、プロ作品の価値をおとしめる名称を言いふらせば、表現の自由の侵害です。出版社としても、営業妨害とか名誉毀損くらいは言うことができます。


【宣伝しなかった。】

今でも「なぜサークル『らぶり』の紹介した名称が、アニメ二次創作の意味になってしまったのか」と不思議がる人もいます。

『らぶり』自体が、すでにプロ活動をしていた漫画家の集団でしたから、まさか「素人の皆様、今日からアニメの著作権を無視する活動に、この名前を使ってください」と言ったわけはないだろうと思います。

その名称が紹介されたとき、すでに「SFアニメから衆道物語を発想する」という作業も行われていました。

それが当事者にとってどんなに面白くても、著作権上の難点がある以上、市販雑誌『JUNE』へ投稿することはできないから、肉筆回覧に留めておいたり、即売会という特殊な会場でだけ、そっと展示したわけです。

それは、他人に言えないものでした。プロの流儀とは違うものでした。耽美やロマンといった名称で市販されているものとは別の商品でした。一緒にされては困るものでした。なぜ困るのか。

竹宮流オリジナル耽美だと思って手に取った購読希望者が「なにこれ。弟が見てるテレビまんがのヒーローの名前がいっぱい出てくる。テレビ局に問い合わせてみようかしら」って思う可能性があるからです。

だから、ちがう名称が必要とされたのですが、当初は自分たちで思いつくことができませんでした。そこで「アニパロ」と言ったからこそ、「どーじんし=アニパロ=エロ」という勘違いまで発生してしまったのです。

そこへ「やおい」という言葉が紹介されたから、二次同人側の勝手で「他人の紹介したキャラクターを流用するのと同じように、他人の紹介した名称を自分たちの看板として流用する」ということが行われたわけで、ある意味、一貫性はあります。

そんなふうに姿を隠そうとしていた人々が、ついに「山も落ちもない」という名称を採用したからといって、手塚治虫の自宅へ押しかけて「先生、私たち山も落ちもないけど、いいですよね!」と言ったわけはありません。

竹宮恵子の自宅へ押しかけて「先生、私たち山も落ちもないから、先生も山も落ちもない仲間ですね!」と言ったわけもないと思います。

『JUNE』に投稿して、プロの編集者や、竹宮を始めとする先輩作家に見てもらうことと、即売会限定の素人によるパロディ活動を「やおい」と呼ぶことは、当事者の意識の上では、はっきりと区別されていたはずです。


【軒先を借りて定期会合。】

コミックマーケット自体が、本来はオリジナル漫画の品評会を目指していたようです。その軒先を借りて『やおい』というパロディ専門雑誌に投稿する仲間が定期会合を開いたと考えると、イメージしやすいかと思います。

そこで人物の組み合わせが検討されたり、次はどのアニメを題材にするかが検討されたりしたわけで、一人で昔ながらのやり方で(純文学を参考に)小説を書いて『JUNE』へ投稿していた人は、これへ参加していないはずです。してもいいですが。

英語に自信のある人は、海外の作品を翻訳して出版社へ持ち込むことができました。この人も、必ずしも二次創作の定期会合をのぞきにいかなくても良いはずです。

「即売会へ参加したことのある、やおい同人」でなければ、ボーイズラブを書いたり、海外のM/Mロマンスを取り寄せたりしてはいけないなどという決まりは、ありません。

そして、やおい同人自身は、自分の存在を宣伝することはありませんでした。

同人としての自覚がある人が、わざわざ新宿二丁目へ押しかけて「私達、やおい同人で~~す♪」と自己紹介したわけもないだろうと思います。


【街の混乱。】

1990年代に入ると、オリジナル小説作品の投稿場所だった『JUNE』が勢いを失くします。

若者が本を読まなくなったからとも考えられますが、大学進学率の急上昇・ライトノベルの隆盛と時期的に一致しているところを見ると、文字情報だから疎まれたというより、他の雑誌・読みきり単行本レーベルが増えたので、「漫画と小説と素人投稿を抱きあわせにした、専門情報発信誌の初期形態」としての役割を終えたということでいいだろうと思います。

1960年代までの純文学を下敷きにしたのが1970年代の「耽美」でしたから、1980年代以降、口語体(新井素子などのライトノベル)の隆盛や、漫才ブームを下敷きにした作風へ若い人の関心が移ったとしても当然だったろうと思います。

こうなると、当然「ジュネ派」はいなくなります。この時点で「ボーイズラブ派」(でなきゃ「ルビー派」)へ移行できれば良かったのですが、顕著な混乱が生じます。投稿場所がなくなって、新人の切磋琢磨する場所=同人誌即売会となってしまったことが、一因ではあるでしょう。

「読みきり単行本レーベルが存在できる」と大手出版社が踏んだほどですから、この時点で読者は大幅に増えていたのでしょう。その全員が「同人誌即売会参加者」「二次創作者」とは限りません。

テレビは「ミスターレディ」などと言って、女装者をバラエティの素材として取り上げるようになりました。

1990年代半ばに、ゲイが好んで「やおい」という隠語を使いたがり、「やおいは二丁目で騒ぐな」というクレームを発するようになりました。彼らも、日頃から隠語が好きです。

でも、新宿二丁目は、夜間に飲酒喫煙をたしなむ歓楽街のはずです。そこへ、「やおい少女」と呼ばれた人々が押しかけるのは、おかしいのです。少女なら、クレーム以前に補導してもらってください。

1990年代末に「やおい文学とは何ですか?」と帯を付した書籍が登場しましたが、それを書いた人自身はオリジナル耽美でハードカバーを何冊も上梓した人で、二次創作専門の素人ではなかったために、とんちんかんな話となりました。

このへんが混乱の頂点です。


【正しい研究方法。】

「ウーマンリブの時代に、女性作家が男色を創作の主題とし、日本では男性もそれに理解を示した」という現象を社会学の題材としたいなら、竹宮などのプロ作家へ礼儀正しいインタビューを行えば済んだ話でした。

理解を示した男性に関しては、彼らが編集者や詩人であれば、表現の自由を尊重するという立場から当然ですし、出版されるや社会全体から激しいバッシングが湧き上がったということでないならば、日本における衆道の受け入れられ方・および女性による文筆業の歴史を、上代から探ってみれば良いですし、それで終わりです。

いっぽうで、オリジナル漫画品評会の軒先を借りて、テレビオリジナルアニメのキャラクターを借り、『らぶり』の紹介した名称を借りた人々は、社会学的に興味深い現象ではありますが、こちらを研究するなら大規模なアンケートかフィールドワークを実施する必要があります。

ざっくりと「やおい少女」と呼ばれた人々は、実際には成人を含んでいたはずです。1970年代から二次創作を手がけていれば、1980年代には成人しています。1990年代には尚更です。

「やおい」という名称は混乱を生じ、いわゆる「手垢」がついたために、代わって登場したのが「腐女子」で、これは当然ながら誤変換の一種ですから、筆記作業がデジタル化されてからの現象です。

さらに現代の「やおい同人」が好んで使う「ホモ」という言葉は、「原作ではその関係にない男性キャラクター同士の恋愛関係」を指しているので、本来はこれが「やおい」に当たるのだろうと思います。

「A君とB君のやおい」って言いにくくなったので「A君とB君のホモ」って言うわけです。

何ごとも、すでに存在するものを借りてくるわけで、その「根づいていない感じ」は現代の女性に相応しく、遊びという言葉にも相応しいのですが、借り物で商売したと言ってしまうと……困るです。



2014/12/01

【1980年代『花とゆめ』はBL誌だったか。】


雑誌の顔は、少女漫画の王道というべき『ガラスの仮面』(美内すずえ)、不世出の天才・三原順による『はみだしっ子』、それから『スケバン刑事』(和田慎二)だったと思います。

三原作品は、可愛らしい少年たちを主人公にしたホームドラマには違いないのですが、1970年代若者文化の熱さを伝え、プログレッシブロックの影響があるなどとは言うまでもなく、今なお読みこなすには知力胆力の要る傑作です。

和田作品は、1980年代の間にテレビドラマ化され、好評を博しました。斉藤由貴、南野陽子の出世作です。

柴田昌弘『紅い牙』は、ハードな作風で、男性読者にも人気があったでしょう。

この二者は「男性作者が女子高生を主人公に、激しいアクションを演じさせる」というもので、現代のアニメ作品にも通じる流れだろうと思います。

逆に『ミルクタイムにささやいて』(酒井美羽)は、レディコミの「はしり」でしょう。子育てをテーマにしたホームドラマで、まだ18歳の新妻と、30代でクォーター設定(茶髪で眼がグリーンがかっている)の旦那様のラブシーンも味わい深い要素でした。

野間美由紀の高校生探偵ものは、コナンくんや金田一くんの先輩に当たるかと思います。主人公は女子でした。男子同級生との夜の交際を暗示する台詞がありましたが、今では書けないかもしれません。

氷室冴子の少女小説を漫画化したのも、あったはずです。きれいな絵柄でした。

山口美由紀、日渡早紀、川原泉は、愛らしい女子高生を主人公にした、なごやかな味わいの作品でデビューしました。

彼女たちは、美少年や美中年をも上手に描いたので、「耽美」の素養が偲ばれましたが、それを表に出さずに少女漫画が描けるなら、結構なことです。

遠藤淑子がデビューしたときには、そのいかにも同人上がりな画力に衝撃を受けました(笑) エヴァンジェリン姫のキャラクター性とギャグセンスは、パタリロを下敷きにしていると思われますが、愛すべき姫君であり、物語は意外や硬派なテーマ性のある感動作でした。

「マリオネット・シリーズ」は、主人公が金髪の少年貴族と、有色人種の少年の二人組だったので、『風と木の詩』トリビュートなのは明らかですが、ボーイズラブ作品ではありませんでした。年上の女性とのラブシーンがあり、笑いに流れないダークロマンの質を保っていました。

『ここはグリーンウッド』(那須雪絵)は、意図的にボーイズラブの要素を取り入れていましたが、あの程度なら1970年代にも見られたでしょう。むしろ懐かしいくらいだったかと思います。

『ツーリング・エクスプレス』(河惣益巳)と「羽根くんシリーズ」(野妻まゆみ・当時)だけが、物語の方向性を途中から曲げて行ったと思います。一般読者には「やっちまった」感を覚えた方もあったでしょう。

あのへんは、「それ言っちゃおしまい」という領域へ踏み込んでしまったので、連載を終了させたタイプじゃないかと思います。

忘れちゃいけない『パタリロ!』ですが、これは西村知美が絶賛したとおり、ミステリの要素と、落語・宝石・妖怪に関する薀蓄によって作品性を高めていたもので、美少年要素だけで長持ちしたわけではありません。

コミックスでは第5巻にあたる「スターダスト計画」は、映画化もされました。各種先行作品へのトリビュートを含みつつ、品の良いボーイズラブ要素と、乗りツッコミの笑いをマッチさせた、まとまりの良い佳品だと思います。

……あの時期の『花とゆめ』、姉妹誌の『LaLa』とも、「ポスト・ベルばら」「ポスト・風と木の詩」とでも言うべき難しい時代にあって、漫画のさまざまな可能性を試行錯誤する実験場のようなところだったように思います。

もし古本で手に入ったら、読んでみてください。熱いです。