2015/01/24

【弘文堂アテネ文庫38、石田英一郎『一寸法師』】


学術書というのは大冊で、値段も高く、なかなか一般人が「仕事帰りにちょっと買っていこう」とか、「ちょっと読んでみよう」とは思わないものです。

が、中身の半分以上は引用元の注記や注釈で、肝心の著者の主張は、じっさいこのくらいの頁数に収まってしまったりするものです。

学術書として首尾ととのえれば大変に重い内容を、一般教養として安価に広めたアテネ文庫の意義は、真に尊いものだったと存じます。

本朝一寸法師とは何ものか?

日本共産党の志賀義雄が昭和二十二年に「それは穀類の精である」と断じる論文を発表したのを受けて、それじゃ簡単すぎる……という不満を腹に渦巻かせつつ、柳田民俗学の広範な知見を元に論駁を加えていくという趣旨です。

まず「小さな男の子が水辺に現われた」という話が日本各地に伝わっていることを丁寧に例示し、目を転じて環太平洋を俯瞰し、さらに西域シルクロードの果て、悠久の過去にまで読者を連れて行きます。一万年くらいはさかのぼってると思います。

遠大な想像力の広がりは、物不足時代の読者に胸のすく快感と大きな知的刺激を与えてくれたでしょう。叙述は引用に富んで示唆的であり、ついつい先読みをしたくなるミステリーの楽しみも与えてくれます。

文章は漢文書き下し調で、慣れない人には読みにくいかもしれません。でも、著者の高い気概が伝わってくるようです。

著者の主張は「一万年の昔から、口伝によって人から人へ神話伝説が受け継がれたはずだ」という前提に立っています。神話の伝播・変容というのは、呉茂一も『ギリシャ神話』の中で唱えていました。

個人的には、これも一種の進化論で、もしかしたら実際には、水と土のあるところ、相互に接触のなかった各集団によって、同時多発的に似たような物語が生まれた可能性もあるかと思います。

本文末「附記」には「昭和二十二年の文部省人文科学研究費補助による『母子神信仰の比較民族学的研究』の構想の一部をなすものである」とあります。

比較民族学・文化人類学は、アーリア人種優越論に対して固有文化の価値を主張するもので、ナチス支配下からの亡命者によって戦後に盛んになった分野と聞いたことがあります。

小アジアの有色の女神に文明の起源を求める説は、極東の敗戦国の人心をも捉える説得力があったかと思います。澁澤龍彦もよく紹介していたと思います。

著者の根源的な主張は「広い世界へ目を向けよう」というものでしたでしょう。その背景には、文化の灯を掲げて今一度立ち上がるべしという意気があったろうと思われます。



2015/01/23

【弘文堂アテネ文庫1、久松眞一『茶の精神』】


京都大学宗教学専攻教授(当時)による、国際茶道文化協会講演、および昭和二十三年における座談の記録。

声に出して読みたい日本語です。戦前に教育を受けた人の文章は美しいです。水琴窟の響きに耳を澄ます思いです。

アテネ文庫は、いまだ物資不足に喘ぐ昭和二十三年、A判全紙一枚を文庫サイズに裁断すると64頁になることをもって、64頁の薄い本としてスタートしたのだそうで、その平成二十二年における復刻版の第一号です。

当時の「刊行のことば」、および復刊に際してのご挨拶というより檄文というべき発行者からの言葉が泣けます。

復刻版は文字が大きく読みやすいです。ありがたいです。

というわけで、復刻版も薄いので解説・解題の頁がなく、内容が講演の草稿なのか聞き取りを起こしたものなのかは分かりません。

本文中には「どこが所蔵する何版の何行に書いてある」といった引用・注釈はほとんどなく、研究書ではありません。久松自身の思うところをつらつら述べた評論・エッセイ、そういったものです。大学の教養課程の最初の授業と思えばいいと思います。

西洋人には理解しにくい日本茶道の精神を七つに分類したうえで、その七つは一つに根を発し、根のところにあるのは禅であると喝破した……ようなんですが、「言句をもって知るべからず」(p.80)とされたことを何とか言葉で表そうとしているので、素人が読んでも隔靴掻痒の感はあります。


【伝わっていない危惧。】

言っても伝わらない・言っても仕方がないことを言わずにはいられないと思うのは、その精神が失われようとしていることを危惧するからです。昭和二十三年の時点で、久松は皮相的の剽窃には心がこもっていないからダメだ、というようなことを言っています。

これは押井守が少し前に言った「コピーのコピーのコピーではいかん」というのと同じです。

でも、たとえば能楽は世阿弥の演技のコピーを何百回続けているのか。コピーのコピーであることが悪いわけではないのです。コピーして出てきたものの質が低いとき「それじゃだめだ」と言いたくなるわけです。

技芸が確実に伝承されれば良いのです。劣化している場合は、ヘッドクリーニングが必要なわけです。

久松は心茶会という同好会を結成して、点前の実際の訓練とともに精神修養に努めたらしいです。精神修養として具体的に何をしたのかは書かれていません。たぶん座禅を組んだり、仏典を含めた哲学書を読んだりしたのでしょう。そして、それを若い学生にも伝えたらしいです。こういうのを本当の「同人」と言います。

それをやってる俺たちは立派なもんだが一般のお茶の稽古はなってないと言ってるわけで、これはおそらく花嫁修業などと称されることへの批判の気持ちでもあろうかと思われます。

なんか似たようなことを白洲正子が言っていて「勉強のために能を見るなんて邪道よ」というのでした。(これもおそらく出世の足しにするために勉強するというのを批判しています。)

能楽は戦後すみやかに民主化する必要があって、この昭和二十三年にはすでに女性のプロ入りを認めていますが、おそらく久松たちは茶の精神をふたたび日本男児の手に取り戻そうとしたのでした。

昭和二十三年に教授職にあったなら、おそらく年齢的にいって大東亜戦争には出征しておらず、なすすべもなく負けてしまった悔しさのようなものは、きっと響いていたのだろうと思います。

半可通の外国人によって、侘数奇が「単なるシンプル」として、現代芸術や機能美と同じカテゴリに分類されてしまうことによる苛立ちは、そうとうに強いように感じられます。


【能さえ切った。】

なお、著者は茶道から能楽を見るので「能楽にも茶道の心が通じている」というように言いますが、時系列的に考えて、逆です。

茶人が「美しい動き」を判断するセンスのほうが、能を鑑賞することによって磨かれてきたはずです。能楽には古武術の流祖との交流があったことも伝えられています。

茶と能と剣に共通するのは、集中力と無駄のない動きです。とくに武士が戦場で「次はなんだっけ」と迷ったら命を落とします。

芸事が深く体得されていることによって余裕が生じ、「軽さ」を生じます。ふざけているという意味の軽々しさではなく、緊張感を保ちながらも肩の力が抜けているという、達人の域です。それを茶人は能の名人芸を鑑賞することによって学んだはずです。

能は、おそらく発生当初には庶民受けする優婉さと滑稽さを備えていました。それが武士との交流によって凛冽・果断なものを獲得し、それを見ながら育ってきた武士の子供たちが茶を支えたのですが、ついには能さえ切り落としたのです。

よくよく考えると、能を見ながら茶を飲んだっていいのです。モーツァルトを聴きながら、お紅茶を頂いて構いません。が、日本のティーセレモニーは、鼓の音さえ「うるさい」とするのです。

ただし久松は、利休的の茶を追求するあまり、宗和の流派を「あっちのことはよく分かりません」って感じで終わりにしているので、深いようだが一面的とは言えるかもしれません。


【西洋芸術も総合的だったのです。】

目次でいうと三番目の「対談」は、インタビュアーが誰か分かりませんが、かなり鋭く突っ込んでいて面白いです。

この人物は、西洋の芸術は「分野として完全に分化してしまった」(p.76)というのですが、ルネサンスの頃には文字の読めない民衆を教化するために描いたという要素があったはずで、ゴシックの時代には尚さらそうです。

当時の絵画には、宗教的・文学的の約束事が了解されていなければ理解できないものが多く、音楽は哲学と天文学に通じていました。

というわけで、日本人自身が近代に限定して捉えた西洋社会からのインパクトに対して、まっすぐに打ち返すという形で「日本は西洋といかに違うか」と主張しているわけで、その他の時代・地域についてはアウト・オブ・サイトです。

これは時代的制約であるとともに、現代の日本人にまで通じる姿勢かもしれません。


【分かる人には分かることを、他の人に説明したい。】

こういうのは他の分野にもあることで、実際に茶を点てる人・能を舞う人・剣を握る人には分かるんだけれども、一般人に向かって言葉で説明しようとすると……っていう。

「侘数奇」の精神も、たぶん分かる人にはピンと来ることなのです。

そのピンと来る感じを「ピンと来る」などという俗な言い回しを使わずに伝えようとしているものですから、なんかもう無理やりなことになっており、そのような著者の姿勢がだんだんいじらしく感じられて参ります。先生がんばれ。

どう考えても、茶室というのは、「侘びとは何か・数奇とはなにか」と議論する所ではありません。茶人たちは、口角泡を飛ばして舌戦に励むことを野暮とするでしょう。

利休が裏山で竹を切ってきて花入れにしたというなら、実際に彼の茶室でそれを見て、「なるほど、こういうのが良いのか」と体得するようなものなのです。主人と客人、師匠と弟子の一対一。個と個の響き合い。一期一会。

本来、マスメディアに乗っけるものではないのです。

ないものを、あえて乗っけることでなんとか守ろうとしたという、これも著者自身の生きた証であり、わずかな講演記録ではありますが「切り取られた花瓶にさされた一輪の花のように」(刊行のことばより)凝縮された自伝ともいえるのでしょう。

利休の時代の精神ということを言うなら、やっぱり太閤の権力に全国がなびくとき、独立自尊を守ろうとしたということがあったのだろうと思います。

その思いが、アテネ文庫の編集にまで通じて、茶の話題を刊行第一号に選ばせたのではなかったでしょうか。


2015/01/22

【2001年筑摩書房、吉村 昭『東京の戦争』】


たしか小津映画『晩春』が昭和24年の作品で、開戦前と変わらぬ落ち着いた暮らしぶりや、美術展や音楽界が催されたりしている様子が描写されていました。

電車の中は、すでに整然としており、銀座には輪タクの姿はなかったと思います。ヒロインの父親は、闇食料の買出しを過去のこととして語っていました。

復員局は戦後2年間ほどで閉鎖され、もう復員してくる人もないと思われた頃に、やっと佐清が帰ってきた……というところから始まるのが横溝正史『犬神家の一族』。こちらの映画版からも、すでに物資不足という様子は伺えません。

この回想録は、ドウリットル空襲から、そのように世情が安定するまでの数年間の東京の大混乱した暮らしぶりを、わが目で見るように伝えてくれます。

過ぎてみると数年ですが、その渦中にあっては一日を生きることがいかに苦しかったかが克明です。

わが目で見るようなのは、美文調で修飾されていないからで、文章は簡潔かつ、戦前の教育を受けた人らしい品性を備えており、読みやすいです。


【悲哀。】

真珠湾以前に中国戦線で兄をなくし、自身は肺をわずらっていた著者には、軍国少年の高揚感がありません。自分自身が奇抜なアイディアで闇市を生き抜いたという自慢話もありません。

周囲の大人がいかに工夫を凝らして物資不足を乗り切ったものか、「もはや時効」という他ないエピソードがいくつも語られて興味深いです。

が、それを伝える筆者は面白がるでもなく、怒るでもありません。目の当たりにした人にしか書けない詳細を淡々と描写しては、「奇妙」という言葉を使います。

戦争そのものや天皇陛下への疑問・批判はいっさい言葉にされていません。むしろ当たり前な愛国心と、一方的な極東軍事裁判への批判が表明されています。

が、心の底のほうには、時局への違和感・虚無感といったものがあったように思われます。

同時に、ひかえめな言葉遣いながら明確に表現されているものは、頼もしかったお兄様たちへの誇りです。

著者は敗戦(終戦といわずに敗戦です)の年に18歳。夏に徴兵検査に合格したばかりで、入隊を目前に敗戦を知りました。

論調を一転させた文化人と、米兵に取り入るかのごとき若い女性たちへの義憤は強い調子で記されています。その行間に響いているのは「うちの兄貴は戦死したのに」という、最も身近な悲しみだろうと思われます。


【追悼。】

戦況と日常生活が極端に悪化する前には、筆者は浅草へ通ってコントや落語を楽しんでいたそうです。甲府まで一人旅して葡萄を食ったともあります。

これは「事実は小説より奇なり」で、フィクションとしてこんなことを書いたら「戦時中にこんな若者がいるものか」とお叱りが飛んできそうです。

中学生が遊んでいるとばれないように制服を隠して劇場へ入ったとありますが、お母様は子供が学校から帰ってこないことを不審に思わなかったはずもありません。甲府への旅費は、病床にあった彼女から頂いたそうです。

敗戦の年の暮れに病没されたお父様の火葬から納骨に至る顛末も、物資不足の世情を明かしつつ詳細です。

回想は、お兄様の復員を伝えて、筆が措かれます。

全編を貫くものは、苦難をともにし、若い自分を甘えさせてくれた、ご家族への強い哀惜の念と思われます。

そして、さらにその底にあるものは、75歳に達した筆者の、自分自身の生命を慈しむ心なのでしょう。

これは特定の時代の世相の証言として、貴重な参考文献であるとともに、困難を乗り越えた人の一生の記録として、畏敬の念をもって読み継がれるべき名著なのだと思います。




2015/01/22

【表現の自由とは。】


弱者の権利です。なんでも多数決で決める民主主義における弱者とは、少数派です。自分たちだけでは絶対に多数決に勝てない人たちです。

すでに権力のある人と、彼(女)を支持する多数派は、わざわざ「自由」などと言わなくても、自分たちだけで何でも多数決してしまうことができます。

「今日から一億総玉砕」でも、「今日から少数民族は国外退去」でも、「性的少数派は全員逮捕」でも随意です。

それじゃ困ると思う人が、街頭で「戦争反対!」と演説したり、集会を開いて「政府へ署名を提出しよう」などと決めても、警察に踏み込まれないのです。逮捕されないのです。拷問されたり処刑されたりしないのです。

そういう権利が、本来の「表現の自由」です。

二十世紀前半にはその権利が認められていなかったので、特高の取調室や強制収容所で恐ろしいことが起きました。だから、もうそういうことはやめようという約束ができたのです。

つまり、新憲法が意識しているものは、国家が絶対権力を握っていた旧時代の国家であり、政府です。

政府・与党・軍部などの権力に対して、表現の自由を行使できるのです。

ということは、新憲法下において、多数決で決まってしまった現行法に不満のある人が真情を訴える相手も、政府です。

法律が気に入らなければ、その旨を文書にして、国会議員へ手渡し、条文の変更を検討してもらえばよいのです。

それをせずに、多数派が少数派を、または「多数派の中の少数派」が絶対少数派を、暴力(の行使の可能性)によって直接に脅すのは「表現の自由」ではありません。

また、笑いものにするのも「表現の自由」ではありません。

笑いものにすることは、いじめの内に入らないと思う人もあるかもしれませんが、言葉の暴力です。相手に対する人権侵害です。

政府がこれらを認め、放置するなら、近代国家そのものを否定することになります。

私闘・私刑を禁止し、軍隊と警察という形で暴力を独占するのが近代国家だからです。


【暴力の否定。】

では、少数派は暴力によって自己主張しても良いのでしょうか?

それでは「表現の自由」理念そのものの否定です。

お互いに「肉体と生活を破壊する」という手段に訴えれば、双方の弱者(子供など)に犠牲が出ることがよく分かったので、「言葉で闘う権利をください」というのが表現の自由です。弱者のほうから「武力行使はやめましょう」と言っているのです。

だから少数派の武器は「剣よりもペン」なのです。

それに対して、権力のある人は「生意気だ。黙ってろ」などと言わずに、投石や野次で遮ったりもせず、最後まで話を聞く・文書を読む。

これが、お互いに守るルールです。


【警察が責任を持つのは、国内の治安です。】

国際的な暴力事件に対応するには、他の組織や専門家がいるはずです。

努力が実ることを祈ります。



2015/01/21

【目が細くなる『ハイキュー!』】


年末年始はテレビ三昧だったのです。

描画と演出がひじょうに良く、感動をもって拝見しました。CGが使えるようになって良かったですね。

過剰な解説・演出で無理に盛り上げず、試合進行と若者たちの心の動きを丁寧に追う語り口が好ましいです。

女子部を含めた選手たちの、現実味あふれる清々しい活躍ぶりに、思わず目が細くなります。

時おり耳に残るBGMは、どうやら懐かしいハードロックの味わいを狙っているようです。

本職のバレーボール関係者(=中高年)の視聴をも、充分に意識しているのでしょう。

男子バレーの速攻を、実写俳優に演技させるのは無理なので、これは「アニメ」という表現媒体の成功例だと思われます。

ネット向こう側のコートから、こちら側のエンドラインまで、透視図法を用いて奥行きとスピード感を出す構図は効果的でした。ボールの速度もPCで計算できるようになったのでしょう。

人物は、まるで紙人形ですが、陰翳による立体視をばっさり切り捨て、意図的に平板さを強調しているのが印象的です。

かつてはセルに描くことによる平板さをどうしようもなく、無自覚性の中に埋没している状態でしたが、CGで奥行き感と人体の自然なモーションを表現できるようになったいま、その利点を充分に加味しつつ、あえて「動く漫画」という日本製アニメの特質をアピールしているようです。

『アナと雪の女王』を見たときには「ああ、人形劇なんだな」と思いました。対して「セル画を横にスライドさせる」という日本製アニメは、やっぱり元が紙芝居なのです。

さらにさかのぼると絵巻物に到達するはずなので、これも日本の伝統芸と考えて良いのでしょう。

制作陣の意気の高さがしみじみと偲ばれます。



2015/01/20

【パゾリーニ、1964年『奇跡の丘』】


あるいは、マタイによる福音書。

原題がそのまんまである通り、大ロケーション敢行・大量エキストラ投入によって、イエス誕生から受難・復活までを真正面から描いた大叙事劇。モノクロ。

エピソードの数々は、キリスト教徒にとっては一般教養以前の基礎の基礎なので、「ここは○○の街」なんてナレーションも字幕も入りません。

その今さら映画化するようなものでもないことを、あえて撮ってみたのは、ルネサンス絵画や絵本などを通じて、すでにでき上がっているイメージをぶち壊すくらいの勢いで時代考証を施し、リアルに徹してみたということのようです。砂っぽい荒地が舞台なので、一見地味ですが、すごく手が込んでます。吹きわたる風の音がリアルで強く、撮影も大変そうです。

やや高踏派というか、かまえた感じがパゾリーニ節なのですが、なにせリアリズムで押してくるので次第に圧倒され、飲み込まれていきます。

若きマリアの美しさは、従前から持っているイメージを損ないません。成長後のイエスの顔立ちも美しく、弟子たちもそれぞれに良い顔です。でもファンサービス的演出はなく、笑いツボもお涙頂戴もありません。

観客はタイムマシンで当時へ連れて行かれ、その土地の住人の一人として奇跡を目の当たりにする思いです。やがて舌鋒火を噴くイエスの演説に胸が迫ります。

ユダの裏切りも、ゴルゴダの丘も、老母の嘆きも克明に描かれます。すべてが誠実で真摯です。

もちろん処女懐妊の真偽の詮議などできません。

が、イエスという人物が自分に嘘をつかず、権力に対抗し、その見返りとして金銭も快楽も要求しなかった、本物の宗教家であったことが知られます。

異教徒としては感情移入を自戒したほうがいいかなって気分にもなりますが、これはキリスト教徒の誇りが高らかに謳い上げられた傑作……ってことで良いのだろうと思います。

全編を通じて、バッハとモーツァルトが響いており、そこだけ時代が合ってないだろうと突っ込みたくならないこともないですが、台詞が少なく、半分はその音楽を聴くための映画にもなっています。

『メディア』では日本の長唄が使われていて呆気に取られましたが、こちらではアメリカ式のゴスペルが使用されています。

既成の音楽を利用するパゾリーニ作品は、すごい金かけてるはずの割にやや青臭いというか、学生の自主制作映画みたいなところがあり、時おり天然ボケみたいな要素もないではありません。

また、そこが良いです。


2015/01/19

【1958年大映、市川崑『炎上』】


観ると良い映画。

格調高い文芸作品。笑えるとか泣けるとか萌えるとかそういう娯楽要素はバッサリ切って捨ててあります。

三島由紀夫『金閣寺』が原案で、取調室における回想として始まる、犯罪者の内面描写です。冒頭に「これは架空の物語である」旨、ていねいな注意書きが示されます。お寺の名前は「しゅーかく寺」に変更してあります。

被差別が重要なモティーフになっており、いわゆる差別用語に傷つく若者たちの姿が直截に表現されています。同情的ではないところが市川流。

構図の美しさとともに、間合いによって人物の心理を表現する技が印象的です。

中盤は「仲代達也が主役を食っちまう」の巻。生まれながらの色悪というか、フィルム・ノワールそこのけというか。でも市川雷蔵は誠実な表情で受け留めます。

女性の狡猾さ・男女関係の打算ぶりを指摘する辛辣さも、フランス映画を寄せ付けません。

「男のお友達同士って、見ててもええ気持ちのもんやわ。うらやましいわ」

言わんでもええことを言って自己主張したがるのが、間にはさまれた女ですな。

若い女優たちも上手いものですが、脇を大物が固めており、演技というものを知る勉強にもなろうかと思います。北林谷栄(トトロのおばあちゃん役)が圧巻です。

内容については、やっぱり差別する人がいることが悪いのです。みんな鶴川ちゃんみたいだったら良かったのです。母親がもっと図々しく生きる人だったら、主人公も追いつめられなかったのです。和尚はなんだかんだ言って、女と切れてないのです。

でも、お母さんはお母さんなりに心ばえが美しい人だっただけなのです。和尚だって、お腹の大きい女性を無一文で追い出すほど非情ではなかっただけなのです。

……というあたりをきちんと映し出しつつ、それでもやっぱり犯罪の実行に至ってしまう人には、どっか甘えた部分があるというあたりを外さないところが市川流で、この「良薬は口に苦し」というか、苦すぎてむしろ爽快という読後感は『犬神家』にも通じるよな、などと思い出すのでした。

(映画の「観後感」って言葉がないのは不便ですね。)

差別用語の問題があって、もはやテレビ放映も再上映もできない作品かとは思いますが、戦中・戦後の風俗描写の貴重さと併せて、長く残されるべき名作だと思います。

2015/01/18

【1951年、松竹『鞍馬天狗 角兵衛獅子』】


花咲かば。告げんといひし山里の。使いは来たり、馬に鞍。

最初から最後までカッコいいです。アクションシーンの連続です。「日本の古い映画なんて」と思うなら、外国映画だと思えばいいです。風俗があまりにも違うので、いまの日本人と同じとは思えません。異国情緒のつもりで楽しめばいいです。

セットが豪華で、クレーン撮影もマット画も見事なもので、ミュージカル映画としての聞かせどころもあり、編集も惜しみなく、日本映画のレベル高さに感動しきりです。

オープニング音楽がまたカッコいいです。わくわく。クレジット終わると飴屋さんが「春風駘蕩、春長けて」と名調子を聞かせます。(※見直したところ冒頭ナレーションは飴屋さんの台詞じゃないので訂正してお詫びします。)

『七つの顔』でタンゴが歌われたことにも通じるのですが、戦前に楽しんでいた娯楽がそのまま戻ってきた喜びに溢れていると思います。

俳優の顔には影が落ちないことを意識した前時代性が維持されているとは思いますが、背景も衣装もたいへんリアルです。黒澤がきらったという歌舞伎要素はあるけれども、それを克服しようという意気軒昂さと、フィクションとしての清らかさが均衡を保っていると思います。

嵐寛寿郎の眼が美しいです。日本のヒーローは戦前から細面の優男ですね。口元が小さく、上品です。剣戟シーンにおける「足の裏」の使い方が見どころです。刃が円を描くこと、左右を踏みかえる足さばきの美しさにも舞踊の基礎が利いているのだろうと思います。「花咲かば」の謡いぶりの見事さも実演と信じたいです。

映画俳優になった人は、伝統の世界に嫌気がさして飛び出したという人が多いんですが、でもやっぱり基礎は大事だろうと思います。現代の俳優さんも、入門をおすすめいたします。

美空ひばりは凛々しい顔立ちで、前髪立ちの男装がよく似合います。男装の少女という役ではなく、最初から少年として演技しています。探偵物語における小林少年の役を女の子が演じているわけで、新時代らしいところです。

同世代の少女観客にも驚きと夢を与えたことと思いますが、歌いっぷりと芝居っけが大人びており、女性らしさが出ているので「おじさん、待って」なんて場面は妙な雰囲気にならないでもありません。(もちろん嵐寛は受け付けません。)

山田五十鈴の色気は、ただごとではないです。化粧が(当時の)現代ふうです。髪型も斬新です。女優が歌舞伎の女形の模倣から抜け出し、華麗に羽化した姿なのでしょう。

かたや角兵衛獅子の親分夫人は、古い芝居を体現しています。もちろんそれとして上手いです。生身の女性が、女性性を誇張した歌舞伎の女形の「型」を手本にしているので、過度に女性的になるのです。

型といえば、天狗さんちの下働き(隠密)である町人の芝居と、武士である天狗の役作りは明らかに違うわけで、この対比は『支那の夜』でも見られました。愛川欣也演じる「かもめのジョナサン」まで続いていくのでしょう。

壬生浪士は悪役ですが、近藤局長がじつにハマリ役です。本当に拳骨が口に入りそうです。土方さんの白い羽織がまぶしいです。

思いきりよく見届け役を削ぎ落とし、厳粛な一対一としたクライマックスは、構図も所作も最高です。緊張感にささくれ立つ神経を表すような高音と、刻むように動悸を表す低音が絡んだBGMが素晴らしいです。

大上段に構えて打ち込めない近藤。正眼に構えて恐れを隠さない天狗。にやりともしないリアリズムがよろしいです。剣先を交わして腰が引けているのですが、実際に真剣勝負ってあんな感じでしょう。(怖いに決まっています。)

武士が袴を着用するのは馬に乗るためです。膝が擦れたら痛いからです。着流しで乗ることはないはずですが、ここは男の色気。

敵も味方(主人公)も、ここ一番のときは羽織を脱ぐもののようですが、これもなかなかに眼の保養です。責められた姿も素敵。

少し後の時代になってから007が見せた要素なんて、男女のお色気シーンをのぞいて、ぜんぶ先駆けていると思います。

じつは、この頃の娯楽作品の品の良さを支えるものは、売春禁止法が施行されて「いなかった」ことだと思うときがあります。

つまり、これ以上の大人の娯楽を求める殿方には、行くべきところがあったのです。

その後、映画は現実における表現を禁じられた性的関心を疑似体験する媒体となり、自己目的化し、ついに美少女アニメ化したわけなのでした。

もし、創作物による性的関心の消化(昇華)の自己目的化を非難するならば、それをどこへ持っていくべきか、という話をしなければならないことになります。

美しい映画の背景に、重い現実があることは『加藤隼戦闘隊』と同じことかと思います。

そのようなことも少し念頭に置きつつ、若い世代の参考のためにも、文化遺産として長く伝えられると良い映画だと思います。

2015/01/17

【1946年、大映『七つの顔』】

冬休み企画、その3。

オーソン・ウェルズがいて、多羅尾伴内がいて、フィルム・ノワールがあって、ルパン三世がいて、そのアニメ化があって、江戸川コナンがいて、猫の恩返しもある。

アニメは最初からコピーのコピーのコピーです。コピーであることが悪いのではありません。コピーして出来たものの質が低いときが問題なのです。

人材をゲーム業界に取られている、パチンコの仕事を受けることで精一杯なんて事情があるのかもしれません。

質の高いオリジナルアニメを製作したければ、ファンによる出資を募って、新しい会社を起ててしまうのが良いのかもしれません。

さて、映画。

小夜更けて、懐かしのタンゴ。

のんびりした娯楽劇。たぶんサスペンス。変装の得意な探偵によるダイヤモンド盗難事件解決の顛末。

現代の眼で見るとコスチュームプレイですが、「今年の5月に南方から復員してきた」という台詞があるので、1946年当時の風俗をそのまま撮ってるらしいです。

冒頭の歌劇団ステージ風景には、戦前と同じレビューやタンゴの名曲をふたたび楽しめる時代が来たことの喜びに溢れていると思います。昔の女優さんは美しいです。ドレスやハイヒールがロマンチックです。

物語の背景が瀟洒な洋館であるのも嬉しいところです。良家の婦人はショパンが弾けるものだったらしいです。

片岡千恵蔵扮する探偵の、ややコミカルな演技とか、早苗嬢の芝居が古い時代劇調とか、鼻白む部分もありますが、じわじわ面白くなるので我慢して観ましょう。後半へ至ってアクション場面も登場します。車両の型のクラシックぶりが良いです。

じじむさい田舎っぺェが歌姫に惚れられるのは男冥利で、観客を楽しませたでしょう。女優の活躍を奨励するとともに、なにげに普通選挙のキャンペーンにもなっており、戦前的ハードボイルドと、おそらく浅草ふうコントと、新時代の融合により、質の高いエンターテインメントが誕生したということなのだろうと思います。

表現は抑制が効いており、過度の暴力も性もありません。印象としては児童文学の読了感に近いです。この品の良さは現代にも復活してほしいと思います。

『支那の夜』でもそうでしたが、煙草が男優に良い間合いを与えています。

女優に副流煙を吸わせないでやってほしいもんだなとは思うので、現代の実写では再現しないほうが良い要素ですが、惜しいです。これこそアニメで再現して、「大人向け」と銘打ってしまっても良いのではないかと思います。

日本の成人向けとは、都会へ職を求めて集まったヤングアダルト向けという意味があって、もっと年上の人が見ると騒がしい感じがするものです。

これは江戸の頃から地方の若者を集めてきた首都の性質上いたし方ないのですが、定年を迎えて心静かにミステリーを楽しみたいという、真の大人向けのアニメというのも、そろそろ登場しても良いかと思います。

七つの顔を持つ男の話に戻ると、終盤のアクション場面は、これ見よがしな移動放送機器など、後のスパイ映画や特撮ドラマ、宮崎アニメに通じる要素もあり、楽しいです。サイドカーつき警察オートバイも拝見できます。

ラストシーンは、じつに爽快です。ネタバレしたくないです。ご覧ください。





2015/01/16

【1944年、東宝『加藤隼戦闘隊』】

冬休み企画その2。

「どうやって撮ったんだ!?」と開いた口が塞がらなくなる場面の連続です。

空中戦は実戦の記録映像なのか……?

敵機には出演交渉したのか……?

爆撃による地上物の連続爆発は、いくらなんでもミニチュアだよな……?

思わずまばたきが減っていたようで、気づいたら目が痛くなってました。ドライアイにはお気をつけください。


冷静に考えると、対空砲や機銃を浴びながら実戦を撮影しても、回収できる保障がないので、再現なのです。

二番目の疑問は、もちろんあり得ません。

三番目の疑問については、よく見ればミニチュアではあるのですが、あまりに出来が良いので違和感がなさ過ぎるのです。連続爆発は心地よいと言えるほどの見事な仕掛けです。あくまで「映画として」です。

陸軍の全面協力ぶり、撮影班・特撮班の徹底ぶりは、ウィキペディアさんに詳しいです。

CGをさらっと見ることに慣れてしまった眼は、ときどきこういう作品で洗うのが良いと思います。昔の人ってすごいです。

しかも奥ゆかしいところは、それだけのことをやっていながら、演出に過剰さがなく、編集も締まりが良いことです。

起承転結というような物語性はなく、部隊のなごやかな日常と、加藤隊長の大人物ぶりを実直に伝えています。

「珈琲ってのは、挽きたてが旨いんだからね」

手回しミルから立ち昇る珈琲の香りにつられて集まる隊員たちの笑顔がいじらしいです。

軍隊を美化して若者を勧誘しているという見方もできますが、隊長は若者たちを死に急がせることはありません。深追いするなと厳しく諭し、熱があれば休めといいます。

戦後の自虐というのは、じつは「悪いのは軍隊だ」という弁解だったと思います。

実際の軍隊には、確かに合理的で明晰な頭脳と、温かい心をもった名指揮官がいたのです。

合理的とは功利主義という意味ではありません。理屈に合わない蛮勇をいましめ、冷静な判断ができることです。

また、映画人というのは、平穏無事でなければ映画を撮ったり編集したりしていられませんから、基本的には反戦・平和主義だったろうと思います。

戦中に発表された作品は、戦意高揚映画とはよく言われますが、映画人たちが本当に表現したかったものは、戦中にあっても失われない人間性の美しさと、平和の尊さだったろうと思います。

作品そのものに戻ると、ときおり流れる後期ロマン派ふうのBGMが、じつに良い感じです。

主演俳優は、自らおどけて若い隊員たちを和ませようとする隊長の、やや間合いの外れた不器用なオヤジっぷりを含めて、実在感に溢れています。

若い隊員たちは、いま見るとすごいメンバーですが、若すぎて誰だか分からないくらいです。こちらは輪をかけて棒読み気味で、その初々しさがまたリアリティを高めます。

正直申し上げて、現代の映画は「怒鳴る」ことをリアリティの強さと勘違いしており、好きではありません。

イギリス映画『暁の出撃』、アメリカ映画『史上最大の作戦』などもそうでしたが、現場って静かなものです。

この作品の実直さ・誠実さを支えるものは、やはり背景がすべて本物だったことです。もはや実機を出す撮影はできません。1944年というと、物不足もかなり深刻化していた頃です。なによりも、撮影の陰で、実際に人命が失われていたのです。

「イメージ」だけを頼りにする現代の監督・俳優がマンガ調になり、遊離感を帯びてしまうのは致し方ないことではあります。

本作は、多くの犠牲の上に立った、困難な時代の証言であり、襟を正して拝見すべきものではありますが、撮影現場を作る・映画を撮ることの幸福感に溢れているようにも思います。

神鷲去って、また帰らず。

ご冥福をお祈りいたします。


2015/01/15

【1940年、東宝『支那の夜』】


古い映画を年代順に見る冬休み企画。

愁いは清し、君ゆえに。美しい映画だと思います。

カメラの性能は決して良くありません。視野というか、撮影範囲が狭く、画面が丸いのです。でも構図には工夫が見られます。

BGMは殆ど使わず、登場人物の心理を丁寧に「絵」で語っています。後半におけるミュージカル映画としての聞かせどころも、鳴らし過ぎ感がなく、締まりが良いです。

編集にも間延びしたようなところがありません。ひじょうにセンスの良い制作陣です。

物語は一種のシンデレラ・ストーリーで、王子に当たるのが占領者である日本人なので、外国人を演じた主演女優・観客とも難しい気分になりますが、まずは古き良き時代の清潔感あるロマンスとして、まっすぐに評価して良いと思います。

監督の意図の中心は、なによりも主演女優を美しく撮ってあげたいということだったろうと思います。

戦禍の廃墟は克明に映し出され、平和だった頃の美景と対比されています。廃墟にたたずむヒロインのコートの裾をひるがえす一陣の風。

戦争の恐ろしさ、悲しさは充分に表現されているでしょう。

ヒロインが「こんなにしたのは誰ですか」と詰る場面では、彼女のほうが詰問される側の日本人女性よりも物理的に高い場所にいます。

それを黙って受けとめる日本女性の心映えの美しさも、重要なモティーフのようです。

二人の美女から愛される、目千両の長谷川一夫は、存在感たっぷりの素敵な王子様です。

気の強い女を殴って分からせるというのは、数年前のNHK大河ドラマ『平清盛』序盤にも登場しましたが、あちらには殴った男に反省がありませんでした。「古臭い手法だなァ」と思ったものですが、どうやら古い時代の制作陣のほうが冷静だったようです。

現代中国の演劇で「乱暴されそうになった女性が拳法で立ち向かう」という場面を見たことがあります。中国女性は殴られて反省するなんてことはないでしょう。徹底抗戦になると思います。ここは日本的な美化ですが、日本女性が見ても気分の良い場面ではないです。

でも、そこへ至るまでの日本人側からヒロインへの思い入れが、順を追って描かれているところが重要だろうと思います。長谷川の誠実な表情も良いです。

総じて日本人は良い人として描かれ、差別的なことを言いません。対する中国人も、過度に残酷であったり、そのわりに簡単に倒されるというようには描かれていません。これは勧善懲悪の痛快娯楽劇ではなく、女性を中心にした草の根の人的交流は可能だと本気で訴えているように思われます。

映画人というのは、平和でなければ映画を撮っていられませんから、基本的に反戦派だったろうと思うのです。

このあと真珠湾ということになりますが、『ハワイ・マレー沖海戦』も、戦意高揚映画と呼ばれるようでも、実質的なラストシーンは「青年士官の遺品(軍帽)を前に、勝利を伝える大本営発表ラジオを聞いても嬉しそうな顔をしない遺族」です。

本作へ戻ると、映画後半で満を持して鳴り響く名曲には「待ってました」の観客冥利が溢れます。占領側の観光気分という点で、真逆のネガティブ評価を下すことも可能なのですが、ここは蘇州の風光明媚と美男美女のお似合いぶりを堪能するということで良いと思います。

作劇の方法としては、前半で戦乱の過去を語り、後半は音楽的な娯楽性中心。ラストは神慮による奇跡か、やや取ってつけたようにハッピーエンドという進行具合が、お能と同じだなと思います。この頃にはまだ能の作法のようなものが生きていたのでしょう。

なお、古い日本映画の画質が荒いのは、古いからではなく、保存が悪いからだそうです。ガルボやディートリヒの出演作品は、もっと綺麗に見られるものです。湿気の問題もあるのでしょうが、映画を文化遺産として保存する意識が低かったせいらしいです。

現代技術によって修復されますように。女優の美と、蘇州の美が末永く伝えられますように。

平和の続くことを願います。ご冥福をお祈り致します。