2015/04/22

【ネットと文学③ ~ネットに文芸を乗せる方法。】



当然ながら次の議題は「文学をいかにインターネットに乗せるか?」のはずです。

若い人にスマホを禁止するんじゃないです。

ネットサーフィンを禁止するんじゃなくて、ネットサーフィンが快適になるサービスを開発しよう、って発想と同じです。


【読んでもらうには。】

若い人を、動画サイトやゲームサイトから、文芸サイトへ引っ張ってくるにはどうしたら良いか?

いわゆる「萌えキャラ」または「ゆるキャラ」の力を借りるべきか?

あるいは「動画として文学を読ませることは可能か?」

つまり……カラオケの歌詞表示みたいに、文章を少しずつ画面に表示して、5分くらいで第一章だけ読んでもらう。続きは書籍で(ここをクリック)ということは可能か? 

もちろん、クリックすると書籍の販売サイト、または登録制・課金制の全文掲載サイトへ移動します。技術的には簡単です。すでに試みている人もいるでしょう。

ただし、これには「読んでみた」という二次的使用がついてくる可能性があります。

つまり、声優・アナウンサー志望者などが、朗読音声を勝手に添付して、別の動画として公開するのです。

これを「良い宣伝になる」と喜ぶか? 「重大な著作権法違反である」と見なすか?


【じつは読んでいるかもしれない。】

ネットの強みは(本棚へ辞典を取りに行かなくても)その場で翻訳できたり、その場で単語を調べたりできることで、熱心な若者は、作品が公開されてさえいれば、次々に読んでくれるでしょう。

何も「ゲームか、文学か、それが問題だ」と二者択一に悩む必要はありません。

ゲーム攻略に飽きたら文学サイトへ向かえば良いだけのことで、さりげなく文学から引用できる人は、オンラインゲームでも人気者かもしれません。

その場で感想文を書いたり、自主制作に入ったりしたくなるかもしれないので、読むサイトと、書き込むサイトを連動させるといいのかもしれません。

ただし、すでに各社が試みていることではあり、サイト同士をリンクさせることも、各自が「お気に入り」を利用して構築すれば良いことです。

とすると……

紙の本が以前より売れなくなったので、読む人が減ったように思われるだけで、じつは意外と読んでいる人は多いのかもしれません。

ライトノベルの隆盛は、明らかに大学進学率の上昇と正比例しています。その作品群の内容は、さまざまではありますが、先行作品の素養がまったく認められないなどということはありません。


【大人の文芸サイト。】

若い人に限らず、書店まで行くこともできなくなったと嘆く高齢者・障碍者に「大きな文字で読めるサイト」を提供できるか? と考えることもできます。

中高年が私小説・自分史を発表するための「純文学専門投稿サイト」も考えられます。縦書き表示を好む人のために、表示を切り替える機能が用意されているといいです。

不適切な投稿は、運営本部へ通報させる。これは既にyoutubeなども行っていることです。

なにを不適切と見なすかは「表現の自由」との兼ね合いで、問題になりやすいところですが……

自分史としての官能小説(不倫の体験記など)が増えてしまうようなら「世の中こういうのが好きな奴が多いんだなァ」と諦める他ないのかもしれません。

(これは、カテゴリ分類することで対応できます。)


【紙の本を買いやすく。】

ウェブ上に発表された文書は、コピー・改変が容易です。知らない内に翻訳されて、海外で売られる可能性もあります。もちろん連絡は入らず、印税は頂けません。

複製防止技術は、もちろん可能ですが、いたちごっこです。

とすると、インターネットの悪いところをあげつらうより、そういう心配が少ないものとして「紙の本の良いところ」をほめるほうが宜しいのかもしれません。

そして、紙の本を高齢者も買いやすくするためには「大きな文字で表示される書店サイト」が必要かもしれません。

これは「設定すれば良い」という話ではありますが、その時点でつまずくことも考えられるので、最初っから大きな画面に大きな文字で表示される機種があるといいのかもしれません。





2015/04/22

【ネットと文学② ~インターネットが流行ってるんじゃないです。】



スマホが普及した、のです。

故障しにくく、携帯性にすぐれた個人用コンピュータ(の一種)である「スマホ」の普及によって、インターネットまたはワールドワイドウェブを利用しやすくなったのです。

パソコン通信の時代はもちろん、ウィンドウズ機の普及し始めた頃にも、インターネットはパソコンそのものに詳しいマニアのものだったはずです。

フリーズ、青画面に冷静に対応できる人。ダウンロード、ファイル変換など全て自分でやらなければならない時代があったはずです。

彼らが引きこもりタイプとは限りませんが、人数が少ないので「オフ会」と称してどこかの店へ集まっても、べつに目立たなかったでしょう。

スマホの普及によって、もともと「電話で連絡を取り合って、駅頭へ集合したり、車に乗り合わせて観光地へくり出す」ということに慣れていた「リア充」が、持ち前のフットワークの軽さを発揮したから……

地味な学術的展示を行っている深海水族館や、同業他社がないこともない鉄板焼ハンバーグの店が繁盛したりするです。

インターネット、またはワールドワイドウェブが「ある」だけでは、世の中はそんなに動かないのです。

先日、細田守『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォー・ゲーム!』を再見したのですが、あれで2000年ですから、この15年間の変化はすごかったのです。

iphoneによって情報の流通革命を起こしちゃったスティーブさんちは間違いなく偉大なんですが、そう考えると、日本人が使いやすいスマホを次々に開発して販売網に載せた日本の会社も偉いのです。

そういうふうに考えましょう。


2015/04/22

【ネットと文学① ~インターネットは大きな掲示板だと思われている。】



間違いじゃないんですが……。

「SNS」というべきところで「インターネット」という語に代理させている、という例は多いような気がします。

「ブログ、インターネットで大人気!」という文章を見た時には「ブログはインターネットじゃないのか」と心の中でつっこまざるを得ません。

「インターネットで流される情報は、文学とは違う」とか読んだときには「HTML文書として公開された創作物や、PDF文書として公開された研究論文の立場は」と思わざるを得ません。

たぶんツイッター(またはフェイスブック)=インターネットだと思われてるです。2ちゃんねるでもいいです。都市伝説掲示板でもいいです。

間違いじゃないんですが、弊害は考えられます。

たとえば『青空文庫』で明治の文豪の作品を読破した。研究機関の公式サイトで最新論文を確認した。

こういうことを「インターネットで読んだ」と言った時、「あんなの全然ダメ。読んだ内に入らない」と怒り出す人がいたら?

溜息まじりに「そもそもインターネットというのは、SNSに限らないわけでございまして……」と説明を始めることになろうかと思われます。




2015/04/16

【BLとGLBT④ ~やおいトランス説の難点。】



1990年代半ばに、ゲイコミュニティから「やおいは僕らに対して失礼である」とする旨、激烈なクレーム文書が発されたという話があります。

対して「やおいはトランスゲイです」と提唱する書籍が発表されたのは、1998年です。

すでに「やおいは失礼だ」と言われている時に、「やおいはゲイです」と言い返せば?

「ゲイって失礼なものでしょ(爆笑)」という意味になります。

この行き違いは不幸だったと思います。

榊原『やおい幻論』という本は、すでにさんざん「ああいう(変わった二次創作に夢中になる)少女は、女として欠陥があるんじゃないのか?」という取り沙汰がなされた後で、結論として発表されたような性質があり、もとより迎合的なのです。

当時はトランスという言葉自体が目新しく、うまいこと言ったように思われたのでしょうし、著者に悪気はなかったと信じますが、校正の段階で気づかなかった当時の編集部、購読して気づかなかった社会が残念です。


【非当事者感。】

そもそも、実際にトランス男性であれば「女のような顔をした男が、ほかの男の玩具となった挙句に、それを“愛”と見なして受け入れてしまう」なんていう話を、黙って読んでいられるはずがありません。

いわゆる「抱く」ことができるからトランスであるというのは、いわゆる「攻め」の機能だけに着目した、一方的な結論です。

当事者意識というのは、被害者意識です。「もし本当にこんなことになったら困る、怖い、許せない」と思う気持ちです。

だからこそ、多くの女性が、ストレート男性の好む少女監禁・調教などという話を「まァいやらしい」と言うはずです。

あるいは、女性はもともと「マゾ」だから、トランス男性も「マゾ」であるという、女性性に関する偏見に基づいています。

言った本人が女性であるから厄介なのですが、じつはこの「自分だけは違う」という棚上げ意識は、事実上「やおいはトランスゲイだが、JUNE作家である私は違うので、一致団結して人権運動を開始する必要はない」という結論に落ちてしまったことと、一脈通じているように思われます。

榊原さん個人を非難したいのではなくて、なんとなくトランス説を受け入れてしまった全体に対して「話がおかしいでしょ」と申し上げたいのです。


【トランスゲイは男性です。】

トランス男性は、可哀想な女の子ではありません。

モテないので男になった、不細工な女の子ではありません。

トランス男性は、結婚したくないモラトリアムまたはラディカルフェミニズムの仲間でもありません。

彼らは生来の男性として、女性と結婚したいと願っているはずですし、何割かがゲイとして、男性との交際・同性婚を願っているはずです。

自らの(意識する)性別に合わせて、男らしく、または女らしく装い、振舞うことを好むトランスは、むしろ保守的です。

いぜんとして結婚・育児に厳しい景気ではありますが、人によっては、育児・PTA活動・子ども会活動といったことへ、「ふつう」に父親として・母親として参加したいと願っていることでしょう。

とうぜん、生物学的には親ではない人の親権、養子縁組、代理出産といったことに関して、トランスではないゲイ・レズビアン達とも協力して、ことに当たることになるでしょう。

彼らが、ゲイタウンの先輩へ無礼を働くことは、理念的にあり得ません。個人的に口の悪い人はいるかもしれませんが。



2015/04/16

【BLとGLBT③ ~女性がBLを読むと男性がゲイになる説。】



数年前に某県から会議録として発表された珍説です。その後、取り下げられました。

会議のその場で他の参加者から撤回することを求められなかったなら、そのほうが示唆的です。

「なる」と言われて、「そうですとも」と頷いてしまう人が多かったということです。

実際には「なる」ってことはありません。

同性志向であることは、ゲイ生来の個性であり、権利です。彼らは、強気な女性から逃げた人生の敗残者ではありません。

そもそも、話がおかしいのです。例え「なる」ことがあったとしても、余人は困りません。

それぞれに好きな相手と交際し、好きな雑誌を講読して暮らせば良いだけのことです。

ゲイが増えると、何が困るのか?

「子供が生まれなくなるじゃんか!」と思う人がいるわけです。

本当に困るのは、男性が同性へ向かうことではなく、少子化です。

本当の問題は、総人口の9割を占めるストレートが子供を作らないことです。

本当の対策は、生活費・教育費・それを母親みずから稼ぐために児童養育の助力が要るというところへ向けられるべきであるのに、まちがってゲイを非難することと、漫画を非難することに努力が費やされていたのです。

「同性婚を認めると、ゲイが増えるから困る」という発想も、「国が滅ぶ」という不安に直結しています。でも、増えることはありません。

婚姻・配偶者控除といったことを認めてあげれば、急に「我々も」と名乗り出るカップルが増えるにゃちがいありませんが、それは長年がまんしてきたゲイまたはレズビアンであって、ストレートが「ラッキー♪」などと称して転向するわけではありません。

可視化は、たんに可視化であって、発見されない頃から総人口に占めていた割合が変わるわけではありません。


2015/04/16

【BLとGLBT② ~きれいな男はゲイになる説。】



「にやける」とは、色男が「フッ」と微笑して「ミーは女性にモテてモテて困る」ということではありません。

漫画などの創作物における用法としては、モテないタイプの男性が、色男を見て、物陰で「チッ。にやけた野郎だぜ」と呟くことになっています。

「にやけ」は若気と書き、若道と書いて「にゃくどう」と読めば、いわゆる「衆道の契り」のことです。

つまり「ああいう綺麗な男はオカマなんだぜ」と言っているわけです。実際には女性にモテているにも関わらずです。モテない男の悔しまぎれです。

偏見と差別意識に基づいており、品位を欠く言い方であることは、言ってる本人も分かっているので、あまり大きな声では申しません。物陰で「チッ」と言うわけです。

この「陰間のようだ」というのを、文科省的に婉曲表現すると「なよなよしている」となります。


【美化。】

見目のよい男児が人買いに買われて、または対価もなく拉致されて、富裕層へ売られるということは、ずいぶん昔からあったことで、これはもう児童虐待という他ありません。

『稚児草紙』のような創作物は、それを美化した作品です。

美化が、当時の「当事者」の自尊心によるものだったのか、小松左京のような「美童趣味なら俺にも分かる」というストレート男性が表面的な憧れを描いたものだったのか、今からでは判断できません。

男児に化粧させ、酌を取ることを求めたのが、当時の「当事者」だったのか、女性との交流を禁じられた・賤視によって自ら禁じたストレートによる代償行動だったのかも、今からでは判断できません。

井原西鶴のような作家は、客の求めに応じて書き分けただけかもしれませんし、すでに当時にして読者の半分は女性だったかもしれません。


【後追い、後出し。】

ともかく男色をそのように美化してきたのは、もともと男性でした。

戦後には、ストレート男性の一人が、ゲイコミュニティを「秘密の愛を交わす人々」と見なして薔薇族と命名し、同名の雑誌を発行し、当のコミュニティが歓迎しました。

中には反感を抱いて、別の雑誌を立ち上げた「当事者」もいたのですが、もともと画家であって、編集技術のほうは身につけていなかったので、うまく行かなかったみたいです。

三島剛の雑誌が成功していたら、ゲイの見た目に関する共有イメージも、だいぶ違うものになっていたのかもしれません。

女性は内藤ルネ、丸山明宏、ヴィスコンティ監督といった人々から与えられた「美少年」というイメージを蒐集することを好み、「秘密の愛ってロマンチックね」と言ったわけで、完全な後追いです。

で、「当事者」自身が秘密と思っていたものを「もう秘密にするのをやめよう」と決めた途端に、後追いしていた人々へ振り返って「差別だ!」と言ったわけで、やや後出しジャンケンのような印象もあります。


【自尊心。】

きれいな男はホモセクシュアルになる、なぜなら女性的な存在のほうが(むくつけき男性的存在よりも)価値が高く、富裕な男性から愛されるにふさわしいから……

これは伝統によって培われた偏見です。

実際にきれいな男性の自尊心と、女性の自尊心と、社会的に成功した男性の自尊心が絡み合っているところが厄介です。

裏を返すと、きれいじゃない男はゲイにならない。

これには「ふつう」なストレート男性の自尊心と、共同体意識、同性愛忌避意識が混淆しています。

いずれにしても、きれいじゃない男は男性から愛される資格がないと規定されたことになり、顔立ちによってゲイであるかどうかの自己申告を否定されるということであり、これは現代の「当事者」にとって我慢ならないのは当然です。



2015/04/16

【BLとGLBT① ~悪役ゲイキャラクター。】



または悪役トランスキャラクター。

女装・化粧している and/or 女言葉で喋る男性キャラクター、およびその二人組が地球の平和を侵略するので……

若い男女、またはファミリーが迎撃し、撃退する。

こういうプロットは、1970~90年代前半のアニメで見られ、その後パタッと無くなりました。

じつは1990年代半ばに、ゲイタウンから「女性が(創作物をつうじて)男色に関心を抱き、わざわざゲイタウンまで押しかけては、プライベートな質問や揶揄をくり返す」という現象について、激烈なクレーム文書が発されたという話があります。

寡聞にして、テレビ番組にも明確なクレームが発されたという話は、個人的には聞いていません。でも「配慮」がなされた可能性はあると思っています。

「ゲイは健全な男女の結びつき(による平和な社会)を破壊する侵略者である」

「オカマは気持ち悪いから、やっつけてやると清々する」

こういう考え方に基づく創作物が、若い視聴者に偏見と暴力の正当化を植えつければ、ゲイは生命の危険にもさらされるのです。

それを「怖い」と思わずに、笑いながら見ていられる人は、やはり異性愛者であり、自分を「数が多いから正しい」と信じている多数決信奉者であり、少数派の気持ちに関する想像力が足りないという他ありません。

で、美少女戦隊アニメは、シリーズ化されて1990年代後半以降も人気を継続しましたが、悪役は大人の女性、または「ふつう」の男性になりました。

ファミリーアニメは、ゲイタウンの住人が“正義の味方”として、ファミリーに助力する話に様変わりし、その後はゲイまたはトランス的なキャラクター自体が登場しなくなりました。

……最近またテレビで見かけたので「忘れた頃に復活するもんだなァ」と思ったしだいです。




2015/04/16

【ネットサーフィンが考える力を奪うんじゃありません。】



少し前に「ネットを敵視するあまり、スマホが電話であることを忘れる」という話をしたので思い出したのですが……

日本でネットが普及し始めた頃には、わざわざ書籍の形で「ネットサーフィンは良くない」なんて文章を発表する先生たちがいました。

ネットは次々にリンクボタンをクリックしていくだけで、記憶に残るものがない。人間から考える力を奪うから危険だ、というのでした。

でも、これはネットのせいじゃありません。使い方の問題です。

先生たちは、日頃は書籍を批判的に読むことに慣れており、メモを取ったり傍線を引いたりしながら読むはずです。新聞記事を切り抜き保存する習慣のある人もいるでしょう。

それが、PCに向かうと「マウス」で利き手がふさがっているので、普段の得意技を忘れてしまうのです。

HTML文書を読むことが悪いんじゃなくて、クリックという動作のリズム性、スクロールという視覚刺激がもつ催眠性のようなものが「危険」なんじゃないかと思います。

次々とリンクを踏みすぎて、どこを通ってきたのか覚えていないというのも、書籍を読むこと・ノートを取ることに慣れていない人と同じで、整理方法が身についていないだけです。

まずはブラウザの履歴・ブックマークを利用すれば良いですし、そもそも最初にして最後の手段は、手書きでURLを控えることです。全部の頁をプリントアウトしても良いです。膨大な頁数になることに気づくでしょう。

でも、日頃から原稿をまとめることに慣れている先生たちなら大丈夫です。

問題は、こういうことに先生たちが自分で気づくことができず、話が即座にネットそのものへのバッシングになってしまうことです。

海外では、同じようなことを思った人が、ネットそのものの中で工夫して、ソーシャルブックマークとか、付箋のように書き込めるサービスとか、広告などを削除してプリントアウトしやすい形に整形するサービスなどを開発したわけです。

確かに、誰かが文句をいえば、ほかの誰かが「そこを解決すれば商売になる」などと考えてくれるわけですから、言いたい文句は言えばいいです。

でも、なぜか日本の先生たちというのは「この問題を解決するために、若い人々の知恵を集めよう」というふうに考えずに、「若い人々にはネットを禁止しよう」といった方向へ進みやすいものです。

おそらく、本心はネットの意義を検討したいのではなくて、とにかく若い連中の流行を止めたい、ということなのです。

背景には「最近の学生は本を読まない」という不満があります。

スマホの話の裏に「今の若者は親に電話もしてこない」という不満があるのと同じです。

「女性がBLを読むと男性が同性愛者になる」という話もありました。あれも要するに「少子化は漫画のせいだ」と言っているのです。

日本人、はっきり言わないのです。別の対象を攻撃することで、本音を隠喩するのです。めんどくさい人々なのです。

あるいは、もしかしたら日本人の中には「解決は海外からもたらされるので、それまで様子を見よう」(=日本人が前向きに考えても無駄)という諦念があるのかもしれません。




2015/04/15

【著作権の件⑤ ~ドロロンえん魔くんのユキちゃんから考えてみる。】



ずいぶん昔のテレビアニメの話題で、まずは単に「好きだった」という話です。

永井豪(とダイナミックプロ)原作アニメにおける主人公少年のパートナーで、番組の「マドンナ」として、白い振袖を着た少女が登場するのですが、その裾が短くなっていて、ミニスカート状態になっているのです。もちろん生脚むっちり。

振袖で女らしく装うことと、動きやすさが両立されていて、子供心にも素敵なアイディアだと思いました。

現実に真似する人がいたら、さすがに奇抜すぎるので、こういうのはアニメならではの醍醐味だな……と、幼いながらも感得した覚えがあります。

その後、同じようにミニスカート状の振袖を着た魔法少女キャラクターが何人かテレビに登場したので、原作漫画家かアニメ監督の誰かの心に、同じユキちゃんの印象が残っていて、今度は主人公として活躍させてやりたいと思ったのかもしれませんし、逆にまったく昔の作品を知らない人でも、いつかは思いつくアイディアなのかもしれません。

こういう「誰でも思いつきそうなアイディア」というのは、それ自体では権利を主張できません。でも新しいほうのキャラクターの名前が「ユキ」だったら、昔を知っている人は「ピンと来た」ということになります。

でも、髪の色が違えば、別人と見なされるでしょう。

逆に、髪の色も目の色も、髪に花を飾っている(飾っていたと思います)ところも、全てあの頃のユキちゃんにそっくりというと……?

でも、吹雪を自在に操る日本版「雪の女王」で、雪をイメージさせる白い髪をしているといったキャラクターは、他にもいます。女性だから髪に花を飾るのは当たり前ともいえます。

(じつは『妖怪ウォッチ』の「ふぶき姫」を見て思い出したのです。)

コンセプトが同じだから、デザイン結果が同じになるのは当たり前と見なすか?
 
それとも「意図的に他人のアイディアを盗用して、よぶんに稼ごうとしているから、人道にもとる」というべきか?

「ユキ」または「雪子」という、どこにでも実在しそうな名前についてはどうでしょうか。

原作者は「その名前を最初に使ったのは俺だ。俺に権利がある」と申し出ることができるでしょうか。

申し出ること自体は自由ですが、おそらく裁判所で認められることはないでしょう。商標登録もむずかしいと思われます。名前としてはありきたりだからです。

やはり、そのような「トリビュート」を権利の侵害として告発するためには「○○(作品の題号)における、特定の少女を指示する人名で、たんに雪子ではなく「雪子姫」であり、その容姿も酷似している(ように思われる)」という複数の要素を総合的に判断するということになるのでしょう。

もちろん素人は一瞬にして、そのへんを見抜くので、即座に「面白い」と思う人は思うし、「やばくない?」と思う人は思うということになります。

ただ、この「やばいに決まってる」という感じを、法律に着地させるのは難しいのです。

また「判断する権利」ということも考えられます。

著作権者が「新人育成のために何でも描けばいい」と思っているのに、警察が片っ端からしょっぴいて行ったというのも、逆に「著作権者の意に反する」ということもできそうです。





2015/04/15

【著作権の件④ ~出版社の権利。】



引き続き、渋谷達紀『著作権法の概要』(経済産業調査会、2013年9月初版)による個人的理解。実際の裁判官の判断とは違うことがあります。


【出版権。】

著作権者が設定すれば(つまり許可すれば)出版者/社は特定の作品をそのまま複製し、頒布する権利を専有します。

他社が勝手に特装版を売り出していれば、やめさせることができます。コピーを大量にばらまく人がいて、正規品が売れなくなれば「ああいうの逮捕してください」ということができます。

知らない内に原作者が他社と契約していて、二重に印税を受け取っているようなら「話が違う」と言ってやることもできます。

「そのまま」が重要なので、編集員が勝手に台詞を替えてはいけません。自分の絵を付け加えてもいけません。有名作家の名前を使っておきながら、中身は新人の作品というのもいけません。読者をだましたことにもなります。

著作権法というのは、もともとそんなに難しい話ではありません。

例えば子供が同級生のテスト解答用紙を盗んで、その名前を消して、自分の名前を書いて提出し、自分は合格して同級生は落第したなどという時は、誰が聞いても「そういうことしちゃダメでしょ!」って言うでしょう。

その程度に常識で判断できることを、わざわざ言葉で書いたので、ややこしいように見えるだけです。


【翻案権。】

上記のような話は、要するに複製を売った「お金」を誰が受け取るかという話なので、財産権といいます。これは著作権者から他人へ譲渡することができます。

譲渡がなされると、翻案権というのもくっついてくるので、出版社は「小説を漫画化、漫画をアニメ化、アニメを実写映画化またはミュージカル化」などというとき、いちいち許可を与えて、利用料を受け取ることができます。

この場合、原作のストーリー性を変えないことが重要です。新しい要素を付加することは認められます。

たとえば「奇妙な薬を飲んで小児になってしまった青年が、小学生としての夏休み中に、新たな事件に遭遇する」という話はできます。

でも、アニメ監督と脚本家だけで、原作者へ相談せずに「愛する少女の接吻によって青年が元の体に戻ったことにして、めでたしめでたしにすれば『感動の完結編』ってことで興行収入が伸びるぞ」と決めてしまうのはダメです。

だから、アニメ映画のシリーズは、良くも悪くも進歩のない話を繰り返しているわけです。


【人格権。】

これは著作権者だけに一生ついて廻ります。他人に譲渡することはできません。本人がなくなった時も、遺族が継承することはできません。

逆に言うと、出版社には「BLは気分が悪いので許しません」という権利が、ありません。

また、出版業者の立場として「BLであること」を理由に創作を禁止することはできません。創作者の「表現の自由」を、表現業界みずから否定した、というわけには行かないからです。

業界同士の仁義としても、同業他社がBL分野の雑誌や文庫を市販しているのに「それはやばいです」と言ってやるわけには参りません。

いずれ自社からBL雑誌を出版する可能性もゼロではないことを考えると、自分のためにも「BLはやばいっすよ」とは言えません。

「俺は男としてBLだけはいやだ」と言い得るのは誰か。原作者ただ一人です。


【一蓮托生。】

長年に渡って同じキャラクター作品を出版し続けている業者にとって、そのキャラクターが会社の顔のようになってしまうこともあるので、こうなると原作者と出版社は一蓮托生で、不愉快な改変には団結して当たっていこうという姿勢が生まれることはあり得ます。

でも人格権の名において正式に訴えを起こすことができるのは、あくまで著作人格権を有する人、すなわち原作者ただ一人です。

(共同著作者がいる場合は、もちろん合議の上です。)

実際の告訴に関わる事務仕事は煩瑣なので、出版社が「それはこっちでやりますから、先生は連載の続きを描いてください」ってことはありそうです。


【依拠の程度。】

たとえ非親告罪化されても検察が証拠を提出しなければならないのは同じことです。

ある原作と、その二次創作であることをわざわざ自ら名乗る「同人誌」を比較検討した結果、法律に定めるところの侵害が認められない、という結論が出る可能性はあります。

それでも原作側が命じることができるとしたら「○○の二次創作である」とわざわざ名乗ることをやめろ、ということのはずです。内実は素人の独創作品であるものを、有名作家の名前(または作品の題号)を利用して宣伝していることになるからです。


【噂。】

こう見てくると、出版社が「同人」に協力してくれたというのは話がおかしいのです。

出版社は、たとえ著作財産権の譲渡を受けていたとしても、最初から複製でも翻案でもないものを告訴する権利がありません。

人格権が無いのですから、人格権に基づいて「不愉快な改変を禁止する」とも言えません。

ということは?

「出版社がバックについているから大丈夫」というのは、どこがどう悪いのかも自分でよく分かっていないからこそ不安に駆られた人々による噂だった可能性があります。

もうひとつの可能性は?

著作権者が人格権に基づいて「不愉快な改変を禁止する」と宣言する意向を示したのに、出版社が説得して翻意させたという意味になります。

佐藤秀峰は、この読者との関係における主導権を出版社が握っているかのような業界の慣例に対して、強烈な皮肉を言ってやったということになるのでしょう。


【法律家の悩み。】

もともと法律というのは、大勢の人から意見を聞いて、間を取って常識的な範囲で決めてあるだけで、また、そうでなければなりません。

独裁者が極端な法律を通すようでは、恐怖政治が始まってしまいます。

だから現実の事象をすべて反映しているとは言えないし、特定の業界の意見はもっと先鋭的だ、ということもあり得ます。

世の中には、危険ドラッグや人身を売りたい業者もいるわけです。地上げしたくてたまらない業者もいるでしょう。

「売れるんだからいいじゃねェか。かたいこと言うな」といいたい人は、結構いるのです。

(だから「売れる」を言い訳にすると、印象が悪くなります。)

著作権法の解説書に、条文の説明とは別に著者の個人的意見として、パロディは○○権の侵害と見なす「べきである」といった文章がみられることがあります。

法律家としても、パロディの流行には頭を悩ませているみたいです。

法律があるのに守られていないとなると、遵法精神をそこなう、誰でも何でもやったもん勝ちという世界を招来してしまうからです。

だったら、いっそ不便な法律のほうを撤廃すれば良いという考え方もできますが、著作権法そのものは、書いた人が正当な利益を得る権利を守るためのものであって、べつに悪法ではありません。

二次創作者がオリジナルを書いた時にも関わってくることですし。

これは日本だけの現象ではなく、インターネットの普及によって、世界的に「ファンアート」が人目につくようになったので、よくあることですが、法整備が追いついていないのです。

なお、法整備とは「これを禁止する」と決めることばかりではありません。「これを保障する」というふうに決まっても良いのです。



2015/04/15

【著作権の件③ ~パロディ推奨の思い出。】



1970年代の学童雑誌には、すでに掲載されたプロ漫画作品から1コマだけが抜き出して掲げてあって、そのフキダシの中がまっ白くなっており「ここへ自由な台詞を入れてみよう」と読者投稿を募る頁がありました。

『笑点』の大喜利みたいなもので、投稿者によって言うことが違うから面白いわけです。

編集部の意図としては、郵便葉書に台詞だけを書いて送ってくれればいいわけですが、中には画像そのものを丁寧に模写したものへ台詞を書き入れて送ってきた投稿者もあっただろうと思います。

ありていにいって、記憶にある「お題」は、藤子不二雄(当時)『ドラえもん』の一場面だったのですが、ドラえもん自体が駄洒落のセンスで秘密道具をデザインしており、このアイディアは現代の『妖怪ウォッチ』にまで受け継がれています。

アニメを下敷きにするまでもなく、漫画家(の卵)の世界では、何かを基にして「もじる」といったことが当たり前に行われていたのでしょう。

当時の編集部が、プロ作品をそのように利用することについて、原作者に了解を取っていたのか、特別料金を支払っていたのか、そのへんは分かりません。

日本の作家は出版社の下請けのように見なされている性質もあり、とくに了解もなく実行されていたのかもしれません。

子供たちに頭をひねってもらえば、明日の漫画家が生まれてくる可能性が高まるのですから、大義名分は立ちます。

ただし、作家のほうとしては、若いライバルが増えることになるので微妙です。このへんは、どこの業界にもあることでしょう。歌真似に点数をつけろといわれたテレビ芸能人なども、苦労していると思います。




2015/04/15

【著作権の件② ~二次創作許可マーク。】



複製権を無償で手放すと、海賊版売り放題なわけで、正規品は売れなくなります。

翻案権を無償で手放すと、映画化し放題なわけで、著作権者は莫大な権利料を受け取れなくなります。

キャラクター商品についても、いちいち権利料を受け取りたいです。

が、「二次創作だけは無償で許可してやりたい」というので考え出されたのが二次創作許可マークですが、それはもともと著作権の侵害に当たっていない可能性もあります。

原作者とは別人による仕事であることが一目瞭然な、似ても似つかない作品に原作の題号(タイトル)が表示されていれば「許可とったの?」となるのは当然ですが……

いわゆる二次創作に原作の題号が明示してあることは少ないものです。このへんの機微は、もうずいぶん前から「同人」に理解が共有されていたように思われます。

著作権法は、そんなに難しい決まりではありません。もともと創作同人というものは、最低でも字が読めるわけで、その何割かは進学を機会に上京した優秀な青年たちですから、法律の勉強だって、やれば出来ます。


【連想。】

では、明確に「あれのパロディです」と宣言していないものが、なぜ一部の人には「それだ」と分かるのか。

先に「あれ」を知っているからです。いくつかの要素の組み合わせによって「ああ、あれだ」と連想されるからです。

この、人間の脳に備わった「連想」という機能を利用した、分かる人には分かるという現象の面白さは、アニメ版『妖怪ウォッチ』が駆使しております。

根本的なことを言うと、人間には海馬領域が刺激されることを好むという性質があるんじゃないかと思います。アハ。


【運用上の不便。】

で……許可マーク。

じつはCCライセンスもそうなのですが、これは「許可マークを掲載した原作をつねに携帯しないと疑いを晴らせない」というものです。

二次創作を置いた展示台の隣に原作本(のマーク掲載頁)を展示し、問題ないことをお知らせする、という必要があります。

本当は、駐車許可証・入園許可証のように、二次創作物のほうにハンコを押すとか、許可証をプリントアウトして貼り付けるとか、創作者自身にカードを携帯させるとかでないと意味がないです。

ハンコ・印紙はもちろん検閲の意味を持ってしまいます。各自許可証を必携のこととなれば、原作の数だけ首にぶら下げることになるでしょう。


【BLであること。】

もう一つ、意味合いのちがう問題があって、これを提唱した人は男性です。

彼自身が二次創作畑出身であることを認めた上で、後輩にも認めてやると言い出したわけです。

彼が「BL化へのフェアユース概念の適用は無理でしょう」といえば?

フェアユースとは、一般社会によって、使用の公益性を認められることです。たとえば法律の条文などは、いちいち関連省庁へ許可願いを出さなくても、誰でも参照し、引用することができます。

BL化のフェアユースは無理といえば、ある作品の登場人物(の名前)を自作BL作品の主人公として使用した場合、一般社会がそれを認めないという意味です。

おそらく、彼の描いたものは、BLに分類されるものではありません。どちらかというと、「ロリ」とか「百合」とか言われるものであるでしょう。「残虐」かもしれません。

……それらは、一般社会によって公益性を認められるつもりでしょうか?

「いや、そのつもりはない」と言うならば、なぜ「およそ全ての二次創作は、公益性を認められない」(だから特別に原作者権限によって許可制を確立しよう)という話にならないのか?

ひらたく言うと、「ロリなら良いが、BLは無理」という個人的嫌悪感を表明してしまったのでした。

これによって偏見が助長され、BL派がひじょうに困るという事態が起こるわけです。

ここでBL創作者みずから「元々やばいし~~」と笑ってはいけません。

“表現の自由が自主検閲されるべきであると事実上強制されている件”について、創作者自身はあくまで「憤懣やるかたない」という言い方をしておくものです。


2015/04/15

【著作権の件① ~二次創作は著作権法違反か。】

以下は、渋谷達紀『著作権法の概要』(経済産業調査会、2013年9月初版)読了にもとづく個人的理解です。

渋谷自身が大学の研究者として、実際の判例にツッコミを入れるという要素のある本なので、実際の裁判官の考え方は違うこともあります。なお念のため、日本限定です。

【例題】

ある男性漫画家の作品は、少年漫画らしい眉毛の太い少年たちが「運動部における特訓の成果によって強敵に勝つ」という物語を演じるもので、読者の心に残るのは「努力は必ず報われる」という学童向けの教訓を含んだ感動です。

ある女性漫画家の作品は、少女漫画に登場する少年のような繊細な若者たちが「愛した人には過去があった」という恋愛物語を演じるもので、読者の心に沁みるのは「愛を得るための努力が実るとは限らない」という大人向けの苦味を含んだ感動です。

両者に共通するのは、前者の脇役と、後者の主人公の人名だけです。

この人名は、商標登録されていません。

なお、前者の人物は黒い眼をした日本人として描かれていましたが、テレビアニメ化の際に青い眼になりました。後者の主人公の遠い過去に向けられた眼は、澄んだ青色です。

また、両作品の題号(タイトル)は、まったく違います。後者には原案者・共同著作者などとして前者の著作者の人名が表示されているわけではありません。

さて、両漫画作品には著作権の侵害にあたる関係があるでしょうか。


【疑わしきは罰せず】

一般人が「こんなのパクリに決まってるじゃん!」という個人的感想を、ただちに「禁止しなきゃだめだよ!」という断罪へ飛躍させることに対して……

法律家は「疑わしきは罰せず。証拠が必要だ」と考えます。

まだるっこしいようですが、法律家の「なんとなく俺もやばいと思う」という一存だけを基に次々と断頭台送りというのでは、一般国民としても「明日はわが身」という不安が生じるわけで、やっぱり困るのです。

たとえ著作権侵害が非親告罪となっても、証拠を提出しなければならないのは検察にとっても同じことです。裁判となれば、弁護士が検察の不備を突くでしょう。

【複製権、翻案権、人格権】

複製とは、もちろんコピーのことです。著作物を複製できる権利は、著作権者=原作者自身が専有します。これに基づいて、著作権者から許可を得て、特定の著作物をそのまま印刷・頒布する権利が「出版権」です。

(頒布という言葉を使えば、販売とは見なされないというわけではありません。)

「版権」とは、明治20年に制定された版権条例に基づく言葉で、明治32年に旧著作権法が制定された後では正式には使われなくなったはずの言葉であり、かなり古いです。

この「出版権」を、著作権を意味する古い言葉である「版権」と混同すると、出版者/社が著作権を持っているかのように勘違いすることになります。

(出版社が著作権を持っていることはあり得ないってわけではなく、著作権者から著作権の譲渡を受けていれば、出版者が著作権者です。)

翻案とは、原作を踏襲して、形を変えることです。漫画がアニメ化された時点で二次的著作物です。

アニメを鑑賞して得た印象をもとに、新たに作成された漫画は、三次的著作物であって、原作漫画から見ると「孫」に当たりますが、ここまで来ると原作者の権限が直接に及ぶとは限りません。

上に挙げた架空の例のように、客観的に共通している・依拠しているといえる部分がほとんど無いということもあるものです。

キャラクターの名前は「たまたま同じだった」「憧れに基づいて命名させてもらった」などと言い張ることができます。自分の子供に有名人の名前をつけるのと同じです。

表現の自由は、保障されています。行動の自由は、もちろん保障されています。誰も誰かに対して「貴様は何も描くな」と命令することはできません。できるのは「俺の名前を勝手に使うな」ということだけです。

著作者人格権というのは、著作権者の名において、なんでも命令できる権利ではありません。著作権者が自分の作品に関して、「自分の名前」を管理できる権利です。

自分の作品が売られているのに自分の名前が表示されていない。他人の名前が表示されている。自分が苦労して生み出した作品なのに、他人の手柄にされている。あるいは、他人が書いた差別的な文章に、文責者として自分の名前が表示されており、自分のところに苦情がくる。

こういうとき、「すぐにやめてください」または「やめさせてください」と訴え出ることができます。「お詫びの印にお金をよこしなさい」と云うこともできます。

逆の立場からいうと、他人のネームバリューを利用して、自分の作品を宣伝してはいけないのです。「有名な○○先生の作品です」と紹介しながら、一部だけ自分の書いたものであってはいけないのです。歌謡曲の歌詞改変は、これにあたるでしょう。

でも、歌詞全体が変更された替え歌で、替え詞の作者名がきちんと表示されていれば、元の作詞者の人名(にともなう権威)が勝手に利用されたというのとは、別の問題です。

いっぽうで、いわゆる「薄い本」に、原作者と二次創作者の名前が連名で表示されていることは少ないものです。また、原作の絵に余分なものを描き加えたという例とも違います。それは、あくまで二次創作者自身が(腱鞘炎も覚悟で)描いた、その人自身の作品です。

さらに、もともと漫画・アニメの形だったものが、小説の形になっていれば「画像を無断使用された」とは、まったく言えません。

【アニメの著作権】

アニメ作品の複製というのは、もちろんダビングです。複製されたものが無許可で頒布されれば海賊版です。

翻案といえば、アニメのノベライズです。アニメのタイトルと、原案者として監督の名前を表示しておきながら、似ても似つかぬストーリーであった場合には、アニメ監督は差し止めを要求できます。

が、監督の名前が無断使用されたわけではなく、内容的にもあまりにも一致する部分が少ない時は、かえって「侵害された」とは言えなくなります。

似ていない物真似は、誰にとっても意味がありませんが、原作アニメとはストーリー性の違う「二次創作」は、少なくともそれを好む鑑賞者にとって意味があります。

それは、若い運動部員というキャラクター特性だけにインスパイアされた新作であり、二次創作者自身の腕だめしであって、少なくともアニメの「開始から何分の場面を品位を欠くものに変えてしまった」とは言えないのです。と、すると?

【二次創作の矛盾】

似ても似つかぬ「二次創作」(じつは二次でさえなく三次)が問題視されるのは、じつにそれが「二次創作である」ことを明言したことによってです。

似ても似つかぬのに、わざわざ「これには依拠した原作があります」と自己申告しているのですから、「権利者様は権利侵害の有無を各自で確認してください」と言っていることになります。

後難を避けるつもりで、わざわざ「○○先生とは関係ありません」と注意書きしておいて、かえって論理のパズルみたいなことになっちゃってるのが、現状の「二次創作」です。

また、他人が「それは二次創作なのに派手に宣伝しちゃダメじゃないですか」と指摘した時点で、それ自体が問題を起こしたことになります。

じつはアニパロという言葉が盛んに使われていたのは、1983年頃までだったと思います。以後「やおい・ロリ」といった隠語に置き換わっていきました。

コミケは、本来がプロを目指して独創作品を描いていた同好会の集まりですから、それに対して「こっちはパロディだ」と言ったのでしょうが、それが目立つようになって、問題性が認識されたのでしょう。

【冤罪】

2006年に「同人誌とはアニパロです!」と言ってしまった書籍が登場しましたが、この言い方は、同人誌全体を著作権侵害物として告発したという意味を持ちます。

実際には、今なお同人誌の中には独創作品もあるのですから、かなりの部分で「冤罪」の可能性があります。

その後、2008年に「二次創作は出るところへ出れば黒」と紹介するウェブ記事が挙げられましたが、親告罪なので「出るところへ出ることに決まった」(=告訴された)時点で、権利者によって黒と見なされているのは当たり前です。でも争うことはできます。

上述のような具合で、著作権法を「厳密に」適用すればするほど、侵害とは云えないということもあり得るので、こちらも二次創作全体について根拠なく偏見を助長する言説であるということになります。

べつに個人的に二次創作を弁護したくなくても、法律がそういうことになってるなら仕方がないわけで、誰よりも国民自身のために「疑わしきは罰せず。予断しない」という原則を尊重するならば、いきなり「黒に決まってる」という言い方をしないほうが良いのは当然です。

「だからこそ」と続きます。

【道義的責任。】

告訴できる条件を満たさないからこそ、原作者は「お願い」することがあります。芸能人が「子供の運動会など、プライベートに関わる取材はご遠慮ください」と言うのと同じです。

裁判所を通じていなければ、法的な強制力はありません。だからこそ取材陣は「人と人との約束を守れるか」という道義的責任を負います。社会が証人となります。

これに対して、創作者側が「どうしても他人の作品から発想した物語を、その旨を明示して発表したい」と思えば、「表現の自由」を主張して、裁判で闘うことになるでしょう。

べつに、二次創作者が裁判に出て悪いことはありません。判断基準である法律そのものの改訂を訴えて大論争を巻き起こしても構いません。むしろ、闘う権利があります。

でも、それを避けたいので、意味不明な隠語を使ってまで身を隠そうとしてきたのが「同人」です。

【対応】

「二次創作は人気のバロメーター」というのは、その人自身の考え方であって、創作者全体の意見を代表しません。

そういう人は、自身のブログなどで「私の作品は二次創作フリーです」と宣言するか、全作品にCCライセンスを付与すればよいのです。今まで遠慮していた天才が奮って登場してきて、出版界・購読層を喜ばせるとともに、原作者の地位をおびやかしてくれるかもしれません。

「二次創作はうまくやってくれ」というのは、ガッポリ稼いでくれという意味ではありません。絶対に見つからないでくれという意味です。たとえば刑事ドラマなどで犯人グループが「うまくやれよ」「うまくやりますよ」と言えば、「ツイートしろよ」「拡散します」という意味ではありませんね。

親告罪であることが理解されたからこそ、原作者のところへは「放っておいていいのか?」といった質問・苦情が殺到している可能性があります。

非親告罪になれば、壁サークルを密告する必要はありません。警察が内偵を進め、イベント会場を封鎖して、一斉検挙するだけです。ダンスクラブはやられました。

そもそも、イベント主宰者が規約の冒頭に「違法な商品は出展できません」と書く他なくなるのですから、非親告罪化が決まった時点で全滅です。

「俺だったら密告するから、その前に許可してやろう」というので始まったのが二次創作許可マークですが、これは常に二次創作物とともに原作を携帯しなければ疑いを晴らせないことを意味します。

複製でも翻案でもなく「二次創作」だけを許可してやりたいという気持ちは分かりますが、そもそもその程度なら著作権侵害にあたっていないとも言えます。

また、すでにCCライセンスがあるのに話をややこしくした恨みはあります。

世界共通のCCライセンスではなく、日本国の知的財産として、日本人にのみ二次創作を許可したい・外国人からは守りたい(関税をかけるのと同じ)という考え方もできますが、漫画の発表自体がデジタル化されたので、手を打たない限り世界同時公開となるわけで、アニメ化を待たない二次創作も国際的に多発するでしょう。

(海外では「ファン・アート」といいます。)

技術の進歩によって、デジタル漫画へ勝手に音声をつけた動画というものも考えられます。重大な複製権侵害とも言えるし、声優の卵・映画音楽作曲家の修行場所と考えることもできます。

……やっぱり、このへんは著作権者自身が裁量する権利を確保しておくのが良いのだろうと思います。

2015/04/13

【即売会という巨人に人生を喰わせてはいけません。】



ご入学・ご進学おめでとうございます。

早速ですが、昔のサブカル論・フェミニズムとも間違えました。大学は、執行猶予を受けて遊ぶところではありません。

義務教育は、遠い未来のために頭の体操をするところですが、大学は近い将来のために具体的な知識と技術を身につけるところです。

文系における技術とは、論文作成術です。理系もこれを確実に身に着けておかないと、他人の画像を流用することになります。

大学というところは、今でも「末は博士か大臣か」というところです。

すなわち、将来の道は、研究者か官僚です。

そのどちらにもなれなかった、研究室では無用と言われた、公務員試験にも受からなかったという人を、一般企業が拾ってやるメリットは何か。

この問いに答えることができなければ、就職活動は厳しいに決まっています。簿記も表計算ソフトも知らなければ、経営者にとっては高校生以下です。

ふつうのサラリーマンにも公務員にもなりたくない人は、研究者・発明家として身を立てたいということですから、道は険しいです。

あなたの前には、いや背後には、人類五千年の歴史が広がっています。偉大な先輩たちの残した膨大な量の論文を読みこなし、その間隙を突いて自分のテーマを見つけなければなりません。

漫画を読んでいる暇はありません。二次創作を書いている暇は、もっとありません。

部活動の延長のつもりで、いわゆる「同人」的な活動に手を染めるリスクは、充分にわきまえておいて下さい。

在学中は豪華フルカラー同人誌に夢中になって、英語も中国語も勉強しなかったのに、なんとなくクリスタルな総合職にしてもらって、海外赴任できるつもりでいた。

そういう夢を見ることのできた時代は終わりました。いま40歳代の「年金もらえぬニート」は、あと10年もすると、後見人を失います。

社会は、滞納した税金の代わりに差し押さえられたフィギュアの山を、ニュース画面上に見る日を迎えるでしょう。

若き日に同人界に誘われて、ホイホイついて行ったことを後悔している人は、確実に存在します。

フルカラー同人誌を楽しんだバブル学生は、氷河期の当事者です。その陰でまじめに勉強し、国家試験に受かって氷河期知らずという人もいたのが現実です。

良かった時代の自慢話だけを真に受けてはいけません。

即売会は適度な娯楽です。コミケという巨人に、自分の人生を喰わせてしまってはなりません。

本気で創作家になりたければ、投稿してください。プロになれば、出版社は契約満了まで増刷し続ける責を負います。わずかでも印税収入が得られ続ける見込みがあります。

かたや、二十年前の同人誌など、もう誰もほしがりません。自費出版の赤字は、一度出してしまったら、取り返すことができません。

投稿とは、創作家(の卵)の就職活動です。ネットなら定期的にアップロードしてください。日本の出版社が求めるのは「連載できること」です。

日本の創作家に最も必要な才能は、自己管理能力です。すなわち、優秀な研究者・勤勉なサラリーマンと同じです。


2015/04/13

【ニッポンの“9人の職人”スペシャル。】



遅れていなければ、3月28日放映。ハンマー1本で地下鉄の安全を守る職人さんのあたりから拝見。「一路線を一年かけて点検する」という話に視察の外人さんが目を丸くしていました。

次が、JAでキュウリの鮮度を一瞬にして見分ける女性たち。次が木工と和紙の伝統技。

とくに和紙の世界は、工房の代表として名前が出るのは男性ですが、現場で黙々と働く人には女性が多いことが印象的でした。

そして全体を通じて「日本の現場力を支えるには、それだけの人数が必要である」と感じました。

「日本人すげー!」と盛り上がることは簡単なのですが、あなたは地下鉄職人になりますか? キュウリ選別職人になりますか? 

職人たちの多くが、50歳代以上であるとお見受けしました。

日本の若者が職人になりたくなければ、今すぐ移民を雇い入れる必要があります。10年かけて技術を身につけて頂かなければなりません。

彼らが言葉で苦労しないためには、語学学校を増設する必要があります。差別されないためには、日本人の通う学校と職場で、人権教育をやり直す必要があります。

1980年代の日本人は、ニューヨーカーになりたいと思いました。ダブルインカム・ノーキッズと謳われたこともあります。

日本人が決定的に見落としていたことは、欧米列強には問題視されるほど移民が多いということでした。彼らを労働力・納税者として期待できることでした。

中東・東南アジアにも「女性が元気」(=就業率・出生率とも高い)とされる国がありますが、必ず「外国籍のお手伝いさんが多い」というオチがついて来ます。

日本人は、誰をお手伝いさんにするつもりだったのか。誰に何を継いでもらうつもりだったのか。

いっぽうで、視察団が感動してくださるのは有難い限りですが、なんのために視察するかというと、技術を学び取るためです。「持って行かれておしまい」という可能性もあります。かつて日本が、自動車と半導体の技術を海外から学んだように。

もっとも、グローバル時代なので、日本の技術を身につけたオランダ人やフランス人が、ふだんはお国許で活躍し、日本国内で必要になったら連絡して来てもらうということも不可能ではありません。

ネットを通じて人材登録しておけば、グローバリズムとローカリズムを両立できるでしょう。




2015/04/13

【ワイン国際大会金賞者にセクハラ。】



3月21日に見たテレビ番組の思い出。

甲州ワインの醸造家で、世界的コンクールの金賞受賞者である女性の丁寧な仕事ぶりを紹介した後、「ひな壇」の若手芸人が結婚に関する質問を開始し、その場で交際を申し込み、彼女から仕事を理由に断られると怒鳴りだす、という展開がありました。

なぜ女性が仕事に集中したいと、男性に侮辱されなければならないのでしょうか。

日本では「怒鳴りつける」ことが言葉の暴力として認識されていませんが、威圧行為であり、暴力の行使であり、パワハラであり、人権侵害です。

また、話の内容からいって、セクハラです。

西欧文化の後追いでしかない日本が、世界的醸造家を輩出した。幕末の開国以来の悲願を達成したといっても良いでしょう。スタジオ全員・国民全体がスタンディングオベーションをもって迎えるべき快挙です。

それを「俺から見れば、ただの女だぜ」という話に落として行くのは、不適切です。

ワイン醸造も「男の世界」として、彼女は並々ならぬ苦労を乗り越えてきたことでしょう。「女には無理」といった性差別発言にも苦しめられてきたかもしれません。

彼女のご両親・友人たちは、彼女が醸造家の道を歩むことを応援したでしょう。それは、無礼な男に怒鳴らせるためではありません。

日本のテレビ番組が、世界的ワインコンクールを侮辱したことにもなります。

芸人は台本に従って「仕事」をしただけなので、企画・脚本といった裏方の責任です。

若手芸人に「もてない」という損な役柄を割りふり、彼自身を「いじる」ということのために、女性の尊厳を利用し、犠牲にしたのです。

ことの重大さに気づかない人が、日本のテレビ局に多いのであれば残念です。


【テレビは独身男性で出来ている。】

地元に残って家業を継ぐという人が、同時に中央へ進出してテレビマンになるということはあり得ません。

一旗あげるといった意識をもって地元を出発した独身男性が、テレビの世界へ入ります。

東京都民であっても、浅草の老舗・伝統芸能の継承者といった人々は、やっぱりテレビマンにはなりません。

根なし草とか、風来坊とか、失うものは何もないとか、どこかそういう要素をもった若者が、テレビ局や制作会社といったところへ集まって、自分たち自身が「面白そう」と思うものを追求すると、性と暴力の話題が多くなる。

テレビドラマに多かったのは、無一文の風来坊が、どこからともなく現れて、かっこいいところを見せて去っていく。女が惚れてくれる。そういう話でした。

かっこいいとは、事実上、暴力沙汰に勝ち残ることです。

洋の東西を問わず、そういった番組は、視聴者以前にテレビマンの自尊感情を表現していたのでしょう。

先輩が後輩に暴言を加えたり、わざと辛い事をさせたりするというのも、独身男性社会のイニシエーションとして、普遍的な要素です。

アニメも、テレビ番組の一種として、子供向けを口実にしたヤングアダルト自身のための娯楽という要素をもっています。これは今に始まった話ではなく、すでに1960年代からそうだったといってよろしいでしょう。

結論的には、これもゾーニングの問題で、芸人を起用したバラエティ番組で、素人さんを紹介する時には、気をつけるとよろしいです。



2015/04/13

【グランシップ静岡能:頼政&吉野天人(天人揃)】



天女で思い出した、1月24日の公演の思い出。

自衛隊ブラスバンドが出演する県民音楽祭と日取が重なりまして、「船」の横に長蛇の列。

音楽祭の開催を知らずに行ったので、一瞬「最後尾につくべきか?(汗)」と迷いましたが、能舞台を出す中ホールは、どんなに頑張ってもあんなに入りません。

「これは別のイベントだな」と判断し、列の脇を正面玄関へ。無事に入れました。

ロビーでは「観世宗家クッキー」とか売ってました。いろいろ試してるみたいです。ゆるキャラが登場しないことを祈ります。もし登場したら、家康くんと相舞してください。各地の武将キャラを誘って五番立てにしましょう。ひこにゃんは喜多のものだって言われるかもしれないので、立合能がいいかもしれません。

閑話休題。

お客様には和服を着た女性が多く、華やいでいました。皆様それぞれに観世水であったり、業平菱であったり、松であったり、能楽らしい文様を厳選してお召しでした。

見所の着物については、他の公演で敦盛が出たときに揚羽蝶の帯を締めた方がいらして素敵でした。能楽鑑賞の、もう一つの楽しみです。

なお、ドレスコードはありません。ジーンズ履きでも良いです。若い方も能楽だからと構えずにお出かけください。

で、……まさかのホール能『頼政』。

公演告知が出たときは、二度見しました。でも静岡は頼政ゆかりの地でもあります。夫人の「あやめ御前」の出身地が伊豆だからです。あやめ祭りもやってます。

山科は、小柄で何を着てもよく似合い、声も上品で、とても素敵なシテ方です。緑色の水衣は鏡松とかぶるかと思いましたが、舞台へ入ってみると松の精霊のようでもあり、脇方の着た茶色の水衣ともよく響きあって、清浄の気に満ちておりました。

お二人の声の美しさに酔ううちに、短いほどに感じられる充実した前場でした。

後場の法体にて甲冑を帯した姿は白が貴重で、さわやかな輝きを放ち、ホール能の開放感を意識なさったのだろうと思われました。白刃骨を砕く痛みを忘れ得ず、深い恨みを抱えて現れた怨霊なのですが、そのことを恥じ入る心もあり、読経に感謝する心もある。奥ゆかしい歌人の姿でした。

主題は頼政の負け戦なんですが、中身は源氏方の奮戦を描いているわけで、じつは血沸き肉踊る勝修羅の要素も持っているのでした。地謡方も男盛り揃い、たいへんな熱演で、宇治川の水の逆巻く勢いと人馬の叫喚が伝わって参りました。

鬘桶に座りっぱなしの頼政は、指揮者のような立場になっているわけで、シテの所作と地謡が互いを高めあう、交響曲の感動があったように思われます。

目付け柱脇で万感の思いを込めて振り絞られた「埋もれ木の」は胸に迫りました。ガクリと膝をついた山科の姿は美しかったです……去年は俊寛でした。ともづなに取りつく際には水の冷たさが感じられて身震いさせられました。

うまい人は、何がうまくて「うまい」と感じさせるのか。圧巻の「ホール頼政」でした。

……見所は、ちゃんとついて行ったと思います。

仕舞は無かったです。去年は祥六の『砧』がすごかったです。客席はやや緩んでいたかもですが、仕舞の時は、だいたいそんなものかもしれません。

今回は、後半が「天人揃」なので、仕舞の余裕はなかったのかもしれません。「楽屋すごいことになってるんだろうな」と思いつつ、ロビーでのんびり過ごすこと十数分。

前場の小面がとても可愛かったです……若い女性を表すシテと、中年男性そのままの脇方が目を見交わして「見もせぬ人や」というのは、花の香に乗って清潔なエロスが匂い立つ名場面。

「揃」なので「友びとをともないて」という詞が追加されていたと思います。橋がかりに天人がそろった時には頬が緩んでしまいました。か、可愛い。一斉に回ると、華やかな長絹の背に艶やかな黒髪が下がっているのが並びます。きゃー。

能楽堂は歓声を上げるところじゃないんですが、たまにはそんな気分にもなります。

舞の笛は、たぶん盤渉調。半音上げた編曲みたいなもので、常よりさらに陶酔感が増します。

シテは雅楽の楽器をあしらった長絹を着けており、耳には確かに能楽四拍子が聞こえているのですが、同時に笙・ひちりきの音も響いてくるように思われました。

所作のほうはそろっていないというより、それぞれに扇や袖を返すタイミングが違うのです……笛の鳴り始めで返すか、笛を聴いてからクルッと返すか。

一人ずつなら個性です。クラシックバレエのように揃うのは、日本的美学としてどうなんだという考え方もでき、観客がそれぞれに好みの役者を見つける機会としても良いと思います。

問題は、面を掛けているので、パンフレットを見ても誰がどの先生か分からないことです。(皮肉じゃありませんってば。)

また咲く花の雲に乗って、五人が幕へ入っていく際には、ハンカチを打ち振って「また来てねーー!」って気分でした。

埋もれ木と爛漫の桜。見事な番組だったと思います。

囃子方も名手をお迎えできて、有難い限りでした。おっきい小鼓方と、ちっちゃい大鼓方は、見た目に面白いコンビだな、とちょっと思いました。林の太鼓は、いつも清新の気に満ちて鋭いです。

出演者が多ければ、楽屋の人数も必要なわけで、本当によく企画してくださり、実現してくださったと思います。能界の先生方にも、グランシップ関係者の皆様にも、あらためて深く御礼申し上げます。