2015/06/30

【ハリー・ポッターと死の秘宝 part2 (2011年)】


教訓1:部下は大切にしましょう。 2:母ちゃんを怒らせると怖いです。

アズカバンの番人を天井から吊るしてみたいな、USJへ行けばモビール飾りが売ってるのかな、などと思いつつ……

原作を読んでしまうと「原作とちが~~う」という点が気になって、映画そのものの呼吸を見誤るので、原作は後回しです。


【静けさが生む風格。】

画面が白黒で、血の色を表現できなかった時代の映画には、残酷さを売りにしない品の良さがあったと思います。

これは魔法同士の闘いってことで、血や傷口を表現せずに最終戦争を描くことができるという離れ業……ですが、ビデオゲームから来ているアイディアかもしれません。

なんにしても、欧米は戦争を描かせると上手いです。野っ原を利用した会戦風景を撮影することもうまいんですが、戦争によって生じる、言葉にできない心の痛みを表現することがうまいです。

日本にも昔はドキュメンタリー調の良作戦争映画があったのですが、最近は力点を置くところを間違えているような気がします。

これほどのアクションを描いても大作の風格があるのは、静かだからです。

日本では映画もテレビドラマもアニメもバラエティ番組も、怒鳴り散らすことを「ちからのある演技」と勘違いしており、終始「どおしてえええええええ!?」「なんでだよおおおおおお!?」と怒鳴りっぱなしで、うるさくてかないません。


【男同士と女の誇り。】

ハーマイオニー、マクゴナガル先生をはじめ、要所要所で女性の毅然たる活躍が見られたのは嬉しいところでした。「一度使ってみたかったのよ♪」 先生、可愛い。

いっぽうで、男たちは弱く、ずるい存在として描かれている(こともある)わけで、やっぱり女性の筆から生まれたキャラクター達らしいところかもしれません。

単純な勧善懲悪ではなく、悪を倒さんとする度に自分も傷つく。みんなを守るために自分が犠牲になれるか?

このような難しいテーマの設定には、もし戦争が起きたら息子を兵隊として差し出さねばならないと考えたことのある母親の意識が働いているのかもしれません。

次世代が成長してから対決するといえば、人類とともに古い父親殺しのモチーフですが、実際には血縁ではない男同士が深いところで結ばれているというモチーフは、男性作家からは提出されにくいものかもしれません。

いっぽうで、人妻に捧げる永遠の愛という女冥利も描かれているわけです。

男同士の暗い絆にロマンを感じるといいつつ、女が一番いいところを持っていくわけです。

ハリー・ポッター生みの親といえば、リリー以前にローリングです。

そして(おそらく)世界中の女性ファンが、スリザリン代表の純愛に紅涙をしぼったことでしょう。

原作はシングルマザーの暇つぶしのようなところから始まったと記憶していますが、これは確かに女流が放ち、作家とファンの心が一致した、最高最大の幸運な作例なのかもしれません。


【イギリスの伝統。】

「魔法があれば何でもできる」という話は多いですし、秘宝を求めて旅をするという話も多いですが、見つけてみたら身近な青い鳥だったなんて落ちも多いわけです。

でも、これは「秘宝が実在する世界で、なまじっか魔法が使えると、けっこう大変なんだよ」というわけで、トールキン『指輪物語』からまっすぐにつながっており、今なおケルト世界と共存するイギリスらしいひねりだと思ったりも致します。

あるいは、その「別の現実がある」という考え方が、植民地経営の上手さに反映していたのかもしれませんし、同じキリスト教でも大陸とは違う宗派を奉じることが影響しているのかもしれませんが、それはまた別の話。


【ファンとの蜜月。】

シリーズ中盤では、ハリーに彼女ができたり、ハーマイオニーがプロポーズされたり、話がファンサービスを勘違いした方向へ広がりかけた頃もありましたが、ここへ来て最初の三人の活躍に絞り込んだのは英断でした。

そして本当に脚の長くなったロングボトムは、昔っから自分の思ったことをちゃんと言える子でした(涙)

このように話を整理していくのは、世界中のファンからのフィードバックを取り入れた成果でもあったことでしょう。『賢者の石』が公開されてからの十年間は、原作と映画とファンとの幸福な蜜月だったと思います。


【映像美を支える伝統。】

資金の集まり具合が画面の豪華さに正比例していることは申すまでもないので、感想も精神面に偏りがちですが……

守りの魔法を発動する教授陣のカッコ良さ。悪の攻撃魔法の美しさ。

涙と溜息が出るほどの映像美をささえるセンスは、実際のゴシック建築を含めた、他のヨーロピアン・アートと共通であり、地続きであるので、これは羨ましい限りです。

音楽のセンスの良さも伝統にそのまま乗っているので、かなわないところかもしれません。アルカディアの野の牧童と乙女のごとき小セブルスと小リリーを彩った印象派風の音楽が粋でした。

亡きポッターのためのフュネラル・マーチも素敵というのもあれですが、素敵でした。

ルシウスのやつれた姿も素敵でした。


【多様な現実。】

いつもの三人の顔で締めたラストシーンには、スタンディングオベーションを送りたいです。実際に起きた映画館も、世界中にたくさんあったかもしれません。

ハーマイオニーのママっぷり、ロンのとーちゃんっぷりが良かったです。

俳優たちとともに、観客も驚きと笑いと戦いと心の痛みを重ねながら、年を取ってきたわけです。

なお、レンタルビデオを吹き替え版で拝見したので、先代校長は永井一郎さんでした。彼も日本が誇る名優でした。

たぶん世界中の国々に、その人ありと知られた吹き替え上手の声優さんがいるのだろうと思います。

いまや世界中の多くの人々が、9と4分の3番線から行くことのできる世界は、この世界の隣に実在すると信じていることでしょう。

その脳裏では、あるいは魔法上手なハーマイオニーが料理には苦戦する様子や、子供の出生の喜びや、ロンが育児に奮闘する様子など、さまざまな場面が繰りひろげられているのかもしれません。

しかも、それぞれの台詞が、それぞれにとって最も親しい言語で脳裏に響いていることでしょう。

「もちろん君の頭で起こっていることじゃ。だが現実でないとは限らん」(アルバス・ダンブルドア)


2015/06/30

【吉本隆明 『西行論』】


講談社文芸文庫、1990年2月第一刷。底本は、1987年大和書房刊『吉本隆明全集撰 6』。

なかなか西行が出てこない西行論。

まずは平安後期の宗教事情が概観されるので勉強になります。

しかも西行自身は熱心な学僧というわけではなく、仏教理論にはそんなに詳しくなかったらしい、と来るのです。

吉本自身が西行を理解するために当時の宗教観を知っておく必要があったわけです。

「鳥羽院の中宮」とのことは、後世の物語作家によるフィクションであると一刀両断にしています。気持ち良いです。

伝説が成立していく過程に、おおぜいの名もなき一般人や、名を残さなかった創作家が関わっていたことを根拠なく想定する吉本に、不信よりは温かみを感じます。

叙述はいったん京都から出て、佐藤家の出自と所領にまで眼を配り、当時の武門の心性の異様さと、その武門の論理と貴族の論理の対立が鮮明化した時代であったことを証明するとともに、格別に時めいていたとはいえない武門の若侍が、その主筋を介して鳥羽院のそば近くあって、いろいろと見聞もしてしまえば、自分自身の行く末にもあまり期待が持てない、ほの暗い心情であっただろうことを綿密に検証していきます。

検証というか、正確には状況証拠から推測する他ないわけですが、一歩ずつ外堀を埋めて本丸に迫るスリルが味わえます。

ただし平坦な道のりではないです。アイドルの顔を見に来たつもりで他のブースに立ち寄って、お土産を一杯もらってしまったというようなもので、楽しいのですが、そもそも何の話をしているのだったか、自分のいる位置を論文構成の地図上で見失わないことが重要です。

なお、史料から当時の人心を再現するという手法は、戦後の新しい歴史学によるのだろうと思います。

やっと出家すると(笑)、叙述は一気に西行の内面に踏み込みます。

読者は吉本の目を通じて西行とともに大山の月を眺め、吉野の桜に憑依するのです。

「濡れたような半透明の」と桜の花の描写を重ねるあたりは圧巻です。

いっぽうで西行の歌の特異性を証明するために、万葉集までさかのぼって、月と花にかかわる歌を拾い出し、分類する作業にもおさおさ怠りなく、それに付き合ってきた読者は、知的興奮によって結構に疲労困憊しているので、本当に俗世の塵埃にまみれた都を捨てて、一歩ずつ山道を踏みしめ来たり、花を見上げ、花の香に浸り、やっとここまで辿り着いたと吐息をもらす心地です。

いざや、花のもとにて春死なん。

敗戦を経験して、学生時代の最後には「デカダン」になってしまっていたという吉本には、西行は強く共感できる相手だったのでしょう。

読了した後の脳裏には、月を道連れに「すたすたと」歩み去る西行の墨染めの後姿が残り、吉本はそれを見送るようでもあれば、吉本自身が西行の姿を取って歩み去るようにも思われるのでした。

これは、なるほど実証派の歴史研究家には書けません。詩的にすぎて、学術論文としては提出できません。いっぽうで、歌論というには実証部分が重過ぎるともいえるでしょう。

吉本隆明の作品という他ないものです。

「作品」中には、意地悪じいさん西行と、若き俊英・定家の化かしあいというか、阿吽の呼吸というか、魅力的なエピソードも挙げられていますが、ご両人とも彼らから見れば下々の者というべき吉本の手になるこの労作を読んだら、わが意を得たりという眼で彼を眺めたんだろうな、などという空想も浮かんで参ります。


2015/06/30

【この国は総力戦を闘ったのです。】


全国津々浦々の農村・漁村が若者の命をさし出したのです。

勲八等・功七級なんて、たいしたことのないものでしょう。でも地元では英雄です。今も巨大な石碑が地域住民を見守り、地域住民によって守られています。

女性も看護要員として船に乗っていった人々がいました。

でも彼(女)ら自身の多くは、子孫を残さずになくなりました。

大都市では空襲によって多くの一般人が犠牲となりました。その中には未婚者・未成年者も大勢いたはずです。

生き残った人々の子孫である現代人の足元は、七十年前の少年少女の血に浸かっています。

その点で、中央も地方も、都会も田舎も同じです。日本人どうしが差別することは許されません。

まずはこの覚悟がないから、外国人差別もなくならないのかもしれません。

2015/06/30

【アメリカの論理、日本の論理。】


現人神を否定するということは、神を信じて闘った日本人全体を否定することです。

が、もしアメリカが本当に「ちからの論理」で来るならば、日本人の論理を否定して、アメリカ大統領に忠誠を誓わせればよかったはずです。

でも、アメリカは日本人の論理を温存するほうが得策だと判断しました。

ということは、日本の独立、民族国家としての再生を、方向性としては認めたということです。

であるならば、その後の英領、仏領、蘭領で独立運動が起きたのは「俺たちもヨーロッパの支配を脱して、アメリカに認めてもらおう」ということだったはずです。

まことに残念ながら、日本のおかげではありません。アメリカ様さまです。

でも、それがヴェトナム戦争ということになって、「アメリカについて行くのも面倒だぞ」となった。そこで第三世界ということが主張されるわけです。

するとまた独立戦争が起き、独立後は独立後の権力を誰が取るかってことで内戦が起きる。

日本はそのへんにはあまり関与せずに、自分の経済的復興だけを追い求めてきた、というのは大筋で間違いではないでしょう。

でも、その利益を世界へ還元する。インフラ整備、教育や医療の普及といった公共の福祉のためなら金を出すというのは、良いことであるはずです。

だから、日本の戦後は、大筋で正解だったってことでいいんじゃないかと思います。

あんまり自虐する必要はありません。

もし、「むかし差別したことをどうしてくれる」と言われたら、基本的には「もうしません」っていう他ないだろうと思います。

2015/06/30

【植民地に関する考え方が変わっちゃったのです。】


「海外植民地を持つのは良いことだ。自分の国の強さの証明だ。後進民族を啓蒙してやることにもなる」

と言えた間は良かったのです。

その時代に白人が「だから俺たちは植民地を持ち続けるが、日本が持つことは許さん」と言えば、「差別だ!」と言い返すことができます。

この限りにおいて、先の大戦は自衛戦争だったというのは正しいです。

でも、大東亜へ向かって「みんなもそう思うよな!? 白人より日本人に支配されるほうが良いよな!?」

って訊いたら、「そうでーーす!」って答えてくれる人のほうが少なかったというわけです。

そして戦後は「外国を植民地にするのは良くないことだ」というふうに、価値観が百八十度ひっくり返っちゃいました。

そのひっくり返った後の価値観をもって「むかし植民地にしたことをどうしてくれる」って言ってくる国があるわけで、刑法も不遡及なはずだけれども、そこはどうなんだって話なんだと思います。

植民地に関する価値観が変わったのは、世界大戦の人的被害の大きさに倫理観が目覚めたということを全否定する必要はありませんけれども、ばっさりと現実的なことを言ってしまうと、イギリスが植民地を維持することがめんどくさくなったと、そういうことに由来しているはずです。

つまり、これからは植民地を持たない国のほうがカッコいいということにしておいたほうが都合が良いと、そういうことであるはずです。

だから東洋諸国は、今なお「近代世界システム」の樹立者であり、七つの海の覇者であるイギリスの都合に振りまわされているのかもしれません。

そしてあるいは、日本において、世界の海をめぐりながら世直しを続ける海賊団の物語と、ロンドン在住の探偵への憧れを赤裸々に表現した物語が流行し続けるのは、若者文化である「サブカル」が、そんな大人社会の本質を見抜いているからなのかもしれません。


2015/06/27

【吉本隆明『私の「戦争論」』1999年、ぶんか社】


ひじょうに気持ちの良い本です。言いも言ったり。

上野千鶴子も石原慎太郎もバッサリ斬られています。ご本人たちが痛いとか痒いとか思うかどうかは分かりませんが。

政府批判も歯切れよく、242頁の冗談には「ブラヴォ!」と叫びたくなります。他にも全頁を引用したいくらいですが、そうも参りません。

インタビュアーによる「あとがき」まで含めて、270頁で1600円は安い本ではないですが、戦後史を概観するハンドブックとして、一冊持っておくといいだろうと思います。

1999年9月30日初版第1刷。一ヶ月の間に3刷しています。

『文学者の戦争責任論』を出したことのある吉本自身の戦争観は、敗戦直後から(あるいは戦中から)変わっていないはずで、何故20世紀の終わり頃になってまた同じような話を上梓するかといえば、小林よしのりの漫画作品『戦争論』が50万部超えのベストセラーになっちゃったからです。

それに対して「ひとつ言っておこうかな」ってわけで、カギカッコつきで“私の”「戦争論」な所以です。

この流れは必然です。

いわゆる自虐史観が行き着くところまで行き着いて、中韓からの謝罪要求は止むことなく、それらに対してついに若い世代から「いいかげんにしろ!」という声が挙がった。

すると次に出てくるのは「まァ、どっちの両極端もよくないよ」という人なわけです。

便乗っちゃ便乗なわけで、編集者の高橋克佳も、インタビュアーである田近伸和も、吉本自身も、そこは重々承知しており、関心の高まっている折から、もはや安保闘争も知らない若い人々へ向かって、生き証人をかつぎ出したというか、かつぎ出されたというか、ここらでひととおり説明しといてやるよ、といったところで、大人の仕事というべきかと思われます。

ぶんか社の雑誌『ペントハウス』におけるインタビュー連載「世紀末 吉本亭」のスペシャル版という体裁だそうで、聞き手である田近との息もピッタリです。

個人的に、「思想って難しそうだなァ」とか思っていたもんですから、この本は長きに渡る“積読”でした。最近大掃除をしたら出てきたもんですから、タイムリーっちゃタイムリーな話題でもあることから、開いてみました。

吉本の考え方そのものが気持ち良かったです。

個人的に、ベルリンの壁とレーニン像が相次いで引き倒された時代に、「もう資本主義か共産主義かという時代じゃない」と言われたのがすごく印象に残っています。

だから、サブカル論なんていう卑近な例においても、「あれか・これか」の二項対立を主張されると「古いな」と思います。

戦争中は監獄に入っていたので戦争には協力していないと主張する人と、「大東亜戦争」は自衛戦争だと主張する人は、ヤヌス神のような背中合わせで、足元は同じところに浸かっています。

すなわち、自分は悪くないと主張したい心です。それは、おそらく「お母さんに叱られたくない」という優等生的心性に遡ることができるでしょう。

これらに対して、吉本は「俺ァ戦争支持者だった」と言っちゃうわけです。

とりあえず日本国内に居住している限り、それを公言しても報復を受けたりしないという安心感がないことはないはずで、それを保障しているのは、やっぱり日本の国軍(自衛隊)であり、警察力であるでしょう。

ご本人もそれをわきまえた上で「一介の国民としては、国家間で取り決めた条約には従うという敗北者にすぎませんが、個人としては、「力の論理」には「すべて反対だ」という主張をし続けます」(p.233)

って言うわけです。

国家の大義のために個人を封印するわけでもなく、個人が何もかも自由だと言い張って反社会的なことばかりするわけでもない。

安保闘争・学生運動が、セクト主義の内ゲバのどーしよーもない状態で終わっちゃったことは、戦争を知らない子供たちでさえ知っているわけで、いまや老いたる肉体として、存在としては政府(国家)に従って生きるけれども、心と言論だけは自由である。

これは欺瞞ではなく、その両立を明言することにおいて正直で、明快な態度だと思います。

なお個人的には、太平洋戦争というと大陸方面の動きを忘れがちになるもんですから「大東亜戦争」という言い方を好みます。

そして「大東亜戦争が負けた」ことが重要じゃないかと思ってます。

つまり「大東亜共栄圏」という理念に、当の大東亜の人々が賛同してくれず、ゲリラ戦を起こしてでも日本を側面から援護してくれるということが無かったわけです。

戦後に独立運動が起きたことは確かですが、それはそれぞれの国がまさに独立したかったのであって、日本の傘下に入りたかったのではありません。

ハルノートとABCD包囲網に追い詰められた結果の自衛戦争だったには違いありませんが、日本一国が自衛するはずのものを「大東亜」まで広げても、誰もついて来なかったというわけです。

このへんを考えると、先の大戦を歴史的事実として「植民地の既得権益を維持するための自衛戦争だった」ということはできても、それ以上に美化できるかどうかの答えは、自ずと見えてくるかと思います。

人間も、社会も、歴史も、本当は「ありか・なしか」「善か悪か」の二項対立ではなく、つねに両義的・多義的です。そして「真実はいつもひとつ」ではなく、多様な要素を含んでいます。

歴史をさかのぼれば、現在を保障してくれる根拠が見つかるのではなく、かえって現在が否定される。自分で自分の足元をすくってみるという考え方自体が、戦後にフランスで起きた学派によるもののような気もしますし、もっとさかのぼって、文化人類学の成果なのかもしれません。

そして文化人類学が隆盛したのは、ナチスによるアーリア人優位の主張に対するカウンターであり、それを主導したのは超国家民族ユダヤ人でした。

「戦後、ハッキリしてきたことは、「日本人」とか「日本民族」とかいっているものは、奈良朝以前、あるいは古墳時代以前の、はるか昔から日本列島に住んでいた旧日本人と、あとで朝鮮半島や北方などからやってきた新日本人との混合じゃないかということです。大きくいっちゃうと、そうなるんです。」(p.260)

「フランスの文化人類学者レヴィ=ストロースが来日したとき、京都で講演をしたのですが、そこで彼は、「日本人ってのは何者ですか?」と質問されて、「大きくいえば、二つの人種の混合じゃないか」と答えたと聞きました。

それを聞いて、僕は「やっぱり、レヴィ=ストロースはさすがだな」って思いました。」(p.261)

さすがだなと思う吉本もさすがです。

「ナショナリストや保守派たちが「日本国」とか「日本人」とかをいくら強調しても、それは、歴史的にも地理的にも、“狭い範囲でいっているだけ”ということになっちゃうんですよ。」(p.264)

これは吉本だけが変わってるのではなく、歴史や考古学や人類学を勉強した人が持つというか、持ってしまわざるを得ないというか、そういう視座だと思います。

「そしてまた、大事なことは、過去をさかのぼることが、実は未来を考えることにも通じるということなんです。」(p.265)

対談集なので、言葉使いは平易です。

というわけで、いま高校生から教養生くらいの諸君諸嬢が読んでおくといいんじゃないかと思います。

日本にも、面白いおっさんがいたのです。




2015/06/24

血迷うたか、湖池屋。


「組み合わせてはいけないものを組み合わせる」という話には耐性のあるほうなんですが、これは「そこへ直れ!」と叫びたい気分に駆られました。

なにがって、ポテトチップのフルーツニャン状態。

三種類とも買いましたとも。ネタこそ乗らねばなりません。

それぞれの果物の味は良いのです。合成材料でごまかしたという味にはなっていません。よく頑張ったと思います。どのみちポテチを食いながらジュースを飲めば、口の中で混ざるにゃ違いないです。

だが、しかし……ッ。

昔は「カウチポテト」って言ったもんですが、スワイプの時代になってから、指先の汚れるスナック菓子は敬遠されぎみなのかもしれません。わさビーフの山芳もいろいろやってましたが、ネタに走るのはほどほどにお願いいたします。

でも、おかげさまでブログ記事は一つ増えました。ありがとうございました。


2015/06/24

【谷川俊太郎から詩が生まれる瞬間。】


……を撮りたいと思って、映画監督がドキュメンタリー撮影を申し込んだら、ご本人から「パソコンの前で呆然としてるだけだから絵にならないよ」と断られたんだそうです。

確か、5月くらいの日経新聞に載ってました。

谷川の詩心は真似できませんが、文章を書くに当たって「パソコンの前で呆然としている」というのは、すっごく良く分かる気がします。


2015/06/24

【Lotte「爽」THEスイカ。】


種がラムネ味です。すっぱいです。完食を断念しました。申し訳ありません。

「だいたいチョコで、たまにラムネに当たる」ぐらいがいいです……。

スイカといえば、今年の正月くらいに「東京駅スイカで混乱」という新聞記事の見出しを見たときには、駅の構内が『ばばばあちゃん』の絵本みたいになっている場面が脳裏に浮かんで、よっぽど混乱しました。

あの事件は、購買希望者を迎える側の商売柄、一万人くらいの行列ならさばくことができたはずで、ひとえに準備不足です。

本当に迷惑したのは、ふつうに電車に乗って仕事へ行きたかった人でしょう。

どのテレビ番組を見ても、コマーシャルを見ても「続きは検索」という画面の表示されない日はない時代ですから、もはや何を売り出すにも「スマホから完全予約制&予約券をプリントアウトして会社帰りにコンビニ受け取り」ぐらいで良いだろうと思います。


2015/06/24

【屋内では帽子を取りましょう。】


「ところで、古いパブには何故か二つ扉がある。昔の店内は、上流階級と労働階級の場所が分けられていて、入り口まで違った。バーテンダーは真ん中に立っていて、シルクハットの紳士が注文をしている反対側のカウンターでは、汗を拭きながら労働者が飲んでいたわけだ。」

(静岡新聞6月15日付夕刊、コラム欄『窓辺』より「英国パブ」篠崎靖男)

現実にはあり得ません。屋内で帽子を着用したままというのは、日本でいうと「靴を履いたまま畳に上がった」みたいなものです。

おそらく、上流側の扉を入ると、トップハットとインヴァネスを預かってくれるクロークが存在したことと思います。

コラム欄の筆者は音楽家であり、留学経験を活かしてこれを書いているので、とうぜん西洋式の帽子のマナーについても心得ているでしょう。

話を分かりやすくするために、トップハットを着用するような紳士と汗まみれの労働者という対比的イメージを採用したわけですが、個人的に帽子については一言したいと思っていたので、便乗させて頂くというものです。

日本人は帽子まで含めてトータルファッションなどと勘違いしており、リビングルームを模したスタジオセットの中でも帽子着用のままトーク番組を撮影しておりますが、たぶん外人さんから見ると奇妙なものだろうと思います。

先日は、さる芸人さんが海外ロケ中に、まさにパブで飲食する地元の人々から「帽子を取れ」と注意されておりました。

脱帽という言葉があるくらいで、話相手に敬意を表して帽子を取るのが礼儀です。

ジョニー・デップあたりが粋な帽子着用のままインタビューに応じていれば、単にそこが屋外であるか、追っかけ記者など歯牙にもかけていないことの暗示でしょう。



2015/06/24

【映画『ハリー・ポッター 死の秘宝 Part1』】


トビーに助演妖精賞あげてください。

原作ともども、毎回ハッピーエンドというお約束を繰り返さずに、商業性が犠牲になりそうな危ういところまで踏み込んで、キャラクターを成長させていくシビアさは見習いたいところです。

いじめっ子一家もいなくなってしまうと寂しい冒頭から、おなじみキャラクターが勢ぞろいして「ハリーだらけ」になるファンサービス、CGであることが分かっていてもなお見ごたえのある逆走カーチェイス。

間然するところのない序盤は、制作側にとっても楽しい仕事だったろうと思います。

もはや、デスイーターの活躍も、ファンサービスの内でしょう。

ヴォルデモート卿と愉快な仲間たちは、ゆる~~いゴシックホラーなわけですが、世界中の善男善女が家族で鑑賞できる範囲を超えない心づかいが泣かせます。

中盤はアナログ班の腕の冴えの見せどころというのか、保護者を失った若者たちの不安な心理の表現が、暗い情景描写とあいまって、娯楽作品の域を超えていたと思います。

なにがうらやましいって、ロケ地に事欠かないことかもしれません。

ロン役のルパート・グリントは、もともと力量のある子役さんでしたが、よい顔をするようになりました。名脇役として成長してほしいです。

ポッター役のラドクリフは、逆に生っぽいところが良いわけで、天然というのか、主役らしさを備えていると思います。まったくもって最初に見出した人のお手柄でしょう。

もっとも、途中から原作のほうが俳優をイメージして書かれていたのかもしれません。作家冥利です

ロンが見た幻は、彼の心の中にあるものを反映しているわけで、登場人物たちが「性」を意識せずにはいられないお年頃に達したことを、よく忌憚なく表現したと思います。

観客からは賛否あったと思いますが、避けて通らなかったことは制作側の英断でしょう。


2015/06/24

【妖怪ムカムカデ拝見。】


CS再放送が一段落してしまって、しばらく遠ざかっていたんですが、久しぶりに楽しく拝見しました。

いつもの街と家庭・学校生活を背景に、主人公(ケータ)を存分に活躍させ、どの妖怪にどの妖怪を当てれば問題解決に至るか? という頓知話の要素をまじえつつ、いいことをした後は気持ちが良いねという学童向けの教訓で締める心地よさ。

基本中の基本に戻った物語作りと、よく動く絵がたいへん好ましく感じられました。

同時上映(?)は「にんぎょ」と「たらりん」。

にんぎょは、マーメイドとは違う和風(または唐風)のキャラクターデザインが印象的で、ちょっと興奮しました。

「たらりん」も学校生活で起こりがちな問題をテーマにしており、ウィスパーの寒すぎる個性が生かされたのも良いアイディアで、可愛らしい落ちも微笑ましかったです。

スタッフには良いメンバーをそろえたようで、新シリーズの意気込みが感じられるようです。

妖怪むかしばなし(またはSFおばあちゃん)では、やり過ぎ感とネタ切れ感が見え始め、ニャーKBがエンディングに起用された時には「終わったか?」と思わされ、本当にハラハラしました。

妖怪体操第二は……流行ると良いですね。

思えば「流行ってるんだなァ」と感じたのは去年の今ごろ、地元の夏祭りで「体操第一」が流れると、男児たちが一斉に踊り出したのでした。

下半期にかけて流行ったものは、年の瀬を越えると「もういいよ」って感じになりがちなもので、よく今日までこらえてきたと思います。

フミちゃんを起用した女児獲得作戦は鳴かず飛ばずだったようで、「ご主人様はフミちゃん!?」の脚本家に問題があったと思います。パラレルワールドで大騒ぎした挙句に話が落ちない、パロディ同人の悪いところだけ持っている人です。

「永遠にさめない悪夢」というホラーにしてしまっては、女児たちが憧れて「私も真似したい」というわけはございません。ターゲット層を間違えないように致しましょう。

心機一転、「来年の放送」へ向けて頑張ってください。



2015/06/24

【ストレート表現をゲイが見たとき。】


少し前に、爆笑問題がMCやってる『マネースクープ』というテレビ番組で、漫画家稼業の裏側と、ゲイビジネス最新情報という特集をやっていたので、それぞれ拝見しました。

漫画は……とにかく、コンスタントに制作できる人が必要です。確実に描くことができなければ、アシスタント会社に就職することさえできません。

もはや画力の高い人がゲーム業界にひっぱられていることは明らかで、漫画業界としては一攫千金を喧伝して、数うちゃ当たる方式で新人を集めたいわけですが、新人(の卵)の側からすると、たとえば美大や専門学校の同期が300人いたら、デビューできるのは1人です。

本腰を入れて取り組んでください。

ゲイビジネスのほうですが、専門雑誌の一例として、表紙に内藤ルネのイラストを掲げた『薔薇族』と、イケメン読者モデル写真を掲げた『Badi』が表示された間は静かにしていたスタジオ観覧席が……

『G-men』表紙のガチムチ漢イラスト(戎橋政造の仕事だと思います)が表示されたとたんに「いや、ちょっと何!?」と騒ぎ出したのでした。

面白がるというよりは、本当にドン引きした様子でした。

でも、立場を変えてみると同じことだろう、という話です。

たとえば巨乳すぎる「ふつうの」成人雑誌を見たら、ゲイのほうが「なんじゃこりゃ」と思うに違いないのです。

ここで重要なのは、女性が「ゲイは巨乳イラストの気持ちわるさを理解してくれるから、あたしの味方だ」と思い込んでしまうことですが、彼らから見れば、首の長すぎるBLイラストは妖怪のように見えることでしょう。

世のなか、食品の好みでも喧嘩が起こるものですが、性の好み・性の方向性は、もっと深い断絶をはさんで三すくみ・四すくみの状態で対峙しているのでしょう。

表現上の共通項は、客体愛と自己愛が混交していることかと思います。

肩幅と上腕三頭筋の量感を誇る(誇りたい)男性は、女性にも量感を求めるのでしょう。

逆に筋力の弱い女性は「こんな体で生まれてきてごめんなさい」と言いながら生きるよりは「細いほうが綺麗じゃない。小さいほうが可愛いじゃない」と価値観の逆転を狙います。

海外では日本製BLが男性にも人気らしいんですが、これは彼らの中に本当に金髪で細長い体をした人がいるからで、むしろ田亀流の表現よりも親近感があると思う人もあるのかもしれません。


2015/06/24

【ドラマ『相棒』で印象的だったお話。】


season9、第14話「右京のスーツ」。

女性テーラーが客の個人情報を利用したのか? というお話。

容疑者が何人も用意されており、それぞれに秘密を抱えているのが少しずつ明かされていくという、二段・三段構えの密度の濃いお話。もの哀しい後味も良く、印象的でした。

脚本、富永徳彦。監督、東伸児。

ネクタイにウェストコート姿で職務に励む若き女流テーラーがカッコ良かったです。脚本が女性ではないことにちょっと驚きました。(まさか女性のペンネームでしょうか。)

店主役の小松政夫の芝居が良かったです。加齢によって滑舌が怪しくなってるんですが、そこが良いです。役者には長生きしてほしいです。

右京さんは妙にウキウキとスーツを話題にしてましたが、もしかしたら水谷さんが素で男のお洒落の話題がお好きなのかもしれません。

女装者が悪役になる話でなくて良かったです。


【season9、第14話「ボーダーライン」】

就職難で、日銭欲しさに名義貸しに関わり、それもうまく行かなくなった青年のお話。

脚本、櫻井武晴。監督、橋本一。

不運な青年「柴田」を演じた山本浩司がいい俳優だと思いました。

いかにも一般的な日本人らしいというのか、ひじょうに地味な顔をした人で、ご本人もスターになれるつもりで演技の世界に入ったわけではないと思いますが……

あまり動かない表情に内圧を秘めた名演技でした。

クライマックスのビル屋上、“社会にころされ”る瞬間のリアル演技は、閃光を放ったと思います。


【亀ちゃんがいた頃のお話。】

サブタイトルも知らずに途中から鑑賞した回。老映画監督を手にかけたのは、往年の名女優なのか? というお話。

客足の途絶えた映画館の閉鎖と、ベテラン監督の最期を重ねた味わい深いお話でした。

夢やぶれた中年女性の悲哀と優しさを事件の動機とし、誰も悪い人がいないという、ひねりがないようで実は最もひねってある脚本は、女性の仕事だったと思います。

昭和中頃の映画への愛と追憶が全編に横溢しており、ラストシーンでは亀ちゃんたち出演者の名が、みごとに当時を再現した劇中劇の出演者の名として懐かしい字体で表示されていたのが憎い演出でした。(たぶんseason5。)


【season2、第18話「ピルイーター」】

これはちょっとひどい話で、「ゲイは女をだます迷惑な連中なんだぜ」という印象を生んでしまうので、いかがなものかと思います。

だました男が悪いにゃ違いありませんが、勝手に興奮して刃物を振りまわす女も悪いです。なんでゲイが死ななきゃならんのか。

「ばれたらまずいんじゃないですか」って、おいおい亀ちゃん亀ちゃん亀ちゃん。

シリーズ初期のエピソードなので、まだそのへんの配慮も浅かった時代ということでしょうか。


【違うドラマですが。】

「あんたの子がうちの子をいじめたから、あんたが女装バーへ通っていることをばらしてやる」

という話があったのです。めまいがしました。

父親の趣味と子どものいじめは関係ありません。これじゃ大人のいじめです。


【時代劇が衰退したわけ。】

インターネットに客を取られたという、テレビ界に共通する原因はあるんですが、だからといって誰もテレビを見なくなったわけではありません。

アニメ番組の中にも、刑事ドラマの中にも、長寿を誇るものがあるわけです。

都会の片隅で懸命に生きる善男善女を悪い奴が利用する・秘密を握って追いつめるというのは、時代劇でも刑事ドラマでも、刑事ドラマに準じたアニメ番組でも同じです。

時代劇では、お家騒動・幕府の転覆・抜け荷・阿片くらいしか悪事が描けないわけで、とくに若者の就職難や女性の就職差別といった現代の社会問題は取り上げることができません。

敗戦直後には、封建主義を思い出させるという理由で、占領軍によって時代劇の制作が禁止されたこともあったんだそうで、その後になって解禁されたときには、逆に時代劇を作ることが自由の象徴だったのかもしれません。

勧善懲悪のステレオタイプとしては、刑事ドラマにバトンタッチして、その役割を終えたわけですが、国際化時代だからこそ『ハリー・ポッター』のように民族の伝統に根ざしたファンタジーが流行るわけで、若い人の間には母国の歴史を見直す動きも盛んかと思われます。

ときどきバラエティ番組で紹介してるような、新しく分かった事実を取り入れた、一種の情報番組・再現ドラマとしての時代劇なら、あり得るのかもしれません。

だいぶ前になりますが、確かTBS系で「ポンペイ最後の日」をドラマ化しており、ジローラモ氏が一家の父親役を好演していたのが印象的でした。

大河ドラマは小道具や衣装に発揮する最新の考証を、物語にも取り入れると良いだろうと思います。


2015/06/23

【青色光が照らす亡霊。】


少し前に、BLの年齢制限の話が出た時には「なにを今更」と思ったものです。

年齢制限する必要はないというのではなく、今までさんざんごまかして、少女・少女と言い張ってきた学者だか文化人だかが、どう反論するのかと思っていたら、たいした反対運動もなく、やすやすと年齢制限の話が決まりました。

トラウマ説を振りかざして、少女の自由を弁護していた人々は、どこへ行ってしまったのでしょうか?

その後、萩尾望都の紫綬褒章受賞、竹宮恵子の京都精華大学学長就任という輝かしい話題の陰で、TPPによる知的財産権管理の件、二次創作許可マークの件、児童ポルノ取締りの件、会田誠の展覧会へのクレーム騒ぎ、大英博物館の浮世絵展が郷里であるはずの日本へは巡回できない件、黒バス犯の意見陳述、アニメ“関連”書店の不始末と、表現の自由あるいはサブカルの話題が続いて……

「これが21世紀か」と思ったものです。

よくも悪くも、20世紀にはごまかしていたことが、液晶バックライトの白日のもとにさらされるわけです。

可視光線の中で最も強い光である青色光が、いまだに議論の下手なフェミニズムとか、規制の好きな権力者とか、巨大な密室から足を洗っても心が抜け出しきれない同人とかいった、20世紀の亡霊を照らし出すわけです。

本ブログは、もともと映画・文芸などの鑑賞記を旨としています。

ここんとこ続けてきたのは、社会ウォッチングの一種として、いわゆるサブカル方面に話題を絞ったものという位置づけのつもりでおります。

思いがけず大部になりましたが、目次を細かく分け、カテゴリ別では記事が古い順に表示されるように設定いたしました。通常の書籍のように、第一節からご覧いただけるかと存じます。もちろんクラウドブックマークなども御随意でございます。

もはや小型タブレットの時代です。長文ブログも衰退していく運命なのかもしれません。それでも読んでくださる皆様には、衷心より感謝申し上げます。

お気に召せば幸いです。

(7月10日追記:その後も同じ話題が続いているので、タイトルから「後記」を外しました。)


2015/06/23

【若い人は、自由であってください。】

満期産には、十月十日を要します。新暦でいうと、約9ヶ月です。

すでに6月も終わろうとしているので、今年度内(来年の4月1日まで)に生まれる赤ちゃんのほとんどは、今現在、すでにママのお腹の中にいる人です。

その人数は、彼(女)たちのために発行された母子手帳の冊数として、だいたい確認できます。おそらく、百万を割っています。

この赤ちゃん達を「健全」に育てなければなりません。

でないと、あなたが倒れたとき、救急車を運転してくれる人も、治療してくれる人もいないことになります。

もはや自分の人生の恨みを語るときではありません。二十数年前の自慢話も必要ありません。これからのことを考えなければなりません。

若い人に「濡れ手であわ」という話を聞かせるものではありません。コンテンツ産業に憧れて上京し、事実上の放校処分という若者ばかりになっては、あなた自身が困るのです。

職業に貴賎はなく、行動は自由ですから、同人になりたきゃなってもいいです。でも「腹ァくくれ」と言ってやってください。

どこの職人の世界とも同じように、同人の世界も厳しいです。誰もが壁サークルになれるわけではありません。赤字を抱えて撤退する人のほうが多いです。

高河ゆんに稀有な才能があったことは、彼女の作品が証明しているはずです。誰でも二次創作をしている内に、漫画家にスカウトしてもらえるわけではありません。まして、小説を何本書いても、漫画家にはしてもらえません。

もし、シナリオライターになりたいのであれば、同人界のお約束を理解してくれる以外の人にもアピールする作品を書くことができなければなりません。同人誌即売会の中のことしか知らない人に、それはできません。

また、創作物の選択は自由です。

少女漫画を読もうが、BLを読もうが、レディコミを読もうが、昔の劇画を読もうが、好きに選べばよろしいです。何を読んだから、どのような人生が待っているという自己暗示にかかる必要はありません。

昔の学者や、短絡的なライターの言うことを、信じる必要はありません。

創作物との出会いは「いきなり気持ちわるかった」よりは、「いきなり愉快だった」のほうが良いに決まっています。どのような作品も、広い心で受け入れられるほうが、そうでないより人生の宝物が増えます。

また、創作物の制作も自由です。

同人だからエロスを書かなければならないなどとは決まっていません。自分とは違うものを書く人を差別するのは良くありません。二次創作だって、思いついたことを紙に書く権利は誰にでもあります。ただし、発表に際しては、業界の先輩への仁義を守ってください。

「読んで良かった、書いて良かった、プロになれて良かった」と思う人は、「お母さんのせいだ」などとは言いません。

なにかしら失敗したと思った人が、誰かのせいにしたがるだけです。

若い人は、自由であってください。若い人を、自由にしてあげてください。


2015/06/23

【移民はもともと英語ができます。】


世界の公用語は事実上英語なので、英米では英語に堪能な白人が今なお「上流でございます」という顔をしていられます。

もし日本に、もともと英語・中国語・スペイン語などに堪能な外国人が移住してきて、日本の大学で学位を取れば、国際企業に期待の星として採用されることになるでしょう。

そして彼(女)らがボスになります。日本人の出世は頭打ち、給料は据え置きのままで、結婚も育児も計画することができません。

だから移民には教育機会を制限し、低賃金に留め、「内地」の人間との通婚も禁止する。

日本人の育児と家事を外国人に手伝わせるとは、そういうことです。

欧米ではこういうことが実際に行われているから、重大な社会問題となっているわけです。

もちろん、日本が今さらこんな差別的な移民政策を明文化するわけには参りません。

百歩譲って、企業マンとして外資をかせぐ役を移民に担当してもらい、日本人は日本語しかできない者同士、お年寄りや子どもの世話をする仕事に従事するという役割分担もできます。

きめ細かな捜査が必要な警察、緊迫した状況下における地元住民との意思疎通が必要な消防も、母語として日本語を自在にあやつる人のほうが良いでしょう。

とはいえ、いずれは移民も代替わりして、母語として日本語を操る異民族が登場します。

アメリカは苦難の果てに黒人部隊を成立させました。

今では少なくとも映画などに表現される理念上、黒人のほうが地位が高いということもあります。

移民を解禁すれば、最終的には異民族が自衛隊を指揮するということも起こり得ます。五十年後か、百年後か、二百年後かは分かりません。それまで日本国が存続できるかどうかも分かりません。

存続させるために、可愛い独身女性だけハウスメイドに欲しいなどと言える時代ではありません。

湿度からいっても、災害の多さからいっても、決して住み良い国土ではないのですが、技術を維持できる限り快適な国ではあります。

移住を希望する外国人は多いでしょう。技術を受け継いでほしいと願う日本人もあるでしょう。

出生数は過去最低を記録したので、この赤ちゃん達が30年後に一斉に次世代育成に取り組んでくれたとしても、総人口は減り続けます。

100万人の男女が50万組のカップルになって、1人ずつ成せば、次世代は当代の半分。2人目を躊躇する状況が続いていれば、ねずみ算の逆で、あっという間に絶滅ラインを超えるでしょう。

そのぶん、外国人が入ってくる傾向は、止めることができないでしょう。

コミケ派同人こそ、本来のSF好きを発揮して、未来予想図を描いてみると良いです。

50年後、あなたはどこにいますか? まだ同人やってますか? 移民のお子さん達を二次創作の世界へお誘いして、「うまく」やっていますか?


2015/06/23

【日本の歴史教育の難点。】


「国会議事堂は昭和11年に完成しました」と教えることは容易です。

では「それ以前にはどこで会議をしていたんですか」と訊かれて、答えることのできる教員はいるでしょうか。

新しい国会議事堂を建てることを決議した会議は、どこで開催されていたか?

実は私も、話の例えとして今おもいついたので、答えを知りません。

知っている教員もいるかもしれませんが、個人的に歴史が好きで、ものの本を読んでいる先生でしょう。

世の中、気がついてみると「あれ? おかしいな」ということはいろいろとあるものです。

「同人誌とは個人誌よ! そんなことも知らないの!?」

という人へ「最初からそうではなかったでしょ」と問い返すと、「そこまで知らない……」と引っ込んでしまいます。

自分の知識に欠落があることに、自分で気づかないわけです。歴史が断絶しているのに、そのことに気づかないわけです。

各地の義務教育において「本県は明治○年に設定されました。それ以前にはA家とB家の領有に分かれていました」

と教えているところは少ないだろうと思います。

明治政府の時代になってから、幕藩時代を思い出し、旧権力への忠誠心を新たにするような教育は、行われなくなったのでしょう。

植民地政策のようなことが、自分の国で行われたわけです。

そのように国家が歴史を私物化することに反対して、独自教科書を採用する県があっても良かったわけですが、もともと地方史を研究・共有するような近代市民が成長していなかったこと、「勝てば官軍」の恐ろしさ、その後の大戦中の思想統制などがあって、地方分権意識が育たないままになってしまったのでしょう。

また、教えられたことを鵜呑みにするだけで、「おかしくないですか」と問い直すことをルール違反のように感じる意識だけが育ってしまったのでしょう。

「昔のことは知らないのが当たり前。だって教えてくれる人がいなかったんだもの。でも自分が興味あることだけは詳しいの。同人誌とはアニパロです!」

確かに、実地に見てきたことなら自信をもって言うことができます。でも、それだけです。

視野がせまく、短絡的な知性の持ち主が、ライターとして活躍できるのが日本です。

日本の歴史教育が、大和朝廷の地方討伐と稲作の広まった古代を詳しくやらなければならないのは「天皇陛下のおかげで米の飯が食える」ということを子どもの脳に刷り込まなければならないからです。

国旗掲揚・国歌斉唱に起立しない教員がいるくせに、です。

で、現代史の入り口(1945年)へたどり着いたあたりで時間切れとなるわけです。

咸臨丸の出航から、155年。大東亜戦争終結から70年。

そろそろ冷静に「現在から一歩ずつさかのぼって、来た道を確かめる」ということを始めても良いのかもしれません。


2015/06/23

【ストレート男性になりたいということはできます。】


今なお社会がストレート男性に有利なようにできていると思えるとしたら、です。

BLストーリーの基盤にあるのは、鴎外が報告したような、ストレート男性間における青春時代限定のパワハラ的人間関係です。

それを男女同権の名のもとに、男性の学問・技芸に関心を示すブルー・ストッキング的な女性が模倣したがった。その辺りから始まったということに、間違いはありません。

だから「古賀くんのようなストレート男子になって、上京させてもらって学問に励むかたわら、可愛い後輩の寝室へ押しかけたいわ」ということはできます。

でも「ゲイになりたい」とは申せません。ゲイと同じ差別を受けたいという女性はいないからです。

もし、自分は(または彼女たちは)トランスゲイであると主張するならば?

「私はトランスゲイであって、性適合手術を望みます。家庭・教育現場・職場において、決して差別しないで下さい」

これが本当です。

もし「トランスゲイが差別されるのは当たり前だから、自己実現できないのも当たり前なので、版権を無視してエッチな小説ばかり書いちゃうのも仕方ないですよね」と言われて……

「そうだね。トランスゲイが差別されるのは当たり前だもんね」と応じた時点で、ツーアウトです。

いや、トランスゲイが版権を無視したがるとは限りませんし、トランスゲイがエッチな小説を書きたがる人ばかりだとも限りませんから、トランスゲイに関する偏見を助長するという点では、フォーアウトです。

じつは数年前に、またトランスゲイ説が聞こえてきたことがあって、二十年前の亡霊に出会ったような気がしたのです。

なお、吊橋理論の記事でも申しましたが、ストレート男性の行動について、ゲイに質問するのはお門違いです。

2015/06/23

【ストレート女性がゲイに言うべきこと。】


「女は結婚したくなればいつでも結婚できるけど結婚したくないのに結婚しろって言われるからうるさいけど、ゲイはもともと差別されていて結婚できないから気楽でいいわね」

ではありません。

「ゲイはもともと差別されていて、女よりも可哀想だから泣ける~~」

でもありません。

「もう私は一生結婚できなくても良いけど、ゲイの結婚には協力しますよ。ビラ配りでも集会室のお掃除でも言ってください」

が正解(に近い)でしょう。

できれば弁護士や医師の資格を取って、彼らを優先的に受け入れてあげると良いです。



2015/06/22

【同人は、適度に楽しむ遊びです。】


同人活動は、あなたにとって、ニート化の原因の一つとなります。

同人活動は、あなたにとって学業成績を悪化させる危険性を高めます。

人により程度は異なりますが、同人活動によりツイッターへの依存が生じます。

同人活動は、適度に楽しむ遊びです。のめり込みに注意しましょう。
2015/06/22

【早めに自分の才能を見切りましょう。】


角川書店がジュヴナイルを分割して、BL専門レーベルを立ち上げたのは、1992年です。

この時点でプロデビューできていれば「宮崎ツトム事件のせいで、BLが書けなくなった」などという愚痴をこぼす必要はなかったはずです。

どうも「Mのせいでやりにくくなった」という噂を真に受けて、同人活動を中止したのに、その間にほかの人はプロデビューしていたという例があったらしく思われます。

自分の人生は自分で決めましょう。

「どうしても表現したいものがあるので見てください」と投稿・持込すれば、道が開けることもあります。BLで生計を立てるかたわら、ミステリーやスポーツ小説も書くことのできる技量を示せば、編集者のほうが放っておかないでしょう。

【BLが生んだもの。】

昔の女流作家が書くものは、女性が主人公になっているのが基本でした。女流が男性スポーツ選手の心理を描写するなどということは、ほとんどありませんでした。

今では女流が男性運動部員どうしの心の交流を描いた小説がたくさんあって、入学試験の問題文にも採用されています。(新聞に問題文が掲載されたのを読むと分かります。)

でも、よく読むと実際に表現されているのは「嘘をついても許してあげる。私にだけ本当のことを打ち明けてくれて嬉しいわ」といった女性心理です。作家にBLの素養があることが推察されます。明言する作家もいます。

つまり、BLを「どうせただのエロ」などと思わず、丁寧に心理描写した人の中から、一般向けのベストセラー作家が育ったのです。

【在学中に見切りましょう。】

もし自分にはステレオタイプなポルノグラフィか、二次創作しか書けないと思ったならば、一生同人誌即売会にかじりつく必要があります。

向こう五十年間、壁サークルであり続けるために、死に物狂いになってください。そうでなければ、同人だけで食っていくことはできません。所得税を納めながら、老後の貯金もするためには、毎年五百万円以上を売り上げる必要があります。

もし、それも無理っぽければ、まずは大学の単位をきちんとそろえるか、なんらかの資格試験に合格することを第一目標にしてください。本業を得たうえで「同人は適度な娯楽」ということにするのが、長い眼で見て正解です。

2015/06/22

【ところで、自費出版だけで食っていくとは?】


一ヶ月の生活費を、20万円としてみましょう。半年で120万円です。

自費出版一冊の売値はいくらでしょうか。一万円でしょうか。だったら購読者は120人必要です。

一冊千円なら? 

あなたの作品の前に、1200人のお客様が並んでくださいますか?

幸いにして並んでくださったとしても、一ヶ月分の家賃・光熱費・通信費・食費・税金・国民健康保険税などとして20万円を使い果たしてしまっては老後の貯えが残らないので、本当は2400人のお客様に並んでほしいところです。

年二回の即売イベントで、4800人のお客様から、千円ずつ。

合計480万円の収入を得れば、来年には所得税を納めなければなりません。もともと余裕のない計算なので、来年には生活費と貯金に加えて、その分のお客様にも並んで頂く必要があります。

うまく事が運んで、翌年に500万円を得たとすれば、その翌年の所得税も増額されます。ツイッターで「売れた、売れた」と喜びの報告をすれば、マルサが知るところとなるでしょう。

ところで純文学というのは、基本的には実生活に根ざした、リアリズム重視文芸です。中年になってから、少年少女時代を思い出して、地元に伝わる祭礼行事を題材に小説を書き、受賞するということはあります。

賞金および印税によって臨時収入を得られるでしょうが、生活のために同じ話をもう一度書くというわけには行きません。少年少女時代を生き直して、新しい実生活の記憶を得るということもできません。作家というのは、演奏家とちがって、そこが不便です。永井荷風がこぼした通りです。

いっぽう世の中には、似たような私小説的な作品を何度も書いているのに、ノーベル賞候補という人もいます。異性の人生を調べて、現代の純文学というべき作品を仕上げてしまう人もいます。

もし、あなたが毎年500万円を得るために、書く内容に困って、空想的なポルノグラフィを選ばざるを得なくなったのであれば、あなたは小説家になりたかったのに、村上春樹や田中康夫ほどの才能がなかったのです。

自分が文学だけで食っていけるかどうかは、二十歳くらいまでに見極める必要があります。その年齢なら、まだ資格試験のための勉強などに間に合うからです。

ところで、なぜ小説家になりたいと思ったのでしょうか? なぜ自費出版で収入を得ようとしたのでしょうか?

「文章を書くことよりも、ディスコダンスのほうが得意だったから」ではありませんね?

「ピアノのコンクールに出場するための練習に忙しく、文章を書く暇などないから」でもありませんね?

「リリーフ投手として、ブルペンで集中を高める必要があるから」でもありませんね?

文章を書いて、自費出版することが、自分に向いており、ふさわしい職業だと感じられたからです。

でも、上には上がいたのです。

たとえポルノで食っていくことになり、それを不本意だと感じているとしても、物書きになったのは、好きでその道に入ったと言って良いのです。また、言う他ないのです。

国防・消防・農業・漁業・看護・介護など、肉体的に厳しい労働に従事している人々から「好きで選んだ道だろ」と言われても、返す言葉はないのです。

「収入を得るためだから、好きではない」という二項対立は、成り立たないのです。


2015/06/22

【バブル同人自慢はご遠慮ください。】


未成年女性のためのジュヴナイルとしてのBLというのは、表現の自由と青少年への配慮というバランスの上で、ギリギリ成り立ち得る分野かと思われます。

萩尾望都『トーマの心臓』は、その傑作の一例でしょう。

また、その一種が、ゲイ同士のホームコメディを描いた『きのう何食べた?』(よしながふみ)でしょう。

そのヒットを思えば、性描写のないBLという分野の一般公開が、増えても良いように思われます。

たとえば少年少女が互いを意識しながらも、今はそれを口に出さずに文化祭の成功のために協力するといった物語があるのであれば、少年同士が将来を約束しながらも、今は部活動の優勝を最優先に考えるという物語があっても良いはずです。

ポルノグラフィの販売自体は、それを求める人が自由に買えることが肝要ですから、上等です。が、「BLはポルノだと思われたくない」という声もある以上、市販品のバリエーションが増えて、一般社会の偏見が払拭されるのが良いと思います。

ここで、「でも同人が好きなのはエロよ!」と叫ぶことは、まったく違う話を始めてしまうことです。他人の話に便乗して、「自分は同人に詳しい」という自慢話を始めてしまっただけです。

十万人の参加者全員と直接の知り合いだったわけでもないのに、そのうちの何人かとおつきあいがあったという、人生唯一の成功体験を自慢したい気持ちは分かります。

でも、これは市販作品が(1990年代の不況への対応として)いわゆる過激なエロスに偏っていることに対して、その傾向が変わってくることを願うという話です。

同人界は、同人界で好きにやれば良いだけです。

世の中に存在するのは、同人誌即売会参加者だけではありません。同人誌即売会の参加者しか、BLを読んではいけないという法律もありません。

同人が自分で「表現の自由」を否定するなら、同人の表現の自由が否定されることも、簡単に起きます。

より多くの人の、より多様な幸福を願ってという話であることを、ご理解ください。

2015/06/22

【足を洗えない人には才能があります。】


女性の一部において、著作権の無断利用と、性的創作表現の自由が混同され、権力との闘いかのような高揚感を生んでいるのは……

女性は職業選択の幅がせまいので、著作権を利用させてもらうのもやむなし、という弱者特権が認められた時のみ、理屈が通ります。

でも、ワイン醸造にも建設現場にも自衛隊にも女性が進出し、高評価される時代に「どうせ女にはこんなことしかやらせてもらえない」とは申せません。

ここで「それでも二次創作を続けたい」と言うには、「この仕事が私に向いている」とか「少しでもアニメに関わっていたい」とか主張する必要があります。

べつに好きでもないし、得意だとも思っていないが、金になるからやっているといえば?

もっと簡単にかせげる方法に誘われたら、そっちへ移るだろうという危惧が発生します。

ここで「悪いことには加担しません。法律を守ることができます」と言っても説得力がないのが、二次です。どこまで行っても、立場が弱いことに変わりはありません。

ここで箔をつけるつもりで業界の先輩がどうたら言えば、かつて便宜を図ってくれた仲間を売ったという意味になるのです。

中には「ふつうのOLさんにしてもらえれば、悪い仲間から足を洗うことができます」という取引を持ち掛けたい人もいるのかもしれません。でも、きっとそうじゃない人もいます。

自分には漫画が描ける。小説を書けば喜んでもらえる。そのこと自体が純粋に嬉しくて続けているという人は、必ずいます。筆を折って、ちがう仕事につきたいとは別に思っていないという人が、必ずいます。

誰も五十万人と直接に腹を割って話したわけではありません。そもそもパロディ同人が額面どおりの言葉を使うとは限りません。

竹宮恵子から始まったというのも、金のためというのも、一種のポーズです。それを真に受ける人は、じつは自分自身が本気で同人やってる人の本心を明かしてもらっていないだけです。それほどのお付き合いがなかっただけです。

「足を洗えなくなった」という人は、洗わずに続けていられるだけの才能と固定ファンを持ち合わせているのです。


2015/06/22

【インターネットは同人誌即売会ではありません。】


日本の「サブカル」の話は、どこまで行っても「テレビアニメを通じてしか社会を知らない極東の田舎のチューボーが、それにしては良く頑張っている」

という話でしかありません。

麻布生まれの青山育ち、英語もフランス語もペラペラという人は「ドージン」になりません。盆・暮れはハワイで過ごしているでしょう。

村上フィギュアが16億円でも、薄い本一冊は千円以下です。それをニューヨークへ売りに行くこともできません。英語ができないからです。

「キーーッ! 晴海のコミケは都会的だったのよ!」

などと言えば、十億人が鼻で笑うでしょう。

小型タブレットPC(≒スマホ)の普及により、今や「インターネット」には十億オーダーの人々が参加しています。

日本の「同人」が世界へ向かって、利益のためなら何をしても良いといえば、規制が始まります。

あるいは、世界が利用します。

すでにインターネットでイラストを公開している人の中からは「Tumblrに作品を転載されたせいで、元々の発表サイトの閲覧者が減ってしまった」という苦情が挙がっています。

その後、Tumblrのほうが「著作権を守りましょう」という掲示をかかげるようになりましたが、Tumblrならマシなほうです。転載それ自体によっては利益を生まないからです。

あとは言わなくても分かるかと思います。

阿部首相は(ああ見えて)クレバーで、「民間の活力にまかせましょう」と言いました。

つまり、海外で何が行われても、政府が日本の同人作品の権利を守ってくれることはありません。

こういう危惧は、すでに現役の間では共有されているのだろうと思います。ついて行けないのは「もと同人」です。

80年代自慢は必要ありません。東京ローカル自慢も必要ありません。

現役同人、ひいては日本人全体が誇りを持つために必要なのは、1975年以前にさかのぼって「日本のサブカル」の歴史を問い直すことと、これからどうするか、世界と共存・競合していけるか、その方法を考えることです。

2015/06/22

【なぜ同人誌というのか。】


個人誌といってはいけないからです。

たんなる個人による自費出版が、他人の権利を侵害しているとなったら、言い訳が立たないからです。

「これは同好会の会員に配布するだけで、一般販売はしません」という建前を崩すことはできないからです。

したがいまして「同人誌って個人でやってるのよ!」と言っちゃう人は、本当は同人界の事情を知りません。

「同人誌とはアニパロです!」と書いちゃう人も同様です。

それ言っちゃいかんのです。

パロディであることを明示したくなかったから隠語を使ったのです。

もはや“時すでに遅し”ですが。

いずれにしても、1980年代に入ってから同人界へ参加した人は「コピーのコピーのコピー」組です。

すでに1970年代に技法が完成し、流行が始まったのを見て、後から参加した人です。お姉さんにくっついていっただけです。

「キャプ○ブーム」も病膏肓に入った1985年よりも後の時代のことなんて、お話になりません。

1980年代後半の同人バブルなど、多くの人が肌で知っています。今さら自慢されるまでもありません。

それ以降に生まれた人にとっても、べつに参考にはなりません。

1985年以降の同人活動は、表現としても、経営としても、1985年までに出そろった技法を繰り返しているだけだからです。

新しく加わったものは何もありません。言ってはいけない約束が、失われただけです。

2015/06/22

【後から流行に乗ったことを都会的とは言わないのです。】


栗本薫には『絃の聖域』があり、「ぼくら」シリーズがあります。数少ない女流ミステリの成功例として、名を残すでしょう。

また『グイン・サーガ』も「辺境篇」は傑作です。女流がヒロイックファンタジーを紹介した稀有な例として、後のファンタジー創作へ与えた影響の点からも、ひいてはゲーム業界の先祖の一人としても、語り伝えられることでしょう。

これらは、女流が男性を主人公に書いた初期の例としても貴重です。

田辺聖子・円地文子・有吉佐和子など純文学系を見ても、新井素子・氷室冴子などのライトノベル系を見ても、昔の女流が女性を主人公に書いていたことは、疑う余地がありません。

BL分野に理解がある・あえて書きたがる女流作家から、「異性を主人公に書く」という、女流には珍しかった技法が成長したのです。

それを栗本の場合、ミステリーという「通」の集まる分野において、プロとして認められるレベルで実現できたことが意義深いのであって、即売会の外へ出せない二次創作でどんなに威張っても、井の中の蛙でしかありません。

特に、1980年代に入ってから二次創作を始めたという人は、すでに流行している様子を見て、後から参加したに過ぎません。押井守のいう「コピーのコピーのコピー」組です。

原宿や軽井沢のにぎわいをテレビで見たので、こないだの日曜日に行ってきたというのと同じです。今ふうに言うと「にわか」です。

他言無用のイベント会場限定品を地元で見せびらかし、「こういうの、やおいっていうんだって! 竹宮恵子から始まったんだって!」と公式説明を言いふらすのは、都会のおみやげを自慢する観光客です。

残念ながら、そういうのは「おのぼりさん」といいます。

ふだんテレビばかり見ている人が、リアル都会へ行ってみただけで興奮し、地元の友達を誘って「つぎは私が案内してあげる!」と通を気取るわけです。

ストレート女性でありながら「新宿二丁目なら私にまかせて!」とガイドブックを書いてしまうのも同じタイプでしょう。

「同人誌とはアニパロです!」という書籍を上梓する人も同じタイプでしょう。

1980年代の情強ブリッコは、非常に短絡的で、自慢話が好きでした。

いまの若い人はクレバーです。

上には上がいる国際的な情報交換の渦のなかで、うかつに物知り顔をできないことを知っています。

彼らが「友達少ない」というのは、同い年が少ないので単純な現実でもありますが、じつは「都会のことも、同人のことも、よく知りません。あまり質問しないでください」という、謙遜と同時に保身を意味しています。

もともと「やおい」というのも、そういう意味だったのです。

2015/06/22

【小遣いかせぎますか。生涯賃金あきらめますか。】


バブル同人とは、バブルに浮かれて小遣いかせぎに夢中になって、生涯賃金を失った人です。豪華フルカラー同人誌の陰にあった悲喜劇です。

大学生はモラトリアムではありません。

中卒・高卒者には不可能な研究者になったり、国家試験・公務員試験に合格し、国家の柱となることを期待されている人々です。総合大学へ合格できただけで、もう総合職に採用してもらったような気分になって遊んでしまった学生は、事実上の中途退学者です。

中退(候補)者同士で「栗本薫個人よりも、私たち同人全体のほうが売れている」などという、人数的にアンフェアな陰口に興じても、腹の足しにもなりません。

同人全員が編集部に新卒採用してもらえるわけでもありません。先輩の先輩が築き上げた人脈を、じぶんが自慢しても無意味です。

森鴎外の時代から、都会で遊びだけ覚えて放校処分になる者は存在しました。末路は悲惨です。たとえ九州の実家が「しかたがない」と受け入れてくれたとしても、残ったものは「俺も少しは都会で遊んだことがある」という思い出と、数十年前の自慢話だけです。

同人活動を東京における就職へつなげていくには、作家として独立するために投稿するか、出版人として即戦力となるための編集技術を身につけておく必要があります。

すなわち、在学中から本物の人脈を築き、現場入りしておく必要があります。

それでも正採用される保障はありませんが、一般企業へ出かけて「英語も国際情勢も勉強してこなかったので総合職にしてください。だめだったら適当に一般事務でもいいです。簿記もエクセルも知らないけど。なんちゃって」というよりはマシです。

採用するほうはプロです。そんな勘違いモラトリアムを何百人も見てきました。

そもそもモラトリアムなどとほざくのは、自分を正当化したい中退者です。サブカル男子と呼ばれた人々は、今ごろになって「こわれた」などと言われているようです。

他人の言説を真に受けて、遊んでしまう人を、どのみち総合職にしてやるわけには参りません。自分の人生の見通しも立てられない人に、重要なプロジェクトを任せることはできないからです。

だから、大学で何をしてきたか、計画性をもって資格試験のための勉強をして来たかといった実績が、やっぱり重要なのです。

1980年代の大学進学率は、たったの2割です。その2割に入ることができていながら「何にもならなかった」というのは、言い訳になりません。

在学中に成人するので、お母さんのせいにもできません。成人の人生は、自分で決める権利と義務があります。

若い人は、中年の失敗を、自分の人生の足しにしてください。

2015/06/21

【田亀源五郎とBL。】


1980年代から漫画家活動を開始した田亀源五郎の作品は、ゲイのリアリティではなく、ストレート男性同士のパワハラを描いているというBLの本質を、見事に看破し、自家薬籠中のものにしています。

最初に読んだとき「あ、やられた」と思いました。

BLは男子同性愛を美化して描いているから差別的だとか言ってる暇があったら自分で描くわけです。

美化にもいろいろあるわけで、彼の描く男性的美化を見た後では、やおいはトランスゲイであるなどという言説は、しぼんだ花のようです。

榊原『やおい幻論』は1998年の発刊で、田亀はすでに不世出の傑作『銀の華』を発表しており、これを確認しておかなかったことは、ひとえにネットの普及していなかった時代の情報不足によるかと思います。

そもそも男子同性愛を美化していたのは当事者(の一部)です。女性は高畠華宵や内藤ルネや丸山明宏やピーターに憧れたわけです。

英語版ウィキペディアによると、田亀の作風が、それまで美少年趣味に偏っていたゲイ美術界のトレンドを変えたということです。

でも、無髯の若者とはいえ女性も喜ぶ美少年とは系統が違うといえば三島剛がいたわけですし、ひそかにトム・オブ・フィンランドなどの海外作品を入手していた御仁もおいでになったはずで、文芸の挿絵などとして水面下には存在したものを、漫画という入りやすい形で提供し、読者を増やしたのが田亀の功績ということになるかと思います。

この点では、三島由紀夫または森茉莉以来、文芸の形で水面下で流行していた(であろう)女性による耽美趣味を、漫画の形で低年齢者に解禁した竹宮恵子と同様でしょう。

金字塔というのは、ファラオの墓ではなく、公共事業だったのだそうです。

なお、英語圏では「bara」が日本製ゲイ漫画を指す“外来語”となっているようですが、これにはその第一人者である田亀が反対しています。

たま~~に、その意味で「yaoi」が使われていることもあって、げっそりしないこともありません。

いろいろと認識が改まるといいなと思っております。