2015/07/26

映画の暗さ、アニメの明るさ、育休退園。


映画は暗い劇場で見ることを前提にしているので、画面が暗いものです。

炎や熔岩、溶けた金属などを背景にした名シーンも、周囲が暗い中でオレンジ色の光がメラメラと燃えているから効果的なわけです。

それを自宅のテレビで視聴すると違和感ありますね。

逆に、アニメのカラフルさは(当然ながら)テレビ視聴向けです。

だから世界のお茶の間・世界のよい子向けに、日本の高い技術を駆使した児童アニメを輸出していければいいんですが……今んとこ、爆発的人気というようには聞こえてこない。

結局のところ、アニメの輸出量はゲームの足元にも及ばないままでしょう。

おそらく日本人にしか分からない心理・展開が脚本に盛り込まれてしまっており、世界の子ども達に対して『アナ雪』級のヒットにならない。

とくに家族構成や女性の役割、叱られた子どもの態度などは、文化の違いが出るところです。

アメリカ製の作品が世界に訴求力を持つのは、今なお「デモクラシーの教科書」ってところがあるからでしょう。この点では戦いようがありません。

あとは子ども向けを詐称することをやめて、世界のヤングアダルト向けの(性的な意味を含む)娯楽作品として、年齢制限つきで売り込んでいく姿勢を確立してしまえばよいです。

最初からアダルト向けを宣言すれば、「暴力的すぎて子どもに見せられない」というクレームを未然に防ぐことができます。

ただし、これを政府のお墨つきで売り出すわけにはいかないので、もうコンテンツ産業への肩入れからは手を引いたほうが良いでしょう。

ごく当たり前に、アニメ会社の営業マンなどが仕事をしやすいように、査証の点で配慮してやるとか、国家(政府)にしか出来ないことをしてやればいいと思います。

また、国策としてコンテンツ産業を奨励するならば、相対的に公務員になる人が減りますから、自衛隊と中央省庁を優秀な移民の若者におまかせすることになります。

『クレヨンしんちゃん』は自分の役割をよく分かっていて、日本のお父さんをターゲットにしているのですが……

お父さんになる男性が減っているので、どう考えても先細り市場です。

「育休退園は、少子化対策を喫緊の課題とする国策に反する。早急に待機児童ゼロを実現すべし。国費投入も辞さない」

発動するなら、こういうところで強権を発動して、この問題を解決していかないことには、話を聞く若い人が思うことは「もう生まなくていいってことだね」であるでしょう。



2015/07/26

デ・シーカ『自転車泥棒』ふたたび。


ネオレアリズモの夜明けらしいんですが、基盤にあるのは人情喜劇だろうと思います。

どの場面でも、もっと悲惨な展開は充分に考えられるのです。

下町で喧嘩に巻き込まれたのに、刃物が出てこなかったのは、むしろ不思議なくらいです。

終戦直後の時代に、まだそのへんに軍用拳銃が転がっていたっておかしくありません。

揉み合ったはずみで相手に致命傷を与えてしまった、さらに逮捕に抵抗したはずみに警官が車にはねられたなど、不幸が重なって主人公は絞首刑に……なんて話もありそうです。

子どもも何回か危険な目に遭いかけますが、父親は「いま危なかった」と気づきもしません。まるで「志村、後ろーー!」状態です。

でも、最終的にあらゆる難を逃れて、手をつないで帰宅できるという、ハッピーエンドなのです。

結局のところ、ローマ市民は人情家だなァ、みんな優しいなァってことなのです、じつは。

温かくも冷たいってのが芸術家の眼で、じつは滑稽味を狙った世話物の一種で、ご都合主義によって丸く収まるのです。

こっから先の人生は分かりません。もしかしたら自転車が戻ってくるかもしれません。質流れ品を安く買えるかもしれません。子どもも一緒に靴磨きをして、店を持てるまでになったかもしれません。

少なくとも、二度と子どもの前で恥ずかしいことはしないでしょう。

最も大切なものだけは失わずに済んだ。どこかで神様が見ていてくださる。イタリアらしいといえば、イタリアらしいでしょう。

もし、これを見て「貧乏暮らしや世間の冷たさを美化せずに描けばいいんだ」と思い込み、衣装や大道具のウェザリングだけに夢中になってしまったり、残酷描写をエスカレートさせていった映画人があったなら、間違いではないが、評価は「Aマイナス」ってところでしょう。

逆に「確かに世間は冷たいが、そうそう大事件が起こるもんでもない」というふうに捉えるならば……

風刺されているのは、むしろ「次々に悪いことが重なって」という、一種のロマンチシズムを期待する観客のほうということになるのでしょう。

『あゝ無情』や『岩窟王』、阪妻が戦前に演じた時代劇も、そういうロマンチシズムの象徴だったでしょう。

アラン・ドゥロンには「せっかく出所したのに再犯を危惧する(むしろ期待する)刑事の執拗な尾行にあって、いらだった挙句に本当に再犯ということになり、極刑を受ける」という作品があったと思います。

何が「リアル」やら。


2015/07/23

【ヴィットリオ・デ・シーカ『自転車泥棒』1948年】


エキストラが美男です。実際に敗戦直後に撮影しているわけで、わずかな給料をもらって喜んだ俳優の卵が大勢いたんじゃないかと思います。これで自分の自転車が買えるってね。

イタリア中が薔薇色に染まる自転車レースは五月にやってましたが、あの底辺がこの自転車文化なんだな……と変なところに感心したり。

あまりの名作ぶりに長いこと敬遠していましたが、290円になっていたので買ってきました。永岡書店より『懐かしの名作映画ベストセレクション』。500円だと「ちょっと高い」と思うのが本音です。日本の庶民。

で……単純に面白いっていうと語弊があるでしょうか。

序盤のうちは、悪いことが起きるのが分かっていて、小さな仕事をもらったことに喜ぶ家族の姿を見ているのが辛いわけですが、万策つきたと思われたところで次々に新たな人物が登場し、いくらかの滑稽味を帯びて細やかな人間ドラマが生起する筋立てと会話が良く、飽きさせません。撮り方も編集も、たいへんこなれていると思います。

「ネオレアリズモの夜明け」だそうですが、やっぱり背景に膨大な蓄積を感じます。

もとを辿っていくと、『ラ・ボエーム』のような貧乏暮らしを描いたオペラがあるでしょうし、たった一個のパンを盗んだだけで……という『あゝ無情』もあるはずです。

サントラはオペラ調で、いかにも悲劇的です。これのBGMがマイルス・デイヴィスだったら、ドライ過ぎです。逆にあちら(『死刑台のエレベーター』)は基本がメロドラマだから、あれで調度いいんですな。

上流っぽい人々が食事をするレストランでは、ロマなのか、クレズマーなのか、異国ふうの音楽が生演奏されていました。こうやって敗戦後を乗りきろうとしていたんだな……という世相の一端がうかがえますが、今でもやってるかもしれません。

若い人のなかには「ハッピーエンドでなければ見ない(読まない)」とか、残酷ものが流行しているからこそ、そういうのは苦手という人もいますから、先に言っておきますが、眼を覆うばかりの惨状という話ではありません。舞台劇として実演できる程度。

でもタイトル通り、自転車が走る場面があるので、それをカメラで追っかけたことと、その背景として敗戦直後のローマ市街をフレームに収めたことが、今や意義深いわけです。

集合住宅がドーーンと建っているだけで、周囲に舗装された道も噴水広場もない「文化果つるところ」といった郊外の風景に圧倒されます。

そこからちょっと歩くと、さいわいにして戦禍を受けなかった古典的な建物も見えますが、スーツ姿の人々が路面電車にすし詰めになっていたり、さらに下町では真昼間から成人男子がいかにも暇そうにたむろしていたり。

それでもこの時代には、ちゃんとジャケット着用なのですね。子どもでさえ、穴の開いた上着でも着ないよりはマシらしいです。サングラスの「その筋」の兄さん達はカッコ良かったです……あのような定型も、すでに生じていたのですね。

つまり、主人公は富裕層として中心部に住居を維持しているわけでもなく、下町の人間関係によって支えられているわけでもない。

たぶん地方から上京してきて郊外に住みついた人々の一世代目か、二世代目。それが戦争に巻き込まれて、どんだけ苦労したかという話。

世界中で多くの人々が身につまされたわけですが、監督やプロデューサー自身は映画の成功によって大きな金額を手にしたはずで、庶民としてはモニョっておきましょう。

もちろん全くの素人さんも多く映っているようで、一見すると街頭無許可ロケ敢行みたいに見えるのですが、子どもの姿が殆ど見られず、エンツォくんが効果的に映るように配慮されているようなので、じつは周到に用意されたのではないかと思われます。なお、撮影秘話的なものは専門サイトにて御覧下さい。

男は泣けないわけじゃないのです。ただ、泣く前になんとかしようとするのです。表面的にドライさと計画性を装うのです。その代わりに女が瞬間沸騰し、泣いてくれる……男は自分の気持ちを分かってもらえたと感謝すると同時に「なんとかしなきゃ」という決意を強める。女の涙は進軍ラッパです。

夫婦の会話には、そんなことも思いました。田村俊子『木乃伊の口紅』には、逆にそうやって男に同調してくれない女を薄情だ、自分に惚れていないと見る男心が(女流作家の筆で)描き出されていますね。

話を戻すと、キリスト教徒にとって、ごミサの邪魔をしてでも……というのは、本当に追いつめられているという表現として最適なのでしょう。

もともと子どもたちを養うために働きたいだけなのに、しまいにゃその息子の存在さえ忘れがちです。

競技場でサッカーを楽しむ人々の間で孤立無援の思いを深めた挙句に残ったものは、良民からの憐れみと、息子に見せた恥でした。

ランベルト・マッジオラーニ。いい顔です。イタリアの素人さんはレベル高いです。

ふと考えてみると、これより以前から日本には小津も木下も市川も円谷もいたはずなのです。1948年は、最古なようで、意外に新しいです。


2015/07/23

【ミンガスさんちの直立猿人を聴きながら。】


「やかましい」と言ってみました。

インプロヴィゼイションが分からないと言った人は、もしかしたら分かりたくもないという意味だったのかもしれません。

なんでこんな騒音を聞かされなきゃならないんだ……と考えてみると、やはり先にクラシックのほうで不協和音を演奏するようになっており、それを白人の聴衆が黙って傾聴しているということが前提になっていたのだろうと思います。

「ストラヴィンスキーは確かにすごい奴だったが、俺たちにやらせりゃもっと面白いぜ」ってことでしょう。

ステイシー・キーチ演じるドラマ『マイク・ハマー』に、「俺が好きなものはコルトレーンだぜ」ってそのまんまな台詞があって、青い背景のCDを買いました。創作物の中で本物に言及することも大事です。

それ以来「ビバップとハードバップって何が違うん?」と思ってましたが、後者は前衛すぎて歯が立たないというか、硬派というか、兄貴すぎるというか、そういうことのように思われます。

ビバップ系のジャズは、少なくとも最初のうちは、とくに女性の眉をひそめさせたんじゃないかと思います。

お洒落をして、ホテルのラウンジやナイトクラブを訪れた彼女としては、優しい男性にエスコートされて踊りたいに決まっています。

逆にジャズメンにしてみりゃ、ビッグバンド時代の演奏を聞き流しながら食事したり踊ったりするハイソサエティの背後で「てやんでェ」と思っていたに違いない。

とくに大きな戦争があった後では「若い奴らが女も知らずに死んじまったのに」という気持ちがあったでしょう。能楽を引き合いに出すまでもなく、音楽には霊を慰める・神に呼びかけるという意味がある。

いっぽうで自分たち(の仲間)も米軍の一員として参戦したという経験は、誇りの感情を以前にも増して強めたことでしょう。

で、何人かの非常に才能ある人を皮切りに、ビッグバンドからの独立が果たされたわけですが……

特にミンガスは家系的にすごく複雑だったようなので、「出身で差別するとか下らねェよ」って気持ちを強く持っていたことと思います。

このアルバムタイトル曲も「人間がまだ白人と黒人に分かれてなかった頃までさかのぼってしまえば、どっちがえらいってことないだろ」という意味なのかもしれません。

確かベートーヴェンの室内楽に、こんなふうに全く味わいの異なるパートが素知らぬ顔して繰り返される曲があったと思います。まさにローマン的に悲劇的な部分と軽快な部分のギャップに笑えます。

(※「セレナード 二長調 作品8」の第4楽章。個人的に持ってるのは、メロディアから出た1988年のカガン、バシュメット、グートマンによるライブ音源に日本語解説を付けた盤。キングインターナショナルより、1993年。KKCC-6019)

ミンガスは楽譜が読めなかったとか、人種差別も受けたとはいっても、音楽教育はきちんと受けているわけで、もともとチェロをやっていたそうでもあり、音楽史上の突然変異でもなければ奇跡でもありません。

その点じゃ世阿弥やモーツァルトやディズニーと同じで、それまでに存在した様々なものが、彼一人の中に流れ込んで、また大河となって出て行ったという、巨大な貯水湖のような人だったのでしょう。ちょっと波の激しい湖だったようですが。


2015/07/19

【創作の青田と消費者の乖離。】


じつは「頑張っても出世させてもらえない」というのは、働く女性に共通の不満です。

だから貴族から差別されていた時代の武士の話というのは、性別を越えて現代女性の共感を得る可能性がある。

ただし、厄介なのは、女性が脚本家として登用された場合、彼女自身は大出世したわけですから、世の女性たちの不満を確実に反映したものを書けるとは限らない。

また、現代女性には「帰る家がない」という問題があります。

老親が施設などへ移ってしまい、実家が兄夫婦のものになって、その子ども達も黙ってゲームをする年齢になり、もう「おねえちゃん遊ぼう」とも言わない。

自分自身が結婚したくないくらいだから、親戚を迎える兄嫁の苦労も分かる。

だから「帰る家庭がない」という主人公の嘆きに、性別を越えて共感できるということもあり得ます。

男がメソメソ泣く話を好む女性は、あるていど存在します。

いわゆる母性本能が刺激されるばかりとは限りません。

男だって本当は傷つきやすく、泣いてばかりいる。むしろ男のほうが弱い。

これが女性に溜飲の下がる思いをさせるということはあり得ます。「一緒に泣いてあげる」と言うことが、彼女自身には優越感を感じさせるということはあり得ます。

というか、この男女逆転の優越感を男性に都合よく解釈すると「母性本能が刺激されて、女のほうから守ってあげたいと言ってくれている」となるわけです。

が、伝統的に大河ドラマの視聴者が望むものは、弱い男性像ではありません。

「男泣き」というのは、男が「愛がほしい」と泣くことではなく……

自分を信じてくれた人がいる。仲間として認め、社会で役立つ男となるように育て上げてくれた人がいる。それが自分をもう一人前だと認めてくれたからこそ「後を頼む」と別れの挨拶をする。

だから「お館さまーーッ!」って泣くわけです。

これは、まさにそのように認めてもらうことのできない女性にとっては「てやんでェ」って言いたいところですけれども、だからこそ今なお男心を満足させるでしょう。

今でも家康を鑑と仰ぐビジネスマンは多いだろうと思います。清盛というのは、信長のように武勇で聞こえた人ではない。忠盛のように洒落のきく人だったという話もない。

でも、機を見るに敏なところがあったに違いない。だから海外貿易で成功し、24時間戦えるジャパニーズビジネスマンの先駆者となった。

多少ずるいことをやって稼いだ話でもよい。もともと貴族ではない者が這い上がったという話だから、世間知らずで頭の固い正三位以上にはできないことをやってのけた、ダークヒーローという話でもよい。

彼は家康に次ぐ、実在経営者のためのニューヒーローとなる可能性があった。

実利としても、たとえば商売繁盛のお守りとして平家の家紋グッズが売れるなんて可能性があった。揚羽蝶なら見た目も美しいですね。女性ビジネスマンのお守りにも良さそうです。

でも……。

清盛と信西の間に深い友情を設定してしまえば、平治の乱が起きません。「信西どのに仇なす者は、六波羅を相手にすると心得よ」

かっこいいですね。でも、乱は起きません。それじゃ困る。だから清盛を、友だち甲斐のないぼんくらとして描く必要があった。

だから彼は「後の祭り」で泣いてばかりいる。それが武士だからという理由で学問所へ入れてもらえなかったとか、いじめられて追い出されたという話なら、現代人も「こんな差別は許されない」という気分になる。

でも、彼は単に彼自身の怠け心のせいで、政治についても経済についても和歌についても勉強しなかったから、周囲の動きに気づかなかったわけです。

和歌は当時の政治家の必須教養だったわけですから、有名な先生に弟子入りして人脈を作っておけば「誰々の動きに気をつけなさい」と耳打ちしてくれた人があったかもしれない。歌に暗喩を込めて届けてくれたかもしれない。

現代のビジネスマンは、実際にワインでも、オペラでも、将棋でも、人脈作りに利用しているはずです。

それがどうしても苦手なら、いっそ「宮中の出世などくだらん」と言い捨てて、僻地へ走り、そこで独立国を築いてもよい。それこそ風雲児らしいと言えます。

でも、それじゃもちろん秀衡とかぶる。当然、史実とは異なる。八方ふさがりです。

これ、男性の口から指摘すると「女が喜ぶドラマの何が悪いんですか(怒)」ってなるので言いにくいのですが、やっぱり「男の友情萌え~~」だけではドラマはできない。

「火のないところに煙を立て」た挙句に、本当に燃やすべき竈に火をつけることができなかったわけです。

同情票はあるのです。大きな災害があったので、制作陣の心も「自分はなんのために生きているのか、ドラマやってていいのか、自分の本当の居場所はどこだろう」というふうに揺れたはずなのです。

でも、それにしても男が泣いているだけでは、ビジネスマンとしても、武将としても、ドラマにならない。

勉強もせず、周囲に鈍感で、ぐずでのろまな亀が泣いてばかりいたのに、兎丸に助けられて貿易だけは成功したとなれば……

兎丸というのは番組オリジナルですから、脚本家の自作自演ということになります。

加藤は上背も眼力もあり、声も個性的で、良い役者だと思いますが、兎丸というキャラクターは視聴者に愛されなかった。

影の形に沿うように、偉大な男から愛された男。正妻の陰にあって、彼女よりも信頼された男。手をたずさえて、せまい日本を捨てていく人生のパートナー。

事件の陰に女ありとは言いますが、これは男性キャラクターの陰に女心あり、です。

じつは番組開始前に、確かNHK広島が制作した特番があって、そこでは時子の宮中における人脈と、後宮でふるった辣腕を称賛していました。

確かにあまり政治的な機転の利いた男ではなかったらしき清盛が成功できたのは、彼女の根まわしあってのことだったという結論でした。

これをドラマで再現し、清盛に「俺の人生は時子あってこそだ」と言わせれば、夫婦和合と女性の活躍を描くことの一石二鳥です。

女性の活躍は後宮という伝統的な場所に閉じ込められているとはいえ……

そこで悲劇しか味わわなかった中宮たちに比べて、より低い階級の女の強さ・賢さを描くこともできたでしょう。

長くなりましたが、要するに「同人は青田」であるのに、プロ創作家の同人的センスが、一般社会では通用しない。

これは、現代創作界が抱える一つの難問かもしれません。


2015/07/19

【時代劇の不調、創作の背景。】


キモノを着た人が大勢出てくる昔の話だから見ていられない、というわけではないです。

『武士の家計簿』などのヒットがあるわけですし、テレビ番組で「現代と同じ便利グッズが江戸時代にも存在した!」なんてやってるのは、あるていど人気があるはずです。

若い人だって、自分のルーツを確認したい心はあるはずで、ネットによる国際化の加速もあって、外国へ誇れる日本の伝統という話は、いま強く求められているはずです。

だから時代劇の問題は、たんに昔の話だからじゃなくて、その「腕力で問題を解決する」というテレビ的ステロタイプが共感を得なくなったこと、さらに「主君のために命を捨てる、主君の命令には絶対服従で切腹も当然」という価値観が理解されないからでしょう。

また、これは理解されないほうが良いとも言えます。ノーと言える日本人を作るためには「絶対服従ばんざい」と放映し続けるわけにはいかない。

逆に「絶対服従ゆえの悲劇」を強調すれば、最終的には「自分勝手なバカ殿様の出てくる話なんて不愉快で見たくない」という拒否反応を起こすでしょう。

「義理と人情、はかりにかけりゃ」で泣けるのは、自分自身が同じプレッシャーを感じている人です。日本人たる者、そのように生きなければならないと思う時だけ、悲壮感と自己陶酔が生まれるのです。

でも、頭の硬いワンマン上司なんて要らない、言葉の掛けかたを工夫して部下を生かす時代だというハウツー本が連発される時代に、武士の美学は通用しません。

この国は、ずーーっと武士の美学でやってきたのです。軍閥の元が幕藩時代の武士だったことは言うまでもありません。旧軍隊の司令官クラスには、士族出身者が大勢いたのです。国家存亡の大事に当たって、彼らが作戦にしろ、人材登用にせよ、適材適所ということができなかったのは残念ながら明白です。

外人さんが「サムライ、ビューティフル」と言ってくださるのは有難いし、日本刀およびそれを構えた姿は美しいけれども、そもそも武士であるってそんなに良いことなのか? 

どうもそうじゃなさそうだっていうふうに底が割れてしまった。

日本人が「ノー」と言ったのです。それはそれで喜ばしいことのはずです。

ふと思い出すと、そういう社会的背景があるときに、トップダウン式に「武士は一蓮托生!」って叫ぶドラマは、やっぱり無理だったかもしれない。

武士であるとは、当時にあっては貴族から差別されるということだった。じゃあ現代人にとっては? 

今の時代に武士のドラマを見る意味は? 


2015/07/18

【ジャズは見るよりやるほうが面白い。】


ミンガスのCDが書店で安くなっていたので買ってきました。

1964年・西ドイツライブの2枚目。ドルフィーがポリフォニーとしても崩壊寸前というほど熱いです。

LP未収録、23分に及ぶ新発見テイク『ソー・ロング・エリック』が異様です。

序盤からアルトがかっ飛ばしてます。中盤はいったんテンポを落として、ネチっこく続くピアノとベースに息が詰まります。そしてどうかしちゃった感じのサックスの共演(というか決闘)、急激にテンポを上げるドラム、不安を掻き立てるベース。これはどう考えても民族というか民俗が背景にあるのだろうと思います。

血に飢えた異教の儀式かのように混濁した騒音の中から一瞬鳴り響くリムスキー・コルサコフ(『ストレンジャー・イン・パラダイス』のテーマ)が印象的。

それがまた韃靼の地平線を越えて独り言をいいながら無限の彼方へ行っちゃうわけですが……行った先でまたチャールズおじさんとダニーおじさんが勝手なおしゃべりしてます。enja、ENJ-1006。発売元クラウンレコード。

ビッグバンドによるタンゴとスウィングを楽しんでいた戦間期を覚えている人々は、ある日サックスがパラパラパラパラ始めてしまった時「ふざけるな」と思ったかもしれません。

ジャズ(の一流派)における管楽器の独り言は、どう聞いても上品とは言えません。なまりのある英語をそのまま再現したものでしょうし、激した演説のようでもあれば、シャーマンが伝える怒れる霊の声のようでもあります。

その重複が混濁した不協和音は、けんか祭りか戦闘の喧騒でしょう。

聞いた人の中には「暴力的」とか「気持ち悪い」とか思った人もいたかもしれません。「お下品」と思った人は、確実にいたでしょう。

日本人は「黒人ミュージシャンってかっこいいなァ」と思いますけれども、アメリカ社会では決して「もともと憧れられている」といえる人々ではなかったでしょう。

それが白人の指揮するビッグバンドから独立を志向したと考えることもできそうです。キング牧師が斃れたのは1968年。この頃のハードバップが桁違いに熱いのも、人権意識・民族意識の高まりが背景にあったのかもしれません。

それでも熱すぎて本当に騒音になってしまわないのは、じつは教養があるからで、西欧の行き着いた先をきちんと踏襲するとともに、それを茶化しているようでもあります。

「インプロヴィゼイションが分からない」という声は昔からあるわけですが、自由を求めたと考えれば、混乱しているのは当たり前で、分からないほうがまともという気もいたします。

本当のところ、分かる人というのは、自分でもやる人だけなんじゃないかとも思います。

かつてのビッグバンドのメンバーも、同じ楽器の担当者ほど、ギクッとしたでしょう。

それがまたハーモニーを重視するフュージョンやハードロックを生んでいったのはどういうわけか。

4曲目までの音源のLP化(1981年)の際の岩浪洋三による日本語版ライナーノーツには、ドルフィーとコルトレーンが相次いで急死した後、同レベル以上のアドリブを展開させられる天才がいなかったので集団化し、フュージョンになったとあります……が、そんな消去法でもないだろうって気もします。

フュージョンにはフュージョンの音、ハードロックにはハードロックとして調和した音があるわけで……

混濁を極めたから、またそれに対して調和した音が「新しい」と感じられたのかもしれません。

なお、「見るよりやるほうが面白い」とは観世流二十六世の名台詞 名言です。テレビで言ってました。

能楽の海外公演では、パリのジャズメンが真っ青になったって話があって、確かにあの少数精鋭による打楽器と掛け声のポリフォニーは、洋楽に詳しい人ほど「なんだこれ!?」ってなるだろうと思います。

DTMやる人も、珍しいリズムの例として聴いてみるといいです。「まじでヤバイ」と思ったら、弟子入りしてあげて下さい。人手不足です。

なお、彼らはアドリブではないのだそうで、仲間になるには細かい「手」を覚えなければなりません。

情報公開はありがたいことで、詳細な研究成果が書籍やCDになっています。

でも、どちらも一般客として聴く分には、専門用語を知らなくてもいいし、楽典やコード表とにらめっこしながら聴くこともないでしょうし、分かろうと思わなくても「乗る」だけでいいんだろうと思います。

(追記: シテ方観世流二十六世宗家の言葉は台詞ではないので訂正しました。)


2015/07/18

【親から独立したければ。】


看護の勉強をして、寮に入るといいです。

そうではないなら、ひきつづきお母さんにご飯を作ってもらい、アイロンを掛けてもらいたいということです。

でも、お母さんはあなたの奴隷ではありません。

もし、お母さんの人生が悲惨なものに見えるなら、あなた自身がお母さんをこき使っているからです。

もし「母親が愛する家族のためにがんばるのは当たり前」と思っているなら、愛の名のもとに女性を利用しているのは、あなた自身です。

なお、男性同士が養子を取って、本物のパパ・ママになることを妨害しているのは、「形だけ真似するな」というストレート社会自身です。

女性の不遇をかこつタイプの「フェミニズム」が、棚上げ感に満ちているのは否めません。

少なくとも、女性がBLを選択すれば、責任のがれができるかのような言説は不適切です。無思慮な模倣者を生むだけです。

「真似する男がいると困るから、あれを描くな、これを描くな」というのであれば、女性(の一部)も創作物の選択を他人のせいにするべきではありません。


2015/07/18

【防衛力とは。】


萩尾望都『11人いる!』の続編に、宇宙大学が防衛力を有していて、他の惑星国家からの学生ひき渡し要求をつっぱねるという場面がありました。あれはカッコよかった、石頭。

『ハリー・ポッター』も生徒みずから戦うですね。最も安全であるべき学校を襲うヴォルデモート卿は最低に悪い奴です。

『もののけ姫』でもやっていたように、どこかの都市国家が皇帝の権力から自由であるということは、皇帝の代理が軍隊を率いて「税金払えゴルァ」と言ってきたら、追い払うことができるということです。

でも傭兵を使うとどうなるかは、歴史が証明しています。

だから防衛力を持つということは、自国民の若いのが一杯いるということです。

だから小林よしのり等を読んで「個人は公のために“ひらく”べきだ」と思った人は、まずは息子を作りましょうってことになります。

世界第三位の防衛力と言われた自衛隊も定員割れしているそうですから、急を要します。

女子も衛生・航法・作戦立案など、あまり腕力を要しない分野で活躍できます。主計は大鍋を運ぶ必要があるかもしれないので、意外に男の職場かもしれません。

電子化された航空機の操縦は、腕力を要しないような気がしますが、音速では巨大なGがかかるので、頭部の自重を支えるために筋力が必要だそうです。現役女性パイロットはすごいです。

子どもの人数は確実に減っていくので、その中からまず「防衛力」を確保することが必要になります。

その上で、外交と行政が滞らないように公務員候補を確保し、その上で一般空港・港湾・鉄道・道路の維持管理のために技術者と職人を確保し、一般人の健康を維持または回復するために医師と看護師を確保し、あわせて農林水産業と貿易業に携わる人材を確保し、娯楽産業はその後です。

息子・娘へ「コンテンツ産業にはあまり憧れすぎないように」とよく言っておきましょう。

その上で、自分自身が地元消防団・青年団・婦人会などに所属して、自主防災の責任者となるのが「公のため」です。


2015/07/18

【夢を実現するために。】


必要なものは、本物の才能です。

そして、実際の原稿です。

「又吉さんみたいにフラッシュを浴びながらインタビューに答える自分という夢」ではありません。

一回も少女漫画を投稿したことのない人は、少女漫画家になれません。

一回も小説を完成させたことのない人は、小説家になれません。

自費出版だけで食っていくには、年に数回のイベントで一年分の生活費と税金、すなわち数百万円を稼がなければなりません。それを五十年間続けなければなりません。

自分自身が歳を取り、自分よりも若いスタッフが作るアニメの感性について行けなくなっても、です。



2015/07/17

ロシアン・コンテンポラリーの雄、Meladze。


先日バドイェフ監督『オレンジラブ』の感想を挙げた時にご紹介した音楽ビデオで歌ってた人。他の楽曲も音楽性が気持ち良いので改めてご紹介してしまおうと思います。もし既に日本でもひじょうに有名だったらごめんなさい。

Valeriy Meladze(Валерий Меладзе)。グルジア人男性歌手。1965年6月、バトゥミ生まれの50歳。おっさんな外見と若い声のギャップが魅力的です。

本当に若い頃はメタル気味のハイトーンボイスだったようですが、年くってセクシーさが増しました。

1994年から本格的に活躍を始めた遅咲きで、曲調はハードロック寄りのフュージョン……かな? 1990年代後半にしては、やや懐かしいような雰囲気です。歌詞は思索的ながらも、基本的に同じフレーズを繰り返すことで酩酊感を生むダンス音楽だと思いますが、シャウトも決まります。

Honored Artist of the Russian Federation(2006)、People's artist of Chechnya。

ロシアでは'00年代に何度も受賞したビッグネームらしいです。こういうのはロシアン・ドリームっていうんでしょうか。しかも芸名をロシア風に変えないかと言われて断った硬骨漢。

たいへんなヒットメーカーですが、全ての楽曲を2歳年上のお兄さんが提供しているそうです。こちらの受賞暦もすごいです。ふつうに電子楽器も使ってるんですが、哀愁を帯びた民族調のメロディーと、ジャズ、ラテン、レゲエなどの要素を取り入れた分厚い編曲が魅力です。プログレッシブな気もする。

弟のほうは、ステージ衣装はダークスーツ一択だそうです。PVを拝見するに、1960年代の西側的スパイ映画のダンディズムに憧れがあるようで、そのへんも嬉しいです。

祖父母の代からエンジニアという家庭が生んだ異色の兄弟船。

子どもの頃はおとなしかったという兄ちゃんが、切迫感に満ちた曲を作ると、やんちゃだった弟がメロウな声で歌い上げるわけです。いいコンビです。

ヴァレリー本人は子どもの頃にピアノを習ったけれども、あまり勉強熱心ではなく、青年時代は本当に造船技術を学んでいたというから開いた口が塞がりません。

初めて出した私家版アルバムが大物プロデューサーの耳に留まったという幸運なすべり出しだったようです。

(以上、バイオグラフィーは公式サイトと英語版ウィキペさんから。)

個人的に、本当に最近になって知りました。他の流れで確認したロシアン・コンテンポラリーのヒットチャートで、最高に耳に残ったのです。『White Bird』

男女の心の痛みを鮮やかに表現する熟練のPVは、もう一人のウクライナ監督Serёja Tkachenkoの作品。(こちらのバイオグラフィーは見つからないです。)

アラン・バドイェフとともに、モダンダンスに関心があるようで、追っかけると興味深い映像を拝見できます。リヒテルを輩出した国は芸術性高いです。

なお、ヴァレリーは、PVでは常に自分の年齢の半分くらいの美女と共演しています。うらやましい(何)

個人的に、ポップス部分の基礎はデヴィッド・カヴァーデール愛で出来てるんですが、あちらはアメリカへ進出してから音楽性が若くなる一方だったので……。アンプラグドは良かったです。


(追記:音楽に○○向けってことはないので、聴き手の年齢に関わる文章を削除しました。)

2015/07/17

【地方自治体が無くなるということは。】


上京してくる若者がいなくなるということです。

つまり、東京に住んでいる人が自分で次世代を生み出さないことには、モノを作っても買ってくれる人がいなくなります。

うすい本を一生懸命描いても、読んでくれる人がいません。あとは同世代へ布教あるのみ。

でも、その頃に一番人口の多い世代は今の四十代で、六十五歳以上の高齢者ということになっているわけですが、年金をいっぱいもらってウハウハという訳には行きそうもありません。

熱帯化も止まりそうにないので、その年齢で行列することは危険です。あとたぶん、紙そのものを取りあつかう職人がいなくなります。

市販雑誌は「いま買うと、もれなくデジタル版がついてくる」ということになってしまいましたが……

同人誌というものも、ダウンロード販売に移っていくのでしょう。全地球的に表現の自由を訴えて参りましょう。

ただし、海外の人が自分で描くことも日を追って増えるので、競争は激化します。

ルネサンスの蓄積を目の当たりに見て育つ人々の表現力は半端ないので、極東の人は頑張りましょう。



2015/07/17

【会田と田亀。】


ハイアートがサブカルを要素として取り込んでおいて、批判されると漫画を言い訳にするのは不愉快きわまる。

会田誠の展覧会が物議をかもした時に田亀源五郎が言ったことが、正鵠を射ていると思います。

この場合のハイアートとは、特権的な富裕層が支える文化とか、一般に「高級」と見なされる美術品とか、そういう意味です。

田亀は逆にサブカルへアカデミックな技術(ルネサンス的な正確な人体表現)を取り込んだ人ですが、それがかえってアカデミズムを刺激し、批判を生む恐れがあるのも承知で、つねに背水の陣を張っているわけです。

ただし、会田自身はあれこれ言い訳をしなかったと思います。したのは美術館だったはずです。

会田の作品が幾らで取引されるものか存じ上げませんけれども、希少性の高い作品ですから、一万円ポッキリってこともないはずで、彼自身はその作品を愛好する御仁へ直接売ってやることで、一度に数十万・数百万円(ドル?)を受け取ることができ、生活には困らないはずです。

熱心な愛好家だけで組織される品評会や専門店というものは、どこの業界にもあるわけで、その内部でだけ廻っていてもよかった作品を、広く一般に公開して、入場料という利益を得ようとしたのは美術館です。だから問題になるのは美術館の態度ということになります。

ゾーニングすれば大丈夫だと思うなら徹底的にやればよかったことです。営利行為の防衛策として「表現の自由」を盾に取るなら、それを徹底すればよかったことです。

森アーツも、最初は「自由」と言っていたはずですが、途中で変節したのが残念だったのです。たぶん批判の強さに耐えかねたということだったのでしょう。

でも正式に告訴されたわけでもなく、「事件の犯人」でもありませんし、たとえ事件の犯人であってさえも、人権が守られる措置は取られています。

それに対して、私的制裁を加える社会のほうは、どうなのか。憲法と法律に違反していないと言えるのか。

これについて法律家に尋ねれば、おそらく興味深い答えが返ってくるでしょう。彼らは遵法精神の味方であって、興奮した一般市民の味方ではありません。

だから「厳密に」考えていけばいくほど、事態は沈静化していくということがあります。だからこそ、最初からあまり興奮しないのが「大人の対応」と言うのでしょう。

大人になるということは、ずるいことをするという意味ではないですし、合理的であるということは「筋が通る」ことであって、打算的であるという意味ではないです。



2015/07/17

【村上等身大フィギュアの皮肉。】


あれって、同人のセンスがアカデミズムに認められたんじゃなくて……

「同人って奴らは、こういうのが好きなんだよな?」と、からかわれてるんですよね?

「こういう美少年や美少女が実在すればいいなと本気で思ってる奴らだよな?」ってことですよね?

同人作品(なかんずくエロティックな二次創作)を含めた日本の「サブカル」全体が、そのステレオタイプを強調することで、特権的社会から「あるある~~」というふうに笑いものにされてるんですよね?

だから「幼稚な欲望に満ちた現代社会の恥部的文化を、その代表的な発信国のアーティストが勇気をもって象徴表現した」ということで、芸術認定になるわけです。

たぶん、マリリン・モンローの顔や有名ブランド缶詰の絵を何回も刷ったものを並べて「複製され続ける幻影に過ぎないのに、こんなものが好きなのが現代だよ」って表現するのと同じです。

本当にアニメのファンなら、宮崎アニメの原画を欲しがるはずであって、実際には何のアニメ映画のキャラクターでもないものに投資的価値だけを認めるはずはありません。

あれは、あくまで「村上の作品」です。同人にケンカ売る覚悟で勝負かけた芸術家の作品です。

そこまで分かった上で、自分で笑えるのが同人センスではありますから、ここは狐と狸の化かし合いでいいんですが……

メディアおよび一般社会(政府・企業)は、迂闊に「日本のアニメが世界に認められた」というふうに考えないほうが良いと思います。



2015/07/17

【真顔で主張する時代。】


本当は少女漫画家になりたかったのに、絵の練習をしないで、エロ小説ばかり書いていた。出版社へ少女漫画を投稿したことは一回もないが、少年漫画の編集部に権利問題で便宜を図ってもらったことはある。それはお母さんがトラウマだからだ。

いわゆる同人(の一部)の言い訳をつないで行くと、「自分が何を言っているのか分かっているのか?」という話になります。

「山なし落ちなし」という言葉を真に受けて、行き当たりばったりに刺激的な場面ばかり書いていた(読んでいた)ので、筋道立てて考える習慣が育たなかった。

だから長い物語をまかされても、先を見越して書いていくことができない。もちろん推理小説を上梓することはできない。

代わりに、世間に流布するトラウマ説だけは取り込んでしまう。

だから「親に愛されなかったからグレてしまった」という激情の表現だけはうまいが、政治と経済の流れが分かっていない。

自国民を含めた世界の大人を納得させる脚本を書けないので、だんだん見放されていく。そもそも、抜きん出ることができない。いつまで立っても「サブカル」と言われ続ける。

いわゆる同人界は、青田といいながら、そういう心性を育んでしまった部分はあります。

これを「フェミニズム」が弁護するつもりで、訳の分からないことを言うなら、ある意味で整合性があると皮肉を言ってやることもできます。

もとを正すと、政治家でさえ海外記者が真っ青になるようなことを言ってしまう日本社会全体の問題ということなのかもしれません。

その意味では「男性中心社会が悪い」ということもできるのかもしれません。

でも、男性にも見識の高い人がいますし、海外や国内の異民族・他宗教と深く交流している人もいますし、正しい言葉遣いのできる人もいます。

できない人自身が、つまり「みんな同じ日本人だから、お約束で笑ってくれる」という島国性を抱えているだけです。

男性社会の悪いところだけ取り上げて、自分の言い訳にしている。

「フェミニズム」にはそういうところがありますし、同人界は日本の若者の甘えの象徴の一つという要素があります。

だから即売会なんて閉鎖したほうがいい……究極的には、そういう話が出てくることになります。それを防ぐには、「本当はやりたくなかったけど、編集部がいいって言ってくれたから」という言い訳ではなく、「何を描くにも、どのように生きるにも、自由な選択の権利があります」と真顔で言っていく必要がある。そういう時代だと思います。



2015/07/16

【自称フェミニズムの限界。】


誰かが家事を担当しなければならないことは分かっている。

誰かが学校の制服にアイロンを掛けてくれなければ、自分が恥をかくことは分かっている。

母親が仕事と家事の両立に苦労していることに気づいたなら、まずは自分が手伝えば良い。

「アイロンは私が掛けるけど、料理はお母さんのほうが上手だからお任せするわ」と自分から役割分担を申し出れば良い。

「お父さん・お兄ちゃんも自分のことは自分でやりなさいよ」と言えば良い。

でも、実際には自分がリーダーシップを発揮することは全く考えず、シャドウワークは女の仕事だと認めた上で、いかに課役から逃れるか? ということばかり考えている。

これは奴隷の発想です。本当は革命を志向していない。

せまい日本を「住めば都」に変えていくのではなく、いかに壁を越えて逃れるか? と考えるが、英語ができないので海外へ行けない。

だから「トランス」ということに憧れる。国内で「性転換」できればよいと考える。

でも「性転換」したトランスゲイ同士が結婚した場合には、どちらかが家事を担当することになる。あるいは分担することになる。

男だから、ゲイだから家事をしなくて良いということにはならないことには気づかない。

このへんが、1980~90年代頃の自称フェミニズムの限界だったかと思われます。


2015/07/16

【非専門家による混乱。】


やおい論というものは、最初から話がおかしい。

原因の一つは「なぜ若い娘さん達が『風と木の詩』のような漫画に夢中になるのですか?」と訊かれて……

「ああいう“やおい”という漫画は、男性中心社会を代理する母親がトラウマになった娘のものだからですよ」と答えたことでしょう。

プロ漫画家と、アマチュア二次創作者が、互いに混同を避けて呼び分けたものが、分析者によって混同されたのです。

歴史のどこかで、同人界の(権利問題をふくむ)本当の事情を知らない人によって用語の混同が起きたのを、学者たる者が批判なく継承したからです。

でもこれでは、嫁入りを避け、漫画を描く才能によって独立を果たした人の中にも、少女漫画だけ描く人がいることが説明できない。

また、未成年者が母親の協力のもとに同人活動していた可能性があるのに、説明できない。

なぜ、このような混乱が起こるのか。

トラウマ説を持ち出した人自身が、精神医学の専門家ではないからです。

本当は専門家ほど、人前で専門用語を使いません。素人さんに誤解されたり、真似されたりすることを避けたいからです。

また、患者個々の症例を、うかつに社会全体に適用することはしません。

やおい論者自身がチューボーだから、「私のような大人の顔をした子どもには、やおいが必要です」というわけです。

でも、同人誌即売会参加者の現実を捉えきれていない。

そのことに自分で気づかない。または、気づいていて、ごまかしている。

これは、少なくとも学者の態度として不適切です。また、学者になりたいゼミ生の態度としても不適切です。

西暦2000年頃のゼミ生(の一部)は、今では30代の助教か講師になっているはずですが、当時と同じ発想で「大学で性的創作物を読みましょう」というなら不適切です。

また、入学まもない教養生がBLを知っている・持っていることを前提にしているなら、事実上、高校生の内から読んでいたことを認めていることになります。

であれば、年齢制限の話には、断固反対しなければなりません。

日本の学者は、嘘または勘違いを前提に話をすすめてしまうことがある。理研の件は、他人事ではありません。

なお、もと理研の彼女は、二百回も実験に成功したのに、その記録を一回も取っていない時点で、自然科学者失格です。

もし彼女にやり直しの機会を与えるのであれば、大学へ入り直すことを許可し、受け入れた大学側は「実験の記録を取りましょう」という基礎の基礎を教える必要があるでしょう。

自称社会学者には「用語の定義を確認しましょう」と教え直す必要があったのかもしれません。


2015/07/15

【あと弔ひ給へ、御僧よ。】


「学校の怪談」などの怖い話を読むと、「誰か坊さん呼んでやれよ」と思います。

とくに「昔ここで事故があって」とか「戦争で大勢の人がなくなって」なんて話の時はですね。

また、トイレや体育館の物置に子どもの霊が出るというのは、もう明らかにイジメが関わっているでしょう。

宗派にもよるのかもしれませんが、お線香をあげるのは、お経をあげてもらって、なくなった人が“ほとけ様”になってからなのだそうです。まずはプロを呼びましょう。

今では托鉢僧を見かけることも少ないので、旅の坊さんが哀れに感じて経をあげてくれたということもないのかもしれませんが……

霊の話を聞いて「こわ~~い」で終わりにするのも、やや寂しいような気が致します。

できれば、祠や記念碑を立てて、まつってあげると良いです。歌を作って慰めてあげるのも良いでしょう。

「たたりがあった」という昔話の多くは、そのように終わっているものです。

『七里ガ浜哀歌』というのは、ボートの転覆事故でなくなった少年たちと、遺族の無念を忘れないための歌です。

忘れないということは、繰り返し思い出すということであり、故人を思い出すということは、思い出す度に「手を合わせる」ということです。

能楽の物語も、単なるフィクションではなく、千年前に実際にころされた人や、つらい思いをした女性がいたわけです。

白洲正子の言うように、世阿弥は若い頃に恥辱を受けたのかもしれませんが、彼が作劇の中心に少年美を据えたなら、かつての自分自身に向かって「お前は誰にも汚されていないんだよ。世界で一番美しいままなんだよ」と言ってやりたかったのでしょう。

アダルトチルドレンというのも、生きる気力をなくした子どもが心の物置の片隅に座り込んで「許さない、許さない」と繰り返しているのかもしれません。

祈る、というのは、よくよく考えると気分転換の方法を教えています。

祈りましょうと言われて、それを受け入れた人はどうするか。

項垂れていたのが姿勢を正し、深呼吸して胸の空気を入れ替え、上を向いて大きな声で歌ったり、念仏を唱えたりするでしょう。他人と唱和することで「独りじゃない」という気持ちを新たにするでしょう。

香をたいたり、花をかざったりするのも、それが気持ちを引き立てたり、内面に注目しすぎることから意識を逸らすことに有効だからでしょう。

修行と称して歩くことは、脳を活性化し、思考を整理することを促進するでしょう。

修行と称して掃除をしたり、病者の世話をしたりするのは、「いいことをした後は気持ちが良い」ということなのでしょう。

怪談に戻れば、学校をあげて、霊を慰めるためのお祭りを開くと良いのかもしれません。


2015/07/15

【家事は女の仕事だと女性自身が認めていることもある。】


「仕事で忙しいので、娘に家事を手伝うように言ったら『お兄ちゃんには言わないから差別だ』と口答えしたので喧嘩になった。ほとほと疲れている」

という新聞投書があったのです。

なぜ、お母様は「じゃお兄ちゃんも手伝いなさい」と言わないのか。

なぜ娘さんは「お父さんが手伝ってやればいいじゃない」と言わないのか。

「娘が口答えしたこと自体が許せない」というのとは、また別の問題を抱えたご家庭ということになります。


2015/07/14

詐称少女による混乱。

「やおい」と呼ばれた創作物のかかえる問題点は、ふたつ。

それによって未成年者が性的創作物にアクセスしやすくなったこと。権利問題をはらんでいること。

これらをフェミニズムの名において弁護するのであれば、「未成年女性には性的創作物が必要です」および「未成年女性は法律を守らなくても良いのです」と言ったことになります。

その理由は、男性中心社会が横暴だからだそうです。

でも、今ごろになって「自分がこんなことになったのは、やおいのせいだ」と恨む人がいるならば……

たぶん、気づいた時点で未成年者の行動だけを直ちに規制すれば良かったのです。

大人が明白に禁じたことに未成年者が手を出して、人生が変わったと嘆くならば、自分のせいです。

例えばの話、スピード違反で事故を起こしておいて、「うちはお母さんがトラウマだから」と言っても、ダメなもんはダメだと思います。

18歳以上の成人になれば、たとえ告訴されても自己責任です。自分自身が裁判所へ出廷すればよろしいです。あとは原作者(と弁護士の腕)しだいで、親も編集部も関係ありません。

これで話がスッキリします。

逆に言えば、昔の人(の一部)はスッキリさせたくなかったのです。

でも、例えば自分がお酒を好きだからという理由で、未成年者が飲酒することを弁護することは、「表現の自由」ですから言うだけは言ってもいいですが認められないでしょう。

同様に、自分自身が「やおい」と呼ばれた創作物を好きだからという理由で、大人の女性が「やおい少女」と呼ばれた(または自分で名づけた)未成年者を弁護するべきではなかったのです。

たぶん。



2015/07/14

言い訳が対応を生むと、かえって困ることもあります。

「やおい」と呼ばれた創作物に関する議論が混乱した原因は、それを「BLであることを意味する言葉だ」と勘違いしたことにあります。

本当は「やおい」と呼ばれた創作物の本質は、二次創作であることです。

同じBLと呼ばれる分類でも、プロが書いたオリジナル作品はそんなふうに呼ばないことから分かります。

だから「なぜこんな気持ち悪いものを書くんだ!?」という疑問の本質は「なぜ俺の好きなキャラクターを勝手に利用するんだ!?」です。

疑問を発する人が女性であっても同様です。彼女は原作ファンの男性におもねっているのではなく、自分自身の好きなキャラクターが性暴力を受けたことにされたくないのです。

これに対して、母親トラウマ説を唱えるなら「傷つけられて育った子どもは、他人のいやがることをしてもよい」という意味を持ちます。

だったら「そういうことを繰り返さないためには、子どもを傷つけずに育てましょう。そうすれば、やおいと呼ばれる創作物は二度と生まれてこなくなります」という取引を持ちかけたことになります。

だったら、社会は「女性手帳を配布して、母親になる前の若い女性をよく教育しましょう。女性は正しい心で生活し、育児に全責任を持ちましょう。即売会は閉鎖が望ましいです」と呼びかけることになります。

それが、フェミニズムが社会に望んだ対応ということになります。

そういう話になることを避けるために、本当は二次創作であることに気づいていながら黙っていたというなら、学者の態度として不適切です。

なんとなく世間の皆さんがBLのことだと思っているから、自分もそうだと思って、よく確認しなかったというのであれば、同様に不適切です。


2015/07/14

【寄らば大樹の陰の女の時代。】


憲法とは恣意的・暴力的になりやすい国家(政府)に対して国民の権利を保障するものであり、法律とは国家(政府)が強権をもって国民の権利を制限するものです。

最後の最後でどっちを優先するかというと、憲法であるべきです。

もし二次創作について自分で責任とるつもりなら……

相手が裁判長だろうが、一般市民だろうが、国会だろうが、国際社会だろうが、「二次創作も憲法が保障している表現の自由の内じゃないですか。法律のほうがおかしいんですよ」と言ってやればよろしいです。シレッとしていればいいです。

通用するかどうかは分かりませんが、そのように主張することはできます。それこそ表現の自由です。

女流プロ漫画家は、自分と同じようにオリジナル少女漫画をきちんと描くことから修行を開始せずに、他人を利用する後輩を許すはずがありません。

でも男流は黙っている。だから利用させてもらう。

「自分で努力しなさい」という厳しいお母さんやお姉さんの裏をかいて、男性を「うまく」利用したつもりであれば、ほしかったアクセサリーをプレゼントさせたというのと同じです。

これは確かに「男など必要ない」というラディカルフェミニズムではありません。男性という大樹の陰で、彼らが落とした果実を拾っている状態です。

でも、そう考えれば「これからは女の時代よ。男なんか目じゃないわ」と言った舌の根も乾かない内から「編集部が気を利かしてくれた」と言い訳することも、理屈は通っていることになります。

この場合の「女の時代」とは、女の都合を優先し、男に黙って協力させる時代、という意味だからです。

フェミニズムすなわち女性主義をそのように捉えれば、これは確かにフェミニズムです。

なるほど「アッシー、メッシー」と言われた時代に盛んになったのも頷ける。

また男性パティシェをもてはやす「スイーツ(笑)」と印象が近いという指摘にも一理ある。このへんは「男の勘」は鋭い、といったところでしょう。

であってみれば(人によっては)本当は結婚したかったという愚痴も生まれてくる。「でもお母さんがトラウマで」という言い訳も生まれてくる。

これを、本当に実力で独立できた人から見れば「実力が足りなくて独立できない可哀想な娘たち」という感想になるのも無理はない。

一部の女流作家や社会学者が「ああいう子は仕方ないんですよ」という言い方をしたのも無理はない。

問題は、それを第三者が鵜呑みにしたことです。

観察者の立場によって感想が違うだけなのに、実態を確かめずに「可哀想な子」と言われて「ああ、可哀想な子か」と思ったから……

それにしちゃ勢いがある。続々とプロデビューを輩出している。売上高としても無視できない。どうも可哀想らしく見えない。話がおかしい。分析と現実が食い違っているという印象になるわけです。

こと「やおい」に関しては、話をごまかしたまま進めてしまった日本の社会学者、なかんずくフェミニズムは、ろくな仕事ができないことを露呈してしまったんではないかな、と思います。


2015/07/14

【トランスが簡単に手術できない訳。】


漫画を読んだだけでその気になった人が、後になって「やっぱり自分の子どもが欲しかった」とか言い出すのを避けるためです。

医者にしてみりゃ「あの時もっと丁寧に診察してくれれば、早まらなくて済んだのに」などと逆恨みで告訴される恐れもあります。

トランス男性にしてみりゃ「そういう勘違い女のせいで俺の人生が足止めされるのは不愉快きわまる。代わりに診察代払え」ぐらいのことは言いたいはずです。

さらに背景にあるのは、一人でも多くの女性に「いい子」を産んでもらいたいという優生学の発想なので、女性が男性になる(まだ若い卵巣・子宮を切除する)ことは、かなりハードルが高いことになります。

トランスにしてみりゃ「自認に問題のない女はさっさと産めばいいだろ!?」と思うはずです。

だから彼らは、口先で「心は男」と言ったり、「男に生まれれば良かった」と言ったりする女性を毛嫌いしていると思えばいいです。

とくに、BLを読んだだけで男になったつもりの女性、さらに彼らを「結婚に失敗した女の子の仲間だ」と思ってお友達になりたがる女性を、心底から嫌っていると思えばいいです。

ここは、かなりシビアに考えておくといいです。




2015/07/14

【手描き原稿が暗示する、やおい論の矛盾。】


手描き時代の漫画原稿というものは、インク(墨汁)を乾かす必要があるので、部屋いっぱいに広げておいたものでした。

パソコンがなかった時代のフルカラー同人誌というものも、どう考えても手彩色です。まさに職人技。

それが一室を占領していたり、手伝いの同級生が泊り込んだり、製本されたものが大量に郵送されてきたりするのを、専業主婦である母親がいっさい気づかないということは考えにくい。

つまり、自宅を拠点にしていた未成年同人の活動は、保護者の黙認または協力を得ていた可能性があります。

母親が外で働いている人で、自宅に残された子どもが何をしているのか全く気づいていなかった可能性もありますが、この場合は「働く母親が女性の自立に無理解だったので、娘のトラウマになった」とは言えないことになるでしょう。

この話は、親の知らないところで子どもが夜遊びしていたという話とは違うのです。

大学進学を機会に上京し、一人暮らししていた人なら、親の目を盗んで創作活動していたことになりますが、この場合は十八歳以上の成人なので、未成年者の性的・社会的逸脱とは言えません。

もし告訴・逮捕されても自己責任です。裁判の場で「表現の自由」を押し立てて闘うこともできます。

そもそも進学・上京させてもらえている時点で「女だから自由が阻害されている」とは言えない。

つまり「やおい論」というのは、最初から話がおかしい。

成人が風変わりな創作をする動機を確認したいのであれば、本人に礼儀正しいインタビューを行えばよろしいです。社会学者が身代わりになって、不良少女の心の闇を弁明してやる必要はありません。

本当に問題だったのは、自分自身の少女時代ばかり思い出していた社会学者またはそのゼミ生本人の心の闇だったのかもしれません。


2015/07/13

【女流メンズ漫画、ネオテニープライド。】


高口里純の漫画作品『伯爵とよばれた男』に印象的なエピソードがあって……

老いを感じ始めた大女優が「世間から忘れられる前に死にたい」というので、それまでいじめていた若手女優へ自分自身のサツガイを命令するのです。

自殺幇助としての嘱託殺人。

彼女の謎の急死は、大女優らしいドラマチックなものとして華々しく報じられ、記録と記憶に残りました。若手のほうは彼女の生前の推薦によって、次の主役の座を得て、新しい銀幕の女王となりました。

神と人をあざむく恐ろしい取引の全てに「伯爵とよばれた男」が気づいていて、黙っている。

これ、若手自身を主人公に「私は何ものをも恐れずに生きていく。それが女優の道」というふうに言わせて幕を引けば、レディコミになるんですが、伯爵あるがゆえに、分類不能な作品になります。

あえて言えば、少女を主人公にした漫画が少女漫画で、成人女性を主人公にした漫画がレディースコミックなら、成人男性を主人公にしているので、メンズコミックです。

でも、そういうと『ゴルゴ13』や『ルパン三世』の仲間みたいです。実際にはそうでもないので、不思議なカテゴリです。

テーマとしては男性タイトルロールの活躍ではなく、女性の生き様なんだけれども、女性である漫画家自身が、女性の生き様の観察者・伝記作者としての男性キャラクターを必要としているわけです。

読者は、カッコいい男性の眼を通じて「女性の人生は悲しいものだ」というふうに感得する。

これは女性の人生の客体化であり、「イメージ消費」です。

これは池田悦子原作『悪魔の花嫁』でも見られる構図です。

高口には、同じ構図で男性の弁護士を観察者とした『ホテル』という作品もあったと思います。

久掛彦見の初期にも、同様に男性キャラクターの眼から見た「女は怖い」という話がありました。

これは少女の意識ではありません。成人した女流漫画家・原作者自身の意識です。なぜか。

彼女たち自身は、女性として生きていないからです。

漫画を描いたり、原作を考えたりする才能によって、男性中心の出版業界から「お前さん見どころがあるよ」と認められ、一等兵に取り立てられた格好です。名誉男性です。

それが「二等兵って可哀想」というわけです。

女優は物語を構築する側ではなく、自分自身を見世物として、使い捨てにされる側です。

男を待ち続ける女、他人の財産によって生きようとする女も同様に悲しい存在とされます。

悲しいという以上、それを書いたり読んだりする人自身は「こうはなりたくない」と思うわけです。

つまり名誉男性のナルシシズム表現は「悲しい女」ではなく、「伯爵とよばれた男」、あるいは「人間にも神にもなれない男」です。

里純、彦見といったペンネームも男性的といえるでしょう。

ここまでは、だからどうだってことはありません。創作物が都合の良いナルシシズム表現であり、逃避の手段でもあることは、男性が書いた場合も同様です。

さァここで、フェミニズムは何を主張すべきか?

「全ての日本人女性を一等兵に取り立て、二等兵として移民を入れるべきです」?

それとも「女性自身の手で、二等兵をカッコ良く描くべきです」?

じつは後者の考え方を取れば、金髪グラマー女優に対して、ネオテニーの日本人女性のほうが美しいという、現状のAKB系統の大流行こそ、日本フェミニズムの勝利なのであって……

だからこそ「それに共感できないBL派(擬似男性ナルシシズム派)は可哀想」という考え方が生まれてくるわけです。

ウーマンリブと言われた1960年代末くらいから、1980年代前半くらいまで、擬似男性的表現は「一部学識女性の自由の象徴」として称賛されたはずなんですが、その後に女性の大部分の自由が伸張したからこそ、価値観がひっくり返ったのです。

オスカル・フランソワは、ロベスピエールたち思想家が舌を巻くほどのラテン語を駆使し、軍隊を指揮したんですが、その後の時代には……

男性好みの妹趣味と、二十代後半に達した成人が「女の子」を詐称する若作り趣味が、意外や一致しちゃったのです。

だから「ダメな娘」という考え方のほうが歴史が浅いのです。

だから、BL派(擬似男性ナルシシズム派)について、偉大なフェミニズムという主張と、ダメ娘という主張が並存して、混乱した印象を生むわけです。

BL周辺が、(もともと単なる創作物なのに)常に騒がしいと感じられる所以です。



2015/07/13

【引き裂かれる男心、充足する女心。】


映画監督というのは軍人ではありません。

徴兵義務を果たしてきた人はいるかもしれませんが、実際の戦闘に参加した人は少ないと思います。

また、もちろん現役マフィアやヤクザではありません。機動隊員でもありません。マル暴でもありません。

自分自身が体力派・武闘派ではないことを知っているから、創作家の道を選んだわけです。

彼らの作品には、戦いに行く男たちに対して、置いていかれる女の悲しみが、妙に生々しく描かれていることがあります。

たぶん、彼らがじつはトランス女性だったから……ではありません。

創作家でしかない彼らには、置いていかれる気持ちが分かるから、であるでしょう。

たとえ憧れのヒーローが目の前に実在したとしても「俺は奴の加勢に行く。お前は長生きして、良い映画を撮るのだな」としか言ってもらえません。

「申し訳ない」とか「どうしてそんなに頑張れるんだ」とか、時によっては「落ち着け」とか思いながら見送る他ない心情が、男性として描かれていることもあります。

『パピヨン』なら、ホフマンのほう。友達のつもりだが、とてもついて行けないという男の本音がよく描かれているといえるでしょう。

『ゴッドファーザー』なら、激情に駆られて飛び出していく長男の悲惨な末路が、ちょっと遠いところから映されています。

玉砕覚悟で最前線へ飛び出していく部隊長たちを遠くから撮った構図は『上海陸戦隊』にもありました。

『大脱走』には、視力を失ったり、暗いところが怖いなどの理由で仲間の負担となる人物が描かれていました。

「戦う男の絆ってカッコいいな」と思いつつ、本音をいうと「でも俺にゃ無理だ」とか「応援するばかりだ」とか「そこまでする必要ないと思う」とか。

じつは、男心は引き裂かれている。

『戦国自衛隊』の「平和な現代より戦国時代のほうがいい」という主張と、「俺は平和な時代が大好きです~~」という主張は、どっちも分かる。

でも、彼らの作品は「悲しい」とか「申し訳ない」だけでは終わりません。クライマックスはお待ちかねのチャンバラであったり、撃ち合いであったりします。

どこかで「自分はダメな男だ」と反省することをキャンセルするわけです。それには「要するにフィクションなんだから、あまり気にせずに楽しもう」と割り切るのでしょう。

心身の惰弱な一般男性が、最後は思い切って最前線へ突入し、チャンバラや撃ち合いに参加した気分を味わうことができるのであれば……

もし女性が「私だって」と思った時には、彼女も剣戟小説やスポーツ漫画を描き、戦争映画を監督すれば良いです。

塀内夏子の漫画作品『オフサイド』の例があるので、それをやってのける女性もいます。

映画は資金と大勢の協力者が必要ですから、急に実行することはできませんが、その原作を書いて発表するくらいのことはできます。

でも、他の女性の書いたものが、男性キャラクターを傍観者または相手役として「女は悲しい」というテーマで終わっていたり、BL方面へ流れていたりするのであれば……

彼女の中で「なにも男と同じことをする必要はない」とか「やってられない」という気持ちが、一般男性以上に強い。

つまり、彼女は女性である自覚が強く、自分に必要なものをよく知っているということになるでしょう。



2015/07/13

【妖怪ウォッチの人気は続いていますか。】


郵便局でキャラクター商品を拝見しました。ディズニーの攻勢には敵うべくもありませんが、頑張ってほしいです。

成人が未成年者を詐称する国ですから、アニメも本当の子ども向けのものが少ないのです。

『電脳コイル』は、昭和以前を内包し、一歩出るといきなり鄙びるという平成の都会をよく描いていましたが、実質的に大きなおともだち向けでしたし……

高校生のくせに「頭脳は大人」を詐称する名探偵は問題外です。あれは自称アダルトチルドレンのおもちゃです。それはそれで必要ですが。

ドラえもん・クレしんは良く健闘していますが、昭和をひきずっているので、町なみや家庭の様子が古く感じられます。

天野ケータの住む町は、“学校の裏山”をひかえる住宅街に、超近代的なベイエリア商業地区が接続しているという、濃縮したミクロコスモス的な都市デザインが魅力的です。

母親は一年中エプロン着用ではなく、ネッカチーフでおしゃれしており、おそらく家庭の外で働いている女性でしょう。父親のほうは相変わらず休日出勤とゴルフという、男性の保守性との対比が興味深く思われます。

平成のランドマーク的作品の一つとして、長く残ってほしいです。

あまり同人センスでふざけ過ぎずに、良質な学童向けアニメという路線を維持してください。「落ち」をちゃんとつけられる脚本家を起用なさるべきです。


2015/07/13

【パトレイバーかと思ったら、ルパンでした。】


CSのアニメ専門チャンネルで瞥見しただけで、タイトルも確認していないのですが、後藤さんではなく、ルパン三世が登場していました(笑)

押井さんが愚痴りたくなる気持ちも分かります。

でも警察車両などの描きぶりは硬派な感じで、立派なものでした。

パトレイバーを見て育ったスタッフにしてみりゃ「俺たちもああいうの作りたい!」と思うに違いないのです。

古典芸能なら「いつか自分も弁慶をやりたい」と思って入ってくる人がいるわけです。

その世界なら「お父さんそっくりに舞えるようになりましたね」というのは誉め言葉です。

作家は同じ話をやるわけにはいかないから損な商売だというのは、永井荷風が愚痴ったとおりです。

でもまァ……クラシック音楽なども、コピーのコピーを百年くらい繰り返したところで、突然変異的な才能が現れるものです。

たぶん、その間に優勢形質だけが受け継がれるという、突然変異の下地のようなものが整うのです。

押井さんだって本当は分かってるはずで、そもそも彼の作品自体が他人の漫画作品を下敷きにした二次創作ですし。

彼が本当に言いたかったのは「俺にもう一回やらせてくれ! 誰か新作の脚本を見てくれ!」ってことだったのでしょう。

いわゆる同人を含めたキャラクタービジネスの中で金が廻ってしまい、肝心のアニメ制作現場へ落ちてこない。

これが今の現場のいちばん辛いところだろうと思われます。公的資金を投入するなら、ここです。



2015/07/13

【1936年『THE PLAINSMAN』】


監督:Cecil B. DeMille


ゲイリー・クーパー美しい。

あまりの美しさに、やや殺伐としたセントルイス港の日常風景から浮いております。

海外の白黒時代の映画は、保存状態の良いところが、まさに有難いです。

時おりカメラが切り替わって、不世出の美男のバストショットを堪能できます。ちょっと輝いて見えるようなフィルターかかってるですね。

上背に優れた凛々しい美男が女に鞭を振るわれてみたり、異民族に緊縛されてみたり、だまし討ちにあって流血してみたり。お衣装のほうも軍装からドレッシーなフロックコート姿から湯上りの軽装まで、サービス満点。

ひたすらクーパーに注目するつもりで見始めたんですが、親友であるもう一人のビル役(ジェイムズ・エリソン)がまた色男で、じつに目に優しいツーショットを見せてくれます。

それぞれの相方となる婦人たちは、かたや男装の女御者、かたや清楚なお嬢様ふう。対比が効果的なうえに、このお嬢様がなかなか気が強く、男にくってかかる場面もあったりして、男女四人がたいへん良いチームとなっております。

ややコミカルな日常描写から一転、異民族に拉致されるピンチと大会戦、ひと息ついたと思ったら白人同士の陰謀劇に親友同士の直接対決的場面を差し挟んで飽きさせません。

基本的には「インディアン」を悪役にした娯楽西部劇なんですが、背景音楽が少なく、緊張度の高い心理劇になっています。

異民族の表現に誇張と定型性があるのは一目瞭然ですが、ネイティブらしい俳優を起用しており、誇り高く美しく、約束を守る人々として描かれていると思います。

もともと彼らの土地だったところへ白人が乗り込んだという自覚と、単に暴力だけではなく機転と交渉で事態を打開しようと努力した様子も見られます。

黒人差別も(白人側の態度が悪いものとして)チラッと描かれており、もうこの時代から反省があったことが伺えます。

女性の強さが賞賛されているのも印象的で、もっと古い時代の「美男美女のピンチ」という冒険活劇を踏襲してはいるのですが、比較的良心的な作品かと思います。

会戦風景は、バリケードのこちら側の傷ついた騎兵隊のリアリズム描写が良いです。受傷者に包帯を巻く場面にも背景音楽がなく、乾いた銃声だけが響いております。中国戦線経験者(牧瀬貞一)によれば「戦争とは音だ」そうで、ああ実際にこんな感じだったんだろうな……などと思われます。

リンカーンやカスター将軍も(少し)登場し、いちおう史実にトリビュートした大作という体裁で、彼我とも人馬の動員数は並々ならず、スペクタクルな迎撃シーンは映画の面白さに溢れています。援軍到着の嬉しさよ(涙)

本筋から外れたところで注目したのは、たいへん大雑把なエッグノックの作り方。手回し式シェイク機は当時の最新式だったのでしょうか。

ぜひとも金髪巻き毛のジーン・アーサーになって、クーパー相手に鞭を振るってみたいですが、男勝りな彼女が彼と二人きりの時は口調まで変わってしまうところがいじらしいです。変幻自在な実力派女優さんのようです。

対するクーパーのほうは、彼女の接吻を迷惑そうに手でぬぐうのが印象的。目ぢからに風格があることは申し上げるまでもありませんが、やっぱり言いたいです。男同士の対決場面では、やや籠もった声による詰問も、二挺拳銃を構えた姿も良く決まること。

ああ、1970年代のカラー西部劇はこれをやりたかったんだな……などと改めて思いました。

ラストシーンは男女の姿で締めておいて、二人のビルの轡を並べた姿が夢のように浮かぶです。よくよく分かった監督さんです。

冒頭には、実際の西部開拓団への賛辞と、「異なる時代のエピソードを一つにつなげてあります」なんて断り書きが表示されます。

観客にフィクションであることを理解してもらいつつ、祖国の歴史に敬意を払いつつ、美男俳優の魅力を存分に撮りきる監督冥利を味わいつつ。

いい時代でした。



2015/07/12

【成田美名子『エイリアン通り』より。】


主人公の青年が「俺は親父のような大人になりたくないから、大人になりたくない」と言うと……

別の成人男性が「きみ自身がお父さんとは違うタイプの大人になればいいだけでしょ」ってなことを言うのです。

「違う人間なのに、どうして同じ大人にならなければいけないの? 意味が分からないよ」

青年は“目からウロコ”です。

彼自身は、カエルの子はカエルだから、親父と同じ存在になる他ないと思い込んでいたのです。

背景には、なまじ同じ報道マンだったか、カメラマンだったかを志しており、結局のところ父上の仕事ぶりを尊敬しているので、その悪いところもよく見えてしまうということだったと思います。


(なお、若い頃に読んで、ひじょうに印象的だった場面を記憶で申し上げたので、引用した台詞は正確ではないです。)


【継がなくてもよいのです。】

現在では、多くの人が家業を継ぐことを避けて上京します。本当は、そういう現象は戦後すぐから、あるいは明治維新直後から起きていたはずです。

もっといえば、戦国時代には農民の子が武将になったわけです。

人間はもともと、一日のうちにかなり長い距離を歩いてしまう生き物です。納税を義務づけられ、強権をもって脅されることがなければ、耕地を放棄して他の土地へ移ってしまうことも、むしろ普通です。

そもそも、そのようにして、地球全土に広がったのです。

敦煌などの中央アジアの都市国家が滅亡してしまうのは、求心力のあった権力者が亡くなると国民が他の土地へ移ってしまうからだそうです。

野生の猿は、生まれ故郷の森から離されると、衰弱死してしまいます。人間は違う土地にも順応できるように、体内時計を調整する機能を備えています。

だからこそ、今や地方都市が衰退し、農林業・伝統芸能・工芸の担い手が減っている。

いっぽうで、そのように若い人が自由な時代に、精神的な欠点・反社会的な行動ばかり、親を受け継ぐ必然性もないのです。