2015/10/30

女性はゲイと交際すると寂しくなります。


たしかにゲイタウンは(渋谷に比べりゃ)女性にとって安全な街といえるでしょう。

主婦がゲイバーを訪ねて洒落たカクテルを頂いたり、女装コメディを拝見させて頂くのは、良い気晴らしになると思います。

彼らとしても、お客さん歓迎でしょう。あるいは年末年始にかけて、「ストレートOK・女性OK」というパーティも企画されるかもしれません。少子高齢化で客足が減っているそうなので、可能なかぎり協力してあげてください。

ただし、彼らを相手に「家事がめんどくさい」とか「子どもが言うことを聞かない」とかいった家庭の愚痴は通用しません。

彼らにはステディな男性がいて、きちんと家事を担当してくれている可能性があります。主婦同士と同じ乗りで「ほんと、男ってダメね~~」という話はできません。

また、お相手がエイズ患者で、最期まで看護・介護する覚悟を決めているかもしれません。でも、彼らは結婚できません。なぜか。

女性が「彼らを結婚させてあげて」という法案を提出してくれないからです。

女性が「男同士の結婚なんて気持ちわる~~い」と笑い飛ばしているからです。

女性は「早く国会が男のプライドを捨てて『男が家事をすべし』という法案を通過させてくれないかしら」と思っているかもしれません。でも女性はゲイに対して何もしてあげていません。

男性のパートナーは女性に限るという女のプライドを捨てていません。

また、彼らは代理母を利用することはできても「僕と彼の遺伝子を分け持つ子」を持つことは不可能なままです。彼らは「血縁」という言葉、「お腹をいためた子」といった言い回しに傷つき続けるでしょう。

また、残念ながら彼らの世界にもDV被害はあります。

女性が男同士の家庭生活を面白がって、詳しく聞きたがると「あら、ごめんなさい……」という結果になる可能性は高いです。

そうやって、女性が「私って充分に幸せだったのかも」と気づくのは悪いことではありません。

他人とは自分を映す鏡です。女性は、女の義務から逃れたつもりでゲイとお付き合いさせて頂くと、自分が女性であることに立ち戻ります。

二十代では「まだそこまで考えたことないし~~」と笑っていられるかもしれません。三十代になると真顔になります。四十代になると、彼らの前で身の置きどころがないような気分になるでしょう。

また、独身女性がうらやましがらせてやるつもりで主婦を新宿二丁目へ誘うことは、ゲイに依存する自分自身をさらしてしまうことでしかありません。



2015/10/30

ゲイとは非婚の寂しさを共有できません。


女性が「ゲイなら非婚の寂しさを分かってくれる」と思ってゲイバーへ押しかけるのは、失礼です。

なぜなら、彼らに言わせりゃ「俺らが結婚できないのは、あんた達が差別してるからだろ」ってことでしかないからです。

女性が自分の職場へ戻って「ゲイカップルを正規雇用し、配偶者控除を認めてあげてください」と頭をさげれば、彼らの苦労はなくなるのです。

女性が保育士・教員・養護施設の職員となって、「よい子のみんなもゲイカップルの結婚を祝福してあげてね」と教えれば、彼らの差別被害はなくなるのです。

「だ、だって私、子育てなんかめんどくさかったから保育士の資格なんて取ってないし、養護施設でボランティアするのもいやだし、婚活もそんなにまじめにやらなかったんだもの」

というなら、もう「そういう人生を自分で選んだんだろ」ってことでしかありません。

結婚する気のないストレート女性が「どーーして私たちが差別されなきゃならないの~~?」と分かち合える相手は、結婚する気のないストレート男性です。

すなわち、ロリであったり、オタクであったりする人々です。「同人やっていた」という女性なら、同期の男性に連絡を取るといいです。

他にやりたい仕事があって資格を取ったわけでもなく、気ままにポルノ漫画やゴーモン小説を書いて生きたかっただけというのと、愛する人を見つけたのに祝福してもらえないという悩みは、だいぶ違います。

もとより、女性には自由に生き方を選ぶ権利があります。だからこそ、わざわざ新宿二丁目まで押しかけて「母親が、トラウマが」と言い訳するのは、赤っ恥です。

トラウマならトラウマを克服する努力をすればいいです。ゲイは差別を克服する努力をしています。彼らは結婚したいのです。



2015/10/30

五十歳の女の怨念。


マツコ・デラックスさんがホスト(ホステス?)をつとめる番組で、プラモデル作りに夢中なうちに五十歳を迎えたという女性と、その見事な作品の数々が紹介されていました。

作品を丁重にあつかうマツコさんのお人柄に感じ入りました。

手つきの粗雑なテレビスタッフには「気をつけなさいよ! プラモデルに人生をかけた女の! 五十年分の怨念がこもってるんだからね!」と厳しい叱責を与えていました。

……。

科学研究や芸術活動に夢中で五十歳になってしまった男性の仕事には「男の怨念」って言わないだろうと思います。

やっぱり、トランスな皆様の心のうちには「あんた、せっかく女に生まれたんだから結婚すればいいのに。子ども産めばいいのに」っていう気持ちがあるのだろうと思います。

これは差別って言っちゃ気の毒で、うらやましいという気持ちがあるのだろうと思います。

これに対して、女性の口から「ゲイはいいなァ」と言っても、なんの慰めにも、おだてにもならないのだろうと思われます。

2015/10/29

ゲイバーをつぶすのは、あなたの恋心かもしれません。


三島由紀夫が、行きつけの店の様子を自分の小説中に登場する店のモデルとして無断利用したとき、店長が激怒したという話があります。

見物客が増えれば、喧嘩などのトラブルが起きやすくなり、警察の介入が起きて、本来のお客さんが店を避けるようになり、閉店につながる恐れがあるからです。

女性がゲイバーから興奮して実況レポート(連続ツイートなど)すれば、私も行ってみようと思う女性を増やし、それを追ってナンパ目当てのストレート男性も押しかけるという事態が生じやすくなります。

当然、本来のお客様が店を避けるようになりますから、そこはゲイバーではなくなります。

新宿二丁目をストレートが乗っ取ってしまえば、彼らは行き場をなくします。

【女性の立場。】

とくにレズビアンが危機感を持つのは当然です。現実問題として、女性だけで別の街を開拓する、次々に新たなお店をオープンさせるということは難しいからです。

おなじ女性として、彼女たちの社会的立場の厳しさを理解できるのであれば、自分のゲイ遊びを控えましょう。少なくとも、口を慎みましょう。具体的には、ツイートを慎みましょう。

自分が遊んでいる様子を、他人に見てもらう必要はありません。あなたはテレビタレントではありません。

「レズなんか私と関係ないじゃん」と言えば不適切なのは分かりますね?

レズビアンがストレート女性に対してクレーム文書を発したのは2009年ですから、その後改善された部分もあれば、悪化した部分もあるでしょう。

できるだけ改善に協力してあげましょう。この場合、協力するとは何かを派手に宣伝することではなく「そっとしておいてあげる」ことです。

【マジョリティの甘え。】

ふつうは「宣伝すれば宣伝するほど、お店が繁盛するからいいじゃん。協力してやってるのよ」と思うものです。でも、それはストレート同士の甘えです。

すでに「ゲイは男心も女心も理解できるから、ストレートの人生相談に利用できる」と教える観光ガイドブックも発行されています。

一見すると楽しそうに書いてあるでしょうが、発想そのものが差別的です。

ゲイは、妙な期待にお目々キラキラさせたストレートに辟易していると思います。

【やおいの自戒。】

この「無断利用して、乗っ取る」というのは、コミックマーケットにおいて「やおい」がやったことと同じです。

そこはもともと(直訳すれば漫画市場である通り)オリジナル漫画同人誌を出品するところだったのに、いつのまにかアニパロ小説を個人出品する人のほうが威張るようになってしまったのです。

「やおい」を出品した経験のある人は、同じ手法で他の会場を乗っ取ってしまうことのないように、気をつけましょう。



2015/10/29

いやなら来るな。


特定の観客がショーの進行に注文をつけて、他のお客様の楽しみを奪うことは、マナー違反です。

特定の観客が、特定の出演者に向かって、自分のための特別演出を希望し、それがかなえられたことを自慢たらしく吹聴することは、出演者自身の評判を下げます。

昔のお大尽のように、スターを「身請け」して、引退後の生活を一生支えてやることを約束できないのであれば、自粛しましょう。

ルールブックに明記されているのがルールなら、暗黙の了解・お互いの遠慮は「マナー」です。

マナーを無視する人は、夜遊びに向いていません。おうちへ帰って、漫画を読みましょう。

もし女性が、BLに注文をつける男性に向かって「いやなら読むな」というならば、ゲイ達はゲイバーに来ておいて注文をつける女性に向かって「いやなら来るな」という権利を持ちます。



2015/10/29

BLを楽しむ権利はあるが、ゲイを苦しめる権利はない。


当たり前のことを、きちんと言えなかったフェミニズムがおかしいのです。

男同士が異常なんじゃなくて、日本のフェミニズムが異常なのです。

もとより憲法において男女の平等と表現の自由が保障されているのですから、女性が何を描いてもいいのです。発表してもいいのです。でも、実在の人間をイジメてよい憲法などありません。

「ちょっとからかっただけだからイジメではない」というなら、まさにイジメ加害者の言い訳です。

「からかったんじゃなくて、わざとプライベートな質問をして、いやな気持ちにさせてやっただけ」というなら、それをイジメと言わないのかどうか、社会に向かって確かめてみればよいです。

女性が夜の街におけるマナーを心得ないのは、男性社会の現実を知らないことが一因です。

テレビか漫画で見た誇張された男性の姿しか知らないので「男って酒に酔って、いやらしいことばかりしてるんでしょ」(だから私が真似してもいいでしょ)と思うわけです。

とくに日本の「フェミニズム」が「やおい論」の中で主張した男性像が、底の浅いステレオタイプであることは指摘するまでもないかと思われます。

でも実際には、男性社会は厳しいものです。夜の店へも年長者に連れられていって、マナーを教えられるのです。
「ママ、これうちの若いの」
「どうぞごひいきに」
って挨拶が行われるわけです。それから酒の注文のしかたや、チップの渡し方を覚えるわけです。

「こういう店では、おねえさんに失礼なことを言うと田舎者だと思われるぞ」って教わるわけです。

マナー違反すると「外へ行って頭を冷やしてこい!」って叱られるわけです。

そうやって、大人の男になるのです。

でも、自称「女の子」は、そういうことが分かりません。何十歳になっても自分は「女の子」だから、何をやらかしても甘やかしてもらえると信じています。

「わ、私は女であることに甘えてなんかいません!」

という人は、夜の街におけるマナーがどのようなものか書き出して、発表してみるといいです。

もしかしたら、1980年代の「イッキ」しか知らないので、いまだに大声を出してふざけることを夜遊びだと勘違いしているのかもしれません。


2015/10/28

ポルノグラフィしか理解できないクレーマー。


BLはポルノだと思われたくない。エロス描写は必要ない。

これはインターネットで散見される意見です。こういう人を本当に「ノンセクシュアル」というのかもしれません。

不況の時にはポルノグラフィを売るのが出版界の鉄則ですから、1990年代の大不況以来、かたよった種類のものばかり市販されて来たので、偏見が生じているわけです。

でも、それで悲しい思いをする人がいるなら、ポルノグラフィには分類されないBLの出版も増やしてあげればいいです。一例は、よしながふみ『きのう何食べた?』でしょう。

ゲイカップルの日常生活を描いたホームコメディですが、作者は女流なので「ゲイ漫画」とも言えません。プラトニックなタイプのBLということになるかと思われます。

BLのバリエーションが増えるということは、市場が広がるということです。新人デビューの確率も高まるでしょう。女性の自立の手段を増やすことにもなります。「やおい」以前を知っているオールドファンも喜ぶでしょう。

でも、世の中にはそのように考えることができない人もいます。

自分自身がポルノグラフィばかり読んでいるので、世の中の人もみんなポルノグラフィが大好きだと思ってしまうのです。

だから「プラトニックな種類のBLの掲載が増えるといいですね」という意見を目にすると、「市販雑誌でポルノを読みたがる人なんて変よ!」と怒鳴り出してしまいます。

変なのは、もちろん本人ですね。

【類例。】

わざわざ人権集会へ出席しておいて「ゲイ雑誌ってすごくいやらしいですけど、ゲイってポルノのことしか考えてないんですか~~?」と質問する女性。

人権集会を開催している時点で、彼らがポルノ以外のことを考えているのは明白なのに、本人の頭の中がこないだ読んだゲイ雑誌で一杯なものですから、周囲にいるのがみんなゲイだと思うと、興奮してしまうわけです。

【類例その2。】

特定の動画を気に入って、他の作者による無関係な動画に「パクリ」(盗作)というクレームをつけて廻る人。

世界中の人が自分と同じ動画を見たことがあって、パクろうと狙っていると思い込んでいるわけです。

「知らないよ、そんな動画。見たこともない」と言われることを想定していないわけです。

【マジョリティの横暴。】

三者に共通するのは、自分こそ世界基準であるという認識です。この世には自分が知っているものしか存在しないと思っているのです。自分と世界の包含関係が逆転しているのです。

世界中の人が自分と同じ。他人の多様性を認められない。

これは、マジョリティの横暴ですね。

根本に島国の民族的マジョリティ・性的マジョリティである「日本人のストレート」という自認があり、差別的な優越意識をもって育ってきている。

その意識の中で、自分が知っているもの・自分が好きなものを優先するから、自分とは違う価値観が存在することに気づくことさえ出来ない。かなり悲惨な状態です。

少なくともこの状態で、自分だけ性的マイノリティを主張し、弱者特権を要求してはいけません。

みんな自分と同じだと思っているのに、自分だけは特別だと思いたい心。

これは家庭において、家族みんなが好きな食べ物、たとえばスキヤキの肉を、自分だけ余分にもらえることを期待する子どもの心です。

そういう人は、おうちへ帰りましょう。インターネットは国際社会です。世の中には、あなたとは違うものを読み、違うものを見ている人が大勢います。


2015/10/28

同人が「やおい」という言葉で本当に隠蔽したかったこと。


もし、この国で特定の種類の創作物を発行すれば令状なしで逮捕される。裁判なしで死刑にされるということだったら?

発行した人は徹底的に隠すでしょう。「山なし落ちなし」とも言わないはずです。

それを裏取引する会場の様子が子どもの口から漏れては困るので、「妹がついて来ちゃった」などという参加者がいれば、自分自身が仲間から村八分にされるはずです。

つまり「男同士だからヤバイ」などと言いながら子どもに売っていられる内は、たいした問題ではないってことです。

ということは、「表現テーマが男同士であるから隠す必要がある」という建前を隠れみのに、本当に隠蔽すべき要素が他にあったということです。

まだ一般社会がアニメを理解しなかった1970年代、あえてテレビアニメ番組を手がけた人々の中には、強い個性を発揮する「ワンマン」なプロデューサーがいました。

彼の一存でファンアートが瞬殺される可能性は、ゼロではなかった。

じつは1980年代前半までは、女性同人の間に「絶対にホモという言葉を使うな。本物を怒らせるな」という声があったものです。

いま思えば、これも「権利者」を恐れるという二次系同人の基本姿勢を示していたのかもしれません。

【勘違いの発生。】

何度か申しましたが、本当に竹宮恵子に準拠して、オリジナルの少年物語を描いた場合は、出版社へ投稿してプロデビューすることができました。それを自分から「ヤバイ」とか「駄作だ」とか言ってはいけません。せっかく認めてくださった出版社、手間ひまかけて下さった印刷所・小売店を愚弄することにもなります。

プロであれば決して言わないことを、なぜアマチュアが言うのか?

本当に隠蔽すべきは、少年同士という要素ではなかったからです。

でも、1985年頃に誤解が生じました。漫画を原作に持つアニメ番組による二次創作が大流行したからです。その権利者は(根本的には)原作漫画家ということになります。

二次創作のほうも漫画の形を取る限り「漫画の練習をしている」といえば言い訳が立つ。だから権利上の問題が克服されたと思い込んだ。そのぶん、読者に向かって山も落ちもないと注意勧告しなければならない点は「ホモ」だと勘違いしたのです。サッカーアニメが放映開始された1983年以降のことしか知らない中学生たちが。

【代表になれない。】

じつは、権利問題については、原作者ときっちり話し合うこともできます。

1980年の時点で、コミケ初開催の1975年に高校生だった人が成人しているのですから、「成人による表現の自由を認めてもらいたい」という話をしてもいいのです。政治家に向かって法律の改訂を求めたっていいです。

でも、同人誌即売会というところは、もともと「コミックマーケット」です。つまり漫画市場です。そこは一度もアニパロ小説の出品を奨励していないのです。

アニメファン、またはアニメファンを利用してやろうと思った小説同人が、まったく勝手なことをしたのです。漫画市場の軒先を借りて、「申し訳ありません」という顔をしていなければならなかったのです。

それがコミケの代表として原作漫画家に直談判を申し込む・国会へ乗り込むということはできない。

さらに「漫パロ」ではなく「アニパロ」である以上、アニメ番組を愚弄されたものとして、テレビ局が原告になることもできるのです。

もちろん、それに対して小説同人がコミケを代表することもできません。

ここまで来て「でも漫画編集部が私たちを庇ってくれる」という人は、話が分かっていません。

アニパロ小説同人というのは、コミケの中には「いない約束」になっているのです。

だから、TPPの時にも黙っていたのです。自分の権利を主張することができないのです。

まちがって「金目」などと騒げば、即売会全体に迷惑がかかり、結果的に自分たち自身が参加禁止にされる恐れさえあるのです。

漫画市場を「場」として利用したアニパロ小説同人というのは、そのくらいダメな存在なのです。

これをトランスゲイといえば、トランスゲイが激怒します。摂食障害と同じといえば、摂食障害に悩むご家庭が激怒します。ノンセクシュアルといえば本物のノンセクシュアルが怒るでしょう。

百歩ゆずって、個人の資格で「アニメキャラクターを愛する心を理解してください。せっかく書いたので発表の機会をください」と訴える権利はあります。憲法上、国民は何を主張しても良いのです。

でも「コミケ」が話題になっている時(または他人がインターネットの話をしているのに、わざわざ自分からコミケの内情を暴露したい時)は、アニパロ小説同人が勘違いして威張ってはいけません。



2015/10/28

ノンセクシュアルが隠語化する可能性。


現実の体験に基づいて「彼氏の体力がどう、技術がどう」といった赤裸々なガールズトーク(ガールが性行為してはいけないはずですが)をしたい人々は、もちろん「ノンセクシュアル」を自称しません。

もし、実体験に基づかずに「彼氏を相手にする彼の体力がどう、技術がどう」といった話を女同士でしたい、すなわちBLの話題を共有したい人々の一部が「ノンセクシュアル」を自称するなら、それがBL女子を示す隠語となる可能性があります。

そして、「ノンセク」を自称しながらゲイバーで遊ぶ様子を嬉々としてレポートする人がいればどうなるか?

当然、他のBL女子が「私たちもノンセクなんですけど、いいですか~~?」と言いながらゲイバーへ押しかける。

お目々キラキラさせて「私たちは母親のせいでノンセクになったんですけど、お兄さんはいつからホモになったんですか~~?」と質問して廻る。

これは防いだほうがいいだろうと思われます。

したがいまして、ノンセクシュアルを自称する女性は、女性同士で人権活動団体を立ち上げ、女性だけでルームシェアする生き方を探るのが適切であると申し上げておきます。

女性だけでルームシェアしているところへ、男性が嫌がらせしてくるといえば、男性中心社会の中にはきちんと対応してくれる男性もいます。女性政治家・女性新聞記者も味方になってくれるでしょう。

ノンセクシュアルの女性が、非婚を自分の権利として、堂々と生きるとは、そういうことです。ゲイバーに潜り込むことではありません。



2015/10/27

一般的SNS処世術。。


ネット上のバーチャル存在としては「そのまんま自分」である必要はありません。

冷静に考えると、SNSで孤立していたからって、どうってこたァありません。

実名制で職場・学校仲間がフォローしてくれないとなると意図的なものを感じちゃいますが、ハンドルネームで自分の好きな記事を(いくつか)リツイートしたり、草花や小動物の写真を流したりしているぶんには、おなじ趣味の人が黙ってフォローしてくださるだけです。

個人サイトにわざわざ挙げるHTML文書、あるいはブログ記事であれば、いくらか構えた気分になって「何を書こうかな」と話題を探し、作文の起承転結を考えるもんですが、SNSは居酒屋のおしゃべりの気分を再現できるので、とくにバブル時代の「イッキ」の乗りを知っている人は興奮しやすいのです。

起承転結がないという点では「山なし落ちなし」に通じるわけで、いわゆる同人活動の経験者が陥りやすい意識の罠かもしれません。1980年代らしいっちゃ、らしいです。

声をかけられた側としては、いきなり「ためぐち」という人は、やはり失礼な人だと考えて、フォローバックしないのがよろしいです。

1980年代から、新宿二丁目がこのタイプを引きつけやすいのは、もちろん実社会で挫折を感じたストレート女性が「こいつらは女に負けてホモになった男どもだ」と考えることによって優越感を感じることができるからです。残念なことです。

なお、日本語は日本人自身によって「世界でも珍しい言語だ」という認識があり、その特殊性が敗戦国の誇りとなって、「どうせ外人には何を言っても分からない」という間違った優越感と傍若無人性を生んでしまうことがあります。

どこの国から何語でツイートしても、ダメなもんはダメです。ロンドン五輪の頃に知れ渡ったはずです。気をつけましょう。

2015/10/27

好きな雑誌の話も自分でしましょう。


特殊分野のファン、とくに古い時代の人々というのは「そっとしておいてほしい」という気持ちを持っているもので、このブログでは作品例について「あれも耽美、これも耽美、皆さん読んでみて下さい」というふうに紹介しておりません。

また閲覧前注意にも申しました通り、特殊分野の自費出版物は著作者が一般公開を望まないことが多く、この実例についても紹介しておりません。(二次創作者にも著作者人格権があります。)

小学館漫画賞・田村俊子賞などの受賞作品についてのみ、一般読者様も参照しやすい事例として題号を挙げ、内容にかんして文芸批評的言及を試みております。

「え~~それしか知らないの~~? 私の好きな新書館『WINGS』の話もしてよ~~」

という依存的クレームに対しては「自分のことしか考えられない人は残念だ」というのが本音です。

自分の好きな雑誌の話は、自分でしましょう。

なお、若く見せるつもりで子どもっぽく振舞うと、本物の若い人がドン引きします。

ところで「CLAMP」というのは、これもそれまでに存在したものの集大成で、1970~80年代「同人」的要素をひじょうに意識的に、クレバーに、プロ作品として市販路線に乗せることに成功した人々です。

おおむね1980年代的なんですが、近未来SFの要素と、長い黒髪の美男というキャラクターだけ、1970年代を引きずっています。

これは確かに一人の人間の資質というよりも、共同作業が可能にした戦略性なのかもしれません。

そして、この共同作業というのが、サークル本来の形だろうと思われます。

これに対して、ステレオタイプな二次創作ばかり書いていた個人誌が太刀打ちできなかったというのは、当たり前のことでもあり、それだけのことでもあります。

残念ながら、大学生にもなって、CLAMP作品を「読んだだけ」というのは、同世代でありながら何もできなかった「負け組」です。

せめて自分を育んでくれた1985年以前の作品について、敬意をもって語ることができるのが望ましいです。

それが出来ずに「あんなの、どうせみんなやおいじゃん」と言うなら、それを恨みに思っているということです。

市販された漫画を読んだせいで、自分の人生が狂わされたと言いたいのですが、勉強しなかったのは自分の責任です。



2015/10/27

好きな漫画の話は自分でしましょう。


BLというのは、ひじょうに女性に都合よく出来ています。

女性好みの美青年しか登場しないとともに、女性自身の社会的転落や暴力被害者となる姿が描かれることが殆どなく、したがってPTSD的な不快な読後感を与えない・いわゆるトラウマを刺激することも少ない……というふうにです。

だから、これを好む人の逃避性・依存性を強めてしまうことがあります。

わざわざ他人へ「1982年頃の白泉社『花とゆめ』の話をして」と依頼しておいて、「雑誌の顔は『ガラスの仮面』と『スケバン刑事』。新人では山口美由紀と川原泉が最高でしたね」という当然の回答を得たら……

「ど~~して私の好きな羽根くんの話をしてくれないの~~? 花ゆめなんて、どうせみんなやおいじゃ~~ん」と言い出してしまうのは、不適切ですね?

自分の好きな作品の話は、自分でしましょう。

かつて「山なし落ちなし」という言葉(を更に略した言葉)で示された、今でいうところの「二次創作BL」を好む女性のなかに、ひじょうに短絡的な思考と、依存的な心性を抱えた人がいることは確かです。

自分の好きなものにしか注目しない。自分で努力せず、他人(の創出したキャラクター)に頼るという姿勢が、残念ながら一貫しています。

なお「やおい」というのは、わざわざアマチュアのほうから、そのような活動を、プロと混同されるとプロに迷惑がかかる(ひいては同人誌即売会の存続そのものが危うくなる)と知っていて、差別化するために用いた符牒です。

逆にプロ作品に適用するのは不適切です。お間違えになりませんように。



2015/10/26

同人、ルサンチマン同人、クレーマー。


完全オリジナル初出作品を自費出版し、いわゆる同人誌即売会を発表場所と心得る人々。これはなんの問題もありません。

「同人誌即売会」の本義からいうと、個人的な自費出版は不可だったはずですが、これは時代とともに規約が変更されたので、現在では無問題ということで、話は終わりです。

アダルトだからダメだ・猥褻裁判だということであれば「表現の自由」を主張して、世界のアーティストと共闘することもできます。

【即売会限定の二次創作同人。】

成人であれば、権利者と話し合うことができます。たとえば「販路の限定」という条件つきで示談といったことが可能です。

そして基本的に「アニパロ」というのは、即売会に販路が限定されていたわけで、すでに示談が成立している状態と見ることができます。

戦後民主主義における国権=政府とは、国民の総意なわけですが、フランス大革命の勃発以前から、人命を損なうなどの根本的犯罪でない限り、業者同士の自由取引を国権が弾圧することは、しない約束です。

だから、一般国民が漫画家同士の話し合いに口を挟む必要もない、という結論を得ることは可能です。

だから、これを問題視するとすれば、未成年者が保護者の許可を得ずに出展していたことと、それをフェミニズム学者が弁護して良かったのか? という点に絞られ、議論のテーマ・非難の矛先が違ってくるわけです。ここを勘違いなさいませんように。

【ルサンチマン同人。】

出展経験があるものの、すでに人気をなくして引退している。

即売会に関わったせいで(就職のタイミングを逃すなど)人生を狂わされたという恨みを抱えており、「そもそも自分が『やおい』にはまったのは社会のせいだ」とか「母親のせいだ」といった言い訳を必要とする。

また、楽しそうな現役を妬んでいる。

インターネット上で「同人」という言葉を見かけると、エキサイトしてしまい、開口一番「持ち逃げ! 脱税!」と、悪い話を広めたがる。

じつは一部に逮捕者が出ていることは、インターネット上では他のサイトで読むことができます。つまり、誰でも知っている芸能人の噂のようなものです。物知りぶっても、その程度。

【クレーマー型ネット住人。】

じつは即売会には参加したことがない。出展できるものがない。ただ同人的なセンスによる作品や、SNSに流されるジョークが好きで、公式リツイートに参加する・本物の同人(出展者)に話しかけるなど、絡んでいきたい。その頻度と質によって、クレーマー型ということになる。

掲示板や他人の作品に過剰コメントして「荒らし」認定されたり、他人のコメントに横槍コメントして炎上騒ぎを起こしたりする。二次創作は原作ファンにとって不愉快だからゾーニングしろという話なのに「BLは自由だ!」と勘違い自己主張することもある。

引きこもりが黙って引きこもっていれば無問題なわけですが、やっぱり人間同士のかかわりを求めるので、急に体をぶつけて行くような真似をするわけです。やらかしておいて、「社会が」とか言い訳することもあります。

ルサンチマン同人がこのタイプになっちゃうと、即売会を守りたければ言っちゃいけないことを言っちゃう人になります。

【逆転する経緯。】

社会は同人を羨ましがっている。同人は出版界を裏から牛耳っている。女はみんなやおいだ。少女漫画家は、本当はみんな二次創作BLを描いて稼ぎたいのに我慢して少女漫画を描いている。

問題発言の多い人の認識が逆転しているのは明らかですが、もともとは自宅で漫画を読んだり、テレビを見たりするのが一番好きな、おとなしい子だったはずなのです。

それが集団化によって誇大妄想を強め、横暴な発言をするようになるなら、悪いのは漫画・アニメではなく即売会という「場」だ、ということになってしまいます。

インターネットは、世界規模で毎日開催している即売会みたいな要素があるわけで、より強く自分に影響力があるという幻想に酔いやすいといえるでしょう。

でも参加者全員が横暴になるわけではありませんから、こういう人は「もともと依存的だった。もともと理想の自分を空想しすぎる癖があった」と言っておくのがよいかと思われます。背景に家庭の問題があることは、ついつい予想したくなりますが、その内容は人それぞれでしょう。

(ここで「母親が何々な場合、娘がそうなりやすい」といった紋切り型の解釈をくり返すと、またそれに依存する人を生む恐れがあります。)

若い人に言えることは「世の中いろいろな人生の先輩がいるから、よく見て参考(反面教師)にしましょう」ということかもしれません。



2015/10/26

別れたのは携帯電話のせいではありません。


他人の携帯電話を無断チェックするという、自分の人間性が否定されたのです。

それを「携帯電話のせい」というなら、「私が怒りたくなるようなメールを携帯電話に受け取っている男が悪い」といっているわけで、要するに責任転嫁です。

どの芸能人の件とは申しませんが、トーク番組でネタがないからといって、なんでも暴露すればいいってもんじゃありません。

もし最初から「なんちゃって」と付け加えるつもりか、慌てて「普通やりませんか~~?」と周囲に同意を求めたくなる程度であれば、そもそも言わずにおきましょう。

【類例。】

「彼氏ができたとツイートしたら、一週間で別れようと言われた。次は三ヶ月くらい付き合ってからツイートする」

ラジオで聞いた、リスナー投稿。それは、プライベートなことをTLに流してしまう女だから危険だと思われたのです。

三ヵ月後にツイートすれば、三ヶ月と一週間後が、終わりの時です。

気をつけましょう。



2015/10/26

闘犬とライオン。


犬の散歩中にライオンに遭遇させたらどうなるかって実験するテレビ番組を拝見しました。有吉さんがホスト。

オーナーに連れられた犬たちに指定コースを歩かせて、コーナーを曲がったら、進路をふさぐ大きな檻の中に雄の成獣が2頭いる。

土佐の闘犬が前のめりになって、無言で正面からにらみ合った挙句に、自分より大きい百獣の王を屈服させました。戦いを仕事と心得た男の攻める姿勢にしびれたです。

あれは、まずは「互角」と認めるから睨みあいが発生するんでしょうねェ……往時の剣闘士などもあのようだったでしょうか。

ポメラニアンやトイプードルは、自分の小っちゃさ顧みず、激しい威嚇をくりかえしました。ライオンのほうが猫っぷりを発揮して、大きな掌でつかまえようとする仕草が可愛かったです。

ドーベルマンはライオンの姿を見る前から腰が引けていたんだそうで、番犬にするくらいだから匂いに敏感なのかもしれません。

また『銀牙』とか読みたくなりました。好きなキャラクターですか? 紅桜です。アニメ版では淡海悟郎の音楽も泣かせましたね。



2015/10/23

少女は何から逃げてきたか。


優秀な少女が家事労働専従という未来に絶望し、母親に決別して、男性化を望み、いわゆる「やおい」になる。

最後がいけません。

それでは女性が敢然として独立を志向するとは、プロになることを望まず、即売会という巨大な密室にひきこもり、他人の権利物を無断利用して、業界との裏人脈を鼻にかけ、プロ作家の陰口を言っては、就職に失敗することになってしまいます。

【少女の義務。】

少女とは、保護者の庇護下に勉学に励むべき存在です。

それが良妻賢母になるための家庭科であろうが、男を凌駕する研究者になるためであろうが、さぼって良いとは誰も言っていません。

プロ創作家は購読者に支えてもらって、生計を成り立たせなければなりません。それにあたって何を描くか、描くまいか、自分自身で決定権を有します。批判に対しても「表現の自由」で押し通すことができます。

二次創作者であっても、成人であれば自己責任において権利者と話し合うことが可能です。例えば「発表場所の限定」という条件つきで示談という円満解決を得ることも可能です。そして実際に、アニパロ同人誌というものは販路が限定されていたわけです。

そしてこれらを、高校卒業後の女性が自活の道を探っているものとして、女性解放戦線的な人々が全力で支援するというのは、理に適っています。

アンダーグラウンドにおける芸術表現、草の根メディア。そういうものを旧世代の男性中心政府の強権によって弾圧すべきではない。これは言えます。

でも、未成年者が性的創作物を売って生計を立てなければならないとすれば、由々しき事態であり、放置されるべきではありません。

学業をほったらかして小遣いかせぎに夢中になっているなら尚さらです。

だから問題視された時点で、同人誌即売会参加者の何割が成人だったのかが重要になるわけです。

「全員少女」ではダメなのです。だったら早くおうちへ帰って宿題やりなさいと言われるだけです。

即売会の自治といってもダメです。それは本来、大学生の自治です。大学生に自治が認められるのは、18歳以上の成人だからです。

その自治や、表現の自由が、もともと未成年者には100パーセント認められるわけではない、という話なのです。

未成年のうちに、きちんと勉強して、高校を卒業したら堅気な仕事に就けば、権利的に怪しい性的創作物なんか描かなくてもよくなるからです。親御さんを安心させることができます。

【結婚が早かった時代。】

第二次ベビーブームは戦中派と団塊世代の出産が重なったことによるもので、確かにその世代のほとんどの女性が嫁に行かされたことを意味します。

高卒の18歳で入社して、3年ほど事務員をやった後、いやおうなく上司の媒酌でお見合いし、社宅に入るというのが、一つの典型だったでしょう。

「クリスマス」とか「クリスマス・イブ」なんて言い方もあったらしいです。25歳までに結婚できないと恥ずかしいから、24歳の間に相手を見つけなくちゃ、ということだったようです。

それを拒否して学問を追及した女学者たちが、同世代で自分同様に独身を貫いたプロ漫画家を応援し、アマチュア少女たちがその衣鉢を継ぐつもりで漫画修行にはげんでいた(はず)のを全力で弁護するのは当然でした。

が、1975年には第二次ベビーブームも終了し、1989年には「1.57」という数字が社会を震撼させたわけです。

【遅くなった時代。】

1980年代以降の少女にとって、結婚は10年先の遠い夢でした。さしあたって考えなければならなかったのは「その10年間をいかに生きるか」だったのです。

それを明確にイメージすることができ、教員や薬剤師になるために懸命に勉強していた子は、ドージンシなんてものをやる暇がなかったのです。

逆にいえば、同人少女が逃避してきた元にあったものは、厳しい勉学でした。立派に自立した女性になるための修行でした。

口先では「みんな漫画家になりたかった」と言いながら、漫画の修行をせずに、投稿もできない小説を書いていた有様です。

投稿できないのは、題材が男同士だからではありません。性描写だからではありません。オリジナル作品である限り、それ相応の投稿先があったからです。投稿できないのは、権利問題を抱えていたからです。

フェミニズムが弁護したものは、プロデビューして雄々しく生きることを拒否した少女たちだったのです。

【禍根。】

世界的に見ても恵まれていた1980年代以降の少女について、うかつにも「女性は社会の被害者だ」という説を唱えたことが、逃避的行動に理論的支柱を与えた禍根は大きいのです。

重大な錯誤は、時間の経過を考慮できなかったことによります。

やおいという活動が社会問題視された時点で、すでに学者・文化人として発言を求められるほどの地位にいた女性たちと、実際の即売会参加者(の一部)であった少女たちとに、ジェネレーションギャップがあったことを、前者が認識できなかったことです。

たぶん、自分を「まだ若い」と思っていたのでしょう。

【意味の転倒。】

1970年代には、すでに自立を果たした成人女性漫画家の次なる挑戦だったBL表現が、1980年代には女性が自立めざして就職することが当たり前になったからこそ、逃避場所となり、意味合いが180度ひっくり返ったのです。

学者・文化人のセンセイ達としては、「未成年者が・プロの著作権を無視して・性的創作物を」取引しているという三重苦を、それと知っていて弁護するにあたって、いずれ漫画家として自立することにつながるのだから妨げてはいけないという以外には、正当化の根拠が無かったはずでした。

でも、迂闊にもプロになる気のないモラトリアム少女を同じ論法で弁護してしまい、遊び半分な営利活動を続けさせて、本当に人生を誤り、ルサンチマンの塊となる「もと同人」を輩出させたのです。

その責任は、根本的には本人の現実認識の甘さにありますが、フェミニズムの研究姿勢の甘さにも、まったくなかったとは言えないだろうと思われます。

もはや社会学者は、今ごろになって大学の授業でBLを読んでみましょうなんて言ってる場合ではありません。過ちを繰り返さないのが戦後民主主義です。

フェミニズムそのものの誤謬の歴史を、若い学生にレクチャーしてやるのが適切です。

2015/10/23

ベルサイユのばらの影。


1950年代以来、少女漫画を後見していたのは、男性編集者でした。

15歳かそこらの少女キャラクターの初心な恋愛模様を見て「幸せになってほしい」と思うのは、父性愛だったのかもしれません。

いっぽう、1980年代の時点で、いわゆる「やおい」に関して意見を求められるまでに成長していた女性であった学者・文化人が、「もうこの歳になったら少女漫画を読んでも人生の参考にも何もなりませんわ」というのは当たり前なのです。

「それより美男子を眺めるほうが眼の保養ですわ。その美男子を小娘に取られるかと思うと、はらわたが煮えくり返りますわっっ」

ってのも当然なのです。

BL表現は、戦後に独居を始めた成人女性から始まりました。

それもフランス語を翻訳することができて、すでに文筆家としてひとかどの地位を得ていた人。あるいは今より資料の少なかった時代に、古代エジプトを舞台にした意欲的な長編を完成させ、その代わりに当時としては婚期を逃したという他なかった漫画家でした。

それは最初から、男顔負けの才能と努力によって成功を遂げながらも、性愛の場面では自分より若い美男に対して「もう私じゃダメね」と思わざるを得ない人々を慰める、おとなの「たしなみ」だったのです。

【金字塔の影。】

オスカル・フランソワは父将軍の薫陶を受け、文武両道に秀でて、荒くれ衛兵隊一番の剣士を屈服させ、ロベスピエールたち思想家とラテン語で会話することができました。

男性が読んだときにも「なるほど、実際に日本の女の子のなかにも活発で勉強のできる子もいる。こういうのが理想なのか」と納得しやすかったでしょう。

今なお圧倒的な影響力を誇る池田理代子『ベルサイユのばら』の雑誌連載は1972・73年。宝塚化は翌1974年。劇団史上空前の大ヒットとなりました。

この頃は、1960年代末の学生運動が収束し、大学に静穏が戻って、進学率が急上昇した時代です。

1970年に満19歳になる人というと、1951年生まれですから団塊世代よりは年下です。この世代は、その父親が出征によって激減した世代にあたり、もともとの出生数が少ないのですが、にもかかわらず前代よりも大学進学率を上げたのです。

つまり絶対数にして前代(団塊世代)と同程度か、それ以上の人数が進学したわけです。その中には少なからぬ女性が含まれていたでしょう。1975年には女子学生がブルージーンズ着用で受講する是非が問われたといいます。

もちろん苦情を言った男性教官に対して「もうはきません、ごめんなさい」と泣いたから、そこで話が収まったのではなく、「はいたっていいじゃないですか!」と言い返したから、是非を問う議論になったのです。まさに「青踏」です。

このあとで、1976年春に登場したのが竹宮恵子『風と木の詩』でした。

父親(の代理である男性教員)から、男とおなじ教育を受け、自分を男だと思って育った女性が、男装して男子校へ入学すれば、同級生に恋をすることもある。

はたから見れば積極的な女性ですが、本人の心象風景としては肉体的にも不備のない男性が男性に言い寄っている(または誘いをかけられている)ということになるでしょう。

もっとも、女性は「男になりたい」といっても、脂くさいオッサンになりたがるわけではない。

要するに、少女がオスカル様になりたがって、その最終的な結論はこういうことになるのか。

本当は、成人に達した女性創作家が「人を愛するにあたって、性の要素を無視することはできないと自分に認めた」ということだったのに、『ベルばら』という巨大なヒット作の延長線上で、「子どもの内面表現」として解釈されたのでした。

【混乱。】

少女たるもの、「卒業したら男に負けずに活躍できる女になれるように、オスカル様や岡ひろみのように学問やスポーツを頑張ろう」と思うのが、やっぱり正しいです。今もこの価値観を疑う人はないでしょう。

いっぽうで、成人女性の「もう私は年下の美男たちがやってることを眺めてるだけでいいわ」という感慨は、やっぱり若い女性が真似して「倦怠」に耽るには、ふさわしくなかったはずでした。

もちろん、この差異が見過ごされたことが、後の社会の混乱の直接の原因です。

【出番。】

出版界はクレバーに行動しました。

小娘だとばかり思っていた(実際に当時の漫画家は高校生のうちからデビューの足がかりを得ていました)女流が、自らの性的興味を語るようになったことを受けて、1980年頃から「レディースコミック」という分野を発足させたのでした。

そして、こちらもあっという間にポルノグラフィの域に達したと伝えられています。

一歩先んじて、1978年に創刊された『JUNE』は、稚拙な読者投稿によって成り立つアニパロ雑誌ではありませんでした。それは最初から「男装して男を従える」という、ジョルジュ・サンドの眷属であるところのプロによる作品を掲載する、その意味では「まじめ」な雑誌だったはずです。

そしてご承知のとおり、出版界はいずれも事実上は成人女性向けの表現であることをわきまえながら、自分からは「成人限定」のタグを付与しませんでした。

当時の出版社の社員は、ほとんどが男性だったでしょう。

では、表現の自由とは、大人の男が子どもの女に性描写を読ませることだったのか。少女は、男性中心企業の利益のために、搾取されて良かったのか?

読者は「いいに決まってるじゃない!」というでしょう。

でも、ここで「フェミニズム」が本当はどう動くべきだったのかという議題が見えて参ります。

2015/10/23

同人誌などでの二次利用に配慮して。


この言葉を新聞紙上で見る日が来るとは思いませんでしたw

二次利用は海賊版(ゼロックスコピー)ではないので、原作の収益を直接には損なわないとは、このブログでも言ってきたかと思います。

肩の荷が下りた感はありますが、あくまで他人のアイディアを勝手に借用していることには変わりありません。

ロリショタ趣味への反感も消えません。原著者が人格権に基づいて「ジャンル」を停止させる恐れも無くなりません。あまり、えらそうに売上自慢をするものではありません。

つまり、今までと何も変わりません。SNSあるいは駅頭などにおける「同人」の言動が度を越えるようであれば、迷惑防止条例の適用など、著作権とは別の方法による規制もあり得ます。各自、引き続きご注意ください。

「少なくとも70年」のほうは……

名作映画の公開が公民館・福祉センターなどで行われることに支障が生じるなら残念です。あまり遠出もできない労働弱者、身体的弱者などへの配慮がなされることを望みます。

いっぽう、書く人・撮影する人の立場になってみると、少なくとも先進国では寿命が延びているわけですから、20歳で発表した作品の印税収入が70歳で途絶えてしまうよりは、その先があったほうが良い。

これも「反対し続ける権利はある」と申し上げます。

各国とも選挙戦の前に決着させたいという意向が働いたことは明らかで、今回はこれでやってみようということですから、黙って70年待たなくても、その間に「もう一度見直してみよう」という声が起きて来ないとも限りません。

日本人は諦めて受け入れることが上手いんですが、「ペンは剣よりも強し」の言葉を旗印に、各自の信じる道を歩み続けて参りましょう。

2015/10/22

あらためて腐女子とは何か。


榊原 史保美『やおい幻論』(夏目書房)は、意外なほど新しくて、1998年の発刊です。

「98おじさん」の頃ですから、日本におけるインターネット元年のような時代でもあります。

「やおい少女とは、トランスゲイである」

この間違った説が発表された途端に、やおいという言葉は使えないことになりました。本物のトランスゲイを激怒させ、本当の人権訴訟が起きる可能性があるからです。

代わりに登場したのが「腐女子」ですが……これは、口頭で発音しても意味がありません。

【即売会では無意味。】

おなじ電車に乗り合わせた人どうしが「あなたもふじょしですか?」という会話をしたとは思われません。

「あなたもコミケへ行くんですか?」で充分ですし、そもそも一般乗客の前でそんなことも言わない約束です。

即売会の中に入ってしまえば「私達やおいっていうのは~~」と演説をぶつ必要もありませんし、「ふじょしの○○です!」と自己紹介する必要もありません。

名刺を配る人はあったかもしれませんが、この場合も「サークル○○代表・何々」とペンネームを印刷しておけばいいだけです。

「出品物の8~9割が二次創作」という状態は、1980年代以来、そういうものを売っているという噂が伝われば伝わるほど、そんなもの見たくもないという人は参加せず、ぜひ見たいという人が参加するという選別が機能するわけですから当然です。

そのように淘汰されて残った人々は、同じ趣味の仲間が集まってることを分かってるわけですから「こんにちわ~~。お久しぶり~~」と挨拶しあえば済む話です。

ここでは「あの~~、私もふじょしなんですけど同人誌を買ってもいいですか?」という会話は、明らかに無用ですね?

海外の女性もはるばるお買い物に来てくれることは、つとに日本人参加者によって報告されていますが、彼女たちが「Je suis la Fu-joshi」と名乗るのは見かけた試しがありません。

じつは、この言葉は即売会内部では使われていないはずです。

【ネットスラング。】

「腐女子」とは、明らかにキーボードによる変換ミスであり、じつは最初からインターネット・スラングだったのでしょう。

ただし、ダイヤルアップ接続時代のインターネットへ、HTML文書として二次創作をアップロードした人が「ここは腐女子サイトです」と名乗っていたかというと、どうもそうじゃなかった気がします。

「ここは同性愛をテーマとする小説サイトです。耽美、JUNE、やおいという言葉を知らない人はご遠慮ください」というのが定型的な挨拶文だったかと思います。そして、それで充分です。

ミステリー作家・ホラー作家が「俺は殺人マニアです」と名乗ることはありません。自分自身ではなく、作品について説明しておけばいいのであって、自分にレッテルを貼る必要はありません。

二次創作ではなく、オリジナル作品の発表者なら尚さらです。設定から考えて、心をこめて書き上げたというものを自虐してはいけません。

「せっかく書いたのに山も落ちもないなんて言いたくない」という声もあるものです。だから「やおい」とは言わないとして、その代わりに「くさった作品です」とも言いたくないはずです。

とすると、「腐女子」というのは……

ダイヤルアップ時代のインターネット掲示板において、アニメファン同士が「次回放映が楽しみだ」という会話をしているところへ、わざわざ割り込んで、「キャラAとキャラBってヤバイですよね~~」といった二次創作妄想を書き込んでしまう人のことだったのかもしれません。

ネット交流の初期には、掲示板を私物化するとか、キャラクターになりきって男言葉で投稿をくりかえすとか、まァいろいろあったものです。

最初から、そのような「荒らし」行為に対して、他人がつけた「タグ」の一種だったのかもしれません。

女性が自分から「こんな話ばかりしている自分はヤバイw」と言い出したとしても、機能としては同じです。本当にヤバイと思うなら書き込まなければいいのに、わざわざ書き込んでしまう人という意味だからです。

リアル即売会参加者が「ちょっとやめて。目立たないで」と思っても、意に介さない。じつは即売会には参加したことがなく、外部へ漏らさないという約束事を知らない。最初から、そういう温度差があったのかもしれません。

逆に「自分から申し出ろ」と言われた時に、抵抗する人があったから、タグ付け論争というものが起きたはずです。

【論争の彼方に。】

あえて例えれば「黄色い星をつけろ」と言われて、断る権利があるのが本当です。最初からその権利が否定されていたのが民族差別の悲劇でした。

だから自分にレッテルを貼る必要はありません。原作ファンを悩ませるような妄想を書き込まないのがマナーであると言われたら、そのマナー、あるいはネチケットにしたがえば良いだけです。

それをあえて破っておいて「どうせ私は腐ってます。男性中心社会が横暴なせいだから、私のせいではありません」と言うなら、これはやっぱり、あらゆる意味において不適切です。

「いや、そういうことじゃない。正当な国民の権利に基づいて、BL表現の自由を守りたいだけだ」ということであれば、尚さら自虐してはいけませんし、原作ファンに対するマナーも守る必要があります。

どちらも「おなじ国民」であることに基づいて、互いに傷つけ合わない約束をする、ということだからです。

ただし、論争の果てに「先にタグをつければ、後はなにを言ってもいいんでしょ」という態度が発生した可能性はあるかと思います。

もともと手塚を神とあがめる真面目な漫画同好会が集まっていた場所で、喧嘩を売るような「山なし落ちなし」を名乗ったのも、そういう気持ちの表れともいえます。

だから、心性としては近いんだけれども、あくまで昔の「やおい」がプロに遠慮すること(権利問題)を自覚しており、即売会限定で取引し、原作者やテレビ局や学校へ通報したりはしていなかったのに対して……

国会議員も警察もPTAも原作者もテレビ関係者も「リア充」も多数参加しているSNSにおいて、暴言・過剰リツイート・一斉投稿によるランキング占拠といった言論テロというか、そういうことをくり返す集団は、別の派閥と考えるほうがよいのかもしれません。

そしてそう考えると「腐女子なんて、そんなに威張って目立つものじゃないでしょ」という指摘もありますが……

それは「腐女子=やおい=二次創作者」という前提で、昔ながらの処世術を言っているわけであって、現代SNS専業者にとっては「目立ってなんぼ」なのかもしれません。

そうすると、アカウントに鍵をかけろと言われても掛けない。ミクシィへ行けと言われても行かない。いやなら読むなというなら、自分からも読まれない方法を考えればいいのに考えない。不思議な行動にも、一本の筋が通って参ります。

重要なのは整合性であり、納得できることであって、だからただちに規制すべきかどうかというのは、また別の話です。

今や当事者は「タグ付け」によって自らゾーニングを図っているわけですから、マナーを守っているとは言えるのです。

フェミニズム的には、またこれを「男性社会への皮肉」と言うのかもしれませんが……。


2015/10/22

自称ノンセクシュアルのSNS処世術。


もし本当に性的な話題に関心がないか、不快感しかないのであれば、児童文学や愛玩動物の話題、地元の風景写真やハンディクラフトの写真をアップロードするといいです。「正しい日本語」とか「難読漢字」なんて薀蓄ブログもいいかもしれません。

優しそうな人だ、上品な人だと思ってもらえて、おなじ話題を求めるフォロワーさんがついて下さるでしょう。

お料理を試して「クックパッド」へ投稿すると、おいしいものを自分で作って自分で食べて不機嫌になる人はあんまりいませんから、一石二鳥です。

もともと性的な話題を共有しない人々が集まっているところへ、わざわざ「お姉さん一人で寂しいの?」などといった嫌がらせコメントを書き込んでくる人は、ほぼありません。

性的な話題がリツイート、リブログされてくるのが不愉快であれば、黙ってブロックするのが、むしろマナーです。スパムはプロバイダなどへ報告すればいいです。

もし職場・学校の仲間に「自分は結婚する意志がないので合コンに誘わないで下さい」と告知したいのであれば、実名制SNSでないことには意味がありません。

つまり、ハンドルネームで「ノンセクシュアル」を名乗る必要は、ほぼありません。名乗れば、かえって「本当に何もしたことないの?」などと揶揄したがる人を引きつけやすくなるでしょう。

自分から「オフ会」を企画しない限り、肉体的な接触を前提とした交際の申し込みがあり得ないSNSにおいて、あえて「ノンセクシュアル」を名乗らなければならないのは何故か?

自分から性的な話題に参加したいからですね。

それも「彼氏の体力がどう、技術がどう」といった通常のガールズトークであれば、ガールズトークの好きな女子ですと名乗れば通用するわけですから、ガールズトークに参加したいのではありません。

じつは「おとめトーク」に参加したいわけです。つまり、BL方面に振った話をしたいわけです。BL系統のエロティックな話題にコメントをつけたり、リツイートしたりしたいわけです。

それは、ノンセクシュアルではありません。


2015/10/22

おにぎりではなく、おむすびです。


「にぎる」という下品な言葉に「お」をつけても、お上品にはなりません。

「握り飯」をきれいに言うつもりなら、「おむすび」です。

『にっぽんのおにぎり』という書籍が刊行されてしまったようなのですが、まことに残念です。



2015/10/21

ジャフメイト2015年10月号の押しつけがましさ。


漫画『とめはねっ!』には「女子が書道をやってる姿を見てるだけでいい」という男子が登場しましたが……

こちらは、レース開催にちなんで「イケメンF1ドライバー」をズラッと紹介してるのです。文責は女性記者。

単純にいえば男女逆転現象。女性のやること言うことが男性に追いついたという話になるはずですが、えてして行き過ぎになりがちなのが女性の言動です。

【やりすぎ。】

美男の選定センスがよく、髪型や唇など細かい鑑賞ポイントを紹介しているのが、いかにも女性目線らしい良い特集なのですが……

言葉がすぎるというかな。やや暑苦しいです。

最初はあまりに押しつけがましいので、男性記者がセクハラしてるのかと思ったのですが、ペンネームかゴーストライターを使ってるのでない限り、女性による文章のようです。

記事の言葉遣いが「読者はご存知だろうか?」といった男言葉なので、あるいは記者が「心はオヤジ」な気分になっちゃってるのかもしれません。

これには「女の独りよがり」というだけではない問題というか、構図がもう一枚重なっています。

女性の文章の「過激」ぶりを、男性デスクが面白がって、もっと書けとけしかけるという。

さらに『ジャフメイト』の主力読者はクルマに関心のある中年男性かな……と考えると、女性記者が興奮している様子を読んで「すげーな」と面白がっているのかもしれません。

で、女性側もそれを分かっていて、ウケようとすると。

もともとイエローメディアは暑苦しいもんですが、昨今の女性記者の言葉がすぎる感じは、そんな編集部内、あるいは編集部と読者との、期待と妄想に満ちた見えない駆け引きを反映しているのかもしれません。

【類例。】

NHKでは女性アナウンサーがジャズメンを紹介しながら「イケメ~~ン、イケメ~~ン」とよがり声を挙げていたのが気色悪かったです。

これもディレクターや録音技師は男性である確率のほうが高いことを考えると「もっといい声を出せ」という演出が飛んでいるのかもしれません。

【支援と消費。】

俺っちは女性の自由を応援するぜといいつつ消費しているという現象は、1980~1990年代の「ボディコン」「ハイレグ」の流行の際にも見られたかと思います。

女性もそれを利用して、さらに「発展」したということはあるので、お互い様ではあります。だから、ひとえに「場所柄」という問題です。

【会報の品位。】

書いた文章には「表現の自由」が適用され、出版・報道界全体として「ペンは剣よりも強し」ということがあるので、何を書いても悪いことをしているという自覚がありませんから、弱者特権がひっくり返って尊大になるということを起こします。

とくに女性は腕力が弱いぶん、口先で過激ぶりたがる傾向があります。

でも、今でもやっぱり「TPO」ということはあります。

女性が実力を認められて、社会進出できたからこそ、男性が守っているルールなら、女性も守るのが適切です。

もともと『ジャフメイト』は、イエローメディアというわけではなく、男性目線で女性ドライバーを紹介して「燃える」とか「男心が悩殺される」などと書いてしまうことを雑誌のカラーとして来たわけではないのですから、女性記者にだけ性的表現を許してやる必要はありません。

歴史ある会員誌には、品位を求めます。

2015/10/21

同性愛講義に抗議する男子学生。


女性教官による同性愛に関する講義をすべて聴講し、みごとなレポートを提出した上で、その末尾に「こういうふうに書けば満足なんだろ」と書き添えてあったという話。

おそらく、女性教官による自己満足的な講義が行われていることに対する皮肉です。

すなわち、女性によって人権侵害が行われていることには言及していない。

ゲイ擁護を口実に、ストレート男性中心社会を批判しているにすぎない。つまり女性解放のためにゲイを利用している。

女性の社会学者は、この要素を自戒するといいです。

大学教官の多くは、自分自身を「やおい」とも「腐女子」とも思っていないでしょう。自分はゲイをイメージ利用しているなんてことはない、と信じている。

でも1980年代にゲイにつきまとった中には「人権運動家」を自称した人もいるそうですから、大学教官やその講義を聞いて興奮した聴講生が混ざっていた可能性はあります。

まずは若い聴講生、とくに女性へ「皆さんは新宿二丁目へ突撃インタビューに行ったりしないように」と言っておくのが良いでしょう。


2015/10/21

女性のクレームを肩代わりさせられるゲイ。


「俺たち肉食、女の子だい好き」という男性向けファッション雑誌のキャッチコピーに対して、女性が「ゲイだって肉食でしょ」というツッコミを入れていたことがあります。

もう5年くらい前の話だと思います。まだ日本でLGBTという言葉さえ一般的ではなかった頃でした。

その後、レディ・ガガ人気やドラマ『Glee』人気の高まりがあったり、同性婚法案通過のニュースが入ってきたりして、LGBTという存在の認知が急速に広まったと思います。

東日本大震災の際に、トランス(異性装者)への配慮が求められたのも、重要な動きだったと思います。

ただし実際問題として、一冊の雑誌の中に、ストレート男性が女性にモテるための「イケメン」系ファッションと、ゲイ男性がご同輩にモテるための「イカニモ」系ファッションが両方紹介されることは無いだろうと思われます。

ゲイ男性の中にも「イカニモ」系が苦手で、ストレート的イケメンファッションを追求する方もいらっしゃるかと存じますが、この人たちは自分の購読している雑誌が本来ストレート向けであることをわきまえているはずで、いちいち「俺のことが書いてない。差別だ」ってクレームしないんじゃないかな、と思います。

5年前でもゲイ雑誌はいくつか市販されており、ファッション情報が物足りなければ、そちらの編集部へ要望を出せばよいだけのことです。

だから、なにも女性の口から「ひとつの雑誌の中で、ゲイのことも忘れないであげて下さいね」という必要もないんじゃないかと思われます。とすると、問題は別のところにあります。

【肩代わり。】

女性が「あら、ゲイもいるでしょ」と言いたがる時は、じつはストレート男性に対して「女性に失礼よ」と言いたい気持ちが潜んでいるということです。

ストレート男性の性欲を強調し、肉食獣と呼ぶなら、女性は餌食ですから、冒頭のキャッチコピーは、そもそも女性蔑視的です。

これに対して女性が「男性が狙われることだってあるんだから、そんなに女性に対して威張るもんじゃないわ」と釘を刺すことがあるわけです。

でも、ゲイはこれに慌てます。彼らはストレートを襲おうと思っていないからです。

にもかかわらず、強い嫌悪感を抱いたストレート男性側が、ゲイに対して「やられる前にやれ」とばかりに凶暴なヘイトクライムに走る恐れを高めるからです。

というわけで、まずは出版各社は女性蔑視的なキャッチコピーをお控えください。

【文部科学省通達。】

なお、文部科学省からの通達によって、教育現場においては性同一性障碍を「性別違和」、LGBT全体を「トランス・セクシュアル」と呼ぶことになったんだそうです。

性同一性障碍者は「自分は障碍者なのか?」と悩んでいたので、朗報だと思います。

LGBTのほうは……越えちゃいましたか。

彼ら自身としては、何も「越えて」いないはずですが。

あくまで異性愛を「正常の範囲」としたうえで、そこから逸脱した連中という意味ではないことを祈ります。

2015/10/20

質の高いパロディ、同人の自戒。


永井豪、山上たつひこ、日野日出志あたりを真面目に読んできた漫画ファンからすると、『ワンパンマン』の表現は不愉快だろうと思うのです。

前衛的・挑戦的だった先輩たちの偉業を表面的に模倣して、笑いを取ることに利用している。

既成キャラクターを直接利用しているわけではないので、いわゆる「二次創作」ではないけれども、手法そのものがパロディなわけです。

でも、これは若い後続創作家にとっては当然のことで、反骨精神の表れの一種です。それが無いよりは、あったほうが良い。

宇宙からの敵、超能力といったものはSFの分野ですが、もともとSFというのは現代社会への風刺です。それを理解できる柔軟な知性の持ち主は、とうぜん、自分自身の先輩にも皮肉・風刺の矢を向ける。「いいじゃん別に。昔と同じじゃ面白くないじゃん」と言ってのける。

おそらく「耽美」の世界でも同じことが起きたのです。

萩尾・竹宮が、西欧の歴史・文学・音楽・建築物にまで知識を得たうえで、渾身の情熱をこめて自分の少年趣味を表現したことは、いま読んでも理解できる。

でも1980年代に入ると「すまして文学きどりで耽美とか言っちゃって、どうせただのエロじゃん」と言っちゃう世代が現れたのです。

間にはさまったポスト二十四年組あたりは、まだ「先輩たちに悪いわ」という意識があったので、自虐・自嘲ということになったのですが……

次世代は、その自虐語を大きく書いた旗をふって、そこんとこよろしくと叫ぶ暴走集団化した、と。

重要なのは、そういう経緯をじぶんでわきまえておくことです。

最初から金目でエロを書けば実際に金になるという行動は、あくまで先輩たちの偉業の後に成り立っている。

漫画の背景には文学があり、文学の根っこには伝説・神話がある。現実の人間の営みがある。戦争があり、差別がある。悲しみの上に娯楽が成り立つ。

先人に敬意を表し、学ぶ姿勢を忘れない。それがめんどくさいという人は、せめて黙っている。そういうことは、やっぱり大事です。

『ワンパンマン』のアニメスタッフが何をしているかというと、これまでに蓄積されたアニメの技術を最大限に駆使して、最高のパロディを作っている。

石ノ森や、その愛弟子である永井が示した「世界観」を利用させてもらうにあたって、最大限の努力を払う。

これがブラックジョークを駆使する日本創作界が、先人に対して最高の礼を執ったということになるのでしょう。


2015/10/20

コスプレはバッグにしまってから帰りましょう。


思い起こせば30年ほど前。同人誌即売会でコスプレした姿のまま街頭を歩いた(たぶんお昼ごはんを買いに行った)人があって、住民を驚かせ、警察への通報となったことがありました。

以来、コスプレは会場の中だけという約束ができました。

じつは雑誌記者などが行列に並んでいる人のコスプレ姿を撮影して公開するのも、同人サイドから言うと迷惑行為なんだろうと思います。

コスプレそのものを見物することを目的に来場する人(同人創作物には理解のない人)が増えれば、トラブルが増えるのは容易に予想されますから。

アキバへコスプレ姿で乗り込む人は、コスプレそのものの同好会なのであって、二次創作者とは違うという自認なのかもしれません。

二次創作は、物語を変えちゃうところに意味があるわけですが、コスプレが勝手にデザイン変更したら何のコスプレか分からなくなります。

だからコスプレは確かに「原作を尊重し、番組を応援するファン心理の表現」と言えるでしょう。

で……とりあえず、「パーティ会場」から帰るときは、着替えましょう。

海外でもハロウィーンのためのウィンドウディスプレイが不気味すぎるというので、ご近所で問題視されるなんてニュースがあったりするものです。

若い人の気晴らしの機会が増えるのは良いことですが、アレなニュースも増えてしまうのかもしれません。

2015/10/20

国家権力=悪ではないです。

大革命の時代には「国王横暴! 庶民の声を聞け!」ということができたのです。

でも、民主主義政府は国民の総意です。

だから国会議員は庶民の代表・象徴・典型であることを求められます。昔の王侯貴族・お大尽ごっこはダメです。

だから賄賂はダメ。女(または男)遊びもダメ。汗水たらして働き、地元を愛し、家庭を愛し、老幼を第一に考えると。

これに対して「金目」を最優先する企業のほうが、むしろ悪と見なされるわけです。企業の集団が「業界」です。

素人がその業界の代表のような気分で「金目」を主張すれば、敵は国民全体ということになります。

国家が庶民の自由を弾圧してはダメよと言えた時代は、構図がシンプルだったのです。

戦後の時代は、国家=政府=庶民=善なのです。それを欺瞞的な戦後民主主義というなら、そういうものです。

だから構図は「善意の戦後民主主義 vs. 悪の企業の手先である同人」です。

現代では、確実に非営利に作品を発表している「インターネット同人」というべき人々がいて、その多くがバブル中年よりも若く、金もない彼(女)らの発表の権利が奪われる恐れがある。

そういう話をしているときに、バブル中年が自分の(昔の)利益ばかり自慢するものではないです。


2015/10/19

フェミニズムと出版界の間違い。


そもそも憲法において、男女の平等と、万人の表現の自由が保障されているわけですから……

「女性が何を書いたっていいじゃないですか」と言えば終わる話です。

ここで「男女が平等なわけないだろ。何をしたって女が負けるに決まってるんだ。生意気だと言われたら、殴られる前にごめんなさいと答えて引き下がればいいんだよ」

という男性がいれば、「現代的」な女性は大反対しますわな。

でも昔から日本の男性創作者・出版関係者というのは、そんなに露骨に差別的ではないものです。もともと彼ら自身が暴力反対・戦争反対・思想統制反対です。

日本の物語作家の嚆矢が女性(紫式部)であることについて「それじゃ困るから隠蔽しよう」という人もありません。

三島は森茉莉を認めたし、寺山は竹宮を認めたし、男性同人は女性同人を即売会へ入場させまいとバリケードを築いたわけでもなく、1990年代を迎えたわけです。

でも、創作物と現実を混同した読者によって「余計な質問をされる、つきまとわれる」という人権被害を受けたゲイコミュニティは、黙ってはいられない。彼らが声を挙げたのは勇気であり、正当な権利の行使でした。

そもそも女性の表現の自由が最大限に認められたからこそ、他人の自由との軋轢も起きる。

だから、話は最初から「そろそろルールを決めよう」ということだったのです。

【出版界の黙秘。】

年齢制限しなくて良いのか? 他人のキャラクターの無断利用は良くないんじゃないのか?

弱者特権だと思って、気の大きくなりすぎる子どもがいるなら、ひとこと叱ってやったほうが本人のためじゃないのか?

最初からそういう話だったのです。

でも冷静に考えると、実際問題としては、いずれも「販路を限定する」および「一定の使用料を納める」ということで示談にできる話です。

事実上、1978年に専門誌『JUNE』が創刊されて以来、少女漫画と(事実上の成人向け)BL表現は、発表媒体(雑誌・文庫)が分離されるようになりましたし、同人関係はもともと即売会に販路が限定されていたわけですし、アニメプロデューサーなどの権利者も、ファンサービスの一環として「キャラクター使用料はスマイル0円」(皆さんで楽しくやってください)ということにしてきたわけです。

だから本当は、ゾーニングもすでに出来ている。

なのに、出版界はそれを明言しなかったのです。もちろん「売れなくなるから」です。そこで、相対的に声が大きくなった人々がいた。

「男はいつもそうよ。私たちにばっかり家事を押しつけてさ!」という、ラディカルフェミニズムでした。

【フェミニズムの怒号。】

だから「そもそも女性が衆道に憧れなければならないのは、男性によって行動の自由を制限されているからであって……」

という、創作動機の開示が増えたわけです。

でも、ミステリー作家は「自分が殺人を書くのは母親とうまく行かなかったからだ」などとは言わないものです。もっと残虐な描写に邁進するホラー作家もです。

表現が自由である以上、創作動機を説明しなくても良いのです。

だからBL側が言うとしたら「女性だけ意見陳述を求められるのは、すでに犯罪者あつかいされている証拠です。無礼です」だけです。

本当いうと、女性の行動の自由がどんなに認められても、三島由紀夫が言った通り、女性の肉体が性愛において受身なことは決定的ですから、たまには男役に憧れるという人が出てくるのも当然なのです。

その気持ちを表現したければしても良いことになっているというのが「表現の自由」であり、対外的(国際的)にも、あくまで建前を維持するというのは重要です。

そして、確かにその通りに女性の自由が十二分に認められたからこそ、BL作品の出版も可能になったのです。だから「出版はできるが、ルールが必要だ」という話だったのです。

明記されたことがルールなら、暗黙の了解を「マナー」といってもいいです。女性(による過激表現)が充分に社会進出したから、今や女性もマナーを守るべきだと。

過激表現によって生活費を得ることができるなら、もはや単なる弱者ではありません。自分よりも法的立場の弱い人々に対して社会的・道義的責任を負います。女性がついに大人になった。BLを通じて立派に「男」になった。最初からそういう話だったのです。

1990年代の時点で、発表のルールを定め、ゲイコミュニティには迷惑をかけないようにという約束(の告知)がなされるべきだったのに、それが出版界の経営的配慮によってなされず、相対的にラディカルフェミニズムによる男性社会批判の色彩のほうが強まってしまったのです。

そして、肝心の「女性のほうからゲイコミュニティへ一言謝るべきだ」という話が、どっか行ってしまったのです。

だから松岡正剛も、この話題では奥歯にもののはさまったような言い方しかできない。

21世紀の出版界とフェミニズムは、まずこのへんを反省するところから始めるのが良いのでしょう。


2015/10/19

プロ作家個人よりも私たちのほうが売れている。

そういう陰口をいって、笑っていた。

いわゆる同人の行状として、聞いたなかではこれが最も悲惨なものです。

比較の対象が、人数的にアンフェアなわけです。その卑怯さに、今に至るまで本人が気づいていない。

しかも言った本人の売ったものは、本人に正当な権利のないものです。少なくとも権利者にひとこと挨拶が必要なものです。本来、然るべきキャラクター使用料を納めるはずのものです。

それを「編集部がバックについている」という訳のわからない噂を信じて、無断で売っておいて、まじめな商売している人よりも利益が高いと自慢する。

最低限、人間として、これは言ってはいけません。少なくとも、同人誌即売会の外で言うことではありません。

同人が犯罪者予備軍あつかいされるのは、社会の偏見ではありません。言ってはいけないことを言ってしまう同人がいるからです。

利益だけを基準に威張るなら、不法な薬剤や海賊版を売ったり、児童を犠牲にして「俺はこれで食っている」というのと同じです。

ポルノ漫画でも、売れているうちはいいです。人間、お金に困らなければ、あんまり悪いことはしません。誰も最初から刑務所に行きたいとは思っていないからです。

でも、一度でも他人の権利品を借用して、勝手に商売すればいいということを覚えてしまった人は、本来の手段(創作)ではかせげなくなった・人気をなくしてしまったというとき、何をしでかすか分からない……

そういう危惧が生まれてしまいます。

もともとテレビを見るのがいちばん好きな、おとなしい子たちだったはずなのです。

それが集団化によって横暴な発言をするようになるなら、悪いのはアニメではなく即売会という場所だ、ということになってしまいます。

創作同人であることが悪いのではありません。絵柄がアニメっぽいことが悪いのではありません。オリジナル作品であるかぎり、自分に権利があります。

だから、ニコニコ動画が百合妄想・BL妄想のコメント書き込みを「荒らし」と認定すること、および嫌儲は、自分を守るために適切なのです。

逆にコミケ同人側が「嫌儲」を鼻で笑うのも当然なのですが、二次派だけは言っていいことと悪いことの区別がつかないようだと、自分の首をしめることになります。


2015/10/19

ワンパンマンを拝見しました。


クレジットに並ぶアニメ関係者の名前を見て、心の中で「がんばれーー」と小旗を振りながら。

アン○ンマンじゃないです。正義の一発でどんな敵も倒しちゃうから、ワン・パンチ・マンらしいです。

奇妙な怪人たちの姿と、グロテスク描写を見て、ああ石ノ森章太郎の世界観がここまで来たんだなァとか、直接的には永井豪の影響だけども主人公の顔が美青年タイプだから竹宮恵子もすこし入ってるかなァとか、ぼんやり思いながら。

サラリーマンではなくヒーローになりたかったという主人公が、実際に最強ヒーローになってみたら……というんですが、惜しむらくは主人公の(元々の)顔が高校生にしか見えないところでしょうか。

あらゆる要素が「約束事」の集積に過ぎないわけで、リアリティ重視派には「意味わからん」と感じられる作品だろうと思われます。

和歌がリアリティをなくして言語とイメージの遊戯になってしまった時代がありましたね。あれに似ているかと思います。

前提となる先行作品を知っていると「なるほどね」などと思いながら楽しめるわけですが、知らない人には全く面白みとして感じられないことでしょう。

【忙しい手品。】

1980年代以来、ゲームのほうが面白いと気づいてしまった男子たちをテレビの前に引きつけておくには、刺激を強めていく他なかったわけで、暴力表現も、絵柄の変化も、展開の早さも、涙ぐましい努力と遊び心の融合の成果ではあります。

もともとアニメ化を想定の範囲内として制作された漫画に基づいて、忠実なアニメ化が行われるわけで、浮世絵の分業体制にも似ています。

1980年代の漫画原作アニメは、アニメスタッフのほうが漫画の肝を分かっておらず、ギャグのテンポが悪いことが多かったのですが、同人界がすべての「青田」として機能することによって、漫画とアニメの一本化がなされたのでしょう。

漫画の世界観を動画表現するにあたって、PCを使えるようになって良かったことです。日進月歩のCG部分に比して、セルアニメ準拠の人物画は、あいかわらず手ぬるいままですが。

今はこれが精一杯。

【逆手。】

暴力をカッコいいものとして描くと、憧れて真似する子どもが出てくる。

PTA的批判に対して、無気力な主人公と、すぐに倒されちゃう悪役を配置して、一見すると子どもが憧れないように配慮を示しつつ……

アニメ的表現として最も面白い「街が一瞬で吹き飛ぶ」とか「腕や首がグーーンと伸びる」というデフォルメは、存分に描いているわけです。

この、ひねってひねって元に戻ったみたいなところが、日本の漫画家の駆使するブラックジョークの精神ですが、海外でどれだけ通用するか。

外人さんは意外なほど真面目で、論理性重視ですから、あんまり市場は広がりません。日本のギークを理解してくれるのは海外のギークだけでしょう。

どこまで行ってもオタクはオタク。

【オタク精神とは。】

男女を問わず、面白いところだけを永遠に消費し続ける「山なし落ちなし」精神なわけです。モラトリアムというか、ネバーランド精神。この作品も「これ終わらないな……」と思いました。

モラトリアムって、本体「支払い猶予」期間のことなので、いつかは弁済しなきゃならないんですが、オタク精神というのは、引きこもり精神でもあるわけで、いつか卒業することを前提にしていないのです。

最近の作品は、みんなそんな感じで、『進撃の巨人』も『暗殺教室』も、最初の思いつきはいいのです。でも終わんないのです。

敵を倒して「ばんざーーい」というハッピーエンドにすることを自ら封じてしまったのですから終わりようがない。

『寄生獣』の頃から見られた現象なんですが、思えば『悪魔の花嫁』とも同じです。

矢吹ジョーもヤマトも、強敵をなかなか倒せない間が楽しいわけで、勝ってしまえば真っ白だ……

と、あの時点で言っちまった以上、むしろ今までよくぞ持たせて来たと言えるのかもしれません。そろそろ限界。

世阿弥も芭蕉も、表現上の大鉈をふるって、大胆な削ぎ落としを行った文化史上の英雄だったわけですが、アニメ界には要素の整理を行う若手が出てくる日はあるのか。

放映冒頭には「無断で転載することは禁止されています」といった字幕が流れるようになりましたが、この山も落ちもなく定型表現をくりかえす作品をビデオ(盤)の形で正規購入する人がどれほどいるのか。

おもちゃが売れるタイプの作品でもありませんし、そこらのコンビニで一番くじ景品やキャラクター菓子が売れ残っているのを見るにつけても、アニメのビジネスモデルというのが心配な今日この頃です。