2015/11/30

話がずれていることが分からない人。


なぜかというと、似たような話を混同しているから。

単語に脊髄反射して、過去をフラッシュバックさせてしまい、自分にとって一番印象的だった経験を語り出してしまうから。

「今、その話ではない」ということが分からないのです。

ちょっと現実で体験したものですから「ああ、やっぱりこういう人がいるんだ」と思った次第です。


2015/11/27

昭和13年、堀辰雄『風立ちぬ』


女は抱きしめてほしい。病気なんか怖くない、きみと一緒なら死ねるといって、貫いてほしい。夫婦なんですから。

でも彼にはできない。同じ部屋にいるのに指一本ふれない。彼女も無理強いはしない。だからジッと見つめている。男は「怖い」という本音を見透かされているのが分かっている。

そうかといって逃げ出すわけでもない。仕事があるなどといって都会へ帰ってしまうわけではない。

ずるい男なんだけど、悪い男ではない。彼を選んだ私の眼に、まずまず狂いはなかった。

女は病んだ胸一つにすべての感慨をたたみこんで、黙って死んでいくわけです。彼は彼女によって許されたんだけれども、自分を許すことができない。山奥に引きこもってしまう。

でも、それにつけても村娘に食糧を運んでもらう必要がある。男とは、独りでは生きていけない哀しい生き物だ……

そういう、言葉にならない、文章として書かれない、伏流水のような心理がずっと流れている。そういう小説だと思います。

実体験に基づいて、その際の心情を的確につづっているようでありながら、自分で自分に嘘をついているような、ずるい男の独り言は、体のいい自己愛表現なんだけれども、後味の悪い作品ではありません。

風景描写が美しいのはもちろんですが、根が良い人たちだからです。せめて愛する人の前で誠実でありたいと思う男と、ヒステリーを起こしたりしない女なわけです。

病気さえなければ、愛らしい若夫婦だった人たちです。

近代化して以来、日本は西欧に優越することができない国になりました。無理に優越しようとすれば戦争やる他ない。もちろん小説家たちは戦いたいタイプではありません。

日本の近代インテリは、なまじ理解力があっただけに、ずーーっと「頭打ち」された感覚、しかも(政府・軍隊によって)西欧と実際に戦うことを求められているという圧迫感、モヤモヤ~~ッとした暗い感じ・病んだ感じを持ち続けていたのだろうと思います。

その結論は「黙って愛しぬくことのできる女は強いが、現実から逃げ続ける男は哀しい」になっちゃうのかな……と思います。


2015/11/26

ノンセクシュアルのゲイもいるはずです。


漫画や小説を読んでエロティックな情趣を得ることはできるけれども、肉体が反応しない。

生まれつきの機能障害や、なんらかの心的葛藤があって、実際に性交したことがない。してみたいとも思わない。

こういう状態を「ノンセクシュアル」というものなら、同性志向のノンセクシュアル者もいるはずです。

いまなおカミングアウトしていない。実際の恋人を持ったことがない。雑誌の情報が刺激的すぎて辟易してしまった。ゲイにはこんな人が案外多いはずです。

でも当然ながら仲間の幸せを願っている。とくに若いゲイの人権被害には心を痛めている。

彼らは女性が純情無垢なふりをしながら新宿二丁目まで押しかけては、「男同士が吊橋理論でホモになるって本当~~?」などというBL妄想を質問してまわることに対して、不愉快きわまると感じているはずです。

【女子はファンタジーに入りやすい。】

児童生徒の問題行動を見てきた教員の実感として「女子はファンタジーに入りやすい」というのがあるそうです。

この場合のファンタジーとは、ダンセイニやトールキンの衣鉢を継いで、児童文学のノーベル賞を獲得できるという意味ではありません。自分の脳内の創作想像に酔ってしまい、現実との区別ができなくなるという危険な状態です。

漫画を真に受けて「こういうことってほんとにあるの?」、映画を真に受けて「どうすればあんな恋ができるの?」などなど。質問されたほうが面くらうでしょう。そんなことも分からないのか?

「理想の自分と現実とのギャップに悩む」なんていうのも、そもそも理想の自分を空想することにふけり過ぎたのです。

理想の家族、理想の恋人、理想の都会人、理想のキャリアウーマン、理想のテレビアイドル……

あらゆることを勝手に想像して、それと自分は違うから恵まれていないと結論することもまた、ファンタジーです。自分がいちばん可哀想と思うことも、同情してもらいたい気持ちが生んだファンタジーです。

自己演出がうまいことも一つの才能ですが、少なくとも、もっと苦労している人々の前で自分の可哀想アピールをしすぎることのないように、気をつけましょう。


2015/11/25

鬱は創作物のせいではありません。


むずかしいお芝居のことばかり考えていたから鬱になったのではありません。

それに取り組む以外にやることのない生活だったからです。人間が創作物にのめり込む時は、やっぱり現実の不如意を抱えています。

やることがあるといっても、たとえば教員としての職務が忙しすぎて鬱病になることはあるかもしれません。でも無事に卒業していった子どもたちの将来が楽しみで鬱になるってことは(ほぼ)ありません。

愛玩動物の出産に立ち会って右往左往している時も、鬱にはなりません。なんの生き物も、赤ちゃんは自分が大きくなることしか考えていませんから、大人をも「生まれ変わった気持ちで」という気分にさせてくれるものです。

でも生まれ変わるといっても、女性は就職(中途採用)にあたって「若い子のほうがいい」と言われるから男より不利……と思いがちですが、男性だって新卒のほうがいいと言われることは同じです。

じつは男性でも、小劇団の旗揚げと解散をくり返し、あるいは自費出版で赤字を重ね、借金だらけになって親元へ逃げ帰るなんてことがあるものです。まだ1970年代だったら、黙ってお見合いしてくれる女性が見つかったかもしれません。

でも、1980年代以降に、カタギな就職を蹴って、芸能や作家の道をこころざしたが独立できるほどではなかったという場合、男女とも後が厳しいのです。

でも「鬱になった」と言っていられるということは、死ぬほどではなかったということですから、逆説的な幸せ自慢と考えることもできます。

鬱という言葉は、健康な人が「面白くない、気乗りがしない」という意味でも使われますが、ほんとうに鬱病と診断された上で「怠け、甘え」と勘違いされて苦労する人のことを思うと、あんまり使わないほうがよいのかもしれません。

(あるいは「鬱病」のほうで名前を変えるとよいのかもしれません。)



2015/11/24

創作物は誰を悪役にするか?


若い女をはべらせた白髪の老人、というのが『さらば宇宙戦艦ヤマト』。

浪人者などの若い男をたばねる白髪の老人、というのが時代劇によくある型。

このへんは、脚本家・監督などから見て「既成の男性中心社会の権力の象徴」ってことで、相対的に若い主人公たちにとっては目の上のタンコブであることが分かりやすい。

将来結ばれるべき若い男女が世界の平和を守っていて、対するに「おほほ」と笑う男性(トランスキャラクター)が悪役というのが『科学忍者隊ガッチャマン』(1972年)から『美少女戦士セーラームーン』(1992年)まで受け継がれた型。

「ジュディのお友達」と称した人々が反撃の狼煙をあげた……というと物騒なので、勇を鼓して人権運動に踏み出したのが1969年。

映画・テレビなどの創作界では、直ちに彼らを「滑稽な悪役として描く」という、反改革とは言わないまでも、揶揄する意識が表現されたと思います。

申すまでもなく、都心部に結集している映画スタッフ・テレビスタッフの多くは、実家を後にしてきた若い男性で、その多くはストレートです。

先日拝見したテレビドラマ『相棒』では、人工頭脳ジェイムズくん育ての親である孤独な女性が悪役でした。バーチャルリアリティにのめり込む独身女性の痛々しさと、仕事にうちこむ健気さが、個性的な女優により、やや誇張されて表現されていましたね。

もともと彼女自身の仕事なんですから、プログラムの名前を「Namiko」にしたって悪いこたありません。

ほんとは「あの子」がネットの大海に出て行くんじゃなくて、あくまで彼女の仕事が世界を席捲するのです。ネット上の人工頭脳が世界中の法務省データベースにアクセスし、難事件の犯人を割り出して、被害の拡大を防ぐ。男性が暴力をふるうことの多い世の中で、彼女が新世界をつかさどる神となるのです。

もともとの目的が悪いことじゃないのが悲しい話です。

人類史の初期には、穀物を生じる大地の象徴として、一人で子どもを産む女神が登場します。その子どもは、娘ではなく、男の子です。アポロンも、ヒュアキントスも、一寸法師も、もとはそのような大女神の脇侍としての小児神、穀物そのものの象徴だったらしいです。

人の口に入って咀嚼されてしまうものが男の子なんですから、不思議といえば不思議ですが、これは古代の詩人の多くが男性だったから「ママと僕」を描きたかったのでしょう。

キリストの処女懐妊という話が、異常事態として否定されるのではなく、尊敬と思慕の念をもって受け入れられることにも、この古代の記憶が反映しているのでしょう。

大女神の多くは、世界がキリスト教化されていく過程で、古代の悪習の象徴、魔女ということになりましたが、ジェイムズくん育ての親も、魔女のようでもあり、巫女のようでもある風貌を持っていたかと思います。

巫女とはもちろん神のよりしろであり、神の声の代弁者です。

「こういう孤独な女は、茶色い巻き髪と三重マスカラでおしゃれしていたりしないものだ」というステレオタイプ認識は、創作物にはやっぱり必要で、「おしゃれな研究者もいます!」とか言ってると、話が成り立たないということはあります。

いっぽうで、法務省の役人というエリートの小悪党ぶり(彼は色事に熱心だっただけで殺人をおかすほどではなかった)も描かれていたわけで、そこは伝統的といえるかもしれません。

それにつけても右京さんが小料理屋でくつろぐ場面が減ったことで、薫ちゃん夫妻がその後登場しないのはもちろんですし、都心に在住する脚本家たちにも独身者が増えているのでしょうし、ふつうというか伝統的な男女の安定的な関わりが描かれなくなっていくのかもしれません。

ここで「日本はおかしい」とか言っちゃうのはやや早計で、東京イコール日本ではありません。

ドラマの不調は、中央から発信される(若い)人生模様と、地方が希求する内容とのギャップによるのかもしれないと思う時もあります。

どう考えても若者が集結し、相対的に熟年世代の比率がさがっていく東京において、彼らを満足させ得るドラマが制作されることはむずかしい。

仕事に夢中すぎる女性を悪役にするのは、あるいは彼らをも満足させ得るかもしれませんが、毎回それをやるわけにも行かないし、彼ら自身(中高年男女)の痴情のもつれを若いスタッフが揶揄的にえがいたら「不愉快だ」って言われるでしょう。

『相棒』には、中年女性がむかし世話になった監督の「映画を見ながら死にたい」という夢をかなえてやったという良エピソードもありましたが、あれも何回も使える手でもありません。

「犯罪動機なんて、ようするに色と金」と開き直れば自嘲的になって『TRICK』になっちゃうわけですが、そういうわけで『相棒』の脚本陣は神経すり減らしているだろうと思います。

素人が申すまでもありませんが、上手に気分転換なさってください。


2015/11/20

明治20年、山田美妙『武蔵野』


顔ハメ看板のなかに「寛一・お宮」がありましたが、尾崎紅葉や山田美妙がやっていたのも「同人誌」です。与謝野鉄幹や武者小路実篤がやっていたのも「同人誌」です。

じつは、文豪って若いのです。現代人は大家となった彼らの風貌を写真で知っているだけなので、酸いも甘いも噛みわけたオッサンだと思いがちなのですが、じつは20歳くらいで「サークル」に参加して、小説を発表し始めたのです。

で、これはいかにも若い人が書いたらしい、血腥くドライな物語。同人ってやつァ変わってねェなァといったところ。

花の東京で学問に励んでいるはずが、小説を書くほうが楽しくなっちまい、挙句に何もなかった頃の武蔵野に思いを馳せちゃったりするわけです。

当時なりに満員電車に揺られ、卒業のための単位をそろえることに奔走し、ときには教授におべんちゃらを使い、同級生のてまえ見栄を張って散財したりなんかしていると……「みんな逝ってしまえーー」ってな気分になる。

じつは同人誌掲載ではなく、新聞連載小説なんですが、いかにも作風が「同人」らしいわけで、当時の大人読者も面くらったかもしれません。

現代の若い人に「漫画ばかり読んでないで明治の文豪でも読んで勉強しろ」といっても、想像力と世界観に与える影響の点で大差ないかもしれません。

技巧的な台詞からして、キャラクターは能装束を着けている(鬘帯を締めている)ような気がされるけれども、「わが跡弔いてたびたまえ」もないし、「仏果を得しこそ有難けれ」もない。涙・涙の再会劇もない。庶民の好きそうな大団円がない。若いインテリらしい皮肉が利いている。

読後感が何かに似ていると思うと、やっぱりSF系のショートショートかもしれない。高橋葉介や山上たつひこの漫画かな?(似たようなものか)

冒頭に登場した人物の物語が始まったかと思うと終わってしまうというのは西村寿行が『去りなん、いざ狂人の国を』でやっていて、呆気に取られましたけども、はや百年前にやってたですな。

冒頭の戦場風景は舞台劇よりも映画に近く、かといってこの頃の映画は(あったとしても)血の色を表現できないので、小説家の想像力が最大限の効力を有していた時代。

言文一致とはいいながら、まだ地の文にも江戸時代を残しているけれども、分析しながら書いていく技法は進取の気概に満ちている。そうでしょう、読者諸君。

書いている本人は、すごく楽しかっただろうと思います。

進学率の極小だった明治時代、その幸運を得た若きインテリたちは、基本的に裕福な家で行儀よく育てられたわけで、よくも悪くも社会的経験値が低い。かわりに、人が死ぬことや、女のことばかり考えているってところがある。親の期待に応えられず、大臣にも博士にもなれず、でも言われるままに勉強している奴らより、俺のほうが頭がいい、人を見る目が鋭いなんて思っている。コンプレックスだらけです。あげくに裸体画を掲載して発禁をくらったりする。

あるいは当時の青年たちにとっても、「同人誌」という響きは、自分と同世代が大人の目を盗んでやっている「ヤバイ」ものという雰囲気をともなっていたのかもしれません。

2015/11/19

右京さんとジェイムズくん。


「私、わざとあの人の家に電話をかけてたんですよ」

こ、こんな女と浮気しちゃいけませんよッ(怖)

というのは置いといて……。

孤独な女の少年趣味。

なぜに名前がジェイムズくん。日本で悪者退治(犯罪捜査)に当たるなら「桃太郎」とかにするといい。

作り声による美少年ボイスを担当したテアトルアカデミーの声優さんはどちらでしょう? 液晶画面にキャラ画が表示されていなくてよかったことです。(追記:声優事務所の名称を勘違いしたと思います。お詫び申し上げます。)

ケバい浮気相手、偽善的な嫁さん、やな感じの上司。

典型的な人物たちで脇を固めて、もはや誰を真犯人にしても陳腐なわけですが、人工知能は結局のところデータを与える人間しだい、という当然の限界を逆手にとった徳永と、端麗な演出を加える橋本のゴールデンコンビ回だったかと思います。

「作品」に愛着する女の自滅的末路は身につまされます。見おろす男たちの痛ましくも厭わしげな表情がじつに良かったです。

近未来というか超現代なコンピュータルームと法務省の赤煉瓦の対比も美しい回でした。

バーチャルリアリティに浸る最先端女子と、職権濫用して生々しい情欲を押し出す男の古典性の対比も、ポイントだったでしょうか。

常にエレガントな右京さんに対して「チョイ悪」で役作りする冠城くんは、「いなくても展開上さしつかえないが、存在感を出さなければならない」という難しい役回りを、抑えめな演技でよく勤めていると思います。中年に達した反町の顔の皺がじつにセクシーでよろしいです。

「コンピュータが母性を利用する」

ファンタジックな推理をさらりと述べる奇抜なキャラクター性もさりげなく示されたかもしれません。右京さんは論理派なので、あまりそういうすっ飛んだことは言いませんから、二人の掛け合いの今後に期待……とか言わずにおくほうがよろしいでしょうか。

(プレッシャーかけられて困るような脚本陣でもないと思いますが。)

ジェイムズくんは、ネットで育つとどうなるんでしょうか。まさか吝嗇家にはなりますまい。もとが犯罪捜査用だから、悪意のウィルスとかと戦ってくれるといいです。

なお「バグを深読みして負けた」というのはじつに人間らしいエピソードで気に入りました。

2045年まで、あと30年。永遠の少年ジェイムズくんと、90歳の右京さんとの対局を拝見したい気も致します。(歴代の相棒が勢ぞろいして観戦。)

妙な脳内映像に浸りつつ……。


2015/11/18

マツコさんとチャーハン。


板橋トーク炸裂。マツコさんの熱意がリカちゃんの時と違うw 小さな町の食堂のご主人たちへの尊敬の念を感じました。

映像学科出身者による見事な写真集(板橋区の中華店ガイドブック)が印象的でした。自費出版にもいろいろあります。

この番組は何が嬉しいって、マツコさんの年齢が自分と近いことで、懐かしいと思うポイントが似てるですね。出演者が極少で、騒がしくないとこも魅力です。(他人の話の途中で自己主張するガヤ芸人は苦手です。)

ゲストの経営する店や、話題に挙がった駅の様子を分割画面に挿入するさりげなさにも、制作陣の心遣いとセンスを感じます。

それにつけても黙々とチャーハンを喰らい続けるオッサン達を眺め続ける番組ってのも奇妙なものではあります。

顔ハメ看板のほうは、エンジニアらしいデータベースが印象的でした。自撮り棒装備で表情を確認する熱心さも、技術者魂の一端なのでしょう。

マツコさんご自身や、番組スタッフまで含めて、特技を活かし、わが道を行ってしまったというか来てしまった四十代たち。自己表現にもいろいろあります。

2015/11/17

マツコさんとリカちゃん。


在野コレクターを紹介する例の番組。遅れていなければ11月10日放送分。

リカちゃんの彼氏人形を紹介されて、女装家が「もっと男の子と女の子の人形に区別をつけたほうがいいんじゃない?」と言えば、知的なクレクター男子が「そこはファンタジー」と答えるという。不思議なやりとりになってましたね。

イサムくんの顔は、個人的にキサラで認識してました。女の子なのにあの顔というところが魅力的でした。

相対的によりフェミニンになったレンくんも可愛いです……が、男の子人形は髪型のバリエーションが少ないので、こういうのはやっぱり女の子がいいです。

リカちゃんの顔は、眼を除光液で消してアクリル絵具で描きなおすというのをやってみたことがあるのですが、デフォルトの偉大さを思い知りました。

悲しそうなような、はにかんだような、誘っているような、あの表情は絶妙です。

日本人は昔から、そういう人形の顔を作るのが上手なことです。

面打師も文楽人形の制作者も雛人形の顔を描くのも伝統的には男性で、あの微妙な女性の表情には彼らのファンタジーが籠められているに相違なく、ドレスのデザイナーにも男性が多いことを思うと、ほんらい人形遊びは男性のものなのかもしれません。もちろんジュモーも四谷シモンも男性です。

目玉が横を向いているのは、もともとバービーさんから来ているはずで、イメージモデルはオードリー・ヘップバーンなのかなと思いますが、1950年代には日本で生産していたバービーさんが正面向きに変更された後も、極東に生き続けているのは不思議な感慨です。

なお、マツコさんが番組を盛り上げるつもりで「ほぼ変態ですね!」と言ったことに、コレクター男子が一歩も引かず、調子を合わせて自虐もせず、「どういうところが変態だと思われますか?」と静かに問い直していたのが印象的でした。

若い世代には「お約束」は通用しないようです。



2015/11/16

話し合いが基本です。


個人的に、空爆は現地の女子どもを苦しめるので良くないと思っています。

それをやめてほしい側は「やめてください」と言い続けることが基本です。

お互いに「それが通じる相手じゃねェんだ」ってことですが、「じゃあやれば」とも言えません。苦痛と悲しみが続いていることは、たいへん残念です。

日本政府は「報復合戦に最大限の尽力をする」という方向へお間違えになりませんように。後藤さんの願いは戦いが続くことではなかったと信じます。

日本人の基本姿勢は「被害の大きさを知っているので、もう戦いはいやだ。戦争には協力しない」でよろしいです。

最も困難な道とは存じますが「話し合いのテーブルを用意する」という方向であって下さい。

蟷螂の斧でも、焼け石に水でも、言っておきます。



2015/11/13

声優になりたいのは大事な夢ですが。


かなう確率のほうが低いです。養成学校の同期が100人いれば、プロデビューできるのは1人です。

べつに業界の暴露話ではなく、宝塚音楽学校の同期からトップになって、その後も映画女優として活躍できる人が1人いるかいないかであることを考えれば分かることです。

まだしも宝塚なら、卒業にこぎつけた人は全員が群舞(ラインダンス)として舞台に上がることができます。でも声優は「モブ専用」なんて役はありません。

すでに知られている通り、ガヤガヤいう声は役を持った声優たちがアドリブで演じているので、録音現場にいるのは数人です。本当にせまい世界です。

なんなら好きな声優さんのプロフィールを調べてみて、養成学校の同期からデビューした人が何人いるか確認してみるといいです。

彼(女)と仲の良いプロが1人か2人いるかもしれませんが、その背景にはデビューできなかった同期が98人います。その背景には、ただ憧れていただけの少年少女が、日本中に300万人くらいいるでしょう。

あなたの同世代が110万人いるなら、あなたはその110万分の1にならなければなりません。それがプロ声優としてデビューするということです。

声優に「なりたい」ではなく、声優を「やりたい」と考えてください。別の道が開けてきます。業界が必要としているのは即戦力です。オーディションやってる暇もないくらいです。

養成学校だって、音楽学校だって、もともと良い声を持ってる子・いわゆる滑舌が良い子・教えなくても演技のコツをつかむ才能のある子を見分けるために開いてるようなもんです。

義務教育ではないので、何も知らない子を、みんな同じように育ててくれる養成学校は存在しないと思ったほうが良いです。本当にそれをやるなら、3歳から英才教育する必要があります。

実際には、そのくらい小さい頃から物真似が上手で、機転がきき、「緊張しちゃう」などと下らない言い訳をせずに、録音現場で要求に即応できる人間が、必要とされる人材です。

自分の体を舞台に上げる演劇なら、一人芝居でも上演できます。会社員やりながら「夜間だけ稽古しています、日曜日だけ公演します」ということが可能です。

でも声優となると、誰かがアニメ番組を作ってくれて、そこへ抜擢してもらうしかないので、声優に「なりたい」、養成学校へ「入れてもらいたい」という受身の発想になるのです。

でも「野球選手になりたいが、キャッチボールもしたことがない」という人を野球選手にしてくれるスカウトマンはいません。未経験者がとつぜん才能を認められるという漫画みたいなことは起きません。

養成学校へ入ることが自己目的なのではありません。

東京へ行ってみたいだけなのか、動画にナレーションをつけてみたいのか、自分にはその能力があるのか、現役声優の物真似で同級生のウケを取りたいだけなのか、試してみると分かります。

素人演劇の舞台に上がる度胸もない人が、いきなり上京して声優事務所のオーディションを受けても、声が出ないだけです。


2015/11/12

BLは部活マネージャーになりたい心ではありません。


なりたければ、なればいいです。マネージャー希望者が多くて抽選に外れたとしても、将来の道をインストラクターやスポーツ医学・スポーツ心理学といった方向へ定めて、資格を取ればいいです。

調理師・栄養士の資格を取って、運動部の盛んな学校の近くで食堂を開いたり、寮母さんなんて道もあります。もちろん中学・高校の教員となって運動部指導を要望することもできます。

女子スポーツの監督になれば、結果として男子チームとも交流したり、指導者同士の勉強会で男顔負けに審判の資格を取るなんてこともできるでしょう。

カメラマン・新聞記者といった道も考えられます。ボールなどの用具メーカー・その小売店に就職を求めてもいいです。理系大学へ進んで繊維メーカーに入り、速乾ユニフォームや軽量シューズを開発するなんて仕事もあるかもしれません。

そうじゃないのです。男性のやることに憧れて、その世界へ入って行きたいのではなく、あくまで女性目線の「BL」という表現形式に親しみ、その量産を自分の仕事とこころえる。そういう女性が確かにいるのです。その中から、才能のある人がプロになったのです。

さらにその中から、性愛の要素を省いて、青年どうしの心の交流を上手に描写する人も現れて、文芸の世界が豊かになったのです。

そういう人は、もしマネージャーになれれば、プロ作家(漫画家)にはなっていなかったということではないのです。

2015/11/11

BL研究者が区別すべきこと。


アニパロは二十四年組から始まったのではありません。

プロ創作家が、自分のファンに向かって「西崎義展の傑作を笑いものにしてやりなさい」と命令するのはおかしいです。「タツノコプロの権利を踏みにじってやりなさい」と教えるのもおかしいです。

1970年代のSFアニメは、テレビオリジナルでした。プロデューサーであり、字書き・絵描きでもあった人々の渾身の作品でした。それに対して、自分も渾身の作品をしあげるプロ漫画家であれば、敬意を払うのが当然です。

「アニパロ」というのは、あくまで素人の発想。アニメファン(の一部)でだけ通じるジョークとして始まりました。それが小説の形を取っているなら、もともと腕に覚えの文芸サークルと、アニメファンとの交流から生まれてきたと考えるのが自然です。

【母親のせいでもありません。】

母親との葛藤と共依存は、戦後の核家族では多くの少年少女が経験するものです。だからといって、全員がBLファンになるわけではありません。母親との葛藤とBLには、直接の因果関係はありません。

でも、BLそのものを論じる研究者の態度がいいかげんだと、学生に直接の影響をおよぼし得ます。

アニパロは二十四年組から始まったのではありません。

もし熱心な二十四年組のファンが「私も先生たちのような少年愛の美学を描きたいです!」と言ったら?

二十四年組としては「漫画の構図とコマ運びを一生懸命に勉強して、オリジナルキャラクターを考えて投稿しなさい」という他ありません。「いいかげんな小説を書けば、私が編集部に口をきいてやるわよ」なんて言うはずがありません。

もし「私は同人に詳しいのよ」と威張っている人がいたら、「最初に『アニメキャラを利用すれば簡単じゃん』と思いついた人は誰?」と質問してやってください。おそらく答えることができません。

アニパロこそ「コピーのコピーのコピー」です。コピーの元になった「マスター」を誰も見たことがないのです。そのことに気づいてさえいないのです。

百歩ゆずって、当事者が何も知らずに夢中になっているのは致し方ないと言えます。

たとえば、洋楽バンド演奏に合わせて踊る少女が歌詞の意味までよく理解しているとは限りません。友達に誘われてクラブへ来て、てきとーに体を揺すっているだけということはあり得ます。

でも、研究者がそれでは困るのです。当ブログが問うているのは研究者の態度です。やおいは二十四年組から始まりましたと平気で言ってしまう人々の「神経」です。

サド侯爵も三島由紀夫も読んだことのなかった子どもが「男同士なんてことがあるんだ!?」と気づいたのは、漫画がきっかけだったかもしれません。

でも、その漫画から得た知識を「アニメの世界に持ちこむと面白い」と最初に気づいた人がいるのです。

偉大な個性が登場した後には、エピゴーネンの時代が続くものです。一説には、男性による二次創作は、女性の後を受けて、性別逆転させることによって始まったとも言います。

だったら、二次創作の世界には、すべての元となったゴッドマザーがいるのです。たった一つの最初の作品があるのです。

研究者がそこまで斬り込むことができずに、出版業界の事情に遠慮する程度であれば、みずから大学の自治を否定したも同然です。そんな態度をさらしてしまうくらいであれば、この話にはノータッチが正解です。

また、この意味でゲイが「やおいは迷惑だ」と言ったのは正しいのです。

自分の言動をふりかえり、何かがおかしいと気づくことのできない心性は、プロとアマチュア、少女と成人を混同する心性です。著作権利用と表現の自由を区別できない心性です。弱者特権と人権侵害を区別できない心性です。BL趣味とノンセクシュアルを区別できない心性です。

研究者みずから、その「区別できないやおい」の代表になってしまっていたことを反省する時期だと思います。



2015/11/10

ハーレム以外のアニメを増やせばいいです。


2年ばかり前に押井守が言ったのは、ハーレムアニメが多すぎるなんてことじゃないです。

二次創作を含めて、旧作アニメのキャラクターだけを利用するビジネスがいくつかあって、その内部で利益が廻ってしまうので、肝心のアニメ制作現場に落ちてこない。

パチンコ業界はパチンコの新台の開発に投資するのが当たり前ですから、言い訳は立つんですが、それだけにアニメ業界側は人面犬みたいに「チクショーーッ!」って言う他ない。

自分にやる気があっても、若手にやる気があっても、新作の脚本を見てくれる人(プロデューサー)がいない。これじゃキャラクタービジネスという名のコピー商法ばかりが盛んで、アニメ映画の歴史が絶える……

そういう悔しさを言っていたわけです。

でも、現場が嘆くのは「新作がつくれない」ということなんですから、ハーレムアニメを嫌いな人が自分たちでお金を出し合って、名作アニメを作らせてあげればいいです。

と言ったら、アニメ制作会社から「いっぺんに作れません! 現場が廻りません!」という声が挙がったのです。

いや、ハーレムアニメ制作会社が無理して製造ラインを増やすんじゃなくて、ハーレムを作らないアニメ会社を誰かが新しく設立すればいいだけの話です。

不思議ですね。アンチハーレムに向かって「既存のアニメ会社に依存するな」というと、既存アニメ会社が「うちに依存しないでください!」というわけです。だから、それを言ってるんでしょ? という話です。

【独占と寂寥。】

自分だけが頼りにされているという、「被害妄想的責任感」とでも言うべき思い込みはどこから来るのか? 自意識過剰といえば一言で済みますが、もう少し考えてみましょう。

たとえば「バニラ味だけではなく、抹茶味やソーダ味も作ったら、バニラの製造を減らさなければならない」とか、「LサイズやSサイズも作ることにしたら、Mサイズの製造を中止しなければならなくなる」という考え方の裏には……

すごく資源が限られており、それを自分だけが独占しているという意識があるわけですね。

新しい会社なんか出来たら自分がつぶされるという危惧があるから、自分しか存在しないことを勝手に前提してしまい、「仕事を増やさないで!」と、とんちんかんなクレームを叫ぶ。

アニメ制作会社(の一部)には、ハーレムアニメのファンだけでアニメ業界が成り立っており、そこ以外からの資本投下はあり得ないという認識があるのでしょう。

もう一つは、一家の主婦が娘と喧嘩したなんて話と同じで、手伝ってくれる人がいない。

作業の大変さを理解して、協力してくれる人がいない。がんばっているのに差別されている……という寂しさが、叫びとなって表れるのでしょう。

【市場拡大と多様性。】

実際には、若手が(PCを駆使して)独りで結構なものを作っちゃう時代になりました。足りないのは、資金だけです。だから、ハーレムじゃないものを見たい人が、お金を出せばいいのです。さらに、動けばいいのです。

美大に声をかけて、優秀な若手監督を発掘し、スタッフをそろえればいいです。脚本を自分で書いちゃえばいいです。絵コンテを切るところまでやったっていいです。

もともと日本の漫画は、映画を撮りたいが金がないという若者が、自分で場面設定だけ考えるところから始まったはずです。手塚は金さえあれば最初からディズニーの真似をして、アニメ映画を作りたかったに決まっています。

既存ハーレムアニメ会社は、より一層おもしろいハーレムアニメを作って、可能なかぎり輸出を増やせば良いです。

【アニメファンの受身性。】

アニメ鑑賞は「テレビを見る」という作業が基本なので、映画ファン・生演奏ファン・美術館めぐり愛好家に比べて出不精になりやすく、都会に存在する大企業と、目黒区に存在するアニメスタジオが新しい番組を始めてくれるのを、ひたすら待っているということになりがちです。

待つ身はつらいので、苛立ちがつのり、ファン同士の喧嘩・暴言も増えるなんてことにもなります。

アニメーターになりたい人は、お絵かきがしたいわけで、あまり外向的・社交的なタイプではありません。

「俺は自分では絵が描けないが、やたらとアニメが好きだから、同級生と町内会と政府に声をかけて、カンパさせてやるぜ」という、口八丁・手八丁のプロデューサー魂にあふれた野郎(女性も可)があんまり生まれてこないという、これがアニメ界最大の弱点です。


2015/11/10

コピーのコピーのコピーと言われれば。


それを逆手に取る奴もいる、というのが『ワンパンマン』。

繰り返しの面白さそのものをよく分かった人が買うことになるので、固定ファンを見込めるが、『アナ雪』のような超ヒットにはならない。このへんが落としどころ。

『妖怪ウォッチ』のほうは、集客効果を見込んで企業が権利料を支払い、無料公開するという方法だったかと思いますが、これを商法として続けるには、一般の老若男女にアピールするコンテンツを制作し続ける必要がある。

日本のアニメ界は、いつの頃からか、これを最も苦手としてしまいました。

『サザエさん』の息の長さを考えれば、老若男女がそろって見られるアニメが好まれないわけではないのですが、やっぱり世界的には、日本の生活習慣に憧れてくれる人は、欧米お姫様文化に憧れてくれる人よりも多くない。

レベルファイブが次を開発してくれるのを、みんなで待っているところなのかどうか。

先日、公立図書館へ行きましたが、小学生男児たちは、図書館の中へ入らず、その周囲に置かれたベンチに陣取って、対戦ゲームに真剣でした。ニンテンドー派とカード派がいるようです。たぶん両方持ってるんでしょう。

なお、ひと勝負つくと、ゲームをしまって、リアルに芝生の庭を走り回ってました。メンコやベーゴマで対戦していた時代から、基本的にはそんなに変わってないように見受けられました。

【クレヨンしんちゃんスペシャル。】

1995年の年末テレビスペシャル。『ぶりぶりざえもんの冒険(飛翔編・電光編)』(湯浅政明)、『劇画クレヨンしんちゃん』(原恵一)が入ってるやつ。CS放送を録画しておいたもの。

湯浅のギャグがじつに冴えてました。敵アジトの赤色灯を交換したところで爆笑しました。この人は漫画(の間合い)をよく分かってるんだなと思いました。

基本的に「家族」という主題にこだわる富野 由悠季が、クレしんに嫉妬する気持ちはよく分かる。映画版を見た彼は「こういうのやりたかったーー!」と(心の中で)畳をゴロゴロ転げまわったに違いないのです。

いっぽうで「劇画」のパロディを担当する原のほうは、富野(のファーストガンダム)を追いかけているには違いないはずで、この二人の対談はウェブ上で拝見しましたが、うらやましい世界ではあります。

なお、別のスペシャルでは、一家でハワイへ行くシリーズの最終話、リサさんにふられた後のしんちゃんの絵がじつに良かったです。こちらは水島努の絵コンテ。

絵柄は富野も指摘した通りで、シリーズを通して独特の手抜きなわけですが、あれはあれでバランス取れてるのです。個人的に湯浅の前衛アートっぽいデフォルメ具合が好きです。

保存しておきたいほどのアニメ作品というのは、ちゃんと生み出され続け、再放送され続けています。それを見て育った若者の中から、次の才能も生まれてくるでしょう。

アニメもコアなファンのみによって支えられる大人の趣味の一つになりつつあるような気もしますが、継続が力なのだと思います。


2015/11/10

デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲。


先日『金田一少年の事件簿リターンズ』を拝見し、「これが今の東映か」とガックリ来たものですから、まずはこの頃(2001年)は良かったなと思いながら見始めました。

……が。

基本的に前作の演出を踏襲しているので、ファンには分かる「あるある」感があるわけです……が。

大人の知らないところで世界中の子ども達のメールが起こした奇跡という号泣ものの前作のコンセプトが換骨奪胎され、衆人環視の中における巨大モンスターのガチンコ勝負というアクション巨編になってしまいました。

ゴジラ上陸して、打っても打っても次がある白色彗星帝国状態。

キャラクターは新旧そろい踏みでお買い得感があるはずなんですが、どうもあらゆる意味において盛り上がらないまま、続篇の立ち位置としては正しいのかな……という奇妙な腹落ち感だけが残ったことでございます。

エンジェウーモン様が美しかったのが慰めかもしれません。リアルタッチの人物、パステルトーンの色彩設計、細やかな背景、特殊効果に至るまで、絵的にはがんばりました。

前作の要素をそつなく取り入れて続篇を成り立たせるのも監督のセンスのうちで、技術は高いわけですから、ふつうのアクションになってしまったのは企画の問題です。なるほど、これが押井の言った「コピーのコピーのコピー」か、と思わせられないでもない。

ともかく子ども達が元気で嬉しかったです。でじでじ、もんもん。

21日からの限定上映には行けそうにないのでDVDを買っちゃうと思います。しぶい商売です。

(今日はアニメに関する三連投です。)



2015/11/09

2014年、大友啓史『るろうに剣心 伝説の最期編』


6日の金曜ロードショーで拝見しました。衣装、背景、殺陣、撮影とも見事なもので、日本の映画人が頑張っている様子が嬉しいです。横にズーーッと移動するカメラワークが印象的でしたが、アニメを意識しているのかどうか。

自身の色男っぷりをよく分かっている福山さんの堂に入った演技が見ものでしたね。ご結婚おめでとうございます。

物語のほうは……維新の功労者が、明治政府によって迫害される。歴史の暗部を描くというアイディアは魅力的です。でも主人公が若いので、いかんせん説得力がない。

本来は、首相になった男と同年輩の中年男性を主人公に、若い頃には維新の夢を語り合い、彼の陰で活躍したのに裏切られ、美しかった全身を焼かれたモンスターとなって戻ってきた……とやるはずの話です。

つまり福山を主役に起用して、原作を換骨奪胎し、彼の悲劇として一本化すべき話です。これなら2時間1本勝負の作品に収めることができ、世界の映画祭へも持っていける。

でも、このスタッフの取った道は、原作漫画およびアニメの固定ファンが共有する世界観を、そつなく再現することでした。

【若者と女性の怨嗟。】

原作漫画自体が、いま流行の「イケメン多すぎ」という作品の初期の成功例の一つであって、もともと主役級の人物が数人もいて、役どころが「かぶって」いるわけです。

しかも、あくまで少年漫画なので、若い読者の「俺らはいつも大人の陰で損させられる」という怨嗟を反映している。

さらに、原作の連載が始まった頃には、すでに本来の少年漫画読者である学童がビデオゲームに取られてしまっている。いっぽうで、年間200万人超えを誇る第二次ベビーブーマーを含む1974年以前生まれが、続々と18歳以上の成人になりつつあった。

漫画雑誌(の一部)は、美青年の登場に期待する成人女性購読者を取り込む姿勢を明白にしたわけで、とうぜん彼女たちの「あたし達は歴史の表舞台で活躍する男の陰で損させられる」という怨嗟を、女みたいな顔した青年キャラクターが背負うことになるわけです。

若者と女性にとっては魅力的だけれども、やっぱり世界レベルで一般的な表現ではない。とくに本来の映画ファンである中年男性を満足させない。

(※ 映画は入館料が必要なので勤労成人のもので、相対的に安価な漫画・自宅で無料視聴できるアニメが子どものものなわけです。)

だから、固定ファンへのサービス、and/or、原作漫画を再販するための全編これプロモーションビデオといった趣。

特殊効果を含めた表現力は申し分ないけれども、映画としての完成度、歴史巨編としてのリアリティを求める中年以上の男性には「あまり真面目にご覧になっちゃいけません」と忠告もうし上げる必要がある。

日本の漫画・アニメはあるていど輸出されているので、世界的にも或るていどの市場を見込める。でも、あくまで「ある程度」で、それ以上には広がっていかない。そうかといって……。

【映画の贅沢な苦悩。】

「維新の陰の功労者が全身包帯のモンスターとなって明治政府に挑む」といった時点で、『るろうに』のパクリじゃん、と言われる可能性は高い。

もともと原作自体がゴシックホラーと時代劇をミックスしている。さらに剣戟と洋装の混在という「B級」の面白さを取り入れている。20年前の原作の時点で、もうこれ以上オリジナリティを出すのは無理、と漫画家が見切っている。

映画人も、いまさら迂闊にオリジナル脚本は出せない。

また、わざわざ権利料を支払って有名タイトルを名乗っておきながら、話が換骨奪胎されているというのは、ファンが許さない。だから面白そうな原作を見つけた映画人は、そのまま再現する他ない。

日本の伝統芸能ばかりでなく、クラシック音楽、オペラ、バレエなども、アンシャン・レジームの庇護を失って久しく、身分的には庶民という他ない熱心なファンに支えられることのみによって生きのびている。それが高齢化しているので、こっから先が心配だというのは、先進国の演技者が共通して抱える悩みでしょう。

映画は、都会の富裕層ばかりでなく、立派なオペラハウスなど持たない地方の庶民も楽しむことができるので、舞台劇にくらべて下位文化あつかいだったはずです。

だからこそ、有名な原作を得手勝手に改変したり、ギャング映画・無国籍映画といった「娯楽」が許された。でも、技術と意識が高まって、なまじっか高級なものになっちゃったわけです。

理念と技術の蓄積という資産のない状態だったからこそ許された「弱者特権」が、もう通用しない。どうせ映画なんだから、このくらいやらせてくれたっていいじゃ~~んと、うそぶくことができない。

「やればできるんだから、真面目にやれ」って言われちゃうのです。

【明日はどっちだ。】

漫画を元に荒唐無稽な映画を成立させるのは、マーヴェルなどもやってるわけで、もともと『バグダットの盗賊』みたいなクラシック映画だって、おとぎ話の映画化なんですから、オリジナルアイディアを出せない日本の映画が情けないわけじゃありません。

原作漫画が尊重される、固定ファンが勝手な改変を許さないというのは、各国とも1945年の終戦後に生まれた世代の次世代(第二次ベビーブーマー)が、紙の漫画(グラフィックノベル)を読みながら育ってきたことによるもので、問題はこっから先となります。

この20年間は、1990年代の遺産で食いつないで来たといえる。その背景にあるのは明らかに1980年代の「同人」活動です。では今から30年後は?

いまの40代が70代になって、同級生が順に旅立っていくのを見送る他なくなったとき、その時代の40代は、紙の漫画に最大の愛着を持っているとは限らない。テレビアニメにさえ執着しているかどうか分からない。

自分自身を主人公とするオンライン交流型のゲームによって、それぞれの物語を抱えてしまった新世代は、何を懐かしがり、なんの再現を喜ぶのか。

【結論。】

表現力は申し分なく、日本人は手先が細かい、俳優をふくめて映画職人に誇りがあると言えるけれども、「てつがく」というのか、先が見えない。

二十年前のタイトルと、その固定ファンにすがり続ける他ない。

日本の映画全体、さらには創作界全体を象徴するような作品だったかな……と思います。


2015/11/06

2007年、ザック・スナイダー『300』


続篇じゃないです。少し前に続篇の公開記念で1本目のほうが新パッケージになっていたので買っといたのです。

絵が美しいので、たいへん好きな作品です。一枚ずつ隅々まで描きこんだ油彩画のならぶ美術館へ行ったような、お得な気分になります。

背景と人物は明らかに合成で、スタジオ撮影感ありありなんですが、その作りものっぽさがまた舞台劇を見に行ったような気分にさせてくれます。

実際の舞台劇では、遠景のスケール感を出せないので、両者を組み合わせた「映像らしさ」が嬉しい。

ロケハンに行ってしまって、クレーンを使って、生撮り感を重視する作り方もあるのでしょうが、個人的にはこのミニチュア感というか、教会のせまい壁に描かれたルネサンス絵画の再現感というか、ひじょうに好きです。デレク・ジャーマンに見せてやりたかったです。

ストーリーは「来た見た負けた」なんですが、あらすじが分かればいいのであれば映像は必要ないわけで、映画は「見せ方」だろうと思うのです。

ナレーションが入ってるところが「おはなし」らしさを醸し出して、画面に「もともと誇張したアニメーションのようなものだ」という弁解の効果を与えているわけで、うまいものだと思います。

一種の特撮というか、CGだから特殊効果なんですが、そういう意味じゃなくて昔の怪獣映画みたいな、作り物感を楽しめばよろしいので、それを「くだらない」と思うかどうかが分かれ道になる作品かと思われます。

【見どころ。】

よくもそろえたり男性美。なかでも、レオニダスが単身切り込んでいく場面が白眉かと思われますが、何度見ても重装歩兵の古代彫刻そのものの姿であるところが感動的です。

ペルシャ軍の造形に惜しみなく投入された荒唐無稽な想像力は、「昔はこういうのスペースオペラでやってたよなァ……」などとも思わされました。

かつては映画でさえ古代(史実)に関して無理はできないと思われていたのかもしれません。

その間に考古学・音楽を含めた民俗学の研究が進んで(ギリシャ方の)再現が可能になったのか、アカデミズムも世代交代して「面白ければいいじゃん」という意識に変わったのか。

ブルーグレー、およびセピアに色調補正した画面のなかで、戦士たちのマントの赤色が目に残ります。異様なステンドグラスのような、レオニダス軍のラストシーンも素敵です。

そして、じつは女性キャラクターもカッコいいところが好きです。出陣前夜の夫婦和合も刺激的かつ美的な名場面。

カメラの性能を駆使した巫女のダンスも、肉眼による鑑賞を前提には表現できない、新しい芸術かと思われます。

ピーター・メンサーは、もうちょっと見ていたかった印象的な役者さん。starz『スパルタカス』では良い役でした。

【天佑。】

武勇で知られたスパルティアタイが、よく大軍を防いだと聞かされれば、やっぱり「バッタバッタと薙ぎ倒し」ということが想像される。

その漫画的な想像に、エロスと残虐描写を加味して、大人の娯楽にしあげた。PTAが一番いやがる要素を逆手にとったわけです。これは漫画・アニメを見慣れた新世代が成人に達したことによって生まれてきたもので、実際に監督がまだ若い。

そして原作が実際に漫画(グラフィックノベル)なんですが、その画力は日本の多くの作品とは桁が違うようです。

宗教画的な画面は、じつは漫画から来ているんですが、その漫画に中世・古代からの蓄積が反映されている。

俳優は腹が割れるまで筋力トレーニングを積んだのだそうで、古典古代の芸術遺産に直結する表現力を身に着ける努力をすれば、荒唐無稽も大人っぽく見せることができる。

これが天の欧米人に与え給うた能力で、残念ながら日本人がうらやんでもどうにもなりません。

メンサーたちのような黒人俳優はどうなのかっていうと、おそらく血脈のどこかで白人と交流して体格の良さを手に入れたので、日本人にも足の長い「ハーフ」のアイドルなら存在するわけですが、「純日本人」では太刀打ちできないのです。

【そして日本。】

日本人は男女ともあの肉体美を真似できないので、小さな子どもや細ッこい少年少女が活躍する話にすり替えるわけです。

大きな肉体への憧れは、もちろん巨大ロボットや巨大戦艦で表現するわけです。宗教画にも演劇にも造詣が深くないので、アニメ独特の動きを追求するわけです。

日本製アニメのいたずらなカラフルさはまた、日本人の地味さが基礎にあるのだろうと思われます。砂漠の国では建造物がカラフルだ、というのと大体同じじゃないかと思います。

この映画の主演にしても、starz『スパルタカス』にしても、顔をあれだけ「汚し塗装」してあっても、眼に透明感があるので絵的にサマになる(黒人は白目部分が多い)わけですが、日本人は目も小さいし、虹彩も褐色だし、鼻が低くて深い陰影を表現できない。

おそらく日本のアニメは、それだけ見ていると「分からない」ものです。

背景となる山がちな大自然の色調の暗さ、民族の小柄かつ地味な顔立ちという「負」の部分まで総合すると、ちょうどバランスが取れていることが見えてくるのだろうと思います。

2015/11/05

森アーツ会田誠展クレームのファンタジー性。


児ポ法とTPPがひと段落したので、あらためて考えてみようかな、と。

まず「18禁」を名乗っている会場・イベントへ向かって「子どもを連れてくる人がいたらどうするんですか!?」と問う人のほうが異常です。

子どもを連れてくる親へ向かって、市民団体から説教してやればいいです。

全国のPTAに向かって「会田展の会期中は、六本木のまんなかのビルの天辺にある、もともとグロテスクな作品を得意としている前衛美術館へ、ピクニック気分でお子様を連れて行かないほうがいいですよ」と、アナウンスしておけばいいです。

もし美術館から「営業妨害だ」と言われたら「子どもに見せるつもりですか!?」と言い返してやればいいです。

でも、そもそも美術館から言ってこないでしょう。実際、親子連れに来られちゃ困るんですから。

本当に問題視しなければならないのは、作品のほとんどをウェブ上で見られる状態を美術館が放置していたことで、経営的にもほぼ無意味です。

会田だけは、それをサンプルとして、どっかの金持ちが「俺にも描いてくれ」って申し出た可能性があるので、いい宣伝になったかもしれません。

【話を分けましょう。】

「私は18歳以上の成人だが、女性として不愉快だ」と思ったなら、その通りに言えばよろしいです。

あえて戦略をさずければ、子どものためと、女性のためで、クレーム文書を発する人を変えればいいです。

話を分ければ、上述のようなわけで、子どものためのクレーム文書は発したほうの赤っ恥になることが自分で分かるでしょう。

話を分ければ、絵画に表現されているものが男性の身勝手な性欲であり、女性の表象から尊厳が奪われていることへの抗議であることが明白になります。

そして、ここで「非実在者の尊厳」という、ファンタジックな話題であることも明白になります。

これに「真似して凶悪犯罪を起こす実在者がいたらどーーするんですか!?」という声が絡んできて、これは重要な問題ですが、そもそも真似する人が「いる」という前提が異常だということもできます。

これは「真似してはいけません」という教育を続けることが基本です。

じつは、この教育を成り立たせるためには「架空と現実を混同してはいけません」と明言する必要があります。

すると「非実在者の尊厳を守るべきだ」という主張は、架空と現実を混同していますから、矛盾となります。

逆にいえば「絶対に真似しないという約束の守れる18歳以上の大人のみ見ることができます」と宣言した以上、非実在者の尊厳は守る必要がないというのが、論理的に正しいはずなわけです。


2015/11/04

TPP、同性婚、同人、フェミニズム。


ひと段落ついたような、つかないような。

同性婚を正式に認めるには、憲法の文章を一部変更する(両性の合意を両人の合意に変える)必要があるんですが、じゃあ九条も変えろよという話が絡んで来そうなので、揉めるでしょう。

しばらくのあいだ、自治体の条例レベル・裁判所の判例レベルで対応することになるのだろうと思います。保険会社は、加入者を増やすことにつながるので、柔軟に対応するでしょう。

LGBT市場の大きさは、ビジネス雑誌も注目しているところで、ソチ五輪の際の不買運動によってスミノフが青くなった件で、逆に証明されたかと思います。

【非親告罪。】

TPPのほうは、らちが明かないので選挙戦の前にいったん終わらせようということですから、これから何回でも「見直し」という話が出てくることを覚悟しておいたほうが良いと思います。

インターネットはますます発展し、著作権問題もいっそう国際化します。日本の常識・お得意の自虐ジョークが通用しない相手が次々に登場してくることも考えられるでしょう。

【二次創作とBL。】

若い人がアングラ芸術に誇りをいだき、「プロよりも俺たちのほうが面白い」というのは当然です。ただし、それはあくまで自分で考えたものを発表している時です。それが斬新で個性的なときです。

他人の権利品について、自分のほうに理があるように言うこと、および「バックがついている」と威張ることは、やはり異常事態です。

二次創作であることと、BLであることも、イコールではありません。じつはBLは、女性の特権でさえありません。もともと、トーマス・マン、ヴィスコンティ、パゾリーニといった人々の作品は、「ゲイによるゲイのための」というものではないはずです。

彼ら芸術家の世界では、女性的な美男に最高の価値が置かれる。女性はそのことに異性愛とナルシシズムの両立という旨味を感じたから、その「ただし美少年に限る」という偏見まで含めて、真似しただけです。

だから、じつはストレート男性こそ「ボーイズラブ(≒少年愛)は俺たちのものだ」ということもできる。それを「女の分際で分かったような顔をして、真似するとは根性がくさっている」ということもできる。

女性がこれに対抗するには「憲法で男女の平等が保障されています。女が男の真似をしたっていいんです」という他ない。

でも、それなら「男性中心社会の横暴のせいで、やむを得ずBLに染まった」みたいな言い方はできません。平等には理由がないからです。

【フェミニズム。】

著作権法は古い法律なので、ラディカルフェミニズムの理屈としては「明治時代に男だけで勝手に決めた法律なんか、女が守らなくてもようございます」と言うこともできます。でも、そのつもりなら、フェミニズム団体として正式に宣言しなければなりません。

二次創作であることと、BLであることをごちゃ混ぜにして、被害者意識をふりかざした挙句に、何もかもプロ漫画家に責任を押しつけるというのは、もう通用しません。

新宿二丁目における人権侵害という話も、もうフェミニズムでは弁護できません。女性が家庭の外で給金を得ることができるようになった以上、もはや単なる弱者ではないからです。

当ブログは、基本的に、その昔「フェミニズム」を標榜した人々の一部が「やおい論」と称するトンデモ説を発表したことに対して、「それじゃ理屈が通らないでしょ」と、わざわざ指摘しているものです。

同人が「創作活動そのものを非難されている」という被害妄想にかられて「そんなに興味があるなら、コミケの内情を暴露してあげるわ!」と言い出すのは困るので、ご遠慮ください。

じつは日本の「フェミニズム」に呆れたのは、森アーツの会田誠展へのクレーム文書を読んだ時でした。ああ、1980年代から更新されてない人がいるんだな……と思ったものです。

大学の先生たちも、授業でBLの実物を読んでみましょうとか言ってる場合ではないです。BL解釈そのものの変遷の歴史を、そろそろ系統だてて若い人々へレクチャーしてあげるといいです。

自己批判という厳しい作業になりますが、それをやってこそ学者です。

(なお、ここからはややまったりと、一日一記事ずつにいたします)


2015/11/02

BLの神話的起源、日本の学者の不勉強。


社会進出をこころみる女性が、自分自身の弱さを冷たく見据えて描写するというのは、田村俊子が『木乃伊の口紅』の中でやってるです。大正時代の作品です。

彼女は「ほぼ自分」というべき女性を主人公にしているのですが、その夫である男性の眼から見た彼女の狡さ・軽薄さをも見事に描写しています。

つまり、女流が男の眼を持ったわけです。男性化したわけです。だからといって、BLになるわけではない。

1980・90年代に「やおい」を論じた女流学者などは、アマチュア少女作家が(男性によって人生を左右される)女性の立場を皮肉った、みたいなことを言ったようですが、すでにそれは池田悦子が『悪魔の花嫁』(1975年~)を通じて存分に表現したところです。

BLが生まれるには、伝統的な女性性を忌避し、風刺することに加えて、どうしてももう一つのインパクトが必要です。すなわち、男色に関する伝説。

昔の武将や高僧が本当にそういうことをしたらしい、という伝説。

それは年長者が男役、年少者が女役に固定されており、心身ともに男女の模倣が顕著である。通過儀礼を口実にした少年虐待にすぎません。

なんでそんなものを日本の若者が知っていたのかといえば、銀座の高級ゲイバーへ潜入インタビューして来たからではなく、サド侯爵の著作を読んだからです。

【怪奇と幻想、SFと耽美。】

コミケのルーツはSF大会です。SFはラブクラフトや三島由紀夫の存在を通じて、ロマン派・耽美派につながっています。小松左京の口からも「ロマンティーカーの美童趣味なら俺にも分かる」なんて言葉が漏れている。

もともとSFは公害と新たな不平等を排出しはじめた近代産業社会への風刺という意味があり、同様に近代産業社会を否定して過去の「美」に向かう耽美派とは、発生時期からいっても、日本へ輸入されたタイミングからいっても、背中合わせの双子です。

そして社会批判の気持ちを持った創作家(の卵)たちが、猥褻裁判に関心を持たないわけがありません。

ロマン派・耽美派の源流には人文復興があり、その源流には古典古代がある。古代ギリシャの昔から、男神たちは美少年を略取してきました。それは自分が女役になるためではありません。大人=男、子ども=女という定型は、1970年代に至るまで、何千年も受け継がれてきたのです。

小松左京は男だから「分かる」とはいっても耽美派のその部分は自分の題材にしなかった。女流は女だから、あまり抵抗なく描いてしまった。感情移入しているようで、していない。簡単にいうと、それだけです。

【踏襲と揶揄。】

竹宮恵子『風と木の詩』は、第一部だけ読むと「少年同士は切ない」のですが、第二部を読むと年長者が年少者に手を出した様子がきちんと(ってのも変ですが)描かれています。

それによって性倫理を狂わせた少年が別の少年を誘惑し、後者が成長してから青春時代を回想した(すなわちこの時点で擬似的に年長者と少年の組み合わせになっている)という額縁構造が、巻頭言に示されている。批評家として読むなら、ここまで読み取りましょう。

源流をたどれば遥か神話の時代にまでさかのぼる定型表現が、女性の手から手へ受け継がれるうちに「乙女チック」な様相を強めた。多くの女性が人生の初期にはプリンセス物語・少女漫画を与えられるのだから当たり前です。

人は、育てたように育つのです。

1980年代・90年代の研究者たちは、ひじょうに若い女性が奇妙な創作物に夢中になっているという先入観から入っているものですから、心のどこかに、からかってやりたい気持ちがあったのでしょう。

だから、よく考えもせずに「おかしい、おかしい」と首をひねる振りばかりしている。

でも、神話を少しと、文学史を少し知っていれば、むずかしいことは何もないのです。