2015/12/25

1952年、新東宝『清水次郎長傳』


石松三十石船、七五郎の義侠、閻魔堂の最期、青木屋の決斗。

製作:杉原貞雄 監督:並木鏡太郎 脚本:三村伸太郎 撮影:横山實
出演:高田浩吉(松竹)・田崎潤・月形竜之介・市丸(ビクター)・廣澤虎造

見渡せば、富士の高嶺に久能山。田子の浦風そよそよと。東海道は良いところ。

唐突な選択は、近所のホームセンターでDVDを売ってたからです。廣澤虎造の本人出演に惹かれました。ナレーションの代わりに浪曲が全編に用いられています。青木屋の酒宴のシーンでは市丸姐さんもご本人出演。眼福耳福。

大正生まれの祖父が「虎造が最高だった」って言ってたんですが、いま思えば実演を聞いたことがあったのかどうか。地方に根づいて畑を耕す人の、ラジオを通じて娯楽を求める心、芸術に憧れる心は大切にしたいものです。

タイトルからいうと「駿河の国が安部ごおり、清水みなと、うど町に住居をする山本長五郎」の一代記みたいですが、本人はすでに海道一の大親分になっています。実質、遠州森の石松を主人公にした活劇。

次郎長親分(月形竜之介)は眼ぢからがすごいです。石松(田崎潤)は声に張りがあって、ニヤリと笑った顔がセクシーな色男です。角帯に一本刀の落とし差し。金毘羅さんへ向かう船で虎造と邂逅。
「江戸っ子だってね」
「神田の生まれよ」
う、嬉しい。

次郎長は海運で成功した人なので、願掛けをする時は海神である金毘羅権現に祈るようです。石松は満願のお礼参りの代理。船に乗り込む場面はセットで再現する代わりに広重の「京都名所之内 淀川」が映し出されます。

虎造はじめ、べらんめェのよく廻る役者たちの名人芸にすべてを委ねて、各場面とも大変な長廻しです。そのカメラの構え方が気が利いていて、人物をちょっと斜めから撮るのです。船の窓の外から撮る構図もじつに粋です。

脚本も編集も過不足なく、すごく洗練されていると思います。浪曲で聞かれるエピソードをだいぶ端折って、テンポよくつないでいます。浪曲ファンには物足りないかもしれませんが、映画俳優の力量で「見せる」技術が高いのだと思います。もちろん白黒時代で、縦線も入ってますが、画面はかなりきれいです。修復も良かったのでしょうが、もともとの保存が良かったのでしょう。

(なお、古い映画に「雨」が降っているのはフィルムの特性ではなく、保存の悪さによる劣化なのだそうです。)

小松村の七五郎(高田浩吉)は出演者筆頭。中盤の主役で、水際立った美形です。嫁のお民さん(浜田百合子)もすこぶるカッコいい。お安くないです。

都鳥(進藤英太郎)は小者の悪役らしいツラ構えで、いかにも憎々しいのですが、これこそ大切な役どころで、名悪役というのでしょう。物語はこの悪役のせいで、急激に(まさに)真剣味を帯びてきます。

「女に会うまでにしなきゃならねェ大切な用があるんだッ」

いいこというね、石。

斬り合いのBGMはオーケストラを使用したロマン派ふうですが、曲調がよく、違和感はありません。竹やぶを再現したセットがすごいです。保下田の残党によるコメディリリーフも良いバランス。使いどころと切り上げるタイミングがいいので、こういうのは歌舞伎から来ているでしょうか。

物語は石松の仇討ちということになって大詰めを迎えます。座敷を埋め尽くす配下から十一人の精鋭を呼ばわるシーンはゾクゾクしますね。

決斗の舞台となる青木屋の主人は喜劇の名人芸を見せます。こういうのは空襲で全滅したという浅草にまでさかのぼるのでしょうか。もっと前の幇間の芸でしょうか。画面隅でじっと待っている竜之介親分(もとい)次郎長親分もいい味です。

斬り合いでは血糊が見られません。舞台劇(歌舞伎など)をそのまま踏襲しているのですが、個人的には充分だと思います。

冒頭とラストシーンの茶畑はどこでしょうか。セットかな!?(広大) 富士山は明らかにマット画ですが、見事です。もう少し右肩の宝永山が尖っていると、駿河の富士山らしいです。

風さえ薫る東海道。清水一家の伊達姿。

みずからの個性をわきまえた俳優と、本職の芸人と、引き算の美学を心得た映画人。フィクションの楽しさを堪能できます。良い時代でした。

清水の次郎長は、関川夏央・谷口ジロー『秋の舞姫』(双葉社)に登場していました。「この喧嘩。清水の次郎長があずかった」 かっこいい……。

この映画だけ見ると、まるで江戸時代の人ですが、海道一の親分は維新の大混乱を乗り越えて活躍した人です。お茶畑にも自ら関わっています。『秋の舞姫』には「明治二十六年天寿をまっとうした」とあります。あらためて長五郎の一代記も読んでみたいと思います。追分羊羹も買ってこようっと。

※ 故きを温ねる記事にて年内は終了いたします。皆さま良いお年をお迎えくださいませ。

2015/12/24

同性カップルが犬猫の里親になれないのも彼らのせいではありません。


多数派であるストレートが、多数決によって憲法と民法を改正してやらないからです。

現行では、同性カップルは捨て猫の里親になることもできません。

独身のストレート男女は交際相手と気ままに別れて、自分が引っ越すときに猫もまた捨ててしまうから、すでに戸籍が一緒になっているカップルにしか猫を引き渡せないというのは、ストレート目線のストレート基準です。

ストレートのせいで、正式に入籍できないまま、十年も同じ人と同居し、この先も良い関係を続けるつもりでいる人々は、条件が違います。

彼らの正式な結婚のためには憲法の文章を一部訂正する必要があり、「だったら9条は」という話が絡んでくる可能性があるので、簡単ではありません。だからこそ、草の根の民間活動における理解が大切です。

【女性がゲイを差別する理由。】

「女性を愛してくださる男性は良い人だけど、愛してくれない男は悪いやつだわ」

この考え方は、女性の自尊心からいって当然なのです。あえて言います。女性がゲイを差別したがるのは、彼女の自己愛からいって当然なのです。

誰しも自分がいちばん可愛い。自分にいちばん価値があると思いたい。愛される資格があると思いたい。

だからこそ、「自分のことばかり考えるのは良くない」ということができます。

差別する理由が分からないと、「だって皆がそう言ってるもん」という他力本願になるわけです。

でも、ようするに自分可愛さだと分かれば、その自我を少し抑えれば、多くの人に(猫にも)幸せを与えられることも分かってきます。


2015/12/22

新選 現代日本文學全集(筑摩書房)付録19


昭和三十四年十一月。円地文子集のおまけ。

いたはられること 室生犀星(作家)
「妻が書き、夫がそれをいたはつてゐることは、よそめにも、いたはりの行き尽してゐるところであって、他にも類例があってみんなうまく行ってゐたら、私は人生が愉しいものだと思った。」

円地さん 尾崎一雄(作家)
「円地さんもやはり大患のあとだつたと記憶する。その時円地さんは、こんなことを云った。「私はここんところ、ずっとお茶っぴきよ。本屋へ行って、誰彼の新刊本が並んでるのを見ると、ほんとにくやしいと思ふの」
 私はこれを聞いて、円地さんの正直さに心を打たれた。小説を書かうとするほどの者が、男をんなにかかはらず、世間でいふ単なる正直者である筈はない。しかし、大根(おほね)に於て正直であるといふことが、芸術家の資格として不可欠のものたることは云ふまでもあるまい。」

円地さんのこと 吉田精一(評論家)
「(円地さんには)しつかりとした自己批評と、自分を見る眼の客観性がある。(中略)
 岡本かの子などは、その点円地さんと反対のタイプだったようだ。円地さんの岡本かの子論ともいうべき「かの子変相」は、私のもつとも愛読する文章だが、一つには、こういう対照的な女性の二つの像が、まざまざと見出される興味もあって、面白いのである。」

円地さんと日本古典 三島由紀夫(作家)
「近作の短編『冬紅葉』は、『群像』の合評会で、口の悪いことにかけては絶対人に負けない自身を持ってゐる三人の批評家を、等しく唖然とさせるほどの出来栄えを示した。この三人(中の一人は何を隠そう私であるが)は、それまで口々に悪口を並べてゐたのが、この作品については、「われにもあらず」口を揃へて褒めてしまつたのである。」

円地さんを語りながら、しっかりと自分を語っている男たちが微笑ましいのでした。

世界のなかの日本文学(Ⅳ) 佐伯彰一(評論家)

こちらはこの月報に連載されているもののようで、今回は三島の『金閣寺』について、アメリカの雑誌『アトランチック』の書評欄に、これは深遠な禅の思想を表現した宗教小説だから、禅を理解していないものには理解できないと書いてあったことを紹介したうえで、「あれのどこが禅だ?」って云っちゃう文章。

「この書評家の純粋な熱意と善意とに水をさすつもりはいささかもない。一体ぼくらの誰に、彼の思い過しのコツケイさを笑い去る資格があるだろう。明治以来の日本文学の歴史は、そうしたコツケイさの連続そのものではないのか。いや(中略)もともとが異質的な外国文学の理解という難事業が、落着きはらつて過不及のないアカデミックな研究態度などでやり終せるはずがないのだ。外国文学の理解や影響とは、誤解という逆道を通らずには不可能なものだ、とさえ言い切りたくなる。少なくとも真摯な誤解は、ナマぬるい無関心よりはよほどましである。」

最後んところがいいですね。

これを比較文学者が言っちゃうのもすごいし、小説全集にこれをくっつけちゃう筑摩書房もいい度胸だと思います。

以上、個人的基準により「いいな」と思ったところを抜粋させて頂きました。媒体は、函入りハードカバーにはさまれていたリーフレットで、本当に薄っぺらいものです。読者によっては捨ててしまうかもしれない。たぶん図書館で全集を貸し出す際には付属させていません。基本的には円地さんを褒めたたえる甘口の文章とはいいながら、それぞれに特徴を備えた名文ですが、各人の全集などにも納められているのかどうか。

失われた文章、失われた言説が一杯あるのだろうと思います。印刷されたものをそのまま保存することの大切さが思い知られる今日この頃です。

2015/12/21

昭和33年、円地文子『女面』


新選現代日本文学全集17(昭和三十四年)より。三段組で60頁。

外国語の文法に依拠した言い回しはすでに廃れ、詩の教養に依拠した華麗な比喩はそのまま模倣するわけにもいかず、杓子定規な結婚観へのアンチテーゼとして、ストレート女性同士の擬似同性愛が描かれている。

円地文子は現代では取り上げにくい作家になってしまったのかもしれません。

が、ワキとワキツレを思わせる男性たちによる導入部から、女の情念の秘密が少しずつ明るみに出されていく構成は能楽そのものであって、人間観察の鋭さと博学さをさりげなく配置する手際からしても、得るところは大きいです。

漫画家を含めて創作家が能楽を題材にするときは、能面または謡曲に表現された女心を作中人物が地で行ってしまうというのが一つの定型。

「この面を掛けて、この曲をいかに舞うか」という技巧上の工夫は、基本的にプロにしか許されない。彼(女)らはまさにその資格を得るために修行する。

能楽そのものの技術論には興味のない読者は「ここで一足出ると強い心情を表現できる」とか言われても「はァ、そんなもんかねェ」という感想しか持てない。それより舞台下の男と女の痴情のもつれはどこへ着地するのか。

能面および謡曲を制作したのは数百年から数十年前の男たちだったわけで、そこには彼らの考える女性性が刻まれている。

それに女性が見とれて、ここに私の心が表現されているわと思うならば、女性が男性の価値観に従属している、というフェミニズム的内部批判もできる。

でも、上村松園以来、女流が能の女を描くときは「あら、本物の女の情念はもっと怖いのよ」というものだったように思われます。

白洲正子は能楽を男の同性愛(と書いてナルシスムとルビを振る)と看破し、女は中将にはなれても大将にはなれないと知って辞表を叩きつけた挙句に西行と小林秀雄をおっかけた(しかも日本史上最高ともいうべき男を夫にしていた)人ですが、その男のナルシスムに対して女のナルシスムを描き出してみせる画家・作家もいることです。

この作中では男たちが女性談義をする。うちの一人が「女心の企みが男に分かってたまるもんか」ってなことを言う。書いているのは女流です。

そもそも男二人が「オーーッ」「オーーッ」と旧友らしい声を交わすところから始まるんだけれども、女流の筆はこの挨拶を「獣じみた」と書いてしまう。そして彼らは着座するや女性の噂話を始める。そして女の陰謀に取り込まれていくわけです。梅の香のように匂い立つのは中年女のナルシスム。

さァ、これを女の情念と呼んで味わうか、気味が悪いというか。現代の若い人なら迷わず後者を主張するかもしれません。おおかたの一般女性も「いくらなんでもここまでしないわ」というかもしれません。

男たちは最近の(昭和30年代の)女子学生があけっぴろげにものを言うようになったことを指して「精神のストリップ」と呼び、それには女の魅力を感じないとほざく。

まさにヒロインは情念と怨念と企みを胸に秘めて明かさない戦前の女です。でも、じつは六条御息所に関する論文を書いていた。

作中にはその全文が掲げられており、当然ながらこの論文自体が作家の手になるものです。古代の巫女の誇りを劇中劇として表現した作家は、その神聖娼婦としての性的自由と気位の高さが生身の男たちを畏怖させると指摘する。

論文というか、検証しようもない話なので、随筆のようなものであって、たぶんまともに提出しても学会では相手にされない。それを小説の形で発表したのでしょう。

光る君とぞ契らん。

御息所ほどの高貴な人が、何を求めて生霊になるかといえば、光る君にごはん作ってあげたいということではない。お洗濯してあげたいということでもない。自らの満足を最優先しているのです。

男の口から「女の精神のストリップこそ動物的」と言わせておいて、作家自身は精神のストリップティーズを披露している。このあたりで溜息が出るわけではございます。

作家だろうが女優だろうが、実際にはそうそう奔放に男性を渉猟できるものではないし、安定した生活あってこそ筆も進むということもあるわけで、愛妻家って言葉がありますが、文子は愛夫家だったそうで、べつに浮気したいとか離婚したいとか生霊になりたいとか後妻打ちしたいとか言ってるわけじゃないはずなんですが、そういうわけで明治以来、六条御息所は芸術で身を立てた女たちの好むテーマではあります。

そして能の鬼女は、結局のところワキ僧に退治されてしまうんだけれども、仏教伝来以前にさかのぼる巫女の誇りは、この作中では一応の成功をみる。ただしその罪の意識は主人公を楽しませはしない。

能面について予備知識がないと理解できないという話ではありません。むしろ的確な描写によって能面鑑賞の入門編として機能するかもしれません。装束なしで、普段着としての和服の上に面だけつけた時の不気味さもよく表れています。

能面の他にも様々に美しい小道具が登場します。「歌人によくある名流婦人」にして、母にして、姑たる人の過去に何があったのかというミステリの要素もあって、贅沢な気分に浸ることができます。耽美派って本来こういうものだろうと思います。

このすぐ隣には三島と澁澤と茉莉がいたわけで、やっぱり面白い昭和三十年代。


2015/12/18

1998年、鯨統一郎『邪馬台国はどこですか?』


創元推理文庫、2005年25刷。

東京創元社の隠し玉。第三回創元推理短編賞(1996年)応募作。おとなのための歴史エンタテイメント。文庫書き下ろしにて異例の刊行。

たぶんハードカバーの体裁にして本物の歴史書だと思われることを防ぐためでしょう。電車に最適な「読みもの」と思ってほしいということなんだと思います。

巻末解説の橋本直樹(短編賞の審査員)は「予備知識が要らない軽さが特徴」っていうのですが、早乙女静香というキャラクターの口から学会の定説や一般的な認識が要領よく語られているからで、やっぱり作家の要点をまとめる能力が高いのです。

若い女性の口から該博な知識がペラペラと示されることの意外性と生意気ぶりの興趣もあって、予備知識の講義にあたる部分が退屈しないわけです。作家は彼女の服装にも気を使い、印象的な人物として描き出すことに成功しています。

というわけで、卒論提出以前の若者には読ませちゃいけません。学校の勉強を軽んじるようになります。そのくらい面白いです。

引用元が明示されているので、引用文を写し間違えたというレベルのミスは無い(すぐに読者から指摘されてしまう)はずですから、読まされた歴史ファン・ミステリファンにとっては「なぜ一次史料をありのままに読まない? なぜ眼前に置かれた証拠を無視する?」と挑戦状を叩きつけられたような意味もあるかと思います。

学会が今さら相手にするわけはありませんが、ことはなかなかに重大……かもしれません。

静香さんは、記憶力が良くて、教わったことを繰り返すのは得意なんだけれども、自分の頭を使ったことがない。権威によりかかる気持ちがあるのかもしれません。

誇張されたキャラクターのようですけれども、女性には本当にこういう人がいて、吉田精一も主観に固執するあまり感情的になる女流文学者を例に挙げ、「女性特有のナルシズムの変形なのだろう」と看破しています。(筑摩書房 新選現代日本文学全集付録19)

ナルシズムが女性特有かどうかはともかく、インテリ美女というキャラクターは、男性作家・読者にとって、当然ながら「憧れるが憎たらしい」というアンビバレントな価値を持つわけで、道化役にされがちです。何回も論破されてるんだから少しは警戒すればよさそうなのに学習しない女性です。

創作物ではこういう人がいないと話が進まないわけですが、現実では二の轍を踏まないように気をつけたいですね。(誰もが静香さんほど美人ではないですけれども。)

というわけで、歴史上に散在する謎に対する奇抜な答えを、酒場の客同士の会話という小説形式で披露した、一種のミステリー。名探偵、みんなそろえて「さて」といい。

典型的な名探偵タイプの宮田六郎と、まさに女性ナルシズムの塊で激昂しやすい静香さんが会話の中心。なんだかんだ言って宮田も静香さんとの会話を楽しんじゃいるのです。静香さんの後ろには、ロマンスグレーな大学教授が父親のように控えており、ときおり確実な知識と判断力を披露して、奇抜な議論に信憑性を与えてくれます。

三人を前にオロオロするバーテンダーの松永は、ズングリムックリ体型の中年男。静香に憧れて歴史の勉強を始める愛らしい奴です。冴えない一般人代表という役回りですが、なかなかに頭が整理されており、本人は一杯一杯なんですけれども、時々いいこと言って議論を導きます。

読者は松永の視点から議論に参加します。彼が絶妙なタイミングで「宮田の言うとおりだと思った」という感想を(胸中で)述べるので、思わず頷いてしまいます。読者を乗せる作家の筆は冴えてます。解説によれば、編集者とのやりとりの中で作家の技量が進化していったのだそうです。

個人的に微笑ましかったのは仏陀の項。たしかに仏教は今でも「悟りってなんぞや?」と悩み続けているような気もします。ゾッとしたのは聖徳太子。たしかに歴史の勝者はこのくらいのことをやりかねない。

アマテラスというのは、ギリシャ神話のヘーラーと違って、どこへ行って何をしたという神話がない。抽象的な存在です。スサノオやオオクニヌシは、もっと土着の民草の間に語り伝えられた物語の生命力と親しみがある。おとぎ話として読んでさえ、系統が違うことは察せられる。

また蘇我氏の人名が、親が子につけるにはひど過ぎるというのは誰しも感じるところのはずで、おかしいとは思いつつも、あちらとこちらをつなげて考えることのできなかった自らの不明を恥じる……くらいな気分にはさせられます。あるいは厩戸皇子に女性性を見た山岸涼子は炯眼だったのかもしれません。

また、この本に書かれたことが本当なら、信長は義経と混同され、桶狭間は鵯越と混同されたのでしょう。

さらに「尊皇」はいいけど「攘夷」はどこ行っちゃったんだ? という不思議な印象は、幕末史を見るとき、常にぼんやりとありますね。

最終話は感動的です。信仰に命を賭ける人々。松永のバーテンとしての仕事もスマートに決まり、一冊の始めと終わりがきれいにつながりました。ワインを飲みたくなりました。血の色の赤がいいですね。

洗礼者ヨハネとイエスの洗礼は、レオナルドの絵にもありますし、ずいぶん古いパゾリーニの映画でも描かれていたはずですが、日本では知られていないでしょうか?(そんなこともありますまい)

そういえば洗礼者ヨハネってなんで捕まったのかなァ……とか長年の疑問が氷解することではございますが、迂闊に他人に吹聴なさいませんように。

個人的に宮田さん(または鯨さん)の説を検討する材料を持ち合わせませんが、「真実とは最も矛盾の少ない仮説である」という考え方には賛成です。

手に入った材料を素直に眺めれば、おのずと事件の姿が見えてくる。敵は自らの先入観。「目の前に大きな謎がころがっているのに多くの人はそれを謎として認識できない」ってなことは、ホームズも言っていたような気がします。くり返しますが、宮田は正統派の名探偵です。

なお、キャラクターの表情や仕草は生き生きと描かれておりますが、議論の性質上、映像化はむずかしい。これも小説にしかできないことをやっている。「読む」ことの快楽を教えてくれる作品です。

ただし、これも繰り返しますが、卒論提出前の学生以下の若い人々にはおすすめしません。先にこういうの読んじゃいけません。いや、くもりなき眼で史料に当たるという姿勢を教えられるかもしれませんが……(困ったな)

何よりも、これを応募してみようと思った作者の度胸や良し。

学会が今さら認めるはずもない説ばかりですが、少し前にテレビでアマテラスだったか神功皇后だったかを、持統天皇に正当性を与えるための創作神話として紹介していたので、もしかしたらそのような考え方も受け入れられるようになったのかもしれません。

2015/12/17

朝日新聞出版『週刊 マンガ日本史』


朝日新聞出版の出している薄い本(歴史マンガのシリーズ発行)のダメっぷりがひどいので怒る気力もなくしていたんですが、第41巻、池上遼一の黒田官兵衛は謹んで拝読しました。

セクシーな官兵衛でしたね。確かな画力でロングとアップを交互に配置できるからこそ、コマ運びのあっさりしているのは池上さんらしさ。経歴の長い先生で、個人的に『クライング・フリーマン』を楽しく読んでいた頃から数えても二十年ほど経過しているのですが、画力が落ちていないのは嬉しいです。

シリーズ全体については、フルカラー漫画というだけでも作家陣にはやりがいのある仕事でしょうし、作中・巻末のコラム欄が軽い口調で、学童・生徒向けを意識しており、若い初心者を歴史学へ誘う第一歩として良い企画だと思います。

それだけに、とくに女流におけるキャラクター造形上の認識の甘さが悔やまれます。大人の娯楽としての漫画・ゲームと、学童向け学習漫画は違います。子ども向けほど丁寧である必要があります。髪型・服装に至るまで、その時代時代の人々が築き上げた文化です。

子どもたちに正しい知識・イメージを伝えることができないなら、学習漫画の価値は半減以下です。



2015/12/16

柳 広司『ジョーカー・ゲーム』と『ロマンス』


角川文庫『ジョーカー・ゲーム』のカバー絵には、陸軍の制服と長靴を着用し、白手袋をした人物が椅子にふんぞり返った姿が描かれていますが、担当者のミスです。

作中には、「魔王」が軍人らしく見えるのを嫌うことが書かれています。五分刈り頭も、軍帽によって額の半分が日焼けしていないことも、軍服を着用することも嫌いです。

カバー見返しに印刷された名前から察するに、画家も担当者も女性です。
「いつも白手袋をしてる軍人なんですよ!」
「萌える~~!」
作品をきちんと読まずに、女二人で変に盛り上がってしまった様子が目に浮かぶようです。まことに残念です。

でなきゃ、軍服フェチの読者をひっかけるつもりで、角川が餌をまいたのです。(引っかからなかったとは言いません。)

というわけで、『ジョーカー・ゲーム』は、制服に象徴される形式ばかり重んじる陸軍の専横と無能に対して、合理性で立ち向かう集団を描いているのです。なんだかんだ言って、彼らなりにお国のために尽くしている。別に敵を利しているわけではない。

でも序盤と終盤に、D機関そのものの非人間性を指摘し、否定する人物を登場させて、作家自身および読者の良心と、危険な刺激を求める心とのバランスを取っている。

創作物というのは、飲酒と似たようなところがあって、読んでいる間・呑んでいる間はおおいに酔って騒いでいいのですけれども、それを職場に持ち込んではいけない。一時的な娯楽であることをわきまえた上で楽しむものであって、飲んだら乗るな、話を真に受けて自分もスパイになろうとか思うな、という約束が大事です。

で、『ロマンス』。知的刺激を求めた読者には、あきらかに物足りない。20世紀初頭の探偵小説の、それも出来の悪いほうの焼き直しに見える。

というか実際にそうなんでしょう。古めかしい雰囲気を出すことには成功していて、ロマンスというタイトルにも作者の開き直りというか、自嘲というか、微妙な気分がうかがえる。

あるいはBL趣味におもねったのかもしれないし、妹趣味におもねったのかもしれない。生計のために筆を枉げたのか、本音が出ちゃったのか、いろいろ勘ぐりたくなる要素が詰め込んであって、その既成の要素を詰め込むという技法としては『ジョーカー』と同じなんだけれども、どうも「位」が落ちたというか、意気軒昂という様子がなくなってしまった。

ただし、「そもそも『お国』ってなんだ? なんのために戦争するんだ? なんで軍隊が必要なんだ?」というところまでさかのぼって考えたことは明らかです。

今なお天皇を国民統合の象徴とする国において、最大のタブーを表現した作品を世に問う根性は、むしろ『ジョーカー・ゲーム』の上を行っている。

陸軍の無能によって戦争の被害が拡大したことは、すでに現代人の広く知るところですから、それをもう一度「あいつらは無能だ」と言うことは、たやすいのです。その痛快さもあって、『ジョーカー・ゲーム』は読者を熱中させ得る。

でも、『ロマンス』の主人公は無力感にうちひしがれて終わる。出世を断たれた親友と「二人いれば何とかなるさ」というわけでもない。

もしかしたら、一見したグダグダ感の陰から、相変わらず意欲旺盛な作家が、表現規制を強め、「タカ」っぽくなっていく(発行当時の)社会に向けて放った皮肉であり、心を狙撃する一弾だったのかもしれません。



2015/12/15

水木しげる『のんのんばあとオレ』一、わんばく大戦争の巻

講談社コミックス、1992年11月、第2刷。

ああすっかり洗練されている。日本の漫画界はGペンの「しなり」が生む線の美しさと、ペンで背景を描く技術を維持できるでしょうか。

わんぱく大戦争は、子どもの喧嘩とはいえ命にかかわるようなことまでやってるわけで、本人たちにとっちゃ大変です。お目つけ役の大人はいない。兵隊さんごっこが当たり前だった時代の男児たちは大変でした。

主人公ゲゲ(=しげる本人)の家庭の様子も含めて、本人たちには深刻で、読んでる人にとっては微笑ましい少年時代のエピソードが一通り語られると、美少女登場。この新展開は少年の世界に新しい緊張感を与え、読者をも飽きさせません。

「女はみんなおんなじだ かわいそうなんは自分だけと思いこんぢょる 甘ったれとることがわからんだけん 弱さがうつるわ」
「私の気持ちなんかわかりっこないわ」
「当たり前だ 別人だけん しまいに泣けば男が悪いちゅうことになる ほんとに迷惑だなあ」

いいこと言うね、田舎の小学生。

のんのんばあの含蓄深い人生訓はもとより、ニート気味なインテリぶったお父様のいうこともいい。妖怪は、考えてみるとゲゲ少年が死を意識したときに登場するような気がします。

のんのんばあは近所で身寄りをなくしたのでゲゲんちで引き取ったのです。老人を預かる代わりに働かせる。あるいは働いてもらう口実で、老人を預かる。とうぜん彼女のための食費も必要です。なくなったら葬式の費用を持ってあげるのでしょうか。

この地縁結合がなくなったのが現代社会の問題点……なんていう人は、ご自身が地域にお住まいのご老人を何人知っていますか?

巻末には阿部進が解説を寄せています。悪魔くんと鬼太郎は戦後民主主義的価値観から突き上げをくらったんだそうです。変わってないなァ。でも後年のアニメ鬼太郎は「みんなよい子」路線だと思います。

はしかや結核で初恋の人がはかなくなってしまうことが創作少年の心に翼を与えるわけですが、今の時代にも立派な創作家が生まれるために、子どもたちの間に残酷なまでの喧嘩や肺病が流行すれば良いってことはない。第一巻ラストを飾るのんのんばあの名セリフは、他人が表面的に真似してよいものではない。実体験に基づいた、読者の心を打つ創作というのは、本当にむずかしい時代になってしまったのだろうと思います。

ムリ壁や一旦ゴメンは、もう明らかに水木妖怪を下敷きにしてるわけですが、誰も失礼だとは言わない。いまや古いものから新しいものを生み出すパロディという技法そのもののセンスが問われるのかもしれません。

2015/12/14

水木しげる『墓場鬼太郎①』


先生、怖いです。

角川文庫、貸本まんが復刻版。平成18年初版。多色刷りの貸本表紙が一巻ごとに再現されています。文庫の体裁でこれをやるのはすごい。

第一話は掲載誌が『妖奇伝』。漫画タイトルは『幽霊一家』。絵柄がアメコミ調。主人公がなかなかダンディ。職業は銀行の調査員。ハードボイルドを意識していたと思われます。クロスハッチングを多用したペン画ならではの背景が泣けます。こういう技術は残していきたいですね。

期せずして「人間よりも前から地球に存在していた種族」という話を続けて鑑賞してしまいましたが、やっぱりSFも怪談も、ついでに耽美も、現代文明の否定、人間社会の相対化という意味があります。

人が死ぬと溶けるというのは戦記ものを読んでいても出てくる話で、どうしても漫画家の心には戦場体験が深く刻まれていたのだろうと思います。

『墓場鬼太郎』は『妖奇伝』廃刊の後をうけた雑誌の名前。その第2巻に掲載された『下宿屋』の冒頭、老教授の遺体が鼠に食われるあたりまで、ポー、ダーレスを思わせる陰惨な正統派ホラーの展開が、個人的には好みです。

ここからは路線変更を図ったらしく、早くも目玉オヤジが愛されキャラになってます。これは笑いながら読んでいいのだろうと思う。戦前の人らしいというか、テンポの早い乾きぎみの笑い。

妖怪や幽霊を怖がるのは人間なわけで、人間キャラクターが導入の役目を終えて退場し、妖怪どうしの話になってしまえば、読んでいる人間は面白がっていられる。他でも見られる創作上の定石なのかもしれません。

巻末には水木サン自身による回想録が掲載されており、生活の苦闘から紆余曲折の果てに妖怪コメディが生まれてきた様子が分かります。救いの神となった読者はどなただったのでしょうか。

2015/12/11

燕尾服とタキシードは違うです。

しっぽのあるのが燕尾服で、しっぽを切り落として略式礼装にしたのがタキシードです。

くり返しますが、燕「尾」服っていうくらいですから、しっぽのあるのが燕尾服です。英語で言うとスワロウ・テイル・コートです。振袖と訪問着くらいには違うです。

ノーベル賞受賞者が着用しているのが燕尾服です。男性の第一礼装です。クラシックの演奏家もときどき着用してます。松永純也にはよく似合うだろうと思います。1920年代までは観客のほうも着用していた様子が古い動画で確認できます。ディズニー映画『ピーターパン』(1953年)でも、父親が夜会へ向かうために着用しております。トップハットにインバネス。憧れますね。

現代では一般人がホワイトタイ(燕尾服)を指定される夜会に出ることは稀だと思いますが、混同するとドレスコード違反となりますので御注意ください。

月野うさぎが混同したのは、彼女がチューガクセイだからで、あれはあれで彼女自身の可愛らしさを表現しているです。

野暮を承知で、パーティシーズンに向けて、念のため一言しておきます。

2015/12/10

芦沢父娘と松永純也。


芦沢父娘と一緒に見る気分で『鬼岩城』のDVDを借りながら、「松永は?」と思いついたのです。

彼と理帆子の間は奇妙によそよそしい。小さい頃から仲が良いというふうではない。幼い理帆子に「松永のおじちゃんにドラえもんごっこしてもらったーー♪」という記憶がない。

彼はウィーンへ留学していたとか、ボストンで振っていたとかいう時期があったはずで、忙しかったには違いないんですが、娘が日本国内で育っていることを考えると、こまめに行き来していたのかもしれません。

とすると帰朝した際に理帆子へも「海外で売っていた横文字のドラえもん単行本(公式)」なんておみやげがあっても良さそうなもんですし、誕生日にドラえもんの主題歌を編曲してピアノで弾いてくれたなんてことがあってもよい。父親の代わりに新作映画の話題で心を通わせることができていたら、理帆子の高校時代もだいぶ変わっていたにちがいない。

光は松永を洗脳しておかなかったことを後悔したでしょうか。学生時代にやってみたけどダメだったんでしょうか。どっちかっていうと純也が音楽の夢を熱く語り、光は相槌上手な聞き役だったのかもしれません。

理帆子が誰に対しても、その人が他人から言ってほしいことを忖度して対応してやるという八方美人なのは、一つの才能ではあって、彼女自身が聞き上手なわけです。それを父親から受け継いでいる。だからこそ、自分に関する相談相手として父親を求めている。

いっぽう母親のほうも押しつけがましく喋り続けるタイプではない。

とすると、芦沢家は聞き上手が三人そろった代わりに、自分からはどこかへ乗り込むわけではない。自分からホームパーティを企画して「松永家ご招待」というふうでもない。どうも交際範囲のせまい静かなご家庭だったらしい。

それが急に裏目に出て、孤独におちいった理帆子ちゃんは夜遊び上手になってしまうのでした。この子、誘われない日は一人で何を食べていたんでしょう。

子どもはおなかがすくと悪さをするのだそうです。そういって、無償で不良少年を集めては、晩ごはんを出してあげる高齢婦人がいらっしゃるそうです。理帆子も、まずは食べるものを求めて「飲み会」へ通っていたのかもしれません。

『凍りのくじら』の見事なところは、キャラクター性と事件の性質、テーマと創作技法に一貫性があるところなのでした。

どっかで見たようなトリックを繰り返すことは、ミステリ作家なら誰でもできる。難しいのは事件を起こしそうな、あるいは事件の可能性を放置してしまいそうな人間性を描き出すことなわけで、このへんの成否がミステリの格を決めるのでしょう。

『凍りのくじら』がミステリかって言われると、ミステリの手法を使ったファンタジーというべきか、時間旅行というSFのアイディアを取り入れた純文学というべきか、分類に困るところなわけで、やっぱり「すこし不思議」な物語なのかもしれません。


2015/12/09

1983年、芝山努『のび太の海底鬼岩城』


テキオー灯を確認したくてDVDを借りてきました。芦沢父娘と一緒に見る気分で。

アナログ時代の平面的な絵が「自動紙芝居」というべき和やかさを醸しておりますが、展開はものすごく早いです。冒頭の海底探査船の緊張感は本格的です。芝山監督は1970年代から意識もせずにお世話になっていたわけですが、改めてすごくドライな監督さんなのかもしれません。

夏休みの子ども達が海へ行くか山へ行くかと争った挙句に、ドラえもん(の秘密道具)を頼りに海底キャンプへ出かけます。冷静に考えると、どちらも一回ずつ行けばいいような気もしますが、ドラえもんの「海底には地上より高い山がある」という説明で、子ども達の眼から鱗。

テキオー灯によって海底の暗さが払拭され、水圧と呼吸の問題も解消され、しかも周囲はすべて水ですから、子ども達の体は軽く海底を蹴ると無重力のようにフワリと浮き上がります。

エベレストと富士山を重ねた深さというマリアナ海溝の底(のナマコ)など、なるほど視聴する子ども達にも遠大な想像力の喜び、SFの原点を教えてくれます。

子どもだけの家という秘密基地ごっこの楽しさも満点。キャンプにつきものの寝心地の悪さや炊事の手間は省かれているところも子ども心(制作陣の男心かな)にフィットするでしょう。海底プランクトンを素材にした地上料理の再現は実用化したいところです。

海底に関する科学的な基礎知識はもちろん、秘密道具の説明の必要もあって、ドラえもんがひっきりなしに喋っております。大山さんお疲れ様でした。

水中バギーはゲストキャラの一人とも言えますが、海底人が登場すると、ドラえもんがポケットに戻してしまいます。「キャラ多すぎ」の状態を防ぎつつ……。脚本は巧妙です。

海底人登場後は話の軸がそちらに移ってしまい、個人的にはやや残念に感じました。

これは致し方ないことで、子ども達の楽しいキャンプ風景が続くだけでは「山も落ちもない」ことになっちゃいますので、何か異変が起きなきゃいけないんですが、いつものメンバーが脇役あつかいになってしまうのは寂しいところです。また途中から登場した人たちに急に涙ぐまれても共感しにくいものだなァと改めて確認したりもしたことでございます。

地上人の戦争好きを海底人にとやかく言われる筋合いはないような気もしてみたり。

鬼岩城という名称は、桃太郎の鬼退治をイメージしているかと思いますが、あんまり活かせていないように感じました。

アトランティス対ムーの闘争の歴史の中で生み出された人工頭脳の暴走ということで、古典的なテーマが繰り返されているのは興味深いところですが、「地上人に思い知らせてくれる」というふうに話がすり替わってしまっており、あれッ? のび太たちは地上人ですが彼らを率いてきたエルはムーの子ですから、アトランティス側から見ると子ども達は全員がムーの送り込んだ刺客なはずです。

あるいは放置された人工頭脳が事実を誤認するに至る七千年間の孤独を描けたらよかったのかもしれません。

それにつけても、しずかちゃんの無敵っぷりw

よくよく考えると、彼女とドラえもんが海底へ行くだけでも成り立つ話で、後の美少女アニメ全盛が暗示されているのかもしれません。

なるほど芦沢理帆子は頼れる男が好きだからな、と変な納得もしたことでございます。

テキオー灯は確かに22世紀でも最新の発明なんだそうです。懐中電灯ではなく拳銃の形でした。周囲の環境を変えるのではなく、周囲の刺激を受容する側の感覚器官や脳を(たぶん)変化・活性化させるわけです。あと100年で実用化できるでしょうか。

SFの真髄は、読者・観客が「自分の命には限りがある」と気づかされることではないかと思われます。たとえ100年後にテキオー灯が実用化されたとしても、おそらく自分はそれを見ることがない。

自分はいつどこで、どうやって死ぬのか。痛いのか。苦しいのか。それまでに何をしておくべきなのか。

子どもがこれに気づいて無力感にとらわれるか、勇気と意欲を奮い起こすかは、もちろんその時の環境によります。他者とは自分を映す鏡であり、子どもは社会の結晶であり、SFとは現代を照らす光です。

なお、原画・動画・仕上げに女性スタッフが多いことが印象的でした。この場合の仕上げとは手彩色のことなのかもしれません。昔は本当に白手袋をはめてアクリル絵具でセルを着色する作業が「女性に最適」なんて宣伝されていたものです。

あるいは、日本のアニメというのは、女性の低賃金労働に支えられていたのかもしれません。



2015/12/08

2005年、辻村深月『凍りのくじら』


氷の海から呼吸を求めて浮上と沈潜を繰り返す三頭の鯨。

……という役者がそろうまでに280頁を要する大長編。これを手に取る読者は、主人公の「私、頭よすぎて友達いないんだーー」という述懐に苦笑できるでしょう。

少しではなく、すごく書評しにくい作品で、だったらしなきゃいいのにと言われても、これは言いたい。読むべし読むべし読むべし。

すでに発表から十年が経過していますが、この輝きはこのさき何十年経っても失われないでしょう。まさに星の光のように、作家自身の肉体が滅んだ後も、日本の文芸界に燦然と輝き続けることと信じます。藤子・F・不二雄の名とともに。

あらゆる技法を取り入れている。いろんな要素が混ざっている。それが互いに効果を発揮し、互いを成り立たせている。海と星とピアノの音と、ドラえもんが道具を呼ばわる声が響きあうように。

スモールライトォ。(個人的には大山のぶ代です。)

『ドラえもん』が直接に引用されていることも嬉しい驚きですが、漫画を熟読することによって、会話文を駆使した細やかな場面設定、ラストまで間然するところの無い構成という創作技法を身につけた人が、しかも活字でしか実現できない表現を成功させてしまった。

映画に関わる人にとっては、くやしい傑作かもしれません。

【ドラえもんという無意識。】

確かに『ドラえもん』は、1975年以降の雑誌連載を知っている世代にとって、小学生時代に読むもので、それも小学館の学習雑誌に載っているという理由で保護者から買い与えられるままに、これはミステリだとか、これはロマンスだとか考えもせずに吸収するものでした。

芦沢理帆子さんというか辻村深月さんは、世代がちょっと手前のほうにズレており、単行本で一気読みしたので、作品との関わり方があるていど意識的なわけで、自分の読書史の最初に位置づけることができたのでしょう。

新世代が、旧世代の無意識を突いたわけです。文庫版(2008年初版)解説の瀬名秀明も、そのへんの驚きを語り出したら止まんなくなっちゃったらしいです。

【真髄。】

藤子・F・不二雄の「少し不思議」というのは、思うにファナティックなSFファンが「子ども向けに換骨奪胎するのは良くない。SFが誤解される」とクレームしてきたことへ対して「僕はもともとそんなに熱心なSFマニアではありませんよ。皆さんには敵いません」と、はぐらかしたというか、オブラートにくるんだ皮肉というか、そういう意味だったのでしょう。

理帆子さんというか深月さんも、それに風刺が籠められていることを、ちゃんとわきまえている。そして作中にも暗示(明示か)されている通り、SFとミステリはツーカーです。

単にドラえもんから引用するだけではなく、その創作技法の妙味の真髄がみごとに再現されている。愛読者が敬愛する作家を完全に消化吸収したことを表している。しかもそのことを作中で明示するのは珍しい。たいした自信です。その自信を藤子先生がくれた、というのでしょう。大丈夫、君なら必ずそれができる。

主人公が地面に映った冷茶の影を見つめる場面は、その美しさに作家自身が気づいたことによっている。つまり作家自身が写真家の眼を持っている。

写真家・芦沢光が育てた娘は、その人間性の本質的な誠実さと謙虚さにおいて、音楽家・松永純也とよく似ている。悪くいえば臆病さが似ている。ということは芦沢と松永が似ている。だてに秘密を共有していない。

とすると、この三人の「こういうふうにしか生きられない」という価値観の背景には、やっぱり作者がいる。芸術をこころざしながら、私的な部分で弱さや葛藤を抱えている。その臆病な自分に光を当ててくれたのはドラえもんであり、藤子先生だった。私はこの話を一生懸命考え、描ききることで、光を持つ人になるんだという意欲、なれたんだという自信の証なのでしょう。

辻村の他の作品タイトルを見ると、「太陽」や「かがみ」といった言葉が見られます。筆名からいっても「光」には思い入れが深いようです。

そして、光は主人公の父の名でもある。そう考えると、主人公=作家は女性だけれども、女性が男性になる、男性の偉業を継承し、男の心で生きていくという意志の正当な表現ということもできるかもしれません。

【以下ネタバレとなる可能性があります。】

まずは構成がひじょうにうまく、冒頭に作家自身とおなじ25歳の女性が理想的な成功を収めた姿が置かれています。

場面転換すると、彼女の高校生時代。グダグダです。自己陶酔ぎみの不良娘。いきなりここから時系列通りに始まっていたら「ありがち」と投げていたでしょう。

倒置されていることによって、どうやら8年の間に立ち直ることができたようだから、何があったのか見届けてやろうというふうに読者の興味を誘います。

やがて過去へ過去へとさかのぼり、少しずつ彼女の事情を明らかにしていく手法は鮮やかなミステリであって、頁を繰る手を先へ先へと急がせます。

物語は、基本的に女子高生の一人称によって青春の痛みを描く私小説ふうで、とりあえず異世界大冒険ものではありません。

【私小説としての価値。】

主人公は箱入り娘の「りはこ」ちゃん。本当は理帆子。父親は真っ白い帆を張って人生の大海をスイスイと渡っていってほしいと願ったのに、本人は死の影に怯え、自分で自分をつまらなくしている。

容姿はなかなかの美少女なんだそうで、周囲に登場する男性陣も絶世にして妙齢の美男ばかり。学校の屋上が施錠されていない点からいっても、発想のベースには、じつはロマンチックな少女漫画があります。

しかも理帆子の辛辣な思考には、同じように読書好きだったに違いない作家の実体験が反映されている。

文庫版の解説では、瀬名が文体を「瑞々しい」と評しています。確かに新井素子ふうの独白を辛口にした感じです。批判力旺盛な若い女性が胸のうちで独り言をいい続けている。

饒舌な人間観察にはそれ自体の価値があって、とくに男性が読むと「女の子ってここまで深く考えてるのかよ!? すげーーなw」と面白がれるところでしょうか。

女の眼から見ると「ぜんぶ言わなくてもいいのに……」って気も致します。きっと多くの女性が、こんなふうに様々な不満や不安を感じながら生きてはいるのでしょうが、言語化することが難しい。それをやってのけた。

まずは現代の純文学として、まっすぐに読むことができるでしょう。

【25歳の本音。】

自尊心を誇示する陰で、じつは学業にも部活動にも熱心でなく、放課後の自由時間をもて余し、交際相手に対して「あんたがしっかりしてくれれば結婚できるのに」と言わんばかりの態度には、学校を卒業してしまった25歳の本音が透けているようでもあります。

作家は1980年生まれ。多感な15歳の時には、社会はすでにバブル崩壊後。不況・不況と言われる中で育って来ています。

これ以降の世代は、確かに「親に迷惑かけたくない」なんて言う。世の中には自分よりも苦労している人がいることを知っている。自分自身はべつに欲しいものもないし、傷ついてもいないような顔をする。

現代を生きる17歳の傷心と、25歳の不安が重なっている。

でも書いた人は、これで世に出た17歳ではありません。すでにデビューを果たし、25歳に達した中堅です。男言葉を駆使する今どきの女子高生らしい地の文と、リアルな会話文によってシチュエーションを積み上げ、読者をして「この子あぶなっかしくてほっとけない」という気分に追い込む手腕は確実で冷静です。

【本音の裏。】

箱入り娘のりはこちゃん。口先では一人で生きていくと言いながら、自分自身が弁護士や医師になって独立するために猛勉強するというふうではない。

それ自体に価値のある饒舌な人間観察が、じつは彼女の本心を隠している。文章として明示されていないことがある。

海のない県で随一の進学校といっても、本当は自分がたいしたことないのを知っているのです。松永のお金で東京の私立文系へ行って、その大学のネームバリューでOLにしてもらえばいいや程度の将来しか描けていない。

だからやっぱり、まがりなりにもK大学の法科へ入学できた若尾がうらやましい。

「K大の法科生で、顔がきれいで、どこへ行っても尊敬されるんだろうなァ。女の私は、顔が派手だっていうだけで遊んでると思われて、どこへ行ってもばかにされる。つまらないなァ」

という伝統的な女性観を本人が抱えている。それを底からはね返すために努力するよりは、周囲が抱くイメージに合わせるほうが楽であることを知っている。一目惚れという愛欲に流されるほうが楽であることを知っている。

でも、小理屈をつけて自分を守りたい。弱冠十七歳にして、女の狡猾さをすっかり身につけてしまっている。

……と、このくらいまでは読者が深読みできることを前提に、この話は書かれている。

【松永と理帆子。】

松永はたんに「同級生のよしみでお父さんから君のことを頼まれた」といえばいい。人もうらやむ成功を収めているのだから「慈善事業」といってもいい。

理帆子のほうは、どうせバカ娘のふりをするなら「松永さんって~~、うちのお父さんと、どーゆー関係なんですか~~?」と訊いちゃってもいい。でも、そこまでバカになりきれていない。

二人とも真面目なのです。根は優しいのです。詰めが甘いといってもいい。自分に嘘をつききれない。秘密をかかえきれない。だからといって他人に八つ当たりもしない。

松永は「謎の存在を読者に知らせる」という創作技法上の役割を担っているわけですが、それと人間性が一致している。理帆子も「ここでそれ言っちゃおしまい」であることは言わないような人格として、一貫している。

純文学調の人間観察が、ミステリを成り立たせる最大の要素となっている。

これについちゃ理帆子と別所あきらが「あの話は、のび太が後悔することを前提に組み立てられている」というふうに藤子作品を分析することで、じつは作家が手の内を明かしている。

【理帆子の眼。】

読者は理帆子の眼を通じて作中世界を見るわけですが、彼女、下のほうを見ている。地面に落ちる影の色を見ている。これがうつむきがちな彼女の心理を表すとともに、確かにカメラマンのセンスを感じさせるから、キャラクター造形に説得力がある。

だから読者は、瀬名の言うとおり、彼女のものの考え方の自虐的な部分には共感できないまでも、彼女の判断力を信用できる。つまり実在の人間による手記のように、彼女の書いた通りを信用できる。

でも、この子、じつは学内にまったく友達がいないのです。

お父さんとドラえもんが好きすぎて、校内の異性やテレビタレントについて、同級の女子同士でキャッキャウフフすることができない。じつは面白くない子だと思われている。じつは本人も、腹の底でそれを分かっている。

だからこそ、誰とでもうまくやれるつもりで自尊心を守っている。誰からの相談事に対しても、そつなく相槌を打てることだけを自信の根拠にしている。

だから、彼女のほうから現在の交際相手について周囲に相談したり自慢したりしないことを、彼女自身が不思議に思わない。そんな彼女の心理を深読みできたつもりの読者も。

【以下は読了した方向けです。】

この話は「夫婦の絆も、男の友情も、よく分かんない。誰も私の話を聞いてくれない。誰も『お父さんのことは君のせいじゃないよ』と言ってくれる人がいない。誰も本当の私を分かってくれない。お父さん以外の誰も信用できない」

とか思って、疎外感にだけは満たされている少女を、大人の秘密に参与させることによって、自発的な「気づき」を促すということなわけです。

彼女がそんな苦労をするはめになった世界は、じつは男たちが自分の運命から逃げたことによっている。けだし芦沢と松永は似たもの同士の大親友というわけです。

しかも、男たちの逃避を成り立たせているのは、それを支える大人の女たちの忍耐力と愛情です。

「待て」と言われて待つ人がいなかったら? 「僕がいなくても頑張ってください」と言われて頑張る人がいなかったら? 「この子を頼みます」と言われて引き受ける人がいなかったら?

女たちの美徳は、男たちの不徳と一体になって、子どもたちの人間性を規定する。しかもやっぱり子どもは母に支えられて立ち直るわけです。

理帆子は自分を責めることにすり替えているけれども、本当は「お父さんは私を捨てていった」と恨み言を叫びたい。さすが汐子さんは彼女の気持ちを代弁してくれた。

理帆子が立ち直ることができたのは、光を浴びる前に、すでに母親によって満たされていたからです。汐子さんは何の光も浴びなかったのに、なぜにそんなに強いのか。あるいは夫が彼女にとっての「光」だったのか。

また理帆子のほうは「私は光を浴びたことがあるのよ」と自慢して終わりにしない。その光を今度は他者にも与えようと思う。八方美人に他人の話を聞いてやる彼女には、もともとボランティア的な気質がある。なんだかんだ言って、母親が切り花に栄養剤を与える姿を見て育っている。

25歳の創作家が、読者に与える効果を計算して、この男たちと女たちの経緯を組み立てたのか。あるいは本人の無意識という海の底から、社会という氷を突き破って呼吸を求めるものが湧き上がって来たのか。

女性の生々しい独り言のような文体を、瀬名秀明は瑞々しいと評する。

いわゆるフェミニズムふうに「伝統的な結婚の形態は女性を不幸にすることを訴えた作品である」とまで曲解する必要はないけれども、やっぱり作品には女性視点、男性視点、年齢といった差異が現れないでは済まされない。

男性作家がこのように多感な20歳前後の女性心理を計算ずくで書くことは難しいように思われる。これはその年頃の女性の自発によってしか描かれ得ないように思われる。

【女性読者の現実。】

多くの実在者は、結局なんにも関わらせてもらえないまま、なんとなく成人式を迎えてしまう。君たちは今日から社会人ですとか言われても意味わかんない。

「大人になるってエッチすることでしょ」と勘違いする人もいるし、むしろ物語のように傷ついてみたいと思う人もいる。でも他人を傷つけてはいけないことは分かっているから自分の肉体を傷つけるなんてこともある。

この話において、25歳にとってリアリティではあり得ない母性は、だいぶ理想化されている。父性もだいぶ理想化されている。

結局のところ居心地の良い世界で、若い人が勝手なことを言ってるだけというようにも見える。そのことに理帆子自身が気づく心の旅でもあった。

逆にいえば、もし汐子さんが元気だったら、理帆子はおそらく自虐を続けていた。埃っぽい部屋にカメラを封印したまま。

ということは、母たる人は、みずからの命をかけても、娘を独立させてやるのがよい。そうかといって、娘たる人も、もって生まれた才能と恵まれた環境がなければ、やっぱり成功には至らない。

私小説のようで、ハーレクイン的な理想物語でもあるのです。

すでに成功した男性作家である瀬名は賛嘆を隠しませんけれども、女性にとっては、あるいは身につまされ過ぎて、居たたまれない話かもしれません。

【アマチュア性。】

軽乗用車やピアノ曲については固有名詞を挙げる作家は、写真機のメーカーやレンズの種類には触れておらず、本当は写真の世界に憧れているだけであることが伺える。

理帆子は美大へ進んで写真の技術を勉強したうえで25歳の受賞になったのでしょうけれども、作家はそのへんをぼかしてある。

だから警察にいた人が警察の内部事情を告発したり、医師免許を持っている人が医療過誤や生命倫理を題材にしたというのと毛色が違う。やや漫画チックというか。ロマンチックすぎるというか。若いアマチュアが自分に分かる範囲で書いた作品、という感じがする。

だから瀬名が「傑作です」という時も、微妙な含みが感じられる。だからこそ、25歳の憧れと恐れのすべてを注ぎ込んだ魂のランドマークともいえる。

当然ながら、それまで平凡(な不良)だった子が部活動を始めたら急に才能を発揮したという漫画の一種ということもできる。

漫画を文字で書くということは、ある時期から流行し始め、ライトノベルと呼んだりするわけですが、これはその種の稀有な成功例ということもできる。

いろんな意味において、この時代の、この年齢の人にしか書けない傑作の一つとして、長く記憶されるべき作品だと思われます。

それにつけても、スマートなドラえもんもいたことです。



2015/12/07

紙の本には互換性の心配がない。

ぼちぼち始める大掃除。納戸から旧作書籍(またの名を積読)がいっぱい出てきました。まだ読めました。

VHS版のビデオはもう見られないと思います。ベータ版は言うに及びません。ゲームも使えなくなったソフトがあります。再生デッキを保存しておけばいいわけですが、故障した際には修理がききません。

紙の本は偉大だと思ったことです。

またネットの調べものは、ウィキペさんの記事を転載してあるだけというサイトも多く、行き詰まりがちです。やっぱり詳細な知識は紙の書籍の中にある。

無断複製の問題は生じ続けるでしょうが、たとえば500ページの専門書や、何巻にも及ぶ連載小説をすべて手打ち入力して、その手間に対して一円の見返りも求めず、かたっぱしから無料公開してしまうというのは、ちょっと考えにくい。

青空文庫などは純粋に教育目的で、深甚な好意によって成り立っているものです。

じゃなくて、ちょっとブログをにぎやかにしたいとか、アクセスカウンターをかせぎたいといったことで数千円もする書籍を買ってきて、腱鞘炎のリスクもかえりみず、煩瑣な索引ページに至るまで、打つべし打つべし打つべしってのは、ちょっと考えにくい。動画や画像の転載が後をたたないのは、技術的に楽だからで、活字のほうは、それとは訳が違う。

やっぱり編集のプロの手を経る必要のある種類の本というのは存在するし、すでに存在する書籍をすべてデジタル化することはできないし、必要もない。

というわけで、専門書を必要とする人、稀覯本を高値で取引する好事家はなくならないでしょうから、紙の本が全滅することはないでしょう。

出版界は、この十年のあいだにすごい規模で売上を減らしたらしいんですが、それはもともと一過性の流行情報としての映画、スポーツ、ファッションなどの話題を求めていた浮動票的な層がデジタルに移行したからかもしれない。

とすると問題は、デジタルが盛ん、ゲーム業界が好調といっても、それによって日本全体の景気がすごく良くなったわけではない。つまりAに分配されていたものがBに移っただけで、日本国内にある「お金」の総額はべつに変わってないってことなのかもしれません。

2015/12/04

悪役不在時代の自己責任アニメ。


『おそ松さん』面白かったです。コピーのコピーのコピーじゃダメだと言われりゃ逆手に取る若い制作者たちもいることです。

絵柄がアーティスティックかつ、声優の使い方も含めて演出のセンスがひじょうに良く、まずは驚嘆の思いをもって楽しく拝見できます。

が、たぶんオールドファンには不愉快だろうと思います。いかにも現代的に暴力的すぎて、赤塚不二夫の域を越えてしまっているだろうと思います。暴力が悪者退治のために使われるなら「良い」とされてきたのがアニメの世界ですが、これは仲間内のイジメを描いています。

昔のように洋行帰りの金持ち(を気取るイヤミな奴)を悪役にして、そいつを「ギャフン」と言わせることで物語に落ちをつけることのできた時代はよかった。早稲田に対抗して、俺たちはばっかだーばっかだーーと歌っていられた時代はよかった。

現実としても、赤塚ワールドとしても、上流社会・インテリという仮想敵がいた時代はよかったのです。抵抗勢力ごっこが出来た。今の若者は、本物の上流に対しては潔く負けを認める。

おそ松さん達も、女の子が慶応ボーイに憧れ、合コンやりたがることは認めている。しゃくにさわるから慶応ボーイを待ち伏せして殴ったれということではないし、女どもに思い知らせてやれってことでもない。

結果的には女性の期待をも揶揄したことになるんですけれども、それ以上に本人たちの関心があるのは、抜け駆けした仲間に私刑を加えることです。

もはや女性にあまり失礼なことは言えないし、本物の上流に逆らったら本物の粛清が始まる。「世界」という巨人が我々を見おろしている。自由と自己責任という金看板の陰で、小さな俺らの攻撃性はお互いに向かう。ルサンチマンとは言うを要しません。

でも、じつはニートを描いている人はニートじゃないのです。脚本を買ってもらっている以上。

監督以下のアニメーターも、もちろんアニメ会社に就職できている。たとえ、生卵の値段以上に給金が据え置きされていようとも。

不良少女の内面を中年男性作詞家が描くように、もはやニートではない人が、ニートの鬱憤を晴らす物語を考え、ヒッキーにありがちな台詞を並べてみせている。これを見て感動しちゃってる奴とかいるんだろ? ぐらいのことを言われている覚悟をしなきゃいけないのが現代の視聴者です。

たぶん世界中に共感してくれる奴はいる。日本のアニメを愛し、そのツボを理解してくれる「フランスの俺ら」は確実にいる。でも、これを感動したと言えば言うほどダメな奴あつかいされることも分かっている。

というところまで、脚本家のほうで読んでいる。

6人の性格付けも明瞭ですし、たいへん出来の良い作品です。ただし不愉快です。視聴者を不愉快にさせるツボをよく心得た、出来のよい作品です。

一見すると、ほのぼのホームコメディで、ファミリー向けのようだけれども、完全に逆手に取っている。こういうのが日本でも出てくるようになったか……といったところです。この作品をもって「アニメは完全に大人のものになった」と言ってもよいのかもしれません。

子どもが性的描写や残虐描写に憧れることは、わりと簡単にできるのです。学童だって昔からエロ本を覗き見したり、怖い話を読んだり、「シュール」なギャグを面白がってきたものです。でも、それを面白がっていられるうちはまだまだ自分の未来に夢があるって気づいちゃった時が大人です。

デカパンさんと、だよ~~んさんは、気楽に生きてる(ように見える)中年世代への風刺なのでしょう。昔はべつにコンビじゃなかったような気がしますが、もしかしたらBL趣味への風刺なのかもしれません。(ゲイへの風刺ではないことにしておく必要があります。)

久しぶりに独身ストレート男性の逆説的ナルシスムが横溢したアニメと言えるのでしょう。その点では赤塚マインドで、先生もあの世から御覧になって笑ってくださっている……かどうか。

もしかしたら、なくなった大家たちというのは、対抗意識を燃やして「俺にも描かせろ!」と思うのかもしれません。


2015/12/03

同性婚を認めても、伝統的な家族の価値観は壊れません。

ストレートカップルの隣に、同性婚カップルが並び立つだけです。

ストレート社会は、女性が男性に嫁ぐことを続ければいいだけです。

じつは、男性が婿に行くことも、ずっと昔から行われています。政済界には、入り婿が岳父の事業を継いだ例がいくつも存在します。いまや「主夫」となって家庭に入る男性も存在します。

彼らは今なお人口の9割強を占めるストレート(異性愛者)であって、彼らが同性婚を横目に見て「うらやましいから俺も」と転向することはありません。

めずらしい青い花が咲くことを認めたからといって、赤い花は枯れません。赤い花が青くなることもありません。同性婚に関する生々しい調査結果が出たようですが、これも話を混同し、勘違いしている例です。

伝統的な家族が崩壊しつつあるのは、ストレートがカップルになりたがらないからです。その原因は景気が上向かないことです。国の借金が大きすぎて、若い世代のために教育費や医療費の完全無料を実施してやることができないからです。LGBTのせいではありません。



2015/12/02

空気を読むのが悪いことなんじゃありません。

「昔は空気を読むなんて言わなかった。いまの若者は情けない」という講演会を聞いたのです。

でも、その講演者に向かって観客席から「つまんねーーぞ!」とか言わないのも、空気を読むうちですね。江戸城の大広間で外様大名が「将軍とか、どうせ世襲だから無能じゃーーん!」とか言わないってのも空気読むうちです。

講演者は「俺が大学をやめて独立するって言ったら、同郷の友人たちが『よし分かった』と言ってくれた」というのです。

だから、それを空気読むっていうです。

この場合、空気読まないのは「お前、そんな甘いことでやっていけると思ってんのか!? いま日本のGDPはだな……」とか「先日の先進国蔵相会議でこうこうこのように決まったということはだなァ」とか議論を始めちゃう人のことです。しまいに「聞いてんのか!?」とか怒り出す人のことです。

周囲は「たったいま全員でこいつの夢を応援してやろうって気持ちで一致したところだろ!? 人の心の分からない奴だ」って憮然とするです。

成人式で「ウケてる」と勘違いして自分だけ騒ぐ人がいれば、取り押さえるために警察が呼ばれ、そのあいだ会場が封鎖される。他の参列者は「みんなさっさと済ませて、さっさと帰りたいんだから騒ぐなよ」と思っている。

独善性に対して、協調性を求めることを、空気を読むっていうです。

ホームに落ちた人がいるから皆で電車を傾けるぞっていう時に、一人だけ「手が汚れるじゃん」とか「今、メール打ってて忙しいんですけど」とか言わないってのも空気読んだうちです。日本人の美徳です。

でも、時々それが裏目に出て、みんな我慢しているという理由で、組織改革のために必要な提言ができないといったことになるです。

あるいは若者が一人で昼飯食ってると「空気読めない奴」という変な評判が立って、それ以来どこへ行っても仲間はずれにされる、ということを本人が恐れる。

空気を読むことが悪いんじゃないです。同じ行動が良い意味に作用するときと、悪いことの原因になるときがあるです。

だったら「空気読む時と、読まなくていい時があるんだよ」と教えてやればいい。それには大人の側の「ものは言いよう」ってことになるです。だから最近は「部下の心に届く言葉かけ」といった書籍が流行している。なんでも昔の若者は良くて、今の若者がダメなのではないのです。

団塊から第二次ベビーブームにかけては、同級生の数が多かったので、「みんな! 俺と一緒に盛り上がろうぜ! 空気読めとか言うなよ! イエ~~イ!」という明るさを装った同調圧力大好き、ということがあるのです。ここは気をつけたいです。



2015/12/01

水木しげる作品の思い出。

戦後の闇市の時代に、マッチを一本ずつ売る老婦人。まとっているのは薄い和服一枚だけ。

客の買ったマッチを自分ですって、その灯りで自分の着物の中を見せるのが本当の商売なわけです。でも歳を取ってしまって、もう誰からも相手にされない。しまいに自分ですったマッチの火が着物の裾に燃え移る。炎に巻かれながら「あったかいよ、お父ちゃん」とつぶやく。

「お父ちゃん」とは父親のことだったのか、夫のことだったのか。

いま手元にないのですが、いずれかの傑作集に収録されていると思います。原作つきだったかもしれません。

『遠野物語』にはご自身が登場なさって、柳田の紹介したエピソードを一つずつ検証するという形式でした。最初に登場した山女がえらくセクシーに描かれていましたね。有名な「幽霊の着物の裾で茶碗が廻る」という話については「この婆さんは現世への執着が深い」という感想を述べておいででした。

まちがいなく人間の愛欲と業を描いているんだけれども、読者にとって不快ではない。暗くなるまでに丁寧に描かれた画面からは、画業への誇りと人生への愛惜が感ぜられます。

妖怪絵は原画展を拝見したことがありますが、広重を模した風景の中に妖怪が顔を出していて、人間が逃げ出す様子が描かれていたかと思います。

妖怪の父といえば、まるで小林一茶のように妖怪たちと戯れていた好々爺のようですが、彼の作品には、妖怪の出現に眼をむいて驚く人間の姿が描かれている。

戦場を見てきた人の心のうちには、死んだ人が化けて出る、破壊され、放置された器物に恨みの心が宿るということへの現実感と、強い恐れがあったことと思います。

剣よりも、小銃よりも、Gペンの力が人を打つ。漫画の心が受け継がれてほしいです。ご冥福をお祈りいたします。