2016/02/29

1.愛国の同人。

コミケと日本の未来のために、最も重要なこと。



帝国主義の拡大のために徴兵した若者たちを鉄拳制裁で鍛え上げる。

そういう資本主義的全体主義から、共産主義的全体主義へ移行しても、じつはあんまり違いがない。ほんとうは、全体主義の対岸に「消費生活優先的個人主義」というのがあるはずなのです。

資本主義と共産主義がほんとうは同じ枠組の中にいる兄弟のようなものだというのは、ベルリンの壁が落ちた頃にやっと(大きな声で)言われるようになったことで、今でも対立概念という誤解が完全に克服されたとは言いきれません。

でも、資本主義が行き着いた先の帝国主義に対峙するのは、個人主義であるはずなのです。

1921年には、日露戦争のヴェテランである陸軍中将・佐藤鋼次郎によって、「きたるべき日米開戦に備えよ。日本男子は心身を鍛えなおせ」というテーマの小説が発表されたそうです。

逆にいえば、当時の日本男子は惰弱になっていた。代表は谷崎潤一郎。

西欧から輸入された個人主義・耽美文学のせいで若者たちが退廃してしまった。いつの時代にも流行を嘆く警世家が存在するものですが、こういうのは当時の決まり文句の一つだったそうです。

中将の言を入れれば、徴兵規模を拡大し、訓練を厳しくするといったことになる。ボタン戦争ではなく、地上戦が基本だった当時は尚更です。

じゃ作家たちはどう云うか。文面や口頭ではハッキリと軍人さんを批判しないにしても、内心では「戦争やったほうがいいよ」と思ってるわけはない。

本当は中将だってその通りで、兵力を最大限に温存したいのが、現場を知る人です。

彼の本心は「弱いままでは列強につけこまれ、攻め入られてしまう。日本男子が強さを取り戻して、列強との間にパワーバランスを維持すれば、平和を保てるよ」ということだったようです。(参考:1980年、佐伯彰一『外から見た近代日本』)

で、現代。

さすがに共産党も「革命だ」とか云わなくなりました。べつに暴力集団だと思われているわけでもない。

西欧には「最後の日に備えよ」という黙示録の印象と、それに煽られたキリスト教異端による騒擾の歴史があって、共産主義=革命=暴力的示威行動というふうに短絡しやすかったのだろうと思います。

いまでは日本共産党は平和と福祉を訴える市民団体みたいになっている。これは世界中の平和主義者・女性と連帯することが可能ですから、その意味ではやっぱり普遍主義、やわらかくなった左翼ということができるでしょう。

でも実際問題として、各国において平和が保たれるためには国際的パワーバランスの維持が必要で、防災・救助という観点からも、とくに徴兵制のないわが国では、自発的に自衛隊へ入ってくださる若者とそのご家族に足を向けて寝られない、ということがある。

このばあい、若い女性の最高の夢は自衛隊員のお嫁さんになること。それに相応しいのは夫の留守中に不貞をはたらかず、子ども達を心身の強い若者(女子の部を含む)に育て上げる良妻賢母。

このばあい、強い若者とは、腕力にまかせて弱い者イジメをする若者ではなく、お父様同様に社会のルールを守り、思いやりをもって世のため人のために働くことのできる若者です。やっぱり、これらが基本になります。

これに対して、同人は男女とも「もっと自由に暮らしたい。好きな漫画だけ描いて暮らしたい。それが欲しいといって、わざわざ買いに来てくれる人も大勢いるんだ!」と云わざるを得ない。同人界を母胎とするプロ、その作品によって利益を得る出版界も同様です。

でも、即売会が無事に開催できるのは、自衛隊によって国家の安全が保障され、ほとんどの国民が社会のルールを守っているからです。

このさき何十年も同人稼業で食っていこうと思っている人は(すごいことですが)、次世代をお客様として迎える必要がある。迎えてみたら会場内の順路を守らず、恐喝や暴行をはたらく連中ばかりだったら困る。

また「漫画のセリフを読むのもめんどくさい」という若者のほうが増えたら、二次創作に留意して頂くどころじゃありません。

それを防ぐには、やっぱり義務教育が充実し、子どもをちゃんと育ててくれるパパ・ママが必要です。

じつは暴力と痴情を描く同人こそ、日本人の礼儀正しさ・非暴力・教育の高さの恩恵をこうむっている。

だから同人こそ、自衛隊に感謝し、結婚する若者たちを祝福し、家族愛と地方の活力を尊重し、教育と児童福祉の充実を訴え、「日本は良い国です。みなさんのおかげです」と云う必要がある。

そのかたわら、自分自身はプロになるためにオリジナル作品を完成させる努力を続ける必要がある。あるいは同人界で50年間生き延びるために、死にもの狂いになる必要がある。そして確定申告しましょう。

真面目にやるのを恥ずかしがるのは、古い流行です。昔の話を若い人が真に受けて「同人は悪いやつらだ」と思う必要はありません。自分も悪いやつになろうと思う必要もありません。

創作物の良いところは、自分が他人をイメージ消費して終わりではなく、他人に楽しみを与えることができることです。続きが楽しみだというだけで明日を生きよう、新作を買いたいと思うだけで働こうと思う人が増えるのです。

だから、昔とった杵柄を自慢したい人は、それを他人をぶん殴ることに使わずに、また描いたり書いたりすることに使いましょう。

ちゃんと分かってる同人さんのほうが多いことだろうと信じます。

2016/02/26

1979年、小泉喜美子『月下の蘭』双葉社

推理というより、エドガー・アラン・ポー流の怪奇と幻想、耽美的ホラー小説というのが近いのではないかと思われます。春夏秋冬になぞらえた4作を並べた中篇集。

リアル世界が交通安全週間か何からしくて、コートの襟もとに白いマフラーを巻いた警察官の姿(カッコいいですね)を見かけたので、3作めの『宵闇の彼方より ~秋は蟲』を思い出したのです。

「写真の一枚は白衣をつけた温顔の老人のものでしたが、もう一枚は軍帽をまぶかにかぶり、白絹のマフラーを頸に巻きつけた、眉目秀麗な一人の海軍青年将校の顔でした。」(p.164)

ミステリ作家が山間部を取材旅行中に自動車事故を起こし、現地の病院に収容されたので、雑誌編集者が見舞って行くと……。

朽ちかけた『葛城病院』に謡曲「土蜘蛛」が響き、蝶の模様のスカートをはいた看護婦さんが薬を持ってきてくれるという道具立てが楽しいのです。いや、楽しく読むような話ではないですが。

編集者は一人称が「私」で、女流作家の筆だから女性編集者かと思って読み始めると、途中で視点移動があって、そこから見ると編集者が男性であることが分かります。入院中の作家からは「保井くん」と呼びかけられる。

保井くんは能楽でいう「ワキ」なわけですが、冒頭から「それではお話しましょうか」と読者に呼び掛ける体裁で、やや演劇的な、構えた口調による長い独白を始めます。1979年にしても古風な趣で、ロマン主義のイミテーションなわけですが、見事に成功しています。

回想場面における保井くんに比べて、この独白はすっかり歳をとってしまったような印象でもあり、事件が保井くん自身を変えたことを暗示する二重構造になっているようです。

まだこの頃には、こうして格式張って小説の形式を整えることに、作家が意欲を持つことができたのかもしれません。

男性作家が、ほぼ自分というべき登場人物を案内役に、大学の先輩と、彼の関わった不思議な事件を読者に紹介するという式の作品は、ミステリという分野のそもそもの初めから、たくさん物されて来ました。

女流の仕事は、どうしても「よく上手に男性の真似ができましたね」というのが、評価基準になるわけです。作家と編集者の男同士の会話もそれらしく書けている。でも、どうしたって、どこかから引っ張ってきた感は否めないわけですが、ここでこうして取り上げている次第で、そこが好きなのです。

太平洋戦争を素材にして、この種明かしになってしまうのは、戦没者遺族にとっては気持ちのよいことではありません。

もとよりミステリというのは、三面記事の娯楽化で、とくにこのようなロマン主義的・耽美的味わいを加えると、そのような道徳的判断を停止して、物語内部の構成の緊密さ、文体の華麗さをそれ自体の価値として味わうということになります。

そしてもともと、ロマン主義とは、芸術を神に捧げる人間の禁欲・倫理・道徳といったことから解き放つ運動そのものでした。なお耽美とは、美に「ふける」ですから、もとより良い意味ではありません。

『宵闇の彼方に』は能楽を題材にしていますが、春を表す『月下の蘭』は温室における女流園芸家による蘭栽培、夏を表す『残酷なオルフェ』は舞台劇、冬を表す『ロドルフ大公の恋人』は海外で遊びなれた男を主人公に、浄瑠璃を引用しており、いずれも華やかな印象です。

初版本あとがきでは、作者みずから「私は現実的なミステリーにはほとんど興味がない。社会性とやらは私の関知せざるところである」と(いけしゃあしゃあと)書いております。歌舞伎をたいへん愛好していたようで、その舞台を評した文章には「両性具有の美貌の不良少年」なんて言葉も登場するようです。お嬢吉三か菊之助か。(1982年『やさしく殺して』)

あの時代の女流らしいな、と思ったことです。

なお、手持ちの版は1985年初版の徳間文庫です。白絹のマフラーを巻いた人は搭乗員ではなく、軍医として出征したそうです。

2016/02/25

1961年、森茉莉『戀人たちの森』新潮社

三島由紀夫で思い出したので、あらためまして。

初出は月刊『新潮』昭和36年8月号。9月には単行本の初版が発行されています。帯には「禁色の戀を描く傑作」とあります。推薦文が三島。

「少年パウロが戀人の死を忘れるあたり。女性は決してこのやうな残酷で明澄なナルシスムに到達することがない。それは男性のもつ最も奥深い祕密である筈だが、それを女性の作家が發掘したといふのは、驚くに堪へた出來事である。文句なしに傑作として推す。」

「禁色」とは誰の作品にもとづくフレーズか、申すまでもありません。新潮社による宣伝文はこちら。

「愛される少年。愛する男。男同士を嫉妬しながらも少年を母のやうに抱く少女。そして、戀人を美少年の魅力から取戻さうとする黄昏れの女の破滅的情炎。頽廢と純眞の綾なす官能の、瀨となって戀人たちを押し流した一夏の果て。……慘劇にも燃え熄まぬ戀の火を、大膽不敵な言葉の贅を盡して白晝夢のやうに描く、野心的傑作」

ぜんぶ言っちゃってますな。これ書いた人は楽しかったでしょう。

でも、じつはそんなにおどろおどろしい物語ではありません。むしろ愛される少年と愛する男は、お気楽といってもいい。あるいは、それこそが編集者をはじめとする庶民にとっては貴族的怠惰・退廃というふうに見えるのかもしれません。

三島のほうは、あたりも何もラストシーンなんですが、果たして男性に特有の意識かどうかは怪しいところです。あるいはそれまで外聞をはばかって描写されずにきた女性の酷薄なナルシスムの真髄を女流の筆が表し得た瞬間だったのかもしれません。

なお、帯は紛失されやすく、図書館から書籍を借用する際にも目にすることができないことが多いので、研究目的として、全文転載には意義があると信じます。ご理解を賜りますようお願い申し上げます。

で、三島の言い分には(いつもそうですが)彼自身のナルシスムがこってり詰まってるので、これ自体をネタに小一時間できそうですが、今は本文。

物語としては、まさにアラン・ドゥロンを主人公にしたモノクロ時代のフランス映画で、読者に挑戦するていのミステリーでもホラーでもなく、豪華な道具立ての中で、不安をはらんだ「頽廢と純眞の綾なす」恋愛心理が時系列順に語られ、唐突に暗い結末を迎える。

ちゃんと伏線はきいているわけで、小説としての形が整ったうえで、美少年が鏡をのぞきこみ、その鏡に映った顔が詳述されるなど、視覚的な描写が多いのが特徴です。

作家の情熱が、もう明らかに男たちの美貌を描き出すことに捧げられており、このこと自体が当時として快挙なのだと思われます。

なお、耽美とは美に「ふける」であって、もとより良い意味ではありません。作家自身も、その筆を通じて読者が架空の美少年に見とれることも、もとより大人の娯楽なのです。だから「頽廢」だったのです。ここ重要。

というわけで、登場人物の外見を映し出してから内面へ入っていくという手法が繰り返されており、まさに映画を見ている気分にさせられますが、年長の男の職業が分かるのは開始20分(もとい)約20頁め。仏蘭西文学の助教であることが分かるのは、じつに終盤に至ってから。

設定紹介のミスってことではなく、親の金で暮らしている遊蕩児であることは序盤で明かされております。事実上の主人公というべきギドウは趣味のように翻訳物を出版したり、背徳の匂いのするエッセイを刊行したりしているそうで、肩書きなんかものの数ではないのでしょう。『葡萄祭り』拝読したいです。(ほぼ『私の美の世界』なのだと思われます。)

どんな作家も、知らない世界を描くことはできない。新聞記者の経験があって調査力のある人は、調査したことを元に社会派作品を書くけれども、調査していないことは書けない。たとえ百年前の霊魂が乗り移って書かせたとしても、百年前の人も知らないことは書けない。

だから作家が自分と同じ世界に属する人物を主人公にするのは当然なのです。ドイルとワトソンは同じ医者だった。新聞記者をやっていた人は新聞記者を案内役にすることが多いものです。

というわけで、作家自身と同じ文筆の世界にいる異性を最高の存在として、「言葉の贅を盡して」読者の眼に見えるように構築している。男性の彫刻家が自分自身の近代人としての目覚めを表現するにあたって、理想の美女を彫り上げるようなものでしょうか。

が、じつは叙述の白眉は中年女性の内面の焦燥を描くあたりだと思うのです。

男たちは基本的に充足しているので、その感情はその時々の相手次第で風に吹かれた水面のように揺れ動くだけで、そのさまを端的に描写する筆は見事なわけですが、「植田夫人の」から唐突に始まる女の内面描写は、一気呵成に彼女の内面へ潜行して止まらない。

他の頁では、明らかに「カメラ」が美しい男の外見を映し出していて、そこへ作家が注釈をつけていくような感じですが、ここでは鏡の前で、いや鏡を見ることさえもいやになった女が眼を閉じて自分の内面を追っている。

三島がなんと言おうとも、この生々しさなくて田村俊子賞の受賞はならなかったと思われます。(『木乃伊の口紅』は女流の私小説です。)

どのみち作家というのは、一人で何役も演じているようなものです。離見の見をあやつるのは、能役者だけではないのです。読者だって、誰にしか感情移入しないなんてことは、ないのです。

なお、作中で「希臘の昔の男色の貴族」と(アプロディーテーの愛人だったアドニスではなく)「ナルシスのやうな少年」と、ジャン・コクトオと、マルキィ・ド・サドゥに言及しているので、やっぱり発想源、あるいは作家独自の思いつきの保障はそのへんだなと知ることができます。

(参考として、呉茂一『ギリシャ神話』は、1950年に中央公論社から刊行されております。)

なお、手持ちの版は1974年12刷です。13年間ほぼ毎年増刷されていたことになります。契約の履行に過ぎなかったかもしれませんが……たぶん、売れたんでしょう。

2016/02/24

2016年1月24日グランシップ静岡能、宝生流『八島』ほか

家康が1616年に亡くなって、今年で400年なのだそうで、年忌能の一つとして、野外劇場で上演されていた往時を再現したい。

若き宗家の意欲によって、まさかの背景美術つき(驚愕)

グランシップ中ホール(約870人収容)の多用途ステージに、能が出るときだけ屋根のない仮設舞台を組み立てるわけで、その上方の天井部分は、通常は暗くなっている。

今日は木製の壁のすぐ上に、鏡板の老松とタッチを合わせた松の枝という大道具があしらわれ、その上の空間には白雲の浮かんだ青空が映し出されて、瞠目することしばし。ああ撮影したい。グランシップは現代演劇にもたいへん力を入れているので、そのスタッフの尽力でしょうか。

法政大学能楽研究所のバックアップつきで、宮本先生がろくでもないたいへん珍しく有難いお話を聞かせてくださいました。

ロビーには法政大学所蔵の資料が展示されており、楊洲周延の町入能の絵も拝見できました。嬉しい。町人があれだけ騒いでるのを、武士は「静かにしろ」とも云わなかったのかな、と不思議に思うなど。

もっとも、周延の絵は上演当時のリアリズムではなく、人物の描き方も様式化されているわけですが、リアル江戸時代の資料も展示されており、そちらでは多くの女性も鑑賞に来ていた様子が見られて興味深かったです。

たしか泉鏡花の作品に「誰も能を見ちゃいない」(謡本を見ていたり、一緒になって謡うことに夢中)なんて愚痴がありましたが、江戸時代から、あるいはそれ以前から、同じことだったのでしょう。

現代の冬場の上演は、咳をする人が多かったり、のど飴の袋を開ける音がガサガサ響いたりすることですが、まァ当時に比べれば。なお、遅れて入ってきて椅子を探すときには、独り言で席番をくり返すのを控えましょう。

さて、お舞台。『翁』の素謡から。演者は舟形烏帽子に紫色の素襖着用。袴の脇開きに手を収めるのとは違う袖さばきがまた美しかったことでございます。宗家は威厳のある良いお声だと思いました。グレイヘアの地頭は勢いのある方でした。

「地謡方の点呼を取って、パンフレット上の名前と顔を一致させたい」とは毎回思うことですが、致し方ありません。

厳粛さが強調されることの多い『翁』ですが、あの意味不明な魔法の呪文によって脳を解きほぐし、心を解放するという、リラクゼーションというか、ヒーリングというか、改めて、そういう効果があるように思いました。もしかしたら狂言方に通ずる滑稽味をもって演じられていた時代もあったのかもしれません。

狂言は『末広がり』、力量のあるお三方で、たいへん楽しかったです。昔の日本人は本当に胴長短足だったので、重心が低く安定感があるのは当たり前なのですが、今では足長のイケメンが頑張っていることです。主人役が小謡に乗ってしまう場面は、見てるほうには面白いですが、演技者にはつらい体勢なのでしょうね。シャギリが可愛く決まった瞬間には、思わず「ブラボ!」と云いたくなるものです。

江戸時代には本当に歌舞伎のように声をかけることもあったそうで(宮本情報)、それを武士がたしなめなかったのなら、封建時代に関するイメージが変わりそうです。

『八島』は本当に小兵のシテにより、「小兵だと思われたくない」という義経の誇りが最大限に表現されておりました。背景の青空がたいへん効果的でした。大鼓が遠くから打ち寄せる波浪の音、小鼓がその岩を洗う音、笛が春風の音に聞こえたことです。ワキ方三人の合唱が美しかったです。

よく知っている気がしていた『八島』でしたが、前場から通して見たのは初めてでした。春の『八島』、秋の『松風』。たぶん同じ番組でかぶってはいけない曲。「大和申楽」の世阿弥は基本的に山に囲まれて育ったはずで、海への憧れがあったのかもしれません。

アイも長いんだろうな……と覚悟しつつ、もはや眼を閉じて拝聴したところ、景清カッコいい~~。渚に乗り入れる小舟、仁王立ちで名乗りを挙げる武将、渾身の力比べがありありと脳裏に浮かぶことです。「というわけで、あんまりよく知らないんですが、ところでご用件はなんですか」っていう、あのアイのパターンは笑っていいところなのかどうか。(たぶんよくない)

後シテが出てくる直前の囃子の、ぐっと熱がこもって緊張が高まった感じは良いものです。「位」ってこういうことを云うんだろうな、とぼんやり思うなど。幸弘の笛がやや弱い感じで心配していましたが、後場に至ると潤いを増しました。そういう演出なのか、そういう人なのか。

将軍家拝領の法被は、今日も金色に輝いていました。おそらく霊感の強い僧侶に惹かれて、いっとき閻浮に帰った幽霊が、血沸き肉躍る合戦を思い出して我を失い、空の白んできたことに気づいて、ふと寂寞にとらわれる。自分はもうこの世の存在ではないことを思い出す。その、ふっと気の抜けた感じがよく出ていた……などと云うと、ベテランのシテに失礼でしょうか。

佐伯彰一(というか本居宣長)によれば、日本の神道における黄泉の国というのは、極楽でも地獄でもなく、たんに穢く悪しきところなんだそうです。それでも、そこへ行く他ないから、死ぬことは誰にとっても悲しい。だからこそ、生き残った人が追悼し続けてあげるのだそうです。

武将の霊は修羅の地獄に落ちて永遠に戦い続けることになっているのが能の世界観だけれども、夜が明けたので、また戦場へ帰るんだ……というのとも、ちょっと違う。暗く寂しいところへ帰っていくのです。我があと弔いてとも云わないところがかえって悲しい。

たーーかまっつのーー、あーーさあっらっしとぞ、なりにけーーるーー。袖を巻いて留拍子。

宝生流は古朴というか男らしいというか、観世流がレガート利いて、やや女好きのする感じなのとまた違う骨太な魅力を持っていることです。観世流は江戸で他の芸能の要素を取り入れたのかな、前田家には戦国時代の気風が残ったのかな、などとぼんやり思いました。勉強するよと云いながら。

お舞台には春の微風が吹いておりましたが、戸外の風はすこぶる冷たい日でした。先生方には寒い中、遠いところをお運びくださって本当に有難うございました。ご自愛なさって、ますますご活躍ください。

2016/02/23

SNSパワークレイマーになる前に。

かねて新批評的なエリオット解釈に違和感を抱いていた佐伯彰一が、意欲的な女流の最新研究に接し、「じつはあのエリオットにして、聖セバスチァンに関心を抱いていた」と知るに及んで、ハッと胸を打たれる。おい、聞いたか、三島よ……。

エリオットを語りながら、じつは佐伯先生、ご自分を主人公にしたドキュメンタリーを書いてるですな。その臨場感、瑞々しさが彼の評論の魅力です。

彼において重要なのは「自分は富山の神道の家の子である」という自意識と、比較文学の研究者としての仕事に一貫性があること。

「神道イズムな俺の眼から見ると、エリオットのあまりの清教徒ぶりにはビックリしちゃうけれども、戦争中に神の名をご都合主義で利用する自分に気づいちゃったヘミングウェイが自然崇拝に回帰していったというのは分かる気がするよ」っていうわけです。

そして「じゃあ現代の日本には何があるだろうか?」って問いかける。「神道を見直してみるべきじゃないだろうか?」って問いかける。英米文学を論じながら、彼の魂は先祖に愧じない。自己の存在を証明している。

だから『ぶっちゃけ寺』のファンが「仏教が否定された!」と涙目になる必要はないのです。云うべきことがあるとしたら、じゃあ仏教徒の目から見たとき、エリオットやヘミングウェイはどうか? ということです。

もし「俺は寺の子だから、自然界の何を見ても、仏が宿っている気がする」というならば、それは仏教とアニミズムが習合した日本ならではの現象であることに自覚的でなければならない。

そして、その眼で『聖堂の殺人』を見ると、ほぼ理解不能だが、『老人と海』は分かる気がすると。やっぱり結論はその辺に落ち着くことになるでしょう。

この場合「自分は寺の後継者なので、神道一途な佐伯には全面的には賛成できないが、画期的なエリオット解釈を高く評価するし、『老人と海』が自然宗教的であるという指摘にも同感である。

いっぽうで、江戸時代の政治的戦略として世俗化がなされたことも否定しないが、神道は近代の軍国主義と結びついて日本国内の均質化に利用されてきたとも云える。

それに比べて、寺は檀家とのつきあいを通じて、より地域に密着してきたのであり、草木国土悉皆成仏という教えも日本人の宗教的古層に根ざしており、仏教もまた、迷える現代人の心の拠りどころとなり、行動指針たり得ると信じる」

といったブログ記事なり、新聞投書が書かれることになるかと思われます。

あとは読んだ人が神社へ詣でるか、お寺さんに自分の遺骨を預けるか、両方やっても良いことで、みんな違ってみんな良い。

そもそも日本人は、混合と共存という手段によって、さまざまな外来文化に対応してきたのです。

日本人は単一民族などと簡単に云っちゃうけれども、その単一がどれほど多様な文化の集積か。

ここで「読んでないから分かんな~~い」とか「どーーして私に分かる話をしてくれないの~~?」というのが、SNS依存症です。まず読んでから議論に参加すれば良いのに、SNSというシステムの手軽さに甘えている。

もし、これに対して「これだから女は」と云う人があれば、また別の人が「女だからなんだっていうんですか」という具合に割り込んできて、議論がズレて行く。エリオットにおける信仰という話じゃなかったのかよ、となる。

逆に考えれば、SNSはそういうところだと割りきって、口喧嘩を楽しむということもできる。周囲は「生温かい目」で見守ることになるでしょう。

ただし、売り言葉に買い言葉で興奮して、云ってはいけないことを云ってしまう危険性は高い。ゲーム脳を引きあいに出すまでもなく、液晶画面に向かいっぱなしというのが頭をボンヤリさせ、判断力を低下させることは、多くの人が知っている。

たぶん、単純に眠くなるのです。

で、倫理感のストッパーが外れる。そのこと自体が楽しくて、わざと暴言を云うというようだと、もはや立派な(?)依存症というのは、冷静なときには自分でも分かることでしょう。

じつはオフラインで書籍を読むときにも、心の中で「イミわかんな~~い」とか「聞いてないよ~~」とか思いながら読むわけで、それが「リテラシー」ということでもあるのですが、必ずしもその“脊髄反射”的な感想をそのまま世界へ向かって公開する必要はない。

必要があるように感じたら、すでに依存症ではないか? 自分自身に対しても、リテラシーを発揮すると良いのです。

2016/02/22

1993年、佐伯彰一『大世俗化の時代と文学』講談社

日本では「ヒューマニズム」という言葉が戦中の軍部の非人間性に対して戦後民主主義的という意味で使われていると思うんですけれども、本来「人間中心主義」とは、神に逆らうという意味なのです。

神を否定するから、神が人間を罰するためにお創りになった地獄をも否定する。地獄が怖くないから現世礼賛・欲するところをなす快楽追及主義になるという理屈です。

浪漫とは、もともと羅馬(Rome)なわけで、キリスト教以前の異教文化を取り戻そうってことです。

だから古代遺跡を発掘したり、地動説を推し進めて学問を発達させる一方で、恋愛礼賛・裸体礼賛になる。若い人には魅力的だけれども、厳格なキリスト教徒から見れば悪魔の所業。だから根っこが真面目なキリスト教徒で、ロマン主義文学にかぶれると、堕地獄をおそれてアブサンかっくらったり、阿片に逃げたりすることになるわけです。

T.S.エリオットは、これを嫌った。彼は厳格な古典主義者だった。ということはどういうことかというと、つまりキリスト教徒なのである。

前衛の極みと思われた『荒地』の底には、精神をわずらう妻によって罪障感に悩まされるというパーソナルな情念と、堕地獄を生々しく恐怖するという形における熱烈なキリスト教徒魂が脈打っている。

日本人には分かりにくいところを丁寧に解き明かしてくれている、と思います。

日本で反ヒューマニズムといえば、どんな恐ろしい懲罰のことかと思われるでしょうけれども、まさにその苛烈さがキリスト教であり、それに心酔する人は、聖セバスチァンの殉教の姿に自らを重ねちゃったりするわけです。

で、そういうマゾヒスティックなまでの信仰が日本人に分かりにくいのは何故か。日本が早くから世俗化したからである。いや日本にも熱烈な宗教心が燃えていた時代があったんだけれども、一向一揆に戦国武将が手を焼いたもんだから、以後はキリスト教をたたき出すとともに、仏教の権威を無化する方向に政治力が費やされた。だから今や日本人は「世俗化」という言葉の意味さえ理解しにくい。

もともと宗教的だったという意識がないから、それが崩れて世俗的になったとも思わないわけです。ピンと来ない。

では日本人は江戸時代以来、何をも信じない現世主義になったのかというと、いやそうではないというのが佐伯部の末裔。そもそもこの国には、仏教伝来以前の「宗教的古層」が息づいている。すなわち「死者との一体化」である。

【神道の子】

ぼくは若い頃あのエリオットの講演を生で聴いたんだ! 『聖堂の殺人』の舞台も見たんだ! 

と、例によって個人的な感動を瑞々しく伝えながら、「矯激なまでに正統固執、他者攻撃的」なエリオットの「最後の清教徒」らしさを熱っぽく証明する人自身の自尊心は、まっすぐに富山の田舎の神道の家に根ざしているのでした。

『外から見た近代日本』は、1970年代に書かれたエッセイを集めた本でしたが、全然ブレてないです佐伯先生。つねに高く評価するのは、ローカリズム。特殊性。個人の心性が、自尊心が、その生地に根ざすこと。

反感を抱くのは浅薄なコスモポリタニズム。1930年代のケンブリッジのお歴々が、亡命者ナボコフの証言に耳を傾けようとせず、ソ連に夢を抱いていたというエピソードでは、全面的にナボコフ支持。

その裏には、ケンブリッジにとって、より身近な脅威であったファシズムの台頭を嫌忌する心があったんだけれども、ベルリンの壁が崩れた後の1992年(執筆はこの年)にあって、それらは結局、表裏一体の存在だったよねと確認せずにはいられないのでした。

しかも、昔の自分はキリスト教圏における聖と俗との峻別をうらやましく感じていたと今さら打ち明けてしまう。それが自伝ジャンルに取り組むうちに、異教徒でありながらキリスト教を絶対視していた自分自身の前提のまちがいに気づいたという。

エリオットたち英米文学者を紹介しながら、異教徒・異民族という、自らを表す言葉がくり返し登場します。

自らの生まれ年を、やや照れながら「Annus Mirabilis(驚異の年)」と呼ぶ人は、この執筆の年には70歳になっているわけで、若き日に60代始めのエリオットを実見した際の印象を「ハッとさせられたほどの老人」と書きながら、それをはるかに越えてしまった自らを思い、「死者たち」に一体化しつつある自らの姿を見ていたに違いありません。

【死者たちへの共感】

佐伯の文章の持ち味は、研究者による批評文でありながら、本人の心情を生々しく語っちゃうところで、読むほうの脳裏には、彼自身が文芸作品を読み進めながら、呆気に取られてみたり、唸ってみたりしている姿が映画的な鮮やかさで浮かんでくるのです。

母をなくした直後の小林秀雄に共感し、本居宣長の自身の墓の造営を細かく支持する遺言に感じ入り、中原中也の故郷に思いを馳せ、志賀直哉とジョイスの共通点に気づいて「エリオットに云ってみたらどうだったかな」と夢想する。

佐伯自身は詩や小説を書かなかった人のようで、批評家というのは他人の仕事の後追いなのです。他人の生きた跡をなぞって人生を知る。

ベルリンの壁くずれ、レーニン像たおれ、マルクス主義という信仰さえ失われた「あの」時代にあって、これは文学の道を先に歩み、あるいは共に歩んで、先に逝った「死者たち」への一体感の表明であり、追悼の花束であり、挽歌であるようにも思われます。

「かつてあれほど抑圧されたホモセクシュアリティさえ、ほぼ公認というに近い所まで一気につき進んでしまった」(p.217より抜粋)と書いてしまう人のなかには、「三島の苦労はなんだったんだよ」と云いたい気持ちがあるのかもしれません。

雑誌『批評』の同人仲間であり、「生涯性懲りもないロマンチスト」だった「わが三島由紀夫」には格別の思い入れがあるようで、今ごろは再会を楽しみにしているところでしょうか。また日沼倫太郎にドッちかられたら、今度は何と云い返してやろうかと考えているところでしょうか。

なお、エリオットの奮闘むなしく「大世俗化」の加速する1960年代にあって、日本の(たとえば三島の)小説を英訳で読んだアメリカの学生が「これってZen(禅)じゃん!」って云っちゃう奇妙な流行現象に閉口させられたなんて思い出話が披露されており……

ああ、少し前にここへ引用しておいたアメリカ人による『金閣寺』批評の批評とつながった、なんて思わされたりしたことです。当時の日本人としては珍しく、1960年代のアメリカで宗教と道徳が「急激に弱体化」していく様を目の当たりにした人による生々しいレポートでもあります。

あげくに、ヘミングウェイは『武器よさらば』よりも……と独自基準を主張する富山人の反骨精神こそ筋金入りのようです。

だいたい、違和感がなければ、常識に対してもの申したい気持ちがなければ、何も書かないわけです。『荒地』は前衛だよ、『武器よさらば』最高だよと云って済むなら原稿にはならない。

キリスト教徒における神との葛藤、信か不信かという命題は、日本人には分かりにくい。分かりにくいものを佐伯自身が一生懸命になって理解しようとしている。

【あと弔いて】

本居宣長が丁寧に引用されておりますが、宣長によれば日本人の考える黄泉の国というのは極楽でも地獄でもなく、ただ暗く、けがらわしく、寂しいところなんだそうで、それが分かっていても、良い人も悪い人も、そこへ行かなければならない。だからこそ死は悲しい。だからこそ、生き残った人が弔い続けてあげるんだそうです。

「わがあと弔いて賜びたまえ」と云いながら、繰り返し繰り返し立ち現れる能楽の幽霊たちは、そのような仏教伝来以前の信仰を伝えているのかもしれません。

この国は、完全に仏教に帰依したわけでもなく、完全に仏教を拒否したわけでもない。

なきがらを故郷の土に帰すという土葬の習慣と、火炎によって浄化し、無に帰すという仏教の発想の、せめぎあい、おちあったところに、遺骨への執着がある。

先に読んだ吉岡友治『その言葉だと何も言っていないのと同じです!』(2014年)の中に「日本はわりと早くから世俗化したので」とサラッと書かれてあったのですが、その認識を初めて世に投げかけたのが、こちらだったかと思われます。

【多年生の植物】

文学者の心理に深入りしている間の佐伯自身の陶酔感は、日本人の背後に広がる冥界の暗さへの湿潤な親近感に満ちた前半から、中盤以降のエリオット評に至って昂揚し、現代へ立ち戻ってアメリカ社会の変質に真っ向から相対して真顔となる。我々は、いま、何を信ずべきか。

日本はダブル浅野だったり、ジュリアナ東京だったり、危険な新興宗教が流行の兆しを見せたりしていたわけですが、老いを意識した神道の家の子にして文学研究者は、死と生と追憶という人間の根源を見つめていたのでした。

「われわれの無意識また底層に息づき続けてきた自然宗教という根は、多年生の植物のそれのように、また力強く蘇り、新しく芽ぶいてくれるに違いないのだ。」(p.224)

宮崎駿も、アジア人である自らの意識を、くり返し再生する自然に結びつけて云っていたように思います。彼の映画が評判になり始めたのも、丁度この頃からでした。

発刊当時にリアルタイムで読んでも理解できなかったのじゃないかなと思います。自分自身が歳を取ったことの有難さを、なくなった人から教えられることでございます。

ご冥福をお祈りいたします。

2016/02/19

2014年、吉岡友治『その言葉だと何も言っていないのと同じです!』

副題:「自分の考え」を論理的に伝える技術。

啓発書・実用書も数あれど、ちょっと珍しいくらい密度の濃い本です。

「断固たる決意で臨む」「組織一丸となって」「一人ひとりができることをする」……他人を説得するつもりで、ついつい使ってしまいがちな定型句が、いかに内容空虚かつ危険な思い込みに満ちているか、こてんぱんにやっつけて参ります。

ビジネス書という位置づけで、サラリーマン上司と部下の会話をイメージさせてるんですが、創作者を含めて文章を書く人は必読だと思われます。

細かく章立てされ、冒頭に生々しい会話分の形でダメ定型句の具体例を示し、本文の序盤において太字で基調を述べ、続けてその根拠を論理展開し、章の終わりに箇条書きで「まとめ」として結論を記す。

>「論理展開」は難しくない。最初に述べた理由を詳しくわかりやすく言い換えていき、自分の言いたい結論につなげるだけだからだ。(p.182)

歯切れの良い文章、および本書の構成自体が正しい言葉の使い方の例示になっております。

著者は東大文学部出で、予備校の国語講師。小論文メソッドを確立し、学生・ビジネスマンの文章を何千何万と添削してきた、のだそうです。

白眉は第四章(「自分の考え」を論理的に伝える技術)で、じゃあ実際にダメ定型句を使わずに説得力のある文章を書くには何をすればよいか、惜しげもなくさらけ出してくれています。

基本的によけいなことを一切いわない硬派な文章なのですが、全編に言葉遊びとアイロニーの痛快さが満ちており、著者の経歴をあらためて(奥付で)確かめてみると、専攻は演劇と文学理論。なるほど。きっと風刺のきいた現代劇がお得意なのでしょう。離見の見もここに極まれりといったところです。

筒井康隆がラジオ出演したとき、ラジオ業界の「特殊な自意識」に驚倒した話や、室生犀星の微妙に貧乏くさい自慢話を皮肉るかのようなエピソードを伊丹十三が紹介していたなんていう、こぼれ話の選定ぶりも魅力的です。

全頁を引用したいくらいですが、そうもいかないので日本実業出版社から税別1400円です。A5ソフトカバー、230頁。軽くて手に持ちやすく、文字も大きく読みやすいです。

2016/02/18

同性婚は伝統的な家族のありかたを変えません。


だって、一夫一夫制(または一婦一婦制)で、一生のあいだ離婚せず、二児を育て上げれば、「伝統的な家族」と比べて、なんの変わりもありません。

変わるのは、ストレート男女が「ホモが結婚するくらいなら、私が浮気したっていいよね」と思った時です。社会がこれを防ぎたければ「異性愛者も引き続き一夫一婦制を維持しなさい」と教えればいいです。

また「GLBTを自分の逸脱行動の口実に利用してはいけません。彼らのご迷惑です」と、はっきり教えればいいです。

【ゲイは結婚したいのです】

女性が「結婚しない仲間だから寂しい心を分かち合うことができる」と思って実在ゲイに近づいていくことは、彼らの同性婚を認めない、すなわち差別を助長するという意味になります。

これはかつての女権論者も勘違いしたところで、女性が自分の非婚と彼らの結婚を混同すると、彼らのご迷惑となります。彼らは「同性婚を認めると少子化が加速する」と思って反対する人々と闘っているわけです。

でも彼らはもともと産むべき人数に入っていないので、彼ら同士が幸せをつかんだとしても社会は変化しません。社会が変化するのは、産むべき人数に計上されている人々が、彼らのついでに自由になろうと思って、出産を断念した時です。

トランスが簡単に手術を受けられないのも、軽い気持ちで「じゃあ私も子宮を切除したいわ」という人が増えると、少子化するからです。

逆にいえば、産むべき人数に計上されている人々がどんどん産んで、社会制度維持に充分な出生数を確保すれば、彼らは安心して彼ら同士の幸せをつかむことができる。

この発想の逆転は、いわゆるフェミニズムの中からは生まれてきませんでした。むしろゲイの人権運動に便乗しようとした自称人権運動家も多かったのです。

ゲイと共闘できるつもりで、新宿二丁目まで押しかけて「私が味方になってあげるから、早くカミングアウトしなさいよ」と説教しては付きまとう。そのほうがよっぽど人権侵害だということを起こした人もいたわけです。

【個人主義の独立】

今さら申すまでもなく、実際には「どんどん産む」ということは難しい。

現代だからではなく、もう千年の昔から、女性は苦労することが分かっていて嫁に行くことをいやがり、子どもの世話で自分のやりたいことが出来ないというのをいやがって来たのです。貴人が自分では子どもの世話をしないことも、洋の東西を問いません。

女の幸せのつもりで出産したけれども、その後の体調不良に悩み続ける人もいる。命を落とす人もいる。

男性が国防という名の帝国主義に命を捧げることを強制された時代には、「女も命がけで産め」と命令することができたのです。

でも、それはあくまでストレート社会の都合。それを「もういやだ」というのは女性の個人主義。さらに個人主義と育児を両立したい人にとっては社会整備がなかなか進まないからという問題であって、GLBTのついでではない。

この一線だけは、きっちり引いておく必要があります。

(※ 2月24日追記: コピペの不手際で記事が二重投稿のようになっておりまして、読みにくかったことと存じます。ご迷惑をおかけ致しました。修正のご報告と、お詫びを申し上げます。)

2016/02/17

女性に共感しない美輪明宏の辛口人生相談。

「成人した娘の我がままがひどくて困る」という人生相談を受ければ「甘やかして育てたあなたが悪い」とバッサリ斬り捨てるのが美輪明宏。

某待合室で某雑誌を見ていたら、珍しいほど辛口の人生相談があったので、回答者をよく見たら美輪さんでした。

女同士は互いに「分かる~~」とか「あるある~~」という共感を求めて身の上話をするものですが、次の瞬間に口から飛び出すのは「うちの子もね~~」とか「うちのお母さんもね~~」という、自分の話です。

ゲイは女性に共感しませんから辛口です。姑からの口出しに悩むという相談に対しては「先手を取って完璧な嫁になればよい」というお答えです。女性はこれを云えません。自分がそんなに立派じゃないからです。

女同士は「愚痴を聞いてほしい自分」を許し、甘やかすのです。でもゲイは女性と馴れ合う筋合いがありませんし、おそらく気持ちわるいと思っています。ゲイですから。

彼ら(の何割か)は、自分自身のナルシシズムとして、理想の女性性を身に着けているだけであって、ダメな女を許してやりたいわけではないのです。

辛口な人生相談の文面の向こうから響いてくるのは「そんなことも云われないと分からないの? 本当に女ってダメね」という冷笑です。女性の甘え心理は、ほぼ彼らの「ネタ」にされていると思えばいいでしょう。

そこまで読んだ上で人生相談の頁が編集されてりゃ立派なものですが、そこへ投稿する女性はみずから志願して道化を演じていることになります。

美輪さん自身の「作品」の一つとして成り立つ限りにおいて、女性が道化を演じることは、彼らにとっても有難いということですが、これをギャラリー(読者)のいない場所で実演しようとしてゲイバーを訪ねることは、おそらく彼らをうんざりさせます。

もし女性が自分の口から「お母さんが過保護に育てたから私がこんなになった」と云えば、彼らは「それを口実にいつまでも自分を甘やかしているあなたが悪い」と云うでしょう。

2016/02/16

『300』のメイキング風景。


クロマキマキマキ。ブルーシートの上に裸のお兄さんがいっぱい。変な現場だなァ……

でも、あの肉体美が本物であることがよく分かります。あと、機材でいっぱいのすごく狭い空間で殺陣を演じている。細かく撮って、ていねいにつなぎ合わせるですね。先立って、原作コミックに基づくストーリーボード(絵コンテ)が入念に描かれているのでしょう。

テレビのトーク番組(ダウンタウンがホスト役)で、志村けんと坂上忍が現代のテレビ撮影現場に対して「役者が演技する前にカメラ割りが出来てるのはおかしい」と、昔ながらの俳優魂を燃やしていたのですが、この映画は正反対のアプローチのようです。その作り物っぽさが売りなのは云うまでもありません。

もしかしたら、日本の特撮・アニメの技術が影響を与えているのかもしれないけれど、日本はそれについて何も受け取っちゃいないはず。押井守の映画作品がキアヌ・リーブス主演映画に影響を与えたことは知ってる人は知ってるけれど、彼はそれについて何も受け取っちゃいないはず。

「コピー商法は許さん」という彼の怒りは、そうとう根深いものなのかもしれないな……などと、『300』そのものとは特に関係ない感慨にふけったりしたことでした。

あるいは、日本はディズニーという帝国を、よく300人(よりはもうちょっといるかもしれない練馬アニメーター軍団)で防いでいるのかもしれません。

2016/02/15

「チョコはないが、俺はいるぞ!」

アニメ『妖怪ウォッチ』第1シリーズにおける妖怪執事ウィスパーの名台詞。

あの回は「いつから術中に落ちていたのか?」と考えると怖くなってしまう話で、そう思って最初から見直すと、男児たちの会話がひと段落したところで奇妙な間があるのですね。よく出来てるなァと思いました。

第1シリーズは、ロボニャン初登場回でロボットらしい「ウィーン、ガチャン」というアクションが逐一再現されていたり、ジバニャンの元の飼い主とのエピソードがあったりして、たいへん見応えがありました。

二年目のバレンタインデイ企画は人気投票で、妖怪執事は「来年の放映はあるのか!?」なんて鋭いことを云ってましたが、三年目があって良かったことです。キング・クリームソーダの主題歌は、いつもながらセンスが良いと思います。

(子ども達はキング・クリームソーダというユニット名の元ネタも知らないのでしょうね)

マドンナ役ふみちゃんにペンダントを持たせる戦略は完全に外したようで、代わりにサブカル系メガネ女子という着眼点はさすがですが、これで笑ってやらなきゃならないのかという、ややめんどくさい感じもいたします。

楽屋落ちが増えるのは、長く付き合っているファンの楽しみの一つですが、新規ファンを取り込みにくくなりますので、長い目で見ると損な戦略です。時々テコ入れしてみて下さい。

2016/02/15

理帆子、こひな、地味なクラスメイトくん。

辻村深月『凍りのくじら』のヒロイン芦沢理帆子は、自分自身が法科へ進んで弁護士となり、松永から独立しようと思っていない。

父親の思い出の残る家を離れたくないのが本当だから、簿記(エクセル)を勉強して「一般事務のエキスパートとして地元就職する!」ってことでもいいのに、手をつけない。進学校を中退して美容師の学校へ行ったっていいのに、行かない。

どうせ松永のお金で東京の大学へ行かされることになるんだからと、彼の厚意を口実にして、自分を甘やかしているわけです。でも難しい法科を受けて、落ちれば松永を落胆させるから、無理はしない。なんて考えてるわけです。

本を読むのが一番好きだから、てきとーに文系の大学へ行って、てきとーにOLぐらいなれるでしょ……と高をくくっている。書いてないけど。

遠藤ミドリ『繰繰れ! コックリさん』のヒロイン市松こひなは、小学生の一人暮らしだけれども、身奇麗にしているので、ネグレクトのリアリティではない。

おそらく作者自身が実家の家族の家事労働に当たり前に甘えて育ち、いまは東京のアパートで一人暮らししつつ、そこが「汚部屋」にならない程度には片付けができるといった、ごく普通の生活感が反映されており、それが大きな古民家への憧れによって美化されている。

小学生だって料理を覚える子もいるけれども、こひなは挑戦しない。世の中には、おそらく大勢の若い女性が、この漫画/アニメのようなイラストを描きながら「プロになりたいな」と夢を見ている。彼女たちにとって、コックリさんのような美青年が、頼んでもいない内から訪ねてきて、家事を担当してくれるというのは見果てぬ夢であるでしょう。

女流創作最大のテーマは、やはり「女性の自由化」でありました。

住野よる『きみの膵臓を食べたい』の主人公は、男子だけれども、実質は(おそらく)女性である作者の心性がそのまま反映されたものです。

人づき合いが苦手で、生活実感が低いくせに、小説を読む。愛も悲しみも怒りも本気では感じたことがないような顔をしながら、完全に人間界に見切りをつけて自然科学に没頭するというわけでもなく、愛や悲しみを描いた小説を読むわけです。

いずれも基本的に自己肯定的なのです。こんな私だけど何とか生きている。

いくらか1980年代ふう女権意識をひきずってる理帆子には「本が一番好きでもいいじゃない! ドラえもんが好きでもいいじゃない! 女のくせにとか云わないでよ!」という怒りがある。

こひなには「カプ麺ときれいなお兄さんが好きです。ごめんなさい」という現代サブカルらしい自虐ジョークがある。

【地味なクラスメイトくん】は、あまり感情の動かない僕を草舟に乗せて、空気を読む現代っ子らしく、自分自身の批判的な眼から隠している。

簡単に割りきれば、一般文芸は底のほうに「このままじゃいけない」という問題意識を秘めており、物語のピークは、やはり自分自身を乗り越えるという点に設定される。サブカルは自分を甘やかす心理を描き続ける。

どっちが「えらい」ということではないわけで、おそらく若い人は両方読んじゃうのです。相互補完的。本当は、昔からそうだったのだろうと思います。多くの文豪が筆名を使いわけている通りです。

2016/02/12

2015年、住野よる『きみの膵臓を食べたい』双葉社


やまうち、さくら。

山中で春を待つ花は、ひっそりと佇む孤峰のようだった若者の心に根をおろしたのでしょう。彼とともに長い時を咲くのでしょう。

『羊たちの沈黙』みたいな話ではないことを最初に申し上げておきます。帯に「涙、涙」と連呼されているので誤解する人も少ないかと思われますが、カバーイラストにある通りの高校生男女の恋愛物語です。

エドウィン・ミュアーの分類に従えば、劇的小説。せまい空間とせまい人間関係における心理変化が丁寧に描かれます。

新井素子ふうライトノベルもここまで来たというべきか。橋田寿賀子ふうテレビドラマが文芸に取り込まれたというべきか。素直に「アニメ世代」といえばよいのか。たいへん生き生きとした台詞の羅列が特徴的です。

帯を横目に「そう云われちゃ泣かんよ」などと思いながら読み始めるわけでございますが、テーマはたいへん重要なことをあつかっております。なぜ死んでしまう人と生き残る人がいるのかというのは人類が大脳を獲得して以来の難問なのかもしれません。

ことに大きな災害があって以来、この問題を考えない人はない。ありていにいって核戦争を恐れた冷戦時代は「究極の選択」というクイズを流行させることによって、どっちに味方しても結局は逃れられない問題から眼を背けていた時代でしたが、若い人は正面から取り組むようになった。

死を感じることができなくなった、ゲームが流行しすぎているという現代にあって、そのバーチャル性を逆手にとって、創作物という形で人生の課題を乗り越えていこうとしている。

おとなが「今どきの若い者は『空気読む』なんてことばかり云っていて情けない」などと云えた義理ではありません。

その「空気読む」ことの重要さ、真剣さ、痛み、優しさがよく分かる作品です。

それだけに、表現形式はいかにも新しく、好き嫌いが分かれるかもしれません。その新しさそのものを味わうという、読者のほうに達観が求められるかと思います。

個人的には開始30頁めあたりで「映画で見ると辛そうだな」と思ったことです。明らかに少女のテンションがおかしい。少年のほうは自分に嘘をついている。

少女のほうが一枚上手なのは、自分の本心に気づいていて、あえて演技していることを自覚しているからです。

これは最終的にはお互いが本心を明かすという構成にしかならないことは序盤で気づかれるわけで、本当にそのまま進みます。衝撃的なタイトルですが、腹をくくって淡々と消化しましょう。

【地味なクラスメイト】くんという書き方で主人公の名前をぼかすのは、ゲームの手法を取り入れているわけで、面白いアイディアですが、その真実が明かされれば、なるほどと思われることでしょう。

有名作家のお二方より一枚上手とも感じられるのは、男性の筆では女性キャラクターが謎めいた存在になってしまいがちなところ、おそらく本作の筆者は女性であるので、若い女性の感性と知性があますところなく表現されているところです。

それに対して少年は自分をごまかしているわけですが、ここにもやっぱり「本ばかり読んでいて友達すくない子だった」という女流作家自身の肩身のせまさが反映されている。

同時に「こんなふうに女性の我がままに付き合ってくれる優しい男性がいいな」という女性ならではの夢がすなおに露出している。これは辻村深月も遠藤ミドリも同じことで、多くの女流が感じていることなのでしょう。(※ただしストレートに限る)

男性が書いたものなら「全くモテない俺にも春が」という話なのですが、地味なクラスメイトくんは「地味なだけで取りえがない」と云われつつ、カバー絵にあるように、そこそこ小奇麗な青年なのだろうなと思われるのは致し方ないところです。

さらに本作の場合は、男子キャラクターを通じて、じつは活発な女性の同級生に気後れしつつも憧れているという、女子高生時代の作者の気持ちも表現されているように思われます。

もちろん、作者自身はそのような自分を充分に自覚している。踊ってる姿を見られちゃったヒロインは、たまらなく可愛い。

作家は一人で何役も演技しているようなもので、どのキャラクターにしか感情移入しないなんてことはありません。離見の見を使いこなすのは、能役者ばかりではないのです。

なお、デビュー作が圧倒的なのは当たり前です。つまらないアマチュア作品など、誰も出版権をほしがりません。圧倒的なデビュー作でデビューする人は、その前に圧倒的に近い未発表作品を何本も完成させています。

がんばりましょう。

2016/02/11

日本男性の近代化とフェミニズムのジレンマ。


鴎外の舞姫は、座長から何を強要されて泣いているのか。夜の奉仕です。

康成の踊り子の夜が汚されるとは、どういうことか。わずか十四歳の少女が好きでもない酔漢によって破瓜されるということです。主人公の青年は、それが当然起こるべきこととして、なかば期待しているからこそ煩悶している。

漱石の「先生」に子どもができず、痙攣的に笑うのはなぜか。親友への罪悪感によって、EDに陥っているからです。夫人にしてみれば望まれて結婚したはずなのに、自分の肉体に魅力がないのか? ずいぶん悩んだはずです。

ゲイの批評家は自らを反映させて読みたいから、もともとホモセクシュアルだったというけれども、多くの読者にとって、まァそこまで深読みしなくても理解できる。

根は気のいい若者たちなのです。故郷で成人し、家業と地所を継いで、山寺の住職と檀家として交際していれば、持ちつ持たれつで生きていけた。そういう一般的な若者たちです。

それが、なまじ学問をおさめ、出世しようとして上京するから、孤独と競争に疲れて、異性を横取りすることで優越感を得ようとしたり、それだけで何もかも終わったと感じて自決してしまったりするわけです。

お嬢さんがいなければ、もっと当たり前に勉学やスポーツを競ったりして、良い方向に進んだかもしれないけれども、なまじ恋心というものがあったから、それに忠実である浪漫主義を口実にしたわけです。

近代文学は、男性が男性一般の性欲と自己愛を罪悪視し、反省し、迷惑をかけた人々、とくに女性に詫びるという側面を持っていたかと思います。それは彼らにあっては、たんにプロテスタント的倫理観を取り入れて、ハイ・カラーになるというだけではなく、理性で獣性を馴致し、近代人になるという啓蒙の意味を持っていた。

女性がそれを取り入れると、どうなるか。

女性は伝統的に、子宮のせいでヒステリーを起こし、品性劣悪で、簡単に人を恨んで鬼になったり蛇になったりすると思われてきましたから、理性と学問を身につけて、近代婦人になるというのは、本人の自尊心を満足させるのです。ただし、こっからが厄介です。

文豪諸氏は、女性に対して罪悪感を持たないよりは持ってくれたほうがいいんだけれども、そこに淫していて、いつまでも心機一転できず、自分自身に対して勇猛果敢さを発揮して、身を立て直し、女性を幸せにしてやるということができない。

女性読者から見れば歯がゆい男たちのはずで、少女の性的虐待にも非難の声を挙げたいし、奥さんが可哀想と云ってやりたい。でも国語の授業は、女生徒の口からそのように発表させて、男たちを弾劾するためにあるのではなく「こうして自分を見つめる男の知性は素晴らしい」と称揚するためにあります。つまり少女を準男子として教育することにあります。

もともと女にも男と同じことをやらせてほしいといって始まったんですから、それでいいはずなんですが、やはりその題材が男性に都合の良いものだと女子の中には苛立ちが生まれるわけです。女として黙っちゃいられない。

準男子として教育されることを望みながら、批判力を身につけたからこそ、みずからの準男子性を反駁するという、ややこしいことになるのです。

そして「こんなの男のナルシスムよ。同性愛よ」と云うならば、彼女自身は「私ならいつでも心機一転して、妻子ならぬ夫子を幸せにしてやれるわ」ということになる。あれ?

「そ、そうじゃないのよ。私はそんな男に頼らずに生きていく。男性の独身貴族に準じたものになるのよ」ってことであれば、独力で起業できるくらいの胆力・知力・社会性を身につけなければならない。

でも、それには父親の金が要る。

でも自分自身が出世するために男性中心社会を否定したい。じゃあ今すぐ父親が仕事をやめて主夫になればよいのか。いや、私が卒業するまでお父さん頑張って。若い女性総合職なんかに負けないで……

このへんで、ずっと引っかかってるのかもしれません。

2016/02/10

風呂場の鏡でボディチェックしそうな男性を批判する女性。


芸能人などを話題に、さも気持ち悪そうに「やってそう~~」と言う女性。

実際にそのようにしている映像が放映されてしまったのを受けて、「あんなもの見せることないじゃない」と批判しているのではないのです。勝手に想像をふくらませて、勝手に批判している。

男性ナルシシズムを嘲笑してやったつもりで、自分の脳内をさらしてしまうことになるので気をつけましょう。

これ、立場を反対にしてみると簡単に分かるので、「ああいう女って自分の裸を鏡に映してそう」という男性がいたら、彼自身が「なに考えてんのよ!」って叱られるはずです。

女性は自分を棚に挙げて、女の口から男性を批判しても叱られないと思い込んでいることがあります。

【女性ナルシシズム。】

芸能人であれば、ボディチェックは仕事のうちです。古代をテーマにした映画・演劇の役をもらえるかもしれないし、サプリやエステの広告が来るかもしれない。

そういうふうに考えて「仕事に前向き」と高評価するのではなく、「自分に酔っている。もっと女性に興味を持ってくれなければダメよ」と批判するのであれば、要するに「私を構ってほしい」という女性ナルシシズムの表現です。

特にインタビュアーが女性だと、答えるほうもついつい「ガールズトーク」をしている気分になりがちです。

が、インタビューを企画したプロデューサー・放送作家といった人々は男性が多いですから、女どもの赤裸々なガールズトークを聞いてみたいという好奇心、およびそれを利用して「数字」をかせごうという野心があると思えばよいでしょう。

インタビュー結果だって、面白くないものは採用されないわけで、わざわざ採用されたなら「こっちの思惑通りの発言をしてくれる女がいたぜ」ってことです。つまり、男性を批判してやったつもりで、女性のほうがネタにされているわけです。

思い起こせば1970年代、ベトナム帰還兵を風刺的に描いた『タクシードライバー』などの映画によって、男性自身が「男の自己顕示欲ってのは厄介なものだ」と批判するようになったのでした。

1980年代には、女性がそれを露骨に真似するようになった。「男って単純よね! 男ってナルシストよね! 男って自分勝手よね!」

でも、そういうわけで諸刃の剣です。

もっとも、女性のほうにも「女がガールズトークするのは当たり前じゃないの。遠慮することはないわ。聞かせてやればいいのよ!」という達観した意見があるかもしれません。

自分と同じ意見が全国放送から聞こえてきて喜ぶ女性も実際にいるでしょう。この場合、あとになって「男のくせにガールズトークに首つっこんじゃダメよ」とは言えません。

イケメンを紹介するテレビ番組というのは、本当にネタにされているのは、女性の性欲です。

了解したうえで「男性が聞きたがっていることを聞かせてあげる」というサービス精神を発揮できるなら、大人の対応といえるでしょうが……

聞かせ過ぎると、番組自体が男女双方から見放されることになります。テレビ視聴者は、性的な話題を好む人ばかりではないからです。

2016/02/09

2002年、森昭雄『ゲーム脳の恐怖』NHK出版


根本的には「子どもには外遊びと言葉かけ、スキンシップが必要だよ」と云ってるんで、悪い話じゃないのです。運動のきっかけになるゲームならいいんじゃないかというのも常識的な判断です。

これを叩くこと自体を面白がっちゃうと、ゲーム叩きの裏返しの同じ穴のむじなで「ゲーム脳脳脳」みたいなことになっちゃうでしょう。

読んだのは初版発行後わずか三ヶ月後に出た第七刷。最終的には三十五万部ほどになったそうで、今ではなかなかこの数字を出せなくなりましたね。

何故そんなに受け入れられたのか? 比喩としては理解できるからです。

ゲームばかりやっていれば、動体視力は良くなるが、新聞も読まない・ニュース番組も見ないのだから、社会の動きに疎くなり、選挙にも関心がなくなる。親が呼んでも返事もしない。どうしたら云うことを聞かせられるんだろう?

この疑問に対して「脳みその後ろのほうは働いているが、前のほうは働いていない」という話は分かりやすい。「幼い頃からの繰り返し訓練によってゲームに特化した機械化人間のようなものが出来あがってしまったんだ」ということを云われれば、やっぱり人間としてゾッとする。

つまり、背景には「昭和的な詰めこみ教育を見直して、世界に通用する人材を育てよう」という、21世紀型全人教育の理想がある。親世代自身に「会社人間」とか、そういうものへの反省がある。だからこそ厄介なのです。

この手の話は必ず「自分が子どもの頃には野山をかけまわって」というノスタルジーの表出につながっていくわけで、これが人生の半ばを過ぎた人々の「自分の時代が最高だった」というナルシスムを満足させる。

そのような「生きた」遊びの中から、このように優秀な科学者が育ったのだから、あの全人教育を復活させれば、長引く少子化と不況を解決できる。自分も安心して旅立つことができると思う。人間「Ego」から離れることはできない。

きれいに話が廻っちゃうのです。

なお、新作ゲーム展示会におけるコスプレイヤーの様子を「中学生くらいの女の子が背中に白い羽根を飾って無表情に歩いていたので驚いた」という具合に書いており、もともとサブカル方面に慣れていない人であることが分かります。

歩いてるだけなのに満面の笑みを浮かべていたら、むしろ怖いです。

コスプレ衣装をそろえて(ことによると自作して)会場まで来る子というのは、それなりに意欲も行動力もあるので、そんなに心配することはありません。

筆者の生年は紹介されておりませんが、公式サイトに日本大学を1969年に卒業したとあるところからすると、おそらく1945年頃の生まれで、2002年の時点で五十代半ばくらい。1980年代に入る頃には、すでにコスプレしたファンが1941年生まれの富野由悠季を勇気づけたりしていたわけでございますが。

出生数は第二次ベビーブーム終了直後の1975年に激減しており、以後回復しません。1975年生まれは、ファミコン登場の1983年には、8歳。

8歳では、まだ文字をスラスラ読めるとは限りません。漫画の中核的な読者層とは云えません。もともと人数が少ないのに、丸ごとゲームにかっさらわれたのです。ゲーム機・ソフトとも高価なので、保護者は「今月はゲームを買ったから漫画は無しよ」と云ったでしょう。

少年漫画出版界は、この時点で暗澹たる未来を見たのです。

代わりに取り込まれたのが女性読者だったわけで、少年漫画キャラクターの女性化は、最近どころか30年も前に王道路線となったのです。閑話休題。

発刊&ベストセラー後、十年以上が経過しましたが、ダンスゲームは当時ほど盛んではなくなってしまったように思います。ニンテンドー「ウィー」を家族で楽しみましょうというテレビコマーシャルも減ったようです。スマホの普及によって、指先ゲームの普及は明らかに加速したでしょう。

ゲームに害があるかどうか、子どもが「キレる」原因になっているかどうかは、じつは脳波では証明できない。

本書が論駁された後、じゃあデジタル機器に関する問題行動はなくなったかというと、オンラインゲームに一千万つっこんだとか、ツイッター廃人とか、ラインいじめとか、続出しているわけで、デジタル機器と情報インフラの発達に人間(の少なくとも一部)のほうがついて行けていないことも明らかなようです。

ゲームに熱中して他の情報を遮断すれば、政治にも社会にも関心も意見もない人間になるに決まっておりますし、熱中をさまたげられると怒りっぽくなることも多くの人が経験済みでしょう。

でも、これはデジタルに限った話ではなく、昔っから文学に熱中しすぎて命を縮めてしまった作家とか、賭博のトラブルで刃傷沙汰とか、にせものの骨董品に財産つぎこんだとか、マネーゲームで逮捕とか、いろいろあるわけです。

機械と数字を用いて証明するという手法がいかにも男性的な自己顕示欲というべきか、退官を目前にした五十代の筆者による自分史の一種、男性ナルシスムの象徴なんて読み方もできるかもしれません。

いずれにせよ「ゲームに熱中しすぎて他のことをやらないと偏った人間になるよ」という基本的な認識自体は、誰が聞いても「そりゃそうだ」と納得できることではあります。

だからまァ比喩の一種として、いろいろな意味で自戒の書として、一度読んでおくのもいいのではないかと思います。


2016/02/03

2014年、 平池芳正ほか『繰繰れ! コックリさん』

にょーたいかーー。にょーたいかーー。ビバ、添加物。

遠藤ミドリ原作。拝見したのはテレ東のアニメ版。真顔で講評するような作品じゃないってこともなくて、描いている人たちはやっぱり頑張っているわけですから、真顔で取り上げてみましょう。

アニメとしては、漫画のコマとコマの間の空白を上手に動画でつないでいるなと思ったことです。背景画も美しく、音楽も気が利いており、たいへん良い仕上がりだと思います。

みずからに人形またはロボットという設定を持たせている電波少女は、一人で奇妙なことをブツブツ云う癖があるわけですが、これは「リア充」を自認する人々が視聴して「オタクって実際にこういう喋り方するよね! マジきもいんですけど!(笑)」というための作品ではなく、むしろ常日頃から偏らないようにいろいろな種類のカプ麺くってる人々が自分で見るための作品のはず。

黒服に赤い腕章を着用し、片目を髪で隠したイヌガミさんが、妙に気取った喋り方をしたり、ヒロインの人形を手作りしてコレクションしているのも、いかにもサブカルファン(の女性)が好みそうなキャラクター自身に、サブカルファンがやりそうなことをやらせている、と。

『おそ松さん』の脚本を書いたり、監督したりしている人々自身は、それで生計を立てているわけだからニートではないが、ニートを自認する若いサブカルファンの自虐ジョークのセンスを良く分かっているというのと同じで、えらく微妙なところで成り立っている作品かと思われます。

というわけで、登場人物は電波な幼女(ランドセル装備の小学生)と、「ずっと君を見守っていた」と都合のよい告白をしてくれる王子様でありながら家事炊事を担当してくれる25歳(自称)の美青年。男女役割逆転の夢もここまで来たか、と。

市松こひな。おそらく「小雛」なのでしょう。人形のような幼女は古風なオカッパ頭で、同級生が現代的な茶髪にデザインされていることに比べて、冴えない女性という意味なのです。それが永遠のおさな子として美化されている。

美青年のほうは、三島由紀夫もいった通りで、20歳よりは世慣れていて、30歳ほどオッサンではなく、ちょうど良い年頃である、と。

本来なら、同じ年頃の女性が彼と同居を決めるまでを描くロマンスのはずですが、女性のほうの年齢が低いほうにズラされた挙句に、第一話で同居が決まってしまう。

じつは第一話で終わっているというのは、1970年代に『悪魔の花嫁』がやったんですが、最近は『進撃の巨人』にしても『ワンパンマン』にしても同じことなわけで、終わりようがないのです。

物の怪から見れば刹那の時間、あの約束が果たされるまで……といっても、おそらく幼女は成長しないのです。サザエさん的日常空間が繰り返される。言葉の真の意味における「山なし落ちなし」の定型化で、これが1970年代後半以来の同人活動最大の功績だったかと。

(もちろん「何が功績なものか」と全否定して頂いても構いません。)

ミュアーに云わすと、時間と空間のどちらかを切り落とすことによって創作物が普遍性を獲得するわけですが、これは空間的には「どこかの街」として限定されており、時間的には同じ日常が繰り返される。目先の変化はキャラクターが増えることによって実現される。キャラクターの人間性は変化しない。

『うる星やつら』などがやっていたことですが、コピーのコピーのコピーじゃだめだと云われりゃ開き直る制作陣もいることです。

エンディングなどにおけるキャラクター同士のツッコミ、楽屋落ちというのは1990年頃のドラマCDで聞かれたかと思いますが、これも元を辿ると1970年代の『ヤッターマン』シリーズに行き着くのかもしれません。

なお、藤原左為(『ヒカルの碁』)を女性キャラクターだと思った男性読者がいたのだそうで、確かに装束が白拍子ですから、本来は男装の女性が正解です。でも我々(?)は、左為やコックリさんを一見して「きれいなお兄さんだ。嬉しいな」と思うようにしつけられているものです。

ディズニー映画には、じつは金髪の王子様って出てこないので、日本における王子様のイメージモデルは内藤ルネが描いた美青年(を女流漫画家が真似したもの)なのかもしれません。でも1960年代の少女漫画では、まだ男らしさを残していたので、やたらと髪の長い美青年というのは、やっぱり二十四年組が起源なのかもしれません。

もっとも、ロスマリネは1976年以降に決まっている。木原敏江・山岸涼子・大和和紀・名香智子・岸裕子などがその手の美青年を描いて流行させたのは1970年代後半なので、あるいは最初から男性だったのではなく、1972年のオスカル様が原型なのかもしれません。

なお、動画で漫画のコマ間を埋めるというのは、1980年代に大和和紀『はいからさんが通る』や池野恋『ときめきトゥナイト』がアニメ化された頃には、まだその技法が確立されていなくて、まァひどいものだったのです。

逆にいえば、今の現場では技法が確立されているので、若手はそれを確実に学習しなければならない。難点はどれも同じに見えることですが、能楽でも歌舞伎でも表現技法の様式化が起こるのは当然で、それを順序よく学習した後で名人芸ということが起きるものです。

若手の卵とでも云うべき高校生以下は、明らかにスマホをスワイプすることに夢中なので、自分の手でペンを持って描画を完成させるということを、きちんとやっている子は、たぶん恐ろしいほど少ないでしょう。

物語のテーマとしても、やはり少女漫画(女性向け漫画)の主題は「女性の自由化」だったわけですが、主婦役の美青年と戦闘能力を有する永遠の人形的幼女という究極の逆転劇を見ながら育つ若手がいるとしたら、次に描くものは何になるのでしょうか。

かつて1980年代に、多くの少女が同人活動に向かったというのは、やっぱり娯楽が少なかったからです。「同人誌」を売りに行くというのが、上京の口実となったのです。同人男性というのは自分たちも即売会の中で創作物を交換することによって楽しんでいるわけで、少女をどこかへ連れ込むということをしませんから、比較的安全に都会で遊んだ気分を味わうことができたのです。

今や漫画界が「2週間で描ける」というキットを発行し、「1ページいくら」という業界事情をテレビに露出させ、漫画家になることに若者の興味を引こうとするのは、危機感の強さを示しているのでしょう。

アニメ界は、もっと深刻かもしれません。大人が「今のアニメは情けない」というのは簡単なのですが、じゃあどうしたものか。専門学校を増やせば良いのか、海外へ修行に出してやれば良いのか。(現場は「ほっといてくれ」って云うかもしれません)

2016/02/02

1928年、エドウィン・ミュアー『小説の構造』ダヴィッド選書


佐伯彰一の翻訳で、ダヴィッド社から1954年初版第一刷。

まさかの「です・ます」調。ミュアー自身の小説論の明快さと、佐伯節全開のこなれた訳があいまって、気持ちよく読める名著です。

ミュアー自身はイギリス人の詩人で、ドイツ文学の翻訳者でもあり、とくにカフカをイギリスへ紹介した功績で知られるのだそうです。

「時間、空間という実人生をおしつつむ枠のいずれか一方を断ちきることによって普遍性を獲得するという<小説の美学>は、実はミュアにとっては、たんなる美学の問題にとどまらないのです。」(p.173)

32歳の訳者後記によって作品の意義は言い尽くされてしまっており、それをぜんぶ転載するわけにも参らないので、以下は自由感想文。

翻訳をする人というのは、佐伯もそうなんですけれども、必ず彼我の文化の違いに悩まされる。とくに宗教や民俗的伝統の違いによって、発想が根本から違っており、直訳では通じないということに悩む。

そこで育まれるものは、逆に自分自身を相対化する意識であり、視野の広さです。日本ではこれが「日本人のやることはなんでもダメだ。マルクス様は素晴らしい」という自己採点になってしまったわけですけれども。

話を戻すと、そういうわけでエドウィンおじさんは「小説って面白いですね!」で終わりにできなかった。我々は何を読んでいるのか? と考えてしまった。

彼が大前提にしているのは、小説(novel)とは想像力の産物であり、人生を描いたものであり、なんらかの出来事が連続して生起するさまを読者の関心を持続させるような方法で描いたものである。そりゃそうです。

時代も場所もバラバラな「こんな人もいた、こんなこともあった」という珍しい話の羅列では、たんなるネタ帳であって、小説とは見なされません。明礬の結晶が成長する様子を記述するのは科学であって、そこに人生の比喩を見てもいいけれども、それだけでは警句を含んだエッセイということにしかならない。小説であるためには架空の人物と架空の出来事があって架空の会話が必要です。

で、その架空の人物たちが、作中時間の経過によってどれほど変化したかを基準に、小説を数種類に分類する。いわゆるステレオタイプとしての人物が次々に登場し、読者は彼らを通じて市民生活の諸相を知るけれども、人物の内面性は変化しないというのが「性格小説」。

逆に、ごく限られた場所を舞台に、人間同士のかかわりによって、彼らの内面に大きな変化が起き、読者はその変遷のもようを固唾を呑んで見守るというのが「劇的小説」。

広大な土地を舞台に、多数のキャラクターを通じて人生の諸相を描き、個々人の変化も描くけれども、その変化は特殊な人間関係から生じた特殊な変化ではなく、加齢によって多くの人間が典型的にこうむる変化である。歳を取ると頑固になるとか、情熱を失うとかいったことが、世代から世代へ繰り返されるというのが「年代記小説」。

大雑把にこういうことなんですけれども、だからなんだという気もする。そういうわけで翻訳家でもある著者は目配りが利いていて、頑固者ではなく、すべての小説がこの類型のいずれかに当てはまるなんてことは云わない。どれが良いとも云わない。読者としても、これを読んだからといって、自分にも小説が書けるとは限らない。

そもそも劇的小説を成り立たせるには、葛藤する主人公たちの周囲に、いつも陽気な小間使いとか、いつもケチな下宿の家主とか、そういう人物たちも必要なわけですし、年代記小説の中で例えば駆け落ちなど特殊な事件によって大きく人間性を変えてしまうキャラクターもいるに違いない。

ただ作者が意図した最大のテーマは何かを見抜くにあたって、人間性の変化を指標にすると。

「まずテーマを決めましょう」みたいな実技指導書ではないわけで、エドウィンさんは、そもそも小説の構造を見抜くという「やり方」を示したのでした。

佐伯によれば、後の時代に至っても小説論の古典として愛され、若手研究者のよりどころとなったもののようです。日本では小説論が盛んでなく、この1950年代に入ってようやく兆しが見え始めたので、一助となすために訳出したとあります。

ダヴィッド社はミケランジェロのダヴィデをトレードマークにしているのが素敵です。この頃は銀座に本社を置いていたようです。

2016/02/01

2014年、北村龍平『ルパン三世』


レンタルDVDで拝見しました。小栗旬の役作りがお見事でした。浅野さんは楽しそうでしたね。

二人の誇張した演技は云うまでもなくアニメ声優の遺業に負っているわけですが、対するに黒木不二子が女性声優に寄りかかったものでないのが印象的でした。

とくに冒頭の彼女の天井から逆さづりになった美しさは刺激的で、「フィルム・ノワール監督の皆さん見てますか?」と呼びかけたいようです。あなた方に憧れた日本映画界がここまで来ましたよ。

もう少し新しいところでは、キャスリーン・バトルが出演した『ディーヴァ』という作品がありましたが、そのようなフランス映画のいくつかを思い出させる映像美と、香港映画に日本語吹替えを乗せたときの面白さと、外人が抱く映画的イメージとしてのアジアを、日本人スタッフが再現している。

どうせ嘘をつくなら最高の嘘をつけ、どうせパクるなら最高のパクリを作れ。まさに世紀の大泥棒を描くに相応しい賢明なアプローチだったと思います。

が、たぶんサービス精神旺盛すぎるわけで、冗長感はいかんともしがたく、映画館で「途中で寝た」って人もいたかもしれません。イケメンゲスト俳優多すぎで、眼の保養ではあるんですが、もうちょっと整理できなかったか脚本、とは何回も思われたところです。

水色上着のピエールくんが「いるだけ」になってしまったのも惜しい。たぶん彼にプログラミングの天才の役を与えたほうがスッキリしたでしょう。

エンディングの名場面集も、くどかったかと思いますが、日本的な省略の美学とか知らないよっていう開き直り感は、今どきのサブカルらしいところではあります。

要するにスタッフ達はやりたいことを全部やったはずで、思い残すことはないでしょう。メインキャラクター達の「攻殻立ち」を含めて、サブカルファン泣かせのサービスが随所に盛り込まれ、制作陣も楽しんでいた様子が伺えます。ただし、それにしちゃリア充向けだよなっていう……。

もともと洋画に憧れた日本の青年が漫画を描いて、アニメ化されて、サブカルの聖典の一つみたいになったところで、また映画というフォーマットに戻してみると、出世したような気もするし、二次元ファンの手から離れてしまった寂しさもある。

黒木不二子は現代日本女性のナルシスムを充分に満足させたはずで、女性観客の支持は高いだろうと思われます。露出的な女同士の格闘シーンも素敵でした。もとより少女趣味のアニメファンは見向きもしなかった作品かもしれませんが、美男美女の和気あいあいとした食事シーンに疎外感を覚えた観客は何人いたでしょうかいなかったでしょうか。

いっぽう、オールド実写映画ファンには「世界観の基盤が日本製アニメであることをご理解ください」と申し上げなければなりません。つまり映像マジックというだけでは納得できない約束事がいくつかあるわけです。

白鞘は割れやすいので実戦には向きませんというのは、さすがに今さらかなとは思われますが、男性が室内で帽子を着用したままというのは欧米のマナーとしてはあり得ません。畳の上で靴をはいたままみたいなものです。

つまり、欧米のまともな映画祭で評価されることは想定していない。また時代風俗をとらえた名作として百年先まで残ることを意図していない。

まさにテレビアニメをそのまま実写化した娯楽作品なわけで、基本的にはアニメファンだけに理解してもらうことを意図したという捨て身の戦略。

と云いつつ、じつは様々な実写映画作品のパロディの要素も含まれており、そうと割りきった上で見てみれば、盛りだくさんの素材をよくまとめ上げた良作と。

観客のほうで、やや頭脳的なアプローチの必要な作品かと思われます。逆にいえば、そうとでも割りきらない限り「無価値」といってもいい作品でもあります。

文化史的に見れば、「漫画の実写化」ではなく、その間にアニメが存在するわけで、しかも声優の演技がひじょうに高く評価されている。さらにアニメ化にもバリエーションがいくつか存在するわけで、そのそれぞれから満遍なく要素を抽出している。

『るろうに剣心』のほうは、漫画に直接取材したといってもよいものですが、こちらは洋画への憧れ→漫画→アニメ→特殊撮影技術を進歩させた映画という日本創作界の変遷の象徴として、大きな意義を持つものかもしれません。

だから、かえって百年先まで残す価値はあるわけですが、男がギラギラのキザでいられた時代への憧れを描いたルパンも、女性活躍・イケメン推進という時代の潮流には逆らえなかったという、社会学的意義もあるのかもしれません。

BGMはノスタルジーを効かせたジャズ調で素敵でした。が、キャラクターがあれだけテレビシリーズ準拠なら、なんとしても大野サウンドの権利を取ってほしかったところではあります。