2016/06/30

群れたがる同人。

【1.私たちのほうが売れていた】

「一生懸命にオリジナル設定を考えて書いたプロ作家個人よりも、他人のキャラクターを無断利用した私たちのほうが売れていた」

という自慢話は許容範囲を超えています。人数がアンフェアです。発想が根本的にマジョリティです。

じつは、群れたがる人というのは孤立を恐れる人なわけで、なぜかというと、自分自身が群れに属して、孤立している人をイジメていたからです。逆の立場になることを恐れるわけです。

イナゴでも構いません。仲間とともに最新流行のアニメを追いかけて、本人が楽しかった分には構いません。が、自他を比べて優越感を得るという差別意識は「おぞましい」というのが本音です。

せめて個人として「本当は栗本先生のようになりたかった」というなら、男性の中にも、ゲイボーイの中にも「俺も若い頃には小説家になりたいと思ったよ」と云ってくださる方があるでしょう。

でも、同じ創作の道を歩む者として、云ってはならないことがあります。

当方がずーーっと怒ってるのは(怒ってるのです)、二次創作したことではないのです。

群れにまぎれて弱い者イジメする心です。自分の実力ではないものを鼻にかけ、条件の不利な若い人に配慮できず、道なき道を切り開いた先達を尊敬することができず、弱った人を笑いものにする根性です。

それでどうして自分だけ「私もマイノリティだから配慮してほしいワ」と云えるのか。

【2.母子共依存の再現】

もし、同人の一部が「私たちは大学の先輩を通じて許可をもらった」と云えば、高卒同人は窮地に陥ります。

全体を視野に入れた話ができないなら、おそらく「私たち」とか「みんな」とかいうのも、3・4人です。

いつも一緒に繁華街またはコミケに出かける仲良しグループ。その顔ぶれを思い浮かべながら、母親に向かって「いつものみんなと一緒だから大丈夫だよ」と報告する心。

自分だけ「じゃあいいよ」と云ってもらいたい。自分と周囲のわずかな仲間だけを母親に認めてもらいたい。友達の家に上がり込んで自分もおやつを出してもらえることを勝手に期待する心。

すべてが母子関係に還元されてしまうというパーソナリティ。実家の居心地の良さが忘れられず、他人と話しているのに、お母さんと勘違いして、甘ったれてしまう。

「同人やっていた」人の中には、時折そんなタイプがいるのかもしれません。

【3.ゲイは同人がきらいです】

孤立を恐れる人は、どこにでもモグリ込もうとします。モグリ込むことができると自慢します。先輩が便宜を図ってくれるとか、誰々と友達になったとか。

でも、GLBTは同性愛を「ネタ」として扱われることを嫌うので、「二次創作BLでカネもうけ!」という話を許しません。

「どうせゲイは優しいから何を云っても大丈夫」という先入観は、弱い者イジメと根っこが同じです。

同人が同人を訴えることはあり得ない。

仲間意識の影に隠れて、一般社会の差別を利用し、弱い相手に言葉の暴力をふるっても大丈夫、と高をくくっているわけです。

【4.情けは人のためならず】

もし、プロ創作家が「GLBTの皆さんにも楽しんで頂けるように、心をこめて描きました」と云えば、根本的には自分の保身のためですが、GLBTにとっても悪い話ではありません。

いっぽう、「女性の自己表現」や「アニメキャラクター愛」を主張すれば、女性ではない人・アニメファン(少なくともキャラクターファン)ではない人が口出しする筋合いではないという意味になります。

が、「カネ、カネ」と騒げば、「カネがほしいだけならアニメの著作権を侵害する必要はない。原作者に失礼だから、すぐにやめろ」という結論にしかなりません。

「カネ」と云えば許されると思ってしまっている人は、どこでそのような態度を身につけてしまったのか。おそらく新宿二丁目にも同じ理屈を持ちこむのです。

「ドリンク券を買ったからいいじゃん」という理屈で、どこにでもモグリ込む。女性客には増えてほしくないという店へ「友達」を連れ込む。

「みんなも来てみれば!?」と観光ガイド気取り。店を繁盛させてやっているつもり。

実際には、女性客によってゲイバーが占拠され、本来のお客様が居場所を失くすだけです。彼らには、他に行ける街がないのに。

札ビラで他人の顔をはたく人は、バブル時代が忘れられないのでしょう。

確かに、女性は社会的地位が低いことが多く、肩書きに乏しく、役得という経験をできることが少ないものです。

おカネだけが頼り。おカネがあればなんでも出来ると思うと嬉しくて仕方がない。買い物依存症・カード破産といった問題も、この心理に根ざしているでしょう。

でも、おカネがあるからといって何をしても良いわけではありません。売れているからといって、何を云っても良いわけではありません。

SNSは同人誌即売会ではありません。バブル時代に利用していた固定電話回線でもありません。発言の前にフォロワーさんの顔を思い出しましょう。

勘違いする人が多いのですが、ゲイはガールズトークの仲間ではありません。

彼らは女性にまったく共感しない男性にすぎません。彼らは女の甘えを許しません。彼らは「女同士で群れて陰口を云っていた」という話を決して喜びません。

もし若い人が「私もノンセクだから新宿二丁目へ行ってみようかな!?」と思っているようなら、思いとどまってください。

同人界では、何十年も前から、新宿二丁目へは行かない約束です。絶対にゲイを怒らせない約束です。

BLしか読めないノンセクシュアルであれば尚のこと、ゲイを見物に行く必要はありません。

確かに女装するタイプのゲイ男性が、父権よりも女性に親しみを感じるみたいなことを云ってくれることはあるのですが、そういう人のほうが少ないと思っておいたほうがいいです。

彼らのため以上に、女性自身がやらかしちまわないためです。

【5.他人の身の上話に便乗するのもやめましょう】

世の中、ほんとうに実の親による虐待をのがれて家出せざるを得ず、風俗に身を沈め、義務教育も中断したままという人もいます。

同人のなかには、そういう人と自分を混同して「女が一人で生きていくためにはエロを売るしかないんですよ!? 警察が取り締まってもいいんですか!? 権力の横暴ですよ!」

みたいな気分になっちゃう人もあるようです。

でも、自分のものを売るのと、他人のものを無断利用するのは、わけが違うのです。

まして、「私は親に学費と学生マンション家賃を出してもらって大学へ通いながらコミケで小遣いかせぎすることに夢中だったんですよ!?」

というのは誰も同情しちゃくれません。バーチャルリアリティで頭が一杯の同人およびアニメファンがモラトリアムと呼ばれるのはだてではなく、実社会の苦労なんてしていないに等しいのです。

ゲイたちは繁華街の「お水」の一員として、リアル虐待被害およびその救済運動の当事者として、女性の人生裏模様も聞き知っています。

他人のついでに悲劇のヒロインぶっても、同人お得意の「イメージ利用」が通用する相手ではありません。

同人に云えるのは「表現の自由」、それから「絵を描く仕事がしたい」くらいです。

【6.小説派の独善】

じつは、パロディ同人には2種類あります。小説派と漫画派です。

小説家よりも売れていたと自慢する人は、自分も小説を書いていたわけで、漫画派の苦労を分かっておらず、発言が自己中心的ということがあります。

そもそも、高性能PCが普及する前には、漫画を描くというのは大変な作業だったのです。

まず専用の道具をそろえなければならない。ベタを乾かすために原稿を部屋中に広げておかなければならない。スクリーントーンは1枚ずつ高価だし、削ると散らかるし。

削ったものが静電気でくっついて来て、他の部屋にも運ばれるのです。基本的には現在でも同じことで、手描きでコツコツ仕上げている人は大勢います。

だから「同人」の中でも漫画を描いている連中は、親の目を盗んでカネもうけ、ということではないのです。

幼稚園時代から、お絵かきが得意だった。中学も高校も美術部だった。親には「絵を描く仕事がしたい。漫画家になりたい」と話をつけて上京させてもらっている。

二次創作のことを訊かれれば「著作権問題は存在しないから安心してくれ」と云ってある。だから彼らは「大目に見てもらってる」なんて話が出ると、すごく慌てます。「そんなつもりでやってるんじゃありません!」と抗議する。

この漫画派の苦労と覚悟を、小説派が分かってないことがあるのです。自分は気の向くまま(もしかしたら授業中)に文字を書き連ねていただけなので、軽く考えているのです。

口先で「少女漫画家になりたかった」なんて云いながら、二十四年組の内容も確認していない。

創作の誇りとか、漫画・アニメを心から愛しているとか云われると「イタイ」と思ってしまう。「カネのためよ」と云ってしまう。

だったら、そのうち二次元じゃ我慢できなくなるということです。

創作なんかめんどくさくなって、コピーを売り始めるということです。

もともと「お話を作りたい」とか「創作家になりたい」という動機がないのです。「漫画を描くなんてめんどくさい」と思っているのです。

露悪趣味を満足させたいだけ。「エロ、エロ」と騒ぎたいだけ。不良っぽいことをしてみたいだけ。

さらには「大目に見てもらえる」という気分、自分だけ特別あつかいされているという気分そのものを味わうために、わざと二次創作という技法を選んだのです。

【7.女流が二次創作を許さないわけ】

女流漫画家が自作の二次創作を許さないのは、女流の先輩として「ちゃんと自分の頭でオリジナル漫画を考えて描く練習をしなさい。私はそうやってデビューしたのよ」と云わざるを得ないからです。

とくに二十四年組は、すでに「彼女たちのせいで男性漫画家・作家に迷惑をかけることになった」と思われてしまっているわけです。

でも彼女たちは、オリジナル美少年漫画の元祖であって、アニメキャラを無断利用することの元祖ではないのです。

まして「漫画家になりたい」と云いながら小説を書いている連中は、漫画家から見れば許しがたい嘘つきです。

だから「私自身はパロディ同人活動を応援しているわけではありません」という姿勢を示す必要があるのです。

もし、パロディ同人が「本当は少女漫画家になりたかった」と云うなら、彼女たちの肩身のせまい気持ちも理解し、申し訳ないと思うことができるはずなのです。

そして実際に、昔の同人はそのつもりで自分たちの作品を自虐したのです。自分たちの作品を目立たせまいとしたのです。

なのに、プロとパロを混同してしまった人は、同人の仲間でもなければ、漫画家になりたい人でもなかったのです。

業界人ぶりたいだけの、自慢ごっこだったのです。

【8.少女の弱者特権という暴力】

女性の先輩は女性の後輩に厳しいが、男性漫画家に対してだったら、男性が女性の自由を抑圧してはいけないという「弱者特権」を主張できる。少なくとも本人がそう思っている。

だから女性同人のほうが天狗になりやすいのです。「同人は大目に見てもらえるのよ! そんなことも知らないの!?」と威張ってしまうお間抜けさんが出てきちゃうのです。

で、この意識を他の場所へ持ち込むと、過度な男性批判になったり、人権侵害になったりするのです。

だったら弱者特権という考え方そのものを見直さなければなりません。女の子だからといって、他人を傷つけても良いのではないのです。

でも、当然ながら、同人界は「人権侵害の青田だ」と思われることを恐れます。だから「同人はフェミとは別」と云うのです。

自分たちの作品がテレビ局または個人プロデューサーから訴えられないように、プロ漫画家に迷惑かけないように、目立たせまいとして自虐した1970年代の先輩の心を理解できずに、「女の子だから大丈夫。編集部がついてるから大丈夫」というデマを広めてしまった1980年代の中学生は、同人界の鬼門です。

でも、出展を続けている現役は、注意事項を共有しているはずなので、あまり自分から悪びれたりはしないものです。本当に仲良くやっている人々も多いものです。

困るのは、挫折した人です。弱者特権だけを利用し続けたいので、不良少女ごっこを続けてしまうのです。「お母さんのせいだから」と云い続けたいのです。「私のことかしら?」と思う人が自戒なさってください。

「M」のせいで同人誌即売会参加者全体が悪いイメージで見られるようになったことを悔やむ・恨む人が、みずから同人について悪いイメージを強めるなら、泣かされるのは、本当に若い現役たちです。

2016/06/30

コミック有害図書指定と、アニパロ小説の敗退。(1990年頃の勘違い)

【1.コミックとは漫画です】

1990年代初頭。市販コミックの有害図書指定運動が起きたのは事実です。

そのせいで自分の発行していたアニパロ小説同人誌が売れなくなった(PTAへの恨みを忘れない)という声がありますので、検討してみましょう。

まず「コミック」とは漫画です。小説ではありません。また、指定されたのは市販品です。

PTAご一行様が同人誌即売会を抜き打ち検査し、同人誌を押収して積み上げ、同人たちが泣き崩れる前で火をつけたという事件はありません。

また「同人誌即売会は、これを永久に閉鎖する」という法律が衆参両院を通過したこともありません。

したがいまして、小説同人誌が売れなくなった理由にはなりません

【2.市販BL文庫の誕生】

1992年。角川書店が青春小説の文庫からBL系統の作品を切り離しました。

コミック有害図書指定に恐れをなし、「ヤバイ」と思ってトカゲの尻尾切りした……のではなく、独立採算の見込みがあるものとして、新しい文庫を設立したのです。

じつはこの年に、1974年以前の出生者が全員18歳以上に達しました。この中には年間出生数200万人超えを誇る第二次ベビーブーマーが含まれています。

つまり事実上「成人向けBL」という大市場が開けたことを見越した営業戦略だったのです。さすが角川。

【3.JUNEの衰退】

榊原史保美も連載を持っていた、1978年以来の老舗専門誌『JUNE』の衰退を、読者の好みが小説から漫画に移ったからだとする説明もありますが、その休刊後も角川の文庫が存続しているので、全面的に正解とは云えません。

1980年代を通じて、小説を読みながら成長した人が、1990年代に入って成人した途端に「もう歳を取ったから漫画しか読めなくなったわ」ということは考えにくいですね?

引き続き小説を好むんだけれども、内容の好み・購読の形態が変わるのです。

まず、雑誌の長期連載に途中から参加したり、続きを読むために購入し続けたりするよりも、読みきり文庫のほうが取りつきやすいですから、文庫の設立とともに、雑誌は衰退する運命だった。

2つめは、古参ファンと新参ファンの間に差別意識が発生し、後者が離れていく。どこの業界にも起こることです。

3つめは、読者投稿作品の審査員長をつとめていた栗本薫が、早稲田で勉強し、ミステリを書ける人だったので、投稿作品の自己満足性に否定的だったこと。彼女の採点が厳しかったいっぽうで、新興の文庫は新人作家を求めていますから、そちらが登竜門として頼りにされた。

2・3に関連して、もともと物語の内容が、成人したプロ創作者自身の少年趣味に基づいて構想され、禁断の恋(大人から子どもへの恋)の悲劇として決着するという趣向だった。それに10歳以上年下の読者が憧れて、真似して書いてみるというのが業界の構図だった。

以前にご紹介した森茉莉『恋人たちの森』(新潮社)は、1961年の出版以来、二十四年組人気・アニパロ人気のいずれもが盛んになる直前の1974年4月の時点で、13年間に12刷を数えておりますから、大層な人気です。これを真似して書いていた文芸同人は、必ずいたはずなのです。

それが、読者自身の年齢が(少し)上がると、自分と同世代の若者同士のハッピーエンドを求める。未成年者を搾取する・死に別れるといった耽美路線が必ずしも喜ばれなくなる。

逆にいえば、現代の20代の女性の気分にふさわしい、明るいコメディタッチの恋愛模様を描写することができれば、そういう作家を揃えることができれば、そちらの文庫が伸びていく。

だからこそ、2010年代に至って、公立図書館で漫画ではなく「挿絵つき小説」という形態のBLが発見されて、廃棄騒ぎ・年齢指定騒ぎとなったわけですね。

【4.混同されるほど小説が盛ん】

老舗の市販BL専門誌『JUNE』で連載されていたのは「耽美」リレー小説です。

ウィキペさんで確かめることが出来るだけの話で、暴露でもなんでもありません。

プロ作家および出版社が「ヤマもオチもイミもない」リレー小説です、などと自虐したことはありません。その言葉を使ったのは、あくまでパロディ同人です。権利問題を隠蔽するためです。

でも若い読者が混同したのです。著作権意識がひじょうに低かったせいで、同人が自虐した理由を勘違いしたのです。1990年代の社会学者・評論家などは、この混同に気づかないまま、研究の土台にしてしまいました。

ところで、なぜ混同されたのか? もともと「コミック」マーケットなんだから、竹宮恵子とアニパロ漫画が混同されたならまだ分かる。なぜ榊原や栗本のような小説家まで同類だと思われたのか?

小説としてのアニパロが存在したからです。これには、そもそも漫画を描くことが大変な作業だったという事情があります。

【5.漫画家人口は少なかったのです】

PCのなかった時代には、漫画を描くというのは、本当に大変な作業だったのです。

通販も整備されていなかった時代、専門店まで出かけて、専用紙とペンとインクと定規とベタ用の筆とトーン削り用ナイフを買い揃える必要がありました。ベタは乾かさなきゃならないし、スクリーントーンは一枚ずつ高価だし、削ると散らかるし。

だから漫画を描く人は今より少なくて、同人誌も文章表現が多かった時代があったのです。最初は本当に同人誌でした。2名以上の会員を抱える同人会の会誌だったのです。

CLAMPは、十数人を抱える大所帯の漫画サークルでしたが、じつはストーリー漫画を描いたことがなく、プロデビューに当たっては編集者に鍛え直され、ずいぶん泣かされたそうです。

だからこそ、高河ゆんを見た編集者が唸った。まさかこれほどの才能が育っているとは思わなかった。彼女はプロデビューした時点で、もはや少女ではありません。ちょうど成人した頃です。

つまり、ごく一部に、少女時代に本当に二十四年組に憧れて、コツコツと漫画を描き続け、成人するまでに腕を上げていた人がいたのです。

【6.ジェンダーを利用したビジネス】

2010年頃、公立図書館で小説としてのBLが発見されたことを契機に、漫画雑誌の総点検も行われました。

年齢指定をくらったBL漫画雑誌は、一覧表が出ていましたが、その創刊年を調べてみると、1990年代から2000年代です。コミックが有害指定されていたはずなのに、おかしいですね?

じつは、有害指定の目的は、端的には男性読者が暴力的・性的な漫画に影響されて凶悪事件を起こすことを防止することでした。1990年代の初頭に、漫画・アニメファンと見なされる男性が幼女を犠牲とする凶悪事件を起こしたからです。

だから、男性向けを売りにくくなった男性編集者たちは、続々とBLの編集にシフトしたのです。

女性は腕力がないので暴力の加害者になることができないという理由と、「男性向けは女性団体からのクレームに負けたが、女性向けは『女性の自由のため』といえば申し開きが立つ。男性団体からの抗議に対しては『男は黙ってろ』と云うことができる」というわけで、女性の弱者特権が存分に利用されたのです。

世の中、したり顔に「BLはジェンダーとか関係なくって、ただのビジネスよ」なんて云う人もいますが、違います。

BLは、ジェンダーを利用したビジネスです。

「女の編集者もいる」という人もいますが、彼女たちを雇って、男よりも低い賃金で使ったのは男性の社長たちです。あくまで男性中心ビジネスに女性が消費者・安価な労働力として取り込まれていったというのが(他の業界同様に)BLの歴史です。

1980年代フェミニズム(の影響を受けた同人)は、「結婚は男女不平等・ビジネスは男女平等」という単純な二項対立しか想定できませんが、出版社のおじさん達は一枚上手です。

【7.規制が影響する経路】

話を続けますと、男性向けが(自粛という形で事実上の)有害指定されたいっぽうで、小説・漫画を問わず、市販BL市場が急成長し、市民権を得た時代が1990年代です。

だから、男性のプロ漫画家が「PTAのせいで単行本を出せないことになった。この恨みは忘れない」と云いながら、また同人誌を出品するようになったということは、あったかもしれません。

でも、それを小耳にはさんだからといって、「私の同人誌が売れなくなったのもPTAのせいだ」というふうに、話をスライドさせることはできません。

そもそも男性のプロが同人界へ戻ってくることができたのであれば、同人界では売ることができたということです。

事実上、市販品が規制されたからこそ、漫画家の作品発表の場としても、読者の選択の自由を保障してくれる場としても、同人誌(と呼ばれる個人出版)が頼りにされたのです。

だから、もし「M事件のせいで同人誌が売れなくなった」と嘆く人があるなら、それは単純に「PTAが過激作品を規制したから」ではありません。

男性向け市販品が規制された代わりに、女性向け市販品の過激化が(事実上)奨励されたので、客足がそちらへ流れてしまい、同人誌即売会に閑古鳥が鳴いたという、まわりくどい経路です。

でも、実際には、同人誌即売会に閑古鳥が鳴いたことはありません。だから、もう一つ事情があります。

【8.アニパロ小説の衰退】

漫画を描いていた同人は「今では竹宮恵子よりも私たちのほうが売れている」と云ったはずです。

栗本薫と自分を比べていたという人は、小説を書いていたのです。そして彼女が看板作家だった『JUNE』を代表とする市販雑誌を目の敵にしていた。もちろん、自分の「アニパロ」のほうが売れてほしいからです。

でも、読者が18歳以上に達し、文庫が新設されると、どうなるか。おつとめ帰りに書店へ寄ればよくなるのです。なにも暑い中、あるいは年末の(サービス業に就いた人にとっては)忙しい中、休みを取って行列しなくても良くなる。

同人の中には「もともとアニメ自体が好きだったわけではない」とうそぶく人もあります。人目を引くために有名キャラクターを利用しただけで、読者のほうも心得ていたというのです。

だからこそ、読者も「べつにアニメキャラでなくてもいいわ」と判断したのです。

【9.フルカラー同人誌】

いっぽうで、1975年以降に生まれた人は、1980年代にアニメが盛んになったのを見て育っていますし、1983年にファミコンが発売されて以来、テレビゲームも好きですから「絵」があるほうが良いわけです。

さらに1985年以降、CLAMP・高河ゆん等、もともと漫画同人会の一員として絵を描いていた人々がプロデビューしたので、漫画家志望者が「即売会を拠点にするとデビューしやすい」と考えて、殺到したのでしょう。

だからこそ、漫画同人誌のレベルが(急に)上がり、フルカラー同人誌も生まれたのです。

フルカラー同人誌は、今ではバブル時代の武勇伝となっていますが、当時は高性能なPCがなかったので、彩色は全て手作業でした。

興味のない人から見れば「何もそこまで」と云いたくなるようなことを、徹夜も腱鞘炎も辞さずにやってのけてしまうような、漫画バカというか、根が真面目な人々によって成し遂げられた偉業なのです。

それが人目を引くのは当然ですが、印刷代が高額だから、売値も高い。いかにバブル時代といえども「高価な漫画同人誌を10冊買ったら、地味な小説オンリー本を買う小遣いがなくなった」となるのは当然ですね?

【10.滅びの歌】

CLAMP達の活躍が目立ち始めるよりも前に、文章表現としてのパロディ同人誌の存在を知り、1980年代後半に至って、進学を機に上京したので、自分も小説を出品するようになったという人は、栗本薫より売れているとうそぶきながら、じつは滅びの歌を奏でていたのです。

すぐ横で、漫画同人が続々と増えつつあったことに気づかなかったのです。

コミケは成長を続けました。1990年代にも、2000年代にも、規模を拡大し続けて、今があるのです。でも、そこは小説同人の居場所ではなくなったのです。

購読者の年齢が上がったことと、漫画・アニメの流行によって、わりを食ったのは、プロのBL作家ではなく、小説同人だったのです。

コミケはもともと漫画同人の集まりであって、アニメファンの参加を想定していませんでしたが、手塚治虫が自らアニメを手がけていた以上、「漫画・アニメは一蓮托生」ということは可能です。1970年代の時点では、どちらも人数が少なかったので、弱者同士の連帯とも云える。

そこへ後から参加して、アニメキャラクターを利用した小説というものをステレオタイプ化し、量産した人々は、即売会を牛耳ったような気分になったこともあったのでしょうが、一時的な現象だったのです。

とくに1975年以降に生まれた人は、上記の通り、アニメそのものが好きです。コスプレする人々というのは、必ずしもアニメキャラクターを茶化してやりたいわけではない。「エロ」だけを求めているとも云えない。自ら「二次元コンプレックス」とまで云う通りで、本当にアニメのビジュアルそのものが好きなのです。

そこでは「元々アニメには興味ない。オタクと一緒にしないでほしい」という人が「エロ」だけをテーマに書いた小説は、淘汰されて行くのです。

今ではコミケと云えば漫画の話題ばかりです。もともと「コミック」マーケットですから、それでいいのです。小説がもっと売れるはずだったという人は、最初から、自分が勘違いしていたのです。

【11.乗り切る方法はあったのか】

1980年代後半のコミケ(を筆頭とする同人誌即売会)における、小説から漫画への切り替えの時期を乗り切る方法があったとしたら、本当に漫画を描くか、オリジナル小説を書いて角川ほかの新興文庫からBL作家としてプロデビューすることだったのです。

もう一つは「まんだらけ」のような書店か、新たなイベント即ち「ノベル・マーケット」を自分で立ち上げること。

もう一つは、いち早くPCの勉強をして、通販体制を整えることだったのです。

日本で最初にホームページが作られたのは1995年。その後「Windows98」によって一般社会がインターネット元年を迎えたのが1998年。バブル崩壊後の影響が顕著になって来た頃です。このタイミングで、ネット専業にシフトすることが出来る人には出来た。

これらを思いつかなかったのなら、現状認識・市場分析が甘かったのです。分かっていたのにやらなかったなら努力不足です。投稿したけど採用されなかったのなら、才能不足です。

Mのせいでは、ありません。

2016/06/30

同人は出版社の恩人ではありません。(1983年頃からの勘違い)

【1.インベーダー襲来】

総務省が発表している出生数の折れ線グラフを見ると分かるのですが、第二次ベビーブームの終了は1974年。翌1975年との間には、すごい落差があります。

映画『スターウォーズ』『未知との遭遇』の発表は1977年。日本公開は1978年です。同年「インベーダーゲーム」も発表され、社会問題視されるほど大流行しました。

あのタイプのゲームは、画面の動きに合わせてボタンを押すだけですから、未就学児にも可能です。1983年には「ファミコン」が発売されました。

いっぽうで、漫画というのは台詞を読むものなので、小学校3年生以上の学力が必要です。1975年生まれの子どもは、1983年には、まだ8歳です。

当時の男児は、漫画をスラスラ読めるようになる前に、テレビゲームに慣れてしまったのです。ついでのようですが「ミニ四駆」の発売もこの頃です。

数の減った男児たちは、よそのお兄さんが紙の上で喧嘩したり、よそのお姉さんとイチャイチャしたりするのを眺めるよりも、自分が闘うほうが面白いことに気づいてしまったのです。

まして当時の漫画は、『少年何々』と題する雑誌に連載されながら、『コブラ』『北斗の拳』『キャッツ・アイ』のような、事実上の成人男性向け劇画調だったのです。

少年漫画は、すでに1960年代に『あしたのジョー』によって最初の絶頂を究めてしまっており、その後は大学生以上、すなわち18歳以上の成人向けになっていたのでした。

10歳以下の男児が「むずかしい」と感じ、ゲームのほうが面白いと判断しても無理はなかったのです。

【2.女子の台頭】

いっぽう、ファミコン発売と同じ1983年、少年漫画雑誌に連載されていた少年サッカー漫画を原作とするテレビアニメ番組が放映を開始しました。

すると、それを元にした「二次創作」が、「同人」の世界で大流行しました。それだけなら、どうってことはありません。すでに同人やっていた人が「同人やってて良かった」と思うだけです。

重要なのは、二次創作をきっかけに、もとになったテレビアニメ番組を視聴する人が増えたこと。および、原作漫画が連載されている雑誌や単行本を買う人が増えたことです。

テレビアニメそのものは(地上派だったので)無料放映です。テレビ局がアニメ番組と引換えに視聴者から直接的に対価を受け取ることはありません。

テレビ局のご商売は、他の企業が「アニメのついでに我が社のコマーシャルを放映させてください」と云ってくることによって成り立っています。

そのCM放映料金は、番組の視聴率によって決定されます。だからアニメ番組の視聴率が上がると、テレビ局の収入も増えるのです。

二次創作同人誌が売れるだけでは、テレビ局にも出版社にも何のメリットも無いのです。

【3.出版社と同人の一線】

同人の中には、出版社に恩を売ってやったような気分になっている人もあります。でも出版社にとっての神様は同人ではないのです。同人作品をもとに、次の行動を起こしてくださった人々です。

同人自身は、さっさと辞めて頂いて構わないのです。逮捕されても構わないのです。出版社は身元引受人にはなりません。保釈金も支払いません。連座もしません。弁護側証人にもなりません。

同人は、あくまでアマチュア活動を手前の意志で勝手にやっているだけです。なんの特権もありません。誰も味方はいません。これが建前であり、真実です。これをわきまえていない人は「同人やっていた」うちに入りません。

【4.お客様に感謝しましょう】

自分の作品を購入してくださったお客様を、公共の場で笑いものにしてはいけません。

若い人が首都圏から離れた場所に住んでいることは、親御さんと同居しているだけであって、本人のせいではなく、悪いことでもなければ、恥ずかしいことでもありません。

彼(女)たちがあなたの自費出版物を購読した後で、原作漫画またはテレビ番組を確認し、ストーリーの違いに驚いたのであれば、彼(女)たちは原作ファンとして最も正しい行動を取ったのであって、あなたが「自分のほうが進んでる」と勘違いして、天狗になることではありません。

2016/06/29

トランスゲイの迷惑。

【1.女を捨てる】

一人暮らしする中年女性は、自分を「男になった」と思っていることがあります。女が一人で生きていくためには「女を捨てる」必要がある、という古い価値観を引きずっているせいです。

1972・73年に大ヒットした池田理代子『ベルサイユのばら』には、男装のヒロインが父親から「職業軍人を引退して嫁に行け」と云われ、今までの苦労はなんだったんだとショックを受ける場面があります。

で、彼女の出した結論は「男として生きていく」でした。

父親としては革命の不穏な気配を感じ、武力衝突から娘を守りたかったのですが、父娘のどちらにも「結婚した上で王妃の護衛を続けます」という発想がなかったわけです。

貴族の女性なんて、もともと自分で子育てしないんだから、さっさと職場復帰したっていいし、子どもができない可能性だってある。

漫画家・編集者としても、すでに男装の女性軍人というフィクションを描いていたわけですから、「女性における職業と結婚の両立」という発想があれば、それを描いちゃえば良かったのです。でも、まだ無かった。

1980年代は、後半に至っても『ベルばら』のヒットを引きずっていて、新作アニメに男装の職業軍人が登場すると「女を捨てる」という台詞が聞かれることがありました。いまの40代は、まだそういう価値観の中で育ったのです。でも?

【2.冷戦の呪縛】

たとえばの話、ウサギではなくなったものは、虎になったわけではありません。普通のウサギよりも強い、サイボーグ・ウサギになっただけです。虎より強いかもしれませんが、虎ではありません。

ここ重要です。1989年まで、世界は「冷戦」の時代であり、日本人全体・世界全体が「ソ連につくか、アメリカにつくか」という二者択一の発想に支配されていたのです。

アメリカを捨てるということは、ソ連に逆亡命することだと思われていたのです。でも冷静に考えると、どっちにも味方しない第三勢力ということがあり得るのです。

この違いが分からずに、二項対立を1998年まで引きずったのがトランスゲイ説だったわけで、女らしくないから男である(ゲイである)と云っちゃったのです。

榊原史保美は、BL専門誌の草分け『JUNE』に創刊(1978年)の頃から関わっていた人ですから、当時18歳だったとしても、1960年生まれ。1998年には、38歳です。

そうすると、中年女性が新宿二丁目へ乗り込んで、ゲイの間に座り込み、ゲイボーイズトークに参加する口実を与えちゃうわけです。ゲイコミュニティは「orz」ってなったんじゃないかと思います。

【3.当事者意識とは被害者意識です】

まず、BLの根本にあるのは、異性愛の代用としてのパワハラです。

中世の稚児趣味、あるいは戦前の男性作家が自伝的小説の中で報告したような、旧制中学・高校における「少年」とか「ユース」とかいう、青春期の一時的な関心。そこではハッキリと「下級生を女に見立てる」という約束事が存在しました。

年長男性の関心を実際に引き受ける少年たちにとっては暴力であり、虐待でしかありません。

中世の物語では、稚児・若衆が急に高熱を発して早世してしまったという話も多いものですが、これは実際に無理な行為によって感染症に罹患し、児童が落命していたことを暗示しているのかもしれません。

実態はこんなものです。男性が聞いたら、ご本人の性志向にかかわらず、ゾッとするに決まっております。

もしトランスゲイであれば、顔立ちが実際に女性的なのですから尚のこと、自分自身が被害児童になった場合を想定して、ゾッとするはずなのです。

これが分からないなら、残念ながら、トランスゲイではありません。

当事者意識とは被害者意識です。もし本当にこんなことになったら困る、きもち悪い、実行される前に止めなくちゃ、こんな漫画を発禁にしなくちゃと思うことです。

それは、ちょうど女性が男性から「女は生まれつきみんなマゾ。襲われれば喜ぶのが当たり前。男性向けに登場する女性キャラクターに感情移入し、よく勉強しておけ」と云われて悲憤慷慨するのと同じです。

たいへん残念ながら、「抱くことができるからトランス」というのは、自分を能動側にのみ位置づけた都合のよい解釈です。

【4.トランスゲイの被害】

誤解が流布したために、本物のトランスFtoMが「手術を受けたい」と周囲に打ち明けたら「漫画の読みすぎ」と笑われた、ということが起きた可能性があります。

また、変な女が寄ってきて「ジャンルは何ですか!? どこのサークルが好きですか!? 私の薄い本を買いませんか!?」と、つきまとわれた可能性があります。

結婚したくない女性が、彼らを自分の仲間だと思って、お友達になりたがることもあります。

でも、彼らは可哀想な女の子ではありません。生まれながらの男性です。それも、女の顔で生まれてしまったことを非常に残念に思っている男性です。

だから彼らは、彼らの理想である少年漫画をネタにしてしまい、「もうけ、もうけ」と自慢する女たちを絶対に許すはずがないのです。

【5.トランスの搾取】

結婚したくない女性が、彼らが男性であることをよく分かってやったつもりで、だからこそ彼らを(男性機能がないので)女を襲うことのできない安全な異性だと思って、自分のアクセサリーのように利用しようとすることもあります。

トランスゲイも、お人柄は人それぞれでしょうから「憎むというより蔑んでいる」という方もあれば、「憎むというより憐れんでいる」という方もあるでしょう。

いずれにしても、トランスゲイを自分の仲間だと勘違いして付きまといたがる女と彼らが同席したがっているということは、ありません。電話、メール、ツイートなどもご迷惑に感じているはずです。

現代では「デジタルつきまとい」というのが、けっこう問題になっているはずです。

とくに女性の同人は、自分自身が男性から、しつこく質問される等の被害に遭っているはずですから、自分のほうからやらかしてしまわないように気をつけましょう。

【6.社会による人権無視】

トランスゲイ説を提示した書籍が発刊された1998年の時点で、1978年以前に出生した人は、全員が20歳以上に達しています。その中には膨大な人数を誇る第二次ベビーブーマーが含まれています。

その内の一割でも、人権保障を得られずに、やむを得ず小説を読んだり漫画を描いたりしているなら、重大な人権問題です。政府・自治体・医療界・教育界などは即応を要求されるはずです。同人誌即売会からは数十万人の署名が提出されるはずです。

でも、1998年の時点で、急にトランスゲイ人権運動が盛んになり、人権保障法案が国会を通過した形跡はありません。

カミングアウトしたはずの作家も、その出版を手がけた編集者も、社会も、評論家も「トランスゲイが差別されるのは当たり前だから、小説を書いて我慢するのは仕方がないね」で終わりにしたのです。

でも、ゲイコミュニティは、先立つ1994年の時点で「男同士は異常だというのは我々に対して失礼だ」と云って来たのです。

当時のストレート社会の常識に対して、真っ向勝負を挑んだのです。

その一部であるはずのトランスゲイが「我々は差別されたままで構わないよ」と云うはずがないのです。

【7.真のトランスゲイ】

もし本当にトランスゲイであれば、まずはゲイコミュニティの先輩方に失礼のないように挨拶するはずなのです。もちろん彼らが怒ってクレーム文書を投じたくなるような無礼な質問はしない。

信頼できる医師・カウンセラー・人権団体などはどこにいるのか、自分自身の将来に関して、真面目な質問を試みるでしょう。創作物の投稿先も『JUNE』である必要はありません。ゲイ当事者が主幹をつとめる専門誌が妥当です。

とくに『JUNE』は「禁断の愛」を標榜し、先輩にあたる森茉莉の作品には新潮社の編集者が「禁色の愛」というキャッチコピーを付けていました。ゲイなら、これに激怒するはずなのです。

「俺たちの愛を勝手に禁止しているのは、お前らストレート社会じゃないか!」って。

女流は「実在とは別」と云うでしょう。上記の通り、「ストレート男性間の古典的風習が創作表現としてステレオタイプ化したものだ」と指摘することもできます。キャラクターの年齢の問題を指摘することもできます。

でも、ゲイ当事者としては、反射的に「男同士の何が禁断だ。許せん!」と思うのが、むしろ自然なのです。そんな雑誌に協力しちゃいられないはずなのです。

【8.追いつめられたプロ】

個人的には、榊原も社会によって追いつめられた被害者だと思っています。

ふつう、創作家が創作動機の開示を強制されることはありません。ホラー作家やミステリー作家が「なぜ殺人ばかり描くのか。家庭に問題があったのか」と訊かれても「プライバシーの侵害です」と答えればいいですし、「本当に殺人がしてみたいのか」と訊かれても「まず、あなた自身が創作物と現実を区別してください」と言い返せばよいことです。

BL(当時すでにボーイズラブという言葉が使われていました)作家だけが、自分の「性」について、説明責任があると思い込んでしまったのです。

でも、意見陳述を求められるのは犯罪者です。女性(の一部)は、創作物を書いただけで犯罪者あつかいされたのです。なぜか?

1989年に「1.57」という数字が発表されたからです。

社会は「若い人を自由にさせ過ぎたんじゃないか? とくに、女をさっさと嫁に行かせるべきだったんじゃないか?」と思い始めたのです。

だから、それまでは二十四年組・秋里和国などが少女向け雑誌に載っていて、多くの読者が少女漫画のついでに美少年漫画を読んだだけだったはずなのに、このあたりから「こういう漫画を読む女はコンプレックスが強いから、ふつうの少女漫画が読めない」という偏見が始まったのです。

【9.偏見を助長した人々】

1980年代までの少女向け漫画雑誌というのは、楳図かずお・弓月光・和田慎二・立原あゆみ等の例がある通り、男性漫画家が連載を持っていたこともあり、内容の多様性が保障されていたのです。

したがいまして、二十四年組まで視野に入れる以上、BLの歴史とは、少女向け雑誌を通じて何でも満遍なく読んでいたはずの人々が「少女漫画を読めない」という偏見を押しつけられるようになった経緯です。

描くほうも、疑いの眼を向けられ、女性の内面表現だったはずのものの表現の自由を侵害された経緯です。

そして、社会学者などがその偏見を基盤に研究を進めてしまった経緯です。

もし「市販雑誌によって二十四年組と少女漫画を両方読んだ女性は女性自認に問題がないが、同人誌即売会に集まる少女というのは、二十四年組にも飽き足らず、より特殊な表現を求める子たちだから女性自認に問題がある」

という仮説を採用するならば、それを証明するには充分なサンプルが必要なはずです。

「ケンミンショー」ふうに云うと、四十七都道府県から2000人ずつの二十四年組読者と、2000人ずつの同人誌即売会参加者を抽出する必要があるはずです。

人数としては、そのくらいは存在すると思われますが、研究者の皆さんは調査を敢行なさいましたか? 有意差を発見できましたか?

していない・できていないなら、なぜ根拠のない偏見を広めてしまったのですか? それが日本の学者の仕事ですか?

その偏見が当事者にフィードバックして、「私は何々できない女なんだ」という自己暗示を与え、自虐・引きこもり・反動としての過剰に露悪的な言動を生んでいることに、研究者・評論家は何の責任もないのですか?

【10.レインボーインパクト】

「1.57」という数字が社会に衝撃を与え、女性の自由が疑問視され始め、爾来10年。

榊原による解説書が発刊されるまでの間に、第二次ベビーブーマーを含む世代が成人しました。

同時に、男性向けコミックの有害図書指定運動が起き、出版界は(生き残りを賭けて)事実上の成人向けBLの発行を盛んにしました。

BLは、男性編集者のアドバイスによって「過激」の度を強め、少女漫画と同時に載せるわけにはいかないものとなり、バブル崩壊後の大不況下にもかかわらず、専門誌の創刊が相次ぎました。

狭義の市販BLとは、一見すると過激で前衛的なようですけれども、じつはチャレンジ精神をなくし、すでに確立された価値観を利用し、陳腐化させるデフレマインド商法の一つだったのです。

すると、それを読んで興奮した女性が新宿二丁目を荒らすという事例が発生した模様です。

そのころ、ゲイコミュニティはエイズ騒動を乗り越えて、人権運動を軌道に乗せ、女性の言動と女流創作物に対してクレーム文書を発するまでに成長していました。

というわけで、女流は自分自身が偏見を持たれながら「なぜ差別的な創作を続けるのか?」という疑問に回答をせまられたのです。

で、ベテランと見なされた榊原がBL界を代表して弁明することになった(らしい)のですが、偏見に対して「出来の悪い女ではなく、もともとゲイです」と云えば、ゲイプライド運動に合流できるはずだったわけです。

けれども、それを云われて一番あわてたのは、榊原とは直接おつきあいのなかったパロディ同人だったというのは、すでにお話した通りです。

この混乱ぶりは、端的にはゲイコミュニティのインパクトが意外に大きかったことによってもたらされたものであり、それ自体は良いことだと思います。

実際に長らく差別されて来た人々からの訴えが全く無視されるのではなく、対応しようという気持ちを生むこと自体は良いことです。

すでに田亀源五郎が不世出の傑作『銀の華』を上梓しており、その連載場所となった雑誌を始め、現代に至る人気雑誌がこの時期に創刊されているので、ゲイ当事者による自己表現活動がひじょうに活発化していたと云えるでしょう。

同時に、日本の出版界が議論に慣れておらず、差別という指摘にひじょうに弱いことをも表しているかと思われます。

わずか3年後には、東郷健を紹介する記事をきっかけとした差別用語論争に、ゲイコミュニティ自体が激震することになるのでした。


2016/06/29

編集のチェックを頼る同人。

【1.正当なクレーム】

1994年。ゲイコミュニティは「創作物に『男同士は異常だ』と書くことは我々に対して失礼だ」というクレームを発しました。

女流作品にそのような台詞があるという指摘です。それも悪役が主人公たちに対していやがらせをしてそう云うのではなく、当人たちが自分自身を差別しているというのです。

これに対して「1980年代までのプロ作品にはそのような台詞はありませんでした」と答えることができます。とくに二十四年組は男性読者からの支持も高く、多くの人が証言できるでしょう。

いっぽうで、女権論者の一部が「男のくせに女の書いたものを読むな」と答えたという話があるわけです。「女のやることに口を出すな」という逆差別です。それまでの反動でしょう。

それ自体は、ラディカルフェミニズムの主張そのもので、云いたきゃ云ってもいいですが、大学の先生たちは、十万人とともに炎天下あるいは厳冬期の同人誌即売会の行列に並んだのでしょうか? そうでないなら、なぜ勝手に同人界のスポークスマンになってしまうのでしょうか? 

プロは自分および自分の作品を「ヤマもオチもイミもない」などと自虐したことはありません。それはパロディ同人が使う言葉です。

ですから、ゲイの口からその言葉が出た以上、同人の代表に対応させるのが筋です。謝罪しようが、徹底抗戦しようが、同人の判断において、必要ならコミケ準備委員会を通じて、声明を発表すればよいことです。

したがって、研究者とメディアがプロ漫画家の責任を追及し、プロ小説家に弁明の本を書かせるという対応は不適切です。

つまり、この話の向けられている先は、研究者とメディアの一部です。過去の拙速な対応を反省し、クレームには冷静に対応しましょうという、未来へ向けた提言です。

ここまでなら云われたほうも「勿論です」とか「今さら云われなくたって分かってるよ」と答えて終わる話です。でも?

【2.被害妄想クレーム】

「同人やっていた」と称する人が、途中で「そんなの編集がチェックしてるんだから当たり前じゃん」と云いだすと、話が違ってきます。

これはテレビの一般視聴者が事情通ぶって、何を見ても「こんなのヤラセじゃん」というのとは質が違います。

なぜなら、自費出版していたという人が云うのですから、「プロは発行前にチェックしてもらえるからいいよね~~。でも私の場合は仕方ないじゃん」という、ひがみ意識と言い訳が含まれているからです。

つまり自分もゲイを怒らせるような台詞を書いたことを認めた上で、謝りたくないという態度です。それで新宿二丁目に顔向けできるのかどうか、考えてみるといいです。

【3.同人によるプロの軽視】

「プロの作品は発表前にチェックしてもらえるから有利」と発言する人は、もともとプロの下書きにも不適切な台詞が含まれていたが、編集者に叱られて破棄させられたと考えているわけです。

削除ではなく破棄です。なぜなら主人公が自分自身を差別することを前提にプロットを立てていた場合、「俺たちの関係は異常だ、だから別れよう、いや別れたくない、じゃあどうしよう、心中しよう」というふうに話が進んでいくわけで、前提そのものにダメ出しを喰らった場合、すべてが練り直しになるからです。

また、1980年代までの編集者、とくに編集長は男性ばかりだったでしょうから、成人男性は実在少数者に配慮することができた。が、成人女性は自分から気をつけることができなかった。

つまり、男女平等教育は無駄だった。女性は男と同じ教科書を使って勉強させてやっても、社会性を身につけることができない。だから社会に出すべきではない、という結論になります。

でも、プロは「そもそも私はそんなネーム(漫画の下書き)を提出していない」と怒るでしょう。

【4.プロの創作動機】

まず、コクトーやワイルドを参考に、森茉莉に端を発する「耽美」路線は、古代希臘云々いうとおりで、男性が若者を寵愛することを貴族的な趣味として美化して描いており、それに孤独な成人の女流が共感しているものですから、自分で自分を異常だとは云わない道理なのです。

時移って1972年。男装の麗人キャラクターがヒットを始めた横で、萩尾望都が描いていたのは、そもそも中年男性吸血鬼が少年を吸血鬼にしてしまったという前提で始まる物語でした。

クラウス・キンスキーも、クリストファー・リーも、フランク・ランジェラも、ビョルン・アンドレセンに噛みついたことはなかったはずです。

でも、女性ではなく少年が犠牲者になるという話が日本の女流から生まれてきた。

井原西鶴や森鴎外や三島由紀夫という先達がある以上、背景には「衆道の契り」という日本古来の(少なくとも創作表現としての)文化的伝統があったというを憚ることは、むしろ民族の歴史を自虐することに当たります。

が、どう美化しようとも、これが少年向け雑誌に掲載されることはありません。主人公が吸血鬼に負けてしまったのでは少年漫画としては失敗だからです。少年漫画としては、どうあっても強い若者が吸血鬼を打ち倒すという話でなければならない。

逆にいえば、女流は「男の子が負けた」というところから始めたのです。けだし、女の時代。

これが青池保子や竹宮恵子に移ると(伝染ると)、吸血鬼ではなく史上最悪のチョビ髭男になったり、社交界の鼻つまみ者になったりしたわけです。

ゲイコミュニティとしては「我々は吸血鬼でも独裁者でもない。悪役として描かないでほしい」と云いたくなるのも無理はないのです。ただし。

間違えてはいけないのは、犠牲者があくまで少年ですから、ゲイコミュニティとしても「我々が未成年者を襲いたいと思うのは自然な感情である」と云っちまっては、ちとまずいのです。

あえて例えれば、悪い博徒もいれば良い博徒もいるということでバランスを取るように、少年に手を出すのは悪い男の物語。そのいっぽうで、成人した者同士の礼儀をわきまえた交際も描いてくれと要望していく。

そして、女流はそれに応えたのです。1980年代には秋里和国が登場し、成人同士の合意の上の交際を丁寧な筆致で描きました。

でも、若い同人は、そのような成人における機微を理解できないまま表面的に模倣した。要するに何も考えていなかった。だから自分で自分の差別意識に気づかなかったという話でしかありません。

【5.社会学者と同人の対応】

もし、アマチュアが差別意識をむき出しに表現したなら、表現物を規制する以前に、そもそも差別意識を除去する必要があるはずです。「書いてはいけない」以前に「思ってはいけない」というところまで掘り下げる必要があるはずです。

現実として、心の中から差別を撤廃するのはむずかしい。アメリカで今なお人種問題が大事件になる通りです。だからといって「仕方ないですよ」で終わりにしてはいけないはずです。

この場合、社会学者が云うべきことは「ゲイは読んではいけません」ではありません。「ストレート男性が悪いのよ」でもありません。

「当事者が読んではいけません」というのでは、「私たちは当事者の目を盗んで差別を楽しんでるんですよ!」という意味になってしまいます。

「ストレート男性中心社会が女性に対して横暴だから、少女がゲイを差別するのも当たり前」というのでは、少女による虐待の連鎖を大人の女性が許可したという意味になってしまいます。

ここにあるのは、大人の女性の責任逃れです。社会学者として学生を教導すべき立場の者たちが「差別も虐待も私たちのせいではないので、仕方ないですよ」と云っているのです。

この場合、正しい指摘は「ストレート男性中心社会は『男同士は異常だ』という偏見を克服してください。そしてそれを少女たちに教えてやってください。フェミニズムは自分で話を理解することができず、少女を人権教育することもできません。ごめんなさい」です。

それはそれで結構な話ですが、当面の対応としては、あくまで書いちゃった同人自身が「ごめんなさい。今では気をつけていますから規制しないでください」というべき話です。

あるいは憲法に保障された権利に基づいて「どのような表現も自由です。創作物に現実社会の倫理を反映させる義務はありません。謝罪する必要も自粛する必要もありません」と明確にクレームし返すべき話です。

少なくとも「仕方ないじゃん」で済ませる話ではありません。

なお、ここで「編集者には同人出身の女性もいます!」と云えば、その人々には配慮できるのに、おなじ同人出身者が「仕方ないじゃん」と云う、という意味になります。

ということは、男性が経営する企業に入社して教育してもらった女性は大丈夫だが、女だけでやってる同人は何をしでかすか分からない。クレームされた時も態度が悪い。

だから、やっぱり男のほうがえらいから、時々男性目線で女の仕事を点検してやったほうがいいぜという話になってしまいます。

実際の編集員になれたわけでもないのに、編集の仕事に詳しいような振りをするのは控えましょう。「そんなの当たり前じゃん」と云った時、「だから何ですか?」と聞き返されたら何と答えるつもりでしたか?

2016/06/29

他人の人権運動に便乗するのはやめましょう。

【1.自由とは他人に依存しないことです】

身体障碍者が「私は『この何々め』と怒鳴られながら、ひどく殴られました。名指した時点で差別です。差別心を助長・増長させるような単語は、もう誰も使わないでください」

と要望している横で、「当事者が差別用語を使ってるから、私たちも『ホモ』ってゆってもいいじゃないですか~~!」というのは、ぜんぜん筋が違います。目的も違います。

「自分が面白がりたいから」という理由で使った言葉に、他人から「不快である」と云われた時は、自分自身の責任において「なぜ自分は他人を不快にする言葉をわざと使い続けたいのか」を説明できなければなりません。身体障碍者は関係ありません。ゲイ当事者も関係ありません。

いや、同人全員ではなく、たま~~に、そういう甘ったれた発想になっちゃう人がいるのです。自由という言葉を勘違いしているのです。

自由とは他人に依存しないことです。どこにでもモグリ込む権利ではありません。こういうことは、気づいた人からやめるのがいいです。

「法律で禁止してはいけなーーい!」と叫ぶ人ほど、自分で自分を抑え、舵取りする必要があります。

「みんな」という勢いに流されてはいけないのです。

とくに、1980年代の二次創作者は、二次創作することと、コミケという群れに加わることがイコールだったので、ついつい他人を指さして「みんなやってるじゃないですか~~。あの人たちも云ってるじゃないですか~~」と云ってしまう癖がついています。

いまだに「みんなで渡れば怖くない」と信じているのです。若い人は、引きずられないように注意してください。

【2.ゲイは弱者同士の連帯が嫌いです】

ゲイプライド運動というのは、歴史も古く、規模も世界的で、わりに強力なので、他から寄りかかられることが多く、ゲイの中には、ありていに云って、迷惑に感じている人もいます。

それでも連帯させてほしいという時は、自分の都合で彼らを利用させてほしいということですから、せめて礼儀をわきまえましょう。してはいけない質問・云ってはいけないジョークくらい、先にわきまえておきましょう。

パロディ同人は、1980年代以来、新宿二丁目へ押しかけて、失礼な質問をしたという女が、絶対にコミケ関係者ではないことを証明できた場合のみ、または、きっちり謝罪して「よし」と云って頂けた場合のみ、「性的マイノリティの皆さんと『自己表現の自由』のために共闘する用意があります」と云うことが可能です。

この場合、彼らから「ではよろしくお願いします」という返事をもらえない限り、勝手に連帯できたつもりになって「私にはホモのお友達がいるのよ!」と自慢してはいけません。

【3.ゲイが最も恐れること】

彼らが最も恐れるのは、ストレート女性がストレート男性に向かって「私にはホモのお友達がいるのよ! あんたなんか襲ってもらっちゃうんだから!」と脅すことです。

それによって、彼らが迫害されるからです。

女性は本能的に、自分の代わりに男性を「けしかけ」、男同士を闘わせようとするものです。もともとBLというのも、そういう動機によって出来ています。

とくに二次創作は「あの有名なキャラクターが私のために働いてくれる(=私は女王様)」という気分を生みやすいので、この点ではたいへん危険です。

【4.多くの同人が約束を守っています】

長いこと、プロとパロが混同されて来たので、市販BL雑誌を読み、テレビで「ミスターレディ」などの存在を知っただけで、新宿二丁目へ行ってみようと思っちゃった人を、ゲイ側が「ああいう女はコミケから来たんだ」と思った可能性はあります。

でも、コミケをはじめとする同人誌即売会の参加者の間では「絶対に本物を怒らせるな」という上意下達がなされていた時代があり、古い人であればあるほど、その約束を守っています。新宿二丁目へ行かないことは基本中の基本です。

だから、若いパロディ同人でも、先輩から注意事項を賜った人は、約束を守っている可能性が高いです。

当然ながら、その反対の人もいます。勝手に個人参加して、なにも覚えないまま出てっちゃった人。

自分がどのグループに属するのか、自分の立場をわきまえた上で、ゲイに会いに行きましょう。

【5.それではバカッターです】

どんな案件でも「訴えられたら負ける」と思うなら、そのまんまツイッターにアップロードすべきではありません。

ツイートは「つぶやく」という意味なので、ついつい本当に独り言を云っている気分になりがちですが、実際には「書いて、アップロードする」ということを、わざわざやっているわけです。

つまり世界へ向かって「私は訴えられたら負けるようなことをしています」と自白したという意味です。バカッターと同じです。しかも「どうせ奴らが訴えるわけないから安心だけど♪」と高をくくっていることを意味します。


2016/06/28

1951年、木下恵介『カルメン故郷に帰る』松竹

皆様、どうかこの絵巻物をいついつまでもお忘れなく、輝かしき思い出の一頁におしたためおき願います。バックオーラ~~イ♪

撮影:楠田浩之、音楽:木下忠司・黛敏郎、衣装:浜野庄太郎、衣装提供:高島屋

木下映画の真骨頂、でよろしゅうございますね?

じつは『善魔』を拝見した時、「木下映画って面白いのか……?(汗)」と思ったんですけれども、これはよく分かりました。 

すべての場面に目が細くなってしまったことです。浅間山が自然美なら、女体もまた「美しき天然」でした。1951年。日本のアプレゲール女子はこんなに元気で可愛らしかったのです。貴重な記録かと思われます。

日本初のカラー作品だそうで、まずはカメラがほぼ360度まわります。グルーーーーッと景色が一周して、きたかるゐざわの爽快な青空が目にも心にも沁みることです。

そこへ帰ってくる極彩色のお嬢さん達は、にくたいのしゅたいせいをかくりつし過ぎちゃったみたいです。

戦後の男たちがオロオロしてる横で、若い女が舶来品をどんどん取り入れて、キラキラ輝いていく。映画監督のおじさん達も嬉しくて仕方がなかったのでしょうね。

もちろん「田舎町に都会の女が新風を運んできて、一騒動」という物語。かるくシニカルなフランスふう喜劇。日本人が全力で欧米に憧れていられた時代の、ヒーローなき世直し。

脚本も木下監督で、ナチュラルな台詞の掛け合いが素晴らしいです。笠智衆が絶好調。カルメンさんは最後までカルメンさんでした。

都会の女といっても、生まれながらの宮さまや安城家のお嬢様などではないわけで、根が田舎で走り回っていた子ですから、はすっぱなわけです。威勢がよいのです。そこがいいのです。

ミュージカル映画の要素もあって、振り付けもビックリするほど大胆です。ヒロイン2人の体の線が本当にきれいなので、とても楽しく拝見できます。

カルメンはもちろん芸名で、仕事仲間を連れて休暇中に帰郷するんですけれども、この友達がまたすっごく可愛い女性なのです。

哀愁を帯びた日本的メロディーでお遊戯する小学生たちも、素で可愛いです。なぜ裸足なのか。

父と娘、男と女、旧と新、都会と大自然、「聖職」と世俗の娯楽、「目の毒」ということもある健常者と障碍者、戦後の平和と戦争の記憶、「芸術」の二義性。

さまざま対比のいずれにも、善・悪の価値判断を与えず、すべてを丁寧に、大胆なようで節度をもって描き出す監督の手際を、晴れたる空と浅間山という美しき天然が見おろしているのでした。徹底した世俗描写が突き抜けて、聖性を帯びたといったところでしょうか。

キーパーソンは笠智衆の校長先生で、彼の心の眼が「芸術」の本性をしっかりと見抜いたことから話が急展開するのでした。個人的には、カルメンさんのお姉さんが共感度高いです。自分は村で地道に暮らしてるんだけど、少しだけ外の世界で働いたこともあって、妹の自由を応援してるんですね。

そうだ、佐田啓二が出てました。村の青年教員役。この純朴さに比べると、森雅之はいかにもすれっからした都会の中年男ですね。そこがいいんですが。(今回は出てないです。)

その佐田の長い手足を活かして、最後の最後に木下監督らしい要素が見られたかと思います。

じつはカルメンさんの誇張した女性性と、コメディの雰囲気から『ラ・カージュ・オ・フォール』や『プリシラ号の冒険』を思い出したんですけれども、あるいはこの映画も鮮やかな六色虹旗を掲げる皆様お気に入りの一本でしょうか。

2016/06/28

日本は東京ではありません。

東京都では、子どもの遊ぶ声を騒音として認定することにして、保育園などが完全防音の対策を進めているそうです。

その話を聞くと「日本おかしいよーー!」って云っちゃう人もあることです。

東京と日本はイコールではありません。東京がおかしいだけです。いやなら東京に住むことをやめればいいです。一極集中が緩和されます。

2016/06/27

1981年11月、降旗康男『駅 STATION』

デジタル社会の未来と、市場分析は専門家におまかせ致しまして、アナログ時代を懐かしむ映画鑑賞会企画。沖のカモメに深酒させて、主と朝寝がしてみたい。お酒はぬるめの燗がようございます。さて。



流れ流れて吹雪の下で、義理に駆られて38口径の出入り。

製作:田中壽一、脚本:倉本聡、撮影:木村大作、音楽:宇崎竜童、編曲:朝川朋之

雪国に馴染みすぎたスタッフが描く、その後の健さん。

物語の骨格は、仁侠映画とそんなに違わないのです。それもシリーズが進んで高倉自身が歳くってからの。寄せ場帰りの中年が、周囲からは慕われているのに心の居場所がない。大事なものを失くしてしまった後の人生。

だいたいの線で、そういうのと同じプロットが、倉本の手で現代の社会へ織り込まれているのです。台詞ではなく、目の芝居が多く、やっぱり脚本と演出(監督)が肝胆相照らす如くです。

雪に包まれる駅で深刻そうな男女の姿から入りますので、本当に最初から最後までメロドラマだったらどうしようと変な不安を覚えつつ。でも、意外に早く話が動きます。極道ではございません。キャスティングのトリは池部さんですが、同行は致しません。

長門裕之とぶん殴りあってた兄ちゃんが、こんなにいい芝居をするようになりましたというところをひたすら拝見するのです。背景は本物の北海道の大自然。連絡船は滅多に出ません。天気暗澹として波高し。

丁寧にロケハンして、ものすごく遠くから望遠で撮っております。それと極端なアップが切り替わるので、撮影の段取りも大変だったなと、妙な心配をすることです。

任侠シリーズはスタジオ撮影していたわけですけれども、網走シリーズはロケやってたわけで、その集大成と云えるのかもしれません。音のモンタージュが『網走番外地』1本目とよく似ておりました。

事件としては解決するんだけれども、それでハッピーエンドではなく、それによって主人公の心に起こる変化を追う、物語ともいえない物語なので、あらすじは云ってしまわないほうがいいと思われます。

宇崎竜童の楽曲は、ビックリするほどクラシカルでした。根津甚八と烏丸せつ子の兄妹が1980年代の若者らしくて良かったです。女は怖いです。

池部さんは、ほんと云うと芝居があんまり上手くないのですが、一度見たら忘れられない魅力的なお顔で、スター性というものなのでしょう。相変わらずヘヴィスモーカーで、肌荒れもたぶん煙草のせいですが、長生きなさったのだから分からないものです。

「下町の太陽」の演技力はズバ抜けて、高倉健がすっかり乗せられて寛いでおりました。

宇崎が音楽担当のせいかどうか、NHKなどの協力も仰いで当時流行した歌謡曲が劇中歌として多数使用されており、自分自身の人生まで振り返らされることです。

沖のカモメに深酒させて、秘密を打ち明けないまま深まっていく、樺太まで聞こえるほどの大人の恋は、自分も大人になってから見るのがいいです。昔の男を更生させてやりたい気もするし、ほかに当てができたから厄介払いしたい気もするし、それじゃ不憫だから逃がしてやりたい気もするし。

揺れる女心が生む身勝手な理屈は、いつもあまり良い結果を生みません。

なお、武田 鉄矢がうらやましいです。

2016/06/27

ジェイムズくん。

「野生化した人工知能が選挙権を要求してくる未来があり得る」という話を聞いたもんですから、とっさにテレビドラマ『相棒』のジェイムズくんを連想したんですけれども。どうもね。

ジェイムズくんというと、黒髪で片目を隠した吝嗇な青年の印象しか浮かんで来ないタイプでございます。

どケチ虫な人工知能が国家予算の使い方に難癖つけて、選挙権どころか立候補してきたら、どうしようかなァ……。

なお、1980年代前半の漫画の話をしろと云われれば、青池保子と和田慎二にたいへん楽しませてもらった。大きな恩義があると思っている者です。

2016/06/24

1977年、篠田正浩『はなれ瞽女おりん』東宝

製作:表現社、原作:水上勉、脚本:長谷川慶次・篠田正浩、撮影:宮川一夫、音楽:武満徹

芸術祭参加作品。タイトルから予想される通りの哀しいお話ですが、水上文学完全映像化という品格を保っております。

瞽女(ごぜ)は盲目の三味線芸人で、北陸の村落共同体の中で一定の尊敬を得ており、立派な組織と家屋があって、女だけの共同生活を送っています。文明開化の世の中ですが、照明を点ける必要がないので、時計の音だけが響く室内は薄暗いです。

阿弥陀仏を信仰しつつ、神さまと三々九度を交わして結婚したと称し、現実の男性と肉体関係を持ってしまうと、秩序を乱した者として組織を追われ、「はなれ瞽女」となります。

そうすると「門付け」をして、食糧などを得ては、鍵のかかっていないお堂などを見つけて、夜露をしのぐ。

物乞いの一種ではありますが、村人からは「瞽女さま」と呼ばれ、ひどい暴力を受けたり、罵倒されたりという場面はありません。いわゆる差別用語は瞽女たちの自称として使用されています。いずれにせよ、そこだけをあげつらって非難すべき作品でもありません。

ただし、結局は春をひさぐことにもなるのを美化して描いております。が、編集が篠田流にスパッと切り上げるので、描写はしつこくありません。

よほどラディカルフェミニズム的な嫌悪感に捉われるのでない限り、男性の手になる純文学の映像化として、女性映画・反戦映画の到達点として、美しい情緒をもって見ることができるかと思われます。

純文学って、成人男性が成人男性に読んでもらうつもりで書いたものですから、本来は勉強のためといっても中高生(とくに女の子)に読ませるものじゃないのです。男嫌いになるに決まっております。

でも、戦争がなければ、貧しいなりに幸せな家庭を築くことができたはずの人々なのです。鋭い社会批判と人間存在への愛惜が籠められ、映像作家は文芸作家の故郷を慕う心に最大の尊敬を捧げている。そういう作品です。

映画としては、篠田流・映像と音の絶賛モンタージュ祭りになっておりまして、あらゆる技法が投入されているので、アニメを含めて映像作家を志す人は必見だと思われます。

盲目の人の世界観を示すために、楽曲ではない「音」がすごく強調されているのが印象的です。

ストーリーは、ヒロインの幼い頃から最期までを描いた一代記で、子役が可愛いです。いくつか思いがけない事件が重なって、早い段階で張られていた伏線が回収されていく、サスペンスの一種なので、あらすじは云ってしまわないほうがいいかと思われます。

ラストは、カラスの群れで象徴するだけでも充分だったような気もしますが、ここまで見せないと観客に通じないという「配慮」だったのかもしれません。この監督は以前にも難解という理由でお蔵入りをくらっておりますし。

なによりも北陸の風景を見る映画ではあって、建物も文化財指定。よくロケハンしたなァ……と溜息が出ることです。スタッフの中には、ロケ隊の世話をする役というのもあるわけですが、本当に大変だったろうと思います。

民間伝承の伝統芸能がいくつも登場するのも印象的で、記録映画としての価値も重要でしょう。

そして、岩下志麻の演技は超絶技巧と云いたいまでに自然でした。

何人もの男と関わってきたと云いながら、学問のない女性のあどけない表情を維持し続けるのです。原田芳雄がいい男でいい男でいい男ですが、こちらも全力で純情一途なのでした。

というわけで基本的にはロマンス映画です。

吹雪が流れ、雨がしたたる寒々しい北陸の大自然の片隅に小さく置かれた寂しげな人物たち。本来、映画の画面からは伝わるはずのない、寄せ合った人肌の温もりが、かえって伝わって参ります。

佐伯彰一も富山に心を置いて来た人でしたが、北陸の故郷を思う人の心には、独特の湿った重みがあるようにも思われます。それはやっぱり、雪の感触なのかもしれません。

2016/06/23

BLは今でもジェンダー論です。

「BLはジェンダーとか関係なくって、ただのビジネスよ」という声があります。

そう云ってしまう女性が現れたということ自体が研究材料になり得るということは、分かっていないようです。

【購読者が存在する理由】

男性中心企業が「BLを売ってやるぜ」と思うことができるのは、買ってくれる女性が存在するからです。つまり女性がお金を持っているからです。なぜでしょうか? 女性が社会進出できたからです。

女性が社会進出できたのはなぜでしょうか? ビジネスでしょうか? いいえ。男性中心社会は今なお女性を男性以上の戦力として認めていません。

事実として腕力が低く、化粧室などの増設コストが掛かり、周産期の休暇も必要になるという、割高な人員でしかなく、まったくビジネスライクではありません。

にもかかわらず進出できたのは、女性自身がそれをしつっっこく訴えて来たからです。フェミニズムの先生たちが、政治家も学者も頑張ったからです。

ほんと云うと、真珠を採ったり野菜を売ったりして自活する女性は、前近代から存在しました。男に混じって泥にまみれて「ヨイトマケ」で息子を大学へ入れたという歌もある。

でも、彼女たちには学がなく、小説や長編漫画を書いて入稿することはできなかった。それを読んで楽しむこともできなかった。

義務教育以上の進学を認められ、その学力を元に創作物を仕上げて、同世代の女性に購読してもらうことのできた女性が「私はフェミとは関係ないわ」ということはできません。

個人的にも、フェミニズムを標榜する先生たちが、余計なこと・的外れなことを言い過ぎたので、同人が迷惑したとは思いますが、それとは別に、女性が社会進出でき、完全に男性と肩を並べたつもりになって「ジェンダーとか関係ない。ただのビジネス」とまで云えるようになったのは、少女が何もしなかったからではありません。

少女たちが上京し、大学へ通い、就職できるように、政府と社会へ働きかけてくれた先輩たちがいたからです。

【ジェンダー論とは】

そもそも、ジェンダーというのは「文化的に規定された性」のことで、女性の場合は「生まれつき頭が悪く、根性が卑劣なので社会に出すには相応しくないから家事労働が最適」というのが、規定された性です。

でも、それは男性が自分の都合で決めたことであり、後天的なものなので、克服することが可能だというのが、ジェンダー論です。単に性別という意味ではないのです。

この考え方なくして、女性が社会進出することはできませんでした。二十四年組だって、そもそも漫画を描くことを認められず、強制的に結婚させられていたら、才能を発揮することもできなかったのです。

「女だってやれば出来る」と考えることができることそのものが、ジェンダー論です。

BLに限らず、女性が社会に出て行う全てのことは、ジェンダー論のお蔭をこうむっています。

にもかかわらず、女性はいまだに「二等兵」あつかいに悩んでいる。賃金格差は是正されない。出版界は、いまだに「女性が活躍できる職場ランキング」に入って来ない。

同人出身女性が編集者になっていると、我がことのように自慢しても、彼女たちは重役にはなれていません。社長にも抜擢されない。本人たちが結婚すべきかどうかと悩み続けている。

創作者はアドバイスと称する命令に泣かされている。読者は編集者の偏見によって同じ種類の作品しか売り出されないのを不満に思っている。怪我させられたくないと怯えている。

【懐かしき即売会】

同人活動の経験者が「BLは平等」と本気で思ってしまうのは、同人誌即売会がその路線だったからです。

とくに昔は、男の日・女の日に分かれておらず、おなじ会場でなごやかに共存していました。男性同人というのは、自分自身も読んだり書いたりすることの一番好きな文学青年の一種にはちがいなく、女性がいわゆる二次創作やっているのを知りながら、その髪をつかんで会場外へ引きずり出すなんてことをして来なかった。

女性は同人誌即売会にいるかぎり、完全に平等、または女性上位の社会が来たかのように感じることができたのです。

外の世界では華やかな女性が「アッシー、メッシー」と云っていた時代に、「おくて」を自認する同人女性も、いい気分になることができたのです。

だからこそ、そこが懐かしくてたまらないのです。

2016/06/23

他人の商売をつぶしたがるよりも、本物の弱者に配慮しましょう。

まず、世の中には、本当に性的な創作物が苦手で、BLも読めないという人がいます。

PTSDを刺激され、頭痛・めまい・嘔吐感に悩まされるという人が、本当にいます。

でも彼(女)たちだって、好きなアニメキャラクターの登場する二次創作を読んでみたいと思ってもいいですし、美少年が大勢登場するお話を読んでみたいと思ってもよいことです。美少年・美青年は好きだが、下半身の話は困るという人は、本当にいるのです。

女性とは限りません。二十四年組が盛んだった時代から、少女漫画に分類されていた美少年漫画を好む男性も存在したことです。

さらに1990年代以来、すでに御承知のように、少年漫画の絵柄が女性化しておりますから、それを読んで育ったゲイ青年の中には、田亀・戎橋のようなゲイ漫画をオールドファッションに感じ、女性が描いたBLのほうが好きだという人もいる可能性があります。

しかも彼らは、我がことのように感じながら読むはずですから、あまり過激な展開は好まない。

だから、アニパロといっても性的でない青春コメディのような作品があっても良いのです。BLといっても「告白できないまま卒業してしまったが、良い思い出だ」という程度の物語があっても良いのです。

1970年代に萩尾望都や木原敏江が描いていたのは、その程度のものでした。そういう古い作品を自分で探して読んでみてもいいし、出版社が再版してくれてもいいし、新人が描いてくれれば、オールドファンも喜んで、市場が広がるかもしれませんね。

【1980年代ふう過激BLにはついて行けない】

こんな声もあります。なぜでしょうか? 1980年代ふう過激BLが現在の主流だからだと考えることができますね。

これは、1990年代の不況下に、出版社が1980年代に確立された価値観を取り込むことで首の皮一枚つないだことによります。

じつは、バブル景気の象徴と思われている巨大ディスコ「ジュリアナ東京」というのも、1990年代の開設です。国際経済的にはバブルが崩壊した後です。

1980年代に女性の自由と称して露出的な服装や「ディスコ」で夜遊びすることが流行した。不景気の影が見えてきてから、その「バブルっぽさ」自体が商品化されたわけです。

だから、じつはあれもチャンレジ精神をなくし、ステレオタイプを利用する、デフレマインド商法の一つだったのです。

そして、一見すると羽根扇を廻して踊るお姉さんたちとは対極に位置する、冴えない「女子」の心理的逃避場所と思われがちなBLも、同様の商品として、それも明確に成人向けを意図して、戦略的に展開されたのです。出版社のおじさん達によって。

じつは1992年に、1974年以前の出生者が全員18歳以上に達したわけです。この世代には年間出生数200万人超えを誇る第二次ベビーブーマーが含まれています。

そして、この年に角川書店が青春小説文庫からBL系統の作品を切り離しました。

この当時、女性団体の呼びかけによって男性向け漫画の有害図書指定運動が起きていたので、BLも「やばい」と思ってトカゲの尻尾切りした……のではなく、独立採算の見込みがあるものとして、新しい文庫を設立したのです。

つまり、事実上「成人向けBL」という大市場が開けたことを見越した営業戦略だったのです。さすが角川。

で、他社も成人男性向けからBLにシフトしたのです。

「女性は暴力の実行力がない」という理由と、これからの時代は女性の自由を妨げてはいけないという、いわゆる弱者特権が存分に利用されたのです。

世の中には、したり顔に「BLはジェンダーとか関係なくて、ただのビジネスよ」なんて云う人もいますが、違います。

BLは、ジェンダーを利用したビジネスです。

1980年代に「同人やっていた」少女が、1990年代に成人したので、プロ漫画家となり、男性編集者がついて、成人向けの描き方を指導したというのが、だいたいの順序です。

市販BLは、最初から成人向けの意図を持っていたから、それなりの内容を備えていたのです。

それを明確に成人指定すると「女性は」恥ずかしがって買ってくれなくなるというのが、少し前に年齢指定の話が出た時の出版界の反論でしたね。つまり、プロデュースしていたのは男性です。

で、それが広く市販されたから「BL=過激」というステレオタイプが成立したわけです。だから「帯がひどい」なんて話も出た。男性向けの煽り文句とまるで同じだという声も出た。当たり前です。

でも、「そればかりでは困る」という少数派が、わざわざ声を挙げているのです。まさに「女性の、女性による、女性のためのソフトBL」というものを望む声がある。

そういう話をしている時に、自分のことしか考えない女性もまた、いるものです。

【被害妄想クレーム】

「市販雑誌でエロを読みたがるなんて変よ!」って、急に怒り出す。

何を勘違いしているのでしょうか?

誰も「エロ」を読みたい人の話なんてしていません。PTSDに悩んでいるので読みたくないという虐待被害者の話をしているのです。

「でも、コミケの客はみんなエロ目当てだよ!」という声もあります。何を勘違いしているのでしょうか?

コミケへ行けば欲しい物が手に入るという人は、コミケへ行って、楽しくやれば良いことです。でも行っても欲しい物がないので困っているという人の話をしているのです。

まして、お金がなくて上京できない人、体調不良・身体障碍などでイベントに参加しにくい人は、一般書店・通販が頼りです。

そういう人々も、主流の過激作品で満足できるなら、通販でいいわけです。

でも「過激じゃないものが欲しいのに売っていない」と云って嘆いている。そういう人が、どんなに少数でも、ちゃんと存在しているのです。

クレーマーさんは、条件の不利な人々、希望がかなえられなくて寂しい思いをしている人々、誰からも顧みられない弱者、味方の少ないマイノリティのことを考えてあげたことがないのでしょうか? 

【他人の商売をつぶしたい】

じつはクレーマーさんは、自分の過激同人誌が売れなくなると困るので、市販雑誌が過激化するのを、つぶしてやろうと思ったのです。

勘違いの背景にあるものが重要なわけで、自分だけ得をしようと思ったのです。本人は自覚していません。「私は同人全体のためを思って」とか考えています。

でも、本当に同人のためなら「みんな、少し頑張ってプラトニックも描けば、売上2倍だよ!」というだけのことです。また、すでに「エロ」にはベテランがいるので、私は違うもので売り出したいなという若手にも希望を与えることができます。

そこまで思い至らない人は、自分のことしか考えていない人です。じつは現役出展者ではなく、バブル時代に取りっぱぐれたカネのことを思い出しちゃったのです。

「同人を裏切ってプロになった奴がいたから、私の売上が落ちた」という逆恨みを抱えているので、市販雑誌が自分と似たような過激作品を掲載することが許せないのです。

こういう人の頭の中では、「同人=自発的に草の根コミュニケーションを発達させた善意の庶民」vs.「それを商業利用した出版社=悪の大企業」といった対立の構図ができ上がってしまっています。

だから「BLの根本は、戦前の男性作家が書き残した『衆道の契り』という伝説だ」と指摘すると、顔色を変えて「少女の自発よ! 同人が全てに先んじているのよ!」って云っちゃいます。

そして「だって私は明治時代の男性小説なんか読んだことがなくって、昭和の女流漫画を読んでアニパロに目覚めたんですもの!」とか云っちゃいます。

でも、もうこの時点でダメです。アニメ好き少女の自発ではなく、すでに成人していたプロ漫画家たちから影響を受けたってことですから。

しかも、その昭和のプロ女流漫画作品の中に森鴎外『ヴィタ・セクスアリス』の名前が挙げられていることは、読んだ人ならみんな知ってます。つまり自分自身が二十四年組をちゃんと読んでいないのです。

いきなり「アニパロ」を読んで、その後もアニパロしか読んだことがない。その元祖は二十四年組だという噂だけ聞かされて「どうせみんなエロだ」と早とちりした。それっきり、自分の好きなもの以外の存在が目に入らない。だから関係性を理解できない。

だから「また昔の二十四年組のような作品を読みたいですね」という話を聞くと……

「待ってました! 私の出番ね! そんなにエロが読みたいなら売ってあげてもよくってよ!」と、しゃしゃり出てきてしまうのです。

(昔の不良在庫を抱えているので、売りたくてたまらないのです)

これは「BLはジェンダー論か」という話ではありません。「同人活動は少女の自発か、男性中心ビジネスの掌の上か」を見極めるという話です。

プロ漫画は、もちろん自費出版ではありません。彼女たちの作品に「巻頭カラー」というお墨つきを与えて売り出し、貢献度を認めて表彰したのは男性中心出版社です。

若い人は、まずは自分がコピーのコピーのコピーであることを自覚しましょう。先輩の先輩の先輩への尊敬の念を忘れないようにしましょう。

歴史を知ることは、恥ずかしいことではありません。現在の自分を否定されることでもありません。被害妄想を持つ必要はないのです。

【今はやってない人には説得力ないです】

そもそも「むかし同人やっていたから詳しいけど、同人てゆぅのはみんなエロなのよ」と云うなら、今でもそれを書いて生活費の足しにすればいいですね?

当時も今も、委託販売や通販を利用できるはずです。なぜ辞めてしまったのか。

「エロ」さえ書いていれば大丈夫、ではなかったからですね。

人気のある現役は、いろいろな本をよく読んでおり、専門知識が豊富です。絵も上手です。単なるアニメキャラクターのイメージ利用ではなく、完成した作品そのものが面白いから「続きを読みたい」というので、固定ファンがつくのです。

それに気づかずに、わざわざ後輩を誘って「組み合わせさえ書けばいいのよ。私が教えてあげる」なんて自慢したがる人こそ、真っ先に淘汰されるのです。

自分自身が「エロ」だけを求めてコミケに通えば、周囲が似たような人ばかりになるのは当たり前です。その人垣に埋もれて、その向こうにある世界が見えなかった。

実際には、同人界といえども、そのまま一般向けに通用する能力を備えた作者に人気がある。なめてかかれば、それなりの結果しか出ない。社会と法律の裏をかいて「うまく」やったつもりでも、案外、同人界も「ふつう」にできているものです。

これからの人は腹をくくってください。くくる前に、そもそも参加しないのがモアベターです。

【年上への反感】

「1980年代にはついて行けない」というのは、たんに創作物の好みではなく、バブル中年の差別意識に対する人間的な反感を示しているのかもしれません。

1990年代以来の市販品の過激化を、誰もが喜んでいるわけではなく、プロ創作者の中には男性編集者から「10ページに1回エロを書け」と命令されて泣いている人もあるそうです。

と云うと、バブル中年の中には「編集者の中には同人出身の女性もいる!」と自慢する人もあります。だったら、女性の編集者が、女性の創作者を泣かせているということです。

そして女性の読者も「BLにエロは要らない」という少数派の声を挙げているのに、同人出身の女性が、おなじ女性の要望をまったく聞いてくれないということです。

なぜでしょうか? 中年が優越感に駆られているからですね。

「とにかくあんた達は、私の云う通り、エロを読んでいればいいの! 女は一蓮托生! みんなで渡れば怖くない! そこんとこよろしく! なめんなよ!」と思っているからですね。でも、もう、1980年代ではありません。

【時代は変わるのです】

1980年代ってのは、30年も前です。流行が変わるに決まっています。

試しに考えてみると、1960年代には、過激な新左翼運動や、ゴーゴーと呼ばれる激しいダンスが流行しましたが、1980年代にティーンエイジャーだった人は、それを真似したいと思いましたか?

「もう古い」と感じたはずです。昔の過激というのは、かえって陳腐に感じられるものなのです。

とくに、昔の過激を知っている中年が業界通ぶって、えらそうな顔をしている時は、若い世代が「いつまでやってるつもり?」と、反感を持つのです。

当方は、最初から「BLは何々だと思われたくない」という声を拾った上で、話を始めております。なにごとも偏見にとらわれるのは良くない、少数意見にも柔軟に対応すべきだという話をしております。

そこへ「私の時代にはそんな奴いなかった!」というクレームを頂いても、意味がないのです。「だから今でもあり得ない」とは云えないからです。

若い世代が成長しつつあることに気づかない。新しい動きが起きつつあることに気づかない。

さらには、現代社会全体が多様性を尊重する方向に向かいつつあるから、「昔は云えなかった」という人々が勇気をふるい起こして、声を挙げるようになった。そういうことに気づかない。なぜか?

一時的に成功した人というのは、自分のやり方が正しかったと信じておりますから、その後、情報の更新がまったく出来ていないことがあるのです。

多くの家庭で、学校で、職場で、若い人が「お母さんの頃は」とか「俺の時代には」といった話にうんざりさせられていることでしょう。

クレーマーさん自身も、若い頃には母親のお説教にうんざりさせられていたはずですが、いつの間にか「私の云うことが聞けないの!?」という人間になっているものです。気をつけましょう。

2016/06/23

自分の都合と、社会問題を区別しましょう。

実写映画でも同人漫画でも、自分が見たり読んだり描いたりするぶんには「エロが目的」でもいいわけです。

でも、それを論評したり出版したりした時に「女のくせにこんなものを見るな」とか、「どうせ何を描いても下手なんだから、さっさと嫁に行け」とか云われたら?

「女だから何だって云うんですか!」とか、「結婚は女の義務ではありません!」というフェミニズム運動が発生するわけですね。

また、女性がアニメ雑誌を持って歩いているだけで、男性によって怪我をさせられるという話もあります。

アニパロ同人活動に反感を持つ男性が、すべてのアニメファン女性をパロディ同人と混同して、いやがらせをしているという解釈もありますが、もっと単純に、アニメに登場する「イケメン」に好意を持つ女性に実在男性が嫉妬しているのかもしれません。

いずれにせよ、逆に女性が男性アニメファンを突き飛ばすということが無いならば、これは女性だけが(体格が小さく、突き飛ばされやすいために)不利をこうむっているということです。

だから、ひとつ覚えに「同人はフェミとは別よ」と云うだけでは通用しない時もあるのです。ある程度までは、確かに「BLはフェミ、同人はフェミ、アニメファンはフェミ」なのです。

女性の自由を守るために「ほっといてください。わざと傷つけないでください」と主張することは、正しいフェミニズムです。

そのことと、女性のほうで天狗になって、男性に向かって「何もかも男のせいよ」と責任転嫁したり、彼らの趣味を「巨乳は変よ」と非難したり、「どうせ実在女性と付き合えないくせに」と自尊心・自己決定権を侵害することを混同するからいけないのです。

つまり自分自身が「フェミニズム」という言葉の意味をよく分かってないのがいけないのです。

【専守防衛、過剰防衛】

専守防衛と過剰防衛は違うのです。飛んできたミサイルを中間地点で迎撃するのは正当な権利ですが、相手の発射台めがけてこっちから空爆したら、先制攻撃になっちゃうのです。

こっちからおっぱじめたことになっちゃうのです。

BLに即して云うと、プロのファンが「先生がせっかく描いたのにヤマもオチもないなんて失礼な呼び方しないでください。自由な表現は女性の権利です」と云うのは正しいフェミニズムです。

でも男性の自由な表現の権利を損なうようなことを女性のほうから云えば、女性のほうから戦端を開いたことになっちゃうのです。

だから、パロディ派は「同人はフェミとは別よ」と云うのです。

ラディカルフェミニズムみたいな気分になって、男性に喧嘩を売らなくてもいいのよ、と云うのです。権利問題が露見しては困る以上、二次創作者は決定的に立場が弱いのです。でも分かってない人もいるわけです。

プロの権利を擁護するための話に、パロディ同人が過剰反応して、「同人はフェミじゃないのよ」といって顔を出せば、「パロディのくせに黙ってりゃいいのに」ということになるのです。

ややこしいのではありません。パロディ同人が勝手に勘違いしただけです。

勝手に勘違いしておいて「だからフェミじゃないって云ってるでしょ!」と勝手に怒り出すのです。時々そういう慌てんぼさんがいるのです。

もともと先輩たちが自虐した理由を分かっておらず、編集部がついてるとか思って強気になっているからです。

【他の団体の権利】

もしGLBT人権団体が「男だろうが、女だろうが、ストレートが同性愛を描いちゃいけないんだ」と云ってきたら、ストレート男女が協力して「そんなの表現の自由じゃん」と云うことになりますね?

また、警察や教育委員会が「ゲイだろうが、ストレートだろうが、ポルノを出版してはいけません」と云ってきたら、ゲイとストレートが協力して「そんなの表現の自由じゃん」と云うことになりますね?

また、性的虐待の後遺症に悩む人が「誰だろうが、そういう話をツイッターでしないでください。私はエロとかポルノとかいう文字を目にするだけでもいやなんですよ」と云ってきたら?

「そんなの同人の勝手じゃん」で済むかどうか? 「同人だけでミクシィでやれよ」って云われるかもしれませんね?

【被害妄想クレームの前に議題を確認しましょう】

つまり「いま、誰と誰が何について話し合っているか」が重要なのです。

横から首をつっこんで、「フェミじゃなくてエロですよ!」と自分の都合だけ云っても、何の役にも立たないのです。

そもそも、同人誌即売会で限定販売されている同人作品の多くが「過激」であることは、すでに多くの人が分かっているわけです。だからこそ、その一部が児童虐待に当たるのではないか? と問題視されているわけですね。

そこでもう一回「エロですよ!」と云っても、なんの意味もないのです。

同人というのは、カネとエロのためなら何でもやる連中だと思われりゃアウトです。

なのに、周囲が何の話をしているのか理解できず、口の利き方を知らない人には、独特の問題があります。

「だって欲しいんだもん!」と自分の都合だけ云えば、お母さん(またはその他の保護者)が「仕方ないねェ」と云って、何でも買ってくれるという育ち方をして来たのです。

2016/06/22

パロディ同人が自虐した意味を理解しましょう。

パロディ同人が自虐したのは著作権問題を隠蔽するためです。

まず最初に使われた言葉は「ヤマもオチもイミもない」を縮めたものでした。けれども、1998年以来、それが「トランスゲイである」という誤解が流布したために忌避されるようになりました。

入れ違うように登場した新しい造語は、PCのキーボード誤変換(の発想)に基づくものでした。当時はちょうど「Windows98」の普及期に当たっていたのです。

字義通りには確かに「傷んで食えなくなった女子」ですが、見方を変えれば「男ではありません」と云っているのです。つまり、トランスゲイ説を否定しているのです。

つまり「著作権問題の隠蔽を意図して自虐語を用いた同人は、トランスゲイだと思われたこともあるが、あくまで女性である」と云っているのです。

本物のトランス人権団体からクレームが来ると困るからです。本当にトランスだと思われて、福祉団体などが動き出してくれても困るからです。

榊原の本のタイトルを見て、同人は「しまった」と思ったはずです。せめて『耽美の時代』とか『ボーイズラブの系譜』とかにしといてほしかった。

この時点では、著作権問題が解消されたわけではありません。まだTPPは提案されておらず、誰も「二次創作を規制対象から外す」とは云ってくれていなかったからです。

それどころか、国際的ゲームソフトという著作権管理にひじょうに厳しい新たな鬼門が登場したこと、さらにたいへん有名な原作者によって二次創作の禁止が宣言されたことなどがあって、同人界は1980年代以上に著作権問題には敏感になっていたのです。

すでに出版業界ではボーイズラブという言葉が使用されており、それは市販品ですから「自由に買ったり読んだりしていいんです」というのは、確かに女性の権利です。

しかも、男性が社長をつとめる出版社が売ったものを買っただけなのですから、男性によって女性の権利が認められていると云える。出版社の大事なお客様であり、間接的に法人税の納入者でもある読者は、自虐する必要がないのです。

社会学者は、研究材料にしたければ「女性の間で一風変わった文庫が流行している」と研究材料にしてもいいし、評論家は批評文を書いてもいいし、全国新聞が書評欄に(取り上げたいと思えば)取り上げたっていいのです。

でも、二次創作は自由ではないのです。あくまで見つかっちゃ困るのです。

間抜けな社会学者・評論家によって「新時代の女性による勇気ある自己表現」などと持ち上げられ、新聞から注目されたり、テレビ取材が来るようじゃ困るのです。全滅しちまうのです。だから自虐し続ける必要があったのです。

これが分かってない人は「見つかっても大目に見てもらえる」とか、「編集部がなんとか」とか、甘ったれたことを考えている人です。

そういうわけですから、あなたがご自分のBL論にパロディ同人界の隠語を用いるのであれば、「恥ずかしいことではない」というのは「著作権侵害することは恥ずかしいことではない」という意味です。

「男性中心社会によって自尊心を欠損させられたことの埋め合わせだからやむを得ない(私に罪はない)」というのは、女性が男性漫画家の著作権を侵害することを男性に責任転嫁したということです。

「いや、そうじゃない。市販されているBL作品の論評をしているだけだ」というなら、あなたは、ただのBL読者です。

あなた自身の「自虐して同情を引きたい」という自己満足なんか、どうでもいいのです。

当方が指摘していることは「プロとパロを混同することは、プロにとっても、パロディ同人にとっても迷惑だ」ということです。

それとも自分が二十四年組や角川の文庫を好むことを自己弁護するために、パロディ同人を指さして「あの人たちもやってます!」と責任転嫁しますか?

自分の人権運動のために、他人の看板を横取りするのですか?

それがフェミニズムですか?

【混同さんの末路】

ところで、プロとパロを混同した中学生は何をするか?

自分の「同人誌」を宣伝するのです。注目されてはいけないという先輩たちの気持ちを理解できていないわけですから、やたらと同級生や後輩に声をかける。

「同人誌即売会に行こうよ」と誘う。「私が案内してあげる」と自慢する。すると、どうなるか?

「来年は私も出品してみよう」と思うお友達が、すっっごい勢いで増えるのです。そして自分自身が淘汰されるのです。赤字と不良在庫を抱えて撤退です。

先輩たちが自虐した理由を勘違いしていたから、本当に「組み合わせ」だけ描いていればいいと思っていた。

だから創作の技法が正しく身についていない。同人誌即売会という物理的に限定された会場から弾き出されて、より広い通販市場に挑戦しても太刀打ちできない。むろんプロにはなれない。

でも先輩たちは、本当のことを教えてくれないのです。「ヤマもオチもないって、そういう意味じゃないのよ」とは云ってくれないのです。なぜか?

にわかライバルが自滅してくれたほうが有難いからです。

だから「著作権裁判を回避するために自虐した上で、眼の肥えたお客様に飽きられないように最大限の努力をしなければならないのよ」とは教えてくれないのです。

【同人のジレンマ】

「プロと混同されて、社会学者・メディアによって『新時代の女性の自己表現』などと持ち上げられ、注目されるのは、告訴されやすくなってしまうので困る。しかし、混同した間抜けが客を呼んで来てくれた」

という、ものすごいジレンマを抱えてしまったのが既成の同人です。

だから「隠語は中学生たちが誤解している通り『組み合わせ』という意味のままにしておけばいい。なにもこっちから『じつは著作権問題です!』なんて云う必要はない。

でも、混同さん自身が『新時代の女性の自己表現』だと思って、人権運動を始めてしまい、メディア取材を受けるようじゃ困る。まして、ゲイと連帯したがるようじゃなお困る。人権問題ということになれば政治家・NPOが動き出す」と思うわけです。

つまり、話の見えているベテラン同人ほど、「ちゃんと説明してあげる」などと発言しないので、「にわか」さんによる「こういうの何々って云うんだって」という勘違いだけが一般社会に広まってしまったというのが、この業界なのです。

【少女は男装の麗人になりたかったのです】

子ども達が、本当に誰にも教わらない内に「同人誌」を仕上げて来たというならともかく、プロ漫画家の誰々から影響を受けたと自分で云ってしまう以上、彼女たちは、都会で一人暮らしする大人の女性に憧れたのです。

ホモのオッサンに憧れて、男性らしく薄毛や中年太りに悩みたかったのではありません。

だからこそ、新宿二丁目を訪れて、彼らの弟子にしてくださいと頭を下げたのではなく、指さして笑いものにしたのです。

「少女」は、男装の麗人みたいなカッコいい大人の女性になって、都会で一人暮らししたかったのです。その第一歩が、都会の即売イベントに参加し、売上金を手にして自活の道を得た気分になることだったのです。

もし、これを1990年代の成人女性が「男性社会に傷つけられ、女性自認に自信をなくした少女たちのやむを得ない所業」というふうに云ったのなら、最大の問題は、彼女たち自身が深いミソジニーにとらわれ、女性自認を自虐していたことです。

みずから都会で一人暮らしするカッコいい大人の女性のロールモデルになることができず、少女が韜晦し、非行化することを放置し、男性に対する被害者意識を強調することに耽溺して、みずからを甘やかしてしまったことだったのです。

本当に必要なのは、自活する女性が社会人として礼儀をわきまえて行動するという、新しい時代の倫理を確立することだったのです。

そのためにも「少女」が韜晦する真の理由が権利問題の回避であることを見抜くべきでした。

「少女」は結婚できないからグレていたのではなく、一人暮らしすることには誇りを持っていたんだけれども、その手段が法的問題を含んでいることには、さすがに大きな顔をできなかったのです。

だから、1990年代の時点で社会学者が二次創作の権利問題を認識できていれば、自活を望む女性が決して告訴されないように、政府に対して「パロディ創作を著作権法の特例として認めるべきです」という提言を成すことができたはずなのです。

やっておけば、今ごろ騒がなくても良かったのにねェ……。

2016/06/22

寺山修司の勘違いと、社会学者の自己満足。

まず、ここでいう「フェミニズム」とは誰のことかというと「私のことかしら?」と思う方です。より良い未来に向けて、それぞれに考えてくださればよろしいので、あわてて言い訳クレームなさる必要はございません。さて。



【寺山修司の勘違い】

かつて、寺山修司が竹宮恵子『風と木の詩』を一読して「少女の内面を表している」と評した。

端的には、これによって、いまで云うBLを読むのは少女に限られるというステレオタイプが成立したのでした。

そして「BLを読んでいる限り、まだ子どもだと見なされるから、誰の権利を侵害しても大目に見てもらえる」という不適切な自意識も生まれてしまったのです。

でも竹宮自身は、1950年2月生まれの26歳でした。早生まれですから、1949年生まれと同級生です。その同級生である団塊世代が第二次ベビーブームの(字義通り)生みの親になった後も、竹宮は独身でした。

ということは、当時の男性は、非婚女性=子どもと見なしたのです。

前衛詩人といえども、成人した女性が心身ともに男性に甘えずに自立して生きていくことを認めなかったのです。

本当は、当時から今に至るまで、フェミニズムはここを突っ込まなきゃいけないのです。永遠の少女などといって喜んでる場合じゃないのです。

フェミニズムのオバサン達が「だったら私も少女ですわ!」と云って、自分でウケちゃったもんだから、「何をしても大目に見てもらえる」という不適切な自意識が克服されるどころか、助長されちゃったのです。増長と云ってもいいでしょう。

でも、男と「やった」女でなければ成人として認められないのであれば、選挙権お返しせにゃなりません。就職もできません。児童に労働させてはいけないからです。

寺山的勘違いには、あと2つ指摘できることがあります。

【表現の自由と、読者批評】

力石徹に激越な弔辞を捧げた前衛詩人が、ひきつづき漫画表現の自由を最大限に尊重したいと思えば、すでに少女漫画として発表されてしまったものを「子どもに読ませるものじゃない」とは云いにくい。

まるで16歳の読者投稿作品かのように云っておく必要があったのです。

また、作品と作者のプロフィールを照らし合わせて深層心理を分析するというタイプの批評方法に批評家自身が飽きて、読者のほうの反応を探るという、社会学的批評が流行っていたらしいのです。

要するに、どっちも批評家側の都合です。

フェミの先生たちを含めた女性読者がそれに乗っかったなら、「少女」は寺山のおじさんに甘やかしてもらっただけです。

それが女性の「弱者特権」の本質です。まだ若くて可愛いから、ストレート男性から大目に見てもらえるのです。ゲイには通用しません。

【社会学者の自己満足】

特殊な漫画を売っていることで有名な「コミケ」の参加者に限っただけでも、1975年に高校生として参加した人は、1980年には成人しています。コミケは学校でもアイドルグループでもないのですから、成人したから、何年目だからといって卒業するわけではありません。

ベテランが上手に描いたものを出品し続けたから、それより若い人々が、アニメ流行の一環として飛びつき、真似をしただけであって、本来は大人が読み書きし、現実とは混同しないという約束を守るべきものである。

これを明言しておくべきだったのです。

実際には、社会学者・評論家といった人々が、1980年代非行文化の一種として、「社会構造に不満を抱えた少女たちによる自由な自己表現」として持ち上げてしまったので、当事者に「何をしても(母親がトラウマだからと云えば)大目に見てもらえる」という自意識を醸成してしまった。

それは本来、森茉莉や二十四年組などの創作者の本意ではなかったはずです。ましてアニメ製作・制作者の本意でもなかったはずです。

社会学者自身が、マルクス主義に染まっており、あたかも資本主義が打倒されて共産主義の社会が出現するように、男性中心社会が若い人々の手によって打倒されて女性中心主義の社会が出現するかのように思い描いてしまった。

子どもは神の使いであるという伝統的イメージ、学生運動・紅衛兵などの現世的イメージと混同し、若い人々による世直し・打ちこわし運動を希求してしまったという、大人における責任転嫁です。

自分自身のルサンチマンを基盤として、ユートピアを期待する宗教的情熱をともなったイデオロギーによって、学問が(まさに)左右される。日本の歴史学・社会学は、長いこと、この熱に浮かされていたのではなかったかと思います。

社会学者というのは、自分自身を「社会を観察し、研究する人だ」と思っていますから、自分自身の誤謬には気づきにくいものです。

そろそろ反省がなされるべき頃合だと思います。

2016/06/21

1977年10月、佐藤純彌『人間の証明』

キスミー、ママ。ハレルヤ!

原作:森村誠一、脚本:松山善三、撮影:姫田真左久、助監督:葛井克亮

読む前に見ました。敗戦の国の自然はなおも美しく、人々の復興は痛みに満ちていたのです。

「フランス象徴詩を日本へ紹介した西条八十」の象徴詩が、まずは原作全篇の象徴。

映画では冒頭から本職のブラック・イズ・ビューティフルなモデル女性たちが、もうひとつの象徴となって、華やかに舞い踊ります。

お衣装提供は寛斎スーパースタジオ。その陰で、戦後の混乱期に生じた小さな出会いと別れを追う1970年代の刑事たち。

1970年代には、1945年というのは、まだ30年前だったのです。まだ制作陣にも俳優にも観客にも、戦争の記憶が濃厚だったのです。

戦争が人間を狂わせるというのは森村誠一のメインテーマで、反戦という基調と、極限状態で起きる刺激的な事件を娯楽として描くという清濁あわせ飲んだ感が魅力かと思います。

なお、ホテルフロント役で原作者がゲスト出演していますが、えらい美男です(驚)

この時期のほかの映画を見ると、そろそろ戦争の記憶から抜け出して、少女アイドル歌謡の流れる新しい時代へ向けて走り出そうとしていた頃ですから、その一歩手前で、公民権運動を乗り越えた黒人俳優たちの協力を得て、ギリギリの一点において成立し得た、「あなたならどうする」と人間の良心を問う作品だったのかもしれません。

というと重いようですけれども、基本的には娯楽サスペンス。一ヶ月に及ぶニューヨークロケ敢行、カーチェイス付き。角川春樹がアメリカ志向だったことは明白で、70年代らしい洋画への憧れに満ちております。

音楽はたいへん大野雄二です。外人さんは室内へ入ったらまず帽子を取るはずなんですが、27分署の署長は演出でしょうか。

人種的違和感を払拭しきれなかった1970年代当時の日本にあって、のし上がって行く女性を描くという、二重に観客の反感を呼びやすいテーマなだけに、感情移入が大切で、佐藤さんには珍しいほど序盤のテンポを落としておりますが、ちゃんと切れ味のよい編集と両立させており、いくつかの事件がどうつながって行くのかと、先が楽しみな思いをもって、面白く見ることができます。

少しずつ「絵」が見えてくる構成は、原作が良いのでしょうけれども、俳優の質の違いを活かして、スリリングです。

他人を非難しても、自分を正当化することはできんぞ!

菊千代は立派なお父さんになりました。甘やかす母親が愚かなら、甘やかされることに甘んじる息子もアホだという親子関係の一面をよく捉えた脚本が良いです。

公募によったのだそうで、王道文芸作品を手がけて来たベテラン脚本家が選出されたということのようです。

豪邸は「セット」と云いつつ、3000万円(当時)を投じて建設した本物だそうで、やっぱ角川春樹はアホです。

(なお「そうで」という部分はDVD特典として拝見した劇場パンフレットによる裏話です。)

長門裕之はコキュの悲哀をたっぶり滲ませてしまいました。べらんめェを活かせる作品が撮れなくなったのは時代の趨勢ですが、残念ですね。彼は高倉健と殴りあいを演じていた頃が一番楽しかったのだろうと思います。

鶴田浩二は仁侠映画やってた中では一番小回りの効く人で、高倉健だと体格も顔も良すぎて画面を支配しすぎてしまうんですけれども、鶴田さんは元々あまり大柄な人じゃないので、ふつうの日本のおじさんを演じることができるのです。

今回は理知的な捜査本部長の役。物語を背負っているわけではなく、要所要所で的確な判断をくだして、お話を先に進めてくれる人。眼鏡を指先で直す仕草が印象的。

対するに松田優作は野性的な勘と手回しの良さで傑出した青年刑事。鶴田の静に対して動と云えるでしょう。腕の振りが小さいアクションシーンはリアリズム路線。新しい表現かもしれません。

つい五年くらい前まで、東映は「なんと詫びようかお袋に」と云いながら男の意地を通す映画を量産していたわけですが、これは女性があらゆる困難を乗り越えて「社会進出」し始めた時代に、やっぱり母親が子どもを捨ててはいかんよというお話ではあります。

同時に「キスミー」という突拍子もない手がかりから地道に犯人を割り出す日本の男たちの端正な仕事ぶりへの称賛でもあります。

が、佐藤監督は罪ある女性に充分な「花」を持たせたのでした。

やや気だるい主題歌が耳に沁みて、読後感ならぬ視聴後感はたいへん美しいものです。

反戦の描き方にも、いろいろあるのです。

2016/06/20

1970年9月、フライシャー、舛田『トラ!トラ!トラ!』

ワレ、キシュウニセイコウセリ。

監督:リチャード・フライシャー、舛田利雄、深作欣二 脚本:ラリー・フォレスター、小国英雄、菊島隆三  音楽:ジェリー・ゴールドスミス 撮影:チャールズ・ウィーラー、姫田真佐久

赤い灯、青い灯、栄の響き(のつもりで)。日本人なら見ておきましょう。航空機の出撃シーン数あれど、これほど美しいものはまたとありますまい。

いや、あってもいいんですけれども、随一に挙げたいです。しまいに眼が痛くなって涙が出ました。まばたきを忘れていたらしいです。

ひかりテレビで拝見した(内大臣と渥美清が登場する)日本公開版。興味深い裏話はウィキペさんに丸投げして(というか丸写しするわけにも参りませんので)、見た目を称賛するのが当方の基本スタンスです。

アメリカ人のお友達とは一緒には見られないってことはなく、冒頭には「1941年12月7日、米軍は日本軍による攻撃を受けた」と受身形で字幕が表示されるので、基本的にはアメリカ視点です。

まずは双方とも、上層部によって現場の指揮官が焦燥させられる様子を丁寧に描いております。

寄せ手である日本軍の将官たちが、いかに冷静で理知的で現状分析能力に長けていたか。防戦側の米軍将官たちが、いかに実直に責任を全うしようとしたか。

黄褐色の皮膚ににじむ脂汗。青い眼ににじむ怯え。出撃をひかえて、まるで遠足に行くかのように無邪気に心を沸かせる日本軍の若者たち。対する米軍の若者たちの、またいかにもアメリカ人らしいフランクさ。

太平洋を越えて変わらぬ男たちの純真さを、あざやかなカラー撮影が余すところなく捉えております。

戦争映画は軍隊を美化し、憧れを生んでしまうから良くないという見かたもできますし、すごくドライに云ってしまえば平和な時代の観客にとっての娯楽にすぎませんが、たとえ戦時中に撮られた「戦意高揚映画」と称される作品であってさえも、じつは反戦と恒久平和を願う気持ちが表現されているものです。

攻撃始まってからは、ほぼアメリカ側に視点を固定して、個々の将兵の感じた恐怖を、まざまざと伝えております。

ホワイトハウスの陰謀だ、アメリカ人気質だ、いや日本の官僚システムだ、いや人間共通の心理的弱点だ……後からいろいろ云うことはできますが、現場の将兵にあるのは、焼かれる苦痛だけです。

同時に、日本軍が旧式な計測器と肉眼で目標を補足し、攻撃する手際のあざやかさの描写は、日本人気質への驚嘆の念にあふれて、クローズアップをきかせ、観客みずからの手が操縦桿を握っているかのようです。航空機の風防の中をこれほど活写した作品も少なかろうと思われます。 

そして米軍の若者は独立心と勇気にあふれて、命令を待たずに機関銃に取りつき、あるいはスクランブルし、対する日本軍の若者は愛機が黒煙を上げると墜落地点を見定めて、迷うことなく舵を切るのでした。

空ゆかば散華する屍は永遠に弔わるべく、すべての死者は弔わるべく、どこの国の兵士だから死んでよいということはありません。

これは日米の観客が涙さしぐみ、二度と戦わないことを誓うための映画であることを信じます。

という大前提を云ったところで、映画としての面白さは、もちろん撮り方によるわけで、空撮と特撮がすばらしいです。航空機の姿がこれほど美しく、躍動的に撮られた作品もまた少ないだろうと思います。きれいに三機ずつ並んだ零戦の勇姿よ。

CGではありません。くり返します。CGではありません。いま万感の思いをこめて敬礼を送りましょう。そして「どうやって撮った?」って考えると冷や汗でます。四発の大型機の片輪による不時着は見ものです。

星条旗の上を日の丸が飛び、ハワイの青空に橙色の爆炎が挙がる。

連絡が行ってないから防戦側が唖然呆然となるわけで、断じて笑いごっちゃない場面なんですけれども、映画的演出が最高に痛快な効果を発揮したと云わざるを得ますまい。

しかも日本海軍史上最大の作戦が最大の皮肉となってしまった顛末を描く監督(と脚本)の手腕は怜悧を極めて、日米とも無駄な台詞は一切なく、煩瑣な感情表現はバッサリと切り捨てるのでした。

これはアメリカ映画界の資本力と機動力、日本の技術と美学が最高度に融合した幸福な一本であると思います。

惜しむらくは(云うまでもないでしょうが)日本側BGMで、ゴールドスミスの楽曲自体はいいんですけれども、赤煉瓦の軍令部で芸者あげて遊んでるみたいで困るです。武満には残ってほしかったです……

2016/06/17

1983年3月、勝間田具治・西崎義展『宇宙戦艦ヤマト 完結篇』

きみの故郷は、地球と呼ばれる。

脚本:山本英明・笠原和夫・山本暎一・舛田利雄・西崎義展、絵コンテ:白土武・遠藤政治、音楽:宮川泰・羽田健太郎、総作画監督:宇田川一彦、美術監督:勝又激、撮影監督:清水政夫、アソシエイト・プロデューサー:山本暎一、監督:勝間田具治・西崎義展、総監修:舛田利雄、ナレーター:仲代達矢

劇場版第4弾。沖田艦長、ご無事で何よりです。(敬礼)

他にも御都合主義なエピソードはぜんぶ西崎のせいにするとして、前半はそれとは別に「これが舛田の仕事か……?」とか、「笠原を連れて来たっていうほどの脚本じゃないよな……?」など、不安含みです。

が、開始後約1時間30分、ヤマト(まさかの)垂直方向に反転の後から、俄然良くなります。まばたきを許さない名演出・名場面続きとなります。

物語は地球の草創期までさかのぼって雄大なスケールで。もともと地球を愛し、地球を救うという話なんだから、正しい選択だと思います。

絵の良さは『永遠に』とは桁違いで、1980年から1983年に至る間のアニメ技術の進歩は凄まじいものだったようです。

いつにも増して美しいオープニングの宇宙空間以降、描画にも特殊演出にもこれ以上を求めません。手描きの時代ですしね。ヤマトが廻る~~。

(※ 同時期に公開された『クラッシャージョウ』でも巨艦の回頭シーンがあって、作画担当者がおかしくなって「コルドバが廻る~~」と繰り返していたって話のもじり)

今回のゲストキャラクターは少女ではありませんで、少し前に竹宮恵子原作『地球へ…』の劇場版アニメが公開されており、デスラーの仕草からしても、「耽美」とも呼ばれた美少年・美青年趣味の流行を取り入れたらしく思われます。この当時『パタリロ!』のアニメ版も東映がやってたんじゃなかったかな……。

が、このへんは、殿方がご無理をなさらなくてもよいように思われます。女流におまかせ遊ばせ。それはさておき。

舛田・笠原・仲代と来れば『二百三高地』みたいのをやりたかったんだなとは誰しも思うところで、西崎が手前でカネを出すという以上(裏でいろいろあったにしても)、返す言葉はありません。

音楽の使い方の良さも含めて、舛田はプロデューサーの要望によく応えたというべきで、そもそも第1作のとき、テレビシリーズを編集して劇場版に仕立て直すという仕事を引き受けているわけですから、この人も来るもの拒まぬプロ根性と、新しいことをやってみたがりの芸術家肌を両立させた、根っからの活動屋だったんだなと思われるところです。

創作家が似たような話を何回も作るのはよくあることで、ふつう圧倒的なデビュー作をひっさげてデビューするほどの人は、圧倒的に近い未発表作品を山ほど自宅に持ってます。それは要するに、同じテーマを掘り下げる作業である、ということはよくあります。

思えば仁侠映画もミステリーも同じことかもしれません。

西崎という人は、違う畑から博打というか殴りこみというか、急にアニメの世界に飛び込んで、ヤマトを作りながら創作活動そのものを覚えた人で、そう考えれば段々洗練されて来るのが分かるのです。

最初からこれをやりたかった。と、後になって云えるのです。

前作『永遠に』から引き続き、トリトン族とポセイドン族の印象が持ち込まれているような気もしますが、たぶん冨野由悠樹は表面的には鼻で笑いながら、内心で「やらせはせんぞぉ」と息巻いていたに違いないでしょう。

彼は活動屋がテレビをバカにしていた時代に、リミテッド方式が気に入らなくて虫プロを辞めたと云いつつ、まさか自分で銀行から融資を引っ張って来て好きなやり方で映画を創るってことをしてなかったわけで、その横で西崎は「映画と同じフィルムでテレビアニメを作れ。カネなら出す」って云っちゃった大馬鹿野郎だったわけで、これぞ素人の強み。

冨野は「しまった」って思ったんじゃないかと思います。

本篇へ戻ると、前半が歯がゆい感じがするのは、思うに、戦争映画と仁侠映画をやってきた人々ですから、SF設定には専門家(豊田有恒)がついてるんですけれども、彗星が近づいて来るという壮大なファンタジーとか、地球人と血を分けながらも違う進化の過程をたどって意思の疎通がむずかしくなった異星人、といった空想的な世界観をつかみ切れないのです。

ヤマトが強硬着陸して、敵の顔が見え、肉弾戦となってからは、急に全ての締まりが良くなります。人物の顔も良くなります。大事な「キャラクター」の最期には、これだけの尺を取りたいものです。

最初からこれをやりたかったとは云っても、最初から島にも、沖田さんにも、ヤマトという艦そのものにも、これほどの思い入れを持つこともできないわけで、あの紆余曲折があって、テレビシリーズ2も3もやって、ここまで来たという感動がある。

西崎の会議魔に振り回されて、たいへんな現場だったそうですけれども、だからこそ舛田(または勝間田)以下のスタッフには「実際にヤマトを動かして来たのは俺たちだ」という意地もあれば、愛着もある。

それが遺憾なく表現されたと思えばいいのだろうと思います。

なお、個人的には森雪が地上勤務してるのが好きじゃありませんで、真っ赤な首元のスカーフは第1シリーズの挿入歌を意識したものに違いなく、ファンサービスではあるのですが、やっぱり第一艦橋に乗り込んで、航法取っててほしいです。

彼女が小娘ぶって沖田さんに甘えるのではなく、きちんと敬礼するところも好きです。なおかつ、マリエ姿は可愛かったです。愛の戦い(=育児)は、たぶん彼女が戦闘班長ですね。

波音の残響を耳に、虚脱感の中で見る長いエピローグは、西崎の口頭指示によって絵コンテを起こしたものだそうで、辛口な実写ライク演出による圧倒的な感動の後では、陳腐な蛇足感ありありなわけで、要するに素人の感傷ですが、とにかく自分でカネを出している以上、西崎にはやる権利がある。彼自身がヤマトのファンだったわけですし。さらばわが青春の艦よ。

この素人の弱みをも、そのまま持ち続けた人が、こけつまろびつ、舛田や笠原を使っちゃった、これだけのものを作っちゃったというのは、やっぱりすごいことだったと思うのです。

そしてまた、絵を描く人が楽をすることを考えたら、これはできないわけで、実写(特撮)だったら模型が出来上がってしまえば「これをアオリで撮ろう」とか「回転させよう」とか、わりと簡単に構想できるわけですけども、それを一枚ずつぜんぶ絵で描くとなったら描画スタッフが「俺たちを殺す気か」ってなる。

でも、『クラッシャージョウ』も『幻魔大戦』も、ヤマトが確立した「実写ライクなアニメ」という話法を充分に意識していたわけであり、実写好きのプロデューサーと実写畑の監督によってアニメ制作現場がひっ掻き回された悪夢の記憶でもあるのかもしれませんが、でもやっぱり、その要求に応え得た日本のアニメーター達の執念の記録でもあると思われるのです。

いま一度、鑑賞する価値があり、もっと評価されて良い作品かと思われます。

さらにまた、逆に考えれば、現代のアニメは「ヤマトが打ち立てたリアリズム路線から、いかに脱却するか」がテーマなのかもしれません。

(参考:牧村康正・山田哲久『宇宙戦艦ヤマトを作った男 西崎義展の狂気』講談社)

2016/06/16

ノンセクシュアル同人がなすべきこと。

日本で最初のホームページが作られたのは、1995年です。

もし本当にアニパロ小説をビジネスとして確立するつもりなら、コミケ準備委員会の厚意に依存せず、自分で「ノベル・マーケット」を立ち上げることもできた。「まんだらけ」のような店を開くこともできた。いち早くパソコンの勉強をして、通販体制を整えることもできたのです。

せっかく大学へ行きながら、なにも勉強しなかったというのは、ひとえに自分の責任です。

母親が自分を甘やかして育てたから、私が甘えた人間になってしまったのは仕方がないというなら、自立を目指して学問を得るために実家を出た後も、自分で自分を甘やかし続けているのです。

重要なのは「ゲイは女の甘えを許さない」ということです。

彼らの役に立つことができる人というのは、医師や弁護士の資格を持ち、現場で修行を積んだ人。あるいは管理職として企業の福利厚生を担当し、自分の一存で同性カップルの配偶者控除を認めることができるといった人々です。

医師の国家試験合格者は女性のほうが多いという時代です。「女だから何もできない、させてもらえない」と云ってゲイに甘える時代は終わりました。

【ゲイのための空間を保障してあげましょう】

彼らは「どっこい生きている」という女性の、たまの気晴らしを禁止するほど、不寛容ではありません。

お言葉に甘えて「女性もどうぞ」と云ってくださるお店にお邪魔させて頂く時は、ごく普通に観客・飲食店の客としてのマナーを守り、出演者や店員さんに馴れなれしく個人的な質問をしたり、自分だけ特別扱いしてもらったといって店の外で吹聴したりしないように、心がけましょう。

間違っても「え~~っ!? どおしてダメなのお~~!?」とか叫んではいけません。ゲイは、おバカな少女ブリッコがきらいです。自分より若い女性たちからも、冷たい眼で見られていますので、気をつけましょう。

市販の雑誌や観光ガイドに「LGBT以外の人も楽しめるお店」という文章があるということは、そのように書いてないお店には、無理に首をつっこんではいけないということです。新宿二丁目は、もともと差別されている人々のための避難所です。そこへは、本来、虐待加害者であるマジョリティ(=ストレート)は行かない約束です。

女性がDV被害から逃れるシェルターを確保してほしいと思うなら、GLBTのためのシェルターにも、手を出さないであげましょう。

なお、あなたがBLに詳しい話など、新宿二丁目の誰も望んでいません。

「吊橋理論で同性愛が芽生えることはあるか?」という質問は、「親友の顔を見て、その気になったことがあるか」という意味であり、セクハラです。自分自身がBLを読んだことがあるなら、友情が愛に変わる瞬間というのは、要するに性交したくなった瞬間であることが分かっているはずです。

幸いにして大学講師の職を得ている・NPO代表として活躍しているといった方々も同様です。GLBTにカミングアウトを強制する権利は、あなたにはありません。それは彼らの自己決定権に属します。女性のための人権運動に、他人を無理につき合わせる時代は終わりました。

もし、本当にゲイの人権運動に理解を示しているというなら、まず自分自身が彼らの安心して過ごせる街を作ってあげましょう。彼らだけで静かに過ごせる空間を保障してあげましょう。

【ノンセクシュアル同人がなすべきこと】

脳内が過激BLで一杯で、吊橋理論で同性愛が芽生えると信じており、ふたこと目には「エロ、エロ」と騒ぐ自称ノンセクシュアル。

これは、同人誌即売会の中でのみ通用するジョークです。決して新宿二丁目に持ちこむことではありません。

ノンセクシュアルはノンセクシュアルだけで店を持てば良いことです。ゲイバーでヒャッハーする必要はありません。

また、世の中には、本当に性的な話題が苦手で、SNSで「エロ」という言葉を眼にするのもいやだという人がいます。勿論BLも読めません。

そういう人々は、同人誌即売会にも、新宿二丁目にも行ってみたいと思わないから、自慢話をされたってうらやましくもないし、せめて自宅で楽しもうと思っても、SNSさえ落ち着いて利用できないので、すごく寂しい思いをしているはずです。

ノンセクシュアルの先輩として、SNSで人権運動するつもりなら、まず自分自身が「エロ」と云うことをやめればいいです。自分自身が性的な話題を書き込むことをやめればいいです。

ノンセクシュアルが安心して利用できるSNSを作ってあげればいいです。

2016/06/16

乗り越えたのは、お母様の影ではありません。

もし、ふたこと目には「母親がトラウマだから~~」と云っていた人が、急に「母親のトラウマを自分で乗り越えた!」と奇妙なことを云い出した時には、べつに勘違いではなく、セラピーの誤用でもありません。

そう云わざるを得ないことに気づいたということです。

新宿二丁目へ乗り込み、我こそは男性中心社会(の強権を代行する母親)の被害者という顔をして、人権運動してやるつもりだったストレートが、自分の甘さに気づいたということです。

ゲイは先天性です。家族の誰のせいでもないことで、家族ぐるみで差別され、悩み苦しんでいます。そこへストレートが顔を出して、「私のばあい、ママのせいだから」と云えば?

彼らは「じゃあ俺たちとあんたには何の共通点もないし、関係もないだろ!」って云うでしょう。

「母親のせいで性的マイノリティになった」という人が混ざっていると、彼らについても「親の育て方が悪かったからホモになった」という偏見が助長される恐れがあるので、たいへん厄介なのです。

アダルトチルドレンごっこに付きまとわれると、彼らはたいへん困るのです。そういうことに気づいた人は、自分から「母親などトラウマではない!」と云わざるを得ないのです。

気づいただけ進歩です。

この場合、乗り越えたのは、鬼のようなお母様の影ではなく、それを口実にしていた自分自身の心です。

【厳しかったお母様に感謝しましょう】

一般論として、自分の失敗や悪事を母親のせいにする人というのは、一見すると正当な権利をもって横暴な母親を告発しているがごとくですが、じつはママにかばってもらいたいと思っているのです。

ママが実家の玄関先で社会へ向かって「あの子のせいではありません」と頭をさげて、本人は子ども部屋で布団かぶってるわけです。

社会的に成功した人が「母親がトラウマでこんなに上手くいった」とは、あんまり云わないわけですから、トラウマを持ち出す人は、挫折を経験した人です。では、どのような挫折か?

「母親のトラウマ」を口にする人は、本来は就職氷河期に巻き込まれるはずではなかった世代です。

なぜなら、1971年以降に生まれた大卒者・1975年以降に生まれた高卒者は、それこそ「みんな」苦労しているので、「自分だけ特別にお母さんのせいで」という言い訳が通用しないからです。

では、それより年上の人が何を言い訳しようとしているのか?

もし「親が前時代的に厳しい人で『女の子が大学へ行く必要はない』と云われ、事務員になったが、バブル崩壊時にリストラされた。大学で教員免許を取った同級生は、今も予備校講師として活躍しているので羨ましい」

というなら、話は分かりますが、トラウマなんて言葉を適用するケースではありません。

トラウマというからには、深層心理に深い影響があって、一見すると原因不明の異常行動や根拠のない恐怖感に悩まされているという意味です。

では「母親がトラウマだから大学で勉強しなかった」という話は、成り立つでしょうか?

せっかく大学へ入ることができたのであれば、トラウマというものを徹底的に勉強して、自分自身が心理学者になればいいですね? 

実際には研究者への道もなかなかに厳しいですが、外人が書いた自己啓発書を翻訳すればベストセラーになる可能性があるし、自分が解説本を書いてもいい。

なのに、そういうことをせずに、何をしていたのか?

勉強せずに、コミケに通うことに夢中になっていたので、今頃になって困っているという話です。でも、なんでここにトラウマが出てくるのか? 単に「若気の至り」とでも云って、笑い話にしてもいいことです。

森鴎外の昔から、都会の娯楽(当時は男子学生による女郎買い)に夢中になって、放校処分になるなんて奴がいたものです。でも、それはトラウマのせいではありませんね? トラウマがあるからといって、宿題サボって女郎屋へ行ってよいという理屈にはなりませんね?

では、母親のトラウマといえば、大学の勉強をサボって、コミケに夢中になっていたことの言い訳になると思う人は、なにを狙っているのか?

母親が男女交際を心配しすぎて、厳しく訓戒を与えすぎたので、私が男性恐怖症になってしまい、過激BLしか読めなくなってしまったという、アクロバット的論理を主張したいのです。

本当に男性恐怖症・エロス恐怖症なら、過激BLも読めないはずなのですが。

【流されやすい人】

ふたこと目には「みんなやってる」と云ったり、学者の云ったことを真に受けて「社会のせいだ」なんて云うタイプは、もともと誰でもいいから仲間になりたい人なわけで、寂しがりやさんで、根が悪い子ではないのです。

ただ「みんな」が好きすぎて、流されやすいのです。他人の話をすぐ鵜呑みにして「私も!」というのです。

あまり他人の話を疑ってみたことがないということは、幼い頃から抜け目なく生きる必要がなかった。すなわち、たいへん大切に、何不自由なく、愛されて育ってきたのです。だからこそ、都会の「ワル」に憧れてしまうのです。

東京都の片隅の埋立地で薄い本を売ったぐらいのことで粋がって、悪女ぶってみたり、ヤクザの男みたいな言葉ばかり使うのです。

注意としては、本当に怖い人に誘われて、犯罪に手を染めてしまうことで、もし母親がうるさく訓戒したなら、そういう素質を見抜いて心配していたのです。

とくに1980年代は、中森明菜の歌った『飾りじゃないのよ涙は』『少女A』に象徴される非行文化が流行していました。夜間に男性に誘われて、急にスピンをかけるような暴走車に同乗したり、妻帯者と不倫したり。

歌手は実際に高校生で、作詞した男性は30代でした。秋元康プロデュース「おニャン子クラブ」は1985年からです。芸能界が業界ぐるみで高校生を利用し、それに高校生のほうでも憧れて、繁華街を歩いているだけで芸能事務所にスカウトしてもらえると信じていた。

だから街頭で「歌手にしてあげる」と声をかけられて、ついて行ったら麻薬を買わされたとか、売春させられたという話も多かったのです。

そういう時代に、娘が地元中学校区を出て、電車に乗って高校へ通うようになる。放課後に繁華街へ寄り道できるようになる。母親は心配して「帰りが遅くなるといけないから部活をやるな」と云ったかもしれません。

さらに大学へ入れば、大学のサークルというのは、新歓コンパと称して、まだ18歳の新入生に酒を飲ませてしまう。急性アルコール中毒による事故死を起こす。男子学生との雑魚寝による性暴力被害の恐れもある。

キャンパスには赤いヘルメットも眩しい全共闘の名残がありましたし、いっぽうで白装束の危険な新興宗教も流行し始めていました。

母親が心配して「学生運動・新興宗教に入るな」と云ったなら、当たり前です。

それによって男性不信・恐怖症になった代わりに、中高生のうちから繁華街の暗部に巻き込まれることなく、女同士なら安全だというので同人誌即売会レベルで踏みとどまることができたなら、お母様に感謝しましょう。

そして、自分自身の判断で(繁華街ではなく)同人誌即売会へだったら足を運ぶことができたことに、自信を持ちましょう。そして自分より弱い人々に依存せず、新たな第一歩を踏み出しましょう。

【ゲイはノンセクシュアルの仲間ではありません】

ゲイは男性ですから、個々人は女性よりも体格が良く、頼もしく見えるし、社会的地位も高いということがあり得るのです。でも彼らは今なお「カミングアウト」した途端にすべてを失う恐れがある。

女性は「女です」と云った途端にすべてを失うということは、だいぶ減りました。もともと女性であることが分かった上で、充分に高い教育を受けて来ているのです。

ゲイの中には、同級生によるイジメや、親の無理解をのがれて家出し、学業を中断せざるを得なかったので、これ以上の出世を望めないという人もいます。大卒女性が自分の人生の選択を社会に責任転嫁し、くだを巻く姿を、彼らが良い気持ちで見ることはありません。

日本の女性は、世界的に見ても恵まれています。その恵まれた立場から、恵まれていない人々の足元を見て、弱みを握ったような形で、彼らのためではなく、自分のための人権運動に協力させるというのは、やはりあまり良いことではありません。

2016/06/15

1980年8月、舛田利雄『二百三高地』東映東京

君の祖国は、日本と呼ばれる。

脚本:笠原和夫、撮影:飯村雅彦、特撮監督:中野昭慶、特撮撮影:鶴見孝夫、光学撮影:宮西武史、アニメーション:東映動画、音楽監督・指揮:山本直純

明治から未来まで撮る男、日活の天皇は超辛口でした。

旅順攻防255日。戦記映画は各国にありますけれども、これほどドライな語り口と情緒を揺さぶる娯楽性と「戦争とは何か」という真顔の問いかけを共存させた傑作も珍しいかと思います。手もなく泣かされましたとも。ショスタコーヴィチの向こうを張った楽曲もすごくいいです。

ロシアの一般の方とはご一緒に見られないかもしれませんが、映画人は評価してくださるでしょう。

昭和2年生まれの監督はロシア語学科卒で、トルストイを通じてロシアを敬愛しているという台詞、それを口にした青年が変貌していく痛みには、実感がこもっているのだろうと思います。

序盤から記録写真をクローズアップする手際が「確かに『ヤマト』と同じだな」と思ったり、「舛田に目をつけて引っ張ってきた西崎のセンスと手腕は本物だったな」と思ったり、音楽の使い方がものすごく良いので、なるほどこれで石原裕次郎をスターにしたのかと思ったり、「菊千代が立派になったもんだ」とか、変な感慨を覚えつつ。

明治国家はいま、国民の好むと好まざるとにかかわらず、残酷で巨大な事業を遂行しなければならなくなっていた。

仁侠映画でさえ男のロマンに溺れることのない笠原脚本ですから、まずは全幅の信頼を置いて鑑賞開始いたしましたが、見事に再現された二十八サンチ砲同様、リベラル魂も轟々と響いておりました。

丹波哲郎は日頃はカッコつけ過ぎの役が多いんですが、ここでは底力を見せたように思います。児玉さん、歯を食いしばっていたんでしょうね。

鶴の一声と云いますが、御前会議を一喝したご聖断は、映画全篇を引き締めたと思います。三船敏郎の明治天皇、森繁久彌の伊藤博文、仲代達矢の乃木大将、再現度高いです。「戦前」生まれの男たちの顔は明治時代と地続きでした。

タイトルは『二百三高地』ですが、まずは「二百三高地へ行くまでが大変だった」というお話。

庶民出身の将兵数人に焦点を当てた人情劇の部分が東映らしくもあり、笠原らしくもあり。大作戦が手詰まりなら、現場でも小さな勘違いが惨事を呼ぶ。相変わらず皮肉と悲哀を同居させております。

対馬沖海戦は、すみやかにZ旗が揚がりまして、尺は短いんですが、映像の工夫がたいへん面白かったです。

内地シーンは能天気な一般人が得手勝手なことを云う顔を映さずに声で象徴させ、野際陽子の表情と対比させたのが印象的。遠大な葬列は、実際に合同葬儀が行われたということではなく、犠牲者の多さを示す視覚効果なのでしょう。話題が話題ですが、監督の「けれん味」を知るには絶好の場面かと思います。

夏目雅子は眼が美しく、男を引きとめる姿にもいやみがなく、これは彼女のマドンナぶりの良さを見る映画でもあります。

マット画・模型も美しく、特撮が冴えていたと思います。禁裏を借りて撮影できるわけもないので、宮中報告シーンもセットだと思いますが、合成らしき折上格天井がたいへんきれいでした。

映像的にも、音響的にも、脚本術的にも、あらゆる技法が投じられており、こういうのは後の時代の人がやれば「二番煎じ」って云われるし、やらなきゃ「本物を知らない」って云われるし、どうしろってんだって云いたくなるかもしれません。

去る人があれば、来る人もあって、欠けてゆく月も、やがて満ちてくる。なりわいの中で。

プロデューサー達がなんと云おうが、娯楽映画がくだらなくて大作映画がすばらしいのではなく、娯楽映画の蓄積があって、観客の喜ぶ壷が分かったところで、これだけのものが撮れる。

驚異的なスピードで娯楽映画を量産していられた時代は、活動屋が腕を磨くにあたって、いい時代だったに違いありません。

なお回想シーンをカットバックした予告篇の編集がすばらしく、さだまさしによる主題歌のプロモーションビデオのようになっており、それ自体が一本の作品として傑出しております。

(子どもたちが走っている場面で一人コケた子がいるのが気になる……)

2016/06/14

3.子どもなら再教育が必要です。

そろそろ「モラトリアム」を超えましょうというお話。



子どもの非行は本人の責任ではなく、社会全体の責任であるというのは、1980年代以降顕著になった考え方ですね。

でも、社会が子ども自身の責任を問わないことは「悪いことを続けさせてやりましょう」という意味ではありません。

「よく云って聞かせれば分かるはずの子ですから、同級生から引き離して収監するなんて可哀想なことをする必要はありません」という意味で、再教育と保護観察を前提にしているのです。

したがって、子ども自身が「うちは親が悪い人だったから、ロールモデルに出来なかった」と利いたふうなことを云う場合は、本人の口から「親に代わって社会全体で私を再教育してください」と申し出たという意味になります。だから黒バス犯は収監されたのです。

そこまで考えたことがありませんでしたか? 何十年も前の「大目に見てもらえる」なんてデマをまだ信じている人というのは、そういうものかもしれません。

が、もし本当に、いい歳した大人が自分をまだ子どもだと信じており、責任能力がないと主張するなら、まずは選挙権を停止しなければなりません。

通帳やクレジットカードも持たせないほうが良いでしょう。危険なこと・法律違反をしないように厳重に再教育する必要があり、後見人を選定する必要があります。むろん就職させてはいけません。児童に労働させてはいけないからです。

そういうことを本気では想定していないのに「まだ子どもだから」と自己主張する人は、本当に社会を甘く見ているのです。本当に何をしでかすか分からない人ということになってしまいます。

もう、子どもごっこは誰の得にもなりません。

時代は変わってしまったのです。もうあなたの青春時代ではないのです。「そこんとこよろしく~~」では済まないのです。口先で冗談半分につまらない自己主張をして、弱者特権だけ利用しようとする前に、よく考えましょう。

2016/06/14

個人出品者のマジョリティ性。

世の中には「サークルとは名ばかりで、実際には全員が個人的に出品しているだけだ」と、わざわざ証言したがる人もいることです。

売上金を持ち逃げされると困るから、誰も信用できなかったそうです。でも現在の現実のコミケには、今なおグループ活動している参加者も存在します。

つまり、その人自身が売上金を独占したかっただけです。では、あくまで個人資格において、原作者と話をつける覚悟があるのか?

ではなくて、そういう個人活動を称して「同人やっていた」と云うのです。

「同人やっていた」と云っておけば、顔も知らない(挨拶していない)原作者が、「同人なら仕方がない」と思って許してくれる・諦めてくれる・まとめて大目に見てくれると勝手に期待する心です。ピンポイントで自分だけが告訴されるとは思っていない。

つまり、群れにモグリ込んで安心する心です。

これは、実社会へ出れば「何々党の会員だから」「何々社の社員だから」「何々大学の出身者だから」と派閥を作り、バッジをひけらかし、特権を利用しようとする心です。マジョリティそのものです。

自分自身が売上金を独占したくて個人出品していた人を、昔ながらの漫画同好会・アニメ研究会として仲間と協力しながらやっていた先輩たちが見れば、「邪道だ」とか「最近の若い者には困ったものだ」と思って、声もかけてやりませんから、本人の周囲には自分自身と似たタイプばかりが集まるのが当然です。

その人垣に埋もれて、その向こうにいる先輩たちの姿に気づかなかった。今に至るまで、自分とは違うタイプの存在がいる可能性にさえ思い至っていない。自分=世界だと思っている。

徹頭徹尾、ただのマジョリティです。多子世代の若者だった人が、いまだに「みんなで渡れば怖くない」と思っているのです。

【性的マイノリティを自称するマジョリティ】

たまにいるのです。今日から性的マイノリティになっちゃう人。

そもそも、パロディ同人(およびその著作物のファン)が「ノンセクシュアル」を自称するのは、自分のモラトリアム性を正当化するために後からくっつけた言い訳であって、もともとノンセクシュアルという特殊な性をもって生まれて来たからBLしか読めないということではないのです。

だったらBLなんか読まなくたって、児童文学を読んでいればいいのです。風景や料理の写真を撮っていれば充分です。SNSで人気者になれます。

原因と結果を本末転倒させると、現役同人と実在ゲイのご迷惑にしかなりません。

基本的に、名指した時点で差別、レッテルを貼った時点で差別です。

精神構造が「群れにまぎれて責任逃れする」というマジョリティなのに、自分で自分を差別する人は、弱者特権だけ利用しようとしている可能性があります。

過激なことをしてみたいのに、独りでは不安で群れたがるというタイプですから、新宿二丁目へ行くにも「友達」を誘いたがります。

でも、同人界はそういう人を応援しません。男女とも「同人は人権侵害の青田だ」と思われると、ひじょうに困るからです。

【現役への復讐】

「絶対に本物を怒らせるな」という、古い時代の同人界の約束事を知っている現役出展者は、誘われても新宿二丁目へ行こうとはしませんから、他人を誘って行こうとする人は、同人の世界では相手にされなくなっちゃった人です。

作品が人気をなくして出展を中止した人。人間関係でトラブルがあって、顔を出せなくなった人。

自分自身の才能不足か、努力不足か、周囲への気遣い不足だったのに、「コミケが悪い」とか「先輩にだまされた」と責任転嫁するようだと、「復讐してやる」という気持ちが生まれます。

このパターンに落ちている人は一人ではないので、もしあなたのタイムラインで同人関係の騒ぎが持ち上がった時には、本当に現役がライバルをつぶそうとしているのか、挫折型OBが現役を丸ごとつぶそうとしているのか、よく見極めると、頭の体操になります。

2016/06/14

2.TPPが問題視したのは商業的規模の違反です。

でも日本では「コスプレもやばいのか!?」「インターネットから好きな作品が削除されてしまうのか!?」と心配する声が挙がってしまった。

背景には「サブカル」全体への反感があって、「今度こそダメだな」と揶揄する雰囲気があったからです。

もし本当に非親告罪ということになれば、慣れない人には独創作品とパロディ作品の見分けがつかない。「どうせ日本の漫画・アニメはみんな似たような大きな眼をしている」「どうせ全部コピーのコピーのコピーだ」「どうせもともと全員が手塚治虫のパクリだ」といったことが云えてしまう。全削除祭りの開始です。でも?

ホワイトハウスだって、せっかく映画封切り日にコスプレして集まってくれたスターウォーズファン数十万人に向かって「映画の売上が落ちるから衣装を脱げ!」と云いたいのではありませんね?

映画公開に合わせて世界中のファンが描いてアップロードした似顔絵を「映画の売上を落とすから削除しろ!」と云ってるんでもありません。上手な似顔絵が愛されたからって、誰も損しません。

海賊版DVDが売れた場合は、正規版が売れなくなって、映画会社が損をする。ちょうど小売店が正規の卸値を納めずに、倉庫に泥棒に入って正規版を盗んでいったのと同じことだから、各国の警察に頼もうと云っているだけです。当たり前のことを云っているだけです。

だから「TPPによって非営利コスプレが禁止される、非営利ファンアートが全削除される」という勘違い・心配しすぎに対しては、「非営利ファンアートは問題視されていませんよ」と云ってやることができます。

お金がなくて上京できず、イベントにも参加できず、ネットだけが楽しみなのに……と心配している若い人を安心させてやることができます。

【営利派の被害妄想クレーム】

話の途中で、なぜか興奮して「コミケの奴らは営利だよ!」と叫び出す人。

これに対しては、まずは「じゃあ逮捕されるでしょうね」と云ってやる他ありません。

ご本人は「非営利ならいいっていうんですか! じゃあ営利の私はどうしたらいいんですか!」と、えらそうに抗議したつもりです。でも、自分で考えりゃいいことですね?

環太平洋が「商業的規模の違反の非親告罪化」=「カネが絡んでるなら遊びじゃ済まない」という話をしてるんだから、「カネが絡んでるんですよ!」と云ったところで、何の役にも立ちません。

「カネが絡んでいても非合法と見なされないためにはどうしたらいいのか、みんなで考えよう」という話をしたいなら、仕切り直しが必要です。

その際、重要なのは本人の「カネがほしい」という気持ちではありません。本人がカネがほしいと云えば何でも許されるなら、海賊版でも実在児童ポルノでも危険ドラッグでも売れば良いことになってしまいます。

「同人というのはカネのためなら何でもやる連中だ」と思われりゃアウトです。

いままで合法だったものが非合法になるなら、危険性が認められたということです。

が、それを防ぎたいなら「それは誤解だ。二次創作は海賊版と違って著作財産権を侵害していないし、危険ドラッグのような健康被害もない」と説明する必要があります。

それには「自分で描くことが重要だ」という表現者の自負を表明する必要があるし、自分自身が著作権法について知っておかなければならないし、なぜ実在児童ポルノや危険ドラッグを売ってはいけないことになったのかについても理解しておく必要がありますね?

でも、何も理解せずに自分の都合だけ叫んでしまう人には、独特の問題があります。

「だって私、お小遣いがほしいんだもん!」と云えば、お母さん(または他の保護者)が「仕方ないねェ」と云ってくれるという育ち方をして来たのです。

ひじょうに甘やかされて育った人が、甘えた考えでパロディ同人活動に片足をつっこんで、甘ったれたクレームをつけるのです。

【法律はこっちの味方ではありません】

女性が男性を描くことは女性の自由ですということはできます。それが必要な時もあります。憲法で保障されているということもできます。

でも、二次創作は、今なお「法律はこっちの味方だ」ということができません。BLと二次創作BLは、著作権の一点で決定的に違うのです。

もともとTPPが意図しているのは、上記の通り、著作財産権の保護です。海賊版の横行による正規品の売上低下を防ぎたいのです。

いっぽう、パロディ作品が売れたからといって、正規品が売れなくなるとは限りません。違う物語だからです。だからパロディ作品を著作財産権の侵害として告訴することは、もともと行われて来ていません。

逆にいえば、著作財産権の侵害を非親告罪化した上で「パロディ作品は取り締まり対象にはしない」という超法規的措置・政治的判断を取っても、状況は何も変わっていません。

ここ重要です。

これは言葉のからくりのようなものです。同人が引っかかって、二次創作が許可されたと思って、ヒャッハーしてしまってはいけません。気をつけましょう。

政府・首相の強権をもってしても、原作者から著作者人格権を取り上げることはできないのです。それは憲法に保障された自己決定権の内だからです。

政府・首相が「著作権者が著作者人格権にもとづいて訴える権利」を奪うなら、それこそ人権侵害です。

今なお、原作者はいつでもキャラクター使用について「一割よこせ」という民事訴訟を起こすことができます。また「自分の子どものようなものなので、二次創作しないでください」という声明を発表することもできます。

【イメージ利用への課金は可能か】

重要なのは「海賊版(たんなる焼増し)ではなく、キャラクターのイメージ利用という状態に課金し、それが支払われていないから非親告罪にする」ということが可能か? という点なのです。

イメージ利用とは、ある名前・ある髪型から、読者の脳裏に「あの有名な彼のことだな」という了解が生まれる。ただし、通じない人には通じない。

そういう人間の脳に特有の「連想」という機能を喚起する手法に課金できるか?

これに答えることを政府は避けたのです。許されざるイメージ喚起の範囲を国家の強権をもって査定する。この煩瑣な作業に、首相は公僕の人的リソースを割くことを避け、原作者に一任した。

当たり前といえば当たり前で、だからこそ、同人側の道義性の問題に還元されたとも云えるのです。

つまり、明るみに出ちまった上で、まだやるなら、日本中の国民が見ているんだから、よっぽど腹をくくれってことなのです。

【それでは脅迫になってしまいます】

どんな内容の「二次創作」でも、ファンが個人的にノートに書いて、個人的に持っている分には、誰にも迷惑かけません。

百歩ゆずって公開しても、本当に少人数の仲間内で共有するだけで、誰もが「他人には見せない」という約束を守っていられるなら、トラブルにはなりません。

本来「同人誌」とはそういうもので、同人(会員)の手にしか渡らないものです。

でも大量に複製(自費出版)して、大量に売り出し、世間で評判になって、原作ファンが知ったり、子どもが持っていたというので親がビックリして、原作者やテレビ局へ「こんなものに許可を出したのか!?」という質問・連絡が入ると、トラブルとして認識されるわけです。

にもかかわらず、自費出版者としては、売り出したとなると「元を取らなきゃ」といった意識や、競争心が発生し、派手に宣伝したくなる。噂が噂を呼ぶということになりやすい。

だから事実上「売り出さないでください」という営利行為の差し止め請求ということになります。

これに対して、自費出版者がSNSを通じて「カネになるんだからいいじゃん」と云えば、公衆の面前で著作権者に向かって「私のカネのために、お前が黙ってろ」と脅迫したという意味にしかなりません。

SNSは同人誌即売会ではないのです。

二次創作者の生殺与奪権は、あいかわらず著作権者が握っているのです。現代では多くのSNS利用者が「証人」として機能するわけです。

だから原作者が「うまくやってくれ」と云うのは「たくさん稼いでくれ」と自費出版者を応援しているのではありません。許可を出したのではありません。絶対に見つからないでくれという意味です。えらそうな顔してツイッターで宣伝してんじゃないよという意味です。

見つかると、原作者のところへ「ああいうのほっといていいんですか!?」という電話やメールが殺到し、迷惑するからです。

「編集部が大目に見ている」などという話も同様です。「本当か!?」という抗議の電話で迷惑させられるのは編集部です。

だから、昔っから、自費出版者の口からは「原作者とも編集部とも関係ありません」という約束です。つまり「クレームがあれば私に直接云ってください」という覚悟を示すものです。

この程度のことを知らない人は「同人やっていた」うちに入りません。

約束事を知らない者を「もぐり」と云います。自分の頭で考えてみようとしない者を「甘えている」と云います。

おなじ世間知らずな子どものふりをするなら「友達少なくても構わないほどアニメが好きです」と云っておけば愛敬があります。「原作を全巻そろえています」と云えば、出版社にとってはお客様のうちです。

でも「カネがほしい」だけでは理屈が通らないのです。

逆にいえば、原作者が設定した通りのキャラクター使用料を自費出版者がさっさと支払えば、円満解決です。他人のものを借りて、自分の実力以上に稼がせてもらったのに、ビタ一文お礼したくないってんなら、「うまく」逃げ隠れしましょう。

もともと、こういう話でしかないのです。「私はカネのためにやってるのよ!」と威張れば、何も支払わなくてよくなる、ということではないのです。

あくまで、甘やかされて育った礼儀知らずな自分自身が目をつけられたくないなら黙ってろということでしかないのです。

【奇妙な自己申告の意図】

「でも私たちには編集者が連絡をくれた」

というのは、誰の参考にもなりません。「だから『私たち』だけは許可をもらってある」と云いたいなら、そんな連絡を受けていないという同人は、かえって窮地に陥ります。

それとも、一回に数十万人、1975年以来の延べ人数にすれば数千万人が関わっているという同人誌即売会には、一種類の作品に基づく「二次創作」しか出品されていないのでしょうか?

そもそも原作者が最初から「なんの問題もない」と思っていれば、わざわざ「親告しないことに決めたよ」と連絡してくることもありません。

ということは、一度は親告することを決意したということです。ということは全ての原作者が最初から無条件にパロディ同人活動を応援しているわけではないということです。

自己申告者は、自分だけ助かりたいので「原作者はパロディ同人活動を応援している」と云おうとして、逆のことを証言してしまったのです。

「私=私たち=同人全体」という誇大妄想に陥っているのが間違いの元です。

なお、第三者が原作者に対して「断じて告訴せんければいかん」と強要する権利はありません。原作者にたびたび電話をかければ、自分自身が原作者の自己決定権の侵害者であり、威力業務妨害です。

【そして少女も大人になる】

つまり、二次創作というのは(アンチにとっては残念なことに)、それ自体および作者自身としては他人の生命・生活に対する具体的な危険性が低く、積極的に罪とする法律がないから結果的に守られている、という状態です。

カネになるから、カネがほしいから認めてもらっているのではないのです。じゃなくて、アニメを愛しているだけだから、比較的安全なので放置されてきた、今また改めて放置されただけです。

ここで「失礼ね! 私自身はアニメオタクじゃないわ!」というなら、そのうち二次元じゃ我慢できなくなるってことです。

政府からは放免されたからこそ、残る問題は、世間様に対する道義性なのです。

「同人やっていた人は大目に見てもらえるのよ」じゃなくて、「私は『同人やっていた』と云えば大目に見てもらえると思っている程度の人間なのよ」です。

少女であるかどうかが問題なのではありません。少女でも挨拶することはできるからです。少女でも約束を守ることはできるからです。少女でも世話になった人にはお礼を云えるからです。

少女でも法律を勉強することは可能だからです。少女でも新聞を読んで社会勉強することが可能だからです。二次創作を読み書きする以上、文字を読めるということだからです。

自分の子どもらしさを言い訳に利用する卑怯な大人は、善悪の判断ができずに何をしでかすか分からないということになってしまいます。

社会学者の云ったことが当事者にフィードバックして、同人自身が「モラトリアム」とか「弱者特権」とか思い込んでいるようだと、同人自身にとって危険なのです。同人こそ、大人でなければならないというのが現代です。

とくに、バブル時代以来、まったく情報が更新されておらず、自分で自分を甘やかし続ける、少女気分の抜けない中年が鬼門となります。

いい歳した大人の女性が自分を「まだ子どもだ」と思っていて、自分勝手なことばかり云うようなら、男はもっと危険だということになるからです。なぜ創作やっていた人が他人の心理と社会の動きを読めないのか。

「ヤマもオチもない」ものばかり書いていたからです。それで「イケる」なんて甘いことを考えていたからです。

つまり、この話題は、かつての社会全体が「少女」という言葉に幻惑され、その実体が文字も読めない幼い人であるかのように勘違いして、「可哀想だから守ってやらなくちゃ」というふうに、自分で自分の空想に酔ってしまったという要素をはらんでいます。

2016/06/13

フロイトとアドラーは順序よく使いましょう。

まず、慣れない方には唐突な話題ですが、いわゆる「BL」というのは男性中心社会に対する皮肉だ、という解釈があります。

と云うと「だからもうそういうフェミっぽいのは飽き飽きなのよ!」と、いきなり叫び出す人もあります。

「だから、今その話をしてるんでしょ?」ってことですね?

男性中心社会に対する皮肉という解釈は、社会学者自身のイデオロギーに基づく勘違いであって、根拠に乏しく、不適切ではないか? 不適切な言説が再生産されることを防ぐため、ここらで再検証してみるのが良いのではないか?

問題提起が成されたということは、次に続くのは、根拠を挙げて論理展開して行くという作業です。

それが成功すれば、飽き飽きだと思う人自身も、二度と「BLは皮肉です!」と云っちゃうフェミっぽい人に出会わなくて済むようになるわけです。

話の出だしで、自分自身の立場を間違えて、あわててクレームしちゃう人の心の中には、なにがあるのか?

【自慢したい心】

そもそも、なんの問題提起でも「めんどくさそうな話だな」と思えば、テレビ視聴者ならチャンネルを変えるでしょう。インターネット(SNS)ならブロックしてもよい。音楽サイト・ゲームサイトへ遷移してもよい。

「自分にも関わりのある話題だ」と思えば、最後まで聞いた上で賛成または反論記事を書く。これが人間のやることです。

でも、話半分に聞いて興奮してしまい、あわててクレームする人というのは、そもそも何の話でも半分聞いて「もう分かったわ」と思っちゃう人です。夢判断などの学説を聞きかじって「これは使えるわ」と思ってしまう。

そして他人の話に首をつっこむ人になってしまうのです。物知り自慢したいからですね。「私ぐらいになると、そのくらい分かってるのよ。もう結構よ」って云いたい。

でも、他の人は続きを聞きたいと思っているかもしれないのに、自分のことしか考えてないわけですね。

自分が「もう分かってる」と思ってることそのものを、一から疑ってみるという訓練も出来ていない。なぜそうなってしまうのか。

「途中で困ったら、お父さん・お母さんがなんとかしてくれる」という育ち方をして来たからです。

自分の代わりに謝ってくれる。自分の代わりに説明してくれる。自分の代わりに第三者に問い合わせて証拠を集めてくれる。代わりに抗議してくれる。

子ども自身が熟慮の上で発言するという必要がなかった。子ども社会の中で揉まれていない。

ということは、家庭の中において、父親が厳しければ母親が、母親が厳しければ父親が、あるいは祖父母が「まァまァ、この子だって……」と子どもの気持ちを代弁し、弁護してくれた。

おそらく家族の中で一番の年少者。あるいは唯一の女の子として、たいへん可愛がられて育ったのです。

だから世界観が同心円状に世界>家庭>自分になっており、しかも価値観が逆転している。同心円を立体的に立ち上げた、円錐状というのがいいかもしれません。自分が世界の中心で、頂点。

だからこそ、トラブルが起きると実家のせいにする。

他人の話を怒鳴り声でかき消して「っていうか私の場合はね! お母さんがトラウマだからね!」と、自分の不幸自慢を始めるのです。

じつは、一日中ママの顔ばかり思い出している。

居心地の良かった実家から離れたくないので、なにもかも実家が原因であることにしておきたい。極端に強い自己愛と共依存。比較的裕福で過保護な核家族家庭が目に浮かぶようですね。

【フロイトからアドラーへ】

残念ながら、フロイト式原因分析は、今なお有効です。人は育てたように育つ。保護者の影響は、やっぱり大きいのです。

ただし、本人がいつまでもそれにこだわるべきかどうか、実家を言い訳に利用すべきかどうか、判断する時に、アドラー式が役に立つのです。

「トラウマ、トラウマ」と云う人は、母親のせいにしておいたほうが都合がいいから、わざといやなことを思い出して「ああ、またトラウマが」と自分を追いつめているのです。

つまり「無意識」の存在を前提している点で、アドラー自身がフロイトに依拠しており、その上で本人の説が組み立てられている。

フロイトが先で、アドラーが後。この順番を間違えちゃダメです。

トラウマを利用する人は、フロイトをも、アドラーをも自分の都合に合わせて利用するわけで、適用順序を間違えることもあるのです。

気をつけましょう。

2016/06/13

アドラーとフロイトを混ぜてはいけません。

「あなたはご自分の『心配してやっている』という気持ちを私に押しつけているだけです。自己満足のために私を利用しないでください。私をほうっておいてください」

これを云う人自身が、

「私が今のような人間になってしまったのは、うちの母親が子どもに自分の『心配してやっている』という気持ちを押しつける人間だったせいです」

と云っちゃうようだと、ダメだこりゃなのです。
2016/06/10

1980年8月、舛田利雄『ヤマトよ永遠(とわ)に』

女性なるもの、我らを導く。

監督:舛田利雄、脚本:舛田利雄・山本英明・藤川桂介、美術設定:辻忠直、メカニックデザイン:辻忠直・板橋克己

劇場版第3弾。配給収入、約13億5000万円。ちょうど同じ頃に『銀河鉄道999』の劇場版があったはずで、機械化母星というのは同じ発想ですから、確かに松本零士が原案を出したのでしょう。女性キャラクターの活躍ぶりも西崎イズムよりは松本イズムのように思われます。

あるいは男性向けシリーズ作品は、序盤で男のロマンを描き尽してしまうので、だいたい3本目くらいで女性ドラマにシフトするのが一つの約束事なのかもしれません。

アニメファンの少女趣味は、今に始まったことじゃございませんで、1978年には宮崎駿『未来少年コナン』にラナ嬢、1979年には同監督『カリオストロの城』にクラリス姫が登場し、この1980年には、すでに伝説的な人気となっていたはずです。

2代目サーシャは森雪よりも頬がふっくらとして少女らしく、そんな時代の要請にも応えようとしている様子が見られます。

1978年の『さらば』公開後、テレビシリーズ第2弾と、テレビスペシャル版『新たなる旅立ち』をはさんで、作中では1年しか経ってないらしく、古代は見た目に歳くってませんが周囲の状況が変わっております。

死んだはずのキャラクターの使いまわしは、熱心なファンからの批判が根強いようですが、1960年代の実写映画もやってたことで……それより声優の使いまわしのほうが困るかもしれません。

仁侠映画で水島道太郎や中村竹弥や大木実や葉山良二や山本麟一が(わりと)いい役をやったり、徹底的な悪にまわったりしても別に気にならないことですが、おなじみ声優が別の役で起用されていると戸惑うのは不思議なものです。

「またどこかの異星人が攻めて来たのでしょうか」

アナライザー、ナイスつっこみ。無限に危険続きの大宇宙。

唐突な敵の物量作戦になす術もない 日本軍 日本人だらけの地球防衛軍。こんなこともあろうかと! はるか無限の彼方へ旅立つヤマトと、地球に残った人々による二面作戦。

堂々2時間半の大作で、映画オリジナルですが、まるでテレビ版ダイジェストみたいに早い展開で、ちょっと感情移入がむずかしいくらいの勢いでたたみかけます。女性ドラマに尺を取ったぶん、男性ドラマが割をくったような気もします。

アルフォン少尉は、方面軍司令官でありながら個人的取引を持ちかけちゃうわけで、この公私混同ぶりが西崎流か……

映像のほうは見事なもので、実写ばりのカメラワークは漫画家に采配できるものとは思われず、舛田節が冴え渡っているのでしょう。戦闘シーンも出色の切れ味の良さ。闇の向こうの二重銀河は呆然とするほどに美しく、川島和子のスキャットが最高に効果的。「劇場の大スクリーンで見たい」と思わせるアニメは、やはり得がたい傑作です。

人物については、松本零士のキャラクターを東映動画がアニメ化した絵の野暮ったさは幼な心にも感じていたのですが、これはとくに序盤の作画が甘くて損をしているように思います。舞台がヤマト艦内に移ってからは、語り口も、人物の顔も、グッと良くなります。

ヤマトそのものは、艦体が輝いてます。何が見たいって、出撃シーンを見たいわけで、今回は無重力の宇宙空間に広がっていく岩石が美しいです。

整備完璧なのに士官クラスだけ何も知らされていなかったらしく、 旧日本軍 地球防衛軍らしいところでしょうか。艦長は宇宙戦士訓練学校長から転出した山南さんです。あおった構図がカッコいいです。

かつては『スターウォーズ』に先行していたんですが、銃撃戦が増えたあたり、今度はこちらのほうが影響を受けているような気もします。でも航空戦・カートリッジ弾の発射から敵の被弾に至るシーンなど、海外特撮を上回る上手さだと思います。

人間ドラマも深みが増して、観客の年齢層が上がったことを意識したかと思われますが、SF戦争アニメでまさかの女性映画。女性ドラマ部分の出来は良いのですが、やっぱりちょっと気恥ずかしいですね。

これ以降のアニメでは、これをやっていないと思います。発想の根本はプロデューサーの現実の女性関係が大胆だったことかもしれませんが、かえってアニメは子供向けに作るほうが良いことがハッキリしたかもしれません。

【折衷案の悲しさ】

戦争の犠牲者をサーシャ一人に象徴させたので、情緒的な高揚感は美しく、声優たちが収録中に本当に泣いてしまったというのも良いエピソードです。

ただし、脚本が何人かの折衷案なので、つじつまは合わなくなってしまっております。

松本零士には『999』と同じ機械化母星のアイディアがあったに違いなく、独裁者が国民を機械部品として星の構造体に組み込んでしまっているという世界観を持っていたのでしょう。

ヤマトに向かって飛んできたミサイルは住民たちの特攻です。だから彼らの「こんな戦いを終わらせてくれ」という心の声が聞こえてくるのが本当です。

それが描かれていない以上、古代進はサーシャ以前に「あの星にも大勢の非戦闘員が暮らしているはずだ」と悩まなければならない。彼はガミラス戦のときに「報復合戦は無意味だ」という後悔を経験しているわけですから。

脚本には仁侠映画をやっていた人が含まれているわけですが、星と星との全面戦争ではなく、ちょうど任侠映画のように、せまい人間関係の話になってしまっているように思われます。

仁侠映画であれば、女子どものいない所で、十数人の子分を斬って、親分にとどめをさしたところで終わるわけですが、星対星の全面戦争なら、七十億人の非戦闘員を巻き込んだ大虐殺ということです。

だから相手の星全体が悪意を持っているのか、総統個人が異常人格の独裁者なのかを見極めるのが本当です。

本来は特殊チームを組織して潜入させ、総統を暗殺し、起爆装置を無効化して、和平の道を探るということであるべきです。でも、もちろんそれではヤマト(の波動砲)の出番がない。しかし、撃てばいいってもんでもない。

『さらば』では、かろうじてこの辺りに配慮した、納得のいく物語になっておりましたし、『新たなる旅立ち』においては、古代進が頼もしく成長した姿を見せてくれたんですが、ここへ来てまた熱血単細胞に戻ってしまっており、これは脚本陣の誰のアイディアだったのか、プロデューサーの思いつきだったのか。

古代守というキャラクターも、第1作において弟よりも先に観客の前に登場した人物で、思い入れの強いファンも大勢いたはずですが、勿体なかったと思います。

似たような話を何回も作ることは、まさに東映がさんざんやって来たことで、べつに西崎だけがやっちゃいかんということはないです。

が、欲をいえば、俳優(たとえば高倉健)自身の加齢に合わせて役柄に深みが加わっていったということがあるわけで、古代進の成長物語として、シリーズ構成したかったなァという感は残ります。

どうも、成り立っていない話を「とにかく夏の公開に間に合わせるぞ」というので進めちゃったというような。絵的にはすばらしいのに、企画段階のアラが透けて見える。そしてアニメファンも大人になる……という作品だったのかもしれません。


2016/06/09

生身の人間に噛みつくのは傷害罪の可能性があります。

人間の口腔には、さまざまな雑菌が住んでおり、ふざけたつもりが重篤な症状を引き起こし、相手の一生を台無しにしてしまう恐れがあります。

「口唇愛期だから」「母親がトラウマだから」「アダルトチルドレンだから」「性的マイノリティだから」

どんな言い訳をしても、生身の他人に噛みついてはいけません。フロイトの精神分析は、犯罪の言い訳に利用されるために生まれてきたのではありません。

強迫神経症に悩み、一日も早く「治りたい・症状を消失させたい」と願う人を救うために生まれてきたのです。

悪いことをしている自覚があるなら、ツイッターで自慢することはやめましょう。必要なのは「私、母親がトラウマだから」と泣き真似することではなく、他人に怪我させるのをやめることです。

また、このようなことの言い訳に、アダルトチルドレンや性的マイノリティといった「レッテル」を利用すると、他にもその症状で悩んでいる人や、本当の人権運動をしている人々に多大なご迷惑となります。

善悪の判断ができない小児を「可愛いな」と思ってくれるのは、本物の父親か、筋金入りの「ロリ」が、5歳以下の小児を見た時だけです。

15歳を過ぎていれば、厳重な再教育の必要があります。傷害罪として立件・収監も可能です。

もし、25歳を過ぎていて、自分より若い男性を犠牲者にした場合は、痴漢の一種として親告される恐れもあります。

どの男性にも母親がいます。姉・妹もいます。息子が被害に遭ったと聞いて、笑って加害者を許す母親はいません。

なお、本物の発達障碍者・精神疾患患者といった人々は、薬の処方を受けているだけでなく、保護者・教員・養護施設の職員といった人々によって、厳しく躾けられています。

彼らの人生の第一目的は、社会に適合することです。わざと悪いことをすることではありません。ボランティアに行くと分かります。

つまり、実際には受診しておらず、ボランティアにも行ったことのない人が、口先だけ「私もナントカ障碍だから」と言い訳するのです。

とくに、1980年代には「プッツン」などという流行語があった通りで、健常者が病的に振舞うことが面白がられたのです。

それ自体は、古い常識を打ち崩そうとする新時代のパフォーマンスとして、前向きな評価を与えることもできますが、本当に他人に怪我をさせたり、本当に困っている人々を「イメージ利用」するとなると、話が違ってきます。

こういう人の中に、二次創作関係者が混ざっていると、同人もたいへん困ります。が、アニメキャラクターを自分の都合で利用していた人は、他の人権運動さえも自分の都合で利用しようとすることがあるのです。

同人各位は強く自戒してください。

2016/06/08

挨拶せず、勘違いして、怒る人。

自分自身が偏見を持っているので、他人の話を曲解して、急に怒り出す人。

たいへん気持ち悪いですね。この気持ち悪さは、自分の体が危険を知らせるサインなのだろうと思います。

このタイプが身近にいれば、いつ刃物を持って殴り込んでくるか分からないということですから。

人間、自分から見込んで「仁義」を切った相手に対しては不義理をしないものですから、逆にいうと、挨拶しない人というのは、後で面倒を起こす人です。

ツイッターは「ゆるいつながり」がモットーで、挨拶しなくてもいいことになっているので、もともと社会のルールを守る気のない人が入って来ている可能性は高いです。

【新宿二丁目の被害】

新宿二丁目というところは、1980年代以来、勘違いして怒るオバサンによる被害を受けています。

その女性自身が、彼らのことを「いやらしい遊びが好きすぎてホモになった」と信じているので、わざわざ彼らの集まる店へ乗り込んで「いつまでも男同士で遊んでいてはダメでしょう!」と説教するのです。

「女性は結婚と育児を強制されて大変なんですよ! 早くカミングアウトして私たちの人権運動に協力しなさい!」

でも彼らは、もともと差別されているのです。一般社会の中で気の休まる場所がないから、わざわざ新宿二丁目というところに来るのです。

そこは彼らにとって、虐待被害から逃れ、保護を求めて集まる「アジール」です。

でも、そこまで虐待加害者が追いかけて来て「一緒に帰るのよ」と説教するわけです。

彼らは本当に恐ろしい、きもち悪い思いをしていることと思います。

【パロディ同人の末路】

パロディ同人は、原作者に挨拶しなくていいと思っているので、もともと社会のルールを守る気のない人が高確率で含まれている可能性があります。

それでも自分の作品に人気がある内は、次回出品物の制作に忙しいですから、SNS依存症になってしまうことは少ないものですが、暇をもて余すようになると、危険度が増します。

本人もそれに気づいていて、SNSを「人生が面白くない」という不満から生じる攻撃衝動の「ガス抜き」にするのかもしれませんが、言葉の暴力は暴力ではないということはありません。

悪事の証拠写真をアップロードする「バカッター」と同じで、「このくらいなら大目に見てもらえる」という甘えの意識は、かならずエスカレートして、トラブルを引き起こします。

とくに、環境系から逆粘着されるようなら、自分自身がかなり危険な状態だということです。

気をつけましょう。