2016/07/22

1977年、森谷司郎『八甲田山』

二人とも、冬の八甲田山を歩いてみたいとは思わぬか。

製作:橋本忍 野村芳太郎(松竹) 田中友幸
企画:吉成孝昌 佐藤正之 馬場和夫
監督:森谷司郎 原作:新田次郎「八甲田山死の彷徨」(新潮社版)より
脚本:橋本忍 音楽:芥川也寸志 撮影:木村大作 照明:高島利雄 演奏:東京交響楽団(指揮 芥川也寸志) 後援:青森県

きみの祖国は日本と呼ばれ、豊かな四季があります。水の惑星の水は、ときに水の形を取らず、雪となり、吹雪となって、人を白い闇に閉じ込めることもあります。

「天は我々を見放したッ……」という台詞が有名ですが、そっから後です。見届けてやってください。

たいへんな長尺ですが、編集ぶりが見事で、テンポよく見ることができます。くり返し流れる芥川メロディーは、歌謡曲的な抒情性と交響曲の格調を両立しており、感動的な酩酊感を誘います。

序盤は、腹の底に地元民の「そんな馬鹿者はいねェよッ」という叫びをそのまま響かせた主演二人の、真情の通い合いと意地の張り合いが共存する男の友情をしみじみと。

高倉のほうは、仁侠映画で鍛えた反骨精神と危険な雰囲気をそのままにじませて、丹波を圧倒しており、かたや北大路のほうは上品なインテリ青年で、もう明らかに三国の下で損をする役回り。良い対比です。

出発すると、すみやかに凄まじい絵が続きます。CGではありません。マット画でさえありません。どうやって撮ったもこうやって撮ったも、俳優たちも本当に追いつめられていく様子が分かります。

作中には(無線もなかった時代に)連絡の取りようがないという場面がありますが、撮影陣が俳優に演出をつけるのも大変だったろうと思います。でも切り方が潔く、各シーンごとに見せすぎ感のないところが立派です。

紺色の外套を着て、つねに数を唱えているのが高倉(徳島大尉)率いる弘前三十一連隊。白っぽい外套で人数が多く、隊列の乱れぎみなのが北大路(神田大尉)が率いる……はずだった青森五連隊。

人間の賢明さを研ぎ澄ますと一個の機械のようになり、人間の心の弱さを自ら律することができないと生ける屍になる。

三国は(例によってというべきか)悪役です。なまじ責任感があって、自分も現場に出るというので話をややこしくしてくれる上官。たいへん困ったタイプですが、この人がいないと映画としては単調になってしまうのでした。なお、この要素はフィクションだそうなので「こういう軍人がいるから日本は……」というふうに怒らないであげてください。

敗戦の国の監督・脚本家たちは、軍人をそれぞれに合理的な判断力も感情もあるものとして描くことに長けており、将校はきちんと自分なりの意見を述べ、下士官以下は軽口も云えば愚痴も云うのでした。

道案内に立った女の声は、女神の声のように響いて、男心を一瞬和ませる。それっきりロマンスも何もない、本当に実直に任務遂行する男たち。

話の流れには「男の意地や義理」という伝統美を活かした脚色が入っているのですが、多数の犠牲という根本的な要素が慄然たる事実であるという重みの前に、映画人としても「これで当たらなかったらどうすんだ」という、ギリギリ崖っぷちの禁欲主義を貫いたのが賢明な判断でした。

高倉の少年時代を演じた子役が良い顔です。自然光を活かした撮影とフラッシュバックの技の冴えに泣かされましょう。

弔うとは、くり返し思い出すことです。こういうことがあったと語り継ぐことが、実際に存在した人々の鎮魂となるのです。

2016/07/21

バブルごっこはコミケの中だけにしましょう。

【29万余票の行方】

政府与党も29万余票を見過ごしにするほど間抜けではありませんから、取り込みにかかるでしょう。

すなわち、しばらくの間は、二次創作やコミケそのものを規制するといった話は出なくなります。が、政府と社会は改憲とオリンピック開催に向けて走り出します。

清く正しく美しい国ニッポンというイメージ戦略・同調圧力は、耐えがたいまでに強まるでしょう。

だからといって、権力を敵視する必要はありません。政府と同人で「落としどころ」を探るという、おとなの関係になります。基本的には準備委員会の賢明な判断に俟てば良いと思います。

だからこそ、一般利用者が社会の反感を買うような言動を取らないように気をつける必要があります。現代の政府が最も恐れるものは「世論」です。若いネットユーザーの失言はご愛嬌ですが、「いい時代」を知っているOBの現状認識不足は鬼門になり得ます。

とくに女性は「若く見られたい」という気持ちが強いもので、もう1980年代が終わったことも忘れて、不良少女ごっこしてしまうことがあります。

今回の選挙で明白になったことは、二次創作関係者の少なくとも一部が有権者であることです。未成年者でも、引きこもりでも、禁治産者でもありません。外出でき、文字を書くことのできる教育を受けており、責任能力を有する成人です。

それが駅頭で、イベント会場周辺で、墓地で、SNSで、新宿二丁目で、マナーを守らず、他人への思いやりがなく、自分たちで決めたルールさえ守ることができないようなら、著作権法とは違う法律・条例で取り締まることも可能になります。

そう思わせてしまうかどうか。こっからが正念場です。

【1.全共闘コピーのコピー】

じつは、1980年代の同人というのは、全共闘の雰囲気を引きずっているのです。

映画『野生の証明』序盤に登場したような新左翼は「プロレタリアートの名において」老幼を巻き込む人質事件を起こしていますが、自分では労働したことがありません。親の金で大学へ通っていた者が学業に落ちこぼれて、世直しごっこで現実逃避していただけです。

あれが内ゲバで終わった後、頭角を現してきたのが「フェミニズム」で、こっちは自分では母親の手伝いもしたことのない女子学生が「自称シャドウワーカー代表」になっちゃったものです。

1980年代の女性同人というのは、その真似をして「男に遠慮するな」とか云っていたもので、やっていたことは1970年代の同人活動のコピーですが、本人の存在自体がフェミニズムの劣化コピーなのです。

フェミニズム自体が新左翼(全共闘)のコピーですから、80年代同人少女は、全共闘のコピーのコピーです。だから、なにかと「権力の横暴だ」と云う癖がついているのです。政府の老人や、教育委員会のオバサンを目の敵にして「権力の横暴だ、自由の抑圧だ」と被害者意識を強調するのです。

70年代の闘争の雰囲気と、80年代の強気と、90年代の不況をぜんぶ知っていて、自分も就職弱者だという気分になっているので、まるでヤクザ者のような口調で弱者特権を要求するという過激派みたいのがSNSに現れちゃうわけです。

でも気をつけましょう。現代同人の本当の相手は、政府でも警察でもありません。

【2.今年で46歳以上になる人は愕然としましょう】

今年、1971年生まれが45歳になるからです。

1971年に生まれた人は、大卒見込の22歳で就職活動したとき、1993年でした。バブル崩壊後、自分たちの人数が多かったので、就職氷河期当事者になっちゃったのです。

1975年以降に生まれた人は、人数は第二次ベビーブーマーより少ないですが、成人する頃からバブル崩壊の影響が本格化したので、親のリストラによって大学を中退した・大学進学を諦めた・高校を中退したという人がいます。

だから、1970年以前の生まれで、フルカラー同人誌を知っているという人は、愕然としてください。もう、バブル時代の武勇伝を披露しても誰も喜んでくれないし、愚痴を云っても誰も同情してくれません。

生まれながらに就職氷河期で、一回も「うまくやる」なんて経験をしたことのない若い人々が、中年がバブル時代の(フェミの)理屈をふり回して勝手なことを云うのを、「絶対に許せない」と思いながら、すごく冷たい眼で見ているのです。

【3.なぜ疑われるのか】

そもそも、なぜ同人は疑われるのでしょうか?

「モラトリアム」だから、社会性が低く、善悪の判断ができないので、そのうち漫画を描くよりも悪いことをするに違いないと思われているからです。

1990年代に、そういうイメージで報道され、社会に悪い印象が広まってしまったことを知っている人が、そういう社会を挑発してやるつもりで、わざと過激ぶって、甘ったれた言動を続ければ、泣かされるのは本当に若い現役たちです。

もう、1980年代ではありません。「そこんとこよろしく~~。なんちゃって」と云っても、誰も笑ってはくれません。

今や、相手は日本的お約束の通じない国際社会でもあります。

【4.国際社会の自衛意識】

かつて、安倍首相は「百年前の英独と同じですよ」と云いました。ご本人としては周囲の人々に「あるある~~」とか「完全に一致www」とか云って、笑ってほしかったのです。

でも海外記者団の反応は「開戦準備を始めたということですね」「本国政府に打電してもよろしいですね」「株価が急落してもよいということですね」というものでした。

次の一手を考える、三手先までその場で考えるというのが国際社会です。自衛のために素早く準備しなければならないからです。

同様に、創作活動についても、国際社会は日本経済の都合なんか考えちゃくれません。自分の国の知的財産と子どもが可愛いだけです。

【5.ダンスクラブの例】

ダンスクラブが急に摘発されたのは、周辺住民から「店の外で騒いでいる連中がいるので、次に何をされるか不安だ」という通報があったからです。

店の外で騒いでいることそのものが「うるさい」というだけの問題ではないのです。そのうちダンス仲間以外の住民に怪我をさせたり、家屋に放火したりするのではないか? と疑われたのです。

もともと麻薬取締りのために踏み込みたかった警察が、住民側の過剰防衛心を良い口実にしたというのが、ダンスクラブ摘発の構図です。じつは「踊ってはいけない」という問題ではないのです。

同様に、同人活動も、じつは表現の自由の問題ではないかもしれないのです。

「描いてはいけない」という問題ではなく、それにまつわる道義心の問題ということがあり得るのです。駅で騒いでもいい、落書きしてもいい、前日から行列してもいい、まだ「女子」だから大目に見てもらえる、編集部が庇ってくれる……

【6.SNSは同人誌即売会ではありません】

ツイッターは「つぶやく」と云いますが、実際には文字情報です。「書いて、アップロードする」ということを、わざわざやっているのです。

発表相手は、ワールドワイドです。日本語だから外人には読めないということはありません。

日本人は「日本語は世界でも特殊な言語だから外人には理解できない」という島国根性を、敗戦国のなけなしの自尊心として過大評価してしまう傾向があり、日本語で云った(打った)ことは世界には聞こえないと思ってしまいがちですが、日本語を勉強する外人さんは増えています。

グーグルさんは、自動翻訳サービスを提供してくれています。

日本語でツイートしたことは、日本の政治家も、アメリカ上院議員も、国連調査委員会も、海外新聞の特派員も、海外のPTAも、海外の人権団体も、読むことができます。

LINEはリアル人脈が基盤ですから、ツイッターは相対的にリア友少ない派が自己承認欲求を暴走させる場所と考えることができます。

だから先輩ぶって「あら、同人は大目に見てもらえるのよ。そんなことも知らないの!?」と、変な威張り方をしてしまう人が出てくるのです。

【7.自分だけ若いつもり】

バブル時代の即売会という閉鎖的空間を忘れられない中年は、自分のことを「まだ若い」と思っているくせに、インターネット時代について来ることができず、SNSと同人誌即売会を区別することができません。

TPP関連と実在関連の表現規制という巨人が、ダブルで言葉の壁を超えて来たという窮状を理解することができません。甘ったれたことばかり云っています。

法律に照らしてどうなのかという話をしている時に「カネのためなら何でもやる」と云うなら、そのうち海賊版も売るんだろうという結論になります。

カネが絡んでいるなら遊びじゃすまないという話をしている時に「どうせ遊びだから許可は要らないw」と云って笑い出す人があるなら、何をやっても遊びと云えば大目に見てもらえると勘違いしている連中だということになります。

問題が著作権だけだった時代には、自分自身はアニメオタクではない・原作なんか気にしていない・勝手な思いつきを書いてるだけだと云うことが有効だった可能性があります。依拠性が低いと著作権侵害とは見なされないからです。

だから「アニメファンとは別と云っておけば大丈夫よ」という噂が共有されていた可能性はあります。が、実在関連が絡んで来ると、真逆の意味になります。

だからこそ、現代の若い人々は、自分から「二次元コンプレックス」とか「友達少なくても仕方がないほどアニメが好きです」と云うのです。そして、実際にそれで楽しくやってるんだから、彼らは本当にアニメが好きなのです。

中年だけが、カッコつける方向性を間違えるのです。バブル時代のヤクザ者(のイメージ)を真似して「世の中ゼニじゃ」と云えば、なんかイケてると思っちゃうのです。

でも、若い人に「うまくやる」などという話を聞かせるものではありません。

ニートとは、自分が年金もらえぬだけではありません。他人の老後を支えることもできません。同人稼業だけで50年間生き延びて、介護保険料を納めることは、ほぼ不可能です。あっちゅーまに淘汰されるからです。多くの人が骨身に沁みて知っている通りです。

若い人々に「同人やれば就職しなくてもいい」と思わせてしまえば、あなたの人生が終わります。

【8.前期高齢者と中年】

ほんと云うと、1975年に大学生以上として「コミケ」初開催に関わった人々は、今では60歳代になっているわけで、彼らは「みんなで渡れば怖くない。そこんとこよろしく。イエ~~イ」とか思われちゃ困ると思っている可能性があります。

もともとそういう所じゃなかったと思っている可能性があります。

でも、それより15歳くらい若くて、バブル真っ盛りを知っている世代が、若い人を煽動してしまうのです。

モラトリアム気分とは、自分の中で時間が進まない心です。社会の変化を無視する心です。だから自分より昔の話も知ろうとしない。歴史の流れの中に自分自身を置いて客観視することができない。1989年なら1989年のまま、前にも先にも行けずに、時間が止まっているのです。

【9.これからのブルーオーシャン】

これからの若い皆さんは、バブル組の偏見を受け継ぐ必要はないです。

もともと、1970年代中頃までに、プロ作品が爛熟してしまったのです。児童向けアニメを安価に生産するリミテッド方式もあったし、成人向けアニメラマもあった。真っ白に燃え尽きた若者もいたし、男装の麗人として生涯をまっとうした女もいた。しまいにゃ男の玩具になる少年まで描かれてしまった。

もうプロとして描ける要素は殆んど残っていないというところまで来てしまった時点から、急速に同人界の動きが活発化したのです。アニパロ(としてのエロス)とは、プロが描くことのできない「ブルーオーシャン」であり、まさに処女地だったのです。

だからこそ、それが行き着くところまで来た以上、また次の戦略を試してみる価値がある。ハーレムには飽きた・エロは要らないという声があるなら、ハーレムではないものを描けば第一人者になれる可能性がある。

べつに、ハーレムを描くかたわら、他のものに挑戦してみたって構いません。別ペンネームを使ったって良い。「何しか描いてはいけない」などということはありません。もともと、コミケとは『COM』なき後の漫画の可能性を探る挑戦そのものだったのです。

パロディ同人の作風を意図的に利用するようになったのが、1990年代の出版社で、これはまァ、もともと一蓮托生と云える。

明治時代の昔から、日本画・洋画の人々も、それぞれに何々会・何々展を組織しては新しいムーブメントを興していたわけで、それが社会の評判になると、出版社・新聞社が「画集を発行しませんか」とか「スポンサーになりましょう」とか云ってくる。これでやって来た。

社会の動きを追いかける記者は「ハイエナ」とまで称されることもあるけれども、出版社・レコード会社なども、基本的には(流行の発信者のような顔をしていますが)無名のアマチュアの自由活動の後追いなのです。

それを発掘する「スカウトマン」としての眼が彼らの生命線。だから、出版社にとって「同人は青田」なのは当たり前です。

偏見を持ってしまった人は、自分の偏見に足をすくわれる。他人のふり見て我がふり直しましょう。そして、会場と公共交通機関利用のマナーを守ってください。

総理大臣を代表とする大人の動きは、大人の言論によって牽制することができます。でも若い人自身がマナーを守らず、世論が炎上してしまえば、抑えようがないのです。

【10.テーマパークの約束】

現代の学生は、磁気カードとコンピュータで出席管理され、代返などあり得ず、サボることができません。

だからこそ「ゆるい」時代の学生に憧れ、モラトリアム気分を味わいたくて、コミケに集まるのかもしれません。だてに夏休み・冬休みに開催しておりません。

コミケというところは、ジュリアナ東京と同様、バブルが崩壊した後で有名になり、規模を拡大したのです。そこは、デフレ時代だからこそ、バブル気分・モラトリアム気分を味わうことのできるテーマパークの一種として機能している可能性があります。

それはそれでいいのです。昔っから「吉原大門」のように、治外法権的な遊興の場というのは存在したのです。

だからこそ、会場の外では騒がない約束です。

もし同人誌即売会参加者が、他人に対して思いやりがなく、自分たちで決めた約束事さえ守ることができない連中なら、次は何をしでかすか分からないので、社会は警察に頼んで取り締まってもらうことになります。

この社会とは、頭の固いジジ・ババではありません。若い人々です。

でも、コミケが1975年以来、長続きしてきたのは、意外なようですが、そこに集まる人々が、礼儀正しく、平和と安全を愛する日本人の代表であるからです。

同人は、行列を守ることができ、約束を守ることができるのです。

もともと「オタク」というのは、彼らがお互いに「てめェ」とか「この野郎」とか叫びながら暴力沙汰を起こしていたからではなく、「お宅はどちらからおいでになりましたか?」という言葉遣いをしていたからです。

教育の高い、温厚な中流家庭の出身者です。戦争に駆り出されるよりも絵や詩を描いていたほうがいいよという穏健派。どんなにやさぐれたように見えようとも、1950年代の純文学者たちの末裔です。

参加者みずから、忘れないようにしましょう。

なお、政府・首相の強権をもって、法律に特例を設けるという考え方は危険をはらんでいます。「表現の自由は認める。しかし……」というふうに、簡単にひっくり返る可能性がありますので、注意しましょう。政府が五輪開催前に完全決着をつけようとしている可能性も、ゼロではありません。

政治家は(ああ見えて)裏の裏を読み、歴史の流れは皮肉なものです。歴史に詳しいヒロイック・ファンタジー系の同人は、そういう知識を実際の現状認識にも活かしましょう。勝って兜の緒を締めよと昔の人も云いました。(勝ったとも申せませんけどもね)

2016/07/20

カーマと薔薇族の優しい嘘。

東郷健が云った「オカマという言葉は、カーマ(愛)が語源」というのは、イメージを良くするための戦術の一つですから、本来は「釜を掘る」であることに変わりはありません。

「陰間が語源」と云った場合にも同じことです。要するに「春をひさぐ」ことの一種として、女陰ではない部分を提供する男性ということです。

そういう人々が女装していることが多いので、そういう商売ではないのに女装している人々(たんなる女装趣味者・トランスMtoF)まで混同されて「オカマ」と呼ばれるという話です。

つまり、混同が発生しているのです。

それを、一つ一つ丁寧に呼び分けていくのか、まとめて「オカマ」と呼んだうえで「オカマ上等」と開き直るのか。

これは戦略の選択の問題です。選択する権利は個々の当事者にあります。それを「この俺が当事者代表として、どちらか一方の戦略しか認めん」と云えば、当事者コミュニティ内部から「あんた何様のつもり」という苦情が起きるわけです。

かつて論争が起きた原因は「性的マイノリティは一蓮托生!」と思っていたことです。マイノリティ内部のマジョリティ意識という、ひじょうに厄介な問題で、マイノリティとしての抑圧感が強いところほど起きやすい傾向があります。

強敵に対して、被害者意識・防衛意識が強く、「一致団結せんければいかーーん!」と思ってしまうからですね。かつての大日本帝国です。

でも、少数派の基本戦略は「みんな違って、みんないい」しかあり得ません。内部差別が発生すれば、どのセクトがマジョリティと癒着するかという利権争いになるからです。

根本的には、伏見憲明が云ったように「名指した時点で差別」です。

ただし、明らかにマジョリティ(シス・ストレート男女)と利害が相反する、少数派が不利である、生命・生活がかかっているという時には、なんらかの団体名を名乗って、認知運動を起こすことになります。

それに際して「オカマ上等の会」もあれば「トランスMtoFと呼んでほしい会」もあるということで、人それぞれ、個別対応。やっぱりこれが結論になります。

「ゴチャゴチャしてめんどくせェ! はっきりしろィ!」というのは、男らしいわけですが、それもまた、「男らしさの会」という主義主張の一つに過ぎません。

どこかの団体だけが実力(=暴力・武器)を持てば、他が不利になりますから、やればできる腕力を持っている人も、殴ったり、撃ったり、斬ったり張ったりしてはいけないというルールを守ってください、ということになります。

本来、このルールを守り抜くことこそ「男の美学」であり、やせがまんであって、それを先に破る外道がいるから、審判長がレッドカードを出して退場させるというのが、任侠映画であり、残侠映画なわけです。

唐獅子牡丹に泣くほどの漢は、弱い者を守ってあげましょう。

なお「薔薇族」ってのも、優しい嘘です。人目を忍んで密会していた人々を、伊藤文学というストレート男性が憐れんで、きれいな名前で呼んでやったものです。

だから、実際の同性志向男性の中には、それをお節介に感じて、いやがる人もあります。今では殆んど使われておりません。

古代ギリシャの伝説に基づくという話がありますが、ホメーロスにもオイディウスにも、そんな記述はありません。呉茂一が明るく描写したように、少なくとも古代ギリシャの神話・英雄伝説の世界では、男性の貴族が美少年を寵愛することは公認でしたから、わざわざ頭の上で咲いている薔薇の花を探し出して、秘密の愛を誓う必要はありません。

当時だって、成人男性の同性愛者がいたはずですから、奴隷同士が主人の眼を盗んで秘密の愛を誓うことはあったかもしれませんが、これは本当に秘密ですから、伝説にもなりません。

アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』を参照しても、薔薇(rose)に男色の意味はありません。西欧でゲイボーイを意味するのはパンジー(三色スミレ)であって、色としては紫です。赤ではありません。

薔薇は、とくに古代の原種に見られる一重咲きでは、花弁の形状からいって、女陰の象徴であり、各地で愛と生殖の女神に捧げられる花です。

キリスト教では聖母マリアに捧げられる花であり、これも彼女が「母の愛」を象徴し、古代の大女神に通じる性質があるからです。

だからこそ、厳格な(中世の)キリスト教徒にとっては、エロスと聖性の融合という雰囲気が危険な異教として感じられるわけで、日本では澁澤龍彦が「薔薇十字団」という秘密結社を紹介したことと、「under the rose」という英語の言い回しがあるために、薔薇が秘密を象徴するというふうに感じられたのでしょう。

なお「百合族」というのも、伊藤文学が「女性の同性愛は女性の自己愛だから」というので命名したそうですが、そもそも同性愛は自己愛の強すぎる人が「なる」ものではないうえに、古代ギリシャにおいて自己愛の象徴とされた花は水仙(ナルキッソス)であって、百合ではありません。

うなだれて咲く白い花ということで、伊藤が混同したのでしょうし、日本語の言い回しとして、美女を例えて「歩く姿は百合の花」というので、男装して颯爽と歩くレズビアンは百合の花のようだという印象だったのでしょう。

こちらはレズビアン当事者にも、イメージが美しいので、受け入れられているようです。

でも、レズビアンと聞いて「じゃあ百合族ですね」と云ったら、先方から「ちゃんとレズビアンと云ってください」と訂正される可能性は高いので、お気をつけ遊ばせ。

2016/07/20

これからの新宿二丁目と女性。

女性は「どうせ男も女も同じ人間じゃん」という理屈で社会進出して来ておりますので「どうせみんな同じじゃん病」に罹患しやすいのです。

しかも、つねに男女を比較して「まだまだ女のほうが不利だわ。もっともっと弱者特権を主張して行かなければならないわ」という、被害者意識がひっくり返った優越感・自分優先意識という、ややこしいものを抱えてしまうことがあります。

これを「私が一番可哀想病」と名付けることに致します。

なお、この「病」とは比喩であって、どこの医師が診断を下してくれるというものではありません。

【BLの場合】

上記の精神をBLに適用してしまうと、「どうせホモだからみんな同じじゃん」というわけで、創作物と新宿二丁目の区別ができない人になっちゃいます。

また同人活動に適用してしまうと「名古屋の奴らってテレビ放映が遅れてるから笑えるーー」といって天狗になっていた人が、新宿二丁目へ来ると「ゲイはいいなァ。私のほうが可哀想よ」と云っちゃう人になってしまいます。

ゲイも女性も同人も、いろいろなのが本当ですが、団体名で比較することが習慣になっている人は、根本的にマジョリティです。個別対応を求める「ダイバーシティ」運動の意味が分かっておりません。

これからの時代は、1980年代フェミニズムに裏打ちされた優越感がひっくり返った弱者特権意識と、それを口実にした弱者同士の連帯ごっこが各地で猛威をふるう可能性があります。

結婚しなかった人が今ごろになって寂しくなってしまうというだけが、きっかけになるのではありません。子育てを終わらせた人が、若いゲイの世話を焼くことを自分の使命のように勘違いしてしまう可能性もあるからです。

【中年の老後】

1970年代の日本では、すべての女性が二十四年組などによる美少年漫画を読んでいたと思っておけばいいです。少女漫画と一緒の雑誌に掲載されていたからです。

だから、いまだに「いつから同性愛になったの? 美しい人に出会ってしまったの?」という勘違いロマン派が存在する可能性があります。

また「青春時代のいたずらが基で同性愛になってしまったのなら、お医者さんに行って治しましょう」というタイプの勘違いも、まだ存在している可能性があります。

政治家や教育委員会の口から、時々そういう偏見が漏れることもありますね。

かえって過激路線を手がける同人のほうが、この点では安心で、「実在とは別」をモットーにしている同人さんのほうが多いものですけれども、なまじそういう世界に関わらずに生きて来たので、40年間情報更新できていないという人が、これから、やっちまう可能性があります。

新宿二丁目としては、客商売でもありますから、バリケードを築いて防ぐこともできませんので、ここで申し上げておきます。

新宿二丁目自体は良いところです。女性をこころよく迎えてくれるお店もあるそうです。だからこそ、女性のほうでマナー違反しないように致しましょう。

実在ゲイ男性は漫画ではありません。あなたの自己満足の道具でもありません。彼らに説教は必要ありません。彼らの身の上話を無理に聞かせてもらって、泣いてあげる必要もありません。

あなたの人生がままならないのも、彼らのせいではありません。

たとえ彼らが女性のステレオタイプを利用して、彼らなりに楽しんでいるとしても、あなたを苦しめるのは、それをさらに利用するストレート男性です。

漫画を読む人が悪いのではなく、真似して事件を起こす人が悪いのと同じです。

まさに自分自身が漫画と現実を混同する人が、新宿二丁目へ説教しに行っちゃうのです。そうです。「真似する人がいたらどうするんですか」と云ってるあなたこそ「真似して事件を起こす人」です。

喧嘩の相手を間違えてはいけません。殴り込む玄関を間違えてはいけません。

【近代化の弊害】

基本的人権として、みんな同じであることと、それぞれの権利を尊重することを、両立する必要があるのです。

みんな同じ人間だからこそ、違いを認めるのです。みんな同じだからこそ「個」の間の一線を越えてはならないのです。

この逆説が日本で理解されにくいことには、歴史的な要因があります。

日本は近代化した時に、世界が帝国主義の時代だったのです。しかも、なまじそれについて行くだけの底力があった(江戸時代の間に蓄えられていた)もんですから、近代化することと軍事教練を受けることを混同したのです。

それに儒教倫理と武士道精神がくっついて、裏から補強したので、それ自体は美化されてるもんですから「あやまちはくり返しませぬ」と云ったはずの戦後民主主義も、同調圧力大好きなのです。

こういう「人間精神の歴史的な成り立ち」というのは、自覚することが克服の第一歩となります。

【女性がゲイに人生相談できるとは限りません】

「ゲイは男心も女心も分かるから人生相談に使える」

これを云い出したのは、1990年代のテレビ芸能人の男性だったと思うのですが、まず「使える」という発想自体が差別的であることをわきまえておきましょう。

そのうえで、実際に彼らが人生相談を得意としているのかどうか考えてみます。

そもそも、芸能人男性には、手前の男心なら分かるわけです。また交際相手の女性が男を立てて、話を合わせてくれるタイプなら、「俺ァ女心が分からねェ」と悩む必要がない。じゃ彼は何をゲイに相談したいのか。

めんどくさい女と別れる方法です。

ストレート男性が、ゲイとひそかに共同戦線を張っている時には、女性に都合の悪い話をしています。

それに気づかずに、女性が「男女平等だから私もゲイに相談できるはずよ」と思っちゃうと、ゲイが腹の底ですごーーく冷たい眼をしている可能性は、かなり高いです。

彼らは「女心に調子を合わせてくれる女っぽい男」ではありません。「女の甘えを見抜く女の目を持った男」です。職場のお局さまや、お姑さんに近いと思ったほうがいいです。女同士で「なに、あの女」と陰口を云う感じに近いと思ったほうがいいです。笑ってるのは顔だけです。

なぜなら、彼らにとって、女性はストレート男性をはさんだライバルだからです。

彼らだって、有名な芸能人男性とお近づきになりたいわけですから「貴男を困らせる女なんて本当にバカよね。めんどくさい女は本当にめんどくさいわよね。いいわ、私がアドバイスしてあげる」って云いたいわけです。

べつに全員がそうだというわけではありませんし、敵愾心を燃やす必要もありませんが、女性のほうでそのように思って自戒したほうが、自分自身が赤っ恥をかく確率が低いという話です。

【戦後民主主義ってやつ】

子どもの運動会の徒競走で順位をつけるのは良くないというので、手をつないでゴールインさせた時代もありました。そういう完全平等主義は、ときに女性自身にとって両刃の剣となります。

男女に優劣をつける必要はないですが、立場の違いがあることはわきまえておきましょう。

とくに、ゲイを女性の仲間だと思うことは、もう何回でも云いますが、女性自身にだけ都合のいい勘違いです。


2016/07/20

血と薔薇族。

コミケは1980年代初期に分裂を経験しています。

すでにその時点で「アニパロ」作品の出展が増大しており、「同人活動は女のホモソーシャル」という性質も確立していたので、これ以降に参加した人にとっては「同人活動というのは、女性が男性からは何も教わらずに、自分なりのアイディアでどんどん書いていくものだ」と感じられるのは当然なのです。

今年49歳になる人は、1967年の生まれ。13歳になった時、1980年でした。1983年の大アニパロブームの時には16歳。購読者としても、新規出展者としても、中核となった世代です。だから、これより若い人々、つまり現在の40代以下の人々は、1970年代に起きたことについて、ほとんど知らないのです。

でも「アニパロの基は二十四年組作品」という公式説明がなされており、その二十四年組作品が戦前の男性作品を原案としていることは、漫画家自身の証言および作品から明らかです。

だから、それを読んで「目覚めた」と称する人は、男性作家の「孫」に当たります。自分自身がおじいちゃんの顔を知らない(=男性作品を直接読んだことがない)だけで、子孫には違いないのです。

このことは、二十四年組を読んでオリジナル漫画家(プロ漫画家)になった人、および森茉莉または栗本薫を読んで小説家になった人には、当たり前に理解されていることです。

森茉莉の場合「昔の希臘の貴族の男」に言及している以上、原案は五千年前まで遡ります。最低でも、1951年に日本で出版された呉茂一『ギリシャ神話』を読んでいます。

だから茉莉を読んだ人にとっては、真の原案は、古代に実在した男性の行動。少なくとも当時の男性詩人の夢想です。

ここで重要なのは「だからといって、現在の(ゲイを含めた)男性の云う通りに書いたり、修整したりしなければならないわけではないし、どうせコピーのコピーのコピーなんだから、もう描くなと云われる筋合いもない」という点です。

【1.歴史と現在、創作と現実の区別】

例えばの話「日本人のルーツは三万年前に大陸の何々地方に住んでいた」という歴史を確認したからといって、今の日本人が現在の何々地方の人々の家来にならなければならないということはない。ここの区別が必要なのです。

ここを勘違いすると、あわてて「私は明治文学なんて読んだことないわ!」と叫び出しちゃうのです。

勘違いする人というのは「男性文学の子孫であることを認めると、男性から何か云われる」という被害妄想を持ってしまっているのです。でも当方の意図は逆です。

いったん百年前まで突きつめるのです。その上で「百年前に成立したステレオタイプを再生産するという創作活動は、してはいけないのか?」と問うのです。

すると「いや、ミステリーだってそういうことはやっている」と云うことができる。

警察から証拠を借りて刑事事件を解決するなんて探偵は、実際にはいないのに、多くのミステリー作家が、そういう探偵がいる約束になっている世界を描いている。

ホラー作家やアニメ脚本家だって、実際に妖怪を見たことがあるわけではないのに、妖怪がいることになっている世界に住んでいる少年少女の物語を描き続けている。

創作物を「事実かどうか」を基準に断罪し、発禁にする権利は誰にもない。つまり「創作の自治」を主張することは、ゲイに質問することなど何もないということと裏表です。ここ重要です。

これが分からない人が、わざわざ新宿二丁目へ押しかけて、ゲイに向かって「漫画みたいなことって本当にあるの~~?」と質問してしまう。そのいっぽうで、他の男性に向かって「どうせ現実の女と交際できないくせに」と厭味を云うわけです。

男性に質問したり、喧嘩を売ったりする人は、要するに「かまってちゃん」です。自分自身が創作物だけでは満足できないのです。だから、もし「どうせ本物の巨乳には興味ないんでしょ?」と厭味を云うなら、揉ませてやればいいです。話を戻しましょう。

個々人が口々に「私は二十四年組を読んで目覚めた」「私はパタリロを読んだ」「私は高河ゆんを読んだ」と云っても、人それぞれなのは当たり前というだけであって、意味を成さないのです。

じゃなくて、一番最初まで、いったん時計を戻すのです。

では、BLが再生産し続けているイメージとは何か? じつは「男同士は異常」ではありません。日本の戦前の男性作品には「そういう奴もいる」と書いてあるのであって「奴らは異常だから、やっつけろ」と書いてあるのではない。金井湛くんは自分の身を守っただけです。

BLが再生産しているのは(端的には)「ストレート男性がストレート男性にいたずらすることもある」という、百年前の知識です。

では、そこから「憎からず思う」という情緒が生まれることは絶対にないのか? あるものとして、続きを描いてみよう。

これは「戦艦が空に浮くものとして描いてみよう」とか「人間と妖怪が友達になれるものとして描いてみよう」という創作上の挑戦であり、そうであるに過ぎません。

ここまで突きつめたとき「表現の自由」を主張することができる。

BLの場合は、未成年者の購読には相応しくない・または他人のトラウマを刺激する場面が含まれている(ことが多い)からゾーニングが必要だとされるけれども、「百年前の純文学を下敷きにした新作を書く」ということ自体が悪いわけではない。

では、なぜ突きつめるのだったでしょうか? 実在ゲイ男性からのリアリズム志向による批判を防ぐとともに、女性のほうから彼らに迷惑かけないためです。

というわけで、まずは戦前の男性作品がルーツの根本であることを確認しました。これで終わりにはなりません。なぜなら「アニパロ」というものがあるからです。誰が最初にアニメキャラクターを利用することを思いついたのか?

それはトランスゲイ男性の生まれつきの志向による、やむにやまれぬ表現だったのか?

【2.アニパロの母】

誰が最初にアニメキャラクターを利用することを思いついたのか?

それが完全に女性の自発であることを証明するためには、最初にコミケへアニパロを出展した人が、ギリシャ神話も、森茉莉も、二十四年組も読んだことがなく、アニメ番組を見ている内に、ひとりでに「組み合わせ」ることを思いついたという証拠を提出する必要があります。

ただし、インターネットも無かった時代に、アニメは好きだが、森茉莉も二十四年組も読んだことがないという人、したがって美男同士の物語が流行しつつあることを知らないという人が、コミケの存在だけは知っていて、そこへいきなり(まだ流行が始まってもいないのに)パロディ作品を持ちこむというのは、ちょっと考えにくいのです。

あるとしたら、男性と一緒になって「アニメ研究会」に所属しており、手塚・石ノ森なら読んだことがあって、『COM』へ投稿するつもりでSF漫画を描いていた(ので初期コミケからの招待状を受け取った)という、硬派な漫画ファンです。

そういう女性が「青年が大勢登場するSFアニメ番組を見ている内に我慢できなくなった」というなら、これは確かにトランスゲイかもしれません。ただし、この場合「自分を登場させる」のが本筋です。

【3.先輩と友人への配慮】

男性アニメファンの場合、好きな女性キャラクターがシャワーを浴びている絵を描くなんてのは、よくあることです。そういうイラストが「グラビア」として市販雑誌に載ったこともあるそうです。

その続きを描くとしたら、男性キャラクターが風呂場をのぞくというのが自然です。一般向けなら、水ぶっかけられて終わりですが、アマチュア同士で共有される肉筆回覧誌・私家版の範囲なら、もう少し踏み込んだ描写をしても、とりあえず編集者によって「ボツ」ということはない。

この場合、自分自身を「兵士A」として登場させ、彼女に対して思いを遂げるというのが最も自然な設定・描写なのです。

一般的な傾向として、男性はリアリズム尊重です。旧海軍の軍艦名を利用したゲームでも、美少女なら何でもいいわけではない。ちゃんと軍艦の性質を調べた上で、それを活かしたキャラクターデザインをする。補給艦の名を持つ少女は、他のキャラクターに対して「回復」の機能を果たすというように。

この基盤にあるのが、じつは「同じ男性の仕事に敬意を払う」という謙遜・遠慮の気持ち。あまり自分勝手なことはしないのです。

じつは、女性同人も同様で、他の女性同人のオリジナル作品について、勝手に利用するということはない。「キャラクターをお借りしてもいいですか」とか「お借りしました」と挨拶する約束です。

プロ漫画家に遠慮するのも「少女漫画家になりたいから」ではないのです。だったら小説家には遠慮しなくていいことになる。実際にはそうじゃない。おなじ女性である以上、漫画家に対しても、小説家に対しても、遠慮するのです。

話を戻すと、男性が女性キャラクターにいたずらするというパロディを描く場合、原作中の男性キャラクターを悪役として利用するよりは、自分自身を(少なくとも「影」として)登場させるのが一番自然なのです。

おなじ男のアニメファン同士で、女性キャラクターについて「何々ちゃんっていいよな」という話なら出来る。でも男性キャラクターについて、イメージを壊すということは原則、しない。キャラクターではなく自分以外のファンに遠慮するのです。

これが男性同人が「組み合わせ」を描かない根本原因です。

【4.トランスゲイ説の矛盾】

トランスゲイというのは、根本的に男性ですから、発想がストレート男性と同じです。作中の男性キャラクターに恋して、寝込みを襲うというパロディを構想したとして、自分自身を「兵士A」として登場させるのが最も自然です。

そして、この場合、おなじトランスゲイ男性以外には「この気持ちを分かってもらえない」と思うはずですから、「女性は読まないでください」と云うのが本当です。つまり、コミケには出展しない。

これが、トランスゲイ説の抱えている根本的な矛盾です。

「カミングアウトすれば差別されることを恐れて、こっそりと小説を書いている」という話なのですから、そんな小説を売り出すことはないはずです。まして、アニメキャラクターを利用して、原作者や原作ファンとの間にトラブルを起こすリスクを取ることは絶対にないはずです。

まず最初にトランスゲイの人権団体を立ち上げて、その中でのみ回覧するという手段を取るのでなければ、恐ろしくて発表できないはずです。

同人というのは対面販売です。万が一、原作ファンが怒鳴り込んで来たとき「トランスゲイなんです~~」とは云えないと思うなら、そもそも出展しなければいいです。

もし「すでに多くの女性が出展しているので、トランスゲイの俺も女性のふりをして出展させてもらった」ということであれば、本人はトランスゲイでもいいですが、ほかの多くの女性については、なんの説明にもなっていません。

(1990年代の解説書というのは、プロとパロを混同しているので、説明になっていないのです)

【5.定型の利用】

つまり、生来の性的志向に基づく自己表現としては「組み合わせ」というアイディアは生まれて来ない。

生まれて来るのは、すでに「男同士」という物語の定型を知っていて、そこへ他の作品のキャラクターを当てはめる・キャスティングするという「遊び」が思いつかれた時です。

そして、それが同様に「すでに定型を知っている人」によって、難なく受け入れられた時です。

ストレート女性にとって、若い男性が二人も登場して、毎日ケンカしていたのに、いざという時には協力するという物語を観て「いいわね、男同士って」と思うことはよくあるのです。

「男同士の友情って、見ていて気持ちのいいものだわ」というのは、かなり古い(1950年代の)映画でも女性の台詞として表現されています。脚本家は男性ですが、実際に女性がよくそういうことを云うものだという印象が、脚本家にも、監督にも、観客にも共有されていたのでしょう。

つまり、女性が男の友情を(嫉妬しつつも本気で引き離そうとするのではなく)称賛するということはある。根本的には女性が平和志向で「仲良きことは美しきかな」と思うからです。

ただし「その二人の間で恋が芽生える」という発想は、やはり滅多なことでは生まれて来ない。タブー意識・差別意識があれば尚更です。そもそも、サッパリしているからこそ、それは恋愛ではないはずです。

でも他人の作品によって「そんなこともあるんだ!?」と知った時、解禁ということになります。だからこそ「吊橋理論で同性愛が芽生えることって本当にあるの?」という質問も生まれて来る。

質問の背景には「とても実際にあるとは思えないが、そういう話をどこかで読んだことがある」という記憶があるわけです。

でも、もともと自分自身の中に男性自認があって、実際に林間学校などで男子生徒と協力して登山コースの難所を乗り越えた時、強い愛情を感じたという経験のある人(トランスゲイ)なら、そんな質問をするまでもないのです。

少なくとも質問者にとって、まったく実感がない。だからこそ「新宿二丁目まで行って訊いてみよう」となってしまう。

もう、新宿二丁目で余計な質問をする女が大勢いると(ゲイコミュニティから)云われた時点で、その人々自身がトランスゲイではないことは明々白々だったのです。なんで気づかなかったのか。

【6.男性社会による薫陶】

ここまでで分かったことは「BLのルーツは戦前の男性作品である」「トランスゲイからアニパロは生まれない」の2点です。

逆にいえば、それはトランスではない=生来の女性自認者が戦前の男性作品を利用した、実体験の記憶をともなわない、創作上の技法です。

もし戦前の男性作品を下敷きにしていることをもって「パロディ」と云うならば、さらにそれを下敷きにして、アニメキャラクターを適用した創作技法は、パロディのパロディということになります。

アニメに対してパロディであると同時に、戦前の男性作品に対してパロディのパロディなのです。この二重性が同人作品の理解を難しくするので、やたらと余計な分析が生まれたのです。

なお「誰が最初にアニメキャラクターを利用した作品を出展したのか」については、1975年から1978年頃までの出展作品をすべて調べる必要があります。研究の名において協力を求めることができるとしたら、本物の研究者です。還暦に達した同人当事者たちの協力が得られるようでしたら挑戦してみてください。

では、次はその「パロディのパロディ」の変遷について。

1980年代後半以降の同人作品について「なぜ少女の書いたものがこんなに過激なのか!? 彼女たちに何が起きたのか!?」と心配しても、あんまり意味はないのです。男性中心社会によって豊富な資料が与えられていたからです。

少なくとも成人に達していたベテラン同人が資料を購入し、それを利用した作品を後輩たちがまた利用するという「コピーのコピーのコピー」が可能だっただけです。

1980年代は、ゲイコミュニティがエイズの媒介者として迫害される恐れがあったので、反動的に人権運動を活性化させており、彼らに関する出版物が飛躍的に増えたのです。当事者による誇り高き名著もあれば、共感的な作家が書いた社会派ミステリもあれば、ポルノグラフィを主とする雑誌もあり、医師による啓発書もあり、ライターとか文化人とか称するタイプのストレート男性による偏見だらけの自称解説書もありました。

また、映画界にはヴィスコンティ、パゾリーニ以来の蓄積があり、『アナザーカントリー』があり、『カラヴァッジォ』があり、『モーリス』その他(けっこうあるのです)があった以上、たとえ二十四年組がいなかったとしても、誰かが描く。

防ぎたければ「女は観るな」という他ないけれども、映画会社・劇場がそれを公式声明として発表することはできない。

男性は、そもそも視聴しないか、評論の仕事としてやむを得ず観たとしても「俺にゃ関係ねェ」と思う他ない。女流は当事者意識がないからこそ、同工異曲の作品を何本でも描いてしまう。ここ重要です。

当事者意識があれば残酷な作品は描けない。プライベートな心理を描いた自伝的作品なら面白半分の少女たちに読んでもらいたいとは思わない。読んだ挙句に「異常」とか「やばい」とか云われたいわけがない。

本当の当事者からはBLは生まれて来ないのです。少なくとも、それを読んだ挙句に新宿二丁目の人々をからかうという行動は生まれて来ない。

問題発言の含まれる作品は、非当事者である少女自身が一次または二次資料(先輩の作品)に接した感想が「異常」だったから、そのまま書いちゃった、というだけです。

じゃ、なぜ異常だと思いながら描くのか? ひと目見てきもち悪いと思ったのなら、視聴なり読書なりを中断して、見なかったことにすればいい。

それでも描くことを「カネのため」と云うなら、新宿二丁目は絶対に同人を許しません。これは肝に銘じておくといいです。

ここで「女が一人で生きていくのは大変なんだよ!? 協力するのが当たり前でしょ!?」と云うならば、彼らにとっては、勝手に同人になっておいて、勝手に押しかけて来て、急に説教する変なオバサンでしかありません。

同人が唯一彼らと合意できることは「暴力反対」だけです。

同人はもとより「ペンは剣よりも強し」で、ゲイも武闘派ではありません。だから実力行使・正面衝突ということにはならない。レインボーパレードがコミケに突入して「薄い本」を没収したということもない。機動隊に出動して頂くまでもありません。

積極策としても、消極策としても、できるのは、一線を引いて共存することだけです。

【7.硬派の少女漫画化】

二十四年組が描いたような男子校物語は、そのイメージモデルが洋画や翻訳小説として与えられたことはないので、日本の男性作家が書いた自伝小説の要素に西欧的な味つけを加えて美化したものです。

西欧では行間に落としこんだからこそ「クィア・リーディング」という技法が成り立つくらいで、宗教的≒市民道徳的に大問題とされる話題ですから、明示的に題材にする作家もおりませんで、1969年以前の映画には、その話題は一切なかったと云っていいでしょうし、「ストーンウォールの反乱後」の1970年代にも、映画にトランス的キャラクターが登場すれば「不気味な連中」という扱いでしたが……

日本では古い映画にも芝居の女形が登場し、美的なものとされておりましたし、「衆道」という伝統があって、戦前の男性作家が書いた時点で「硬派」と呼ばれ、男の友情の最高の形態として美化されており、タブー意識が低かったのです。

森鴎外も尾崎士郎も、本音では違和感を持っているんですけれども、だからといって「硬派」を差別してやった・攻撃してやったという思い出話ではなく、出版社としても、その話題が含まれているなら引き受けないというわけでもない。

じつは「異常」とも「禁断」とも思われていなかったからこそ、女流がイメージ利用することも可能だったのです。これくらいなら俺にも分かると思っちゃうストレート男性も結構いたのです。

ただし、具体的に何をやっているのか分からなかった。それがゲイコミュニティ側の情報公開によって過激化が可能になったというのが1980年代以降の現象で、またそうであるに過ぎません。

【8.血と薔薇族】

薔薇は西欧においては女性名詞ですし、シューベルトの歌曲(になったゲーテの詩)や『不思議の国のアリス』に例があるように、擬人化される時も女性です。

いっぽう、伊藤文学というストレート男性が、街角で密会する男たちを憐れんで、きれいな名前で呼んでやったというのが「薔薇族」で、これは日本独特の現象です。(雑誌の創刊は1971年7月。)

西欧でゲイボーイを意味するのは三色スミレ(パンジー)であり、色としては紫です。西欧のシンボル体系の中に薔薇が男色を象徴するという発想はありません。日本(少なくとも伊藤本人)において、薔薇が秘密を象徴すると思われていたので、独特の用法が生じたのです。

で、その言葉を知っていて、なおかつ「血と薔薇」をモチーフにした吸血鬼漫画を読むと、「美少年同士が薔薇の花とともに秘密の愛を交わしている」という連想もまた生じやすいわけで、薔薇が禁断の美少年(同士の愛)を象徴するというのも、日本独特の用法です。

ギリシャ神話には薔薇にまつわるエピソードはありませんし、アンドレセンも『ロッキーホラーショー』も『サテュリコン』も、1960年代における森茉莉の小説の登場人物さえも、べつに薔薇園に住んでいるという話ではありませんでしたね?

西欧のゲイコミュニティが日本のゲイ漫画を指す言葉は「Bara-manga」。彼らは「日本の仲間だけが自分のことを『Bara』という」と思っているのであって、自分たちのことを「Rose-pride」とは申しません。正解は「Rainbow-pride」です。

薔薇園にたたずむ美少年は禁断の愛の世界の住人であるという「イメージ」は、美少年と「血と薔薇」と『薔薇族』がゴチャ混ぜになったことによって、1970年代に生まれて来たもので、これは日本独特なのです。

これを最も有効利用したのが魔夜峰央だったろうと思われます。じつはその他の女流作品には、あまり「薔薇と美少年」というモチーフは登場しないのです。唯一登場するのが青池『イブの息子たち』(1975年連載開始)で、これは青池の作風からいって、わざと混同したのです。

図式化すると:薔薇族→血と薔薇→ヴァン・ローゼ族→ダイヤモンド輸出機構の美少年スパイ。

それは最初から、ストレート男性における勘違いを利用したジョークの一種であり、そのステレオタイプ化であり、コピーのコピーのコピーだったのです。ゲイに質問してみることなど何もありません。伊藤も青池も魔夜も、ストレートです。

この動きに同人を含めて考えても構いません。すでに同人(のほとんど)がトランスゲイではないことは証明済みです。

だから、ストレート女性の同人が、美少年と「血と薔薇」と『薔薇族』(とアニメキャラ)を混同し、その流行を察知したプロが自作に利用したという経緯は、おおいに考えられますが、本論の結果には影響しません。

すなわち、それはトランスゲイによる自己表現ではなく、ストレートによる創作技法です。だから(トランス)ゲイに質問することは何もないし、彼らから「リアリティがない」という理由で発禁を求められる筋合いもない。

ここまでで、1978年。これ以降の作品は、すべて「コピーのコピーのコピー」です。

ここで、ゲイコミュニティとしては「そもそも我々が密会しなければならないのは、ストレート社会が我々を差別するせいだから、秘密を意味する薔薇が同性愛を象徴するという用法も差別的であるので撤回されたい」と云うことができます。正しい主張です。実際に薔薇族という言葉は現在では殆んど使われなくなりました。

ただし、少年というのは性愛の対象にされるべきではありませんし、吸血鬼の犠牲になるべきでもありません。だから、まァ百歩譲って「薔薇が少年の不可侵性・少年趣味の禁忌性を象徴する」とは云えるかもしれません。

少年(のイメージ)を愛好する人々の胸の内にだけ、秘密の薔薇が咲いているのです。きれいに云ってみました。

ここまで、要するに「BLは男性の影響を受けて生まれて来た」という話です。

【9.百合の逆転の可能性】

歴史に「if」は無いとはよく云われますが、もし女性に男性の書いたものを全く読ませず、女教師によって裁縫と女流の和歌ばかり教えておいたら、それでもBLは生まれて来たか?

可能性はゼロではないのです。「私たちがお姉さまとのおつきあいを楽しんでいるように、男の子もお兄さまと恋文をやり取りしているに違いないわ」という逆転の発想は生まれ得る。そう考えると、強固な女性同士の連携と、男性への興味の両立も説明できるようです。

ただし、本当に女性同士で恋愛情緒を交換する一方で、男性の話題をタブー視するような女学校生活をエンジョイできている人からは、直接には生まれて来ない。とすると?

あくまで、男性への関心を共有する女性同士の「ガールズトーク」の一種として生まれて来るのです。その中で男性社会の裏側に関する「禁断の」情報が共有されたというのが本来の姿ですが、男性(による創作物)からの影響を一切排除して考えたいとすると?

自分自身には「エス」の相手がいなくて、「同級生の中に女同士で恋愛してるやつがいるので、からかってやるつもりで男同士に差し替えてやった」といったことになります。

この場合、BLは男性ホモソーシャルへの皮肉ではなく、女性ホモソーシャルへの皮肉ということになり、従来の学説は崩壊します。あらら。

そしてこの場合、お姉さまからお声がかからない程度の少女がBLに逃避するという残念な話になってしまいます。

【10.フェミっぽい同人】

上記の仮説は「自らの女性性に違和感があって、自分以外の女性をロールモデルとして受け入れることができず、女性キャラクターに感情移入できない子がBL派になる」という説との整合性は良いです。

女学校へ通いながらも、女性ホモソーシャルから落伍し、男に生まれれば良かったと思っている子からBLが生まれて来る。そういう伝統的な解釈によく合致します。

そして、そういう不遇な少女ばかり集まったのがコミケである。だから彼女たちは少女漫画が読めない・ふつうの女性ではない(トランスゲイである)という認識とも合致してしまいます。

そして、この説によれば「口唇愛期→同性愛→異性愛」という発展段階の途中で挫折して、異性愛に進化することができなかった(から「ノンセクシュアル」である)という主張が存在することも納得できるようです。

前提が間違っていても、間違いに気づかなければ、その前提に沿って立てられた仮説は、当然ながら全て正しいということになる。かつて、同人活動を「少女のホモソーシャル」と見た人々は、以上のような、それなりに一貫した論理を持っていたのです。

ただし、1970年代には、この発想はなかったのです。

なぜなら、プロの少女漫画と美少年漫画が同じ雑誌に掲載されていたからです。その中から「美少年漫画だけを選り分けて読む読者」という存在が認識され、そういう少女は特別におかしいという問題視が生まれたわけではなかったのです。

1980年代の吉田秋生、秋里和国などの作品も、少女漫画と一緒に少女向け雑誌に掲載されていましたね。

その後、1990年を境に「コミケ、アニメオタク」という存在が「犯罪者予備軍」という(間違った)イメージで報道されるようになりました。

ゲイコミュニティから「新宿二丁目の店で失礼な質問をする女性がいる」というクレーム文書が発せられたのが1994年。

「女性のアニメオタク」という存在が注目され、盛んに論じられるようになったのは1996年頃という声があります。とすると?

同人のイメージが悪くなっていた時代に、新宿二丁目で余計な騒ぎを起こした人がいたので、社会学者などが「そういう子は母親がトラウマになっているから仕方ないんですよ」と言い訳した、ということになります。

逆にいうと、余計な騒ぎを起こす人がいなければ、BLがトラウマやコンプレックスと結びつけられることはなかったのです。つまり、BLをトラウマと結びつけ、フェミのおもちゃにしてしまったのは、「トラウマ、トラウマ」と騒ぐ人自身です。

他人の話をすぐ真に受けて、「本当にそういうことってあるの!?」と騒ぐ人です。「新宿二丁目へ行って訊いてみなくちゃ! 女性の弱者特権だから、ゲイは答えてくれるはずよ!」と思っちゃう人自身です。

フェミっぽい同人が騒いだから、ゲイがマジで怒ったので、本物のフェミがしゃしゃり出て来たのです。つまり、妹が不始末をしでかしたので、お姉ちゃんが出てきたのです。

では改めて、フェミっぽい同人とは?

1980年代前半まで、同人界では「絶対に本物を怒らせるな。新宿二丁目へ行くな」という注意事項が共有されていました。当然ながら、フェミっぽい同人とは、それを知らない人です。

男女雇用機会均等法が改訂された1985年以降、女性の社会進出が本格化するとともに「積極的な女性」というイメージ利用が盛んになり、ワンレン・ボディコン・ハイレグ・アッシー・メッシーといった流行語が生まれた時代に……

「女の自由」の名のもとに、本来のサークルという形態を経由せずに、自分勝手にコミケ(を筆頭とする同人誌即売会)に個人参加し、最初から金目だの、もともとアニメファンではないなどと勝手なことばかり云った挙句に、編集部がかばってくれるというデマを広めた。

そういう人の、少なくとも一部が、1990年代に成人した途端に新宿二丁目へ乗り込んで、酒を飲んで騒いだのです。そして「フェミニズム」は、これを弁護したのです。

自分たちを含めて、そういう若い女性は、まだ1980年代に少女だった頃、母親の無理解に苦しめられたので、大人になりたがらないのは当然である、と。だから社会のルールを守れないのも当たり前であると。ゲイに謝る必要はないというわけです。

だから、このタイプの人は「フェミニズム」を目の仇にすることはできません。自分の口から「同人はフェミとは別よ。社会学っぽいBL批評はもうお断りよ」と云うことはできません。

まさにその「こういう漫画を読む少女は母親のトラウマに苦しめられている(だから罪に問わないでやってほしい)」というフェミニズム批評によって、すごく助けられているからです。

べつに、フェミならフェミでもいいのです。本気で弱者特権を主張して、ゲイバーに居座るなら、それはそれで確かにその女性の「表現の自由」です。

ゲイは暴力的な人々ではないので「強制排除」ということはしません。溜息をつきながら「仕方がない」と思っているだけです。女性自身も「ゲイに殴られる心配はない」と思って居座っているわけです。

ただ、だんだんにお店から本来のお客さんが減って行って、やがて完全閉店に至るというだけです。女性が自分の人権運動のつもりでゲイバーで頑張っても、ゲイからは愛されないし、感謝もされないというだけです。

【11.トラウマ目的論】

たとえばの話、テレビドラマの真似をして犯罪を起こす人がいたら、逮捕されるべきは脚本家ではありません。日本中の視聴者でもありません。実行犯です。

その人自身はトラウマのせいで精神に異常をきたしており、判断力を失っているのかもしれないが、他の人が全員「異常行動予備軍」とは限らない。

本当は、トラウマがあったからって、BLを読む必要も、同人になる必要もないのです。

男女の話がいやなら、天文学研究家になったっていい。誰からも揶揄されません。風景写真家になったっていい。SNSで人気者になれます。保育士になって大勢の子どもを育てたっていい。絵本作家になれば何十年間も印税を受け取ることができます。

にもかかわらず、自分から「私もトラウマ~~」って云っちゃう人はなんなんだ。

アドラーふうに云うと、本当は、たんにBLを読むことが楽しくて、やめたくないので、トラウマがあることにしていると考えたほうが良いでしょう。

この場合「べつにコンプレックスなんか無くたって、今どき誰でも普通にBLくらい読みますよ」って話にしちゃえば、トラウマだのコンプレックスだのを口実に新宿二丁目を騒がせるタイプはいなくなると思われます。

いっぽうに、本当に女性社会における人間関係の困難を抱えており、「もともと自分は女性ではない」と考えることに慰められるという人もあるので、この「女性自認が低い女性からの自然発生説」は、同人当事者・BL読者当事者にも受け入れられてしまうのです。

伝統的に(洋の東西南北を問わず)男尊女卑が根強いですから、男性が男性社会から落伍したからといって「俺も女になりたい」とか「女に生まれれば良かった」とは、なかなか云わないんですが、その逆はあり得るわけです。

「男に生まれていれば、女の苦労をせず、威張りながら楽に暮らせた」と思うわけです。

でも、あくまで憧れどまりだから、もし本当に男に生まれていれば、今度は男性社会の苛酷かつ具体的な暴力性に巻き込まれ、えらい苦労して、結局落伍する可能性のほうが高いということまでシミュレーションしてみないわけです。

とくに戦争に駆り出される心配の少ない戦後日本では、口先だけで「男はいいなァ」と云ってしまえるわけです。

【12.まとめ】

長々と論じてきたので、ここらでまとめましょう。

「薔薇が似合う(少女漫画チックな)美少年は、禁断の愛の世界に住んでいる」というのは、漫画家の頭の中で創られたイメージであり、完全なフィクションです。

それも萩尾望都自身ではなく、他の漫画家です。ここ重要です。ここに同人を含めてもいいです。(青池は『らぶり』を通じて同人界と交流があったと見ていいでしょう)

その発想元の一つになったのは「薔薇族」という言葉で、これはストレート男性による勘違いです。

アニパロとしてのBLというのは、その「薔薇が似(以下略)」という創作的定型に、他の作品のキャラクターを当てはめるという、パロディのパロディであり、当然ながら時系列的に最も後発です。

だから、それは完全に女流の自発であるということはできません。女流の先輩を通じて、必ず戦前の男性作品につながっています。だからこそ、現代の実在男性に質問することは何もありません。

それは、あえて例えれば、光速を超えて宇宙を航行する戦艦など現実には存在しないし、これからも建造されることはないだろうし、艦名以外に旧聯合艦隊の旗艦とは何の関わりもなく、江田島の卒業生に「ワープ」の質問をしても「知らない」と答えるだろうというのと同じです。

庶民のために悪い博徒を斬ってくれる良い博徒など、昔も今もこれからも存在しないというのと同じです。それらについて、NASAに問い合わせてみる必要もないし、暴力団事務所へインタビューに行く必要もありません。

でも「俺も見たよ。ビデオを全巻そろえてるよ」という本物さんがいる可能性はあります。JAXA職員の何人かは『ヤマト』のファンに違いありません。彼らは「こんなこともあろうかと!」という動画を見て大喜びしたことでしょう。何もかもみな懐かしい。だからといって、お仕事の邪魔をしてはいけません。

同様に、二十四年組漫画について、ゲイと語り合うということができる可能性はあります。ただし、彼ら自身のプライベートに踏み込むべきではありません。

女性に弱者特権があるかどうかは微妙です。ある点では女性のほうが依然として不利であり、ある点ではゲイのほうが憲法上でも民法上でも不利です。

また、新宿二丁目にいるのはゲイばかりではありません。レズビアンもトランス(性別違和)もいるし、その親御さんが加わっている可能性もあります。

若者の世話を焼こうと思ったら「うちの子に何か御用ですか?」と云われる可能性を覚悟しておきましょう。ストレート女性の被害者ブリッコを良い気持ちで見てくれる「当事者」は、一人もいないと思いましょう。

2016/07/19

1961年5月、内田吐夢『宮本武蔵』東映京都

やり直しのできんのが人生だ。

製作:大川博、原作:吉川英治、脚本:成沢昌義・鈴木尚之、撮影:坪井誠、美術:鈴木孝俊、音楽:伊福部昭

伊福部音楽の鳴り響くオープニングの格調高さに、ややのけぞりながら鑑賞開始。

まだ中村だった時代の錦之助が主演。たいへん熱血です。暑苦しいです。お通さん役・入江若葉は新人ですが、たいへん力量ある清純派ヒロインです。

天下分かれた後の関が原。冒頭から泥まみれで這いずり回る敗残の錦之助をカメラが追い回す衝撃的リアリズム。これ、カメラ自体を後ろに引っ張ってるんですよね?

以後はロケハンの勝利……と云いたいところですけれども、時々人声がわんわんと反響しております。美術もリアリズム路線。スタジオに樹が生えている。美しい遠景は(当然ながら)マット画で、姫路城と千年杉は(ときどき)模型。地味に手が込んでます。

語り口は吉川文学の完全映画化で、『バガボンド』ほどにも脚色がなく、いっそ淡々と云ってもよいほど真正面から武蔵の青春を辿ります。もともと甲高い声を体当たり演技に枯らす主演俳優は、いつぞやの大河ドラマそこのけで、顔が真っ黒に汚れてます。とにかく暑苦しいです。

「能面のようにいい男」って、ふつうあんまり云わないですけれども、錦之助の顔は目が大きくて、鼻筋が通っていて、頬がふっくらして、バタくさくはなくて、平太とか怪士とか飛出などの男性を現した能面を連想することです。

三国連太郎が沢庵和尚の役で、十年の間にすっかりベテランの風格になってます。長い脚でスタスタ歩くのが印象的。たけぞーが日本一のアホなので、沢庵との人間性の差が見どころになります。名台詞いっぱいです。

カメラはクレーンを使って思いきって高いところから、人物の動きを追って追って追って、ワンシーンが長いこと長いこと。

本位田のお婆や、木暮実千代演じる年増女も大活躍で、女性のたくましさを描く女性映画の一面もあります。人間の良心代表な「お通」さんもブレません。

歳を取った女性の言葉遣いがまた能楽の詞のようで、まだこういう脚本を書ける人がいたんだなと思われることです。

長い作品ではなく、たけぞーが沢庵の手で姫路城の天守に押し込められて、書物を読むようになったところで終了。ラストショットでは錦之助の面構えが変わって、本領発揮される続篇が意識されているようです。

おぬしもここを母の胎内とこころえ、よく臍の緒を養え。

物語にはヒネリがないですから、ものすごく面白いってんじゃないですけれども、主役の大熱演をカットなしで撮りきったことによる風格と、巨大な納屋を備えた農家・雄大な岩山など、これだけの建物と自然が残っていて、これだけのものが撮れたという、時代の証言・記録としての意味が大きいかと思われます。

2016/07/15

1957年、シドニー・ルメット『12 ANGRY MEN』MGM

This is one of the reasons why we are strong.

原作・脚本:レジナルド・ローズ 音楽:ケニオン・ホプキンス 撮影:ボリス・カウフマン 製作:ヘンリー・フォンダ、レジナルド・ローズ 

アメリカが強い理由はここにある。

『青い山脈』と『飢餓海峡』を観て、なんか似たような話で大事な作品をまだ観てないぞと思い出しまして、借りて来ました。作品選びも「ご縁」みたいなものが必要で、これでも手当たりしだいというわけではないのです。

ARS GRATIA ARTIS。特撮もアクションもロケハンも映像処理も有名主題歌も何もなく、脚本術で押しまくる約1時間35分の密室劇。「名探偵みんなそろえて『さて』と云い」を逆手に取った格好。

I have a reasonable doubt now.

裁判の判決をどうするか、陪審員が話し合うという、ただそれだけのことなんですが、じつにカメラワークが憎いです。

たぶん台本だけ読むと素っ気ないのです。英語は簡単な文章で、むずかしいこと云ってるわけではないのです。それをここまで味わい深くしたのはキャスティングの妙と役者の理解力、そしてその撮り方、編集のしかた。映画作りのお手本のようです。

撮り方としては、まさか実際にはそんなこともありますまいが、全篇ワンカットと云いたい濃密さで、俳優たちのシャツに素で汗がにじんでおります。

おっさんばかり12人で、絵的には地味で地味でどーーしよーーもないわけですが、展開はひじょうに早く、語弊を恐れずにいえば、たいへん楽しく見られます。

わりと重要なのは、重要な議論の間にはさまる雑談で、これがちゃんと描けているから、各人の個性が分かる。いつの間にか12人全員に感情移入させられてるんだから、すさまじいです。

なお、英語で「偏見」は prejudice で、先入観とも訳せるようです。

それにつけてもアメリカ人は話し合いがうまく、熱くなる奴がいると、必ず抑える奴もいる。じつは陪審員長が毅然としていることも重要。議論の間にインターバルを自然発生させているのも憎いところ。13人目の気分になります。

そのアメリカでさえ、実際にはなかなか起こらない奇跡の逆転劇だから尊いので、これを見て法律家になることを決意した学生なども多かったのかもしれません。(ミステリ作家かな?)

言葉の二義性を最大限に利用した掛け合いの面白さは唸るばかりですが、もっとも感動的なのは、この議論を成り立たせているのが、被告も自分も同じ人間だという基本的人権の意識であること。そして「人のふり見て我がふり直せ」という内省の意識。

もし先入観と差別意識にとらわれていたら、そういう人間は他人の目からどう見えるか?

I don't care whether I'm alone or not. It's MY right.

俳優の表情が変わった瞬間、音楽もなにもないのに画面の中で雰囲気が変わる。空気読むって本来こういうことだと思います。

劇中の登場人物というのは、もとより観客に人間性のサンプルを提示するわけですが、ここでは他の登場人物が典型的な人物を見て、みずからの姿を知るわけです。「逆手」は作中でも重要なポイントとなる要素ですが、脚本家自身が芝居というものの本質まで逆手に取ってしまいました。

なお、男性ばかりであることがわりと重要じゃないかと思われます。おなじ男だからこそ「お前みたいにはなりたくない」という意識が働く。ここにご婦人が加わっていると、またちょっと話のテーマがずれちゃうわけです。

1957年。女性を排除した映画を撮ることのできたギリギリの時代だったのかもしれません。

展開の面白さで呆気に取られた映画というと『切腹』と『ユージュアル・サスペクツ』『L.A.コンフィデンシャル』でしたが、これは……

話は分かってるわけです。有名だからというのもありますが、物語の落ちていく先としては、これしかあり得ない。そこへ至るまでの演技を拝見するわけです。

あらすじではなく、まさに細かい部分が重要なわけで、云ってしまわないほうがいい映画の典型かと思われます。

ジョゼフ・スウィーニーの、とぼけっぷり最高。最後の台詞の味わい深い素っ気なさは、結局のところ事件そのものはどうなんだという観客の大団円を期待する心に軽く喰らわせたジャブかもしれません。

2016/07/14

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2016/07/14

BLは、適度に楽しむフィクションです。

BLがトラブルとして認識されるのは、それで得た(偏った)知識が新宿二丁目へ持ち込まれた時です。

たとえば探偵小説のファンは、実際の警察による犯罪捜査の撹乱を願うものではありません。仁侠映画のファンは、実際の暴力団事務所を見物する素人が増えることを望むものではありません。ただそれだけの常識・約束が、BLでは守られていないのです。

とくに「同人やっていた」人は、サブカルパワーを過信してしまうことがあり、新宿二丁目に協力してやっている・繁盛させてやっているという独善的意識を持ってしまうことがあります。

現代では、SNSにおける言動、さらにTPP関連の話題として、二次創作全体・同人全体と混同した上で問題視されることも多いですが、それらは別稿といたします。(今回も少々長文です)

【1.もしも同人が新宿二丁目へ行ったら】

「きみは男性と交際するよりも、有名キャラクターを搾取し、同性愛をイメージ利用して、おカネもうけすることのほうが楽しかったんでしょ? 自分で選んだ道でしょ?

でも俺たちは、そういう創作物が流行したせいで、見知らぬ女性に跡をつけられたり、大事な人との時間を笑いものにされたりする被害が増えたんだよ。

きみがカネ勘定しながら笑っていた間に、俺たちは、せっかく新宿二丁目へ来てまで、女性にイジメられていたんだよ。どっちが不幸だと思う?」

これがゲイの言い分です。

同人が「その実行犯と私には直接の関係はない」と云っても、彼らは「じゃあいいよ」と云ってはくれません。

それはちょうど、女性が自分の生涯ただ一度の痴漢被害経験を元に「どうせ男なんてみんな同じよ! 一人も許せないわ!」って云うのと同じです。

「どうせ巨乳による肩こりの苦しみも知らないくせに、絵だけ描いて喜んでるんじゃないわよ!」って云うのと同じです。

ゲイに云わせりゃ「どうせ本当に異常だと云われる苦しみも知らないくせに『男同士は異常だ』とか書いてカネもうけしてるんじゃないよ」ってだけです。

同人が社会の被害者という顔をして、自分で自分になんとかセクシュアルだの、なんとかチルドレンだのとレッテルを貼り、同情を求めても、ゲイは共感してくれません。

同人は高い教育を受け、「表現の自由」の権利を存分に行使し、充分に自己実現できたのです。でもGLBTは、人生で最も大切なはずの、愛する人とともに祝福を受け、安心して生きる権利を奪われたままです。

ゲイの中には、おカネがない人もいます。家庭の事情・病気療養・障碍で実家を離れられない人もあるでしょう。彼らは新宿二丁目へ行くこともできません。そこで友達を見つけることも、恋人を見つけることもできません。

女性の中には、ときどき「我々はーーすべての抑圧にーー断固抵抗せねばならないーー」みたいな気分になっちゃう人もあるようです。

「男性が『女は新宿二丁目へ来るな』というのは女性差別だから良くない。ぜひ女性の権利を行使しなければならないわ」とか思っちゃうらしいです。声高に「どーーして行っちゃダメなの~~?」と訊く人もあるようです。

なに、行ってはいけないということはありません。

自分自身が上記のようなことを面と向かって云われて、赤っ恥かきたくなければ隠れてろってだけです。著作権について、えらそうなことを云わないのと同じです。

【2.フェミニズム的少女解釈の独善性】

もし、少女が夜遊びして成人男性を困らせたなら、大人の女性が云うべきことは、こうです。

「若い皆さん。BLもいいですが、まずは学校の宿題をきちんとやりましょう。まだ新宿二丁目へ夜遊びに行ってはいけません。実在男性の人権を尊重しましょう。お話の中の残酷はロマンチックに感じられることもありますが、本当のイジメはよくありません」

合わせて、少女たちの家庭にも注意を呼びかければいいです。これで新宿二丁目の被害はあるていど軽減されるはずです。

それでも彼らから「また中高生がうちの店に来て騒いでいる」という訴えが挙がるようなら、少年課の警察官を向かわせてもいいし、ゲイと大人の女性が協力して見回りボランティアを実施してもいい。

だって、未成年者に夜遊びさせないためなんですから、ストレート社会のためでもあります。でも、1990年代に性的少数派からのクレーム文書が発表された時、そういう対応は取られませんでした。では、何がなされたのか?

クレームを受け取った側である女性学者・評論家自身が「1980年代に(今でいう)BLに夢中になったのは何故か」という、言い訳をしたのです。

「あの頃」は、まだ母親たちに旧弊な意識が残っており、企業も女性の登用に理解がなく、少女(だった私)は将来を悲観し、他人の価値観による「女の幸せ」を拒否して生きる他なかった。

だからBLに夢中になりながら成長した少女が、成人すると新宿二丁目へ押しかけて、ゲイをからかうのは当然である。仕方のないことである。男性中心社会とお母さんがゲイに謝ればいい。あたし達は知らない。

こういう言い訳です。少女の深層心理研究に夢中になったのは当然です。自分のことだったからです。誰も実際に未成年である女性の心配などしていなかったのです。自分より若い性的マイノリティ男性の心を傷つける心配もしていなかったのです。

それが日本のフェミニズム? それが日本の大学教員?

ここで重要な問題に気づきます。

1990年代の時点で、すでに少女の非行問題ではなく、成人同士の人権問題であることの認識があったということです。少女論とは、「いま少女である人」の話ではなく、「むかし少女だった人」の話だったのです。

だから、現代の女性が新宿二丁目で無礼を働いた挙句に「私、まだ少女だから」と主張しても、自己弁護にはならないのです。ここで、同人全体の問題につながります。

もし同人というのが、モラトリアムで、アダルトチルドレンで、社会性が低く、善悪の判断ができず、自分から「まだ子どもだから。遊びだから」といえば許されると思っているような連中なら、そのうち漫画だけでは我慢できなくなって、漫画を描くよりも悪いことをするに違いないぞ、という話になるからです。

これは現代の同人にとって、致命的な「イメージ」です。もちろん「絶対にそうじゃない」と主張する必要があります。

だから、アダルトチルドレンだの、社会の被害者だの、弱者特権だのと云いたがる人々が、同人を自称したり、同人が使う隠語を自分を表すレッテルとして利用してくれたりすると、困るわけです。

とくに、同人自身が(トランスゲイという誤解を避けるために)食えなくなった少女を自称するようになって以来、こんどはそれを「フェミ」な人々が利用することが、混乱と被害を生んでいるのです。

【3.同人が自虐したわけ】

もともと同人(の一部)が自虐したのは権利問題を自覚していたからです。女の子であっても著作権問題を回避することはできないという覚悟があったからこそです。

1980年代・90年代の同人は、原作者が女性であっても男性であっても、その鶴の一声でジャンル壊滅という経験をしており、自分自身が「女の子」であることなど何の言い訳にもならないことを骨身に沁みて知っていたのです。

そもそも「表現の自由」は、男女にかかわらず万人に保障されています。だから同人も男女にかかわらず様々な表現に挑戦したのです。その上で、著作権というのは、それを侵害された人・した人の性別に関わらず適用され、詮議されるものなのです。

確かに「キャラクターの搾取」というのは、実在者の人権と同列に考えることはできません。でも原作者は「俺の著作者人格権が搾取された」と云うことができます。

それに対して、同人は「女の子だから別にいいでしょ」と云うつもりがなかったからこそ自虐したのです。ヤマもオチもないという隠語は、もともと創作物そのものを示す分類用語であって、人間を指す言葉ではありません。

「(理解できない人が読んでも)面白くないもの」を示す言葉はあっても、「それを描いた人物」が女性であることを示す言葉は、1998年に「トランスゲイ」という誤解が生じるまで、存在しなかったのです。

つまり、同人が自分から「こういうものを描いたのは女の子だから、大目に見てくれるでしょ」と云ったことは無いのです。後の時代の人・他業界の人々が、勝手に「何々少女」というレッテルを貼ったのです。

それを同人自身が真に受けちゃうようだと困るのです。

「BLはビジネスだ」と云う人もありますが、ビジネスだからこそ、権利問題は男女を問わず厳しく追及されるのです。フェミニズムの甘えは、同人には適用されないのです。だから「同人はフェミとは別」なのです。

にもかかわらず、弱者特権などと思っている人がいるようだと、同人のほうが困るのです。ここ重要です。

弱者特権が適用されたのは、1990年代に男性向け市販コミックの有害指定が起きた時、女性向け市販品についてです。出版社が「女性向けなら男性向けと同じ理屈で規制されることはない」という抜け道を見出したのです。同人には関係ないのです。もともと二次創作同人誌が名指しで有害指定されたことはないからです。

同人が恐れなければならないのは原作者による著作者人格権の行使。これだけです。それは女の子には適用されないということはないのです。

ここを混同すると「女の同人だから大丈夫」と勘違いする人が出て来ちゃうのです。また著作権を意識できていないと「あの子たちはモテないけど開き直っている」というふうな誤解が発生するのです。

そして、開き直った少女だから、どこへでも堂々と乗り込んで行く(これぞ新時代の自立した女性)という自己陶酔を生んでしまうのです。

でも、同人の自虐は、本来、甘えや開き直りの表現ではないのです。マジで見つかっちゃ困ると思っていたのです。その代わり、新宿二丁目にも迷惑かけるつもりではなかったのです。

もう1970年代のことを知っている人も少なくなったので、わざわざ現役同人に訊いてみなくていいです。「プロと混同されて注目されれば困るのは同人のほうだ」ということを考えれば、論理的に導き出せることです。

【4.1970年代の普遍性、1990年代の特殊性】

すでにご承知の通り、1990年代の「研究者」による解釈は、著作権問題を無視しており、女流でありながら男性同士を描くことについて(社会的非難が強いので)自嘲せざるを得ないというものでした。この延長線上にトランスゲイ説も飛び出したわけです。

が、二十四年組作品が小学館漫画賞を受賞して以来、市販品が訴えられたとか、禁止されるという話は一回も出たことがなかったのですから、「男同士だからダメ」という解釈自体が成り立っていなかったのです。

しかも1970年代には、少女向け雑誌に少女漫画と美少年漫画が両方載っており、後者だけが読者からバッシングされたということはなかったのですから、寺山修司のように「最近では全ての少女がこういう表現を求めている」と云うことができたのです。

実際に当時の読者は「わたし『イブの息子たち』を読んだことがあるからトランスゲイなのかしら?」なんて悩んだことはなかったはずです。『悪魔の花嫁』も読んでいたんですから。

なんでも読む女性の中には、スカートをはく人もあればズボンをはく人もある。伝統的に女性的とされる職業につく人もあれば、男性的とされる職業に挑戦する人もある。なにを読むかにかかわらず、現実の女性自身の人生は自由である。これで話が済んだのです。

でも、1990年を境に「アニメオタク」という存在・同人誌即売会という催事が(まちがって)悪いイメージで注目されるようになってしまった。端的には、ここから話がおかしくなったのです。

同人のほうでは、もちろん、いつの時代であろうとも、自分たちの問題性を的確に認識している。世間で『パタリロ!』がアニメ化(1982年)されようが、映画『モーリス』(1987年)が流行しようが、文庫が創設されようが、雑誌が創刊されようが、「私たちの作品は読まないでください」という自虐を続けざるを得ない。

ここで、同人活動というものを理解したい大人たちのほうには、なまじ1970年代の記憶があったわけです。

「最近では全ての少女がこういう表現を求めている」という印象が残っているから、アニパロを好む少女たちについて、プロの先生にお話を伺ってみようという姿勢になってしまう。

だからこそ、プロによる「バイアス」が掛かるわけです。あの子たちはおかしい。プロになりたいと云いながら私に挨拶もして来ない。コミュニケーション能力がない。コミケ会場に閉じこもって、わざと悪いことをしている。反社会的だ。引きこもりだ。親の育て方が悪かった……

すると社会のほうで「なるほど、最近はそういう若者が多い」と納得しちゃうのです。

【5.パロディの動機】

ここで、パロ同人のほうから創作動機を説明できると良かったのです。でも、ツイッターも無かった時代に、当事者には弁明の機会が与えられませんでした。(だから今ごろになって「好きキャラを受けにする」なんて自己分析が披露されているのです)

でも、例によって理詰めで明かして行くことは可能です。

まず、誤解されがちですが「カネ」は理由になりません。売る人にとってはそうでも、買う人は何が面白くて、わざわざカネを出すのかという問題が残ってしまうからです。

「エロ」も理由になりません。なぜ市販品よりも煽情的に感じるのかという問題が残ってしまうからです。

「市販品は生ぬるいから」というのも理由になりません。なぜアマチュアが描いたオリジナル作品よりもパロディのほうが刺激的に感じるのかという問題が残ってしまうからです。

コミケは本来「アニパロ専科」ではありません。プロを目指してオリジナル漫画を描く人々の集まり(の集まり)だったところです。だから、アマチュアが超過激なオリジナル作品を描いて、コミケで売れば、なんの権利問題もなく、原作ファンとのトラブルもなく、そのまま単行本化しませんかというプロデビューの誘いにもつながりやすく、一石三鳥の万々歳なのに、なぜそうしないのか?

「だからパロディのほうが売れるから」と云うなら、話が最初に戻ってしまいます。

つまり、パロディのほうが「有名キャラクターが自分のものになったような気がして嬉しい」という、ファン心理に還元されるわけです。原作ファンから見れば、とんだファン心理ですが、誰も「きらいなキャラが主人公になってるから買う」って人はない。

さらに、「もともと同じキャラクターのファンだった人とすぐお友達になれる。流行に乗った気分」というものもあるでしょう。お祭り気分、ミーハー心理、群集心理、地縁結合が失われた時代の新たな帰属意識の模索……。どんな名前をつけてもいいですが、ともかく原作そのものの流行によって、すでに大勢の読者・視聴者に世界観が共有されているがゆえの独特の興趣がある。

なお、ここで面白半分に「電柱もあります!」とか云っちゃう人もあるかもしれませんが、墓穴です。「だったら、もうアニメキャラを利用するのをやめろよ」という話にしかならないからです。

また新宿二丁目の常連が「私はアニメオタクではない。原作も読んでいない。エロだけが目的でアニパロを買っていた(または書いていた)」と云うならば、そういう人がゲイを見物しているというだけです。

自己満足クレームの前に、よく考えましょう。

話を戻すと、結論として「ひじょうに漫画・アニメを好きな、新世代の人々による自己表現」ということができる。だからこそ、ここで問題が一般化されてしまう。「では、なぜ今どきの若い連中は『二次元コンプレックス』になりやすいのか?」

モラトリアム、引きこもり、ニート、母親の過保護、父親の無関心、教師の無責任、テレビゲームの悪影響、バーチャルリアリティ、生命の軽視、リセットできると思っている、ほっとくと危険だ……

でも少なくとも同人は、自分なりの表現で(副次的に)収入を得て、立派に自活しているつもりです。もし本当に原作者から告訴されても、よく話し合い、和解するということもできる。

いわゆる「レッセ・フェール」の状態で置いてもらえれば、べつに精神を病むこともないし、傷害事件も起こさない。すでに未成年者ではないから、刑事責任能力を問われることも分かっている。まさか、傷害事件を起こしておいて「まだモラトリアムだから」なんて言い張るつもりはない。

多くの同人は、ふつうに大人なのです。1990年代なら尚更です。1970年代には中学生だった人も、1980年代には高校生だった人も、みんな成人している。同人誌即売会参加者の一部にすぎない「少女」だけに着目した社会学的・心理学的分析は、困るのです。

しかもそれが1990年代以降の少女と、社会的立場の弱い男性たちの明るい未来を志向した研究や提言ではなく、すでに歳を取った研究者自身が責任を負いたくないがための言い訳では、誰の益にもならないのです。

どーせ責任取りたくないなら、クレーム文書を同人界に丸投げしてくれれば、同人(=出展者)は「私たちは新宿二丁目へは行かないという約束を守っています。親愛なる読者の皆様は、創作物と現実を区別してください」と明言することができたでしょう。

実際に、現代のSNSにおいては、現役出展者・プロ創作家から、そのような提言がなされているはずです。それは今も問題が収まっていない証拠ですが、各人の立場の違いを明確に示すものであると思われます。

(当方と致しましても、さまざまな声を拾った上で、こういう話を始めているわけでございます)

以上をあえて図式化すれば、「表現の自由」を標榜するプロ創作家たちがいて、その陰に「同人」がいて、この人たちは実在者とは一線を引いたつもりで創作活動そのものに邁進している。(昔の同人は本当に合同誌を出版していましたが、いまの人は一人で一冊出すので、大量の原稿が必要であり、忙しいのです)

いっぽうに「リード・オンリー・メンバー」がいて、この中に、実在者に甘えちゃう人と、創作物批評をアクチュアルな政治運動につなげたい人がいて、あるていど重なっている。

当方は、この重なった部分という、かなりピンポイントを狙って批判していると。こういうことになるかと思われます。

百歩譲って、BLを読んで、新宿二丁目へ行ってみて、当事者の声を聴いて、署名や寄付くらいには協力するようになったと。映画祭を見て、パレードに手を振って、模擬店でお買い物をして楽しかったと。みんな同じ人間だという意識を持つようになったと。だったら良いと云えるでしょう。でも彼らに説教を始めちゃうってなんなんだ。自分のほうが可哀想って云っちゃうってなんなんだ。

【5.伝記作者】

こっからは、BL読者が間違いを起こしやすい理由を、BLの創作動機から説明するという話です。

だいたい以前にも挙げた話題のくり返しですが、この「明日のために」というカテゴリを、当方の基調をまとめ読みできるカテゴリとして一貫させたいので、再論させて頂きます。さて。

シャーロック・ホームズの物語というのは、ワトソンがホームズを見習って、名探偵になる話ではありません。

男性の人生の目的は、必ずしも自分が「なる」ことではなく、よき友人を持つことでもある。でも、持った途端に彼の真似をする人物というのは周囲から尊敬されない。腰ぎんちゃくなどと呼ばれる。

ワトソンは、あくまで医師です。

ある程度の観察眼と論理的思考力を持ち合わせた人物として、事件の問題点を指摘し、ホームズの思索を助ける(というか興を添える)役目であり、ごくたま~~に偉大な友人の真似をして事件の証拠を発見してみようとするけれども、「やっぱり私じゃ無理だった」なんていう。

ミステリー好きの読者は、まさに自分のことのような気がして、微笑ましい気分になるわけです。

BLというのも、最初に女性キャラクターが登場して「私の友人の話を聞いてください」と始めれば、読者が戸惑うことはないのです。

「私の幼馴染の少年が、都会の男子校に入学し、そこで不思議な少年に出会ったそうです」という伝聞の形式であれば、世にも不思議な物語を語る手法として、なんの問題もありません。

実際に「ストレート同士の間に『真実の愛』が芽生えた」というのは、世にも不思議な物語なわけです。だからこそ「吊橋理論で同性愛が芽生えることって本当にあるの?」という質問も生まれる。

(「ねェよ」と答えてやってください)

世の中には「女性自身が男子校に入りたいという気持ちの表現だろう」と解釈した人もありました。でも、必ずしも自分がサッカーやりたい気持ちとは限らない。「ほかの男の子がやってることを見てるだけでいい」かもしれない。

ほかの男の子が恋愛している噂を聞きつけて、跡をつけ回すのであれば、迷惑な探偵ごっこです。「ユース」の名前を新聞に書くのであれば、迷惑な暴露屋です。自分が情報通として注目されたいだけです。

この気持ちをそのまま新宿二丁目へ持ち込めば?

ショーの観客である限りは、良いお客さんです。でも本来のお客様が男性専科だと思っている店や、婚活イベントの扉を押さえつけ、「おカネを払えばいいんでしょ!」というのでは良い態度とは云えない。

「女性差別よ!」と云うなら、彼らには「俺らを正式に結婚させろ」という権利がある。

なぜ女性は彼らのためには法律を改正してやらず、自分の権利だけ主張するのか。憲法で男女平等が保障されているから?

だったら、ストレートとゲイの平等を保障していない憲法が間違っているのです。少なくとも、新宿二丁目でサービスを受けようという女性は、ゲイからのこの問いかけに答えなければならない。大学者・政治家・人権団体代表であれば、なおさらです。

「明日から政治活動してやるから、今日は酒を出しなさいよ。そしてあんた達のコイバナを聞かせなさいよ」というのは、良い取引ではありません。

男女平等だからこそ、女性も社会のマナーを守る必要がある。むしろ男性よりも女性のほうが、弱い人々に対して優しさを発揮すればいいです。女性の美点となり、誇りとなります。

【6.トランス的悪役への感情移入という自己満足】

創作物における悪役というのは、創作者にとって最も違和感のある人物なのです。

若い女性が書いたものなら、セクハラオヤジ。太ったオバさん。うるさい母親。勝手に若い男女の仲を邪推して「恥ずかしがらなくてもいい」とか「ちゃんと紹介しなさい」なんて、理解のあるふりをして、恩着せがましく世話を焼きたがる。ほんと、うっとうしい。

男性が書いたものなら、まずは権力者。金持ちの老人。この国を社会主義者に渡してはならん!(西村晃ふうに)

「だからって何をしてもいいわけじゃねェだろ!」と、相手の独善性を裁いた時、ヒーローは最高にカッコ良く、観客は最高のカタルシスを得る。

そういう表現がそろそろ陳腐化した頃に流行り始めたのが、女性的な男性の悪役だったのです。

いちおう男性の体格をしてるんだけど、わりに細身で女性的で、紫色のアイシャドウや真っ赤な口紅をつけており、「おほほ」と笑う。アニメなら声優は男性。

これはスタッフの殆んどを占める男性にとって、最も気持ち悪い、許しがたい、つぶしてもいい相手なわけです。

ただし、これは「男装の麗人」の逆転で、女性観客のナルシシズムに資することがある。一見すると真逆なものというのは、帝国主義と共産主義がそうであったように、根は同じなのです。

とくに、子ども向け番組のヒーローは、多くの場合日本人の青年だから、その敵役というのは、同級生以上の日本人男性をライバルとして、追いつけ追い越せというつもりで頑張っているウーマンリブ女性にとって、自己愛の象徴となり得る。

そこまではいいです。「紫の人が好き」という気持ちは本人のもので、誰にも禁止はできない。

ただし、これをGLBTが見ると、つらく、哀しいのです。

多くの場合、ヒーローチームは黒髪の日本人男女で、いずれは結婚し、子どもを持つことが前提されている。そういう人々が、化粧した男を指さして「気持ち悪い。許せない。やっつけろ」と叫ぶ。

やっつけられて、ほうほうの態で逃げ出す姿を「良い子」の視聴者が見て、大笑いする。

ゲイ(の少なくとも一部)は、一緒に見ちゃいられないでしょう。「自分もあのマンガみたいにやっつけられたらどうしよう。次はお前の番だと云われたらどうしよう」 

これが真の当事者意識です。この気持ちを、ストレート女性のほうで分からないなら、立場を逆転させてみるといいのです。

男性向けドラマの中で若い女性が「ボコボコにされる」という場面があって、男の視聴者たちがゲラゲラ笑っている。やっちまえとか云っている。

もし一緒になって笑っている女性があるとしたら、よほど創作物を突き放した目で見ることができる人か、自分も男になったと勘違いしている人です。

でも、ドラマを見終わった男たちが自分のほうへ振り向いて「次はお前だ」と叫んだら、ギクッとするでしょう。早く逃げなきゃと思うでしょう。ドラマの登場人物になった気分でボコボコにされたいわとは思わないでしょう。

当事者意識とは、被害者意識なのです。

悪役としてのトランス的キャラクターというのは、ストレート同士・女同士で「好き」と云っている限りにおいて、面白かったり、ロマンチックだったりするのです。基本が自己愛だから、好きという気持ちに陶酔的な興奮がともなうのは当然です。

二次創作BLというのは、設定上はストレート(女性の婚約者などがいる)として登場した男性キャラクターを、女役としてキャスティングし直し、新たな作品を描くものです。

それにはそれなりの技術と熱意が傾注される。誤解されがちですが「原稿用紙を買ってくるのもめんどくさい」という人は、二次創作同人にはなりません。二次創作同人というのは、男性中心社会に傷つけられて、生きる気力をなくした可哀想な女の子ではありません。

やる気のある人が(収入に結びつくことを励みに)一生懸命に描く。腱鞘炎になるかもしれない。読む人が読めば傑作です。「神」と呼ぶかもしれない。それはそれでいい。

でも、いずれも新宿二丁目へ持ちこむことではありません。

トランス悪役キャラクターが好きだからGLBTについて講義しますという先生も、当事者から見れば「全然わかってない」ということになる。

分かっていれば「トランス的人物を悪役として表現することに抗議します」となるのが本当です。

【7.女性特有のナルシシズム】

トランス的男性キャラクターへの感情移入は女性の自己満足にすぎない。

これは、残念ながら、ストレート女性側は云われないと分からないのです。自分自身の「好き」という気持ちに夢中ですから、それが失礼だと批判されるとは思ってもみない。

この基盤には「女性特有のナルシシズム」という要素があるわけで、自分は常に正しいと信じている。誰からも批判されないと思っている。自分が好きと云うからには周囲が同意してくれると思っている。

女性特有のナルシシズムと云ったのは、ずいぶん昔(昭和30年代)の男性評論家で、もともと女流の文筆家に関する言です。

詩作や古典研究にいそしむ女性たちというのは、富裕な良家の出身で、昭和30年代でありながら大学まで進ませてもらえたと考えることができる。

そういう女性たちの、少なくとも一部が「天狗」になりやすく、独善的で、意外なほど視野がせまい。批判に対して、すぐヒステリックになる。そういう意味です。

やはり、ひじょうに愛されて育った。我がままを聞いてもらえた。「頭がいい」と持ち上げられて育った。男性を凌駕したようなつもりでいる。

そういう心理を皮肉った言葉です。いまでは性差別的として印刷できない言葉かもしれませんが、女性のほうで自戒にするといいです。

少なくとも、GLBTを相手に発揮する要素ではありません。

2016/07/14

1980年代『花とゆめ』のBL化と、「禁断の愛」のハッピーエンド化。

1980年代前半、白泉社の少女向け漫画雑誌『花とゆめ』に連載されていた女流作品が途中からBL化したという現象は、確かにあったのです。

もともと金髪美少年を主人公に、二十四年組の二番煎じ要素を持っていた作品が、3本くらい。多くはないです。『花とゆめ』そのものについては以前に詳述しましたが、たいへん多彩な連載陣・作品をそろえた意欲的な雑誌でした。(今もあります)

そのうちの3本くらいが該当作品にすぎません。1960年代以来のベテラン女流や男性漫画家は大丈夫だったんですが、1970年代末以降にデビューした若手女流で、もともと(絵柄からいって)1980年代初頭の同人界の流行に触れたと思われる人々が、案の定というべきか。

それについて論じろと云われてもですね……そのレベルではないのです。竹宮作品のように最初から「男性社会の裏側を描く」という明確なテーマ設定を持って、遠大なプロットを構想した上で制作に取りかかったというのではなく。

とりあえず少女を中心にしたラブコメや、前代に流行したスパイアクションにトリビュートした不定期連載を見切り発車させておいて、シリーズが長引いて、話が行き詰まった頃にBL化した、と。言葉の本来の意味における退廃現象といっていいと思います。

これは当時の当方の感想としても「ああ、やっちまったな」とか「それ描いちゃおしまい」というものでしかなかったのです。

だから現代の読者の中に「BLにエロは要らない」という声があるのも分かるのです。

ストレート女性読者にとって、「イケメン」が二人も出てくれば、お買い得感があるのは当たり前で、彼らの間にその気があるのかないのか、様子を見守っている間が楽しいという情緒。

少女漫画なら、結ばれるのかどうかハッキリしないまま、30年間も連載やってることがあるわけですから。

ただし、途中からBL化というパターンが好きだという人もいる可能性はあるのです。ついにその時を迎えたという感動も、やっぱりあるわけで、「あの頃は本当にワクワクした」という思い出話なら、それはそれでいいのです。

ただし、それならそれで一貫していてほしいのです。

そういう趣味の人が「最近は過激BLと少女漫画にハッキリ分かれちゃってて面白くないですね!」って云って来るなら良いのです。

あの頃は出版社も漫画家も、同人界の急成長を意識しながら、読者の反応を見ながら、手探り状態だったはずなので、BLとしてカテゴライズが確立した今となっては、少女漫画だと思って読んでいたらBLになっちゃった・漫画家自身もビックリしたという現象は、もう起きないのです。

だからこそ「またああいうのが雑誌に載るといいですよね!」という人がいるなら分かるのです。

でも、こちらの話を勝手に勘違いして「市販雑誌でエロを読みたいなんて変よ!」と云って来るようだと、なんのこっちゃなわけです。自分自身は途中からBL化することに大いに期待して、お友達とともに読みふけっていたと云う人が、他人は読んじゃダメよって。

自分自身は市販漫画で目覚めたと称する人が、自分が同人活動を始めた途端に、市販雑誌に客を取られたくないので、市販雑誌に過激作品が載ることを阻止しようって。

そもそもそういう話ではなく、「エロは要らない」という人のために、プラトニック作品の掲載が増えるといいですねという話なのに、勝手に勘違いするほど、市販雑誌を目の敵にしているのです。あげくに栗本薫作品の「移行」を非難するなら、野妻作品においてそういう展開を心待ちにしていたという自分をどうするのか。

同人界は、いつからこんな自分勝手をのさばらせるようになったのか。

ここで当方としても「同人怖い~~! 早く規制して!」と云って終わりにできれば、それはそれで楽なんですが、もっと冷静で公平で友好的な同人さんを何人も知っているものですから、彼らに不義理はできんのです。いろんな個人がいて、いろんなサークルがあって、いろんな目的があって、いろんな作品があったのです。今もあるのです。

ほんと云うと、偏見だらけ・自分勝手だらけ・自分一人を正当化したいだけという人は、そのせいで同人界から弾かれちゃったんじゃないかな、と思います。

【退廃と耽美】

まことについでのようですが、かつてのBL作品が退廃・耽美と称されたのは、未成年者を玩具にしながら親の金で暮らすという貴族の生活を描いていたからです。

その貴族の子が入学した先にいるのも、当然ながら富裕階級の子弟で、それが勉強もせんと悪い遊びをしているという話だったから、退廃なのです。

精神が退廃すると同性愛になるんじゃなく、共学校が退廃すりゃ不純異性交遊が始まるのです。

少年を主人公にした退廃青春物語が「禁断の愛」なら、少女を主人公にした退廃青春物語も同じ名前で売ってみりゃ良かったのです。

同性愛だから禁断だと思い込んだのは、そう思った人自身がもともと持っていた差別意識のせいで、冷静に考えてみると、少女が学校で……という話なら禁断ではないってことはないのです。

でも、それは当時の出版社社員である男性たちにとって、まさに「私たちのもの」であって、少女に読ませるものではなかったのです。でも、たぶん、やってみると意外なほど後者の需要が多いのです。

ケータイ小説の流行は、要するにそういうことだったのです。社会は、抑圧された少女がBLに逃避すると思い込みましたが、その陰で、もっと抑圧されていた少女たちがいたのです。

BLを読める子・描ける子は、むしろイケてる。流行の最先端にいる。コミケで遊ぶことができる。でも私たちには行くところがない。そういう少女が自主性を発揮したらケータイ小説になったのです。

BLは、少なくとも戦前の男性作家が書き遺した物語世界において、少年ばかりが閉じ込められた場所では必ずあることとされながら、少年漫画として描くことはできない(から女流が描く)という「ブルーオーシャン」だったのです。

でも本当は、禁断の少女漫画を少女が読むという発想こそ、盲点だったのです。(だから今ごろやってるのです)

BLに戻すと、1980年代の「少女」が起こした新しいムーヴメントがあったとしたら、若者同士の関係を(学業に飽きたゆえの)一時的な退廃・悪い遊びとはとらえず、活発に運動にはげむ若者たちの、未来へ向かう人間関係の構築として描き得たことだったのです。

そこから性愛の要素を除くと、入学試験の問題としてさえ通用する青春スポーツ物語が生まれて来るのです。かつて女流が男性同士の心の交流を描くという作品世界は想像もつかなかった。男性編集者も、女流自身も、女性読者がそれを読みたがるとは思っていなかった。

同人(の少なくとも一部)が「ヤマもオチもない」という言葉の陰で、自らその先入観にとらわれることなく、二次創作に真顔で取り組んだことには、確かに意義があったのです。

でも、萩尾・竹宮作品では、若者たちの人生が途中で断たれてしまった。だから切ないのです。幸せになるはずの子たちだった。読者(の少なくとも一部)は、ハッピーエンドを願っていた。なのに……と思うから切ないのです。

萩尾たちにおいて、第二次性徴を迎える前に人生を停止し、美の象徴となった(漫画家自身にとっての)異性キャラクターが何を意味するのかというのは、やっぱり伝統的な深層心理分析的批評の出番じゃないかと思いますが今は深入りしません。

二次創作に戻すと、1983年のブームが、その担い手とともに成長して、二次創作そのものの続編・長編化を産み、原作とは違うキャラクターの成長後の姿を描くまでになり、固定ファンを得て、今に至る。それは、プロ漫画を退廃させたいっぽうで、創作界全体の次のステージを用意した、ビッグバン的な現象ではあったのです。

2016/07/14

警察力の「リソース」というジョーカー。

では、警察を入れない話を致しましょう。

公僕の人的資源を漫画の検閲に傾注すると、実在被害の捜査・保護に差し支えるというのは、説得力のある材料のようですが、「じゃあ警察を増員しろよ」という声を呼んでしまいます。

また、「漫画のほうはボランティアで対応しよう」という声も出てくる可能性があります。

対立者を黙らせる最高の切り札のように思われることが、じつは最悪のジョーカーということがあるのです。

なぜなら、「そこが一番の問題である」と指摘してしまえば、次は「じゃあ、そこをなんとかしよう」という知恵が出てくるからです。

売り言葉に買い言葉で話がズレたまま進んでしまわないように、「そもそも漫画を取り締まるべきでない」ということを忘れないのが基本です。

【人間がきらいなものに注目する三つの理由】

漫画を規制するという話が出たときに分かったことですが、世の中には、わざわざ苦手な漫画を購読する人もあるらしいです。

わざわざ「気持ち悪い」と分かっている本の頁を広げてみて、「ううっ、気持ち悪い」と震えるのは、どういうプレイなのか。

「きらいなものの検閲に時間を取られるより、もともと好きなことに邁進して、趣味のサイトを充実させる」といった建設的な作業にいそしむことができない理由には、三つあります。

一つは、好きなことをしても共感してくれる人がいない。

現代漫画の批判が起きる時は、必ず「昔の漫画は」という懐古趣味がセットになっているものです。

その昔の漫画を紹介する・再販に結びつけるといった作業がうまく行かないので、気に入っているものを応援するよりも、気に入っていないものを叩くという負のパワーになってしまうのです。

もう一つは、共感してもらうも何も、もともと趣味がない。仕事一筋だった。

もう一つは、好きなことをするよりも大きな興奮を得られる。

すなわち、人間も動物なので、縄張り争いするとき最も生きがいを感じるという傾向です。「種の保存」本能といいますが、実際には個体の保存なわけです。個体の遺伝子の保存。それを保障するために、自分の仲間だと思う者だけを生き残らせたいので、自分から歩き回り、仲間ではないと思う者を見つけ出して、先制攻撃をかける。

べつに漫画に限った話じゃなく、世界中の、歴史上の、すべての闘争が、これによって起きていると思えばいいでしょう。

漫画に話を戻すと、すでにバッシングが起きている時には、「こういう漫画をきらいなのは私だけじゃないんだ」と思うと、急に友達増えたような気分になって嬉しくなっちゃうということもあります。

漫画派は「苦手な漫画を見つけてしまったら、そっと閉じればいい」と云いますが、それじゃ済まない理由の根は深いのです。

だからこそ、理性によって獣性(本能)を抑えることが尊いわけで、まずは落ち着いてくださいと申し上げるのが基本です。少なくとも、自分のほうから喧嘩腰になってはいけません。

なにか云われた時には悔しいですけれども、相手が喧嘩腰だから、こちらも不良の口調で応じるというのは「お相手してあげる」という意志表示であり、これも寂しい人が陥りやすい心の罠ではあります。

2016/07/13

1966年2月、マキノ雅弘『日本侠客伝 血斗神田祭り』東映京都

待て待て待て! 警察を入れるんじゃねェぞォ!

脚本:笠原和夫、撮影:わし尾元也、音楽:斉藤一郎、助監督:原田隆司

シリーズ屈指の名作。と云いたいのが一杯あるわけですが、これはたぶん名作中の名作。

神田のまとい持ち、火事は消しても燃える心が消さりょうか。逆デジャヴュを感じつつ。役者の吐く息が白いです。『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』・『昭和残侠伝 一匹狼』と同じ年。健&純子にはお忙しいことです。

高倉と鶴田の二枚看板に、まだ若い藤山寛美の名人芸をコメディリリーフ以上に使いこなして。極道サスペンスと、三者三様の枯れススキ的ロマンスのいずれも見ごたえのある回。火事と喧嘩は、そうそう起こってもらっちゃ困るわけで、藤山を狂言回しに、出動しない時の鳶の衆が何やってるのかという説明がなされるのも興味深いです。

マキノさんにゃ珍しいほどのローアングル&クローズアップと、音楽の劇的な使い方で緊迫感を高めます。男の甘えも女の甘えも許さない(が描ききる)笠原の心意気と、リベラル魂も燃えてます。『侠客伝』は、笠原が腕を上げて行く様子が手に取るように分かるようでもあって、面白いですね。

トランペットとティンパニを効かせたオープニング曲がいつにも増して格調高く、情趣深く響きます。タイトルバックが現代(1966年当時)の本職の出初式の実録で、これ自体が貴重な映像かと思われます。

本篇入ると、大正十年。木遣り歌も風情な鳶の正月道中に車をつっこむ天津敏。今回は一番組の「看板」を着た善玉のほうに常日頃の(?)悪役俳優が顔を連ねて、壮観です。大木実は今日も大政みたいな立ち位置で、いいとこ見せました。里見幸太郎はピカピカに若いです。

天津は三つ揃いの似合うインテリヤクザ(ふう)で、イカサマ博打に堅気をはめる悪い人。おうちが広いです。悪役を一人で背負いきったので立派だったと思います。賭場にはどこかの博奕打ちがまぎれ込んでいます。

たいへん段取り良く人間関係が明かされたところで、この頃には高倉健のキャラクター性がハッキリしていたようで、いい度胸で気持ちよく新しい場面を開きに来てくれます。

高倉のべらんめェと鶴田の関西弁がいいバランス。男が男の何に惚れるって、手の届かない女に惚れぬく純情に惚れるのです。

藤純子はね、やっぱりあんまり賢い女じゃないのです。行った先で芸者ができるんだから、気はいいのです。たぶん仕事仲間の女性にも人気がある。流されたなりに強いというかな。愚かな女の典型の中で、最も美しい人。

駆け落ち者をかくまってくれた親分さんの仇討ちという話はどっかで聞いたような気もしますが、飛車角だったり爆弾常だったりしたあの人は、もう五・六人道連れにするところ。珍しいほどの長尺は、監督から仁侠スター第一人者への敬愛の証でしょうか。

高倉の得物は鳶らしく鳶口(手鉤)でしたが、長ドスに持ち替えてからの立ち姿がやっぱり決まります。顔立ちにもまだ若い輝きがありました。

高いところからの群衆描写もマキノ監督の上手いところで、町中の鳶の衆が泣かせます。まといがひるがえるラストシーンは、仁侠映画史上最も美しい場面かもしれません。

2016/07/13

1968年9月、山下耕作『緋牡丹博徒』東映京都

ご当家の親分さん、お姐ェさん。陰ながら、お許しこうむります。

脚本:鈴木則文、撮影:古谷伸、音楽:渡辺岳夫、助監督:本田達男

女だてらとお笑いくださいますならば、仁義、お受け致します。(『次郎長三国志』より)

おんな一匹、緋牡丹渡世。こちらも控えてみました。仁義の口上をスラスラ述べるのは男でも難しいみたいで、風間重吉(池部良)の他には、このお龍さんがピカイチじゃないかと思います。

純子の歌唱については云わないことにして、山下監督はやや耽美派というか技巧派というか、オープニングからカッ飛ばしております。

山下式クローズアップ&モンタージュは、やや荒削り感がありますが、応援したい気分になります。音楽が渡辺岳夫のせいか、5年くらい後の出崎アニメを観る味わいもあります。

基本は渡世人世直し行脚。個人的な恨みを抱えて(荷物も持たんと)旅をする「すっごいきれいなおねえちゃん」が、行く先々の喧嘩出入りに一枚噛んで、「ぶしつけなお願い」をして廻るわけでございます。

道後へ行ったり、大阪へ行ったり、富三郎や虹子の役が明らかに続編を意識しているので、ややまだるっこしい感もありますが、まずはこの一本にやりたいことを詰め込んだようで、見せ場は盛りだくさん。

意外なほど大勢の男性キャラクターそれぞれの事情を取り込んで、やや複雑な話をよくまとめたと思います。

お龍さんはとにかくきれいで、啖呵も決まるが台詞のない場面の顔の芝居もよく、殊に男の口から「女のくせに」って意味のことを云われるたびに、こめかみに怒りを走らせ、プイッと背ける横顔と首筋の線が美しい。

こう見ていると、女性の社会進出を阻むのは、要するに縄張り争いなんだなと思いました。男性陣としては、誰でもいいから頭数を減らして自分の取り分を増やしたいわけで、女性でなければ老人・病人が「おやっさん、もう無理するな」とか云われちゃうのでしょう。

で、お龍さんが女を捨てたつもりで頑張ることになるわけですが、他人の喧嘩を買って出る理由は、女らしい思いやりの心なのでした。なお、女は血の臭いには慣れているものです。

高倉健が特別出演で、主役じゃないので、本人の背負ってるシリーズではあり得ない珍しい対立の構図や、ラストシーンが観られます。主役じゃないので、背中で語る場面が多いわけで、裾を思いきって短く着つけた着流し姿の格好よさが、むしろ他の作品より際立ちます。

大木実が悪役だけれども、表情に根の人のよさがにじむのでした。侍上がりという設定がたいへん似合ってます。永遠の大政。

山本麟一も、出演史上空前絶後じゃないかというほど出番が多く、悪い人みたいな顔してるけど本当はいい人という持ち味が最高に生かされていたかと思います。ああ本当にお嬢さんが好きだったんだな……と思うと泣けました。純子の小娘ぶりっこ演技も可愛かったです。

前半の若山富三郎と金子信雄はやや漫画タッチで、何がしたかったのかと思うに、美女の一人旅という極端なフィクションの世界に観客をいざなう道化の役ですね。富三郎の本領発揮は次回以降のお楽しみ。

殴りこみは待田京介が大活躍で、爆弾常の下で修行した甲斐が。お龍さんは小太刀一本で、戦闘力は高いけれども、リーチが短いので、飛び道具も使うわけで、そこへ高倉が加わって、娯楽映画らしさは大盤振る舞い。長刀を構えた高倉の振りが大きくて、画面をいっぱいに支配する様子がよく分かります。撮るほうも大変だけど、楽しかったろうと思います。

なお、乱戦の際には、斬られ役の中に毎回一人くらい過剰演技する奴がいるですな。(気持ちは分かる)

殺陣も体術も見事だったお龍さんには、改めて二代目襲名のご挨拶も頂いたので、続篇もお付き合いさせて頂きます。小沢茂弘だし。

2016/07/13

1963年10月、マキノ雅弘『次郎長三国志』東映

てめェ生国と発しまするは駿河にござんす。

企画:小倉浩一郎・俊藤浩滋、原作:村上元三、脚本:マキノ雅弘・山内鉄也、撮影:三木滋人、音楽:鈴木静一、助監督:山内鉄也

時代劇王国東映が放つ新・次郎長シリーズ第一弾(予告篇より)だそうです。近所のレンタル屋に『総長賭博』以降がそろってないもんですから、シフトしてみました。

のんびり明るい人情劇。安定のマキノ的俯瞰の構図から始まります。子分が一人ずつ増えていく様子を丁寧に描いています。マキノ監督はいつもそうですが、基本が舞台劇で、台詞同士のやり取りを大切にしているぶん、展開は、ゆる~~っとしています。

けれども、監督みずからの手になる脚本はなめらかで、無駄がありません。場面転換も潔く。BGMはジャズ調で良い感じ。ミュージカル映画時代も引きずってるようです。

松方弘樹がピカピカの21歳。「チャキリス張り」の粋なお兄ィさんで、すごくセクシーでカッコいいです。

鶴田もまだ若く、アイラインの濃い時代劇の化粧をしているので、節句に飾る人形のように美しいです。山城新伍は本領を遺憾なく発揮しており、大木実が大政として画面に重みを添えております。

どの俳優にも見せ場があるわけで、たいへん楽しそうです。役者の肩の力を抜かせるのが、マキノ監督の手腕の一つかもしれません。

物語はあくまで渡世人どうし・親分どうしの喧嘩出入りを描いているので、対国家権力闘争の色彩はついておりませんで、新興暴力団ってのもまだありませんから、基本ヤクザは一連托生。ギブアンドテイクが成り立つ世界の中で、のんびり喧嘩したり、預からせてもらったりしてます。

これが岡田茂の指揮下、任侠劇団の暗い世界観にはめられて行ったんだね……と、ちょっと思いました。

予告篇では藤純子が新人として紹介されていますが、いきなり芝居ができ上がっています。佐久間良子は……惚れた男くらいすぐに気づきなさいッ。

「ヤクザは人間の表家業にはねェ渡世だ。いわば外道の世界だぞ」

ところで博奕打ちとは何か? 外道の世界の「渡世の義理」がいやなら、足を洗って農夫にでも漁師にでも桶屋の職人にでも、ヨイトマケにでも、なればいいわけです。でも他人に使われたくない。汗を絞りたくない。一回の博奕で一カ月分をかせぎたい。要するに遊んで暮らしたい。一般市民の良識からすれば、ゴクツブシです。

負けて一文なしになったら、それ以上張りようがないので、次の町へ行くわけですが、路銀もないから、行った先の土地で一番の親分さんの世話になる。他人の家に上がり込んで、ただ飯を食わせてもらうわけです。食わせてもらえなければ餓えて野たれ死にしていたわけですから、親分さんにもらった命ってことになる。

次郎長の子分がだんだん増えてくると、次郎長自身が居候なので、水島道太郎演じる親分がだんだん大変そうです。

なお、サイコロも花札も、なにが出るのか、どう転ぶのか、イカサマしない限りコントロールできないんだから、勝っても負けても恨みっこなしの運だめしってのが本当で、あんまり熱くなるもんではなく、引き際が肝心です。それじゃお話が始まらないわけですが。

約100分ですが、明らかに物語の序盤で終わっているので、以下続篇、乞うご期待ということのようです。

2016/07/12

1968年10月、内田吐夢『人生劇場 飛車角と吉良常』東映東京

惚れるってのァ、いいことだよ。その代わり、惚れぬかなくっちゃァ、惚れた甲斐がねェよ。

製作:大川博、企画:俊藤浩滋・大久保忠幸・吉田達、脚本:棚田吾郎、撮影:仲沢半次郎、音楽:佐藤勝、編集:長澤嘉樹、助監督:三堀篤

あらやだびっくり。製作年代からいっても、鶴田浩二・若山富三郎・藤純子・中村竹弥・大木実・天津敏・山本麟一・山城新伍・松方弘樹・高倉健という、いつもの東映メンバーからいっても、てっきり二次創作的な娯楽任侠映画の三匹めの泥鰌というつもりで見始めたものですから参りましたごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

カラー撮影ですが、モノクロ時代のような気品あふれる原作尊重文芸調メロドラマでした。男と女だけじゃなくて、男と男の。

尾崎士郎『人生劇場』を真正面から映画化ということのようで、最初に登場するのは辰巳柳太郎演じる吉良常。ちゃんと青成父子思い出の大銀杏も登場します。

以後、舞台劇をそのまま撮る式の、息の長い場面を繰りかえし、台詞のやり取りを大切にして、それぞれの事情を登場人物自身に語らせますから、覚える台詞の分量が多いわけで、役者の技量が問われるのですが、本来が舞台劇専門の辰巳を中心に、映画界の大スターである鶴田が謙虚にお相手させて頂いているという風情。

メロドラマって(四方田犬彦によると)英雄による悲劇ではなく、自分の人生の先行きに何が起こるか分からない、人生を高いところから見ることのできない、神ならぬ身に生じる葛藤を描く物語をいうのだそうです。

おとよさんが、情熱的というよりは男心の分かっていない、自分の感情に流されやすい、甘やかされて生きる他ない愚かな女であることがよく分かります。これは、やや能天気な表情を持っている藤純子の個性にもよるのかもしれませんが、まずは監督の原作理解力によるのだろうと思いました。

男が男に惚れるのは、仁侠映画のお約束ですが、これはそのシーンがひじょうにきれいに撮られております。

吉良常は三州へ帰ってくると、ちょっとは顔がきく。いい格好ができる。その爽快感に満ちた後姿を少し遠くから撮ると、次に何か起こるように感じさせる。映画話法の教科書のようです。

暴力的なシーンは潔く省略され、暗示的な描写に留められており、これは現代演劇の手法のようにも思われます。よくこれを東映が通したなと思うほどでしたが、待ってましたのクライマックスは、ちゃんとありました。しかも映画ならではの技法がフルに投入されております。映画鑑賞中にこれほどビックリさせられた経験も他にないように思います。

あわてて他の内田作品を借りてこようと思ったことです。

2016/07/12

1963年5月、沢島忠『人生劇場 続 飛車角』東映東京

俺は日本の侠客だ、嘘は云わん。

企画:岡田茂・亀田耕司・吉田達、原作:尾崎士郎、脚本:相井一杭、撮影:藤井静、音楽:佐藤勝

前回以上の名作でした。撮影にも音楽の使い方にも、京都流の美学が横溢しております。(※監督が京都撮影所で修行した人)

前作は、明らかに続篇を意識した微妙なラストでしたが、無事に奈良坂を取ったようで、その後の角さんの一代記。脇役たちがいつものメンバーなので、だいぶ東映ワールド。(こっちの見る順序が逆転してるのです)

個人的に、あまり予備知識を入れずに「まずは見る」という方針なのですが、監督は時代劇を撮っていた方なのだろうと思いました。セットの構造をよく御存知のように思われます。ひじょうに高い所からの俯瞰の構図が絵巻物のようで印象的です。

音楽は、時おり古賀メロディーが画面に沁み入るように使われる他は、思いきって省略した大胆演出。音楽ではない「音」が重要です。

物語のほうは、青成くんの眼から見た額縁構造を取っており、観客の感動を、売出し中の作家・青成くんがそのまま言葉にしてくれます。竹脇無我は美男すぎて、どうにもデカダンでしたが、梅宮辰夫は都の西北の若者らしい爽やかさと純情さが感じられます。

パラレルワールドではなく、お話が続いておりますので、宮川(高倉健)が帰ってくることはなく、長門裕之が「兄貴、兄貴」とまとわりついて、愛嬌を振りまいております。名乗る時ァ、てめェのほうから仁義切るのが礼儀だそうです。

鶴田は、この長門のように器用ではなく、いつも一本調子でカッコいいことしか云わないわけですが、逆にいうと、それが出来たのですね。あまり上背のある人ではなく、カメラは意識的に煽ったり、彼の気風が場を支配する様子を、あえて遠くから狙ったりして、彼を大きく見せているのでした。

でも今回は、苦手なこともあるという可愛いところを見せてくれます。物静かな外見に比べて、意外なほど熱血。侠気一本、草履履きで北満の果てまで、男の操を証し立てに参ります。ロケ地はどこ……?

物語の中核は、佐久間良子の演技力を活かしたメロドラマなわけで、やっぱり戦前の女性映画がそのまま受け継がれている味わい。まったく女ってやつァ、一人で先走って勝手な理屈をこねるのです。

高倉健は、有名になったとき、すでに三十代に入っていたのですが、18歳の少年にしか見えず、いかにも年上の監督たちから好まれる男の愛嬌があったのですが、それだけに、鶴田をかすませてしまうところもありました。今回は、鶴田が一枚看板で押しまくります。

彼の侠気は本物のようで、若い衆を十把一絡げに扱うのは許せないという場面では、本当に声が泣いているのでした。

それだけに、相手となる悪役が重要なわけで、ヒラミキは誰だか分からないほど若かったですが、きれいな悪役でした。山本麟一は、すごく似合ってるし、楽しそうです。

月形龍之介は、役者の質が鶴田とちょっと「かぶる」ようなところがあるわけで、今回は役柄の重さに潔くメリハリをつけたのが良かったと思います。

それにつけても、ゴリ押しとも云うべき直談判エピソードは、大物プロデューサーの人柄を反映しているのかもしれませんね。

2016/07/12

1963年、沢島忠『人生劇場 飛車角』東映東京

もう、男の意地や義理はいや。

企画:岡田茂・亀田耕司・吉田達、原作:尾崎士郎、脚本:直居欽哉、撮影:藤井静、照明:川崎保之丞、音楽:佐藤勝、編集:田中修

製作の吉田は(岡田の命令で)『さらば宇宙戦艦ヤマト』にも深く関わっちゃった人。こっちは岡田が原作に大鉈をふるったんだそうで、飛車角が寄せ場にいる間の「おとよ」さんを中心にしたメロドラマ仕立て。台詞のやり取りを大切にした文芸調。

歌舞伎の世話物というか新派というか、伝統的な舞台劇が基本ですが、大胆な構図と、自然物を利用した無言の心象描写、前衛的なまでに潔いモンタージュという、映画ならではの技法を駆使した印象的な芸術作品でした。

鶴田浩二が飛車角。だいぶ熱血漢です。日本人形のようなというのは、ふつう女性の美貌の比喩に云うのですが、若さを残した鶴田(1924年生まれ)の顔立ちが、本当に人形のように美しいことが知れます。

高倉健は1931年生まれ。撮影時には31歳だったと思われますが、18歳の新人のように可愛い顔をしてます。小金一家の若いもの、宮川の役です。

吉良常は月形龍之介。いや月形龍之介が吉良常。田宮二郎とは違った役作りで、まさに燻し銀の味わい。十年前ってェと……アラカン相手に近藤勇でしたね。

黒澤『姿三四郎』の頃から、ボソボソと低く喋る独特な演技が変わっていないことが知れ、鶴田との実年齢の違い(1902年生まれ)もよく分かって、役柄とはまた別の意味で印象的でした。

どうしてもやっぱり仁侠映画の額縁を使って女性映画を撮りたいって気持ちもあるようで、男心に男が惚れるんだけれども、どういう男心かっていうと、恋女房を忘れられない純情さなのでした。

飛車角の物語として絞り込んだので、キャラクター構成がすごくシンプルで明確です。村田英雄は主題歌歌手のファンサービス出演程度ですが、うまいです。

当然ながら、誰を最初に登場させるかによって観客の中でキャラクターの印象と序列が決まるわけで、ラブシーンから始まった加藤版の瓢吉くんは、いかにも大正デカダンス。こっちは青雲の志を抱いた爽やかなワセダ学生で、逆にいうと、ただそれだけの脇役なのでした。

戦後の女はストッキングとともに強くなったわけで、この「おとよ」さんの暑苦しいまでのなりふり構わなさは、佐久間の演技力あってこそ。にもかかわらず女優として低迷期にあったという裏話を聞かされると、本人もこの一本に賭けていたのだろうと思われることですが、映画が撮られた年代をも、よく表現しているのかもしれません。。

終わり方が規格外れで、やや驚かされることです。

2016/07/11

1965年8月、マキノ雅弘『日本侠客伝 関東篇』東映京都

ヤクザってやつァ、いつも堅気さんに迷惑かけちまう。

脚本:村尾昭・笠原和夫・野上龍雄、撮影:吉田貞次、音楽:斉藤一郎

大正十三年、築地魚河岸。新旧組合対決。鶴田浩二最強伝説。

お久しぶりの侠客伝。このシリーズは二枚看板なので、それぞれにどういう役柄を与えるかが重要で、今回は映画二本分の太いプロットが最高に良い具合に重なっていたかと思います。

若い風来坊が、気っぷと腕っぷしの良さで土地の人々に歓迎され、リーダーに成長するまでを描いた青春ドラマ。

もうひとつは、帰って来た兄貴が陰ながら地元の守り神になる。

俳優の実年齢差がよく生かされ、男同士の「つきあいの良さ」に、女性への純情も重なって、ハッピーエンドながら一抹の苦味を帯びた大人の味わい。三本目にして品格を上げるマキノ節。

昔気質の商売を、権力と組んだ新興暴力団がつぶそうとする、いつものお話ですが、そういうわけで高倉と鶴田の立ち位置が良く、ほぼご本人出演の北島さぶちゃんと長門裕之の見せ場も大切にした、目配りの利いた一品です。名脚本家三人の息が合ったのかもしれません。

クライマックスもマキノさんにしちゃ珍しいなと云いたいほどの熱い描写でした。

序盤は滅多やたらと微笑ましい青春コメディ展開で、BGMまで若干ディズニーふう。高倉は不良少年のように登場しますが、途中でグッと顔が変わります。この人、じつは不器用じゃないですよね。

鶴田はもう何をやっても堂々とオーラを放射していて、体格の大きな男でもないし、いかつい顔でもないのですが、周囲が気圧される様子には説得力があるのでした。

悪役は上背が印象的な天津敏。顔もいいのです。何を着ても似合います。丹波哲郎も登場。しょせん野郎は売りもの買いもの。

博奕打ちシリーズではなく、侠客伝です。が、やや混乱して来たので、並行して見ないほうがいいのかもしれないと思い始めました(^^;)

2016/07/11

1967年7月、小沢茂弘『博奕打ち 不死身の勝負』

生まれ変わるためには、人よりも、自分を抑えることが大切だと、つくづく分かったです。

脚本:小沢茂弘・高田宏治、撮影:山岸長樹、音楽:渡辺宙明

シリーズ第三弾。前作から2カ月しか経ってませんが(!)、だいぶ路線変更しました。

前作は話がちがう世界へ行っちゃいましたが、今回は博打がちゃんと(ってのも変ですが)物語の中核に据えられており、その息詰まる緊張感と、豪快なアクションが両輪となって、まさに石炭をくべた機関車のように、「太か勝負」が前へ前へと驀進します。

第四弾『総長賭博』は三島好みの皮肉な悲劇だったわけですが、じつは博打を打ってないので、ちゃんとタイトルロールに仕事をさせている点で、こっちがシリーズの代表作に相応しいだろうと思います。

で、昭和初期の筑豊。雄大な空撮から入ります。音楽担当も変わって、曲調がハードなビッグバンドジャズになりました。物語もいきなりの殴りこみ。

北九州市若松区は『花と龍』にも出てきた地名だったかと思いますが、炭鉱という素材は映画監督たちの心をも荒ぶらせるのかもしれません。

石山健二郎は悪役かと思ったほど濃い顔ですが、筑豊の男の人情は輪をかけて濃かったです。新国劇の実演を拝見したかったですね。

鶴田は熱血な渡世人。石山の親分さん(というか社長さん)の人柄に感じ入って、自分を見つめなおす堅気修行。第一弾が博打打ちの道を貫いたことに比べて、ひねりが入っております。本当はもう少し若い俳優を使うべき役柄じゃないかという気もしますが、鶴田浩二というのは面白い人で、何を着ても、何を演じても、さまになるのでした。

体の大きな人じゃないので、そんなに喧嘩が強くもなさそうですけれども、「バクダン常じゃ!」と啖呵を切られれば、「参りました!」って云いたくなることです。

悪役は若山富三郎で、悪党ぶりが絶好調。藤山寛美は単なるコメディリリーフではなく、話を動かすキーパーソン。待田京介は例によって損な役ですが、死にっぷりの美しさで最高の回だったかと思います。

木暮実千代の女社長は女性の理想像の一つで、前半の花となります。橘ますみは清楚すぎて野暮ったいんですが、炭鉱町の生娘らしさが、いじらしいです。もうひとつ男心が分かってないというズレっぷりも。

最後の勝負はもちろん博打で、でもそれだけじゃ済まなくて、やっぱり白刃の出入り。ストーリーの落ちて行く先は見え透いているわけですが、そこがいいのです。「待ってました!」の連続。

任侠映画は歌舞伎の白波もの・仇討ちものの延長だから、大向こうから声をかけながら見るのがよいのです。

それにつけても、札ならまだしも、賽の目の出方なんて、錘でも仕込んでイカサマしないかぎり操りようがないんだから、本当に出たとこ勝負の「遊び」であって、勝っても負けても恨みっこなし。あまり熱くなっちゃいけない。身代まるごと賭けるようじゃ素人さんだよっていうのが本来じゃないかと思います。

(そこを無理にやるからお話になるので、真似しちゃいけませんよ。)

2016/07/11

1967年5月、小沢茂弘『博奕打ち 一匹竜』東映京都

脚本:小沢茂弘・高田宏治、撮影:わし尾元也、音楽:津島利章、協賛:江戸彫勇会有志

湯殿に菖蒲も香る、男の節句の代紋祭り。猟奇とエロスと品格と人情が無邪気に同居しちゃう世界観は日本でしか撮れません。

オープニングタイトルバックで墨(というか)を降ろしている真っ最中で、針が男肌を刻む音が延々と響いて参りまして、いてててててててててててて。

一瞬も「ガマン」できない自信ならありますorz

今回の鶴田浩二は、宇之吉っつぁんの名前で、売り出し中の彫師。博奕はあんまり上手くありませんが、巻き込まれ型ではなく、みずから業界の中枢へ踏み込んで行くので、物語の緊迫度は高いです。美男俳優数あれど、これほど体当たり演技で男を張った人も珍しいかもしれません。

踏み込んでいく途中で恋に出会うわけですが、監督自らによる脚本は、好きとも惚れたとも云わない内から男女双方で恋の情緒が芽生えたことを自覚しているところが良いのでした。カメラが時々異常な動きを見せて、感情の高まるままにブレながら急速にクローズアップするのが興味深いです。

木村俊恵の熱演を中心とする親子人情劇と、裏表に張りついた松尾嘉代の女の意気地が光る恋愛劇、藤山寛美・山城新吾のおとぼけ喜劇、中村竹弥・丹波哲郎による男惚れ任侠劇と、贅沢に配した上で、このシリーズのいいところは、基本的に鶴田の一枚看板なので、物語の主筋がシンプルなところ。

とくに今回は、「鬼若」との個人的な確執が最後まで全体を貫く太い軸となったのが印象的。

たいていの作品で、悪玉の親分さんは老境に入ったベテラン俳優が担当するので、あまり大立ち回りというふうにならず、逃げ回って終わることが多いのですが、今回は男盛りで体格も良い天津敏との「サシ」の勝負が、男の節句に相応しい見どころとなりました。「尺」もかなり長いです。小沢天皇は庶民の喜ぶ壷をご存知でした。

難を云えば、選曲に甘い(変に明るい)ところがあって、もしかしたら前作で「話が暗い」という意見があったのかもしれません。

2016/07/08

1965年、内田吐夢『飢餓海峡』東映東京

それは、日本のどこにでも見られる海峡である。

製作:大川博 原作:水上勉 脚本:鈴木尚之 撮影:仲沢半次郎 照明:川崎保之丞 音楽:富田勲 特撮:上村貞夫 助監督:山内柏

水上勉原作なんて聞くと「うっ純文学。むずかしそう」という怯えが走るわけですが、云ってよければたいへん面白く、見ごたえのあるサスペンスです。

青函連絡船層雲丸転覆事件裏面史。事件と捜査の経過を時系列順にじっくりと。北海道から下北、東京、舞鶴。長期現地ロケ大敢行。高いところからの構図は吐夢流「神」視点でしょうか。

昭和22年完全再現。丁寧に用意された捜査報告書も含めて、地味に費用かかってます。堂々3時間2分ですが緊張感が持続します。受賞歴がすごいです。富田音楽は前衛ふう。

どうも戦争の傷跡が残る世界から離れられませんで、とくに心がけて選んでいるわけではないものですから、昔の日本映画がその要素を抜きにはできなかったのでしょう。

原作が「戦後最大の問題作」と呼ばれた頃が懐かしいというべきか、いま見ると難しい話ではありませんが、そう感じられるのは、もちろんこっちの見る順序が逆転してるせいで、おそらくここから社会派サスペンスのプロットとしても、映像術としても、ステレオタイプが発生したのです。

東映W106撮影方式。モノクロ。オープニングクレジットを見て「特撮!?」と思ったら船の模型撮影と、遣らずの雨に泣く恐山でした。見事です。

人物がレリーフのように見える現像処理だけは、他の監督があんまりやってないので、内田吐夢の二番煎じと云われることを恐れたか。たんに手のかかる技術なのかもしれません。

序盤は「な、仲沢さんカメラを固定してください……」と云いたくなるほどの現場からの独占実況生中継タッチ。

三国連太郎は恐ろしいように立派な演技派俳優になりました。民俗色を取り入れた恐怖の演出は、1970年代のカラー洋画を思い出すような印象もありますが、暗い情緒で日本人の心に沁みます。

中盤はじっくりと静かなワンカット演出的女性映画ふう。構図とカメラワークの工夫で見せます。

水上文学の映像化に必要なのは演技力のある女優さんで、愚かな女の純情さと愛欲が神がかりな域にまで高まっていく傍らで、戦後の街は復興して明るさを増し、女の服装も変わっていくのでした。

高倉健の登場は1時間48分。まだ若くて可愛い顔してますが、演技への熱意がにじみます。じつは不器用じゃなかった人。

老骨、お役に立ちましょう。

後半は、哀れな女の生き様をしっかり見ていてくれた男たちの誠意が、実直な刑事たちの正義感に火をつけるのでした。

描写が時系列順ということは、まず事件を起こす人が最初に登場するわけで、観客の感情移入もこの人に固定されるわけです。彼とともに恐山に怯え、彼とともに行きずりの女に慰めを見出し。

それから、女の人生模様。捜査陣がそろうのは後半、と。

この頃の高倉は、ややファナティックな眼つきが印象的な、危険な香りのする男で、高圧的に犯人を追いつめる。本来はこっちが正義なのですが、観客の心は叙述トリック(の一種)によって、善悪が逆転して感じられるのでした。

私の話を、聞いてもらいまひょ。

そして自らの人間性を問われる捜査陣。ほぼ東映オールスターの中に東宝から藤田進が入って、台詞まわしは下手なままなんですが、演じるともない不思議な個性で、実在感が重いです。

台詞が互いに裏を突いたり、序盤で示された小道具が終盤で効いてきたり、六尺の大男であることが最後の最後へ来て意味を持ったり。まずは原作が上手いんでしょうけれども、編集のドライさも冴え渡ります。

弓坂さん(伴淳三郎)が十年ぶん老けたのは、メイクさんの腕の冴えだと思われますが、役作りに苦労なさったという話もあるので、リアリズムを超えた現実そのものなのかもしれません。撮影の裏側にはいろいろあって、関係者のその後にも影響したりしたようです。

戻る道ないぞ。帰る道ないぞ。

裏で何があろうとも、日本映画は果てしなくレベル高かったです。そして三国連太郎はやっぱり恐ろしいようにいい男でした。

2016/07/07

1949年、今井正『青い山脈』

古い上着よ、さようなら。寂しい夢よ、さようなら。

原作:石坂洋次郎 脚色:今井正・井手俊郎 製作:藤本真澄 撮影:中井朝一 美術:松山崇 録音:下永尚 編集:長澤嘉樹 合成美術:渡辺義夫 音楽:服部良一 主題歌作詞:西條八十 主題歌作曲:服部良一 

まァ、戦争が済んでも?

原節子ばんざい。作中に登場する『美貌』という女性向け雑誌の表紙絵(虹児か淳一か)とそっくりなのでビックリしちゃいます。絵に描いたような美女とはよく云ったものです。

タカラヅカの男役のような美女というのも文法的におかしくないですね? 目が大きく、鼻筋が高く、凛然たる美貌の持ち主で、常々「うぶなお嬢さん役じゃ勿体ない」と思っておりましたが、これは適役だと思います。

これを観ないと池部さんの話ができないのが本当なんですが、パブリックドメイン過ぎて近所のレンタル屋になかったので買いました。

お話のほうは、どこかで観たサイクリング場面の印象しかなかったものですから、白馬村あたりへピクニックに行く話だと思ってましたごめんなさいごめんなさい。

むしろ「どうしてこうなった」と訊きたいほど、海辺の街の物語でした。名キャスティング、名演出、名演技、名編集続きの名作です。

映画がテレビ連続ドラマのように短い期間で公開されていた時代の前後編なので、アクション無しの青春劇としては、やや長いです。183分。今井の洗練された手際は勉強になりますので、がんばりましょう。

美しい湾岸の風景から入ります。古い家並みの下、「封建的」な暮らしぶりの残る街に東京から赴任して来た若い教師が、剃刀のごとき正義感を持ち込んで一波乱。本来の意味で腐敗した女子の園に、節子の声が凛々と響きます。

新時代の『坊っちゃん』というべきか、女性の口を借りて旧来の男性中心社会を批判することが主眼なわけで、これを男性が書くんだから面白いことではあります。

映画づくりの基盤は伝統的な人情喜劇で、その上に女性の自立というか人権意識の目覚めをテーマにした翻訳劇的なものが接ぎ木してあるのですが、じつに見事に一体化していると思います。

劇中時間の進行としても、映画の見せ方としても、のんびりしていた時代の炎上劇で、校内イジメという深刻な事態ではあるのですが、吉屋信子の少女小説のような要素もあり、素人っぽい女学生たちの嘘泣き演技に、どうもニヨニヨが止まりません。女ってやつァ。

「尺」が長いのは台詞のやり取りをひじょうに大切にしているからでもあって、洋画にも因習にとらわれる街の物語はありますが、まったくのところ日本映画は台詞の積み重ねに優れているように思われます。昭和ひと桁ではなく、1900年代一桁生まれの男優陣が絶好調です。

じつは、この手の作品は、女を殴って黙らせておしまいにしない男たちの忍耐によって成り立っているのでした。

若手の男たちには、いくらか「照れ」の要素があって素人くさいのに比べて、女優たちは女学生役に至るまで、ナチュラルに演技力高いです。

リアルで戦争が終わって、映画に出られるという自負と喜びに満ちていたのかもしれません。メガネっ娘・和子ちゃん最高です。

池部良は誰ですかと云いたいほど若かったです。インテリなのに不良っぽいというキャラが変わっていないようです。というか、ここから始まったのです。

大学一年生だったはずのバンカラ高校留年生で、実年齢では三十越えていますが(ガンちゃんともども)違和感ありません。長身痩躯がヒーロー(ヒロインのお相手)にふさわしく、たいへん爽やかに美男ぶりが際立っております。

海浜ロケの他は、かなり狭いスタジオで、ギリギリの広さのセットを組んで撮っているようで、マット画が美しく、工夫の苦労が偲ばれます。

世の中、アンハッピーな物語は受け付けないという方もあるので、先に申し上げますが、根本的にはハッピーエンド型のロマンス映画で、小さな伏線や小道具をきかせた脚本上の仕掛けもあり、鑑賞後感は気持ちの良いものです。

日本の自然を背景にしたラストショットは、たいへん美しいです。

2016/07/07

差別する心は、自他を比較し、価値判断する心から生まれて来ます。

だから、他人を「かわいそう」と云って笑っていた心は、急に他人がうらやましくなって、自分が可哀想になってしまうこともあります。

いっぽう、男女を比較して「男のほうが得してる」と思う心は、男性が被害者として描かれている物語なら楽しく読むことができる、ということがあります。

したがって、アンハッピーエンド型の過激BLしか読めないという人が、他の女性を「遅れてる」などといって笑いものにしていたのに、身の上話を始めると「あたしって世界で一番不幸なの」と、お涙頂戴になってしまう、ということがあります。

頭がおかしいのではなく、自他を比較し、差別することが好きなだけです。

【渾名をつけるのが好き】

「名指した時点で差別」ですから、このタイプは、他人を「どうせ何々のくせに」と渾名のようなもので呼ぶことが好きです。また自分自身についても、自己診断で「私って何々症候群なの」とか「ナントカチルドレンなの」と、レッテルを貼ることが好きです。

そこから「私って世界で一番可哀想でしょ?」という身の上話と、「だから、あなたが何々してくれるでしょ?」という弱者特権利用へつなげて行くわけです。

これは根本的には、世界中の女性に共通の処世術ということもできます。

どこまでいっても、女性は男性よりも体格・腕力で劣り、いざ戦争・災害となったとき、役に立たない。電気の供給がなくなって、あとは「人力」となった時、やっぱり腕力があるほうがいい。

ありていにいって、男10人チームと、女10人チームで「砲弾運び競争」とか「家屋を建てる競争」をやれば、男チームのほうが勝つに決まっている。

おそらく、料理や裁縫も、できる男性にはできる。男8人で船を建造し、一人が皆のぶんの服を縫って、一人が全員分の料理をする。それで船出してしまえる。よりよい土地を求めて旅立つことができる。実際に、軍隊や、探検隊というのは、それでやっているわけです。

女たちは、同じ人数が集まっても、男と同じようにはできない。まったく出来なくはないけれども、材木を切り出してくるだけでも、倍以上の人手が必要でしょう。そういう点では永遠に男性に勝つことはできません。

すると(古い映画に観られるように)どうせ夫に殴られるんだから、うっぷん晴らしのために女同士でイジメ合うのも仕方がないという理屈も生まれて来るわけですが、できればここからやめて行くのがよいでしょう。

「どうせ将来は姑にイジメられるんだから、今のうちから女学生同士でイジメ合うのも仕方がない」で終わりにせずに、そもそも年上の女性が若い女性をイジメなくなれば良いわけです。

「母親のトラウマ」なんてのも、やはり母親が娘に優越しようとする心から発生するわけで、虐待の連鎖というのは、残念ながら、どこかで誰かが(仕返しを断念して)もうやめるということによってしか断ち切ることができません。

今日から心がけることは出来ます。

なお、ツイッターは、実名制ではないので、昔の同級生や親戚が本気で心配して見舞いに来たり、医師を紹介したりといったことがないですから、「ナントカ症候群ごっこ」が発生しやすいところです。

【若い人々の反感】

前にも申しましたように「1980年代ふう過激BLにはついて行けない」という声は、女性の社会進出が実際には充分ではなかった1980年代を背景に、ルサンチマン表現として過激化したタイプのBLが、いまの時代に合わなくなったという事情を反映している可能性があります。

つまり、若い人々は、自分自身が1980年代組から「格下」に見られ、差別されることに反対していると見ることができます。

「実際に年下のくせに、逆らうなんて生意気よ」と云うこともできますが、せめてBLファン同士だけでも、そろそろそういうのやめませんかという提言です。

やはり「同人」というと、売上を比較して競争意識・差別意識に駆られやすいわけですが、現代のSNS利用者・市販BL読者は、自分たち同士では競争していないので、同人の差別意識に「ついて行けない」と思うことも多いのです。

それが同人バッシングにつながるようでも、また不幸です。

少なくとも現在では売買に関わっていない人くらいは、昔の競争意識を克服できるといいかと思います。

【心のゾーニング】

というわけで、世界観の暗い過激な創作物を好む心と、実在の他人を差別する心を「ゾーニング」しましょう。

まだまだ女性にとっては生きにくい世の中です。

その中で「どっこい生きている」という女性が、たまには過激BLで「胸のつかえが取れた」という気分になっても良いことです。そのための創作物です。

でも、自分より条件の不利な人・弱った人を笑いものにすることはやめましょう。

他人をうらやましく思ったり、自分が可哀想になってしまうこと自体は、自己愛の一種ですから、自己保存本能の内でもあり、他人から「やめろ」と云われても、なかなか急にやめることは出来ません。

でも、思ったことをそのまま云わずに、創作物に転換するといったことはできます。「世の中は間違っている」といった批判の文章に結実させることもできます。政党政治につなげて行くこともできるかもしれません。

少なくとも、自分より法的権利の保障されていない人々と自分を比較して「ゲイはいいなァ。私のほうがもっと可哀想よ」と云っちゃうのは、やめましょう。

SNSは、いちおう文字情報なので、なんか書いている気分になることはできます。

ただし、オノマトペが連なっている式の過激BLばかり書いていた人は、じつは長い文章をまとめることに慣れておらず、本当に自己憐憫的な言葉を思いつくままにSNSに落としてしまう(というかアップロードしてしまう)ことがあるので、気をつけましょう。

SNSは、同人誌即売会ではないのです orz

【いもうと自認】

なお、「いもうと自認」の記事で申しました通り、一見すると男勝りな過激BL好みは、自分自身を「可愛い女の子」と思うことと矛盾しません。

自分自身は小さく無力な女の子だから、「お兄ちゃんにやってもらう」というのが、BLを成り立たせる根本動機です。

寺山修司は、さすがに炯眼ではあったのですが、描いた当人は26歳だったことを見落としたのが痛恨のミスでした。

一見すると、立派な職業を得て都会で自立できたように見える女性の中に「女の身では限界がある」という、いわゆるルサンチマンの心があって、無力な(読者の)少女に託して、「お兄ちゃんを呼んでくる」という手法によって、ストレス発散的な作品を構想・制作する。

それが創作物である限りにおいて認められるが、現実に発揮されてはならない。

むしろ、自分自身の中のルサンチマン、代償的な差別意識、残酷性を客観視するために創作活動が成されるのであって、それで興奮したことによって現実の差別行動がパワーアップされてはならない。

ここまで持ってくる必要があったのです。いや、あるのです。

2016/07/06

1974年、『宇宙戦艦ヤマト』(DVD第2巻)

【第7話】

見苦しいぞ。最後の最後まで、冷静にやれ。

作画監督:芦田豊雄

冥王星雪辱戦。惑星の重力にブン回されるヤマト。反射衛星砲は連発できてすごいなァ。

なんだかんだ云って、最もSFらしい番組だったよなと思ったことです。「巨大なエネルギーの束」とか、それを反射させるアイディアとか、ロケットアンカーという宇宙戦艦ならではのアイディアとか。

スペースオペラと云いつつ、惑星に着陸してからの地上戦が主眼といった作品が(洋の東西を問わず)多いわけですけれども、これは本当に宇宙空間そのものを重要な構成要素としているのでした。

反射衛星砲を被弾する度に艦体の表現に工夫が見られ、キャラクターの髪が乱れる様子も魅力的です。ロケットアンカーがすっぽ抜けた後の挙動の描画も異常です(大喜び)

テレビアニメにありがちな間延び感がないことは特筆すべきかと思われます。絵コンテがいいのでしょうが、編集もいいのでしょう。

あと356日しかないので頑張れヤマト。芦田作画が好きです。

【第8話】

ヤマトが廻る~~。

作画監督:小川隆雄

沖田さんの指揮下、ヤマトが主導権を握って攻勢に転ずるお話。演出がやや平凡ですが、展開が早く、スパイアクションのような要素もあって、たいへん面白い回です。アナライザーは、すこぶる優秀です。

キャラクターの顔が違うなァと思ったら初登場の作監さんでした。雪がやや少女漫画調で可愛いです。

スパイドラマというのは輸入ものがあったわけですが、テレビサイズの実写でこれほどの戦艦と巨大砲を用意して撮影するということは、洋の東西を問わず殆んど出来なかったでしょうから(今でも難しいでしょう)、この大胆なアイディア横溢する物語が連続番組として毎週見られるというのは、本当に面白いことだったのだと思います。

地球の人々は、きみの還りを待っている。

【第9話】

自主プランを出す時が来たようだ。

作画:スタジオ・メイツ 小泉謙三 朝倉隆(ほか)

アステロイド・リングが美しい回。今までメインテーマ曲の使いどころが荒っぽかったんですけれども、今回は目にも耳にも美しく決まりました。

真田さんはどえらいアナログな方法で設計図描いてます。(かつて個人用コンピュータなど実現不可能と思われていた時代もあったのです)

幼な心にも「航行しながら修理するヤマトってすごいなァ」とは思ったんですけれども、改めて考えるに、この修理風景という地味な絵をきちんと表現したことは、当時のアニメとしても、テレビ番組全体から見ても、いや映画まで視野に入れて考えても、特筆すべきリアリズム志向だったかと思われます。

作画監督不在の人物画が安定しないんですが、描線そのものは洗練されて来たようです。不思議といえば不思議。島くんは理知的な気配りタイプ。女好きのする人物ですが……そういう男は損な役回りなのです。

諸君、長いようで短いつきあいだった。

全26話なので、3分の1を消化したことになります。シュルツとガンツは地味で地味でどーしよーーもなかったですけれども、前半を彩ってくれたのでした。ガミラス軍人魂、見せて頂きました。

地球滅亡まで、あと338日。

【第10話】

だからね、だから子どもが必要なの。

作画監督:白土武

戦闘の合間に地球の家族へ声を届ける乗組員たち。ひじょうに地味ながら、良いエピソード回です。こういうのちゃんとやっておくことが必要なのです。

沖田と古代。古代と島。沖田と徳川。似た者たち、対照的な者たち。森家は上流家庭のようで(昔のリカちゃんのママみたいですね)、ミーくんはお留守番でした。古代くんは二十歳には達しているようです。

引き続き人物画が安定しなくて困るんですが、カメラワークがたいへん良いです。ときどき異常に気合いの入った絵があるのは白土なのでしょう。

音楽の使い方も安定して、後につながる音楽劇の要素が加わりました。

いまははるばる、宇宙の果て。あと315日。

【第11話】

デスラー紀元、103年。ガミラスに下品な男は不要だ。

お顔が青くなった総統の威風とともに、メカメカしい面白さが充満している回。

やはり音楽の使い方が良くなっており、編集も良くなっているわけで、手慣れてきた様子が伺えます。芦田が戻って参りまして、人物画が安定しました。ひと安心。やたら出来の良い「バルーンダミー」が可愛いです。一個ほしいです。

艦体に制動かけたら乗員が慣性で動揺するとか、探査艇の発進とか、傾斜角10度のヤマトとか、機雷除去に乗り出すブラックタイガー隊員の構図とか、いちいち芸が細かいです。絵コンテは安彦良和でした。

島は日頃からほとんど洒落っけを発揮しない男ですが、今日の古代はコミックリリーフ気味。ギアチェンジのアナログっぷりが泣けます。徳川さんは機関室においでになります。

艦長の指揮は森の解析・ナビゲート次第なので、彼女こそ沖田の頭脳。飲んべェの艦医は実写映画『戦艦大和』(1953年)に登場しましたね。

「つまらんところが精巧にできているんだからなァ」 デスラーの真の敵、アナライザー。真田さんが造ったんじゃないんですか。

発想の素朴な野蛮人(=スタッフ・主な視聴者である日本人男性)から見て、違和感のある人物が敵役なわけで、この時は敗戦の記憶も生々しく、金髪の青年。後のアニメ番組・特撮番組では、女性や、女性的な男性が流行しましたね。

でも言葉は通じるようです。(云わない約束)

あと311日。

【第12話】

結果を云っているのではない。私は秩序を云っているのだ。

若い男女の噛み合わない会話にニヨニヨしつつ。やや濃い目の人物画は白土。話題が盛りだくさんで展開の早い回。バリアー同様伏線を張り巡らした脚本が良いです。絵コンテの量もすごかったように思われます。安彦の仕事でした。

ここへ来て徳川さんが機関室常駐になったり、ガミラス人の皮膚が青くなったりしたのは、基本設定の見直しが行われたのでしょう。(思いつきともいう)

フェードアウトを効かせた場面転換も今までなかった手法ですが、どうしたんでしょう。

西崎はアニメ作りの素人だったというので冨野・安彦はたいへん敵愾心を燃やしたようですが、むしろ素人だったので、結局は現場スタッフが思う存分できたんじゃなかったかなって気もします。

今では考えられないような技術的な(微細な)ミスも時々見られますが、それもまた手作り時代の味わいとしましょう。

リアルタッチのSFアニメという話法自体が、まだステレオタイプ化、ルーティーン化していないわけで、現場のアイディアが隅々まで横溢しているように思われます。

テレビ放映時には波動砲発射の爽快感が楽しみだったものでした。いま見ると、これは与えられた困難を、知恵と勇気と技術とチームプレーで切り抜ける物語。

文句なしに面白い。初回放映時のファンが抱いたというこの感慨こそ、スタッフ達の苦闘への最大の賛辞であると思われます。

宇宙の続く限り、命の芽生えはある。あと308日。

2016/07/06

多様性とは、ぼっちになることです。

日本のアニメ番組では、かなり古い時代から、女性キャラクターの活躍が目立っていたのです。

なにも「お茶くみ」嬢というのではなく、みずからヘリコプターを操縦して主人公を助けに来てくれたり、正義の味方の一人として戦闘に参加したり。沖田十三の指揮のほとんどは森雪の解析を頼りにしていますね。

彼女達は、中年の指揮官に対しては賢い娘。若者たちに対してはロマンスのお相手。幼いキャラクターに対しては母親代わりと、八面六臂の活躍を見せるものです。

これは、ちゃんと性差を表していて、男性は分業制・チームワークですけれども、女性は実際に一人で何役もこなすものです。家庭においては会計担当。職場においては母親役。少なくとも男性の眼からはそう見える。

そういう描写は、彼らの「頼りになるなァ」という感嘆の気持ちを表しているのであって、べつにばかにしているわけではないのです。アニメーターにとっても大事なキャラクターであって、視聴者の中には「初恋の女性」という人も多いことでしょう。

だから、そういう女性キャラクターに感情移入すれば充分でしょ、というのが(二次創作)BLに向けられる疑問ですね。当方自身もそう思うからこそ考えてみた結果が、ここで展開している主張です。さて。

女性が男勝りに活躍できるようになれば、逆に「男性が女役を演じる」という表現が思いつかれるのは、時間の問題です。

じつは、これはアニメに限った話ではなく、1975年から放映開始された『8時だヨ! 全員集合』では、コメディアン加藤茶が女装して「あんたも好きねェ」と踊るのが、男児観客をおおいに沸かせたものでした。

もう、この時点でゲイコミュニティは悔しい思いをしていたかもしれません。ただし、彼らの世界にも「男尊女卑」があって、女装する連中が笑いものになるのは本人たちも覚悟の上だ(俺は奴らとは違う)という意識があるのです。だから、コミュニティ全体を代表する意見として、番組へ苦情が投書されたりすることがなかったのでしょう。

で、女流。

女性キャラクターは、男装といいつつも、髪が長い。正義の味方といいつつ、ミニスカート着用で敵を蹴り上げる。女性としての特質・美質を維持しているわけです。

だったら、逆に男性キャラクターも「男の色気」を残したまま女役を演じるという表現があり得る。とすると、多くのBLキャラクターが女装者ではないことが理解できる。

ここまでは、単純に論理的にひっくり返しただけです。まだ良いとも悪いともロマンチックだとも気持ち悪いとも云っていない。

どのキャラクター、どの役割分担にどのような価値を見出すかは、人それぞれなのです。

男装の麗人を「生意気で気に食わん」と思う人もあるかもしれない。女のナルシシズムと云って冷笑したい人もあるかもしれない。

「正義の味方なんて云って、結局ミニスカートを見たいだけじゃないの。女をばかにしてるわ」と思う人もあるかもしれない。

真に多様性を尊重するのであれば、すべての意見の存在自体を「当然そういうご意見もあるでしょうね」と認めることが第一歩です。

その上で、じゃあ自分はどうするか? という話になります。

誰も味方はいません。それぞれ違う意見なんだから「みんなゆってる」という魔法の呪文は使えません。

多様性の尊重とは、じつは、一人ぼっちになるということです。

だからこそ、あまり普及しないのです。多くの人が寂しがりやで、他人を指さして「みんなゆってる」と云いたいのです。

【同人こそ多様性を尊重しましょう】

男女とも「どうせ女は一蓮托生。プロもパロも同じこと」と云いたがる人は、やはり他人にくっつきたがる。責任転嫁したがる。権威を頼りたがる。「編集が~~」って云ってしまう。

少なくとも、それは自ら「表現の自由」を志向し、多様性の尊重を訴える同人の云うことではありません。まして同人やっていた性的マイノリティの云うことではありません。

この罠に落ちてしまう人は、意外に多いのです。「同人は一蓮托生!」と思っちゃうからです。

やたら連帯したがる自称マイノリティは、腹の中はマジョリティです。

マジョリティ家庭に生まれ育った、マジョリティ少年少女が「大目に見てもらえる」という意識で、創作界の藪の中に分け入ってしまうと、「だってみんなやってるもん。どうせプロはみんなパロ出身で、パロの味方だもん」と、本末転倒したことを言い出してしまうのです。

挙句に本物のマイノリティに甘やかしてもらえると思ってしまう。

現代は、価値観の違い・存在の違いを認めないという気持ちが、大きな悲劇を生んでいる時代です。せめて創作に関わる人は、他人の自由を尊重する人でありましょう。

「読んだだけだから関係ない」ってことはありません。同人誌即売会に、お客さんは、いません。

【11人いる!】

少なくともプロは、女役の少年を、オリジナルキャラクターとして創出しました。萩尾望都は『11人いる!』(1975年)で、フロルというキャラクターに、いずれは女性になって子どもを産むという(異星人の)設定を与えました。

しかも、同期として宇宙船に乗り込んだ中に、爬虫類のような皮膚をした異星人がいて「私もいずれ産む側になります」と云う。金髪だから、可愛い顔してるから女役だというステレオタイプ認識が発生しないように、周到に用意されているのです。

同じアイディアは、ル=グウィンも書いているので、「男性も産んでみればいい」というのは、女性の口から必ず云いたくなることなのでしょう。

ただし、それを書いた本人は結婚も出産もしていないということがあるので「要するに本人が男になりたいってことだな」とか「もともと男なのかもしれない」という解釈もまた、発生しやすい道理です。

ここはやっぱり、分けて考える必要はなく、女性の男性化と、男性の女性化がワンセットになっており、それを受け取る側(読者・視聴者)のほうで、一方は許せるが、一方は許せないという価値判断が発生すると見るべきでしょう。

フロルは、もともと女の子が少年化したタイプに見えるので、それがいずれは女性化するという、一人で二役やってるので、まさに象徴的なキャラクターということができるでしょう。

そして興味深いのは、続篇ではこのフロルが傍観者の位置にさがってしまい、物語は最初から最後まで男の子である「王様」と「四世」の相克に、男装の少女が一役演じるというものになったこと。

同時期に竹宮恵子も男性の活躍(『地球へ…』『私を月まで連れてって』)を描いていたので、女流が充分に実力をつけて、男性の活躍を真正面から描けるようになると、女役の男性というのは、現実味が低いということもあって「きらいじゃないけど、今回はちょっとお休みしててね」というような扱いになるのかもしれません。

すると、逆にそれだけを取り上げてステレオタイプ化させるという手法も生まれてきそうなもので、同人界で「アニパロ」が盛んになった頃と、ちょうど時期的に一致しているのではありました。

【50代はもともとの人数が少ないのです】

最後の問題は、なんで他人のキャラを使うんだよ、ということになるわけですが、これはもう、1980年以降に参加した人は、自分でも分かってないのです。

すでにそれまでに技法が確立していたので、最初から「そーゆーものだ」と思って読んだからです。だから、あわてて、とんちんかんな説明をしてしまうこともあります。

でもビデオデッキも普及していなかった時代に、アニメの話題は、オンタイムで熱心に視聴した人からしか生まれてきません。

だから確かに最初の時点では、アニメファンによる「遊び」だったのです。

それが著作権上の問題があることが認識され始めると、隠語の使用が始まったのです。

このへんのことがハッキリ出てこないのは、当時を知っている50代の人が、もともと(世代全体としても)人数が少なく、その後40年間同人界で生き残っており、気さくに昔話をしてくれるという確率が、限りなく低いからです。

(今年49歳の人は1967年生まれ。小学校を卒業し、晴れて中学生として保護者同伴なしで上京し、イベントに参加できるようになった時、すでに1980年。だから、いまの40代にそれより昔のことを訊いても、よく知らないのです)

でも、いくつかの現象をつなぎ合わせれば、見えてくるのはこうした経緯です。

2016/07/05

1974年10月6日『宇宙戦艦ヤマト』

誰のためでもいいじゃないか。みんなその気でいればいい。

企画・原案:西崎義展 脚本:藤川桂介 音楽:宮川泰 演出:石黒昇 監修:山本暎一・舛田利雄・豊田有恒 プロデューサー:西崎義展(※オープニング登場順)

初心忘るべからず。テレビ第1シリーズを最初から見直す企画。全26話なので、そんなに大変じゃありません。これがないと『ガンダム』も『エヴァ』も、たぶん『ワンピース』も『セーラームーン』さえもありませんでした。

宇宙への憧れは、ヤマトが教えてくれたと思います。

松本零士は監督という肩書きで表示されますが、現場には出てこなかったらしいです。アニメとしての功績は山本暎一、演出の石黒昇、芦田豊雄・白土武以下の作画家たち、撮影の原屋楯男に多くを帰していいのではないかと思われます。藤川桂介の脚本も短い台詞がよく締まっています。

人物画は愛らしさ溢れる「昔の少年漫画」というものですが、内部での整合性がよく、たいへん上手いです。絵の内部の整合性とは、他人の漫画を真似しようとして失敗した絵ではなく、芦田なり白土なりの絵として完成されているのです。

キャスティングの頭は沖田さん(納谷さん)で、彼が徳川機関長と二人三脚でイスカンダルへ行くので若い奴らを連れてったという構図になっており、要するに沖田さんが主人公なのです。

大人をメインキャラクターとする戦争アニメはタツノコプロ『アニメンタリー決断』(1971年)という傑作があったので、アニメは子ども向けだから戦争ものをやっちゃいかんよということはないのです。

火星、木星、土星と少しずつ駒(というか艦)を進めながら、沖田さんが名将ぶりをいかんなく発揮する物語となっており、ふつうに戦争映画として見ても見応えがあります。

が、いかんせん、裏番組『アルプスの少女ハイジ』に比べりゃ可愛くないのは一目瞭然で、ファミリー向けとはなり得ず、緒戦の視聴率的苦戦はこれによるのだそうです。

【第1話】

ときに、西暦2199年。地球はいま、最期のときを迎えようとしていた。

作画監督:芦田豊雄 背景監督:槻間八郎 撮影監督:原屋楯男 

冒頭の冥王星宙域戦は何度見ても飽きません。構図、カメラワーク、色彩、音声のアイディアが詰まっています。全話をダイジェストにした劇場版でもノーカットで採用されていたと思います。

空間が立体的に捉えられているわけで、水面ではなく宇宙を自由自在に動き回る機体同士の空中戦を表現するために、当時のスタッフが傾注した集中力の高さが伝わります。

人物も立体的です。被弾した沖田艦内部が赤色灯に照らされる表現が異常です。

沖田さんの服の皺がちゃんと描けているなんてのも意外にすごいことで、これは服の下の人体の構造をちゃんと知っていないと出来ないのです。誰がアニメでここまでやれって云ったよ。(西崎だよ)

無茶ぶりプロデューサーに全力で応えたスタッフたちの技術力と意識は本当に高かったです。

なお、古代くんと島くんは特殊訓練中の学生だそうで、古代は冥王星方面でお兄さんが戦ってるのが心配で、やや先走り気味。対する島は「でも遠すぎる」と冷静。短い会話から2人の個性の違いが知れます。

【第2話】

わしは必ず行くぞ。行って帰ってくるのだ!

作画監督:白土武

白土さんが描いたと思われる沖田さんの顔の気合い充実ぶりがすごいです。1945年の様子も拝見できます。米軍艦載機の描画の精度も異常です。なお、4月のことなので本当は第一種軍装(紺色)です。

そしてヤマトを描いたセル画がほしいです。手描きです。くり返しますが手描きです。

森雪は、お姉さんっぽいキャラクター造形になってるようです。デスラーさんは、この回で初登場。ガミラスにも美女がいるようです。皮膚は青くないです。

「地球防衛軍・日本艦隊」ではあるのですが、地球代表が日本人だらけで、敵は金髪とくれば、国粋主義まる出しなのは明らかですから、外国人が見れば「なんでやねん」と思うでしょうし、明確に拒否反応を起こす人もあるでしょう。

日本のアニメがゲームほどには海外でウケないというのは、ちゃんと理由があるのです。

【第3話】

あの人は、万に一つでも可能性を発見したら、それを信じて、沈着冷静に行動する人だ。それが男というもんじゃよ。(by徳川彦左衛門)

作画監督:芦田豊雄 作画補佐:小川隆雄

真田さんが若いです。艦内を案内する時のベースの効いたBGMが良いです。万能工作機械の便利さが半端ないです。

【第4話】

かわいい奴だ。(byデスラー総統)

作画監督:白土武

かわいいのはヤマトですが、森雪がヒップの大きいセクシー体型で魅力的です。ワープテスト中にはいろいろと不思議な現象が起きて、ファンサービスも見られるようです。二次創作の際は原作者の著作者人格権に配慮しましょう。

ヤマトの著作権裁判では、助監督・音響などチームプレーで動画の制作にたずさわった人々が西崎について、紙に個人的なアイディアを書きつけるのが仕事の脚本家・SF作家・音楽家が松本零士側についたという興味深い現象も見られたようです。

おカネの問題もあったのでしょうが、戦友意識と一本独鈷の違いなのかもしれません。

【第5話】

作画監督:芦田豊雄 作画:スタディオ・メイツ 飯山豊 坂本弘 野口大蔵

古代くんを始め、キャラクターがすっっごくいい顔をしてます。

作戦室における色彩設計は、モニターの緑色を反映してるわけですが「アニメでそこまで再現する必要があるのか」というべきで、発想そのものがアニメの域を超えてます。

浮遊大陸の手前で「カメラ」の前を横切るヤマトとか、もうなに考えてんでしょう。

【第6話】

総統は、勝利の報告しか聞きたくないとのことだ。(by副総統ヒス)

作画監督:白土武

やや古風な、こってりした少年漫画調が白土流のようです。企画・原案には、山本暎一の名前が加わりました。アナライザーはたいへん優秀です。

コスモナイト採掘の重機とか、画面奥から進んで来る宇宙戦車の描写とか、モニターに表示される光点と現地が重なる場面転換とか、いろいろと実写ライクです。いや、実写でも珍しいくらいのセンスの良さかもしれません。

番組ラストには毎回「地球滅亡まであと何日」と表示されます。テレビ放映時には本当に怖かったものです。以下続刊。待て次号。

2016/07/04

1969年2月、加藤泰『緋牡丹博徒 花札勝負』東映京都

渡世修行中の、しがなき女にござんす。

企画:俊藤浩慈・日下部五朗、原案:石本久吉、脚本:鈴木則文・鳥居元宏、撮影:古谷伸、照明:金子凱美、音楽:渡辺岳夫、助監督:本田達男

お久しぶりの仁侠映画は加藤泰つながり。絶賛緋牡丹博徒シリーズ第3弾。女を眺めてもなァ……と思って敬遠してたんですが、ものすごく密度の濃い1時間40分でした。

明治の中頃、名古屋。

お龍さんはジタバタしたいほどカッコ良かったです。きれいだし優しいし強いし、ああ理想のヒロイン。赤い蹴出しが眼にしみる。歌唱はあんまり上手くないですが、ファンクラブに入ってキャッキャしたいです。

藤純子は上背と肩幅があるので、あまり可愛い娘さんの役は無理があって、女侠客は企画の勝利だと思います。お父さんGJ。

「たとえみんな『うん』と云おうと俺は俺だ」

男優はものすごいオールスター状態になっております。アラカンは「いいね」って云うんですよね。

折り目正しい旅人さんは、今日も男の花となって舞い込みました。たぶん「加藤泰が高倉健を撮った」という意味でも貴重な作品。特別出演の枠を超えてるです。

藤純子のために全体の気品を保つというのがテーマの一つと思われ、男たちの装いが、善玉も悪玉もドレッシーです。

小池朝雄と天津敏のツーショットがいい感じ。山本麟一が良い役で、子どもを抱えた姿が優しそう。悪役俳優ってのは、根はいい人ですよね。若山富三郎が硬軟とりまぜた挙句に見事な体術を見せてくれます。

物語は、渡世人が行った先の町で人間関係に巻き込まれるという定型ですが、序盤は深刻な事情を抱えた女性たちのドラマに、同じ女の主人公が真心と侠気で手を貸して、胸に沁みる味わい。後半は力量ある男優たちの個性を活かして、どんどんハードに深まります。

清川虹子の女親分がまた素晴らしく、男顔負けで気風を見せながら、若い素人のお嬢さんには情のこもった声をかけてあげるわけです。その意を受けて、お龍さんがそっと動く。

男の世界に女が入って一歩も引かず、なおかつ女性としての心配りができる。キャラクター使いの上手い脚本には、名台詞も一杯です。確か『残侠伝』やってた人たちだよなとぼんやり思い出しつつ。

「一人前というのはね、自分の責任で、場合によっては命も張って見せられるということだ」

絵作りのほうは、冒頭の構図がいきなりただごとではなく、「加藤泰ここにあり」って聞こえて来るかのようです。だからどうやって撮るのか走ってる機関車の下。

濃厚クローズアップ祭りは、一歩まちがうとテレビドラマみたいに陳腐になってしまうので、照明設計と構図の余白が重要なんだろうと思います。余白というか闇に沈んでるわけで、レンブラントの絵のようだと云ったら、かえって加藤監督に失礼でしょうか。

賭場リアル描写も手が込んでおりましたし、殴りこみの実録調は最高です。

1960年代仁侠映画の総決算として、いろいろ見た後で、ここへたどり着くといいのかもしれません。

本日はこれにて。今後ともよろしくお願い申し上げます。

2016/07/04

デイモスは裏切りの神であり続ける必要がある。

池田悦子原作・あしべゆうほ作画『悪魔の花嫁』。

1975年から連載されている作品で、不定期掲載となりつつ最終回を迎えていない。少女漫画には時々あるパターンです。

デイモスは、裏切りの神であり続ける必要があるので、ヴィーナスとの約束を果たしてしまうわけに行かないのです。

現実なら、美奈子がどんどん歳を取るので、永遠の美と若さの女神(の神霊の引越し先)には相応しくなくなってしまい、デイモスは結局「約束を果たさなかった男」として、終わる話なのです。

彼自身はその後も人間世界をさまよい続ける。美奈子は輪廻転生して、またどこかに生まれ変わるかもしれない。

蝶になるかもしれない、猫になるかもしれないけれども、おそらく彼は彼女(?)をも見守り続けるのです。ヴィーナスに責められ続けながら。

これが本当のプロット。

映画なら美奈子の転生後の姿をデイモスが樹上から見つめる場面をラストに、これから何百年も同じことが繰り返されることを暗示して「終」の文字が出るところです。

けれども、少女漫画の約束事として、ヒロインが(恋愛も何も成就させないまま)おばあちゃんになっちゃった、死んじゃったというところまで描けないので、「永遠に果たされない約束」という本来のテーマを表現することが出来ないのです。

彼は、約束を守らない男の象徴。つまり約束を守らない男に対する女の恨みの結晶。

彼が約束を守ってしまった瞬間に、女は恨む対象をなくし、物語はハッピーエンドとなって終わるのです。

でも、この話は最初からそれを志向していない。

人間社会に裏切りが存在し続ける以上、彼も裏切りの神であり続ける。にわとりが先か、卵が先か。

【社会進出できない美奈子】

1975年は、女子学生がブルージーンズ着用で受講することの是非を問う議論が起きた年なのだそうで、背景となる社会はオイルショック不況。

女性の原作者としては「男は威張ってるだけで頼りにならない」というテーマを表現したいところです。

ほんと云うと、美奈子自身が恋愛を封印して、バリバリ働く女になって、そのまま亡くなってしまえば、当てにならない男と、独立自尊の女と、男を待ち続ける女(ヴィーナス)の三者三様の人生を示すことができて、うまく収まった挙句に不毛である。

美奈子は社会的には成功したのに、心の底ではデイモスの影に怯え続け、「女の幸せ」をつかむことができなかった……というわけで、じつに現代社会を象徴する話になることができたのです。

女性的な美貌の持ち主で、歳を取らない男というのは、萩尾望都『ポーの一族』にも通じる要素で、やはり歴史と文学をよく勉強して、人間社会を長いスパンで(高い樹上から)見渡す視点を手に入れた女流の意識を象徴しているのです。

が、中高生向けの少女雑誌という本来の掲載誌の性格があって、美奈子には悲劇のヒロイン属性がついたまま。デイモスが実際には自分に手を出すことができないことを見切って、大学へ進み、キャリアウーマンになっていくという姿を描くことができない。

プロットあるいは原作者の心理の根本に、まだ女性が本格的には社会進出できていなかった時代の「男のせいで」という恨みの気持ちのほうが強く、それを乗り越えて新たな第一歩を踏み出すという局面へ移って行くことができないのです。

2016/07/04

消去法的BL理解。

【1.無理に買う必要はありません】

「男女の話がつまらないからBL」とか、「男女の話が恥ずかしいからBL」など、いろいろな説明があります。

けれども、「確かに最近の少女漫画はつまらないけど、男同士の話なんてもっとつまらないわよ!」と思う人は、BLを買わないはずです。

例えばの話、バニラ味に飽きたからといって、好きでもないチョコ味に無理してカネを出す必要はありません。チョコも食わなきゃいいだけです。

なにが哀しゅうて、苦労して手に入れた給料を、好きでもないBLに注ぎ込まねばならんのか。

なにが哀しゅうて、好きでもないアニパロの素人作者に無駄金を渡してやるために、炎天下に数時間も行列せねばならんのか。

全然理屈が通っていませんね?

わざわざBLにカネを出す人は、BLならではの面白みを感じているはずです。

では、それは何か? という話になります。

ここで実際のBL読者が「私の場合は~~」と云い出す必要はありません。創作物の鑑賞ポイントは人それぞれに決まっています。本来、説明責任はないのです。

これは、中途半端な説明をして自己満足している自称評論家に向かって「その程度か?」と云っているのです。既存の説明を批判しているのであって、あなたを攻撃しているのではありません。

被害妄想に駆られる必要はないのです。

【2.種の特徴】

では、BLの面白みとは? これも消去法が有効です。他と重複する要素を消去していって、最後に残ったものがその種の特徴です。化石などの鑑定は、これでやってます。

「完全に新人と一致」すれば、それは新人の骨です。ふつうの殺人事件です。あとは警察か探偵の仕事です。

首の骨の角度が違えば、それは新しい類人猿の発見です。おめでとうございます、となります。

では、ミステリーや純文学にも全く見られないことはないが、BLと名づけられた作品群においてのみ、他の分野とは桁違いの頻度で観察される要素とは何か?

受身の男性です。

逆にいえば、この要素が欠けていれば、BLとして成り立ちません。だったら読者の関心も、ここに集中しているはずです。

じゃあ、その何が面白いのか? 

ここで「エロ、エロ」と騒ぎ出す人は必ずいます。だったら、それを書いてみればいいです。売れるようなら証明になります。でもだんだん売れなくなったのであれば、それだけではダメだということです。

ですから、性愛の要素だけを追求せずに、一歩引いてみましょう。

男性が女役を担当することを女性が喜ぶ、と一般化して云ってみます。

男性が料理をする。育児をする。女性の趣味に理解を示し、買い物に付き合ってくれる。ネイルアートの楽しさを理解し「俺にもやってよ」と云う。

これを喜ぶ女性がいるのであれば、男らしくない男、女性化した男の何が嬉しいのか?

三島由紀夫に云わせりゃ女性のナルシシズム。フェミニズム批評に云わせりゃ男性社会への皮肉。女の支配欲の表れということもできるかもしれません。

百合に近いという声もあります。昔の女学校の「エス」を引き合いに出す人もあります。そういう女のホモソーシャルに男子を加えていると見ることもできるでしょう。

そしてこの前提にあるのは、強固な女性自認です。

かつての評論家たちは間違えたのです。女の子が男の子になりたがっていると思った。でも、それはすでに描かれていたのです。

【3.男装の麗人の逆転、敗戦国ルサンチマン】

二十四年組による美少年漫画が流行した1970年代後半というのは、池田理代子『ベルサイユのばら』(1972・73年)およびそのタカラヅカ舞台化(1974年)が大ヒットした後なのです。

二十四年組に漫画家としての自負があればこそ、男装の少女の二番煎じを描くわけには行かなかったのです。

『ベルばら』に対抗し得るオリジナリティとして提出できるのは、「女役の少年」なのです。物語の原案としては、日本の場合、かなり古いところまで遡ることができます。

現代的なイメージモデルは、1971年8月に与えられました。映画『ベニスに死す』の公開キャンペーンで来日したビョルン・アンドレセンです。

男の子になりたい女の子ではなく、女の子のように男性から想いを寄せられる男の子。さらに一歩進めて、とうとう女の子にされちゃった男の子。

作中で実際に手をくだすのは男性ですが、それをキャスティングし、演出しているのは女性です。男性読者が二重の意味で、ゾッとするのは当然です。

でも、これに集英社への対抗意識に燃える他社が価値を見出せば、流行のでき上がりです。

なお、1970年代において価値を見出した出版社の責任者たちは、女性ではありません。フェミニズム学者ではありません。おじさん達です。

それも、1970年代において50歳代に達していた社長・編集長と考えると、1920年代の生まれです。まさかの復員世代が「女性の自由」にゴーサインを出したのです。これがBLの本質。

じつは、貴族階級出身の金髪少年というのは、順調に成長すれば世界の政治的指導者・金融の支配者・芸術の正当な継承者として日本人の前に立ちはだかる存在です。

それが男の玩具となり、恥ずかしいことをされて、麻薬漬けになって急逝する。

おなじ男と思えば見過ごしにできないはずが、犠牲者が金髪であり、描いたのが日本の女流である限り、日本人男性にとっても「よくぞ描いた。俺の胸のつかえも取れた」といえる構図なのです。

これを利用したのが村上隆。手を叩いて面白がったのが西欧の前衛美術ファンという、ひねくれた連中。ジャパニメーションの時代が来たと思って勘違いしたのが日本の政府。まァそれはいいとして。

敗戦の記憶がまだ抜けなかった1960年代・70年代という、長い歴史上で見れば際どい一点において、男女の利害が一致したところに成立し得たのが、女流による「耽美」という表現であり、それを(男性の手で編集し)市販するという行動だったのです。

二十四年組がどこへ原稿を持ち込んでも断られ、泣く泣く自費出版したものを、少女たちがわずかなお小遣いを出し合って支援したという時のみ、BLは完全に女性の自発だということができます。が、事実はそうじゃないのです。

【4.解釈が簡単になります】

女性の男性化ではなく、男性の女性化という要素に重きを置くと考えると、いわゆる女体化、妊娠エピソードなど、全てが簡単に理解できるのです。

読者自身が強固な女性自認を有していると考えれば、「ピンクハウス」や「ゴスロリ」に装うこととも矛盾しません。(奇抜なお洒落に挑戦する人はごく一部でしょうが)

また、女性を男性化する必要はないわけですから、既存の女性キャラクターには(二次創作の)手をつけないこと、少女漫画やレディコミと並行して制作・鑑賞できることとも矛盾しません。

実際に、1990年頃までは、少女向け雑誌に少女漫画と美少年漫画が併載され、同じレーベルとして単行本化されていたわけで、べつに少女漫画読者と美少年漫画読者が誌上バトルなんてこともありませんでした。

どこの業界とも同じように、原型は初期の段階ですでに示されていたのです。

【5.女性の男性化との相関性の有無】

重要なのは「男性の女性化」です。イメージとしては、少女だらけの秘密の花園に男子を迎えて、自分たちの妹にしちゃったというところです。

とすると、漫画家・読者自身がサッカーをやりたいかどうか、マネージャーになりたいかどうか、女性として自己実現できた(という自認がある)かどうかといった要素と、かならず反比例の関係にあると云えるかどうか?

つまり自分自身がサッカーを始めたことで異性化願望を満足させることができたから、もう疑似的な妹は要らないということになるのかどうか?

レディコミを買ってもよい年齢になったから、もう妹みたいな美少年は要らないということになるのかどうか?

むしろ自分自身が男勝りな女性として活躍できればできるほど、逆に男性が女役を演じることを面白がり、可愛がるはずです。

また、もともと自分自身の女性自認・自己愛(うぬぼれ)が強いからこそ、自分が男性に合わせるのではなく、逆に男性を自分の領域に引き込むのですから、女性として充分に自己実現できている人ほど、BL(化)を喜ぶとも云えるはずです。

くり返しますが、これによって、BL読者(の一部)が性適合手術を望まず、男装せず、少女趣味なドレスに装うことが理解されます。

従来の「男になりたい女の子のはずなのに実際にサッカーを始めないのはおかしい」という考え方よりも、仮説と現実に矛盾がないならば、後者のほうが正しい、的を射ていると考えることができるでしょう。

つまり「自分が男になりたいかどうか、男らしい職業につきたいかどうかに関わりなく、男が女役を演じることを歓迎する」というのが本質です。

これを趣味と呼ぶのか、特殊な性志向と呼ぶのか、異常心理と呼ぶのか、究極のウーマンリブと呼ぶのか? それぞれのお立場によって違うのが当然です。

他人を批評することは自分を語ることです。ここでわが身を振り返って、自分は何と呼びたいタイプか、自分自身を定義することができます。

【6.自己批判できなかった人々】

運動部マネージャーの少女はマネージャーの仕事に励み続ければよいわけで、性愛遊戯に参加する必要はありません。あるのは女役の少年です。

これ、遡って森茉莉作品でも同じキャラクター構成なわけで、中年女性は中年女性らしく瞋恚の炎を燃やし、二十歳の娘さんはその年頃の娘さんらしく純真です。べつに男装するわけでもなければ、男勝りの青鞜派でもないのです。

くり返します。少女が男になって、男社会のドラマに飛び込んでいくのではなく、男性を女役に仕立てて、女流好みの恋愛ドラマに引きずり込むのです。ウーマンリブ時代の「少女が(子どもを産みたくないので)男になりたがっている」という解釈とは逆なのです。

どっちかってェと「男に子どもを産ませちゃえ」という発想に近いわけです。

ウーマンリブ時代を引きずっていた時代(1990年代まで)は、評論家自身が「女性なら『ベルばら』のような男装の麗人のドラマに憧れるはずだ」という偏見に捉われていたのです。

三島や寺山修司と同世代で、戦後女性の社会進出に眼を見張った人々が退官するのが1990年代ですから、この頃までは評論界全体に1970年代の印象が残っていたのです。

そして「その逆を思いつくことはあり得ない」という偏見にも捉われていたのです。

その背景には、当然ながら「男性の女性化というアイディアは受け入れがたい」という彼ら自身の自尊心があったわけです。

だからこそ「女は怖い」という思いから、現象の本質から目を背けようとしたのでした。

【7.いもうと自認の現実化】

ここで重要な問題が発生します。強固な女性自認を有し、「女の子」らしく装い、男子を自分の妹のように可愛がる女性にとって、疑似妹の相手役となる男性は誰か?

自分のお兄ちゃんです。自分の云うことなら何でも聞いてくれて、面白いものを見せてくれるお兄ちゃんです。

BL嫌いの男性は「女王様が男を調教する話を描けばいい」と云います。

でも、女王様が自分で鞭をふるうことに疲れて、家来の男を呼べば、同じことです。そして男性を顎で使う女王様を少女化すれば、当然ながら、お姫様です。

影の形に添うように、美少年のかたわらにたたずむ前世紀の美少女。

前々世紀になってしまいましたが、BLファン(の一部)がアンティークなドレスに装うのは、いいセンスしてるのです。アイラインとマスカラで強調した眼で本質を見抜いているのです。

ここまではいいです。

まだまだ賃金差別と性的いやがらせを克服できない実社会において、どっこい生きているという成人女性が、たまには我がまま放題なお姫様気分を味わったって良いことです。そのための創作物です。

ただし、これを新宿二丁目へ持ち込むと「ゲイのお兄ちゃんが私の代わりに人権運動してくれる」と期待するオバサンになっちゃうのです。

同人も、市販BL読者も、社会学者も、自称人権運動家も、厳重に自戒しましょう。

母親のトラウマは関係ありません。トラウマがあっても自分で気をつけることはできます。少女でも現実社会できちんと行動することはできます。

「男性が少女を搾取するべきではないわ」という大人の女性自身が、少女を口実にしてはいけません。

なお、ゲイを女性の人権運動の補強として利用するのは1980年代フェミニズム的発想なので、若い人が真似すると、若い人もオバサン属性になってしまうので、注意してください。

【8.男装の麗人の男流漫画化】

オスカル・フランソワの時代には、剣術と馬術で良かったんですが、物語の時代が下ると男装軍人も航空機に乗ったり戦車を操縦したり、はては自分自身がサイボーグになっちゃったりするわけで、女流はこういうメカニックを描くことが致命的に苦手なままですね。

だから、現代では男装の女性軍人を描くのは男性漫画家の仕事になっています。

編集者の入れ知恵もあったかもしれませんが、基本的には漫画家の自発でしょう。画家が(同性愛者でない限り)異性を描きたがることは、ルネサンス以来の基本です。

逆に女流は女性化の守備範囲を広げたわけで、いまやBLにおいて女性化される男性キャラクターは美少年ばかりじゃないというわけです。

そして、この動きは、テレビバラエティ番組にかつての任侠・極道映画のスターが登場し、若い女性観客から「可愛い」と呼ばれるようになった現象と、軌を一にしています。

(記憶が確かならば、1990年代から見られるようになった現象です)

つまるところ、創作物は社会全体の風潮を象徴表現したものであり、それだけ取り上げると社会から突出しており、過激すぎ、異端的に感じられますが、じつはちゃんと基盤に根ざしているのです。

【9.自然な変遷】

創作家は、演奏家とちがって、同じ作品をくり返し読み上げるだけというわけには参りません。永井荷風が云った通りです。新作には必ず新機軸を盛り込まねばならない。意図的にやるのでない限り、誰々の二番煎じと呼ばれてはならない。

だから、時代がくだるにつれて、創作物のバリエーションが増えるのは当然です。金髪少年が犠牲者だったものが一世を風靡した後には、それが加害者側にまわるという話が出てくる。

さらにその後には、被害・加害の関係ではなく、対等な友情のような恋愛や、プラトニック物語が希求されるようになる。当然の動きが起きているだけです。

なお、かつての加害者キャラクターが貴族詩人だったのは、文学の素養があった女流作家・漫画家たちにとって、フランス象徴派詩人が最高の憧れだったからです。

貴族で美形で金持ちで。それは、どんな行為も許される・あの人ならいいと云ってもらえるという特権の象徴です。

男性は、昔から、そういう人物を中年以上のタヌキ親父として描き、最後には天罰を受けるという結末にして、教訓物語という一応の体裁を保ってきました。

意外なようですが、これこそ男性一流の(ほかの男の厳しい目を意識した)含羞の表現であるかと思われます。

でも、女流は美化してしまった。暴力が愛に変わるというプロットをステレオタイプ化してしまった。

まさに、ここに「女性特有のナルシシズム」が表現されていると見ることができるでしょう。自分の「趣味・遊び」は、特権であり、美しいのであり、認められ、許されるのです。(だから異常だとは云わない道理です)

それさえも、創作物としては確かに許されると云えるでしょう。こういう時の背景にあるのが現実の不如意であることも、女性読者に限ったことではありません。

問題は、つねに、現実と混同すること。

現実の人間に対して、挨拶もせず、わざと失礼なことを云ったり、怪我をさせたりしている内に、お友達になってもらえると期待する異常な心理。

「女の子だから大目に見てもらえる」という弱者特権意識が、時おり、SNSや新宿二丁目で暴走するのです。

少なくとも初対面に近い職場の人々に対して「私の薄い本を買ってみたくないですか~~!?」と、やっちまうのは自粛しましょう。

【10.BL読者はBL読者で充分です】

男女の合意のもとに「耽美」の名で通用していたものが、パロディ同人界の隠語を取り入れて、奇妙なレッテルを張られるようになったというのが、BLの歴史です。

1970年代の耽美作品の読者は、とくに少女漫画の読者と区別されてはいなかったはずです。実際に同じ雑誌に掲載され、続けて読んでいたんですから。

いっぽう、「ヤマもオチもない」というのは創作物そのものを分類するための語であって、人間を名指すための語ではありませんでした。

名指した時点で差別ですから、差別が始まったのがBLの歴史と云ってもいいでしょう。

これは、やっぱり女性の社会進出が本格化し、男性の地位を脅かすようになった世相を反映し、男性の過剰防衛意識・先制攻撃意識を刺激しているのでしょう。

どこまでいっても、ジェンダー論であることから離れることはできません。

最初に名指した側の当事者がゲイコミュニティだった、さらに用法の間違いを広めたのが社会学者だったというのは、残念な経緯ではあります。

そして、自虐とは差別の内面化ですから、差別意識が旺盛ということであって、自虐する人は他人を差別します。「どうせあんたも何々のくせに」という偏見をもって他人に話しかけるものです。

さらに、自虐は被害者特権という意識を生み、過剰に露悪的な言動と、実在性的マイノリティへの甘えを生むものです。

だから、そろそろ自虐ごっこも克服するのが良いと信じるものです。

もしジェンダー論からBLを解放したいのであれば、BL読者は「BL読者」という、フラットな呼称にするのが良いのだろうと思います。創作物の読者にすぎないことを明示することができます。

「BL女子」って言い方も考えられるんですが、女性が読んでいるとは限りません。BL女子で定着すれば、逆に男性には「BL男子」と名乗ることを強要するという意味になるので不適切と信じます。

もし、BL読者は女性で何パーセント、男性で何パーセントという統計を出したいのであれば、自発的な合意のもとに協力者を集め、調査範囲を「何歳から何歳までの何人から得た統計」として公表したうえで、単純に一般化はできないという但し書きをつけるのがモアベターです。

ミステリーなら、そのカテゴリ名は「ミステリー」であり、ファンは「ミステリー読者」です。わざわざ「殺人マニア向け」なんて書きませんね?

2016/07/04

40代の人は、よく知らないのです。

今年49歳になる人は、1967年生まれです。

さすがに小学生の内から、保護者が娘だけで上京することを許すとは思えないので、女子だけでイベントに参加できるようになったとすれば、中学校へ入学してから。すなわち(遅生まれなら)満13歳になる年です。

1967+13=1980

すごく単純な足し算です。今年で40代最後の歳を迎える人は、コミケ(に準じる同人誌即売会)に参加できるようになった時、すでに1980年代に入っていたので、1979年以前に起きたことを、よく知らないのです。

隠語が同人界に初めて紹介され、広まり始めたとされる1979年頃に人気のあった原作はテレビオリジナルアニメであって、その著作権者はテレビ局または個人プロデューサーであり、漫画雑誌の編集部はなにも助けちゃくれないのです。

誰にも助けちゃもらえないから自虐したのに、そんな先輩たちの心を知ろうともせずに、編集部が大目に見てくれるとか云って天狗になった挙句に、プロ作品を指さして「どうせみんな」とか「私たちのほうが売れている」とか云っちゃう1980年代組(の一部)は、すかぽんたんなのです。

【沈黙の50代】

本当に何が起きたか知っている人があるとすれば、50歳以上。

ただし、50歳以上の女性が、二次創作者として40年間出展を続け、首都圏で悠々自適の一人暮らしをしており、気さくに昔話をしてくれる確率というのは、限りなく低いです。

「1980年頃には、本当に萩尾や竹宮に憧れて漫画を描いていた。時代の流行だからと思って、アニパロも出品してみた。でも3年くらいで夢が破れて帰郷した」

といった人のほうが圧倒的に多いはずです。

同人誌即売会が、それだけで食っていこうという人にとって甘い世界ではないことは、経験者が骨身に沁みて知っていますね?

しかも、この世代は、総務省の統計を見ると分かるのですが、全体の人数が少ないのです。

逆に、1967年以降の世代というのは出生数が多く、第二次ベビーブームに至って頂点を迎えるのです。

だから、もともと人数の少なかった50代の内の、ほんのコンマ数パーセントに過ぎなかった同人が1985年頃までに引退した後は、圧倒的に多い多子世代が流入し、バブル景気の大フィーバー(あえて古い流行語で)に至る。

この時代に(勘違いまで含めて)現在のコミケの骨格が形成されたので、じつは1985年から後の話というのは、あんまり意味がないのです。多くの人が、肌で知っているからです。

【1990年は五代目くらいです】

「アニパロ」の素材として人気のあるテレビ番組って、2年くらいで移り変わっちゃうもので、1990年頃に流行していたものは、1983年のブームから見ると、五代目くらいです。

1983年以前に人気があった素材(の主流)はテレビオリジナル番組で、原作漫画が存在しないので、編集部も編集者も関係ありません。

さらにさかのぼって、日本で初めてアニメファンクラブが立ち上げられたのは1972年頃のことだそうで、この時の著作権者は明らかに個人プロデューサーです。

したがいまして、「私たちは1990年に編集者から連絡をもらった」という話は、自分(たち)だけ助かりたい人の言い草です。

1972年に、既にアニパロが発生していたかどうかは定かでないのですが、常識的に考えて「お正月が近いから好きなキャラクターに着物を着せてみた」といったような、アイディアあふれる似顔絵というのは存在したことでしょう。

テレビから聞こえてきた台詞をもじってジョークにするというのも、実写映画・ドラマのファンも行うことですから、ごく自然にやり取りされていたと思われます。

それから数えれば、1990年の人は十代目くらい。末席も末席です。

もともとは本当に(ビデオデッキの普及していなかった時代にオンタイムで視聴した)アニメ好きな人々による軽いジョークの応酬だったものが、偏った進化を見せ始めたのが1980年以降。

1979年4月に有名なアニメ番組の放映が始まっていますが、既に「同人やっていた」人がこれに即応したとして、それを見て「私もやってみよう」と思い立った人が出展してくるのが1980年。この世代の人数が年を追うごとに漸増したのは上述の通り。

しまいに「コミケ」そのものが分裂します。

一般社会において、実在ゲイ男性による人権運動が(エイズの媒介者として迫害される恐れに対抗して)活発化し、彼らのための専門誌の存在が目立つようになり、同人作品がこれを参考に過激化したのが1985年以降。

それから更に5年も経過していれば「アニパロといえばこれしかない」というふうに定型化していたのは当たり前です。

なお、1983年のブームの際には、まだ本当に複数の会員が在籍する「サークル」の実態を保っていたと云えるでしょう。

すでに年長者(30歳くらいの男性)は、一本独鈷の状態になってしまっていた人もいたようですが、女性は中学・高校の仲良しグループの延長で、楽しくやっていたように思われます。

だからこそ「カップリング論争」なんてのも過熱化したのです。

カップリング論争が成り立つためには、一応原作(アニメ)の設定を取り込んだ上で、どちらがどの役柄に相応しいか勘案するわけで、平気で原作を無視する人からは生じません。

原作どころか、その設定の背景となった時代考証まで調べた上で、丁寧に描いた二次創作というのも存在したものです。

なぜ、何も知らない新参者が、1990年だけを基準に「同人誌とはアニパロです! アニパロとはエロです! 金目以外の目的はあり得ません! 原作なんか無視するに決まっています! キャラクター愛などありません! サークルとは個人です! 売上金を独占したかったからです! 誰も信用できません! 同人は悪い奴らです! その他は認めません! 仲の良いキャラクターファンなんて存在するはずがありません!」

と、叫んでしまうのか。自分=世界基準だと思っているからですね。

自分だけ助かりたいのは本能ですから、それ自体はかまいません。「私は過激BLしか読めない偏った人間ですが差別しないでください」と主張する権利もあります。

が、他人を否定してはいけません。わざと余計なレッテルを貼って尊厳を傷つけてもいけません。自分一人を基準に「どうせみんな同じに決まってる」と断定する権限もありません。

自分にはそれらの権限があると思っている人を「マジョリティの横暴」と云います。もし、本人が「私も性的マイノリティだから配慮してほしいわ」と主張する時は、残念ながら、疑ってみましょう。多様性ということを理解できない人ですから。

【一つの悪事で全てが解散することはありません】

どこの業界にも横領する人や蒸発する人がいるものですが、だからといって全ての銀行や市役所が解散するわけではありません。多くの人が、その後も真面目に勤務を続け、信用を取り戻すものです。

たった一件の持ち逃げ事件の発生によって、全てのサークルが疑心暗鬼に駆られ、一斉に解散したということはあり得ません。事実として、現在でもグループ活動している人々も存在します。

個人参加が増えたのは、たんに「最初から個人でやるものだ」と勘違いしたまま参加して来る人が増えちゃっただけのことです。

自分自身の勘違いを、数十年前にまで遡って適用してはいけません。

本当のことをよく知らないからといって、思いつきの「こじつけ」によって、同人全体をおとしめてもいけません。仲間を信用することができなかったのは、あなた自身です。