2016/09/30

1968年2月、マキノ雅弘『日本侠客伝 絶縁状』東映京都

組が解散して、散らばったゴミは誰が拾ってくれるんですかい。

脚本:棚田吾郎 撮影:わし尾元也 照明:北口光三郎 美術:井川徳道 音楽:木下忠司 編集:宮本信太郎 助監督:原田隆司

シリーズ8本目。斬新なハードバップ調の音楽は、まさかの木下忠司。そしてまさかの現代劇。

戦後の法律によって侠客が資金源(賭場)を断たれ、かえって悪どい「暴力団」に変化していく皮肉がよく描かれています。棚田の脚本は男と男の言葉による対決をひじょうによく描き出しており、マキノ監督らしい社会派ですが、いつもとは一味違った緊張感に溢れております。

今まで、わりと簡単に新しい時代に合わせて足を洗う話が多かったのですが、今回は逆手に取ってみたといったところのようです。高倉がすごくいい芝居っけを見せるようになっており、心理描写もいつもより格段に深いです。

わし尾の構図は洗練されて、「ここ一番」でローアングルを効かせるものに変わっております。色合いが美しく、男盛りの高倉の肌の質感の魅力を余すところなく捉えております。

1968年当時の風俗がそのまま生かされており、若い組員たちが当然のように洋装な中で、一人実直に和服姿と任侠道を守る高倉は、あざやかな居合も披露してくれます。

善玉の相方は菅原健二。やっぱり高倉とはいいコンビです。悪役は渡辺文雄。だいぶ渋い顔合わせ。題材が題材だけに、リアリズム重視路線のようです。藤山寛美と待田京介も未曾有の名コンビっぷりですが……だからそれやっちゃいけませんってば。

松尾嘉代がすっごくいい嫁さんぶりで、男女の会話もいいセンス。桑原幸子ちゃんも可愛いです。

暴力シーンをギリギリまで押さえた非娯楽的つくりながら、高い緊張感が持続し、殴り込みに至る話の流れが良く、殴り込みの瞬間もいつにも増して印象的で、わし尾の移動撮影も見事。その後が描かれているのも珍しいパターンで、たいへん味わい深い一本です。必見。



2016/09/30

1967年9月、マキノ雅弘『日本侠客伝 斬り込み』東映京都

男には一生に一度、たった一人でやらなければならんことが、きっとある。

原案:河野英雄 脚本:笠原和夫 撮影:山岸長樹 照明:中山活雄 美術:井川徳道 音楽:斉藤一郎 助監督:原田隆司

シリーズ第7弾。西日本一帯長期大ロケーション(予告篇より)

影を利かせたオープニングが史上最高にカッコいいです。水平に構えたカメラのなめらかな移動が美しく、見せすぎ感のない編集も憎いです。

脚本が笠原の一枚看板になりまして、善玉も悪玉も男も女も帳元衆もチンピラも、粒ぞろいの名台詞ぞろい。シリーズ屈指の(以下略)

やや複雑かつ、ハードな対立の構図に、喜劇役者たちの名人芸を乗っけたコメディタッチ。エキストラを活かした風俗描写も安心・安定のマキノ構図。天津敏も今回は誇張ぎみなキャラ作りで脇役に徹しております。

今回の高倉は、まさかの子連れ狼で、まんまる顔の子役(推定5歳)が最初から最後までいい芝居見せます。

プロデューサーのお嬢さんは、前回とは一転して大活躍。清楚な町娘姿も、艶麗な芸者姿も眼に優しく、娘から妻へ変貌する演技力も確かで、やや地味な「神農」(テキヤ)の世界に花を添えております。

ごめんなさい。女って、そんな眼で見つめられると自惚れて。

ロマンスの展開が早いとこもいいです(^^) その父親役は、スキンヘッドが眩しい石山健二郎。新国劇出身者の間合いと表情の豊かさは、いつ拝見しても感服つかまつります。

永遠の大政(大木実)は、今回は「稼業ちがい」の高倉の兄貴分で、無理なく良い役。この人も不思議な個性で「この人が惚れるほどの男なら、本当にいい奴なんだろうな」っていう、主人公に説得力を持たせる名脇役なのでした。

終盤は、その主人公の紋服姿も凛々しい見せ場が連続すると、急激に男惚れ任侠劇と女の意気地が光る人情劇の豪華盛り合わせになだれ込みます。

マキノさんは、ほんと云うと男同士のなんとやらってあんまりお好きじゃないわけで、盃を交わす儀式なんてのも殆んど描かないのです。

そういう仁侠映画らしい部分は、素っ気ないほどスッ飛ばして、女優とコメディ俳優に活躍の場を与えるのでした。なんというか……京都人らしく「くさみ」をきらうというのか、照れがあるのかもしれません。

そのぶん、高倉の独演が光るわけでございまして、1967年は網走シリーズや残侠伝シリーズと合わせて8本(!)も撮ってるんですが、これは5本目。長い仁義がよく決まりました。

当初は大物ゲストを迎えて二枚看板だったこのシリーズも、高倉を「トップ」に据えた構図となって、物語の流れがシンプルになりました。途中何回か「いったん手打ち」ということになって、進行が止まりかけるんですが、急に違う話が始まるわけではなく、無理なく新展開して、一層の盛り上がりを見せます。原案もいいのでしょうが、長門の個性が得がたいです。

堅気修行のつもりが白刃の出入りという、いつものあれですが、弱い立場の町衆がヤクザ者の腕っぷしを頼りにする様子が明るく描かれており、長門ひきいる若者たちの活躍ぶりも微笑ましく、まだ笠原が任侠路線に飽きていなかったかと思われます。

殴りこみも、ほぼ高倉の眼の高さに合わせてカメラが水平移動する、珍しいくらい見やすい構図です。軍用の大型拳銃が巷間に出回っていたようです(いやいやいや)

エンディングも珍しいほど明るいものなので、仁侠映画最初の一本にしてもいいかもしれません。

【今宵切らせた封印が、俺とお前の幕開きだ】

嫁さんが献身的すぎるわけでございますが、これは当時の男性観客としても「ありゃお前、相手が健さんだからだよ」ってことで、納得して観られるものだったろうと思われます。

もし自分の嫁さんに厭味をいう奴がいたとしても、嫁さんのほうも「あたしだって健さんのためなら」ぐらいのことを言い返すことができる。旦那が「お前みたいなお多福が芸者になれるかよ」と(長門裕之みたいに)言い返して、犬も食わない夫婦喧嘩終了。

日本には「かかァ天下」という言葉もあって、強気の女性もいれば、それを認める男性も、昔っからいたのです。

1960年代は、婦人運動が(より一層)活発化した時代でもありましたが、男たちはそこへ機動隊を投入して止めさせようとはして来なかった。日本の女たちの行動と言論の自由は、基本的に保障されていたのです。

男たちのほうにも「もう戦争はいやだ」という気持ちが残っていたわけですし、すさまじい公害の被害も明らかになりつつあったので、嫁さんたちが戦争反対・公害反対・生活防衛を訴えるかぎり、一般労働者である男たちにとっても悪い話ではないのです。

運動を危険視して、代表を解雇・左遷するなどの弾圧を加えたのは訴えられた大企業と自民党なわけで、庶民vs.金持ちの対立の構図が先鋭化するから、笠原和夫のリベラル魂に恰好のネタを提供すると。

じつは橋本治がある若者から「男女交際がうまくできません」と相談されて「さっさと結婚しなさい」とアドバイスしたんだそうで、なるほど百万人の女性とおつきあして典型例を抽出するなどということをしなくても、たった一人の女性を相手に「うちの奥さんはこういう人だ」と理解すれば困ることはないわけです。さすがにゲイの個人主義は筋金入り。

一般に女性のほうが精神的成長が早いから、結婚が早ければ早いほど、よほど男が粗暴でもない限り、嫁さんのほうがしっかりしている・主導権を握っているという構図になりやすい。

1960年代というと、若者たちはフロイトとサルトルだったかな? 新左翼運動に夢中だったかな? 男女とも晩婚化が進んだからこそ、若い男性が女性を理解する機会をなくして、創作物によるステレオタイプを頼るようになったんじゃないか? これが今に至るまで尾を引いてるんじゃないか? ちょっと思ったことです。

女たちも今さら早婚化したくは(たぶん)ないので、創作物によるステレオタイプに頼らない女性理解を訴え続けていく他ないわけですが、ここで、大学における女性教員の地位というのは、じつはたいへん低いのです。

一般企業が女性の待遇を改善した後も、大学教員の出世レースにおける女性差別は残った。そのことを指摘し、変革を訴えた人がまた男性だった。女性教員はその会議に出ることさえ出来ていなかったのです。(参考:『おんなの昭和史』有斐閣選書、1986年)

というわけなので、大学の女先生たちが一般人の眼には違和感があるほど平等を訴えるとしたら、ちゃんと彼女たちなりの切実な事情があるのです。

で、無理やり映画の話に戻せば、そういう女の時代だからこそ、男同士のなんとやらを称揚する仁侠映画に人気があったのだったでしょう。



2016/09/30

1967年1月、マキノ雅弘『日本侠客伝 白刃の盃』東映京都

俺がやらなきゃ、誰がやる。

脚本:中島貞夫・鈴木則文、撮影:わし尾元也、照明:北口光三郎、美術:川島泰三、音楽:斉藤一郎、助監督:原田隆司

シリーズ屈指の名作って毎回云ってますが、ここへ来て天下一品の傑作が生まれてしまったようです。主題歌は高倉が唄うことに決まったみたいで、ストーリーも彼の一枚看板で定着したようです。

昭和初期、銚子。セットの良さを活かした画と若手によるコメディから始まって、エキストラ大量動員による社会派描写が胸熱な、まごうかたなきマキノ節なんですが、わし尾に好きに撮らせたらしいローアングル&クローズアップ重視の構図とカメラワーク、短い台詞の掛け合いと、切れ味鋭い編集によるテンポの良さが、いつにも増して素晴らしい。悪役と組合長の密談は、ワンカットずつカメラが寄っていく効果が見事です。

対立の構図は、毎度おなじみ同業他組ですが、表に恋の鞘当て、裏に親分・子分・兄弟分の義理を配した重層構造で、噛み応えマックス。途中で兄貴が帰って来るタイプの話ですが、二部構成のようにもならずに流れが良く、すごくまとまりがいいと思います。

こまっしゃくれた子役の演技に時々イラッとしつつ、堅気ぶってる高倉の隠しきれない危険な香りにゾクゾクしつつ、天津敏を見る映画でもあります(嬉) 松尾嘉代がめっぽういい女で、これを見送る天津の眼が切ない。きっと根は、すっごいいい人。

菅原健二と大木実。大木実と伴淳三郎。「残侠篇」の一種でもあって、加藤泰んとこで鍛えた(と思う)わし尾のカメラが思いきって寄るので、中年どもの渋い肉感が画面を重くして、この量感が嬉しい。わざと窓枠の影を落とした照明も憎らしく、ややのけぞり気味に拝見。内田朝雄の使いどころも相当に渋いです。

長門裕之は(今日もというべきか)いい芝居見せます。斉藤一郎は最高の劇付随音楽だと思います。義理が廃ればこの世は闇だ。ときどき脳裏に『人生劇場』が流れて混乱しつつ。

仁侠映画における高倉は、客人を迎える側と客人の両方やってるわけですが、今回は後者でした。登場人物がそれぞれに過去の事情を背負っている様子を暗示的に示す脚本がおとなの味わい。なお銚子屋の娘さんが、いい女優さんだと思います。藤純子は、今回ほとんど動きませんが、それだけに美女ならではの存在感が印象的です。

よーーく考えると、タイトルは物語と関係なくて、高倉が演じる侠客は風間重吉以外の男とあんまり酒を呑んだことがないのでした。

菅原は『残侠伝』でも共演してましたし、悪役やってたこともあったような気がしますが、高倉と並ぶと、互いの危険さと真面目さを引き立てあって、良いコンビのような気がします。

殴りこみが2回あるのはこのシリーズのお約束で、1回目の後の描き方も珍しいほど丁寧です。なにがすごいって、義理と人情の任侠の世界が一般市民の世界から遊離してないのです。堅気の衆が、殴りこみを同じ街の問題としてとらえ、侠客も同じ世界の一員として果たすべき役割を果たしている。

鶴田浩二は人知れず殴りこみ、本当に一人で決着をつける人でしたが、この高倉・マキノコンビ作品によく見られる、侠客を街に溶け込ませ、美化する描き方は、高倉の個性によるのか、マキノの信念だったのか。(たぶん両方のせい)


2016/09/30

1966年9月、マキノ雅弘『日本侠客伝 雷門の決斗』東映京都

あいにく俺ァ素人なんでね。損得の勘定はこれから勉強するとこだ。

脚本:野上龍雄・笠原和夫 撮影:山岸長樹 照明:北口光三郎 美術:川島泰三 音楽:斉藤一郎 助監督:清水彰

シリーズ屈指の名作。 って毎回云ってますが、演出力がぐんぐん上がって行くのです。今回は本当にすごいです。なお、主題歌がリニューアルしました。

大正15年、夏。古き良き浅草、六区芸能界。マキノ的俯瞰の構図から始まって、世界観と対立の構図を示す「プロローグ」にあたる開始20分間の見せ方が良く、内田朝雄と島田正吾のツーショットの渋みにのけぞりつつ、待田京介の赤い蹴出しが目に沁みる。(器用な役者です)

芝居小屋の話なので女優の登場も多く、雰囲気が明るく、当時の往来の賑わいや、リハーサル風景まで再現する風俗描写が貴重です。

主人公は例によって海へ出ていたらしいです。立派な体格とともに藤純子(今日は可愛い子ぶりっこ演技)とのラブラブっぷりを惜しみなく披露しております。

悪役は水島道太郎が天津敏を連れて。喪服の中に二人だけ白いものを着た演出がにくいです。

藤山寛美はコメディ属性ではなく、いいこと云う役です。今回は鶴田がいなくて、長門裕之が色男属性。村田英雄が泣かせます。オールスター状態、しかも無駄なく引き締まって心地よい。女たちが気風を見せるところも嬉しい。エキストラ大量動員は監督の得意技で、今回も冴えておりました。

最終殴りこみに至る情感の深まり具合は(今んとこ)他の追随を許しません。物語の良さは野上龍雄に帰して良いでしょうか。

明らかに『人生劇場』の要素を取り入れておりますが、これは「リスペクト」と云うのです。同路線の中では最も美しく決まった一本ではないかと思われます。健&純子のロマンスの幕切れも美しいものです。

花のほかには、待つばかり。


2016/09/29

ゴスロリとBLと、中年女性の少女自認。

「金髪の美少年どうしが親睦を深める横に、19世紀のフルドレスを着た美少女がいて、少年たちから同時に(妹として)愛される」

この1970年代美少年漫画におけるキャラクター構成を現実化すると、BL派の女性が豪華なワンピースを着て、おおきなお人形をかかえているという姿になります。

1992年以来、少女漫画・少女小説から独立したレーベルとして顕在化した「BL」の単行本カバー画などには、二人の男性が恋人同士のはずなのに、互いを見つめあっておらず、二人とも「こっちを見ている」というものが多いですね。

つまり、美しすぎるお兄さんたちと、読者女性の三角関係が正当化されているのです。

そう考えると、BLを読みつつゴスロリに装うという趣味の女性たちは、ちゃんと伝統を踏まえているし、自分のことをよく分かっている。センス良いわけです。

でも、こういう話を聞いていられなくて、話の途中で「私が書いた二次創作には男しか出てこないよ! だって私は母親がトラウマになっているから、女性キャラクターに感情移入できないんだもの!」と、わざわざ言ってくる人もあります。

で、ふたこと目には「私は母親がトラウマになっているから、おとなになりきれないアダルトチルドレンなの」と言うのです。

そして「私はアダルトチルドレンだから、新宿二丁目へ行って、ゲイボーイズトークに首をつっこんで、男同士の性愛にかんする質問ができるという弱者特権があるのよ」と勘違いしているのです。

だから、そういうBL趣味の女性における少女自認の源流をたどって行くと、『ポーの一族』のキャラクター構成がイメージモデルになっているという話です。

しかも本人が「私は森鴎外なんか読んだことがない。男が書いた小説じゃなくて、プロの少女漫画家の作品を読んでBLに目覚めた」というならば、当たりでしょって話です。

自分が男になって男子校に入学したいから、男が書いた話を自分のことのように感じながら読んだんじゃなくて、女流のフィルターが掛かった世界を見たってことですよね? あくまで少女漫画の一種として、キャラクター構成に少女が加わっている話を読んだってことですよね?

「少女が誰からも傷つけられないように僕らで守ってやる」という少年たちが、いつBLになるのかしら? と、ワクワクしながら読むのが好きだったんですよね?

そういう、永遠の少女と美少年どうしの三者による世界観が、一般男性の価値観からも、教育委員会のオバサンの価値観からも独立しており、誰からも禁止されないというユートピアを目指してるんですよね?

だから、「ゲイカップルとルームシェアして、彼らの子育てを手伝いたいわ」なんて夢を抱いてるんですよね?

もし、このタイプの女性が「吊橋理論で同性愛に目覚めることって本当にあるの?」と質問するならば、本当もなにも、本人が「もともとストレートだった男性どうしが同性愛に目覚めたという実例を見つけて、そういう人々と同居したい」と思っているだけです。

つまり、生来の同性志向男性が、一般男性からも、女性からも笑いものにされたり、いやらしい質問をされたりして、つらい思いをしながら生きてきたことには、まったく責任を感じていないということです。いままさに見当違いな質問をしているわけですからね。

「同性愛に興味がある」と言っても、ゲイの現実の苦しみではなく、漫画に描かれた「ストレート同士が危険をともにしたことによって同性愛に目覚めた」という奇跡の物語が好きだというだけのことです。それを「母親のトラウマ」のせいにしているだけです。

ゲイは「トラウマ」という言葉を聞いた瞬間に(腹の中で)鼻で笑っているでしょう。彼らは個人心理学の達人です。だから人生相談に乗ってくれるのではありません。女の自分勝手な屁理屈と、言い訳と、甘えを、いっさい許さないのです。

【少女プライド】

「少女というものは、男と老女の夢のなかにしか存在しない」

これはずいぶん昔から言われていることですが、これに対して「私たちはちゃんと生きているのよ」という抵抗運動をくり広げているのが現代の女性で、その象徴が「成人しても女の子を自称する」ことではないかな、と思います。

毎朝テレビでは28歳の女性アナウンサーが「私たち女の子の好みにピッタリです」とか言いながら、化粧品を紹介していますね。

本物の少女は化粧しません。男たちが愛しているのは本物の少女です。

その趣味の良し悪しは別にして、確かに1970年代以来「もう未成年ではないが、まだ大人の女とも言いきれない。親としても嫁にやるにはまだ早いと思っている」という世代をどう呼ぶかというのは、社会も、当事者も、迷ってきたのです。1980年代には「ギャル」と言いましたね。

確か「子ギャル」が高校生で、「孫ギャル」が中学生なので、「ギャル」は高校を卒業した18歳以上の若い成人のことです。

ギリギリで(ジュリアナ東京が閉店した)1994年までは「ボディコンギャル」という言葉が生きていたかと思われますが、その後「癒し」が時代の気分を象徴する言葉になると、「いやしギャル」とは言わなかったはずなので、この頃から「女の子」または「女子」という単語が流行し始めたのだったでしょう。

(遠い目をして思い返しつつ)

ま、確かにギャルというと、いかにも元気が良い感じです。女の子は、もうちょっとおとなしい。基本的な社会のマナーはわきまえている。叱られるようなことはしていないといった雰囲気。

女子というと、学童以上をイメージモデルにしているかと思われます。少しはお勉強もできる。基礎教養がある。腕力はともかく、成績では男子に負けていない。

で、その女の子または女子が「たんなる男の夢」と言われちゃたまらない。確かに私たちは男性とも、オバサンとも違う価値観と存在意義を持って生きているのよという自己主張。これが現在流行している、化粧もするし、カクテルも飲むし、自由恋愛もするけれども「女の子」を自称するという、一種の人権運動かと思われます。

それはそれで良いのです。我々は同じではないけれど対等であり、女の子を自称しつつ自由な大人の女として生きたい人には、その権利があるのです。

問題は、それを新宿二丁目(など)へ持ち込んで、「私は女の子だから、少女漫画が読めないので、ゲイに性的な質問をしてもいいでしょ?」と訳の分かんないことを言う人がいることですね。しかも実年齢は(以下略)

勘違いと、それに基づくトラブルの根っこは「短絡」です。人間の大脳は連想を働かせるように出来ており、自分を取り巻く世界のさまざまな要素間の関連性を見出すと嬉しくなってしまうように出来ています。自然科学も社会科学も、それで成り立っています。

が、根拠もなく自分勝手な思い込みで関連づけてしまい、しかもそれを利用して実利を得ようとすると、自称少女がゲイバーを荒らすとか、他人の著作権と自分の著作権を混同するとかいうことになってしまい、しかもそれを「少女の弱者特権だから配慮してくれるのが当たり前よ」という、脅迫まがいの言動になってしまうのです。

最近の若い人は、生まれた時からインターネットがあったので、自分を広い社会の目線から照射するという意識を持っており、かなりクレバーになっています。

いっぽう、1980年代フェミニズムを心の支えに、ものすごく勇気をもって社会に飛び出したつもりの(今の)中年は、人格形成期にガラケーもなかったので、そういう自分の姿を他人の目で見ることに慣れていないことがあります。

でも、若い人はちゃんと見ています。タイムラインの真ん中で、若いつもりで迂闊なことを言うと、本当に若い人から冷た~~い目で見られます。気をつけましょう。


2016/09/29

表面的な権力争いをしたがる人は劣等感を感じている。

現在のすべての名探偵ミステリーは、シャーロック・ホームズに依拠しているといって良いでしょう。でも、ホームズにも先祖がいます。

天才的な人物が謎を解くことによって、物語を聞いている人は、自分が解いたわけでもないのに、爽快な気分を味わう。この面白さの源流をたどれば、オイディプスくらいまでは行き着くでしょう。

でも、神話・伝説というのは、似たような話をまとめたものですから、オイディプスにも先祖がいるはずです。結局のところ、人類は何万年も前から謎解きの面白さを味わってきたのだろうということになります。

ここで「でも私がミステリーの面白さに目覚めたのは1990年代に『コナン』くんを読んだからよ」という人があれば、日本中で一千万人くらいが「ぼくも私も」と言うでしょうが、歴史をたどる話の役には立ちません。

今から百年くらい後の人にとって、1990年代にはそういう作品が流行したという歴史の1コマにはなるでしょうが、その「コナンくん」の源流は何なのかという話をしている時には無意味です。

同様に、ヒュアキントスとアポローンのエピソードも、その形でまとまるよりも前から、似たような話が小アジアからペロポネソス半島に至る古代ギリシャ世界の各地で伝えられていたことでしょう。

それを1960年代の女流が参考にして、小説を書けば、それが現代のBLの源流ということになる。ここで「でも私は1980年代に漫画を読んで目覚めたのよ」という話は、ほかの誰の参考にもなりません。

そもそも、その漫画の源流は何かという話だからです。

あえて例えると「このカレーに使われている人参は、どこで採れたものか」という話をしている時に、「でも私が人参を食べられるようになったのは小学校に入ってからよ」と言われても、「は?」というだけですね。

つまり、他人の話の主題をずらして、自慢話にすり替えたい人がいるのです。が、自慢したがる人がいれば、劣等感を感じているにすぎません。

【注目を浴びるために、わざと劣等感を感じる】

劣等感とは他人から与えられるものではありません。自分勝手に自他を比較し、自分で自分を差別してしまったことにより、自分勝手に感じてしまったものです。

つまり、自分で自分を貶めるような基準を自分の心の中に持ってしまっている。他人の価値観に従って生きているわけです。「だって、むかし誰々から何々と言われたんだもの」というなら、それを気にしながら生きることに決めたのは自分です。

他人の話を聞いているうちに自分が劣等感を感じてしまったというのは「ばかにされたような気がする」という、主観的な思い込みです。被害妄想です。

人間は、ある意味うまく出来ていて、他人の話をわざと自分が劣等感を感じるように曲解することがあります。「ここに被害者がいます!」と叫ぶと、注目を浴びることができるからです。

だから、他人の話の文脈を無視して「カマトト」という単語に脊髄反射したりする例もありますが、これは言葉狩りです。

他人どうしが表現規制問題の話をしているのに「それ私のことでしょ!? いま私のことを言ったでしょ!?」と、首を突っ込みたがるのです。

これに続くのは、多くのばあい、不幸自慢です。母にああ言われた、男にこう言われたという昔話です。自慢したい心と不幸自慢したい心は同じもの。要するに目立ちたい。話相手(に勝手に選んだ相手)に勝ちたい。

勝つことによって劣等感を克服したいわけですが、じつは順序が逆です。「勝った」という快感を得たいから、タイムライン越境なぐり込みのきっかけとして、自分で自分の中に劣等感を捏造するのです。

「傷つけられた」といって挑戦状をたたきつけるために、自分で自分を差別するのです。めんどくさいですが、人間はこのくらいのことをやってのけるのです。

トラブルの原因は、自分自身の勝ちたい心です。逆にいえば、自分で自分を「負けている」と見なす心です。

もし周囲の人から「可哀想」と言われるとしたら、その態度によってです。



2016/09/29

BLが描いて来たもの。

BLが伝統的に描いてきたものは、ゲイの青少年ではないのです。

同性志向に生まれついた男児が幼少期から同性の同級生に恋をすることによって自認を深め、心ない人々からイジメられるいっぽうで尊敬できる先輩に出会い、人権運動に目覚めて行くという自伝的物語ではないのです。

ですから、僭越ながら同性志向男性の皆様のために申し上げますと「女の描いているものは同性愛を美化している」と言ってはダメなのです。それでは「美化する前のオジサンたちも基本的には同じことをしている」という偏見が払拭されません。

すると「やっぱり男子校で悪戯されたからホモになったんですね!?」という質問が再生産されてしまうわけです。それを防ぐには、BLが伝統的に描いてきたものが、実在同性志向男性の現実にはまったく依拠していないという知識が必要なのです。

【伝統的ステレオタイプ】

BLが描いているのは、旧制中学校の先輩によって女役に選ばれた美少年です。だから、もともと、どっちの若者もストレート自認なのです。

なぜ女流がそんなものを描くかというと、1970年代の女流漫画家が、旧制中学校では「下級生を女に見立てる」という習慣があったことを、森鴎外などの作品を通じて知ったからです。

すでに彼の時代に、実際にはパワハラであり、下級生にとっては迷惑でしかない行為を、加害者であるストレート男子の意識のうえでは「情け深い念弟が招き入れてくれた」として、美化していたのです。要するに、加害者が責任逃れしたのです。

明治時代の日本に限らず、何千年も前から、世界中で、そうやって美化されてきたのです。若者たちがやっていたことは、もちろん、成人ストレート男性の模倣です。

その知識を活かして、女流が描いた漫画の舞台が、イギリスやフランスだったから、主人公が金髪なのです。

なぜ日本人が描いた漫画の舞台がイギリスやフランスだったかというと、根本的に日本人には西欧コンプレックスがある上に、ゴシックロマンが流行っていたからです。

平井呈一が思潮社から『おとらんと城綺譚』を刊行したのは、エドガー・アラン・ポーを鍾愛した日夏耿之介が1971年に亡くなった直後、1972年3月のことです。

先立って、『薔薇の葬列』で映画デビューしたピーターが日本レコード大賞最優秀新人賞を獲得したのは、1969年末です。

三島由紀夫が市ヶ谷で腹を切ったのは1970年11月です。

少女時代からポーや三島を愛読してきた女流たちが、1971年8月にビョルン・アンドレセンが来日してテレビ出演したのを見て衝撃を受け、「わわわ私もあんな美少年を描きたいッ!」と思うと、いろいろ混ざった挙句に……

「戦前の外国の寄宿学校で先輩から女役として選ばれてしまったスミレ色の瞳の美少年は、森と泉と赤い薔薇に囲まれたブルーシャトーで生まれた」ってな具合になるのです。分かりましたか?

当時の女流を取り囲んでいた流行の品々を、全て一つの漫画作品に取り込んだだけです。今でも漫画家(のみならず小説家・脚本家など全ての創作家)が利用する、当たり前の技法です。

それが定型の基となって、現在の若手の作品では、舞台が現代に移されているから、一見すると作者自身が同性志向を持った男性(トランスゲイ)で、女生徒として男女共学校に通っているうちに自然にそういう表現を思いついたかのように勘違いする評論家も出てきちゃうのです。

【無意味なクレーム】

こういう話をしてる途中でですね、「でも私は漫画を読んで目覚めたのよ!」なんてクレームされても無意味なのです。

だから、その漫画を描いた大人の漫画家たちは何を参考にしたんですかって話をしているのです。

あなた自身が森鴎外を読んだことがあるかどうかを質問されているのではないのです。自分が話題にされていると勘違いしなくていいのです。あなたは世界の中心ではありません。

竹宮恵子や青池保子は何を参考にしたんですか? 水野英子の漫画ですか? そうじゃないですよね? 水野の時代には、まだそんなもの描いてないですよね?

水野より若く、池田理代子の「ベルばら」が大ヒットした後で「私は何を描こうかな」と考えた人々が「男装の麗人はもう古い。これからは女役の美少年だ」って思ったのです。

本人たちがどれほど意識的だったかは分かりません。でも結果的に、それがオイルショック不況下に一定の効果を発揮し、少女漫画雑誌を救ったのです。

おそらく小学館は、竹宮たちの活躍がなければ『少女コミック』を廃刊していたでしょう。オイルショック不況は、厳しい時代だったのです。

「でも私は1980年代に『WINGS』を読んだから目覚めたんだもの」という個人的な自慢話が、この話題になんの関係がありますか?

その1980年代に流行していたものの源流を探っているのです。歴史の話をしているのです。あなた自身が何年に生まれて何年に何を読んだかは、歴史年表には載らないのです。



2016/09/29

BLにも恩人がいます。

日本でウーマンリブ大会が開かれたのは1970年11月。三島由紀夫が市ヶ谷へ突入したのと同年同月です。

1971年8月には、不世出の美少年子役ビョルン・アンドレセンが映画『ベニスに死す』公開キャンペーンで来日してテレビ出演し、日本の女流漫画家たちに多大なインパクトを与えました。

1972年4月には川端康成が魂のトンネルを抜けて行きました。このとき、男性ナルシシズムに支えられた純文学上の「耽美」は死んだと云えるでしょう。萩尾望都『ポーの一族』の発表が始まったのは、この年の半ばです。

1973年以降は、オイルショック不況となりました。印刷用紙が不足し、漫画雑誌もページ数削減などの対応を余儀なくされました。ふつうに考えりゃ、読者の少なそうな漫画なんて新規に連載させてる場合じゃないです。

が、この時にあって「少女が主人公ではない少女漫画」という不思議なものの誌上公開が続々と許されたということは、出版社が女性パワーに賭けたのです。この当時の編集者も社長も男性です。

それを読んだ結果「目覚めて」、アニパロを描くようになったというなら、二次創作BLファンが「アメリカにも、ウーマンリブ運動にも、男性にも、なんの恩義もないわ」ということはできません。

出版社が二十四年組の原稿を「女のくせに」と一蹴していれば、その後の展開はなかったのです。実際に売れるかどうかは、売ってみるまで分からないのですから、公開前に決断を下してくれた男性陣には足を向けて寝られないというべきでしょう。

1961年までさかのぼっても、森茉莉の作品が世に出たのは、新潮社が通したからです。推薦文を書いたのは三島由紀夫でした。

この時点で、すでに女性だけで「ノヴェル・マーケット」が立ち上げられており、アニパロ小説がブームになっていたというなら立派なものです。

あなたはその時どこにいましたか? まだ生まれていませんでしたか? だったら、えらそうなことは云えません。

現在のBLの源流とされる有名な女流作品というのは、同人誌として流布したものではないのです。多くの人に影響を与え、同人活動を活発化させたものとして挙げられるのは、やはりプロ作品で、それは出版社を通っているのです。

しかも、成人女性による婦人運動・女権運動が盛んになった後に、BLの時代が来たのです。なにもないところから、とつぜん少女たちだけで始めたわけではありません。

同人活動の自治を主張したい気持ちは分かりますが、歴史を否定してはいけません。それはひじょうに危険な全体主義に通じる発想です。

多くの女性は、自分に政治的決定力があると思っていませんから、全体主義は危険といわれても、何が危険なのか分からない。

でも、何ごとも自分を基準に、自分の都合に合わせて世界のほうをねじ曲げようとする心は、周囲の敬遠を招き、自分自身を孤立させるのです。


2016/09/29

ノンセクシュアルでも育児はできます。

「お母さんがトラウマになっているから結婚できなかっただけなのに養子を取ることを社会が認めてくれないのは許せない!」と叫ぶ前に、できることがあります。

看護師・保育士・教員などの資格を取るか、養護施設の職員になれば、むしろ自分の仕事で忙しい保護者よりも、人格形成の最重要時期に大きなサポートとなることができます

また、姉妹の子どもを預かる・シングルマザーとルームシェアするなどの方法で、交替で子どもの面倒を見るということが可能です。

ただし、食事や風呂の世話、家庭教育、習い事への送迎、PTAボランティアへの協力、病時の看護、学費のための夜間労働などを始めれば、ゲイバー遊びはできなくなります。

「自分が産んだ子でもないのに、そんな苦労させられたくないわ」と言うのであれば、養子を取ることもできないはずです。

そもそも母親がトラウマになっている人が育児すれば、虐待の連鎖を起こす可能性がありますね? とくに他人の話を途中で勘違いして越境クレームしたり、ツイート文末に「!」をつけて語勢を強調する人は、子どもに対しても「早く、早く!」と怒鳴る可能性が高いですね?

それとも「養子ならトラウマを刺激されないから大丈夫よ」と都合よく考えていますか?

だったらその旨を文章にまとめ、新聞投書またはブログなどを通じて発表し、政府・自治体に対して運動を起こしましょう。

でも、じつは、トラウマは存在しませんね? 本当は、トラウマがあることを口実に「結婚しない」という目的を達成しようとしていただけですね? 男の機嫌を取ったり、姑さんにイジメられたり、子どもがまとわりついてゲイバー遊びもできなくなるのが、いやだっただけですね?

なぜ、本当はやってみたくもないことを、ゲイバーへ行った時だけ「やってみたかったわ」と言うのか? ゲイボーイと会話する口実が必要だからです。彼らがその話題では同意せざるを得ないことを知っていて、足元を見ているのです。

【自覚による人生設計】

もし、若い時から特殊な性の自覚があって、無理解な母親から早期に独立することを望む場合、さいわいにして大学進学だけは認められたのであれば、教員免許・公務員試験を始め、各種資格や合格実績を確実に取得して、独立につなげることができます。

学生寮への入寮を希望すれば、心配性な母親が毎晩うるさく電話をかけてくるといったこともなくなり、勉強がはかどるでしょう。ガラケーも普及していなかった時代なら尚さらです。

もし、親のカネで学生マンションと固定電話回線を用意してもらい、同級生と長電話しながら、パロディ同人活動に夢中になっていたということであれば、その間は勉強していなかったということですから、あまり本気で独立したがっていたわけではなかったことになります。

もし、同人活動だけで一生食って行くつもりなら、死に物狂いになる必要があります。甘い世界ではありません。ペンネームをいくつも使い分けて、オリジナルを書いて出版社へ投稿(就職活動の一種)したり、BLだけではなく一般女性向けや男性向けも描いて、委託販売に出したり、通販の広告も打ったりして、自立の確率を高める必要があります。

大事なことなのでもう一回いいますが、同人なめてはいけません。

アニメ関連ショップにおける、アニメ関連同人誌の委託販売というのは、知る限り1980年代前半から利用することができました。場所によっては、もっと早期から始まっていたでしょう。

その程度のことも知らずに同人で食っていくつもりでいたなら、ただの箱入り娘です。自分の部屋を出て、コミケという巨大な密室に引きこもっただけです。

その間、生活を支えてくれていたのは、親御さんです。


2016/09/28

2015年4月、橋本昌和『クレヨンしんちゃん オラの引越し物語 サボテン大襲撃』

あきらめるな。絶対に諦めるな!

脚本:うえのきみこ 絵コンテ:橋本昌和、増井壮一、高橋渉、湯浅政明 音楽:荒川敏行、澤口和彦

名にし負う歴代一位の涙腺破壊力。アニメ映画ヒットの法則は、オヤジにいい仕事させることと、可愛い子にも仕事させることなのかもしれません。

野原ひろしの男心の繊細な描写を中心に、小物の使い方がうまく、終盤には怪獣映画的なデッカい画もあって、各ご家庭のとーちゃんを置いていかない連休向け劇場版シリーズの真骨頂を見せたかと思います。

脚本には女性らしい感性が随所に閃くとともに、ゲストキャラクター一人一人のそれまでの人生・日常生活の様子までが想像できる。

劇場版シリーズの他の話とは違って、異世界から奇想天外な人物がやって来るといった話ではなく、現代の現実を描いており、大人泣かせの人間ドラマになっております。シロでさえ、1本の独立したストーリーとして楽しめる活躍ぶりを見せる。

このタイプの話は、しんちゃんらしさがどっか行ってしまうこともありますが、敵キャラクターそのものは奇想天外なので、対抗策として「おバカ」要素もよく活かされております。

監督のほかに「演出」としてクレジットされている人が2名おり、あるいは手練れの絵コンテ達も、それぞれのアイディアを出したのかもしれません。

話が「敵の正体が分かる前と後で2部構成のようになっている」というタイプではなく、たいへん流れとまとまりの良い一本で、それ自体は脚本家のお手柄だと思いますが、評価できる要素が盛りだくさんなので、「ブレインストーミングが上手く行った例」みたいな気がするのです。

という具合に話が良いんですが、その見せ方が輪をかけて素晴らしく、アクション場面のカメラワークも、余韻をきかせた場面転換の切れ味の良さも、「照明」の効果も、実写映画でもなかなか無い上手さだと思います。絵コンテ陣と撮影班に献杯しましょう。ドップラー効果を再現した音声さんにも。

女性ゲストのナイスバディぶり・オトナのオンナっぷりも歴代一位。もう一人は、いずこも同じ女子高生のスマホちゃん。展開における二人の活躍ぶりのバランスもよく、清々しい味わいでした。

以下、ネタバレリーナに取りつかれないことにはお話できないので、未見の方はご注意ください。なお、未見の方は必見です。日頃アニメを見慣れない方にも損はさせません。




野原一家が正体不明の敵に追いつめられるという、いつものパターンですが、敵キャラクターの動きがコミカルでありつつも、追いつめられる恐怖の演出は『バイオハザード』(それもゲームのほうの)を想起させる迫力で、まさに歴代一位だったと思います。

やはり「食われる」というのは、マンガと分かっていて観る者の心にも、根源的な恐怖を呼ぶものです。

劇場版シリーズを通じて、男性脚本家は悪の親分としての男性を登場させることが多く、悪の動機としては現代社会に対する怨嗟を設定している話が多いわけですが、今回は自然の脅威に人間たちが立ちすくむ。

人間倫理の尺度における善悪ではなく、自然のほうとしても、子どもを生き残らせたいだけなのです。

その発生が、人間の研究者が自然界の何をどうした結果であるといった説明を加えなかったことが、何よりも賢明な選択だったと思います。

本家(?)バイオハザードのほうは「女王」の描写に(おそらく男性ゲームデザイナーの)女性恐怖が表現されてしまったように思いましたが、こちらは悪意が感じられないところが女性脚本家らしいところかと思います。

これが全体の後味の良さに通じているわけで、良い意味で「オチ」がなく、戦い終わって日が暮れて……ならぬ、虹の架け橋が出て、まことに潔い幕切れでした。

そういうわけで、人間サイドは人間心理の弱さと確執を描きつつも、悪者がいない。過疎の村に残った者の意地、派遣された者の意地、自分なりの美学を究めちゃったらしい者、自分を乗り越えたい者。がんばるきみは美しい。

トランス的キャラクターを正義の側として描ききった点も現代的な選択でした。

外国の町を救うために日本人ファミリーが活躍するというナルシシズム映画ではあって、実際のメキシコの方が御覧になったらどのように思われることか。

よく考えると、みさえさんは(赤ん坊の世話という最も大切な仕事の他には)何もしておらず、現地の女性キャラクターたちが大活躍しているので、構図としては『007』シリーズなどと同じことで、もともと連休中の日本国内に市場を絞り込んだ娯楽作品として、最大の効果を挙げていることではあります。

ただし「カスカベ防衛隊」だけはいなかったわけで、ボーちゃん・ネネちゃんなどが好きなお子さんには物足りなかったのかもしれません。(次回ユメミーワールドで満喫)


2016/09/27

自分を遠くから見てみる観想療法の陥穽。

自分自身の姿を、幽体離脱したようなつもりで遠くから見てみましょうというのは、内省とか内観とかいう精神的作業をイメージ化したものです。

哲学・論理学に慣れていない人々にも「自分で自分を分析する」ということを分かりやすくしたものです。

それによって、自分の姿が滑稽であることが分かったら、もう不適切行動をやめるということを期待しているのです。眺めて終わりにしては意味がないのです。が、ここで女性が陥りやすい陥穽があります。

「一人ぼっちでスマホを握りしめ、異常なツイートを流し続ける私って可哀想。誰のせいでこんなことになってしまったの?」

という自己憐憫と責任転嫁の気持ちを起こしてしまい、またその気持ちをツイートし続けるという悪循環を起こすのです。

すぐ責任転嫁するってことは、責任を取りたくないからですが、そのこと自体が「だって女の子だもん」というナルシシズムの満足に通じるのです。

「女性特有のナルシシズム」ってやつァまことに厄介で、「可哀想な私って可愛い」「自分を可哀想がっている私って可愛い」「責任転嫁したがる私って可愛い」「なにも出来ない私って可愛い」という自己満足に浸ってしまうのです。

弱々しくて、無責任で、グズでノロマな亀の私って、最高に可愛い~~!

何重にも自我を分離し、自分を客体視することを重ねても、結論が「可愛い」に落ちてしまうのですorz

もちろん、そのように育てられてきたからです。だから、このタイプが「母親がトラウマ」といっても、じつは本当に早くそういう母親から独立したいとは思っていなかった。それほど悲惨な家庭ではなかった。

むしろ、介入的なお母さんにほめてもらうために頑張るという共依存の状態にあったのです。だからこそ、困った時はお母さん頼み。

【劣等コンプレックス的ナルシシズム】

性自認というのは人間にとって重要なもので「男に生まれてよかった」または「女に生まれてよかった」と再確認することは、脳にとって最高の「快」になるのです。だからこそ、性別違和な人は不断に苦しんでいる。

「心は男」というつもりのBLファンは、時々「こんな私でもやっぱり女なんだわ」という自認を更新するために、わざと不適切行動を取って「女だから仕方がない」という劣等コンプレックスに浸ることがありますから、自分で注意しましょう。

お母さんのトラウマのせいではありません。あなた自身がそういう生き方を(愉しいから)選んでいるのです。

自分にもその可能性があると思ったら自戒してください。こういうことは「世界中にたった一人しかいない」ということはありません。さまざまな心理学・メソッドなどというものがある通り、多くの人が似たような症状で悩んでいるのです。

だから、気づいた人からやめるのがいいのです。

【直輸入の弊害】

世の中、子どもをやる気にさせる方法・部下の心をつかむテクニックなど、さまざまな啓発本・ハウツー本が出ていますが、翻訳書の場合、あらかた使えませんね?

「ふつう子どもに(または部下に)そんなこと言わないよ」ってなことばかり書いてある。急に言われたほうも、キョトンとするだけですね。

自分が求めていたのは「岸見アドラー学」だったのだと古賀が言ったように、何々分析・何々療法・何々心理学といったものは、海外由来の場合、生活習慣と発想の枠組み(言語の構造)そのものが違うので、そのままでは日本では通用しないということがあります。

それに気づかずに、心理学を応用した占いのようなものを丸暗記して「これを友達に試してみよう」と思っても、友達のほうは答えようがないということがあり得ます。

そこで「この問題に答えられないあなたは、まだ何々の準備ができていない」など、分析っぽいことを言われても、意味を成さない。

そういうことに分析する側のほうで気づく必要があるのです。たとえて言うと、専門家の話を子どもに分かるように言い直してやるテクニックみたいなものです。

「なにが分からないのか分かる」ためには、自分が依拠しているテクストそのものの批判が必要になります。それが西洋人の生活習慣に基づいていること、キリスト教徒に特有の発想であるといったことに気づく必要があります。

あえて引き合いに出せば、歴史学がマルクス主義に染まっているなんてことは、学説そのものを引用し続けているぶんには分からない。学説史を概観して「この時点から一斉に学者たちの言うことがおかしくなっている」と、一段高いところから、または流れの外から、気づく必要がある。

さらにいえば、そのマルクス主義そのものが、自分で口を極めて非難しているはずのキリスト教と同じ一神教の発想によって、レーニンの遺体を「聖遺物」にしてしまっているといったことは、日本人だからこそ気づくことができるはずなのに、日本人のマルクス主義者は気づいていない……ってな具合に、何重にも批判し、自分が同じ症状に陥っていないかどうか、確認する必要があるのです。

が、まさにそういうわけで、日本の学者・評論家が、自分は外人さんの言ったことを繰り返しているだけだということに気づかないということは結構あります。とくに1980年代から1990年代前半にかけて、海外の学説を翻訳紹介するだけで、日本では最高の学者という顔ができたのです。

そして勿論、その学説を新聞・雑誌の記者が利用し、読んだ素人読者が鵜呑みにして、友達に向かって試してみると。そういうことが繰り返されてきたのです。その中に浸かっていると、自分が何をしているのか分からないことがある。だからこそ、幽体離脱したような気持ちになって、自分自身が夢中で読み、信じ込んでいるテクストそのものを批判するのです。

自己啓発術の場合、アドラーの流れを汲んでいることが分かれば、必ずしも英語で書かれた質問一覧・ロールプレイング的対話例一覧を直訳して日本人に試してみる必要はないことが分かる。

重要なのは「自分を遠くから見てみよう」と思いつくことそのものです。つまり、我に返ることです。

「SNSを通じて、自分を棚に上げて、見も知らぬ他人に向かって『どうせ本物の彼女いないんでしょ?』と厭味を言ってるって、何やってんだろう、私?」と気づくことです。

こう言えば、日本語として自然ですね?

その必要に気づきもしない人は、やっぱりお題目を唱えているということになってしまう。専門用語を使いこなしているつもりで、自分自身がそれに振り回されてしまう。気をつけましょう。



2016/09/27

BL好きな人はイメージしてください。

一次でも二次でもいいですが、あなたの好きな男性キャラクターが、酒場でもう一人の男性を待っているわけです。「今日こそあいつに声をかけよう」と思いながら。

すると知らない女が顔を出して、視界を占領するわけです。そして「あなたより私のほうが可哀想よ。だって恋愛ができないんですもの」とか言って、泣き真似を始めるわけです。

「知らねェよ……」と思いますわね。

そこへ、やっと意中の彼が来て、一杯おごってやったら意気投合し、肩を並べて街路を歩き出すわけです。すると、さっきの女がついてくるわけですよ。そして「だって私、お母さんがトラウマなんだもの」とか言い訳して、また泣き真似するわけですよ。

男たちは二人して「意味わからねェ……」「怖ェ……」と思いますわな。お母さんから「人のあとをつけてはいけません」って教わらなかったのか?

あなたは、雑誌の読者アンケートに「トラウマ女うざい」って書いて投書しますわね。

そうです。これがゲイから見た「ゲイバーへ来てしまう女」です。少なくとも、トラウマを言い訳にするタイプです。自分に酔っているだけであることがよく分かりますね。

自分で創作活動していたのに、この逆転の発想がなかった人は、本当にワンパターンなものばかり書いていたのです。

自分自身が攻めキャラになったつもりで、暴力行為と厭味ったらしい言葉責めが「愛に変わる」という話ばかり書いていたから、自分もゲイに付きまとって自分勝手なことを言っているうちに愛してもらえると勘違いしているのです。

【不適切なロールモデル取得】

上記の例から、重要なことが理解できます。

トラウマ型つきまとい女子は、男性キャラクターにも実在ゲイ男性にも全く共感していないということです。感情移入といっても、洋服やアクセサリーを選ぶように「これが好き」と思っただけで、相手自身の気持ちにお構いなしに、自分の都合で相手を利用しているだけです。

つまり男性に対して、わざわざ会いに行って、「俺はお前が気に入った。だから俺の話を聞け」という一方的な対人関係と奉仕を強要しているのです。悲劇の受けっぽい芝居をしながら、心は攻めです。

人生の早いうちから(その種の)BLに親しむと、不適切な対人関係をロールモデルとして取り込んでしまうことがあるのです。

とくに、もともと保護者や兄姉から上下関係を叩き込まれて育ったお嬢さんの場合、自分のほうが目上の立場になった気分を味わうことのできる創作物を知ったとたんに夢中になってしまい、その種の作品ばかり読むようになってしまうということがあり得ます。

これが大人になっても「BLといえば超過激に決まってる」と言い張るようなら、その歳になるまで、自分からその他の作品を構想してみたり、違う意見に耳を傾けたりできなかったわけですから、もともと視野がせまく、保護者との濃厚な共依存関係にあって、そのことを自己批判できていないのです。

逆にいえば、もともと「勇気づけ」の上手な親御さんによって、自他を比較することなく、おおらかに育てられたお嬢さんの場合、たまさかに権力的な対人関係の描かれたBLを読んだとしても「もうそれしか目に入らない」というふうになってしまうことは考えにくい。

むしろ(BLの中でも)対等な関係を描いた作品に関心が移っていくはずで、実在者に対しても、一方的な要求をすることはないと考えられます。

つまり、実際に自己中心的な対人関係を要求する人が「同人やっていた」という場合には、一方的な性愛関係ばかり描いていた。

逆にいえば、一方的な性愛関係ばかり描いて、それがよく売れたと自慢する人は、それが自信の源になっているから、実際の対人関係でも自己中心的な要求をする。人間の行動には意外なほど一貫性があるのです。人間はライフスタイルを使い分けられないからです。

で、その背景には、確かに抑圧的な親子関係の「トラウマ」があると考えることができる。だから本人の意識の上では自分のほうが被害者で、昔話をすれば同情してもらえると思っているのです。

これが、トランスゲイなわけはないのです。

トランスゲイがわざわざゲイバーまで出張っておいて、可哀想な女の子っぽい振りしてゲイに嫌がらせするわきゃないのです。実際には、ただのシス・ストレート女性が「心は男」のつもりで果敢にも夜遊びに出ておいて、「女性特有のナルシシズム」に浸っているだけです。

女性特有のナルシシズムとは、女性が自分で自分を「可愛い」と思っており、レディーファーストだからサービスしてもらえるのが当たり前と思っていることです。

とくに1980年代は、「アッシー、メッシー」という言葉があった通りで、女の時代といっても男とおなじ責任を引き受けるのではなく、男にサービスしてもらえる(と思い込んだ)時代だったのです。


2016/09/27

トラウマを克服する必要はありません。

もともと存在しないからです。にもかかわらず「母親のトラウマあるある~~」を自己PRポイントにしていた人は、そのほうが都合がいいから、そういう話にしておいただけです。

それが要するに注目を浴びるための嘘だったということに自分で気づいてしまえば「恥ずかしいことをしていたな」と思うだけですから、まずは静かになるのが基本です。周囲の人は「最近はあんまりトラウマとか言わなくなったんだな」と思うだけです。おとなの優しさとは、冷淡さとセットです。

もし「最近はトラウマとか言わないんですか~~?」と面白そうに絡んでくる人があれば、今度はその人のほうが危険人物だというだけです。

だから、わざわざ「トラウマを克服した!」と騒ぐ人は、不幸自慢から戦略を転換して「自分で克服した私ってスゴくない!?」という自慢話にすり替えただけです。逆にいうと、自慢話のほかに話題がないのです。

コツコツ努力するのがいやで、本を読むとか、作品を制作するとかいった作業に取りかからないのです。べつにむずかしい本でなくても、読みやすい漫画や絵本を読むだけでも、手芸でも料理でも園芸でも、出来ることをすればいいのにしないのです。

新しいことに取り組む気力をなくしているのですが、「たいした成果が挙がらないからやる気をなくしてしまった」というのは自分の判断です。他人のせいではありません。

もしかしたら「本当は男に生まれたかった」とか言うかもしれませんが、男じゃないから仕方がないという劣等コンプレックスに浸っているだけで、もし本当に男だったら何をするのか考えてみたことがない。

これはダイエットを逃避の手段にすることと似ています。「ダイエットに成功したら恋人ができて外国へ行って」とかロマンがふくらんでいるのに、ダイエットそのものに夢中なだけで、「女性の品格」も、外国の歴史も、言葉もビジネスも勉強していない。

ダイエットに成功しても、男性に向かってダイエットに成功した自慢しかできないのであれば、やっぱり恋人にはなってもらえませんし、外国でビジネスを始めることもできません。

もしも男になったら国防のために働きたいなら、べつに今すぐ自衛隊を希望してもいいし、運動コーチになりたいというなら資格を取ればいい。女性だから絶対にダメという職場は、だいぶ減りました。ほかの女性がそのための努力をしている間、あなたは何をしていましたか?

「男じゃないから仕方がない」と言わなくても、男女関係なく出来ることに取り組めばいいです。株式の勉強でも製図の勉強でも法律の勉強でもすればいいです。

そのうえで、BLでも、ゲイ漫画でも読んで、男になった気分を味わえばいいです。

BLは娯楽を提供できますが、あなたの人生にまで責任もてません。実在ゲイは、なおさらです。

本物のトランス男性が名乗りを挙げて手術を希望するようになりましたし、若い女性も本当に社会進出し始めてしまったので、もう中年女性の「心は男コンプレックス」は通用しないのです。


2016/09/27

娘が母親に責任転嫁しないという意味でもあります。

「課題を分離する」とは、親が子どもの課題に介入しないという意味であると同時に、子どもが親に責任転嫁しないという意味でもあります。

「他人を変えることはできない」とは、自分が変わらなくてよいという意味ではありません。他人によって変えられる筋合いがないからこそ、自分で自分の悪いところに気づいて、自分で改善する必要があるのです。

「お母さんが注意してくれなかったのが悪い」ではないのです。

「お母さんが注意しすぎたのが悪い」のでもないのです。

お母さんのせいで自分の心がイジけてしまったことに自分で気づいたなら、もうお母さんのことは忘れて、自分で自分を育て直しなさいということです。

いつまでも言い訳している人は、子どもの課題に介入する母親と同じことです。要するに母親の真似をして生きているのです。そのほうが楽だからです。

自分を変える勇気とは、母親から分離する勇気でもあります。

すでに具体的には分離している(実家から出ている)からこそ、寂しさに耐えかねて、子ども時代の思い出に逃避し、現在のお友達に対して不幸自慢することを快感にしてしまっている人というのは、時々います。

その不幸自慢する「きっかけ」を作るために、わざと他人に失礼なことを言ったり、怪我をさせたりすることもあります。

やっちまった後で「わたし、アダルトチルドレンだから仕方がないの」とか「お母さんのせいでノンセクシュアルになっちゃったから仕方がないの」とか言うと、本人だけ気分がいいわけです。

「哲人」岸見の挙げる例が、ときどき妙に生々しいように、アドラーたち個人心理学者たちも、実例から学説を帰納したのです。だから身近な実例を見て「ああ、こういう人のことか」と思うのは悪いことではありません。

自分が悪い例の真似をしなければよいのです。



2016/09/27

アドラーからフロイトへ退行してはいけません。

復讐は甘美な夢ですが、アドラーからフロイトへ退行してはいけません。

「うちの母親は自分の課題と子どもの課題を分離することができず、子どもの課題に介入する自己中心的な人間だったので、私が母親のトラウマから一生のがれられないアダルトチルドレンになってしまい、何歳になっても自他の区別ができないのは仕方がないのです」

じゃダメなのです。アドラーを知った後でフロイトに戻っちゃいかんのです。

だいたいアドラーが云ってることってのは、根本的に「フロイトを言い訳に利用するな。俺の友達はお前の道具じゃない」なのです。

フロイトの『夢判断』の時点では、患者自身が意識していない記憶が「トラウマ」となって、患者を突き動かし、強迫神経症を発症したという順番だったのです。

が、それを知った人々が「自分もトラウマに突き動かされて、ついついやってしまった」って云うようになっちゃったのですが、本人の意識レベルで「あれがトラウマになっている」と認識できている時点で、終わっているのです。

アドラーは「あんた、尻尾が見えてるよ」って云ったのです。

患者がトラウマの存在を認識し、母親なり父親なりが厳しすぎたこと、自分自身が母親なり父親なりに依存しすぎていたことを自覚できたら、次は「よく話し合う」とか「自活の道を見つける」といった課題へ移っていくのです。

そこで挫折して引きこもり、親との話し合いを避けている人は、人生のタスクから逃避し、人生最大の嘘をついているというわけです。でも本人は、そのことに気づいていない。ここがみそ。

アドラーの理論は、古賀が書いた本に出て来た「青年」が自分自身や引きこもりの友人の真意にまったく気づいていなかったことが象徴しているように、「無意識」の存在を徹底的に肯定することによっているのであって、彼の最大の恩人はフロイトなのです。

フロイトは、無意識を意識できた最初の人。人間には、神のお告げでも悪魔の誘惑でもなく、無意識というものが「ある」と名指すことができた人。

アドラーはそれを全面的に了承した人で、彼のすべての業績は、14歳年上の先輩への尊敬と感謝に裏打ちされている。

考えようによっちゃ「リビドー」という概念と、エディプスコンプレックスに自ら捉われていた先輩を、そこから解放してやりたかったのです。

ここで「男はいいよね~~」とか「男の友情って美しいよね~~」とかいう女のルサンチマンを自己承認しちゃうと、自分で自分を救えないほうへ追い込んでいく下降スパイラルにはまっちゃいます。

【女の劣等コンプレックス的ナルシシズム】

女性は「勇気を出せない弱い性」を演じることをナルシシズムの喜びにしてしまうことがあるのです。

勇気づけようとされればされるほど、「私には無理よ。だって女ですもの」と意固地になるわけです。まさにそのことによって「ああ、こんな私でもやっぱり女なんだわ」と感動してしまうのです。

とくに、「心は男」というつもりの人ほど、ときどき女性自認を更新するために、「どうせ女だから」という劣等コンプレックスを表明することがあります。プライドを感じるためにこそ、自分で自分を差別するわけです。男性には理解しにくい境地です。

フロイト、アドラー、岸見=哲人、古賀=青年は、いずれも男性なので、男の人が読むと「俺もがんばろう」と素直に思う可能性があります。が、女性は最後の瞬間に醒めてしまう可能性が、けっこう高いのです。

男に勇気づけられて、男が一人前になろうとする。この「男のホモソーシャル」の誇り高さを眼前にして、女がルサンチマン抱えてしまうことは、けっこう起こりやすいのです。

「男性に対して差異化する」こと自体が女性ナルシシズムの根本ですから、男が「強い・前向き・他者貢献」を強調すればするほど、女は「弱い・後ろ向き・自分中心」を強調するということがあり得るのです。

この基盤にあるのは、もちろん「あれか、これか」の二者択一の発想で、これを防ぐには「男女に違いを設ける必要はない」という平等志向ですが、そうすると今度は「腕力がないし、背も低いし、声も小さいから、男と同じ仕事をまかせてもらえないから、頑張ったって仕方がない」という、本物の劣等感と劣等コンプレックスに悩むことになるのです。

だから、自分と他人を救うために、「自分自身を競争相手として、前向きに他者貢献する」という倫理基準では男性と同じだが、仕事に関しては出来ることを頑張ればいい。必要な時はハンデをもらえばいい。

我々は同じではないけれど対等である。これがモットーになりますが、現実はうまく行くとは限らないので、劣等コンプレックス(=言い訳)に逃げ込みやすい。

女心は、めんどくさいのです。つねに自分を振り返り、微妙な調整を施していく必要がある。女性は、このことに自覚的になる必要があるのです。

【GLBTはリビドー進化説がきらいです】

なお、フロイト達の時代には、女性が親から独立するということは嫁に行くこととほぼイコールだっただけで、現代にあっては、必ずしも「異性愛者に進化することをもって人格の完成とする」という説を信奉しなくてもいいのです。

逆にいえば、フロイト流リビドー進化論にこだわる人は、その途中で挫折したことにしておいたほうが(不幸自慢できるので)都合がいいから、そういう話にしてあるってだけです。

それが自分にとって、唯一の自慢の種になっているのです。

でも、この説によると同性愛者は「病気が治ってない挫折組」ということになってしまい、おおいに自尊心を損なわれるとともに、治療と称する人権侵害を受ける恐れがあるので、ゲイ・レズビアンはフロイトなんか大っ嫌い・トラウマなんか信じない人々だと思いましょう。

したがいまして、彼らの前でトラウマを理由に「私って可哀想でしょ」という顔をすると、彼らがたいへん気を悪くします。気をつけましょう。


2016/09/26

1966年、篠田正浩『処刑の島』

俺たちは、またこうやって、やっとめぐり会えたというわけだッ。

原作:武田泰淳(流人島にて) 脚本:石原慎太郎 撮影:鈴木達夫 美術:戸田重昌 音楽:武満徹 編集:篠田正浩 助監督:宮川昭司

映画は大映。日生劇場プロダクション第一回製作。企画製作は石原なので、配給が大映。

石原慎太郎にだけァ、今どきのサブカル作品についてなんだかんだと言われる筋合いはねェぞと啖呵切りたくなる作品。

篠田正浩の唯美主義的映像によって、かろうじて高踏的・芸術的な装いを保っておりますが、脚本は明らかに若書きであって、設定上の無理が大きく、やりたいことが一杯あったらしくて、詰め込みすぎ感満載です。

逆にいえば、そこを無理に辻褄あわせようとせずに映像パワーで魅せた篠田の手腕と、淡々と悪役を演じきった三国の恐ろしいように立派なふてぶてしさを評価するといいのかもしれません。

当方の選択基準も「篠田作品を(レンタル店にあるかぎり)古い順に観てみよう企画」なわけでございまして、まずはビックリするほどきれいなカラー撮影でした。八丈島ロケーション敢行。古楽器を利かせたオープニング曲が魅力的。

タイトルはおどろおどろしいですが、今どきの学園スクリーム物みたいじゃなくて、物静かな文芸調です。予告篇では「異色大作」って云ってますが、1時間25分ほど。

大自然の片隅で、地にしがみつくように生きる人々を地味にカネかけて撮るのが篠田流。海の色も美しいですが、前衛的な舞台劇を思わせる対決場面が出色です。多様な芸術分野への造詣が深い方だったのでしょう。

過去が少しずつ明かされていく式のサスペンスなので、あらすじは申し上げませんが、序盤は(監督みずから切り貼りした)編集が大胆で、回想と現在が混在し、混乱しやすいので、頑張ってついて行きましょう。

もちろんそれが監督の狙いなんですが、例によってと云うべきか、「難解」って云われたんじゃないかと思います。

予告篇はやや見せすぎで、ロマンス映画みたいですが、まだ若い主人公男女のロマンスではないです。

題材が題材だけに、面白いって云っちゃうとあれなんですけれども、映画としての撮り方・見せ方としては素晴らしく、演出がいいとか構図がいいとか編集がいいとか云いながら観ることのできる方にはおすすめです。

主演の新田昌(あきら)はまさかの新人。中年の苦味と色気を兼ね備えた、たいへんいい男です。

窓枠の小さな三角形の隙間から、最初に三国連太郎の顔立ちがハッキリする構図は、よく狙ったと思います。

やや野性的な娘役には、松竹から岩下志麻を借りてきました。眼の光が印象的。

戦中から敗戦直後を経験した男性作家の多くは「男=人間社会の暴力性の象徴、若い女=聖なる自然の象徴」という対比的テーマを抱えているものです。

とくに石原が書いて、篠田が撮った映画には、魅力的な女性キャラクターが登場します。気が強そうで、眼ぢからがあって、神秘的な雰囲気をまとっているのに、生き方は受身。

だから物語の本筋に絡んでくるかというと、あまり自分から動くわけではなく、少女趣味なのも明らかで、これを手塚治虫が描けば、グッと現代ふうに近づくわけです。

若い作家には、人里離れた土地を舞台に自分自身の権力欲・サディズム的空想を満足させたいという気持ちもあるもので、慎太郎にだけァ(以下略)

一応、物語上の結末はつくので、『桜の森』『おりん』に比べて、後味は良いほうではないかと思われます。

人間界に何があっても、海の色と陽の色は変わらず。


2016/09/23

2011年、ポール・W.S.アンダーソン『三銃士』

船のボーイにしてください!

脚本:アレックス・リトヴァク、アンドリュー・デイヴィス 撮影:グレン・マクファーソン 美術:ポール・デナム・オースタベリー 衣装:ピエール・イヴ=ゲロー 視覚効果監修:デニス・ベラルディ 音楽:ポール・ハスリンジャー

独・仏・英合作。日本的副題「王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船」

『ダ・ヴィンチ・コード』の記憶がまだ新しかった頃に、『トゥームレイダー』じゃなくて『バイオハザード』な人々が描く、3D時代のルパン三世じゃなくて、三銃士。

蒸気機関ではないのでスチームパンクではなく、いわんや波動エンジンでもなく、だからこそ「この発想はなかった」と云うべき分類不能の痛快アクション時代劇。レオナルド自身に見せてやりたかったです。

アイディアが良いだけではなく、無駄なキャラクター・無駄な台詞がなく、展開が早く、お衣装と背景美術の時代考証にはえらく気合いが入っており、たいへん良作です。明るい気分になります。

冒頭はお人形を並べた地図が可愛いです。引き続き、祝祭のヴェネチア空撮、シテ島遠景、ルーブル全景。大ロケーション敢行……もしてるんでしょうけれども、合成がいかにも見事です。

物語とキャスティングは、びっくりするほど基本プロット・基本キャラクターイメージに忠実で、ここまでやっても原作愛が感じられ、演出も原作を肌で知っているというべきか、フランス製コメディの微笑ましさと上品さを持っております。

なお、唐突な洋画選択は、レンタル屋に行ったらDVDパッケージに美男が一杯いたからです。ハリウッドな人々ではないので見慣れないですが、たいへん良い顔ぞろいです。アラミスがお気に入りですが、レイ・スティーヴンソンが出てました。わーーい。

可愛い顔したダルタニアンはパーシー・ジャクソン。金髪のコンスタンスも、めっさ可愛いです。一瞬の男装姿も魅力的。

「女スパイ」や「船の旅」という要素のコペルニクス的転回的とらえ方だけではなく、史実では不遇な王妃だったアンヌ・ドートリッシュの愛らしさ、初恋という同じ要素を持ったルイとダルタニアンの友情、当時の旅は紳士だけでは成り立たなかったなど、今まで盲点だった部分に着目したセンスが抜群。

基本ラインを崩さず、原作ファンを困らせずに新要素を付加しているわけで、「正統派二次創作はこう作れ」というお手本のようです。

スローを利かせた殺陣は、どっかで見たような感じですけれども、ちゃんと自然光下で撮ってるので立派なものです。バルコニーから観戦する庶民の喝采するタイミングなど、場面構成がよく、たぶん映像処理なしの撮りっぱなしで見ても面白いです。

枢機卿は再現度高く、バッキンガム公も誇張の利いた悪役で、狐と(お洒落な)タヌキの化かしあいになっており、楽しいです。公はミレディとの男女の関係を暗示しつつも洒脱な味わい。

アクションパートの豪快さは桁違いですから、手ばなしで楽しみましょう。大砲発射の際の反動の再現も嬉しいところ。グスタフ・アドルフの時代と違って、砲弾は火薬入りになっていたようです。にげろーー。

ロシュフォールはもう少し活躍してほしいなと思っていたら、ちゃんと見せ場がありました。ミレディ退場して「こっから男のドラマ」という切り替えが良いです。同じ台詞、似たような場面の繰りかえしも効果的。アクション映画をアクションだけで見せない工夫に満ち満ちております。

目に残るラストシーンは、観てのお楽しみ。



2016/09/21

2008年、榊英雄『ぼくのおばあちゃん』

優しい嘘って、いうこともあるんだね。

製作総指揮:木下直哉 原作:なかむらみつる(「ぼくのおばあちゃん」ぴあ刊)脚本:龜石太夏匡・榊英雄 撮影:宮川幸三 照明:鈴木康介 美術:井上心平 音楽:榊いずみ 
特別協力:愛媛県・大洲市 東京ロケ協力:木下工務店

柿の実、鶏頭、物干し台。ひっさつ・せーばい剣ッ。おとながまじめに子どもと遊んでくれた頃。大事にしたい作品。

第21回東京国際映画祭、日本映画「ある視点」部門正式出品作品。菅井きん、2008年8月29日、ギネス認定。世界最高齢(出演時82歳)主演女優。

予想通りの涙腺刺激剤ですが、見せ方がものすごく上手いです。照明、構図、カメラワーク、編集など、映画作りがPCに頼っていなかった頃の緊張感と実直さにあふれております……って、2008年!?

まだ若い俳優出身の監督以下、スタッフがアナログ時代の実写映画をなめるように見た人々なのだろうと思う他ありません。とはいえ、スローやストップモーションなどもたいへん効果的です。

特筆すべきは時代劇パートがあることで、この出来栄えが!(嬉) まさかのワンシーン・ワンカット。拍手。

そして何よりも、2008年の時点でこの風景を維持している大洲市に感謝と尊敬の念をお伝え申します。

俳優たちはたいへん楽しそうに演じており、なごやかな撮影現場だったように思われます。中学生以下の子役たちは、いずれもたいへんおりこうさんです。

おばあちゃん自身の半生の苦労は語られませんで、まさにタイトル通り、孫の目から見た、孫の胸に残る懐旧の日々。

今なお二十四時間戦い続ける男たちの悲哀の向こうから、劇中劇の楽しさと、回想シーンがさざなみのように打ち寄せる複層構造になっており、おばあちゃんがいた頃を描くカメラには、すべてのカットに美しい陽射しの色と情緒がまつわっております。

その手前で、若い母親たちは、どこの家庭でも自分自身の責任感を背負いかねているようでございます。

脚本には無駄がなく、終盤は回想の中の回想という入れ子状の構成と編集の技に泣かされます。

監督も原作もまだ若い男性ですから、小さな男の子への共感があるようで、彼らの姿を通じて、おばあちゃんと、お母さんと、お母さんだった人がおばあちゃんになった人への慕情を称揚する、今どきまっすぐな自己愛作品でもあります。

監督の名言:人がいなければ、映画はできない。

人とは、生まれて、迎えられて、見守られて育つものであり、時間が過ぎ去るということは、とても幸せなことなのです。


2016/09/20

1952年、ルネ・クレマン『禁じられた遊び』(Jeux Interdits)

100年、これを預かって。

原作:フランソワ・ボイェル 
脚本:ジャン・オランシェ、ピエール・ボス、ルネ・クレマン
撮影:ロベール・ジラール

禁断の遊びは、本人にとっては遊びじゃないのです。幼い恋の悲劇は、それが人間の無力さの象徴だから切ないのです。1940年6月。戦争がなければ起きなかった小さな出会い。

古典的名作を順に見てみよう企画。でも意外に新しくて1950年代に入ってからでした。

オープニングクレジットは絵本の形になっており、「いまは昔の物語」というフィクション性を強調した導入になっております。昔の作品にはこういう約束事がありましたね。戦争の記憶が「お話」になりつつあった頃なのかもしれません。

本篇明けると、独軍の空襲から避難するフランスの人々。空撮とエイゼンシュテインふうの編集が光りますが、苦み走った辛口リアリズム路線なのは明らかで、観てるほうもあんまり喜んでる場合ではございません。

……と思うと、やっぱりフランス流ではあって、社会風刺魂は筋金入りのようです。貧しい生活を淡々と描くというのは日本の映画もよくやるわけですけれども、とらえ方と描き方が違う。

自動車を所有する都会のプチ・ブル。近代文明化される前の中世の気質を残した田舎の農民。受勲と受難。死と恋。大人の世界と子どもの世界。屋根裏と地階。幼子たち、若者たち。

叙情的な音楽を響かせながら、対比的な要素をテンポ良く積み重ねて、ドライな風刺性を際立たせつつ、しだいに熱を上げていく語り口は、これがフランスの論理性かと。

あまりにも有名な美しいアルペジオは、少女に対する時の少年の心の震えを表しているようです。流れる水の音は、あらがいがたい時の流れを象徴しているかのようです。

スティーブン・キングみたいな話じゃございませんので、怖いの苦手な方も安心して御覧いただけます。

少年の純情さに胸打たれつつも、空前絶後の最年少主演女優賞というべき少女の舞台度胸というか、カメラ前度胸に驚かされることです。

戦争のない世界は人類共通の願いのはずですが、戦争がなければこの出会いは生まれなかった。迂闊に「感動した」と云おうとする口に突きつけられた、これがフランス流メメント・モリの鋭い刃。

おそらく学校へも行っていない少年の口から流れる水のようにこぼれ落ちる祈りの声が、耳の底に響き続けることです。

イェペスの楽曲はバッハの無伴奏の味わいですが、チェロだったらだいぶ印象が違うはずなので、子どもたちの軽やかな身心を象徴するかのようなギターの音色を選択した時点でクレマンの勝ち。



2016/09/16

1974年3月『宇宙戦艦ヤマト』(DVD第5巻)

明日の幸せというものは、自分の力でしか獲得できないものですからね。

【第25話】脚本:山本暎一 作画監督:岡迫亘弘

イスカンダル星へ投錨。スターシァは前々回で「ガミラスもイスカンダルも地球人もおなじ人間」と云っていたのですが、彼女と雪が似ていることには(ここで見るかぎり)とくに深い意味はないようです。

守の無事を喜ぶ真田さんは若々しいです。この期に及んで画像と音声のシンクロ具合が良くないんですが、編集の問題でしょうか。

山本暎一は、おそらく少年向け冒険活劇の素養があって、SFといいつつ実質は秘境冒険もの・西部劇の一種だった時代を知っているのだろうと思います。こういう惑星表面へ降り立ってからのエピソードが多かったですね。「雪ピンチ!」って要素も多かったような気がします。無事で何より。

守を迎えるスターシァはたいへん嬉しそうです。女を愛しぬく男の純情は、ほかの男の胸をも打つのです。あと131日。

【第26話(最終回)】脚本:藤川桂介 絵コンテ:石黒昇 作画:白土武・芦田豊雄・岡迫亘弘・森田浩光・宇田川一彦

地球に向けて、全速前進。

ここへ来てデスラー戦法炸裂。真田さんの「こんなこともあろうかと」戦法も炸裂。打ち切りによって短縮したぶんを詰め込んだのではないかと思われ、この期に及んでエピソード盛りだくさんで忙しい回です。

最後まで作画は安定しませんでした。場面ごとに良く描けているのですが、明らかに違う画家の筆であって、人物の顔立ちがコロコロ変わるのです。個人的には芦田が好きですが、「全場面を一人で描きなおした」という熱心なファンもいたことを疑いません。

後半は、沖田さんの顔の描画に気合いが入ってます。見事です。赤い地球の照り返しが第一話を想起させ、感慨深いことです。

沖田十三こそ、地球へ還っても個人的に待っていてくれる人もいないのに、大勢の人が待っているという思いだけを支えに、老体に重責を背負いきったのでした。

対する古代はいかにも直情径行で浅慮ですが、人間性の対比をよく描けたのが、このシリーズの良いところだったと思います。古代に対して島の冷静さも全篇を通じて印象的でしたね。

雪は初登場時はお姉さんっぽかったのですが、だんだん少女趣味になりました。『さらば』につながる「愛」というテーマと悲劇性(とご都合主義)は、すでにここで示されていたようです。

西暦2200年9月6日ヤマト生還。宇宙は何事もなかったかのごとく平和な時を息ついていた。

西崎義展の功績は、本人の備えていた鑑賞眼と、稚気あふれる熱心さが、制作陣の本気を引き出したことだったろうと思います。冨野由悠季・安彦良和が「大人がアニメに本気になってもいいんだな」と思わされたというんですから。

罪は罪でありましょう。しかし人間の罪であるならば、その人間の理解ということも、裁きの外のこととも思えません。(『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』p.275)

そしてもちろん、彼の要求に応え得る技術を備えた人々が、すでに存在していたことの意義は計り知れず大きいと思われます。全力を投じて日本アニメ界に新しい時代を開いたスタッフ、キャストの皆様、本当にお疲れ様でした。

なおもここへ来て、思い返すに、完結篇も、復活篇も、あってよかったと思うのです。ヤマトを葬るのは沖田十三の手がふさわしく、その志を継ぐ者は、やはり古代進であるべきである。

なにもかもみな、懐かしい。



2016/09/16

1975年2月『宇宙戦艦ヤマト』(DVD第4巻)

【第19話】 脚本:山本暎一 作画監督:岡迫亘弘

匂い優しい白百合の 濡れているよな あの瞳。(『北上夜曲』作詞:菊地規)

相原くんがメンタルやられちゃったようです。心理描写主体ですから画面的には地味で、編集が荒いですが、山本脚本らしい脇役キャラクターに焦点を当てた良エピソード回です。想い出すのは、想い出すのは、北上河原の雪の夜。

母に会いたくて脱走した・姉に会うために脱走したというエピソードは実写映画にもありましたが、この1970年代は意外なほど戦争を題材に取り上げ、その陰の部分を真正面から描くことに挑戦していたように思われます。サイゴン陥落・ベトナム戦争終結は1975年 月。

なお、森生活班長のお寝巻き姿は刺激的でした。ふつうの戦争映画にはあり得ない描写ですね。アルカディア号から鳥さんがゲスト出演(違)

それにつけても艦長、食卓に着かれる前にお帽子を脱がれませ。あと255日。

【第20話】 脚本:藤川桂介 作画:スタジオ・メイツ

戦いは、勝てばいいのだ。(byドメル)

バラン星攻防戦。古代が沖田さんから艦長代理を拝命しました。よくも悪くも直感的に判断する彼は、理性的に反論する島とは良いコンビです。ドメルは日本アニメ史上屈指の印象的な中年男ですが、自らの奢りに負けたようです。

キャラクターの顔がコロコロ変わる作画はチームプレー。あと253日。

【第21話】 脚本:藤川桂介 作画監督:坂本三郎

私の作戦に失敗はない。(byドメル)

満を持して、ドメル戦。宇宙の狼に敬意を表して、オープニング曲の導入が変わりました。今回は七色星団へ配備を完了するまで。実写ライクなカメラワークが緊張感を高めます。

バラン基地陽動作戦は地球人(おもに古代)の心理まで読んだ見事な作戦だったので、総統がもうちょっとドメルさんをえこひいきしてくれていたら展開が違っていたのですが、番組のタイトルが変わっちゃいます(『宇宙将軍ドメル』)ので、御都合主義なのは致し方ないです。

ドメルの顔が良く描けていた回でした。編集も落ち着いていたと思います。あと215日。

【第22話】 脚本:藤川桂介 作画:タイガープロダクション 

七色星団攻防戦。オープニング曲を省略して、時間枠をいっぱいに使いました。こういうことやっちゃうセンスには繰りかえし敬礼を送りましょう。

敵戦闘機隊が画面の奥へ消えていく構図センスも並大抵ではないと思われます。重爆撃機の発進は何度見てもすさまじいです。ヤマト艦載機の発進も丁寧に描きました。

洋の東西を問わず、第二次大戦もの・大東亜戦争ものはたくさんあったわけですが、1975年の時点で架空戦記を真顔で描ききったというのは、やはりすごいことだったと思います。

これが若い創作家(の卵)たちに「自分で自由に戦術を考えて、海戦・航空戦を描いてもいいんだ」という発想の自由を与え、意欲を掻き立てたことの意義の大きさは計り知れません。

ドメルは一騎打ちなどの精神性にこだわらず、使えるものはぜんぶ使う合理的・冷徹な指揮官で、まちがいなく名将だったのですが、唯一の誤算は、ヤマトに真田志郎という男が乗っていたことでした。

大損害を受けた艦底・艦橋・宇宙葬を描ききるリアリズム志向にも繰りかえし敬意を表したいと思います。エンディングも劇場版ライクでした。

「地球のために命をかけた全ての勇士に送る。きみたちの心は、我々の心に蘇って、明日の地球の力となるだろう。我々はきみたちを決して忘れはしない」(沖田十三)

【第23話】 脚本:藤川桂介 作画演出:芦田豊雄 作画監督:小川隆雄

「百里の道を行くときは、九十九里をもって半ばとせよ」(by佐渡酒造)

さァ、こっからです。劇場版でもほとんどノーカットだった回。

すでにこのとき放映打ち切りが決定しており、全39話の予定を全26話に仕立て直すために後半の展開について激論が闘わされたそうです。

が、ここへ来てキャラクターの顔がひじょうに良いです。現場の士気は高かったようです。スターシァは美しいばかりでなく、気高い迫力を帯びております。あと164日。

【第24話】 脚本:山本暎一 作画:スタジオ・メイツ

まだお気づきになりませんか。大ガミラスといえども敗れることはあったのです。(byヒス)

もはや粛々と爆音だけが轟く、ガミラス最期の日。子供向けの手加減一切なし。これがなければジブリ映画さえなかったんじゃないかと思われたくらいです。劇場版でもノーカットだった回。

人物の顔は、各場面ごとに良く描けているのですが、コロコロ変わります。小泉謙三以下、スタジオ・メイツのチームプレーなんですが、自分の腕に覚えがあれば、一人で全部描いてみたくなりますわね。パロディではなく真正面から(ノベライズならぬ)漫画化した同人誌がたくさんあったことを信じます。

古代と雪がえらかったのは「沖田さんに云われた通りやっただけだもん」とか「こっちだって犠牲が出たんだから正当防衛だ」とか、一切言い訳しなかったところですね。彼らはここで大人になったのです。

この話は、あくまで沖田さんが主人公で、冥王星戦の頃から、老骨最後の大仕事というメインプロットがあるのです。そもそもコスモクリーナーを取りに行くのも若者たちの未来を守ってやるためで、古代が沖田を乗り越える話ではなく、すでに実の息子をなくした沖田の手の中で大勢の若者たちが成長して行く話なのです。

雪は登場したばかりの頃はお姉さんっぽく、ミステリアスな感じで、島との三角関係を暗示していたと思うんですけれども、だんだんコメディリリーフの一種になった挙句に、いつの間にか古代にくっついちゃってまして、この点だけはやや物足りないところです。

島と古代の二人が代わる代わる彼女にアプローチして、彼女が二人を手玉に取るくらいが良かったですが、それでは男性視聴者からは愛されなかったかもしれません。

島と古代本人たちのほうは、人間性の違いをハッキリ打ち出すことができており、今に至るまで得がたい人物造形だと思われます。それにつけても、船外からサンプルも取らずに成分分析するアナライザーは優秀です。

「この機会に、艦長として一言だけ諸君に申し上げたい。ありがとう。以上だ」(沖田十三)

あと161日。


 
2016/09/16

1974年『宇宙戦艦ヤマト』(DVD第3巻)

【第13話】 作画:スタジオ・メイツ 小泉謙三 朝倉隆

貴様も人間なら、命の大事さを知れ!

ドメル将軍登場。右手を挙げる挨拶が、いかにもあれな感じ。よくこれをアメリカへ売り込もうと思ったな、と。総統のお風呂は豪華でした。

念のため確認しておきますが、欧米で売りたいなら金髪の男性が悪役として登場するものは無理です。大原則です。今なら向こうの若者のほうが日本流サブカルの文法にだいぶ慣れたかもしれませんが、より広く一般市場へ売り込みたいなら、重要な要素です。

今回は作画が安定しており、キャラ顔が魅力的です。イケメンガミラス人が捕虜になりました。1974年当時の女性ファンなら「ハンサム」って云ったかもしれません。古代くんは、ちょっと危険な奴になってます。

この物語は、じつは沖田さんがヒーローなので、古代はその下で人間的な過ちをくり返す青春ドラマの主人公の役割を背負っているのでした。アニメのくせにスローモーション。

古代は三浦半島の出身だそうです。先日は飲酒していましたが、7年前に中学生だったということは、ギリギリ20歳なのでしょうね。母上はたいへん賢明な女性だったようです。西暦2192年の宴会は箱膳を並べて行われていたもようです。

パトレイバーに神主さんがお祓いする場面を見て感心したことがありますが、こういう「未来にも伝統文化が混在している」という表現は嬉しいです。(この当時は意図的じゃなかったと思いますが)

回想シーンは動画が荒いですが、いいエピソードです。平和な生活を一方的に壊されていくことへの怒りと恐怖。こういうのちゃんと描いておくことが大事。あと300と5日。

【第14話】 作画監督:芦田豊雄 絵コンテ:安彦良和 

いいわねェ、男同士って。

なぜか作画と物語が素人くさくて、男の友情のとらえ方がステレオタイプにもほどがあって、見ていられない回。正月休みで同人にでも任せたか。

なんで第一艦橋常勤の航海長と砲術長がメインパネル前で「戦闘配置」と云われてから廊下を走って「忙しい」のか。

そもそも、外宇宙への船出を前に「オクトパス星団」に足止めをくらうヤマトって。……ワープしませんか……。あと280日。

【第15話】 作画監督:白土武 作画:友永和秀 内山正幸

わたしは、イスカンダルのスターシァ。

引き続き作画が乱れております。絵コンテも荒いようです。メインスタッフが正月休みを取っていると思うことにしましょう。コーヒーの淹れ方は、どう間違えりゃそんなに不味くなるのか、森くん。(紅一点の女性スタッフが料理下手というのはお約束)

ドメル将軍着任。カレンダーは宇宙共通のようです。西暦2200年にもシュルレアリスムが流行っていたもよう。「演習」では破れたんじゃなくて、相手にならなかっただけです。あと273日。

【第16話】 脚本:山本暎一 作画監督:岡迫亘弘 絵コンテ:安彦良和

ぼくにも命はあります。

偵察機の描画だけは立派ですが、何がしたかったのか山本。ドメル将軍、一発ぶちこんでやってください。民俗的な音楽だけは魅力的です。(この当時流行りましたね)

レーダー係りがなんで生活班長なのか。(本当は他にも大勢の女性が乗り組んでいるのです) あと267日。

【第17話】 脚本:藤川桂介 作画監督:白土武 作画:友永和秀、内山正幸 撮影:諫川弘 演出助手:腰繁男

男の頼みだ。

正月休みが終わったようです。ドメルの横顔が美しいです。沖田さんはついに入院。艦底からすっとんで来る徳川さん。たまには真面目な顔をする佐渡さん。

雪は担当部署が一杯あって忙しいです。艦長を心配するモブ乗組員の人体フォルムが独特の味わいを持っています。白土の絵は「昔の同人」というべきか、マニアックな魅力を持っております。

フェードアウトを利かせた場面転換が美しい回でした。バラノドンは可愛い奴でしたね。あと263日。

【第18話】 脚本:山本暎一

科学は、人間の幸せのためにこそあるものであり、人間は科学を超えたものだ。


オープニングで表示された脚本の名前に不安を覚えつつ。絵コンテは出来が良いようです。(作画・絵コンテはエンディングで表示されるので、本篇終わってみるまで誰の仕事か分からないのです)

あっちゅーまにシームレス偵察機を完成させるヤマト工廠は優秀です。砲術長がチョコチョコと持ち場を離れて良いのかというのは云わない約束にして、と。

古代から真田への二人称は「あなた」で、軍隊ものとしては違和感あるのは否めません。英語なら当たり前に「you」なんですが、日本語のむずかしいところです。

どうも山本脚本回は、脇役キャラクターにスポットを当てるということのようで、番外編というか、二次創作というか。それぞれに良エピソードですが、本筋を見失っている感はあるようです。

この番組、本来は倍くらいの放映期間を予定していたそうなので、対ドメル決戦を中盤の山にするつもりで、そこへ至るまでの道を模索していたように思われます。

前回(の山本脚本回)のアリンコ帝国に比べれば、今回は「マグネトロン・ウェーブ」とか、敵艦内部の通路がコンピュータ回路そのものであるなど、SFらしい設えです。

この番組は、まがりなりにも監修にSF作家を起用し、ハードSFの要素を持っているところが、従来の勧善懲悪ロボットもの等に比べて出色だったわけで、大事にしてほしいところです。

けれども、どうもやっぱり1950年代以前の西部劇・秘境探検路線などを連想させるのが山本回のようです。

真田さんの手足については、まさに幼な心に「トラウマ」になっておりまして、劇場版には含まれていなかったので、やっと「この回だったのか」と確認できたことですが、あの繊細な仕事を支える義手そのものの技術の高さこそ科学の粋ではないかと思われます。

(ガミラスの敗因は、あらかた真田の科学力とアナライザーなのです)

白土に比べて柔らかい印象のある作画監督は芦田豊雄。あぶなげのない絵コンテは安彦良和でした。ここんとこ、撮影班長は毎回変わっております。あと260日。



2016/09/15

性的マジョリティにおける心的障碍は、性的マイノリティとは別です。

GLBTにとって最も困るのは「親の育て方のせいで同性志向または性別違和になった」と思われることです。親も差別されてしまうからです。また「再教育によってホモを治す」という発想につながって行くからです。

「差別しなければいい」とも言えます。「二度と治らない」という知識を共有してもらえばいいとも言えます。でも根本的に誤解されたままというのは気分の悪いものです。

いっぽう、性的マジョリティにおいて、親のしつけが厳しすぎた、または性的暴力被害によって男性が怖くなってしまったということはあり得ます。被害者が男性であってもです。

パワハラの一種によって、ふつうの友達づきあいさえ出来なくなってしまったということはあり得る。また、女性に付きまとわれたり、心中をせまられた経験によって、女性全般が怖くなってしまったということもあり得る。

でも、これは火傷をした人が炎を怖がるのと同じことで、自分の身を守るためだから正常な反応です。前向きに生きたいという気持ちがあるからこそ怖がるのです。ただし冷静に考えると、炎を見ただけでまた火傷するってことはない。

過度に炎を恐れるのは、身を守るために、わざと「トラウマ」を思い出そうとしているからです。そのような個人心理学的知識を得て、「そーなんだ」と思っただけで解決に向かうこともある。

人間の体は便利にできていて、思い込みによって本当に水ぶくれが出来てくるということもあり得る。でも、ここまで来ると明らかに異常なので「心のほうを治療しましょう」となります。

同じ悩みを持つ人どうしで話し合うのも効果的かもしれません。だから、こういう場合は病院を受診したり、グループワークに参加したりということになります。すると行政に希望することは「受診費用の公費負担」です。職場に希望することは「受診のために仕事を休む際の配慮」です。

性的対人関係に困難を抱える人々に即して言うと、定期的な会合は、暴力被害の経験を(打ち明けたい人が)打ち明けたり、気分転換の方法・対応の上手な医師にかんする情報交換の場となるでしょう。また、その会合自体が「ここでは性的なジョークを言わない」という約束の守られた憩いの場になるはずです。

まちがっても「性暴力によって同性愛に目覚めるかどうか?」は議題にならないはずです。

いっぽう、同性志向者の人権運動の目標は、まず存在そのものの認知。原因にかんする(生まれつきであるという)正しい知識の社会的共有。国民として当然の権利である基本的人権の尊重。これには「プライバシーの尊重」という重要事項が含まれます。そして同性婚の容認、と。

同性志向であることに関しては、病院の受診は必要ありません。性別違和については、少なくとも外科を受診する必要がある。当事者の目的が違えば、社会・行政の対応も違ってくるわけです。

困難を抱えた人どうしの大連合ということは可能です。年に一度の大集会。さまざまな目標を掲げる人々が、それぞれの活動経過を報告し、合同声明文の発表といったことはできる。だからこそ、それぞれの団体を組織することが先決です。

まちがっても「私、母親のせいで性的マイノリティになったから、さっそくゲイバーへ行って、ゲイに性的な質問をして来たの。面白いよ。みんなもどう!?」という話にされちゃ困るのです。ほかの当事者が。






2016/09/15

競争型ライフスタイルは、うつ病になりやすいと思いましょう。

世の中、下には下がいて、上には上がいるので、つねに自他を比較する人は、優越感で興奮した次の瞬間には、劣等感によってマイナス方向に興奮します。つまり、激しく落ち込みます。

この劣等感というのは、他人から与えられるものではありません。自分勝手に自他を比較し、自分で自分を差別してしまったことによって、自分勝手に感じてしまったものです。優越感も同様です。自分勝手に自他を比較し、他人を差別することによって、自分勝手に感じてしまったものです。

要するに、あなただけが感じている妄想です。おそらく、優越感または劣等感によって「興奮すること」そのものが、大脳の「快」として、くせになっているのです。

なお、差別とは「とくに現代において、あるものを、正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと」(小学館国語大辞典1988年新装版)です。

その結果、本でも読んで勉強しようとか、楽器がうまくなるように練習しようとか思えるならマシです。自他を比較することを、自分を鍛えることにつなげることが出来たのです。他人より劣っている私であることから、一歩踏み出す私になれたのです。

でも「安直な優越性の追求」に走ると、「ブランドバッグを見せびらかすために借金しては、母親のせいでこんな人生になってしまった・この悲しみは誰にも分からないと不幸自慢し、次の瞬間には『でも、あの子よりマシよ! だって、あいつったらねェ、笑えるのよ……』と他人の陰口をいう」ってな具合に、両方向にエスカレートして行くのです。

これは、たんに対人関係を他者との競争ととらえているだけではありません。自他を比較して、優劣を決定し、もし自分のほうが劣っていると思った時には「自分より優っている相手を傷つけてやると決めている」というライフスタイルの選択の問題ですから、病院へ行っても治らないのです。

太字んところがミソです。「もし自分のほうが劣っていると思った時には、まず自分自身が努力することに決めている」のではないところです。

自虐と差別は根っこが同じなのです。どうせ私なんかという自虐と、だから仕方がないという劣等コンプレックスと、でも私のほうがマシよという優越コンプレックスと、だってどうせあんたなんかという差別は、同じ人のなかに共存するのです。

どちらも根ざしているのは「安直な優越性の追及」です。自分が苦労しないで、できるだけ楽な方法で、復讐しようとしているのです。

アドラーのすごいところは、単線的発展段階論が支配的で「一方が顕現すれば一方は消失する」と思われていた時代に、一見すると相反するものの根っこが同じであることを見抜いていたことだったのです。

結果的に、つねに一人でしゃべっている・具体的には何もできないのに自慢話ばかりしている人ということになり、周囲の人は付き合いきれないので離れていく。孤立した人がSNSを始めると、身近な社会よりも更に様々な人々がいるので、優越感と劣等感の間をもっと激しく上下することになります。

誰も強制していません。頼んでもいません。自分自身で設定した「イケてる人物ランキング」という表の上を、自分勝手に上がったり下がったりしているのです。

でも、大脳も臓器の一つですから、酷使すると疲弊します。競争型の人が鬱病になりやすい所以です。

鬱病になってしまった場合には、薬をきちんと飲むことで、すこし落ち着くことはできます。ただし「自他を較べ、自分で自分を差別する」というライフスタイルは、薬では治らないので、気分転換と称して再びSNSにアクセスすると、また「劣等感を与えられたわ! 私は社会の被害者よ!」と叫び出す人になってしまうのです。

本当は、自分で自分を傷つけているのです。じつは、同情してほしいからです。そもそも対人関係を求めなければ、比較も優劣も発生しないわけですから、このタイプの最も厄介な点は「競争相手を必要としている」ことなわけです。若い人の言葉でいうと「かまってちゃん」なのです。

「自分がいちばん輝いていた時代の思い出話ばかり」している自分に気づいたら、自戒しましょう。それは他の誰の参考にもなりません。失敗を教訓にしてくれるほうがなんぼかマシです。

自慢する人は劣等感を感じているに過ぎず、権力争いに勝ちたい気持ちがあります。その内実は「安直な優越性の追及」であり、ついつい自他を較べては一喜一憂するという心であり、それは興奮続きによって心の(正確には大脳の)疲労を積み重ね、鬱病になりやすいのです。

これは「自慢する人は必ず鬱病になる」という偏見を発生させる目的で申し上げるのではありません。

自戒してください。自分で自分のやっていることに気づいてください。他者に勝ちたい気持ち・承認されたい気持ちを諦めることを恐れない勇気を持ってください。

我々は同じではないけれど対等であり、あなた一人が特別である必要はないのです。特別であろうとして、病気になる必要はないのです。

(参考:『嫌われる勇気』p.87, p.258)

2016/09/15

自分の跡を追いかけた1980年代コミケ参加者。

アニパロは「売れるから売る」という人に質問してみましょう。買う人は何が面白くてカネを出すのですか?

「エロいからだ」と答えるでしょう。では、なぜオリジナルよりもエロく感じるのですか?

もう、ここで答えられなくなると思います。人によっては怒鳴り出すでしょう。「昔からそう決まってるの! そんなことも知らないの!?」ってね。じつは本人の中で本末転倒が発生しているのです。

【流行の自己増殖】

冷静に考えると、「パロディのほうが過激」という根拠はないのです。

おなじ漫画家が、同じ顔をした人物を同じポーズで描いて、髪を赤い色に塗れば有名なナントカに似ている(ような気がする)が、青い髪ならオリジナルだといったとき、赤い髪のほうが過激なポーズをしているとは言えませんね? 同じに描いたんだから。

とくに小説であれば、登場人物の名前を差し替えるだけで独創作品として通用します。パロディが原作の設定・展開に依拠しておらず、原作ファンが読んだ時に「話がちがう」と驚くほどであれば、その人物名だけ変えて、そのまま出版社に投稿して、BL作家としてプロデビューしたって良いのです。

にもかかわらず、本人が「アニパロのほうが売れる」と思い込んでおり、アニパロばかり出展するから、そのブースに(友達のよしみで)並んだ人はアニパロばかり買っていくから、それを見て「アニパロは売れる」と思い込む人がいるという、鶏と卵がグルグル回っているだけです。

なぜパロディなのかと問われて、めんくらってしまい、怒鳴り出してしまう人というのは、本人の中で本末転倒が発生しており、そのことに自分で気づいていないのです。

じつは、すでに1970年代の間に、漫画・小説同人の間で、アニメキャラクターを利用した艶笑譚が定型化しており、1980年以降にコミケ(を筆頭とする同人誌即売会)に参加した子ども達は、最初からそういうもんだと思い込んだのです。

それには必ず著作権問題がついて来るので、本来はそのリスクを取る必要がないはずなのに、取られている。その不思議さを問い直すこともなかったのです。わずか5年前には、コミケというところはそういうものばかり出品するところではなかったということも知らなかったのです。

そうです。現在の出生数に倍する多子世代であり、にもかかわらず若者が行きたいようなテーマパークもアウトレットモールも無く、PCもスマホもファミコンさえも無かった時代の本人たちが「コミケ=アニパロ=エロ」だと思い込んで、先を争うように「アニパロ」ばかり選んで購入したからこそ、「アニパロは売れる」という定式が成立したのです。

自分で自分の背中を追いかけたのです。

とくにバブル時代には、桁違いの収益を挙げた同人がいたというのが語り草になっておりますが、どこまでいっても薄い本がドロンボーの商売のように「一冊じゅうまんえん」ってことはありません。すなわち、一冊500円~1000円程度のものが相当数ハケた。つまり、桁違いの人数の購読者が存在したのです。

1967年生まれが1980年に13歳。1974年生まれが1992年に18歳。この年間出生数200万人前後という驚異的な「ポストひのえうま世代」こそ、アニメとアニパロとコミケを急成長させた原動力そのものです。

だからこそ、その年齢が上がって、地元就職し、よくよく考えると毎回あの行列に並ぶ必要ないわ、もともとアニメファンじゃないしと思ってしまえば、市販文庫の時代が来るわけです。

だから、社会学者が解明するポイントがあるとすれば「流行またはデマの形成」というテーマになるでしょう。

すなわち「いかにして『物語の展開にかかわらず、アニパロとしての同人誌のみを選んで買うべき』という噂・行動が伝わったのか。いつ、オリジナル差別が始まったのか」といった辺りです。

【対立の構図はありません】

1970年代末の漫画同人界に「山も落ちもない」という言葉を紹介したとされる『らぶり』というのは、プロ漫画家数人が集まった(実体をともなう)サークルです。彼女たちが発行した同人誌は、アニパロではありません。それは「コミケ」に出展してはいけないものだったということもありません。

そもそも、1975年に開始された「コミックマーケット」とは、市販雑誌『COM』なき後(=発行元である手塚治虫の会社「虫プロ」が1973年に倒産した後)の漫画の未来を模索する、オリジナル漫画同人の集まりです。そこは、断じて最初から「アニパロ」を出品する所だったのではありません。

したがって、この頃を知っているベテラン同人は、プロを敵視していません。また「プロ=オリジナル vs. 同人=アニパロ」という対立の構図も持っていません。

1980年以降に参加した内のごく一部が、自分勝手に「同人誌とはアニパロ以外あり得ない」と思い込んでおり、プロを敵対視しており、「私たちのほうが売れている」などと異様な陰口を云うのです。

【1990年代以降の試行錯誤】

1980年代後半のバブル期には、上記の通り、コミケの出展者・来場者が急増したので、他人と同じアニパロを描いているだけでは埋没してしまうようになりました。

1990年代初頭には、凶悪事件の犯人がアニメ関連物(玩具)を所持していたというだけの理由で、メディアによってアニメファン全体が危険な存在として報道されることが流行しました。

また、社会学(のゼミ生)が女性同人作品をフェミニズム批評の素材として取り上げることが始まり、著作権問題が露見しやすくなりました。さらに、それとは別の経路によって特定作品のBL化が発覚し、原作者によって禁止が宣言されました。

市販雑誌『OUT』がアニパロ特集を組んで10年。潮時ではあったのでしょう。

したがって、とくに女性同人の制作には試行錯誤が発生し、作品が多様化しました。「天井と床」に代表される無機物の擬人化は、技法としてはパロディですが、作品としてはオリジナルです。

すなわち、著作権者は、プロ漫画家でもテレビ局でもなく、アマチュアである同人自身であり、床材メーカーの名前でも出してしまわないかぎり、誰からも親告される心配はありません。

念のため、これらは「真犯人しか知りえない事実」みたいな話ではなく、すでにネット上で公開されている情報をつなぎ合わせただけのことで、誰でも到達できる結論です。

以上のような、誰でも到達できる結論を知らず、いまだに「同人誌とはアニパロです!」と云う人がいたら、本っっっ当に1980年代のことしか知らない人です。

1970年代のことを勉強したことがない。1990年代以降の情報更新が全くできていない。ひじょうに怠慢で、情報収集力が弱く、視野がせまく、思い込みが強く、危険なタイプです。残念ながら、総合職を任せられる人材ではありません。

なお「同人誌」という言葉は、書道の会や、俳句の会も使う言葉ですから、同人誌と聞いただけで「うはッ。ヤバイヤバイ」と騒ぎ出してしまう人は、その人自身がヤバイです。

【幸福追求権】

ありていにいって、うまい同人であればあるほど、パロディである必然性はないのです。オリジナルを仕上げれば、出版界にとってもダイレクトに青田として機能します。でも、それでは困る人がいる。パロディを読みたい人です。

なんらかの動機によって「二次創作じゃなきゃダメなんだ」という若い人々の気持ちを保障するには、最終的には「幸福追求権」くらいしかないのです。パロディ作品を読むことそれ自体の価値を認めてやること。法律の話の分からない中年もと同人が「カネのため」と言い張っても、ほかのものを売ればいいだろという話にしかならないのです。

ほかのものを売られても困る・パロディが読みたいという人がいて、その期待に応えれば他人または家族の世話にならずに生きて行けるという人がいて、そのほかの人は別に怪我させられるわけでもないし家屋を奪われるわけでもないというとき、国費を投じてまで取り締まるほどのことかどうかという話でしかありません。

【差別意識】

1980年代を知る人(の一部)が、自分たちが主体となって流行させたものを守りたいと思うのは当然です。でも、そのためだからといって、他の存在を否定したり、侮辱したりするのは良くありません。言葉がきついのではありません。心が差別意識のかたまりなのです。

自分が所属している(つもりの)仲間が「一番えらい」と信じたいから、他の人々に勝手なレッテルを貼って、人格を傷つけるのです。負け犬よりマシとか、ロリ男よりマシとかいうのは典型ですね。

これ、なんなのかというと、パロディ同人(の一部)だけで「群れ」になりたいわけで、視野のせまい自己愛に基づく縄張り意識です。子どもの仲良しグループ同士の喧嘩を、コミケでやっちゃうわけです。

これを、すでに成人したベテラン同人たちが見たらどう思うか? 「ああいう中学生は迷惑だから出てってほしい」ですね。今と同じです。自分が一番同人に詳しいと思っている人は、じつは自分がその程度の存在だったのではないかどうか、振り返ってみましょう。

重要なのは、だから悪いんじゃなくて、だから自分の立場が相対的なものでしかないことをわきまえて、謙虚な気持ちを忘れないことです。ほとんどの同人は、それが出来ているから黙っているのです。

すぐに「悪いって言われたわ! 心が傷つけられたわ!」という被害妄想に駆られて叫ぶ人は、それが「不幸自慢によって他人を支配する」という自己満足を得るための癖になっていることに気づきましょう。




2016/09/15

同人活動は他者との競争ではありません。

現実が混沌としているからこそ、理念が必要です。どんなに時代が変わっても、守るべき精神があります。

人生が他者との競争ではないように、同人活動も他者との競争ではありません。

旧作だろうが、ピコ手だろうが、自分の描きたいものを描いて、無理のない範囲で製本・出展すればよいのです。出展権利は抽選であり、すべての同人は平等です。

他人を笑いものにする人は、その人のほうが勘違いさんです。「プロより私たちのほうが売れている」などという陰口は、もってのほかです。

「売れなくなったから、つまらないので辞める」というのも、てめェの判断です。他人のせいではありません。

【同人とは】

コミックマーケットというのは、本来『COM』なき後(1973年に虫プロが倒産した後)の漫画の可能性を探る漫画同人たちの集まりであって、アニパロ小説を出品するところではありません。

同人誌即売会と名がつく以上、同人誌を即売する会であり、利潤動機なのは当たり前ですが、それは「プロ漫画家になりたいが、オイルショック不況が来てしまった」という時代に漫画同人どうしが相互扶助を目指したものであって、アニパロ小説同人に「プロ作家より売れている」などという優越感ごっこさせるためではありません。

漫画同人の売上が結果的に大きかったとしても、それは本気で漫画で食って行きたい奴が、仲間の眼に恥じない作品を一生懸命に描いたことの評価であって、漫画の描き方も知らない中二病がカネを取る部分だけ真似することではありません。

そこは本来、プロ漫画家の著作権を侵害することも目的にしていません。

そこへこっそりもぐり込んで活動していたアニパロ同人が、コミケ主宰者に迷惑をかけないために「放置プレイでお願いします」という意味で自虐したのが、自虐語を使うようになった始まりです。

「竹宮恵子には山も落ちもあるが、私たちの作品にはないので、まじめな漫画同人の皆さんの参考にはなりません。でも追い出さないでください。他に行くところがないんです。お願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いします」と云っているのです。

「どうせ竹宮恵子も私たちも同じじゃん。編集部にコネがあるんだからいいじゃん」などと、大事なことを二つも三つも勘違いして天狗になってしまう中学生(のふりをする大学生)の出る幕ではないのです。

【公共の場で隠語を使いたがるタイプ】

業界用語・略語・隠語といったものは、どこの世界にもあります。いずれも部外者が聞けば鼻持ちならない感じがするものです。だからこそ、半可通ほど、一般人の前で使いたがるものです。

業界の中枢にあって、既得権益を守りたい人は、黙っているか、一般人の機嫌をそこねないように、礼儀を守った話し方をするものです。

だから、もし公共の場で隠語を使う人のことが「ウザイ」とか「きもち悪い」と感じられるようだったら、そういうのは本物さんじゃなくて、それっぽい顔をして注目を浴びたい人です。これはもう、どこの業界でも共通の現象なので覚えておきましょう。

同人活動に即していうと、じつは実際には出展したことがないか、過去の栄光だけ自慢したい人です。

【同人の権利と、無駄な権力争い】

独創作品を発表する権利を侵害されそうになった創作家が自由・自治を求めて闘うのは当然です。

ツイッターアカウント名を出展ブース番号にして宣伝するというのは、独創作品を出展している可能性もあるので、一概に不適切とはいえません。

二次創作の問題は、ひとえに、著作権の点でおおきな顔ができないくせに、ネット上で威張っているから、一般人が「なにをえらそうに」と怒りを感じることにあります。

同人は昔から大目に見られていたんじゃありません。一般の人が本当に知らなかっただけです。

でも3年くらい前に、テレビ番組の権利者が(事実上の)許可を出したことがあって、いわゆる二次創作の話題やイラストがSNSに溢れ、ブログランキングや小説投稿サイトまで占領してしまい、一般利用者から苦情が挙がったのです。

スマホの普及期と重なったので、多くの人が「なんなんだ、この同人って奴らは?」と初めて認識したのです。でも、これはランキングをゾーニングすることによって鎮静化が可能なのです。実際にそうなりましたね。

また、TPPの話はもっと前からあったのですが、これは軍事協定ではなく、表現の自由に関する合意でもなく、商取引に関する国際的な取り決めです。すなわち、おカネが絡んでいる活動を規制するものです。

だから、差し当たって「嫌儲」活動は規制対象ではないのです。あまりおカネのない「デフレ脱却道なかば」時代の若者の(それぞれの地元からインターネットに参加することによる)わずかな娯楽というだけです。そこを首相と一般の皆様に理解して頂きましょうという話になります。

いっぽう、同人誌即売会は、くりかえしますが、同人誌を即売する会なんですから、利潤動機で当たり前です。それが「法律で禁止するほど危険なことかどうか?」が問われたわけです。

「カネになるんだからいいじゃん」とか「生活がかかってるんだ」と言うなら、危険薬物の売人だって、そう言いますわ。でも、売っているものが危険な薬物であれば、国費(警察の活動費)を投じてでも取り締まる必要がある。

法律というのは、国民がやってもいいことを羅列しているのではありません。基本的に国民はすべての行動が自由です。ただし他人がえらい迷惑することだけは「絶対にやってはいけない」と書いてある。そのほかのことは国民どうしで話し合って決めるわけです。話し合うことも国民の権利だからです。

だから同人に言えることがあるとしたら「我々の活動はそんなに危険じゃありません」ということと、「我々自身で著作権者と話し合う権利を留保してください」すなわち非親告罪にしないでください。この2点だけです。

もし「あんた同人がおカネのためにやってることを知らないの!?」と言ってくる人があれば、お気の毒ですが「それを言っても何の役にも立たないことが分からないのか」と言い返すだけなのです。話の筋が違うのです。

村上隆も題材にしたような嗜好が不適切かどうかは、著作権とは別の問題です。これも同人当事者が勘違いすることがあって、著作権が議題なのに、表現の自由ということで混同して、「エロは女の権利ですよ!」とか云い出しちゃう人もあります。

が、これもよく話を聞くと「今はやってない」タイプであることが多いものです。腹の底では「関係ない」と思っているから、よく考えずに勘違い発言してしまえるのです。

また、プロ作品の書評に口を出して「同人作品は確認したんですか!?」とか云って来るのは、もう完全にお門違いです。自分が「同人誌」に詳しいことをアピールしたいだけです。自分が目立ちたいだけです。



2016/09/15

村上隆のリトルボーイ論は克服されつつあると信じたい。

「シン・ゴジラとエヴァ」というキャンペーンイラストを見て「相変わらずファンの神経を逆撫でするのが得意だなァ」と変な感心を覚えつつ。

村上のリトルボーイ論は、日本のサブカルが「下手である、田舎くさい、洗練されていない、子どもっぽい」という点に掛かっているわけでございます。

子どもっぽいといっても無垢な童心が表現されているというのではなく、中途半端に「性」に関心を持ち始めた中学生が自己満足できるレベル。彼は、そういう自らの学説を証明するサンプルとして、等身大フィギュアを提出したわけで、眼の付けどころは良いのです。

日本の戦後民主主義文化を見ていけば、必ず「アメリカの核の傘の陰で、モラトリアム性とルサンチマンばかり肥大させている」といった概念が浮かんでくるものです。

だから彼の作った人物フィギュアは、わざとバランスの崩れた、稚拙な絵柄をイメージモデルにしている。あれらは、1980年代に本当にローティーンが同人活動を始めてしまった頃の、その絵柄の典型を抽出したものです。

だから、その後のサブカルの進化・多様化を知っている者からすると「いまさら間違ったステレオタイプを広めないでもらいたい」という苛立ち、誤解された・侮辱されたという気分を持つのは当然なのです。

……が、むろん村上はそこまで読んでいるし、欧米の美術ファンにとっても「織り込み」済みです。

日本政府は(勘違いして)上品ぶった大作アニメを海外に売り込もうとしたけれども、その陰には、女子どもまで一緒になって(下手なくせに)エロだのグロだのいうものを描いては闇取引するアンダーグラウンド市場が存在して来たことを、世界はちゃんと知っている。

それを芸大で勉強した者が諷刺したら、アングラ当事者が本気で怒ったと。そこまで含めて面白いパフォーマンスなわけです。

あれは、あくまで芸大で勉強した村上個人のセンス、世相を見抜く眼が芸術的として評価されたもので、日本のアニメが評価されたわけでもなければ、サブカルが評価されたわけでもない。等身大フィギュアという壊れやすい物・失敗しやすい物を具体化する技術力も、凡百の同人は身につけていないものです。

ただし、あくまで「日本のサブカルは下手である」ことに立脚している。

でも、ゲームがモーションキャプチャーというものを取り入れて以来、バランスの良い美しい人体を描くことのできるゲーム制作者・アニメーターが増えましたね。漫画家も、漫画同人でさえも、腕を上げています。

もし、日本のサブカルがアメリカの陰で永遠のモラトリアムをむさぼる畸形なら、それが優れた義肢を得て、なめらかに歩き出したようなものかもしれません。

自分自身が創作家・イラスト制作者などではないサブカル評論家たちは、自分にできる最上の方法でクレームしたのです。すなわち、言論の力で。

そのいっぽうで、表面的には黙っていたが、ひそかに「ふざけるな。今に見てろ」と思ったクリエイター達が大勢いたのかもしれません。



2016/09/14

2015年、細田守『バケモノの子』

胸の中の剣を握れ。

原作・脚本:細田守 作画監督:山下高明・西田達三 美術:大森崇・高松洋平・西川洋一 音楽:高木正勝 CGディレクター:堀部亮 助監督:青木弘安

一本刀、落とし差し。日本人の得物は、やはり日本刀がよろしゅうございますね。渋谷区全面協力により街頭一大ロケーション敢行(違)

金曜ロードショー(の録画)で拝見しました。スクランブル交差点や闘技場など、CGでなんでも描ける時代になったとはいえ、限度というものがございます。スタッフの皆様、本当にお疲れ様でした。

昨今の実写映画がイケメン偏重・ガールズパワー偏重で、肉弾相打つ中年男の汗と色気を描くことができなくなってしまったのは、もう今さら申すまでもないわけですが、アニメーターが腕を上げれば上げるほど、当人たちがどれほど実写映画を観て来たかが重要になるわけでございまして、アニメのくせにカメラの焦点が切り換わるんですよっ。

別の意味で「なにやってんだ」と云いたくなることでございます。

現代人の心をつかむテーマ、小道具、名シーン、名セリフ続きの傑作ですから、あまり細かくは申しませんが、日常のすぐ裏側にある異世界という描写は『千と千尋の神隠し』『ハリー・ポッター』『猫の恩返し』などを直ちに連想させつつ、それらにはなかったサイコな恐怖感を帯びて、いっそう印象的でしたね。

スーパーリアリズムな現代日本と、外国へ行った気分にさせてくれる南欧的なバケモノ界。しかも日本刀と卵かけご飯。どっかで観たような世界観が続くわけですが、宮崎監督から実力を認められて「のれん分け」を受けたといっても良い細田は、ひじょうに良い意味で模倣がうまい人なのだと思います。「型」の継承者と申すのが良いでしょうか。

宮崎は独自路線を貫いた人でしたが(過去形にせずに西部劇を描いてもう一花咲かせて頂きたいですが)、細田は今どきの創作家のご多分にもれず「同人」的な流行を取り入れることがうまい人でもあって、この作品は「もののけ」の擬人化……云わない約束ですかそうですか。

サブキャラクターの中では、じろーまるが可愛くて、幼い男の子が強い父親に憧れて眼を輝かせる姿は良いものです。これぞあるべき少年の姿。

「でも自分はそれにはなれない」というのは、現代女性に共通のルサンチマンでもあって、長男の容姿が女性的なことは、ちゃんとうまくできてるのです。彼は牙のない口元を隠したかったんですね。主人公とは心の兄弟、陰と陽、永遠のライバル。いい構図です。

楓ちゃんも女の仕事を良く心得ていて、腕力で劣る女性の戦い方は、心で負けないことなのです。

男児を主体としていたアニメ映画の世界に少女キャラクターの活躍を持ち込んだのは宮崎監督の功績ですが、彼の描く少年キャラクターは、わりと最初から頼りがいのあるタイプ。

細田は「偉大な先輩たちのあとを受けて、これ以上なにをしたらいいのか分からない、頭打ち感のある現代の若者」という自分自身をひじょうに素直に表現できている幸福な才能の持ち主であるいっぽうで、置いていかれがちな女性の痛みにも心配りを忘れない、稀有な人物だと思います。

最初は年長者の影でしかなかった若者が、こけつまろびつ成長する姿は『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『機動戦士ガンダム』などが描いて来たもので、ここまで真正面から師匠と弟子の交流を描いた作品は少なかったですから、一見すると新鮮味があって、今まで盲点だったようにも思われますが、意外に正統派なのかもしれません。

「それが本当の永遠の命だと俺は信じる」という宇宙海賊の名セリフも耳に蘇ってくるようでございます。

なお、白くてちっちゃいのがすごくいい動きをしていたのは、観た人ならみんな知ってることですが、やはり特筆せねばなりません。いっこ欲しいです。



2016/09/13

性的マイノリティと個人心理学。

「母親がトラウマだから性的マイノリティになった」と、本物の性的マイノリティの皆様の前で云ってはいけません。

「じゃあ、お母さんがもっといい人だったら、私がレズビアンにならなかったってこと!?」
「この子のママはすごくいい人だよ! 私のことも受け入れてくれたよ!」って、なるからです。

新宿二丁目には、レズビアンもいます。トランスFtoMもいます。彼(女)たちは、シス・ストレート女性の甘えがきらいです。

シス・ストレート女性が、若くて可愛い顔したゲイを選んで付きまとい、「ゲイはいいなァ」と言うことがきらいです。

「ゲイはいいなァ」というのは、ゲイにゴマすってるんではありません。シス・ストレート女性よりも差別されていることが分かっている人々よりも自分のほうが可哀想だと主張することによって「私がいちばん! これってスゴくない!?」という不幸自慢です。

一見すると差別してないみたいに見えるとこがミソです。ゲイを忌み嫌って寄りつきもしないのではなく、自分から親しく声をかけることができるから「差別してない証拠よ。私って進歩的~~」という自己満足を得るために新宿二丁目へ乗り込んじゃう女性が時々いるのです。

彼らにとっちゃ男同士の交流の時間を邪魔されるだけです。レズビアンも危機意識を持っています。

たんにゲイに付きまといたいだけの人は「レズが怒っても関係ないわ」と思うかもしれません。でも、自分自身も性的マイノリティであると宣言し、「弱者同士の連帯しましょうよ」と呼びかけたいならば、注意しましょう。

【トラウマはGLBTの慰めにならない】

GLBTというのは、家族の誰のせいでもないことで、家族ぐるみで差別され、悩み苦しんでいます。

彼らは、なぜよりによって自分が同性志向または性別違和に生まれつき、差別される人生を歩まなければならないのか、人生の意味が分からない。

彼らにとって「俺は絶対に認めん」という祖父・父親は、おおきなトラウマかもしれませんが、たとえ和解できたとしても、同性志向や性別違和が「治る」わけではありません。

彼らは「トラウマのせいで同性志向や性別違和になってしまったのだから仕方がない」と考えることによって慰められないので、比較的早期にトラウマ原因論から離れていく可能性があります。

アドラー流は、日本でこそ2014年のブームですが、欧米ではもっと早くから普及していたそうです。欧米だって、昔はプロテスタンティズムでガチガチの窮屈な生活をしており、だからこそ強迫神経症になる人が出てきたので、フロイトが登場して、トラウマ説を唱え、アドラーが登場して、それを否定し、ナチスによる凶行を経て、少しずつ個人主義を確立して来たのです。

GLBTは、日本よりも対応の進んでいる海外を参考にするために、英字新聞や学術論文を読んだりすることがあるので、一般の日本人よりも早くから個人心理学を共有していた可能性があります。

そう考えると、彼(女)らの口から「自分で選んだ道だろ」とか、「あなたの夫は夫の義務を果たしているのだから、あなたも姑さんの先手を取って立派な嫁になりなさい」といった言葉が聞かれるのも、納得なのです。

彼らは他人とは違う人生を受け入れる他ない。他人に依存しない代わりに、他人からも依存されたくない。他人の自己満足の道具として利用されたくない。

「課題の分離」という概念を、彼らは肌で知っていると云ってもいいでしょう。

シス・ストレート女性が新宿二丁目へ乗り込んで、「私のほうが可哀想ごっこ」してしまう前に、このくらいは知っておきましょう。



(※ なお、GLBTという用語は、LGBTと同義です。

後者は、おそらく、レディファーストの意識に基づいた言い方です。前者はGを優先した言い方で、ゲイ当事者が好んで使う言葉です。

当方ではBLとの関連上、排他的にゲイに言及することが多いのと、「BL」との視覚上の語呂合わせによって、採用しております。)



2016/09/13

プロは自虐しておりません。

榊原史保美の奇妙な解説書に漂う悲しさは、自分たちが1978年以来心血を注いで書き上げてきたものが、後から発生した稚拙で粗雑なパロディ作品と混同され、無礼なレッテルを貼られて、自虐したことにされてしまったことによります。

実際には自虐していない人々に対して、あたかも自分から言い出したかのように責任転嫁しつつ、無用なレッテルを貼ることは、差別行為に当たります。

1980年代の吉田秋生も、秋里和国も、彼女たちを売り出した出版社も、自虐語は用いておりません。また『JUNE』は、ジュネです。

榊原の本のタイトルを見たときには「眼を疑った」というのが本音です。1998年なら、すでに「ボーイズラブ」という呼称が使われていたはずですから、せめて『BL幻論』とか『ボーイズラブの系譜』とかにしときゃ良かったのです。

長い文学的伝統を誇る日本は、さまざまな時代・さまざまな地域文化の言葉を混ぜこぜにして用いることに慣れてしまっているので、本来の語義を確認することを怠りがちです。それによって無駄に議論が紛糾したり、ジョークが外人記者には通じなくて大騒ぎになったりするのです。

この「リテラシー」の時代には、旧態依然とした偏見にとらわれず、自分の眼で確かめ、自分の頭で考えることが何にも増して重要です。

説明を聞いたうえで「なるほど……」と考え直すきっかけにするのか、「でも! っていうか私の時代には! みんなゆってたし!」と叫び出してしまうのかによって、自分自身の人間性の評価が変わるのです。

周囲の人々にとっては、「みんな」を言い訳にしてしまう人物と、この先もお付き合いを続けて行くべきかどうか、考え直すきっかけになるのです。