2016/10/31

1960年1月、岡本喜八『暗黒街の対決』東宝

なんだか面白そうな話だが、さっぱり分からねェ。

製作:田中友幸 原作:大薮春彦『血の罠』 脚本:関沢新一 撮影:山田一夫 美術:阿久根巌 照明:西川鶴三 音楽:佐藤勝 監督助手:竹林進 

ビッグバンドと洋酒と煙草が男を飾っていた頃。東宝のホープ(『暗黒街の対決』予告編より)は、だいぶ吹っ切れました。「三船・鶴田の男性活劇巨編」(予告篇より)

いや、ギャグ映画ではないです。ギャング映画です。エイゼンシュテインふうにクローズアップした面白い絵が続き、音と画の編集技が冴え渡っておりますが、話は本当にさっぱり分からない状態がしばらく続くので、だいたい38分くらいまで、大らかな気持ちで見守りましょう。

メンバーは、渋みが増してトレンチコート着用で寝そべる姿がたまらなくセクシーな三船さん40歳と、チャキリス張りで喧嘩っぱやい鶴田さん37歳と、まだ若くてふっくらしてる河津さん52歳。(※公開年の満年齢)

河津さん配下の悪役たちが印象的で、吹っ切れた岡本喜八のセンスはちょっと日本人離れしているらしく、全体にフランスのコメディ映画に近いのかな……という乗りのようです。

拳銃をなくした刑事や野戦病院の軍医の高潔さはどこへやら、すっかりやさぐれちまった三船さんのアクションが東映ふうの大振りではなく、小刻みなリアル路線であることだけは確実に分かります。

女性キャラクターも個性的で魅力的。思うに「ギャングになっても、ヤクザになっても浩ちゃん素敵」という女性観客がいたはずで、鶴田出演作は女性好みの一途な悲恋要素と、女性から見て「失礼だわ、いやらしくて観ていられないわ」という要素がないように思われます。だから本人は甘い顔してるのに、お話はハードなのです。逆に考えると、高倉は男の稚気を象徴していたのでしょうが、それはまたの機会に。

なお、大岡さん(=河津さん)の屋敷と「大京ホテル」の風情がよくて、ロケ場所が気になります。クライマックスは照明の技が冴えます。サスペンス要素があるので、あらすじは申し上げません。三船の表情の変化を楽しみましょう。

清濁あわせ飲んだ三船の男の色気。熱いのに寂しげな影を背負った鶴田。組み立てのむずかしいダブルヒーローものですが、それぞれの個性を十二分に活かしきっており、こののち1960年代を通じて洋の東西で流行した要素を先取りしつつ、撮影と編集に技術と遊び心の粋を凝らした傑作です。

ところで警視庁、提灯使ってたんですね。




2016/10/31

1959年1月、岡本喜八『暗黒街の顔役』東宝

製作:田中友幸 脚本:西亀元貞・関沢新一 撮影・中井朝一 美術:阿久根巌 録音:刀根紀雄・下永尚 照明:森茂 音楽:伊福部昭 監督助手:竹林進 編集:黒岩義民

「3大スタア豪華共演」(予告篇より)なんですが、兄弟仁義ではなく、できの悪い実の弟に兄ちゃんが苦労させられるというホームドラマ。子どもの間では『禁断の惑星』のロボットくんの玩具が流行っていたようです。

歩行困難な子どもが大勢いるのはポリオの後遺症と思われ、ギャング映画の一種ではあるんですが、社会派リアリズム路線も取り入れております。子どもたちの世話をする女医さんは素敵なキャラクターです。

鶴田は熱いのに寂しい影を背負った苦労症というキャラクターを確立しており、早くもヤクザの世界への懐疑を口にして、後の井上梅治作品や山下耕作作品につながっていく要素を確認できるのが興味深いです。

渡世上の兄貴を演じる平田昭彦がえらい美男で、鶴田との美男同士の殴り込みという空前絶後の場面が観られますが、キャラかぶってる感は否めません。

なんとなく、あんまり予算はかけてない感じで、しかもロカビリーを唄うアイドル歌手という海外の流行に追随した宝田明を売り出したかったらしく、前半のミュージカル映画調の演出に尺と費用を投じてしまい、間延び感も否めません。

おそらく『理由なき反抗』を念頭においた青春ストーリーの一種なんですが、大学出の兄弟がなんで渡世人の世界にいるのかが説明されておらず、ややイメージ先行というか、寄せ集めな世界観の基盤が弱い感じが否めません。

でも構図と編集には喜八流アイディアが時々光ります。後半に平田と宝田が出てこなくなり、佐藤允が演じるヒットマンが登場すると、明らかに話の締まりと画面の密度が濃くなるので頑張ってください。

美男が大勢いるに越したこたァないのですが、出せばいいってもんでもないです。なお美男メイクは時代劇を引きずってるようで、白粉濃い目な感じです。

三船さんは39歳。だいぶ肉がついて渋みも増し、思わず「よかったなァ松永。体治して更生できたのか」とか言ってやりたくなってしまいますが、むしろ興味深い使い方というべきで、しかもやっぱり画面を支配してしまうので、あなたは黒澤さんとこで主役やってなさいと言ってやりたくなったりもします。

なお、よく考えると何もしてない河津さんの底籠もる悪役ぶりと、そんな「パパ」に対して一歩も引かない情婦役の草笛光子が素敵です。女性が都合よく使われているようでもありますが、こんな世界にもいい人もいるという要素を美男と女性に担当させたわけで、その点のバランスは良いと思います。

これが成功しないと、次がなかったはずなので、ややメロドラマ調のホームドラマな脚本を新人監督に撮らせてみたところ、思いがけず後半で斬新な個性を示したので、今後に期待ということになったかと思われます。




2016/10/31

1958年3月、加藤泰『源氏九郎颯爽記 白狐二刀流』東映京都

姓は源氏、名は九郎。覚えていてくれとは頼まん。

企画:辻野公晴・小川貴也 原作:柴田錬三郎 脚本:加藤泰 撮影:坪井誠 照明:岡田耕二 美術:塚本隆治 編集:宮本信太郎 音楽:高橋半 助監督:長谷川安人

総天然色、東映スコープ。太陽の色、空の色、海の色。主人公が着た白い着物、宝物のありかを示す赤い色硝子。タイトルバックでどんどんお話が進む斬新な演出に乗って、冒頭からカラー撮影の良さを存分に活かした画が続きます。

まだテレビは白黒だったはず(1953年放映開始)ですから、カラー映画を見に行こうよというのが重要な娯楽として成り立っていたのでしょう。華やかな着物・ドレスを着た女性キャラクターの活躍ぶりからいって、女性観客向けでもあり、デートにも最適だったのではないかと思われます。流暢な日本語を使う外人俳優とフラメンコが起用されて、時代劇に目新しさを加味しております。

主人公は九郎判官の子孫だそうで、中村錦之助(1932年生まれ)がピカピカに若くて綺麗だった頃。改めて、まだ若いのに堂に入ったお芝居なさる人です。悪者退治の瞬間に、どこから花枝が出てきたのかは訊かない約束。

白い着物で美化された素浪人という役柄は、のちに里見浩太郎がテレビで繰りかえし演じたわけですが、その里見が若侍の役で登場しているのが楽しいです。

物語の舞台は幕末、義経ゆかりの兵庫。坪井による構図は、全篇を通じて、カメラの間口とセットの奥行きを活かした見事なもので、あの異様に低いところから狙う加藤式ではありません。

錦之助演じる美剣士と、大川恵子演じる女性の気高さの周囲に、欲に駆られた男たちの滑稽みをちりばめた脚本に乗って、喜劇俳優たちが大活躍。悪役は西海の海賊だったのが廻船問屋になったそうで、度胸とカネ回りの良さを兼ね備えた、悪役なりに魅力的なオヤジです。

後半は説明を端折った展開の早さが加藤流。長回しの殺陣と自然光をよく捉えた美しいロケが続き、大自然の脅威の中での男と男の対決がクライマックスとなって、娯楽要素の大盤振る舞い。

秘剣、揚羽蝶!

日本特有の、女のような顔をした(女優よりも化粧の濃い)美剣士による世直しという荒唐無稽なヒーローものですが、世直しというからには社会悪が存在するわけで、カネがものを言う世の中という社会風刺の要素があり、庶民描写のリアリズム志向と、錦之助の生真面目な個性もあって、全体にドライな、引き締まった味わいです。

川霧煙る橋や山間の古径、六甲の御殿など、セットは何気に豪華です。エキストラの数も多いです。いい時代でしたね。



2016/10/28

1948年4月、黒澤明『酔いどれ天使』東宝

きったねェ天使だな。

製作:本木荘二郎 脚本:植草圭之助・黒澤明 撮影:伊藤武夫 美術:松山崇 演出補佐:小林恒夫 照明:吉沢欣三 音楽:早坂文雄 ギター独奏:伊藤翁介

1948年東京案内。塵埃を浮かべて淀んだ水溜まり、闇にまぎれて肉体でかせぐ女たち、侘しく響くギター、いきなり嘘をつく三船敏郎。黒澤さんとの初仕事。

その実体は、マキノ流喜劇もこなす志村喬の演技力の幅が知れる、無精鬚の不良医師の熱血な日常という物語。「のんべェの医者」というキャラクターの原型かと思われます。

珍しい釘もあったもので、志村のふてぶてしいナチュラル演技と、リアルで敗戦直後の苦味走ったニヒリズムの中に若い不安を湛えた三船がよい対比です。切れ長の目が美しいです。黒革のコートが似合います。花も似合います。おしおきしてあげたいです。木暮実千代はどこへ行っても悪い女の役。千石規子には個人的に共感度高く、セーラー服の久我良子がすっごく可愛いです。

『昭和残侠伝』で「新しいマーケットを造る」ってのやってましたが、そのマーケット(商店街)のにぎわいが見られます。相変わらず音の使い方がうまいです。(※観る順序が逆)

笠置シズ子がご本人出演で、ストーリーから浮いているほどワイルドです。エラ・フィッツジェラルドなどのジャズシンガーをイメージしてるのだろうと思われます。一部の女性は戦前からたいへん元気よくやってたのです。三船も魅力的なダンスを披露してくれます。

アプレゲールな夜の街には、かつての敵性国の軽快な音楽の響きと、洋酒と煙草と、きついパーマで髪型をこしらえた女の脂粉の香りと男のポマードの匂いと恋の駆け引きという、生の喜びが満ちていたようでございます。

が、志村のほうが医師ということは、必然的に……なわけでございまして、不安を秘めていた物語は賭場から急展開するのでした。

そして水はよどみ続け、虚ろな胸に音楽は突き刺さり、任侠映画だったらそろそろ殴り込みモードに入る頃合なんだけど、結末どうつけるのかなァと変な心配に駆られつつ。

「日本人の悪い癖だ」ってのは、井上梅次監督『暗黒街最大の決斗』で鶴田浩二が言ってた(そちらの鑑賞記はまた後日)んですが、悪い日本人代表として諷刺するためにヤクザを登場させるってのも面白い現象で、やっぱり「義理と人情」が日本人であることは、ドライなアプレゲール監督たちも認めているわけで、挙句に役者たちは、きっちりと日本人らしく、体当たりで(映画そのものに対する)義理を果たすのでした。

象徴表現がうまいのはいつものことですが、珍しく幻想的・前衛的な場面もあり、クローズアップ画の編集も冴えており、無音の間を活かした場面もあって、話法の点で面白い部分が多い上に、テーマ性が強く、物語のまとまりが良いという、傑出した一本だと思います。

音声がちょっと荒れてしまっており、志村の熱演を聞き取りがたい箇所もありますが、黒澤映画最初の一本に良いかもしれません。(いまさら)

なお、卵は一個18円でした。18円の価値がいまとは違うことを考えると、むしろ割高でしたね。このあと、今度は三船さんがお医者さんになるのが本当の順番です。

さらにまた……(以下、より詳細なネタバレ要素を含みますので未見の方はご注意ください)




ミッキー・ローク主演『レスラー』について、プロレス興行の残酷さを訴える映画だという見方があったようですが、その伝でいくと、これは「ヤクザ組織の壊滅を訴える警察的プロパガンダ映画」になります。

が、もちろんそれだけではないですね。根本的なテーマはもっと大きく、『三四郎』の頃から変わらず、ヤクザであっても誰であっても、自分自身を甘やかさないこと・本当の課題から逃げないこと。

そう思えば、酒をやめられない医師にもブーメランしてくる。彼は父権中心社会代表のように怒鳴ってばかりいるけれども、男女同権を口にし、体を張って女性を守るとともに、本人の自覚をもうながす。

そのくせ自分はどうなんだ、と観てるほうは、やっぱり言えてしまう。

また、医師はヤクザ世界の約束事の本質も近代的あるいは現代的な眼で見抜いてしまう。でも、それは本当は三船演じるアプレゲールな若者こそが持たなければならない視点ですね。

そう思えば、批判する者と批判される者が通常とは逆転しているから、戦前から映画を撮ってる人による「いまどきの若者は情けない」というお説教だと受けとることもできる。

さらにまた、結局のところ若い女性がいちばん立派だから「ほら、ごらんなさい!」と女権論的に興奮することもできる。よくある男性の自虐ジョークのパターンに落としてしまったということもできる。

そのうえで、やっぱり映画であり、お芝居ですから、駆け出し俳優の体当たり演技に対して「よしよし、よくやった。ほめてつかわす」っていう要素もあるわけですね。

もちろん女性(またはゲイボーイ)が「やつれた姿に母性本能刺激されちゃうわ」と言ってもいい。さらにまた敢えて言及すれば、独身の男性医師が自分のもとに身を寄せた女性と仲良くなった様子がなく、若者に妙に感情移入しているということは……と勘ぐることもできる。

一般観客にとって「それは考えすぎ」という要素ですけれども、おそらく同性志向の方にとっては、たいへんロマンチックに感じられるはずです。(淀川長治が『太陽がいっぱい』にそういう感想を述べたけれども、あまり受け入れられなかったという映画評論業界的逸話がありますね)

さらにまた、マーケットの雑踏は、復興への希望に満ち溢れた明るいラストシーンのようでもあり、商売の後の不要物を商店街の背後の水たまりに捨てて顧みないように、もともとは格差社会(端的には戦争)の被害者であったはずの若者を捨てて顧みない庶民根性を皮肉っているということも、もちろん可能です。

だから「もっとも根本的には戦争批判映画だ」ということもできる。

その水たまりに面して暮らしている医師は、戦後の繁華街に対して「頼もしい」という気持ちを持ちつつ、冷たいものだという非難の気持ちも持っている。脚本=演出(=監督)=観客の目線代表ですね。

いっぽうで、この水を飲んだら腹をこわすぞと言っている以上、衛生上よくないことを分かっているんだけれども、環境改善のために立ち上がり、自治体にかけ合うなんて運動するわけではない。無理なことはしない。ふたことめには「一杯のませろよ」と、自分もちゃっかり生きている。

けれども、監督自身はこのあと、みずから病原菌と闘う医師の姿を撮ったり、水爆実験の被害者の話や、衝動的殺人の被害者(の遺族)の話を撮ることに進んでいくわけで、その萌芽が見えるという言い方もできるし、ここで結局のところ自虐で済ませてしまったことを反省したのかもしれないということもできる。

映画評に正解はないというより、すべて正解なのです。ある見方をとる人が、ほかの見方に対して「私だけが正しい」という権力争いを売ることほど虚しいことはありません。

……と、ここまで書いた上でですね……。

あんまり言われちゃうと観る気がなくなる・観てもいないのに他人の受け売りで裁断してしまえるということもあるわけで、個人的には「まずは男優萌えから観る気を起こして頂いて、意外なほど感動してしまった自分を発見した」と仰って頂けるのが一番いいなァと思っております。




2016/10/28

1942年11月、マイケル・カーティス『カサブランカ』ワーナー

I never make plans that far ahead.

いきなり主演の名前を掲げるのがアメリカ流。製作者・脚本家の順になっている日本と違って興味深いところです。外人さんの名前は長たらしいので専門サイトに丸投げして割愛しちゃいます。

シャンパンと煙草とダブルのスーツが男を飾っていた頃。ジャズが空気を染めていた頃。フランス領におけるフランス警察とドイツ軍の混在をアメリカの映画人が諷刺してるってのも面白い画ではあります。

どいつもこいつも清濁あわせ飲んだ大人たちによる、だいぶひねりの入ったロマンスで、ミュージカル映画にリアリズムを取り込み、早口の実力派俳優たちによる舞台劇になめらかな移動撮影を組み合わせたということのようで、過去と未来が少しずつ明かされるサスペンス要素もあり、たたみかけるように名台詞・名場面が続き、息切れしそうなほどですが頑張りましょう。

あまりの名作ぶりに敬遠していましたが、なるほど映画としての出来が良いのです。

持ち前の美貌が撮影の工夫によって更に輝くイングリッドは「マドモワゼル」と呼ばれており、まだ女学生みたいな顔してるのですが、すでに過去はある。憧れの金髪の王子様について行くことを許された美少女の、その後の物語。

ラズロの色男ぶりに較べて、リック(=ボギー)はどっちかってェと女にモテない顔した悪役属性なわけで、世界中の男たちの夢を背負っているのでした。あんたの時代はよかった。

オープニングはアフリカの地図。アラビアンな音楽が魅力です。アニメーションを利用した「前説」は斬新だったのだろうと思います。かつて、ヨーロッパの人々も「難民」になったのでした。未来への底知れぬ不安を秘めて、捨ててきた生活を懐かしむ人々。

The fundamental things apply, as time goes by.

保存がよくて、画面も音声もビックリするほどきれいなのが悔しいほどで、日本映画の保存が良くないのは映画文化が理解されてなかったからなんだそうです。こちらはもともとの機材も良いようで、まァ……こういう点ではアメリカ様にはかないません。



2016/10/28

1939年12月、マキノ正博『鴛鴦歌合戦』日活

とかく浮世はままならぬ。日傘さす人、作る人。恋のそよ風よそへ吹きゃ、好きなお人もままならぬ。

脚本:江戸川浩二 撮影:宮川一夫 剣導:足立伶二郎 助監督:羽田守久 オペレッタ構成・作詞:島田磬也(テイチク専属) 音楽指揮・作編曲:大久保徳二郎(テイチク専属)

片岡さんの出演作品はパブリックドメイン過ぎて、かえってレンタル店で見つけるのが難しいんですけれども、これは日活100周年記念事業でDVD化されたらしく、HDリマスターにしても、……いや、よくこれだけの質で残っていたなァと。

フィルムセンター所蔵作品。約68分、ひと息に見せます。『会議は踊る』もコスチュームプレイですから、同じ時代の日本を舞台にしたっていいわけですけれども、これはもう発想の勝利。やんや、やんやと囃しましょう。

ビッグバンドの演奏の質が高いのはもちろん、男優たちのコメディ演技もハイレベルですが、美人ぞろいの女優たちがすごく元気がよくて可愛くて、ニヨニヨが止まりません。ヒステリーとか言っちゃってるし。

青葉の笛を知るや、きみ。須磨の嵐に散り逝きし。花もつぼみの美少年。嗚呼、無官の太夫敦盛が哀れゆかしき夢形見。

敗れし平家のローマンス。ディック・ミネ若すぎ。さすがの美声。

千恵蔵も誰だか分からんくらい若いですが、女形とはまた違った粋な格好よさを持っています。歌唱も情緒深く、お見事です。志村喬の存在感は桁違い。コメディやってます。どうやら吹替えなしで唄ってます。いい声です。

お話のほうは、めっぽう明るい導入部によって要素が出そろった途端に急展開する見事な構成で、よく考えると『会議は踊る』のパロディになっており、同時に伝統的な勧善懲悪ものでもあって、千恵蔵のアクションはさすがの切れ味。映像的にもハイレベルで、全篇を通じて構図が斬新。カメラワークも編集も大胆です。

正博=雅弘です。キャラクター名は役者の名前をそのまま活かしており、楽~~な感じで構想されたことが伺えます。

それにつけても、花の心は花が知る。『イントレランス』にも印象的な山ガールが登場しましたが、戦前の女優さんたちは本当に生き生きしていましたね。そしてやっぱりマキノさんは女好きでコメディ好き、と。

なんでこの人が任侠映画を撮ることになったんだろう……と考えてみると、むしろ任侠映画の枠を使って自分好みのコメディ女性映画を撮り続けた度胸の良さこそ、映画渡世人の金看板を背負っていたかもしれないと思うなど。


2016/10/27

新宿二丁目を騒がせる現象を分析すると、対策できるようになります。

まず、当方の同人・BL論の目的は、プロ創作家の名誉回復と、新宿二丁目の被害軽減です。

同人の悪口を言うことでもなければ、BLはいかに「エロ」いかという宣伝をすることでもありません。下品な自己アピールばかりしたがるクレーマーさんがいると困りますので、ご遠慮ください。

何度も申しますが、プロが男同士を描いたからといって、自虐したことはありません。プロ作品を売り出す出版社が、キャッチコピーとしてパロディ同人の使う隠語を用いたこともありません。

「プロまでパロディ同人と一緒になって自虐した」というのは、一部の研究者・評論家による証拠の捏造であり、歴史の歪曲であり、無用なレッテル貼りであり、差別意識の表れです。

また、創作と現実を混同して新宿二丁目(に多いとされるゲイバー)へ乗り込み、下品な質問をする読者がいるというのは、例えていうと、任侠映画を観たからといって、実際の暴力団事務所へ押しかけ「本当に人を斬ったことありますか~~!? 刑務所に入ったことありますか~~!? なんちゃって~~!」と騒ぐのと同じことです。

あるいは、ミステリーが好きだからといって、自分も名刑事になったつもりで警察車両に乗り込もうとする女がいたら? あるいは「ドラえもんが秘密道具を出してくれないので仕事ができない」と本気で言うOLがいたら?

明らかに、その人自身がおかしいだけですよね? 漫画家のせいじゃないですよね?

【分析すると対策できます】

もし、プロ創作家自身が新宿二丁目へ乗り込んで、下品な質問をして廻っているなら、記者会見でも開かせればいいです。新聞・週刊誌の記者が鋭いインタビューをしてもいいです。「どういうつもりですか?」って。

もし、市販されているプロ作品の購読者が新宿(中略)なら、出版社がお客様に自制を呼びかければいいです。酒・煙草・パチンコの業界が既にやっていることです。それによって急に被害がゼロになることはないでしょうが、出版社としては責任を果たすことができます。

もし、アニパロ同人誌の出展者が、コミケが閉幕したあと新宿二丁目へ乗り込んで「私たちを店に入れろ! カネならある!」と騒いでいるなら、同人どうしで注意し合えばいいです。

もし、アニパロ同人誌の購読オンリーな人が、コミケが閉幕したあと新宿二丁目へ乗り込んで「吊橋理論で同性愛が芽生えるって本当ですか!?」と騒いでいるなら、同人からお客様へ向かって「創作と現実を区別してください。区別できない人のほうが多いようだと同人誌が規制されちゃうんです。私たち生きていけなくなっちゃうんです。困るんです。お願いしますお願いしますお願いしますお願いします」と言えばいいです。

「刑法不遡及」ですから、実際に騒いだ人・不適切な質問をした人を今から検挙する必要はありません。目的は予防です。

ここまで対策しても、実在の同性志向者に対する加害行為が止まないなら、テレビか観光ガイドブックで余計な知識をつけた人が当事者である可能性が高まります。とすれば、テレビ局か観光ガイドブックの出版社が視聴者・読者に自制を呼びかければいいです。

【混同すると、クレームが無駄になります】

1980年代初頭以来、パロディ同人の世界では「絶対に本物を怒らせるな。ホモという言葉を使うな。本物のいる店へ行くな」という通達が廻っています。同人誌即売会の参加者も増えたので、全員に行き渡っているとはいえませんが、ベテランなら守ってます。

それが自分たちの「表現の自由」を守ることであるのを知っているからです。華やかに見える自由の裏には、苦しい犠牲と責任があるのです。なお、同人誌即売会は、同人誌を即売する会ですから、あるていど利潤動機なのは当たり前です。つまり、同人にしてみりゃ生活がかかっている。

それを他の町からのクレームによって規制されては困るのです。マジで困るのです。これが同人の本音です。

したがいまして、ゲイ・レズビアン側が迷惑客を「なんとか少女・なんとか女子」というレッテルで総称してしまうと、それは自分たちのことを排他的に示す業界用語だと思っているパロディ同人たちから「私たちはそちらへお邪魔したことはありません。濡れ衣を着せないでください」という厳しいクレーム返しがつくのです。

すると、ゲイ・レズビアンのほうが恐縮して「ブログ記事を削除しました」とか「訂正してお詫びします」とか言ってしまう。これが繰り返されてきたわけです。最終的には「ゲイ・レズビアンの言うことは信用ならない」という結論になって、誰もクレームを聞いてくれなくなります。

敗因は、余計なレッテルを用いたことです。残念ながら、ゲイ・レズビアンも隠語・略語・業界用語を用いるのが好きな人々です。さらに人間は、ずれた場所で復讐しようとする傾向があります。

自分自身が「ホモ」などと呼ばれて差別されたので、ストレート女性に対しても何か下品なレッテルを貼り返してやりたいと思ってしまうのです。そして自分の足元をすくうのです。残念な次第です。

冷静に現象を見極め、混同を排除し、シンプルにクレームしましょう。

さしあたっては、全国新聞などのマスメディアに対して「ゲイバーで下品な質問をするストレート女性がいるので困っています」と、事実をありのままに述べることに努めましょう。「我々はそういう女性を何々と呼んでいます」というレッテル貼りは不要です。

とくに、キーボード誤変換言葉は口頭で発音しても無意味ですから、もともとインターネット・スラングです。すると中高年が「俺だって若者の流行に詳しい」というところを見せたくて、ブログなどで無駄に使ってしまうことがあります。それで結局ご自分の損になるんじゃ意味ありません。気をつけましょう。

なお、ストレートな皆様のために申し上げますと、新宿二丁目が長年にわたる被害を人権問題として正式に発表していないのは、まがりなりにもカクテルを飲みに来てくださるお客様を告発するということをしたくないからです。彼らは「お水」の仁義を守っているのです。

それに甘えずに遠慮してやることが大人の優しさなら、大人になりたくないという「少女」の自分優先行動は、はたして情状酌量してやれることなのかどうか?


2016/10/27

自分で自分を差別する人は、復讐する相手を間違える。

探し物をしながら「あなた知らない?」と質問する人自身は「落ちていたので、こちらの引き出しに入れておきましたよ」という答えを期待しているだけなのに、「私が盗んだっていうの!? 私が変な病気だっていうの!? バカにすんな!」と怒っちゃう人は、復讐する相手を間違えたのですね。

以前に他人から「どうせお前が盗んだんだろう」といわれたことがあるのかもしれません。「お前は信用できない」といわれたことがあるのかもしれません。

が、現在の眼前の相手は、まだそこまで言っていない。なのに先手を取って怒ってしまう人は、自分自身の先入観に負けたのです。

「どうせあんたも私をバカにしてるんでしょ」って。「また私を疑うのね!?」って。

相手の心理に関して先入観を持っているのは自分自身です。被害妄想の元は自分自身の偏見です。

本当は、過去に関わった人間の価値観を取り込んで、自分で自分を差別してしまっているだけなのに、復讐する相手を間違えて、言葉を刃物にして眼前の人物を襲ったのです。

大声を出す・怒鳴るというのは暴力の一種です。女性は、男性が強そうに見せることに対して、もっと強そうに見せるということができないので、わざと弱そうに見せることがあります。つまり大きな声で泣くのです。

そうです。「うわーーん」と泣くのは、脅迫の一種です。

おとなになると、なかなか人前で泣くことができなくなるのは、他人に暴力をふるってはいけないということを理解した証拠です。してみると、おとなになるということは、じつは他人を傷つけないことです。

逆にいえば、おとなになれないと自己申告する人は、他人を傷つけ続けようとしているのです。

「先に自分のほうが傷つけられた」という思いがあるには違いないのですが、その復讐をすることが人生の目的になってしまっているのです。

SNSなどの場合、泣きたいからといって文字通り「うわーーん」とタイピングする人も少ないもので、愚痴をこぼすという形式になります。

これは、一見すると分かりにくいですが、本質的に他人に対して暴力をふるっているのと同じことなわけです。だから「母親のせいでこうなった、社会のせいでこうなった」という言い訳を必要とするのです。

それで許してもらえると思ってるんだから、根本的に考え方が甘いわけで、本当は、そんなこったから失敗したということも、よくあるものです。

この心理に「弱者特権」というレッテルを与えて、増長させてしまうと「社会全体に復讐してやる」といって爆弾をしかけるという行動につながってしまいます。

女性はなかなかそこまでしないんですが、SNSなどにおいて、相手かまわず言葉の爆弾を投げて歩くということはあり得ます。誰に対しても厭味を言って絡んでいる人は、このタイプです。

なお、愚痴をこぼす相手として、ゲイは、一見すると最適なようですが、ひじょうに相手が悪いです。彼ら自身が親のせいにできないことでストレート社会から差別を受けているので、ストレートの甘えをものすごく嫌うからです。

また、ゲイが一見すると愚痴をこぼす相手として最適なように見えるのは、比較的物腰の柔らかいタイプの人が自分でも分かっていて、カミングアウトして水商売を始める他ないと思うからで、実際には見た目にストレートと区別がつかない、ただのオッサンも多いものです。

女性が「ゲイは女っぽいから女の子の味方よ。女の子の傷ついた心に寄り添ってくれるのよ」とかなんとか勘違いして男性専科の店へ乗り込めば、ものすごく冷たい眼で見られるだけですから、本っっ気で自戒しましょう。

とくに、自分自身が性的マイノリティを名乗って人権運動するつもりなら、先入観をもってゲイを利用しに来たと思われた瞬間に終わりです。




2016/10/26

1949年10月、黒澤明『野良犬』東宝

心の持ち方しだいで、きみの不運はきみのチャンスだ。

製作:本木荘二郎 脚本:黒澤明・菊島隆三 撮影:中井朝一 照明:石井長四郎 美術:松山崇 音楽:早坂文雄 助監督:本多猪四郎

三船が走る! 三船が悩む! 新東宝・映画芸術協會提携作品。ディテールの物量作戦で押しまくる黒澤流1949年東京案内。煙草が男の心の友だった頃。名台詞いっぱい。教訓:コルトはジャケットのポケットに入れてはいけません。

『ラ・パローマ(鳩)』は平和の象徴なのに、人間は何やってんのか。ちょうちょ、ちょうちょ、とまれよ遊べ。根幹の心理的テーマと音楽の使い方のうまさは『天国と地獄』へ真っ直ぐに通じているようです。(なお『天国と地獄』のほうを先に観ちゃったのですが、鑑賞記は可能なかぎり公開年順に挙げて参ろうと思います)

さて、アプレゲール敏郎(公開時29歳)は、若すぎて誰だか分からんほどですが、たいへんいい男です。若手俳優らしい清新な(やや気負った)演技で熱意をふりまいております。どうも本当に暑いみたいでジャケットが汗だくです。復員兵いで立ちが、めっさ似合います。

まだ配給手帳があった頃。撮影の工夫がいっぱいで、フィルムを重ねた画に流行歌を乗せていく長い風俗描写が印象的。どこまでセットで、どこまで実物ロケなのか。今となってはものすごく貴重な時代の証言ですが、撮ってる時点でその意義を理解しているところがすごいと思います。『三四郎』では編集がもたついていましたが、意識としても技術としても、急にものすごくレベルを上げたようです。

おふくろってやつは娘のことに関しては素晴らしい検事だ。

序盤に急展開のアクション場面を置いて、観客の共感がキャラクターに定着したところで中盤からじっくりと重苦しい心理描写に入る黒澤節。

若手刑事の三船は序盤に足でかせぐ役で、中盤は志村喬の独擅場。役柄としても演技としても、若い三船を叱咤激励し、道をつけてやる役です。ベテラン刑事の果断さと身ごなしの素早さは『七人の侍』の勇姿を連想させることですね。

撮影の順番は、作中の時系列とは必ずしも一致しないでしょうが、一本撮り終わる頃には、キャラクターとともに悩み抜いた三船自身が立派に成長を遂げたように思われます。



2016/10/25

弱者意識があると、言葉使いが横柄になるので、自戒しましょう。

「マジョリティから一本取ってやるつもりで暴言を吐いてしまった後で、相手が本物のマイノリティだったと分かって、あわてる」

これでは世間様へ向かって、自分が「相手によって態度を変える人間である」と宣伝してしまったことになります。

弱者意識・被害者意識があると、かえって態度が高圧的になり、言葉使いが横柄になるのです。挨拶しなくてもいい、見知らぬ他人を怒鳴りつけてもいい、逆に自分のほうから「差別用語」を使ってもいいと思い込んでしまいがちです。

「わたしたちの文化においては、弱さは非常に強くて権力がある」(『嫌われる勇気』p.89)というわけです。

じつは、このタイプの人には隠し持った目的があって、それは「日常的なストレス解消」です。本来は職場の待遇改善を上司に訴えたり、交際相手を説得したり、景気回復を政府に要望したりするべきであるところ、見込みがないので身近な他人を怒鳴りつけることによってストレス解消しようとするのです。

だから、じつはこういう人は周囲がいい人ばかりになってしまうと困る。怒鳴る相手がいなくなるからです。だから一日中SNSに依存して、わざとロリやBLの話をしているところへ首をつっこんで「私の前で下品な話をしないでください!」とクレームしたり、逆に「私のほうがもっと下品ですよ!」と変な自慢をしたりするのです。

つまり、ストレス解消のために怒りの感情を捏造するわけです。相手のひと言によって、カーーッと怒ったふりをするのです。怒鳴ることが自己目的ですから、本当に建設的な議論をするつもりはありません。議論が起きた背景となった社会問題を理解する気もありません。わざと脊髄反射しているので、あとで「そういう話じゃなかった。意味が180度逆だった」と気づいて、あわてるのです。

職場・学級・家庭・ご町内・SNSのいずれにおいても、トラブルの元になるのは勘違いする人です。他人の話を自分に都合よく(自分のほうが被害者っぽい顔をして怒ることができるように)曲解する人です。

ストレスが溜まっている時には勘違いしやすいものです。これは余裕を失くしているからだということもできますが、もう一歩踏み込んで「ストレス解消のために、わざと怒っている(自分に嘘をついている)」と考えてみましょう。

【BLファンが自戒する点】

「心がウブすぎて、成人向け過激エログロBLしか読めない女の子は、男性中心社会の被害者だから、ゲイに下品な質問をする権利があるのよ!」

などという訳の分からない理屈を自分勝手に考え出して、信じ込んでしまわないように注意しましょう。

パロディ同人が使う言葉は「裏の意味」を持っています。そもそもパロディ・諷刺ということが得意な人々なのですから、わざと逆のことを言うのです。それを真に受けてしまってはいけません。自分のためです。

もし真に受けてしまうと、社会の被害者である自分には「弱者特権」があると信じ込んでしまい、ゲイではない人々に対しても、なにを言っても大目に見てもらえると勘違いしてしまうことになります。

で、男性のアカウントへ押しかけて(自分を棚にあげて)あんたの趣味は変だと言ったり、女性のアカウントへ押しかけて、挨拶もなく、見知らぬ他人を怒鳴りつけたりするのです。

だから自分では正当な権利をもってクレームしているつもりで「変な人がきた」と言われたり、ツイッター廃人と呼ばれたりするのです。他の人は、制止してくれることもなければ、説教してくれることもありません。おとなの優しさとは冷たさと表裏一体です。

なまあたたかい眼で面白がられていることを、本人が「ウケている、注目されている」と勘違いしてしまうこともあります。

ほんとうに心ある人は、黙ってフォロー解除またはブロックして、離れていくでしょう。ツイッターばかりでなく、フェイスブック、LINE、ブログのコメント投稿者なども同様です。

自分が言いすぎたせいだと気づいた時に必要なことは「でも私はツイッターが好きだから」という言い訳ではありません。フォロワーの皆様にご不快を与えたことのお詫びです。

なお、インターネット上で怒鳴るというのは、文末に「!」マークがついていることです。自分でやっちまっていたら、自戒しましょう。個人アカウントに対してそういう言い方をしなくても、政府や社会全体に対して説得力をもって訴える方法・言葉使いを考えましょう。

【知ろうともしない心は実家へ帰りたがっている】

無知そのものを責めることはできません。知らない人には教えてやればよいことです。

が、本人が知ろうともしないとなると、話がちがってきます。自分が知らない話を聞いた時に、即座に「そんな奴いるわけないでしょ!」と怒鳴ってしまう人というのは「世の中にはそういうこともあるのかもしれない。そういう人もいるのかもしれない」と考えることができないわけです。

それでどうして自分だけ「世の中には私のような性的マイノリティがいることに前もって想像力を働かせて、細やかに配慮してほしいわ」と言えるのか?

自分だけ得をしたい時に、他のマイノリティが言っていることを真似するからですね。フェミニストやパロディ同人の言い草を真に受けることに通じています。他人に対して自分から配慮するつもりはないのです。最初から周囲と双方向性の円満な対人関係を築くつもりがないのです。孤立したいのです。なぜ孤立したいのか?

実家へ逃げて帰りたいからです。都会に出てきて自立できたつもりの人が、ときどき陥る心の罠です。自分で自分の立場を苦しくするのです。

発想としては「刑務所へ入れてもらうためにわざと悪いことをする」というのと同じことです。現在の生活に充実を感じておらず、希望をなくしているわけですから、悪い仲間に誘われて、ついて行ってしまいやすく、薬物などに手を出すといったことにもつながりやすいと言えますから、厳重に自戒しましょう。

自分から人生の次の(または本当の)課題を見つけられないということは、もともと宿題を与えられないと勉強しないタイプだったわけで、そういう人は当然ながら大学で学問の目標を見失って、パロディ同人活動に流れてしまうことがあるのです。オリジナル漫画家としてプロデビューするより楽だからです。

当然ながら、高校生のうちから「部活さぼって繁華街へ遊びに行ってしまった」ってなこともしていた可能性があります。

もし親御さんが「大学へ入ったら誰々とはつき合うな、どこへは行くな」と細かく注意なさったのなら、そういう子どもの個性をちゃんと見ていて、本当に心配してくださっていたのです。あなたは充分に愛されていたのです。だからこそ実家へ帰りたいので、わざと「お母さんのせいだ」と言い訳しなければならないようなことばかりしているというふうにループするのですから、自分で気をつけましょう。

【フロイトとアドラーは対立概念ではありません】

アドラー流または岸見流の面白いところは「安直な優越性の追及は不健全な態度です」と、はっきり言ってしまうことです。心理学なのに価値判断が加わっているのです。もともとはフロイトが神経科の医師で、強迫神経症を治そうとしていたことによっているのでしょう。

アドラーの言うことは「人間は無意識のうちに自分の得になるように計算している」ということですから、まず無意識の存在を全面的に肯定しています。そして「神のお告げ」ではなく「無意識」という言葉を使った人はフロイトです。

無意識の心理学をフロイトが創始し、アドラーが発展継承させたわけで、一方が他方を否定したのではありません。

「神は死んだ」と叫ぶ世代がアナーキズムに走ると、あぶなくてしょうがないので、キリスト教の権威が低下した産業革命の時代には、人間いかに生くべきか、なにを次の行動指針にしたらいいのかと自問自答し、他人にも教えようとした人が大勢いたのです。

欧米の自己啓発術の多くが、フロイト=アドラー流の流儀に乗っていると考えればよいでしょう。テキストに書いてあることを読めば分かります。根本にあるのは、ユダヤ人の「逃げるときは一人だ」という、ひじょうにドライな世界観・人生観です。

「離れたところから自分自身を見てみましょう」というのは、自分自身が「神」の視点になって、小さな人間を見るということです。トラウマを言い訳にしている小さな人間(=自分)に向かって「目覚めよ」ということです。

そのような技法を教える人の中には、自分のはカウンセリングではなくセラピーだということもあります。他人の話を聞いてやるつもりはなく、一方的に薬を処方するだけだということです。が、その薬にまったく効き目がないことを自分自身の言動によって証明してしまっているのでは意味がないのです。

べつに廃業する必要はありません。言い訳する必要もありません。自分で自分を育て直せばよいことです。必要なのは、他人を怒鳴りつける勇気ではなく、自分を変える勇気です。



2016/10/24

1949年3月、黒澤明『静かなる決闘』大映

それは僕の罪でもなければ、僕の欲望の知ったことじゃないんだ。

原作:菊田一夫「堕胎医」より 脚本:黒澤明 撮影:相坂操一 美術:今井高一 音楽:伊福部昭

煙草が男の最高の小道具だった頃。アプレゲール黒澤は、アプレゲール三船を使って「性」を話題にできるようになりました。若い時から声が良かった敏郎は、横顔も水際立っております。志村とは背丈がつりあって、親子役に相応しい名コンビ。音声も画面も機材がだいぶ良くなりました(涙)

なお念のため、くわえ煙草の不良医師のデカダンな日常という話ではございませんです。それはそれで観てみたかったけど、黒澤には無理だな……といった余計な感慨は置いといて。

伊福部音楽が不安を掻き立てる豪雨の南方戦線。ヘッドライトに浮かび上がる赤十字マーク。撮影の工夫が光る男だらけの戦場から、女性の住む世界へ還ってきたんだけれど、この違和感をいかにせん。アプレゲール女性の果断さよ。

カメラの間口がせまい代わりに奥行きを活かした撮影と徹底的リアリズム志向の美術がいかに見事でも、役者が下手なら話にならないのが映画。今回も女性陣のナチュラル演技が(地味に)光ります。ロマンス映画の一種ではあるんですが、黒澤が書くと、ふた味ちがう。

職業倫理と、それを最優先する高潔な心が生んだ悲劇は、時代状況によるものでもあり、男と女(と男)の普遍でもあり。主人公の聖性と人間性の葛藤というお話でもあって、特殊例のようではありますが、おそらく戦後3年くらいの間に日本各地で似たような「戦争が男女の心身に残した後遺症」というべき事例があったのです。

6年ほっとかれて処女のまま老成したお嬢さんの鬱屈した情熱が切なくて、こんないい男をのがしたかないですな。

寡黙な男心。泣くにも怒るにも、皮肉をいうにも男心を代理するにも、際どい質問するにも事務的に愛を語るにも雄弁な女心。

こうしてこうしてこうなったという語り口がたいへん良いので、予備知識なしでまずは御覧になってみる価値は高く、あらすじは言ってしまわないほうがよいと思われますが、決闘の相手は病原菌であったり、異性であったり、同性であったり。すべての背景に厳然と存在する戦争という異常事態であったり。

苛立ちを強める雨の音、胸の不安な高鳴りを暗示する車の排気音、平和の象徴のような音楽の皮肉、新展開を告げる丘蒸気。秘密の会話は建物が安普請なので……(^^;)

日本映画における音の使い方の細やかさは、虫の声が雑音に聞こえるという外人さんとは違った脳の性質によるものでしょうか。

根本のテーマは黒澤流人間賛歌であって、勧善懲悪の一種でないこともないので、基本的には安心して御覧いただけます。

人間って、うつむいて歩いたらダメですよ。



2016/10/24

1946年10月、黒澤明『わが青春に悔いなし』東宝

華やかに見える自由の裏には、苦しい犠牲と責任があることを知れ。

製作:松崎啓次 脚本:久坂栄次郎 撮影:中井朝一 美術:北川恵司 音楽:服部正 演出補佐:堀川弘通 照明:石井長四郎

敗戦の翌年にこれを撮る度胸。黒澤には「鼻がきく」というところがあったように思われます。オープニングには錚々たる出演陣が名を連ねております。黒澤の名は監督ではなく、「演出」と表示されます。

「満州事変をキッカケとして軍閥・財閥・官僚は帝国主義的侵略の野望を強行するために国内の思想統一を目論見、彼等の侵略主義に反する一切の思想を「赤」なりとして弾圧した。「京大事件」もその一つであった。この映画は、同事件に取材したものであるが、登場人物は凡て、作者の創造である。」

だそうです。なお漢字は新字体に改めさせて頂きました。ベタっちゃベタな冒頭の注意書きに時代を感じつつ、藤田進の学ラン姿にはちょっと無理あるかなと思いつつ。

ときに、昭和8年。クラシック音楽とパーマネント・ウェイヴが女を飾っていた頃。ここはお江戸を何百里。くれない燃ゆる丘は風雲急を告げ、さみどり匂う大学自治は騎馬警官の蹄に踏み荒らされるのでした。

けれども、じつはその京大事件の陰にあった、原節子の果断な現代女性的な魅力を活かした女性映画であり、青春映画なのです。すでにこの当時「青春」という言葉の適用期間が30歳くらいまで引き伸ばされていたようです。

黒澤明にとって、女性の美しさとは?

原節子という人は、能面のような美女というと誤解がありそうですが、女性の能面というのは、じつは目も鼻も大ぶりにできており、唇もぽってりと厚く、意外なようですが、生命力にあふれた、気骨があるといってもよいような造作をしているものなのです。

で、原節子という人は体格もよく、能面のような圧倒的な美人で、可憐・清楚な妹キャラではもったいない。演技度胸も良いわけで、その熱さ・強さをガッチリ受けとめられる男のほうが少ないんですけれども、三四郎(違)進はなかなかお似合いのようです。

撮影はきれいで、女性が悩む姿を細かく編集したり、時の流れを季節の変化や時計の振り子で表したりするのが、いくらか洋画ライクで、黒澤節だなァと感じられることです。録音にやや難があって、フィルムが廻る音を拾っちゃってるような気がします。

前半では日中戦争当時の東京がモダンで豊かな生活をしていた様子が伺えます。後半は水田の作り方が分かります。コメという作物が人口を養う能力は、主食にされる植物の中でも桁違いなのですが、栽培の苦労もまた桁違いなのでした。

ロケを多用し、男優にも女優にもリアルで汗水たらさせる黒澤映画は、役者にとって得がたい体験に違いなく、一本撮り終わる頃には、作中キャラクターとともに役者自身が成長を遂げているように思われます。

また、カメラというのは面白いもので、映し出すだけのことによって諷刺の意味を持つのです。娯楽のない田舎者の差別意識や、都会のインテリの虚勢を目の当たりにした観客たちは、自分はどちらの味方か? という判断をせまられるわけですね。

この後、「レッド・パージ」ということは続くわけですが、日本の「プロレタリア人民」は戦争中は軍部にだまされていたと言い張るようになり、親の金で大学へ通う若者たちは寒い国での革命から30年も経ってからマルクス主義に夢中になり、やがてプロレタリア人民の名において老幼を人質に取ってカネを要求しちゃう犯人グループになってしまったりもしたのでした。

そして農村婦人の自由化は、未曾有の高学歴社会と、母性を閑却した産業戦士の育成に再組織されていったのでした。革命が成功した国はどこにあったのか。我々は自由になったといえるのか。



2016/10/24

1944年4月、黒澤明『一番美しく』

大丈夫。一生懸命やればいいのよ!

脚本:黒澤明(まさかのノン・クレジット)

撃ちてし止まむ。情報局選定国民映画。ですが、戦意高揚に名を借りた少女の成長物語であり、青春映画の傑作と思えばいいです。もんぺ穿きでも下駄履きでも、女の子はいつも女の子。おばあちゃん達の若い頃。

光学機器の製作所に動員された女学生だと思うんですが、16歳くらいのお嬢さんたちが、手作業でレンズを製作しております。当時の製作技術・機材が分かるのが貴重です。

彼女たちの奮闘ぶりを見守る製作所のおえら方が、またいかしたジェントルマン達で、『あゝ野麦峠』みたいなお話ではないので、安心して御覧ください。志村喬の役作りが(相変わらず)面白いです。

なにせ皇国の女子がいっぱい。いまどきのアイドルよりずっと野暮ったい顔立ちですが、ぷっくりした頬っぺがまぶしいです。

寄宿舎から職場へ向かう道中を、ただ歩くのではなく鼓笛隊として編成されており、その練習風景も少女たちの心理的葛藤を示す場面として上手に使われております。鼓笛隊に編成されている理由は……まずは団結力を高めるためですが、たぶん若い娘さんたちが道に広がってキャッキャウフフするのが戦時統制化の雰囲気としてよろしくないというようなことだったんじゃないかと思われます。

が、もちろんそのキャッキャぶりが全篇をいろどってるわけでございまして、この「大勢の人間が寄り集まった姿がなんとなく微笑ましい」というのが黒澤の特徴で、マキノさんともまた違うのです。小沢さんが近いかもしれません。監督の人間性が画面ににじみ出るような気がするというのも、思えば不思議なことではあります。

なお、主役の渡邉ちゃん役が、すっごい美人です。

撮影もきれいで、編集がすごく冴えてます。若い女優たちのナチュラル演技を活かしたドキュメンタリー調ですが、じつは脚本上の仕掛けも盛りだくさんで、山場のたたみかけるような語り口がよく、たぶん黒澤の戦前映画の中では最高品質。映画史全体から見てもハイレベルな一本だと思います。



2016/10/21

『居酒屋兆治』再考。~残侠映画の夢の後。

ネタバレリーナに取りつかれないことには出来ないお話なので、未見の方はご注意ください。




腕力に乏しい女の復讐は、男の心に後悔と自責の念という重荷を背負わせることなのです。

そのためには言葉を刃物のように使うこともあるし、自らの命を投げ出すこともある。将来を思って酒をやめることはいつでも出来るわけですが、将来を諦めた者による緩慢な自殺である場合には、目的を遂げるまで、やめることはない。逆にそれが生きがいになってしまう。

生きがいといえば、井上造船は、それこそ新宿二丁目にでも辿り着けば舞台人としての人生があったかもしれない。『残菊物語』のように旅回りの小劇団に加わるということも出来たかもしれない。自分で旗揚げしてもよかったはずです。今でもそういう活動をしている役者さんは本当にいます。彼も女形がなかなかに決まっております。

でも造船所を継ぐことをハッキリ断ることも、家出することもできなかったわけですね。

カラオケそのものの普及期だったので、新しいものに触発されて「夢」を思い出してしまうということは、新しいものの普及期には必ず起こることなのかもしれません。いい中年がオンラインゲームに注ぎ込んだなんて話も想起されますね。あれも当然ながら、それまであんまり遊んだことのない人だったのでしょう。

また、生身の女性も40歳すぎた頃から「まだ若いと言えるうちに、もうひと花咲かせたい」と焦ってしまうことがあり、周囲を驚かせるような行動に出ることもあります。

いっぽう、いちばん自由に気楽に生きているかのように見える男は、野球の夢を諦めたあと、肉屋の婿養子。たぶん配達と御用聞き(まだあったでしょう)を担当して、街じゅうの人に頭をさげてまわっているのです。酒癖の悪い人も、函館の片隅で小さなタクシー会社を経営しているわけで、自分のほうが客から因縁つけられることも多いのでしょう。

いまより貧乏になることを恐れて、小さな町を飛び出していくことができないというのは、計算高い女の発想のようでもありますが、おおかたの庶民男性の真実の姿でもあります。

左とん平(の役)は、女に愛されない男の典型ですが、じつは男に愛されない男の典型でもある。映画俳優にはなれても、ヒーローにはなれない。じっさい、仁侠映画でも高倉・池部の陰には、その後も鳴かず飛ばずの「モブ」としての男優が大勢いたのです。

【仁侠映画とは】

仁侠映画を成り立たせる最大の要素である侠客というのは、たがやす畑を持っていない。親から受け継いだ漁船もない。人間社会が重層化・異質化した後で必然的に生じた、相続から弾かれた次男・三男以下。または親の代からして、残す物などない。

明治以来の日本は、国際政治に目覚めると同時に帝国主義の時代だったのと、たちまち植民地化されずにやっていける程度には産業革命の下地があったもんだから(江戸時代の間に国内市場が充実していたのです)、あとは兵隊を増やすだけだったので「産めよ増やせよ」が合言葉で、中絶は禁止されたのです。避妊の知識も道具も、まだない。

はじき出された半端な命。生きていく手段がないから博打でかせぐ。元手が尽きたら違う町へ移って「この土地の親分さんに顔を通す」ということをすれば、寝床と食事だけは提供してもらえる。それがなければ野たれ死にしていた命だから、親分さんに拾ってもらったも同じ。好きに使ってやっておくんなさいとなる。だから一宿一飯の恩義。渡世の義理。

女子は女子で、遊里に売られるのでなければ、産業戦士として紡績所の職工部隊に組織されていく様子が『日本侠客伝』でも描かれていましたね。

あの頃には半纏を着た侠客たちは、その監督官として見回りしていたわけですが、やがて『続 飛車角』の時代(昭和初期)になると、まとめて満州へ送られたわけです。自分自身が鉄道敷設の労働力として。

そもそも帝国主義の時代は医療の改革期でもあり、抗生物質(ペニシリン)の普及期でもあって、母体と幼児の死亡率が下がったので、各国とも食糧と燃料の不足に陥ったわけです。だから植民地を取りに出る。増えすぎた人口を維持あるいは消費するために「公共事業」が行われ、そのために人口を増やすという自転車操業だったのです。

任侠映画は、日露戦争・日中戦争の影にあった、もう一つの男の生き様あるいは死に様を描いている。堪えがたきを堪えた挙句に、最後は誰の命令でもなく自分の意地を通すのです。

じつは、ヒロイズムもロマンチシズムもなく、最前線で、あるいは演習中にバタバタと斃れる兵士であることに対するアンチテーゼ。だから同じように日本刀をふるう国粋主義のようでありながら、反権力・反保守派。笠原和夫の脚本に顕著ですね。

【後期戦中派】

1983年の庶民はどうかってェと、それこそ女のくさったのみてェにグズグズ言ってるわけです。男一匹、飛び出して行くことができない。

現場が機械化される前は、石炭流しでも、石炭を掘り出すほうでも、建設現場でも、流れ者を使ってくれるところがあった。まだ1960年代には「この土地の親分さんに顔を通す」という話が本当らしく思えた。そういう「イメージ」さえ成り立たなくなったのです。

1945年に20歳前後で復員してきた男たちが定年退職しつつあり、世の中は戦争を知らない子どもたちの次の世代が、あられもない姿で踊り出していた。

ちょうどその間にいた、終戦の時にはまだ子どもで、1950年代に青年期で、金の卵と呼ばれるには遅く、高度成長の波に乗るには早かった。どうにも恰好のつかない世代に、よくぞカメラを向けたという話なのでした。

思えば仁侠映画の背景にも、街を出て行けない庶民の生活は描かれていたわけで、マキノさんはそれを決して意識から追い出さずに、むしろ積極的に明るく撮ってやったけれども、降旗さんはあんまりやってこなかった。あくまで背景だったのです。

これはまさに高倉・池部の「ご一緒」道中のひっくり返しなわけで、これで監督にとっても観客にとっても、俳優にとってさえも、世界観のバランスが取れたのかもしれません。



2016/10/21

1945年5月、黒澤明『続 姿三四郎』東宝

僕は簡単明瞭なのが好きです。

製作:伊藤基彦 脚本:黒澤明 原作:富田常雄 撮影:伊藤武夫 美術:久保一雄 音楽:鈴木静一 助監督:宇佐美仁

嘉納さんちの講道館じゃなくて、矢野さんちの修道館。変わらないのが三四郎くんのいいところ。また藤田進のいいところ。

これこそ不器用な男で、黒澤に愛されたのじゃなかったら、とても俳優に向いていると言えるタイプじゃないはずなんですが、この真摯な実在感が得がたい。

お話は前回から続いておりまして、魅力的な新キャラクターを投入した続篇のお手本というべき展開。脚本は黒澤の一枚看板で流れがよく、名台詞いっぱいです。

お話が明治二十年で、製作が1945年なんですが、とくに冒頭の画質のせいで、明治二十年現在に撮影されたドキュメンタリーかと思っちゃいます。

「ワンシーン・ワンカット」的な場面が多いのは、カメラが一台しかなかったんだろうな……と思われます。が、「中ボス」戦からクライマックスにかけては、かなりの工夫が見られます。1945年という時点で、物語としても、技術としても、ギリギリな機材で日本の誇りを最大限に表現したのです。

大勢の外人俳優に19世紀のコスチュームプレイをさせているので、人集めの苦労など、裏方の奔走ぶりが偲ばれたりも致します。笑っている人の顔を大写しにすると風刺的になるという話法は、同時期の洋画では必ずしも使用されていないような気がします。

絵で説明するということの上手さでは、戦前から日本映画がピカ一で、これが後のストーリー漫画の隆盛にも通じたかと。

物語のほうは「他流をつぶしてまで柔道を究めることに何の意味があるのか」という勝者の自責の念と、敗者の怨嗟の念が強調されておりますが、両者ともそれに逃げ込まないのが真の強さであるという価値観が、後の作品群にまっすぐにつながっているかと思います。

道を知らず、人を知らず、世を知らぬ者は、怖いぞ。

月形の二役は、役作りに落差があって面白いです。お連れさんの笹をかついだ「物狂い」の表現が興味深いですね。この頃はまだ能楽によるステレオタイプが国民の中に生きていたのでしょう。

男の物狂いは例が少ないはずで、あの笹というのは、どちらかというと女性的なアイテム。女物の着物を身につけることにも関心があるようで、トランス的キャラクターのようです。

悪役の二人組が念者・念弟の関係を暗示しているのは洋画でも時々あることで、もともとは前作の悪役が恋敵(=ヘテロセクシュアル)だったことに対して属性の違う悪役として全く新たに創出されたのでしょうが、檜垣の弟に位置づけることで後味よくまとめたのだと思われます。

こういうのは監督の性的志向をどうこういう話ではなく、女優を彩りに使うのと同じことで、スタッフ・観客中の最大マジョリティであるストレート男性にとって違和感のある存在を敵役に使うと、アクセントになるわけです。

が、あんまり露骨にやっちゃうと、異性・同性志向双方の観客から(それぞれの立場で)クレーム来るので、暗示的にやることになってるのです。という話はおいといて……

とも言いきれなくて、つまり外人さんを含めて、これで一通りの敵はぶん投げたことになるわけで、あとは女相撲か熊でも出すしかないので、あまり娯楽的になる前にシリーズ化を止めたわけです。冴えた選択だったと思います。

逆にいえば、後発の作品では、それをやる他ないので「昔の映画に較べて、いまの映画・漫画はくだらない」といわれるのは仕方がないのです。やるほうも覚悟の上なのです。そういう時は「上手に真似できたね」とほめてやればいいのです。という話こそおいといて……

新しい門人が、だんだんふてぶてしい面構えになっていく表現は、残像を活かした映像的な見どころでもあるかと思われます。

果し合いに出る直前の、ほのぼの場面も魅力です。クライマックスは、どうやら本当に雪まみれのようで、リアリズム重視おそれ入ります。もうこの時点で黒澤流の要素が出そろっていたんだなと改めて思われることです。

音声が荒れてしまっており、フィルムの保存もよくはないですが、必見の価値があると思います。藤田のニコニコした顔に元気をもらえます。



2016/10/21

1965年7月、石井輝男『続 網走番外地』東映東京

俺ァ頼まれると、いやって言えねェたちだからよ。

企画:植木照男 原作:伊藤一 脚本:石井輝男 撮影:山沢義一 照明:大野忠三郎 美術:藤田博 音楽:八木正生 助監督:竹本弘一

まーりもまりも♪ いかすグレーのスーツの番外地野郎は刑期満了したようで、今回は娑婆で大活躍でございます。舞台は内地で、番外地じゃあねェです。お土産品の毬藻が無言の大活躍。

前作のヒットを受けて、3か月以内に制作・公開された続編。前作はモノクロだったこともあって、ものすごく前衛的・挑戦的に感じられましたが、今回はギャング路線に乗った総天然色娯楽作品。明らかに粗製ですが、開き直った感が、むしろ清々しい。

開始20分くらいはコメディタッチで話が見えない状態が続きますが、急に面白くなるので、まずは1960年代当時の風俗描写をおおらかな気持ちで楽しみましょう。建物や自動車の型の古さも今となっては魅力です。個人的には「ギリギリで覚えてる」くらいで、ほんのりと懐かしいです。

当然というべきか、娑婆の象徴は女たちのようで、赤いドレスの新鮮さが眼にまぶしい。赤ん坊の愛らしさも番外地にはなかった要素で、刑期満了気分満喫。劇中劇のストリップティーズでは、一人二役の興味深い芸を拝見できます。女の男役があるなら、つぎはやっぱり男の女役が発想されますわな。(そういう話はまたにしてだ)

全篇を通じて、音楽の使い方の良さと、筋立ての面白さ、台詞のカッコ良さは健在でした。序盤で望遠を効かせていたカメラは中盤からアップを多用して濃密度を上げて参ります。クライマックスは圧巻の夜間野外ロケ。

現代劇は、時代背景に共感しやすいのはもちろん、筋立ての定型化した任侠路線とは違った工夫があって、また面白いですね。

続篇が巻き込まれ型サスペンスになるのはよくあるパターンで、独立作品としてはやや荒唐無稽すぎるように感じられるだろう物語が、キャラクターの個性が確立していることによって撮影可能となるからでしょう。アラカンと安倍徹が納得の大活躍を見せてくれます。前作でとくに印象的だったキャラクターに絞り込んで再起用した形で、優れた人選だったと思います。


2016/10/20

その劣等コンプレックスは必要ですか?

1970年代までの映画には、大東亜戦争または太平洋戦争への言及があったのです。「若い奴がみんな兵隊に取られて、組がバラバラになった」とか「親父が南方で死んだ後、お袋が一人で苦労した」みたいな話が出て来たのです。

けれども、1980年代に入ると、戦争への言及がなくなるのです。新左翼運動(学生運動)の記憶も薄れて、24時間戦えるジャパニーズビジネスマンによる貿易黒字時代が来ると、日本が負けたことに言及するのは国辱だという意識が芽生え始めたのです。

それと入れ違いに、おなじ日本人の中で、男性に対して女性が負けているという意識が強まったのです。1970年代のウーマンリブ運動によって「家庭に縛られない個人としての婦人」という意識が高まったあと、でも男のせいで活躍させてもらえないという怨嗟の意識が強まったのです。

【本当は女性に負けたのです】

じつは、男女平等だと思っている人ほど、劣等感に悩まされるのです。だって女のほうが体も小さいし、声も小さいし、だから男と同じ仕事をやらせてもらえないから、努力したって無駄だし、どうせ私のせいじゃないし……

という劣等コンプレックスになりやすいのです。平等の意味を勘違いしているのです。

本当は、存在の権利において平等だが、できる仕事は違うので、できる仕事を頑張ればいいのです。

BLは、その源流とされる作品群が、1970年代初頭に実家を出て上京し、女だけで暮らすことが認められた人々から生まれたことが示しているように、女性の自由がすでに充分に認められたことによって生まれてきたものです。少なくとも表面化したものです。

BLは自由の産物なのです。すでに自由な人が「もっと自由に!」と言っているのです。

それを男性中心社会に負けたせいだと言い訳する人は、じつは作家の才能がなかったか、漫画同人として努力が足りなかったので、女性のライバルに負けただけなのに、男性中心社会が私を傷つけたから努力できなかったというふうに話をすり替えているのです。

これは「私はそうは思わないわ」という人には関係のない話です。まさにその意識を自分の中に取り込んで、言い訳にしてしまっている人に向けた話だからです。

その劣等コンプレックスは、本当に貴女のためになっていますか?

男が社会を支配しているから仕方がない、男性中心社会の代理人である母親が私を理解してくれなかったから仕方がないと言い続けるよりも、新しいアニメを見て、新しい二次創作を書けばいいじゃないですか?

「アニパロ同人も、もともとはアニメが好きな人の集まりだ」という話を聞いていられず、「キャラ好きな奴なんて一人もいなかった。みんなエロだけが目的だった。原作やアニメのストーリーを気にして『話が違う』といって驚く奴らは遅れてる」と変な過去自慢をするなら、昔のエロ小説の登場人物名だけ差しかえれば、現代アニメの二次創作として通用します。

前島密によって整えられた郵便制度による通信販売はもちろん、アニメ関連ショップにおける委託販売も、知る限り、1980年代前半から利用できました。現在ではダウンロード販売・オンデマンド販売も利用できます。 

いや、人物名だけオリジナルに差し替えれば、プロデビューできるはずです。なぜ、そうしないのですか? 副収入が要らないのですか? 

なぜ言い訳ばかりしているのですか? ツイッターを閉じて新作に取りかかれば、廃人と呼ばれることもなくなりますよね? こういう話です。

【BLが自尊感情の補償なんじゃないのです】

「私は男性中心社会の被害者だからBLを読まざるを得ないんです!」って言った時点で、欠損した自尊感情が補償されるのです。

世間様に向かって不幸自慢し、注目を浴び、転倒した優越感を満足させた時点で補償されるのです。才能ある女性に負けた事実を、誰だか分からない男性一般に責任転嫁し、男から一本取ってやったと思うことによって、傷ついた自尊心が満足するのです。だから、この論法を取る人は、かならず自慢するために出てきます。

母親がああだった、父親がこうだった、男から何々と言われた……

逆にいえば、今まさに制作に取りくんでいる若い人々は「せっかく書いたのに、山も落ちもないなんて言われたくない」って言うのです。当然の権利であり、誇りです。

「どうせただのエロのくせに。あんた達も私と同じよ」と言ってしまう中年女性は、自分で自分を差別しているのです。だから若い人が「BLにエロは要らない。ポルノだと思われたくない」と抵抗するのです。

男性の偏見を中年女性みずから内面化してしまわないでください。中年女性の弱者ごっこにBLを利用しないでください。私たちは、もうこれ以上「コンプレックスだらけの可哀想な女の子」というイメージを背負わされたくありませんってね。

若い人のなかにも、自分で自分を可哀想と思うことに酔っている人もあるかもしれません。それはあるていど「楽」だからです。でもBLを読む子が可哀想なら、まずは自己改革のためにBLを読むことをやめましょう! 勇気を出しましょう! という話になってしまうのです。

自己満足ってのは、悪いイメージのついてしまっている言葉ですが、本来、それ自体は悪くないのです。読書によって満足感を得て、気分よく本を閉じ、就寝して、明日も仕事に行くことができるというのは大切なことです。

もし、BLを読んだことによって、すでに補償が得られ、自己満足できたなら、そのことについて、べつに言い訳しなくてよいのです。

なお、好意的な書評によって仲間を増やすのは前向きな作業です。それは言い訳することとは違います。

どんな本でも、一冊読めば、ボキャブラリーが増えたり、心の友となるキャラクターが増えたりするでしょう。その喜びを分かち合いたいというのは前向きです。ほかの人も「面白い本を紹介してくれてありがとう。続刊を楽しみに明日を生きる勇気が湧いてきました」って言ってくれるかもしれません。

けれども、過去を言い訳にしなくてよいのです。それは、単に自分自身をアピールしたいだけです。

【イメージモデルは複数です】

アドラーたちも実例から学説を帰納したわけですが、当方が具体例としてイメージしているのも複数です。ときどき似たような人を見かけるという話です。読者の皆様もそれぞれに身近な実例を思いつくだろうと思います。何故そうなるのか?

一度症例が報告されると、自分からそれに合わせる人が出てくるからです。患者として注目されたいからです。「可哀想なBL読者」というイメージに自分を合わせるために、わざと母親のトラウマを思い出し、不安と怒りの感情を捏造するのです。

常日頃から他人の価値観に合わせて生きる人です。すごく自己主張が強いように見えても、他人の価値観にしたがって、その枠の中で一番になろうとするので、本人の中には不満だらけです。

「これでいいのかな」という不安と、「もっと何かアピールしなくちゃ」という焦燥感で一杯です。そのくせ本当に自分にできることからは眼を背けているのです。なぜなら「注目されること」が自己目的になっているからです。

だから、アドラー(または岸見)が「他者から承認される必要などありません」と釘をさすのです。劣等感は本人の思い込みですというのです。

当方がこれだけ言えるのは、もちろん身をもって経験したからです。そして、おそらくアドラーも岸見も古賀も、似たような経験をして、呻吟したのです。

もともとが猿であって、社会的な動物である人間の多くにとって、承認欲求は、持って生まれた病のようなものなのです。だからこそ、それを自覚する必要があるのです。無意識に自分を甘やかすことをやめ、自分をも、他人をも、傷つけないように気をつけるのがいいのです。みんなちがって、みんないい。

(参考:『嫌われる勇気』p.132)


2016/10/20

「男性中心主義社会を肯定しているのか、否定しているのか」じゃないです。

問題の立て方がおかしいです。どっちか決めることじゃないです。

もともとBL(と呼ばれるようになった表現分野)は、肉体としては大人の庇護を受けながら、口先だけ逆らってみたり、いたずらしてみたりするという子どもの感性を表現しているのです。

が、それを書いて発表したプロというのは、若い人でも成人していたのです。(例:1970年代初頭における二十四年組)

いいですか? こっから先が重要です。それは本当に子どもが始めたことではなく、成人女性の始めたことだったのに、実社会における男と女の関係が、少なくとも論じた人自身の意識の上で、大人と子どものアナロジーになっていたから、「女のやること=子どものやること」に見えてしまったのです。

でも、本当に女性が「ン十歳」になっても子どものままでいていいという意味ではないのです。従来、ここが混同されていたのです。

著作権侵害または人権侵害によって告訴されれば「じつはン十歳だけど、心は子どものままだから」といっても通用しないのです。

本気でそれを言うなら精神鑑定が必要です。措置入院ということになれば、事実として職業を失うでしょう。子どもの判断力しかない人に、おとなの仕事(とくにおカネの関係)をまかせることはできないからです。労働者の権利として職場復帰はあり得ますが、おそらく配置換えされる。そういうことでしかないのです。

1980年代に実際の少女として「二次創作BL」を流行させたのは、1967年から1974年に生まれた人々です。いちばん年上の1967年生まれが1980年に13歳。いちばん年下の1974年生まれが1989年に15歳。

この間に「我も我も」と晴海(昔のコミケ会場があった地名)へ向かったのです。世代全体から見れば、ほんの一部ですけれども、迎えるコミケ会場としては、予想外の行列ができるくらいには。

本来「コミック・マーケット」そのものは、名前の通り、オリジナル漫画を出展するところです。「トキワ荘」組に追いつけ追いこせというつもりでプロになりたかった漫画同人たちが、オイルショック不況で市販雑誌が廃刊されたり、ページ数が削減されたりするようになったので、相互扶助を目指したものです。もともとアニパロ小説を出品するところではなかったのです。

そこへ性的描写を含むアニパロ小説が出品されたのは、どう考えても最初のうちはジョークです。それも本物の漫画同人に見つかって叱られないようにやる必要があった。だから自虐したのです。自虐語を最初にコミケ会場に紹介したのはプロ漫画家の同人会です。最初は「そういう意味」ではありませんでした。アニパロ小説を書く人々が、勝手に流用して、自分たちの作品を示す単語にしてしまったのです。

1980年代になってから参加した少女たちは、それを鵜呑みにしました。最新流行だと思って、真似すること自体に夢中になりました。誰も本来の意味なんて考えてみませんでした。だから「少女漫画家になりたかった」と言いながら「栗本薫より売れていた」なんて言うのです。本当に漫画を描いていたなら、小説家と自分を較べる必要はないはずです。自分で自分が何をやっているのかさえ理解していなかったのです。

その子どもっぽさを今に至るまで引きずると、やっちまうのです。

2006年に「思想大全」とか称して、女性の同人活動を解説したつもりの書籍が発行されましたね。あの年は、1967年生まれの人が39歳になった年です。

だから「負け犬よりマシ」なんて言葉が出てくるのです。書いた本人が、40歳を目前にして、結婚していないことに焦りを感じ、言い訳する必要を感じてしまったのです。

【劣等コンプレックスと差別意識】

もう一回いいますが、コミックマーケットとは、その名の通り、漫画同人の集まりが本来の姿です。俳句・写真などの同人同様、独創作品の発表が基本です。最初から「アニパロ」の出展を意図したイベントではありません。

そこへ小説の形の「アニパロ」を書く人々が入り込むようになったのは、自分たちだけで「ノベル・マーケット」を立ち上げる手間を惜しんだからです。

それでも「自分では絵が下手だけど、アニメが好きだから、コスプレの上手な人や、キャラクターの似顔絵を上手に描ける漫画同人さんと合流したい」というなら愛嬌があります。

でも利潤動機だけで、漫画をコツコツ描く手間を惜しんで、文章の形で「エロ」だけを書いて出品していたという人は、最も簡便な手段を取ったわけです。つまり、楽してかせごうとしたわけです。

このタイプが優越感を感じたい時(=劣等感を克服したい時)にも、最も安直な手段を取ります。すなわち、弱い者イジメです。

自分よりも条件の不利な人を笑いものにする。昔日の勢いをなくした先輩を笑いものにする。他人に「レッテル」を貼って、差別する。

人間として一番やってはいけないことばかりやっておいて、そのことを自慢する。陰口を言う仲間が大勢いたことを自慢する。一人で責任を引き受けることさえできない。結局、現在のフォロワーさんを失くすのです。

2006年の思想大全(自称)も、インターネット掲示板に投稿された文章の無断転載という安直な内容と、「負け犬よりマシ」という競争意識・差別意識によって、上記のタイプの典型例と言えます。

じつは、あのライター(自称)は「同人誌とはアニパロです!」と書きながら、それを出展した経験のある人ではありません。お買い物しただけです。

つまり、自分でケント紙とGペンとアートナイフを用意して、漫画の枠線を引き、人物と背景を描いて、ベタを塗り、トーンを貼って、削って、ホワイト修整して、乾くのを待つということをしていない。

「同人誌」を購入したのは1980年代前半のことだったそうです。その当時なら、確かに「アニパロ同人誌」というのは実質的に文芸誌だったのです。

まだ漫画文化が今ほど社会的に高く評価されておらず、出版社が新人育成キットなども発売しておらず、ストーリー漫画をきちんと描ける技量を持った人が少なくて、アニパロというものが流行しているから自分もやってみようと思った人々が手がけたのは「小説またはポエム+イラスト数枚」という形態だったのです。

だから、その時代しか知らない人は「コミックマーケット」に集まる漫画同人の話をしているつもりで、インターネット掲示板に投稿された文章に注目してしまう。漫画と小説の混同にさえ気づかない程度で「ライター」を称して社会現象を解説できるつもりです。

実際の出展者の多くが「こんなやつと一緒にされたくない」と思ったことでしょう。

で、その程度の低いライターから出た「負け犬よりマシ」という言葉がもう一つのポイントで、負け犬ってのは、ある程度の年齢に達するまで結婚しなかった女性のことです。なぜ、それとアニパロ同人を較べる必要があるのか?

本人が(自分も同人の仲間だと思ってるわけですが)結婚をひじょうに気にしているからです。誰からも責められていないうちから言い訳してしまう。そのことによって、かえって「コンプレックス」を露呈してしまうわけです。

その劣等感を克服するために、負け犬というレッテルを利用して、他人を差別するわけですね。勝ったつもりです。実際には、人間の品性として、自分の負けです。本人が自分で自分を面白がって、笑いに紛らせようとしているだけに悲惨です。

【BLの弊害を自覚しましょう】

BLというのは、女性の悪い面を女性自身の眼から隠すという機能があります。まさに嫉妬によって足をひっぱり合う女性同士が描かれていないわけです。

そういう女性たちを描けば、そういう女性たちが物語の中心ということになる。『青い山脈』みたいにですね。でも、女性社会の真実を描かずに、男性社会に関する空想を描くのがBLです。

だから、女性が自分を客観視することを覚えず、他人をおとしめて優越感に浸る姿の滑稽さ・不適切さに気づかず、利いたふうなことをいって、全能感を持ってしまうという(社会的に)致命的な弊害があります。

さらに、これに対して男性から批判があると「男が女のやることを批判してはいけません」という弱者特権があるつもりなもんですから、歯止めがきかない。

でも、女性の中にも「同類だと思われたくない」と思う人がある。じつは、これこそ女性同人のサイレント・マジョリティです。だから同人やっていた(つもりの)人が、自分こそ女性代表として、同人代表として、周囲から頼りにされているつもりで孤立していく。

それに本人が気づくと「誰も私わかってくれない」と歌謡曲みたいな被害者意識を募らせて、いっそう非行少女ぶりっこに磨きをかけてしまう。親のせいで、男のせいでという劣等コンプレックス(=言い訳)ばかり増えていく。周囲が付き合いきれずに離れていく。いよいよ本人が孤立する。

負のスパイラルの根本は、本人の「ちょっとでも威張りたい心」です。すなわち劣等感を感じている心です。劣等感とは主観的な思い込みです。要するに、自分で自分を寂しくしてしまったのです。だから負のスパイラルのどん底で痙攣的に笑うのです。傷ついていない振りをしなければならないのです。

1990年代のフェミニストは「男性(の創作家)に女性の生き方を教えてもらう必要はない」といったようです。では、女性は自分で自分の悪いところをまっすぐに見つめ、それを矯正した上で創作物を適度にたしなみ、実在の他人には迷惑かけないということが出来ているのか?

自分で自分をわざと傷つけないということが出来ているのか? 注目を浴びるためにわざと悪いことをするという公開リストカットみたいな生き方を選ばないことが出来ているのか?

ロリ漫画を読んで幼女につきまとう男が悪いなら、BLを読んで実在男性の跡をつける女は悪くないのか?

これは「こういう連中だから早く規制しろ」という話ではありません。「BL鑑賞・同人活動にはこういう危険性があるから、よく自覚した上で楽しみましょう」という呼びかけです。

「酒は飲んでも飲まれるな」みたいなものです。逆にいえば、不適切行動がやまないなら、いずれ「規制しろ」という話が出てくるでしょう。そうです。あなた次第です。

【そろそろ更新しましょう】

1980年代の同人は、その一部が本当に子どもでした。それが「エロ」と「カネ」という大人びた要素に触れることによって興奮してしまい、いっぱし都会の「ワル」になったような気分を味わったのです。

それをまた、男性中心主義社会に対する女性中心主義革命のように称賛し、煽った人々もいたのです。

映画から分かることは、1980年代の男たちが「女の自由」の本質を冷たく見切っていたことです。それは露出的な不良少女がオッサン達に面白がられ、彼らのビジネスに取り込まれていくことでしかなかった。放課後の少女の「自由」を利用した秋元康の成功例は挙げるまでもありませんね。

主婦の自立したい・自分のおカネがほしいという気持ちも、パート労働として整備されていったのです。

だからこそ、価値観を混同し、撹乱することを狙っているかのような表現が面白がられたのです。BLを(革命を志向する)非行少女論に落とすのは、男の評論家にとっても、女の評論家にとっても都合がよかったのです。いまの若い人が引きずられる必要はありません。

そして女の自由が男のビジネスに取り込まれていったからこそ、男性中心主義社会が成熟して悪いところばかり目立つようになると女性中心主義社会へ「移行」するというマルクス主義的ユートピア待望意識は、本当にミレニアム(2000年)頃まで存続していたといえるでしょう。

1980年代・90年代を肌で知っている人は、自分でも気づかない内に染まっているということがあるので、頭ごなしに口先だけで「同人はフェミとは別よ」という前に、自分自身の言動を徹底的に洗ってみましょう。

すでに「同人誌」の多くが成人向けを自己申告しています。それはもう「女の子」の読むものではありません。わざと不良少女ごっこする必要はありません。プロレタリア革命ごっこする必要もありません。

「なめんなよ猫」は可愛いものですが、1980年代の悪いところをリアルでリバイバルしてはいけません。自分より若い人々が見ています。彼らは、マルクス主義を歴史の1ページとして相対化できる人々です。


2016/10/20

タブー視と非タブー視の混同。~BLの構造と大学のフェミニスト

そもそもBLというのは、異なる価値観同士を組み合わせることによって生じたのです。どういうことか?

「戦前の海外の寄宿学校における、下級生を女に見立てた、青少年同士の逸脱行為」という創作物は、実際に日本の女流が海外の男性から体験談を聞きだし、それを基にドキュメンタリー漫画を仕上げたということではありませんね?

海外に関する知識と、同時代の日本ではそういう風習もあったという知識を組み合わせ、重ね合わせて構想されたものです。

それは言うまでもなく日本人が海外(なかんずく西欧)に憧れて、その歴史でも文学でも音楽でも風物でも貪欲に勉強し、摂取した結果であると同時に、確かに「デカンショで半年暮らし、あとの半年ァ寝て暮らす」という旧制男子校寄宿舎の自由・自治の気風に現代(1970年代当時)の女流たちが憧れたものでした。

その女流たち自身はどんな暮らしをしていたかというと、もう高校を卒業すると同時くらいから連載を抱える漫画家として、机に縛りつけられていたわけです。

それは「結婚を否定し、自立の道を確立してなお不自由である」という成人女性の心の叫びだったのです。

さかのぼって森茉莉はどうかというと、1960年代の世にあって、離婚後独居する中高年婦人という、決して余裕があるとはいえない生活の中で、古代希臘と現代フランス映画を重ね合わせたわけです。

そこにはやっぱり「おとなの男は自由がきく」という憧れがある。近代世界システムが地球を支配する過程で生じた「白人の男性が世界でいちばんえらい」という価値観への追随と憧れと怨嗟がある。(茉莉の美男作品は、いずれも後味の良いものではないですからね。)

ただし、外人さんが読めば「わが国の学生たちの間でこんなことがあるはずがない。日本人は勘違いしている」とか「失礼だ」って言うかもしれない。現代ゲイ・リヴ視座からすると「女性がぼくらを搾取している」って言うかもしれない。

実際に日本のゲイコミュニティから後者の指摘がなされた時、マルクス主義的フェミニスト達が一言もなかったことが示しているように、女流は完全に「その発想はなかった」のでした。

日本では、「衆道の契り」ということは、べつに奨励されていたわけでもないですけれども、少なくとも文芸の世界では、ひた隠しにされているというわけでもなく、日本人なら男女を問わず、教養があればあるほど、歴史や古典文学に詳しければ詳しいほど「そういうこともある」と、わきまえている。

BLとは、確かに日本国内においては(有閑マダムばかりでなく)若い女性がだいぶ自由になり、さまざまな学問に触れ、視野を広げた証なんだけれども、国際的には配慮も遠慮もなかった時代の産物なのです。

それはマジョリティの横暴ではなく、「私たちなんか誰からも相手にされていない」という、マイノリティ意識に基づいていたのです。そういう視野のせまさを、寺山修司などの成人男性から見ると「少女の内面」ということになったのでした。でも実際には、二十代に達した(三十代になんなんとする)成人女性が描いた・書いたものでしたね。

極東の島国の成人女性が、イギリスのハードロックや、アメリカの怪奇と幻想文学や、独仏の象徴主義詩人に憧れ、日本国内では「女だてらに」と言われるほど研鑽を積んでも、先方がこっちに関心を持ってくれることはあり得ない。エリオットやイェイツやポーを論じるケンブリッジやハーバードやスタンフォードの教授たちが日本の漫画を読むことは考えられない。

そういう、やる気と無力感の共存から生まれて来た、不思議な表現がBLであり、もっと言えば、日本の漫画文化そのものなのです。これが今なお「BLしか読めない女の子の弱者特権」という意識に通じているわけですね。

で、この「本来タブーとされている場所に、それをタブーとしない文化を持ち込んでしまう」という奇抜な組み合わせの発想を、そのまま繰り返すと、組織的ゲイフォビアで有名な海外の警察における恋愛物語や、同性愛を深甚な宗教的禁忌としている国(地域)における恋愛物語が日本の女流の筆から生まれてしまい、他からは「おかしい」とか「世の中を知らない」という批判が生まれることになるわけですね。ここまでがBLの本質論。

【フェミニストとの関係】

BLを弁護するのが、いわゆるフェミニストですが、大学というところは、じつは男尊女卑の牙城の一つなのです。

BLを論じたゼミ生・准教授といった比較的若手の女流研究者たちは「女が教授になることはタブーである」という世界に身を置いていて、その価値観に対して「あら、いいじゃない。私たちの価値観からすると、女が教授になることはタブーじゃないわ」って言いたいわけです。

そうです。BLの成立経緯と構造が似てるわけです。だから、自分ではBL漫画やライトノベルを描いてコミケに出展したことのない人々が「私たちのものです!」なんて叫ぶのです。

(できればもう少し研究して、プロとパロディと混同しない用語を創出してほしかったです)

ウーマンリブ大会が開催された1970年というのは、1960年代後半に吹き荒れた新左翼運動がひと段落ついて、大学に平和が戻り、大学進学率が急上昇した年なのです。しかも世代全体の人数は団塊に較べて格段に少ない。つまり相対的に多くの女子が大学へ進学したと考えることができる。

この人たちが「アラフォー」に達して、まさに教授昇進の壁にぶつかるのが、1980年代後半から1990年代。BLが男性社会に対する批判であるとか、皮肉であるとか称された頃に当たるわけです。本人たちとしては、BLを弁護することによって、当事者意識を味わっていたのです。

いっぽう、同人を自称する人々はどうかというと、べつに大学当局に殴り込みをかける必要はない。オリジナルBLであろうが、二次創作BLであろうが、好きに描けりゃいいだけのことで、読みたいほうとしても読めりゃいいわけです。

要するに規制されなければいい。規制されないために最も必要なのは、そもそも注目されないことですね。誰も存在さえ知らなければ、それを規制しようとも言わない。だから「フェミとは別」なのです。

BLを男性中心主義社会に対する女性中心主義革命として位置づけ、BL弁護を(自分の出世のための)マルクス主義的社会批判に利用する・話題をすり替える人々に対して、同人は自治権を主張したいわけです。

【そして新宿二丁目との関係】

「禁断の愛」の実質が、未成年者への暴力または未成年者同士の暴力である場合には、ゲイコミュニティにとっても禁断なのです。

「昔はそういうことが(ストレート男性によって)美化されていた」ということを女性が知って、知った通りに描いたわけです。それを初期には「耽美」と呼んだ。

「美にふける」と書いて耽美ですから、あんまり良い意味じゃないわけです。サドや潤一郎や鬼六やパゾリーニに使われる時のことを考えれば明らかで、たんに美人が出てきて、貴族階級の話で、地の文の言葉遣いが詩的というだけではない。冷静に考えると気分の悪くなるような性愛遊戯が描かれている。読者でさえも「うちの嫁さんがこんなオヤジに誘拐されたり、娘が同級生の男子にこんな悪戯するようじゃ困る」と言えてしまう。

そういう極端に空想的な趣味を表現した小説を、編集者が婉曲表現として「耽美派の一種」と呼んだのです。

1978年に『JUNE』が創刊された時も、物語の主人公が少年で、極端に空想的な趣味が表現され、それを少女読者に売ってやろうってんだから「禁断の愛」なのです。(なんで少女に売ってやることにしたのかについては出版社に訊きましょう。調査フィールドを間違えてはいけません)

が、ここで勘違いが起こった。主人公および読者の年齢にかかわらず「同性愛」であることを禁断と見る読者がいて、その価値観を新宿二丁目(に多いとされるゲイバー)へ持ち込んだわけです。で、面と向かって同性志向男性をからかったり、批判したりした。

だから、ゲイ側は「若い女に『同性愛は禁断だ』という偏見を植えつけるな」というクレームを発した。両方で勘違いしたわけです。

すると「禁断でなければいいんでしょ」というわけで、18歳以上の成人キャラクター(大学生など)同士の明るい未来を志向した物語が生まれた。それはそれでいいです。それ自体はゲイコミュニティにとっても悪い話じゃないです。

ただし、これによって尚さら現実のゲイの世界への関心が掻き立てられてしまう。しかも「禁断じゃない」という前提だから、二丁目探訪記を観光ガイドに仕立てて、一般女性の興味を煽るライターなども出てきてしまう始末となったわけです。

良し悪しです。露出によって権利が認められるようになったという点は確かにある。でも過渡期の混乱は、まだ続いている。

「タブーとされているところにタブーではないという意識を持ちこむ」という技法は、女性はお呼びでないはずの店に「いいじゃん別に」と言って居座る・余計な質問をしてまわるという態度をも生むわけです。

たぶん、ゲイ側が言うべき言葉は「禁断という言葉を使うな」ではなく、そっちの禁断の趣味と、こっちの健全な愛を混同するな、だったのです。

で、同人とその固定ファンはできるだけおとなしくしているつもりなのに、ゲイコミュニティからは「同人作品のせいで変な女が増えた」というクレームが発せられて、しかもそれがフェミニストのところへ行っちまって、三つ巴の大論争に発展するのですが、じつはこの論争に参加していないのが、実際に行ってしまった人なわけです。だから話がおかしなことになっている。

実際にお店で騒いだ人が若い成人(大学生など)だったのか、本当に少女(中高生)だったのかも確認されないまま、一部のフェミニストとメディアによって「少女は、少女は」という言説だけが流布されている。

でも現実問題を起こしてしまえば「表現の自由」では済まないのです。「女の子」が人権侵害したなら、尚のこと、厳しい再教育が必要なのです。なぜフェミニストが、ここに気づかなかったのか?

いい歳した自分自身を本気で「女の子」だと思っていたからです。それが「結婚していないから」という理由によるものなら、男性中心主義社会を批判する自分自身が「男性によって大人にしてもらう(=女は自分で自分を育てることができない)」という価値観に首まで浸かっていたのです。



2016/10/20

同人がアニパロを続けたければ、言ってはいけないこと。

日本で最初にファンクラブが結成され、15歳以上の女性ファンもつき、流行のきざしとして認識されたアニメ番組は、西崎義展プロデュースによるもので、原作は手塚治虫でした。1972年のことです。

が、作品の権利を西崎が手塚から「ひっぺがした」という事情があったようで、手塚はすごく怒ったそうです。

これは手塚自身のファンから見ると「手塚先生かわいそう」というべき事態だったのです。

西崎自身は、もともと演歌歌手を使って歌謡ショーの興行を打っていた人で、漫画家ではありません。脚本家でもありません。人気キャラクターをカレンダーや貯金箱のデザインに利用するというキャラクター権利ビジネスの先駆者の一人でもあります。

彼がアニメ映画を製作したのは、例えていえば東映の岡田茂のように映画会社の重役がだいたいの構想を書いて、細部の台詞を若い脚本家に書かせるという方式を真似したのです。

漫画家は、最後の段階でキャラクターデザインの職人として雇われただけです。実写に例えれば、キャスティング交渉担当のスタッフというだけです。

いっぽう、漫画家というのは、セルフプロデュースのフリーランサーです。自分でお話を考えて、自分で描く。自分の作品は最初から最後まで自分自身の創意工夫によっており、自分で責任を持つ。

その眼で「製作者以下の合議制によって映画が制作される過程に漫画家が職人の一人として取り込まれていく」というのは面白くない事態なのです。

ケント紙にGペン・丸ペンでクロスハッチングを重ねていく・点描を打つというペン画の技法が、セルロイド板に輪郭だけ描いて、裏からアクリル絵具で着色するという技法に駆逐されて行くのを目の当たりにするのは、漫画家にとって気分のいいことではないのです。

これは、1980年代以降に「アニパロ」に関わり、そのうち出版社から声をかけてもらって、漫画家にしてもらえて、アニメ化してもらえるという受身な発想を持っている人には、分かりにくい境地なのです。

もう明らかに、1980年代以降の漫画同人には、漫画家の卵といっても(製図用ボールペンの一種を使って)キャラクターの輪郭線を引くことしか出来ないという人が増えてしまいましたね。アニメの技法が漫画を食っちまったわけです。

だからこそ、まだ「漫画道」としての自負を持っていた1970年代の漫画家・漫画同人の中から、アニメを「ネタ」にするというパロディの発想が出て来るのは自然なのです。それが性的なジョークであれば、その権威を最大限に(というか最低限に)傷つけたということなのです。

いわゆる二次創作BLは、BLであることが注目されやすいですけれども、男女の二次創作ポルノであれば描いてもいいというわけでもないのです。

権利者は「勝手なことをするな」と思うに決まっています。本人がキャラクタービジネスのプロであれば「使用料よこせ」と言うでしょう。アニメ映画そのもののファンは「イメージを壊された」と憤るはずです。

『宇宙戦艦ヤマト』シリーズには、ファンの評判がよくないのでラブシーンをカットしたという経緯がありますね。文字通り、フィルムをハサミで切ったそうです。

男女を問わず、ファンにはキャラクターに対して、それぞれの思い入れがあるものです。なかには本当に性的な話題が苦手なので、あえて児童向け作品を選択しているのに、途中からそういう話にされちゃ困ると思う人もいるでしょう。

だから「アニメファン=アニパロファン」ではないのです。ましてBLファンとイコールではないのです。

むしろ、ギャグの一種として、女性キャラクターのヌードを描いたり、男性キャラクターをBL化したりすることは、上記のように、アニメの急激な流行に対する漫画同人のルサンチマン・諷刺を一つの動機としていたと見ることもできるのです。

ただし、あくまで「一つ」です。すべてではありません。アニメも好きだが、アニパロも好きという人も現実に存在する以上、どちらかだけを取り上げて「他はあり得ない」と決めつける必要はありませんし、不適切です。

【それ言っちゃおしまい】

世のなか自分で何を言ってるのか分かってない人もいるわけでございまして、同人みずから「もともとアニメファンってわけじゃないわ。べつにアニメファン同士が交流してるってわけじゃないわ。キャラクター愛なんて言われると笑っちゃうわ」と自己申告するなら?

世間様は「オリジナルを描けばいいじゃん」って仰るだけですね。じつは、同人はそれでも困らないのです。客層が変わるだけです。

漫画同人としては、なにもアニメファンに売ってやらなくてもいいわけです。自分自身がアニメファンとして、アニメファンのお客様と楽しく交流したいというのでない限り。

コミケはもともと「アニパロマーケット」ではなく「コミックマーケット」なのですから、オリジナル漫画としての「エロ」を描いて、アニメファンではない人々に向けて宣伝を打てばいいだけです。他人の著作権を侵害していないのですから、堂々と「珠玉の官能ロマン」とでもいって宣伝できます。天下御免でツイッターアカウント名を出展ブース番号にすればいいです。

そのうちアニメファンが来なくなって、一般エロ読者に入れ替わるだけです。

アニメファンは他の場所(または他の日時)でコスプレイベントを開けばいいだけのことです。公式ブースから記念グッズを買えばいいです。アニメ会社・テレビ局はその売り上げを新作アニメの制作に投じることができます。下品なロリ化・BL化を目にしなくてよくなるので、真面目なアニメファンが喜ぶでしょう。ファミリー層を呼び込むこともできます。

出版界にとっては、同人オリジナル作品こそ、ダイレクトに青田として機能します。そのままでは使えない二次創作と違って、原作者に気がねせずに出版権を取得できます。

警察が「猥褻」で引っ張ろうとすれば、これはまた別の問題です。全世界のMangaファンと連帯して「表現の自由」を楯に闘うことになりますが、著作権が絡んでいないので、話がシンプルです。エロとパロを混同して余計なことを言い出すアホ同人がいなくなります。

どちら様も万々歳です。

つまり、私のほうが同人活動に詳しいわと自慢したいばかりに「べつにアニメファンってわけじゃないし~~」と言っちゃう人は、アニパロをつぶす人です。

【自己決定権】

逆にいえば「なぜアニパロなのか」の鍵を握るのは、アニパロを読みたい人です。エロであろうがなかろうが、知ってるキャラクターが出て来ることが嬉しくて、絵とお話作りのうまい漫画同人さんに描いてもらいたい人々です。

可能なかぎり、おカネを出して、漫画同人さんの生活を支えて差しあげるので、アルバイトなどに忙殺されずに、どんどん面白いアニパロを描いてもらいたいと思う人々です。

政府・司法としては、その「アニパロを描いてもらいたい」という気持ちは誰を傷つけるのか? が問題になります。

同人のほうから「売れるからいいじゃん」では、お話になりません。だったら海賊版の売人も、麻薬の違法取引も、奴隷商人もそう言うでしょう。

需要があるというだけでは理由になりません。それが危険ではないことが絶対条件です。

アニパロを描いてもらうと、オーバードースを起こして急逝するのか? アニパロそのものが火を噴いたり、弾丸を発射したりするのか? まだ幼い子どもの人権が蹂躙され、心身が破壊されるのか?

それほど恐ろしいこととは言えませんね。漫画を描く人と読む人がいるだけです。それなら国費(警察の活動費)を投じてまで取り締まるほどのことか? 著作権者から「どうしても」という訴えがあった時だけってことで充分なんじゃないか?

どこまで行っても、こういう話です。

政府としては、国民の「アニパロを読みたい気持ち」を「個人の自己決定権の尊重」といえば、民主主義国家の顔が立つのです。

ただし、同人やっていた人の態度がひじょうに悪く、人生を踏み誤ったと悔しがり続け、はらいせに他人を傷つける言動を続けるようなら「同人活動は危険だから取り締まれ」ということになります。

だから、自分が「同人やっていた」ことを、非行少女だったように思っている人には困るのです。

未成年の内から「エロ」と「カネ」という大人っぽい要素に触れて、いっぱし都会の「ワル」になったような気分になってしまい、その興奮がいまだに続いている人には困るのです。

【明日のために】

漫画同人みずから「私自身がアニパロを買って帰ることを楽しみにしています。アニパロの自由を守って行きましょう」と言わないことには存在意義がないのがアニパロです。

なかには他人の作品を買って帰ることをしない同人さんもいるのかもしれません。でも購読オンリーの人々と一緒になって「アニパロを読む楽しみを守っていきましょう」と言わないことには存在意義がないのがアニパロです。

そういう話にできないなら、やめればいいです。自分の世界を守るための約束さえ守れないなら、やめていいです。国民は誰も困りません。

パロディの規制を禁酒法に例えた人もいましたが、レベルが違います。酒類が禁止されたら、一億二千万国民の半数以上が「困る、寂しい」と言うでしょう。が、コミケ参加者なんて三日ぶん合わせても百万にも満たない。

レディースデイの出品物も、もはやパロディだけ・BLだけではないとすると、一途に二次創作BLだけを求めて来場するのは十万人程度ってことになります。

「我々はもっと多いのに、なんの便宜も図ってもらっていない」という人々が、新宿二丁目方面に大勢いるでしょう。パロディ同人だけが天狗になれる時代は終わりました。

わずか十万人(コミケに行ける人ばかりではないので本当はもっといるでしょうが)を守るために必要な態度は、わざと悪びれることではないのです。非行文化ごっこではないのです。

いまだに1980年代から精神を更新できていない人は、そろそろバージョンアップしましょう。



2016/10/20

仮想敵は、歴史を歪曲し、他人の人権運動に便乗する人々です。

当方は、まずは二十四年組ファンの一人として「先生たちは自虐していないのに、パロディ同人と十把ひとからげにされているのはおかしい」と指摘しているものです。

プロとパロを混同し、BL(と呼ばれるようになった表現分野)を女性全員の同意に基づく男性中心主義社会に対する女性中心主義革命運動として位置づけたのは、マルクス主義的フェミニストの戦略です。大学における自分たちの出世のために、歴史を歪曲したのです。

当方は、歴史の歪曲に異を唱えるものです。

そのために、プロ作品の雑誌初出時におけるキャッチコピー、単行本の帯、販促フライヤー、店内ポップなど、どのような資料を持ち出したとしても、パロディ同人が自称したのと同じ隠語は使われていないという事実を指摘しているだけです。

事実を無視して、勝手に無用なレッテルを貼り、そのレッテルを基に「プロまで自虐している」と判断するというなら、証拠の捏造ですよね?

そういうことをしておいて、どうして自分だけ「先入観を持たないでください」と言えるんですか? という話です。自分こそ他人をレッテルで判断してるじゃないですかって話です。

そういう人が新宿二丁目へ押しかけて「あなたたちゲイってゆぅのは~~私たち女性とちがって~~」とかいいながら、赤の他人に説教してるんじゃないんですか? って話です。

自分よりも法的権利を保障されていない人々に向かって「私もゲイに生まれればよかった。結婚しなくていいから楽だもの」とか言っちゃってるんじゃないんですか? って話です。

マジョリティが「弱者特権」だけ利用するために、自分がいちばん可哀想という顔をする。「私も何々です」と自分で自分にレッテルを貼る。仲間っぽい顔をして、他人の人権運動に便乗する。この「からくり」には、本人も、周囲も気をつけましょう。

【自分に都合よく勘違いする】

プロが自虐していない以上、パロディ同人だけが自虐した理由は「おなじものを描いたから」ではあり得ません。パロディ同人自身に「プロとは違うものを描いている」という認識があったのです。

すなわち、パロディ同人は著作権問題を自覚していたから、該当作品を見つかりにくくする必要があって、符牒を用いたのです。

要するに「あれ」と言ったのと同じです。その「あれ」は、えらい先生と同じよと言ってしまっては、かえって目立つことになりますから、理屈の分かっている同人は、そんなことは申しません。

「みんなやってるからいいじゃん。どうせみんな同じじゃん」と乱暴なことを言って自己正当化するのは、理屈の分かっていない新参者です。いまふうにいうと「にわか」です。

その「にわか」の言うことを利用して、自分たちの出世を実現しようとしたのが、冒頭で言った通り、大学の先生たち(の一部)です。

すると、えらい先生の言うことだからと思って、真に受ける人が、同人の中からも出てくるのです。

そういうのは、「同人やっていた」などと言っても、そもそも同人の世界の理屈をろくすっぽ分かっていない「にわか」さんなわけです。

で、その「にわか」さんが次に何をするかというと、「BLが好きな女の子は(実年齢が何歳になっても)ストレート男性中心主義社会の犠牲者だから、ゲイと連帯して、失礼な質問をする権利があるのよ」と、訳の分からないことを言い出すわけです。で、新宿二丁目(に多いとされるゲイバー)へ乗り込んで、ゲイの間に居座ってしまう。

いっぽうで、おなじ同人として「表現の自由」を守る仲間であるはずの男性同人を非難したり、厭味を言ったりするのです。ロリは変だ、巨乳趣味は変だ、どうせ本物の女とは付き合えないんでしょってね。自分のことは棚上げです。

というわけで、当方の仮想敵は、歴史を歪曲するフェミニスト。および勘違いばかりしている「にわか」さんです。本物の同人さんが興奮なさる必要はありません。

誰しも自己決定権というものがあって、自分に不利な証言はしなくてよいことになっています。本物の同人さんが「確かに私は著作権問題を抱えています!」と名乗り出る必要はありません。

第三者的・研究者的目線から概説として「広い世の中にはこういうこともあります」というのと、当事者が「それは私です!」と言ってしまうのは、やっぱり違うのです。

また「確かに私は自虐したくなるくらいダメな女の子ですが、オリジナル作品を描いています!」というのでは、自分の作品の宣伝に来たというだけです。それはご自分のブログまたは短文投稿サイトにて、ご自分のフォロワーさんに言って差し上げてください。

当方を敵と見なして、言い負かすことに夢中になってしまうと、すなわち権力争いを仕掛けてしまうと、勝ちを急ぐあまり暴言を吐くことになります。すると周囲の皆さんが「うわ~~、こんな人だったのか……」と思うから、フォロワーが減るのです。ツイッター廃人と呼ばれるのです。

同人・BLの世界に詳しくない人でも、プロの悪口を言っているとか、昔の仲間の陰口を言っているとかいう雰囲気は分かるものです。とくに現在のご自分が教育関係者・心理学関係者などとして、他人の心に良い影響を及ぼすべき立場にある時は、社会的信用の点で致命傷となりますから、注意しましょう。

また、記者・ライターさんなども、うかつな知ったかぶりは今後のお仕事に差し支えますから、ご自重ください。



2016/10/19

1988年5月、蔵原惟繕『海へ -See You-』東宝

彼を口説けるのは、貴男しかいないんですよ。

原案:ジョゼ・ジョバンニ『砂の冒険者』より 脚本:倉本聡 撮影:佐藤利明 照明:安河内央之 美術:小川富美夫 音楽:宇崎竜童・千野秀一 助監督:猪崎宣昭 ラリー撮影:松前次三・毛利立夫 協力:東京映像社

パジェロが走る! パジェロが跳ねる! 今回は雪でも水でもなく、熱砂との闘いで、基本的にはレースそのものを実直に撮るドキュメンタリータッチ。いや、もう陽炎揺れるドキュメンタリー。堂々176分。なきゃなくてもいいような英語のサブタイトルがついてるところが80年代ふう。

チーム・ダンカイは「団塊」だと思われます。この頃は40歳前後。高倉さんは実年齢(公開時57歳)を活かして、ちょっと年下のレーサー達の兄貴分。相手の心も空気も読めない若い男女の面倒も見させられて、なんかもうお父さんの貫禄。

パリ・ダカール間耐久レース。当然ながら海外ロケがメインになるわけでございまして、序盤では高倉が外人俳優相手にたいへん楽しそうに演じております。

どーーしても雪国から離れられないようでもあり、いっぽうで南欧の空と海の色が美しく、お約束というべきか現地の祭り映像もあり、レース出発点はヴェルサイユ宮殿前で、出走すると雄大な空撮が続き、使用車両の数を見ても、いやァ……バブル時代の日本ってすごかったなと。

俳優陣は降旗映画と森谷映画に出ていた面々で、これが東宝の布陣なんだなと思うと楽しいです。カメラはすごく遠いところから急激に絞り込む手法が何回か使われているのが印象的です。

砂漠へ行くと黒いターバンが似合いすぎるほど似合う伝説の人の伝説は、じつに彼らしくて、ありありと眼に浮かぶようです。ぶん殴られたんですね池部さん。いや仲沢さん。

これは劇場公開を観に行った記憶があって懐かしいんですけれども、当時は池部さんはノーチェック。いま見ると楽しい仕掛けになっております。

相変わらず明るい褐色の眼が魅力的ですが、池部良70歳。ちょっともう現役サラリーマンを演じるには無理あるかなと思いつつ、よくぞキャスティングしてくださいました。

サスペンス要素はないので、あらすじを申し上げちゃいますと「スポーツドリンクの広告戦略として、ラリーには素人の人気俳優を出場させるに当たって、ベテランスタッフが必要である」ので、口説きに行きましょうというところまで、約7分間。たいへん手際よく説明されます。脚本も画もすばらしいです。

1965年10月1日公開の『残侠伝』から足かけ23年の付き合いを活かした口説きが奏功したのかどうかは見てのお楽しみ。

岡田真澄のバタ臭さもよく活かされております。カネがものを言う世の中は、いつの時代もお約束。洋物かぶれが悪役という時代劇以来の構図も仕込まれているように思われます。なお、サーフブレイクというブランド名は、そのまんまですが、なかなかカッコいいと思います。

ビデオ冒頭には「不適切な表現があります」という注意書きが表示されますが、この場合、女性関係の発言かと思われます。けれども、確かに甘えた女の来るところではないです。

でも桜田純子の役柄は、初見の時に「いいなァ」と思いました。一見地味な日本女性の情熱が。本当だったら一日三回食べることを考えただけでも現場の負担が大きいんですけれども。

高倉さん(いや本間さん)は会社員だったはずなのに、べらんめェです。ほぼ筋者です。竜童の音楽は、この時代らしくシンセサイザー使用ではありますが、やっぱり意外なほどクラシック。

日本語も英語も言葉少ない脚本は、男と男と女の言わない心までよく伝え、レースも恋も人生も混迷の果てにクラッシュし、空気の乾いた砂漠の夜の月は冴えて、人間模様を照らし出すのでした。

たいへんな長尺ですが、メインキャラクターを絞り込んだことと、並行して日本の現在の様子を描くということを殆んどせずに、レースの実況と現場の人間の内面描写に徹することを選択したことによって、緊迫感が持続し、共感度は深いです。後半は車載カメラと砂嵐映像により、圧倒的な臨場感で押して参ります。撮りも撮ったり。

あの頃は若かったから、死ぬことばっかり考えてた。

ロマンチック要素がないと本当にドキュメンタリーになってしまいますので、いしだあゆみがナビゲーターとしても優秀さを見せる魅力的なマドンナ役ですけれども、別の意味でお医者様におまかせしたほうがいいんじゃないかという部分もあるわけで、女性が奔放すぎて不安定になってしまうというのも80年代的なのかもしれません。

倉本は、内部の論理性が確立しているから言葉数が少なくても話が通じるので、監督と役者を信じて眼と眼の芝居に尺を取るということのできる稀有な脚本家ですが、女性を痴情のもつれ担当として「イメージ利用」する癖があるので、女性観客が見るときには眉に唾つけてというか、ニヨニヨしながら見てやるのがいいかもしれません。加藤泰『人生劇場』の台詞を借りるなら「あんたが書いた女って、ぜんぶ嘘ね!」といったところでしょうか。

じゃっかん取ってつけたようなエンディングに女性キャラクターが都合よく使われているとか、そういう言い方はしないでおきましょう。

東宝の文芸路線に較べて東映の娯楽路線は明らかですが、どっちがいいというものでもなく、両方観ればいいことだろうと思います。同じ役者が出てるんだし。

角川春樹が東映寄りの路線で気を吐いていたことも連想されまして、いっぽう西崎義展は気持ちとしては東宝みたいのをやりたかったんだろうなとも思いつつ、岡田茂と顔を合わせていたことを考えると、似た者どうしの3人だったんだろうなァと思うなど。



2016/10/18

1983年、降旗康男『居酒屋兆治』東宝

あんたァ我らの青春の、その、シンボルじゃないですか。

製作:田中寿一 原作:山口瞳(新潮社刊) 脚本:大野靖子 撮影:木村大作 美術:村木与四郎 音楽:井上尭之 編集:鈴木晄 照明:安河内央之 助監督:桃沢裕幸 題字:山藤章二  

女は料理する男が好きなのです。女の仕事を男らしい潔癖さで黙々とこなす男が好きなのです。昭和58年度文化庁芸術祭参加作品。

というわけで、女の時代の健さん。洋画『フラッシュダンス』が流行し、アニメの女たちもレオタード姿でエアロビしていた頃、日本の生身の女はこんなでした。中年刑事の台詞に「愛してるとか、日本のおじさんは言わないよ」と苦笑しつつ。

山藤の題字を線で囲って、文芸書の表紙みたいなタイトル表示が印象的です。お話もまさにその通りの私小説ふうで、開始1時間たっても大筋が見えないほどの日常ドラマぶりですが、伏線は序盤から丁寧に張られており、じわじわ来るので頑張りましょう。

どうしても寒い国から離れられない男たちが函館の片隅に集まって、橘だったり花田だったりした兄貴が赤提灯のオヤジになると、確かにこんなふうだろうな感いっぱい。ロケハンの美しさ、音楽の美しさ、役者の顔を大写しにした深みのある心理描写、アクションシーンの迫力。高倉&降旗コンビ円熟の境地。

森谷作品とおなじ「高倉健でもないことには2時間もたない」という崖っぷちの大勝負ですが、ちゃんと仁侠映画の蓄積を活用するのも降旗流。健さんはやっぱり眼光するどくて、にらみ据えられたら抵抗できません。カメラはド正面に対象を捉える安定の木村構図。

設定自体は珍しいほど最初から最後まで堅気ですが、どうもこう「おかげさまで足ィ洗うことができました。いちど店のほうにも顔出してやっておくんなさい」「おう、寄らせてもらうよ」みたいな。いい感じに渋くなった風間さん(違)池部さんがキャスティングのトリで、ちゃんと物語転換のキーパーソンとして機能してるところが嬉しいのでした。

男の稚気と友情を誇張して描くのは女流の習性なわけでございまして、恋人どうしのように親密な男たちに絡んでいく女の鬱屈したナルシシズムがまたいかにもめんどくさく、ああ良くも悪くも80年代の女流だなァ……と。足元を見られたような気恥ずかしさを覚えつつ、逆に考えれば、これは女流にしか描けない。いや原作は男性なんですけれども。

笠原和夫あたりは、女のなかで何が起きたのか、理屈がよく分かんない時があるわけですが、これはまァ、言いたいことは分かるのです。むしろ、分かりすぎてめんどくさい。ヒロインばかりでなく、ほかの女たちの内面で起きていることも、ちゃんと辻褄が合っているのです。

男同士はどうかっていうと、これはまた男の筆にまかせると、俺の眼を見ろなんにも言うなになっちゃうわけで、こんなふうに語り合わないのです。「たまにはちゃんと礼を言ってほしい」ってのは、女の一つの理想ですからね。長いこと高倉の横で演じてきた田中邦衛がたいへん嬉しそうに演じてますが、ほんとうに素で嬉しかったんでしょう。キャンプの場面は高倉のほうも若き橘が戻ってきたみたいで、観てるほうも気持ちいいですね。

女の時代といえば、背景群像として80年代の風俗が盛りだくさんに観察できます。ナイトウェア(ベビードール)みたいなヒラヒラしたミニスカートが流行っていたもようです。顔も映らない体当たり演技の若手女優たちは、悲しいと言うべきなのか、青春のいい思い出なのか。たぶん、女優にしてあげると言われてスカウトされて、脱がされただけだったという人は大勢いるのです。

この年に20歳だった人は1963年生まれ。18歳なら1965年。「ひのえうま」の前に生まれた人が、よくも悪くも本当に80年代を満喫したと言えるのかもしれません。若い奴らの遊びとして、「ディスコ」の他にはドライブとゴルフが挙げられております。貿易黒字時代……。

石野真子の幼な妻はたいへん可愛らしく、意外に毅然としているという表情も頼もしく、あの歯並びの悪さが昔はチャームポイントだったのです。(漫画雑誌『花とゆめ』でも、ちょうどこの頃に酒井美羽が幼な妻物語を連載していましたね)

大滝秀治は高倉にとって演じやすい相手のように思われ、本当にリラックスしているようです。

じつは、たぶん池部はやりにくい相手なのです。演技の質が違うというのか、微妙なギャップがある。でも見た目に(ここへ来てなお)美しい二人です。

大原麗子は、十朱幸代とはまた違う影のある美しさで、恨みを含んだ眼差しが白い炎を噴くごとくです。なお、居酒屋のカウンターには面白いメンバーが顔をそろえております。この頃こういった遊びが(アニメでも)流行りましたね。



2016/10/18

1968年、降旗康男『獄中の顔役』東映東京

自分を大切にするんだぜ、自分を。

企画:俊藤浩滋・吉田達 脚本:笠原和夫・高田宏治・鳥居元宏 撮影:星島一郎 音楽:伊部晴美 助監督:野田幸男

1960年代娯楽映画の軽快な面白さがよく伝わる作品。1968年に10本の高倉出演作品が公開されたうちの、10本目(!)

公開年よりちょっと昔を舞台に、素人さんを大量動員した降旗流リアリズムによる仁義なき現代劇。網走で鍛えた兄さんは、内地の獄中でも貫禄でした。

タイトル通り、『番外地』シリーズの好評に乗った「塀の中の懲りない面々」というお話であると同時に、この当時『乾いた花』はお蔵入りを喰らっているので、一般客は知るよしもなく、単純にそこを突いて「池部を使って『残侠伝』と同じ構図で現代劇をやってみよう」ということだったに違いなく、つまり寄せ集め感があって、一級品とは言いがたいですが、選曲センスを含めて細部に降旗らしい上手さがあり、意外に心に残ってしまう一本です。

池部と高倉は奇しくも同じ2月生まれ。実年齢でまるまる13歳離れており、池部が若く見えるタイプでもなかったので、幼馴染設定は無理あるかなと思いつつ、二枚目らしい気障な目線芝居と、三白眼リアリズムの盛り合わせで、まァこっちの眼の保養。

どこにでも草鞋を脱いだ先で義理を立てるよりほかに生きようのない一匹狼どうしのくせに、非情になりきれない義兄弟。

「並んで草鞋履け!」と言ってやりたくならないこともない二人を中心に、それぞれの渡世の親となる人々として、昔気質のばくち打ちと新興暴力団を配し、商売の縄張りをめぐって対立が激化する、おなじみの構図。

コメディリリーフ的な同房者たちの描写は、中だるみ感ないこともないですが、音楽を上手に使って観客の共感を着地させたところで、サッと話を切り替えるのは見事なもので、ここで脚本家が交替しているのかもしれません。

藤純子の珍しい洋装も拝見できます。彼女がヤクザの世界をハッキリ批判するのが印象的で、たぶん脚本家はすでに任侠路線に飽きている。でも降旗監督は本当に「映画を撮る」という作業を楽しむ人なのだろうと思います。構図や照明の工夫がいっぱいです。クライマックスも既視感ありありですが、これはもう、分かった上で楽しく付き合ってあげる作品だろうと思います。

老いた新国劇は意地を見せました。お若いの、五分でやろうか。



2016/10/18

1966年10月、降旗康男『地獄の掟に明日はない』東映東京

きみは、それしかできないのか。

企画:植木照男・矢部恒 脚本:高岩肇・長田紀生 撮影:林七郎 照明:大野忠三郎 美術:中村修一郎 音楽:八木正生 助監督:寺西国光

タイトルは西村寿行みたいですが、荒唐無稽型ではなく、ロケハンを活かした情緒深い画面、センスの良い音楽、女優の持ち味を活かした辛口ロマンス、ハードかつ複雑な対立の構図、間合いを活かした繊細な心理描写、モンタージュ技の冴えと、まだ早い時点で既に降旗らしさ・高倉健らしさの詰まった傑作です。

「長崎に展開する、男・高倉の新しい魅力」と予告篇で言っているところを見ると、シリーズ化予定だったようで、実際には「地獄シリーズ」としては確立しなかったものの、事実上「降旗シリーズ」の1本目と考えて良いのだろうと思います。

1966年の風俗をそのまま活かした当世劇で、女性の服装や音楽が魅力的です。お話は戦争の記憶を残しつつも新聞報道と市民運動に押されて渡世がやりにくくなった「暴力団」どうしの仁義なき抗争。

白を黒と言いきれない不器用な渡世人が義理に駆られて白刃の出入りっていう、いつものあれですが、鶴田・池部・長門などを配したシリーズと違って、高倉一人を中心に据えた収斂度の高さが降旗流。

その高倉は、若さを残した35歳の男盛りで、比較的めずらしい背広ネクタイ姿を堪能できます。まさかの社交ダンスつき。意外に不器用じゃなかったのでした。着流しヤクザ出で立ちも、ちゃんと披露してくれます。やっぱり似合います。

十朱幸代の、やや野暮ったい顔立ちなんだけれども清楚な魅力を活かしたロマンスでもあって、あの高倉がスマートに女を食事に誘ったりしております(驚)

自分を不幸だなんて思っちゃいけませんわね。

三国連太郎が恐ろしいようにふてぶてしい弁護士になっておりまして、誰が悪役か分からないサスペンスの魅力もあります。

なお「法律は抜け穴がいっぱいだけど、たまたま真実をもひっくり返す実力がある世論にだけは逆立ちしても勝てないので、もっともらしい体裁を作っておく必要がある」そうです(よく聞いておきましょう)

(この当時の「世論」というのは、主婦を中心とする生活防衛運動のことなのかもしれません)

まだ若い男女のたどたどしい会話も、腹に一物どころか、三物くらい秘めた男同士の会話も、ともに味わい深いです。

侠客伝・残侠伝とも、シリーズ開始したばかりで、まだ病膏肓に入った感ではなかった頃ですが、任侠路線の要素をひじょうにうまく社会派現代劇に取り込んでおり、逆に言えば、ボートレース・市民による暴力団排斥運動など、現代にしかあり得ない要素をよく仁侠映画のプロットに落とし込んでおり、わずか90分ほどですが、密度は濃いです。



2016/10/17

1982年10月、森谷司郎『海峡』東宝

人間の歩いたあとに、道はできる。

原作:岩川隆(文藝春秋刊) 脚本:井出俊郎・森谷司郎 撮影:木村大作 美術:村木与四郎 音楽:南こうせつ 題字:西井林亭

きみの祖国は日本と呼ばれ、水の惑星の水はときに岩盤をぶち抜き、男たちは首まで海水に浸かりながら、30年をかけて、世界最高のトンネルを掘りました。

昭和57年度芸術祭参加作品。東宝創立50周年記念映画。スペースシャトルが飛ぶ時代。ごらん、あれが竜飛岬。北のはずれ。

『飢餓海峡』でも話の発端になった青函連絡船の遭難事件は昭和二十九年九月二十六日。まずはドキュメンタリータッチで完全再現。翌、昭和三十年二月二十八日、津軽海峡連絡ずい道技術調査委員会設置。黒四ダムも掘ってた頃。

なお「ずい道」は「隧道」ですね。熟語の場合は常用外漢字を使えるように致しましょうよ。それはともかく。

一人で画面の中へ入ってくる姿が日本一決まる男は、江田島上がりの京大卒の地質学者というエリートなんですが、黒眼鏡が貫禄すぎて筋者みたいです。森繁久彌とのガンの飛ばし合いを堪能しましょう。

なお、主人公のお兄様たちは英霊になられたと思われます。この頃までは、まだ現実世界(観客)のほうに「戦争があった」という前提で話を聞く心構えがあったような気が致します。

ときどき「高倉さんが雪山に登る。カメラさんと照明さんの後から登る」みたいになってまして、相変わらずロケはハードです。木村のカメラは、やや高めの位置から対象を画面の真ん中にとらえる王道路線。ときどき「どこから撮った?」と言いたい異様な構図があります。

そこまで苦労して撮ったくせに、編集は相変わらずバッサバッサと森谷流で緊張感を保ちますが、物語は本当に実直に地質調査とトンネル堀りです。トンネル内部を再現したセットは、当然ながら狭いですが、たいへん凝っています。

ただし、実際に工事そのものを再現することはできなかったようで、たとえば最初の一歩として、パワーショベルで地表に穴を掘って、その側面に壁を立てながら奥へ進んでいくはずなわけですが、その模様は映すことができませんでした。セメントの注入工法というのも、企業秘密的な事情があるのかもしれませんが、あまり細かい説明ではありません。

おもに「水」との闘いを描くことに専念しました。また、子どもの成長によって歳月の流れを表したので、ときどきホームドラマをはさみます。国家的大事業の陰にあった女の寂しさを、基本的にはたった一人の妻の姿によって象徴させたわけで、世話されるほうの笠智衆が、すっごいいい爺さんになってます。

吉永小百合は、よく考えると、いなくてもいい役回り。

実際の工事に参加していない観客にとって、自分の立場というのは、子どもと舅の世話という内助の功を尽くした嫁さんよりは、「自分には振り向いてくれなくてもいいから健さん(またはトンネルさん)に本懐を遂げてほしい」という女に近いわけです。

つまり、観客の多くが男性だったはずですけれども、吉永に感情移入して観るつくりになっているのです。男女の垣根を越えて、小百合ちゃんと一緒になって、トンネルさんを応援するのです。

それだけに、片思いの情緒の表現は、いつにも増して清楚に美しく、高倉らしい禁欲ロマンスとなりました。

ただし、こういう最前線の現場パートと女子供の世界の編集は、なかだるみ感を生むこともあるわけで、ヒロイックな盛り上がりに欠けるきらいはあります。

けれども、それだけにまた現実味があるわけで、貫通の瞬間の感激は、静かに胸を満たして、涙腺から出水することです。音楽の使い方からしても、回想シーンのはさみ方からしても、森谷らしい上手さの詰まった良作だと思います。

なお、高倉の衣装が昭和三十年代の間はウェストシェイプなスリーピース。1970年代に入ると、緩めのツイードジャケット。地味に考証に気合い入ってます。


2016/10/14

1985年、湯浅赳男『文明の歴史人類学』新評論

副題:『アナール』・ブローデル・ウォーラーステイン

歴史はコミュニストの神学であることを止めなければならない。(p.286)

手元にあるのは1991年第5刷。このタイプの本で5刷なら売れたほうなのでしょう。

冒頭引用文は「1985年にまだこんなこと言ってたのか」と驚かされるくらいでしょうが、言ってたのです。川勝平太も1984年の本で似たようなことを言ってたわけですが、逆にいえば、風が吹き始める時というのがあるもので、この後5年たたない内に(少なくともコミュニストの)世界が激変したことは御承知の通りです。そうなってから改めて読む人が増えたのかもしれませんね。

まずは退廃したマルクス主義的歴史学をバッサリ斬って、返す刀で詰めの甘い『アナール』・ブローデル・ウォーラーステインを撫で斬りにする必殺・湯浅剣の残侠っぷりがなかなか爽快なわけですが、文章はまだるっこしいです。

そうです。副題に並ぶ綺羅星のごとき名前を賛美しつつ、その偉大な業績をやさしく紹介するという書ではございませんのです。ユーラシア大陸の東寄りに存在した帝国の個性を検証する一方で、西欧歴史学の偉人たちの足元が本人たちにとって懐かしき「ヨーロッパの城塞都市における市場」に浸かっているのを、サッと斬り払うのです。でも文章は(以下略)

311頁から始まる「小括」が、まとめ的内容なだけに文章も(比較的)スッキリしており、内容も「うっかり全文引用しそうになったけどそうもいかない」というほど濃いので、まずはここから読むといいです。

「いきなりすぎて意味が分からねェ!」と思ったら第二章へ戻りましょう。面白いのは第四章。白眉は第六章にあります。第一章は問題意識の前提となるマルクス主義的歴史学の迷走っぷりの概観ですから、……後回しでもいいです。

つまりウォーラーステイン万歳ではなく、じつはウィットフォーゲル親分の名誉回復を説く書であって、こういう「千万人といえども我ゆかん」みたいな論者は個人的に好きです。同時に、ジェーン・シュナイダーとシーダ・スコクポルを「女だてらによくやった」とほめる書でもあります。

ここでフェミニズムを持ち出さなくてもいいかというと、案外そうでもなく、「今まで男の人の眼が行き届かなかったところに眼をつける。男たちが遠慮して言わずにいたことを言ってやる」という対抗意識が良いほうへ作用すればいいのです。

根本的には、1953年に東大文学部仏文科を出た、新潟大学経済学部の教授(当時)が、語学力を活かしてフランス語と英語の論文を素で読んだ上、日本の書籍も渉猟して、学説史を解説してくれた概説書で、今なお若い研究者の導きになり得ると信じます。

単純に概説するだけじゃなくて、意地と懐疑と皮肉と含羞をにじませつつ、いちいち論駁してるので、構文そのものがややこしくなっちゃってるんですが、噛むほどに佐伯彰一の明朗さとはまた違った湯浅味の良さが沁みて参りますので頑張りましょう。

基本的に経済学者である湯浅自身が歴史学の再構築のために提案する「分析用具」は「権力財」という概念で、それが威力を発揮した東洋的専制国家が西欧に端を発する「近代世界システム」よりも遅れた社会の姿ではなく、いずれ近代世界システムに移行すべき仮の姿でもなく、独自の存在意義と歴史的発展の過去と未来を持つことを証明するために、ウィットフォーゲルを噛み砕き、引用することに筆を費やしたのでした。

それはやっぱり西欧歴史学への日本人研究家からの挑戦状という不適な面構えを持つものではあるのです。そしてまた「ロシア世界システム」を継承したソ連経済をも、神学的覆いを切り払って骨格だけにしてしまったあたりで、東欧に「春」が来たのでした。

よくよく考えると、ソ連経済がロシア世界システムに固有の性格を近現代に継承したもので、さらに中国経済も中華帝国システムに固有の性格を近現代に継承しただけなら、実際には社会主義を実現したのではないわけで、ほかの国で社会主義を実現しようとしても上手くいかない道理。

すなわち資本主義から社会主義へ移行することはないのです。神学崩壊。当方はスコクポルのように実証する手段を持ちませんが、湯浅の本書を読んだ限り、そういう結論になります。

映画の中には「革命が成功した国へ行ってみたい」という台詞もありましたが……。


2016/10/13

1978年~、栗本薫『グイン・サーガ』

まさかの継続中。見捨てて終わりにしたくなかった人が大勢いたのは喜ばしいことです。今回は原作者によって書かれた部分だけを基にした考察。

これは「基準をどこに取るか」によって評価が180度変わるのです。通常は「ヒロイックファンタジーだと思って読んでたら途中からお耽美ドージンシになっちまってダメだこりゃ」ですね。

でも「もともと少女時代から三島由紀夫や森茉莉に親しみ、耽美ロマンに軸足を置いていた女流が、よくぞここまでヒロイックファンタジーを描ききった」と考えると、評価が変わるのです。

1970年代には、ゴシックロマンが流行っていたわけですが、ヒロイックファンタジーというのも猿人・旧人・新人が混在していた先史時代を舞台にした古代ロマンの一種で、一見するとハリウッドふうの能天気アクションですけれども、じつは三島たち耽美派や、日夏たちゴスィーク派から真っ直ぐにつながっているのです。

三島は我々にとってこそ文学史の中の「エライひと」ですが、当時はまだ現代作家の一人という印象だったわけで、明治以来の近代文学を勉強してきて三島に至り、ゴシックロマンの流行にも触れた人がヒロイックファンタジーにも目を向けるのは、意外なようですが、自然なのです。

で、美貌の吸血鬼ハンターでもなく、アルビノの皇子でもなく、花を活けるキマイラ高校生でもなく、筋骨隆々たる豹頭の戦士が女流の筆から生まれた。

日本には、まさに三島が指摘したように、女形が剣戟ヒーローでもあるという伝統があって、女性ファンばかりでなく、男性にとっても「白面の美剣士」というのは、いい男なのです。

でも、そういう日本男性のナルシシズムの線の細さを尻目に、ウーマンリブ時代の若い女性が「海外の男ってカッコいい!」と思ったわけですね。思っただけでなく、その物語の構造が単純であることを見切って「自分にも書ける」と思った。

まだ二十代だった女流が大きく出たわけですが、「辺境篇」の出来の良さからいって、それは十二分に成し遂げられたのです。ヒロイックファンタジーの「黄昏」の雰囲気を確実につかみ、SFの素養を活かして未来と古代を倒置させた上、黒伯爵の城の描写には、ちゃんとゴシックロマンの流行も取り入れられている。それはやっぱり端倪すべからざる偉業なのです。

ただし、戦士自身の目線から、次々に冒険をこなして王になったというふうに描くことができなかった。作家自身および読者を物語世界に導入する役として、お姫様を登場させたのです。たとえて言うと、現代の女子高生が戦国時代へタイムスリップしたというのと同じです。だから、じつは少女漫画の一種でもあり、女性向けライトノベルの「はしり」の一つなのです。

【女流ヒロイックファンタジーの根幹】

おそらく海外男性が書いた正統派ヒロイックファンタジーなら、スミレ色の瞳のお姫様はゲストキャラクター扱いで、戦士は彼女を故国へ送り届けたら次の冒険に出るわけです。読者も新シリーズが始まったら、お姫様のことは忘れていいのです。また次のお姫様や遊女が出てくるわけで、第一部のあの子のことは忘れていいのです。

でも、この女流作品では描写の重点がスミレ色の瞳のお姫様に置かれている。

まだ若かった原作者は、住所としては独立していたとしても、気持ちが実家から離れきっていない。リンダ姫が親から離れて寂しがり、気丈なふりをしながらも、ふたこと目には身内(従兄)を自慢する様子は、作者および同世代・同性の読者にとって、最も共感しやすいのです。

だから、本来は彼女をヒロインとして、その成長を追い続ける物語なのです。白人男性ナルシシズム横溢する海外ヒロイックファンタジーに対して、東洋の女流が憧れと対抗意識の両方を抱いた場合、やっぱりこれが正解であり、王道なのです。

したがって、最もシンプルな対立の構図は「豹頭王 vs. リンダ女王」なのです。

魔力によって生まれたとしか考えようのない獣頭の戦士が、出自の謎の解明を求めて諸国を遍歴し、行く先々で怪物退治してみたり、庶民の叛乱に加勢してみたり、そのせいで逮捕されてみたり、脱獄してみたりと大冒険するいっぽうで、お姫様は身分違いの恋をして、引き裂かされて、結婚させられて、出産して、不倫して、政争と戦争に巻き込まれ、自分自身と同世代の若者たちによる学生運動などにも接して「身分ってなんだろう?」なんて考えたりするわけです。

描写の焦点をふたつ持った楕円形の物語世界は、やがて国境紛争から大戦争となるが、裏で糸を引いていた奴がいたので、そいつを倒してめでたしめでたし。やっぱり、こういうのが本来です。

でも、そういうシンプルな構図を取ることができなかった。お姫様にそっくりの王子様を登場させちゃったのです。

【耽美ロマン要素】

物語は、上述のように、海外ヒロイックファンタジーに対する日本の女流の愛憎なかばする思いを基盤に、「豹頭の戦士が諸国遍歴する一方で、お姫様は生地の宮廷陰謀劇に巻き込まれるという二つの焦点を持つ」というのが基本ですが……

その宮廷陰謀劇における陰の主役として、すでに辺境篇の段階で、美しい従兄の存在が暗示されていたわけです。

彼およびその配下の魔導師たちは、明らかに腕力では豹頭の戦士に劣る。まさに日本男性の線の細いナルシシズムの象徴であるとともに、そっちを応援したい日本女性の判官びいきの象徴でもあるわけです。

だから、古典的な海外ヒロイックファンタジーには決して登場しない「女装もするが、剣技の達人でもある」という青年が新シリーズの主役になるのは、理にかなっているのです。

アラカンや長谷川一夫や中村錦之助を現代的に美化して、洋風の鎧を着せると、クリスタル公になるわけで、ここまでは日本の男性読者も楽しく読める。ただし、豹頭の戦士とまともにぶち当たったら勝てない。だから頭脳戦になる。

よって、グインが大暴れを続ける一方で、見た目には優雅で華麗だが、なんか陰湿で気が滅入るような陰謀劇というのも、もともと用意されていた要素だったのです。ただし?

本当にリンダ姫が王位継承者である場合には、公爵は王配となって、自分の息子をさっさと即位させて、摂関政治をやればいいだけのことだから、陰謀劇にならない。

もし、公爵自身に人気がなくて、ほかの貴族が王配候補に挙がっているのを陥れたいとすると根暗な陰謀劇になるのですが、作者・読者の憧れの焦点として最高度に美化された本人が作中世界においても堂々の候補者ナンバーワンだから、そういう陰謀劇にはならない。

たとえ北方の国に征服されたとしても、その解放戦争の立役者が公爵であれば、めでたしめでたしなだけで、陰謀劇にはならない。

公爵が征服者を出し抜く話は面白く読めるわけです。陰謀といっても、祖国解放の明るい未来を志向している。そこへお姫様が帰ってくれば、結婚式となって、命の恩人である豹頭の戦士が王になった国と友誼を結んで長い平和が実現されました、と。

北方の征服者を悪役にした、比較的単純な話として、長編といっても20巻くらいで終わった話です。実際、多くの読者がパロが独立を回復するまでは付き合ったでしょう。

原作者はミステリ作家でもありますが、じつはミステリというのはホームドラマの一種であって、物語の舞台がひじょうにせまいわけですね。その素養を活かして、征服者の寝室を中心にした騙しあいのエピソードは面白く書けている。

ただし、お姫様の弟がいるわけです。

1978年は、少女漫画の一種として、いわゆる「少年愛の美学」を主題とする作品が次々に連載開始した年でもあって、美少年という要素は最新流行だったのです。が、辺境篇のキャラクター構成としては明らかに余分です。これを活かすには? 公爵の陰謀の動機。

公爵は、お姫様を嫁さんにもらって終わりにしたくなければ、王子を騙し討ちにする他ない。自分で手にかけては国民の信を得られないから他国を手先に使って、その混乱に乗じて暗殺すると。

でも王子のほうが明敏で、そういう陰謀からさっさと降りて、継承権を公爵または姉に譲り、自分は旅に出てしまい、吟遊詩人として獣王にくっついて歩いたということなら、それはそれで物語が終わるのです。

ただし、これをやるには、早い段階で王子に音楽の才能がある様子を描くとともに、王位には執着していないこと・身分制社会に疑問を抱いていること・世界を見て歩きたいといった意見や希望を述べさせておく必要がある。

でも、王子が公爵の能力と人気に瞋恚の炎を燃やして、王位に執着し、人格をおかしくして行ってしまい、ついには身内まで手にかけた挙句に、べつに無理して征服しなくてもいい砂漠にまで兵を進めたというなら、暗い話だが、筋は通っている。

で、レムス一世による中原統一と砂漠への進軍というモティーフは、たしか辺境篇の段階で示されていたことを思うと、基本プロットはちゃんと出来ていたのです。こう考えると、キャラクター構成にも無駄がない。

ただし、これはレムス一世による統一の犠牲となって、競合する権力者が次々に滅んでいくという暗い話になるのです。しかも豹頭王の立ち位置がハッキリしなくなる。異常な統一の野望に取りつかれた若き王を、かつての命の恩人が諌めて改悛させ、一緒に旅に出るということなら、まァそれでもいいけれども。

【判官びいき】

問題は、統一の犠牲になった人々の描き方だったわけで、本当は戦争で負けた組は全員処刑がいいのです。なぜなら、再興を期して残党が旗揚げした場合、最後に笑ったのはこいつらだったという話にしないと、収まりが悪いからです。

でも序盤に登場させた美少年に存在意義を持たせるために、この子を統一者に決定しちゃったから、他の勢力は「せっかくまた出てきたけど、また負けちゃいました」にしかなり得ない。

でも、それでは子ども向け戦隊ヒーローの悪役みたいに滑稽な役回りになってしまいます。それを避けたいなら、二度目はないのです。男装の麗人には華々しい戦死を遂げさせるべきだった。

傭兵のほうは、公爵に較べて自分にはなんの実力もないことに気づいて酒に溺れた挙句にまだ若くてわりと可愛い顔してるので男娼として魔窟に身を沈めていったということなら、それでもいいのです。

読むほうにとっては処刑よりも無残に感じられ、読み続けることができないので、用済みになったキャラクターをフェードアウトさせる方法の一種です。

百歩譲って、昔馴染みの中年男が魔窟へ乗り込んでいって、地回りと乱闘して助け出してきたという後日談をつけ加えてもいい。ただし番外編です。限定発売でもいい。予約制にしてしまえ。

これも「中年男は元々その気だったが、青年が少女と交際しているので遠慮していたところ、世界中が彼を見捨てた後になって真心を見せた」という話なら、男性が読んでも感動的なエピソードたり得るのです。ただし早い内に伏線を張っておく必要がある。

実際には青年が(急に思いついたように)自分から慰めを求めて身近な中年に色目を使うようになったという描写だったので、一般読者が怖気をふるってクレームしたところ、原作者が「同性愛を差別するのはよくない」って反論を書いたら、本物さんから「一緒にするな」というクレームついたっていうややこしい経緯があったそうで、個人的には「言葉の上では同性愛にゃ違いないよな」とは思うんですが、ストレート読者にとっても、ゲイ読者にとっても「途中で目覚める」ってのは困るのです。

とくに「人生の敗残者がホモになる」って偏見の助長につながるのは、なんとしても当事者が困る。

さかのぼって、間違いの元は「負けたキャラクターを温存する」という判官びいきというか、女流の弱点だったのです。

アシモフあたりだったら、平気で30年くらい物語をスッ飛ばす。女流はなかなかそういう思い切りができなくて、誰も決着がつかずにダラダラ続く物語になりがちなのです。何本もの少女漫画が無期限延長化している通りです。

本来は「征服者をも手駒の一つとして操る野心的な大貴族による陰謀劇」ですから、征服者が滅んだ以上は若き王と大貴族の一騎打ち。もう一人の筋肉質なヒーローは、漁夫の利を得ようとするタイプではないから噛んで来ない。だから、あくまで中原の花の内部抗争で、常識的に考えれば、陰謀をめぐらせた本人が(ばれたので)自裁して終わる話なのです。

百歩譲って、国がまっぷたつに割れて、若き王のほうが亡命するんだけれども、どうしても公爵のほうは王位簒奪者という汚名を着ることになるから、やっぱり最終的にはこれをバッサリやって「終」と。

いやなら、やっぱり少年王が勝負を降りて、獣頭王とともに無限の彼方へ旅に出ると。

結末が見えたところで、その通りに階梯を踏むことをためらったのが間違いの元なんだけれども、ここで唯一弁護できるとすれば、まさにその「キャラクターへの思い入れを優先して、思いつくままに書く」というスタイル自体が、あとに続く若手をすごく勇気づけたということはあるのです。

おおきく立ち戻って考えてみれば、公爵ではなく双子にとっては伯母(叔母)にあたる女性が自分の夫や息子を王位につけようとして暗躍する後宮ものにすることもできたのです。

が、そうではなく、女流が圧倒的に逞しい戦士を描くかたわら、美少年・美青年をも描くと。少なくとも、辺境篇がお姫様を便宜的な主人公とした少女漫画構造を持ったヒロイックファンタジーなら、陰謀篇は耽美的なキャラクター構成による古今東西まれに見る宮廷陰謀劇だったわけです。

この長編と並行して、初期のBL専門誌(ともいえる)『JUNE』誌上では、他の女流による実際の歴史に取材した長編が何本か成功し、アニメ化などにもつながったわけで、『JUNE』自体が1978年の創刊ですから……

こっちを読んで「私も美青年が活躍する歴史的な物語を描きたい」と思った若手女流が『JUNE』を登竜門にしたと考えれば、たんに和製ヒロイックファンタジーとして金字塔であるばかりでなく、耽美的な要素を強調した歴史ファンタジーという、日本の女流からしか生まれ得ない分野における偉大なランドマークであることも、やっぱり確かなのです。

今後の展開としては、次世代の女流にまかせっぱなしにすると、またキャラ萌えに付き合わされるだけで終わっちゃいますので、基本プロットを大きく書いて貼り出しておくのがよいでしょう。




2016/10/13

女は女のまま、男を女に見立てるのです。~現象を学説に合わせて歪曲しないBL論の試み

衝撃的な表題ですが、こう考えれば、BL(と呼ばれるようになった表現分野)に寄せられた疑問は、あらかた解決できるのです。

なぜ女性が主人公ではないのか? なぜ(二次創作BLは)女子マネージャーを素材にしないのか?

なぜ男性に憧れ、男性と同じスポーツがしたくて(二次創作)BLを描いているはずの人々の筆から、男性がどんどん女性化してしまい、スポーツせずに男役と女役に分かれて恋愛ばかりしているという表現が生まれて来るのか? だったら最初から女性を描けばいいじゃないか……

これに無理に答えようとすると「少女漫画に飽きたから」「少年漫画に出て来る少女キャラクターは可愛くないから」「男性中心社会が悪いから」……

と、対症療法的な理由づけがエスカレートして行き、しまいに「もともと女性には感情移入できない。だって心のゲイだもん」になってしまって、本物を激怒させるわけでございますね。

でも、竹宮や萩尾や栗本など、プロ創作家の場合は、上記の答えは当てはまりません。なぜなら彼女たちの作品には魅力的な女性キャラクターも登場するからです。

もし、いわゆる「アニパロ」には登場しないことを特に解析したいなら、プロの作品とは分類を異にして論じる必要があります。この意味でも、プロとパロを同じ名前で呼ぶことは不適切です。

(いかに1990年代の研究者が実際の作品にも当たらずに、お粗末な研究をしていたかが分かりますね)

【タブーではないもののタブー視】

混乱の原因は、1960年代以来、実際に女性が男性化していた。端的にはブルージーンズを着用して学生運動の先頭に立っていたので、評論家たちの念頭にも「女性が男性化したがっている(のは分かる)」という意識があった反面、男を女にするという発想自体がなかった。

逆にいえば、それほどの盲点を鋭く突いたのが、一部の女流創作家だったわけです。

でも本当は、日本では、それはタブーではないのです。江戸時代以来「大世俗化」していた日本では、宗教的タブーがないのです。まして女形の伝統があるのです。

舞台の上では性的描写まで踏み込まないが、漫画なら描けるというだけの違いで、男を女に見立て、女役を演じさせるという発想そのものはタブーではないのです。

だから、そこに思い至らなかったとしたら、評論家のほうが欧米由来の分析方法に首まで浸かっていたことを反省するといいのです。

また一方で、みずから評論家などによる疑問視に答えようとした女流たちが「男を女にするなどといえば余計にバッシングされてしまう」と思って自分の発言にブレーキをかけた。あるいはトランス説に逃避したなら、やはりここにあるのは男尊女卑のプレッシャーだったのです。だから「悲しい」のです。

トランスゲイなら悲しがってる場合じゃないのです。「なぜ俺たちが差別されなきゃならねェんだ!」と激怒するところなのです。

じゃなくて、女性が差別され、自分でその差別を受け入れてしまっているから、もの悲しいのです。それを男性が読んで「悲しい」といってしまえば、二重の欺瞞があることになるのです。気をつけましょう。

【BLの目的はBLです】

もし女性が男子になって一緒にスポーツやりたい(が出来ないので漫画を描いて補償にする)と思うなら、男性顔負けのスポーツ漫画を描くことが最大の喜びとなるはずです。

リトルリーグでもジュニアサッカーでもいいですから、ルールをよく調べて、その盲点を突くような戦術を考え出し、ふつうに少年漫画を描いて、男性読者から「女神降臨」と言われればいいのです。

それを「女のくせに」と言われたら、そのとき初めて「差別です!」と言えばいいのです。「女にだってサッカーが分かるんです!」って。

二次創作者が「男性漫画家が描いた女子マネージャーは可愛くない」と思うなら、可愛く描きなおせばいいだけのことです。男性キャラクターは耽美的に描きなおしてるんですから。

また男性社会に復讐してやりたいと思うなら、美少女戦士が悪い男をやっつける話を描けばいいだけのことです。

もし巨乳美少女には違和感あるというなら、スレンダーな女子を描けばいいです。スイーツ(笑)大好きのぽっちゃりさんが探偵として活躍し、えらそうな警察官の鼻を明かす話を描いたっていいです。

大勢の少女読者が勇気づけられ、単行本を買ってくれて、あなたの自立を支えてくれるでしょう。

もし「少女がいい人を見つけてお嫁さんになる」というプロットは欺瞞的だと思うなら、すなおにその気持ちを描けばいいだけです。

すでに1970年代後半に、女性が新聞記者や看護師として自立する漫画が描かれていたのですから、その後なかなか出世できないとか、育児との両立に苦労するとかいう続篇を描けばいいだけです。

そう考えると、竹宮恵子『風と木の詩』には、一つ決定的な欺瞞があって、オーギュストは女性に騙されたのだから、彼女より若い女性を自分の意のままに操るのが本当の復讐であるはずです。

そこで「少年に差し替えた」といえば説明になるようですが、なにもそんな無理をしなくても、少女が調教される物語を描いて、男性向けの雑誌に売り込めばいいだけです。プロも同人も食べて行くにはそれで困らないはずです。

そこで「女がこんなものを描くなんて」と言われたら、そのことを憤らなければなりません。でも実際には「少女の被虐物語を描かせてもらえないので、やむを得ず好きでもない少年を描いたので、つらい日々だった」ということではないはずです。

研究者たちがこの話題を取り沙汰したのは1980年代後半から2000年頃にかけてですが、いかにもお粗末なのです。議論になってないのです。

議論の当事者がBLに積極的な価値を認めておらず、なぜ少女たちがこんなものを喜ぶのか分からないと思っていたから、代償機能で説明することしか思いつかなかったのです。

【認めるところから始まります】

少女キャラクターの代用だと考えるから「でも少女漫画の少女は充分に自由なのに?」という疑問につながってしまうのです。

少女を少年に差し替えるというなら、少年が軍人になったり、パワーテニスプレイヤーになったりしなければならないはずです。なぜ恋愛描写に偏っているのか?

テニスプレイヤー少女に感情移入できない人のための代用品ではなく、「男性社会において女に見立てられる(ほどの)美少年」という存在にピンポイントに魅力を見出したと思えば何の疑問もないのです。

1970年代の女流が世界史上初めて「女性と少年を差し替えた」ということをしたのではなく、先にそれを実行していたのは、ストレート男性です。

逆にいえば、そのようなキャラクターに魅力を感じなければ「少女漫画の代用品だ」と言われて渡されても、読まないわけです。女みたいな男なんて違和感あるわというだけなのです。

魅力を感じて読む人にとっては、そういう少年キャラクターが存在する傍らで、活発な(ただし可愛くない)少女キャラクターがマネージャーや応援団長として頑張ってくれることは、別に構わないのです。彼女なりにいい相手を見つけようが、キャリアウーマンになろうが、好きにすればいいのです。

だって読者女性自身が高校を卒業したら好きに生きて行くつもりなんですから。1970年代以降の世の中で「高校を卒業すると同時に見合いさせられて、泣く泣く嫁に行くつもり」なんて子はいないんですから。父兄の注意を聞かず、彼氏のエスコートを受けず、「女の子」だけで(八つ墓村をはじめ)どんな観光地にも繰り出し、新作スイーツ(笑)を次々に試し、可愛い化粧品を買って、自由に生きていくつもりなんですから。

逆にいえば、同性の自由を応援することとは別の楽しみとして、美少年趣味が存在する余地があるのです。というか同性(=自分自身)の自由と権利を信じるからこそ、相対的に不幸な異性というモチーフを楽しむ余裕が生まれるのです。

もし、可愛くない同性の自由と権利を信じていないなら「こんな可愛くない子でさえ男に狙われる」という絶望を描き、社会変革を訴える物語が生まれてくるはずです。が、その必要はないのです。すでに女性の自由と権利を信じているからです。

だから、美少年に与えられるテーマは最初から性愛なのです。同じ雑誌に掲載されていた「少女がイジメ環境から善意の人によって救い出され、みずからの努力の甲斐あって自立する」という根性物語の差し替えではないのです。

哀れな少年が成人または上級生の(強引な)性愛の対象であることから卒業して、立派に成長していく物語ではないのです。柳沢吉保の出世物語ではないのです。

すでに1972年の時点で「男装の軍人」というキャラクターが成功していた以上、逆に料理や掃除や育児を男性キャラクターが担当するという発想があっても良かったのです。

男性も筋力自慢の人ばかりではないのですから、家庭教師や修道士として、子どもと一緒に花を育て、文字と礼儀作法を教え、科学者として自立させてやったという物語でもいいのです。

女性が革命を起こして大統領に就任し、その陰で男たちが平和的な活動に従事するなら、フェミニズム的ユートピアのはずです。

じゃなくて、実際に描かれたものは、女流自身の恣意的な選択によって、美少年に性的・愛玩的な役割だけを与えることだったのです。美少年を社会の再生産事業から切り離し、自分の愛玩物として、その成長を止めてしまうことだったのです。

このへんで男性がゾッとして、女性が「ロマンだわ」と思うなら、いずれも当然なのです。それは男性にとって強い被害者意識と忌避感を覚えさせる(女性の)意志であり、嗜好なのです。

だから(何回も言いますが)トランス男性がゾッとしないなら、そのほうがおかしいのです。

それは、要するに女性の恣意性の発露であり、女性上位表現の一種にすぎない。能動性キャラクターは女性の道具であり、鞭の一種である。

男性が銃の手入れをしたり、ナイフを研いだりするように、道具に愛着を持ち、磨きぬくのは当然です。銃身やナイフの柄に装飾を施すこともある。だから道具と言ったからといって価値をおとしめたことにはならない。攻めキャラクターのディテールにこだわるのは当然です。でも冷静に機能を分析すれば、道具です。

くり返しますが、女流自身が、女性に許された・期待されている・義務とされている様々な活動の中から、性的・愛玩的要素だけを美少年に与えたのです。それは女性の恣意性の表現であり、女性上位表現の一種なのです。だから女性を解放的な気分にさせ、強気な口調を生むこともあれば、礼儀知らずなハイテンションを生むこともある。

いっぽうで、ストレス解消になったと感じ、明日も仕事に行けると思うことができる人もある。大事な心の支えだと思う人もある。根本的に創作物の基本機能とは、現実逃避とストレス解消です。男性における暴力映画嗜好も同様です。当方のBL・同人論は「こういう具合に危険だから早く規制しろ」という話ではありません。「利点と欠点をわきまえて、適度に楽しみましょう」と呼び掛けるものです。

「酒は飲んでも飲まれるな」みたいなものです。

そこまで見切った上で、それをどうして少女向けに公開したのかと問うならば、当時の編集長に当たってみろというだけなのです。漫画家自身は成人していたんですから「成人の同好者に読んでもらうつもりで描きました」で済むのです。あとはそれを誰が「少女向け」と称して市場に流したのかという話なのです。

出版社は「ボツ」にすることも出来た。新時代の成人女性向けの雑誌を創刊することもできた。なぜそうしなかったのか? これに答えられるのは出版社だけです。

いい歳した学者や評論家が「だって私はお母さんがトラウマなんですもの」とか言っても意味がないのです。研究対象は自分自身ではないはずです。

調査フィールドを間違えた研究ってのは、お話にならんのです。



2016/10/13

医師免許のない人に、心の治療師の称号を授与する意味。

ミステリーに登場する名探偵というのは、正しい推理に基づいて、証拠を見つけちゃった素人です。

創作上の警察は、間違った推理に基づいて、ありもしない証拠や、いもしない証人を探しているから捜査が行き詰まる。

名探偵は警察手帳もなにも持っていないけれども、正しい推理に基づいて、まっすぐに犯人ゆかりの寺社を訪ね、ピンポイントで「昭和何年の台帳を見せてください」と指定することができる。それに基づいて犯人が自白するから警察が逮捕せざるを得なくなる。

逆にいえば、探偵は推理を述べるだけです。もし探偵が警察に通報しなければ、犯人は無罪放免もあり得る。ベーカー街221Bの部屋では、時々やってましたね。

医術というのも、もともとは誰かが(何千年も前に)勝手に始めちゃったことで、それで確かに「治った」と思った人が大勢いたから、その技術は正しい・すごいということになって勉強したいという人が増え、途中でめんどくさくなって逃げた奴ではなく、正しく覚えた人に免状を渡すことになったわけです。

各種学会とか、芸事の家元とか、武道の段位認定とかも、バッサリ言ってしまえば、それぞれ勝手に組織を作って、勝手に「これができると何段」とか決めてるだけです。

それによって、上の人が下の人をイジメることを目標にしているのではありません。下の人が自分自身の怠け心に打ち克ち、上の段位や免許皆伝をめざして修練に励むことを目的としているのです。

競争相手は自分自身であることを悟るためにこそ、自他を比較しやすくするのです。ここ間違えてはいけません。

推理作家協会とか、ペンクラブとか、ああいうのも要するに「同人」です。もとは同人会です。ミステリーの好きな人同士が集まって「お前の書いたものはすごいよ」って言い合うのです。で、賞状を与えたりする。

文筆に興味ない人が「そんな賞状、意味ないじゃん」と思えば、意味ないのです。

小学校では「なわとび百回飛べると先生から『なわとび名人』の賞状をもらえる」とか「声が大きい生徒を『朝のあいさつ委員長』に任命する」とか、やってたはずです。

それによって本人が「天狗」になってしまい、賞状を持ってない子をイジメることを先生たちが期待しているのではなく、本人に自信をつけてやり、よりいっそう体力作りや朝の挨拶をきちんとできる子に育てることが狙いです。

自己啓発術の場合、まず誰よりも本人が自分自身の心の面倒を見られるようになるのが狙いです。他人にお節介やかせることを目的としているのではないのです。まして他人に向かって自分の過去を自慢したり、愚痴を聞かせたり、他人の話を途中で勘違いしたりするためではないのです。

「あなたは何々メソッドを習得することができたのだから、決してダメな人間ではない。自信を持って生きてください。また迷いが生じたら、いつでもこのテキストを開いて、自問自答してください」ってことなのです。