2017/01/31

男女に興味がないことは、男同士に興味があることの理由にはなりません。

ゲイコミュニティが「弱者同士の連帯したい」という女性に望むことは、彼ら同士の連帯のための静かな時間を邪魔しないことです。

彼らのプライバシーを尊重し、女性には関係のない質問をしないことです。「連帯」という言葉を女性に都合よく勘違いすることではありません。

お店の経営者の中には、勘違い女こそ再教育して「アライ」にしてしまえばいいという方もあります。一理あります。ただし「誰がやるんだ」という問題が残ります。

カウンターの中でほかのお客さんの相手をなさっているママさん・マスターさんご自身は迷惑女の相手をしないわけです。質問責めにされるのは、一般素人客です。

「この店も女が入って来るようになっちゃ終わりだな」と思うお客様は、必ずいらっしゃいます。そこは「ゲイが入って来るのを女が待っているだけ」という奇妙な待合室のような店になってしまうかもしれません。

そしたら女性客向けにケーキセットを出してやるという手もありますが、やがて二丁目全体が女に乗っ取られたということになってしまうでしょう。それを、あなた自身が防ぐことが、本当の弱者同士の連帯です。

まず、あなた自身が「弱者に配慮し、遠慮する」という姿勢を示し、他のストレートのお手本になることです。

もう、中学生ではありません。女の子ではありません。おとなの女には、自分より若いゲイボーイくん達がのびのびと生きられる街と社会を実現してやる責任があると思いましょう。

あなたがすべきことは、あなた自身が彼らを搾取することではありません。

女性は、自分の権利のことばかり言わないようにしましょう。正確にいうと、自分の権利を主張する場所をまちがえないようにしましょう。

女だけで安心して飲める店がほしければ、自分で立ち上げましょう。中東では女性だけの商工会議所があって、入り口に男性のボディガードを置いているそうです。

ゲイボーイを見世物として利用したいなら、そういうお店を作って頂けるように要望しましょう。

なお、もともと新宿二丁目には女性もいます。彼女たちは「私はレズビアンなので、男性とのお見合いは無用です」と言ったとたんに会社のオヤジが目を輝かせて「女同士で何するの? 俺が観たポルノ映画はほんとなの?」と質問して来るという人権被害に遭って来ました。

彼女たちの前で、ストレート女性がゲイ男性に向かって「男同士の性感マッサージって、どこをさわるの? BLみたいに男子校で目覚めることって本当にあるの?」と訊いた瞬間に、アウトです。

「最初からそれが目的なんでしょ」って言われるのです。

「弱者同士の連帯」とか、自分も会社で差別されたからとか、もっともらしい理屈をつけても無駄です。

男女のことが苦手であることは、男同士に興味を持つことの理由にはなりません。少女漫画が苦手な人は、BLも読まなくてもいいのです。女性が自立したいなら児童文学を書いたっていいのです。

女同士には興味がないが、男同士には興味があって、レズビアンバーへは行かないが、ゲイバーへは行ってみたいという人は、たんにそういう趣味の人だっていうだけです。

彼ら同士の静かな交流の時間を尊重できずに、自分自身の好奇心を満足させるために、自分の人生には関係のない質問する人は、ただの野次馬です。連帯という言葉を自分に都合よく利用しているだけです。(念のため、すればいいって話じゃありませんよ)

なお、既婚者が未婚者を「可哀想なもんよ」というのは、自分の人生が不自由だから、負け惜しみを言っていると思えばいいです。

それを真に受けて、悲劇のヒロイン気分になって、ゲイバーまで行って愚痴を聞いてもらおうとするのか、既婚者に向かって「あんたこそ可哀想よ」と脊髄反射して、人前で喧嘩するのか、決める権利もあなたにあります。

失礼なことを言う人の本音は、カメラを通じて表現されると、不思議と見えてくるものです。だから「自分は女性キャラクターに感情移入できない」と思い込んでしまわずに、なんでも観たり読んだりしましょう。そして自分の作品に取り込みましょう。引用は著作権法で認められています。


2017/01/31

もしも未婚者が既婚者をゲイバーへ案内したら。

最初のうちは既婚者が「こんなの初めて」と興奮するでしょう。未婚者は都会を案内してやった気分で鼻高々でしょう。

が、やがて既婚者が「私、じぶんが恵まれていることが分かったわ。うちへ帰って旦那と子どもにごはん出してやらなくちゃ」って言うのです。

すると、お店のおネエ様たちも「そうよ。それがいいわよ。せっかく産んだ子どもを大事にしなさいよ」って仰るのです。

ショーを観て終わりにするのではなく、自慢してやるつもりで個人的に親しいゲイボーイさんを紹介してやって、話がはずめばはずむほど、まだまだいろいろなご苦労があることが見えてきます。彼らが自分の寂しいのを我慢して、女性客に気を使ってくれていることが分かってきます。そこはもともとホストクラブではありません。

そういうことに先に気づくのが既婚者です。おカネに換算できない場面で舅・姑や、夫や子どもや子どもの友達の親に気を使うことに慣れているからです。ビジネスライクに「カネを払ったぶんは遊ばせてもらう」という考え方にならないのが既婚者です。

既婚者のそういう気づかいの上手い姿は、安野モヨコ『働きマン』にも描かれていましたね。

郊外にある自宅から、都心へ出て来て、繁華街に案内されれば、最初のうちは「たまにはこういうのも気楽でいいわね」って言うでしょう。でも、いつか必ず我に返る時が来ます。

彼女はおネエ様たちと「がんばってね」「あんたもね」とエール交換するでしょう。そして帰って行くでしょう。未婚者は、かやの外です。

いいですか? これが「話に落ちがつく」ということです。

「最初の思いつき→お店で大フィーバー(あえて古めかしく)→皮肉な結末」です。

映画なら、ここまでで30分。あなたなら、どんな話を続けますか?

一念発起して、シングルの権利のために闘う弁護士になった女のサクセスストーリー? 社会全体を恨んで劇場型犯罪者になった女の転落人生? ゲイバーの片隅に居座って愚痴を言い続ける女? それとも、身近な人を見つけて、農村生活の苦労を買って出るという逆説的な自立した女の姿? 古い映画にありそうですね。

過去は変えられません。未来の選択肢は複数あります。

「山も落ちもない」という言葉を真に受けて、自分にとって面白い場面ばかり書いたり読んだりして来た人は、現実においても考えが浅く、先行きの見通しが悪いことがあります。クレームもその場の脊髄反射で、言いっぱなしです。

「だからなんだ? 侮辱するのか? このツイッター廃人め」と言い返されると「いや、そんなつもりじゃ……」となってしまう。だってお母さんが……と言い訳を始める。恥の上塗りです。

もともとBLというのは女性の自己中心的な興味を満足させるための創作分野です。正確にいうと、昔の男性が発表した小説や映画に部分的に注目すると、自己中心的な興味が満足できることに女性が気づいたので、再生産することにした。それをくりかえしている。それだけです。

昔は「バーチャルリアリティ」なんて言葉も概念もなかったので、本気で自分のことを「男になった」とか「生まれつきトランスゲイだった」と思っちゃう人もいました。実際には創作物によって一時的に解放的な気分を味わっているだけですね。それはそれでいいです。もともと創作物ってそういうものです。

そういう解放感を味わいたがるのは不美人だけとか、何々できない人だけなどと決まってもいません。決めてしまいたがる人は自分自身が権力的な気分を味わいたがっているだけです。

だから美人がBLを読もうが、レディコミと並行して読もうが、そこは自分の勝手ですが、そういう創作的満足を現実に持ち込んでしまうと、不具合が起こるのです。

創作上の自分勝手と、現実の自分勝手は、やっぱり違うのです。

なお、自分自身を「新宿二丁目の伝道師」とでも称して、既婚者にセカンドライフの楽しみを教えてやる客引き係に位置づけることもできます。自分をそのために生まれて来たと思い込んで、開き直ってしまうこともできます。が、ゲイコミュニティのほうで頼んだ覚えはないと仰るでしょう。

なお、既婚者・未婚者という用語は小津安二郎映画『麦秋』によるものです。現代では非婚者でも、ノンセクでもいいです。好きな言葉に読み替えてください。

現代では「結婚する必要ない。異性と交際したことない」という若い人が増えているので、もはや「ノンセク」は「セクマイ」ではありません。最大マジョリティです。

「ノンセク」の権利と、LGBTの権利を混同しないように気をつけましょう。


2017/01/31

1951年10月、小津安二郎『麦秋』松竹

みんな大きくなっていくよ。

脚本:野田高梧・小津安二郎 撮影:厚田雄春 美術:濱田辰雄 録音:妹尾芳三郎 照明:高下逸男 音楽:伊藤冝ニ 巧藝品考証:澤村陶哉 監督助手:山本浩三 撮影助手:川又昂

いちめんのむぎのほ いちめんのむぎのほ いちめんのむぎのほ。淡島千景つながり。原節子と二人でキャッキャウフフしております。なんだこの小津さんがうらやましい感じ。

昭和26年度芸術祭参加作品。1951年と聞いて「新しいな」と思ってしまう今日この頃。北鎌倉の海はひねもすのたりと、埴生の宿もわが宿にて、たのしとも、たのもしや。

……脇方が脇座につくまでに眠くなるのにも似た清らかな安らぎに満ちております。オープニング音楽の曲調や出演メンバーによる木下作品との混同を自戒しつつ。

2003年に監督生誕100周年記念として発行されたDVDのようで、画像はたいへんきれいです。イサムちゃんはたいへん可愛いです。

『晩春』は父娘の静かな暮らしの底に娘の鬱屈が渦巻いて、表面的な穏やかさのわりに不安感に満ちた息詰まるお話でしたが、こちらは大家族および友人たちとの会話に重点を置いた明るいコメディタッチのようです。団塊の世代の成長期なので子どもが多いです。

東京のせまい民家を完全再現したセットは生活感を醸しだす情報量がものすごく、多人数家族の人間関係が台詞の端々からそれとなく知られる脚本術も印象的。建具の陰から斜めに透かした異様な構図と、画がデジタル時代のようにプツッ、プツッと素早く切り替わるのも印象的。電車の中の笠智衆の隣の隣に美青年がいます。(そこは注目しなくていいんだ)

いちおう占領下だけど生活はだいぶ落ち着いたもよう。白飯を食べる場面が目につくのは、食べることのできる喜びを何気なく表現しているのでしょう。物価は上昇しつつあったようです。それにつけても麒麟麦酒のシェアは高そうです。(そこもいいんだ)

嫁いだ女、嫁がない女。たいへん古風な可愛いアプレゲールたちは、男を見る眼もなかなかに確かなようです。嫁いだ女が自らを誇るのは、不自由な暮らしを選んだ自分を正当化したいからなのでしょう。

思うに「夫が仕事に出るのに私だけ娘気分で遊びに行っちゃ悪いわ」ってことだったのでしょうが、だったら自分も仕事に行けよという発想は、まだなかった時代。

物語の決め手となるヒロインの台詞は、家族(とくにお兄さん)も心配してくれていることを分かっているからこそ、ハッキリ言っちゃ悪いわという気持ちが働いていたのでしょう。

「ヘンタイか」という言葉の続きを聞いてみたかった気もします。当時の人は、じゃあ仕方ないなと言ったのか、俺が治してやるとでも言ったのか。

男の前時代的な独善、引いているようで一歩も引かない女、小さな胸にあふれていた期待。それぞれの矜持。小さな事情が積み重なって、小さな山場。結婚話に終始しつつも、女性の人権・民主化を印象づけるプロパガンダ映画ではなく、都会生活の諷刺が主眼でもないところが味噌。果たして真の主役は? (観てのお楽しみ)

これだけ濃密な人間ドラマを描いておいて、人のいなくなった後の空間に思いを残すというか、フェティッシュを感じるというか、奇妙なショットがあることです。ちょっと他の監督にはない表現ですね。わざわざズームしているので編集の不手際ってことではなさそうです。ときどきカメラが動揺するのはご愛嬌。

1951年のモノクロ映画は、今から見ると信じられないほど古いように感じますけれども、トーキーが日本に入ってきたのは昭和6(西暦1931)年。すでにこの時点で20年も前です。

それより前には、長回しによる剣戟アクション描写が観客を沸かせていた無声映画の時代があったわけで、このたいへん手間ひまかけて撮影・編集した日常的映画というのは、この時点ではたいへん斬新な表現だったのだと思われます。

後世の人々がこの話法に私淑したので、今の眼で観ると当たり前のような気がして、ことの重大さを見逃してしまいそうですが、アクションでもロマンスでもミステリーでもない。むしろいい度胸してるというべきでしょう。

この斬新と平凡の混合した奇妙な徹底的リアリズムを撮っていた時点で、小津はどれほどこれが後世にとって貴重な記録映像の価値を持つことを意識していたのか。(たぶん250パーセントくらい)


2017/01/30

BLは純文学と漫画とアニメを混合させたプチブル文化です。

1949年に三島由紀夫の自伝的小説があって、1961年に森茉莉の空想的小説があって、1971年にヴィスコンティの映画があった。

それより前に「一人でアニパロを思いついて同人誌を発行していました」という人がいるなら見せてくださいってことですが、1971年の時点では、まだアニメのほうが成長していないのです。

今でいう二次創作BLというものは、無知な少女が少年漫画を読んでいるうちに、ある日とつぜん組み合わせることを思いついたというものではありません。残念ながら、トランスゲイの自発でもありません。

文学(に基づいた映画)の流行を受けて、一部の女学生による文芸サークル活動の中から「お耽美」の流行が生じ、それを成人した女流漫画家が漫画作品に取り込み、それを見た漫画同人が私たちも描いてみましょうということになった。創作物から創作物。二番煎じの二番煎じ。そういうものです。

そこへ、ちょうど同じタイミングでSFアニメ映画の流行が起きたのです。不幸な偶然の一致です。

今なお「そこだけは混ぜてほしくなかった」と思っている方も多いことでしょう。

なお、同人活動というのは何よりも文章を書く活動ですから、男女を問わず例外的に学業成績のいい人の活動です。市川崑映画『鍵』(1959年)には「若い娘が頭がいいとほめられるのは器量が悪いと言われるのもおんなじだ」という台詞が出てきます。(開始22分くらい)

「美人=おばか、不美人=学業成績がいい」というのも、だいぶ古い二項対立的ステレオタイプなのです。

それが1970年代以来、漫画という表現手段を得たので、子どもじみた「お絵かき」と耽美的・悪魔主義的描写が両立してしまうという異常事態が生じて、これに評論家のほうでついて行けなかったのです。

【混合文化の土壌】

もともと日本の文化は土着のものと海外由来のものの混合です。人間自体が大陸から渡ってきたのですが、島として分離してからは、自然環境的必然に基づいた土着文化が育ったと言っていいでしょう。たとえば黒曜石の利用とか。

その後、波の荒い東シナ海を乗り越えて交流が生じたのです。後には太平洋の向こうからもお客さんがいらっしゃいました。呼んでないんですが。

国内市場と国際情勢のダブルスタンダード間の調整によって、鎖国したり、産業革命がうまくいったり、戦争が始まったり、分割統治されずに主権を回復したりして来たわけです。そのたびに庶民文化も化学反応を起こしてきました。

戦後の銀座で純文学者たちが丸山明宏を取り囲んだのは、やっぱり「自由な時代が来てよかったね」ってことだったのです。男の子が化粧してシャンソンを唄える時代が来てよかったね、もう戦争なんてやだねってことだったのです。三島の小説も「戦時中にはこんな話できなかったよね」ってことだったのです。

【ストレート同士の連帯】

男性作家における「アブノーマル」の流行に女性が共感したなら、戦後女性の自由と戦後ストレート男性純文学者の自由の連帯です。ゲイ文化を理解したことではないのです。

あくまで、ストレート男女が自分より強い者(戦前生まれの権力者)に対抗する気持ちを表現する象徴として、男装の麗人や、中性的な男性、さらには受身の男性という表象を利用したのです。

女性は、それまでは男性と連帯できると思うことができなかったので、同性愛・少年愛を共有することで自分も一人前になれたと思って興奮してしまうということがあったのです。

今なお、女性がゲイバーへ乗り込むと、何をしてもいいような気分になってしまいやすいのです。自分自身に無礼なことを言ったオヤジの真似をして、ゲイに無礼な質問をすると、自分も強くなったような気分になってしまいやすいのです。

「心は男」と称すると、なんかカッコいいような気分になっちゃうのです。が、若い人に言わせりゃ、心が男な女は、ただのオバサンだそうです。

いまから見ればずっとお上品だった1950年代・60年代当時、三島などの作品は、表面的には庶民の好奇心を呼んだだけだったでしょうが、当時としては、その好奇心のままに行動できるということがすごいことだったのです。

もう軍部(を意識した隣近所のルサンチマン)を恐れなくていいというのが有難いことだったのです。

だからこそ「自分だけ満足しない」ということが重要になります。国民の権利は平等だからです。

【少数派の自治権】

純文学と漫画とアニメの混合は、文化の歴史であり、その記録を抹消し、なかったことにしようというなら、歴史家はこれに反対しなければなりません。

けれども、抹消しようという勢力がなければ、それで終わりです。もともと例外的に教育を高めた女学生の中の、さらに少数派であって、どう頑張っても主流にはなれない。無理に露悪的になって破壊工作を試みなくていい。少数派として一定の地歩を保持できればいいわけです。

マイノリティの自治権の保障であり、多様性の尊重であって、少女漫画というマジョリティからBLというマジョリティへの革命的移行という話にしなくていいのです。

もともとBL論というのは、端的には「1.57ショック」をきっかけに、フェミニズム運動を見直す気運が生じ、女性の自由行動の行き過ぎを諌めるという意味があったわけです。

だから、それに対して1970年代以来のヴェテラン作家による自己弁護的な解説本の発行と、実在ゲイコミュニティからのクレーム行動と、フェミニストによる過剰防衛的弁明が打ち続いたのです。

つまり、すでに起きたバッシングに対する抵抗運動であり、勢いは強いけれども、本来の目指すところは少数派の容認であって、社会の転覆ではないのです。

この発想は、マルクス主義に首まで浸かってると、出てこないのです。どうしても従来しいたげられて来たプロレタリア人民(=女性)が天下を取るというトロツキズム路線に乗せなければならない気分になる。

急進的フェミニストってな、どう考えても新左翼系です。あえて例えるなら、BLってのは穏健派です。左翼の一角として一定数の議席を保持し、表現の自由の権利を行使するってなことになります。

ふたたび戦争のために生めよ増やせよということになれば、女性の自由は制限されるのです。その意味では「自由にBLを読んだり描いたりできる」というのは、反権力であり、反体制です。体制が戦争を志向するものである限り。

逆にいえば「政府が平和主義であるかぎり、BLは現政府を支持します」ってことになるでしょう。

もともと、サブカルはプチブルのものなのです。最初から、否定しているのでもなく肯定しているのでもない、欺瞞的順応性を示しているのです。(それを急進派がプロパガンダに利用したので、ちょっと無理が生じたのですね)


2017/01/30

アプレゲールの終焉。

1980年代を知っている人は「若者=非行文化、オジ・オバ=保守派」という二項対立の中に生きています。けれども自分自身がオジ・オバになってしまった今、ほんとうに若い人を困らせるのが、中年の不良ごっこです。

若い頃には、自分自身が「お母さんは頭が固い。私のやりたいことに口出ししないで」って言っていたはずです。

それが今では、ほんとうに若い人から冷たい眼で見られているのです。性的な意味で過激な(二次創作)BLのことを「少女のロマン」だと思っているのは自分だけで、ほんとうに若い人が「いつまでも80年代の気分でいないでほしい。仲間だと思われたくない」と思っているのです。

【最後のアプレゲール】

谷崎潤一郎の小説『鍵』に「お前こそアプレだ」という台詞が出てきます。アプレゲール。戦後ふうという意味です。戦前の貞操観念にとらわれない自由な世代という意味ですが、かんたんにいうと、行儀が悪い女です。

それを「お下品けっこう」といって開き直ったのが、まさに1980年代フェミニズムだったわけで、それを知っている人は、いまだにそう思っていることがあるのです。

つまり、1980年代が終了するまで「アプレ」の時代が続いていたのです。戦前的なお上品さ・文部省(当時)推薦的な価値観を打ち壊すことがカッコいいと思われていたのです。

けれども、バブルが崩壊して大不況の時代が来ると、社会には「今までのやり方が間違っていたんじゃないか?」という問い直しの気持ちが生じたのです。

小林よしのり『戦争論』が流行したのが一つの象徴で、あのへんで『理由なき反抗』の時代が終わっちゃったのです。

不況の時代を「癒し」と「絆」をモットーに乗り切ってきた世代は、よくも悪くも横並び志向で、自分だけ突出することをいやがり、他人が目立とうとすることも嫌います。

だからこそ、業務妨害動画投稿のような極端な目立ちたがりも出てくるのですが、それに対する批判もものすごいわけです。

社会情勢が変わったので、価値観が逆転したのです。もう「法律違反上等じゃん。非行は若者・少女の特権です」という顔が通用する時代ではないのです。

中年が暴言を流してしまった時に「生温かい眼でウォッチする」と言ってくれる人はまだマシです。本人も「ニート、ヒッキー」という自認である可能性が高いです。けれどもブラックな勤務に耐えている若い人々は、中年が「自分だけうまくやった」という話を許しません。

本当に法律を勉強して「もともと二次創作は違反には当たりません。国家権力を濫用してはいけません」ぐらいは言える必要があります。「女の子をかばってくれる人がいる」ではダメなのです。

【ポストTPP】

TPP関連の著作権保護強化の件は、日本人どうし(著作権者と二次創作者)で話し合うべきことを、アメリカの機嫌を取るために日本の役人が勝手に決めて来ちゃったという話だったから、政府の横暴に対して日本国民の表現の自由を守れという反権力・反米闘争に落とすことができたのです。

けれども、日本国内においては、著作権者に失礼なことを言わないのが基本です。一般国民の皆様に対して「当事者間で話し合う権利を留保させてください。我々を目の敵にしないでください」と言う時には、なによりも大切なのは丁寧な言葉使いです。

ここで「もう男に遠慮するな! 女性がお上品にする必要はありません!」っていう人は、1980年代のちっちゃいフェミニストのままです。その態度で「同人はフェミとは別よ」とか言っても説得力ありません。

(1980年代の少女同人は「もう男に遠慮するな」って言っていたのです)

第一、男性だって、ひとにものを頼む時は丁寧な言葉使いが重要なのです。1980年代は終わりました。非行文化は時代遅れです。もう「そこんとこよろしく。イエ~~イ」では通用しないのです。

くり返しますが、仁義とは自分を守るための約束です。現役は公共交通機関利用のマナー、会場および周辺利用のマナーを守りましょう。

徹夜するなと言われたら、徹夜してはいけません。自分たちで決めた約束さえ守れないようでは、そのうちもっと悪いことをするに違いない、早めに規制しろと言われるだけです。サブカルは不良グループではありません。

私鉄の職員に「駅のマナーを守ってください」とツイートさせるなんざ、サブカルの恥です。

覚えておきましょう。


2017/01/30

1960年5月、衣笠貞之助『歌行燈』大映

中途半端な芸事は、身を滅ぼしますよ。

製作:永田雅一 原作:泉鏡花 脚本:衣笠貞之助・相良準 撮影:渡辺公夫 録音:橋本国雄 照明:泉正蔵 美術:下河原友雄 音楽:斉藤一郎 能楽:木原康次 色彩技術:渡辺静郎

明治三十年頃、伊勢山田から始まるお話。女形だった監督が描く究極の女性美と日本の自然美と建築美。全篇に渡って謡曲を堪能できる映画というのも珍しいわけでございまして、後味の美しさからいっても一度は御覧遊ばせ。

衣笠貞之助(1896年、三重県生まれ)は初めて拝見したと思いますが、すごい絵をお作りになる方ですね。撮影当時の日本の好景気が偲ばれる凝りに凝ったセットを十二分に活かした構図の妙味を拝見しましょう。大映カラーの発色の美しさも堪能できます。

お話のほうは、水もしたたるいい女ってあんまりいいませんが、黒繻子の襟に清楚な顔立ちが映えて、情緒纏綿たる中にも気丈さが光る山本富士子を中心に、多人数の女優がキャッキャウフフしてる女性映画なのでした。タイトルが能楽とも『海士』とも関係ないよなと思いつつ。

設定に無理があることは承知のうえの純愛ロマンスにして能楽ファンタジーなわけでございまして、雷さま(1931年生まれ、29歳)はお芝居がやや時代がかっているようですが、重々しさが能楽に相応しいようにも思われます。お顔立ちに気品があって、紋服姿が凛々しく、ほんとうに能舞台に(直面で)上げてみたかったです。

といいつつ、ちょっと崩れた着流し姿とべらんめェも魅力的。

いきなり『海士』の稽古をしておりますが、森林を深海に見立て、生身の女性をシテに、能楽を要素として取り入れた画も音も魅力的で、これやられちゃうと能界は困るんじゃないのかなと思うほど。

謡に同時期のハリウッドを思わせるハープ入りの交響曲が重なっちゃうのは映画でしかできない表現で、音楽的にも面白い作品だと思います。

家元役は、たいへんお能の先生らしい居ずまいです。「相変わらずの未熟」とか言いながら人間国宝なんだぜみたいな人々。

最近の映画の主流は高校生が主人公ですが、この頃の女性映画って、女学校を卒業してひとり立ちする年頃の女性を描いているのです。つらい境遇ですけれども主人公は意地を通し、女友達や雇い主の夫人が肩を持ってくれる描写もあり、台所の下働きの女性の姿まで丁寧に映されており、女性が助け合って生きる姿を描いているわけで、これでも女性応援映画なのです。

監督は男性ですけれども、予告篇のナレーションも女性ですし、これはやっぱり女性が観に行く映画だったのだろうと思われます。

そうかといって堅気の娘さんたちに「あたしも芸者さんになりたい」って言われても困るっちゃ困るわけで、当時の女性客自身も微妙~~な気分を味わっていたのかもしれません。



2017/01/30

1959年6月、市川崑『鍵』大映

人間の老衰現象は、十歳から始まるそうです。

製作:永田雅一 企画:藤井浩明 原作:谷崎潤一郎 脚本:和田夏十・長谷部慶治・市川崑 撮影:宮川一夫 録音:西井憲一 美術:下河原友雄 照明:伊藤幸夫 色彩技術:田中省三 音楽:芥川也寸志

映画は大映。愛欲描写の凄まじさに映画化不可能を叫ばしめ、日本中に賛否の嵐を呼んだ谷崎文学を最高の適役で描く。(予告篇より)

クルボアジェを装備して臨みたいですが予算不足につき。100円で映画観て幸せですとも。(ツタヤさんありがとう)

カンヌ国際映画祭審査員特別賞。カンヌはこういうの好きなんですね。『美しき諍い女』も拝見したんですが、なんとも書きようもなく……。

こちらの原作は中央公論社より昭和31年12月初版。当方の手元にあるのは32年1月発行の第6版。定価350円。一ヶ月で6版って。「サマザマナ場合ヲ想像シテ嫉妬ヤ憤怒ニ駆ラレテヰルト際限モナク旺盛な淫慾ガ発酵シテ来ル。」(p.98)

原作のほうは、日記の公開という体裁で男性一人称と女性一人称を書き分けた技法が面白いところで、とくに後者は女流作品のパロディという意味合いを持つので挑戦的でもありますが、映像化に際してはいろいろな演出が考えられるわけです。

明るいコメディタッチにしてもいいし、淡々と撮ってもいいし、性的露出度を強めてポルノグラフィにすることさえも出来ます。

和田夏十と市川崑が選んだのは、ほの暗い背徳感と、いささかの滑稽みをまとった、サスペンスタッチでした。後年の金田一シリーズを逆に彷彿させるとは申すまでもございません。

現代の眼で見れば豪邸と申すべき舞台ですが、しょせん郊外の民家の内部で起こる日常生活の端々を再現しているわけで、観客を退屈させることは、むしろ容易なのです。

それを防ぐには、役者の顔をこれでもかと大写しにして圧迫感を強めるわけで、これは『日本橋』でも使われていた技法ですね。画面が半分影に沈んだような照明も印象的です。

『日本橋』ではお衣装がいかにも華やかでしたが、こちらでは女性陣の着るものの色合いを抑え、そのぶん、それを脱いだときの肌色の輝かしさを強調しております。

京マチ子(1924年3月生まれ、35歳)の美貌が本当に能面のようで、目の形、鼻の形、唇の形、頬のふくよかさ、化粧もありましょうが皮膚の白さなど、どこを取っても(撮っても)日本女性の理想美かと思われます。……昔の能面打ちの傍にもこんな女がいたのかもしれません。

原作も映画も性的描写の部分は現在から見ると「どこが凄まじいんだ」という程度のものですが、それだけに鬱屈した性が醸しだす禁断の情緒が魅力なわけでございます。

これが現代ふうに「夫婦で撮影会なう♪」だったらどうだろうっていう。楽しそうだけど色気はないんじゃないかなとかね。

なお、原作では夫56歳、妻45歳です。

女性の化粧が対照的なのも印象的で、京マチ子演じる母のほうは技巧的な細い眉を描いております。口紅はなし。二十歳若い設定の娘(叶順子、23歳)のほうは眉が太く、口紅が濃い。新時代の「アプレ」女性の意志の強さを表現していると思われますが、肉体の線の「こなれ」具合の違いが女優の実年齢と経験の差を思わせ、残酷といえば残酷な見世物にもなっております。

なお、当方は人物の動きの途中で画面が止まると出崎アニメを思い出す世代でございます。



2017/01/30

2017年1月22日、グランシップ静岡能『隅田川』『小鍛治』観世流

急ぎそうろうほどに。これハはや大きな船に着きにけり。

周囲にさえぎるものがなくて、いつ参ってもやたらと寒いグランシップへの道でございますが、能楽公演の時だけ能舞台が仮設される中ホール「大地」はクロークを開けてくれるので、防寒対策万全でも会場内で荷物になることがありません。ありがたいです。

能楽にドレスコードは特にありません。座りっぱなしで拝見するものですし、楽な服装で大丈夫です。けれども、着物を買ったけど着ていくところがないからお能を観に行くという発想もありだと思います。分からないからといっておしゃべりしていなければいいです。ふつうにマナーを守りましょう。

昨年の宝生流はお装束と法政大学所蔵の資料を展示。揚州周延を拝見できて嬉しかったです。今年は現役女流書家の作品展示。いずれの大学サイドからも能楽師サイドからもコラボ企画に積極的なようです。客層は明らかに平均年齢高いですが、大学生らしき姿もちらほら見られました。

中ホール「大地」に仮設される鏡板の老松は、じゃっかん可愛いです。開演前に挨拶に立つや、いきなり核心的な話に突入する本日の座長(といってもいいでしょう)は、止められる気がしない勢い。先生トークの持ちネタを言っちゃうわけには参りませんところはお察しください。

もっとも「物狂い」が統合失調症の昔の呼び方ということではないというのは能界全体の基本合意かと思われますので申し上げちゃいますと、狂言というくらいで、昔は嘘八百を並べたフィクションそのものを非推奨とする意識があったのだそうで(建前は大事です)、それにたずさわる役者を「狂」と称したのだそうです。すなわち物狂いした女というのは、芸人のことである由。

それにつけても、何度拝見しても紋服とマイクロフォンは微妙な取り合わせです。(現代の狂)

【隅田川】

じつは初見です。映画も予備知識を入れずにまずは観る方針ですが、お能もビデオなどで予習しない方針です。とは申しても聞き取りにくいのがお能の難点で、あらすじと謡本(=台本)だけは事前に読んで参ります。演出部分を実見にて確認。

脇方の力量が問われる曲だなと思いました。本日の渡守役は盤石の大ベテラン。登場曲の旋律が印象的で、笛の音色もたいへん美しいものでした。

吉田の少将つながりで『班女』とつなげて一本の映画にできないか(主演:田中絹代)とか夢想しつつ、道行に聴き惚れ……(寝落ちしてはいけない)

シテは本来、明るい人なのです。気の強い女性なのです。自信があるのです。悲しみのあまり寝込んでしまったというのではなく、北白川から飛び出して来ちゃうんだから。芸に身を助けられて路銀を得ながら、ここまで来たのです。

水色の水干をつけた寂しい中にも、そういう愛嬌を秘めた魅力的な佇まいだったと思います。

はやる心のままに舳先に座ったシテの後ろにワキが立って、去年のことを物語るのは、ちょっとすごい構図で、究極のワンシーンワンカットだなと思いながら拝見しました。そして、たったいま耳にしたことを問い直す母心が切ない。信じたくないのです。何度でも確かめたい。お願い皆さん、この土をどけて。

分かりにくいと思われがちな能楽も、基本にあるのは庶民の生活実感です。この土の下に大事な人がいると思えば咄嗟に「出してやりたい」と思う。それが「もう去年のことだから」と諭されて、弔う心に変わる。けれども諦めきれない。

地謡の合間に鉦鼓が響いて、満ち潮のように暗い情感が高まる音楽的クライマックスは、ちょっともの凄くて、作者の時代を超えた天才ぶりが知られる名場面かと思われます。そして子方使うのは反則……よくも泣かせたな。(すごく良い声でした) 

愛らしい姿に見所から微笑が漏れるのはご愛嬌。

【狂言 鈍太郎】

どうだろう、これ。フェミニストの集会へ突っ込んだら「超アウェイ」って感じになりそうです。が、女性が二人も登場するので、お狂言の中でも華やかな作品かと思われます。

面白いのは「男を持つ」って言い方(妾を持つの反対)で、なにげに女性中心・女系相続だった時代の名残があるように思いました。

二人が脇座と一の松に分かれて詞章が輪唱のようになるのはすごい演出。狂言師って言葉は最近のものだそうで、本来は能楽師・狂言方だそうです(本来と言えば申楽師が本来かもしれませんけれども)

から、能と狂言ひっくるめて「能楽」なわけですが、能楽は演劇的演出の宝庫だろうと思うのです。若い方が御覧にならないのは勿体ないです。

とくに、小劇団・お笑いコントなどをなさる方は、舞台・客席の規模からいっても、参考にできる要素が多いことと思われます。

(ただし全てが14世紀から受け継がれたわけではなく、後代・現代の創意工夫の可能性もあります)

【小鍛治 白頭】

こぎつねコンコン槌の音♪

グランシップのある「東静岡」は草薙の隣りですから、やっとこれが出て来たと言うべきか。わりと散文的な詞を中ノリに乗せてザクザク進む五番目もの。

今回、他の古典芸能(歌舞伎・文楽)とのシリーズ構成で「色」をテーマにして来て、そのトリということだったようなんですけれども、裳着胴に腰巻した紅入縫箔が本当に赤くて、童子というより美少女みたいに見えたことです。胸キュン。

しかも所作は清々しく勇ましく、髪型も黒頭じゃなくてスッキリしていたもんですから(渇食を選んだようです)、黒澤映画『隠し砦の三悪人』に出てきた男装の麗人みたい。(ややこしい)

三条あたりにお住まいだったと思われる宗近さん(後場)は紫の長絹と朱色の厚板で格調高くも華やかに。

お狐さまは白ずくめで輝いておりました。軽快に跳ね回って、飛び安座の着地もストンと柔らかくお見事。立物の狐は見た目に明るいですし、あっていいと思います。

能楽はあの、基本的に素朴な感じがいいのです。だからこそ役者の技量が問われるのです。

器楽ユニットはおなじみメンバーで、今日も絶好調。シテの声はややハイトーンで、若々しさを心がけていたのだろうと思われます。こぎつね丸を捧げると、叢雲に乗ってピューーンと飛んで行きました。

……これ、男の児に聞かせるお伽話なのです。

そう思うと、吉田の少将夫人が幼かった梅若丸の添い寝して、寝入りばなに聞かせてやっている姿が脳裏に浮かんで、ちょっと胸が詰まったことでした。


2017/01/27

1960年9月、黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』東宝・黒澤プロ

あくまでもあなたを信頼しているから、よろしく。

脚本:小國英雄・久坂栄二郎・黒澤明・菊島隆三・橋本忍 撮影:逢澤譲 美術:村木興四郎 録音:矢野口文雄・下永尚 照明:猪原一郎 音楽:佐藤勝 監督助手:森谷司郎

昭和三十五年度芸術祭参加作品。スタッフおよびキャストの勢ぞろい感。ロケハンは今日も絶好調。いつにも増して長回しによる視線移動の妙味の中に短いショットを差し挟む編集の冴えを見せ、同じ構図をくりかえすのも印象的。照明さんも絶好調。

特撮じゃないのです。現実に存在するものをフル活用して、ちょっと黒澤作品の中でも珍しいくらい美術的な画を作り上げております。

興味深いのは、ものすごいメンバーがそろった脚本が、俳優にしゃべらせることじゃなくて、無言の芝居を重視してることなのです。会話そのものはギリギリまで削ぎ落として、たいへんナチュラルに仕上げました。やるなァ。

ワーグナー、文金高島田、金屏風、シャンパン。高度成長期らしく始まる役人残酷あるある内幕物語。ウィスキーはホワイトホース。スーツはスリーピース、カフスはダブル。シガレットはケースに入れるのが紳士のたしなみだった頃。

序盤における記者団の様子は、いかにもリアリズムではないわけで、編集の手際はいいけど演出として微妙だなァと思いましたら、地謡の一種なのだそうでした。模倣する時は陳腐にならないように気をつけましょう。

『羅生門』から十年、誰だこの美中年……としばらくぼんやり眺めて森雅之と気づいた時の衝撃。

三津田健もいい感じに老けて、藤田進は特別出演状態で貫禄を見せ、笠智衆は黒澤映画初登板だったでしょうか、驚くほどの硬骨漢ぶりを見せてくれます。

そして意外に禁欲的なのが三船。監督に愛されすぎたのかもしれない。

加藤武がまだ若いですが渡世人的実力派。香川京子が本当に純なお嬢様らしくて起用センス抜群と思われます。西村晃もある意味で絶好調。水戸黄門を演じた役者たちが黒澤映画時代にはほぼ悪役だったのは何故なのか。

相変わらずサウンドトラックの使い方が粋でたまりません。当時としては最新だったと思われる機器を利用した劇中劇の一種がたいへん効果的ですが、ジャジーなBGMもいかしてます。

脂が乗っているというべきか、ものすごい豪華出演陣をちょっとずつ使うという贅沢三昧の挙句に登場キャラクターを最低限に抑えて、2時間半の長尺ですが、たいへん面白いです。面白いって言っちゃあれな話題ですが面白いです。

……台詞の端々から謎が少しずつ明かされていくサスペンスなので、あらすじは申し上げられませんのです。

黒澤映画の緊張感は、コメディリリーフ的な遊びの要素を挿入しないことによるもので、いや作品にもよるんですけれども今回はそういう話じゃありませんで、しかもやっぱり観客と作中世界をつなぐのは藤原釜足なのでした。三船はヒーローですから。

しかもその、官僚機構の鋳型にはめ込まれた特殊な生きものが人間味を出してみたところが……観てのお楽しみ。

この年の1月に同じ三船を主人公にした岡本喜八の総天然色ギャング映画『暗黒街の対決』が封切られているので、撮影は1959年の内に終了していたわけで、東映では内田吐夢が1961年5月公開へ向けて『宮本武蔵』に取りかかり、やがて任侠路線も始まる頃。

プロダクション設立当初の意気込みあふれる力作なわけですが、黒澤的に1940年代以来の社会諷刺路線を「ひねり」の入った娯楽時代劇ヒーローへとつなぐポイント切り替え点というような、一つの総決算的作品と観てもいいのだろうと思います。



2017/01/27

1953年6月、木下恵介『日本の悲劇』松竹

子どもをえらくしようと思うと、ほんとに骨が折れますねェ。

製作:小出孝・桑田良太郎 脚本:木下恵介 撮影:楠田浩之 企画提供:新映株式会社 美術:中村公彦 録音:大野久男 照明:豊島良三 音楽:木下忠司 監督助手:川頭義郎

伊豆の山々、月淡く。国は敗れて、草木深く、政治は貧し。日本に近代市民などない!(色川大吉)

これはまたある意味大胆な、登場人物の目線の高さに、ガンとカメラを据えて撮りに撮ったり、ワンシーン。木下さんは深く静かに怒る人。弟の忠司の出番がないというほど装飾を削ぎ落とした超絶ドキュメンタリータッチ。(せめて挿入歌だけはと思ったら古賀メロディーでした)

この半年前に封切られた『カルメン純情す』では上流階級の暮らしぶりを徹底的に笑いのめしていたわけですが、今度はその対極にあった暮らし。

大島渚『日本の夜と霧』で中年組が追想していた1950年代の社会不安が、そのまんま映し出されております。一部に実録フィルムが使用されており、女子学生が学生運動に参加して機動隊と衝突し、怪我をしたらしき姿も見えます。

冒頭には昭和天皇を迎えて涙する高齢女性たちの姿も映し出されております。

最近、溝口や木下を観ていて思うことは、誰が観たんだ、と。1950年代の若い男たちは、ここでも観られるように、街頭宣伝車に乗っていたわけですよ。スクラム組んでジグザグっていたわけですよね。

どう考えても、この手の作品は男性が拍手喝采して喜ぶような話じゃありません。登場する男たちは基本的に悪役なのです。それも小悪党。男の眼から見ても嫌な奴らなのです。俳優としては上手いわけですけれども。

よほど文芸路線に関心があるか、映画テクニックそのもののマニアでもないかぎり、若い男だけで誘い合って観に行くような作品じゃありませんわね。

中村錦之助・市川雷蔵などの美青年趣味を考え合わせても、1950年代の映画産業の隆盛を支えたのは、女たちだったんじゃないかと思う今日この頃。それがテレビによって自宅でドラマを観ることができるようになって、映画館へ行く足が減ったのです。まだ憶測ですけれども。

それにつけても「この」悲劇は何によるのか。戦争で働き手を失った後の女と子どもの物語ですから、みんな戦争が悪いんだと言うことはできる。

序盤には女子生徒の口から鋭い質問を言わせており、監督には女性の姿を通じて社会批判する気持ちがあるわけです。そのいっぽうで、愛情はないのに嫉妬だけする女、男に「甲斐性」を求めるのに自分では自活手段のない女が悲劇の一つの引き金でもある。

かといって、女性に教育を与え、社会進出させればいいというものでもなさそうで、主人公は自分の才能を活かしきっていないという面もある。子ども達の言うことにも一理ある。

そのいっぽうで、親孝行の美徳を取り戻せ、戦後の自由は何か間違っているというふうに観ることもできる。

また戦争があったかどうかにかかわらず、男から見ても嫌な男・ずるい男はどこにでもいる。監督自身も(有名人ですから)投資話や保証人になってくれなんて話を持ちかけられることもあったのでしょう。

もとより単純ではないところが木下映画のいいところです。黒澤映画が破城槌のように太い主張をまっすぐに押し込んでいくとしたら、木下は本当に日常的な、淡々としたリアリズムの中に主義主張を忍びこませている。主張どうしが相反することもある。

やっぱり両方観るのがいいよね……(次記事は黒澤作品です)



2017/01/27

1936年10月、溝口健二『祇園の姉妹』第一映画

男はんていう男はん、みんなあてらの敵や。

原作:溝口健二 脚色:依田義賢 撮影:三木稔 録音:加瀬久

充実した1時間10分。オープニングBGMがまさかのビッグバンドジャズで、のっけからワンシーン・ワンカット。溝口健二恐るべし。

ドキュメンタリーと見紛う名優ぞろい、華やかな京都の社交界の裏側を描く超絶リアリズム。わざと同じ構図をくりかえすとか、自動車の車内から「カーブを曲がる」という表現(車窓外の合成画の工夫)も面白いものだと思います。

昭和11年。京町屋と和服の取り合わせに時おり混ざる洋装、紙巻煙草、瓶ビールが印象的。今から観ると時代劇みたいですが、当時としては当世劇なのです。女のシュミーズ姿や着替えの様子は当時の観客の眼をみはらせたのかもしれません。共布のベルトつきのワンピースが魅力的。

木綿屋がつぶれて人絹(レーヨン)が流行るという世相が取り入れられており、2.26事件の引き金の一つともなった不況が背景にあるのかもしれません。

あの事件は映画『動乱』では美化されておりましたが、じつは青年将校が実権を握ろうということで、必ずしも国民の支持は高くなかったらしく、ことに京都は帝を東京へ送り出してしまった後、虚無感と文化的矜持のない交ぜの中にあったのだろうと思われます。

そういう退廃というか、爛熟というか、気配の中で、女学校出の舌鋒が冴える。戦後は古典を撮った溝口、かえって戦前は若い人の才気に一縷の希望を見ていたようです。

山田五十鈴は19歳という実年齢そのままに、キラキラと輝きながら、祇園というよりは鉄火芸者か馬賊芸者の勢いで、祇園と女の本音を暴露しちゃいますが、……溝口は表立っては何も言わなかったにちがいないお姉さまの仇を取った思いだったのでしょう。

DVD特典の新藤兼人インタビューによれば、この写実志向によって日本映画の歴史に画期を成した記念碑的作品だそうです。

祇園にカメラを持ち込んで、会話の写実性を高めるために撮影現場で台本を書き直すということまでしたそうで、リアル過ぎて祇園では評判が悪かったそうです。ほんまのこと言いないな。京都らしい。

男たちの独善、世慣れた姉、硬質な妹。いまふうにいうと六畳二間のアパート暮らしするホステスさん達。一見すると古いですが、自活する女性たちを描いているわけで、現代人の心にもまっすぐ響くテーマを持っていると思います。この後、いったん上映しにくい時代を経験したのだったでしょう。


2017/01/27

「解決すべき問題を、ひとつずつ紙に書いてみようよ」

HTML文書でもいいです。「10個ぐらいの個別の問題を順に解けばいいだけ」です。(参考:糸井重里・池谷裕二『海馬 脳は疲れない』p.286)

すると「ここは関連づけて考える必要がないところなのに混同されている」とか、これは創作物の特性として当たり前のことなのにBLだけがおかしいことにされているのは、むしろおかしいといったことが見えて来るわけです。

例えば「もともと権力者が若者を搾取する」という古典的ステレオタイプがあって、時代とともにバリエーションが増えただけなのに、バリエーションが増えたこと自体が問題視されているのは、むしろおかしいとかね。

創作物の常套手段として、この世界では「あり」ということにされているという約束事はよくあるのに、BLにおいて男同士が一目惚れすること、および作中ではそういう男たちが差別されないことが問題視されているのは、むしろおかしいとかね。

搾取的男同士は必ず男女に準じた行為をすることになっているのも、数千年来のステレオタイプが(それまで無知だった)若い女性に共有されただけなのに、若い女性の発明であるかのように言われているのは事実の歪曲であるとかね。

あくまで男性編集長が成人女流作品にGOサインを出したので全国誌に掲載され、それに触発されて同人活動も発生したことになっているのに、最初から少女の自発だったかのように言われているのは事実の歪曲であるとかね。

プロ女流およびその担当編集者が自虐したことはないのに、プロまで自虐した前提で議論が進んでいるのは証拠の捏造であるとかね。

男性プロ作家の著作者人格権の発動によって女性同人の「ジャンル」が壊滅したことがあったのに、女の子は弱者特権があるから大目に見てもらえることになっているとかね。

研究者が女性の自由として二次創作BL同人を弁護しているのに著作権問題をガン無視している件とかね。(ぜったいに少女が告訴されないように法律の見直しを求めるのが筋です)

そもそも研究者自身が「少女に異変が起きている」という仮説を立証したがっているだけであるという自己批判ができていない件、とかね。

若い人からは「エロは要らない」という声が挙がっているのに、中年が「少女の特権」とか言って自分の年齢を勘違いしてるとかね。

若い人からは「二次創作じゃなきゃダメなんだ」という声が挙がっているのに、中年が「キャラ愛などない」と言って、なんか証言した気分になっているとかね。

若い人はインターネットで「嫌儲」活動に励んでいるのに、中年がカネの話しかできないとかね。

若い人はインターネットを通じて全国から作品発表しているのに、中年が晴海に行ったことを自慢するとかね。

若い人は著作者人格権の帰属先を理解しているのに、中年が自分だけ「編集部に知り合いがいるから大丈夫」とか言ってるとかね。

中年が自分ばかり優先して、若い人をばかにするから「ついて行けない」という声が挙がっているのに、中年が気づいていないとかね。

「新宿二丁目で余計な質問をするな」という話なのに「男が二次創作BL同人誌を読んではいけません!」という話にすり替えられてしまうとかね。

ミステリードラマが好きだからといって警視庁へ押しかけたり、仁侠映画が好きだからといって暴力団事務所へ押しかけたりする人はいないのに、BL読者だけ新宿二丁目へ押しかけてしまう件とかね。

「少年愛は切ない」というのは、男同士が異常なんじゃなくて、相手が子どもだから、または子ども同士だから引き裂かれる運命にあるからだとかね。

「ノンセク」が男女のことに興味がないからといって、男同士について質問していいわけではないのに、なんか特権があるつもりになってるとかね。

ぜんぶ混同して、女性が新宿二丁目へ行って、男性に向かって「わたし同人やってたんですけど~~、吊橋理論でホモになった人が子どもに手ェ出したことありますか~~!?」って質問すれば、大問題発生です。

質問してしまう女性も、それを弁護した女性も、問題をゴチャ混ぜにして来た。まさにその「話について来れない、勘違いしやすい」という点が、残念ながら女性性そのものを証明してしまっていた。

これが旧来のBL論ですね。

当方は一つずつ「ここは問題視されていることがおかしい、ここは問題視されていないことがおかしい」と指摘しているものです。

途中で勘違いして自己主張(クレーム)したつもりで自分の足場を掘り崩してしまう人には困るのです。どちら様もあわてないようにご注意ください。


2017/01/26

BLは、もともと女性文化の多様化です。

父親の思い出をつづって、文章力を認められた森茉莉。女だてらにSF・ゴシックロマン・歴史に造詣があるところを見せた二十四年組。ついでに白洲正子。

検閲制度が廃止された戦後社会にあって、例外的に教養を高めた女性の中から「男の世界ではこういうこともある」という暴露がなされたわけですね。三島由紀夫も寺山修司も舌を巻いた。

そこに表現されているものは、やっぱり男性の性的関心の独善性である。年上の者から誘われ、受身として訓練を受けた者は、こんどは自分から他人を誘うようになる。自分は悪くないと開き直る。じつは男役も女役も、やってるこたァ同じで、他人の人生をねじ曲げ、自分に付き合わせようとするわけです。それが男の本質というわけ。

男性読者・評論家から見て、けっして気分のいい指摘ではないのです。けれども創作家としての技量は認めざるを得ない。自分の口から「発禁」と言うことは、自由な表現の権利という観点からも望ましくない。

とくに1970年代まで「反権力」という意識が男性にも強かったわけです。

有名キャラクター(の名前)を利用する「二次創作」というのも、プロを目指して修練を積んでいた漫画同人会の集まりにアニメファンクラブが自主参加して来たことによって混合文化が生じたものです。

それが創作物として現れて来た以上、すでに創作技法を身につけた人からでなければ生じ得ない。少なくとも漫画原稿として最適な紙を買い、ペンとインクもそろえて枠線を引くことができなければならない。小説(と称する文章)を原稿用紙に清書することも同じです。大学ノートのままでは製本できない。

それは女性としては例外的に自立に近づいた人々から生じた余技であり、題材の多様化だったのです。

男性はいやがって描かないけれども女性は当事者感が希薄だからこそ描いてしまう。男性の一部が「百合」を書くなら女性の一部は「薔薇」を書く。

1870年代にシェリダン・レ・ファニュが『吸血鬼カーミラ』を書いていた以上、約100年後の日本の女流漫画家が美少年同士の吸血鬼物語を描いたのは、いろんな意味で快挙であり、また当然の流れでもあるのです。西欧から日本へ、小説から漫画へ、男から女へ。

先行したものが後発のものによって完全に否定されたのではなく、少し形を変えて受け継がれたのです。

革命だって、ほんと言うと政治家の面子が変わるだけで、社会と産業はそんなに変わらないのです。農場では野菜が育ち続け、工場は(破壊されないかぎり)操業を続け、天然資源の埋蔵量が急に増えるわけでもない。

話を戻すと、「二次創作」できるお姉さん達に中学生が憧れて真似をしたなら?

家事労働の担当者として消費・搾取されたくない気持ちの表れとは言える。ただし、それは独立したい気持ちの表れとは限らない。パラサイト・シングル希望かもしれない。すでにこの時点で多様なのです。

というか、独立したら(いきなりお手伝いさんを置けるほどの金持ちになるのでないかぎり)家事は自分でやらなきゃいけないわけですから、子どもの考えることとしては、一生パラサイト・シングル希望です。

ほんとうに実の親の抑圧・虐待に悩んでおり、一日も早く家出したいという子は少ない。多くが一日コミケで遊んだら、親の家へ帰って、ママが作ってくれた御飯を当たり前のように食べるわけです。夏休みが終われば学校へ行く。学費を出してくれるのは多くの場合、父親です。

それは少女の自立願望を表していない。

それは「一生、親の家でディズニープリンセス映画を見て暮らしたい」という願望と等価です。「一生ファミコンやっていたい」でもいいです。

それを女権運動のイデオロギーに取り込むために「いまや全ての少女が男性中心社会に抵抗し、BLしか読めなくなりつつある」と言ったとき、不具合が発生するわけです。多様性を全体主義に押し込めようとしたとき、どうも話がおかしいぞとなるわけです。

もともと多様化であり、枝分かれであり、多様性の共存であって、少女漫画的生産様式からBL的生産様式への移行論争は必要なかったのです。

茉莉も恵子も、女性目線のエッセイ(的漫画)や、少女を主人公にした小説(または漫画)を発表しており、読者も全巻そろえたわけですから。1990年代まで、少女向け雑誌に少女漫画と美少年漫画が両方載っていたわけですから。

常日頃はそちらで両方読んで、コミケ開催日だけコミケへ行って、二次創作BLだけ買って帰る(そういうものはコミケでしか売っていないから)という両立・共存・複数選択が、当たり前に行われていたはずです。

いまもって少女漫画読者とBL読者を截然と分かつ有意差など発見されておりません。

残念ながら日本の社会学者・評論家の一部がしたことは、証拠の捏造であり、現象のイデオロギーの鋳型へのはめ込み合成であり、嘘の報告だったのです。

がっ、それを克服できないまま利用してしまう人もまだいるわけでございます。

「私の好み=あなたの好み、イナゴ=コミケ、二次創作BL同人=ゲイコミュニティ」という連帯ごっこには、本人も周囲も気をつけましょう。


2017/01/26

二次創作BLの自己中心主義に自分で気をつけましょう。

なんの話題でも、それ自体の文脈に沿って理解することができずに「でも私の場合はね」と論点をすり替えようとする人は、もともと自己中心的だということができます。

すでにご承知の通り、二次創作BLというのは、有名キャラクターを適当に見つくろって利用する創作技法ですから、ひじょうに自分勝手なものです。

ですから、もともと自己中心主義な人が引きつけられて、入って来てしまうことがあります。

とくに「山も落ちもない」という言葉を真に受けて、本当に手抜きした作品を出展すれば、すぐにお小遣いになるなどと期待していた人は、もともと自己中心的な人です。

だから著作権問題に関しても「女の子だから大目に見てもらえる」とか「編集部が間に入ってくれるから大丈夫」などと勘違いしてしまうのです。なんでも自分に都合がいいように解釈してしまうのです。

だから、このタイプは他人の人権運動も自分に都合よく解釈してしまいます。新宿二丁目にゲイが集まっているのは私にエロい話を聞かせてくれるためだと思ってしまうのです。「女の子は、みんなホモが好きだから、質問してもいいのよ」と思っているのです。

実際には、その人が男女のことに関心がないことは、男同士に関心があることとイコールではありませんね?

世の中には本当に虐待被害によって男女のことが苦手で、BLも読めないという人もいます。性的な話題全般が苦手なのです。

逆にいえば男同士のことだけは興味がある人は、ただのBL趣味です。ゲイバーを自分の都合で利用したいだけです。

【イナゴ第一世代】

類は友を呼びますから、周囲には似たような人が集まります。それを見て「コミケ=私たち」だと思いこんでしまう人は、もともと横暴なマジョリティなわけです。

コミケ全体から見れば自分たちは「イナゴ」と呼ばれる迷惑クラスタでしかないことに気づかない。もっと広い社会全体から見れば単なる著作権法違反者でしかないことに気づかない。

「二次創作BLは弱者特権です! 女の子はみんなホモが好きなんです!」って言ってしまうわけです。

百歩譲って、女性がみんな男同士に興味を持つものだとしても、だからといって著作権問題が解決するわけではありませんね?

なのに、なにもかも混同して自分に都合よく解釈してしまう。同人の中には時々そういう人が含まれています。じゃっかん懐かしい感じがするのは、ギリギリで1998年まで、本気でそう思って議論していたフェミニストも結構いたからです。

なぜ1998年が画期になるかというと、この年に「トランスゲイ説」が発表されたので、女の子ではないことになったからです。でも、んなわきゃありません。

同人およびBL女子がトランスゲイを名乗ると、本物のトランスFtoMさんの大迷惑になりますので自粛しましょう。彼らは生まれつきの男性ですから「漫画の読みすぎで自分を男だと勘違いした女」だと思われると、ものすごく不愉快なのです。

一般に、本物の性的少数者さんは、同人・BLの仲間だと思われることをいやがります。くり返しますが、自分が男女のことに興味がないことは、男同士に興味があることの理由にはなりません。世の中には男女のことが苦手で、BLも読めないという人がいます。

逆にいえば、BLを読む人は、BLを読める人です。それはそれで、そういう特殊クラスタです。ゲイとイコールではありません。

BLおよび二次創作BLは、歴史的に「美少年だけが男に誘われてホモになる」という偏見を強めて来たので、本物の同性志向男性の敵です。連帯できると思ってしまってはいけません。たまには気のいいゲイボーイさんもいますが、女のほうで調子に乗ってはいけません。

自分がゲイバーへ行きたい時は仲間を誘う必要はありません。女のほうが多くなってしまえば、ゲイが居場所をなくします。一人で夜の街へ飲みに行くのがこわ~~いなんて言う女の子ぶりっこは遊びに行かなくていいです。おうちでBLを読みましょう。

ゲイはあなたを甘やかしてくれるホストではありません。ホスト遊びがしたければ、ホストクラブへ行って、しかるべき代金を支払いましょう。

アニメキャラクターを無断利用していたのと同じ気分で実在の同性志向男性を無断利用してはいけません。彼らは人間です。あなたと同じ人権があります。あなたのおもちゃではありません。あなたが男性のおもちゃにされる義務はないのと同じです。

あなたが女の子でも同じです。子どもでも他人の人権を守る義務があるからです。「女性は他人の人権を守らなくてもいい」という勘違いを広めてしまったフェミニストも反省しましょう。

なお、母親のトラウマは存在しません。自分で気をつけましょう。



2017/01/26

同人やっていた中年と、『薔薇族』クレーマーの危険な類似。

唐突なようですが、全体主義ってのは、内部に多様性を含んだ包括主義ではありません。誰かの一存に他の「みんな」を従わせようとする危険思想です。

さて。

当方は、もともと「1970年代の作品が懐かしいですね」って言ってるだけのものです。

『ヤマト』『ルパコナ』など、例を挙げるまでもなく、最近のアニメ作品は1970年代作品に直接トリビュートしているものが多いので、思い出す機会も多いからです。

その一環として「二十四年組の美少年漫画には魅力的な美少女キャラクターも登場します」というご紹介や、「パロディ作品と混同されているかのような呼び方はおかしい」という指摘も生まれて来るのです。

すると「私の同人誌には少女なんか出てこなかったよ!」と言って来る人がある。はい?

その人の同人誌はどうでもいいのです。二十四年組の話をしているのです。小学館漫画賞を受賞し、大学の学長になったり、紫綬褒章を頂いたりした偉大なプロたちの話です。

あなたは自分の眼で彼女たちの作品を読んだ上で「どうせ山も落ちもなくて、ただのエロじゃん。アニパロと同レベル」と判断したのですか?

「そうではないが、あの頃はBLという単語がなかったので、アマチュア同人誌と同じ名前で呼んだのも仕方がない」というなら、話が分かる。

けれども「少女キャラクターなんか要らないという読者が私の同人誌を買いに来た」というのであれば、二十四年組なんか面白くないよという意味です。つまり、いやがらせです。

かと思えば、1980年代の話をしろと注文をつけ、特定の少女漫画作品の題号を挙げて「自分同様に『少女キャラクターを無視して少年キャラクター同士のBL展開を期待していた』と言え」と命令してくることもある。

これらは何かに似ています。そうです。『薔薇族』にイチャモンつけた女です。

不特定多数(≒発行部数)の男性の好みに合わせた画像や創作物を自分一人のために変更してもらえると勘違いしている女。

これらの現象から、公式のようなものを2つ導き出すことができます。女性の中には他人の話・他人の嗜好をそれ自体として理解できず、自分の話・自分の嗜好にすり替えようとする人がいること。もう一つは自己主張する場所を間違えると嫌がらせになってしまうということです。

当方の場合は、例えていうと「1970年代二十四年組漫画の良さを語るスレ」を立ち上げた格好です。そこへ自分の同人誌の自慢をしたり、1980年代のほうが面白いという人が入って来てしまったわけです。つまり「荒らし」です。

【なぜ荒らしになってしまうのか】

荒らしはスルー推奨が基本ですが、これはBLおよび二次創作BL全体に反感を持つ男性が揶揄してきたのとはちがいます。同人やっていたという女性が他人の表現の自由を侵害したという話です。

なぜこうなってしまうのか。再発防止のために、これを考えておくことが重要です。とくに『薔薇族』の件のように新宿二丁目方面にご迷惑をおかけしないことは重要です。

なぜなら、結婚という人生の重大事を自分で決める自由を憲法によって制限されているのが同性志向者ですから、彼らのほうが弱者です。だから弱者配慮の名のもとに規制されるとしたら、同人・BLのほうです。

同人・BLは創作物の「分」を守って、実在の皆様にご迷惑をおかけしないことが重要です。

「でもBLはビジネスだから出版社が女の子の味方してくれるのよ」ではありません。出版社がBLを売ることができなくなって困らないように、あなたが自粛してください。

【弱者特権と我がままは違います】

もともと「弱者特権」というのは「男は『女はなにも言うな』って言うな」ということです。

「女が学問したいと言ったら笑われた、暴力反対と言ったら殴られた」など、抑圧されがちな女性の権利を守るために、女が男の自由を制限することは許されるという考え方です。

けれども、それが単なる「自分一人の性的興味を満足させてほしい」という注文であれば、周囲の迷惑です。

女性が「私は竹宮恵子がビョルン・アンドレセン(の若い頃)をイメージしながら描いた美少年が大好きです。私も美少年を描く漫画家になりたいです」というのは本人の権利です。

それを「女のくせに男を描いていいと思うな」とか「夢を見てないで料理を覚えて嫁に行け」とか言われたら、男性はそういうこと言ってはいけません! というのが弱者特権です。

これは本人ばかりでなく、ほかの女性も彼女と自分自身の夢を応援するために主張することがあるでしょう。

けれども大勢の同性志向男性が楽しみにしている雑誌に向かって「どうして私の好みに合わせた美少年の写真を載せてくれないんですか!?」というのは、ただの我がままです。

そういう雑誌がほしいなら自分で創刊しましょう。女性がカメラマンになることはむずかしいと思えば漫画家でもいいです。すでに1978年の時点で『JUNE』が創刊されていたわけですから、そちらへ向かって「美少年映画特集を組んでください」などの要望を出してもいいです。

または伊藤文学さんに向かって「男性のための情報交換誌ばかりでなく、女性のための美少年雑誌も創刊してください」と丁寧な言葉で要望書を出すのが筋です。

1980年代初頭というと、二十四年組および「アニパロ」を読みながら成長した女性が成人した頃です。だから少女向けとされていた漫画ではなく現実社会の一端であるゲイ雑誌に挑戦してみたということだったのでしょう。そこでビックリしてしまった。クレームする場所と言い方を間違えてしまった。いかにも女性の社会性が未熟だったのです。

もう、その時点でフェミニストが対応できるのが本当でした。

【悲劇のヒロイン、悪い男】

女性は悲劇のヒロインぶりっこすれば我がままを聞いてもらえると無意識のうちに計算することがあります。

「どうして私の好みを察してくれないんですか!? わざと私を無視して苦しめようとしているのね!? 男性中心社会の横暴ですよ!」というわけです。うそ泣きの一種です。

いっぽう、自分自身が悪い男に負けたと感じた時、その悪い男の真似をして、自分も強くなったような気分になることもあります。夫から怒鳴られる女性が子どもを怒鳴るのが一例です。

またいっぽう、ほんとうに職場や男女交際の場面で差別され、くやしい思いをすることもあります。

その悔しさが「弱者だから特別に配慮してもらう権利がある」という意識にひっくり返ったとき、悪い男ごっこと近接してしまうことがあります。

上記の例のように「自分自身が美少年漫画を描くことで独立したい」という気持ちと、他人に向かって自分の好みに合わせろと強制することを混同してしまうのです。

我がままを言っているだけなのに、自分では正しい権利のような気がしてしまうのです。

でも、これは男性が女性に向かって「俺の気に入るようにセクシーな服を着てこい」とか「飯はもっとうまく作れ」といって殴ることと同じですね。

他人の厚意の強要であり、搾取といいます。

冒頭の例に即していうと、個人サイトやブログにおいて「私は1980年代の少女漫画をBL化することが好きです。私もという人は『いいね』してください」というのは自分の権利です。

けれども他人に向かって「あなたの好みは私と同じでなければダメよ!」と言うようでは、もう病的と言われても仕方ないわけですね。

このタイプがSNSで廃人と呼ばれたというなら、理由は明白で、ほかの人に対しても「でも私の場合はね」という口出しばかりしていたので、誰も訊いてないよ、話しかけて来るなって言われたのです。

ここでめんどくさいのは、病的と言われれば「情状酌量してもらえる」と思って図に乗ってしまう人がいること。

さらに「幼稚」と言われれば「若いって言われたわ」と喜んでしまう人がいること。

さらに「女性は弱者なんだから団結しなければなりません! 女性は一蓮托生!」といって、なんか人権運動してるような気分になっちゃうことです。

共通するのは、なんでも自分に都合よく解釈してしまう心。もともとひじょうに自己中心的な人なのです。ひじょうに甘やかされて育った人です。これが同人の世界に引きつけられてしまうことがあるのです。なぜなら、二次創作BLというのは、たいへん女性に都合よく出来ているからです。次記事は「そこに気をつけましょう」というお話。

なお、このタイプが放射脳に粘着された場合は、なんでも自分に都合よく解釈してしまう心が同じなので、おともだちだと思われたのです。



2017/01/26

逃げたと思われると困るのはなぜですか?

小学校の遊び仲間から外れた、中学校の部活を辞めたという場合は、学校へは行かなくちゃならない。

休み時間に「なぜ逃げたんだよ」と絡まれるかもしれない。おなじ学区内に住んでいるから自宅まで押しかけられるかもしれない。だから小中学校、とくに公立のイジメは深刻なわけです。

企業ではどうか。辞めてしまえば、それまでの同僚とはお付き合いがなくなるはずです。転職できたら、転職した先の同僚と友達づきあいが始まるだけです。元の同僚が「なぜ逃げたんだよ」と自宅まで殴り込んでくるということは、ほとんどないでしょう。

そもそも「みんな」忙しいのですから、いつまでも辞めた人の噂をしていることもありません。逆にいえば、それだけ覚えていてもらいたい・期待されたいと思っている自分がいます。

その背景には「実際には期待されていない・評価されていない」という感じがあるわけです。

あるいは、もっと単純に小中学校時代のイジメ被害の記憶がフラッシュバックしているのかもしれません。けれども、過去は関係ありません。

これは発想の転換を促す文章です。辞めろと命令するものではありません。辞めるなと命令するものでもありません。決める権利は、あなたにあります。その判断基準を問い直すものです。



2017/01/26

ビデオゲームも野外遊びも両方好きでいいです。

「うちの子は、せっかく自然に親しませてやってるのに、ゲームをやるから困る」って言う母親がいるんですって。父親や祖父母もいるかもしれません。

両方好きでいいです。

昼間は外で遊んで、夜はゲームを少しやって、9時に寝かせればいいです。テレビと照明は消しましょう。成長ホルモンは夜の11時ころ、真っ暗な部屋の中で脳内に分泌されます。

昼間ゲームやって夜遊びすると不健全ですが、そこが間違ってなければいいです。

この「どちらか一方に決めなければならない」というのは、縄張り意識の一種で、危険性をはらんでいます。

おおきく考えると、近代国家の成立期に戸籍(納税先)が整理され、固定されていく過程で、イギリス国民かドイツ国民か、資本主義か共産主義かという二項対立が繰り返されてきたことによって形成された国民意識の一種です。

両方の味方っていうと、裏切者のように思っちゃうわけです。

けれども、この意識は不必要な対抗心、優越感と劣等感のいたちごっこ、無益な憎悪といったものを生みやすく、暴発しやすいわけです。

親子関係の場合は、母親の好みに子どもが合わせてくれないということですから、母親と夫、母親と姑などの関係性が反映された、びみょ~~なルサンチマンを含んでいる可能性がありますが、重要なのは……

「どちらかに決めなければならないという思い込み」そのものが、歴史のある時期に作られたものに過ぎないことを見切ることです。

ようするに「こだわらなくていいんだ」と思うことによって、自分自身が楽になることです。



2017/01/20

1978年5月『横溝正史シリーズⅡ 真珠郎』TBS系

金田一の腹具合はともかく、それから間もなく彼の予感は見事に的中した。

脚本:安藤日出男 撮影:森田富士郎 照明:中岡源権 美術:西岡善信 音楽:真鍋理一郎 監督:大洲斉

真珠郎は、どこにいる? アタックのきいた前衛的なチェロ音楽が魅力的です。自転車に乗る前にはブレーキのきき具合を点検しましょう。お断り:この原作には、金田一耕助は出ていませんが、原作者の了解をえて、登場させています。(字幕より)

TBS系テレビドラマ『横溝正史シリーズⅡ』第2話。昭和二十三年、城北大学から始まるお話。

大学の建物をはじめ、ロケハン、マット画を含めた美術陣、照明、撮影が良い仕事してまして、映画ライクな見応えを堪能できます。もとは娼家だったという建物は内装に赤が多用され、艶かしくも惨劇を予感させて魅惑的。鈴木瑞穂のナレーションも素敵です。

原作は(オスカー・ワイルドが普通に流行っていた)戦前のもので、事件そのものはよく組み立てられており、見どころ盛りだくさんで、戦後の金田一ものに通じる原点的作品だそうです。怪奇と幻想、残虐と耽美、湖畔の豪邸、謎の美少年、悲劇の美女。

道具立てはいいですし、観客をミスリードする面白さもあるんですが、ちょっとこのなんというかあれですよ。

原作準拠の御都合主義は言わないにしても、映像作品としてその、脚本と演出と編集に難があって、ミステリーとしてもホラーとしてもロマンスとしても中途半端感ただよう上に、もう少し手際よくやって前後篇くらいにできなかったか。テレビドラマなので「どうしてもここで3回ぶん消化しろ」みたいな事情もあるのかもしれませんが。

タイトルロールの読み方は「しんじゅろう」です。玉のような男の児だから。たまおくんではいけなかったのか。兄弟がいたら珊瑚郎くんや翡翠郎くんだったのか。ダイヤモンドなら金剛郎。強そう。なお、ドラマ中では美少年ではなく「美青年」と言っております。

時代劇で太刀持ちの小姓を女優が演じていると落胆する当方ですが、美少年または美青年というと女性的なのを想像するのはストレート男性の悪い癖で、この世には男性的の美しさというものもあるのです。

もっとも、このシリーズでは古谷=金田一が男の色気と愛嬌を担当しておりますので、犯人側は女性的で正解ではあります。

そして、そこ編集しちゃダメです真珠郎。あくまで目撃者目線の遠めのカメラでワンシーン・ワンカットにしないと。誰か溝口さん連れてきて。いや木下さんか。

もとより殺人事件ではあって、ほかにも人権蹂躙が発端にある話が多いのが横溝ミステリーであり、一度はやってみたい男のロマンでもあるんですけれども、ちょっとこれは極端な話なので現代にリメイクはむずかしいかもしれません。

1978年は、美少年漫画が一斉に連載スタートした年でもあって、流行の主題ではあったんでしょうけれども、当時の視聴者の評価はどうだったかな?

大谷直子のお嬢様ぶりが、とうが立った感がないこともない上に、どう考えても和服を着せるべきだったと思います。

金田一が要所要所で絡んでくる風情がよく、原田大二郎の人のよさが徹底している上に、長門=日和警部が単独行動なのは不自然ではありつつも、金田一とのデコボココンビが楽しいというあたりが救い。

これはしかしですね……

【以下、核心部分に触れますので未見の方はご注意ください】







オスカー・ワイルドから美少年(美青年)を連想するのは正しいわけですが、決定的に重要なのは「ズボンはいてるから男」という先入観であって、原作が発表された1937年現在でなければ成り立たない話なのです。

椎名はもともと空想的の性質があるわけですが、さらに「ドリアン・グレイのような美男がいるものなら会ってみたい」と言わせておくとよかったかもしれません。


2017/01/20

1956年10月、市川崑『日本橋』大映

芸者の操。あなたお笑いなさいまし。

製作:永田雅一 企画:土井逸雄 原作:泉鏡花 脚本:和田夏十 撮影:渡辺公夫 色彩指導:岩田専太郎 照明:柴田恒吉 美術:柴田篤二 音楽:宅孝二 助監督:増村保造

春で朧で御縁日。映画は大映。昭和31年度芸術祭参加作品。淡島千景、絶好調。山本富士子・若尾文子そろい踏みの美女ドラマ。楽しい仕事だったにちがいない監督、41歳。

1956年という制作年が信じがたいほど美しい「大映カラー」撮影で、変幻自在の照明に幻惑されます。音楽の使い方も抜群。原作にはほぼ忠実。占領時代を脱して文化的蓄積を誇ることのできる喜びを原動力に、さらに新しい展望を開く、ひとつの頂点を成しているかと思われます。これは映像をこころざす人は観ましょう。イラスト描きの参考にもなると思います。

実写ライクなアニメを完成形に導いたのが宮崎駿なら、アニメライクな実写という世にも稀な技法を完成させたのが市川崑。こういう人らがいるんだから日本でアニメが盛んなのは当然です。ディズニー様には足を向けて寝られません。

いろんな意味でアメリカという大きな傘の陰で成長してきた日本戦後文化ですが、映画だって文芸大作の裏には無国籍やピンクがあったわけで、アニメ業界の裏通りみたいなところをバッシングしても、たいがい無益です。それはともかく。

弱い男と強すぎる女。泉鏡花の独特な口調を完全再現した脚本は、やや唐突に濃い会話に突入いたします。

世界観の説明など今さら必要ないというわけで、かぎられたセットの中で明治時代の日本橋界隈の「みみっちい」人間模様を描く小市民劇にすぎないわけですが、もともと画家志望でアニメーションに習熟した監督の演出センスによって、後のミステリーを(逆に)髣髴させる華麗なサスペンスタッチなのでした。

市川さんの独特の編集センスと、音を演技の中から拾うのではなく「かぶせて」行く使い方は、実写監督としてはいかにも独特ですが、やっぱりアニメの手法なのでしょう。

お話のほうは、お考さんの清葉さんへの対抗意識が何によるのか明示されておらず、ここで和田慎二『スケバン刑事』ってのもあれですが、男性創作家が女同士の(根拠のはっきりしない)確執を描くことは時々あって、彼自身における「百合」趣味の一種なのだろうと思います。鏡花だし。

千景は女盛りの32歳、弾丸トークと言うべき気風の良さで、身ごなしの美しさは申すまでもなく、こういう女優が少なくなったと言いたいところですが……もとより、3歳から日本舞踊を身につけた宝塚娘役トップは花の中の花、玉の中の玉。

相手役は学生時代に「ミスターニッポン」に選ばれた素人だったそうですが、長台詞とむずかしい情感をこなす演技派でした。

『西鶴一代女』同様、物語の結末が仏道に入ることになるのは能楽を連想させるところで、僧侶の退場シーンを彩る笛が印象的です。

なお、後には洞窟へ入ることの多かった川口浩が子役で登場しております。赤ちゃんも可愛いです。

【以下、細部に言及するので未見の方はご注意ください】





お話はお考さんを主人公として時系列に沿って語り進める形に仕立て直してあり、彼女は芸者衆の棟梁として一家を構えているわけで、いまさら「女らしいことを覚えて嫁に行け」なんて叱られることはないのです。自立した女性なのです。だからこそ、いやな男につきまとわれるという苦労をしている。

そう思うと、原作は古いですけれども現代的な主題を持っている。ただし意地を通そうとする女と我がままを通そうとする男は、どっちも悪役として滅んでいく。

最後に残ったのは、老幼を守るために働く女性。もともとどっちの男も清葉さんの母性的なところに惹かれたわけで、それが母性的すぎて同情に流されたというのではなく、登場しない男性への操を貫いたことが称揚されている。

女が一家の大黒柱になるというのは常識の逆転であり、男女どちらにとってもロマンかもしれませんが、お前も頑張れと言われる若い女性にしてみりゃ面白い話ではなく、これで少しは家族を養う男の苦労が分かったら「いい子」になれという話でもある。

といって、男性が喝采するチャンバラ・アクションでもなく、いったい誰が観に行ったんだろう? と考えると、現代にも通じる市民劇を時代劇の衣装で演じるという、見た目にはロマンチックだけれども、お話としては地味な文芸作品が通用した時代があったことが、むしろ不思議なくらいです。

日本の女性は明治時代に歌舞伎役者をもてはやしたという話があったり、昭和初期の「モガ」の写真が残っているくらいで、わりと自由度が高かったんですけれども、やっぱり農村部や地方都市の自営業者の夫人たちは忙しかったはずです。実際に一日の休みもなく老幼の世話をしていたはずだし、映画中にも登場するような厳しい姑・小姑もいたに違いない。

女同士の対抗意識ということを考えてみても、「お素人」の女性が粋筋に見とれたり、なりたいと言うかというと、綺麗な着物を着られるからといって、男性が考えるほど単純ではない。

いっぽう、男のほうも「あなたに対して失礼な気持ちを持っていたことを懺悔するから、やり直させてください。正式に妻になってください」と言ったっていいのです。

彼は結局のところ、お姉さんが最優先であって、清葉に憧れたのもお姉さんに似ていたから。お姉さんの代わりに彼女に堅気の暮らしを与えたかった。清葉にも、お考にも、本気じゃなかった。赤熊ほどなりふり構わぬようにはなれない。

さらに言えば、お考の気風の良さの下に敷かれることを本能的に避けたのかもしれない……。

インテリの偽善。成金の倫理意識の低さ。意地を守るために現実放棄してしまう女。最後までブレない女。ついでといってはなんですが、おじいちゃんの存在を恥ずかしがらずに世話をする娘。

女性を主人公にしているけれども、やっぱり男性目線による女性の強さへの憧れと、逆説的なナルシシズム表現なわけで、だからこそ、1960年代に入ると、一風変わった女流小説が登場し、それを男性目線創作物へのアンチテーゼであるとするフェミニズム批評的解釈が、1980年代以降、まかり通ったのであったでしょう。

【逆転させてみる】

女流作家が美男をそろえたホストクラブの物語を書いて、その美男に付きまとう女性キャラクターが何人か登場するのです。自分勝手な理屈をいって、同情を引こうとして居座る。うわ~~。それを女性監督が撮る、と。

この構図から女性キャラクターを削ぎ落としたのが、実際に現代に見られる女流作品なら、女たちは自分自身を諷刺的に描くことを好まなかったのです。

男性の自虐的露悪的自尊心と、女の「自分のことは棚上げ」という欺瞞的自己愛。対比させるなら、ここです。


2017/01/20

1952年4月、溝口健二『西鶴一代女』児井プロ・新東宝

身分などというものがなくなって、誰でも自由に恋のできる世の中が来ますように!

原作:井原西鶴『好色一代女』 構成:溝口健二 脚本:依田義賢 監修:吉井勇 撮影:平野好美 照明:藤林甲 美術監督:水谷浩 音楽:斉藤一郎 

特別出演:文楽座 三ツ和会 人形:桐竹紋十郎 太夫:竹本源太夫 三味線:豊沢猿次郎 振付:井上八千代 琴:萩原正吟

観客の目線とともになめらかに人物を追う溝口流カメラワークによって、封建時代が撮れるようになった喜びと誇りを全力で表現した、婦女子道残酷物語。溝口先生、ほんとうに女が好きなんですね……。

元禄時代を完全再現した女性の髪形・衣装がたいへん魅力的で、ポスターは天然色ですが撮影がモノクロなのが惜しまれます。

田中絹代(1909年生まれ。公開年44歳)は20歳くらいサバ読んで前半を演じてるわけで、年増なことは隠せませんが、この情感は若い女優では出せなかったでしょう。顔立ちと気品が他から抜きん出ていることがよく分かる、別の意味で残酷な場面もあります。

『白痴』と『七人の侍』の間で若さを残した三船敏郎が力量のあるところを見せますが、脚本が荒いのか、やや唐突感があるようです。

民芸の雄、宇野重吉が登場すると、すごい安心します。

人物の動きとともにカメラが延々と移動するわけですが、背景となった建物が見事なので「京都でロケハンしたんだろうなァ」と思っていたら、すべて美術監督水谷浩入魂の実物大セットでした(!)

独立プロの第一回作品で、従来の撮影所が使えないので急場しのぎのスタジオを使用したそうですが、これほどのカネはどこから出たんだ。(銀行から)

物語は女性が観ていて気分のいいもんではなく、といって男性が観て血湧き肉踊るって話じゃないですし、これは戦後8年の世の中で、戦時中の文芸に飢えていた心持ちのままに貪欲に古典と純文学を吸収していた人々と活動屋の仕事ぶりの質を見抜くマニアを唸らせたのでしょう。

男の独善性を愚かしいものとして描くところは木下と同じで、カメラワークも含めて(主演が田中であることもあって)時々記憶が混乱するくらいですが、劣等感に基づく女の嫉妬が湛える深々とした悲しさは、溝口の特色かと思われます。

男のほうもコメディ性はないわけで、なんというか、あえてその意味での面白さを削ぎ落とした潔さが「女しか撮らない男のダンディズム」といったところでしょうか。

音楽がちょっと鳴りすぎなのも溝口の特徴で、和楽器の多用は海外観客を意識しているのでしょうが、作中の効果音としてどこかで祭り囃子が鳴ってるのか、劇伴なのかがはっきりしないところが困りものです。

横スクロール的カメラが印象的なクライマックス部分に使用されたアルペジオを全篇に配置するとよかったような気もしますが、そこだけ洋楽器というのは、その瞬間の日本人離れした心の沸き立ちを象徴しているのでしょう。

現在・過去・現在と推移する複式夢幻能の構成であって、シテが歩み去って終幕となるのも能楽の終演の情緒を帯びているかと思います。あと弔いて賜びたまえ。



2017/01/19

「私たちのもの」だから、フェミが責任取りましょう。

「男同士は異常だ」と書かれた創作物を読んで興奮した若い女性が、わざわざゲイバーまで押しかけて来て、我々に対して下品な質問をして困るので、対応してほしい。

ゲイコミュニティがこのように訴えてきた時に、フェミニストの答えが「そのような創作物は私たちのものです!」では、お話にならないのです。

ゲイコミュニティは最初から「あのように失礼な創作物は、あんた達のものだろうから責任取ってくれ」と言ってきたのです。

彼らは「若い女性」と言ったのであって「中学生」と言ったのではありません。彼らを困らせたのは、18歳以上のヤングアダルトです。

とくにお酒を飲めるようになった20歳以上の大学生・OLなどが夜の繁華街へ繰り出し、お酒と雰囲気に酔って、実在の性的マイノリティに対して、言葉の暴力をふるうのです。

だから「少女に良妻賢母教育を与えてはいけません! 女性を自立させてやるべきです!」という話に落としても無意味なのです。その自立した成人がセクハラしてるって話なのです。

女性を社会に出してやると、社会のルールもマナーも守れないことが証明されちゃったのです。

最初にその被害を明らかにしたクレーム文書は1990年代半ばの話ですが、その後も被害はなくなっていないのです。フェミニストはクレーム文書を受け取ったのに対応できなかったのです。

ここで重要なのは、クレーム文書が飲食店の経営者の名前で正式な抗議として発表されることはほとんどないという点です。客商売の心得として、彼らがお客の言動を暴露することはないのです。

逆にいえば、女性客の言動にたまりかねて抗議文を発するのは素人です。ということは、一般客に向かって「きみ、恋人いるの? もうやったの?」などと質問した女子学生がいたということです。いやらしいオヤジの真似をして自分だけ面白がっていたのです。

つまり「学生が暴れているから先生が引き取りに来てくれ」という話だったのです。フェミニストは理解することさえできませんでした。

その代わりに何をしていたかというと「なぜ少女は同人誌即売会に夢中になるのか?」という話。さらには、いかに少女が男性中心社会(の代理人である母親)によって抑圧されているかという話。

たとえて言うと「新成人の暴走による事故が起きて怪我人が出ている」という報告を受けたのに、オバサンたちは昔話を続けていたのです。「うちの母親がねェ…」って。

異常なのはどちらですか?

被害男性による「若い女性たちが読む創作物に『男同士は異常だ』と書いてあることが偏見を強め、不適切言動を生みやすくしている」という指摘は、至極もっともです。

もしも男性の創作物に「女が職場進出することは異常だ」と書いてあったら、フェミニストは激怒するはずです。その気持ちをもってすれば、異常だと言われた人々の悔しさが分かるはずです。

「他人の偏見によって定義される」という構築主義を否定すれば、フェミニストの自滅だというお話は、すでにいたしましたね?

【横取り】

管見によれば、プロ女流創作家の作品に「異常だ」という台詞はありません。同人が知ったかぶりして「編集がチェックしてるんだから当たり前じゃん」と証言するなら尚さらです。やっちまったのは同人です。

とすると、フェミニスト達は、同人が発行した同人誌を「自分たちのもの」であると詐称したのです。他人の発行物を横取りしてまで自分たちのものだと言い張りたいなら、責任もきちんと取りましょう。

この場合「男同士は異常だ」と書いたのは、フェミニスト自身だったも同然です。引き続き「異常だ」と言い張る権利もあります。言い張りますか?

それとも同性志向も正常の範囲における多様性であることを認めて、間違ったことを書いたことを謝りますか? 間違えてしまった時には謝るということを子どもに教えていませんか? 自分で出産していなくても、大学で学生を教えているはずですね?

子どもが他人をからかったのなら、再教育する必要があります。

異常だと思うから、からかいに行く子どもがいるわけです。正常な男女カップルを指差して笑ったり、突撃インタビューごっこしたりする者は、子どもでもほとんどいませんね? 成人なら本人が不審者として通報されるでしょう。

「異常か、正常か」という認識の違いは、その後の行動を左右するのですから重要です。社会学の先生なら、そのくらいは分かりますね?

百歩譲って「異常だからといって、からかってはいけません」とでも教える必要があります。文字通りには「常と異なる」ですから、パラリンピック選手なども、ただの平凡な没個性的な百人並みのその他大勢的モブ的エキストラ的フツーーーーの一般ピープルとは異なるわけですが、だからといって、からかってはいけないのと同じです。

そもそも、ご本人たちが「異常ではない」と言っているなら、正常であると認めるのが前向きな対応です。

【責任能力の自己否定】

つまるところ、この件に関わったフェミニストというのは、一人前の社会人として責任能力を認められたのに、自分から放棄したということになるのです。

なお、同人界は1980年代初頭から「絶対に本物を怒らせるな」が合言葉です。同人なら新宿二丁目へは行かない約束です。

その後になって、行ってしまったのは、残念ながら同人どうしの約束を知らない購読オンリータイプの即売会来場者。本来のサークル形態を取らなかったので先輩から注意を受けていない出展者。市販BL作品の購読者。および、フェミニスト自身です。

とくにフェミニストは、なまじっか社会参加ということを知っていて、創作物を共有するだけで終わりにすることができず、現実と混同し、実地検分に行ったり、説教したりしたがるわけです。

彼女たちに足りなかったのは、自分より若いゲイを守り育てるという意識。

1970年代初頭から、遅くも1985年頃までに、15歳以上のハイティーンに達しており、二十四年組および「アニパロ」を読んだことがあって、それらを混同して論じるような人々は、1990年代半ばには、生まれの早い人で40歳、遅い人でも25歳程度の成人です。彼女たちから見て、高校を卒業して新宿二丁目へ来たばかりという若者は、年下です。

小学生のうちから女っぽい・オカマっぽいなどと言われてイジメられて来た人々がやっと見つけた安住の地へ、わざわざ押しかけて、からかう女がいる。やっと見つけた心を許せる人との語らいを異常だと指さして笑う女がいる。彼らの怒りこそ神聖です。

クレーム文書は20年前の話ですから、当時学生だった女性は、いま40代です。若い人相手に優越感に浸っている中年のなかに、犯人がいます。

その指導教員たちは、人権運動家であるはずなのに、基本的人権の平等を教えることができませんでした。

その後、先生たちは定年を迎え、めでたく退職なさったかもしれませんが、女性が実在の同性志向男性をからかうという現象はなくなっていないので、問題意識としては現役なのです。

現在の大学でBLを研究材料にしたり、授業で取り扱ったりする先生たちは、若い学生が他コミュニティに失礼なことを言わないように、よろしく指導してやってください。同人および市販BL作品の出版社は、トラブルを望んでおりません。

なお、あなたには黙秘する権利もあります。



2017/01/19

女性が『薔薇族』に文句言う筋合いではありません。

1975年のコミケ初開催に15歳で参加した人は、1980年には成人します。

人によっては実家を出て、一人暮らしを始める。すると親に気兼ねせずに成人向け雑誌を講読できるようになるわけです。すると、女性が『薔薇族』の内容に難癖つけることも起きる。

……いや、だから。なぜそこでクレームする!?

ツイッターなどの無かった時代ですから、わざわざ手紙を書いて編集部へ投書したか、わざわざゲイバーへ押しかけて直談判したですな。そら怒りますわ、当事者が。

ようするに『薔薇族』に出てくる男は可愛くない・あたし達の趣味に合わないって、わざわざ言いに行った人々がいたんだそうです。なんじゃそりゃ。

このなんというか、女性の自己中心性ね。自分が正しいと信じている。言えば聞いてもらえると思っている。なに様のつもりか? 甘やかされて育った人々です。1960年頃に生まれたとすれば、今年57歳前後。

現代のBL女子は、ゲイが「女が描くものはきもち悪い」とか言って来たら、自分たちの先輩のほうが先に手を出したことを思い出しましょう。

いや、もしかしたらフェミな人々だったのかもしれません。同人が書いた「男同士は異常だ」という台詞へのクレームに対して、勝手に同人の代理人になって「男性が女性の書いたものを検閲してはいけません!」って言い返した人々。

女は男の表現の自由を検閲し、可愛くないとか文句言ってもいいと思っているのです。57歳前後だとすると現役の大学教員などの可能性があります。

「女性が搾取される姿を面白おかしく描いてはいけない」というならまだしも、他人の趣味にケチつけちゃいけません。もともと女性に見せるつもりじゃないんだから、彼らが女性の機嫌を取る必要はないのです。

つまり、女性からのクレームは「ほんものの美少年の画像が拝めると思ったのに、カネ返せ」っていう意味だったのです。男性の行動だとしても、下の下です。

これに同人が危機感を覚えたなら「BL(または同人)はフェミとは別」と言うのは当然です。

ゲイコミュニティに向かって「趣味悪い」って文句いってくる女がいたから、ゲイ側が対抗意識に駆られて「俺たちもBLに文句言ってやる」と思っちゃうようだと、同人・プロBL創作家、ついでに出版社は困るわけです。

趣味悪いよというクレームそのものは「ご意見無用」で突っぱねてもいいですけれども、ゲイ側から物言いがついたという対立の構図そのものが、同人・プロBL創作家および出版社には困るわけです。

ゲイのほうが弱者ですから、人権保護の名目で規制を受けるとしたら同人・BLのほうだからです。

何度でも申しますが、女性が結婚しない自由は日本国憲法において自己決定権として認められています。ゲイが結婚する自由は認められていません。彼らのほうが弱者です。

なるほど「子育てしないのに結婚させる意味はない」とも言える。では結婚したけれども子どもができなかったという男女は社会が離婚させるべきなのか? 扶養を認めないのか? 

少なくとも同性志向当事者が「なるほど人口再生産につながらない結婚は無意味だから結婚という制度にこだわることをやめる」と言わないかぎり、社会のほうから結婚させないと言うことは、やはり差別です。

堅気に迷惑かけないという「仁義」は、誰よりも自分を守るための約束です。

女性が自分よりも差別されている人々の「アジール」に乗り込んで、自己満足しようとするのは控えましょう。百歩ゆずって「テレビを観て来た」という人を同人の問題として制止する筋合いはありません。けれどもBL読者・同人やっていた人だけでも遠慮しましょう。同人がフェミの真似して「女の弱者特権だから」と言って新宿二丁目で目立ちたがるのは良いことではありません。

それやってるかぎり、口先だけで「同人はフェミとは別よ」と言っても説得力ありません。

どちら様も、もし、ゲイボーイズトークの内容や、彼らが演じるショーの内容が自分の好みに合わないと感じたら「女の子に配慮してほしい」などと甘ったれたことを言っていないで、さっさと帰って来ましょう。



2017/01/19

「LGBTは生理的に無理と言えばいい」の真意。

某市長さんのお話。これは「もっともらしい理屈をいって、おためごかしをしてないで、俺は差別したいとハッキリ認めればいい」ってことなのです。

某市長が「LGBTは生理的に無理と言えばいい」と発言したと報道されると、「言えばいいんだ」という脊髄反射が生まれがちですけれども、そこじゃないですね?

言い訳するな」が本当の意味です。

同性婚について「少子化が進むから良くない」と言うなら「孤独死を防げるから良い」と言い返すことができます。

同性婚を禁じられたから異性婚するということは起きないのですから、同性婚を禁止することによって、少子化は、良くも悪くもなりません。

少子化は異性志向者が結婚しなくなったことによるものであって、同性志向者のせいではありません。

そもそも同性志向というのは生まれつきであって「最近の若者はみんなオシャレで、なよなよしているから、ほっとくと全員ホモになってしまう」ということではありません。

ここまで説明した挙句に「しかし……」という人は、自分の中に「差別してやりたい」という気持ちがあることを認めましょう。

「あ、俺は差別的な、いやな人間だったんだ。いま、周囲の人からそう思われるようなことを言ってしまったんだ」と気づきましょう。

認めることが第一歩です。そこから反省して、差別しない人間になるもよし、あくまで差別人生を貫くぞと宣言してもよし。決然として選ぶ権利はあなたにあります。

自分自身の親御さんに対して、お子さんに対して、お孫さんに対して、配偶者に対して、親友に対して、恥ずかしくない生き方はどちらですか? そういう話です。

自分の中に、差別したい気持ち、言い訳したい気持ち、責任転嫁したい気持ち、「みんなそう思ってるだろ?」と他人に甘えたい気持ちがあることを認めましょう。くりかえしますが、それが新たな第一歩です。



2017/01/19

可哀想と思うことが悪いわけではなく。

相手に聞こえるように「可哀想」と言っちゃってもいい、と思っていることが差別なのです。

車椅子使用者を指さして、どっかの子どもが「可哀想」と言った。母親らしき大人の女性も「可哀想ね」と言った。俺は可哀想なのか?

人権擁護啓発ポスターの一節ですけれども、ここは「車椅子使用者は可哀想かどうか?」を議論するところではないです。

「思っても言わない気遣いができるかどうか」です。

だって「可愛い」とか「かっこいい」とか「きれい」とか「頭よさそう」とかだったら、他人を指さして、いきなり言っていいと思っていますか?

思っても言いませんよね? なぜですか? 失礼だと思うからですね? では、なぜ「可哀想」と言う時だけ失礼だと思わないことにしているのですか?

あなたは誰からそのような訓練を受けたのですか? あなたは何に操られているのですか?

実際に可哀想だと思うことはあり得るのです。体が不自由というくらいですから、不自由な思いをしているにちがいないのです。不慮の怪我・病気などなら痛い思いもなさったでしょう。お気の毒に、ご家族ともどもご苦労なさったんでしょうね……という気持ちが湧き起こったから、募金して差し上げるとか、手を貸して差し上げるとか、そういった気持ちの動きが悪いわけはないのです。

でも「可哀想」と言う前に、さっと手を貸してあげるのがスマートですね?

人は可哀想だと思った時、相手を自分と同じレベルの存在ではないから、失礼なことを言ってもいいと思ってしまいがちなのです。



2017/01/19

上野さんの百円レンタル発言の件。

2014年2月19日付『Woman type』の記事の話。

ふた昔前のような気がする話題ですけれども思い出したもんですから。個人的に、おかげ様ツタヤ様で本当に100円で映画観て幸せですから、そこはいいんですけれども。

年収300万円の男女が結婚すれば、世帯年収は600万円になります。今の平均世帯年収の400万円台を軽く超えますし、子どもに高等教育を受けさせるにも十分な額です。ですから、女性は年収300万円を確保しつつ、年収300万円の男性と結婚して、出産後も仕事を辞めずに働き続ければいい。

いやあの……最初から「女性がその300万円を得るためには保育所が足りない」って話だと思うのですよ。さらに男女を問わず「正社員になる前に派遣切りされるから、その年収300万円になかなか到達しない」って話のはずです。

いまや多くの男女が「4年制大学へ進学し、教員免許を取得したのに採用枠がなかった・非常勤講師にしかなれなかった」というところで悩んでいるはずです。男200万・女200万を維持するために昼も夜もアルバイトしているはずです。上野さんの母校でもそういうことが起きているはずです。

「でも、げんに300万取ってる人は、さっさと産めばいいでしょ」ってんなら、「産んだら保育所が足りないんだから、300万じゃなくなっちゃうでしょ」という話ですよね?

そもそも「徒手空拳の一般職OLが玉の輿」という発想自体が1980年代バブル組ですよね?

まだ上野さんの頭の中に「ワンレンボディコンギャル」みたいのが住んでいて、それに向かって「アッシー・メッシーなどといって男を使うことを考えてないで、勉強でもしなさい」と揶揄しているのです。

つまり、ご本人がまだ1980年代に生きている。現代の移民問題についても保育園問題についても具体的な提言はない。

祖母力も育児の外注も期待できない状況下で、女性が自分に投資して「稼ぐ力」をつけても、要するに産めないわけですから、つまるところ結婚をお勧めしていないわけです。

横暴な男性中心社会ありきで「どうせ男はあてにならないから女性は自立しなさい。こんな社会を再生産してやる必要はない」と当てこすりを言っているだけなのです。1980年代と同じことをくりかえしているだけなのです。つまり、事実上なにも言っていないに等しいのです。

腹の底に「自分はもう引退したから関係ない」という気持ちがあって、だから「上から目線」的な「幸せ発言」になっちゃうのです。引退した人のネームバリューを頼ってインタビューするほうもするほうなのです。

これが日本のフェミニズム。

なお、若い女性研究者の中には、よくそこに気づいたと言いたいような、眼から鱗が落ちる思いをさせてくれる人もあるので、がんばってる人はがんばってるのです。

女性は、一連托生ではありません。



2017/01/17

あわててクレームすると、お局さま編集者が威張っていることになってしまいます。

BL周辺が常に騒がしい理由の一つは、内部抗争があることでございまして、とくに市販作品の話をしている時に同人系が対抗意識を燃やして難癖つけてくるのは困るのです。

もともと「BLにエロはいらない」とか「10ページに1回エロを書けなどと言われたくない」とかいうのは、市販作品の制作に当たって、出版社の編集者が偏見を持っているので困るという、プロ作家およびファンの愚痴なのです。

アマチュア作家なら、自分の思った通りに書いて、自己責任で自費出版すればいいだけのことですからね。

背景にあるのは、もともと成人男性向けを編集していた男性社員が、1990年代に表現規制が厳しくなると、女性向けなら規制に対して「女性の弱者特権」という大義名分が立つので、BL編集にシフトしたことです。

彼らが「ポルノの書き方なら俺にまかせろ」という自負心を持っており、女性に言うことを聞かせようとしてくる。それに対して、女流作家・女性読者から「介入しないでほしい」という悲鳴が挙がっているということなのです。

だから、この話の着地点は「男性編集者は女性の自由に書かせてやってください。また多様化を求める読者の声に応えてあげてください」というものになります。

ここへ同人やっていた人が「女の編集者もいるんだよ! 私の同人の先輩は出版社に就職したんだよ!」と言ってくるならば?

そもそも「編集者が偏見を持っているので困る」という話をしているのですから、まさに「同人が威張っているので困る」ということになります。

女の編集者が、自分自身のコミケ経験だけを優先して「エロしか売れないに決まってる♪」と高をくくっている。「あんたたち新人は私の言うことだけ聞いてりゃいいのよ」といって威張っている。そういうお局さま編集者がいるということです。

もともとそういう偏見を持っている人が同人やっていたから、そういうものを求める人だけが出展ブースを訪れたのであって、会場の外には、もっと広い世界と多様な意見があるのです。

なのに耳を傾けようとしない。多様な意見がある可能性をイメージすることさえできない。そういう横暴なマジョリティ編集者がいるということです。

【誰の味方ですか】

この話題は、一般化すると「男性上司が女性部下の仕事の進め方に口出しして来るので困る」という話です。

男性上司にしてみりゃ「なにを生意気な」という話です。部下および同世代の女性にとっては「自分なりに頑張ってるんだから認めてほしい」という悲鳴です。あなたはどちらの味方ですかって話です。

ここで「あら、私の先輩は女だけど課長に出世したのよ」という人がいたら? なんの役にも立ちませんね? 誰のためのアドバイスにもなっていない。

えてして、中年女性の自慢話ってこういうものです。自分のことしか考えていない。

若い人は、自分も中年になった時、やっちまわないように気をつけてください。

なお、ほんとうにお局さま編集者がいて、若い作家相手に威張っているのかどうかは分かりません。クレームから逆算すればそうなるという話であり、あわてんぼクレーマーさんに対する皮肉の一種です。

もし、実際に身に覚えのある女性編集者さんがいらっしゃいましたら、若い作家たちの好きに書かせてあげてください。意外に売れるかもしれません。


2017/01/17

若い人が、おとなの女にはついて行けないと言っているのです。

「いまの若い人々からは、同人・BL作品といえども多様化を求める声が挙がっています」

という報告をしている時に「20年前にはエロが売れたんだよ! みんな私の同人誌を買いに来たよ!」と言われても困るのです。

まさに、そういう「昔とった杵づか」というつもりの中年が過激なものばかり発行するから、若い人が「私の読みたいものがない」といって嘆いているのです。

歳を取るにつれて、従来のものに飽きてしまい、刺激ににぶくなって、要求をエスカレートさせるのは当然なのです。どこの業界も同じです。

だから、かつて1950年代・60年代ふうの化粧が濃くてグラマーな「おとなの女」というイメージが苦手で、「少年愛」なら読める・美少年は私たちのものですと言っていた人々が、すっかりやさぐれちまって、オヤジとか、ガチとか、そんなことばっかり言ってるから、若い人々が反感を持っているのです。

もはや「女性キャラクターに感情移入できないからBL」という枠組みではないのです。おなじBLの中で「中年女性向けではなく、若い女性向け」という区分が生じつつあるのです。

これに対していちばん冷静な反応は「いいよ。若い子向けにプラトニックっぽいのも描いてやるよ。昔の萩尾先生とか、ああいう感じでいいんでしょ?」って言うことなのです。

本当にセミプロとしてやっている同人なら即応するのです。だって次世代のお客様の要望なんだから、自分自身があと20年やって行くために対応するのは当たり前なのです。

プロ・アマ問わず「でも私んところへはエロを買いに来る若い人も大勢いるけどなァ」と思う人は、すでにそういうお客様がついてくださっているわけだから、それを続ければいいだけですね?

「私はもう今からやってもエロ分野では壁サークルさんにかなわないから、純愛で勝負かけてみようかな」っていう人は、がんばってください。念のため、ダメもとです。

「でも私がやっていた頃は……!」といって怒っちゃう人は、もう完全に終わってる人ですよね?

20年前の自慢話はどうでもいいのです。新作の方向性をどうするか考えることができる人は、若い人の声を参考にするのです。プロも同じです。

【住み分け】

世のなか不思議な人もいて、自分は「ノンセク」で生々しいのが苦手だからゲイ漫画は読めないが、BLは超過激なやつしかあり得ないというのです。はい?

ゲイ漫画だって純愛路線がありますよね? ゲイ小説なら挿絵も写真もないのがありますよね?

BLとの違いがあるとしたら、BLのキャラクターのほうが少女漫画っぽい(女性的な人物を想像するように文章で書いてある)から、ゲイ男性の中にはいやがる人もいるということですよね?

だから、エロか純愛かにかかわらず、いまや比較的男性的な絵柄を好む人はゲイ漫画を買って、少女漫画ふうのイメージが好きな人はBLを買うという住み分けができているだけです。

なお男性の中にもBL好きな人はいて、とくに海外の男性は自分が金髪だったり、リアルに金髪への憧れがあったりするので、王子様的キャラクターを好むことも多いみたいです。海外ではゲイショップで日本の女流作品を売ってるそうです。

いっぽう、日本のゲイ漫画家の中には少女漫画のファンもいますね。女性の中には「自分では描けないけど田亀先生の絵も好き」という人がいるはずです。

もはや創作物の選び方もボーダーレスで多様なのです。20年前の偏見は参考にならないのです。

【視野がせまい人は友達がほしい】

「最初から金目でやっていた」と言いつつ、幅広いお客様のニーズに応えようという気持ちがなく、自分の好みだけを基準に他人の話に難癖つけたり、怒ったりしちゃう人は……。

じつは、自分自身にひじょうに好きなキャラクターとか、好きなジャンルがあって、その話題で会話できる相手を探していただけなのです。

だから、そのテレビ番組の放映が終わると、ジャンルを乗り換えることができなくて、そのまま終わっちゃったのです。

それならそれでもいいのです。イナゴならイナゴでもいいのです。同級生と一緒に流行に乗って楽しくやれたならいいのです。それが終わってしまった後で、恨みを残さないことが重要です。どのみち青春であり、部活動の一種だったのです。

若い皆さんも、基本的には「卒業とともに終わる」と思っといてください。大学在学中のレジャーの一種です。はまりすぎると人生が変わります。

卒業してからセミプロとして続けて行くつもりなら、本腰を入れて、幅広いお客様のニーズに応えましょう。たとえ規制がかかっても反対運動を続ける権利はあります。その根性がなければ「プロより売れている」などと言えた義理ではありません。


2017/01/17

BLは、男性中心社会における既成概念の追認にすぎません。

BLと呼ばれるようになった表現分野については「男性中心社会を否定しているのか、肯定しているのか」、まさにマルクス主義的な議論が行われていたわけですね。

けれども、実態は「男性が権力をにぎると、異性ばかりか自分の後輩にまで性的な意味で手を出すことがある」という伝説に依拠しているにすぎません。

また、かならず男女の真似をするというステレオタイプに基づいている。その際、年少者のほうが女に見立てられるというのも、古来より世界中で共有されて来た約束事です。

義兄弟の契り・ブラザーフッドというのは、本来は文字通り男と男のお約束というだけのはずですが、ときどき、立場の差を利用して性的欲求を満足させるということがあったのでしょう。

成人儀式として制度化されていた地域もあるといいますから、あながち「結婚(子作り)を強要された同性志向者が、やむを得ず起こした事態だ」とばかりも言い切れません。

簡単にいうと、ストレート男性による「いたずら」の一種であったことを否定しきれません。

とくに、ここ重要なんですが、女性の自己決定権が、少なくともその父親の権威によって保障されており、若者たちにはおいそれと手が出せないという時、彼らの後輩が犠牲になるのです。

女郎というのは女性にとっては辛い職業ですが、客にしてみりゃ「ただ」というわけには行かない。逃げようとすれば彼女の雇い主(と契約している地廻り)によって、えれェ目に遭わされるわけで、そういうリスクを取らずに済むのが後輩相手なわけです。

神話・御伽草紙などは、この関係を、若年者側の感情を無視して美化したものです。

ヒュアキントスというのは、呉茂一に全面的に依拠すれば、もともと(大地の女神の息子である)植物・穀物の神様だったんだそうで、それが同じ属性を持つ外来神であるアポローン(を信仰する人々の勢力)に負けたので、弟分ということになったんだそうです。

実際に「負けた」と感じたヒュアキントス信者の悔しさが時代とともに薄れたところで、美しい伝説だけが残ったのでしょう。

とすると、これは一種の民族同化政策の美化なわけで、男女であれば被支配民族の女性が支配民族の男性を喜び迎えたとなるところですから、義兄弟関係でありながら男女関係を連想することも容易に起こり得るわけです。

異性志向男性が読んだ時にも違和感がない範囲で、すなわち女役の若年者がもともと相対的に女性的であることを利用して、ホモソーシャルをホモセクシュアル化し、美化された情趣だけを消費するということは、もう何千年も前から男性が実行してきたことだったのです。

それは女性の発明ではありません。たんなる男性社会の既成概念の一つです。

ほとんどの男性にとって、若者の相対的女性性が利用されたという伝説が現実だったとは信じがたく、現実であれば仲間の不名誉であり、歴史の恥部だから、あまり言及しないだけです。

それを若い女性が知ったというのは、純文学も古典芸能もろくに知らなかった子どもが漫画を通じて「大人の世界を知った」というだけであり、既成概念を確認しただけであって、なにも否定したことにはならないのです。

むしろ彼女自身が男性中心社会の価値体系に組み込み直されただけなのです。だから、女性の人生も、なにも変わらないのです。女が男のやることに少し詳しくなったからといって、自分の宿題さぼっていい理由にはならないのです。

【宿題出さなかった子】

男同士に興味があるといえば自分自身の課題から逃げられると思うなら、プロレタリア人民のためと称してフォークダンスしていたのと同じことです。(参考:大島渚『日本の夜と霧』)

宿題出さなかった子は、たんに宿題出さなかった子であって、気がついたら成績が低下し、同級生に置いて行かれていたということになるのは当たり前です。

この場合の宿題とは、本人の価値観にしたがって、結婚でもいいし、出世でもいいです。出世するには外国語を勉強したり、資格を取ったりする必要があります。師長になるには、まず看護師の資格が必要なように。

それをやらずに、男同士のことが女性的に描かれた欺瞞的な創作物ばかり読んでいても、現実には何の役にも立たないわけです。これをフェミニストがちゃんと言わなかったのは、いま思うと罪深いことだったと思います。

それは本来、成人女性による老後の楽しみというものだったのです。森茉莉は離婚後の独居中年。竹宮恵子たちは1970年代当時としては結婚適齢期を逃したという他なかった二十代後半。

彼女たちは、その後もその種の物語を描くことで自活して行けるかもしれない。休みさえ取れれば女同士で海外旅行に行ったり、ロックコンサートに行ったりできるかもしれない。

でも年端も行かない少女たちがそのような暮らしに憧れるのならば、まずはきちんとした創作テクニックを身に付けて、プロデビューする必要があるのです。そのための修行期間を、ヤマも落ちもないアニパロを読むことだけに費やしてはいけないのです。

なお、アニパロで一生食っていけると思うことは(放送禁止用語)です。そんな夢を見ることができたのは、1988年頃のバブル景気の時だけです。あのころ実際に少女だった世代というのは、ものすごく人数が多かったので、同級生に支えられて「うまく」やっているような気分になることができたのです。

そもそも学生の間は「親がかり」です。それが「同人誌」を売ることによって数千円でも手にすれば、すごいお金持ちになった気分を味わうことができる。けれども一人暮らしとなれば、月に十万円あっても足りません。

卒業するまでに、最低でも親がなくなる前に、他の定職につく(ために資格を取る)か、プロデビューしてヒット作を持つ必要があるのです。

【きみが面白がることじゃない】

BLを何冊読んでも男性中心社会を批判してやったことにはなりません。それはストレート男性にとっても、ゲイ男性にとっても、なんの関係もないフィクションです。

女性読者から「男って本当にこういうことするんでしょ」と言われた男性は、たんに金井湛くんの父上のように「うむ。そんな奴がをる」と答えるだけであって、女性の自立にも支援にも何にもなりません。

女性が「ほら御覧なさい」と鬼の首を取ったような気分になっても、たんなる彼女の自己満足です。

彼らがそれを男性の特権であり、自分自身ではなくても仲間の自由の象徴であり、彼の意志は尊重されるべきであると考えるかぎり、女性に遠慮して自粛しよう・させようなどとは思いません。

むしろ女性に対して「そんな奴もいるが、きみが面白がることじゃない」と説教できる立場です。

BLファンの女性は、あくまで自分自身の身にお見合い話や危険なお誘いが振りかかって来た時に、他の女性と同様に自分自身の意志に照らして個別対応するだけであって、BLを読んでいることは、誰の参考にもなりません。

それはあくまで既成の男性社会によって承認された範囲における女性のナルシシズムを満足させるように調整された男の物語であり、フィクションであり、舞台劇の一種であり、見世物であって、「女みたいな男を見物する」という趣味にすぎません。

【間違った前提】

男性が描いた女子マネージャーは可愛くないから、または魅力的すぎるから感情移入できないからといって、男同士を読める理由にはなりません。

あえて例えれば、海老が食えないからといって蟹が食えるとは限りません。蟹もきらいな人はどっちも食わないだけです。飛行機が怖い人は船に乗るかというと、船酔いする人は船にも乗らないだけです。

仕事でやむを得ず船に乗る人はあっても、せっかくのお給料を読みたくもないBLを買うことに使う必要はありません。

BL論の弱点は、BLを読む人は少女漫画を読まないという排他性が無反省に前提されていることであり、少女漫画を読めない人はほかの何かを読まなければならないという強迫観念に支配されていることです。

この根本にあるのが「資本主義が超克されて共産主義になる」というダーウィニズム準拠的マルクス主義的段階的発展論なわけで、それに首まで浸かっていた世代が、いまの40代の大学教員たちの指導員だったわけですよっ。

けれども、もともと創作物なんですから、現代女性の自尊心を傷つけない女性キャラクターを自分で描けばいいのです。それが本当の女性の自立です。それを男に読まれてしまうというなら、どんどん描いて売ってやればいいのです。男より金持ちになれるでしょう。

けれども、どんなに女性として満足しても、満足されない趣味がある。受身の男性という特殊なキャラクターを消費することです。この要素があればBLで、なければただの少年漫画、またはイケメンが出てくる少女漫画です。

むしろ女性として満足したから、次の娯楽的選択物として、それまで目に入らなかったものが入ってくるのであって、男性の創作物を消費する順番としても、文部省(当時)推薦的なものを読みつくしたので、全集に挑戦したとか、文庫を買いそろえてみたという時に「あれ? 珍しいことが書いてある」ということが起きるわけです。

そこで「女の子みたいな男の子がいるなら会ってみたいわ」と思わないことには、彼のようになりたいと思うこともないし、彼に恋したことによって破滅する男に感情移入するということもない。

すべては、彼女自身が異性志向の女性として、女の子みたいな男の子に憧れたことによって起きることであって、あくまで女性の自認が確立している者が「女の子みたいな男の子って可愛い」と言っているだけであり、本人が「女の子は可愛い」と思ってりゃ、ごくシンプルな三段論法によって当たり前の結論にすぎません。

そしてこの女性の「ナルシスム」と異性への関心が両立できるから、女形出身の剣戟俳優は女性観客に人気があるというのは、1970年に生涯を閉じた三島由紀夫が生前に書いていたことであって、それはちょうど森茉莉がその趣味の三部作を立て続けに発表していた頃でもあって、もうその時点で答えは出ていたのです。(参考:『第一の性』)

(たま~~にストレート男性のBL読者もいるそうですが、これも基本的に「可愛い女の子みたいな男の子って可愛い」という趣味であると思われます)

【価値観の共有】

BLは世界中の男性が共有する「少女漫画みたいな顔した男はホモになる」というステレオタイプを流用し、男性のお相伴に預かっただけであって、男性の価値観から一歩も出てはいないのです。

だからこそ、それは「少女の内面」なのです。男性の価値観に従い、従属的な立場・補佐的な業務に甘んじ、自らの名において責任を取ることを免除されていることに安んじ、自分自身の選択にすぎないアニパロ同人活動を男性社会に操縦された母親の育児方針に責任転嫁し、自分より差別されているゲイの面前で自己憐憫に浸る。

だからこそ「BLしか読めない」といえば、女性として現実に参与することを拒否し、引きこもりたい気持ちを表現できると思う人もあるのです。

けれどもBLだけ読んでいても、ほんとうに何も起こりません。

男性がBLを読んでいる女の子を可哀想がって自分から優しくなってくれるということはありません。社会がBLファンのために自ら変わることはありません。

女が自分自身に与えられた課題を「人権侵害・時代錯誤」として批判し、政府・企業・社会に対して、自立に必要な賃金と安全を保障しろと要求したいならば、必要なのは男同士を眺めることではなく、ほかの女性と共闘することです。

【BLとフェミは一線を引いた友軍】

フェミニズムの本義は男になることではなく、女性として社会進出することであって、もし女性が男になったら男の真似をして若者を搾取するのであれば、男たちは全力でこれを阻止するのが正しいことになります。

だから「BLを読むことを通じて、男になって男を襲ってみたい気持ちを養っている」と抜かすBLファンは(もしそんなのがいれば)フェミニストにとって鬼門となります。

逆にいえば、フェミニストが男性の横暴性を弾劾し、男が自分の後輩を搾取すること・それを美化したイメージを共有することを深く反省させ、諦めさせてしまえば、BLは根拠を失うのです。

具体的にいうと「男が若者を搾取する物語は旧式なので、もう誰も描いてはいけません」ということになって、BL派にとって「女の敵は女」という話になるのです。

いっぽう、女性が男のような服を着たり、自由に創作物を選択することが「生意気だ」という理由で禁止されたり暴力を受けたりした時は、あくまで「男性差別しないでください」ではなく「女性差別しないでください」ということになりますね?

たんに「暴力反対」というだけなら、喧嘩の苦手な男性とも連帯できますが、女がズボンをはいてはダメだとか、女なら化粧して俺たち弱い男にもサービスしろとか言われた時には、やっぱり「女性差別しないでください」になるのです。

歴史ファンタジー的に例えていうと、「女性の尊厳」という城砦を守るには全ての女性と協力するが、城門を開いて「横暴な男性の首を取りに行こう」という遊撃隊には参加しないみたいなもんです。

【BLとゲイは別】

上記のようなわけで、BLとフェミは根っこが同じです。ただし戦略の方針が違うのです。じゃあゲイは?

あえて極端な例えをいえば、同性志向男性がいなくなったとしても、BLはなくならないのです。

なぜなら、前近代(を引きずっていた旧華族)の妻帯者が部下に手を出した・近代初期の学生が後輩に手を出した・しかもその後で妻帯したという伝説がある以上、現代の女性が「描いてみた」ということは、また起きるからです。

だから、ゲイを弾圧したい人、しかもBLも弾圧したい人にとっては二面作戦です。ゲイ側・BL側は、それぞれに個別対応です。連帯してもいいですが、しなくてもいいです。したほうが「お互いの足を引っ張る」ということもあり得ます。

1989年に「1.57ショック」ということが起きると、ちょうどエイズ恐怖による迫害に対抗してゲイコミュニティが露出を強めていたので、またそれに一般社会のほうで対抗して「男がみんなホモになったら子どもが生まれなくなって困るじゃないか」という危惧と、「女がみんな男になったら子ども(以下略)」という危惧が二人三脚になってしまったのです。

それに対抗して、ゲイと女は一蓮托生で連帯できると思ってしまう女性もいたのです。

けれども、ゲイに言わすと「美少年だけが男から愛されるのでホモになる」という偏見を強めたBLは、彼らの敵なのです。まして連帯と称してゲイバーをのぞきに来て、変な質問をする女が増えたのは、いま現在も本当に迷惑しているのです。

だから、ここは本当に「別」にしておくのが基本です。

【おまけ:二次創作の発生】

いったん「昔の日本ではそういうことがあった」と知った以上は、じゃあ現代では? 外国では? 未来の宇宙軍では? と連想が生じるのは人間の脳の性質として当然です。

だから、なんでもBL化という創作想像は、わりと容易に脳内に発生するのです。

あとはそれを表現する技術・発表する場があるかどうかということで、文字または絵として紙に定着させた時点または売り出した時点で、「女のくせに」と言われるか「ストレートのくせに」と言われるかで、クレーム返しする相手が変わるわけですね。

ゲイから見れば、BL表現は古いステレオタイプの焼き直しにすぎず、偏見の再生産でしかありません。

かつての評論家は、結婚したがらない女性が異性婚絶対主義社会に提出したアンチ・テーゼであるはずの同性愛表現が、ひじょうに異性愛的であることを不思議がったわけです。

けれども、それはもともと異性愛男性の価値観に合わせて調整されたフィクションであり、女性はその価値観に従属したにすぎないのです。

BLを何冊読んでも、女性は百年前のストレート男性の陰に隠れて、彼が若者を搾取する姿を見物しただけであって、同性愛を理解したことにも、ゲイを理解したことにもなりません。

絶対に、ゲイコミュニティのほうから連帯したがることはありません。



2017/01/17

創作ファンは国民の一部にすぎません。

1960年に20歳で、シュプレヒコールったりジグザグったりしていた人は、今年77歳です。(!)

1990年代には50歳代でしたから、大学教員としてゼミ生に影響力をふるっていた可能性があります。そのゼミ生が、いまや40代です。マルクス主義的発想・口調が無反省に受け継がれちゃってる可能性は、けっこうあります。

いま20代のゼミ生がBLを研究題材に取り上げると、自分の指導教員をすごい勢いで批判することになる可能性もあるので留意しましょう。

先達を批判し、超克することによって学界が進歩するのですが、ゼミ全体が気まず~~い雰囲気になる可能性は、あります。




1980年代・90年代のフェミニスト(その一部が社会学の研究者)というのは、自分自身が大学で出世できないことに悩んでいたので「いまや世界中の少女が男同士を見物することを通じて男女の結婚に反対している」という話に落として行くことが都合がよかったのです。世界同時革命ごっこの一種です。

けれども創作物というのは、あくまで創作物です。他人の想像を「記号」で表記したものにすぎません。そんなもん必要ないと思う人も大勢います。

たとえノーベル賞・芥川賞・直木賞・小学館漫画賞を受賞し、創作家自身が紫綬褒章を頂戴したとしても、全国民が読むわけではありません。

じつはテレビ視聴率10パーセントというのも、国民の一割が観ていることを意味しません。モニターの一割です。モニターやってない国民は誰もテレビを観ていない可能性だってあるのです。

全国民がおなじ時間にテレビを観ていて、そのうちの一割にモニターを依頼すれば、あとの九割のチャンネル選択行動を推定できると信じることのできた幸福な時代があったのです。

フェミニズム批評的BL論というのも、そういう時代の産物です。

大学という特殊な組織における男尊女卑に悩む女性が「私=みんな」と信じることができた。げんにプロ創作家である女性たち・プロをめざして修行にはげむ少女たちは、学者の仲間だといえたかもしれない。

けれども、それは日本人一億人以上のうちの、百万人にも満たない。

出生数の多かった時代にも、その成長後の大学進学率は2割です。200万人として40万人。半数が女性として20万人。200人収容の大教室で講義を受ける教養学部生の中に「同人やっている」人は何人いますか?

「人間200人いたら、3人は性的マイノリティだと思え」という話があります。ゲイ・レズビアン・トランスなどかもしれないということです。

同人やっている学生というのは、もっと少ないかもしれないのです。

それが創作家をめざしているのに「早く結婚しろ」と言われるのであれば、これは「自由のために闘う」という女性になるでしょう。けれどもBLでなくても自立はできます。

ごく普通の少年スポーツ漫画を描けばいいのです。塀内夏子という実例があります。竹宮恵子『地球へ…』は性的描写のない普通のSF漫画です。印税が入ります。忘れた頃に映画化・演劇化の話があって、臨時収入になるかもしれません。同人誌の自転車操業より将来性があります。

ほんとうに自立を望む少女なら自虐してまで二次創作BL同人活動にこだわる必要はないのです。プロなら自虐したことは一度もないのです。プロが自虐して作品を公開しなかったならば、その影響下に成立したというアニパロ同人活動もあり得なかったのです。

最初から成り立たない話をこじつけていたフェミ達は、自分が出世したかっただけです。

女性が職業と育児を両立させるために男性の倍以上働いても評価されないことは深刻な問題ですから、出世したいこと自体はいいのです。

でも、そのために事実を歪曲し、他人の名誉を傷つけたのであれば、研究史の恥部なのです。

【途中で逃げたフェミ】

アニパロ同人活動というのは、そのままではプロデビューにつながらないので、たんに学業成績を低下させるだけで、むしろ女性の自立のさまたげになるのです。

学生・生徒時代に同人活動に足をつっこんじゃった子というのは、自分自身を「腰かけ」と考えていた(結婚を機会に引退するつもりだった)か、自分自身を無資格な派遣労働者・パートタイマー候補として労働市場の底辺に位置づけてしまったのです。

「少女が社会進出しても出世の望みがないことに絶望し、モラトリアム化している。家庭という社会の最小単位の再生産の道具・シャドウワーカーたる運命に対して、サボタージュ、ストライキを試みている」

と説明するならば、そういう少女こそ、きちんとプロデビューし、男性編集者によって書きたくないものを強制されることなく、堂々とBLだけを描き続けられるようにサポートしてやるのがフェミの義務のはずです。

つまり、いつまでも二次創作させといちゃいかんのです。または少女自身が「一生アニパロで食って行きたい」というなら、彼女が絶対に告訴されないように、政府にかけあって、著作権法を改正させるのがフェミの仕事です。

そして、うら若い女性に言論上の公開リストカットのようなことをさせておかずに、「あなた達が自虐する必要はない」と教えるべきであるはずです。

あなた達を差別する社会をわたし達が変えてみせるから、若い人は堂々と描きたいものを描いて、それを誇らしい名前で呼び、一人で生きていっていいんですと教えるべきであるはずです。

二十四年組はそれをやったのです。なのに研究者によって「山も落ちもない」と呼ばれ、プロまで一緒になって自虐していたと言われ、価値をおとしめられたのです。

何やってたんですか? どこを見ていたんですか?

じつは、フェミ自身がふてくされていただけだったのです。大学で出世させてもらえないことについて彼女たち自身が厭味を言いたかっただけなのです。そのために「少女」を利用したのです。

本来、同人は本気で著作権問題を回避するために「二十四年組とはレベルが違いますから注目しないでください」と言っていたのです。同人は開き直ってなどいないのです。

ギリギリで1983年夏までの「ジャンル」はテレビオリジナルSFアニメであって、著作権問題の相手は個人プロデューサーまたはテレビ局です。漫画家同士だから大目に見てもらえるだの、編集部が間に入ってくれるだのという甘えは通用しないのです。同人は本気で逃げ隠れしたかっただけです。

それを「開き直っている」と解釈した人は、じつは同人のことではなく、自分自身の心を語っていたのです。

それはまさに女性的なのであって、男に負けない・男になりたいと言いながら、どうせ私なんかという自己憐憫に引きこもっていくのです。不幸自慢によって周囲を支配するという倒錯的権力欲なのです。

それをまた同人のほうで真に受けて、いまだに「女の子は弱者特権があるから大目に見てもらえる」とか思ってるようじゃ困るのです。

2017/01/17

シングル養子育児をイメージできていますか?

養護施設から引き取られた児が里親の愛情を確かめるために、わざといたずらしたり、食卓を汚したりということがあるそうです。決して怒らず、しんぼうづよく付き合うのが基本です。

彼(女)らが立派にひとり立ちできることの支援として世話をするのですから、いずれ基礎的な躾として「たしなめる」ということはあるでしょうが、「何回言ったら分かるの!」ではなく、百回でも千回でも穏やかな声で言ってやってください。

割れた皿を片付けている間に本人が住居を飛び出して行ってしまうかもしれません。あなたは一晩中さがし回ることになるかもしれません。おとなしい児でも様々なウィルス感染ということがあり得ます。

『ブラックジャックによろしく』に描かれていたように、救急病院へ行ったらすごく混んでいて、徹夜になるかもしれません。あなたはそのまま出勤することになります。

それとも急に休みますか? 職場の皆さんには「シングル育児することにしたので急に休むかもしれませんが、よろしくお願いします」と言ってありますか? 交替要員は見つかりそうですか?

周囲から祝福されて結婚したはずの人々でさえ「なんで子どもなんか作ったんですか」と言われるご時世です。

あらためて里親として登録しなくても、他のシングル保護者や親戚の子どもを一時預かりすることもできます。5時までに仕事を終わらせて、保育園・学童保育へ迎えに行くのです。

お稽古事には、格安のボランティア的なものもあるので、あながち贅沢ともいえません。学校以外の異年齢集団に加わることは子ども自身のためになり、将来の夢にもつながります。そこへ連れて行ってやることはできますか?

子どもがおおきくなって中学・高校と進めば、帰宅が遅くなり、それから学習塾へ送迎してやったり、泥だらけのユニフォームを洗ってやったりということになります。

子どもに才能があれば、全国大会へ行くかもしれません。予選と特訓が続きます。毎週土日が丸つぶれです。遠出するなら朝4時集合です。甲子園・代々木・花園・春高・インターハイ・国体・オリンピック・駅伝などの選手たちの活躍は、そのような保護者の努力に支えられています。

子どもが音楽や絵画などに才能があれば、おカネのかかる私立の芸術大学や専門学校へ行きたいというかもしれませんね。

政府は副業を認める方針のようですが、学費のために夜のアルバイトを入れれば、自分自身が夜遊びしたり、スカイプでおしゃべりしたりする時間はなくなります。

ところで、いまどのような住居に住んでいますか? 隣室・階下の住人から「子どもの声・足音がうるさい」という苦情を受けて、あなた自身が、いわゆるノイローゼになるかもしれません。

まことに残念ながら、児童虐待の現場としてテレビニュースに映し出される住居は、例外なく、せまいのです。

乳児を引き取った場合は、夜泣きによって毎晩のように徹夜させられる可能性は高いです。三十歳すぎて徹夜はつらいものです。まことに残念ながら、自分の産んだ児を三ヶ月くらいで投げ飛ばしてしまったという事件の当事者である母親は、年齢が高いのです。その三ヶ月の間、一睡もできなかったのだろうと思います。

「私だって、行政がシングル里親を認めてくれて、近所に24時間保育園を建ててくれて、ベビーシッター利用料金を補助してくれて、防音完璧な高級マンションへ優先的に入居させてくれるなら、一人ぐらい育ててやってもいいわよ」というつもりなら、発言を控えましょう。本当にシングル育児で苦労している方々に失礼です。

なお、ゲイ・レズビアンという人々は、ふたりで負担を分担する用意があるのに、立法および行政が「籍を入れる・配偶者控除」ということを認めてくれないことに悩んでいます。一生シングルを希望する人とは問題の本質が違います。

もし、ストレート女性が彼らと「弱者同士の連帯したい」というなら、数十万人の女性署名を集めて彼(女)らの夢をかなえてやるのでなければ無意味です。

たんにゲイバーで遊んでみたいという個人的興味を満足させるために「連帯」という言葉を軽々しく利用することは控えましょう。