2017/02/24

「壮大なコスプレ」の逆説。

映画というのは「原作のタイトルの権利だけ買う」ってことができるんだそうで、中味は別ものってことはよくあります。

ミステリーの犯人が違うとか、結末が違うなど、決定的な要素が変更されていて、タイトルが物語を象徴する機能を喪失してしまっていることさえもありますね。

いっぽう、コスプレというのは勝手にデザインを変更してしまうと、なんのコスプレだか分からなくなってしまうので、完全再現が基本です。

著作者人格権というのは、著作権者の名においてなんでも命令できる権利ではありません。端的には自分自身の「名前」を勝手に使われない権利です。

じつは著作権裁判というのはたくさん起きていて、ペンネームの無断利用は明らかに違法ですが、内容の流用・変更については、裁判に訴えた挙句に原告敗訴という例もあります。

けれども、おなじ創作道の仁義として、原作者の意向は最大限に尊重されるものです。原作者が書類をそろえて刑事告訴しなくても、いわゆる二次創作の「ジャンル」が停止することがあるのは、これによります。

だから、もし、実写映画化に際して原作漫画家が「あれは壮大なコスプレ」と言ったなら、「コスプレやるならちゃんとやれ」という意向を示したのかもしれません。

(念のため申し添えますが、「かも」ですよ)



2017/02/24

勝手に期待する人は、自分から逃げる人。

特定の少女漫画に登場する脇役男性キャラクターの名前を挙げて「彼らのBL展開を期待していたと言ってくれなければダメでしょ?」ってね。

言って来た人があったですよ。本当にビックリしたのです。

本人がそういう趣味でもいいけれども、なぜ他人が同じことを考えていると思い込んでいるのか?

やっぱりと言うべきか、そういう人が「ゲイなら絶対に私の気持ちを分かってくれるから、ちょっと新宿二丁目へ行ってくるわ!」って、なっちゃうのです。おいおい。

どうしてこうなっちゃうのかと考えてみるに、なんでも自分の思い通りになるという育ち方をしてしまったですね。

でも実際には「なんでも」というわけには行かないですから、どうして来たかというと、挫折するたびに他人のせいにして来たのです。

「ふつう分かってくれるのが当たり前なのに、あの人は生意気よ!」とか「おかしな人ね!」とか言って、自己正当化して来たのです。

もともと期待した自分のほうが図々しかったとか、人にものを頼む時の言い方じゃなかったと反省したことがないのです。自分自身に向き合うことから逃げてばかりいたのです。

ここんとこ、ここでもお伝えしている通り、古い映画ばかり観ておりますけれども「女って変わってないなァ……」と思うことです。また男性監督たちが女性の姿をよく観察してるなァと思うのです。とすると、これはあれですよ。

このタイプの女性がゲイの世界へ行ったら、ひとたまりもないです。

彼らの中には自分で脚本を書いてお芝居を上演する人もあるし、映画を自主制作する人もありますね。自伝的な小説を書いてプロとして発行している人もあります。当然ながら、それを観る人・読む人もある。

また当然ながら、お店のマスターさん・おネエさん達は、いろいろなお客様を見てきています。

彼らの前で、女が自己中心的な身の上話をして「あの人が分かってくれなかった、この人にだまされた」と責任転嫁ばかり言っていれば、本人にくだる評価は言うまでもありません。

なお、このタイプは同人の世界では「カップリング論争」をやらかしちゃうだろうと思います。

他人の好みを「そういう意見もあるんだ」と認めることができずに「そんなのおかしい」とか言っちゃうのです。自分の周りに似たようなタイプを集めて「こっちの勝ち」とか言って喜んじゃうのです。イジメ加害者です。

そんなこったから、だんだん友達いなくなるのです。すると自分のせいだと思わないですから「裏切られた」とか言い出すのです。

集団イジメ加害者ってのは自分が孤立することを恐れるのです。今度は自分がイジメられるという被害妄想を抱くのです。

だから他人が大勢集まっているところ(例えばゲイバー)へ乗り込んで、私って可哀想でしょアピールを始めるのです。同情してくれる仲間を集めたがるのです。やれやれ。

【女子はファンタジーに入りやすい】

教育関係者の実感として「女子はファンタジーに入りやすい」というのがあるようで、これは何もトールキン作品に詳しいという意味ではありません。

自分の脳内の想像と現実の区別ができなくなっちゃうってことです。なんでも自分の期待通りになると思っちゃうのです。たぶん脳の構造によります。右脳と左脳の情報交換量が多いのが女性だそうですから、リアルな想像を繰りひろげちゃうのでしょう。

もう実現したように思ってしまうので、実現しないと「みんなが私をだましている」といった被害者感が強く、精神のバランスを崩すということもあり得ます。

自分にもそういうところがあると思ったら、気をつけてください。


2017/02/24

2001年1月、井坂聡『人間の証明 2001』テレビ東京・BSジャパン

いっそのこと忘れてしまえるなら、いちばん楽なんです。

原作:森村誠一(角川文庫刊) 脚本:清水有生 音楽:和田薫 撮影:佐野哲郎 照明:渡部嘉 美術:太田喜久男 録音:鈴木肇

ビデオ画質。(まずそこ)

テレビ東京「愛と女とミステリー」第1回作品につき、高島礼子演じる女性刑事を投入したホームドラマ仕立て。子役たちがすこぶるいい演技します。

物語を1970年代から2001年現在までに移したので、沖縄ロケを敢行いたしました。主演クレジットは渡辺謙(1959年10月生まれ、撮影時41歳)。まだ若さを残しておりますが、底力を見せてくれます。冒頭はミレニアム熱も過ぎた日本の首都の気だるい爛熟ぶりをホームビデオ的な低い視点でとらえた構図が印象的です。

男性向けアクション映画の一種だった1977年版のスピード感・スケール感とは較べるべくもありませんが、ちょうどその行間を埋めたというべき共感度の高い心理劇となっております。

刑事部屋における会話、証人との会話など、刑事の職にある人々の日常的生活感を重視した演出で、画的には面白いことありませんし、会話で説明しちゃってるわけですが、逆に「これが女性向けテレビドラマ話法なんだな」と思うと興味深いです。(良いところを見つけましょう)

いわゆるトラウマに突き動かされるという表現がやや気になりますが、日本人の好きな要素ではあります。田中邦衛はさすがの名演。

四人の息子、四人の母親。真の強さを知る男たち。

脚本はじゃっかんなんというかこのアニメレベルですが、「新世紀に向かう」という台詞がある通り、戦後日本の成り立ちの根幹を問い直す問題意識の質は高く、タイトルが示す主題をも尊重した、見事な翻案だと思います。

女性視聴者を意識した(と思われる)テレビ番組らしく、いしだあゆみの服装も魅力的。印象的なスーツは、たぶん森英恵。劇中劇がやや長いので、1950・60年代のミュージカル映画トリビュートなのかもしれません。



2017/02/24

1956年4月、木下恵介『夕やけ雲』松竹

おとなには覚悟ってものが要るんだよ。

製作:久保光三 脚本:楠田芳子 撮影:楠田浩之 美術:平高主計 録音:大野久男 照明:豊島良三 音楽:木下忠司 監督助手:上村力

山のあなたの空遠く、胸に沁み入る77分。もはや戦後ではない1956年当時の大都会へ戻ってきて、片隅にカメラを据えてみました木下組。

出会いと別れ。男と女。兄と妹。少年と少年。60年前の青春。戦争が終わって、復興も終わって、それからのぼく達は、軒先に青い鳥を見つける前に、夕やけ雲に向かって、そっと告げることがある。

有名監督に向かって「うまくなった」というのもあれですが、印象深い忠司調スローワルツに乗せて、序盤から流れるように物語が一貫して参ります。同じ構図をくり返すことによって、劇中人物たちの世界のせまさを伝えているようです。

まだ電気こたつじゃなくて長火鉢を使っていた頃。食生活は安定したもよう。国民皆保険と内風呂はなかったもよう。音楽界ではテルミンが流行っていたみたいです。ひよよよよ。

ちょうど『野菊』とは裏表の物語。『日本の悲劇』の母親にあったかもしれない人生。『陸軍』の父親や、『二十四の瞳』の終盤に登場した低学年組のその後ということもできるかもしれません。

現代の観客は「またジャニーズか」って言うことが多いでしょうけれども、この当時も毎回似たような配役で、先行作品の続篇のような味わいになっているものです。

黒澤の人物たちは、洗濯オバサン達に至るまで、意図的に配置された演劇的虚構であって、カーテンコールに笑顔で登場して来そうですが、木下の「リアル横丁でロケハンしたついでに被写体も見つけて来ました」的な群像描写も、やっぱり魅力です。

ロケ隊が現場を引き上げても劇中人物たちがそのまま町の中で生活を続けている気がするわけです。良家の奥様には奥様なりの一貫性があり、魚屋の隣りのパン屋の女将さんには女将さんなりの人生がある。

黒澤がトップダウン式の支配欲の表現なら、木下は「他人を変えることはできない」という一歩引いた個人主義を感じさせるわけで、それは物語にも表れておりますね。母親でさえ子どもたちを変えることはできない。(実際の撮影ではトップダウン式の緊密な采配が振られていたことでしょうけれども)

いっぽうで、変えることができないのを澄まし顔で諦める母もまたいないわけで、泣きたい時は泣くのです。そうかといって暴力には訴えないし、狂気にも逃げない。真の強さとは。

なお、珍しい女流脚本は、ヘップバーンふうに装ったアプレ女子の本質を容赦なくえぐり出しております。



2017/02/24

同人の自虐は、開き直りではなく自粛するためです。

まず、先に言っておきますと、こういう話に対しては「私はべつに、そこまで考えて行動してるってわけじゃないのよ」と変な自慢する人が出てきます。

「私は社会学者ではないから弱者特権とか気にしたことないわ」ってね。

そういう人ほど「少女漫画からは二次創作が発生しないように編集が目を光らせてるけど、ほかは大丈夫って『みんな』が言ってるから、たぶん大丈夫よ」とか言っちゃうのです。

だからその「みんな」が言ってるいいかげんな噂の元々をたどると、こういうことだという話です。

考えの浅い人は、行動も短絡的で、最後まで読みもしないで、浅いクレームするのです。

若い皆さんは、恥ずかしい大人になってしまわないように気をつけて、自分で考える人になってください。

【自虐したのは、二次創作者】

竹宮恵子や栗本薫などのプロ創作家が自虐したことはありません。せっかくおカネを出して単行本を買ってくださるお客様に向かって「どうせ下手です」なんて失礼なことを言ったことはありません。

出版社が彼女たちの作品を発行し、宣伝するにあたって「山も落ちもない新刊です」と言ったこともありません。

自虐したのは、二次創作者だけです。

著作権者による刑事告訴または差止請求を受けないように、自分から目立たない必要があったのです。とくに若い後輩・読者に向かって「人に見せるようなものじゃない」と注意しておく必要があったのです。

が、ろくにフィールドワークも組織できない低レベルなフェミの連中が勘違いして「男性が女性をバッシングするから女性が自虐する。彼女たちを抑圧から解放してやらなければならない」という女権運動の文脈に落としてしまったのです。

フェミとしては「男が悪い」と言える材料なら、なんでもよかったのです。

それを同人・BLファンのほうで真に受けてしまうと、二次創作者がいちばん威張っているという怪現象が起きるのです。

あんまり騒げば告訴されたり、規制されたりするはずの人が、他人のブログや動画に二次創作妄想コメントを残したり、SNSで他人のアカウントに殴り込みかけたり、お墓に落書きしたり、新宿二丁目で人権侵害したりするのです。

そういう人は、口先で「同人とフェミは別」とか言っても、フェミに頼っているのです。

【中学生の勘違い】

コミックマーケットは、名前の通り、漫画同人会の集合場所です。出品されるべき物は漫画です。漫画とは小さい人物画と「ふきだし」が並んでいるものです。読んだことありますね?

けれども、コミケが別名「同人誌即売会」を名乗ったために、文芸サークルとアニメファンクラブが自主参加してきて、それぞれの会報すなわち同人誌を出品することが起きました。(その時代のことは知らないなら黙っててくれていいです)

もともと小説として男同士を描写することのほうが古いのです。古典文学・近代純文学の伝統がありましたから。(私は読んだことないとか言わなくていいです)

お互いに売ったり買ったりしている内にぜんぶ混ざって「アニパロ小説」になったんですが、イベント責任者の中には、そういう混在をいやがる人もいました。

端的には漫画だけを追求したい人が分離していって、コスプレでも小説でもいいよという人が残ったものが今のコミケです。(分離して行った人々の悪口も言わなくていいです)

これに1980年代以降に参加するようになった中学生は、最初からアニメを利用するのが当たり前だと思ってるもんですから、著作権問題を理解できませんでした。

だから「同人が自虐するのは男同士がヤバイからだ」と勘違いしちゃったのです。

で、プロの漫画も小説も自虐語で呼んじゃいました。本人たちは最新流行語を使っているつもりだったのです。同人の先輩たちにとっては「あいたた」です。

1980年代に中高生だった人は、10年経つと、そこそこ有名な社会学者になってることもありました。

だから最初から勘違いしたまま「コミケの世界で自虐語が流行するよりも前からプロ活動していた先生たちも自虐していました」という、訳の分からない学説を唱えてしまったのです。

なんでもいいから男性中心社会のせいにできれば、真実なんてどうでもよかったのです。証拠を捏造し、プロを名誉毀損してもいいと思ってるのです。

【はんぶん正解】

厄介なのは、フェミが言ったことが丸っきりの嘘でもないことです。

男性が女性アニメキャラクターのパロディ画を描いたものは、当時の男性編集長判断で市販雑誌に掲載されたことがありますが、男性著作権者によって事実上の許可を受けました。

男だけで若い女性の表象を共有しているわけで、これに向かってフェミが「女性全体に対して失礼です」と言っても、事実上あんまり効き目がないわけです。

いっぽうで、女性が男性ヌードを描くことは、例が少なかったのです。

明治時代から一貫して、女性が制作するものは女性を主人公にした物語または絵画であることが多く、女性が男性を描いて、女性が鑑賞するという例が少なかったのです。

けれども(1960年代初頭からぼちぼちと)男同士の性愛という文脈で男性だけを描写した小説作品が発表されて、1970年代にはそれをアレンジしたような漫画も発表され、それらの模倣が流行したもんですから「女が描くエロ=男同士」という短絡が発生したのです。

そもそも女性が男同士の性愛というテーマを得たのは、男性が書いた小説や、男性監督が撮った映画などを参考にしたからです。

レディコミの企画が立ったり、女性週刊誌にイケメングラビアが載ったりするよりもずっと前に、女流による男同士物語が少女漫画誌上で発表されてしまったのは、当時の男性編集長判断です。

(「私はその20年後の女性編集員と知り合いです!」なんて無意味な自己アピールもしなくていいです)

が、これに対しては「女のくせに男を描くのは生意気だ」というバッシングと「男同士なんて俺が認めん」という二重のバッシングが発生しやすいわけです。

それに対してフェミニストが立ち上がるというのは、筋違いというわけではないのです。

ですから本来は「女性の表現の権利も憲法で保障されている以上、男性単体だろうが、男同士だろうが、描きたい女性がいるなら自由に描かせてやれ。ただし他人の著作物を利用したものに著作権者がクレームして来た時にはその限りでない」という話なのです。が、後半が理解されなかったのです。

【トランスゲイ説による逆証明】

もともと、インターネット普及以前の社会全体として著作権意識が低かったので、議論した人々も、その問題はほっぽらかしちゃいました。

だから、一次と二次、漫画と小説を区別せずに「なぜ女性が男同士を読んだり描いたりするのか」だけが議論されたのです。

ほんとうは「漫画の練習になる」という口実なら、漫画としてのパロディは容認できるが、アニメをネタにした小説を何本書いても漫画家にはなれないという「ねじれ」現象を放置していいのかどうかという問題があったはずなんですが、誰も気にしませんでした。

だから、もともと「コミック」マーケットへ、ポスト二十四年組とも呼ばれる漫画家集団が紹介した言葉(をパロディにした自虐語)の話をしているのに、プロ小説家が自分から地雷踏んじゃうみたいなことも起きたのです。

背景には、1970年代前半に少女漫画由来の「男装の麗人」が一世を風靡して以来、成人女性の社会進出・女子中高生の非行・少子化と、女性の人生に関する問題意識が連続していたということがあって、著作権よりも男女差のほうが社会的関心が高かったのです。

いかに女性は不自由か、不便か、言いたいことが認められないか、男性の自由に憧れているかを強調することが重視されたのです。

そこで、なまじっか「女性が男性を『愛でる』ことが重要」なんて説明する人々があったもんですから、今度は女性が男性単体を「愛でる」という物語でもいいのに、なぜ男同士なのかという問題が発生したわけです。

すると、女性キャラクターに感情移入できないからとか、母親と喧嘩したことが心の傷になっているからとか、個々の家庭問題にまで立ち入った詮索がなされたのですね。

そういう詮索に耐えかねて、もともとトランスゲイですって言っちゃうプロ小説家が現れたのです。1998年です。

もちろん、それで終わりにならないところが味噌です。

もし本当に同人・BLファン全員がトランスゲイなら「カミングアウトしにくいから仕方がない」なんて言ってないで、二十万人の署名を集めて政府に提出すればいいです。

ところがそうじゃなくて、一部が「自分はトランスゲイだが、後から参加した連中は営利目的にすぎない」と言えば?

べつにトランスゲイでなくても書ける」ことが逆証明されちゃっただけなのです。

とすると、差別されている性的少数者における真摯な自己表現であり、人権運動の一種であるから、バッシングしてはいけないという理屈が成り立たない。むしろ「カネのために同性愛のイメージを利用するのは失礼だから、やめさせろ」と言えてしまう。同人ピンチ。

だから、ここで改めて二次創作同人活動を「自立を目指す女性の人権運動」として確立する必要が生じたのです。

二次創作同人は自立を目指す新時代の女性である。その生計手段を奪ってはならない。男性の気に入らないからといってバッシングしてはならない。告訴・起訴してはならない。女性は最大限に配慮されるべきである。女性には弱者特権がある。

そういうフェミニズム運動として、改めて位置づけられたのです。

だから少し前に青少年保護の話が出た時も、著作権保護の強化という話が出た時も「女性はいいでしょ」という人が、けっこういましたね。

「おなじ女の漫画家は権利にうるさいが、男の漫画家は女の子の二次創作を大目に見てくれるのよ」と、なんとなく信じている人がけっこういたのです。

これは男女格差を逆利用した弱者特権意識によってしか説明がつかないのです。

もし「べつにフェミのおかげってわけじゃなくて、編集部がビジネスのために男性漫画家を説き伏せて告訴させないようにしてくれているから、女の子は大丈夫なのよ」

と信じている人がいるなら、その時点で「編集部が漫画家の権利を侵害していると告発した」ことになる、ということに気づきましょう。(変な噂を信じちゃう人がいて困るのです)

【奇妙な流行】

トランスゲイ説の発表は1998年ですから、Windows98の普及によって、日本全国がインターネット元年を迎えた年と一致します。

だから、ホームページや掲示板を開設する人が増えて、著作権意識が強まり始めると同時に、それに逆行するような奇妙な現象も起きたのです。

すなわち、この頃から(間違ってトランスゲイであると定義された古い自虐語を避けて)キーボード誤変換に基づく新しい自虐語の流行が生じ、それを自称しつつ、どこにでも顔を出して、男性の趣味にケチつけたり、掲示板や原作応援ブログに二次創作妄想コメントを残すなどの不適切自己表現も流行し始めたのです。

つまり、「一部トランスゲイ説」が発表されたその日から、同人・BLはフェミと一蓮托生になってしまい、やたらと強気になってしまったのです。その意味では、トランスゲイ説はやぶ蛇です。orz

逆にいえば、それより昔を思い出して「同人はフェミとは別よ」と言っちゃう人は気をつけましょう。

「フェミとは別なら自己責任で男性漫画家に謝れよ」と言われたら、どうしますか?

【誤変換の矛盾】

「キーボード誤変換に基づく新しい自虐語」というのは、口頭で発音しても無意味ですから、最初から文字情報であり、インターネットスラングですね。

したがって、最初から「タグ付け」を目的として、男性のPCユーザーから生じた可能性もあります。

それを女性のほうで取り入れたなら、これは「反抗的な態度を見せつつ、男にくっついて歩く」という女性的行動の一例として、社会学的には興味深いですが、厄介な問題も残ります。

もともとインターネット上で二次創作妄想的な発言しなければ、自分からタグ付けする(自虐する)必要もないということです。

つまり、コミケ内部だけなら「最初からゾーニングできているから、それ以上問題視する必要がないし、むしろ著作権者も面倒に巻き込まれなくて済む」という状態なのに、わざわざ二次創作者のほうからインターネットに出てくるということです。

もし、他人のコメント欄荒らしを「フェミの後ろ盾があるから大丈夫」と思って、人権運動しているつもりなら、フェミの悪口を言うことはできません。

もともと「同人とフェミは別」とは、同人のほうから「ここに二次創作者がいます!」と言わないためなのです。フェミみたいにえらそうな顔してはいけませんという先輩からの注意なのです。

それを無視して「私は二次創作者です! 私を告訴してはいけません!」というなら、立派な戦闘的フェミニストです。

【一次ファンは名乗り直さなくていいです】

もう一度言いますが、プロが自虐したことはないです。読者のほうも、それを読んでいるからといって自虐したことはないです。今の人も自虐しなくていいです。プロの先生たちに失礼です。

国民には自己決定権が認められておりますから、なんと名乗ろうが、自分で自分にレッテルを貼ろうが、貼りたきゃ貼っていいんですが、プロ作品に関するかぎり、必然性はありません。

プロのファンとして「BLをバッシングしたり、法律で規制したりしないでください」と言いたい時は「何々先生のファンとして言いますが」でいいです。

「そんな私は、またの名をナントカ女子です」とレッテルを貼り直さなくていいです。

もともと市販品は、男性発行人の名において、自由な表現の権利に基づいて発行されているのですから、それを女性が買って読んだからといって自虐するには当たらないのです。

それを、あえて趣味が悪いように言うのは、自分の権利を主張する場所をまちがえないように。たとえば新宿二丁目へ乗り込んだり、掲示板荒らしになってしまったりしないようにという自戒・自粛の意味です。

が、著作権問題を抱えていない一次(のファン)は、これはこれで強気になりやすいわけで、それが二次創作者と弱者同士の連帯ごっこしちゃうと、ぶっちゃけ二次創作者の迷惑です。

いちばん困るのは、上でも言ったように、自虐語を名乗ることによって「仲間が大勢いる」と思ってしまい、自我拡大感を生じて、わざと悪いことをすることです。

それは「他人のせいにして悪いことをする」ということです。とくに職場でストレスを感じていると「社会に復讐するは我にあり」という気分になりやすいのですが、それではバカッターや劇場型犯罪者や無差別テロと同じことです。黒バス犯の同類になりたくなければ自粛しましょう。

【犯罪者予備軍】

同人やっていた、またはBLしか読めないという人が、駅で走り回ったり、イベント会場利用のルールを守れなかったり、お墓を荒らしたり、新宿二丁目を困らせたりするようなら「女性にBLを読ませると頭がおかしくなる」ということですから、同人・BLを規制したほうがよいことになってしまいます。

もし、二次創作BL同人が生活のためにやむを得ず二次創作BLを描いていることを知っているというなら、彼女たちのために、まず貴女が自粛してください。

「BLはビジネスだ」というなら、出版社を経営する男たちが「やばいから手を引こう」と思うことがないように、貴女が自粛してください。

「女性はもともと清く正しく美しいから、悪いことはしない(言われなくても分かってる)」というのも説得力がありません。皮肉にもなりません。

なぜなら「聖なる女性というイメージは、男性中心社会の再生産の都合に合わせて、女性をシャドウワーカーに位置づけるための差別的戦略だ」と指摘し、これからの私たちは本音で生きていきましょうというのが、まさに1980年代フェミニズムだったからです。

フェミが二次創作者を守り、勇気づけてくれるからこそ、犯罪者予備軍なのです。衝撃的ですよね。

ことの重大さが分かっていない人ほど、もう四十代になったのに、まだ「私には少女の特権があるのよ」とか言って、威張っているのです。

でも、同人・BLファンほど、フェミと一緒になって強気にならないことが重要なのです。

【他虐は差別です】

もともと「山も落ちもない」という言葉は作品そのものにつけるタグであって、人間を示す言葉ではありませんでした。

もともと同人はテレビに出たりしていなかったのですから、自分から「私たちナントカ少女です」と名乗ることもなかったのです。

それを人間を指す言葉として用いたのは、ゲイです。一部の女性が新宿二丁目まで行って彼らに失礼なことをしたので、彼らは復讐したかったのです。自分たちが「ホモ」と呼ばれることに対して、男同士に興味を持つ女性を差別的に呼ぶ単語を必要としたのです。「名指した時点で差別」ですね。

いっぽう、新しい自虐語は上記の通り、最初からインターネットスラングです。だから、ウェブ記事・ブログなどを書く中年男性が「俺だって若い女の流行に詳しいんだぜ」というところを見せたくて、やたらと使ってしまうことがあります。

けれども、紫式部もナントカ女子とか、歌舞伎ファンもナントカ女子など、他人に向かって余計なレッテルを貼ることは差別に当たります。

世界に誇る伝統文学や伝統芸能を侮辱する必要はありません。自分のほうが非国民になってしまわないように、ご注意あそばせ。



2017/02/23

ゲイからは可哀想と言われないという保障はないです。

「女友達から『未婚者は可哀想』と言われたから、ゲイバーに来た」

一見、もっともらしいようです。グッドアイディアみたいです。でも、ゲイなら憐れまないでくれるという保障はありません。

なぜ、あなたは女性のリア充が言うことを、ゲイのリア充は言わないと信じているのですか?

ゲイは自分が可哀想と言われることが多いから、他人が可哀想と言われた時の気持ちも分かってくれると思っていますか?

残念ながら、ゲイというのは、ゲイとは自称したくない人も含めて、根本的に男性ですから男尊女卑の気持ちを持っていることがあります。

日頃の腹いせを兼ねて、わざと聞こえるように「俺は可哀想じゃないが女は可哀想だよな♪」という可能性はじゅうぶんにあるし、可哀想とさえ思ってくれなくて、もっと冷たい眼で見る可能性だってあります。

お店に出る人々は、男性客から気に入ってもらえるように、きれいにお化粧する人もあれば、髭の手入れをなさる人もあるでしょう。料理の勉強もしているでしょう。自分のステディが昼の仕事に行く間、家事を担当しているという人もいるはずです。

彼らの前で「私は男のために苦労させられたくないの」と言えますか? 「自由でいいわねェ」と皮肉を言われない保障はありますか?

【お客様は神様ですが】

上記のような可能性をまったく無視して、女性が「ゲイなら大丈夫」と思ってしまうのは何故か?

女性がゲイの居場所に入り込む時には、おカネが介在しているからですね。すなわち、ゲイバーの客として飲食物を注文するから、サービスしてもらえると信じることができるのです。

けれども「弱者同士の連帯」と称して、プライベートでも交際するようになれば、やがて彼らも遠慮しなくなるわけです。

しまいに「BL好きな女って俺らに向かって下品な質問して来るからマジでキモい。なんでああいうのがいるの?」とか言われちゃう可能性だって充分にあります。

また、自分自身にとって弱点となるのは話題が少ないことです。

人生の早いうちからBLに親しんでしまった人ほど、本気で自分のことを「男女のことが苦手」とか「女性キャラクターに感情移入できない」とか思い込んでいるから、ふつうの漫画・小説を読んだことがない。流行の映画・テレビドラマなどを観ていない。

「わたし、男同士の過激な性が描かれた二次創作BLしか読めないの」と言ったところで、彼らから同情はしてもらえません。

それとも、話がここまで来たところで「ふーーん。お母さんのせいなんだ。可哀想に」と言われたいですか?

BL系統だって「昔の萩尾望都や大島弓子なら俺も読んだよ」と言う人がいるかもしれません。いまのBLだって、プロのものなら面白く読んでいるという人がいるかもしれません。

でも、アマチュアというのは「男同士は異常だ」という台詞をそのまま自費出版してしまい、即売会で売りさばいて、共有していた連中です。

同人が自分で「プロの作品は編集がチェックしてるから不適切な台詞が含まれていないのは当たり前」と証言するなら尚さらです。やっちまったのは同人です。

そのアマチュアが「即売会で売りさばくことだけを目的に、アニメキャラクターを利用していた」と自分で証言するなら、実在ゲイのことも自分自身の興味のために利用しているという意味になるだけです。

【底が浅い】

なぜ、この程度のことが自分で分からないのか? 創作を手がけていたという人が「会話の先行きを読む」とか「他人がどう思うか考える」ということが苦手なら、創作物そのものがひじょうに表面的だったのです。

すなわち劇中人物の心理に共感的な心理描写がほとんどなく、二人の将来の明るい見通しや、差別への怒りといったものも表現されておらず、一方的な暴力描写・揶揄的な言葉責めと、即物的なオノマトペが羅列されているという式の「小説」を書き飛ばしていたのです。

腹の底で「男同士は異常で、可哀想だから、笑える」と思っていたのです。

自分自身が男同士を憐れんでいるから、自分が不幸な目にあった時、彼らが同情してくれると期待してしまうのです。もし機会があったら、平謝りに謝っておきましょう。


2017/02/23

なぜ「BLぅ」とは言わないのかが論点です。

一部の女性がSNS上で使う「ホモぉ」という言葉について、ゲイ側もその意味するところが二次創作BLであることを知っていながら、尚かつクレームするのは、まさにそれが二次創作BLを意味するからです。

つまり、本来は「二次創作BLぅ」とつぶやきながら徘徊するべきところ、彼らがいやがることを知っていて、わざとホモという言葉を使うので、彼らに対するいやがらせとして機能しているのです。

だから、クレーム返しは「ホモって言うなって言うな」ではなく、なぜ「BLぅ」とは言わないのかについて弁明が必要です。

国民には自己決定権というのが保障されていて、自分に不利になる証言はしなくていいことになっているので、べつに弁明しなくてもいいんですが、わざわざしゃしゃり出てきて反論しようというなら、論点はそこです。

BL関係者の中には、ときどき興奮しやすい人がいて、自分の中で論点が整理できていないうちから、カーーッと怒ってしまい、言わなくてもいいことを言ってしまうものですが、まずはふつうに落ち着きましょう。

BLの話題は男性の「性」の要素を含んでいるために、女性を興奮させやすいのです。BLという文字を目にしただけで「ギャーーッ! やばい! やばい! うひひッ♪」と、なっちゃってる人もいます。こういうのは「そういうものなんだ」と自覚することで沈静化できます。

なにごとも「気づき」が第一歩です。

スマホのやり過ぎは脳の機能低下を招き、うつ病に似てくるという説もあります。自分が被害妄想っぽいなと思ったら、とりあえずツイッター閉じていいです。明日になってから自分のブログに記事を挙げても遅いことはないです。

最近はLINEがあるし、リスト機能も強化されたので、炎上も減ったかもしれませんが、また似たようなことも起きるかもしれませんし、思い出したので言っておきます。



2017/02/23

それは「ノンセク」ではなく、トランス・チェイサーといいます。

まず、今年20歳前後の若い人の親御さんというのは、45歳前後の可能性が高いです。

現在では、LGBTの子どもを持つ親の会も結成されています。当事者を含む教員どうしの連絡会もあります。当然ながら、彼(女)らは「大事な息子・娘が中年に利用されないように守る」という意識を持っています。

中年は、自分自身がまだ小娘のふりをして若い男に付きまとっていたら、自分と同い年以下の親が出てきて「うちの子になにかご用ですか」と言われるという可能性を、じゅうぶんに覚悟しておきましょう。

【トランス・チェイサー】

ゲイというのは、ゲイとは自称したくない人も含めて、まずは男性ですから、ごくふつうに男尊女卑の気持ちを持っていることがあります。

「女が飯を作るのは当たり前でしょ」とか「女が子どもを育てるのは当たり前でしょ」とか思っているかもしれないのです。もし女性がゲイ(のカップル)と同居したら、問答無用で料理と育児担当にさせられちゃうかもしれないのです。

にもかかわらず、女性のほうでその可能性をまったく無視して「ゲイは女の心を持っているから、私たち女の子が結婚したくない気持ちを分かってくれる」と期待するなら?

それは「体は男で、心は女」という人物を探しているということです。それを「トランス・チェイサー」といいます。チェイサーは追いかける人という意味です。

それは、ストレートの都合で性別違和の人を利用するということです。

ストレート自身が実際に「ノンセクシュアル」かもしれませんが、その中でも悪いタイプです。

とくに、ノンセクシュアルであることと、BL趣味であることと、二次創作をぜんぶ混同して「私は結婚できないから他人の著作権を利用するのは当たり前」と言っちゃう人は、やっぱり勝手な言い訳をしながら実在ゲイバーや実在トランスを利用したがるのです。

念のため申し上げておきますと、二次創作同人全体にとっても迷惑です。

【弱者特権の勘違い】

上記のような勘違いを起こす人というのは、弱者特権という発想を、自分に都合いいように拡大解釈しているのです。

本来、女性の弱者特権というのは、女性が男性と平等になるために「ハンデ」をもらうということです。

女性はもともと(出産という)荷物を背負っているので、ゴールラインまでの距離を短くしてもらうということです。また「そもそも出場するな。生意気だ」などの、いやなことを言われないということです。

それを勘違いして、自分のほうから爆弾なげて隣りの出走者を怪我させるとか、観客に向かって悪口を言うとか、そういうふうになっちゃうことが拡大解釈です。

女性が社会進出できるのは、女性自身は悪いことをしないのが前提で、男の真似して悪いことをすることではありません。

競争に勝つためには、事実として、競争相手である男性を泣かせることになるわけですが、それは競争相手ではない男性をも泣かせていいという意味にはなりません。

女性が政界・企業で出世できるようになったからといって、ゲイバーに割り込んでいいわけではありません。ここ重要です。

【夜の街で中学生ごっこ】

早いうちからBLに親しんでいた人は、男同士の姿や話題に接すると、自分の心がその頃に戻ってしまうということがあり得ます。

人前であることも忘れて「やばい、やばい」と騒いだり、ガールズトークと同じ乗りで実在男性に向かって性的な質問をしちゃったりするわけです。コミケの中で(または長電話で)おしゃべりしてる気分になっちゃうのです。

ファミレスを占領するオバサングループがうるさいのも、女学生時代に戻っちゃってるからですが、ゲイバーは休み時間の教室ではありません。もともとあなたを歓迎するための店ではありません。あなたに入って来てほしくない店です。

【ゲイバーとは】

毎日ゲイ団体の貸し切り予約が入っている店だと思えばいいです。

その扉を叩いて「私たちも入れなさい! 男だけで楽しんではいけません!」というのは、悪いフェミニストです。

それは、女子校の同窓会パーティーに俺も入れろという酔ったオヤジと同じです。

「でも実際に『ゲイ貸し切り』って書いてないからいいじゃん」というのであれば、男性が「女子トイレに『女性専用』ってハッキリ書いてないから俺が見物目的で入ったっていいじゃん」というのも認められることになってしまいます。

「それは、男はダメだけど、女ならいいのよ」というのであれば、それが弱者特権の勘違いということです。

【ゲイにも息抜きが必要です】

彼らには、女やストレートの悪口を言える時間が必要です。

「女ってほんとバカだよなァ」とか「職場に下品な女がいていやだ」とか「俺がゲイだと知った途端に興味津々で質問してくる同僚がウザイ」とか言える時間が必要です。

でも、女性が彼らの居場所に入り込んでいって「私がここにいる以上、女の悪口は遠慮してちょうだい!」というなら、無料サービスを強制しているということです。

ゲイの気持ちとしては「ゲイバーまで来て、女に気を使わされたくない」だろうと思います。

【ノンセクとBLは別】

性的な話題が苦手なら、児童文学を読んでくれて全然OKです。料理や手芸の写真を投稿すれば「いいね!」を沢山もらえるでしょう。「ノンセクシュアル」を自認する人々の中には「少女キャラクターにしか興味がない」という人もいるはずです。

男性を見て興奮する男性もいるという話を、その当事者の口から聞いてみたいという人、そういう目的でゲイバーを利用したいという人は、たんにその人がそういう趣味だというだけです。それは弱者同士の連帯の代表ではありません。自分の興味を満足させているだけです。

(「女性もどうぞ」と言ってくださるお店に入って、ふつうに礼儀を守ってお酒を飲ませて頂けばいいので、わざと歓迎されない店に入っておいて「ノンセクだから」とか、変な言い訳しなくていいのです)


2017/02/22

1970年10月、黒澤明『どですかでん』四騎の会・東宝

さァ、発車しようぜ!

企画:四騎の会(黒澤明・木下恵介・市川崑・小林正樹) 製作:黒澤明・松江陽一 原作:山本周五郎「季節のない街」新潮社版 脚本:黒澤明・小国英雄・橋本忍 撮影:斉藤孝雄(三船プロ)・福澤康道 美術:村木与四郎・村木忍 録音:矢野口文雄 照明:森弘充 音楽:武満徹 監督助手:大森健次郎

クレヨンの色、トタンの色、エバーグリーン。黒澤初のカラー作品は、目の離せない役者たちの名演ぶりと、カラーで撮ることの楽しさに溢れております。武満とは思えぬほどのほんわか音楽から入るオープニングのノスタルジックな明るさと内容との落差は……いや、完全に一致してるかな?

知的にも画的にも物すごい見応えで、まごうかたなき名作ですが、いきなり観るとビックリしそうなので、やっぱり先行作品を観てきて「黒澤さんはこういうのが好きなんだね」という心構えをつけておくのがいいだろうとは思われます。

六ちゃんは長次くんですよね。子どもは5年の間にすっかり大きくなってしまうものです。ちっちゃい時から名演技でしたが、今回も見事です。彼の目に映る世界と、観客の目に映る世界は、いずれが虚か実か。黒澤の演劇好きもここまで来たというべきか。

ロケハンも見事です。いい感じにどん底っております。もはや監督のフェティッシュと言っていいかもしれません。ウェザリング技術を駆使して要求に応えた美術陣に一本贈りたい気分になります。ときどきカメラが微動するので、思わずカメラマンを応援したくなります。が、がんばれ。

それにしても落ちるのか、この話? じゃっかんの不安を抱えつつ。

1970年というと、東映ギャング映画では「団地」が林立している様子が見られましたが、観客はマイホームの夢を見るようになっていたでしょうか。かつ子ちゃんの叔父さんは、たぶん1950年代の闘士だったのでしょう。いっぽうで「整備の奴ら」を仮想敵にする六ちゃん。

小さな自尊心と夢を自給自足する人々は、活動屋自身の暗喩なのかもしれません。二次元コンプレックスな人々も身につまされるかもしれません。

映画館に行く人というのは、あるていど余裕があるわけで、どっちかってェと差別する側なのです。演劇に詳しい監督は、明らかに道化による誇張的演技を通じて社会諷刺する手法を取り入れているわけで、観客に喧嘩売ってるんですが、観客は興行収入という結果で報いたというべきなのかどうなのか。(ランキングは悪くなかったようです)

5年ぶりの新作で、わざわざマニア受けを狙った……わけでもないんでしょうけれども。

いっぽうでカメラワークが従来とはちょっと違い、別の意味で実験的でもあるように思います。とくに1時間10分あたりから、流行りといえば流行りのカメラ使いが観られるとともに、釜足さんが底力を見せてくださいます。

伴淳三郎も喜劇俳優の面目躍如たる名演です。たんばさん(渡辺篤)美しいです。三波伸介は納得の役柄でした。

希臘悲劇にも詳しい黒澤さんは、ちょっと女性の聖性に期待しすぎるようなところもあって、女性から観て納得しやすい話ではないかもしれませんが、その木下さんとは真逆な虚構性というか、まさに劇的な要素が持ち味ではあるのでした。いつ洗濯が終わるともなく座り続けるおばさん達は、コロスっていうか地謡……?

今回は、女の口から赤裸々に性的な要素に言及する機会も多かったようで、この監督なりに新時代の女性を応援してるのかもしれません。皮肉ばかり言っているようで、根は純情な女好きだよな、と思われる監督さんではあります。



2017/02/22

1962年4月、市川崑『破戒』大映

そして、死ぬまで皆さんと同じように人間なのだ。

製作:永田雅一 企画:藤井浩明 監修:松本治一郎 原作:島崎藤村 脚本:和田夏十 撮影:宮川一夫 録音:大角正夫 照明:岡本健一 美術:西岡善信 音楽:芥川也寸志

映画は大映。文芸大作感あふれるオープニング。重厚なキャスティング。そして牛。

話が見えないうちからたたみ掛けるように、市川らしいアイディアと、安定の宮川カメラによる魅力的な画が横溢しております。緊迫感のうちに独特の節回しのある夏十的台詞の連続によってテンポよく明かされる深刻な事情。

個人的には序盤で長門が演じる役の言ってることのほうが意味が分からない気がしますが、この手のお話は、もちろん「観客の皆さんはこれからもこういう差別を続けるといいよ!」という意味ではございません。

観客の多くには「こんにちただ今までの自らの行いを振り返る」という意味があるわけで、映画監督から喧嘩売られてるようなものではあります。

ひとつ重要なことは、新作映画を真っ先に観ることができるのは都市生活者なわけで「田舎のほうはまだこんなふうなんだね」という微妙な優越感に訴えてしまう機能もあるので、現代でも鑑賞の際は自分に気をつけましょう。

どうにも文芸大作ですから、ラセターさんのアニメのように都合よく波乱万丈ではありようもなく、観客のほうで「文芸大作にとことん付き合うぞ」という覚悟が必要ですけれども、名優ぞろいの長台詞ぞろいで画面はだいぶ濃いィ感じです。雪も深いです。がんばれロケ隊。白っぽい背景に黒っぽい人物の対比が美しいです。

三國と船越は役者の質がかぶってるので一緒には出て参りません。和服にトンビのダンディズムを書いていたのは誰だったか。

芥川音楽にこれほど仕事させた監督も珍しいかもしれません。劇伴の概念を超えてナレーターというか地謡というか、心理描写の重責を担っているようです。

雷さま(1931年8月、京都府生まれ。公開時30歳)は本当に見事な、清冽な純文学俳優ぶり。『炎上』同様、もはやドキュメンタリーというべき役柄との一体感。友人役の長門のほうはやや構えた、演技として上手いというタイプですから、良い対比にもなっております。鴈治郎とは『炎上』の後味の悪さをここで濯ぐことができたように思われます。そして男の心意気を充分に分かっている女もいいです。

なお、映画としての評価をはなれて真顔で言っておきますと、ふつうに受け取れといわれても、やっぱり人より余計に悪口いわれたくはないものです。

黒澤は、わりと都市生活者の貧富の差を描いていたような気がしますが、木下にも『楢山節考』があったように、この当時は農村部に残る差別を描くことも流行りって言うとあれですけれども、戦火を生き延びた監督たちと観客たちは、棚から落ちてきたような自由と平等と民主主義ってなんだろう? ってずっと考えていたのでしょう。

(なお印象的なはずの藤村志保の顔を最近どっかで観たぞ……と思いましたら『白い巨塔』でした)


2017/02/22

1955年11月、木下恵介『野菊の如き君なりき』松竹

だって私、竜胆がこんなに美しいとは知らなかったわ。

原作:伊藤左千夫『野菊の墓』より 脚色:木下恵介 撮影:楠田浩之 美術:伊藤喜朔 録音:大野久男 照明:豊島良三 音楽:木下忠司

国敗れて、山河あり。たおやかなモノクロ。手際鮮やかな92分。戦後社会の直接的な諷刺にはひと段落ついたということのようで、農地改革も済んだ頃、なお残る日本の風景を撮りに出ました木下組。長い木製の橋、リアル野菊。黒澤組とは真逆の方向に同質の気合入ってます。

ガスランプの灯る明治三十一年。(まさおくんの部屋のカレンダーから分かります)

結婚が両性の合意のみに基づかなかった頃。チターを効かせた忠司音楽が絶品。硬さの残る子役たちの清冽な演技とともに胸に沁みます。

今回はアップとロングの切り替えがいつにも増して印象的。まさおくん旅立ちの絵は遠間からの構図で、浮世絵のように美しいです。

野菊の君は、もちろん愛らしくも理知的な若き名女優たる民さんですが、あどけないまさおくんのほうもほんとうに山間の野の花のようで、小さな二輪は世間の冷たい風に揺れるのでした。

世の中には「男性に女性の生き方を教えてもらう必要はない」という人々もいます。では、女性は自分の悪いところを自分で直すことができるのか?

いっぽうで木下監督は、見るに耐えないというほどではない程度に、ダメ男と、それに対する村人の評価をも描き出しております。

娯楽のない小さな村に住む人々の内部差別意識(ルサンチマン)は『楢山節考』でも描かれていましたね。

思えば不思議なことではあって、一度しかない人生の行動基準が「他人がなんと言うか」なのです。

この手の話は、もちろん「これからも女性はこうやって若い子をイジメるといいよ!」という意味ではございません。このようなあやまちを繰り返してはならないという教訓なのです。

賢そうな民さんには、学問をつけさせてあげたかったと思います。師範学校へ行くことができれば、大石先生のように良いおなご先生になることができていたでしょう。

もちろん映画人たちは自らの少女趣味と、笠智衆の姿を通じて男性ナルシシズムを満足させているわけですが、女権運動は、このような男性からの援護射撃によって、ずいぶんと助けられてきたのではなかったでしょうか。

1955年は昭和30年ですが、まだ都市生活者(映画人)の近代的人権意識をもって農村部を啓蒙するという意味もあったでしょう。実際の観客の多くは、まずは映画館のある都市部に住む人々ですから、かえって農村部への差別意識を助長したということもあったかもしれません。

創作物というのは、さまざまに読めるものなのです。

そうだ、今回は上原謙も佐田啓二も出ていないというのは特筆すべきことのように思われます。また重要な役なのに画面には登場しない人々がいるわけで、その姿を映してしまうことによってコメディ色が加わってしまうこと(と似たような場面のくりかえし)を注意深く回避しているようです。

監督は、野菊の如き君に最大の敬意をはらって、ひじょうに禁欲的に、日本の美しいところと悪いところを両方描き出すことに尽くしたのでしょう。

昭和30年。すでにテレビ放映は始まっていました。このあたりから、高畑勲も描いたような開発ラッシュ、かつての地主の土地を得て自作農となった人々とその子孫による一億総中流社会が始まるのです。


2017/02/22

1954年1月、成瀬巳喜男『山の音』東宝

われ、遂に。富士に登らず老いにけり。

製作:藤本真澄 原作:川端康成(筑摩書房・版) 脚色:水木洋子 撮影:玉井正夫 美術:中古智 録音:下永尚 照明:石井長四郎 音楽:斉藤一郎 監督助手:筧正典 

山村聡の誠実な鈍感。原節子の陰湿な純情。晩春、麦秋と来て、葉を落とした銀杏並木。女の身分は自由になっても、言ってはならないことがある。(小津作品と印象が混ざる混ざる)

プロット、脚本、キャスティング、構図、演技、編集、音楽と、何拍子もそろって魅力的。特撮もアクションもなく地味な存在ですが、たいへん洗練された一本です。

文芸調の大らかなオープニング。上原謙は今日もいい男だけど頼りなさ全開。背景は、まだ茅葺の家も残る1949年(原作初出年)の鎌倉山ですが、実質1954年当時の様子を今に伝えていると言っていいでしょう。単行本発行に先駆けて、人気女優を起用した映画の公開は、いい宣伝になった……かもしれません。

男性の外出の際はソフト帽が必須だった頃。煙草は缶ピース。原節子(1920年6月生まれ)は撮影時33歳。

一瞬、娘か嫁かハッキリしないですが「おとうさん」ではなく「おとうさま」なのがポイント。自転車はたいへん「新時代の女性」というアイテムだったようです。しかも言葉使いが美しいので見習いたいです。(お嬢様ものの創作の参考にもなります)

鎌倉の家は湿気が多くて書籍にうっすら黴が生えるって言っていたのは澁澤龍彦。

風情な庭つきの家屋もあるし、家族もあるし、職はあるし、戦争は終わったし、なに不自由ない小市民の、なんとなく憂鬱な日常。小さくひがんで、小さく傷つけ合う。

でも、むしろこれを撮れる幸せということもあるのです。女性映画かな……と思うと、最終的には男心の一人称。新時代らしく夫婦の秘密もほのめかしますが、その際の言い回しも習得したいところです。(今回は脚色が女性)

上原謙(1909年11月生まれ)は撮影時45歳。森雅之もこの年頃に情けない役をやってましたが、美男がひと皮むけるというか、ひと山越えるというか、俳優として成長するために、いやな役をやる時期があるのかもしれません。

映画ですから原作とは違う鑑賞ポイントがあるわけで、監督たちには美男好きなら美男、美女好きなら美女で似たようなタイプをそろえるくせがあるらしく(そりゃそうでしょう)、今回は美女ぞろい。その意味で目の保養という要素もあります。



2017/02/22

1953年10月、本多猪四郎『太平洋の鷲』東宝

百年兵を養うは、ただただ、平和を守らんがためである。

製作:本木荘二郎 脚本:橋本忍 撮影:山田一夫 録音:宮崎正信 照明:大沼正喜 音楽:古関裕而 美術監督:北猛夫 美術:阿久根巌 特殊技術:円谷英二・渡辺明・向山宏 応援監督:小田基義 監督助手:小松幹雄 協力:米極東空軍司令部

昭和二十八年度芸術祭参加作品。東宝戦後初の戦記映画。ニュース映画ふうの硬質なナレーションと地図の色分けなど初歩的アニメーション、および新聞記事などのベタっちゃベタな演出によって、かるく歴史のお勉強ができます。

サンフランシスコ条約発効して主権回復後、一年。『戦艦大和』と同じ年。予告篇には「真相は遂に暴露された!」とあります。

『戦艦大和』でも今さら巨大艦の諸元を解説するという場面がありましたが、日本国民は聯合艦隊が終戦前に壊滅していたことを知らされていなかったのだそうで、本当にこれで勉強したのだろうと思われます。

たびたび実録フィルムを使用しており、そこだけ画質が違っちゃってますが、なにぶん本物なので見応えは高いです。今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ♪

予告篇も空撮・特撮によるアクション性を強調しておりますが、じつは山本五十六の人間性に焦点を当てた伝記的心理ドラマの要素が濃いです。

戦後民主主義的観客心理としても、米軍の協力を得ていることからしても、基調は三国同盟推進派だった陸軍が悪役、山本長官全力支援という構図。大河内傳次郎は大正15年に日活入りして以来の大ベテラン。温厚かつ不屈の山本像で、共感度は高いです。

橋本忍は例によってというべきか、情報量の多い原作(事実)を要領よくまとめて説明するのが上手いんですが、やや台詞が硬く、差し向かいのトップ会談という場面が多いようです。

ので、前半は画的に面白いところは少ないんですが、それだけに、大河内・柳永二郎・高田稔・志村喬などのベテラン俳優の台詞あしらいが聞きどころです。

まだ若い三國の熱意ある様子、『七人の侍』の手前でいい感じに髭面の三船の男の愛嬌は、印象的な見どころです。「いいよ」じゃないよ……

開戦に至るまでの心理的・政治的葛藤がたいへん丁寧に描かれたうえで、新高山へ登ることになっちゃいますと円谷組の出番ですが、これはまた虚実不分明なほど見事です。

ミッドウェイ方面の「真相」も実直に再現されており、観客たちは唖然としたかもしれません。整備兵たちはひと言も愚痴を漏らしませんでした。特殊技術班は大型模型を用意したように思われます。

風防越しの目標物や、尾翼越しの飛行甲板など、工夫した構図も多く、どっかで観た感もあれば、「これ零戦じゃないよね」感もありますが、たたみかけるような編集は大いに躍動感にあふれ、戦時中の航空映画へのトリビュートが感じられると申しましょう。なお、旗艦は巨大艦大和にしてはちょっと揺れすぎかもしれません。酔いそう。

軽口はさておき、物語としても技術としても、映画人たちの意気の高さが偲ばれます。しかもなお、やはり全篇を貫くのは、追悼の念なのでした。

御国の四方の海が永遠に静かでありますように。


2017/02/17

1966年10月、山本薩夫『白い巨塔』大映

今夜しみじみ知らされた男心の裏表。

製作:永田雅一 原作:山崎豊子「サンデー毎日」連載・新潮社版 脚本:橋本忍 撮影:宗川信夫 録音:奥村幸雄 照明:柴田恒吉 美術:間野重雄 音楽:池野成 助監督:岡崎明

映画は大映。昭和四十一年度芸術祭参加作品。英雄か、偽善者か。(予告篇より)

実弾飛び交う最前線にもいろいろあるもので、言わずと知れた大学病院内幕物語。敗戦の痛手もすっかり癒えて、民主日本も爛熟しちゃったなァ感満載でお送りいたします。医学部教授っていい家に住んでるんですね(イメージです)

ところどころに「カラーではお見せできません」的な画がございますので苦手な方はご注意ください。サンデー毎日がご本人出演してます。こんな記事載るんかいなと思いつつ。

敷地内禁煙ではなかった時代なので、そこは冷静に。女性医師の姿もありませんが、やむを得ません。妊婦さんはたいへん多かったもようです。流しの歌手も時代を示すアクセサリー。白衣に白い字幕がかぶっちゃって読めないのは凡ミスだと思います。(´・ω・`) 

船越英二と滝沢修がいい感じに歳とりました。加藤嘉演じる大河内教授のお部屋に掲げられた「洗心」の扁額が印象的。俳優自身は大正生まれですが「明治の男」という演技が心に残ります。

大学病院の裏事情が開陳されていくわけですが、手早く説明しなきゃいけないので序盤の台詞がやや硬く、ほんとうはそれを言わずに済ませるところが大人社会の妙味のはず……という残念感もありますが、これは仕方がない。

つまり、本来は「地の文」で表現することであって、映画にはしにくいところを、よくまとめたと思います。本領発揮はやっぱり後半部分。

じつは主人公は英雄にして偽善者だから困るわけで、人徳者だったら権力争いも起きないのでお話にならないのです。

原作者が女性であることを考えると「悪い男ほど憧れちゃうわ」というピカレスクものの要素があるわけですし、そのいっぽうで「どうせ男の世界なんてこんなことばっかりやってんのよ」という揶揄の意味合いも、やっぱりあるでしょう。

原作者・読者・観客を代表して、男の美学を批判するのが堅気の女性キャラクターなら、気風だけを自らの支えに寄生するように生きる粋筋の女たちの姿も(じゃっかん監督の趣味もあるかなと思いつつ)和風洋風取りまぜて、丁寧に映し出されております。

映像的にはあんまり変わったことをやっておりませんで、やや誇張気味な俳優陣の演技を、やや寄りすぎな構図で順繰りにしっかり捉えて諷刺性を高めた納得の話法ですから、観客がドラマそのものにじっくり向き合うことのできる社会派映画のスタンダードの一つと言えるかと思います。

前年に『日本列島』があったことを思うと、暴露ものというのか、権力にだまされるな的な作品が流行っていたのでしょう。そして、それらを見て「現実にはこんなことないんでしょ?」とは、ちょっと言えないわけで、この時代を知っている人にとって、創作と現実を区別しろと言われても意味が分からないってことはあるのかもしれません。

そしてまた、そういう虚実不分明な権力に(やたらと)対抗意識を燃やすという風潮が、やがて新左翼運動に結晶していったのだったでしょう。明日はどっちだ。

なお、思い起こされるのは『ブラックジャックによろしく』なわけで、教授になれないと何もできないから教授になりたいという、システムの問題が、結局ここから平成の世に入っても克服されてなかったのねっていう。

それにつけても田宮二郎。財前ごろすけちゃんと完全に一致しております。ハリウッド俳優顔負けの濃いめの色男ぶりを堪能できます。いまさらながらに惜しい人を(早いうちに)なくしました。


2017/02/17

1959年7月、松林宗恵『潜水艦イ-57 降伏せず』東宝

激してはいかん。激した気持ちで日本の将来は考えられない。

製作:堀江史朗 原作:川村六良 脚本:須崎勝弥・木村武 撮影:完倉泰一 美術:清水喜代志 照明:森弘充 音楽:団伊玖磨 監督助手:清水勝也 特殊技術:円谷英二

昭和二十年六月二十日。魚雷に人を乗せる必要があるんですかと思いつつ、特撮見事です。

モノクロ画面に第二種軍装がまぶしい。美男俳優大量投入の娯楽活劇にはちがいないですが、実直な描写によって戦中映画の魂をよく再現していると思います。

須崎脚本のいいところは、前線の兵たちの会話がたいへん生き生きしている点で、明るいジョークの応酬は、やっぱり似たようなことが実際にあったんだろうなと思わせます。部署どうしの対立意識も(観てるぶんには)面白い話題です。

それにつけても潜水艦の中はせまいです。男臭さもすごそうです。俳優たちも一体感が出るようで、ドキュメンタリーさながらの緊迫感を実現しております。

内部はセットだと思われますが、たいへん丁寧に造られており、洋上撮影も敢行し、見応えは高いです。機雷はきらい。いわゆる海軍式敬礼をしてるようですが、これも諸説あるようです。

池部さんが主演でクレジットのトップ。リアル学歴を活かした海軍士官らしいたたずまい。藤田進とのツーショットは、一瞬呆然とするほどの豪華顔合わせ感に満ちております。意外な秘密任務の意義を説く藤田の長台詞が(字面としても演技としても)感動的です。司令官役・高田稔も美しいです。

乗組員では、三橋達也の先任ぶりが実にいいです。うちの女房にゃ髭がある。

【以下、物語に直接言及しますので未見の方はご注意ください】





指揮官の苦悩と兵の日常を描いたことによって戦中映画のエッセンスを再現し得た良作で、細部の見どころが光りますが、物語全体としてはどうなのか。禁欲的というべきか。

終盤も、潜水艦なら潜水艦らしく戦わせるべきではなかったか。

これが実際の生存艦の伝記であれば、乗組員が上陸・部隊が解散して、それぞれに新たな任務についたところで終戦を迎えたとなるわけで、ラストシーンは高齢に達した乗組員が記念艦として展示されている所を訪れるとなるのでしょう。

これは娯楽作品として、あっけなく終わるわけにはいかず、怪獣映画的なスペクタクル画像を必要としたという、事情は推察できるんですけれども、せめて、中途半端にかついで行った魚雷だけでも有効利用させたかった気がいたします。


2017/02/17

1940年9月、阿部豊『燃ゆる大空』東宝・映画科学研究所

不覚じゃないぞ。よく帰ってきてくれた。

後援:陸軍省 監修:陸軍航空本部 製作:阿部豊 原作:北村小松 脚色:八木保太郎 撮影:宮島義勇 特殊技術撮影:円谷英一・奥野文四郎 音楽:早坂文雄 主題歌:佐藤惣之助・山田耕作

謹んで陸の荒鷲の英霊に捧げる皇紀二千六百年記念映画。陸軍省検閲済。正座して拝見。

昭和十三年二月、北支戦線。当然ながらモノクロ撮影ですが、鮮やかな実機の離陸を拝見できます。鬼気迫る急旋回、急降下。機銃の乾いた発射音と白煙のリアリズム……とか言ってる場合じゃなくて、もはやドキュメンタリー。

特技班もいるんですが、広大な自然を背景に、実機を飛ばしていることは明らかで、目を瞠るばかりです。敵機に擬装した九五式戦闘機の被弾後の錐もみは、よくフレームに収め続けたと思います。

地上戦における小銃の発射音も生々しいような気が致します。(たぶん本物なんでしょう)

人間ドラマは固定カメラでじっくり捉えたワンカット。アンパン組のその後を描く流れも美しく、しかも愛唱歌がなにげにスコットランド民謡であったりするあたり、活動屋の微妙な心理を表現しているようにも思われます。

男の子たちは、訓練時代から話をはじめて、酒も煙草も覚えるので、成人前後の年齢ではあるんですが、まるで小学校の勢いのまま、明るく清々しく、あどけないのでした。きっと小豆島から出征した「二十四の瞳」のいくつかも、こんな軍隊生活だったんだろうなと思わせます。

内地のお袋さんや現地の食堂のおばちゃんに至るまで、女性を一人も登場させなかったので、まるで彼らとともに入営したかのような高い共感性と、物語の一貫性による緊張感の持続を実現しております。

軍医が美男すぎると思ったら、目千両でした。切れ長な流し目をカメラがきちんと捉えております。対する大日方傳は理想の上官。藤田進はまだチョイ役です。

戦後に活躍した脚本家・須崎勝弥によれば、商業映画の成功は女性客動員の可否にかかってるんだそうで、まァそりゃそうです。浅草に軽演劇と映画館が並んでいた時代から、基本的に男性が仕事の帰りに観るものだったんですから、女性が「私も観たいわ」と連れて行ってもらえば動員2倍ですからね。

さして多くもない軍医の登場シーンだけを目当てにしてもあれなんですが、婦人に配慮する気持ちがあったところが微笑ましいです。(ていよく協力させられたとか言わないでおきましょう)

婦人のほうでも、ひそかに「隊長さんも素敵だわ」とか思いつつ、少年兵の悲劇に涙したり、自分も搭乗したつもりで手に汗にぎったりと、さまざまな感動を得たのだろうと思います。

この作品を成立させたのは、もちろん陸軍の優秀なパイロットですが、その陰で整備班も活躍していたわけですし、もとをただせば鉄鉱石を加工することから始まって、ネジの一本に至るまで、日本人の勤勉さと仕事の丁寧さの結晶なのです、やっぱり。そしてそのそれぞれに実家があり、家庭があり、母親がいて、妻がいて、日々の健康と勤労意欲を支えていたのです。

というわけで、戦意高揚・国威発揚映画というのは、内地の観客に向けて「前線の将兵はこんなに頑張っているので私たちも(ぜいたく言わずに)頑張りましょう」という、サブリミナル的訓示の意味を持っているんですけれども、しかもなお、活動屋たちの本音は若い命を惜しみ、追悼することにあると思うのです。

こののち、国運の錐もみを回避することはかないませんでしたが、弔うとは、くりかえし思い出すことであり、語り続けることなのです。


2017/02/17

1人いたら、1000人いると思えばいいです。

ウェブ拍手、応援コメント、批判コメント、SNSにおける暴露的発言などは、いずれもサンプルであって、その裏には複数の同意者がいると思えばいいです。

少し前まで、わざわざパソコンを立ち上げて書き込むということをする人が少なかったので、2ちゃんねるなら2ちゃんねる、「はてな」なら「はてな」の中で済んでいたのですが、スマホの時代になってから、明らかに炎上しやすくなりました。申すまでもありませんね。

逆に考えれば、インターネット上で発言する人1人に対して、つねに数千人の同意者がいるものだと思えばいいです。

二次創作が好きだという人も数千人、きらいだという人も数千人。同人やっていた人が新宿二丁目へ行って来たと自慢すれば「真似しよう」と思う人も数千人。

「そういうのは良くないと思う」と言う人がいれば「私も行かないほうがいいと思う」という人も数千人。

「BLにエロは要らない」と言う人がいれば「私も要らないと思う」という人も数千人。「エロしか認めない」と言う人がいれば「わたしもエロ必須」という人も数千人。

さらに「どっちでも読むよ」という人も数千人。

そのそれぞれが「クラスタ」なわけですが、それ自体はどうってことないです。世の中にはいろいろな人がいるというだけです。問題になるのは他との関わりが生じた時です。

【他との関わりの悪い例】

ほんとうに数千人が新宿二丁目へ押しかけちゃった場合。あるいは原作応援サイトに対して二次創作妄想的なコメントが相次いだ場合。有名人のお墓が荒らされたという場合。

仲間意識の悪い例ですね。これに対しては内部から「同人活動そのものが法律で規制されてしまう前に自粛しましょう」と呼びかけることになります。

効力があるといいと思います。

【他との関わりの良い例】

出版社にとって重要なのは、新しい市場の開拓です。ビジネスチャンスはどこに転がっているかというと「すき間」です。いままで無視されていた場所です。

もしかしたら、現在主流だと思われている過激型BLの一ヶ月あたりの総発行部数に匹敵する人数が「あまり過激じゃないものなら買ってみてもいい」と思っているかもしれません。

憧れの先輩にお弁当を届ける式の他愛ないラブコメとしてのBL。将来を約束したところで終わる明るいお話。そういうものが求められているのかもしれません。


2017/02/17

新宿二丁目を困らせる家出娘ごっこ。

当方の同人・BL論は、当初から「女性があまりにも能天気にゲイと連帯できると信じて新宿二丁目へ乗り込んでしまうことを防ぐ」という目的を持っています。

そういうことをする人がいると知ってビックリしたというのが本音です。とくに「同人やっていた」という人は、同人会の先輩から「絶対に行くな」という注意を受けているはずなのです。なんで今ごろ先輩の言いつけに背くのか。

「女性の同人は上下関係に厳しかった」というのは他のサイトでも言われていることですが、その緊張感に基づく上意下達によって、他コミュニティとの軋轢を減らし、先輩をも巻き込まないように気をつけさせるという意味があったわけです。よくも悪くも「仁義」のようなものがあったのです。

残念ながら「ノンセクシュアル」を自称する人は、ふつうの少女漫画を読めばいいのであって、1980年代の『花とゆめ』の例でよければ、美内すずえ・遠藤淑子・山口美由紀などを読めばいいのです。性的な話題なんて出てこなかったんだから。

それがそうじゃなくて、わざわざ少女漫画の少女キャラクターを無視して男性キャラクター同士のBL展開を期待していたというのは、先に「アニパロ」のほうを知ってしまい、そういう読み方しかできなくなってしまっただけです。

だからこそ、同人の世界に恨みを持ってしまい、社会人になってから、職場ストレスを口実に、ふたたび同人仲間と楽しくやるというのではなく、ゲイを頼ってしまうということがあります。

が、これは迎えるゲイの側から見ると、家出娘が急に泊まりに来たみたいなもので、迷惑なのです。

(なお「同人やっていた」という言葉使いの下品さに自分で気づきましょう。感性の低い人はゲイの世界で歓迎されません)

【家出娘ごっこ】

ストレートの社会でいやなことがあったからといってゲイの世界へ乗り込む人は、実家でいやなことがあったから従兄のおにいちゃんの家へ泊まりに来ちゃったという家出娘みたいなものなのです。

でも、その家にはその家の主婦がいるわけです。ゲイの世界にもゲイの世界のお局様みたいな人がいて「俺の男に手を出すな」って言うに決まってるのです。

主婦がおコメが足りるかしらと心配するように、お店のマスターさんは椅子が足りるかしらと心配なさるわけです。女性客のせいで本来の常連客をお断りしなければならなくなるのがいちばん困る。

女性のほうで「私は女の子だから、どこへ行ってもサービスしてもらえる」と思っていることが勘違いなのです。その状態で「私もう子供じゃないわ。ばかにしないで」とか言っても説得力ないのです。

まして中年女性が世間知らずな若い娘のふりをしても、だんだん周囲のゲイ達が目を合わせてくれなくなるというふうになるのです。しまいに「あんた、いつまでいるつもり?」と言われるのです。

もともとゲイバーというのは、毎日ゲイ団体の貸し切り予約が入っているお店だと思えばいいです。

その扉を叩いて「私たちにも開放しなさい! 男だけで楽しんではいけません!」というのは、悪いフェミニストです。

それやっといて「私は同人やっていたから、同人はフェミとは別だから、私はフェミとは別よ」とは言えません。その三段論法は成り立ちません。

【BL女子の弱点】

あまり早いうちからBLに親しんでしまった人は、本気で自分を「女性キャラクターに感情移入できない」と思い込んでいるので、女性が出てくる漫画・小説・映画などを全く鑑賞したことがないということがあります。

だから女性の悪いところが諷刺的に描かれた姿に接したことがない。したがって「あ、私にもこういうところがある。気をつけよう」と思う機会がないのです。

創作物の重要な機能は「客観視」です。愚痴っぽい庶民、責任逃れの多い役人、私利しか考えていない企業人など。そういう姿を他人のこととして眺めることによって「恥ずかしいことだ」と認識するのです。

映画監督などがそのような諷刺を描くのは「みんなもこういう人になるといいよ!」という意味ではありませんね? 観客のほうで「真似しないようにしよう」と決意するわけです。

BLしか読んでいない人は、それを女性についてやっていないので、自分の姿に気づかないということがあります。自分が思いついたことが他人の眼から見てどうかという客観視の視点を持っておらず、なんでも正しいと思ってしまう。

これに「女性の弱者特権」という意識が加わると、言動が暴力的になります。他者に対して侵害的になるのです。さまざまな越境行為を起こすのです。コメント欄荒らしも一例です。お墓荒らしも一例です。徹夜しないというルール破りも一例です。ついにゲイバーに顔を出しちゃう人もいるというわけです。


2017/02/16

業界としての自由と、個人の自白は別なのです。

まず、有名キャラクターの似顔絵を描くと、自分がプロより下手であることが分かります。そこで「俺にゃ漫画家は無理だな」と諦める人は諦めるし、がんばって上手くなろうと思う人はがんばる。

また『笑点』などを観ると分かるように、おなじお題で競作すると、各人の個性が分かります。そこで「俺はこういうのは向いてないな」と思えば他の仕事を探すわけですし、手ごたえをつかんだ人どうしでは、さらにセンスを磨こうという切磋琢磨が生じます。

だから、漫画の未来を探る人々にとって、漫画として表現されるパロディ(のセンス)というのは有意義なものです。

同様に、小説の可能性を探る人々にとって、小説として表現されるパロディは「まずやってみる」という価値があります。

出版社は「我々の青田であり、業界を挙げてこれを支持する」ということができます。国民は国家に対して自治の保障を要求する権利があります。

とくに日本の場合、明治時代以来、事実として軍部主導で思想統制してやってきた挙句に負けたという事情があるので、国家の強権発動に対する庶民の自由民権運動というのは、大義名分が立ちやすいです。

「表現の自由」とは、本来は「戦争反対・戦争のための重税反対」という政治的要求を発表しても特高に連れて行かれないという意味ですけれども、もっと個人的な、ありていにいって性的な関心の表現についても、いちいち検査されない・許可証を申請する必要はないというところにまで拡大されて来たのです。

戦後まもなくからの、三島における同性愛描写や、谷崎における被虐趣味描写、澁澤における乱倫描写(の翻訳)、さらには映画における暴力描写も、自由の名のもとに、公序良俗意識とのせめぎ合いの中で、かろうじて命脈を保ってきたのです。

という歴史をふまえて、出版社とプロ漫画家・小説家と同人会(の大集合)が大団結して「強権の発動を許すな」と言うことはできます。

けれども、個人的経験として「何々だけが目的だった」とか「何々には興味ない」とか言ってしまえば、個人的評価が下がるだけなのです。

【女性は一蓮托生ではありません】

女性の中には、確かに「実の父親の虐待をのがれて中学生の時に家出して以来、風俗業で生きて来た」という人がいます。実際に学問も資格もないんだから、急に性的産業を禁止されれば生きていけなくなる。

「私たちに氏ねって言うんですか!」という過激なまでの反対の声を挙げるのも当然です。

だからといって、親のカネで大学へ通っていたという人が「私も女だから、二次創作するのは当たり前ですよ!」と言うことはできません。

ほかの女性は、教員になったり、看護師になったりして、きちんと働いているのです。告訴される恐れのない方法で収入を得ているのです。

女性が社会進出できたからこそ、おなじ女性から女性同人に対する反感・残念感が高まっているのです。

少し前に大騒ぎになった「同人が資金提供を受けた疑いがある件」は、男性だけが「そういう女は許せない」と言ったのではありません。真っ先に「同人怖い」と言ったのは、若い女性たちです。

もう、1980年代ふう弱者特権意識は通用しません。

とくに、バブル組が自分だけ「うまく」やったという話は反感をあおるだけなのです。


2017/02/16

男同士をネタにはできても、連帯はできない。

女性が男性から性的に失礼なことを言われたと感じたとき、「あなたと寝たいっていう男もいるかもよ」とか、「あんたが自分でほかの男の嫁に行けばいいじゃん」とか言ってやることによって、一本取ってやった気分になることができるわけです。

とくに、1970年代前半までの女性はそこまで言うことが(ほとんど)なかったので、1970年代後半以降は男性のほうで「女がすごいことを言うようになった。アプレゲールもここまで来たか」という、一種の感動があったのです。女性のほうでそれに酔ってしまうこともできたのです。

けれども、その場にゲイが居合わせたら、顔色を変えて「こっちへ振るな!」というに決まってるのです。

逆にいえば、その場に本物がいない前提で「イメージ利用」しているのですから、その「実際にはいるはずがない」という思い込みこそ、本物のゲイにとっては差別だと感じられるわけです。

確かに、常日頃から女の話ばかりしている男と、それにうんざりさせられている女の二人だけが部屋の中にいるのであれば、ほかに聞いている人はいないと言えます。そういう場合にのみ有効なジョークです。

もし職場で、学校で、駅やレストランなどの公共の場で、言っちまったとき、周囲に本物さんがいて、小耳にはさんでしまえば「女性がぼくらに対して失礼なことを言っている」という認識になるのです。

彼らが「そういう女性の味方をしてやろう」と思うことはありません。

あくまで、ストレート(異性志向)同士におけるブラックジョーク(皮肉)としてのみ通用することであって、そのままゲイの世界に持ちこむことはできないのです。

けれども、女性は自分を疑うことを知らない。箱入り娘として甘やかされて育ってきている。なんでも自分の思い通りになると思っている。

そういう人ほど「社会へ出たら傷つけられた」と思いやすく、ゲイのお兄ちゃんが味方になってくれるはず、私の言うことをなんでも「ハイ、ハイ」と聞いてくれるはずと甘い見通しを立ててしまいやすい。

で、弱者同士の連帯してもらえると思い込んで、新宿二丁目(に多いとされるゲイバー)に突入し、自称女の子どうしのガールズトークと同じ乗りで「毎日男同士で何してるわけ~~!?」って訊いちゃうわけですよっっ。


2017/02/16

1951年11月、成瀬巳喜男『めし』東宝

結婚って、こんなことなの?

製作:藤本真澄 原作:林芙美子(朝日新聞連載・出版) 監修:川端康成 脚色:井手俊郎・田中澄江 撮影:玉井正夫 美術:中古智 録音:藤好昌生 照明:西川鶴三 音楽:早坂文雄 監督助手:川西正義

ここは、かろうじて植民地化も分割統治もされずに済んだ敗戦国です。「ごはん」という言葉が、白飯単品の謂であると同時に、食事という行動全体をも示す国です。

1951年11月には、まだコメだけは自由ではありませんでした。白飯を食えることは本当にありがたいことだったのです。白飯の詰まった弁当は充分に豪華だったのです。

それにしても、もう少しどうにかならなかったのかタイトルと思いつつ。

昭和二十六年度芸術祭参加作品。原節子、東宝専属第一回出演。めずらしく女性ナレーションから入ります。原作の味わいを大事にしているのでしょう。テレビも洗濯機も国産品は1953年からなので、まだ日本の一般家庭には普及していません。

どう見ても横顔が平凡じゃない上原謙と原節子。いわば、ハッピーエンドのその後。

品のいい交響曲でありながら、ヒロインの心に寄り添って不安を高める早坂音楽がたいへん良い感じです。

同年5月公開の黒澤作品『白痴』では権高な女王様ぶりを見せた原節子の「所帯やつれ」っぷりと、優しいだけの夫と、20歳のアプレ女子のギャップを描くほんのり喜劇ですが、監督が「女性の生きざまを描く」ということにたいへん意識的で、意外なほど面白いので観てみましょう。

映画の撮り方としては、あまり変わったことをしないわりに構図に気が利いており、編集も潔く、ここ一番でヒロインの「歩き」を強調するなど、洗練された仕事ぶりだと思います。

庶民は平和に暮らしていたようですが、サンフランシスコ平和条約発効前なので、いちおう占領下です。鉄道の標識はまだ英語。食いだおれ人形はすでに存在したようです。書店店頭には小学館の学習雑誌の幟が見えます。

「バスガール」が勤労する凛々しい姿と、復興した大阪の町の観光もできます。仲の良いよい中之島。夜の女として生きる姿もあります。ヒロインの同級生たちは、一見いい暮らしをしているようですが、舅・姑がいることに苦労しているようです。

既婚者もいろいろ、未婚者もいろいろで、女同士の気持ちのバランス・オヴ・パワーみたいな話ではありますが、男性も言うときゃ言ってくれます。

なお、女性が当たり前のように家庭の外で「働く」って言ってるので、プロパガンダの意味があったのかもしれません。アイロンをかけながら、サッとスカートを脱いでシュミーズを見せてしまうのは観客の眼を驚かせたかもしれません。

この新時代の女性らしさを観に来ることのできた女性は、当然ながらもともと都会暮らしだったわけで、農村部では、まだ『わが青春に悔いなし』(1946年)で言っていたのと、さして変わらない生活だったことでしょう。

三界に家なき女の明日はどっちだという、この手の話は、落ちがだいたい見えてるわけで、どこでヒロインの気持ちが切り替わるかが、まさにターニングポイントなわけですが、……いまなお問題意識は健在だと思われます。

あるいは、独立回復を目前にひかえて、女性のアプレっぷりに対する男たちの叛乱だったのかもしれません。

ところで杉村春子、針使ってないですよね……?



2017/02/15

B級グルメとサブカル。

ラーメン食いながらジャンプ読むですよ。店主がそろえたコミックスを読破したくて焼きそば屋に通うですよ。

インターネットがなかった時代、若者たちはそうやって時間を過ごし、自分を癒したのです。

仕事がつまらねェと思ってる人もいたでしょう。勉強が分からねェと思ってる人もいたでしょう。サラリーマンも、ガテンもいたでしょう。東京都の隅っこから来た人もいたでしょう。地方でいちばんの都会から上京したら「ただの人」になってしまったということもあったでしょう。

でも、ほとんどの者が麻薬にも買春にも手を出すことなく、B級グルメで命をつなぎ、漫画で文化的欲求を満たしたのです。

それは、もう一回申しますが、多くの場合、農地解放で土地を手に入れた「もと小作人」たちの末裔であり、一億総白痴化と言われた(言った本人も日本人ですが)テレビの申し子であり、高度成長とオイルショックとバブルとその崩壊を経験した日本の姿です。

ラーメン・焼きそば・焼きうどんなんてのは、戦後の物資不足の時代に配給の小麦粉を工夫したり、中華そばが買えないから乾麺を使ったりしたものが、肉体労働者の間食として広まったものです。

漫画はテレビがなかった時代に貸し本として広まりました。手塚治虫も宮崎駿も市川崑も、ウォルト・ディズニーには頭が上がりません。

それは貴族的ではありません。華族的でもありません。ニューヨークの最先端でもありません。花のパリでもありません。だからなんだ。

ここは、かろうじて植民地にならずに済んだ敗戦国です。極東軍事裁判の結果を受け入れ、外国の軍隊を駐留させ、自前の防御力を警察予備隊と称してごまかして来た国です。

庶民が徴兵から解放され、未曾有の経済成長を経験し、つめこみとマークシートによって教育の質を高めたら、こうなったのです。

それを否定するなら、日本の戦後をすべて否定するに等しい。もう外国に住めばいいじゃんって話です。

業界内部で「若い奴はもっと頑張れ。萩尾先生を見習え」というのは話が別です。「東京の子は名古屋の子より情報が早いのよ」ってのも話が別です。そういう業界内ヒエラルヒーは必ずあります。だからこそ切磋琢磨も発生するのです。

けれども「日本のサブカル」と、ひとくくりにされたら、手塚も萩尾もまとめて否定されたってことです。敵は海外と、海外のほうがえらいと思ってる一部の日本人ってことになります。

根本的に、中華世界として見ても、近代世界システムとして見ても、ニューヨークを流行の発信地として見た場合にも、日本は極東であって、辺境です。「海外って都会的ー!」という価値観をもってすれば、日本人は何をやっても田舎の子です。

ただし「そこがいいんだ」という価値観の逆転はあり得ます。

古民家カフェが流行する風潮と、地方都市(の郊外)を舞台にした漫画・アニメ映画がヒットする現象は、もちろん関連しています。田舎はお空が広くて空気がおいしいズラよ!

いっぽうで「ほかのやり方もあったはずだ」という問い直しも、つねにあっていいです。海外の良いところも、日本の古い伝統の良いところも取り入れればいいです。自分を枠にはめる必要はありません。B級グルメもどんどん変化していきます。トリュフが乗っかっちゃったりすることもあります。

だから、「日本のサブカル」を変えて行きたければ変化を起こすのは自分です。あなたは、子どもたちに何を教えてあげられますか?

あなた自身が身につけたことは、なんですか?




2017/02/15

山も落ちもないのは、二次創作BLです。

「手塚治虫や石ノ森章太郎の愛弟子であり、きちんと彼らの言うことを聞いて、立派に山も落ちもある作品を制作した萩尾望都や竹宮恵子とちがって、我々の手がけたものは程度が低いので、お捨ておきください。ぶっちゃけた話、テレビ局に対する著作権問題をかかえているので、見つかるとやばいんです」

これが同人側から自虐した真意です。

それ自体が注目されて、当の萩尾・竹宮と混同して論じられては、自虐した意味がないのです。

この程度の機微を見抜けなかった社会学研究者は、社会について無知だったのです。

いいですか? そもそもプロ漫画家または小説家が自虐して「こんなもの編集者に見せられないわ」と思っていれば、彼女たちの作品が市販雑誌に掲載されることもなく、それを読んだ子どもたちが模倣することも起きなかったのです。

「山も落ちもないと称する自虐的な同人活動は、プロの影響下に始まったが、そもそもプロも自虐していた」という説明は、論理的ではありません。

プロが自虐せず、出版社も自虐せず、一般読者の理解が得られないリスクを背負って発表したところ、大ヒットして、小学館漫画賞受賞の栄誉となった。出版社はオイルショック不況後の経営悪化を救われた。

その栄光にあずかろうとして、当時のアマチュアが模倣を始めたが、ちょうどアニメ映画の流行と重なったので、深刻な著作権問題が発生してしまった。

パロディという技法そのものは漫画表現の一種として、これを死守するというのは漫画同人会の主張として正しいんですが、当時のアニメ映画というのはテレビ局や個人プロデューサー主導によるテレビオリジナル番組を再構成したものであって、漫画原作を持っていなかったのです。

「著作権者は漫画家だから、漫画同人会のお遊びを認めてくれる」という自分勝手な甘えは通用しないのです。

1983年まで、この「同人が好んでパロディの元にしたSFアニメ番組は漫画原作を持っていない」という状態が続きました。

その間に、プロ漫画家の一人の作品に基づく(今でいう)二次創作BL小説が市販雑誌の一つに読者投稿の採用という形で掲載され、これに対してプロ漫画家(=著作権者)から差し止め請求が出て、雑誌の最新号に謝罪文が掲載されるという事態が発生しました。

二次創作BL同人が、従来の「お耽美」または「アニパロ」という通称を使用しなくなり、より自虐的な呼称を使用するようになったのは、これ以降です。

同人側は、偉大な先達に対して、一線を引き、謙譲したのです。同時に自分を守ろうとしたのです。ありていにいって、告訴される危険を回避したのです。

理解できなかったのは1980年代の中学生でした。著作権という言葉も知らなかったからです。

同人の世界から、同人活動とプロ作品を混同する過誤を発生させたのは、遺憾の極みです。

一般の皆様は、どうか、1970年代の時点で成人していたプロ創作家まで子どもと一緒になって自虐していたなどというデマを信じないでください。

プロ作品は、たとえ性的な描写を含もうとも、自虐するレベルのものではありません。その努力には充分な敬意が払われるべきと信じます。

ところで、もう一つ気になることがあって、いまだに「山も落ちもない」という隠語を使いたがるのは誰か、という点です。

……ゲイじゃないか? というのが暫定的な結論です。

彼らは「同性愛・少年愛は俺たちのものだ。女のお遊びと一緒にするな」と思っておりますから、少年愛という「タグ」を見ると書き換えたくなるのです。怖い考えになってしまった。

【かろうじて中立】

同性志向男性サイドは「少年を襲いたいのは俺たちだ!」と言ってしまっては、まずうございます。

女流が描いて来たものは、昭和前半までに発表された男性創作物から得た情報としての、前近代における権力的なストレート男性によるいたずら・パワハラ・女性への意趣返し、および加齢した男性におけるナルシシズムとしての少年賛美です。

その加齢した側をも(女性的な)若者として描くことで全体を美化した・女性好みにしたというのが女流作品です。

それを出版社が売り出すときに採用したのは、1960年代以来一貫して「耽美的」という言葉。

これは1990年代に入っても使用されています。当時の単行本の帯などを確認すれば、出版社が自虐的な隠語を用いていないことは明白です。(証拠集めくらいしましょう)

BLすなわち「ボーイズラブ」というのは「少年・愛」から直訳した和製英語で、1990年代に男性プロ編集人によって発案されたと言われています。

少なくとも同人側からは名指していません。プロ漫画家が自分から言い出したわけでもありません。名づけるのは、いつも編集者です。売り出すための方便ですね。

彼らがいかに「検閲反対・権力打倒」とうそぶき、肩で風切って歩こうとも、お客様に対して自虐するわけには参らないのです。

つまり、営業のプロによって「少年・愛」なら自虐的な意味を含まず、一般社会にリリースできる言葉であるという判断がなされたわけです。

したがいまして当方の用語もこれを採用しております。

BLという言葉自体に偏見が生じておりますので、「竹宮先生はBLじゃない」というファンもいらっしゃることと存じます。当方と致しましても「厳密にはちがう」と申したいのが本音です。けれども、偉大な先生方が自虐していたという冤罪よりはマシだと思うものです。

【反感と勘違い自慢】

「二次創作BLは二十四年組から始まった」という、あわてんぼさんな説明があるので、二次創作BLに反感を持つ人が、さかのぼって二十四年組ほかのプロ創作家に無用かつ不適切なレッテルを貼るということもあり得ます。

先生方にとってはいい迷惑ですし、上記の通り、同人の本意でもありません。

冷静に考えましょう。プロはアニメキャラクターの権利を無断利用しなさいなんて教えていません。

勝手なことをしたのは、あくまで同人です。混同したのは、1980年代の中学生です。現代の心ある読者の皆様は、1980年代の中学生と同レベルになってしまってはいけません。

当方んとこへは、1980年代の中学生の一人がしつこく絡んできたんですが、だからあんたみたいに勘違いしてるのがいるから困るんだって話なのです。

「プロ創作家の名誉回復」という話をしてる時に、30年前にルール違反して個人出品した「同人誌」の売り上げ自慢なんてしてくれなくていいのです。

【自分で考える人になりましょう】

偏見をうのみにせず、他人の話に「そーなんだ!」と脊髄反射せず、自分の頭で考える人になりましょう。

一般の皆様は、クレーム合戦に関わらなくて結構です。議会における野次の犯人が特定され、謝罪を求められる時代です。当方の主張は基本的に「冷静でありましょう」というものです。「双方動くな」でもいいです。

それぞれに自分の部屋にいる間は安全で平穏なわけです。だからこそ引きこもりという状態もある。越境した時にトラブルが発生するわけです。タグ付け合戦も野次馬合戦も越境クレームも、しなきゃいいのです。自分の職場ストレスを、他人イジメで解消しようとしないのが、いいのです。


2017/02/15

1980年代の二次創作BL小説同人の勘違い(2)

1969年初頭に連載開始した、わたなべまさこ『ガラスの城』が小学館漫画賞を受賞しておりますが、これは従来型の少女物語の行き着いた先のホラーまたはサスペンスですね。

当時の少女は「怖いけど面白い」と思ったことでしょう。女子高生どうしのイジメは『青い山脈』にも描かれているとおりで、古いテーマです。吉屋信子の作品の要素の一つでもありますね。

それが、ここまで来てしまった。少女が男性顔負けの権力を持てば、こういうことも起き得る、と。女性解放の行き着いた先です。1970年11月には日本初のウーマンリブ大会が開催され、三島由紀夫は市ヶ谷に突入しました。

萩尾望都『ポーの一族』が小学館漫画賞を受賞したのは、その後です。

それは、女だてらにイギリス発祥のゴシックロマンおよびアメリカ文学を読みこなした結果であることは明白です。主人公だけ若いまま周囲が歳を取るという基本プロットにはSFの知識が反映している。

そういうニュータイプの女流が受賞の栄誉を得たことに対して、遅れを取ったというべき漫画同人たちから、その作品のパロディが生まれ、それを漫画表現の自由と称するなら、これは漫画同人にとっては一貫性のある主義主張です。

漫画というのは、ポンチ絵と称された時代から、似顔絵によって社会諷刺するという機能を持っていましたね。手塚治虫は敬愛するウォルト・ディズニーを茶化すような作品も遺している。これは少し前に著作権保護の強化という話が出た時にも主張されたことです。

漫画のアマチュアが、プロの漫画を茶化して、漫画の自由だと称する。訴えられるもんなら訴えてみろ、断固闘うぞという意思表示であり、ブラフの一種です。実際には訴えられないために、先手を取ってプラカードを掲げるのです。

やっぱり学生運動の乗りがあるわけで、相手が有名なプロであっても、あるからこそ、権威主義に抵抗するぞという意識があるのです。だから若者文化であり、サブカルチャーなのです。そこまではいい。

プロ漫画家も「なにも私だって権威主義というわけじゃない」と思う。実際問題として裁判にかかわるより次の原稿を仕上げたほうがいい。日本の出版社は締切に厳しいのです。

それがあくまで漫画同人会の活動として、同人誌即売会当日限定のジョークグッズとして頒布されるかぎりにおいて問題視しない。

そこは本来、漫画同人会だけに参加を呼びかけた、招待制の業界内イベントです。部外者に向かってテレビなどを通じて宣伝しなければ、問題視する人は著作権者自身だけです。第三者からの野次が飛んでこなければ、著作権者自身も生活の平穏と新作執筆時間を保障されるのです。

大目に見るというよりは、事実上、プロとアマチュアが対等な立場で話し合った結果であり、合意を得たといっていいでしょう。

けれども、文芸同人会は、この合意にあずかっていません。アニメファンクラブも関わっていません。アニメ権利者であるテレビ局や個人プロデューサーも参加していません。ゲーム会社も参加していません。

男性小説家の一人は、女性による二次創作を全面禁止したことがあります。プロ漫画家とアマチュア漫画家の同意は、ほかの業界には通用しません。

アニメを「ネタ」にして、小説を書いて、漫画同人会の集まる場を借りて売り出すという種類の同人は、漫画同人会と同席していても、モグリです。

漫画同人会と一緒になって、えらそうに自己主張できた義理ではありません。自分ではイベントを立ち上げる苦労をしていません。漫画同人から見て、迷惑な存在でしかないのです。1980年代にアニパロ小説を個人出品していたタイプの自称同人は、自分がその程度の存在だったことを自覚しましょう。

自分なりの作品を誇る権利は誰にでもあります。仲間を探すこともできます。けれども漫画同人と「連帯」できるとはかぎりません。



2017/02/15

1980年代の二次創作BL小説同人の勘違い(1)

「同人誌とはアニパロです!」と言っちゃうレベルの同人および同人誌即売会一般参加者における無根拠な優越感という話。

まず「コミック」マーケットとは、その名の通り、漫画同人会の集合です。

大学生・高校生による部活動の一種だった同人会が卒業とともに自然解散して、もともと熱心に描いていた者だけが、そのまま同人会を名乗って、同人雑誌の執筆・出展(=即売)を続けているということもあります。

「看板作家=編集長」ということですが、これは19世紀の文芸同人誌にも見られた現象ですから、めずらしいことじゃありませんね。

その漫画版が、20世紀中頃から、わが国において盛んになったわけですが、当時の中学生のなかに勘違いしてしまう者が出ました。

自分では漫画を描いていないのに、漫画出版社・プロ漫画家に対して、漫画同人会のほうが「えらい」という優越感を持ってしまったのです。

もともと漫画同人会を集結させようと企画した人々には、手塚治虫の会社が発行していた前衛的漫画雑誌『COM』が(売上不足によって)廃刊した後、明日の漫画の方向性を探るという使命感を持っていたので、それなりの自負心もあったのです。

それを、自分では漫画を描いていない中学生が取り込んでしまった。

中学生らしい「自我の拡大」の一種です。虎の威を借りる狐です。漫画同人会の集合と、その作品を求める人の列が大規模なので、幻惑されてしまったのです。

【小説同人の勘違い】

じつは、漫画同人会の集合だったところが、一名を「同人誌即売会」と称したために、文芸同人会およびアニメファンクラブが自主参加してきて、会報を出展するということが起きたのです。

それに掲載されているのは、文章のほうが多かった。文芸同人誌は小説を載せており、アニメファンクラブはテレビ番組の感想文などを載せている。当然ですね。

やがて混合文化が発生し「アニメ番組をインスピレーション源とした小説」というものが固定客を獲得して流行しました。

そういう状態になってから参加するようになった中学生が、勘違いしたのです。漫画に較べて小説のほうが、専門用具をそろえる必要がないですから、執筆に取り掛かりやすいので、自分もアニメ番組から得た情報を部分利用した小説を書いて、同人会の真似をして、自分自身のペンネーム以外に団体名を名乗り、出展申し込みをして、実際に出展した。

ここで申し込みを受け付ける側が、会員が一人しかいない同人会は同人会として認めないという審査を実施していれば、この事態は起きなかったのですが、参加者の完全平等をモットーに、詮索することをしなかったのです。

つまり個人的に申し込んだほうで、平等の精神を悪用したのです。

「まず有志を募って、雑誌を編纂し、しかる後に出展を申し込む」という正規の手続きを踏まず、先達の漫画同人会に敬意を表して自分も漫画の描き方を勉強するという手間をも惜しんだ。

その程度の者が、先達の漫画同人会たちの「我々が明日の漫画の方向性を決める」という自負心だけ、共有してしまった。

で、あろうことか、出版社・プロ漫画家に対して優越感すなわち差別意識を持つようになってしまったのです。完全な勘違いです。

くりかえしますが、本人が書いているものは漫画ではありません。完成形を得た小説作品でさえありません。中学生の頭で思いつくままの散文。まさに「山も落ちもない」落書きだったのです。

後の時代の研究者の間違いは、その落書きを研究しているつもりで、コミケ成立以前からプロとして活動していた成人創作家たちも、子どもと一緒になって自虐していたと言ってしまったことです。

女性は自分で自分の言っていることを理解できないのです。自分のやっていることを客観視できないのです。

これには男性諸氏も気をつけましょう。女の言うことを真に受けてはいけません。

とくに「フェミニスト」と自称・他称する女性研究者およびその言いぐさを真似た1980年代の中学生は、女性の特権という意識に酔ってしまっており、反省することを知らないということがあります。

たった一つの真実は、分かってしまえばそんなにややこしい話ではありません。話がおかしい時は、証人自身が勘違いしているのです。



2017/02/14

女にもゲイにも自分の世界がある。

まず、女性の未婚者が「未婚者・未婚者といって侮辱」されない権利というのは確かにあります。それが損なわれる場合も多いです。また「産めないの?」などと揶揄されることもあります。

さらに男性が「俺は独身女性の生活に興味がある。一人でいるとき何してるの? やっぱりBLやレディコミを読んで興奮してるの?」などと、質問を装った性的いやがらせすることもあるでしょう。

それに対して女性が「余計なこと言わないでください!」と抗議するのであれば?

そうです。じつにこれは、ゲイが「ホモ」といって侮辱されない権利と同じなのです。また「男同士でどんな性交するの? 本当に女性とやったことないの?」などと質問されない権利と同等です。

したがいまして、もし未婚女性が新宿二丁目というところへゲイを探しに行って、上記のような質問をするのであれば、彼女自身が差別加害者になっただけです。

【女のホモソーシャル】

もし、実際の男性に向かってBLの話をしてやって「そういうことって本当にあるの?」と問うた場合?

男性は「あるよ」と答えることができます。「そういう奴もいるよ」と言うこともできます。そこで女性が「ほら御覧なさい!」と叫んだとしても、男性にとってなんの意味もありません。

「そういう奴もいるが、きみが面白がることじゃないよ」というだけです。

彼にとって、ほかの誰かが同性志向だったり、ほんとうに子どもに手を出す犯罪者だったとしても、彼自身のことではないのです。直接関係ないのです。具体的なことは何も知らないし、知っていたとしても女性に告げ口する義理はありません。

また、彼自身が同性志向だとしても、経験談を女性にしてやる義務はありません。

それはまったくのところ、女性が自分の仲間のところへ帰ってから「男の世界では本当にそういうことがあるんだって!」「マジでーー!?」といって盛り上がるという噂話でしかないのです。

つまり、噂話のネタを仕入れるために、ゲイを利用したということでしかないのです。それを「弱者同士の連帯」とか言われても、ゲイ側も困るのです。

【BL依存症】

女同士で(若くて可愛い)男の噂をして盛り上がることによって、男性優位の職場でいやなことを言われた・されたことによる陰鬱な気分が吹っ飛んでいったという効用はあり得ます。

けれども、そのこと自体によって、職場からいやな男が放逐されるわけではありません。明日もあさっても、いやな男と顔を合わせながら働くのです。そのいっぽうで、時々気晴らしのために女同士で集まるというだけです。

両立がうまく行かなくなれば「依存症」ということになります。自宅でBLを読んでいる時だけ元気で、あとは鬱病患者の一人として引きこもっていることになります。

長電話の相手がいればいいですが、これは二人して引きこもっているので、共依存ということになります。

その共依存から、どちらか一方が立ち直ろうとして交際を絶ったとき、絶たれたほうが「捨てられた、裏切られた」と感じて、鬱病を悪化させるということもあり得ます。

社会全体に恨みを転嫁して劇場型犯罪を画策することもあり得ます。女性は理系が苦手な人が多いので、めったに爆弾魔にはなりませんが、爆弾発言ということはあり得ます。

すなわち、SNSにおける露悪的な言動は劇場型犯罪の一種です。狂言自殺・摂食障害もあり得ます。

かつて「女性はBLさえ読んでいれば男性中心社会による抑圧から解放されるので幸せになれる」という新興宗教めいた言説が流行した時代もありました。

実際には、そんなに単純ではありません。

【言葉遊び】

つまるところ、ストレート女性が個人的にゲイ男性に対して「弱者同士の連帯しましょう」と持ちかけることは、ただのナンパです。

すでにレズビアンが指摘しているとおり、BLキャラクターみたいな若くて可愛い顔した男に付きまといたいだけです。それを、もっともらしく呼んでいるだけです。

売買春を「援助交際」と呼んで美化したり、著作権侵害を「表現の自由」と呼んで美化することと同じです。

ゲイ側にとって深刻な問題は、模倣の発生です。いわゆる二次創作は、すでにその実情が明かされてしまっており、深刻なバッシングも発生しており、人口の大部分が模倣したがるということはありません。

けれども、女性による二次創作は「弱者特権」と呼んで美化されており、女性の中には「男女のことが苦手な代わりに男同士に興味を持つのは当たり前」と本気で思っている人もあります。

すでに何度もご説明したとおり、それは論理的ではありません。

けれども、それを「女性の当然の権利」と称して新宿二丁目に押しかけるのであれば、ゲイの座る席がなくなります。そこは女性同士が二次創作の話題で盛り上がっているだけという「コミケ四日め」になってしまうのです。

【攻め・受けと、アッシー・メッシー】

有名な男性を「攻め」と「受け」に振り分け、女性の都合に合わせて利用するタイプの二次創作は、男性を「アッシー」「メッシー」と呼び分け、女性の都合に合わせて利用することに一脈通じています。

だてにどちらも1980年代後半のバブル時代に流行したわけではないのです。それは女性上位プレイの一種です。

だからこそ、1989年の「1.57ショック」、1990年の「M事件」、その後のバブル崩壊と続いて、社会が「今までのやり方が間違っていたんじゃないか?」という不安にとらわれると、二次創作同人活動および(いまで言う)BL作品一般へのバッシングも強まったのです。

もう「モラトリアム」などといって若者を遊ばせておくな、とくに若い女性に自由を与えすぎたのは間違いだったという意識が強まったのです。

だからこそ、フェミニストおよび専門誌『JUNE』を拠点としていたプロ作家が、自分の少女時代にまでさかのぼった「かなしい」昔話を始めてしまい、とっくに成人していた人と現役少女が混在する同人(≒コミケ出展者)とコミケ一般参加者の三者を完全に混同して、収集のつかない議論を繰り広げたのでした。(っとにまったく)

それを通じて「二次創作同人活動およびBL作品一般は、性別役割分担的社会への抗議であり、女性の弱者特権である」という認識が確立されてしまったので、著作権問題と青少年健全育成問題が閑却されたまま、2010年代を迎えたのであった……というのは、まだ記憶に新しいところですね。

【全員が40代】

1980年代に18歳未満のティーンエイジャーだった人というのは、1980年に満17歳になった1963年生まれがいちばん年上で、1989年に満10歳になった1979年生まれがいちばん年下です。

ただし、小学生のうちから新幹線に乗って晴海のコミケに通っていたという人は、いたとしても少ないでしょうから、同人・BLの話題に関係あるのは早生まれの12歳以上の中高生ということでいいでしょう。すると、いちばん年下は1977年生まれ。

つまり、今年で全員が40歳以上になります。

「40歳すぎても出産できるから楽勝」と思っていた人々が、本気であせり始めます。この世代は第二次ベビーブーマーを含んでおり、全体の人数がたいへん多いのです。しかも、インターネットもスマホもテーマパークさえもなかった時代に、少女向け雑誌にBL的なものが掲載されていたのを読みながら育ってきた人々です。

その一割でも「私は『ノンセク』だから仕方なかったの。男女のことが苦手な代わりに、男同士の性について質問させてほしいわ」といって新宿二丁目につめかければ、ゲイの座る席がなくなるのです。

「連帯」と称して、自分のゲイバー遊びを自慢する人は、ゲイの平和のために、そこまで考えてあげましたか? (百歩譲って「連帯」と称してナンパするのは個人の自由ですが、自慢しなくていいです)

【女にもゲイにも自分の世界がある】

確かに「この機会にゲイのほうが一般社会に進出すればいい。どっかのオバサングループみたいに、ファミレス中央の大テーブルを占領して騒げばいい」と言うこともできます。

けれども、お互いに迷惑です。

やっぱり彼らには男だけで会話する時間が必要です。また「ガス抜き」として女性の悪口を言う時間も必要です。だから女性がどこにでも首をつっこんで「私に配慮してくださいよ!」と言うものではないです。

あえて遠慮する。ゲイの邪魔をしない。それが女のダンディズムです。

若くてカッコいいゲイボーイを見つけたら、我がもの顔に付きまとったり、SNSでしつこく話しかけたりせずに、心の中でそっと「いい男になるのだな」って言ってやりましょう。


2017/02/14

それは弱者同士の連帯ではなく、お客さんの甘えです。

ゲイというのは、ゲイとは自称したくない人も含めて、たんに異性に興味がないというよりは、同性に興味が「ある」人々なわけで、最終的には惚れた男と結婚したいのです。

配偶者控除、手術の同意書への署名、保険金・遺産の受取人など、互いの人生の重大局面において責任者として行動することを法的に(=全国的に)保障されたいのです。

いっぽう、女性というのは、男性よりも長生きなので、全国的な多数決としては強者です。

だから、女性がゲイと連帯するというのであれば、まずは女性同士が連帯して数千万件の署名を集め、国政・自治体を動かし、同性婚を実現させてやったというのでなければ、絶対少数派であるゲイにとって、メリットはありません。

それが実現した上で、じゃあゲイ側が「ぼくたちは女性の自由を認めます」と言っても、じつはこれは意味がないのです。

なぜなら、女性が好きでもない人と結婚させられない自由というのは、すでに憲法において個人の決定権として認められているからです。

また彼らが「ぼくは好きな男と結婚して、家事を分担しています」と言ったところで、ストレート男性が「そりゃお前がホモだからだろ。俺にゃ関係ねェよ」と言えば、結局のところ、女性にとって無意味です。

また、ゲイの中にも(じつは)企業重役・開業医などがいるでしょうが、彼らの判断で女性の雇用を増やしたとしても、微々たるものです。もともと彼ら自身が少ないから。

また、おそらく彼らの中にも「女がお茶くみ・コピー取りするのは当たり前でしょ」と思ってる人はいるはずです。

さらに「ぼくらは自分で産むことができないから結婚できても少子化改善の役には立たない。ねえさんが一人でも多く産んでやってくれよ」と言った場合、女性は窮地に立たされます。

【最大マジョリティ】

すでに若い人では「異性と交際・結婚する必要を感じない」という人口のほうが多いです。ノンセクシュアルは、もはや性的マイノリティではありません。最大マジョリティです。

若い最大マジョリティが、中高年以上の既婚者の偏見と闘っているならば、中年未婚男女が連帯する相手は、まずはこの人々です。

もし、中年未婚男女が署名活動において指導的な役割を果たし、数千万件の署名を集めて自治体を動かし、同性婚を認めさせたということであれば、ゲイ・レズビアンがおおいに感謝してくれるでしょう。

けれども「ノンセクシュアル」を自認する若い男女のなかにも同性婚反対者はいるでしょう。ゲイバーに興味のない人も多いことでしょう。

だから、中年男女が「ゲイバーを見てみたい。レズビアンと一緒に飲みたい」と言うのであれば、たんに本人がそういう趣味の人(ゲイチェイサー、トランスチェイサー)であって、ゲイ全体とノンセク全体の連帯の象徴ではありません。

みんなのための人権運動を自分個人の興味の満足のために口実にしただけです。

【それは連帯ではなく、甘えです】

きれいにお化粧なさったおネエ様たちの愛想の良さは無限の忍耐に支えられています。

あなたがそれを利用して、愚痴を聞いてもらうのであれば、たんに甘えているだけであり、ただのお客さんであって、連帯ではありません。

ゲイバーというのは、基本的には飲食物を提供するお店であって、ご商売ですから、マナーを守れるお客さんが来てくれるぶんには歓迎してくださるでしょう。歌謡ショーなどは大入り満員になったほうが良いに決まっております。

ですから行ったっていいですけれども、人間としての礼儀は守りましょう。女だから「おしとやか」ぶりっこすることを強制されるから不公平なのではありません。男性もマナーが必要です。

明確に「女性もどうぞ」と言ってくださるお店だけを利用させて頂くのがルールです。

「女性お断り」とは書いてないからいいじゃんということにはなりません。それでいいなら、女子トイレにも「男子禁制」って書いてないから俺が盗撮目的で入ったっていいじゃんという話になってしまいます。



2017/02/14

差別用語を連発するアカウントは自分が目立ちたいだけです。

漫画家などが「江戸時代の障碍者が差別に負けずに立派な芸術家になった話を描こうとしているのでご理解ください。作中の台詞を削除しないでください」というのは、本人なりに良くよく考えた上で発言しているのです。

それに便乗して、さっそく差別用語を連呼しはじめるというのでは、子どもがふざけているだけです。中年が子どものふりをして若く見せようとしているなら、二重三重の意味で不適切です。

実際の身体障碍者が「何々と呼ばれ、イジメられた」という被害を訴えたい時に、テレビ局が「それは差別用語だから」という理由で放送を取りやめてしまう。これでは社会問題が隠蔽されたことになり、かえってテレビ局が差別を助長したことになります。

だからといって「みんなが差別用語を自由に使えるように、健常者の私が率先して使ってあげるわ!」というのは勘違いです。

他人の人権運動を横取りしてはいけません。身体障碍者は、あなたが目立つための道具ではありません。

SNSでわざと差別用語を連呼する人というのは、本人が目立ちたいだけで、バカッターの一種です。こういうのは、生温かい眼で見守っていると面白いので、一瞬フォロワーが増えることがあります。本人も人気があるような気分になってしまいがちです。

けれども、本当にまずいことを言ってしまったとき、助けてくれる人はいません。人は誰もが一人ぼっちだからこそ、ほんとうに孤立してしまわないように、他人に対して礼儀を守るのです。

もともと「女性の弱者特権」というのは、男性が社会的に意義深いことをして称賛されているので、女性にもやらせてほしい(生意気とか言うな)という意味です。

女性だけが個人的なストレス解消のために社会的に不適切な我がままを言ったりやったりしても可愛いから大目に見てもらえるという意味ではありません。自分の権利を勘違いしないようにしましょう。


2017/02/14

女性は国民の過半数なので、じつは多数決上の強者なのです。

女性のほうが長生きなので、国民全体で見ると女性人口のほうが多いのです。

けれども、国会・企業の重役会議など、意思決定機関内部においては男性のほうが多いので、国民の過半数を占める女性の意見が国政・営業戦略に反映されないという「ねじれ」現象が起きているのです。

だから、女性が自分を第三身分とか、プロレタリア人民になぞらえて、新左翼っぽい気分になっちゃうこともあるのです。

理系が苦手な人が多いので、なかなか爆弾魔にはなりませんが、爆弾発言ということならあり得ます。テレビで言っちゃったとか、SNSにおける露悪的言動は、劇場型犯罪の一種です。

いっぽうで、実際に体格が小さく、腕力に乏しく、怪我をさせられることが多いので、確かに弱者ではあるのです。

けれども、ゲイに対して、女性全体を念頭に「私には女性の味方が大勢いるのよ(だからサービスしなさいよ)」ということを言った時には、弱者特権ではありません。

多数派による暴力です。

ゲイ同士が結婚する権利は法的に保障されていませんが、女性が自由に生きる権利は憲法において保障されています。

実際に『緋色の研究』や『病院坂の首縊りの家』のように引きずっていって結婚させられたというのではなく、いやなものはいやと言ったら、それで済んだというのであれば、あなたはすでに自分の権利を充分に行使できたのです。


2017/02/14

大人になれないから仕方がないということは、ないです。

「男女の性交ができないからといって、男同士の性交について質問しない」と自分で決めればいいだけです。

「職場で『未婚者、未婚者』といって侮辱されたからといって、自分より若い人を差別したり、人前で下半身の話をしたりしない」と自分で決めればいいだけです。

「虐待の連鎖を自分のところで止める!」と自分で決めればいいだけです。

すこし前まで、こういう考え方ができない人は、けっこういたのです。支配的だったと言ってもいいでしょう。2014年に『嫌われる勇気』が「トラウマなどない」と喝破した時、たいへん多くの読者が愕然としたわけですから。(そうでないと、劇中の青年の反応の描写が意味ないですね)

背景にあったのは冷戦体制と核の恐怖。「いつか資本主義は共産主義によって取って替わられる」という預言。その背景にあったのは「千年王国」とか「審判の日」という信仰。

キリスト教とマルクス主義が地続きであることは、日本人目線から批判するということが可能だったはずなのに、日本人はあまりにも素直に「西欧に追いつけ、追いこせ」と思って勉強したから、自分も染まってしまったのでした。外人になりたかったから、外人が間違えたところまで真似してしまったのです。

やっと気づいて「パラダイムシフト」などと言い始めたのが1980年代。だから1980年代にすでにある程度の年齢だった人は、今でも「母親(が代理する男性中心社会)のトラウマによって運命が決まっているから仕方がない」という原因論を主張する、すなわち言い訳することがあります。

【弱者特権の勘違い】

女性の弱者特権とは、男性が社会的に称賛される職業について、高い賃金を得ているのがうらやましいので、女にもやらせろ(閣僚・指揮官・教授・企業重役などにさせろ。生意気とか言うな)って意味です。その代わり、ちゃんと仕事しますって意味です。

男性が弱い者イジメしたり、犯罪をおかしたりしているので、女にもやらせろという意味ではありません。

「どうせいい仕事をさせてくれないなら、わざと悪い仕事をしてやる」というなら、ただの非行です。男性も女性も補導または逮捕され、再教育されるべきです。

「女は弱いから悪いことをしても見逃してもらえる」と言うなら、なおさら放置できないことになります。

まして、その「弱者」が実際には勤労によって賃金を得ており、そのカネを未成年者に渡す可能性があることを考えれば、もう「女には何もできない」とは言えないのです。

【二次創作の鬼門】

もしも二次創作同人が「母親のせいでアニメキャラクターに手を出さざるを得ない」というなら、そのうち本物にも手を出す連中だぞという話になってしまいます。

もしも二次創作同人が「もともとアニメキャラクターに興味はないが、カネのためならなんでもやる」というなら、そのうち海賊版も生撮り写真も売り始める連中だぞという話になってしまいます。

「絶対にそんなことはしませんとはお約束できません。だって私は厳しすぎた母親がトラウマになっているから善悪の判断ができないんですもの。突然フラッシュバックを起こして訳もわからずにやってしまうんですもの。頭がおかしくなってしまったんですもの」というなら、ほら見ろという話になってしまいます。

トラウマ原因論は、二次創作の鬼門なのです。

【フェミニズム批評批判】

はばかりながら当方の同人・BL論は、もともと「フェミニストの言ってることは偏っている」と指摘するのが目的です。バイアスが掛かっていると指摘すると言ってもいいです。

なんのためのバイアスかと言うと、もちろん女性の研究者を教授にしてくれない男性中心社会を批判するプロパガンダとして、同人活動・BL作品を利用したからですね。

実際には、同人およびコミケ一般参加者はBLしか読めないということはないし、1970年代に中高生だった人も1980年代以降は順に成人したし、同人どうしの間では「新宿二丁目などの『本物』の居場所へは行かない」という約束がある。

男性社会が横暴だから少女が何々せざるを得ない・大人になれないということはないのです。少女のままでも約束くらい守ればいいのです。

【心が実家にある人】

言い訳する人というのは、家庭の中と外を区別できない人です。

家庭の中であれば「お母さんがうるさく言うので気分が滅入ってしまい、宿題やる気がなくなってしまった」とか「ほんとうに自分の意志で大学へ行きたいのかどうか分からなくなってしまった」と言った場合「じゃあ、お母さんは黙って見守ることにするわ」という交渉が成り立つわけです。原因と結果が一致している。

けれども、社会へ出てから「職場で『未婚者、未婚者』といって侮辱されたので、ゲイの口からいやらしいことを言わせざるを得ない」というのでは、話がずれているわけですね。

本来は「会社の人に直接文句言えよ」って話です。「でも一人では怖いから、ゲイのお兄ちゃんについて来てほしいわ」というのが弱者同士の連帯ってやつです。

女性は弱者っぽい顔をすることがうまいのです。実際に体格が小さく、腕力が低い。また他の女性が「男性が乗り出してくれば引き下がる」ということも確かにあります。だから女性は男性に援軍を求める。

そもそもBLという表現が、その心理によっているわけですね。非力な女の代わりに男性にひと働きしてもらう。男を(白いベッドの)ジャングルに送り込むわけです。それはともかく。

冷静に考えると、自分の人権運動に協力してもらうにあたって、ゲイの口からいやらしいことを言わせる必要はないわけです。

人権運動を口実に新宿二丁目(に多いとされるゲイバー)を訪ねて、さっそく性的な質問をする人というのは、人権運動とBL趣味を混同している。本人にとっては一石二鳥で「うまくやった」という気分です。職場ストレスが吹っ飛んでいって、気分爽快。

でも、ゲイにはただの迷惑です。一方的に利用されただけです。