2017/05/19

コミケ最大の弊害。~「負け犬よりマシ」という差別意識

本来「同人」というのは、明治時代の小説家や、現代の俳句愛好会や、書道家も使う言葉で、たんに仲間という意味です。

けれども、漫画・アニメ系二次創作同人およびそのファンは、この「同人」という言葉を私物化しており、特権があるような気分になってしまっていることがあります。即売会の混雑によって「都会へ出た」という気分になりやすく、興奮してしまいやすいのです。

そのくせ、一般社会から高評価されないことを知っているので、劣等感が強いのです。だから無関係な人を差別したり、仲間内で互いに差別しあって、小さな優越感を感じようとする傾向も強いのです。

人格形成期(思春期)から同人誌即売会に関わってしまい、そういう同人どうしのやり取りを覚えてしまうと、人間性が歪んでしまうことがあります。これがコミケ最大の弊害です。

【負け犬に対する競争意識】

2006年に、女性の同人活動を解説すると称するお粗末な書籍が市販されたことがあって、その中で(1980年代前半から同人誌を買っていたという)著者が「BLファンは負け犬よりマシ」って意味のことを言ったもんですから、BLファンはおなじ女性からも嫌われるようになったのです。いい迷惑です。

著者の理屈としては、BLファンは早々に結婚を諦めて、BLを読むことで人生を面白おかしく過ごしているから、いつまでも結婚にこだわっている負け犬よりマシというんですが、それは本来、比較し、順位づけすることではないですね。それぞれの生き方を選択する権利です。

これも要するに、もともと自分が(BLを読むことしかできないという)劣等感を持っているがゆえの代償行動ですが、自己弁護のつもりで他人を傷つければ、その時点でただの加害者です。

この劣等感を克服しないことには「母親のトラウマが~~」と言い訳する行動もなくならないし、実在の性的少数者をからかう行動もなくならないし、実在の性的少数者に依存し、後を付けまわす行動もなくならないのです。orz

「それは非婚者を差別する人がいるのが悪い。差別がなくなれば劣等感を感じる必要もなくなる」というのは正論ですが、だからこそ真正面から「差別しないでください」と言うのが本来の人権運動であって、笑いに紛らせて他人を逆差別することではないです。

同人誌即売会という巨大な密室の中で、同人どうしのブラックジョークを真に受けてしまい、笑いながら「なんちゃって~~」と言えば、どこへ言っても通用すると思ってしまうと、会場の外の世界では通用しないのです。気をつけましょう。

【フェミの誤算】

ちょうど1980・90年代は、女性の働き方の改革期で、女性がそれまでの社会の(夫唱婦随などの)礼儀作法を守っていたら社会進出できなかったので、成人しても子どもの振りをする・世間知らずで行儀が悪い振りをするということが正当化されたのです。

けれども、仕事上で大胆なアイディアを出すことや、男子顔負けにスポーツすることは、他人の成功を妬んで悪口を言ったり、自分より弱い人をイジメたり、無関係な人に迷惑をかけないための約束を破ったりすることとは違います。

おとなになるということは、漫画みたいな性行為をすることでもなければ、告訴される恐れのある手段で「うまく」やることでもなく、情けは人の為ならずということを知っていることです。すなわち、自分自身が孤立しないために、まず自分から、他人に対する礼儀を守ることです。百歩譲って「うまく」やったことを自慢しないことです。

残念なのは、フェミニスト自身がこれを区別できなかったことです。自立のために、あるいは創作活動の自由のために必要な以上の人格的歪みを発しつつある中高生を弁護し、増長させてしまったのです。

(※ くれぐれも「そうよ、私は歪んでるのよ~~」と叫びながらタイムラインを走り回ってはいけません)

2017/05/19

二次創作者は「w」使用に注意しましょう。

最初から「カネが絡んでるなら遊びじゃ済まない」という話題でタイムラインが炎上している時に「二次創作は遊びじゃないのw」では、お話になりません。

そういう浮わついた気持ちなら、そのうちもっと悪いことをする連中だから早く逮捕しろと言われるだけです。

言うべきことがあるとしたら「もともと二次創作は法律違反ではないのですから、こんなに騒ぐ必要ありませんよ」です。それを言えないなら黙ってるのがいいです。

遊びと言えば許されるのではないのです。自分の権利を勘違いしてはいけません。自分から犯罪者予備軍と思われる言動は仲間の迷惑です。

日本のサブカルの中でも、二次創作というのは、文壇・画壇で評価されず、アカデミー賞を取ったとか、オリコン1位とか、書店員が選ぶランキング1位とか、そういうことがありませんので、「仲間を誇りに思う」とか「同人やってて良かった」という経験も少なく、劣等感が強いのです。

だから何かにつけて他人を差別して、小さな優越感を感じようとしたがるのです。

わざわざ他人の話に口を出して「そんなことも知らないの~~?」と言って自分だけニヤニヤ笑ったり、急に怒って「そんなことも知らないの!?」と声を荒げたりするのです。いかにもえらそうにするのです。

が、その甘い計算が自分の足元をすくうのです。気をつけましょう。

2017/05/19

非婚女性ほど性的な話を聞かせたがるものだと思えばいいです。

「あたし、べつにモテないってわけじゃないのよ。相手に不自由してるってわけじゃないのよ」

と自己弁護したい気持ちがあるもんですから、性的な経験を自慢したがるのです。どんな体位だったとか、相手の男に命令して何をさせてやったとか。

それを聞いて劣等感に駆られてしまうよりも「ああ、来た来た。始まった」と思ってりゃいいです。

もともと優越感を持っていた人というのは、自分にも苦手なことがあると気づいた途端に優越感の高さと同じ深さで劣等感に落ち込んでしまうのですが、それでは相手に奉仕しているようなものです。

相手は自己弁護したいだけで、必ずしも優越感を感じようとしているとはかぎりません。なのに、あなたが劣等感を感じてしまうから、相手が優越感を感じてしまうのです。あなたがヘコんだ顔をすれば、相手が慰めてやるつもりで「可哀想」と言うのです。

ツーと言えばカーと答える共依存です。仲よきことは美しきかな。皮肉を言われたくなかったら、そういうお友達とは離れましょう。

ほんとうの問題は「そんなお友達でも離れたくない」という、あなた自身の依存心と「孤立したらイジメられる」という先入観です。その背景には、あなた自身が孤立していた子をイジメていた経験があるのです。

2017/05/19

頭がおかしいの意味が違う。~挫折した優等生

世の中「頭がおかしいならいいじゃん」と言っちゃう人もいます。

例えば「車の調子がおかしい」とか「喉の調子がおかしい」とか言えば、一時的に不具合が出たということで、修理に出せば(受診して正しく服薬すれば)直るわけです。

それを「おかしいなんて気持ち悪い」と差別せずに、おかしいなら声が出なくても仕方がないね、早く良くなってねお大事に……と温かい眼で見守ってやればいいじゃんというのです。

けれども「私、あんたの話を聞いていたら劣等感を感じさせられちゃったわ! あんた、私に向かって自慢してるのね!」という人には困るのです。

「なぜ私が好きな漫画の話をしてくれないの!? わざと私を無視してるのね! マジョリティの横暴ですよ!」って人にも困るのです。

「意見を押しつけないでほしい!」って人にも困るのです。

頭がおかしいの意味が違う。

クレームして来るくらいですから、大脳そのものに他人の存在を認識するために必要な神経回路が構築されていないとか、事故によって言語野が欠損したとか、てんかん発作や多重人格によって記憶が中断したとか、そういう医療の対象として把握できる範囲における異常じゃなくて、心がひがんでいるのです。常に「自慢された、無視された、押しつけられた」と受身なのです。

当方だけではなく、誰に対しても、特定個人に向けられたのではない発言に絡みついて「いま、私に向かって言ったわね!」と、自分からステージに飛び上がって来るのです。つまり、被害者役を演じることを生きがいにしてしまっているのです。

そういう人が「頭がおかしいならいいじゃん」と自己弁護したつもりになっているのです。

でも、古い漫画を熱く語る人があるなら「私は1970年代じゃなくて1980年代の漫画の話をしてやるわ! 新しいブログを開設したから皆さん読みに来てください!」と言えばいいのです。

他人の店をつぶそうとすれば、ヤクザ映画に出てくるチンピラのいやがらせですが、自分の店を開いて客を奪うなら合法です。

そこへ『WINGS』への恨みでも、プロデビューした同人への恨みでも、叩きつければいいのです。

じつは、それによって自分が批判されるリスクを取りたくないのですね。

だから「あんたの口から言ってくれるのを期待して、ずっと待っていたのに、なぜ言ってくれないの!? なぜ私に気を使ってくれないの!? なぜ私を無視するの!? なぜ私に劣等感を感じさせるの!?」となってしまうのです。

勝手に「自分だけ特別に気を使ってもらえる」と決められても困るのです。これはやっぱり、相当大事にされて育った人なのです。

じつは、心がおかしい人、すなわち劣等感に駆られやすい人というのは、もともと優越感が強かった人です。

大学に合格するまでは、親の言うことをよく聞いて勉強していたので成績がよかった。それなりに自尊心も高かったという人が、実社会に出て挫折を感じると陥りやすい症状です。

2017/05/19

武器としてのBL。

何年か前に誰かが言い出したことで、一瞬タイムラインがにぎわったように記憶しているんですけれども、つまりBLによって男性の性的な表象に慣れた女性は露出症タイプの痴漢なんか怖くないというのです。「もっと脱げ」くらいのことを言って、相手にプレッシャーを与え、撃退してしまう。

でも、これも考えてみると奇妙な話ではあるのです。

なぜなら、そういう気の強い女性は、今どきBL読者に限った話ではないからです。いや、今に限らず、じつは既婚者と未婚者が明確に分かれていた時代というのは無いのです。

映画にも登場するように、形式としては未婚だが、人生経験・性的経験豊富な「水商売」の女性は昔から大勢いたからです。1980年代には、ビートたけしが指摘したように、素人の女性が「知恵」をつけましたね。

彼が若者たちに「おまえら、女に顎で使われて情けない」っていうと「でも、ただでやらせてもらえるからいいんです」って答えたんだそうです。その代わりに車を運転してやったり、バッグを買ってやったりしたわけですね。

小津作品の常連でもあった実業家の尽力によって売春防止法が成立した後、なにが起きたかというと、素人同士の形式的贈与としての、まさに「フリー」な性的関係だったわけです。

それ自体の是非は有志各位のブログで議論して頂くとして、ここでは話を進めますと、別の証言として、世の中には男性のレディコミ読者も大勢いて、彼らは「もっとソフトに」と要望するのだそうです。女性読者のほうが「もっと過激に」と要望する。

女性は性的冒険の実行にあたって妊娠という高いハードルがありますし、通常兵器ならぬ殴られるなどの通常暴力の被害も受けやすい。だから想像過多になるというのは昔からの傾向ですが、だからこそ、過激なレディコミばかり読んでいる女性と、過激なBLばかり読んでいる女性では、条件に大差ないはずです。

にもかかわらず、なぜBLファンだけが強気なのか?

どうも、話がおかしいですね。ということは、これは、じつは話が逆です。

いかにもボーイフレンドのいそうな、オシャレっぽい女性は露出症くらい怖くない。夜道で声をかけられること自体は「気味が悪い」と思うでしょうけれども、実物を見ることには抵抗がない。「なんだ、その程度」とか言っちゃうかもしれない。

けれどもBL派、なかでも「二次元コンプレックス」のタイプは、「生々しい」現実が苦手で、本物を見せてやるなんて言われると「いや~~ん。見せないで~~」と顔をおおって、キャーキャー騒ぐ。だから面白いから、わざとからかってやれ……という先入観が男性のほうにあるってことです。

とすると、これは書店などにおいてBLファンだけがしつこくナンパされたり、怪我をさせられたりするという被害にも通じている話です。

華やかな女性には男性のほうで気後れして声をかけづらいが、化粧っけのないBLファンは基本的におとなしく、男性経験がないので、声をかけるとすぐついて来るなんていう先入観が一部で広まっているという。

だから本当の問題は、そうまでして男性が女性を誘いたい・からかいたい・手を出したいと思っていることなのです。

それに対して、BL派の女性が「みんな、くじけないで。撃退する方法はあるよ」と言っていたのです。いや、本人もよく分かってなかったので「BLが武器になる場面が他にもあったら教えてほしい」と投げかけたから、インターネット掲示板で失礼なことを言って来た男性を文章力で撃退したという話が寄せられたのですが、それだと、ちょっと意味合いが違うのです。

なお、ここで「俺は現実の成人女性に声をかけたりしないよ」と言い切れてしまうのが、ロリ派の男性。経験的に「ピザ」タイプが現実の女性をナンパしたり、わざわざ厭味を言いに来るというのは、ちょっと考えにくいのです。

とくに同人誌即売会に出展する男性陣は、自分自身が漫画を読み書きすることがいちばん好きで、対外的にはおとなしい人々ですから、女性が流行させつつあったものも承知の上で平和共存していたわけで、会場内で女性参加者に暴力をふるったとか、スクラム組んで女性を入場させまいとしたとか、そういうこともなかったのです。

だから、いまでも同人活動している女性・BLファンの女性のほうから、彼らの美少女趣味や巨乳趣味に対して、厭味を言うべきではないと思っています。

もう一つ厄介な問題があって、BL派が気を強く持って、現実くらい怖くないと言い出すと、「本当に怖いんだもん」というタイプが劣等感を深めて、「もうBLやめる。代わりに本物のゲイに慰めてもらう」といって、弱者の連帯しに行っちゃうのかもしれません。orz

(※ ゲイは女の子に優しくしてくれるというのは、テレビタレントなどを情報源としたステレオタイプ認識にすぎません。つまり先入観であり、それも差別ですから、気をつけましょう)

2017/05/18

他人に粘着すると、放射脳さんに粘着されます。~現代の東京暮色

当方に向かって(夜のうちに)ひじょうに自己中心的なクレームを連投していた人がいたのです。

それが「原発反対運動家に粘着された。怖~~い」って言い出したもんですから、自分のやってることが全然わかってないんだな……と思いました。

首都圏で一人暮らししてる人らしいんですけれども、明らかに状態が良くないのです。誰よりも本人が「少数派の声を挙げていく」ということを勘違いしているのです。

SNSで過剰な自己露出することが生きがいになってしまっており、誰かれ構わず自己中心的に話しかけて、トラブルメーカーになってしまっているから、似たようなタイプが引き寄せられてくるのです。

【一人で決めてしまう】

本人は原発反対さんの「LGBTパレードは原発反対のためですよ」という主張に対して抗議してるんですけれども、本人の言うことも同レベルなのです。

「同人ってゆぅのは私のことですよ。みんなが私とおなじように超エロい二次創作BLが好きなんですよ。みんなが私の同人誌を買いにくればいいんですよ。市販品なんか読んじゃダメですよ」という発想ですから。

本人の思い込みが優先。なんでも一人で決めてしまう。

そもそも「母親が厳しくて男女交際を禁止されたので二次創作BL同人になる他なかった」と思い込んでいるのです。「なのにM事件のせいで売れなくなった。私を理解し、特別に配慮してくれない社会が悪い」と責任転嫁しているのです。

挙句に「だからゲイコミュニティと弱者の連帯する」と他者依存するのです。

ツッコミどころ満載ですね。こんな子、実家から出しちゃダメだよ……。

本人が「大学の先輩が」とか言うので、学歴は高いようです。中高生時代に学業成績があるていど良かったから上京させてもらえたのでしょう。それが進学先で目標を見失ってしまったのです。

たとえば自分の前半生を「自分とおなじように無理解な母親に苦しめられている世界中の女の子のために国連職員になる! だから英語がんばる!」とか、地元の役所の福祉課職員になって母子家庭をサポートするとか。そういう夢につなげて行くことができなかったのです。

自分自身を母親に抑圧された可哀想な女の子と思うことから発想の転換ができないまま、二次創作BLで「うまくやる」ということに夢中になってしまったのです。実際には、バブル期の流行に乗ってしまっただけです。

まだPCもスマホもなく、女性向けビデオゲームも少なく、テーマパークもなかった(が、お小遣いだけはたくさんもらえた)時代に、手軽な娯楽を求める同世代の人数がひじょうに多かったことに支えられた、一過性の流行に。

しかも、1980年代前半の思い出話ができることからして、就職氷河期と言われるようになる前に、チャンスがあったはずなのです。それを自分から見送って、二次創作BL一本で一生食って行けるつもりだったのです。

そう聞かされれば、ため息まじりに首を横に振る同人活動経験者が、全国に百万人くらいはいるんじゃないかと思います。

2017/05/18

少年漫画を読んだだけで、男になったと思えた時代。~1980年代の新左翼ごっこ

1980年代には、先にアニメ番組に基づく二次創作同人誌を読んでしまい、後から原作漫画を読むようになったという女性が、ほんとうに存在したのです。

当時は「女性が少年漫画を読むことはおかしい」と本気で思われていたのです。だからこそ「それまで少年漫画雑誌を講読していなかった娘さんが、先に二次創作BLを読んでしまった」ということが起きたのです。ね?

だから、急に若い女性が少年漫画を読むようになったことが、評論家・社会学者・マスメディアの関心の的になり、じゃっかん面白半分に論争の種になったのです。

なぜ、今どきの女の子は、お姫さまやお嫁さんが出てくる漫画を喜ばずに、男ばかり出てくる漫画を読むのか? 彼女たちは誰に感情移入しているのか? ほんとうは男なのか?

当時は「女の子が男とおなじことをするのは当たり前」と思われていなかったのです。男とおなじことをする女の子は「女を捨てた」と思われたのです。もう二度とスカートをはかないとか、男性とお付き合いしないとか、ぜったいに少女漫画には戻らないとか。そういうふうに思われたし、本人もそう思ってしまったのです。

じつは、それが1980年代に特有の現象なのです。

1970年代に二十四年組作品を読んでいた人々は、それを市販雑誌上で他の漫画家による少女漫画の前後に続けて読んだし、シリーズ中に少女キャラクターが中心となる回があったりもしたのですから、両方読むのが当たり前だと思っていたのです。

けれども「フェミニズム」が急成長した1980年代に、二次創作BLをきっかけに「もう少年漫画しか読まない」という人が目立ってきて、おとなの評論家たちのほうが釣られたのです。

けれども、1990年代には、1960年代生まれで1970年代を知っている少女漫画家(の原作)によって、美少女戦士が戦う相手として美青年同士で恋愛する人々が登場するという作品が大成功を収めたのですから、少女読者・視聴者は両方いっぺんに鑑賞したのです。

だから、BLの排他的選択、少女漫画と少年漫画の二者択一という行動は、1980年代の二次創作BL同人および購読者(の一部)に特有の現象なのです。

1980年代だって、少女向け市販雑誌にBL的な作品と少女漫画が同時連載されていたのですから、一般的な読者は両方読んだのです。

二次創作BLファンの一部だけが、世界同時革命ごっこしたのです。「女性が少年漫画を読むことはおかしい」という先入観を前提に、それにレジスタンスしているつもり。

「もう男に遠慮するな」をモットーに、少年漫画を読んでは片っ端から二次創作BLにしてしまうことを「女性の自由」と称した。

だから、この時代の作風は、画力が低くて描きたいことを描けてないくせに、内容だけは暴力的なのです。時限発火装置付き爆弾よりも簡単に作れる火炎瓶みたいなものです。過激派ごっこです。著作権意識が低かった時代の流行の一種だったのです。

少女たちがロールモデルにしたのは、もちろん当時のおとなのフェミニストですが、彼女たちは新左翼の時代を体験して来た人々でした。

つまり、新左翼も、フェミも、ちっちゃいフェミも、BL論も、冷戦体制の産物だったのです。左か右か、赤か白か、ソ連につくかアメリカにつくか……。

つねに究極の選択をせまられ、どちらかにつくと言わなければ両方から裏切者と呼ばれてしまう。そういう強迫観念に支配され、仲間うちでは「みんな一緒」の同調圧力で自他を縛りつけ、対立集団に向かって激しい敵愾心を燃やすことを自尊感情と混同し、自分が急にえらくなったという誇大妄想に酔っていた。モットーは「みんなやってる」と「みんなゆってる」。

民主政治と一党独裁を混同した赤色革命ごっこ。個としては自信のない若年者に特有の、群れをなして騒ぎたい気持ちの現れです。

それが続いたのです。1989年11月まで。

ほんとうに、そんな時代があったのです。男性から自由になろうと言いながら、男性が構築した革命の構図にすっぽり収まっていた女たち。

(なお、トランスゲイ説はベルリンの壁が落ちてから約十年後に登場したので「いまさら何言ってんだ」と驚いたものです)

【どっちも情報が古い】

現代では、もちろん男女間のハードルが下がりました。息子・娘と一緒に少年漫画(を原作とするアニメ番組・映画)を応援しているお母様も多いことと思います。たとえ200万部を割り込もうとも。

彼女たちが、いわゆる同人の作品には興味を持たないとしても、なにも男性読者にゴマをするためにBL嫌いを気取っているというわけではありません。

ごく単純なファン心理として「イメージを壊されたくない」と思う。また「何々くんは私のものよ」と思う一般女性にとって、ほかの男のものだという話は困る。いやだわと思うに決まっている。それだけのことです。

同人誌即売会の中で、自分と同じBL趣味の女性と付き合っていた間だけ「世の中の女の子はみんなBLが好きよ。二次創作が目当てで少年漫画を読むに決まってるのよ」と思うことができたのです。

逆にいえば「少年漫画を読んだり、少年向けアニメのファンだという女は、みんな二次創作BL目当てで同人誌即売会に通っているにちがいない」と思い込んでしまい、反感を持つという男性は、その人自身が同人誌即売会の中のことしか知らないだけです。

どっちも情報が古いのです。

インターネットは同人誌即売会ではありません。一般社会も同人誌即売会ではありません。一億二千万分の二十万は、ほんの少数派です。

その少数派なりの表現の権利が守られるべきである、そもそも基本的人権として差別されたり怪我させられたりするべきでないという話と、「過激な二次創作BL同人と一緒にしないでという女性もいる」という話は両立します。ここ重要です。

「過激な二次創作BLは苦手だ(女はみんなBLが好きだとか勝手に決めないで)」という主張は、だから二次創作BLなんか規制しちゃえばいいのよという主張と、イコールではありません

勝手に混同して「やられる前にやれ」とばかりに先制攻撃する人がいると困るのです。かえって本当に「同人はやばい連中だ」という印象になってしまうからです。

「あれか、これか」の冷戦時代は約30年前に終わりました。もう学生運動ごっこしなくていいのです。興奮しやすい人は、お薬を飲んで就寝してください。勤務形態が許す限り、朝日は浴びたほうがいいです。(体内時計が調整され、体調不良・精神的落ち込みを防ぎます)

2017/05/18

小津安二郎『東京暮色』再考。

映画作品鑑賞後の読者様を念頭に、物語の詳細に言及して参りますので、未見の方はご注意ください。





小津があの作品に自信があったというエピソードから考えると、彼自身は「若い成人女性の人生が困難であることを訴え、社会批判した」というつもりだったのかもしれません。若い女性から共感が得られるつもりだったんじゃなかったか。

ただし、溝口健二『祇園の姉妹』があの台詞でバサッと終劇した潔さにくらべて、姉の行動というエピローグをつけ足してしまったので「女は家庭」という結論になってしまったのです。女性観客の一部は納得し、一部は憤慨する。女性同士のジェネレーションギャップは明白だったろうと思います。

けれども、小津自身は、若い女性が見合いをいやがり、既婚夫人でさえ家庭を守るだけということに飽きていることを分かっちゃいるのです。杉村春子を通じて、商売を成功させ、軽快なフットワークで京都と東京を往復する女性を描いている。彼の作品には、若い女性が事務員などとして勤労する姿も、かならず描き出されているのです。

だから、彼の真意がほんとうに「女は家庭」だったかどうか、女性観客が「小津なんて奴は映画の神様みたいに言われてるけど、ただの分からずやで、まるでうちのお父さんよ!」 と、トラウマを刺激されて憤慨するべきかどうかは、やや微妙です。

一般論として、小津作品というのは、映画が国民的娯楽だった時代に、ひじょうに多くの観客を納得させることが重要だったわけです。男性キャラクターについても、女性キャラクターについても「こういう人、よくいるよね~~」という感想を持ってもらうことが重要だったのです。つまり、人間性描写が最大公約数なのです。

一部の女性は「私はこんなバカじゃないわ」と憤慨するでしょう。でも、身近に似たような人がいるでしょと問われれば「まァ、ほんと言うとうちの妹も……」とか「職場の女の子が……」ということがあるだろうと思います。

それに対して監督自身は何を言おうとしているのかというと「お父さんは、いつもきみたちを心配しているよ」ですよね。

それに対して、それぞれの女性が「私はこんな生き方をしない」と決めればよいことであって、そういう感想を言ってもいいのです。

かつての女性は「ステレオタイプを押しつけないでほしい!」という被害者意識でした。じゃあどうしたいのかを言うことができなかった。「だって……」と言って、口をとがらせたきり、後が続かない。そういう人、いますね? あなたではなくても。他人を変えることはできないから、自分がどうするか考えればいいのです。

「他人を変えることはできない」とは、自分で気づいて変わるほかないということなのです。

2017/05/18

創作家の男女差を意識した件。

じつはですね。立原あゆみ氏を女性だと思っていたのです。けれども違和感はあったのです。「女流の筆からこの台詞が出てくるのは珍しいな」っていう。

真相を知ったとき、なるほどと思いました。以来、創作家の性別自認・それに基づく価値観の違いは創作物に反映されるというのが持論です。

なにもフェミニズム批評をイデオロギー的に遵守しているわけではないです。だから「フェミの言いぐさのほうがおかしいだろ」と思えば、そう申します。

ためしに、竹宮恵子『風と木の詩』について言えば、途中で魅力的な少女キャラクターが登場し、身心の自立を求める姿が活写されております。主人公の少年は、彼女に出会うことで人間存在の多様性に気づき、自分自身も民族差別を受けていることに対して、またひとつ自尊感情を深める。だからこそ、もう一人の少年を異常な境遇から救い出してやりたいという動機も強まって行くのです。

それが結果的に大人社会の独善性によって挫折させられるので「少年愛は切ない」で間違いじゃないんですけれども、その要素だけを取り上げるのが正しい批評ではないです。

というようなお話を続けているつもりでおります。ご理解を賜れば幸甚に存じます。

2017/05/18

BL論のきっかけは、学長就任です。

竹宮恵子の代表作を「少年愛は切ない」という言葉で紹介している新聞記事があったのです。漫画ファン向けミニコミ紙などではなく、一般向け。勇気ある選択だとは思いますが、咄嗟に「男同士は切ない」との混同を避けたいな、と思いました。

つまり、同性愛差別を助長し、彼らの将来の幸福を閉ざす原因になったり、言葉の暴力を含む暴力被害の原因になったりすることを避けたいなと思いました。

1970年代の二十四年組的美少年路線というのは「同性愛が描いてある」ことではなく「女が描いた」点が重要なのです。

もう一回言うと、もともと日本では「衆道の契り」の表現がタブーではなかったところ、そこに女流の筆が及んだのがポイントなのです。だから女権伸張の文脈で評価されることなのです。

新聞記事自体は「女流漫画家の長年の努力が認められて学長職に推薦され、本人もそれを名誉なこととして受けて立った」ということですから、「もう女の時代でしょ」という話として、それはそれでいいのです。

だからこそ、実在の性的少数者に失礼な質問をしたり、からかったりすることも「女の表現の自由だから大目に見てもらえるでしょ♪」という風潮が生まれてしまっている。正確に言うと、1980年代にそういう風潮が生じて以来、野放しにされている。

新左翼の影響を受けた1980年代フェミニズムは、自由と暴力を区別できなかったのです。それが尾を引いている。

【独身成人女性と未成年者の混同】

1960年代の森茉莉の時点では、本人が離婚後の中年女性だったことから、問題視されなかったのです。すでに1950年代の三島由紀夫作品において、有閑マダムが若い男との交流を求めて、ゲイボーイに小遣いを与えるという姿が描写されていますね。(劇中ではその振りをして息子の動向を探るんですけれども)

けれども、二十四年組は独身でした。二十代以上の成人でしたが、一回も嫁いだ経験のない独身でした。だから18歳以下の読者と混同されたのです。その上で評論家たちが戸惑ったのです。

「まず自分自身の『女の幸せ』を追求すべき若い独身女性が、オカマの話に夢中とは、どーゆーこっちゃ?」ってね。

ここへ当時のフェミニストが食いついて「だって女性は結婚すると人生が不利になっちゃうからですよ。育児を押しつけられるし、職場で出世できなくなるし!」と、論点をすり替えたのです。

それを男性陣も「なるほど~~」と受け入れてしまったので、未婚女性の「表現の自由」は最大限に配慮されるという先入観が生じてしまったのです。

けれども、もう一回言いますが、自由と暴力は、別です。

【同人の約束】

プロ創作家も、その人気にあやかったアマチュア(いわゆる同人)たちも、実在の人物をからかうことを目的としていません。

ことに同人の世界では、1980年代初頭以来「絶対に本物を怒らせるな」が合言葉です。

人権問題として告訴されれば、もともと著作権問題をかかえている二次創作者は、ついでに著作権問題も裁かれることはないまでも、裁判官に与える心象が悪く、勝ち目はありません。同人全体・BL全体の創作活動の差し止めに結果する可能性もあります。

「BLやめりゃいいじゃんw」と言うことも可能ですが、「じゃあロリもやめりゃいいじゃん」と言えてしまいます。少なくとも創作家・ファンだけでも、自分自身の性別自認・創作的嗜好にかかわらず、一致団結して「実在に迷惑かけるのは恥ずかしいやつであり、おなじ漫画ファンからも嫌われる」というイメージ戦略が必要です。

実際の同人誌即売会に出展する人々というのは、このくらいの約束は分かっている可能性が高いです。約2万サークルが(抽選によって)毎年いれかわるとはいえ、参加者にとっては「即売会にお客さんはいません」がモットーであり、行列の様子からいっても規律が守られていると見てよいでしょう。

(ここで面白半分に「守らない人もいます!w」とか言っちゃいけませんよ)

問題が起きやすいのは、やっぱりインターネット方面なわけで、とくにSNSにおいて、夜間の判断力が低下した時間帯に、すこしでも目立ちたいというタイプが無駄に騒ぐのです。無料通話アプリの時代になったからこそ、リアル人脈に乏しいタイプが「ゆるいつながり」のSNSをスタンドプレーの舞台にする傾向は、むしろ強まっているかもしれません。

背景にあるのは、いまの職場がつまらないという不満であり、劣等感です。

けれども、漫画を読んだからといって、BLを読んだからといって、実在の人々をイジメに行かなくていいのです。「こんなのイジメた内に入らないじゃん。ちょっと質問しただけじゃん」と、加害者から言ってしまってはいけないはずです。ことに、アラフォー以上になった人が、まだ「女の子だからw」では、困るのです。

「独身であるかぎり子どもと見なされる」というのでは、自分自身が結婚を人生の基準点にしている・結婚にこだわっているという証拠にしかなりません。

それに、いまや若い独身女性がほんとうにしっかりして、海外の恵まれない子どもたちのために学校を建てたとか、猛勉強して自衛隊の指揮官になったとか、既成概念にとらわれず、体に優しい野菜スイーツのお店を開いたとか、そういう時代になってしまったのです。

だから、もう、「あたしまだ若いからバカなんです♪」という顔はできないのです。それでは自分自身が若い人に先入観を持っている・差別しているという意味です。だから、ほんとうに若い人が冷たい眼で見るのです。気をつけましょう。

2017/05/17

若い同性愛者の皆さんは、中年ストレートの質問に答えてやる必要はありません。

「特殊な創作物が好きすぎて、ふつうの異性と交際・同居しても面白くないので結婚しなかった」というのは、その人の自由意志です。

その権利は、すでに憲法によって保障されています。皆さんが慰めてやる必要はありません。まして、性的な質問に答えてやる義務はありません。

とくに質問者が女性の場合、本人が女性として男性と交際したくないこと(自称ノンセク)と、男の同性愛に興味があることを混同するのは、BLファンの悪い癖です。

実際には、男の同性愛者の性行為について何も知らなくても、独身女性としての人権運動はできます。皆さんのための署名活動やビラ配りに協力することもできます。

だって、もし他の人権運動(たとえば身体障碍差別、自閉症差別、難病差別、前近代的階級差別に反対する運動)にボランティア協力する時、まず最初に性的な質問しますか? 絶対しませんよね? 失礼であることが分かってますよね?

では、なぜ皆さんの人権運動にボランティア協力したいという人だけが、まず最初に性的な質問をするのでしょうか? それは失礼ではないのでしょうか? なぜ皆さんに対して性的な質問することだけは失礼ではないのでしょうか?

なぜ人権運動に協力したいというおとなが、皆さんに対してだけは、他の人権運動に対する時と態度を変えるのでしょうか?

もし、変なおばさんがいたら「今、あなたがしていることが差別です」と言ってやっていいです。

本人が「BLでは物足りないので本当のことを教えてほしい」と言っているのですから、厳しい現実を教えてあげましょう。

【ゲイ雑誌が読めないという女は危険です】

「ゲイ雑誌は生々しいから読めない」という女が、現実のゲイバーへのこのこ入って来る必要はありません。

そういう女は自分に都合のいい創作物(BL)しか読んだことのない人です。実際の人権運動には関心がありません。ゲイ側が「弱者の連帯」ということに乗り気ではないことも知らない程度です。

ゲイ雑誌というのは、表紙を見ただけでも分かるように、人権問題に関する記事を含んでいます。

こころない行政や医療関係者から失礼なことを言われたという被害報告。それらに対する訴訟の経過報告。海外のヘイトクライムの犠牲者を追悼する集会やパレードの開催告知。エイズの正しい治療方法や受診の呼びかけなど。

生々しい現実が苦手という理由で、ゲイ雑誌を閲覧したことがないという子どもぶった女は、そのような情報も得ていません。たんに「BLみたいなことを本当にするのかどうか」という漫画と現実を混同した好奇心を満足させるために訪ねて来ただけです。

なお、わざわざ人権集会に出席して「ゲイ雑誌ってすごくエロいですけど、ゲイってポルノのことしか考えてないんですか~~?」と質問する女は、その女自身がポルノグラフィックなグラビアにしか興味ないだけです。

人権集会を開催している時点で、ポルノ以外のことも考えているのは明白なのですから、その女自身が、そんなことも理解できないほど頭を使っていないか、わざといやがらせしに来たのです。

人権運動の仲間に入れてもメリットはありませんし、悪質なセクハラだと思えば、しかるべき筋に引き渡しても構いません。もし警察が取り合ってくれなかったら、その時点で警察が差別加害者です。最終的な責任者は、国家です。

【中年LGBTの皆様へ】

中年LGBTの皆様は、1980年代に「アニパロ」が流行したことと、それがきっかけの一つとなって変な女性客が増えたことを重々ご承知のことと存じます。

が、この4月に上京したばかりという若者たちは、親切ぶったストレート中年にだまされてしまう可能性があります。

とくに、表面的には進学・就職のための上京でも、自分の性的志向と将来について保護者の理解が得られず、家出同然に上京してきたという若者の場合「うちのオカンと同じくらいの歳の人のなかにも僕らの味方がいた」と感激し、信じ込んでしまう可能性が高いです。

申すまでもなく、実在の性的少数者の皆様は、アニメキャラクターではありません。ストレート女性の玩具ではありません。都合のいい情報源でもありません。「ゲイバーで遊べる私は負け犬よりマシ」という優越感の道具でもありません。

【非婚者の会を結成するのが先決】

現代の職場において「私以外に独身が一人もいない」ということは少ないと言えるでしょう。

ですから、まず身近な独身ストレートに呼びかけて「既婚者から可哀想と言われたくない。いい人いないの? 紹介してあげようか? などと、優越感ぶって世話を焼かれたくない」という気持ちを共有すればいいのです。

「独身でも性的体験の自慢をするからいやだ」という場合も、それを回避する方法はあります。

世の中には本当に虐待被害の記憶に悩んでいる人、それほど深刻ではないが性的な話題は苦手だという人がいるのですから、そういう人々を見つけて「性的な話題を出さないルール」を決めて、スイーツ食べ歩きの会を結成したり、一般的なミュージカルを観に行ったりすればいいのです。インターネットが使えるなら尚さらです。

それでは物足りなくて、「直接ゲイの口から男同士のエロの話が聞きたい」という人は、もう単にその人自身がそういう趣味だというだけです。

LGBTの皆さんが慰めてやる義務は、ありません。

2017/05/17

直輸入的フェミニズム批評の世界同時革命ごっこ。

もともと「ハズバンド」というのは、ハウスをバンドする。すなわち家計を束ねる人という意味だそうで、「ワイフ」はその女というだけの意味なのだそうです。

つまり欧米では家計を宰領するのは男性の役目で、家事・育児に必要な金額だけを「俺の女」に支給するという発想なのだそうです。

だからこそ、欧米の女性は「私は男性社会の再生産のための雇われ人ではない。一人で生きて行く」という激烈なフェミニズム運動を展開したのです。

いっぽう、日本では、すでに1961年の森茉莉の時点で、女性が特殊な創作物の原稿を編集者に見せたとき、瞬間「ボツ」にならず、印刷所に回され、全国誌に掲載され、その読者から恐るべきボイコット運動が起きたということもなく、ただちに豪華装丁で単行本が発行されたのです。

この時点で新潮社の担当編集員も、編集長も、社長も、株主の多くも男性だったと考えることができますね。

田山花袋の作品に、地方在住の女性読者が「小説家として自立したいので先生のお力添えを賜りたく」という手紙をよこす場面があるくらいで、日本の女性は文筆家として自立することを禁止されていなかったのです。

青踏社はもちろん、啓発されたアマチュア女権運動家による(社会批判や議論のための)同人誌発行というのも戦前からあったのです。

戦時中は男女とも自由恋愛・性的娯楽を制限されたわけですが、1950年代を通じてだんだん一般向け映画における表現も踏み込んだものになって行き、最終的に1961年に、女性が男性中心主義(成人男性の独善性)の最後の牙城に手をかけたというのが、彼らの美少年趣味に女流の筆が言及したことだったのです。

1970年代には、茉莉よりも数十歳も若い女性たちが、おなじ主題を漫画として表現したとき、男性の編集長がそれを破り捨てたのではなく、少女向け全国誌への掲載を決定しました。堂々カラーページつき。

それに触発されて、同人も活動を始めた(または飛躍的に盛んになった)というのであれば、日本のBL市場は最初からストレート男女の二人三脚です。

それは男性社会に抑圧された少女たちの自発ではありません。暗い情念がアンダーグラウンドをのたうちまわったのではありません。最初から成人男性のエスコートを受けて、表舞台に立ったのです。

これを、直輸入・直訳レベルのフェミニズム批評では、批評しきれないのです。日本文化の独自性を無視している。

これ何に似ているかというと、やっぱり各国の歴史的事情を無視して世界同時革命の夢を見ていた新左翼なのです。

つまり、プロと同人を混同した上で、BL全体を少女の自発によってアンダーグラウンドで成長した分野として定義したがった1990年代のフェミニズム批評は、学生運動レベルのプロパガンダであり、嘘だったのです。

「資本家が社会を支配している」とか「アメリカ帝国主義の陰謀だ」とか、まァそういうのと同じです。まるっきりの嘘でもないんだけれども肝心な点を外している。

その資本主義のおかげで大学へ通えてるのは誰だ? みたいなね。

では、実際の日本を特徴づけるものは何か?

女流文学の伝統、衆道を美化する伝統、宗教的タブーの欠落(舶来宗教と土着アニミズムを折半して来たことによる規範意識の曖昧性・世俗主義)、敗戦による男性中心主義の挫折と相対的な女性中心主義の急成長、そもそも古代の女性中心主義の継承。すなわち女性の権利に対する一定の理解や尊敬。

そういう日本の独自性を勘案しないことには、なぜ世界中で日本だけがBL文化を繁栄させることができたのか解明することにはならないのです。

2017/05/17

BLファンを思考停止させる弱者特権意識。

1980・90年代を体験していない人にも「BLは女性の弱者特権」という意識は根強くて、男性との議論が行き違うこともあります。

女性側からは「女にも性欲があるんですよ!」とか「女の子はみんなエロを求めてるんですよ!」などと言うことがあります。

これは女性の口からそのような発言をすること自体が不適切であるという社会通念があるので、それに対してレジスタンス運動を展開しているような気分になれる。女の口から何を言っても弱者特権だから、男から「黙れ」と言われない。つまり自分が強くなったような気分になれることによっています。

けれども男性陣が知りたいのは「その女性の性欲が、なぜ女性キャラクターによって表現されないのか?」ですね。

これに対して女性側が言い得るとしたら、本人がほんとうにトランスゲイとして適合手術と戸籍変更を望んでいるというのでない限り、「わたくしはシス・ストレート女性としての性欲を男性同士の表象を用いて表現する特殊な女性ですから、ご理解ください」です。

「そういう女性存在がよいことか悪いことか、他人が価値判断せず、差別しないでください」です。

少数派の表現の自由の権利を確立する運動という意味で、おおきくとらえれば同じことですが、主張する論点が違うのです。「性欲がある」だけでは意味がないのです。

いっぽう、実在の同性愛男性は、女性による性的描写(の一部)がたいへん暴力的であることについて、数十年も前から抗議しています。これに対しても、女性は「表現の自由」で押し通そうとしますが、彼らの論点はそこではありません。実在被害です。

彼らが実際に危険な行為をくりかえしているという偏見が助長され、彼ら自身が嘲笑されたり、やられる前にやれとばかりに暴力被害を受けたりすることを危惧しているのです。

これに対して女性が言えることは「わたくし達の表現によって皆さんに関する偏見が助長されることはないとお約束いたします」です。

「なぜなら、もともと明治時代の文学の翻案であり、ストレート男性における逸脱行為を描写しているのであって、実在の同性愛者の皆さんとは最初から最後まで無関係だからです」です。

「少なくともわたくし達の仲間の中から、皆さんに対して失礼な質問をしたり、後をつけ回したりする者を出さないことを誓います」です。

けれども、彼らに対して「実際の行為について詳しく教えろ」と強制する女性が後を絶たない現状です。

まことに残念ながら、二次創作BL同人活動の経験者も、その中に含まれています。

同人誌即売会における先輩から「絶対にそういうことをしてはいけない」という訓戒を与えられたはずなんですけれども、いやもう本当に残念無念です。

2017/05/17

プロを侮辱する同人が、ゲイを差別する。

1990年代半ば。ゲイコミュニティは「女性の創作物には『男同士は異常だ』という台詞が含まれている。我々に失礼である」という苦情を、市販フェミニズム雑誌に投書しました。

けれども、プロ作品にそのような台詞はありません。と、当方が指摘いたしますと「編集がチェックしてるんだから当たり前じゃん」という証言が寄せられました。

これは、まず「プロは自分で気をつけることができない」という意味です。プロの見識と努力に対する侮辱です。

証言者は、二次創作BL同人活動の経験者だそうです。ということは、一般人よりも出版界の裏事情に詳しい人が、プロ作品には失礼な台詞が含まれていないことを確証してくれたということでもあります。

いっぽう、ゲイは「俺が読んだ本には失礼な台詞が書いてあった」と言って来ている。彼らは何を読んだのでしょうか? 同人誌ですね。

では、まず同人が謝るべきことです。たとえプロが「編集に助けてもらってごめんなさい」と言ったとしても、同人の責任がなくなるわけではありません。

【同人の責任】

もし同人が「1980年代の少女時代にプロ漫画作品を読んだことによってBLの面白さに目覚めて、二次創作BL同人活動を開始し、たいへん暴力的な作品を制作・販売し、大勢の少女を興奮させてやった」と自慢するのであれば、まさにゲイコミュニティが指摘してきた通りのことです。

すなわち、社会性が未熟で、善悪の判断ができない少女のうちから「同人誌」を読んでいた人々が、1990年代に成人すると、興奮した頭のままゲイバーへ押しかけて、下品な質問をしたのです。

性的な質問は「プライバシー侵害だ。ジョークでは済まない」と感じる被害者がいる以上、セクシュアルハラスメントであり、犯罪です。

もし質問者たちが「どうせ男同士は異常だから、私が彼らのプライバシーを侵害してもいいのよ。私が訴えられる心配はないわ」と考えたのであれば、異常という偏見が犯罪を誘発したのです。

でも同人が最初に読んだプロ漫画作品には「異常だ」という台詞がなかったのですから、同人自身が「異常だ」という台詞を書いて、少女たちに読ませたのです。プロは偏見を助長しなかったが、同人は助長したのです。

二次創作BL同人誌制作の目的が「カネもうけ」だと言うなら、同人は、おカネのために同性愛者を差別したのです。

そのおカネを何に使ったのでしょうか? 自分自身も少女だったなら、親(に準じる保護者)が生活を保障してくれていたはずです。18歳以上の大学生として一人暮らししていたとしても、親から仕送りを受けていた可能性が高いです。

とすると、生活費ではなく、遊ぶカネほしさに、性的少数者を差別する台詞を書いて、偏見を助長し、読者による犯罪を増やしたのです。

もし、1980年代の同人が「自分の人権運動のために弱者の声を挙げて行きたいから、ゲイと連帯させてほしい」と言って来た時には、その真意を問い正してみるといいです。

なぜ、マイノリティの連帯したいという人が、ゲイ側被害の実態をまったく知らないのか? あるいは、知っているが自分だけは責任逃れできると思っているのか?

【自分を甘やかしている】

なんでこんなことになってしまうかというと、「同人やっていた」人が、そのことをひじょうに軽く考えているからです。「どうせ子ども(学生)の遊びだから大目に見てやればいいじゃん」と自分で思っているから、自分の発言をつなげると深刻な意味になることに気づかないのです。

その程度の人が書いていた自称同人誌は、確かに思慮の足りないものだったにちがいないと言えるでしょう。それは本当に差別的で、偏見を助長し、読者に不適切行動を促すものだったのです。

もし、ここまで言われて「べ、べつにいいじゃん。もともと女とホモは関係ないじゃん」と言い返したくなったようであれば、あなたの覚悟はその程度だということです。自分本位の弱者の連帯ごっこを中止しましょう。

2017/05/17

なぜBLの源流を探る必要があるのか?

「それが実在の性的少数者とは無関係であることを証明するため」です。

なぜ証明する必要があるのか? 実在性的少数者に失礼な質問をする女性が後を絶たないそうだからです。

プロ創作家も同人も「読者には実在性的少数者に失礼な質問をしに行ってもらいたい」と思っていません

質問しに行く人は、その人自身が考え違いをしているだけであり、してはいけないことをしているだけであり、ただの加害者です。弱者特権ではありません。かばってやる必要はありません。

ゲイコミュニティは1990年代半ばから2000年にかけて、フェミニズム雑誌やプロ作家にあてて苦情を投書しました。彼らはその中で「若い女性」が我々に失礼な質問をするので迷惑させられていると訴えました。

1990年代の若い女性とは誰でしょうか? 1970年代に十代の少女として二十四年組作品を読んだ人々は、1990年代には三十代です。残念ながら、誰が見ても「若い女性」とは言ってくれません。

したがって、1990年代の若い女性とは、もっと後に生まれた人々です。1980年代に十代の少女だった人々です。それが成人したとたんに、夜の街へ繰り出したのです。まだバブルの続き気分。

したがって、BLの源流を探る話に腹を立てて「私は明治文学なんか読んだことないよ! 1980年代の少女時代にプロ漫画を読んで目覚めたんだよ!」という人が該当します。

では、そのプロ漫画とはどのようなものだったのでしょうか?(以下次号)

2017/05/16

「扶養される男」という先入観と、自立支援時代の同人・BL論。

女を養う能力がなくて、自分が男に囲われたほうがいいような顔した若者。

そういう可愛い子は、私が見世物として利用してやるわ。相手の男も、ついでにね。

これがフェミニズム批評的BL論を成り立たせる根本的な発想ですね。

「新時代の自立した女性は、男性から扶養して頂く必要がないので、ヒロインが男性から扶養していただく代わりに家事に励むという物語を読んでも、うっとりと感情移入したり致しません」というわけ。

もともと若者を寵愛するというのは、前近代的特権階級男性が実際に行っていたことで、若年者のほうではそれを喜んでいたという証言はないのに、喜んで迎えてくれたという美化された伝説が確立していて、男性が自分でそのステレオタイプを用いて絵巻物や黄表紙本を量産して来たわけです。

そのステレオタイプを女性も利用するのは、戦後憲法に保障された男女平等にかんがみて正しい。

それを今さら男性が「若者が可哀想だ」なんていうなら、女としては「今なお続く男性中心の社会機構に対する皮肉ですよ」と言ってやることができる。

フェミニズム批評的BL論とはこういうことです。それなりに一貫性があるのです。これはこれで正しいのです。この限りにおいて、BLはフェミなのです。

【誰が誰を愛でるのか】

たんに女性が男性を愛でるだけなら、女王様と警護の若者という話でもいいわけです。

じゃなくてBLとして成立するためには、女性のほうで前もって「この世には、女性的な顔してるので(女性にモテると同時に)男の相手に選ばれる若者もいる」という予備知識または先入観が必要なのです。

言い換えると、女性が美男子を見かけた時に「こういう男の子には男も目をつけるのよね」と連想することが必要なのです。つまり、それに先立って本人が「そういうこともある」と知っているのです。

日本の女性は、その先入観を打ち破って実在性的少数者を解放してやったのではなく、その先入観を自分も利用しただけなのです。

なにも知らなかった少女の自発でも、トランスゲイでもなんでもなく、この日本では、もともと男性が、その要素を厳しい宗教的タブーとして来なかったから、女性も便乗できたにすぎないのです。

便乗することを禁止されないのは、女性の自由であり、権利です。けれども、あくまで男性における既成の価値観に自分を合わせて行っただけなのです。

その状態で「既成の価値観を打ち壊すためにゲイと弱者の連帯したいわ」と言っても、ぜんぜん説得力ないのです。彼らから相手にされないのです。

もともと明治時代の文学や、内藤ルネが描いたイラストや、ピーターのような存在を(映画で)知って「同性愛とは女性的な若者を可愛がることだ」と早合点したのです。

勘違いとは言わないまでも早合点なのです。まったく間違いではないけれども、そういうのは彼らの文化の一部にすぎないのです。

(だから『薔薇族』を買えば自分好みの美少年の写真をたくさん見られると思ったのに、なんだブサイクばかりじゃないのとクレームする女もいたのです)

【二次創作BLとBLは別】

著作権の絡みが出てくると「女の自由」とばかりも言っていられなくなるのです。

もし、二次創作BLについてもフェミニストが弁護するなら「男性の著作権者は女性の同人を告訴してはいけない」という圧力をかけたことを意味します。

事実上これが発効してしまったので、いまでも女の二次創作同人だけが異様な強気に駆られているということがあります。

けれども、女性の著作権者はその限りでないのです。プロ創作家は少女に対して「私の作品を利用させてほしいなんて甘ったれたことを言ってないで、私たちを見習ってプロになれるように真面目に修行しなさい」と言えてしまうのです。

フェミニストが女性の自立を弁護すればするほど、これには一言もない。

だから本当いうと「同人とフェミは別」じゃなくて「二次創作BLとBLは別」なのです。

後者だけなら男性社会に対して「女性の表現の自由」を主張し得るのです。

けれども、二次創作者が、とくに女性の著作権者に対して、フェミによって守ってもらえると思ってしまってはいけないのです。

ここであわてて「だって私の場合はお母さんが」と、トラウマ原因論を持ち出せば、そういう可哀想な少女こそ同人活動を禁止して、問題を抱えた母子を社会がサポートし、他人の権利品に手を出さなくても生きていけるようにパソコンスクールにでも通わせてやろうってなことになるのです。これが自立支援時代の同人・BL論です。論理的帰結です。

だから現代の同人に言えることは「二次創作は、わたくし自身が成人の責任において自由選択したことであり、人生の先輩の皆様といえども、漫画道の大先輩といえども、大学学長といえども、御意見無用です。(権利問題につきましては話し合わせて頂きたく存じます)」だけなのです。

だから、いい歳して「まだ少女だから大目に見てもらえる」なんて思っていてはいけないのです。


2017/05/16

娘の自立の陥穽。

二十八歳にもなって朝っぱらから「私たち女の子にピッタリのプチ化粧品♪」とかほざいてる女子アナの皆さんはですね、ちゃんと入社試験を受けたですよ。

顔が可愛いだけで採用してもらえたと悪口を言うことは簡単なんですけれども、採用に先立って、本人の自由意志によって入社試験の日取りと場所を調べ、申し込みをして、スーツも買って、めんどくさがらずに出かけたのです。

面接室に入る時には大きな声で挨拶できたに決まってるし、「在学中は何をしていましたか」と訊かれて「ゴロゴロしてました」と答えたわけはないのです。人によっては何年も前から専門の勉強をしたり、自分でビデオ撮り&アフレコしたりと、がんばっていたのです。同級生や家族からからかわれたとしても、めげなかったのです。

中年になっても漫画同人やってる女も同じです。親から「いいかげんにしろ」と言われても、同級生から「まだ独身なんて可哀想」と言われても、若い人から「いつまでやるんですか?」と笑われても、くじけなかったのです。

ふざけんなあああ」と思いながら、その気持ちを(やや公序良俗的観点からはアレな)漫画に籠めたのです。

【既婚夫人は仕事を覚える】

じつは既婚夫人というのは、夫の手伝いという形で仕事を覚えるのです。キュリー夫人は好例ですね。

現代でも、誰々さんが作った青果ですといって名前が表に出るのは夫なんですけれども、土起こしにも草取りにも摘果にも選別にも女性の手が入るのです。むしろ主力ということも多いですね。

ときには夫の名代として会合に出席したり、会計を担当したり、挨拶状を書いたりもする。また日本の女性はそれができるだけの教育を与えられている。

仁侠映画では、親分不在のあいだ、その配偶者である女性が「あねさん」と呼ばれて若い衆から尊敬される様子が描かれていますね。

じゃあ、娘はどうか? 鬼龍院花子は「あねさん教育」を受けているかっていうと、受けていないのです。お嬢さんはお嬢さんなのです。父親の仕事を手伝うのではなく、まず嫁入りして、夫の仕事を補佐することが期待されているのです。その際の指導者が姑です。

そのために、まず花嫁修業する必要がある。いわゆる永久就職のための就職活動をするわけです。

これに反旗を翻したのが、1970年代ウーマンリブ。独身の女性に男とおなじ仕事を覚えさせろというのです。

それまでの婦人運動は結婚が前提で、夫の勤務負担の軽減要求や、子どものための環境運動が主流だったのです。反戦運動も「息子を戦場に送るな」という母心が基礎ですね。

だから独身女性の社会進出運動は、男性の偏見と、母権的運動の両方に対して、差異化を図る必要があった。だから「父親の仕事を覚える娘」であろうとしたのです。

だからこそ、これがアキレス腱となるのです。父・母・娘という従来の枠組みに収まっているからです。その中にいるかぎり「お嫁に行けない娘(もらい手のない娘)」という価値観を逃れることはできないのです。

【自分で自分を差別】

「成人した女性が独立するのは当たり前ですよ」と言い切ることができなかった。私を「女の子」なんて呼ばないでください、ちゃんと税金も納めてるんですから、もう子どもじゃありませんと言うことができなかった。

自分自身が「おとなの男性(の肉体)によって、おとなの女にしてもらう」という既成概念に立脚しているのです。

自分で自分を「結婚していなければ、おとなとは言えない」と差別しているのです。

それを言っているかぎり「そうね。本当だわ。いつまでも子どものままなんて可哀想」と言われることを防ぐことはできないのです。

それに対抗するつもりで「子どものまま、サイコーー! すっごい楽しい~~!」と言おうとするから、過剰に子どもっぽいマナー違反をすることになるのです。

この「自分自身が既成概念から出ていない」という状態で、ゲイコミュニティに走りこんで「一般社会の既成概念を打ち壊すために連帯しましょう」と言っても、相手にされないのです。


2017/05/16

妻の親と同居したほうが夫は楽という話の虚実。

妻の生家に夫が入ったほうが、嫁姑の争いに巻き込まれることがないから夫も楽だというアンケート結果が出たって話。何年も前に聞いたことなんですが、これはですね。

男性は見栄っ張りだから「じつは俺のほうが岳父に気を使うので最近では家に帰りたくないから残業してる」なんざ、赤の他人に向かってぶっちゃけないのです。

「どちらかといえば楽」に丸をつけて自分をごまかすのです。

もともと女のほうがバカ正直で、機嫌が悪い時には機嫌が悪い顔をして、泣きたい時には泣く程度で、アンケート結果もすぐ鵜呑みにしてしまいますが、男のほうがそういうところはうまいのです。

(と言われて、すぐ感情的にならないで、創作のネタとして利用しましょう)


2017/05/16

1957年4月、小津安二郎『東京暮色』松竹

えろう冷えて来ましたな。

脚本:野田高梧・小津安二郎 撮影:厚田雄春 美術:濱田辰雄 録音:妹尾芳三郎 照明:青松明 音楽:斉藤高順 衣装:長島勇治 監督助手:山本浩三 撮影助手:川又昂

小津的オールスターでお送りする、もはや戦後ではないトーキョー・トワイライトすみっこ暮らし。うはウナギ屋のう。上野発の夜行列車があった頃。オフィスに帽子掛けがあった頃。ケータイはなかった時代。パチンコは立ったまま弾くものだったようです。カメラは例によって床に座り込んだ犬の目線で。(猫かもしれない)

小津映画は観ているうちに後ろ足で耳のあたりを掻いてみたくなったりするのです。バアのセットに既視感を覚えつつ。(※逆です)

昭和32年現在、雑司が谷らへん。主権は回復したけれど、翻訳や英文速記で糊口をしのごうとする日本人たち。例によって劇中効果音か心理描写か意味不明な高順音楽をそこはか~~となく響かせつつ。(じゃっかん邪魔)

珍しく原節子が子持ち。あら笠智衆が靴下留め使ってるわ。(最近じゃ珍しいですよね) 電化製品としての炬燵が出回り始めたようです。

二本の線路が象徴するお話は『晩春』の娘が出戻って来たといったところのようで、やぶをつつくと蛇が出たりもいたします。親父もちょっと察しが良くなったようです。

小津さんもずっと同じことをやってきた人で、独特の会話の撮り方もだんだん手際がよくなって、つながりが自然になって来たのが分かります。笠智衆がだんだんうまくなって来たのも分かります。信欣三のダメ文人っぽさが出色です。

和服の姉と洋服の妹の姉妹物語も小津的定番ですが、ここんちの妹は新時代ぶって、自由ぶって、じつは自己管理できない小娘。孤独じゃないすよ、こんなもん。周囲に甘えてるだけです。

ひがむ女ってのは本当にめんどくさくて、女の子を育てるのはむずかしいというのは小津さんの実感なのでしょう。大学という言葉も聞かれますが、女のほうがこのレベルでは「男に女の生き方を教えてもらう必要はない」とか言えた義理ではございません。

【以下、詳細に言及します】





ほんとうは、妹の不幸にはいろいろな要素が複合して関わっていることを、野田・小津の脚本はちゃんと描き出しているのです。大学を出たばかりの若い女は世間を知らず、見た目の可愛い男に参りやすく、周囲はおもしろがっているだけ。

けれども、そのおもしろがっている人々も、おそらく家庭で孤立している。あるいは家庭を持つことができていない。『早春』でもうどんパーティー開いてましたが、東京は地方から上京して来た人々の集まりだから、自由の名のもとに孤立しやすいのです。

姉のほうは自分自身が母親にこだわってるもんだから、それらをすべて「お母さんがいなくて寂しかったから」という原因探しに落としてしまう。

でも、社会人にもなって家族の絆に子どもがこだわるようなら、社会が「母親が家にいてやって」と言うのは当然です。それが子どもの心に寄りそうということですからね。

女性自身が「お母さんのせいよ」と言っているかぎり、女性の自立はありません。

という具合に、それぞれのキャラクターに一貫した実在性があるのが小津さん流。逆にいえば、まだステレオタイプの寄せ集めだけでお話が作れた時代。そのまとめ方もうまくなったようです。基本的には、たぶん今日も繰り返されている東京人間模様。

なお、杉村春子のパリッと気の張った働く女らしさはいつものことですが、どスッピンに近い山田五十鈴の苦労して来た感がいいです。……のんちゃん、誰の物真似すか。(いますぐウィキペさんへGO)


2017/05/12

2011年11月、中谷彰浩『なぜあの人はすぐやるのか』ダイヤモンド社

私が速いのではなく、その人が遅いのです。

いい男に言い切られると腹も立たない法則。いや冗談ではなく、男の顔は仕事ぶりで決まりますからね。

すこぶる実践的なビジネス書ですが、これを読んで「ぜんぶできるわけないじゃん! 押しつけないで!」と被害妄想に駆られちゃう人は、すでに受身です。いい男にだったら引きずり回されるのも悪かないですが、自分がイニシアティヴを取りましょう。

自分基準ですぐ出来ることをいくつかピックアップして、すぐやればいいのです。

中谷の発想は、ビシッと一貫性があり、整合性があるので、一つのアドバイスを実行できれば、他のこともできています。

また、他のビジネス書と同じことを言ってるのも印象的で、やっぱり「できる」人の発想は同じなのです。

「編集者は投稿作品の最初の1ページで面白いか面白くないか決めてしまう」というのは、ほかの人も言っていたことなのです。だんだん面白くなるんじゃダメなのです。出だしで「おッ」と思わせることができなければ、以下未読のまま編集者の机の上に山積みにされるだけです。

「構成を決める前に、まず書いてみて、あとから編集する」ってのも、じつに有効なアドバイスで、評論にも創作にも適用できるでしょう。

経験的には、論文やブログ記事などは、とりあえずダーーッと書いてみて、結論が出たところで、それを冒頭へ持ってくるといいです。結論が頭に入ってると、論理展開も追いやすいので、読む人にとって親切です。中谷も「相手の時間配分まで考えてやれ」と言ってます。(男の真の強さとは優しさなのです)

これだけ回転の速い人だと、さぞかしモバイルを使いこなしてるんだろうなァと思うと「ゲラ刷りチェックは赤鉛筆」というのが泣かせます。予定を書き込むのはボールペンだそうです。グリッと。

「作家は規則正しい生活をしている」「東大生は(ガリ勉ではなく)淡々とやっている」なんてのも興味深いエピソードです。

こんな中谷にも「ムカムカする」ことはあるんだそうで、眠くなるから寝てしまうんだそうです。いやなことをいつまでも考えてないで思考停止したほうがいいという判断が(無意識的に)働くのでしょう。ムカつくという若者言葉でないところがいいです。

人間が意識できていることは自分の人格を構成する記憶や感情のほんの一部で、あとは広大な無意識に格納されているそうですから(参考:池谷裕二・糸井重里『海馬』新潮社文庫)、中谷の言うことは、意識的に行動することによって無意識の負担を減らし、楽にしてやるということなのでしょう。

彼がここまで見切るには、やっぱり博報堂で鍛えられて、悔しい思いもしたのでしょう。博報堂に入れる時点ですごいと言うべき最前線だからこそ、俺ダメかもしれないと思った時の劣等感も強かったはずです。そこからどうやって気分転換し、立ち直ってきたのか。そう思えば、いわゆるトラウマの解消にも役立ちそうです。

面白いのは俳句のつくり方なんですが、あんまり引用してしまうと書籍が売れなくなるので、このへんで。(いますぐ在庫チェック)

2017/05/12

1991年5月、黒澤明『八月の狂詩曲』黒澤プロダクション

わらべは見たり、野なかの薔薇。

脚本:黒澤明 ゼネラルプロデューサー:奥山融 プロデューサー:黒澤久雄 原作:村田喜代子「鍋の中」(文藝春秋社版)より 演出補佐:本多猪四郎 アソシエート・プロデューサー:井上芳男・飯泉征吉 撮影:斉藤孝雄・上田正治 美術:村木与四郎 照明:佐野武治 録音:紅谷愃一 効果:三縄一郎・斉藤昌利 衣装:黒澤和子 音楽:池辺晋一郎 題字:今井凌雪(雪心会) 蟻指導:山岡亮平(京都工芸繊維大学応用生物学科) オルガン調律:金井賢二 
ヴィヴァルディ「スターバト・マーテル」:ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団 カウンターテノール:ジェイムズ・ボウマン(ポリドール株式会社 原盤:オワゾリール1976/デッカレコード)

この国の八月は追悼の季節。俺もこの世を去る前に、言っておかねばならぬことがある。

学童が過去の自分なら、青年男女は未来の象徴。素人に近い若者たちの表情をじっと見守るカメラ使いは、ああ黒澤も歳を取ったなァ……と感じさせ、もう序盤で目頭が熱くなることでございます。

確かに『乱』でひと区切りついちゃったわけで、ここへ来て「男性の不在」を撮りきるという離れ業なのでした。

松竹であることに「おや」と思いつつ、小津さんや木下さんの作風に似ているようでもあり、意識しているとしたら最後の洒落っけなのかもしれません。(この時点では、もう一本撮れるとは思っていなかったことでしょう)

そしてやっぱり、妹の力というより姉の力のようです。場面ごとのまとまりがよく、プツッと切れる編集は、短篇集のような味わいでもあります。DVD特典映像では、ゴッホ感あふれる画コンテを拝見できます。……まさか建てちゃってないだろうな、この家。

(やっぱり建てちゃったようです)

諷刺魂は老いてなお盛んなようで、アメリカの思惑を勝手に解釈して気を回す日本人たち。受け継がなくてよいものまで受け継いでしまっていることに当人たちは気づかないのです。リチャード・ギアが日本語しゃべってる~~。(いい人だなァ)

思えばドーリットル隊が飛来した時から、この神州は空から見られる視線を意識し続けていたのでしょう。

月光は人の心を洗い、昨日の敵は今日の友。人は誤解を解き、心を通わせることができる。アメリカ人のお陰さまで晩年の制作が可能になった黒澤から、これは感謝の贈り物なのでしょう。

【以下、詳細に踏み込みます】





小津が好んだ生活喜劇タッチと、あまりにも重い要素が共存しているので、観る人もとまどうわけですが、例によって「どちらの見方が正しい」ということではないと思うのです。

おとなは、いろいろなことを胸にたたんで、表面的には穏やかに暮らしているのです。子どもたちは自分だけ原爆のことを知ったような顔をして、お気楽そうな長崎市民や観光客を批判するけれども、その中にも「うちのおばあちゃんも原爆症」という人がいるはずです。「私自身もいつ発症するか分からない。だからこそ今は子どもと楽しく過ごしている」という人がいるはずです。

それを黒澤は行間に落としこんでしまった。子どもたちも、いつか気づくのです。その「いつか」が重要なのです。過去を描きながら、じつは未来を撮っている。

印象的なのは、おばあちゃんが「白いものをかぶればいい」と言いながら、自分ではなく子どもたちにかぶせようとすることですね。

黒澤も、小津も木下も、さらには宮崎駿も男性だから、婦人の守り育てる本能に期待する。最後はおっかさんに頼むというところがあるのです。

そのおばあちゃんが、なんで今さら走り出すのか。「あの人に教えてあげなくちゃ」と思ったのでしょうね。家と子どもを守る人が、それを忘れて走り出すとき、心は恋する娘に戻っているのです。薔薇よ、薔薇よ、小さな薔薇よ。

で、クラークさんだ。彼は、あくまで「ハワイの日系人」であって、ワシントンの要人ではないのです。もし戦争を知っている世代だったら、強制収容所に入れられていた側なのです。それが日本人の心に寄りそうことができなかった。

心のどこかに、アメリカで大成功した者(の家族)という慢心があって、呼びつけてもてなしてやれば喜んでもらえると思い込んでいた。本来なら、まずお墓参りして、それから「よかったらおいでください」とお誘いするべきだった。順番を間違えてしまった。

クラーク父は、それに気づくことができる人だった。礼節を知る人であることが分かったから、ばあちゃんも「兄さん」として認識したのです。

あまりに印象的なラストは、観客をなめとんのか? ものすごくきついブラックジョークなのか? い、いやでも今さら何の諷刺?

これも参っちゃいますが、あるいは監督としては「もう言いたいことぜんぶ言っちゃったから、あとはいいや~~」と豪快に笑い飛ばしたのかもしれません。国敗れて山河あり。一切衆生悉有仏性。なお、編集技はすごく細かいです。

2017/05/12

プロになったら、同人やめたわけじゃないです。~にわか同人の縄張り意識

そもそも創作家として食っていくとはどういうことかというと、ようするに創作物を制作して売ることです。

どこで売ってもいいのです。出版社に売る(出版権を設定する)でもいいし、路上で売ってもいいし、屋根のあるイベント会場で売ってもいいのです。紙が濡れると困るので屋根があるほうがいいですね。

つまり、創作家になるということは、自由業で生きて行くということです。自分で取引相手を見つけて、売上と経費の計算して、確定申告する個人事業主になるのです。

つまり「高校または大学出たら就職しないで起業する」ということです。その根性はあるか?

貿易会社やIT会社を立ち上げる技術や度胸はないのに、創作だけで食って行く技術と度胸ならあるつもりか? いままで一回も原稿を仕上げたことがないのに? 同人なめんなって話です。

【同人とは】

もともと「同人」というのは、尾崎紅葉や与謝野鉄幹も使っていた言葉ですし、日本画・南画の画家たちも使いましたし、現代の歌人・俳人・書道家も使う言葉です。第一義的には、たんに「仲間」という意味です。

それぞれが出版社に認められるのを待つのではなく、仲間から会費を集めて同人誌を発行することによって自由な作品発表の場を確保したり、展覧会を開いたりするわけです。

漫画同人も、それぞれに2人・3人と仲間を見つけて同人会を結成し、おカネを出し合って合同誌を自費出版することによって、作品発表の場を確保していたのです。

日頃は同人誌の形で作品発表している人が、ある作品だけは一般向けの可能性を認められて出版社と契約した(出版権を設定した)という時、出版社を通じて単行本が発行されるだけです。それを「プロになった」と言ってもいいし、言わなくてもいいのです。明治時代からそういうものです。

海外では大学教授などが長い夏休みを利用して小説を書いて出版社に送ると書籍化されるという方法のほうが、むしろ一般的です。現代日本における「定期的に大量発行される雑誌の連載陣として創作家が出版社に囲い込まれてしまう」という現象のほうが特殊なのです。

もちろんエコノミックアニマルらしく効率を追求した結果です。創作の工業化。江戸時代の浮世絵制作工房や、文楽・歌舞伎の座付き戯作者の伝統が響いているのでしょう。

けれども、じつは出版社を通そうが通すまいが、自分で「俺は漫画で食ってるから漫画家だ」と思えば漫画家で、小説家だと思えば小説家です。収入において食っていけるレベルではないことを自覚していれば「漫画も描いてます」というだけです。

そのいっぽうで、出版社ではない企業と契約して、食品製造や、ホールスタッフとして労働しているとしても「それが本業である以上、漫画を描いてはいけない」ということはありません。

どっちが本業か副業か、べつに決めなくたっていいのです。

現代だって、プロ同士が集まった同人会・同人誌はあり得ます。コミケ出展者にもさまざまな形態があります。誰も「複数でやってはいけない」などと決めてはいません。

自分と似たような個人的出展者とばかり付き合っていただけという視野のせまい人が「個人でやるものに決まってるのよ」などといって、威張るものではありません。

【家制度と責任転嫁】

日本は、どこの業界でも「親分・子分」の家制度が残っており、それに基づく終身雇用制が強固です。(だからこそ正規雇用と非正規雇用の差が大きいのです)

「親分に食わせてもらっている義理がある」という受身・被扶養の意識が強く、二つの組織に同時に属することはできないという禁忌意識が強いのです。

したがって、創作家も出版社と契約したら、お互いに「お抱え」という意識になってしまい、他における自由な作品発表を禁止されると思ってしまいやすいのです。

事実として専属契約を結び、同人誌の発行やインターネットにおける作品発表を禁止されることもありますが、それは創作家自身が「それでいい」という契約をしただけであって、出版社の社員になったわけではありませんし、人格として社長の子どもになったわけでもありません。

にもかかわらず「プロになった人が同人の世界に戻ってきた」という言い方をする人は、自分自身が縄張り意識にとらわれているのです。

戻ってくるも何も、いつ同人誌を即売会に出展しようがしまいが、各人が自由に決めていいのです。

ある時は「市販雑誌連載用の仕事が手早く終わったので余裕を持って同人誌即売会出展用の作品を用意することができた」と思えば出展するし、次回は「忙しかったから自費出版しなかった」ということもあるし、また次回は出展するかもしれないし、と思ったら抽選に落ちるかもしれないのです。けれども、インターネットでオンデマンド発行してもいいのです。

個人主義を理解できない人が「母親のせいで同人になった」とか「事件のせいで売れなくなった」とか、責任転嫁ばかりするのです。


(参考:2015年11月、森 博嗣『作家の収支』幻冬舎新書)

2017/05/12

大学生とは、何をする人か?

大学生というのは、高い学習能力を活かして、資格を取ることを期待されている人々です。

明治時代のことを考えてみると、文字も読めない人々には公文書をまかせることができなかったわけですから。いまでも基本的には同じです。

外国語が読めない人は医師には向いていませんし、漢字を読むのもいやだという人は弁護士にはなれませんね?

大学に合格したということは、その能力があるということですから、大学生の進路は、まず国家試験に合格すること。次が公務員採用試験に合格すること。このどちらかということになります。大学に合格したから、もう勉強しなくてよいということはありません。

研究者になるという手もありますが、論文を発表しただけでは生活費になりませんから、ほかの方法で生活費を得る必要があります。

論文を書籍の形にまとめて発行し、その印税を当てにすると考えれば、創作家の同類とも言えます。でも専門書がスマッシュヒットを飛ばし、講演会などを頼まれる確率は低いでしょう。つまり、かなりのリスクを承知で起業することの一種です。

教授の助手として研究室に入るというのは大学に就職するということで、かなり狭き門です。

教授というのは、各科に一人なわけですから、いきなり「教授になる!」というのは「大会社に就職して社長まで登りつめる!」というのと同じで、それまでの道のりをぜんぜん考えてないということです。

夢だけでは次の一歩を踏み出すことができません。なんの論文も仕上げてないうちから教授職の夢を見ることはできません。原稿を完成させたことがないのに「漫画家になりた~~い」と言うだけ言っても無駄なのと同じです。

だから平均的な大学生の進む道は、まずなんらかの資格を取ること。理系なら医師や技術者。文系なら弁護士、司法書士、教員など。

OLになりたいだけなら、パソコンスクールへ通ったほうがいいというのが現実です。

だって自分が採用する側になったら「大学で古い文学ばかり読んでいたので、現代のビジネスに必要な能力は何もありません」という女と、「文学は読んだことありませんが、エクセルなら最新式を覚えてきました」という女のどちらを採用しますか? どっちを「わが社の仕事に対して意欲的」と考えますか?

(現代の若い人は、スマホしか使ったことがなく、キーボードを打てないので、大学生も論文執筆にあたって、まず大学においてパソコン初心者講座が必要だそうですorz)

2017/05/12

宮川泰『英雄の丘』を聴きながら。

沖田の、子どもたちが行く。
(1978年『さらば宇宙戦艦ヤマト』より)

沖田艦長と藤堂長官と佐渡先生の友情描写には胸熱なわけですが、彼らがどのような修羅場をともにくぐって硬い友情を築いたのかと考えてみると……

ないよね?

ガミラスが爆弾攻撃をしかけてくるまでは、地球はエアカーが疾走する未来文明を繁栄させていたわけで、戦乱につぐ戦乱ということではなかったはずなのです。

ガミラス以外の異星人が登場して「地球に援軍を送る」とか「漁夫の利を狙う」という描写がないわけですから、地球人が太陽系進出するに当たって、火星人や木星人を相手に戦乱の時代を経験したということではないのです。

だから、友情の基礎があるとしたら、たんなる兵学校の同期でしょう。

あの作品は、最初からテレビ放映を意図してオリジナル脚本が用意されたもので、誰か原作小説家または漫画家が深い設定を考えてあるというわけではないのです。

だからこそ、ファンが二次創作する余地もあるわけで、二次創作というのは性的なジョークのことではなく、さまざまな作風があり得るのです。同人活動に偏見を持ったまま、自分も同人活動始めてしまったという人の話は聞かなくていいです。

話を戻すと、1970年代のアニメ制作の時点で、プロデューサー以下スタッフの中に「俺たちのひとつ上の世代はみんな戦争に行って、男を磨いたんだ」という意識が多かれ少なかれあって、それがそのまま反映されているわけです。

ガミラスの攻撃も「ここ数年の間に急激に追いつめられてしまった」という話であって、明らかに太平洋戦争の急展開が反映している。

宮川の曲も、それを念頭に、実際の戦時中の軍歌または戦時歌謡のような旋律・編曲になっている。

これを外国の皆様が御覧になったら「日本人は過去に生きている」と思うのが当然なのです。まして金髪の人物が侵略者として描かれている。欧米人(連合国)が観たら、微妙なコンプレックスを刺激されるわけです。

だから「日本のアニメは暴力的だから良くない」と欧米人が言うときは、暗黙のうちに民族対立が響いていると思えばいいです。したがって「こんどは暴力描写をなくしたから金髪が悪役でもいいでしょ♪」というわけではないです。

いっぽう、単純に音楽要素から言うと、宮川の楽曲は、ババジャニアンの1970年代作品によく似ています。ああ、交響曲の世界でこういうのが流行だったんだな……と思ったことがあります。

ババジャニアンはアルメニア出身で、アルメニアの音楽教育に尽力した人ですが、「ソ連人民芸術家」でもあって、そこから連想すると、ロシア語圏には男性合唱の伝統があるようで、いまでもオペラ歌手をスターとしてあつかうようです。イタリアの三大テノールほど世界的に有名ではなくても、おさおさ引けを取らない歌手が大勢います。

日本は、それを昭和初期までに模倣し尽してしまったので、戦後はすみやかにロック音楽にシフトしたと言えるところがあるでしょう。宮川が交響曲の流行を紹介するとともに、ジャズとハードロックの素養があり、ヤマトのドラマに乗せて発表したことは「日本のサブカル」の方向性に大きな影響を与えたと思います。(あえて真顔で)

その宮川を起用することができたのは、西崎義展の人脈によるものなので、毀誉褒貶の大きかった人物ですけれども、やっぱり日本のサブカルは西崎に足むけて寝られないな……と思うのでした。

なお、リメイク版は、ちゃんとシリーズが続いているので、現代の若者にもスペースオペラが訴求することを示した点で功績は大だと思います。

バッシングの根本は、真面目なアニメファンと、初期の漫画同人会にとって「二次創作の連中に荒らされてしまったな」という恨みが深いことなのです。(正確にいうと、原作無視の自称二次創作)

だから、リメイク版の美少年・美少女路線は、オールドファンの逆鱗を刺激するのです。

だから耽美系・BL系の女性が「私はいまのヤマトも好きよ」と言ってやっても、火に油を注ぐだけなのです。だからどうってこともないですが、そういう事情もあります、というお話。

2017/05/11

二次創作許可マークの本当の意味。~見つけられない権利

非親告罪になってしまえば、決めるのは警察であり、国家です。著作権者自身が「フリー」を宣言すれば免責になる権利を保持できるのであれば、それは非親告罪化ではないです。

残念ながら許可マークという発想は最初から破綻しているのです。

それは要するに「著作権者自身が決める権利」の可視化であって、非親告罪化してもらわなくて大丈夫です、ぼくら漫画家同士で話し合うことによってやって行けます……という意思表示なわけです。

だったら、べつにマークを使わなくても、とにかくプロ・アマ問わず漫画家全員が「非親告罪化に反対!」の一本槍で押し通せばいいのです。

非親告罪化が通ってしまえば、その時点から検閲が始まるので、あらゆる代案が無意味になるのです。

ということは、論点はあくまで「非親告罪化反対=検閲反対」なのです。

意外なことに、この問題のポイントは、じつは「カネが絡んでるかどうか」ではないのです。検閲させるかどうか、なのです。

同人としては、べつに二次創作にこだわらなくても実利を得ることはできるんだけれども、いざ禁止されてしまえば、たんにオリジナルにシフトしたからもう安心というわけではなくて、違反(二次創作)ではないかどうかを確認するための検閲によって、冤罪を着せられ、原稿を没収されたり、拘留されたりする可能性があるということです。

それに対して「これはカネもうけのためにやってるんですよ!」と主張しても無意味なのです。警察官が「分かってるよ」と答えるだけです。

【見つけられない権利】

「著作権の保護を強化することにしたけれども、新規に制作された創作物については精神性(表現の自由)を尊重して検閲しない」

まずはこれによって、たんなるコピー商品(=海賊版)との区別ができたことになります。

そしたら同人の自己判断によって、オリジナルを出したい奴は出せばいいし、二次創作を出したい奴は出せばいいのです。

正確にいうと、出さないのが望ましいんだけれども、出したとしても検閲されないから「えらい人」には見つからない。あえて言えば「見つけられない権利」です。

もともと、そういうもんなのです。探さないでくださいと書置きを残して家を出たみたいなもんです。

「いや、そんなこと言ってる場合じゃない。片っ端から見つけて被害を防止、または被害者を救出しなければならない」というのが、危険ドラッグや人身売買です。

【お客さんはいません】

ようするに「二次創作はそれほど悪いことではない」の一点に掛かっています。探さないでくださいと言われれば「ま、いっか」で済ませられる程度であることが重要なのです。

だからこそ、二次創作で興奮した読者が駅頭で騒ぐとか、新宿二丁目に迷惑かけるとか、実在児童への興味を助長するとかいうことであれば「一発アウト」ということがあり得るのです。

だから、言葉使いに気をつけろ、自分の権利を勘違いするなと言うのです。

危険ドラッグさえも、交通事故が起きるまでは取り締まり対象ではなかったのです。ダンスクラブが摘発されたのは麻薬取引の温床になっていると睨まれたからです。また周辺住民から「若い連中が店の外で騒いでいるので喧嘩に巻き込まれたり放火されたりすることが心配だ」という通報があったからです。

二次創作を出展するイベントが周辺住民の迷惑になっていると思われれば、総理大臣が理解してくれても、官僚が何を約束してくれても、終わります。政治家もヤクザも恐れるのが世論です。それじゃ本当に同人さんが困るのです。

今日も執筆に専念し、暑い日・寒い日に粛々と搬入作業する現役同人たちにとって、お気楽すぎる一般参加者も困るし、興奮しやすい「もと同人」にも困るのです。

「子どもっぽい」と思われるサブカルだからこそ、礼節と思いやりを備えた、正しいおとなになってください。

2017/05/11

二次創作の代案を挙げつつ、その問題点を指摘してみる。

世の中には「好きでやってることなら無報酬でもいいだろう」と言われることを恐れるあまり「誰もキャラクターなんか好きじゃないよ! 最初から金目だよ!」と言っちゃう中年がいます。

だったら、全員が「せーーの」で二次創作をやめちゃえばいいです。

そうすれば、全員がオリジナル作品で勝負する他なくなるので、その中でランキングがついて、新たな壁サークルが成立し、それなりのにぎわいが続くはずだからです。

社会はくだらない議論に悩まされなくてよくなりますし、同人は引き続き営利活動できるので、ウィン・ウィンの関係です。おめでとうございます。

ただし、問題が2つあります。

全員オリジナル化せざるを得ないということは、すでに二次創作が禁止されたということですから、違反者がいないかどうか検閲することになります。オリジナルのつもりで出品したのに、他人(警察官)によって「有名な何々くんに似てるから起訴」ということがあり得ます。

もともと「日本のサブカル」は、互いに見よう見まねで描いているので、見方によっては「全出品物アウト」です。

また、当然ながら「二次創作でなければダメなんだ」というファンが泣かされることになります。これは、ファンのことまで考えずに自分の実情だけぶっちゃけた中年のせいです。

ここで、もう一つ考えられるのは、同人自身が「二次創作フリーのオリジナル作品を発表し、互いに原作を買って、二次創作を売るという相互扶助・自給自足」です。

ファン(一般参加者)のほうは「ジャンルが変わった」と思えばいいだけのことです。もともと数あるサークルの中から「この同人さんの作風が好き」という基準で選んでいたわけですから、そのオリジナルキャラの中から萌えるタイプを見つけることも可能なはずです。

けれども、ここまで追いつめられるということは、すでに二次創作が禁止されたということですから、上記と同じ問題が発生するわけです。

だから、この問題の本当の論点は「カネが絡んでるかどうか」ではないのです。

「カネが絡んでいない場合はもともとアメリカも規制対象として考えていないから日本の警察も検閲しないが、カネが絡んでいる場合は二次創作ではないかどうか検閲する」という状態に対して、検閲反対と言えばいいのです。

「私の場合、カネが絡んでいるので、検閲しないでください」と言いたいなら、ようするに「検閲しないでください」だけ言えばいいのです。だから多くの人が「表現の自由」と言っているのです。空気読んでください。

二次創作というのは、あくまで二次創作者自身がアイディアを振り絞って描いたものです。

そこには、一人一人の人生の中で長い時間をかけて読んで来たもの・考えてきたことの積み重ねが表現されているのですから、それを他人がいいか悪いか検閲するとなれば、人権侵害になるのです。ここ重要です。

ここで「同人はただのエロです! 思想なんかありません!」というなら、じゃあ禁止してもいいじゃんという話になってしまうので気をつけましょう。

「でもおカネのためだから」と言えば許されるのではありません。「カネのためにエロを売る」というなら、そのうち盗撮写真も売る連中だということになってしまいます。

二次創作は、それ自体が「思想または感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術または音楽の範囲に属するもの」であるところの著作物であることによって、たんなる写真の焼増しや映画の盗撮とは区別され、表現の自由を主張し、取り締まり(検閲)を免れることができるのです。

そもそも「人生にとってエロは重要だという思想が表現されている」ということぐらい自分で理解しておきましょう。

(ついでに「脊髄反射は自分の墓穴」ということも覚えましょう)

2017/05/11

日本のサブカルが説得するべき、本当の相手。

第二次ベビーブームが終了し、年間出生数が激減した1975年に生まれた人々が、今年42歳になります。(すでに上半期も終わりつつあります)

彼(女)らが30歳で人の親になったとすれば、お子さんが12歳。早生まれなら中学1年生に上がりました。

1980・90年代には、少女が同人誌即売会に通うことに夢中になっているというので、評論家・社会学者・マスメディアが面白がったわけですが、それは「児童生徒の非行はおとな社会の不条理を反映しているだけで本人の責任ではない」という非行文化論の延長だったのです。

けれども、当時の少年少女が保護者になってしまいました。

彼(女)らは「若者文化とひと口に言うが、俺は・私は暴走行為に加わったことはないし、万引きしたこともない。同人誌即売会に通ったこともない。俺は・私は昔からオタクという連中が大嫌いだ。いまさらうちの息子・娘が変な漫画を買ってくるようじゃ困る」と言えてしまうのです。

彼(女)らは、18歳になった時、1993年でした。いきなり就職氷河期だったのです。「だからといって俺は・私は他人の権利品に手を出したりしなかった。今だって真面目に働いてるぞ」と言えてしまうのです。

彼(女)らに対して、同人が情状酌量を願い出ることはできません。1980・90年代に流行したフェミニズム批評を思い出して「男性中心社会が~~」とか「母親のトラウマが~~」とか言うだけ言ってもいいですが、恥の上塗りです。

【政治家は説得できる】

源流をたどれば古代のアニミズム信仰にまでさかのぼる日本人のキャラクター好きを、外人目線の評価基準によって禁止させてはいけない。日本の政治家なのに、日本人よりも外人の味方するのか。

これを言われて「おう、俺は確かに非国民だ」と言える政治家はいないのです。だからTPPの時も「アメリカに口出しさせるな」という反米闘争に落とすことができたのです。

国連ってのも、基本的に連合国主導ですから、枢軸国としては「いかに敗戦国だろうと文化にまで内政干渉を許しちゃいかん!」と突っ張ることができるのです。

だから「日本のサブカル」を弁護する人々は、伝統文化を引き合いに出すのです。

日本国内において、教育が高ければ高いほど、教養が深ければ深いほど、古代信仰や中世文学や浮世絵を引き合いに出されたら「わ、私だってそのくらい知ってますよ」と言わざるを得ないのです。

けれども、庶民の生活実感としては「そんな古い話は関係ない。俺はとにかく自分の子どもが変な漫画を買い込む奴にならないでほしいだけだ」と言えちゃうのです。小遣いやってるのは俺だぜ?

これに対して供給側が言えることは「本人が成人してから自己判断で購読することを理解してやってください」しかないのです。酒・煙草・パチンコなどの業界と同じです。そのうえで、依存症にならないように・ニートにならないように、読者・視聴者に呼びかけていく・お願いしていく他ないのです。

重要なのは『おそ松さん』を制作している脚本家・アニメーター自身はニートではないことです。これが「日本のサブカル」の現状です。

私が同人やっていた頃は子どもが買いに来た(私自身も子どもだった)なんて思い出話は、なんの役にも立ちません。

2017/05/11

二次著作物とは。

二次著作物があまりにも原著作物(一次著作物)から乖離しており、もはや独立別個の作品という時は、二次著作物とは認められません。

つまり原作者が告訴しても、裁判長が「これは二次でさえない」という可能性は、あります。この場合、原告敗訴というか、取り下げです。

だからこそ「なぜ、あえてそのキャラクターを使うのか?」という問題が発生します。

逆にいえば、わざわざ「二次」創作と言っている以上、自費出版者のほうで、他に対する依拠性を認めていることになります。

だから本当いうと「これは二次創作です」といって売っていることはないのです。だからこそ隠語を使用したのです。(昔の社会学者は空気読めなかったのです)

念のため、国民誰しも「自分に不利な証言を、わざわざしなくてよい」ことになっています。

それを見てしまったとき、原作者が「これは俺の作品とは関係ない」と思うか、キャラクター商品化権を侵害されたと思うか? 原作者の胸一つです。

どの法律に基づいて、何の侵害として告訴するか? 意匠権? 商標権? 著作権? そもそもキャラクターとは何か? 人は何をもってキャラクターを「あのキャラクターだ」と認知するのか? 深く追求すれば、大脳生理学者や心理学者や哲学者まで証人として連れて来なければならない大問題です。

名前は分かりやすい指標ですが、個々のキャラクター名をすべて商標登録してあるということは少ないものです。

にもかかわらず、もし、わざと原作者に他人の自費出版物を見せようとする人があれば、原作者の心に「侵害された」という気持ちを起こさせることを狙った。すなわち告訴を強制したという意味に取られる可能性もあります。業務妨害、脅迫、迷惑防止条例などが適用されるかもしれません。

だから、何が侵害されたといって、誰が誰を訴えるのか、かならずしも一様ではないのです。「侵害されたと思っているが大目に見てくれている」のではありません。考え方です。

国家が、個々の国民の人権を尊重するならば、個々の国民の判断力を信じ、個々の国民の考え方を尊重するのが正しいです。

にもかかわらず「これからは著作権者ではなく警察が判断する」という話になりかけたのを、水際で食い止めたというのが、最近起きたことですね。

だからこそ、著作権者は依然として著作権者です。彼(女)が個人的に判断することが禁止されたわけではありません。

二次創作者のほうから「先生のお考えを聞かせてください」とか「商品化権の問題だとは考えないでください!」と言えば、もちろん、やぶ蛇です。

2017/05/11

コミュニティ内部の多様性と、外部に対する一枚岩的対応を混同すると、内ゲバ。

わざわざ「30年前の私の同人誌の客は『エロ』を求める少女だけだったよ!」と言って来る人は、こちらの話が「それを好まない人もいる」というものであることを分かっているわけです。分かったうえで否定するわけです。

でも、ここは「BLはエロであるべきか、非エロであるべきか、そこが争点だ」といって喧嘩するところじゃないです。

なぜなら「エロくないBLなら売ってもよい」という規制案が決定すれば、どこで線引きするのかという問題が発生し、検閲が行われることになるからです。すなわち創作家・読者が検閲の導入に賛成したことになるからです。

そうじゃなくて「BL内部の多様性を認め、すべての検閲に反対します!」に一本化するところです。

逆に言えば「あんた、自分の好きな非エロだけ教育委員会に認めさせて、エロは規制されればいいって言うのね!?」という対抗意識・被害妄想を持ってしまう時点で間違いなのです。

「内部における多様性」と「抑圧的な外部に対する一枚岩的対応」を混同すると、内ゲバが起きるわけです。

内ゲバを起こす人ってのは、発想が受身なのです。自分の責任において多様な意見を認めますと言うことができない。「違う意見の奴が出てきたわ! 私が負けちゃうわ!」と思ってしまうのです。

すでに心が負けているのですが、もともと勝ち負けの問題ではないことを勝ち負けとして捉えてしまうのは、本人のライフスタイルが競争的だからです。なんでも「どっちがえらいか」という話にすり替えてしまうのです。しかも勝てる気がしないのです。だから過剰防衛になるのです。

可能性としては「いつも母親によって兄姉と較べられていたので、また負けちゃうという不安に駆られている」ということなのですが、いつまでもそれを引きずっているのは本人の責任です。

なお、すでに年齢制限の話が出ている時に「昔の客は少女だった」ということは、現代において「年齢制限に反対します。昔同様、少女にも売ってやるべきです」という意味になります。が、これは同人全体の本意ではありません。

時代の変化について来られない人は、無理しなくていいです。