2005年、辻村深月『凍りのくじら』

  08, 2015 10:20
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氷の海から呼吸を求めて浮上と沈潜を繰り返す三頭の鯨。

……という役者がそろうまでに280頁を要する大長編。これを手に取る読者は、主人公の「私、頭よすぎて友達いないんだーー」という述懐に苦笑できるでしょう。

少しではなく、すごく書評しにくい作品で、だったらしなきゃいいのにと言われても、これは言いたい。読むべし読むべし読むべし。

すでに発表から十年が経過していますが、この輝きはこのさき何十年経っても失われないでしょう。まさに星の光のように、作家自身の肉体が滅んだ後も、日本の文芸界に燦然と輝き続けることと信じます。藤子・F・不二雄の名とともに。

あらゆる技法を取り入れている。いろんな要素が混ざっている。それが互いに効果を発揮し、互いを成り立たせている。海と星とピアノの音と、ドラえもんが道具を呼ばわる声が響きあうように。

スモールライトォ。(個人的には大山のぶ代です。)

『ドラえもん』が直接に引用されていることも嬉しい驚きですが、漫画を熟読することによって、会話文を駆使した細やかな場面設定、ラストまで間然するところの無い構成という創作技法を身につけた人が、しかも活字でしか実現できない表現を成功させてしまった。

映画に関わる人にとっては、くやしい傑作かもしれません。

【ドラえもんという無意識。】

確かに『ドラえもん』は、1975年以降の雑誌連載を知っている世代にとって、小学生時代に読むもので、それも小学館の学習雑誌に載っているという理由で保護者から買い与えられるままに、これはミステリだとか、これはロマンスだとか考えもせずに吸収するものでした。

芦沢理帆子さんというか辻村深月さんは、世代がちょっと手前のほうにズレており、単行本で一気読みしたので、作品との関わり方があるていど意識的なわけで、自分の読書史の最初に位置づけることができたのでしょう。

新世代が、旧世代の無意識を突いたわけです。文庫版(2008年初版)解説の瀬名秀明も、そのへんの驚きを語り出したら止まんなくなっちゃったらしいです。

【真髄。】

藤子・F・不二雄の「少し不思議」というのは、思うにファナティックなSFファンが「子ども向けに換骨奪胎するのは良くない。SFが誤解される」とクレームしてきたことへ対して「僕はもともとそんなに熱心なSFマニアではありませんよ。皆さんには敵いません」と、はぐらかしたというか、オブラートにくるんだ皮肉というか、そういう意味だったのでしょう。

理帆子さんというか深月さんも、それに風刺が籠められていることを、ちゃんとわきまえている。そして作中にも暗示(明示か)されている通り、SFとミステリはツーカーです。

単にドラえもんから引用するだけではなく、その創作技法の妙味の真髄がみごとに再現されている。愛読者が敬愛する作家を完全に消化吸収したことを表している。しかもそのことを作中で明示するのは珍しい。たいした自信です。その自信を藤子先生がくれた、というのでしょう。大丈夫、君なら必ずそれができる。

主人公が地面に映った冷茶の影を見つめる場面は、その美しさに作家自身が気づいたことによっている。つまり作家自身が写真家の眼を持っている。

写真家・芦沢光が育てた娘は、その人間性の本質的な誠実さと謙虚さにおいて、音楽家・松永純也とよく似ている。悪くいえば臆病さが似ている。ということは芦沢と松永が似ている。だてに秘密を共有していない。

とすると、この三人の「こういうふうにしか生きられない」という価値観の背景には、やっぱり作者がいる。芸術をこころざしながら、私的な部分で弱さや葛藤を抱えている。その臆病な自分に光を当ててくれたのはドラえもんであり、藤子先生だった。私はこの話を一生懸命考え、描ききることで、光を持つ人になるんだという意欲、なれたんだという自信の証なのでしょう。

辻村の他の作品タイトルを見ると、「太陽」や「かがみ」といった言葉が見られます。筆名からいっても「光」には思い入れが深いようです。

そして、光は主人公の父の名でもある。そう考えると、主人公=作家は女性だけれども、女性が男性になる、男性の偉業を継承し、男の心で生きていくという意志の正当な表現ということもできるかもしれません。

【以下ネタバレとなる可能性があります。】

まずは構成がひじょうにうまく、冒頭に作家自身とおなじ25歳の女性が理想的な成功を収めた姿が置かれています。

場面転換すると、彼女の高校生時代。グダグダです。自己陶酔ぎみの不良娘。いきなりここから時系列通りに始まっていたら「ありがち」と投げていたでしょう。

倒置されていることによって、どうやら8年の間に立ち直ることができたようだから、何があったのか見届けてやろうというふうに読者の興味を誘います。

やがて過去へ過去へとさかのぼり、少しずつ彼女の事情を明らかにしていく手法は鮮やかなミステリであって、頁を繰る手を先へ先へと急がせます。

物語は、基本的に女子高生の一人称によって青春の痛みを描く私小説ふうで、とりあえず異世界大冒険ものではありません。

【私小説としての価値。】

主人公は箱入り娘の「りはこ」ちゃん。本当は理帆子。父親は真っ白い帆を張って人生の大海をスイスイと渡っていってほしいと願ったのに、本人は死の影に怯え、自分で自分をつまらなくしている。

容姿はなかなかの美少女なんだそうで、周囲に登場する男性陣も絶世にして妙齢の美男ばかり。学校の屋上が施錠されていない点からいっても、発想のベースには、じつはロマンチックな少女漫画があります。

しかも理帆子の辛辣な思考には、同じように読書好きだったに違いない作家の実体験が反映されている。

文庫版の解説では、瀬名が文体を「瑞々しい」と評しています。確かに新井素子ふうの独白を辛口にした感じです。批判力旺盛な若い女性が胸のうちで独り言をいい続けている。

饒舌な人間観察にはそれ自体の価値があって、とくに男性が読むと「女の子ってここまで深く考えてるのかよ!? すげーーなw」と面白がれるところでしょうか。

女の眼から見ると「ぜんぶ言わなくてもいいのに……」って気も致します。きっと多くの女性が、こんなふうに様々な不満や不安を感じながら生きてはいるのでしょうが、言語化することが難しい。それをやってのけた。

まずは現代の純文学として、まっすぐに読むことができるでしょう。

【25歳の本音。】

自尊心を誇示する陰で、じつは学業にも部活動にも熱心でなく、放課後の自由時間をもて余し、交際相手に対して「あんたがしっかりしてくれれば結婚できるのに」と言わんばかりの態度には、学校を卒業してしまった25歳の本音が透けているようでもあります。

作家は1980年生まれ。多感な15歳の時には、社会はすでにバブル崩壊後。不況・不況と言われる中で育って来ています。

これ以降の世代は、確かに「親に迷惑かけたくない」なんて言う。世の中には自分よりも苦労している人がいることを知っている。自分自身はべつに欲しいものもないし、傷ついてもいないような顔をする。

現代を生きる17歳の傷心と、25歳の不安が重なっている。

でも書いた人は、これで世に出た17歳ではありません。すでにデビューを果たし、25歳に達した中堅です。男言葉を駆使する今どきの女子高生らしい地の文と、リアルな会話文によってシチュエーションを積み上げ、読者をして「この子あぶなっかしくてほっとけない」という気分に追い込む手腕は確実で冷静です。

【本音の裏。】

箱入り娘のりはこちゃん。口先では一人で生きていくと言いながら、自分自身が弁護士や医師になって独立するために猛勉強するというふうではない。

それ自体に価値のある饒舌な人間観察が、じつは彼女の本心を隠している。文章として明示されていないことがある。

海のない県で随一の進学校といっても、本当は自分がたいしたことないのを知っているのです。松永のお金で東京の私立文系へ行って、その大学のネームバリューでOLにしてもらえばいいや程度の将来しか描けていない。

だからやっぱり、まがりなりにもK大学の法科へ入学できた若尾がうらやましい。

「K大の法科生で、顔がきれいで、どこへ行っても尊敬されるんだろうなァ。女の私は、顔が派手だっていうだけで遊んでると思われて、どこへ行ってもばかにされる。つまらないなァ」

という伝統的な女性観を本人が抱えている。それを底からはね返すために努力するよりは、周囲が抱くイメージに合わせるほうが楽であることを知っている。一目惚れという愛欲に流されるほうが楽であることを知っている。

でも、小理屈をつけて自分を守りたい。弱冠十七歳にして、女の狡猾さをすっかり身につけてしまっている。

……と、このくらいまでは読者が深読みできることを前提に、この話は書かれている。

【松永と理帆子。】

松永はたんに「同級生のよしみでお父さんから君のことを頼まれた」といえばいい。人もうらやむ成功を収めているのだから「慈善事業」といってもいい。

理帆子のほうは、どうせバカ娘のふりをするなら「松永さんって~~、うちのお父さんと、どーゆー関係なんですか~~?」と訊いちゃってもいい。でも、そこまでバカになりきれていない。

二人とも真面目なのです。根は優しいのです。詰めが甘いといってもいい。自分に嘘をつききれない。秘密をかかえきれない。だからといって他人に八つ当たりもしない。

松永は「謎の存在を読者に知らせる」という創作技法上の役割を担っているわけですが、それと人間性が一致している。理帆子も「ここでそれ言っちゃおしまい」であることは言わないような人格として、一貫している。

純文学調の人間観察が、ミステリを成り立たせる最大の要素となっている。

これについちゃ理帆子と別所あきらが「あの話は、のび太が後悔することを前提に組み立てられている」というふうに藤子作品を分析することで、じつは作家が手の内を明かしている。

【理帆子の眼。】

読者は理帆子の眼を通じて作中世界を見るわけですが、彼女、下のほうを見ている。地面に落ちる影の色を見ている。これがうつむきがちな彼女の心理を表すとともに、確かにカメラマンのセンスを感じさせるから、キャラクター造形に説得力がある。

だから読者は、瀬名の言うとおり、彼女のものの考え方の自虐的な部分には共感できないまでも、彼女の判断力を信用できる。つまり実在の人間による手記のように、彼女の書いた通りを信用できる。

でも、この子、じつは学内にまったく友達がいないのです。

お父さんとドラえもんが好きすぎて、校内の異性やテレビタレントについて、同級の女子同士でキャッキャウフフすることができない。じつは面白くない子だと思われている。じつは本人も、腹の底でそれを分かっている。

だからこそ、誰とでもうまくやれるつもりで自尊心を守っている。誰からの相談事に対しても、そつなく相槌を打てることだけを自信の根拠にしている。

だから、彼女のほうから現在の交際相手について周囲に相談したり自慢したりしないことを、彼女自身が不思議に思わない。そんな彼女の心理を深読みできたつもりの読者も。

【以下は読了した方向けです。】

この話は「夫婦の絆も、男の友情も、よく分かんない。誰も私の話を聞いてくれない。誰も『お父さんのことは君のせいじゃないよ』と言ってくれる人がいない。誰も本当の私を分かってくれない。お父さん以外の誰も信用できない」

とか思って、疎外感にだけは満たされている少女を、大人の秘密に参与させることによって、自発的な「気づき」を促すということなわけです。

彼女がそんな苦労をするはめになった世界は、じつは男たちが自分の運命から逃げたことによっている。けだし芦沢と松永は似たもの同士の大親友というわけです。

しかも、男たちの逃避を成り立たせているのは、それを支える大人の女たちの忍耐力と愛情です。

「待て」と言われて待つ人がいなかったら? 「僕がいなくても頑張ってください」と言われて頑張る人がいなかったら? 「この子を頼みます」と言われて引き受ける人がいなかったら?

女たちの美徳は、男たちの不徳と一体になって、子どもたちの人間性を規定する。しかもやっぱり子どもは母に支えられて立ち直るわけです。

理帆子は自分を責めることにすり替えているけれども、本当は「お父さんは私を捨てていった」と恨み言を叫びたい。さすが汐子さんは彼女の気持ちを代弁してくれた。

理帆子が立ち直ることができたのは、光を浴びる前に、すでに母親によって満たされていたからです。汐子さんは何の光も浴びなかったのに、なぜにそんなに強いのか。あるいは夫が彼女にとっての「光」だったのか。

また理帆子のほうは「私は光を浴びたことがあるのよ」と自慢して終わりにしない。その光を今度は他者にも与えようと思う。八方美人に他人の話を聞いてやる彼女には、もともとボランティア的な気質がある。なんだかんだ言って、母親が切り花に栄養剤を与える姿を見て育っている。

25歳の創作家が、読者に与える効果を計算して、この男たちと女たちの経緯を組み立てたのか。あるいは本人の無意識という海の底から、社会という氷を突き破って呼吸を求めるものが湧き上がって来たのか。

女性の生々しい独り言のような文体を、瀬名秀明は瑞々しいと評する。

いわゆるフェミニズムふうに「伝統的な結婚の形態は女性を不幸にすることを訴えた作品である」とまで曲解する必要はないけれども、やっぱり作品には女性視点、男性視点、年齢といった差異が現れないでは済まされない。

男性作家がこのように多感な20歳前後の女性心理を計算ずくで書くことは難しいように思われる。これはその年頃の女性の自発によってしか描かれ得ないように思われる。

【女性読者の現実。】

多くの実在者は、結局なんにも関わらせてもらえないまま、なんとなく成人式を迎えてしまう。君たちは今日から社会人ですとか言われても意味わかんない。

「大人になるってエッチすることでしょ」と勘違いする人もいるし、むしろ物語のように傷ついてみたいと思う人もいる。でも他人を傷つけてはいけないことは分かっているから自分の肉体を傷つけるなんてこともある。

この話において、25歳にとってリアリティではあり得ない母性は、だいぶ理想化されている。父性もだいぶ理想化されている。

結局のところ居心地の良い世界で、若い人が勝手なことを言ってるだけというようにも見える。そのことに理帆子自身が気づく心の旅でもあった。

逆にいえば、もし汐子さんが元気だったら、理帆子はおそらく自虐を続けていた。埃っぽい部屋にカメラを封印したまま。

ということは、母たる人は、みずからの命をかけても、娘を独立させてやるのがよい。そうかといって、娘たる人も、もって生まれた才能と恵まれた環境がなければ、やっぱり成功には至らない。

私小説のようで、ハーレクイン的な理想物語でもあるのです。

すでに成功した男性作家である瀬名は賛嘆を隠しませんけれども、女性にとっては、あるいは身につまされ過ぎて、居たたまれない話かもしれません。

【アマチュア性。】

軽乗用車やピアノ曲については固有名詞を挙げる作家は、写真機のメーカーやレンズの種類には触れておらず、本当は写真の世界に憧れているだけであることが伺える。

理帆子は美大へ進んで写真の技術を勉強したうえで25歳の受賞になったのでしょうけれども、作家はそのへんをぼかしてある。

だから警察にいた人が警察の内部事情を告発したり、医師免許を持っている人が医療過誤や生命倫理を題材にしたというのと毛色が違う。やや漫画チックというか。ロマンチックすぎるというか。若いアマチュアが自分に分かる範囲で書いた作品、という感じがする。

だから瀬名が「傑作です」という時も、微妙な含みが感じられる。だからこそ、25歳の憧れと恐れのすべてを注ぎ込んだ魂のランドマークともいえる。

当然ながら、それまで平凡(な不良)だった子が部活動を始めたら急に才能を発揮したという漫画の一種ということもできる。

漫画を文字で書くということは、ある時期から流行し始め、ライトノベルと呼んだりするわけですが、これはその種の稀有な成功例ということもできる。

いろんな意味において、この時代の、この年齢の人にしか書けない傑作の一つとして、長く記憶されるべき作品だと思われます。

それにつけても、スマートなドラえもんもいたことです。



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