1983年、芝山努『のび太の海底鬼岩城』

  09, 2015 10:20
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テキオー灯を確認したくてDVDを借りてきました。芦沢父娘と一緒に見る気分で。

アナログ時代の平面的な絵が「自動紙芝居」というべき和やかさを醸しておりますが、展開はものすごく早いです。冒頭の海底探査船の緊張感は本格的です。芝山監督は1970年代から意識もせずにお世話になっていたわけですが、改めてすごくドライな監督さんなのかもしれません。

夏休みの子ども達が海へ行くか山へ行くかと争った挙句に、ドラえもん(の秘密道具)を頼りに海底キャンプへ出かけます。冷静に考えると、どちらも一回ずつ行けばいいような気もしますが、ドラえもんの「海底には地上より高い山がある」という説明で、子ども達の眼から鱗。

テキオー灯によって海底の暗さが払拭され、水圧と呼吸の問題も解消され、しかも周囲はすべて水ですから、子ども達の体は軽く海底を蹴ると無重力のようにフワリと浮き上がります。

エベレストと富士山を重ねた深さというマリアナ海溝の底(のナマコ)など、なるほど視聴する子ども達にも遠大な想像力の喜び、SFの原点を教えてくれます。

子どもだけの家という秘密基地ごっこの楽しさも満点。キャンプにつきものの寝心地の悪さや炊事の手間は省かれているところも子ども心(制作陣の男心かな)にフィットするでしょう。海底プランクトンを素材にした地上料理の再現は実用化したいところです。

海底に関する科学的な基礎知識はもちろん、秘密道具の説明の必要もあって、ドラえもんがひっきりなしに喋っております。大山さんお疲れ様でした。

水中バギーはゲストキャラの一人とも言えますが、海底人が登場すると、ドラえもんがポケットに戻してしまいます。「キャラ多すぎ」の状態を防ぎつつ……。脚本は巧妙です。

海底人登場後は話の軸がそちらに移ってしまい、個人的にはやや残念に感じました。

これは致し方ないことで、子ども達の楽しいキャンプ風景が続くだけでは「山も落ちもない」ことになっちゃいますので、何か異変が起きなきゃいけないんですが、いつものメンバーが脇役あつかいになってしまうのは寂しいところです。また途中から登場した人たちに急に涙ぐまれても共感しにくいものだなァと改めて確認したりもしたことでございます。

地上人の戦争好きを海底人にとやかく言われる筋合いはないような気もしてみたり。

鬼岩城という名称は、桃太郎の鬼退治をイメージしているかと思いますが、あんまり活かせていないように感じました。

アトランティス対ムーの闘争の歴史の中で生み出された人工頭脳の暴走ということで、古典的なテーマが繰り返されているのは興味深いところですが、「地上人に思い知らせてくれる」というふうに話がすり替わってしまっており、あれッ? のび太たちは地上人ですが彼らを率いてきたエルはムーの子ですから、アトランティス側から見ると子ども達は全員がムーの送り込んだ刺客なはずです。

あるいは放置された人工頭脳が事実を誤認するに至る七千年間の孤独を描けたらよかったのかもしれません。

それにつけても、しずかちゃんの無敵っぷりw

よくよく考えると、彼女とドラえもんが海底へ行くだけでも成り立つ話で、後の美少女アニメ全盛が暗示されているのかもしれません。

なるほど芦沢理帆子は頼れる男が好きだからな、と変な納得もしたことでございます。

テキオー灯は確かに22世紀でも最新の発明なんだそうです。懐中電灯ではなく拳銃の形でした。周囲の環境を変えるのではなく、周囲の刺激を受容する側の感覚器官や脳を(たぶん)変化・活性化させるわけです。あと100年で実用化できるでしょうか。

SFの真髄は、読者・観客が「自分の命には限りがある」と気づかされることではないかと思われます。たとえ100年後にテキオー灯が実用化されたとしても、おそらく自分はそれを見ることがない。

自分はいつどこで、どうやって死ぬのか。痛いのか。苦しいのか。それまでに何をしておくべきなのか。

子どもがこれに気づいて無力感にとらわれるか、勇気と意欲を奮い起こすかは、もちろんその時の環境によります。他者とは自分を映す鏡であり、子どもは社会の結晶であり、SFとは現代を照らす光です。

なお、原画・動画・仕上げに女性スタッフが多いことが印象的でした。この場合の仕上げとは手彩色のことなのかもしれません。昔は本当に白手袋をはめてアクリル絵具でセルを着色する作業が「女性に最適」なんて宣伝されていたものです。

あるいは、日本のアニメというのは、女性の低賃金労働に支えられていたのかもしれません。



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