新選 現代日本文學全集(筑摩書房)付録19

  22, 2015 10:20
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昭和三十四年十一月。円地文子集のおまけ。

いたはられること 室生犀星(作家)
「妻が書き、夫がそれをいたはつてゐることは、よそめにも、いたはりの行き尽してゐるところであって、他にも類例があってみんなうまく行ってゐたら、私は人生が愉しいものだと思った。」

円地さん 尾崎一雄(作家)
「円地さんもやはり大患のあとだつたと記憶する。その時円地さんは、こんなことを云った。「私はここんところ、ずっとお茶っぴきよ。本屋へ行って、誰彼の新刊本が並んでるのを見ると、ほんとにくやしいと思ふの」
 私はこれを聞いて、円地さんの正直さに心を打たれた。小説を書かうとするほどの者が、男をんなにかかはらず、世間でいふ単なる正直者である筈はない。しかし、大根(おほね)に於て正直であるといふことが、芸術家の資格として不可欠のものたることは云ふまでもあるまい。」

円地さんのこと 吉田精一(評論家)
「(円地さんには)しつかりとした自己批評と、自分を見る眼の客観性がある。(中略)
 岡本かの子などは、その点円地さんと反対のタイプだったようだ。円地さんの岡本かの子論ともいうべき「かの子変相」は、私のもつとも愛読する文章だが、一つには、こういう対照的な女性の二つの像が、まざまざと見出される興味もあって、面白いのである。」

円地さんと日本古典 三島由紀夫(作家)
「近作の短編『冬紅葉』は、『群像』の合評会で、口の悪いことにかけては絶対人に負けない自身を持ってゐる三人の批評家を、等しく唖然とさせるほどの出来栄えを示した。この三人(中の一人は何を隠そう私であるが)は、それまで口々に悪口を並べてゐたのが、この作品については、「われにもあらず」口を揃へて褒めてしまつたのである。」

円地さんを語りながら、しっかりと自分を語っている男たちが微笑ましいのでした。

世界のなかの日本文学(Ⅳ) 佐伯彰一(評論家)

こちらはこの月報に連載されているもののようで、今回は三島の『金閣寺』について、アメリカの雑誌『アトランチック』の書評欄に、これは深遠な禅の思想を表現した宗教小説だから、禅を理解していないものには理解できないと書いてあったことを紹介したうえで、「あれのどこが禅だ?」って云っちゃう文章。

「この書評家の純粋な熱意と善意とに水をさすつもりはいささかもない。一体ぼくらの誰に、彼の思い過しのコツケイさを笑い去る資格があるだろう。明治以来の日本文学の歴史は、そうしたコツケイさの連続そのものではないのか。いや(中略)もともとが異質的な外国文学の理解という難事業が、落着きはらつて過不及のないアカデミックな研究態度などでやり終せるはずがないのだ。外国文学の理解や影響とは、誤解という逆道を通らずには不可能なものだ、とさえ言い切りたくなる。少なくとも真摯な誤解は、ナマぬるい無関心よりはよほどましである。」

最後んところがいいですね。

これを比較文学者が言っちゃうのもすごいし、小説全集にこれをくっつけちゃう筑摩書房もいい度胸だと思います。

以上、個人的基準により「いいな」と思ったところを抜粋させて頂きました。媒体は、函入りハードカバーにはさまれていたリーフレットで、本当に薄っぺらいものです。読者によっては捨ててしまうかもしれない。たぶん図書館で全集を貸し出す際には付属させていません。基本的には円地さんを褒めたたえる甘口の文章とはいいながら、それぞれに特徴を備えた名文ですが、各人の全集などにも納められているのかどうか。

失われた文章、失われた言説が一杯あるのだろうと思います。印刷されたものをそのまま保存することの大切さが思い知られる今日この頃です。

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