1982年、佐伯彰一・高根正昭『非行文化の時代』紀尾井書房

  22, 2016 10:20
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「ローカルなもの、パーソナルなものを通して、人間性の支えとなる、新しい聖なるものの感覚が育ってゆくと信じたいんです。」

昔々、ごくふつうの人々が東京五輪の成功とカラーテレビの流行に酔っていたころ、歴史学者たちはマルクス主義を崇めていました。

……という時代があったらしくて、それに対して湯浅赳男や川勝平太が批判を加えたのが、やっと1984年くらい。これはそれに一歩先んじている。

アメリカ留学・現地大学で講義した経験をもつ英文学者と社会学者の対談で、三部構成の約250頁。

日米を問わず、最近急に校内暴力が増えてきたという話から始まって、1960年代の学生運動にさかのぼり、『源氏物語』や『折たく柴の記』に説きおよび、日本の特殊性を再評価し、マルクス主義者の偏見を斬る。

カバーには、いかにも80年代ふうの若い女性が描かれていますが、その売春や麻薬汚染をリポートする衝撃のなんとかいう本では全然なく、それどころか冒頭から1960年代へさかのぼっちゃって、ちっとも80年代に行き着かないくらいで、社会学の概説書、および佐伯の信条宣言というのが一番近いかと思います。

佐伯は1922年生まれ。とくに関係なかったと思いますが水木しげると同い年。早くも1950年にウィスコンシン大へ留学。富山県の神道の家に生まれ育ったのだそうで、なんとなく水木同様に現代社会を一風変わった角度から眺める視点を持っていた人のように思われます。

9歳若い高根は1963年に渡米、スタンフォードとバークレーで研鑽を積む。

後者が社会学者の名を挙げて、その理論を紹介したり、最新の数字を挙げたりすると、前者が文学者らしい洞察力でツッコミを入れたり、人間心理を掘り下げたりする。だいたいこの繰り返し。直球を投げる人と変化球を投げる人のキャッチボールを見るようで、ご本人たちもたいへん楽しそうです。

博学な二人が、互いを相手の分野については初心者とわきまえたうえで、その理解力を信じて、自らの分野の成果を手際よくまとめて披露しあうわけで、傍から見ている素人にもほどよい噛み応えとなっています。

【普遍と特殊。】

理念的に対談をリードするのは佐伯のほうで、彼には日本文化とりわけ江戸時代の価値を再評価すべきだという信念があり、その前提には日本の歴史学が海外由来の階級史観によって硬直していることへの不満がある。

高根には、アメリカが信奉してきた価値観が崩れはじめたことによる不安があり、同時に、日本の知識人が日本を軽んじることへの不満を佐伯と共有している。

そもそも海外体験を共有する二人の心は、意外や欧米さまさまではないわけで、マルクス主義一辺倒、ルース・ベネディクト的キリスト教一辺倒の普遍主義に対して、日本の特殊性の価値を新たな寄りどころにしていこうという理想で一致しています。

用語がマルクス主義を引きずってるらしくて、普遍と特殊なんですけれども、後者は今では「地域の独自性」とか「多様性」と読み換えてもいいんじゃないかと思います。

逆にいえば、まだ日本の特殊性が新しい価値観として認められていないところに、子どもが荒れる原因がある。

【性悪説。】

大学教授である両者は、若者を教える立場なわけで、校内暴力を良いことだとは思っていない。麻薬や売春や性暴力を「どんどんおやんなさい」と思っているわけでもない。百歩譲ってホモセクシュアルでもいいが、犯罪につながるのはダメだと思っている。個人の自由が増大しすぎるのは良くないと思っている。

そこで、崩れ始めたプロテスタント的倫理・マルクス主義的一元論に決別し、一神教以前の集合的無意識・日本古来の共同体意識を取り戻す必要があるという。

彼らの優れているのは、人間の中から快楽と新奇な体験を求める気持ちはなくならないと見切っているところ。ほっときゃ悪いことをするに決まってるというわけです。

そういうのは育て方が悪かったせいで、家庭で良書を読ませれば悪いことなど思いつきもしませんとか、修行が足りないせいだから水をかぶって気をひきしめろとか言わないわけです。

むしろフロイトの流行によって、悪いことは何もかも個人の無意識のせいということになってしまい、しかし抑圧された無意識を白日のもとにさらしても、欲望の全てを自我のコントロール下におくことが人間には不可能だから、麻薬に逃げたりするんじゃないか? 

つまり個人が何もかも背負わなくて済むように、個人を超えた倫理がやっぱり必要だよというのです。

【新左翼。】

1950年代には本当に貧しい労働者がいて、労使抗争が意味を持っていたんだけれども、1960年代になると生活が向上して、それを捨てても革命だ、とはならなくなった。

すると中産以上の豊かな階級出身の大学生が革命ごっこに夢中になる。労働者がついてこないから自分たちだけで騒ぐ。理想があるだけで見通しはない。こういうのを「新左翼」っていうんだそうです。

その活動を、この本では「アド・ホックな運動」と称していますが、今ふうにいうと「フラッシュモブ」でしょうか。プログラムのあるイデオロギー運動ではなく、公害などの問題ごとに集まって、一時的に騒ぐようになったんだそうです。

ああ、団塊世代の闘争がなんとなく終わったのもそういうことだったのかと今さらながらに納得したことでございます。

この若者たちが成長した1980年代になると、犯罪はすべて社会のせいだ、となってしまう。犯人をあまり罰さない傾向が強まって、そうすると犯罪は減るかというと、増える。

「豊かになると非常に理想主義的になって、個人の人権や幸福をさらに積極的に追求するわけですが、その結果、個人の幸福に必要な、家族や国家という集団の基礎がかえって崩壊しはじめている。」(p.232 高根)

で、どうしたらいいのか。個人は過度の自由に耐えられるのか。実存的な孤独に耐えられるのか。

戦前に生まれ、越中富山の神道の家に育ち、彼我の文学を渉猟してきた比較文化学者は、これに「否」と答えるわけです。

数字はない。証明もできない。ただ人間心理の深い理解が、古くて新しい倫理の必要を叫ぶ。

「自然との融和を重視」し、「幾代もの死者たちとの連帯感」(p.260)を根拠におく、宗教とも言いきれない日本古来の習俗の価値を見直してみてもいいんじゃないか?

【性的逸脱。】

なお、1982年当時における「非行」の例として、ホモセクシュアルが挙げられており、カリフォルニアに学んだ社会学者として数字を持っているらしい高根のほうは、人権運動が始まっていることを認めながらも、腕力のある者同士なのでトラブルが暴力事件に結びつきやすいと辛辣です。

佐伯のほうは「(日本では)武士道の恋愛といえば、むしろ衆道に限られていたわけで、罪悪感はないんです」(p.138)とか「あるパーセントはいつも大体そうなる」(p.210)と、さすがに文学者らしい人間理解。

(いつも大体暴力的になるって意味じゃなくて、主流派とは違う性を持つ人もいるという意味です。)

日本では江戸時代の印象を引きずっていて、女装して風俗産業に関わる「なよなよした」人々という認識が主流だったはずで、あまり暴力的な男たちという危険視はなされてこなかったように思われます。

アメリカにも「ドロシーのお友達」がいたわけで、それよりも男らしいというか、日常的な存在としてのゲイが認知され始めたからこその辛辣な見方ということもでき、この新たに創出されたともいえる偏見をくつがえして現在に至るまで、まことに長い道のりでした。

【先取性。】

観客の心に「実際には経験していないのに懐かしい」という感慨を呼び起こす宮崎駿のアニメ映画が高く評価されるようになったのは、本書の十年くらい後。

「癒し」が標榜され、古民家カフェなんてのが流行するのは更に後。

思いやりが強調され、絆が流行語になったりするのが、もちろんもっと後。神社仏閣の価値が見直されるようになったのは本当につい最近。

モラルの低下とはよく言われますが、これはそういうメディア的な決まり文句の元になった歴史的意義のある対談だったのかもしれません。1982年の時点で、マルクス主義・フロイト主義を見切っていた革新性がすごいと思います。両者の口から、ウォーラーステインとかブローデルといった名前は一度も上がらなかったので、日本で流行し始めるのは、これより後のことなのでしょう。

なお冒頭の引用は260頁から。佐伯の発言です。心よりご冥福をお祈りいたします。

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