理帆子、こひな、地味なクラスメイトくん。

  15, 2016 10:20
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辻村深月『凍りのくじら』のヒロイン芦沢理帆子は、自分自身が法科へ進んで弁護士となり、松永から独立しようと思っていない。

父親の思い出の残る家を離れたくないのが本当だから、簿記(エクセル)を勉強して「一般事務のエキスパートとして地元就職する!」ってことでもいいのに、手をつけない。進学校を中退して美容師の学校へ行ったっていいのに、行かない。

どうせ松永のお金で東京の大学へ行かされることになるんだからと、彼の厚意を口実にして、自分を甘やかしているわけです。でも難しい法科を受けて、落ちれば松永を落胆させるから、無理はしない。なんて考えてるわけです。

本を読むのが一番好きだから、てきとーに文系の大学へ行って、てきとーにOLぐらいなれるでしょ……と高をくくっている。書いてないけど。

遠藤ミドリ『繰繰れ! コックリさん』のヒロイン市松こひなは、小学生の一人暮らしだけれども、身奇麗にしているので、ネグレクトのリアリティではない。

おそらく作者自身が実家の家族の家事労働に当たり前に甘えて育ち、いまは東京のアパートで一人暮らししつつ、そこが「汚部屋」にならない程度には片付けができるといった、ごく普通の生活感が反映されており、それが大きな古民家への憧れによって美化されている。

小学生だって料理を覚える子もいるけれども、こひなは挑戦しない。世の中には、おそらく大勢の若い女性が、この漫画/アニメのようなイラストを描きながら「プロになりたいな」と夢を見ている。彼女たちにとって、コックリさんのような美青年が、頼んでもいない内から訪ねてきて、家事を担当してくれるというのは見果てぬ夢であるでしょう。

女流創作最大のテーマは、やはり「女性の自由化」でありました。

住野よる『きみの膵臓を食べたい』の主人公は、男子だけれども、実質は(おそらく)女性である作者の心性がそのまま反映されたものです。

人づき合いが苦手で、生活実感が低いくせに、小説を読む。愛も悲しみも怒りも本気では感じたことがないような顔をしながら、完全に人間界に見切りをつけて自然科学に没頭するというわけでもなく、愛や悲しみを描いた小説を読むわけです。

いずれも基本的に自己肯定的なのです。こんな私だけど何とか生きている。

いくらか1980年代ふう女権意識をひきずってる理帆子には「本が一番好きでもいいじゃない! ドラえもんが好きでもいいじゃない! 女のくせにとか云わないでよ!」という怒りがある。

こひなには「カプ麺ときれいなお兄さんが好きです。ごめんなさい」という現代サブカルらしい自虐ジョークがある。

【地味なクラスメイトくん】は、あまり感情の動かない僕を草舟に乗せて、空気を読む現代っ子らしく、自分自身の批判的な眼から隠している。

簡単に割りきれば、一般文芸は底のほうに「このままじゃいけない」という問題意識を秘めており、物語のピークは、やはり自分自身を乗り越えるという点に設定される。サブカルは自分を甘やかす心理を描き続ける。

どっちが「えらい」ということではないわけで、おそらく若い人は両方読んじゃうのです。相互補完的。本当は、昔からそうだったのだろうと思います。多くの文豪が筆名を使いわけている通りです。

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