SNSパワークレイマーになる前に。

  23, 2016 10:20
  •  -
  •  -
かねて新批評的なエリオット解釈に違和感を抱いていた佐伯彰一が、意欲的な女流の最新研究に接し、「じつはあのエリオットにして、聖セバスチァンに関心を抱いていた」と知るに及んで、ハッと胸を打たれる。おい、聞いたか、三島よ……。

エリオットを語りながら、じつは佐伯先生、ご自分を主人公にしたドキュメンタリーを書いてるですな。その臨場感、瑞々しさが彼の評論の魅力です。

彼において重要なのは「自分は富山の神道の家の子である」という自意識と、比較文学の研究者としての仕事に一貫性があること。

「神道イズムな俺の眼から見ると、エリオットのあまりの清教徒ぶりにはビックリしちゃうけれども、戦争中に神の名をご都合主義で利用する自分に気づいちゃったヘミングウェイが自然崇拝に回帰していったというのは分かる気がするよ」っていうわけです。

そして「じゃあ現代の日本には何があるだろうか?」って問いかける。「神道を見直してみるべきじゃないだろうか?」って問いかける。英米文学を論じながら、彼の魂は先祖に愧じない。自己の存在を証明している。

だから『ぶっちゃけ寺』のファンが「仏教が否定された!」と涙目になる必要はないのです。云うべきことがあるとしたら、じゃあ仏教徒の目から見たとき、エリオットやヘミングウェイはどうか? ということです。

もし「俺は寺の子だから、自然界の何を見ても、仏が宿っている気がする」というならば、それは仏教とアニミズムが習合した日本ならではの現象であることに自覚的でなければならない。

そして、その眼で『聖堂の殺人』を見ると、ほぼ理解不能だが、『老人と海』は分かる気がすると。やっぱり結論はその辺に落ち着くことになるでしょう。

この場合「自分は寺の後継者なので、神道一途な佐伯には全面的には賛成できないが、画期的なエリオット解釈を高く評価するし、『老人と海』が自然宗教的であるという指摘にも同感である。

いっぽうで、江戸時代の政治的戦略として世俗化がなされたことも否定しないが、神道は近代の軍国主義と結びついて日本国内の均質化に利用されてきたとも云える。

それに比べて、寺は檀家とのつきあいを通じて、より地域に密着してきたのであり、草木国土悉皆成仏という教えも日本人の宗教的古層に根ざしており、仏教もまた、迷える現代人の心の拠りどころとなり、行動指針たり得ると信じる」

といったブログ記事なり、新聞投書が書かれることになるかと思われます。

あとは読んだ人が神社へ詣でるか、お寺さんに自分の遺骨を預けるか、両方やっても良いことで、みんな違ってみんな良い。

そもそも日本人は、混合と共存という手段によって、さまざまな外来文化に対応してきたのです。

日本人は単一民族などと簡単に云っちゃうけれども、その単一がどれほど多様な文化の集積か。

ここで「読んでないから分かんな~~い」とか「どーーして私に分かる話をしてくれないの~~?」というのが、SNS依存症です。まず読んでから議論に参加すれば良いのに、SNSというシステムの手軽さに甘えている。

もし、これに対して「これだから女は」と云う人があれば、また別の人が「女だからなんだっていうんですか」という具合に割り込んできて、議論がズレて行く。エリオットにおける信仰という話じゃなかったのかよ、となる。

逆に考えれば、SNSはそういうところだと割りきって、口喧嘩を楽しむということもできる。周囲は「生温かい目」で見守ることになるでしょう。

ただし、売り言葉に買い言葉で興奮して、云ってはいけないことを云ってしまう危険性は高い。ゲーム脳を引きあいに出すまでもなく、液晶画面に向かいっぱなしというのが頭をボンヤリさせ、判断力を低下させることは、多くの人が知っている。

たぶん、単純に眠くなるのです。

で、倫理感のストッパーが外れる。そのこと自体が楽しくて、わざと暴言を云うというようだと、もはや立派な(?)依存症というのは、冷静なときには自分でも分かることでしょう。

じつはオフラインで書籍を読むときにも、心の中で「イミわかんな~~い」とか「聞いてないよ~~」とか思いながら読むわけで、それが「リテラシー」ということでもあるのですが、必ずしもその“脊髄反射”的な感想をそのまま世界へ向かって公開する必要はない。

必要があるように感じたら、すでに依存症ではないか? 自分自身に対しても、リテラシーを発揮すると良いのです。

Related Entries