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2002年、ポット出版『「オカマ」は差別か』伏見憲明ほか

副題:『週間金曜日』の「差別表現」事件。

季節の変わり目らしく片付け物をしたら、ポット出版の目録が出てきたもんですから、取り寄せてみました。「差別か」というんだから、「いや差別ではない」という反語を含んでるですな。

「オカマは差別だ」というなら話がシンプルなわけですが、これは一見すると「そのようなクレームに対してメディアの自治を主張し返し、対話の通路を開く」という話。初版2500部。崖っぷちでがんばるポット出版。

なお、当記事はあくまで書評・分析という位置づけで、今さら議論に加わろうという意図ではありません。

【経過】

まず及川健二が東郷健を取材して、その反骨精神と、したたかな愛嬌と、いくらか老いた現在の姿をあますところなく書き表した。その記事を雑誌『週間金曜日』が掲載するにあたって、扉に「伝説のオカマ」というキャッチフレーズを掲げた。(2001年6月15日発行、367号)

これに対して、東郷自身とは関係のない当事者団体が「オカマという言葉をメディアが使うな(影響力が大きく、差別を助長するから)」とクレームした。

これに対して、『週間金曜日』が当事者団体寄りの特集記事を組んだので、本多勝一による「問題の立て方が問題」(p.126)という内部批判があって、さらにまた別の人々から、それぞれの立場による投書が相次いだ。

最も重要なのは、東郷自身が「そんなタイトルで雑誌に載せるとは聞いてないわよ」と云ってないことです。他人が横槍を入れた。今ならツイッターで瞬間沸騰するような話なんですが、この頃にはまだ3ヶ月かけて誌上討論してます。

で、ポット出版が、この議論の一部始終の再現を試みた。ということのようです。

【再現の努力】

A5版ソフトカバー。装丁はなかなか煽情的ですが、中味は冷静で、序盤において通常なら参考として巻末に付されるような細かい文字で、『週間金曜日』にそれぞれ思うところを投書した人々の名前が著名人・一般人の別なく、すべて収録されています。

ポット出版が『週間金曜日』+一部当事者団体連合に対立する意見もあったことを重視する姿勢を示し、公平であろうとしているわけで、まずポット出版の編集姿勢を高く評価したいと思います。

ただし『週間金曜日』側がほとんどの記事の転載を認めてくれなかったそうで、巻末にはポット出版による長い恨み節が掲載されています。本文は対談が二段組み、投稿記事は四段組みで、決して読みやすくはないです。どうしてこうなった。

(たぶん頁数を抑えるためと、週刊誌・新聞報道のような効果を狙ったんでしょう。)

【シンポジウム】

伏見憲明の呼びかけによって、2001年9月に新宿で行われたシンポジウム(または居酒屋におけるトークライブ)には、渦中の当事者団体が出席しなかったもんだから、事実として『週間金曜日』社長兼編集長の黒川宣之を「なんで奴らの肩だけ持ったんだよ」と糾弾する会になっちまっており、さらに東郷健という存在そのものへのコンプレックスが表明されたり、ほんというと同性愛という言葉もいやだ、ゲイという言葉もいやだなど、積年の恨みがまとめて噴出したクレーム大会という様相を呈し、伏見はこのプレッシャーを軽減するために笑いにまぎらすというポーズを取ったのだろうと思われます。

いかにこの時まで、多くの当事者が自らのセクシュアリティを名指すことに悩み、議論さえも成り立たなかったかが察せられます。その意味では21世紀の幕開けにふさわしい事件であり、シンポジウムだったと云えるのかもしれません。

なお、ポット出版が噛んだ時点で、記事を融通できないという出版業界の問題・著作権の問題にもなったわけで、それだけ話題が豊富だからこそ一冊の書籍として成り立ったわけですが、これはもう売上だけが目当てで関われることではなく、ポットさんの出版者魂を見たと云ってもいいのだろうと思います。

【シンポジウム後半】

黒川が予定通り2時間で退座すると、コミュニティ内部の話し合いとなります。最も突きつめて考えているのは野口勝三のようで、示唆的です。

>言論にとって大切なことは、自分には正しいと思えることを感覚の異なる不特定の他者に合理的に納得させる努力をいとわないことなんです。(p.80)

差別されたと思う側が「この痛みは誰にも分からない」と高圧的に引きこもることをせずに、説明していく努力が、やっぱり必要だというのです。

これに対して「説明責任などない!」と突っぱねるのは1990年代的で、これからはそれだけじゃ立ち行かないというのでした。援護するのが松沢呉一。

>結論が先にある「抗議」ということではなく、本来は「自分たちはこういう考えを持っている。その場を表明する提供してください。みんなで考えましょう」という要求であるべきなんじゃないかっていうことですよね。(p.81)

なお、引用文の乱れは「ママ」です。ちょっと誤字などが多いです。がんばれポット出版。

会場からは『ジャパン・ゲイ・ニュース』の春日亮二が手際の良いまとめを見せました。最終的には、おなじく会場から発言した元TBSの下村健一による「個別対応する自由を守ること」(p.89)に集約されるかと思います。やっぱり本職は違う、といったところです。

【内輪揉め】

「一見すると」ってとこがミソなわけでございまして、これ要するに、同性志向者コミュニティの内輪揉めなのです。

同性志向者どうしで話し合いができていないことと、ストレート主体のメディアが彼らを取材・報道する時どこに気をつけるべきかという話がゴチャ混ぜになっているのです。

現代だったら、ツイッターで「オカマって言葉を使いたい人もいるんですよ! 勝手に禁止しないでください!」って云えば済むことなのです。そこから大炎上が起こるでしょうけれども「使いたい人もいる」という前提は動かない。

でも、当時はまだ「ディスクールの権力」なんて直訳的な概念を使わないと話ができなかったのです。

日本のサブカルも、ツイッター的な話法をいきなり自分たちで発明したわけではない。ミシェル・フーコーなどが特殊な人生経験を学問の領域に接続することに成功し、それを見て他の人々が「あ、その発想はなかった」というように気づいたわけで、やっとこの頃から、それが現実に生かせるようになってきたのでしょう。

だから、この時点では、最大の問題は「それが云えない」と思っていた人々がいたということ。つまり「性的少数者は一連托生」と思っていた彼らの心の問題だったのです。

そしてその内実を探ると、友愛精神に基づいて協力体制ができていたというより、彼らの中にも男女差別があって、より女らしい人々が「私たちもいます!」と声を挙げると、より男らしい人々が「お前らと一緒にされたくない。オカマは黙ってろ」っていう。少なくとも、より女性的な人々自身がそのように思って恐れていた。

だからこそ東郷健への違和感も表明されちゃうわけで、それを言われちゃうと「自分も東郷さんと似たようなもんだ」と思っている人は、声を挙げにくくなる。

だから、この時点で最も鋭かったのは平野広朗で、それをシンポジウムという形で顕在化しようと思った伏見憲明には、やっぱり行動力があった。また雑誌ではなく書籍の形で残そうとしたポット出版には、社会に対する責任感・報道魂があったと。

【フェミニズム】

平野の云う通り「オカマは黙ってろ」というのは「女は黙ってろ」というのと構図が同じですから、確かにここで女権団体が一枚噛んでもいい。

「女らしいことの何が悪いんですか! 私たちはオカマさんを応援します!」

でも、たぶんこの時点では、まだ女性のほうが男らしくなることにこだわっていた。髪を切って、ズボンをはいて、「心は男」と称することに自分で感激していた。

「やおいはトランスゲイ」と称する書籍の発刊は、意外に遅くて1998年。ここでは「想像の中で男を抱くことができる」と云っているわけですから、女流が男役の男性キャラクターに自らをなぞらえているわけです。

で、この頃はまだフェミの先生方が「やおいは私たちのものです!」と云っていた。

女性が女権拡張の行き着く先として、男になることを夢みていた間は、女性的な男性との共闘路線は見えてこなかったでしょう。女性がKABA.ちゃんなどのタレントを応援する、おなじスタジオに立つというのは、この後から目立ってきた現象だったかと思います。

そして、さらにその後から、やっと女性の政治家・新聞記者などが「おなじ女性として主婦の起業を応援します」ということが増えてきたのじゃなかったかと思います。

【当事者意識】

それにつけても論者が口をそろえて云うことは、単語ではなく文脈を見て判断するということ。

『週間金曜日』の担当編集者だった女性は、長々と弁明記事を寄せているんですが、これはこれで当然なのです。そもそも「タイトルのつけかたが不適切だった」というクレームだったんですから。

でも、じつは伏見ほかシンポジウムに出席した人々は、記事タイトルのつけ方が間違っていたとは思っていないのです。だからこそ「勝手にお前らだけクレームするな」という内部クレームになった。

じゃあ、その判断基準は何か? やっぱり、当事者を傷つける意図があるかないか。だったら、当事者意識優先であることに変わりはないわけです。

とすると、該当記事の場合、それをオカマ自認者100人が読んで「私、これはとってもいい記事だと思うのよ。タイトルも問題ないわ」と云って、1人が「俺はぜったいいやだ! オカマと一緒にされてたまるものか!」と云えば?

前者の勝ちってことになるのです。少数派内部の多数決絶対主義。そして「オカマと一緒じゃ気に入らないってどういうこと?」という糾弾が始まる。

でも、おそらく心優しき女性的男性の皆様は、そういうふうに対立の構図に持っていくことを好まない。だから、これからは誰かが「言説の権力」を持つのではなく、いくらでも対話できる雰囲気づくりを進めていきましょうという結論になる。

この意味でも女権団体を入れないほうがいいんじゃないかな……と思われるところです。

【考える人々】

この混乱ぶりは「日本人の議論下手」ということに還元しちゃってもいいのですが、重要なのはこれだけ考えるに考えることをゲイ(を始めとする性的少数者)が余儀なくされているということです。

彼らだって心穏やかに暮らしたいだけなのに、差別があるから、それに対してどう闘うか、いかに現状を把握するか、世界を切り取るかということに、ものすごく頭を使わせられる。

ここで「ゲイって頭がいいなァ。憧れちゃう。私の人生相談にも乗ってくれないかな」というところへ落ちてしまうならダメだこりゃなわけで、彼らのこれほどの思考の努力にストレートは応えられるのかというのが大事な問題なのだろうと思います。

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Misha

Author:Misha
スマホ時代にさからう評論系長文ブログ。冷静に通読できる大人の読者様を想定しています。

「若い人」に直接呼びかける文章は、18歳以上のヤングアダルト対象です。高校生は受験を最優先してください。

書く人は、新旧とりまぜて映画とアニメを見ながら文芸書に取りくんでみたり、昔の漫画を思い出したり、お国の先行きを心配したりしております。

記事中の色つき文字は、映画中の台詞・挿入歌からの引用です。あらすじは、あまり申しませんので、楽しみに御覧ください。取り上げる作品は、暴力・エロスなど特殊な要素を含んでいることもあります。

ときおり、耽美・BL・同人・LGBTに言及します。いずれの分野からも、偏見と差別と自虐がなくなるといいと思っております。

「二次創作の責任を二十四年組に押しつけるな」「実在同性愛者に甘えるな」が基調です。

全体として、二十四年組ファンが社会学者に物申すという珍しい構図。一部勘違い同人を叱責することによって全体を守るという意図もあり、ときにかなり辛口です。

記事は時々予告なく手直し・削除・分割しております。保存は個人的閲覧の範囲で、お早めに御随意に。転載・改変利用は固くお断り申し上げます。

解題


Casketとは、玉手箱。

でも検索すると棺桶がならびます。来世まで持っていきたい好きな作品の記録帳とご理解ください。