二次創作に親しんでも、構成の勉強にはならないのです。

  11, 2016 10:20
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「組み合わせ」だけではお話が進まない、というお話。プロになりたい人は気をつけましょう。



2012年度のNHK大河ドラマ『平清盛』は、その前年の夏から撮影に入っていますから、企画が練られ、脚本に着手されたのは、その数か月前の春。つまり東日本大震災がスタッフにも巨大な精神的インパクトを与えた中で制作されたのです。

誰もが「自分はなぜ生きているのか。ドラマやってていいのか」と思い悩み、苦しんだことでしょう。その心のうねりが、主人公の自分探しというテーマとなり、自分は誰なのかという叫びに結実した。そう思えば、時代を、社会を、確実に反映した象徴の一つとしての意義は大きいと信じます。

と、前置きした上で、その内部の整合の悪さを「日本のサブカル」に還元してしまう記事でございます。

【二次創作の弊害】

「日本の二次創作」というのは、あくまでパロディとして成り立っている限りにおいて、その内部でのみ整合性が取れるのです。つまり?

男同士でも、女同士でも、なに同士でもいいですけれども、任意の有名キャラクター同士に新しい人間関係を与えて描く。でも当人は「もともと交際していた相手を裏切った」というふうには悩まないわけです。なぜか?

制作動機が、アマチュア作家・読者にとってのジョークだから、新しい人間関係を一時的なものとして、原作の基本設定との整合性を無視するわけです。

つまり、「もしもザ・ドリフターズが忠臣蔵だったら?」というコントを演じているようなものです。「生きている時代が違う」とか「相応しくない」とか云っても仕方がないですね? もともと、それが分かっているからこそ、そのギャップが面白いので、新作コントとして成り立つわけですから。

だから、二次創作というのも、本来出会うはずのないキャラクター達が一時的な共演者となって、その二人の間で会話が弾むか、ウマが合うか合わないかという話を進めることはできます。でも原作の文脈へ戻してやった時には矛盾が生じる。でも、そこで悩んだ経験がないと「ま、いっか」で終わらせてしまう作家になってしまうわけです。

そのまま、何かのきっかけで一般向けの脚本に着手する機会をつかむと、書き始めは本人も視聴者も「男の友情って憧れちゃうわ」と思うけれども、話の後のほうで困ることになるのです。

【歴史が成り立たない】

歴史上で対立していた男たちの間に、じつは熱い友情があったというのは、魅力的な空想です。教育目的としても良い話です。でも、義朝と清盛、清盛と信西の間に熱い友情があったなら、平治の乱は起きない。

でも、それじゃ困るので、清盛は熱い友情を感じているくせに、義朝が出世できるように働きかけてやらない。友達がいのない奴です。

また、信西が暗殺されないように根回ししたり、徹底的に警護してやったりしない。気のまわらない奴です。とても将来の大物とは思えない。

むしろ、先に政敵を暗殺しておいたっていいくらいです。六波羅を怒らせると怖いぞっていうところを見せつけておけばいい。信西政権は安泰です。日本の歴史が変わったでしょう。それじゃ困る。

だから、清盛が宮中で根回しのできる政治力も、先見の明も、持ち合わせていなかったものとして描く他ないんだけれども、それでは彼を商売繁盛・出世の神様として慕ってきたビジネスマン達を納得させられない。

おそらく実際には、白河院の七光りで順調に出世しただけで、しかも武力を持っていたわけです。落胤がふつうの臣籍降下ではなく、降った先が強力な武家だったことによって、空前絶後の出世街道が敷かれたのです。いや、後の武将が真似をしたのです。

でも、本人が「これから武士の世を作るぞ」と考えていたわけではない。異常な権力は、むしろ彼に取り入ろうとした周囲の卑しさを表すものであって、本人は福原へ行っちゃったくらいだから、自由人ではあった。

でも、当時の武士の一人として「家」を最優先に考えていたのであって、おなじ武士だからというので誰とでも親しくつきあってくれるというタイプじゃなかったのです。どっちかってェと「源氏ごときと一緒にしてもらっちゃ困るぜ」と思っていたかもしれない。

そもそも、あの時代は、じつはそれほど父権集約的ではないのです。

家長の一存によって、それぞれの家の子郎党を引き連れて合従連衡というふうになっていない。「一個人=一家の代表としての有権者=成人男性」というのは、近代の発想です。

でもあの頃は、それぞれの実母の実家や、乳父・乳母とのつながりが強く、おなじ家の中で帰属意識と利害がモザイク状に入り混じっている。

創作物に当世風の脚色を加えることは認められているから、そのような社会史をバッサリ無視して、落胤であることをスティグマと捉え、「武士の世」を口に出し、義朝との友情を描いてもいいけれども、それなら源平が糾合して貴族に対して反乱を起こすという話にならなければおかしい。

あるいは、一緒に東国へ走って独立政権を樹立する。それをマネジメントできるほどの男でなければ、国際ビジネスマンの先駆者とは云えない。

しかし、それではもちろん史実とズレてしまう。史実ありきの大河ドラマは、「男の友情って憧れちゃうわ」というだけでは進まないのです。

脚本家は、明らかに「同人」的な世界を知っている。それをあえて起用して、若い視聴者を取り込もうとした放送局の目論見は、あるていど奏功した(ツイッターではブームが起きた)んだけれども、決して忘れてはならない昔ながらのお客様を取りこぼしたのでした。

【同人の将来性】

念のため、「だから二次創作なんか禁止しろ」という話ではないことはお分かり頂けますね? 

そればかり書いていても良いプロにはなれませんよ、同人誌即売会で50年間「壁サークル」として君臨することも、ほぼ不可能ですよという話です。な、なぜ50年間?

だって、もし本当に同人活動だけで食っていくつもりなら、退職金がありませんから、いま20歳の人が70歳になるまで、同人活動だけで稼ぎ続け、老後の貯金も作らなければならないからです。

もともと「創作さえ出来れば楽しい」という芸術家肌でもなく、さりとて本当に商業主義的に男性向けも女性向けも児童向けも並行して描いていけるというほどでもないという人が、アニパロを売れば楽ができると思って、迂闊に関わって、やっぱりダメで、社会を恨むようになる。

こういう事態は、先に「そんなに甘い世界じゃない」と知っておくことで、防ぐことができます。

さァ、あなたの一生分の生活費を計上し、それを一冊千円で割ってみましょう。毎年何千冊完売しなければならないか分かりましたか? 楽勝ですか? 一人で会場へ搬入できそうですか? 

客観的とは、自覚的であるということです。自分で自分が見えているということです。

大世俗化の時代に、宗教の代わりに「セラピー」というものが流行るのは、もともと「祈る」という作業が「神に感情移入し、高いところにいる神の視点で地上の小さな自分自身を見てみる」という作用を持っているからです。

それが気分転換となり、発想の転換が生まれ、迷っていた心が自分から次にやるべきことを見つけ出すから、昔の人には、それがありがたい神のお導きとして感じられたのです。

神を信じられなくなった現代人は、神の代わりに「セラピー」と称して、自分を離れたところから見てみましょうと云うのです。

同人活動で重要なのは将来性です。安倍総理の云った「失敗した人にも優しい社会」は嬉しい言葉ですが、そもそも失敗しないに越したことはありません。

遊びをせんとや、生まれけむ。たわむれせんとや、生まれけん。

二次創作は、適度に楽しむ遊びです。

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