『桜の森の満開の下』と『MW』

  26, 2012 13:55
  •  0
  •  -
男と女の間には深くて黒い川がある、えんやこら今夜も舟を出す、というヘテロ男のいじらしさが『桜の森』の主題で、そのいじらしさの底にあった「お前のせいで俺の人生は台無しだ、こいつめ!こいつめ!」という気持ちが花の下で噴出してしまい、しかし本人は山育ちのシンプルな頭脳の持ち主なのでそれに気づかず、「どうして?」と結果にオロオロするばかり。そこがまた哀しく美しい。
観客はそのように彼(に重ねた自分)の愚かさを愛でて自己憐憫にひたり、かつ、彼らと一緒に「高位高官や姫君も首になってしまえば皆おなじ」ということに溜飲の下がる思いをした自分も罰を受けたような気分になり、やはり他人を意のままにするのは良くないという教訓を得て、ある意味きもち良く終わる。

ところであのような「若く美しく、自分の性的魅力をじゅうぶんに心得ていて、しかも人を人とも思わない残忍な女」を単純にひっくり返した成功例が映画『MW』の結城美智雄で、彼は原作と違って女装をしなかったので「やっぱ女は怖い」という解釈に流れることなく、「美しいが残忍な男」として一貫しており、魅力的なキャラクターだったのだけど、映画自体が洋画のパロディで終わってしまったような感があり、残念だった。

と、今でも思っている。

『桜の森』の愛の結末のようには、二人の友情の結末が納得感をもって迎えられなかった、その原因は、ラストを端折り過ぎたことにあるんでないかな。

と、今さら改めて思った。

あの作品は、そもそも日本人が米軍を悪の権化よばわりする資格はないはずってことと、
同性愛を悪魔の所業として描くべきでない、という二大問題があって、原作のテーマが実は成立してないってのが本当なのだが、

ま、軍と政府が結託して悪さをするという描写はフィクションには多いし、肉体描写を避けて深い友情として描くって方向をとったので、かろうじてそこはパスしたとして、

さて、では結城の魅力を際立たせるためには、『桜の森』の山男のように積極的に彼に加担する愚かな信奉者が必要だったのではないか、と考えてみる。

考えてはみるが、「それでは結城にとって食い足りず、相手にしなかったのではないか」と思われる。実際、冒頭で彼に協力して自分の父親をおどした娘が、あっさり捨てられた格好である。

『桜の森』は、愚かで残忍だが憎めないキャラクターである男女同士でくっついたわけだが、似たもの同士がいいとするなら、結城はじぶんと同じていどの知性の持ち主を求めるはずである。

また玉木目当ての観客の多くとして見込まれる現代の女性が、そのような相手を求めている。現代女性は「あたしの気持ちを分かってくれる男がいない」という苛立ちを抱いている。だから「分かり合える男同士」に憧れる。

ところで同程度の知性の持ち主が協力して悪事をなし、そのまま逃走成功ではコメディになってしまうし、同程度の知性の持ち主が悪事を完全に阻止してしまっては面白くない。復讐の本懐を遂げさせてやりたいという気持ち・巨悪こそ滅びればいい、という気持ちも観客にはある。

よって賀来を「友の犯罪をとめたいが、とめられない」自省心・自意識が高いが弱い男として描くのは正解で、
その「友人とはいえ、なめられている」「神父ではあるがまだ修行不足で、彼の改悛を引き出し、自白を決意させるほどの腕もない」「結城は冒頭でマーシャルアーツを披露しているので、腕力でも敵わないのだろうと察せられる」「どのみち病人を殴るわけにいかない」「いいとこ警察にチクるだけ」「それも結城の知力に阻止されてしまう」「そもそも本人のなかにも家族の仇をとりたい思いはあって、本音では結城を応援しているが、それではいけないと師匠の遺影の前で自責の念にかられる」という八方塞がり感は、よく表されていた。

それはいかにして表されていたかというと、「もっすご悩んでるらしい賀来の顔」によってである。
キャラクターの心情をかいつまんで解説するのは小説では「地の文」の仕事で、映画では「男が行ってしまった途端に疲れた顔をする女」など役者の表情の仕事である。
それを自然ににじみ出たように演じることが俳優の腕の見せどころになる。
賀来は、そこんとこ上手かった。

で、どうもこの映画の主題はこの神父の悩みっぷりにあるらしい・真の主役はこっちらしいと分かったところで、その悩みがどう決着するか、がドラマの行き着くところであると察せられる。

それが、ああなる。非力なれども最後の始末を自分でつけようと決意を固めた賀来のやるべき事としては、「どーせ撃墜されるなら現在位置を知らせた上で結城の脱出をふせぎ、心中」という『イベント・ホライゾン』型か、「罪を憎んで人を憎まず、お前は残された命をまっとうするんだよ、こっちは俺が引き受けた」という「真実の愛」型のどっちか。

もちろん後者だったわけだが、この場合、「彼を失って愕然とする結城」(ここまでは映された)の後に、「こんなことになったのも政府の奴らが悪いせいだ」と復讐の続行を決意する・賀来の真心が裏目に出た、ということを結城の表情の変化で観客に知らせ、撃墜間際で脱出口に立った、という姿を見せ、生き延びたのかどうかと気を持たせる、というシーンが、やっぱ必要だったと思う。

少なくとも、二人の友情の物語としては、その結末として必要だった。

『桜の森』では、前半30分かけて女の残忍ぶりと山男が彼女の性愛的魅力にとらわれて振りまわされる様子をラブシーンを交えてベッタベタに描いたわけで、そののんびりしたベタぶりは現在からみると愛しいし、やっぱ分かりやすい。

『MW』では「もうそこは描かなくても分かるでしょ」と視点を沢木に切り替えた結果がどうだったかというと「撃墜されても生きてました、ホラー映画のお約束w」という失笑を生んでしまった。

クールでドライでスピーディーな現代らしさを出そうとしたために感情移入を呼び込む表現を省いたところが仇になったかと思う。
賀来の苦悩をじっくり描いた中盤との釣り合いも取れない。

もっと高踏的な「一般観客の感情移入なんて要らないんだよ・お前らの理解力なんてどうでもいいんだよ」というマニア向け表現であれば、カルト作品として生き残ったのかもしれないけども、なまじっか冒頭に電車チェイス、ラストに飛行機チェイスというスパイアクションもどきのスペクタクルを持ってきて客を喜ばせようとしちゃった甘さが、裏目に出たよーな気がする。

映画冒頭で『フレンチ・コネクション』の助演のように主人公が「確保」されて終わるわけはないし、ビル街の飛行機チェイスなんて絶対ぶつかるわけないって観客が知ってるから迫力あるようで無いのだ……。
だから「洋画の上澄みを継ぎはぎにしたパロディ」みたいな後味になっちゃったと思った。
Related Entries

0 Comments

Leave a comment