1966年7月、佐伯清『昭和残侠伝 一匹狼』

  19, 2016 10:20
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死を覚悟して母を想う男の花道には、松と白波がよく似合う。信じた道を進む先に待っていたのは、もう一匹の狼でした。

これは海岸でロケハンした絵の良さが出色。賭場を真上から撮った絵や、壷のクローズアップと、女優の演技力を信じた長廻しの両立もいいわけですが、物語は藤純子が出てくる前と後で事実上の二部構成になってしまっており、1月の『唐獅子牡丹』から引き続いて、二枚看板の難しさに脚本も悩んでいたのかもしれません。

が、池部の役柄の消化不良感は、ここで解消されたかと思われます。親子は一世、夫婦は二世、主従は三世。渡世人どうしの口約束は、いつの世まで保たれるのか、見果てぬ夢なのか。

兄を止めたい藤純子がブルーグリーンの和服を着ているのが悲しみを表しているようで、帯の赤と口紅が呼応して、秘めた情熱を暗示している。ああ、カラーっていいなァ。音楽も最高でした。女心を表す楽器はダルシマーでしょうか。

対決場面で高倉が大柄な浴衣を着ているのも目を引きますし、暗色を着た池部ともいい対比です。ルーカス君は殺陣の撮り方をよく勉強してください。(その後したと思いますが) クライマックスで黒を着たのも他で例が少なく、魅力的ですね。

映画の話法は漫画の話法にも通じるわけで、撮影工程の逆に完成映像を見ながら自分でストーリーボード(絵コンテ)を描いてみるのは、大きな財産になることと信じます。

なお、俳優の個性に寄りかかって企画がなされ、撮影がなされるのは当たり前です。この作品は高倉あって、池部あって、剣劇(新国劇)の大ベテランあって成り立っているのです。関東で鳴らした男を信じて、カメラを止めない佐伯監督の心意気も潔いです。

しかも物語の根幹にあるのは、浜の漁師たちの意気地なのでした。
「ここで俺たちがくじけたら、肉よりも高い鮪が街に出回ることになるんだ」

彼らは金持ち相手にできるだけ高い鮪を売りつけようとしているのではないのです。自分と同じような労働者の食卓に旨いものを乗せてやりたい一心で命を張るのです。ここで泣かずにどこで泣くのか日本人。

高倉の役は、最後まで「客人」と呼ばれている。

その客を迎える舞台に、何十年もの義理と人情の蓄積があることが最小限の台詞でちゃんと表現されていて、モブキャラである漁師や仲買人たちの心には「外道が入ってこなければ平和だった」という怒りと嘆きがある。

設定上は昭和8年ですけれども、基盤には1960年代の現実があって、実際に大資本の進出によって漁村・農村の様子が変化していた。

いっぽう、外道のほうも安泰な自分の根城があれば乗り込んで来なくていいわけで、どっかで食いっぱぐれたのです。外道なりに、組員を背負っていることには違いない。

この時代の映画スタッフにも、観客にも、やっぱり戦争と戦友の記憶があるわけで、避けがたい戦いという主題に対して、真面目なのです。

「あたしだってお芝居で喧嘩したことあるんですからね」

男と男の命のやり取りに、弟分と女が出てきて加勢するというんじゃ、逆に恥をかかせるようなもので、水を差す。でも弱い者から慕われるってことは、いい奴に違いない。敵にしたくはなかった。

……という桂木竜三の顔を、じっと撮ってるカメラがあるわけです。

「格調高く 監督佐伯清が謳いあげる 詩情豊かな男性巨編」

予告編にはのけぞりました。あんたの時代は良かった、男がピカピカの気障でいられたという歌詞を書いたのは、この10年ほど後にピンクレディーを成功に導いた阿久悠ですが、今じゃ云えませんな、男性巨編。

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