1964年、篠田正浩『乾いた花』松竹

  09, 2016 10:20
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製作:白井昌夫・若槻繁、原作:石原慎太郎、脚本:馬場当・篠田正浩、撮影:小林正雄、美術:戸田重昌、音楽:武満徹・高橋悠治、照明:青松明

もう朝なんか来なくてもいいわ。わたし、こんな悪い夜が好きよ。

まずは「池部さんを味わう会」のつもりで、それはもう堪能し尽くせるんですけれども、加賀まりこがッ! あんまり可愛くて慌てました。ロンググローブが似合って「お願いできて?」って喋るお嬢様、兼、ベビーフェイスの不良娘。

人をまっすぐに見る大きな目が、池部が片方の眉だけ器用に動かすのと良い対比。

三年ばかりくらって出てきた「近代ヤクザ」による実録ふうロマン。いやロマンなのです。一見すると卑近な日常を描いているんだけれども、撮影的美学と役柄の行動的美学と俳優の演技的美学の圧倒的な重層構造なのです。

まだジョージ・チャキリスが流行ってて、ラテンムードで踊ってた時代。花は花でも賭場の花。水も肥料も要りませんが、花代のご用意が必要です。五本くらい。

虹児か淳一が描いたような美少女が、大きな白い帽子と優雅なハイヒールに装って、フランスの雑誌から抜け出して来たかのようで、対する池部は大柄なチェックの背広を着こなすイタリアの伊達男のようで、やってるこたァ花札なのです。たまりません。

日本人が半分だけ西欧の真似をしたギャップゆえの面白さと、日本の(ヤクザという)伝統文化の前近代性・猟奇性を、すごく自覚的に撮ってるのでした。篠田正浩ってすごいなァ(今さら)

庶民向けの娯楽性を削ぎ落としたかのようなゲージツ的ハードボイルド調ですが、絵作りの手際がすごく良いので楽しく拝見できます。

陰影の際立つ美しい照明、舞台装置のような作為的な構図と変幻自在のカメラワーク、引き締まったモンタージュ。背景には当時の写真家や舞踊家などの仕事との刺激の与え合いがあったようにも思われます。

冒頭に武満音楽を効かせて、一般観客には縁遠い非日常空間の異様な雰囲気に引きずり込んだ後は、一転して卑近なおでん屋台。名乗りあったばかりなのに、すでに賭場の熱気をともにした男女の、年齢差がありながらも共犯者的に親しげな会話。

そしてここ一番の「ワンシーンワンカット」、黙々と長いカーチェイス。池部のひそめた眉が美しい。なるほど乾いた「花」が咲いている。音楽以外の「音」もすごく効いてます。日本のフィルムノワールはレベル高いです。たぶん世界標準をぶっちぎってます。

池部の煙草は『残侠伝』でも良い味を出してましたが、ここでも効果的。

「ありゃァ犯罪じゃない。もっとつまらん当たり前のこった」

池部の名前は東宝の所属として表示されます。やや滑舌の悪い素人っぽさの奥に台詞回しの緩急を計算する、物書きらしい理知的な魂の感じられる人でした。

「ヤクを自分で使いきれるほど強ェ奴なら、はじめっから使うこたァねェんだ」

ヤクザでも悪党でもない、たちの悪い素人娘に本気で惚れちゃいけないのは分かってるんだけど……っていう変則的ロマンス。

若い女のほうは、中年池部を父親の代わりに頼りにしてるようなもので、やっぱり若い男のほうに興味があるのです。原作者も映画監督も、この時点ではまだ若いんですが、中年の寂しさがよく分かってます。

ギャング映画は、じつは恋愛映画でもあって、色男には悲劇の恋が似合うのです。地味なほうの女がね、鬱屈していくのがね、怖くていいですねェ(関わりたくはないです) 頬へのキスは、別れの挨拶。

それにつけても「組」の日常っぷりがいいです。

DVD特典の予告篇は、語りすぎちゃってるような気もしますが、それ自体が一級品の映像作品となっております。むしろここまでやって文学性を強調しないと、観客を呼べないというか、分かってもらえない作品。

もしかしたら海外へ出したほうが評価されるのかもしれませんが、この池部の持ち味をそのまま『残侠伝』に引きずり込んだ東映も、大博打を打ったのかもしれません。

なお(ウィキペさんによると)反社会的なので成人映画だそうです。反社会的w 1960年代にはサド裁判。ゲージツ的すぎてお蔵入りになってる間に1970年代。映画に規制が掛かる時代になっていたですね。

さて、原作を確認しないと。

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