1951年、木下恵介『善魔』松竹

  10, 2016 10:20
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原作:岸田国士(雲井書店刊)、脚色:野田高梧・木下恵介、音楽:木下忠司

「三國連太郎は立派です」「そう、恐ろしいように立派だわ」

淡島千景の存在感がすごかったです。森雅之が、わずか2年前の『破れ太鼓』では気弱な長男坊でしたが、ここではふてくされた顔も美しい虚無的ダンディになっておりました。このとき実年齢でちょうど40歳。黒澤『羅生門』も、この人の「冷たい眼」がないと成り立たないですね。

といいつつ、もともと森雅之狙いではありませんで、レンタル店で見かけたDVDパッケージにえらい美青年がいるなと思ったのです。三國連太郎くん入社第一回出演作品でした。昔の俳優は映画会社と直接契約したのです。この作品から芸名を取ったそうです。三国一のいい男。晩年はタヌキ爺でしたが、まだ熱血新聞記者です。

前のめり気味な姿勢が印象的で、眼ぢからがあります。台詞が早口で、ちょっと上ずっちゃってますけども、この当時の俳優って、だいたいこんな感じ。(なぜ?)

善魔とは「善を成すために悪鬼のごとき強い心を持つ」という意味で、キリスト教っぽいですが発想元は仏教らしいです。もちろん三國くんがタイトルロール。

わざと伸ばした前髪がロマンチックで、森雅之のダンディぶりとは良いツーショットなんですが……いったい何語で喋ってるんだ、この人たちは。

まだ「斜陽族」という言葉が生きていた時代に、上流階級の退廃を描く女性向け恋愛ドラマと、男性向け左傾ぎみ社会派ドラマの融合を考えたらしく、良いアイディアですし、美男美女のクローズアップを転回点に、回想シーンをまじえて伏線を張りめぐらせ、回収しつつ急展開。

山場と落ちと意味のある作品のお手本みたいですが、とくに前半が意識高すぎるので、眠気覚ましのコーヒーをご用意なさって、歴史的価値を確認する心構えで臨んでください。

これだけの台詞を覚えて云うんだから、役者たちには力量があるのです。1951年の観客がこれに食らいついて行ったなら、ずいぶん無理していたもんだな日本人、などとも思わされます。

「男に生まれて、当節なにが出来ます? 愚劣と不正とに目をつぶるのがせいぜいですよ」

もとより脚本は、翻訳劇をそのままやりたいわけではなくて、意識たかすぎる都会の高級官僚夫人に対して、静岡の農家に嫁いだ女性の口から辛辣なことも云わせてるわけです。たぶん原作だけ読むと、かなり皮肉な味わいなんじゃないかと思います。たぶん演出しだいでは諷刺的なコメディになっちゃう可能性があるのです。

そこを美男美女を自覚的に撮る木下映像が上品なメロドラマとして成り立たせたというところかと思います。最終的に淡島千景のイメージに傷がつかなかったところが良かったんじゃないかな、と。

電話で先輩を呼べば済む話なのに重病人の枕元を離れるというエピソードにやや難があって、あぶはち取らずになりそうなところを、タイトルロールが象徴するテーマに収斂させて、感動のバッドエンド。

ええ、後味の良い作品ではないです。いかにも1950年代に流行した、皮肉のきいた文芸調です。じつは誰もが善であり、魔なのです。

なによりも、中年男女が不義に落ちまいとするからこそ成り立つ話であって、ギリギリのところで理想と現実、恋愛と倫理の間で悩む人間を描くという格調を保っております。

三角関係の問題は、ひとえに「周囲がなんと云うか」なのです。本人たちはカッコ良く別れたつもりでも「捨てられた女性が可哀想」という声が必ず挙がる。三國くんはその世間の声を象徴したわけで、社会面の記者であることと完全に一致しておりますから、まとまりは良いのです。

ただ、本人の悲劇の腹いせ的な要素が全くないことはなく、報道の公正ということを考えても、めんどくさい奴だなァ感があるわけです。

個人的に最も味わい深い場面は、地味なほうの女が黙々と室内を片付けて出て行くところではないかと思われます。木下(弟)の音楽は、全体に使いすぎですが、ここでは彼女の傷心を反映した曲が効果的です。森の冷たいとどめの一言がいい。

「ami(情人)」という言葉は森茉莉作品でも使われていたと思います。たぶん木下監督は、フランス映画のいくらか気だるい雰囲気を、よく再現できた人だったのでしょう。

まだ日本人が西欧に憧れて、半分だけ真似することに陶酔していられた時代でした。

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