1951年、溝口健二『武蔵野夫人』

  17, 2016 10:20
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原作:大岡昇平(講談社版)、潤色:福田恆存、脚色:依田義賢、撮影:玉井正夫、音楽:早坂文雄

戦後の世の中は、すっかり変わりましたわ。なんだか熱病に取りつかれているようで、道徳も何もないみたい。

耽美派の巨匠、溝口健二。1945年、夏。東京の空襲を望見する武蔵野で、ほぼ江戸時代と同じ暮らしを続ける人々。

……を見せておいて、じつは戦後に女性が自由になったからこその悩みを悩む男女のお話。

親戚・姻戚の中で唯一の「美少年」をめぐる狭い人間関係のお話で、密室的な近親姦ロマンスではあるのですが、義理と人情秤にかけるお話の一種でもあって、清冽かつ苦々しい味わい。森雅之出演作品に相応しいと云えるかもしれません。

もちろん森雅之ねらいで、高倉映画とは畑違いの方向へ振ってみたつもりでしたが、そんなにズレてもいませんでした。

新憲法によって庶民が自分で法律を決めることができるようになったからこそ、法律と現実のせめぎ合いというのは、戦後の重要なテーマとなったのでした。

男女同権が保障され、自由に離婚できるようになったからといって、別れりゃいいってもんでもない。人の口に戸は立てられず、士族の娘は容易に翔べない。

この国は1945年の前半までは華族と士族のいる身分制国家だったわけで、「一所懸命」の士族の意識の高さと庶民の逆説的なプライドのせめぎ合いの話でもあるのでした。

そして何よりも、もともと世俗化していた日本で、儒教道徳さえ失われた戦後の世にあって、信じてもいない西欧的な「神」を口にせざるを得ないという、日本人の自意識の揺らぎのお話なのでした。

映画に文学の香りがあった頃ですとも。

落としどころがあるのかなァと変な不安を覚えながら鑑賞すること約一時間。大自然によって都会の喧騒から隔絶されたかのような前時代的美意識の世界に、ふと紛れ込む俗世の算盤勘定。伏線はこうして使いましょう。

戦後婦人の自由を追求した『善魔』とは、ちょうど真逆なお話ですが、ひらたく云うと、どっちも女が一人で勝手な理屈を云っている。

じつは、男たちが女の理屈に遠慮して、暴力をふるわずにいるから成り立つのです、これらの話。

白刃の出入りじゃ決着のつかない女心の葛藤を描いてるわけですが、じつは焙り出しのように浮かび上がるのは日本男児の高潔さなのでした。撮ってるの男性ですものね。

映像のほうは、冒頭から合成画・クレーン撮影と続いて、いきなり鋭い切れ味。耽美派にもいろいろあるです。

戦地で受けた心の傷を自尊心の要とする出陣学徒、終わった戦争を笑いものにする西洋かぶれ教員とアプレゲール女子。

「あたしたちはね、にくたいのしゅたいせいをかくりつしたいのよ」

大学の教室(それも最前列)に、アプレゲール女子が陣取り、教員の口から「姦通」などという言葉を聞かされて笑い崩れる様が印象的です。お化粧は教室でしないように。

一見すると、庶民レベルの反戦思想の表明ですが、脚本はアイロニーに満ちて、武蔵野散策風景は、どこから撮ってるんだという絵が続きます。地味にすごいことをやってるようです。高い所から見おろす構図が、純情な不倫ロマンスに、いくらか冷徹な観察者の目線を加えているように思われます。

貫禄の轟夕起子が歌うはジェラシー。女の甘えの理屈にゃげっそりしますなw

レンタルDVDは四方田犬彦の解説映像つきで、含蓄深いお話が聞けます。ごくオーソドックスに、作者の経歴と作品を対照させ、深層心理を汲み取る式の分析だったと思います。全部転載するわけに行かないので、公益のために抜粋すると。

敗戦直後の日本映画にはGHQの検閲が入っていたんだそうで、この映画でも挨拶として抱き合ったり、握手したりする様子が見られますが、「昔の日本人はこうだったんだ」ということではなく、アメリカ流の演技指導なんだそうで、1952年以前と1953年以降が境目になるんだそうです。

それにつけてもあれです。日本の家屋って、いとも簡単に蹴破ることができるので、だからこそ互いに暴力を控え、礼儀を守ることが必要なのです。

じつは意外なほど、プライバシーを尊重することで成り立ってるのが日本社会なのです。

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