1972年、加藤泰『人生劇場』松竹

  03, 2016 10:20
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博打打ちじゃねェやい。侠客だい。

原作:尾崎士郎、脚本:野村芳太郎・三村晴彦・加藤泰、撮影:丸山恵司、音楽:鏑木創、監督助手:三村晴彦

出演:竹脇無我、田宮二郎、高橋英樹、香山美子、倍賞美津子、渡哲也

三州吉良から東京、上海。大正から昭和。ヤクザが素人の暴力団と組む時代の、人生走馬灯。

すっっっっっごい面白いです。ビックリしました。侠気も色気も血糊も映像美学も音楽も、大盤振る舞いの極上品。大人だけで御覧遊ばせ。球磨焼酎必携のこと。

原作を換骨奪胎した東映任侠シリーズに引導を渡す! ってことでもないだろうとは思いますが、尾崎士郎の『人生劇場』をもう一度真正面からやってみようということのようで、冒頭から映像と音の緊迫感がすごいです。

小上がりな畳座敷のセットを組んで、床面より低い位置にカメラを置いて撮るという、昔ながらのようでむしろ斬新な、ちょうど舞台劇を客席から拝見するかのような構図が多く、野外撮影もそれに合わせて思い切って低いところから撮ってるのが印象的。画面の半分が闇に沈み、わざと中心を外した異様な構図や、真下からのアップも多く、それらを惜しげなく切ったり貼ったりしてます。

後から確認したところによると、この異常な映像美学が加藤監督の神髄なのだそうで、確かに「走る電車を真下から撮る」という驚愕の構図もありました。

作品となった時に映写されるのは一瞬なんですけれども、一日かけて枕木の間にタコツボ掘ったんでしょうか。いやそれじゃ国鉄さんに叱られるから、カメラだけ設置したんですよね……(汗)

物語は、半自伝小説を基にしているだけに、一番いなくてもいい若造が主人公。周囲をアクの強い(というか肉汁豊富な)連中が固めているという、ある意味王道。

といいつつ、その若造である竹脇無我の美男っぷりがものすごくて、日本のアラン・ドゥロンって云ったら、かえって失礼かしらん。

出演者として挙げた男女6人の運命が、最初は平行線。いずれ絡むことになるのは分かってるわけですが、それこそ将棋の駒を双方から少しずつ進めるかのように、ゆっくりと動き始めます。

男同士が一目惚れするのは任侠映画のお約束ですが、ここでは女同士もいい味わいです。香山美子の顔が、どんどん変わっていくのがすごいです。

倍賞美津子は日本の女性離れした骨格の感じられる顔で、この当時、このタイプが流行ったですね。ミア・ファローとか。たぶんウーマンリブ時代の美人。

小説の同人雑誌やってる女も出てきまして、美人じゃないけど頭が良くて、自分のことがよく分かってるくせに、深情け。女優の体当たり演技とともに印象的です。

【俺も生きたや、仁吉のように】

三州吉良横須賀ってのは、海軍カレーの横須賀ではありませんで、東海の大親分の七光りがあった頃ならいざ知らず、大正時代になると、愛知県の片隅出身の侠客の生き残りなんて、もう誰も知らない。

「ぽんちたびなし」(原作での渾名)の吉良常は、自分でも分かってるわけです。義理と人情のこの世界なんて、もうないのです。小さな町を出た時には、なんか清々したような気分にもなってみたけれども、上京してみたら自分なんか本当に何者でもない。

どこの軒先で仁義切るでもなく、草鞋を預けるでもなく、賭場で慣れた様子を見せる場面もありませんで、だからこそ、自分より若いうらなり青成や飛車角を応援してみる。

滑稽なのは承知で、虚勢を張っていたのです。もう廣澤虎蔵の浪曲の中にしか存在しない任侠の徒を地で行こうとしていたのです。その切ねェ男心を、田宮二郎は演じきった。

田宮二郎の名前は、幼い頃に衝撃的なニュースとして聞いた覚えがございまして、演技をきちんと見たことがなかったものですから、あらためて感服したしだいです。

竹脇演じる青成ひょーきち君は、辰巳屋の若旦那という堅気の坊ちゃんなわけで、小金一家に草鞋を脱ぐわけではないのです。副題は「青春篇・愛欲篇・残侠篇」。三部作の原作を一本に。描写は瓢吉くんを中心とするメロドラマ部分と、飛車角を中心とする任侠部分が並行しちゃってるわけで、そのままではバラバラなところを、吉良常の男気がつないでいる。

いなくてもいいといえば、瓢吉くん以上に必要ないのが吉良常。でも、いることによって、観客はさまざまな人生を一望にできる。

原作は昭和初期らしいアイロニーのきいた小説で、吉良常もそんなにカッコいいキャラクターではないのです。心の中でだけ肩で風切っている。それが田宮の実人生と重なる。監督は重々承知の上で、彼の演技力を信じて、最後の場面をカットなしで撮ってやったんじゃなかったかな、と。

「長ェのでも、短けェのでも構いません」「行きなさるか」

「何を」とか、「どこへ」とか云わない、侠客同士でしか通じない会話が味わい深いことです。

ところで、ふと気づくと、この男たちは杯を交わさないタイプの「兄弟」なわけで、これも東映にはなかった要素ですが、1972年というとピンク映画に検閲が入っていた頃のはずで、そっちから流れて来た客をすくい上げたものか、権力に喧嘩売ってみたものか。

とはいえ、原作が古いせいか、あまりナマな新左翼っぽい権力批判はありませんで、表現技法は挑戦的なわりに、時代の変化を嘆く心は吉良常一人の姿に象徴させて、暗示的に提出している奥ゆかしさが心地よいです。

浅草の場面の背景に端唄や三味線を流すのは、約束事のうちなんでしょうけれども、あるいは戦前の浅草で実際に遊んだ監督たちの懐旧の情の表現だったのかもしれません。

(浅草は空襲で真っ白になったんだそうです)

実際の戦後の巷間には、既にカラーテレビが普及していたわけで、大映も倒産しており、これほどのものを作っても観客動員数は全体としては激減していたのです。

これでもかというほどの技術と熱意を投入しているわけですが、松竹の底力だったのか、加藤監督がここを先途とやりたい放題やったのか。

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