1983年3月、勝間田具治・西崎義展『宇宙戦艦ヤマト 完結篇』

  17, 2016 10:20
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きみの故郷は、地球と呼ばれる。

脚本:山本英明・笠原和夫・山本暎一・舛田利雄・西崎義展、絵コンテ:白土武・遠藤政治、音楽:宮川泰・羽田健太郎、総作画監督:宇田川一彦、美術監督:勝又激、撮影監督:清水政夫、アソシエイト・プロデューサー:山本暎一、監督:勝間田具治・西崎義展、総監修:舛田利雄、ナレーター:仲代達矢

劇場版第4弾。沖田艦長、ご無事で何よりです。(敬礼)

他にも御都合主義なエピソードはぜんぶ西崎のせいにするとして、前半はそれとは別に「これが舛田の仕事か……?」とか、「笠原を連れて来たっていうほどの脚本じゃないよな……?」など、不安含みです。

が、開始後約1時間30分、ヤマト(まさかの)垂直方向に反転の後から、俄然良くなります。まばたきを許さない名演出・名場面続きとなります。

物語は地球の草創期までさかのぼって雄大なスケールで。もともと地球を愛し、地球を救うという話なんだから、正しい選択だと思います。

絵の良さは『永遠に』とは桁違いで、1980年から1983年に至る間のアニメ技術の進歩は凄まじいものだったようです。

いつにも増して美しいオープニングの宇宙空間以降、描画にも特殊演出にもこれ以上を求めません。手描きの時代ですしね。ヤマトが廻る~~。

(※ 同時期に公開された『クラッシャージョウ』でも巨艦の回頭シーンがあって、作画担当者がおかしくなって「コルドバが廻る~~」と繰り返していたって話のもじり)

今回のゲストキャラクターは少女ではありませんで、少し前に竹宮恵子原作『地球へ…』の劇場版アニメが公開されており、デスラーの仕草からしても、「耽美」とも呼ばれた美少年・美青年趣味の流行を取り入れたらしく思われます。この当時『パタリロ!』のアニメ版も東映がやってたんじゃなかったかな……。

が、このへんは、殿方がご無理をなさらなくてもよいように思われます。女流におまかせ遊ばせ。それはさておき。

舛田・笠原・仲代と来れば『二百三高地』みたいのをやりたかったんだなとは誰しも思うところで、西崎が手前でカネを出すという以上(裏でいろいろあったにしても)、返す言葉はありません。

音楽の使い方の良さも含めて、舛田はプロデューサーの要望によく応えたというべきで、そもそも第1作のとき、テレビシリーズを編集して劇場版に仕立て直すという仕事を引き受けているわけですから、この人も来るもの拒まぬプロ根性と、新しいことをやってみたがりの芸術家肌を両立させた、根っからの活動屋だったんだなと思われるところです。

創作家が似たような話を何回も作るのはよくあることで、ふつう圧倒的なデビュー作をひっさげてデビューするほどの人は、圧倒的に近い未発表作品を山ほど自宅に持ってます。それは要するに、同じテーマを掘り下げる作業である、ということはよくあります。

思えば仁侠映画もミステリーも同じことかもしれません。

西崎という人は、違う畑から博打というか殴りこみというか、急にアニメの世界に飛び込んで、ヤマトを作りながら創作活動そのものを覚えた人で、そう考えれば段々洗練されて来るのが分かるのです。

最初からこれをやりたかった。と、後になって云えるのです。

前作『永遠に』から引き続き、トリトン族とポセイドン族の印象が持ち込まれているような気もしますが、たぶん冨野由悠樹は表面的には鼻で笑いながら、内心で「やらせはせんぞぉ」と息巻いていたに違いないでしょう。

彼は活動屋がテレビをバカにしていた時代に、リミテッド方式が気に入らなくて虫プロを辞めたと云いつつ、まさか自分で銀行から融資を引っ張って来て好きなやり方で映画を創るってことをしてなかったわけで、その横で西崎は「映画と同じフィルムでテレビアニメを作れ。カネなら出す」って云っちゃった大馬鹿野郎だったわけで、これぞ素人の強み。

冨野は「しまった」って思ったんじゃないかと思います。

本篇へ戻ると、前半が歯がゆい感じがするのは、思うに、戦争映画と仁侠映画をやってきた人々ですから、SF設定には専門家(豊田有恒)がついてるんですけれども、彗星が近づいて来るという壮大なファンタジーとか、地球人と血を分けながらも違う進化の過程をたどって意思の疎通がむずかしくなった異星人、といった空想的な世界観をつかみ切れないのです。

ヤマトが強硬着陸して、敵の顔が見え、肉弾戦となってからは、急に全ての締まりが良くなります。人物の顔も良くなります。大事な「キャラクター」の最期には、これだけの尺を取りたいものです。

最初からこれをやりたかったとは云っても、最初から島にも、沖田さんにも、ヤマトという艦そのものにも、これほどの思い入れを持つこともできないわけで、あの紆余曲折があって、テレビシリーズ2も3もやって、ここまで来たという感動がある。

西崎の会議魔に振り回されて、たいへんな現場だったそうですけれども、だからこそ舛田(または勝間田)以下のスタッフには「実際にヤマトを動かして来たのは俺たちだ」という意地もあれば、愛着もある。

それが遺憾なく表現されたと思えばいいのだろうと思います。

なお、個人的には森雪が地上勤務してるのが好きじゃありませんで、真っ赤な首元のスカーフは第1シリーズの挿入歌を意識したものに違いなく、ファンサービスではあるのですが、やっぱり第一艦橋に乗り込んで、航法取っててほしいです。

彼女が小娘ぶって沖田さんに甘えるのではなく、きちんと敬礼するところも好きです。なおかつ、マリエ姿は可愛かったです。愛の戦い(=育児)は、たぶん彼女が戦闘班長ですね。

波音の残響を耳に、虚脱感の中で見る長いエピローグは、西崎の口頭指示によって絵コンテを起こしたものだそうで、辛口な実写ライク演出による圧倒的な感動の後では、陳腐な蛇足感ありありなわけで、要するに素人の感傷ですが、とにかく自分でカネを出している以上、西崎にはやる権利がある。彼自身がヤマトのファンだったわけですし。さらばわが青春の艦よ。

この素人の弱みをも、そのまま持ち続けた人が、こけつまろびつ、舛田や笠原を使っちゃった、これだけのものを作っちゃったというのは、やっぱりすごいことだったと思うのです。

そしてまた、絵を描く人が楽をすることを考えたら、これはできないわけで、実写(特撮)だったら模型が出来上がってしまえば「これをアオリで撮ろう」とか「回転させよう」とか、わりと簡単に構想できるわけですけども、それを一枚ずつぜんぶ絵で描くとなったら描画スタッフが「俺たちを殺す気か」ってなる。

でも、『クラッシャージョウ』も『幻魔大戦』も、ヤマトが確立した「実写ライクなアニメ」という話法を充分に意識していたわけであり、実写好きのプロデューサーと実写畑の監督によってアニメ制作現場がひっ掻き回された悪夢の記憶でもあるのかもしれませんが、でもやっぱり、その要求に応え得た日本のアニメーター達の執念の記録でもあると思われるのです。

いま一度、鑑賞する価値があり、もっと評価されて良い作品かと思われます。

さらにまた、逆に考えれば、現代のアニメは「ヤマトが打ち立てたリアリズム路線から、いかに脱却するか」がテーマなのかもしれません。

(参考:牧村康正・山田哲久『宇宙戦艦ヤマトを作った男 西崎義展の狂気』講談社)

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